折原浩訳の問題点(81)

もうこの辺り誤訳のオンパレードで今日3つ目。

(1)また凝りもせず「開悟」を使う→大体悟りを開いたら一切の感情や執着は無くなりますのでオイフォリーなんかになりません。(今丁度古仏教のスッタニパータを読んでいます。)
(2)多幸感というより多幸状態と訳した方が持続性が感じられる。
(3)単に「より」という比較級をまた「どちらかといえば」と訳す。
(4)一つの、とか一柱の、とかは不要
(5)穏やかな形態二つが全体の主語で最後の2つに対応するのであり「関係が」ではない。前の箇所もそうだけどこの人は勝手に原文の論理構造を改変します、というか文の構文を正確に把握することが本当に下手。
(6)traumhaft (mystischen)、aktiv (ethischen)はどちらも「副詞(形容詞)」の構造なので、両方を「~的(~的)」と訳すのは間違い。
(7)ここにBekehrungが出てきますが、むしろこちらがAndachtよりも「帰依」に近いです。kehrenは「帰る」ですから意味的にも近いです。もちろん普通は「サウロの回心」があるので「回心」ですが。

原文
Die milderen Formen einer, je nachdem, mehr traumhaft (mystischen) als »Erleuchtung« oder mehr aktiv (ethischen) als Bekehrung empfundenen Euphorie, scheinen dagegen den dauernden Besitz des charismatischen Zustands sicherer zu verbürgen, ergeben eine sinnhafte Beziehung zur »Welt« und entsprechen qualitativ den Wertungen einer »ewigen« Ordnung oder eines ethischen Gottes, wie ihn die Prophetie verkündet.

折原訳
急性のエクスタシーに対して、いっそう穏やかな形態は多幸感(オイフォリー)とも呼べようが、その形態は、事情次第で、どちらかといえば夢想的 (神秘的) に「開悟(エアロイヒトゥンク)」として、あるいは、どうちらかといえば能動的 (倫理的) に「回心(ベケールンク)」として、体験される。それらは、カリスマ的状態の持続的な所有を [エクスタシーよりも] いっそう確実に保証するように思われ、「世界」にたいする意味のある関係を発生させる。この関係は、質的には、ひとつの「永遠の」秩序、あるいは預言者が告知する一柱の倫理的な神、という価値評価に、それぞれ対応している。

丸山訳
さらにそれは預言者的信仰が展開するような「意味のある」内容物に欠けている。より穏やかな諸形態は、場合によって、より夢のように(神秘的な)「光を受ける啓示[Erleuchtung]」として、あるいはより能動的に(倫理的な)「回心[Bekehrung]」として感じ取られる多幸状態として、急性のエクスタシーとは反対に、カリスマとしての状態の持続的な保持を保証しているように見えるのであり、その結果として「現世」に対する意味のある関係を生じさせ、質的にはある「永遠の」秩序の、または預言者がそれを告知するような倫理的な神の、価値づけに対応している。

 

折原浩訳の問題点(80)

あっという間に80回目。完全にトマス・アクィナス並みに「折原浩誤訳大全」になりつつあります。(笑)
今回のは最初の箇所から引っ掛かります。「ヒステリーや癲癇の素質をもった人」って、そういうメンタルな病気を持っていることを「素質」とは言いません。それにヒステリー的、てんかん的症状の、という意味で、ずばりヒステリー・てんかんとはヴェーバーは言っていません。それから「伝染して」もきわめて無神経ですね。もちろんメンタルな症状は伝染性疾患ではありませんので、単に他人の狂躁状態を引き起こすと言っているだけです。それからこの方は positive をいつも「積極的」と訳していますが、positiv / negativ は多くの場合はプラスの/マイナスの、です。
「事柄の本質から」も「事物の本性」をちゃんと理解しているんでしょうか。

それから折原訳の「法悦」は私は使うのはやめて「エクスタシー」で統一します。「法悦」は宗教的なイメージが強すぎ、ヴェーバーの論述ではそれに限定されていません。

原文
Oder man provozierte bei dazu Qualifizierten hysterische oder epileptoide Anfälle, welche die orgiastischen Zustände bei den andern hervorriefen. Diese akuten Ekstasen sind aber der Natur der Sache und auch der Absicht nach transitorisch. Sie hinterlassen für den Alltagshabitus wenig positive Spuren. Und sie entbehren des »sinnhaften« Gehalts, den die prophetische Religiosität entfaltet.

折原訳
あるいは、ヒステリーや癲癇の素質をもった人に、発作を起こさせ、これが他人にも伝染して狂騒状態をひき起こす、というやり方も用いられた。しかし、こうした急性の法悦は、事柄の本質としても、意図からしても、一時的・一過的な現象である。それは、日常的習性には、ほとんど積極的な痕跡を残さない。それはまた、預言者的宗教性が展開するような「意味のある」内容を欠いている。

丸山訳
または、ヒステリー的・てんかん的症状に陥りやすい性質をもった人の発作を誘発し、それが他の者の狂躁状態を呼び起こすのである。こういった急性のエクスタシーはしかし事物の本性[1]から考えても、そしてまた意図から考えても一過性のものである。それは日常的な魂の性向[Habitus]にはほとんどプラスの痕跡を残すことはない。さらにそれは預言者的信仰が展開するような「意味のある」内容物に欠けている。

[1] 元々ルクレティウスのDe Rerum Naturaに典型的なラテン語の表現がドイツ語になったものだが、ヴェーバーがこの言葉を使う時にはほぼ「一般原則から考えて」ぐらいの意味である。時には法律が存在しない時に「公序良俗から判断して」という意味で使われることもある。

折原浩訳の問題点(79)

Orgieを「狂躁道」と訳すの、ググったらヴェーバー関係しか出て来ないので、おそらく日本のヴェーバー学者が作った言葉だと思います。しかし「計画的な救済技法ではない」と言っていて、内容も要するに乱痴気騒ぎのことであり、「道」というのとまったくかけ離れていると思います。しかもわざわざヴェーバーが”der Weg”ではない、と言っている所で…(笑)

また、musikalisch-orchestrischen は音楽と踊りで、ということで、オーケストラではありません。またerzieltenは「服用」ではなく、「引き起こされた」ということです。急性中毒も変。急速に引き起こされた酩酊状態ということ。

しかしこのヴェーバーの定義だと、徳島の阿波踊りも十分 Orgie ですね。(笑)元は死者のための踊り(モラエスの表現)ですが。

原文
Für die Erzeugung der lediglich akuten Ekstase war natürlich nicht die planvolle Heilsmethodik der Weg, sondern ihr dienten vorzüglich die Mittel zur Durchbrechung aller organischen Gehemmtheiten: die Erzeugung akuten toxischen (alkoholischen oder durch Tabak oder andere Gifte erzielten) oder musikalisch-orchestrischen oder erotischen Rausches (oder aller drei Arten zusammen): die Orgie.

折原訳
たんに急性の法悦を生み出す方途としては、当然、計画的な救済技法ではなく、主要にはむしろ、あらゆる身体諸器官の抑圧を取り払う手段が用いられた。すなわち、(アルコール飲料・煙草・その他の有毒物の服用による) 急性中毒、歌唱-器楽演奏、あるいは性的興奮 (のいずれか、あるいはこれら三者の併用) によって陶酔状態を生み出す狂騒道(オルギア)である。

丸山訳
単なる急性のエクスタシー状態を作り出すためには、もちろん十分に計画された救済の方法論がその手段なのではなく、その生成に資するのは主に全ての肉体的な障壁を突破する手段であり:中毒性のものにより(アルコール飲料により、あるいは煙草、またはその他の毒物によって引き起こされた)、あるいは音楽・踊りにより、または性的なものによって、急性の酩酊状態を生み出すことであり(あるいはこの3つを全て一緒に):つまりはいわゆる狂躁儀礼[Orgie]である。

折原浩訳の問題点(78)

今日も2つで78回目。ともかくも折原センセはHabitusの意味が分かっていなくて、単に英語のhabitに似たようなものだと思っているのでしょう。カトリックのHabitusをきちんと定義付けたのはトマス・アクィナスであり、「(神の恩寵により)後天的に獲得された個人の性質、性向」という意味です。英語で言えば disposition です。「宗教に特有な習性」ってまるで意味不明でヴェーバーがここで言っていることをまったく理解していない訳です。

(1)何故か前に間違えた急性-慢性と  je nachdem はここでは正しく解釈しています。(おそらく創文社訳を見たんでしょうが。)
(2)「脱我」って何ですか?それを言うならせいぜい「脱自」でしょうし、「忘我」ぐらいが一番分かりやすいと思います。
(3)「瞑想への沈潜」なんて原文にありません。そもそも「瞑想的-高揚」という対照と、「生が高められる-生から遠ざけられる」という対照の2つを、勝手に順番変えて組み合わせていて、原文の意味構造を改変しています。また sei es~oder auchは「それぞれそういう場合もある」ぐらいで(接続法第1式の「認容・譲歩」)、決してこの二つに限定される二者択一ではなく「どちらかである」もおかしい。そもそも「どちらかといえば~、どちらかといえば~、のどちらかである。」って日本語として「曖昧-曖昧-限定の断定」で破綻していると思います。
(4)「ここで問題となるのは」も、客観的にそこが重要だということではなく、この論考で取り上げるのはこの2つだ、ということなので、1人称をきちんと使って訳すべきです。(英語と違ってドイツ語論文は1人称はなるべく使ってはいけない、なんていうルールはありません。)

原文
Die Ekstase als Mittel der »Erlösung« oder »Selbstvergottung«, als welches sie uns hier allein angeht, kann mehr den Charakter einer akuten Entrücktheit und Besessenheit oder mehr den chronischen eines, je nachdem, mehr kontemplativ oder mehr aktiv gesteigerten spezifisch religiösen Habitus, sei es im Sinne einer größeren Lebensintensität oder auch Lebensfremdheit haben.

折原訳
ここで問題となるのは、もっぱら「救済」ないし「自己神化」の手段としての法悦である。それは、どちらかといえば急性の、脱我や憑依という性格を帯びることもあれば、どちらかといえば慢性の、宗教に特有の習性という性格をそなえていることもある。後者はさらに、事情次第で、生の密度をたかめ、どちらかといえば能動性の昂揚をともなうか、あるいは生からの疎隔を強めて、どちらかといえば瞑想への沈潜をもたらすか、どちらかである。

丸山訳
「救済」または「自己神化」の手段としての法悦は、そういうものとしてのみ、我々はここでは考察するが、ある急性の忘我となって何かに憑かれた状態か、あるいはむしろ慢性の、場合に応じて、より瞑想的かあるいはより能動的に高揚させられた、特別に宗教的な恩寵による魂の性向[Habitus][1]という性格をより多く持つことが出来る。そういう高められた魂の性向の意味は、生の強度がより高められたという場合も、あるいはまたより生から遠ざけられたという場合であることもある。

[1] 参考:基督教研究 第28巻、第3、4号
「倫理性に於けるルッターと中世 --基督教倫理思想史の一齣--」今井晋
スコラ神学は、アウグスティヌスの見解を発展させて、サクラメントの儀式によって、奇蹟的に、人間に「注がれる」(ロマ書5.8)神の超自然的な恩寵の状態をハビトゥス(habitus)と名付け、サクラメントに依存するかかる超自然的な神の愛の協力が、始めて善き行為を真に功績ある行為、即ち永生に値する行為として価値づけるとしたのである。

折原浩訳の問題点(77)

また問題の折原訳。77回目で、目出度くない誤訳の「喜寿」達成。(笑)

(1)またも元服式とか佩用式とか帯刀礼などの変な和風語彙を使う。しかも別に王族とか封建家臣に限定されている訳ではない。ニューギニア高地人のペニスケース(コテカ)とかもその例。(笑)
(2)「といった制度の残滓」ではなく、そういう制度自体が古の再生儀式の残滓。
(3)「それぞれ「英雄」ないし「魔術師」への「再生」の意味を帯びている。」ではなく、ある場合は英雄として、また別の場合は魔術師として、ぐらい。
je nachdem の意味がまったく訳されていない。

原文
In all jenen Resten von Jünglingsweihe, von Bekleidung mit den Mannesinsignien (China, Indien — die der höheren Kasten heißen bekanntlich: die zweimal Geborenen), Rezeptionen in die religiöse Bruderschaft der Phratrie, Wehrhaftmachung haben ursprünglich den Sinn der »Wiedergeburt«, je nachdem als »Held« oder als »Magier«.

折原訳
元服式 [成人聖祓式]、[王や封建家臣の身分・権力・地位の取得を象徴する冠・笏・杖・刀剣・徽章などの]佩用式 (中国、インド――ここでは周知のとおり、上層カーストへの所属者が「再生族」と呼ばれる)、フラトリー の宗教的兄弟団への加入-受け入れ式、帯刀[その他の武装免許]礼、といった制度の残滓はことごとく、始原に遡ればそれぞれ「英雄」ないし「魔術師」への「再生」の意味を帯びている。

丸山訳
他の全ての残りの目的は、つまり[男性の若者への通過儀礼としての]成年式、男性らしさを象徴するような服飾品の着用(中国、インド--カーストの上位に所属するものが知られている通り:再生族と呼ばれる)、宗教的なフラトリー[1] の兄弟団への受け入れ、武装許可といったものは、根源的には「再生」という意味を持っていたのであり、状況によって英雄としてであったり、魔術師としてであった。

[1] 古代ギリシアのφρατρίαのことで、いわゆるメンナーハウスに起源を持つ、成年男性の行政的機能と祭式的機能を併せ持つ社会集団のこと。

「心意倫理」という訳の問題点

折原センセはGesinnungsethikの訳として「心情倫理」は誤訳であり「心意倫理」とすべきだと主張します。
しかし、この主張には色々問題があります。

(1)「心情」は「思い」という意味で、意思も感情も含む語である。
(2)「心意」という日本語は存在しない。
(3)「意」も「思い」という意味であり、必ずしも意思という意味に限定されない。
(4)(3)のことから「心意」は「思い思い」と言っているトートロジーである。
(5)「心意」と聞くと私は「意馬心猿」(=煩悩が制御出来ない状態)を想像する。
(6)Gesinnung自体が「個人の基本的な考え方、心根、心情、志操、主義」であり、必ずしも「意思」的な意味に限定されるものではない。
(7)小学館の独和大辞典のGesinnungの説明の中に「心情」が入っている。

ということから、「心情倫理」の方が「心意倫理」のようなおかしな訳よりもずっと原語のニュアンスを伝えていると思います。
ともかくこの人は「人の目のおがくずを指摘する癖に自分の目の中の丸太に気が付かない」人であり、このレベルのものを「誤訳」とか言う前に、自分の翻訳の質を上げてほしいです。

折原浩訳の問題点(76)

ここも「人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要」などという原文にない余計な付け加えをしているだけでなく、この付け加え自体が全体の論旨に反しています。この後に、要するに倫理的な行為・努力は「救済の方法論」の手段に過ぎないと言っているのに、それに近い「人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要」は矛盾しています。これに続く箇所で「自分の人格への宗教的な働きかけ」と言っているのはカリスマ的覚醒における神秘的体験のことであり人格の研磨(これもそれを言うなら「人格の陶冶」でしょう)とかではありません。

原文
Auf die religiöse Arbeit an der eigenen Person kommt vielmehr alles an. Die religiös qualifizierten, sozial gewendeten guten Werke sind dann lediglich Mittel

折原訳
むしろ、宗教上の目標に向けて自分の人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要となる。そうなると、宗教的な性質をそなえて社会に向けられるもろもろの善き業は、自己完成つまり「救済技法」上の手段にすぎなくなる

丸山訳
よりむしろ全てにおいて重要となるのは、自分本来の人格[1] に対しての宗教的な働きかけである。宗教的な価値を認められた、社会に向けられた善行はその場合単に次のことの手段に過ぎなくなる

[1] ここは次の文でデーモンに憑依されたり、霊界に連れ去られたりというのが出て来ることから、ペルソナ的な意味での「人格」であり、道徳的な意味のそれではない。

折原浩訳の問題点(75)

またひどいのが出てきました。原文の構造を勝手に変え、多くの場所で意味不明の訳をしています。

(1)Oder以下は別の文なのに、それをくっつけてしまっている。
(2)「善の「修練」による習得が原理上可能なものか、どちらかである」は可能かどうかではなく、可能である場合もあるという意味であり誤解を招く。
(3) Habitusの「(神から与えられた)霊的な力」の意味がまったく取れていない。
(4) positiv はここでは「積極的」ではなく「プラスの」、である。
(5)「外化され表現される」は日本語として意味不明、sich äußern は単に~において現れる、ということ。
(6)Gerichtetheit は「~に向けられていること」であり「心意が」は余計で不要。折原訳だと何か行為者が自分でそうするみたいになるが、ここは神の恩寵でそういう風に方向付けられていること、という意味。
(7)「ある方法に準拠して統一的に形成される生き方」も「ある統一され、方法的に整えられた生活実践」 で折原訳ではeinerが「方法」という書かれていない単語にかかるように読めてしまいます。

(私は心意倫理という訳は、理解は出来ますが、従来の心情倫理で十分意味としてはカバーされていると考えますので採用しません。)

原文
Aber sie ist es durchaus nicht immer, vielmehr ist sie meist die spezifische Form des ethischen Rigorismus. Der religiös positiv qualifizierte Gesamthabitus kann dabei entweder reines göttliches Gnadengeschenk sein, dessen Existenz sich eben in jener generellen Gerichtetheit auf das religiös Geforderte: einer einheitlich methodisch orientierten Lebensführung äußern. Oder sie kann umgekehrt durch »Einübung« des Guten im Prinzip erwerbbar sein.

折原訳
ただ、つねに必ずしもそうとはかぎらず、心意倫理はたいてい、むしろ倫理上の厳格主義に特有の形態である。その場合、宗教上積極的な性質をそなえたものと評価される人格全体の習性は、もっぱら神の恩恵による賜物であるか、あるいは逆に、善の「修練」による習得が原理上可能なものか、どちらかである。前者の場合、そうした賜物があるかどうかは、宗教的に要求される事柄に心意が全面的に向けられるあり方、つまり、ある方法に準拠して統一的に形成される生き方、に外化され表現される。

丸山訳
しかし心情倫理がいつもそうである訳ではまったく無く、むしろ大抵の場合は倫理的リゴリズムの特別な形態を取っていることが多い。宗教的にプラスの評価を与えられた総体での霊的な力は、その際にあるいは純粋に神からの恩恵としての賜物であり、その存在はまさに、宗教的に要求されることに対して、あの一般的に言われる方向付けられていることが:ある統一され、方法的に整えられた生活実践において現れるのである。またはそういう霊的な力は逆に善行の「訓練」によって一般的に獲得可能であるか、である。

折原浩訳の問題点(74)

ここも何故こんな単純ミスをするのか、という例。im strengen gesinnungsethischen Sinn で streng は誰が見たってSinnにかかっているのに、折原訳では「厳格に要求する」と原文とはまったく違う訳になってしまいます。
こういうレベルの誤訳がほぼ全文に近い確率であるということです。
心意倫理も聞いたことがない単語で、通常は心情倫理と訳すと思います。
(と思ったらHPで心情倫理は誤訳と主張していました。私はgütig gesinnt = 好意を持っている、好意的である、のような表現もあることから考えて、「心情倫理」で意思も感情も含めており問題ないと思います。まったく人の訳は非常に細かいレベルで「誤訳」だと決めつけるのに、自分は信じられないほどのひどい誤訳を多数している訳です。)

原文
Wo diese Auffassung konsequent bleibt, verzichtet sie auf das Verlangen der »Wiedergeburt« im strengen gesinnungsethischen Sinn. Die Lebensführung bleibt ein ethisch unmethodisches Nacheinander einzelner Handlungen.

折原訳
こうした見方が貫徹されるところでは、心意倫理的な意味の「再生」を厳格に要求することは断念される。生き方は、倫理的観点から方法的に規制されることのない、個々の行為の継起に止まる。

丸山訳
こうした把握の仕方が首尾一貫している場合には、そういう把握は「再生」の望みを、厳密な心情倫理的な意味では放棄する。生活実践はその場合倫理によって規制されていない、個々の行為の連続に留まる。

折原浩訳の問題点(73)

ここも良く調べないで思いこみで訳を付けている例。dolusは辞書を引けばその意味は”trick, device, deceit, treachery, trickery, cunning, fraud”であり明らかに詐欺的な行為ということであり、「故意」ではありません。折原訳は「過失」が来たから「故意」だろう、ぐらいのノリで訳したとしか思えません。そもそもここはintentio の説明であり、それ自体に「故意」という意味があり、そこで更に「故意」を使うと単なる同義語の反復になってしまいます。また「善意」「悪意」も私が注を付けたように日本の法律用語としては一般の意味と違うので適切な訳とはいえません。本来のローマ法での意味はbona fides は「詐欺・欺罔・不公正な振る舞いを含まない誠実な態度」です。
大体、こんな未完成もいい所の下訳レベルで、しかも先行訳にも大幅に劣るものを「オープン翻訳」を「騙って」(まさしく dolus)出すなんて、ちょっとその神経が信じられません。

p.s.
創文社訳の訳注には船田亮二の「羅馬法」の訳に従ったとして、dolusが確かに「故意」になっています。
しかしインターネット上のLSDというサイトの説明だと
Dolus is a Roman and civil law term for intentional wrongdoing. It primarily refers to fraud or deceit, indicating bad faith or conduct intended to mislead. It can also describe intentional aggression or willful injury, especially to another’s property, distinguishing it from mere negligence or accident.
となっており、ローマ法では単なる故意ということよりも「故意での詐欺行為」です。それにここではIntentioが最初に来ていてその説明でローマ法の概念が示されているので、単なる「故意」では合わないと考えます。なので私の訳の「詐欺的意図」ぐらいが適当と思います。

原文
Denn die »intentio«, auf welche es nach der Sündenlehre des Katholizismus für die ethische Bewertung des Handelns ankommt, ist nicht eine einheitliche Persönlichkeitsqualität, deren Ausdruck die Handlung ist, sondern sie ist, im Sinne etwa von bona fides, mala fides, culpa, dolus des römischen Rechts, die »Meinung« bei der konkreten einzelnen Handlung.

折原訳
それというのも、カトリックの罪業説によれば、行為の倫理的評価のさいに重視される「志向(インテンチオ)」とは、行為に表明される統一的な人格的資質ではなくて、ローマ法のたとえば善意・悪意・過失・故意の意味における、個々の具体的な行為の「意向(マイヌンク)」にすぎないからである。

丸山訳
というのはカトリックの罪に関する教説がその上に行為の倫理的評価を関連付ける”intentio”[行為者の志向]とは、その表出が行為となる統一された人格的資質ではなく、例えばローマ法の誠実 [bona fides]、不誠実 [mala fides][1]、過失 [culpa]、詐欺的意図 [dulas]などの意味での、「主観的意向」[Meinung]である。

[1] ここの原文は、bona fides、mala fidesであるが「善意」「悪意」と訳すと、日本の法律では「ある事情を知らなかったか知っていたか」という意味になるため、誠実、不誠実と訳した。本来例えばbona fidesは「信義・誠実」「詐欺や不公正な取引の不存在」という意味であり、現在の日本の法律用語はその内のごく一部だけを使用していることに注意。