折原浩訳の問題点(152)

ここはもう誤訳というより、以前紹介した俗流マルクス主義的描写が訳文にも登場している箇所として、楽しんでお読みください。(笑)下線が原文にはない箇所。

原文
So namentlich die mosaische und islamische Prophetie. Dies erstreckt sich nun auch auf die Klassenbeziehungen. Im Kreise der minder mächtigen Nachbarn gilt rücksichtslose Ausnutzung derjenigen Klassenlage, welche der vorkapitalistischen Zeit typisch ist: rücksichtslose Schuldverknechtung und Vermehrung des eigenen Landbesitzes (was beides annähernd identisch ist), Ausnutzung der größeren Kaufkraft durch Aufkauf von Konsumgütern zur spekulativen Ausnutzung der Zwangslage der anderen, ein mit schwerer sozialer Mißbilligung, daher auch mit religiösem Tadel beantworteter Verstoß gegen die Solidarität.

折原訳
とりわけ、モーセおよびイスラムの預言が、そうであった。こうしたことはいまや、階級的諸関係にも波及する。前資本主義期に典型的な階級状況を利用して呵責ない搾取に耽ること、すなわち、困窮した農民に金を貸し付け、債務奴隷に陥れて、容赦なく土地を取り上げ、自分の土地に兼併する (したがって、債務奴隷化と土地兼併とは、ほとんど同一の過程である) ことや、他人より大きい購買力をもって消費財を買い占め、他人の窮乏につけ込んで高値で売る――他人の強制された状態を投機的に利用すること――は、力に劣る隣人の間では、お互いの連帯関係にたいする重大な侵害として、激しい社会的非難をもって、したがってまた、宗教的な叱責をもって、応えられる。

丸山訳
モーセとイスラム教の予言も特にそうであった。こうしたことは、次に様々な階級関係にも及ぶ。より少ない権力しか持っていない隣人仲間の中では、資本主義前の時代に典型的であった階級状況に対する、容赦のない搾取:容赦のない債務奴隷化、自身の土地所有を増やすこと(この二つはおおよそ同じことを指していた)、自分のより大きな購買力を最大限使って様々な消費財を買い占めて他者の窮乏につけ込んだ投機、それらは激しい社会的非難、そこからまた宗教的な非難にも値する相互連帯に対する違反と見なされていた。

折原浩訳の問題点(151)

今、前の箇所でグリァソンの「沈黙交易」への参照と見られるのが出て来て、同書の日本語訳を改めて読んでいますが、この箇所に書いてあることも、元ネタはグリァソンだと思います。それどころか、有名な「対内倫理と対外倫理の使い分け」(古代ユダヤ教)も元ネタはグリァソンだと思います。

そういう背景を押さえて上で折原訳を見ると

(1)Grenzenは「限界」ではなく、ある人間集団の「境界」のこと。対内と対外を分かつものです。
(2)保護と恩恵→これもおかしく、寛大さと慈悲、くらいです。
(3)従順と好意→自発性・自発的協力と好意、です。

原文
Innerhalb bestimmter Grenzen ist ja Schonung und Güte auch gegen die eigenen Gewaltunterworfenen ein eigenes wohlverstandenes Interesse des Gewalthabers, da von deren Gutwilligkeit und Zuneigung, in Ermangelung rationaler Kontrollmittel, seine Sicherheit und Einkünfte weitgehend abhängen.

折原訳
それというのも、特定の限界内では、自分の権力に従属している者に対しても、保護と恩恵を施すことが、よく考えれば、権力保有者自身の利害に適う所作だからである。合理的な統制手段を持たない場合、かれの安全と収入は、従属者の従順と好意に大幅に依存せざるをえない。

丸山訳
特定の[国境や村境のような]境界の内部では、自分の権力に服する者達への寛大さと慈悲は確かにまた、権力保持者自身が良く分かっている利害に適うことであり、というのはその権力保持者の安全と所得は、合理的な制御手段が欠乏している場合には、広範囲に権力に服する者達の自発的協力と好意に依存するからである。

 

今度こそMWGの全集の間違った注釈(2)-ヴェーバーはポトラッチを知っていた

色々調べましたが、私としての結論は、ここのsahen wir はオリジナルのsehen wir が正しく、その場合には前後参照句ではなく、「人類学の研究にて報告されているように」ぐらいが一番正しいと思います。そもそも文頭で In naturalwirtschaftlichen Verhältnissen (自然経済的な状況では)とわざわざ断っている訳ですから、ここは人類学の知見に関連して言っていると考えるのは自然です。また前後参照句ならヴェーバーは通常wieを前に付けていますし、また過去形ないし未来形で通常は書かれます。書き直した訳注は以下の通り:

MWGの全集は、初版ではsehen wirだったのをsahen wirに変更した上で、参照先を最初の全集の209ページ(家ゲマインシャフト)としている。しかしそこに書かれているのは、「大所有は、まさに所有であるがゆえに社会的地位の担い手となる。」であり全く逆の内容である。訳者の方で別途調べて、下記の箇所の可能性も検討した:
„Klassen“, „Stände“ und „Parteien“(「階級」、「身分」、「政党」)
最初の全集のP.635
Aber die ständische Ehre muß nicht notwendig an eine „Klassenlage“ anknüpfen, sie steht normalerweise vielmehr mit den Prätensionen des nackten Besitzes als solchem in schroffem Widerspruch.

濱島朗訳(みすず書房「権力と支配」P.226)
「だが身分的名誉は必然的にある「階級的地位」に結びつくとはかぎらない。かえってそれは、露骨な所有自体の要求ときびしく矛盾するのが普通である。」(漢字を新字体に変更)

しかしここも直接の参照先としては微妙に違っているように思われれる。何故ならばここでヴェーバーが述べているのは文化人類学で言うポトラッチ(顕示的消費)的なことであるからである。むしろ可能性があるのは最初の全集のsehen wir が正しいということである。「ポトラッチ」は既にフランツ・ボアズの1897年のクワキウトル族研究で扱われていたから、ヴェーバーが「ポトラッチ」を知っていた可能性がある。そもそもこの論文の最初の方で出て来たハマチャの兄弟団も同じクワキウトル族の話であることを考えれば、更に知っていた可能性は高い。また何より、ヴェーバーは1903年のグリァソンのThe Silent Tradeについて他の箇所で複数回言及している(Der stumme Tauschの形で「法」で2回、「市場」で1回言及している)ので間違いなく読んでいるが、その中に「例えば、ユーコン川南部の部族では、寛大という名声を得んものとする気概はきわめて大きく、そのためにお返しなど望まず数年間にわたって貯えてきたものを惜しげもなく分配(ギブナウェイ)して、敢えて素寒貧になろうとする。」(ハーベスト社、「沈黙交易」、中村勝訳、P.49)のようなポトラッチについての記述が複数箇所にあるので、ヴェーバーがポトラッチ的概念を知っていたのはほぼ確実である。またグリァソンの本では沈黙交易の発展段階としてゲスト・フレンドシップ(客人招請)も論じられており、ここのヴェーバーの記述と一致する。以上のことから改めて考えると、sehen wir は前後参照句ではなく、単に「自然経済的な状況で見られるように」という意味の可能性が高く、訳語もそうした。

今度こそMWGの全集の間違った注釈

In naturalwirtschaftlichen Verhältnissen nobilitiert aber überhaupt, sahen wir, nicht der Besitz als solcher, sondern die freigebig gastfreie Lebensführung.
(自然経済的な諸状況において、前に述べたように、しかし一般にそういった財産の所有がではなく、物惜しみしない、客をもてなす生き方が人を高貴にするのである。)

のsahen wirの参照先を全集注は最初の全集の209ページとしています。しかしそこに書いてあるのは、

Der große Besitz ferner lockt, einfach weil er Besitz und als solcher Träger einer sozialen Position ist …

「大所有は、まさに所有であるがゆえに社会的地位の担い手となる」と上記の文章とは反対のことです。

色々調べましたが、おそらく可能性のある参照先は以下です。

„Klassen“, „Stände“ und „Parteien“(「階級」、「身分」、「政党」)
最初の全集のP.635
Aber die ständische Ehre muß nicht notwendig an eine „Klassenlage“ anknüpfen, sie steht normalerweise vielmehr mit den Prätensionen des nackten Besitzes als solchem in schroffem Widerspruch.

濱島朗訳(みすず書房「権力と支配」P.226)
「だが身分的名誉は必然的にある「階級的地位」に結びつくとはかぎらない。かえってそれは、露骨な所有自体の要求ときびしく矛盾するのが普通である。」(漢字を新字体に変更)

ただここもそのものずばりではありません。要するにヴェーバーがここで述べているのは、気前の良さが身分的威信につながるという、言ってみればポトラッチ的なことです。ここは元々sahen wir ではなく、sehen wir でした。なので今の全集が勝手に間違った所を参照先として辻褄を合わせるために変更した可能性があります。ヴェーバーはこの論文の最初の方でクワキウトル族の「ハマチャの兄弟団」について言及しているので、同じクワキウトル族の話である「ポトラッチ」を知っていた可能性は十分あると思います。

折原浩訳の問題点(150)

ここは、ヴェーバーのエピソード捏造に加え、折原訳がその間違いを増幅しています。
訳注に書いた通り、こんなブッダのエピソードは(おそらく)存在せず、翻訳書籍に載った何かの話をヴェーバーが誤解したかあるいはねじ曲げて使ったものであり、それを本来は単に「驚いた」だけなのに「大いに驚嘆する」と折原訳が更に悪化させているもの。更には、伝承を聞いて驚いたのではなく、その伝承の中で驚いたと伝えられている、です。
また全集も何も注を付けず、せめて「出典不明」ぐらい書くべきと思います。本当にこの全集の編集陣はインド関係弱いです。
後、唯一普遍性の「普遍性」もそんなことは原文にはありません。

原文
Gegen die fremde Religiosität wird sie gerade bei Hervortreten der Konkurrenz der Gemeindereligiositäten und dem Anspruch auf Einzigkeit des eigenen Gottes sehr erschwert. Die Jainamönche wundern sich in der buddhistischen Überlieferung, daß der Buddha seinen Jüngern geboten hat, auch ihnen Speise zu geben.

折原訳
ところが、他の宗教性に対しては、まさしくゲマインデ宗教性の間に競合関係が生まれ、それぞれが自分たちの神こそ唯一普遍的な神であると主張するために、愛の普遍主義の実現はきわめて困難となる。ブッダが、ジャイナ教の修行僧にも食物を与えるように弟子たちに命じた、という仏教の伝承に、ジャイナ僧たちはおおいに驚嘆する。

丸山訳
異質な信仰に対しては、隣人愛の普遍的展開は、まさしく教団信仰間の競争の出現において、また自分達の神こそ唯一のものであるという主張によって非常な程度にまで妨げられる。ジャイナ教の僧侶は、ブッダがその弟子達に、ジャイナ教の僧侶にも食物を与えることを命じた、という伝承にて驚ろいているのである[1]

[1] これについては創文社訳も全集も何も注を付けていない。訳者が調べた限りではこのような逸話は確認出来なかった。おそらくはウパーリ経(優波離経)に出てくる、ジャイナ教徒だったウパーリ(十大弟子のウパーリとは別の人)が釈迦の話を聞いて仏教に帰依するようになった後、元々資産家であったウパーリがジャイナ僧に食物を与えていたのを続けてもよいとされた話などをヴェーバーが間違って解釈した可能性がある。そもそもジャイナ教の僧侶は、アヒンサーに従っている間違いのない食物かどうか確認出来ないものを簡単にもらって食べたりはしない。また驚き感激したのはウパーリ自身であり、他のジャイナ僧ではない。実際にウパーリ経では、ウパーリが改宗したと聞いたニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教の開祖のマハーヴィーラの仏教典での呼び方)は激怒してウパーリを非難し、そしてジャイナ僧はその後のウパーリからの食物の提供は拒絶している。
参考サイト:
https://sujaata.net/terakoya/post-1693/ 61話 資産家ウパーリ ・・・・ ジャイナ教を捨てて(アシン・クサラダンマ長老著 /奥田昭則訳 /チョウ・ピュー・サン 挿絵)
https://www.dhammatalks.org/suttas/MN/MN56.html (The Teaching to Upāli Upālivāda Sutta  (MN 56) )

折原浩訳の問題点(149)

まあここは細かい指摘になりますが、
1.「もっとも身近な人」→こう訳すと友人とかが含まれてしまいます。原文は端的に「隣の人」です。
2.[双方が互いに効力を減殺し合って]→またも余分な補足で勝手な解釈です。ここで言われているのは例えば複数の種族ゲマインシャフトが一つの政治ゲマインシャフトの中に取り込まれた場合に、それぞれの神々が解放されるといったことであり、混合が減殺を意味するとは限りません。
3.愛の普遍主義→抽象的すぎて何のことだか分かりませんし、何かのキャンペーンみたいです。「隣人愛の普遍的展開」ということです。また別にLiebesakosmismus(神との愛において世界を無と考えるもの)というのもありますので、余計にまずいです。

原文
Die brüderliche Nothilfe stammt, sahen wir, aus dem Nachbarverband. Der »Nächste« hilft dem Nachbar, denn auch er kann seiner einmal bedürfen. Erst eine starke Mischung der politischen und ethnischen Gemeinschaften, und die Loslösung der Götter als universeller Mächte vom politischen Verband führt zur Möglichkeit des Liebesuniversalismus.

折原訳
すでに見たとおり 、同胞としての救難援助は、隣人団体に由来する。「もっとも身近な人」が隣人を助けるのも、かれ自身が、いつなんどき隣人を必要とするか、分からないからである。政治ゲマインシャフトと種族ゲマインシャフトとが著しく混淆して [双方が互いに効力を減殺し合って] 初めて、神々が政治団体から解き放たれて普遍的な力となり、愛の普遍主義の可能性が生まれる。

丸山訳
兄弟的な緊急時の相互援助は、既に見てきたように[1]、隣人団体に由来する。「隣に住む人」がその隣人を助けるのであり、何故ならまたその助けた者がまたいつの日か助けられた者の援助を必要とすることもあるからである。様々な政治的・倫理的ゲマインシャフトが強く混ぜ合わされた場合に初めて、神々が普遍的な力を持つ者として政治的な諸団体から解き放たれ、そこに隣人愛の普遍的展開の可能性が生じる。

[1] 全集 I/22-1のP.122のHausgemeinschaftenの箇所。Der Nachbar ist der typishce Nothelfer, und “Nachbarschaft” daher Trägerin der “Bruderlichkeit”… 以下。(なお全集の訳注のP.198は元の全集のページであり誤り。)

またもMWG全集の誤記?

「宗教ゲマインシャフテン」以下の箇所(全集版のP.372)で”sahen wir”の参照箇所が、全集注では、全集I/I/22-1のP.198になっています。しかしその箇所は「市場ゲマインシャフト」の箇所であり間違いです。正しくはP.122のHausgemeinschaftの箇所です。この全集、こうやって間違いがかなりあるのですが、正誤表みたいなのをWebで公開していないのは本当にひどいと思います。高い値段を付けるのならちゃんと仕事しろ、と言いたいです。

(と思ったら、WuG1 とある場合は、最初の全集のページを示す、ということのようです。しかし本当にユーザーフレンドリーではないです。)

Die brüderliche Nothilfe stammt, sahen wir, aus dem Nachbarverband. Der »Nächste« hilft dem Nachbar, denn auch er kann seiner einmal bedürfen. Erst eine starke Mischung der politischen und ethnischen Gemeinschaften, und die Loslösung der Götter als universeller Mächte vom politischen Verband führt zur Möglichkeit des Liebesuniversalismus.

折原浩訳の問題点(148)

まず、「同胞愛 [兄弟愛]」が文脈を見ないひどい訳です。前の文で家族や氏族ではなく同じ教団の仲間を大切にしろ、ということが述べられているのに「同胞愛」では矛盾します。要するにパウロがその書簡で「兄弟達よ」と呼びかけているあれです。これは(146)の[ゲマインデ内の誓約同胞関係が、原生的家族の血縁的紐帯に優越して]という余計な補足がもたらした連鎖誤訳。(笑)
また weil sie die Emanzipation vom politischen Verbande am tiefsten vollziehtのsieが指しているのは教団の信仰であり、男性名詞であるGebot(命令)ではありません。
さらには、nicht ohne weiteres nach außenは「外部に向かっては躊躇なく拒否される」ではなく、「外部に対しては直ちに適用されるのではない」です。
また、am tiefsten を「もっとも深いところで」は直訳過ぎます。要するに程度が大きいということを言っているだけです。
また Christenheitもここでは単にキリスト教という意味ではなく、まさにゲマインデ=エクレシアとしてのその当時のキリスト教団全体ということです。
これだけの短い文で4箇所の誤訳と1箇所の不適切訳です。

原文
Daraus erwächst dann das Gebot der »Brüderlichkeit«, welches der Gemeindereligiosität — nicht etwa aller, aber doch gerade ihr — spezifisch ist, weil sie die Emanzipation vom politischen Verbande am tiefsten vollzieht. Auch in der frühen Christenheit, z.B. bei Klemens von Alexandrien, gilt die Brüderlichkeit in vollem Umfang nur innerhalb des Kreises der Glaubensgenossen, nicht ohne weiteres nach außen.

折原訳
ここからはやがて「同胞愛 [兄弟愛]」の命令が生まれる。この命令が、政治団体からの解放を、もっとも深いところで達成するのであるから、それは、全てのゲマインデ宗教性とまではいえなくとも、やはりゲマインデ宗教性にこそ特有の命令である。とはいえ、初期キリスト教においても、たとえばアレクサンドリアのクレメンス のもとで、同胞愛がまっとうされるのは、もっぱら信仰仲間の範囲内にかぎられ、外部に向かっては躊躇なく拒否される。

丸山訳
そこから出て来るのは「兄弟愛」の命令であり、それは教団の信仰に、--信仰全てがそうではなくとも、まさに教団信仰に--特有のものであり、何故ならばそういった教団の信仰が政治団体からの解放をもっとも強く達成するからである。初期キリスト教団においても、例えばアレクサンドリアのクレメンス[1] においては、兄弟愛は信仰を同じくする仲間の内の全体に限定されたもので、外部に対しては直ちに適用されるのではない。

[1] Titus Flavius Clemens、150?~ 215年。エジプトのアレクサンドリアで活躍した2世紀のキリスト教神学者。ギリシア哲学の考え方をキリスト教に持ち込んだロゴスとしてのキリストを初めて論じた。

折原浩訳の問題点(147)

ゲノッセンシャフトやケルパーシャフトを無神経に「団体」と訳すのと逆の例。
ここでのAlle gesellschaftliche Ordnungは一般論を述べているのであって、
「ゲゼルシャフトの秩序」などと訳すのは逆に誤解を招き、「社会的秩序」と普通に訳すべきと思います。「理解社会学のカテゴリー」にこだわりすぎている例です。

原文
Beides ist Vergeltung: der Verletzende »verdient« die Strafe, deren Vollziehung den Zorn besänftigt, ebenso wie der Nachbar die Nothilfe. Daß man den Feinden Böses mit Bösem vergelte, versteht sich für die chinesische, vedische und zarathustrische Ethik ebenso wie bis in die nachexilische Zeit für die der Juden. Alle gesellschaftliche Ordnung scheint ja auf gerechter Vergeltung zu beruhen, und daher lehnt die weltanpassende Ethik des Konfuzius die in China teils mystisch, teils sozialutilitarisch motivierte Idee der Feindesliebe direkt als gegen die Staatsräson gehend ab.

折原訳
双方とも、原則は応報にある。侵害者は、罰を受けるに「相応しい」のであり、その執行が、怒りを和らげる。同様に、難儀した隣人は、救難援助に「相応しい」。敵にたして、悪には悪をもって、とは、中国・ヴェーダ・およびゾロアスターの倫理にとっても、捕囚後の時期にいたるユダヤ教の倫理にとっても、自明のことである。じっさい、あらゆるゲゼルシャフトの秩序は、公正な応報に依拠しているように見受けられる。それゆえに、孔子の現世適応倫理は、中国において片や神秘的、片や社会功利的に動機づけられていた敵愛の理念 を、国家理性に反するものとして直截に拒否している。

丸山訳
その二つの動機は家族関係に基づくものではない日常的行為を決定付ける:その倫理の侵害者に対する適切な同害報復[目には目を歯には歯を]と、親しい隣人達が困っている場合の兄弟愛的な援助である。どちらの動機も報い[報復と報酬]である:侵害者は罰に「値し」、その罰の執行が[神の]怒りを鎮めるのであり、困っている隣人を援助するのも[それに値し、そのことが神を喜ばせるという意味で]まったく同じことである。敵に対して目には目を歯には歯をで報いるのは、捕囚後の時期に至るまでのユダヤ人にとってと全く同様に、ユダヤ人の中国・インドのヴェーダ・ザラスシュトラの倫理にとっては自明のことであった。全ての社会的秩序は確かに適切な報いに依存しているように見えるが、それによって孔子の現世適合的な倫理は、中国において一部は神秘的に、一部は社会実利的に動機付けられた敵を愛するという考え方[1] を、直接に国家にとっての道理に反するものとして拒絶した。

[1] 老子においての報怨以徳(怨みに報いるに徳をもってす)や、墨子の兼愛(普遍的な博愛)など。

 

折原浩訳の問題点(146)

ここは[ゲマインデ内の誓約同胞関係が、原生的家族の血縁的紐帯に優越して]という余分な補足のひどさ。ウェーバーの論文で誓約は誓約ゲノッセンシャフト(Eidgenossennschaft、例えば中世イタリアの都市国家)で出て来るものであり、同胞関係が誓約で作られるというのはここが宗教の教団の話であることを考えれば全く不適切です。また初期のキリスト教の教団は、ゲマインシャフトかあるいは信仰ゲノッセンシャフトまたは召命ゲノッセンシャフトであり、誓約同胞関係とはまったく関係ありません。また洗礼は仲間同士の誓約ではまるでありません。何故社会学者でしかもヴェーバーの専門家と称している人がこんなデタラメなことを書くのでしょうか。

原文
Im polaren Gegensatz dazu die Sprengung aller Familienbande durch die radikalere Form der Gemeindereligiosität: wer nicht seinen Vater hassen kann, kann nicht Jesu Jünger sein. Oder etwa die strengere Wahrheit der indischen und zarathustrischen Ethik gegenüber der des jüdisch-christlichen Dekalogs (Beschränkung auf die gerichtliche Zeugenaussage) und andererseits das völlige Zurücktreten der Wahrheitspflicht gegenüber den zeremoniellen Schicklichkeitsgeboten in der Standesethik der konfuzianischen chinesischen Bürokratie.

折原訳
それと正反対の対極をなすのは、ゲマインデ宗教性がいっそう徹底した形態をとり [ゲマインデ内の誓約同胞関係が、原生的家族の血縁的紐帯に優越して]、「自分の父親を憎めない者は、イエスの弟子とはなれない」といわれる場合であり、ここでは家族的紐帯が破砕されることにならざるをえなかった。あるいは、[一方では]インドとゾロアスター教徒の倫理における [一般的な]正直の義務は、(当の義務が法廷証言に限定される) ユダヤ教-キリスト教の十戒に比べて、いっそう厳格であったが、他方で、中国の官僚制における儒教の身分倫理では、儀礼上の礼節の命令が優先されて、正直の義務はすっかり後退した 。

丸山訳
儒教の孝順の強調とまさに正反対なのが、教団の信仰の徹底した様式によるあらゆる家族的紐帯の破壊である:その父を憎むことが出来ないものは、イエスの弟子にはなり得ない[1]、である。あるいは例えば、ユダヤ教・キリスト教の十戒(正直であることが裁判での証人の供述に限定される[=偽証してはならない])に比べてより厳格なインドとゾロアスター教の真実を語る義務と、他方では儒教に基づく中国の官僚制の身分倫理における儀式上の礼儀作法に対して、真実を語る義務が完全に後退した[2] ことが挙げられる。

[1] マタイ 10:35「わたしは敵対させるために来たからである。 人をその父に、 娘を母に、 嫁をしゅうとめに。」

[2] 参考:「論語」子路第十三18 「葉公孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者有り。其の父羊を攘みて、子之を証す。孔子曰わく、吾が党の直き者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。」ただ、ここをヴェーバーが根拠にしているのであれば、「真実を語る義務が完全に後退した」というのはかなりの誇張である。