折原浩訳の問題点(159)

相も変わらず、原文にないことを訳文で勝手に捏造しています。
「修道院教育が、俗世にいる妻帯教師に安値競争を挑んだ」なんていうのは、歴史的事実としてあり得ないでしょう。
安価または無償の修道院教育というものがあったせいで、結婚している教師達は自分達の労働を安売りせざるを得なかった、ということでしょう。
大体宗教の組織が「安値競争を挑む」なんてあり得ないのは常識だと思います。
それから「修道院手工業の「苦力労働者との競争」」も意味不明。修道院の労働が安値の労働だったので、市民側が「苦力との競争のようだ」と感じたということだと思います。

原文
In eigentümlicher Paradoxie gerät vor allen Dingen, wie schon mehrfach erwähnt, die Askese immer wieder in den Widerstreit, daß ihr rationaler Charakter zur Vermögensakkumulation führt. Namentlich die Unterbietung, welche die billige Arbeit asketischer Zölibatäre gegenüber dem, mit dem Existenzminimum einer Familie belasteten, bürgerlichen Erwerb bedeutet, führt zur Expansion des eigenen Erwerbs, im Spätmittelalter, wo die Reaktion des Bürgertums gegen die Klöster eben auf deren gewerblicher »Kulikonkurrenz« beruht, wie bei der Unterbietung der weltlichen verheirateten Lehrer durch die Klostererziehung.

折原訳
とりわけ禁欲は、すでにたびたび論及したとおり、特有の逆説的関連 において、その合理的性格が財産の蓄積をもたらす矛盾に、再三再四陥っている。とくに、禁欲的独身修行者の労働は、一家族の最低生活費は稼ぎ出さなければならない市民の営利に比して、はるかに安価で、安値競争に勝つことができたから、中世後期になると、独身修行者自身の営利の拡張をもたらし、同時に、修道院にたいする市民層の反撥を引き起こした。この反撥はまさしく、修道院手工業の「苦力労働者との競争」に起因し、これはちょうど、修道院教育が、俗世にいる妻帯教師に安値競争を挑んだ場合と同様であった。

丸山訳
禁欲はその特有のパラドックスにおいて、既に何度も言及したように、その合理的な性格が財産の集積をもたらす、という矛盾に常に陥る。特に安い労働力は、一家の最小限の生活費を稼がなければならないという重荷を負わされた市民的な経営に対しての、禁欲的独身者の安価な労働という意味であったのであるが、中世後期になると、それ自身の経営の拡大につながり、そこでは市民層からの修道院への反動が、その産業的な「苦力[クーリー]的競争」に基づいたものであったのだが、それは丁度世俗的な結婚している教師達が、修道院教育によって自分達を安売りしなければならなかったのと同じである。

Jenseitsを彼岸と訳す危うさ

創文社訳も、折原訳も、J(j)enseits、D(d)iesseitsをほぼ100%といって良い確率で「彼岸」「此岸」と訳しています。(先頭大文字は名詞、小文字は副詞。)
確かにjenseitsは「あちら側に」という意味でdiesseitsは「こちら側に」という意味なので、彼岸は「かの岸」、此岸は「この岸」だから、訳に使ってもいいだろう、ぐらいにししか考えていないように思います。この点で罪が重いのは、ニーチェのJenseits von Gut und Böseの日本語訳です。このタイトルは本来は「善と悪の区別を超えた所に」ぐらいの意味だと思いますが、それを「善悪の彼岸」と訳したのは、ある意味名訳なのかもしれませんが、これが誤解を撒き散らしたように思います。
彼岸と此岸は本来仏教用語であり、此岸が今我々が住んでいる「この世」であり、彼岸は輪廻の激流の「向こう岸」にある悟りの境地、涅槃のことです。(元々サンスクリットの「pāramitā=波羅蜜多」を「到彼岸」と漢訳したものです。)春と秋の昼と夜の長さが同じ頃を「お彼岸」というのは、太陽が真西に沈み、西方浄土は涅槃=彼岸と同一視されたので、その西方浄土にもっとも近くなった頃という意味からです。また日本で誰も向こう岸のことを「彼岸」と言う人はいません。
少なくとも、木村・相良とか小学館の独和大辞典にはJ(j)enseitsで「彼岸」という意味は載せていませんが、最近の辞書には残念ながら載せているものもあるようです。
私がこうした訳を問題にしているのは、「宗教ゲマインシャフテン」の論文だからであり、キリスト教徒が最後の審判を受けて、イエスの元に迎え入れられる新しい世のことを「彼岸」とするのは、非常に程度のひどい誤訳です。キリスト教関係のことについて書いてある場所であれば、適宜「来世」「来るべき世」などと訳すしかありません。またこの前の折原誤訳指摘のように、輪廻転生での次の生を「彼岸」と訳すのも、これまた信じられないような誤訳です。

折原浩訳の問題点(158)

Jenseitsが出てくると、機械的に「彼岸」と訳す人。ここでは現世で約束を守らないと、輪廻転生での次の生で罰を受けるということであり、彼岸というのはその輪廻の輪から抜け出た場所です。仏教についてもまったく分かっていないことを示す訳です。

原文
Die Pfändung der Mumie des Toten in Ägypten oder die in manchen asiatischen Religiositäten verbreitete Vorstellung, daß wer ein Versprechen, also auch ein Schuldversprechen, namentlich ein eidliches, nicht halte, im Jenseits gequält werde und daher seinerseits die Ruhe der Nachfahren durch bösen Zauber stören könne, gehören dahin. Im Mittelalter ist, worauf Schulte hinwies, der Bischof besonders kreditwürdig, weil im Fall des Bruchs der Zusage, zumal der eidlichen, die Exkommunikation seine ganze Existenz vernichtete (darin ähnlich der spezifischen Kreditwürdigkeit unserer Leutnants und Couleurstudenten).

折原訳
エジプトにおける死者のミイラの差し押さえや、アジアの数多の宗教性に普及しているつぎのような考えは、そうした利用の類に属する。すなわち、約束を守らない者、したがってまた、負債の約束、殊に誓約を交わした約束を守らない者は、彼岸において苦しめられるが、かれとしても、悪しき呪術によって子孫の平安を脅かすことができる、という考えである。西洋中世には、シュルテが指摘しているとおり、司教には特別に信用が置ける、と考えられた。それというのも、司教が、約束とくに誓約による約束を破ると、破門されて、全生活が破滅するからである (ドイツで、少尉や学生組合員に特別の信用が置かれるのも、同じことである)。

丸山訳
エジプトにおいての死者のミイラの差し押さえ、または多くのアジア的な信仰におい広範に存在していた考え方である、約束を、つまりはまた債務についての約束を、特に誓約付きの約束を守らない者は、次の生で苦しみを受け、そしてそこからその者はその者なりに、子孫の平安を悪しき呪いによって妨げることが出来るという考え方は、父祖への恭順の利用の例である。中世においては、シュルテ[1]が言及しているように、司教は特別に[債務者としての]信用力があるとされ、何故なら約束した債務について不履行だった場合には、取り分け誓約付きの約束がそうだった場合、破門されてその者の全存在が無に帰するからである(その点で類似している例には、ドイツでの少尉[若い下級将校]と学生組合に所属する大学生がある[2])。

[1] Aloys Schulte、1857~1941年、ドイツの歴史家で中世の商業史・交通史の研究家。カトリック信者。

[2] ヴェーバー自身、若い頃の軍役で少尉→中尉にまでなっており、またハイデルベルク大学の学生時代学生組合(Die Burschenschaft Allemannia zu Heidelberg)のメンバーであった。学生組合は決闘を行うなど名誉を重んじており、ヴェーバー自身も決闘を行って顔に傷を負い、ヘレーネから平手打ちをくらっている。

折原浩訳の問題点(157)

ここはan der Person haftete で誰が見ても債務が個人に帰属させられていた(人的責任)ということを言っているだけなのに、「債務者の即人的対応に委ねられていた」という意味不明の訳。そして最後のDann以下も「やがて」ではなく、その場合には次のステップとして、ぐらいの意味。また「事実の世界」もあまりに直訳で何を言っているのか分かりません。「露骨に」もganz directの訳としてはあまりにも俗っぽいです。

原文
In der Welt der Tatsachen hat dabei die religiöse Ethik infolge der unvermeidlichen Kompromisse, verschiedene Schicksale gehabt. Von jeher ist sie ganz direkt für rationale ökonomische Zwecke, insbesondere auch der Gläubiger, benutzt worden. Namentlich da, wo die Schuld rechtlich noch streng an der Person des Schuldners haftete. Dann wurde die Ahnenpietät der Erben ausgenutzt.

折原訳
そのさい、事実の世界においては、宗教倫理が、現世との妥協を避けられず、さまざまな運命をたどる結果となる。宗教倫理は太古から、合理的な経済的目的のため、とりわけ債権者の [債務者が債務を履行するように仕向ける]目的に、露骨に利用されてきた。債務 [の履行] が、法律上なお大幅に、債務者の即人的対応に委ねられていたところでは、殊にそうであった。やがて、祖先にたいする相続人の恭順が、存分に利用された。

丸山訳
その際に宗教的な倫理は、現実で構成された現世において、避け難い妥協の結果として、様々な運命をたどったのである。ずっと以前から宗教的な倫理はまったく直接的に合理的な経済上の諸目的のために、特にまた債権者の諸目的のために利用されたのである。それは特に、債務が法的にはまだ厳格に債務者自身に帰属されていた場合にそうであった。その場合には、相続人の父祖への恭順が徹底して利用されたのである。

折原浩訳の問題点(156)

[近隣ゲマインシャフトにおける懇請労働と懇請貸し付けの]に補足しますけど、この勝手にゲマインデをゲゼルシャフトを契機とする近隣ゲマインシャフト群とするのは、完全にゲマインデに関するヴェーバーの説明を誤読した折原による思い込みです。
昨日紹介した加藤さんの本にもまだ、19世紀になっても、元々のマルク・アルメンデ共同体としての名残である「ゲマインデ」が農村には存在していたことが出て来ます。そして何より強調したいのは、ヴェーバーはこの農村の土地問題については、完全に専門家だということです。(元々マイツェンの農村地理学のゼミ出身です。さらに「ローマ土地制度史」と「東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態」と「ドイツ世襲財産問題の考察」を書いています。)その専門家が書いた論文に素人が勝手な誤解に基づく補足を入れるなど、言語道断です。翻訳者として最低です。

折原浩訳の問題点(155)

今日もまた、デコトラ翻訳。
1.[近隣ゲマインシャフトにおける懇請労働と懇請貸し付けの]などという原文にない補足は不要であるだけでなく、「懇請労働」はこれまで一度も言及されておらず、勝手にこの訳者が足したもの。→調べたらヴェーバーが言っていることではなくて、ご本人のゲマインデ概念の誤解に基づいて勝手に言っていることでした。ここを参照。
2.「即物的に合理的なゲゼルシャフト行為」でKosmos(世界)が訳されていない。
3.最後の文の主語は、Weltであり、「個々の人間同士」ではまったく無い。
やれやれ。1は特にひどいです。

原文
Rationale ökonomische Vergesellschaftung ist immer Versachlichung in diesem Sinn, und einen Kosmos sachlich rationalen Gesellschaftshandelns kann man nicht durch karitative Anforderungen an konkrete Personen beherrschen. Der versachlichte Kosmos des Kapitalismus vollends bietet dafür gar keine Stätte. An ihm scheitern die Anforderungen der religiösen Karitas nicht nur, wie überall im einzelnen, an der Widerspenstigkeit und Unzulänglichkeit der konkreten Personen, sondern sie verlieren ihren Sinn überhaupt. Es tritt der religiösen Ethik eine Welt interpersonaler Beziehungen entgegen, die sich ihren urwüchsigen Normen grundsätzlich gar nicht fügen kann.

折原訳
合理的な経済的ゲゼルシャフト結成は、つねにこの意味における即物化である。即物的に合理的なゲゼルシャフト行為は、具体的な人間への慈善的要請によっては制御できない。ましてや、資本主義の即物化された宇宙には、慈善による制御の余地はまったくない。この宇宙では、宗教的慈善の要求は、個々の場合にいたるところで、具体的な個人の抵抗や力量不足に直面して挫折するばかりではなく、およそその意味を失うのである。いまや個々の人間どうしが、原生的な [近隣ゲマインシャフトにおける懇請労働と懇請貸し付けの]諸規範には原則上まったく適合できない、ある世界をなして、宗教倫理に対立する。

丸山訳
合理的・経済的なゲゼルシャフト形成は、常にこの意味における即物化であり、人はある即物的に合理的なゲゼルシャフト行為の世界を、慈善の考え方に基づく諸要求によって、具体的な各人において、支配することは出来ない。資本主義の即物化された世界は、全くの所、そういう諸要求が入り込む余地を与えない。その世界においては、宗教的な慈善の諸要求は、個々のケースで至る所でそうだったように、単に座礁するだけはなく、具体的な諸個人の[慈善要求への]不服従と[それを行う能力の]不十分さに直面して、またその意義一般を失うのである。個々の人間間の関係の集合からなる現世は宗教的な倫理を拒絶するのであり、そういった現世はその原生的な規範に、原則的にまったく適合することが出来ないのである。

折原浩訳の問題点(154)

ここはもう「脱即人的」だけでお腹いっぱい。(笑)
「脱」は脱呪術化(Entzauberung)のように、ent-が付いている語で普通使います。折原用語ならむしろ「没即人的」だと思いますが。(笑)

原文
Vor allem aber ist es der unpersönliche, ökonomisch rationale, eben deshalb aber ethisch irrationale, Charakter rein geschäftlicher Beziehungen als solcher, der auf ein niemals ganz klar ausgesprochenes, aber um so sicherer gefühltes Mißtrauen gerade bei ethischen Religionen stößt.

折原訳
ところで、純然たる事業上の諸関係は、経済上は合理的な、しかしまさにそれゆえ倫理上は非合理な、脱即人的性格をそなえており、この性格自体が、まさしく倫理的な諸宗教に、不信の念を呼び起こし、この不信は、明白には言表されないものの、それだけ確かに感得されるものである。

ちなみに、「脱即人的」でググると、結果は以下:

「脱即人的」という言葉は一般的な日本語の熟語や専門用語としては存在しません。文字通りの意味や、類似の言葉(「脱属人化」や心理学の「離人症」など)の誤記・聞き間違いである可能性が高いです。

考えられる意図や類似の言葉

脱属人化(だつぞくじんか): 仕事の内容や進め方を、特定の個人に頼らない仕組みに変えること。業務の標準化やマニュアル化を指すビジネス用語。
離人症(りじんしょう): 自分自身から切り離されたような感覚や、現実感が失われる心理的状態。
脱私即的(だっしそくてき): 私心を捨てて、本来の目的に即して行動するという造語。 [1, 2, 3, 4]

もし「脱即人的」とは別の言葉(脱属人化など)を意図されていた場合や、特定の文脈でお使いの場合は、その詳しい背景や正しい言葉を教えていただければ詳しくお答えできます。

折原浩訳の問題点(153)

またこんな短い文で4つ((2)は2つ誤訳なので正確には5つ)も誤訳。

(1)so anscheinend はヴェーバーの見解としてそう見えると言っているのであり、「見られるとおり」ではまったくない。
(2)Interesseには確かに「関心」と「利害」という二つの意味があるが、「利害関心」などとくっつけて曖昧にするべきではない。ここでははっきり「利害」でしかない。また「祭司層自身の」利害ではなく、「神殿の」利害である。
(3)「聖法によって守られた」は原文にはない。ここは単に「神聖なものとして保護された」ということ。
(4)「預金金庫」はあまりにも銀行に寄せすぎ。「供託金庫」ぐらい。この訳者はデルフォイ神殿の宝庫とか、デロス島のアポロン神殿にデロス同盟の収益金が保管された、とか実例を知らないんでしょうね。(3)の「聖法によって守られた」も、神殿の財貨を盗むことは神の罰を受けると信じられていたから安全だった、ということを知っていればそんな誤訳はしない筈です。

原文
Schon deshalb ist der Trieb nach Geld als Typus rationalen Erwerbsstrebens religiös bedenklich. Wenn möglich, hat daher die Priesterschaft (so anscheinend in Ägypten) die Erhaltung der Naturalwirtschaft begünstigt, wo nicht etwa die eigenen ökonomischen Interessen der Tempel als sakral geschützter Depositen- und Darlehenskassen dem allzusehr entgegenstanden.

折原訳
すでにこの理由だけからも、合理的営利追求の典型である貨幣を求める衝動は、宗教上いかがわしいものという嫌疑をかけられる。したがって、祭司層は (エジプトにおいて見られるとおり)、できることなら自然経済を維持しようとした。もっとも、神殿は当時、聖法によって守られた預金金庫また貸し付け金庫の機能をそなえていたのであるから、自然経済の維持が、そうした機能への祭司層自身の利害関心とさほど甚だしくは抵触しないかぎりにおいてであった。

丸山訳
既にこのことだけからも、貨幣獲得への嗜好は、合理的な利益獲得努力の典型として、宗教的には疑わしいものである。可能であるならば、それ故に祭司層は(エジプトではおそらくそうであったと思われるが)出来るだけ自然経済を維持しようとしており、しかしそれは例えば神殿の、神聖なものとして保護された供託金庫と貸し付け金庫としての、本来の経済的な利害に自然経済が対立しない場合に限ってである。

セレンディピティ

今日は、セレンディピティとはこういうことか、ということを体験しました。
上の写真の右の、加藤房雄さんの「ドイツ世襲財産と帝国主義」を一ヶ月くらい前から少しずつ読んでいたのですが(私はここ数年は10~15冊くらいの本を常に同時に少しずつ読んでいます)、その第三篇「マックス・ヴェーバーのドイツ農業論と世襲財産」の第四章「ヴェーバーの世襲財産論の内容とその意義」のP.153辺りまで読んでいた所、本日書店に行って久し振りに社会学コーナーを眺めていたら、なんとその加藤房雄さんの訳による、ヴェーバーの「ドイツ世襲財産問題の考察-プロイセンを中心に-」の日本語訳を発見したのです!しかも2026年8月20日発売になっていて、フライングゲットです。こういう冗談みたいなことって本当にあるんですね。ちなみにこのヴェーバーの論文は1903年でプロ倫の1年前に書かれております。日本での通俗的ヴェーバー理解だと、精神の病→プロ倫で学者として復活、と思っている方がいらっしゃいますが、事実に反しています。しかし私の「中世商事会社史」「ローマ土地制度史」の日本語訳も、商業出版社が出すにはきついのでオープン翻訳+Amazonでの販売という形にしていますが、それよりもまたある意味マイナーな論文を勁草書房は良く出したなと思います。帯に書いてある「精神論中心から制度論・政策論中心へ!」には拍手を送りたいです。また70代後半というご年齢で貴重な日本語訳を出された加藤房雄さんにも大拍手を送りたいです。こういうのこそ学問です。

「宗教ゲマインシャフテン」丸山大幅改訳、R9

「宗教ゲマインシャフテン」の訳のR9をお届けします。これで全体の84%でゴールがいよいよ見えて来た感じです。
ここでの収穫は、ヴェーバーがグリァソンの「沈黙交易」の内容をかなり使っていて、いわゆるポトラッチと宗教における施し、更にはゲマインシャフト内の政治的権力の発生まで同列に扱っているのが興味深かったです。この「沈黙交易」の内容と、「経済と社会」全体におけるヴェーバーの人類学的知見の利用については、きちんと調べる価値があると思います。

20260814_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R9.pdf