「ローマ土地制度史」の日本語訳(5)P.104~106

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第5回目を公開します。これでやっと序文が全部終りました。
なお、英訳について翻訳上引っ掛かった時に参照しようとしましたが、驚くべきことにそういう箇所の大半を訳していません。おそらく訳の比率は元のドイツ語の80%も無いと思います。一応学術論文の翻訳で、これはあまりにひどいと思います。
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 この土地制度史は、次のことを敢えて行うつもりは無い。それは先に厳密に規定した諸問題についてそれなりに解答出来るようにすることであり、それは先行研究の状態から見て更なる解明に期待する需要というものが存在する場合に限ってのことであるが、そうではなくてこの土地制度史の研究はただ次のことを確認している。つまりその研究において利用出来る諸々の概念と実用的な観察上の見地に基づいて、土地制度史というものがそれ自体としてどういった位置を占めているかということである。

 この後に続く詳論については、次のような幻想にはまったくもって貢献出来ない。つまり前述の諸問題に対して何らかのこれまで予想もされなかった新しい光を投げかけるということや、あるいはこの問題の専門家に対して本質的に新しいことを伝えることが出来るということであるが、――その種の様々な成果というものは、文献史料が豊富に利用出来ることによってのみ期待出来るであろうが、そうではなくてただ入手可能な史料に基づいて上述した諸問題に答えを与えんとする限りにおいては、そういう答えというものはそうした史料の本質的な並びの中で、既に答えが[ほとんど]確定してしまっているからである。しかしながら発展をもたらした多くの契機のそれぞれについて、どれが重要でどれが重要でないかについては、現時点ではまだ争う余地が残っているであろうし、そしてそれ自体が良く知られている諸現象と、それらを実際的な土地政策的・経済的意義から見た観察と組み合わせることにより、私はそう考えるが、さらに新たな観点を勝ち取ることが出来るであろうし、それは私の見解では詳論に値する。

文献史料

 以上挙げて来たような出発点から始まる研究のために、文献史料という点では、それほど重要ではない歴史家によるいくつかの注釈と、そうは言っても特別な碑文として残されている史料の解明という点で見た場合には、結局の所、我々が自由に参照出来るものは、ラッハマン≪Karl Konrad Friedrich Wilhelm Lachmann、1793~1851年、ドイツの文献学者・神学者≫の”Schriften der römischen Feldmesser”[ローマの土地測量についての文献集]という名前で[1848~1852年に]出版された文献集である。その中身としては、一部は土地測量を実地に行っていた人によって書かれた土地測量の技法についてのガイドブックであり、また別の一部は幾何学について書かれたものの抜粋であり、また法律の断片であり、更には”libri coloniarum” [植民地の文献] という名前で知られているイタリアにおいて分割された土地に対しての、現存している[法的]様式の目録であり、そしてさらにまた研究の経済的側面にとって特に[有用なのは]、”scriptores rei rusticae” [農業に関する諸著作] ≪大カトーの「農業論」、コルメラの「農耕について」などだと思われる≫であり、それはつまり農場経営の初心者向けの便覧であり、その著者の内例えば大カトー≪Marcus Porcius Cato、BC234~BC149年、ローマの政治家、曾孫のカトーとの区別のため通常大カトーと呼ばれる。≫について見れば、明らかに多くの箇所で確認出来るように、この土地制度という領域で手当たり次第に一種のディレッタント的な知識を寄せ集めたようなものでは無かった。今言及した2つの文献史料集成≪”libri coloniarum”と “scriptores rei rusticae”≫においては、その明らかに非常に有用な中身が、それを学術的に利用するにあたって、伝承としてのみ現在に伝えられそれが故にいつの時代の話なのかがはっきりしない文献素材という性格によって、その[史料的]価値が損なわれてしまっている。従ってそれを利用するに当たり、度々その信頼性の確認が必要である場合には、まずは著作者達の言明を具体的にはいつの時代を指しているのかを不明として分析し、それからおおよその推定の時期を、それが実際的にはまあ妥当であろうというレベルで読者に伝え、そして時期の推定に問題がある事項については、ただ「以前の時代の」あるいは「以後の時代の」という形で処理することとする。土地の測量人に関することは、次のことだけを確かなものとして扱う。それはつまり、全ての彼らの[測量]技術に関する言明は、太古の昔より伝えられている実際的な取り扱い方法に基づいている筈であると見なすことである。その理由は、その当時のローマ人が一般的に直接習い知っていた幾何学のレベルについて検討するのは全く不毛であるからである。

 以下の叙述においては我々はまず土地の分割のやり方と、土地の法的な等級付けの関係を明らかにすることを試みる。その目的は、それに続けて後者について個々の事例に立ち入って調査することである。

「ローマ土地制度史」日本語訳(4)P.102 – 104

ローマ土地制度史の日本語訳の第4回目です。「中世合名・合資会社成立史」の時よりゆっくりですが、今回はマイペースでやっています。
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 さて、周知のように、ローマの支配の拡大が常にローマの経済圏の拡大を伴っている場合、その場合はまさしく次のように言うことが出来る:それはつまりローマの農地の拡大であり、その結果この農地は結局のところはイタリアにとっての数多い戦利品を分配する中の一部であり、その場合さらに次の問いが出て来る:どのようなやり方でこのような広大な土地が割り当てられたのであろうかと?周知のように、この土地配分は少なくとも部分的には植民のために利用されていたし、また同時にそういった植民というものは、ローマの支配を固定化するためのこの上ないほど効果的な手段であったし、そして多数のネガティブに捉えられてきている諸政策、例えば穀物の収奪だとか債務免除など以外で、唯一のポジティブに捉えうる大規模な社会政策であり、それによってローマの国家は、その社会全体がひどく痙攣を起こすような病気の発現を回避することが出来たのである。昔からデマを撒き散らす扇動家達によって主張されていた危険な大衆からの人気取りの手段が、Ager publics (公有地)への植民という形で実現し、その規模はグラックス兄弟が決めたのであるが、それは結局のところ全ての、確かに法的には不安定ではあったが、しかし実際には深く根を下ろしていた(土地の)所有状況を根本からひっくり返すことになったのである。ある土地制度の根本的な改革策としてU.C.643年≪ローマ市建設以来の通算年、=B.C.111年≫に公有地分配法[lex agraria]が制定され、それによってローマの土地制度に開いた大穴を、最低限イタリアとアフリカ及びコリントの属州値において何とか塞ごうと試みたのであるが、同時にその法は私有財産においての、不安定でかつ新しく作り出されていた所有状況を変えてしまったのであり、またそれより下位にある諸権利の所有における権利関係を修復することにより、さらにまた最終的には公有地の不安定な所有状態が発生することになった古い制度を廃止することにより、要するにイタリアにおいてある種の物権に関する新しい法を制定することにより、安定状態を創り出そうとしたのである。ただ始まりかけていた専制政治といくつかの内乱と、特にスッラに関連する複数の内乱と三頭政治の下において、強権による差し押さえ、買い占め、そして連戦連勝の軍隊への土地の再配分を通じて、所有地に関する全ての所有関係についての新たな革命が起きたのである。そしてそれらは結局のところ、共和国の最後の数世紀において、植民地の土地の再配分を引き起こしたのであり、それは量的な規模について言えば、それに匹敵するのはただ後代の民族大移動だけであるというレベルのものであった。ここにおいて次の疑問が生じて来る。経済的・法的に見た場合、これらの植民はどのような形で実現したのであろうかと。

 次にイタリアにおける公地の吸収の結果――一部は譲渡によりまた他の一部は個々の地方都市への委託によって――そういった土地の吸収によって得られた利益というものは、帝政の始まる頃には既にすっかり枯渇してしまっていた。そういう状態の後では、帝国の財政力の点では、属州から上がってくる税金収入がもっとも重要なものとなっており、そういった属州では、古代においては常にそうであったように、様々な形で行われた所有地の譲渡がもっとも重要であった。この時代になるとローマ人が属州に対して課税した方法についてもまた疑う余地が無いほど多様であったが、それはただその当該の土地においてのその前の時代の課税政策がそのまま引き継がれたのであるが、そうはいってもともかく非常に多種多様であった。そこで次の疑問が出て来る:土地の併合においての権利関係の改革は、その現地で行われたのでなかったら、どこでより強力に推進されたのであろうか?どこで行政の実地においての、確実に存在しまたそれぞれの地域に等しく見られるような諸傾向が確認出来るのか?そしてもし属州の土地についての取り扱いがイタリア半島において既に利用されていたやり方と関連していないことが確認出来るとしたらどうなるのか?

 結局のところ、次のことは何を置いてもまず調べてみる価値がある。つまりローマの大土地所有者の農場経営が、その所有地についてのローマ特有の法的・社会的状況の下においてどのように形作られて来たのかということと、その後の数世紀の時の流れの中でその農場経営がどのように変化していったかを調べてみることである。その調査では特に大規模農場経営の発生とその体制に注目し、さらに帝政期においては疑う余地も無く何よりもその諸々の経済的な背景について理解しようと試みる:その背景とはつまりコローヌス≪永久小作地≫における、その耕作地に縛り付けられた隷属的な農民である。このしばしば論じられて来た権利関係は特に次の理由から読者に不審の念を抱かせるのであり、さらに包括的に詳しく論じることも必要となって来る。その理由とは、多くの者がそういった権利関係をローマの私法の形態と関連付けて説明しようとし、そしてことごとく失敗して来たからである。この研究においては、隷属的な農民の発生の諸々の経済的背景についての研究以外に、よりむしろ次のことが問われなければならない。つまりそういった権利関係がローマ帝国の行政法において、一般的公法としてどのような位置を占めることになるのかということである。というのもそれについては次のような疑問が生じ得るからである。つまり私法と契約の自由という原則に従う限り、そのような≪コローヌスという≫制度は本来成立し得なかったのではないかという疑問である。さらにはその制度とローマの帝政期における大規模土地所有者の意義についての問題は、その大規模土地所有というものはその後拡大し中世の初期にまで連綿とつながっているのであるが、不可分な程に密接に関連しているのである。

「ローマ土地制度史」日本語訳(3)P.100~P.102

「ローマ土地制度史」の日本語訳の3回目です。ここでモムゼンとマイツェンとの関係についての言及が出てきます。このヴェーバーの研究は「中世合名・合資会社成立史」の論文審査の時のモムゼンとヴェーバーの論争とおそらく関係があり、またヴェーバーがその講義を聴いていたマイツェンの欧州の農村分析の手法の影響を強く受けています。
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 専門家に対しては特に改めて断ることではないが、研究方法について、以下に続く論文ではただ確固たる理論的な土台の上で議論しているか、あるいはしようと努めている。その理論的な土台とは、まず何を差し置いても、モムゼンがローマの全時代の国法・行政法の研究について確立したものである。しかし私は一方で、以下のことを告白するという喜ばしい義務を負っている。それはつまり、私の尊敬する先生である枢密参事官のマイツェン博士・教授から、個人的にご厚誼をいただくようになって以来ご教示いただいたことによって、古代ローマ時代の土地制度の研究を行う上で、理解を深めるための多数の実際的な研究上の見地が私に利用可能になったということである。我々がここで扱う歴史的素材の状況について次のことは確かである。つまり古代に関しての土地制度・植民史を直ちに師の偉大な著作≪1895年の「西・東ゲルマン、ケルト、ローマ、フィン、スラブ諸民族の集落と農業事情」のこと、全集の注釈による≫と肩を並べるレベルで書くことは不可能であるということである。――しかしそうは言っても私は次のことは試みている。つまり我々にローマの土地法として立ち現われている現象の観察において、その法の実際的な意義を見極めるために、その法の利害関係者を調査するということである。その手法の意義の評価については私は到底マイツェン先生のレベルには到底及ばないし、またそれについて詳しく学ぶ機会も持てていない。  以下の論文では、歴史上の素材を歴史の中での連続性を保持したままのものとして叙述するということは出来なかった。何故なら、ほとんど常に結果から原因を推し量るという帰納的推論を用いなければならなかったし、それ故に歴史的な流れでの中では先行する状態について、我々に伝えられている後の時代の状態から遡って推論するしかなかったからである。色々な形で次のことも度々必要となった。つまり統一性を持った歴史上の諸現象について、様々に異なった個別の側面からその本質に近付くと言うことが。そのことによってまた、何度も同じようなことを繰り返し述べているという印象も避け難くなった。  我々はまずはローマ史のいくつかの問題について、手短かに描写することを試みる。その問題への解答には土地制度史が、若干ではあるが貢献するし、また適当であると見なすことが出来る。 ローマ史においての土地制度史上の諸問題  古代の確かな情報、つまり我々がローマ史として知っていることにおいて、ローマの都市が海外の領地と、また明らかに海事政策において、それぞれと深く関わっていることが示されている一方で、その後の時代になると我々の眼前にて、ローマの大陸への侵略という暴力劇の上演が開始される。その侵略とはローマの都市の政治的な優勢状態を拡大するということを意味するだけでなく、また同時に絶え間ないローマの植民の拡張と、ローマに征服された地域での資本家による搾取をも意味していた。その一方でローマの海上支配の優勢はこういった拡張と少なくとも同一の歩調を取っていた訳ではなかった。ここにおいて次の疑問が生じる:誰がこれらの侵略戦争を主導したのか?――それは次のことについての疑問ではない:どこからこれらの軍事力が出てきているのか?もちろんこの問いについても詳論に値するが、というのはもしローマの大帝国がゲルマン民族の大移動に対して、それより600年前のイタリアがケルト人[ガリア人]に対してそう出来たように、同様の軍事力を使うことが出来たとしたら、そうであったら結果はほぼ同等のものであったろう、――そういう疑問ではなくて:どのような社会の諸階層と経済上の利害関係者集団が政治的な意味で≪侵略戦争の≫推進力を作り出したのか、そしてまた:≪ローマ史において≫叙述されているローマの政治における明らかな重心の移動がどのような諸傾向を作り出したのか、ということについて、その重心の移動というものは主として特定の利害関係者集団の努力によって意識的に作り出されたものかどうか、という疑問である。  我々が更に次のことも見て取る。≪オプティマス[元老院派]とポプラレス[民衆派]の間の≫党派抗争の時代に、戦いにおいての本来の戦利品、つまり勝者が得るものとして、公有地、つまり ager publicus という土地制度が作り出されたのである。実際のところそれまで大国において政治的支配というものが、そこまで直接的に貨幣価値に結び付けられた例は存在しなかった。既に古代においてそういう風になっていたということは、確かに非常に高いレベルで独自の位置を占めていた。その位置においては、 ager publicus を経済的・法的な考慮の結果として受容しているのであるが、その場合さらに次の疑問が生じる。つまりどのような基本的な考え方がこういった位置付けを発生させたか、ということである。ある公的な権力の、法的に見て非常に不安定な公地への居住に対しての激しい対立があり、その居住に地する法的な保護はただその土地への権利侵害の場合にのみ行われていたが、その権利侵害は我々の概念では、懲罰の対象となる犯罪と見なされるべきものである。更にはそれは地所についての私有権の侵害でもあり、その私有権は所有者に基づく自由な処分と、それによる≪例えば売却という≫極端な帰結への最大限の可能性という個人主義的な動機を産み出していたが、そういった公的権力と公地への居住は、その外見において、意図的な行為と近代主義的思考の様相を身にまとっていた。――その場合次の疑問が出て来る:こういった所有権の概念に関わる土地制度の領域において、どのような経済上の考え方がそれに適合していたのか、という疑問である。その考え方は今日でも我々の法的な思考を支配しており、ある者はその論理的帰結の故にそれに賛嘆しているし、また他の者≪例えばマルクス主義者≫はそれを諸悪の根源として我々の土地所有権の領域において非難しているのである。

「ローマ土地制度史」日本語訳(2)A-1~P.100

「ローマ土地制度史」の日本語訳2回目、序論部の2/3くらいまでです。ドイツ語と取り組むのはほぼ1年ぶりですが、結構分かりにくい文章で苦労しました。ただ、ヴェーバーの歴史研究の方法論の萌芽がこの論文に現われているようで興味深いです。
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緒言

序文

 以下の研究においては、人がその表題から期待するような内容を完璧に行うことは、まったくもって約束出来ない。この研究はローマの国法と私法に関する様々な諸事実をある見地、即ちそれらが様々な土地制度の発達を促したという実質的な意義という見地から取上げる。

 最初の章では次のことを試みている。つまり、ローマでの耕地に対する様々な測量方法とそれらの耕地自体との相互関係を明らかにすることと、そしてその耕地の国法および私法においての価値評価方法と、更にはその価値評価方法が持っていた実際的な意義を解明することである。そこではまた、次のことも試みている。つまり、後代の諸事象からの帰納的推論によって、ローマにおける土地制度の発展の出発点についての見解をまとめることである。その際に私は次のことについては自覚しているつもりである。つまり、この最初の章の記述において、[事実を淡々と追いかけていくのではなく]本質的にはひたすら何らかの仮説や理論を[強引に]作り出そうとしているだけではないかという非難を受ける可能性が高いということである。だからといって、この領域においての仮説・理論構築的なアプローチが無駄であるなどとは、この時代の文献史料の状態[不足している、断片しか残っていない]≪ローマ法はオリジナルの十二表法等はほぼ失われており、同時代の法学書に引用されたものなどから一部が復元されている。そのもっとも大がかりなものがユスティニアヌス帝の学説彙纂であるが、その編纂において当時の編集者が元の条文を恣意的にいじったのではないかという疑いがあり、特にヴェーバーの時代にその見直しが行われていた。≫を知っている者は誰もそうは言わないであろう。そしてまさに土地制度史の領域においては、次のような場合が存在するのである。つまり、「事物の本性」≪ドイツ語でNatur der Sache、ラテン語でDe rerum natura、ルクレティウスの同名の詩参照。ここでは法律が存在しない場合に判断基準となる社会通念や公序良俗概念のこと≫からいくつかの結論を得て先へ進み、他の領域におけるよりも相対的に蓋然性を高めることが出来た、そういう場合である。土地所有ゲマインシャフトの諸組織は、いくつかの条件が満たされている場合には、まさに限定された種類のものが存在していた可能性を確認出来る。ここでは純粋に実験的な研究を、次のテーマについて行うということが課題であった。そのテーマとは、ローマの土地制度の本質のある一面として、何千年紀の間の時間の中瓦礫に埋もれながらなお何とか我々に把握出来る状態にある史料類《文献史料、碑文類》を、すべての土地制度史家におなじみの概念に沿う形で評価しようとする場合と、その本質として他のインドゲルマンの土地制度に関しての法形成を促進する根本原理となっている場合において、その根本原理が[他の社会制度との]調和をもたらしているのか、それとも何も影響を与えていないのか、あるいはまったく逆に不協和をもたらしているのか、そういうことを研究するということが課題であった。――そして私としては、調和をもたらしたというのが正解であるという印象を得たのである。まず始めに、次の証明が試みられる。つまりローマの土地の土地測量上の取り扱いが、一般的に言ってある一面では当該の領土の公法における取り扱いと、また別の面では地所の私法における取り扱いとが、それぞれ密接に関連しているということについての証明である。その際にどの程度まで個々の事例においてそういった取り扱いの仕方の証明に成功したかということについては、私はあまり自信が無い。しかしながら次のような場合には成果を上げたと言えるであろう。つまりある何かと別の何かの関連性が一般論として存在している場合に、それを発見出来たという証明を――私はそう信じたいが――、きちんと行うことが出来た場合である。そうした証明について同意していただける方は、私はそう願いたいのであるが、さらにまた色とりどりの花をまとめた花束のような様々な仮説と、その花束というのはこの公法・私法と土地制度の関係性という点でこの論文の叙述の中にちりばめられているのであるが、そして更には数多い、場合によっては必ずしも目に見えるようなはっきりとした形では把握出来ない観察事項をも、一般的な形で余録として受け取ることも出来るであろう。あるいは逆に寛大な心で次のように判定してもらえるであろう:二つの歴史現象≪公法・私法と土地制度≫が単純な抽象的な記述ではなく、それ自身として閉じているまとまった見解として、どのようにしてこういう関係が具体的に形作られたのか、そういう見解として述べられると。

 私がこの論文の最初の3章の幾重にも仮説・理論構築的な性格を多少なりとも正当化することを試みているとしたら、その場合でも最終章≪第4章≫については、その章はローマの農業についての経済史的な観察を行っており、またサヴィニー≪Friedrich Carl von Savigny、1779~1861年、ドイツのローマ法学者、ドイツに入ってきたナポレオン法典を排除するかどうかの法典論争をティボーと行ったことで有名。またローマ法に基づくパンデクテン法学を発展させた。≫以来未だに論争の収束する気配の無いコロヌス≪共和制末期から現われたローマの小作人≫がどう発展して来たか詳しく論じているのであるが、その章については1~3章に見られるような仮説-理論構成的な動機から書かれた部分は少ないのである。というのも、周知の通りこのローマの農業という領域では、ロードベルトゥス≪Johann Karl Rodbertus-Jagetzow、1805~1875年、ドイツの経済学者で剰余価値の研究でマルクスに影響を与えた。≫以来、あらかじめ設定された何らかの思考的枠組みから導かれた[=アプリオリな]国民経済学における様々な仮説が、非常に多くの方面においての成果物を噴出させて来たのであり、あの偉大な思想家≪誰のことか不明≫の模倣者達が、その者達の止まる所を知らない想像力が、非常に重大な誤りを含んでいる場合でも、本能によってすぐれて実用的な観察結果によって構成された確かな大地に拠って立つことが出来たのであるが、ここにおいて一般的な国民経済的な観察において、余りにも沢山の良き成果が勝ち取られて来たのである。≪唯物論や発展段階説、国家有機体説のような枠組みから短絡的に多く歴史的諸事実を簡単に処理しているようなやり方を皮肉っていると思われる。≫それらの研究では、私が思うには、特に国法的・行政法的な視点について、十分ではないと言え一応は入手出来る文献史料を用いてその≪仮説・理論の≫裏付けを取るということが、行われていないのである。更には仮説そのものがこの研究では不可欠であるということも自明である。何故ならば、相対的に見てより蓋然性が高いと思われる成果であっても、この研究では厳密性へのこだわりという意味でまだ仮説の域に留めざるを得ないからである。もし例えば中世の法制史・経済史の問題を取り扱う場合に、人は一体何をもって研究の成果とみなすことが出来るのであろうか?そしてそういった成果とは次第に文明化して行く地球において、次第に拡大して行く500年もの間にも及ぶ遠大な発展の図式を、文献史料や著述家達の残したものの中から取りだした、ほんの数十箇所の部分的に曖昧さを持った箇所から得られたものに過ぎないのであるが。蓋然性という概念は、まさに相対的なものなのであり、歴史的な研究というものは、その成果の到達範囲の限界をわきまえなければならないのである。

 さらにまた、ローマ帝政期については、個々の諸事実から得られる一般的な経済史上の結論というものは、経済の領域においての広がりとして見えてくるような、そんな巨大さを持ったものではあり得ないのである。というのもこの経済領域というものは、その発展段階において、それぞれの部分が非常に異なって見えていながらも、同時に相当高いレベルで統一性を保っているからである。例えばイタリアの辺境領域に対しての関係が、植民の動向という点で、ある大都市の都心部の郊外の町に対しての関係と似通っているとするならば、その場合また部分的にはそれと対立するような現象が現われてくるのが通常である。そのため、私の考え方では、科学的に正確に述べようとするならば、次のようになる:都心において既に支配的になっている市壁の外の町への発展の傾向が、[ここでは]まだはっきりと現われて来ていない。何故ならばその傾向は根本的に対立するような別の諸傾向によって相殺されているからであると。発展法則というものは一般的に言って次のような意味で確かなものとすることが出来る。つまりその種の「法則」というものが、様々な傾向として描写出来るのであり、そういった諸傾向はその場所においてより強く作用するもの同士として相互作用を及ぼし合うという可能性がある、という意味での確実性の向上である。以上のことから、私には次のことは方法論として正当であると思われる。つまり、ローマ帝国で高度に発展した属州でのある土地制度の発展において、現象についてひとまず深く細部を調査していくことを保留し、そしてその理由から当面は例えばユンク≪Julius Jung、1851~1910年、オーストリアの古代史家。≫によって何度も利用された文献類、それは教父神学やそれに似た事項について地方における社会状態の[代表的な]文献史料となっているが、そういうものをあまり重視しないという、そういう方法論である。

 長年に渡って伝承として伝えられてきた文献引用については、私は可能な限りそれらについて最小限の準拠に留めるようにした。そして文献史料については、それが不可避である場合を除き、――それは容易に判別出来るであろうが――、その文献史料の外延的な拡がりという観点で、その史料のどの部分をどのように先行の諸研究が利用したのかということについては述べるつもりは無い。そして私はここで設定された問題についてより詳しく調べたいと思う方のために、この論文の最後にまったく完全なものではないが、研究論文目録を付け加えておいた。

ドイツ語の tralaticisch の意味

「ローマ土地制度史」で今訳している所に„Tralaticische” Quellencitate habe ich thunlichst beschränkt verwendet という文章が出てきます。この„tralaticische”という形容詞が、紙の辞書、オンラインの辞書とも出てきません。しかしググるといくつかの昔の文献で使用されているのが確認出来ます。おそらくこの形容詞は英語での相当語は”tralatitious”ではないかと思います。もしそうならOEDによれば、語源はラテン語のtrālātīciusです。綴りの相似から見て、„tralaticische”はこのラテン語をドイツ語化したもので間違いないでしょう。その場合の意味は、「伝統的な、代々伝えられてきた、慣習となっている、通常の」と言った意味になります。ここでは「伝承的な≪本当にオリジナルの文献通りの引用か疑問がある≫文献引用については、私は可能な限りそれへの準拠を最小限に留めた。」という訳になるかと思います。ローマ法というのは、十二表法という名前の通り12枚の板に刻んで書かれていた原本が内乱で完全に失われており、その後に出た法学書に引用されている条文から元の法文を再現することが行われています。また、ユスティニアヌス帝によるローマ法の再現である学説彙纂について、ヴェーバーの時代に編纂者が表面的に辻褄が合わない所を恣意的に変えた可能性がある、ということで見直しが行われていました。そういう背景から理解すべき文であると思います。 (「中世合名・合資会社成立史」の翻訳の際に、そのことについての記事を書きましたので、必要であればご参照ください。)

ちなみに英訳はこの部分を”Lengthy quotations from the primary sources have been kept to a minimum in the interests of brevity;”(「元々の原典からの長々とした引用は文章の簡潔さを保つため最小限に留めた。」)と訳して、„tralaticische”を「lengthy=長々とした」と訳しています。もちろん間違いです。この翻訳者は古典語学者ということで期待していましたが、ダメですね。何故ヴェーバーがわざわざ引用符まで付けてラテン語起源の特殊な単語を使っているのかまったく理解していません。それに「文章の簡潔さを保つため」という内容も元の文章にはありません。大体ヴェーバーは「文章の簡潔さを保つ」よりも、可能な限りありとあらゆる留保条件まで書いて正確さを重視する人であるのは言うまでもありません。

「ローマ土地制度史」日本語訳第1回 P.92~95(目次)



「ローマ土地制度史 その国法と私法における意味において」の日本語訳をようやく本格的に開始しました。なお、これまで「ローマ農業史」と書いて来ましたが、「ローマ土地制度史」の方がより適切な日本語訳ですので、今後は「ローマ土地制度史」を使います。
なお目次部分は今日時点では仮訳です。今後本文を熟読して変更する場合があります。≪≫内は訳者注または原語の表示用です。ページは全集版のものです。
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「ローマ土地制度史 その国法と私法における意味において」
マックス・ヴェーバー著

2つの図付き

シュトゥットガルト、1891年、フェルディナント・エンケ出版

感謝と尊敬の意を込めて枢密参事官・教授
A. マイツェン≪1822~1910年、ドイツの農制史研究家、統計学者≫博士に献呈す。

まずは校正の時に見逃してしまった誤記を訂正させていただきたい。
P.256の14行目の「マタイによる福音書」は「ルカによる福音書」の間違いです。
この論文の校正作業は、私の軍役により中断を余儀なくされており、そのことによってまだ幾許かの誤植が残っていることを懸念しております。親愛なる読者各位におきましては、こうした誤りについてどうかご寛恕いただければと願う次第です。

シャルロッテンブルクにて、1891年8月 司法官試補 博士 マックス・ヴェーバー

目次

緒言 … P.97
   序文 P.97
   ローマ史における土地制度史の問題 P.101
   文献情報 P.105

Ⅰ. 土地測量における土地の分類とローマの国土についての国法と私法上の等級との関係 … P.107
   土地測量における土地の分類 P.107
   測量の技法 P.108
   1.Ager scamnatus≪東西に走る測量線で分けられた土地区画≫において P.109
   2.Ager centuriatus≪正方形に区画された土地単位≫において P.109
   区画の利用。植民市における土地区分けと個人への分与。 P.112
   正方形の土地単位を用いた土地区分と、東西に走る線≪scamna≫と南北に走る線≪strigas≫による土地区分との違い。 P.116
   異なった測量方法が存在する理由。Ager scamnatusにおける課税の可能性。 P.122
   東西に走る線による区画分けの利用 P.123
   植民市における課税可能な土地の測量 P.127
   Ager quaestorius≪財務官{クワエストル}が収入を得るために売却する公有地≫における測量方法とその法的な性格 P.129
   Ager per extremitatem mensura comprehensus≪全面積が測量済みであるが、まだ区分けされていない土地≫について P.136
   属州における課税法規との関係 P.139

Ⅱ. ローマにおいての非課税の土地の法的かつ経済的な意味 … P.141
   1.土地区分けの行政法的な作用について P.141
     イタリアにおける植民の一般的性格 P.141
     ローマ人による植民地開拓の特性 P.145
     領土の行政法上の意味 P.147
     土地区分けの領土管理上の効果 P.147
     Forma. Praefecturae≪植民市での公有地≫の意味 P.149
     Fundi redditi, concessi, excepti≪引き渡された土地、許可された土地、例外扱いされた土地≫について P.151
     区分けがされていない領土の法的な位置付け P.152
     公有地化されていない土地について P.153
     植民市における法制定の状況 P.154
   2.免税農民の私法上及び経済上の性質 P.157
     免税農民の特権 P.157
     ケンスス≪財産・人口調査、現代で言う国勢調査の走り≫の対象となる可能性 P.157
     Per aes et libram≪奴隷解放の儀式。奴隷の対価として天秤量りに銅または青銅の小片を載せていく行為。≫の業務 P.158
     法的な売却≪mantzipation≫と遺言の経済的意味 P.158
     対物訴訟 P.160
     土地測量についての議論となっている区分け P.161
     土地の面積と場所についての議論 P.162
     土地の面積についての議論の法的な性質 P.163
     土地の場所についての議論との関係 P.166
     Modus agriの元々の意味。Modus Agri用への売却。 P.168
     分割売却と区画売却 P.170
     ローマにおける土地単位についての基本法 P.171
     Usukapion≪無断居住者≫の土地制度史上の意味 P.174
     所有財産保護の土地制度史上の意味 P.177
     土地単位についての基本法に対する決定的な違反 P.184
     ローマにおける不動産取引 P.187
     ローマにおける不動産信用 P.188
     Ager privatus≪私有地≫の現物抵当と地役権との関係 P.190
     Ager privatusの法的取り扱いの経済的原理 P.193
     土地の併合と分割 P.194
     植民地法≪ius coloniae≫の土地制度上の意味 P.197
     ローマとその時代における土地制度上の土地の転用 P.201

Ⅲ. 公有かつ課税の土地とそれに従属する権利の所有について … P.207
   Ager publics≪公有地≫の性格 P.207
   地方の自治体≪ゲマインデ≫の共有牧草地≪Gemeindeweide≫。Ager compascuus≪隣人間での共有牧草地≫。 P.208
   占有の期限。Mark≪市の公有地≫とAllmende≪市の共有地≫ P.212
   土地資本主義 P.216
   占有とAger compascuus≪隣人間での共有牧草地≫の終焉 P.218
   その他の公有の形態 P.220
   ケンススの場所選定 P.221
   ケンススの場所選定の経済上の帰結 P.224
   公有地の小作人、大規模な小作人 P.226
   公有地についての無期限の所有、個人の職務遂行に対抗する土地証券。
   1.Viasii vicani≪重要な道路沿いの土地。占有者は永続的に所有し譲渡不可。その代りに道路の維持義務を負う。≫ P.228
   2.Navicularii≪穀物輸送船の船主のソキエタスに対して、穀物をローマに供給する代償として土地が与えられた≫と穀物供給の約束を前提とした前線の土地の供与 P.231
   3.城主の領地と辺境の領地 P.232
     地代の支払いを条件とした無期限の譲渡
     1.名目地代。Trientabula≪公的債務の1/3が土地で支払われるもの≫ P.233
      グラックス≪兄弟≫の改革による土地分配 P.235
     2.実質地代。永代借地。 P.235
      トーリア法による所有 P.235
      アフリカにおけるAger privatus vectigalisque≪一度買った土地が何らかの事情で再度競売にかけられた場合、同じ面積の別の土地があ与えられるもの≫ P.236
      Ager privatus vectigalisqueにおける、vectigal≪土地使用料≫の性質 P.238
      相続税が課せられる長期の小作契約 P.239
      測量の方式 P.242
      後代における譲渡可能となった永代小作権 P.244
      Vectigalisの地租への変化 P.246
      国有地所有の法的な性格 P.249
      行政上の手続き P.250
      現物に対する強制執行 P.250
      自治都市におけるvectigalis P.252
      地方の自治体≪ゲマインデ≫の法と財産 P.252
      土地貸しによる地代の徴収 P.254
      Ager vectigalisの法的性格 P.259
      永代小作契約≪Emphyteuse≫ P.259
      国有地ではない属州の土地 P.260
      シチリアにおける十分の一税 P.260
      法的な特性 P.261
      小アジアにおける十分の一税 P.264
      アフリカにおけるstipendarii≪固定割合の貢物付きの土地≫ P.265
      税制上の地方の自治体≪ゲマインデ≫の自治の後代においての運命 P.270
      ウルピヌスの時代における土地の売却 P.272
      ディオクレティアヌスによる土地税制の整備 P.274
      ユガティオ≪土地税≫とカピタティオ≪人頭税≫と属州における課税 P.279
      地方の自治体≪ゲマインデ≫における課税自治権の剥奪 P.282
      土地税の統一 P.286
      エピボレー≪Επιβολή3世紀末から行われた不耕地に対しての耕作強制≫とperaequatio≪税の等額負担≫ P.287
      ユガティオ以外の特別税 P.289
      物納税。Adaeratio≪物納を金納に変えること≫ P.289
      動産への課税 P.292
      土地に関する法律の統一 P.292

Ⅳ. ローマの農業と帝政期の大地主制 … P.297
   農業経営の方式の発展 P.297
   穀物栽培の運命。オリーブと≪ワイン用≫ブドウの栽培。 P.302
   牧草栽培、広大な牧草地の経営とvillaticae pastiones≪放牧農場、コルネラの著作に出て来る用語≫ P.304
   大農場と小規模農場 P.307
   共和制期の農民≪coloni≫ P.308
   分割小作の生存条件 P.311
   農民 P.312
   帝政期初期における農業危機 P.318
   続き。労役義務を負った農民≪小作人≫を使った農場経営の発展 P.320
   大地主制についての法整備の状況 P.326
   Fundi excepti≪非課税の土地≫ P.326
   Stipendarii≪固定割合の貢物付きの土地≫。公有地の小作人。 P.327
   土地区画での居住者に対する法整備の状況 P.328
   出生と行政上の本国送還 P.330
   地主である農民と自由農民 P.334
   類似の状況。城砦。非ローマ人の定住。 P.334
   土地所有についての法整備の状況 P.335
   地主における内部組織 P.341
   農業従事者の運命 P.345
   結論 P.352

付記 Arausioの銘文 . C.I.L≪Corpus Inscriptionum Latinarum、ラテン碑文集成≫, XII, 1244 P.353
   文献表 P.357

図Ⅰ:Arausioの耕作地図の断片(C.I.L.XII. 1244とその追加分) P.360
図Ⅱ:Hyginによるager vectigalisの測量(de lim.const.P.204) P.361

Die römische Agrargeschichteは「ローマ農業史」か?

Die römische Agrargeschichteの日本語訳にようやく着手しました。今目次部分を訳しています。”Zur Geshichite der Handelsgesellschaften im Mittelalter”の時も、それまでのタイトルの邦訳「中世商事会社史」に異を唱えましたが、今回もこれは「ローマ農業史」ではなく「ローマ土地制度史」だと思います。そうでないと後ろに続く「公法と私法への意味付けにおいて」と上手くつながらなくなります。(この論文では土地に関する法律が論じられています。)もちろん古代ローマにおいての土地のもっとも主要な利用方法は建物用を除けば農地としてであり、それ故にagrar(ラテン語ではagrarius)には「農業の」という意味もあります。しかし本来のラテン語の意味は土地=agerに形容詞化語尾の-ariusが付いたもので、「土地制度改革者(農地改革者)の、土地制度の、土地に関する」といった意味です。この論文で論じられているのは、ローマで公有地から私有地への転換がどのように行われたのか、土地制度の歴史を、それがどのように立法化されたのか、例えばBC111年の土地法の規定などを参照しながら論じられています。それ故に「農業史」と意味を限定せず「土地制度史」と訳すべきと考えます。
同様に、これまで「古代農業事情」と訳されているAgrarverhältnisse im Altertumも「古代においての土地を巡る諸事情」だと思います。渡辺・弓削訳は「古代社会経済史 古代農業事情」ですが。

追記(2021年10月21日):本日翻訳にあたっての参考文献として、西洋史学家の村川堅太郎東京大学名誉教授の「羅馬大土地所有制」(日本評論社、昭和24年刊)を取り寄せました。そのP.22に「たとえばWeberが1891年の「羅馬土地制度史」において」と書かれています。表記が違うだけでまったく私の訳と同じでした。これで私の「ローマ土地制度史」という日本語訳が間違いないことの裏付けが取れました。

 

「ローマ土地制度史 国法と私法への意味付けにおいて」ドイツ語原文

「ローマ土地制度史 国法と私法への意味付けにおいて」のドイツ語原文のざっとした通し読み(意味はきちんと取っていません)が終了したので、これから日本語訳を開始したいと思います。「中世合名・合資会社成立史」を訳した時は、その訳した箇所毎にドイツ語原文を掲載していましたが、結構面倒な作業なため、今回はMax Weber im Kontextから取ったドイツ語原文をPDFでここにまとめてアップしておきます。中野敏男先生によると、このCD-ROM結構誤記があるようですが、もし疑わしい場合は、Web上に原文が公開されていますので、そちらでご確認ください。
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「ローマ土地制度史 国法と私法への意味付けにおいて」英訳を一応読了。

「ローマ土地制度史 国法と私法への意味付けにおいて」のRichard I. Frankによる英訳を日本語訳の準備作業として一通り読了しました。(注釈を除く。)「中世合名・合資会社成立史」のルッツ・ケルバー氏の英訳に比べると非常にこなれた英語で分かりやすかったです。また訳者が古典語の学者なので、ラテン語の知識という点でもこう言っては何ですがケルバー氏よりはるかに上で安心して読むことが出来ました。一通り読んだと言っても、ほとんど斜め読みなので意味の把握はこれからですが、私見ではこの論文はゴルトシュミットと並ぶもう一人のヴェーバーの大学での恩師であるマイツェン(ドイツ農制史の専門家)の影響下にあるのでしょうが、それ以外に「中世合名・合資会社成立史」の元になっている博士号論文の審査においての、ヴェーバーとモムゼンの論争にもからんでいるのでは、つまりそこで議論されたことをより詳細に調べるという目的と動機があったのではないかと思います。もちろんその時の論争の内容が公開されている訳ではないので推測に過ぎませんが、マリアンネの伝記ではローマの植民市についての何かの概念についての論争だったということです。この「土地制度史」にはローマの植民地における土地税制、農業の実態が中心的なテーマとして取上げられています。しかし農業に関する内容は後半1/3ぐらいで、その前はローマにおける土地の測量と登記の方法、そしてそれにからむ税制の話が延々と続きます。その中でモムゼンが解読チームのリーダーであった、ローマの碑文資料が多数出て来ます。

「ローマ農業史」の日本語訳プロジェクトのスタート

「中世合名・合資会社成立史」の校正もほぼ終ったので、次のステップとして「ローマ農業史 国法と私法への意味付けにおいて」の日本語訳プロジェクトを開始します。まだ訳せるかどうかは分りませんが、これも英訳が出ているのでそれを読んで訳せそうかどうかを判断してから取りかかりたいと思います。今、一冊訳してドイツ語の読解力は大学卒業直前のレベルにほぼ戻ったと思っていますし、またラテン語も復習出来たので、間を空けるより一気にやってしまった方がいいかなと思います。この論文はヴェーバーの2番目の論文で、これで教授資格を得るのですが、これも何故か今まで一度も日本語訳されていません。ページ数は、「中世合名・合資会社成立史」が約200ページでしたが、こちらは160ページくらいで短いです。