折原浩訳の問題点(127)

これはずっと書こうかどうしようか迷っていたことですが、この訳者は文頭にaberが来ると、高い確率で「ところで」と訳します。しかし言うまでもなく、aberは多くの場合前の文章とは反対のことを言う(この場合ではカトリックで告解がそれなりの力を持っているという話とは逆に、ということ)場合に使います。それが「ところで」では単に話題を変えていることになってしまいます。はっきりいって小学生の作文の添削レベルですが、敢えて公開しておきます。

原文
Aber daß das Judentum einerseits, der asketische Protestantismus andererseits keinerlei Beichte und Gnadenspendung durch irgendeine menschliche Person und keinerlei magische Sakramentsgnade kennen, hat historisch jenen ungeheuer scharfen Druck im Sinn der Entwicklung einer ethisch rationalen Lebensgestaltung geübt, der beiden Arten von Religiosität, so stark sie sonst voneinander abweichen, gemeinsam ist.

折原訳
ところで、一方ではユダヤ教、他方では禁欲的プロテスタンティズムが、なんらかの人間によってなされる、いかなる聴罪も恩恵分与も、また、およそいかなる魔術的な秘蹟恩恵も、知らないということは、歴史上、倫理的に合理的な生活形成を発展される方向において、おそろしく強烈な圧力をおよぼした。ユダヤ教と禁欲的プロテスタンティズムというふたつの宗教性は、その他の点では互いに顕著に異なっているとしても、この圧力は、両者共通に認められる。

丸山訳
しかしながら、一方でユダヤ教が、他方では禁欲的プロテスタンティズムが、何らかの人間的ペルソナによる告解と恵みの贈与を知らず、更に魔術的な秘蹟による恩恵も知らないということは、歴史的に、あの強大で激しい、倫理的に合理的な生活の形成を発展させるという意味での圧力を及ぼしたのであり、この二つの信仰の種類は、それ以外では相互に非常に異なっているにもかかわらず、この点に関しては共通なのである。

折原浩訳の問題点(126)

ここは折原訳の間違いというより、創文社訳とその訳注が間違っているのですが、少なくともカトリックでは避妊は禁じられているので、「子供は二人まで」が敬虔なカトリック教徒に遵守されているなどという訳は噴飯ものです。それに Hintanhaltungは遵守の逆の忌避という意味です。ヴェーバーの言っていることとまったく反対の訳になってしまっています。

原文
Dennoch ist z.B. etwa in der fühlbaren Hintanhaltung des Zweikindersystems bei frommen Katholiken die Beichteinwirkung noch heute zuweilen »ziffernmäßig« greifbar, so sehr sich in Frankreich die Schranken der kirchlichen Macht auch hierin zeigen.

折原訳
それにもかかわらず、たとえば敬虔なカトリック教徒の間で、二児制が建前にとどまらずじっさいにも遵守されている事例のように、告解の影響は、今日もなお時として「統計の数値によって」捉えられるほどである。ただし、フランスでは、この点にかけても、教会の力の限界が、明らかに示されている。

丸山訳
とはいっても、例えば敬虔なカトリック教徒によって、「子供は二人まで」というやり方がはっきり分かるほど阻止されていることに見られるように、告解の作用は今日でも時折「統計数字によって」把握可能なのであり、しかしフランスでは教会の力の限界がこの点においても現れている。

ヴェーバーの宗教に対する会計用語の使用について

ここで何度も指摘しているように「宗教ゲマインシャフテン」の中で、ヴェーバーは信者の内面を一種の複式簿記の帳簿として説明することを何度も行っています。これってヴェーバーがある意味独自にやったのかと思っていたら、コンツェルマンの「新約聖書神学概説」の中に、「(一)法律的。人間は律法を満たしていない。罪人である。しかし神はキリストの救済行為を人間の貸方に記帳し、それによって人間は買いもどされた。」というのが出てきました。これはパウロについての説明ですが、ローマの信徒への手紙の4:3-4では
「3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」
となっており、3の「義と認められた」の元のギリシア語は λογίζομαι であり、これの本来の意味には「信用を与える、記帳する」があり、元々会計的な用語を使っています。
さらには4の「当然支払われるべきもの」とはつまり債権ということです。
もちろんパウロの時代に複式簿記はありませんが、少なくともドイツのルター派の中では信仰義認論の中で経理・会計用語はかなり使われていた、というのが真相のようです。もちろんヴェーバーはそれを更に拡大して使ってはいますが。

折原浩訳の問題点(125)

今日の所は、ほぼ全文問題を抱えています。
「人格総体の恒常的実践慣行」って一体何ですか?(笑)
何度も書いていますが、要するにカトリックにおけるHabitusの概念をきちんと押さえていないから、こういう珍妙な訳が出て来る訳です。

原文
Nicht der gesamte, durch Askese oder Kontemplation oder beständig wache Selbstkontrolle und Bewährung stets neu festzustellende Habitus der Persönlichkeit, sondern das konkrete einzelne Tun wird gewertet.

折原訳
人格総体の恒常的実践慣行が、禁欲か瞑想か、あるいはつねに醒めた自己制御と確証によって、絶えず改めて確立されなければならない、というのではなく、具体的な個々の所業が、そのかぎりで評価される。

丸山訳
全体としての、禁欲または瞑想によるか、あるいは持続的に目覚めた状態での自己制御と確証によって、常に新たに確立されるべきである人格の、恩寵による性向[Habitus[1]]ではなく、そうではなくて具体的な個々の行いが価値付けられるのである。

[1] 参考(再掲):基督教研究 第28巻、第3、4号「倫理性に於けるルッターと中世 --基督教倫理思想史の一齣--」今井晋
スコラ神学は、アウグスティヌスの見解を発展させて、サクラメントの儀式によって、奇蹟的に、人間に「注がれる」(ロマ書5.8)神の超自然的な恩寵の状態をハビトゥス(habitus)と名付け、サクラメントに依存するかかる超自然的な神の愛の協力が、始めて善き行為を真に功績ある行為、即ち永生に値する行為として価値づけるとしたのである。

折原浩訳の問題点(124)

こちらも同じ。短い文をこねくり回しています。

(1)止まり→留まり(おそらくかな漢字変換の選択ミス)
(2)「償いないし贖い」どっちも同じ意味なのと、後は「贖い」はキリスト教ではキリストが十字架上の死によって人間の罪を償ったことを言うので、ここで使うのは不可。それにKompensationはおそらくは「補償金」のイメージで、贖宥状を頭に置いている可能性が高いです。
(3)「対置すればよいことになろう。」→単に「対置される」と言っているだけです。本当に余計な脚色が多いです。

原文
Und vor allem bleiben die Sünden einzelne Handlungen, denen andere einzelne Handlungen als Kompensation oder Buße gegenübergestellt werden.

折原訳
とりわけ、およそどんな罪も、個別の行為に止まり、これには償いないし贖いとして、別のやはり個別の行為を対置すればよいことになろう。

丸山訳
特に、この場合は罪というものが個々の行為に留まり、それに対しては他の個々の行為が補償または贖罪として組み合わされるのである。

折原浩訳の問題点(123)

ここはこんな短い文でも勝手に余計なものを付け加えて、原文の意味を改変してしまっている例です。
(1)Sündigendeは現在進行的な意味ではなく、単に動詞を形容詞化しただけ。ドイツ語の現在分詞が進行形ではないというのは初級文法の問題です。
(2)「そのつど宗教上の臨機的行為をおこなえば」といった条件付きの話ではなく、また(1)と合わせると、ある瞬間に罪を犯した者が、それ毎に免罪行為を行えば、のような変な意味に読めてしまう。
(3)「知ることになる」もおかしく、将来の話ではなく元々知っているということ。
(4)「臨機的行為」も間違いではないけど、意味は「機会を見てしかるべき時に行う行為」という意味です。

原文
Denn der Sündigende weiß, daß er von allen Sünden immer wieder durch ein religiöses Gelegenheitshandeln Absolution erhalten kann.

折原訳
それというのも、罪を犯しつつある者が、そのつど宗教上の臨機的行為をおこなえば、どんな罪からも赦免される、と知ることになるからである。

丸山訳
というのは罪を犯す者は、全ての罪について、常に何度でも、宗教上の機会を見たしかるべき行為によって免罪を得ることが出来ることを知っているからである。

 

パウロのオリーブの接ぎ木の譬えについて

ヴェーバーは、パウロの「ローマ人への手紙」11:17~24で、パウロが野性のオリーブ(異邦人)が良いオリーブの木(ユダヤ人)に接ぎ木されてという譬えを使い、これは実際の接ぎ木とは逆(野性のオリーブに良質なオリーブの木が接ぎ木される)であり、パウロは都会人で農業のことなど知らないのでこういう間違いをした、と論じています。
しかし、ここの24ではπαρὰ φύσινという表現が使われており(εἰ γὰρ σὺ ἐκ τῆς κατὰ φύσιν ἐξεκόπης ἀγριελαίου καὶ παρὰ φύσιν ἐνεκεντρίσθης εἰς καλλιέλαιον, πόσῳ μᾶλλον οὗτοι οἱ κατὰ φύσιν ἐνκεντρισθήσονται τῇ ἰδίᾳ ἐλαίᾳ.{Nestle Greek New Testament 1904}、もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。{新共同訳})、共同訳では「元の性質に反して」(その注釈では「直訳『自然に反して』」)となっています。即ち、パウロは普通の接ぎ木の方向とは逆であることは先刻承知でこの譬えを用いて、異邦人にイエスの教えを説くというユダヤ人から見たらとんでもないことを逆説的に表現している、と解釈した方が自然です。
大体、ヴェーバーのオリーブに関する知識はローマの農業書で覚えたいわゆる「本で得た知識」であり、実際のオリーブ栽培を見たことがないのは、むしろヴェーバーの方でしょう。(そもそもヴェーバーの当時のドイツの気候ではオリーブは育たない。)オリーブはパウロの時代のオリエント及びローマでも、栽培植物としてきわめて普及しており、聞いた人もわざと逆に言っていることはすぐに理解されたんだと思います。私に言わせればヴェーバーはある種の「宗教音痴」であり、こうした間違ったことを十分検証もせずに書き散らす傾向があると思います。これは私個人の意見だけでなく、ダイスマンもヴェーバーのこの部分の見解を批判しているようです。

折原浩訳の問題点(122)

またここも文書の論理構造が理解出来ていない例。
so weit は「~する限りにおいて」で「どの程度」ではない。
また、それはso…daß…構文でもあるので、「その結果」あるいは「~するまでに」ということになります。

原文
Das, was Gott verlangt, so weit zu erfüllen, daß das Hinzutreten der gespendeten Anstaltsgnade zum Heil genügt, müssen prinzipiell alle Menschen zulänglich sein.

折原訳
神が要求するところをどの程度実行すればよいかについて、分与されるアンシュタルト恩恵で補えば救済にとって十分というのであるから、そうすることは原理上、全ての人間に可能なはずである。

丸山訳
神が所望することを実行する限り[その結果として]、贈与されたアンシュタルトによる恵みが付け加えられたことが救済の条件を満たし、原則上は全ての人にとって救済に十分とならなければならない。

折原浩訳の問題点(121)

ここもひどい訳。「余剰の寄与によって余剰の恩恵を蓄え、これを処置する」はまったく意味不明で、要するにThesaurusのカトリック教会での意味がまったく分かっていません。Verfügungも「処置」ではなく自分の財産として自由に処分出来ることです。前の文のAnstaltgnadeの内容をまったく理解出来ていません。

原文
Sie kann ihrerseits wieder direkt durch rein magische Sakra|mente oder kraft der ihr übertragenen Verfügung über den Thesaurus der überschüssigen, gnadenwirkenden Leistungen ihrer Beamten oder Anhänger wirken.

折原訳
このアンシュタルトが[恩恵分与の]作用を発揮し、機能を維持することができるのは、それがそれとして再度、直接に、純然たる魔術としての秘蹟をおこなうことによってか、あるいは、アンシュタルトの職員ないし帰依者が余剰の寄与によって余剰の恩恵を蓄え、これを処置する権能がアンシュタルトに委託されることによって[間接に]か、どちらかである。

丸山訳
そういったアンシュタルト化されたゲマインシャフトは、それ自体として再び直接的に、純粋に魔術的な秘蹟によってか、あるいはその聖職者や信奉者の有り余るほどの恵みを与える働きの源泉である功徳の宝庫[Thesaurus[1]]の自由な処分を任されていることにより、作用を及ぼすのである。

[1] Thesaurus meritorum(功徳の宝庫)のこと。キリストの無限の功徳と聖人達の功徳が集まっているとされる霊的な貯蔵庫のこと。1343年に教皇クレメンス6世によって正式に定義された。いわゆる「贖宥状」を発行する根拠となるもの。

折原浩訳の問題点(120)

折原センセは、「理解社会学のカテゴリー」の概念に非常にこだわりますが、しかしながらここの訳は問題が多いです。何故Anstaltsgemeinschaftを分解して訳すのか。アンシュタルトはゲゼルシャフトの中でも高次のもので、例としては国家やカトリック教会が挙げられています。なのでここは「アンシュタルト化した(アンシュタルトの段階にまで達した)ゲマインシャフト」と訳すしかありません。ゲマインデが元はゲマインシャフトと同義でありながら、現在ではゲゼルシャフト化されて地方自治体になっているのと構図はまったく一緒です。

原文
Die Erlösung erfolgt dann durch Gnaden, welche eine ihrerseits durch göttliche oder prophetische Stiftung beglaubigte, Anstaltsgemeinschaft kontinuierlich spendet: Anstaltsgnade.

折原訳
すなわち、神ないし預言によって創立された施設として信任されるゲマインシャフト自体が、ひとつのアンシュタルトとして、継続的に恩恵を分与することにより、救済が達成される、という見地 (アンシュタルト恩恵) である。

丸山訳
それは救済が恵みによる結果として起きるが、その恵みが、あるそれ自体として神的なものあるいは預言に基づいて創立された施設が、つまりアンシュタルト化した[アンシュタルトの段階にまで達した]ゲマインシャフトが継続的に贈与するものである場合である:つまりアンシュタルトによる恵みである。