折原浩訳の問題点(95)

ここのwacheの訳の問題。折原訳は「醒めた」としていますが、問題はその前に出て来たeine nüchterne Kindererzeugungも「醒めた子どもづくり」としていること。後者は訳すなら「情欲に溺れない」「節度ある」くらいだと思います。私は「醒めた」を見ると、漁父の辞の「衆人皆酔、我独メタリ」を思いだし、「酒に酔っていない」というイメージが浮かびます。ここで言っているwacheは新約聖書に出て来る「(神の国はいつ来るか分からないから)目覚めていなさい」とか、J. S. バッハのカンタータの「目覚めよと呼ぶ声あり Wachet auf, ruft uns die Stimme」とかそちらのイメージだと思います。

原文
Der »innerweltliche Asket« ist ein Rationalist sowohl in dem Sinn rationaler Systematisierung seiner eigenen persönlichen Lebensführung, wie in dem Sinn der Ablehnung alles ethisch Irrationalen, sei es Künstlerischen, sei es persönlich Gefühlsmäßigen innerhalb der Welt und ihrer Ordnung. Stets aber bleibt das spezifische Ziel vor allem: »wache« methodische Beherrschung der eigenen Lebensführung.

折原訳
「現世内的禁欲者」は、かれ自身の即人的な生き方を合理的に体系化するという意味でも、倫理的に非合理なものを、芸術家的なものであれ、現世とその秩序の内部における即人的感情であれ、ことごとく拒否するという意味でも、合理主義者である。とりわけ、自分自身の生き方にたいする「醒めた」方法的制御が、現世内的禁欲者に特有の恒常的な目標である。

丸山訳
「現世内禁欲者」はその本人の個人的生活実践の合理的な体系化という意味でも、また全ての倫理的に非合理的なもの、それが芸術家的なものであれ、現世とその秩序の内部での個人としての感情的なものであれ、それらの拒絶という意味でも、合理主義者である。しかしその場合でも常に第一に優先されるべき特別の目的が残っている:自分自身の生活実践に対して「目覚めている」秩序ある自制である。

折原浩訳の問題点(94)

ここでは、ヴェーバーはVerpönt ist (忌むべきは、斥けられるべきは)で始まる文を5回繰り返しています。これは明らかに山上の垂訓の Selig sind…(幸いなるかな、~の者は)などの文体模写(パスティーシュ)です。なので余計な接続詞や、第一に、第二に、などを付けずに、「忌むべきは、…」で統一して訳すべきと思います。それに個人への倫理的な戒告なので「厳禁される」も合っていない訳だと思います。

それからここでのGewaltは明らかに暴力であって、「個々人の権力行使」って意味不明です。ここでは明らかに私的復讐禁止の話ですから。それから久し振りに「即人的」が復活しました。この前の文章でsachlichと「即物的」と訳しているので、これでこの語の折原訳における位置付けが分かりました。

原文
Verpönt ist Gewalt des Einzelnen gegen Menschen, aus Leidenschaft oder Rachsucht, überhaupt aus persönlichen Motiven — gottgewollt aber die rationale Niederhaltung und Züchtigung der Sünde und Widerspenstigkeit im zweckvoll geordneten Staate.

折原訳
第四に、他人にたいする個々人の権力行使は、激情からであれ、復讐欲からであれ、およそ即人的な動機に発するかぎり、厳禁される。とはいえ、合目的的に秩序づけられた国家において、罪と反抗を合理的に禁圧し懲戒することは、やはり神意に適う処置である。

丸山訳
忌むべきは、個々の者の他人に対しての暴力であり、激情からであれ、復讐が目的であれ、また一般的に個人的な動機によるものであれ--しかし合目的な制度を備えた国家における、犯罪と反抗の合理的な抑圧は神意に適うものである。

折原浩訳の問題点(93)

今日は小ネタだけかと思いきや、ここは明確な誤訳。
die sie umbrandetは動詞が単数形なので、主語はDurchschnittsmenschen(平均的人間)ではなく、die Welt。
umbranden がちょっと分かりにくいのですが、brandenが「波が押し寄せ砕け散る」という意味なので、umが付くと「何かを囲んで波が打ち寄せる」という意味になります。要するに禁欲者達の集団が、大洋に浮かぶ孤島のような存在で、その周りに「現世」が押し寄せるイメージです。その解釈は「現世の内部で、あるいは本来的には外部で」という表現とぴったり整合します。
折原訳の「周囲で平均的人間と衝突し」は主語と目的語が逆な上に、主語が単数であることを見落とした誤訳です。まあ創文社訳も同じく誤訳ですが。
ちょっと両方を弁護すると、このumbrandenは手元の辞書には[雅]とあるので、一種の文学表現です。こんな分かりにくい表現使わないで、普通に書けばいいのにと思います。まあヴェーバーの文章を単なる社会学だけと思ったら絶対にダメということです。法学、法制史、歴史一般、経済学(財政)、に文学表現まで理解する必要があります。

原文
Stets aber wird dann, infolge der Verschiedenheit der religiösen Qualifikation, ein solcher Zusammenschluß des Asketentums eine aristokratische Sonderorganisation innerhalb oder eigentlich außerhalb der Welt der Durchschnittsmenschen, die sie umbrandet — darin von »Klassen« prinzipiell nicht unterschieden.

折原訳
ところが、そうした禁欲者の結集態は、やがてはつねに、宗教的資質の差異のため、平均的な人間の世界の内部、というよりも、ほんとうのところはその外部に、貴族主義的な特別組織をつくり、周囲で平均的人間と衝突し、その点で原理上「階級」と区別されないものとなる。

丸山訳
それぞれの宗教的な資質の違いの結果として、平均的な人間の集う現世の内部で、あるいはそもそもは現世の外部で、そういった現世は禁欲者達の集団を囲んで波濤のように押し寄せているのであるが、貴族政的な特別な組織となり--そこにおいてはそれは「階級」と原理的に区別がつかなくなる。

折原浩訳の問題点(92)

今日のは小ネタです。
「クロムウェル麾下」は議会について言うのはおかしいでしょう。(「麾」=軍旗)鉄騎兵なら「麾下」でいいでしょうが、やはり日本語のセンスに問題があります。
それからこの辺りヴェーバーの記述がどんどんラフになっているので、訳注を付けないと読む人はなかなか理解出来ません。「クェーカー教徒の国家」なんて存在しません。

原文
Dann wird der Asket ein rationaler »naturrechtlicher« Reformer oder Revolutionär, wie ihn das »Parlament der Heiligen« unter Cromwell, der Quäkerstaat und in anderer Art der radikale pietistische Konventikel-Kommunismus gekannt hat.

折原訳
そのとき禁欲者は、クロムウェル麾下の「聖者の議会」や、クェーカー教徒の国家や、その他、性質は異なるが、敬虔派の急進的な信徒集会-共産主義に見られるような、合理的な「自然法的」改革者か革命家となる。

丸山訳
その場合には禁欲者は合理的な「自然法に沿った」改革者か革命家になるのであり、その例としてはクロムウェルの元での「聖徒議会[1]」や、クェーカー教徒の植民地[2] と他のやり方での過激で敬虔主義に基づく信者の集会-共産主義[3] などが知られている。

[1] 1653年にクロムウェルが招集したベアボーンズ議会のことで、全議員がクロムウェルの指名に基づき、140名全員がピューリタンであった。急進的な改革を試みたが成功せず5ヵ月で解散した。

[2] 原文はder Quäkerstaatだがクェーカー教徒が国家を作ったことはなく、おそらくはクェーカー教徒がペンシルヴェニア州に作ろうとした理想的な植民地のこと。ウィリアム・ペンがイングランド国王にお金を払って領主となることを認めてもらい、クェーカー教徒の避難所となる植民地を建設した。住民への信仰の自由と経済活動の自由を保証し、ネイティブ・アメリカンの自由も認めた。

[3] 敬虔主義での信者の集団(エクレシア)が財産共有などの共産主義的な行動を生み出す母体となった場合がある、ぐらいの意味と思われる。

折原浩訳の問題点(91)

91回目。
ともかくこの訳者は「盛る」。そして「改変する」。
(1) 「現世秩序に逆らって、活動し、」は変。世俗内禁欲はともかう現世とは折り合っていくので、逆らったりする訳ではない。
(2) 「廃絶」も変。別に核兵器みたいに完全に無くしましょうと言っているのではなく、距離を置くということを言っているだけ。
(3) 「文字通り完全な隔離」の「完全な」は原文になく、またいくらなんでも完全に隔離したら生きていけません。

原文
Diese Konzentration kann ein förmliches Ausscheiden aus der »Welt«, aus den sozialen und seelischen Banden der Familie, des Besitzes, der politischen, ökonomischen, künstlerischen, erotischen, überhaupt aller kreatürlichen Interessen notwendig, jede Betätigung in ihnen als ein von Gott entfremdendes Akzeptieren der Welt erscheinen lassen: weltablehnende Askese. Oder sie kann umgekehrt die Betätigung der eigenen spezifisch heiligen Gesinnung, der Qualität als erwählten Werkzeugs Gottes gerade innerhalb und gegenüber den Ordnungen der Welt verlangen: innerweltliche Askese.

折原訳
こうした救いの業への集中が、「現世」からの文字通り完全な隔離――すなわち、家族や財産や、政治的・経済的・芸術的・性愛的・その他、およそあらゆる被造物的利害関心に発する社会的また精神的紐帯からの隔離――を必要とし、そうした利害関心によるいかなる活動も、神からは疎隔される現世受容とみなされ、廃絶されるにいたる、という場合もある。これが現世拒否的禁欲である。あるいは逆に、自分に特有の神聖な心意、すなわち、神によって選ばれた道具としての自分の資質を、他ならぬ現世秩序の内部で、また、現世秩序に逆らって、活動し、そうすることによって確証することが、要求される場合もある。これが現世内的禁欲である。

丸山訳
こうした専心は、文字通り「現世」からの断絶で有り得、それは家族、財産、政治的・経済的・芸術的・性愛的なものとの社会的・精神的なつながりからの断絶であり、つまり一般的に言えば被造物の全ての関心からの断絶が不可欠なのであり、そういった関心からの全ての活動を、神から遠ざける現世の受容と見させるのであり:これが現世拒絶の禁欲である。あるいは専心は逆に自分本来の特別な神聖な心情、選ばれた神の道具としての資質からの行いの確証を、現世秩序の真っ只中で、そしてそれに向き合って望むのである:つまり現世内禁欲である。

「宗教ゲマインシャフテン」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R7

「宗教ゲマインシャフテン」大幅改訳版のR7をアップします。これで全体の2/3ぐらいです。前回アップから1ヵ月半経っておらず、かなりペースは上がって来ています。

どうもこの辺りのヴェーバーの議論は、かなり眉唾という感じがします。結局はプロ倫の延長線上で全ての宗教を解釈しようとする傾向が強いです。

20260531_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R7.pdf

折原浩訳の問題点(90)

ここは前回の箇所の次の文。一箇所間違えると連動して関連箇所も間違えるという例です。一行目の aktiv を折原訳はHandelnsにかかる形容詞のように「積極的な」と訳していますが、このすぐ前に救済財を「貸方」にある財産としていますので、ここのaktivは(活用語尾もなく)副詞であり、「借方での」という意味としか解釈出来ません。「借方」は外部に向かって出ていくものですから、この場合、「行為」はまさしくそういうものです。(貸借対照表の貸方、借方は外部からその企業を見た場合の貸し借りです。なので貸方はその企業にとってはお金が入って来ること、借方は出ていくことになります。)この「借方」側の行為が、「貸方」側の救済財とバランスしている、と自然に読めます。そもそも救済「財」という言い方からして、ヴェーバーはずっと宗教に対して経理・複式簿記的な説明をしているのを折原センセも創文社訳の訳者も読めていません。(ということは日本のヴェーバー関係者の大半も正しく読んでいないということです。)

原文
Entweder ist dies eine spezifische Gabe aktiv ethischen Handelns mit dem Bewußtsein, daß Gott dies Handeln lenke: daß man Gottes Werkzeug sei. Wir wollen für unsere Zwecke diese Art der durch religiöse Heilsmethodik bedingten Stellungnahme eine religiös-»asketische« nennen — ohne irgendwie zu bestreiten, daß man den Ausdruck sehr wohl auch in anderem, weiteren Sinn brauchen kann und braucht: der Gegensatz dazu wird später deutlich werden.

 

折原訳
そうした救済財は、神が人間の行為を導き、人間は神の道具である、という意識をもっておこなわれる、積極的な倫理的行為という独特の賜物である [か、それとも、後段で採り上げる] 独特の状態性であるか、どちらかである。宗教的救済技法によって制約された、この種の立場決定を、ここでは、われわれの目的に照らして、宗教上「禁欲的」な立場と呼ぶことにしたい。もとよりこの禁欲という表記は、もっと広い別の意味でも用いられようし、現に用いられているが、ここではそうした議論には立ち入らない。用語法のそうした対照的差異は、やがて後段で 、明らかにされるであろう。

丸山訳
そうした救済財はある場合は[1]、借方としての[2] 倫理的な行為の特別な賜物であり、次のような意識を伴っている。つまり、その行為を神が導いた、ないしは人が神の道具である、ということである。我々は我々の目的のために、この種の宗教的な救済の方法論に制約された態度表明を、宗教的に「禁欲的」なものと呼ぶことにしたい--ここでは次のことに対して異論を唱えることはしない。それはこの表現が非常にしばしばまた別の、より広い意味で使われうるし、実際に使われているということである:そういった一般用法との対比は後に明らかにされる。

[1] このEntwederに対応する別の場合は、ずっと先に出て来る。

[2] aktivは「借方の」という意味で、前の文で救済財を「貸方」としたのに対応している。

折原浩訳の問題点(89)

また出ました、Haben=貸方、が分かっていない不適切訳。
しかし、宗教社会学というより、宗教財政学、複式簿記で見た信仰の内訳。(笑)
まあ普通の会社に勤めた経験がない人は複式簿記って言葉で知っているだけで、実務的な借方・貸方(ドイツ語で Soll und Haben)の概念は分かってないでしょうね。(創文社訳もまったくきちんと訳せていません。)

原文
Im übrigen aber ist der positive Charakter der Heilsbewährung und also auch des praktischen Verhaltens, wie schon mehrfach angedeutet, grundsätzlich verschieden vor allem je nach dem Charakter jenes Heilsguts, dessen Haben die Seligkeit verbürgt.

折原訳
ちなみに、救いの確証の積極的性格と、そこに生ずる実践的振舞いの積極的性格も、すでにたびたび示唆してきたとおり 、とりわけ、いかなる性格の救済財所有が至福を保証するのか、その性格の如何に応じて、根本的に異なっている。

丸山訳
しかしその他、救いの確信と、それに基づくまた実際的な行為の積極的な性格は、既に何度も概説した通り、取り分けその貸方[への計上」が至福状態を保証している、救済財の性格によって根本的には様々なのである。

ヴェーバーのVirtuose概念の危うさ

今訳している所に、Virtuoseという概念が出てきます。音楽で言うヴィルトゥオーソ(名人)のことです。ちょっと引用します:
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宗教的な練達者[Virtuose]が、ウマル1世[1] の時代のイスラム教徒のように世界を征服しようとする宗教戦士団の仲間の一人であるか、あるいは大半のキリスト教徒のように、そしてそれより徹底はしていないがジャイナ教徒のような、現世を拒絶するような禁欲のそれであるか、あるいは仏教僧のように現世を拒絶する瞑想を行うそれであるか、古代でのキリスト教徒のように抵抗せずに殉教した者のそれであるか、あるいは禁欲的プロテスタントのように現世の中で自分の職業の有用性を示したそれであるか、ファリサイ派ユダヤ人のような形式的な律法遵守者のそれであるか、アシジの聖フランシスコのような現世否定の慈悲のそれであるか[2]、いずれにせよどの場合でも、練達者[Virtuose]は--既に確認した通り--真の救済の確証をただ、その者が自分自身で自分の練達者[Virtuose]としての心情を、試練の下で常に新しく確認する場合にのみ手に入れるのである。

[1] 在位634年~644年の第2代正統カリフで、聖戦を展開しイスラム教の勢力圏を拡大し、シリア・エジプト・イランを征服した。

[2] ヴェーバーはここで多数列挙してそれをVirtuoseの説明にしているが、まったく性格の違うものをただ列挙しただけで、定義としては全く破綻している。また特に仏教僧で悟った者は「救いの確証を不断に確かめる」といったことは絶対にしない。要するにここでヴェーバーがしていることは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でカルヴィニズムの信徒に使った説明を全宗教に無理矢理当てはめようとしているだけである。
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はっきり言ってここの説明はひどいです。ありとあらゆる宗教の登場人物を単にVirtuoseでくくって入れてしまっています。訳注に書いたように、仏教の悟りを開いた僧(阿羅漢)には全く当てはまりませんし、また殉教のVirtuoseって何?っていう感じです。また同じく訳注にあるようにここは単にプロ倫の説明をそのまま全宗教に使っただけです。「雑」な分析としか言いようがありません。