Weibは成人女性のことなので、前の箇所も含めて折原訳の「婦女子」はおかしいです。大体「婦女子」は成人男性から見て弱い保護すべき存在という言い方であって、その意味でも適当ではないです。
それから例によって折原訳には訳注がありませんが、ここでヴェーバーが挙げている例は色々怪しいです。私の訳注を参照してください。
原文
Das individuelle Weib ist dann »heilig«, die Gattung Gefäß der Sünde. Immerhin: fast alle orgiastische und Mystagogenpropaganda einschließlich der des Dionysos hat wenigstens temporär und relativ eine »Emanzipation« der Frauen befördert, wo nicht andere Religionstendenzen und die Ablehnung hysterischer Frauenprophetie sie überdeckten, wie bei den Jüngern Buddhas, ebenso wie im Christentum schon bei Paulus, oder mönchische Weiberfurcht, wie am extremsten bei Sexualneurasthenikern z.B. Alfons von Liguori.
折原訳
そういう場合、個々の婦女子は「神聖」でも、類としての婦女子は「罪の器」である。とはいえ、ほとんど全ての狂騒的布教や、ディオニュソスの密儀も含む密儀師の布教は、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人の「解放」を促進している。この点、別の宗教的傾向性、とりわけ特有のヒステリー症候をともなう女性の預言にたいする拒否の姿勢が、前景に出て、背後の事実を覆い隠していることも、しばしば見受けられる。たとえば、ブッダの弟子や、キリスト教ではすでにパウロの場合、あるいは修道士的な女人恐怖症、とりわけ極端な場合には、アルフォンス・フォン・リグオーリに見られるような、性神経症の域にも達する女人恐怖症など、事例に事欠かない。
丸山訳
個々の女性がそういった場合で「聖なる」者であったとしても、人間の種別としての女性は罪の器である。ともかくも:ほとんど全てのオルギア的・秘教司祭としての宣教は、ディオニューソスのそれを含めて、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人達の「解放」を促進していたし、それは他の宗教の諸傾向と女性によるヒステリー的な予言への拒絶がそれを覆い隠していない場合そうであり、そういった覆い隠しの例としてはブッダの弟子達があり[1]、また同様にキリスト教でも既にパウロの時にそうであり[2]、あるいは修道士の女性恐怖症、もっとも極端な例として例えばアルフォンソ・デ・リゴリ[3]の性的な神経衰弱[4] がある。
[1] ここは前の箇所の「ブッダが宗教的資質に富んだ女性を足元にひれ伏させるのを好んだ」という箇所を合わせて、ブッダ自身が女性拒否ではなくその弟子達が女性を拒否したと読めるが、実際はブッダ自身が女性の出家に対して否定的であり、ブッダの養母であるマハーパジャーパティが多くの女性を連れて出家を願った時に、ブッダは三度これを拒絶している。
[2] ここについても、パウロは1コリント11:5で条件は付けているものの女性の預言自体は認めているので例としては不適切。おそらくは1コリント14:34–35の「女性は集会では黙っていろ」の部分を誇張しているように見える。
[3] Alfonso Maria de’ Liguori、1696~1787年、イタリアの司教でカトリックの聖人。
[4] アルフォンソ・デ・リゴリは、極端な女性嫌いで、顔を合わせることも(実の母親を含めて)、握手などの身体的接触も避けた。しかしこれは性的神経衰弱ではなく、現代では「強迫観念(良心の呵責 / Scrupulosity)」、一種の強迫性障害と解釈されている。