この辺りのヴェーバーの議論、ほとんど壊れているとしか言いようがありません。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教の共通要素を取り出してそれをGlaubensreligiositätなどと勝手に名付け、(大体宗教で「信仰」を持たないものがあるのか?)、それがアジアにはない、って当たり前でしょう。(正確に言えばキリスト教等は「西アジア」から発生しているのでこの言い方もおかしいですが。)
そういう壊れた議論を、折原センセが盛りまくる。(笑)
「どこかで、なんらかの点で」→どっちかだけでいいでしょ。
「知られていない」→fremdは知られていないではなく、異質である。
「けっして偶然ではなく」→原文にはそんなこと書いてありません。
「[現世超越的人格神の不在から生ずる]特徴→勝手にヴェーバーが書いてもいないことを補足しないでください。
原文
Glaubensreligiosität setzt jedenfalls stets einen persönlichen Gott, Mittler, Propheten voraus, zu dessen Gunsten an irgendeinem Punkt auf Selbstgerechtigkeit und eigenes Wissen verzichtet wird. Sie ist daher den asiatischen Religiositäten in dieser Form spezifisch fremd.
折原訳
いずれにせよ、信仰を旨とする宗教性はつねに、人格をそなえたひとりの神・仲保者・預言者を前提とし、そのために、自己義認と自分自身の知は、どこかで、なんらかの点で、断念される。それゆえ、アジアの諸宗教に、信仰宗教性のこの形態が知られていないのは、けっして偶然ではなく、アジア的宗教性に独自の [現世超越的人格神の不在から生ずる]特徴にほかならない。
丸山訳
信仰を重んじる宗教[1]は、常にいずれにせよ一人の位格[ペルソナ]を持った神、仲介者[2]、預言者を前提として持ち、そういった者の存在のために、ある何らかの点において、自分自身の正しい行いと知的理解というものは放棄される。それ故にアジアの諸宗教において、この形での宗教性は特別に異質なものである。
[1] ここで言っている「信仰」は唯一神に無条件に帰依する、といった意味であって一般的な「信仰」ではない。
[2] 仲介者はキリスト教ならイエスであり、イスラム教ならムハンマドがそれを兼ねているが、ユダヤ教にはそういう概念は存在しない。つまりかなり乱暴な一般化である。