折原浩訳の問題点(154)

ここはもう「脱即人的」だけでお腹いっぱい。(笑)
「脱」は脱呪術化(Entzauberung)のように、ent-が付いている語で普通使います。折原用語ならむしろ「没即人的」だと思いますが。(笑)

原文
Vor allem aber ist es der unpersönliche, ökonomisch rationale, eben deshalb aber ethisch irrationale, Charakter rein geschäftlicher Beziehungen als solcher, der auf ein niemals ganz klar ausgesprochenes, aber um so sicherer gefühltes Mißtrauen gerade bei ethischen Religionen stößt.

折原訳
ところで、純然たる事業上の諸関係は、経済上は合理的な、しかしまさにそれゆえ倫理上は非合理な、脱即人的性格をそなえており、この性格自体が、まさしく倫理的な諸宗教に、不信の念を呼び起こし、この不信は、明白には言表されないものの、それだけ確かに感得されるものである。

ちなみに、「脱即人的」でググると、結果は以下:

「脱即人的」という言葉は一般的な日本語の熟語や専門用語としては存在しません。文字通りの意味や、類似の言葉(「脱属人化」や心理学の「離人症」など)の誤記・聞き間違いである可能性が高いです。

考えられる意図や類似の言葉

脱属人化(だつぞくじんか): 仕事の内容や進め方を、特定の個人に頼らない仕組みに変えること。業務の標準化やマニュアル化を指すビジネス用語。
離人症(りじんしょう): 自分自身から切り離されたような感覚や、現実感が失われる心理的状態。
脱私即的(だっしそくてき): 私心を捨てて、本来の目的に即して行動するという造語。 [1, 2, 3, 4]

もし「脱即人的」とは別の言葉(脱属人化など)を意図されていた場合や、特定の文脈でお使いの場合は、その詳しい背景や正しい言葉を教えていただければ詳しくお答えできます。

折原浩訳の問題点(153)

またこんな短い文で4つ((2)は2つ誤訳なので正確には5つ)も誤訳。

(1)so anscheinend はヴェーバーの見解としてそう見えると言っているのであり、「見られるとおり」ではまったくない。
(2)Interesseには確かに「関心」と「利害」という二つの意味があるが、「利害関心」などとくっつけて曖昧にするべきではない。ここでははっきり「利害」でしかない。また「祭司層自身の」利害ではなく、「神殿の」利害である。
(3)「聖法によって守られた」は原文にはない。ここは単に「神聖なものとして保護された」ということ。
(4)「預金金庫」はあまりにも銀行に寄せすぎ。「供託金庫」ぐらい。

原文
Schon deshalb ist der Trieb nach Geld als Typus rationalen Erwerbsstrebens religiös bedenklich. Wenn möglich, hat daher die Priesterschaft (so anscheinend in Ägypten) die Erhaltung der Naturalwirtschaft begünstigt, wo nicht etwa die eigenen ökonomischen Interessen der Tempel als sakral geschützter Depositen- und Darlehenskassen dem allzusehr entgegenstanden.

折原訳
すでにこの理由だけからも、合理的営利追求の典型である貨幣を求める衝動は、宗教上いかがわしいものという嫌疑をかけられる。したがって、祭司層は (エジプトにおいて見られるとおり)、できることなら自然経済を維持しようとした。もっとも、神殿は当時、聖法によって守られた預金金庫また貸し付け金庫の機能をそなえていたのであるから、自然経済の維持が、そうした機能への祭司層自身の利害関心とさほど甚だしくは抵触しないかぎりにおいてであった。

丸山訳
既にこのことだけからも、貨幣獲得への嗜好は、合理的な利益獲得努力の典型として、宗教的には疑わしいものである。可能であるならば、それ故に祭司層は(エジプトではおそらくそうであったと思われるが)出来るだけ自然経済を維持しようとしており、しかしそれは例えば神殿の、神聖なものとして保護された供託金庫と貸し付け金庫としての、本来の経済的な利害に自然経済が対立しない場合に限ってである。

セレンディピティ

今日は、セレンディピティとはこういうことか、ということを体験しました。
上の写真の右の、加藤房雄さんの「ドイツ世襲財産と帝国主義」を一ヶ月くらい前から少しずつ読んでいたのですが(私はここ数年は10~15冊くらいの本を常に同時に少しずつ読んでいます)、その第三篇「マックス・ヴェーバーのドイツ農業論と世襲財産」の第四章「ヴェーバーの世襲財産論の内容とその意義」のP.153辺りまで読んでいた所、本日書店に行って久し振りに社会学コーナーを眺めていたら、なんとその加藤房雄さんの訳による、ヴェーバーの「ドイツ世襲財産問題の考察-プロイセンを中心に-」の日本語訳を発見したのです!しかも2026年8月20日発売になっていて、フライングゲットです。こういう冗談みたいなことって本当にあるんですね。ちなみにこのヴェーバーの論文は1903年でプロ倫の1年前に書かれております。日本での通俗的ヴェーバー理解だと、精神の病→プロ倫で学者として復活、と思っている方がいらっしゃいますが、事実に反しています。しかし私の「中世商事会社史」「ローマ土地制度史」の日本語訳も、商業出版社が出すにはきついのでオープン翻訳+Amazonでの販売という形にしていますが、それよりもまたある意味マイナーな論文を勁草書房は良く出したなと思います。帯に書いてある「精神論中心から制度論・政策論中心へ!」には拍手を送りたいです。また70代後半というご年齢で貴重な日本語訳を出された加藤房雄さんにも大拍手を送りたいです。こういうのこそ学問です。

「宗教ゲマインシャフテン」丸山大幅改訳、R9

「宗教ゲマインシャフテン」の訳のR9をお届けします。これで全体の84%でゴールがいよいよ見えて来た感じです。
ここでの収穫は、ヴェーバーがグリァソンの「沈黙交易」の内容をかなり使っていて、いわゆるポトラッチと宗教における施し、更にはゲマインシャフト内の政治的権力の発生まで同列に扱っているのが興味深かったです。この「沈黙交易」の内容と、「経済と社会」全体におけるヴェーバーの人類学的知見の利用については、きちんと調べる価値があると思います。

20260814_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R9.pdf

折原浩訳の問題点(152)

ここはもう誤訳というより、以前紹介した俗流マルクス主義的描写が訳文にも登場している箇所として、楽しんでお読みください。(笑)下線が原文にはない箇所。

原文
So namentlich die mosaische und islamische Prophetie. Dies erstreckt sich nun auch auf die Klassenbeziehungen. Im Kreise der minder mächtigen Nachbarn gilt rücksichtslose Ausnutzung derjenigen Klassenlage, welche der vorkapitalistischen Zeit typisch ist: rücksichtslose Schuldverknechtung und Vermehrung des eigenen Landbesitzes (was beides annähernd identisch ist), Ausnutzung der größeren Kaufkraft durch Aufkauf von Konsumgütern zur spekulativen Ausnutzung der Zwangslage der anderen, ein mit schwerer sozialer Mißbilligung, daher auch mit religiösem Tadel beantworteter Verstoß gegen die Solidarität.

折原訳
とりわけ、モーセおよびイスラムの預言が、そうであった。こうしたことはいまや、階級的諸関係にも波及する。前資本主義期に典型的な階級状況を利用して呵責ない搾取に耽ること、すなわち、困窮した農民に金を貸し付け、債務奴隷に陥れて、容赦なく土地を取り上げ、自分の土地に兼併する (したがって、債務奴隷化と土地兼併とは、ほとんど同一の過程である) ことや、他人より大きい購買力をもって消費財を買い占め、他人の窮乏につけ込んで高値で売る――他人の強制された状態を投機的に利用すること――は、力に劣る隣人の間では、お互いの連帯関係にたいする重大な侵害として、激しい社会的非難をもって、したがってまた、宗教的な叱責をもって、応えられる。

丸山訳
モーセとイスラム教の予言も特にそうであった。こうしたことは、次に様々な階級関係にも及ぶ。より少ない権力しか持っていない隣人仲間の中では、資本主義前の時代に典型的であった階級状況に対する、容赦のない搾取:容赦のない債務奴隷化、自身の土地所有を増やすこと(この二つはおおよそ同じことを指していた)、自分のより大きな購買力を最大限使って様々な消費財を買い占めて他者の窮乏につけ込んだ投機、それらは激しい社会的非難、そこからまた宗教的な非難にも値する相互連帯に対する違反と見なされていた。

折原浩訳の問題点(151)

今、前の箇所でグリァソンの「沈黙交易」への参照と見られるのが出て来て、同書の日本語訳を改めて読んでいますが、この箇所に書いてあることも、元ネタはグリァソンだと思います。それどころか、有名な「対内倫理と対外倫理の使い分け」(古代ユダヤ教)も元ネタはグリァソンだと思います。

そういう背景を押さえて上で折原訳を見ると

(1)Grenzenは「限界」ではなく、ある人間集団の「境界」のこと。対内と対外を分かつものです。
(2)保護と恩恵→これもおかしく、寛大さと慈悲、くらいです。
(3)従順と好意→自発性・自発的協力と好意、です。

原文
Innerhalb bestimmter Grenzen ist ja Schonung und Güte auch gegen die eigenen Gewaltunterworfenen ein eigenes wohlverstandenes Interesse des Gewalthabers, da von deren Gutwilligkeit und Zuneigung, in Ermangelung rationaler Kontrollmittel, seine Sicherheit und Einkünfte weitgehend abhängen.

折原訳
それというのも、特定の限界内では、自分の権力に従属している者に対しても、保護と恩恵を施すことが、よく考えれば、権力保有者自身の利害に適う所作だからである。合理的な統制手段を持たない場合、かれの安全と収入は、従属者の従順と好意に大幅に依存せざるをえない。

丸山訳
特定の[国境や村境のような]境界の内部では、自分の権力に服する者達への寛大さと慈悲は確かにまた、権力保持者自身が良く分かっている利害に適うことであり、というのはその権力保持者の安全と所得は、合理的な制御手段が欠乏している場合には、広範囲に権力に服する者達の自発的協力と好意に依存するからである。

 

今度こそMWGの全集の間違った注釈(2)-ヴェーバーはポトラッチを知っていた

色々調べましたが、私としての結論は、ここのsahen wir はオリジナルのsehen wir が正しく、その場合には前後参照句ではなく、「人類学の研究にて報告されているように」ぐらいが一番正しいと思います。そもそも文頭で In naturalwirtschaftlichen Verhältnissen (自然経済的な状況では)とわざわざ断っている訳ですから、ここは人類学の知見に関連して言っていると考えるのは自然です。また前後参照句ならヴェーバーは通常wieを前に付けていますし、また過去形ないし未来形で通常は書かれます。書き直した訳注は以下の通り:

MWGの全集は、初版ではsehen wirだったのをsahen wirに変更した上で、参照先を最初の全集の209ページ(家ゲマインシャフト)としている。しかしそこに書かれているのは、「大所有は、まさに所有であるがゆえに社会的地位の担い手となる。」であり全く逆の内容である。訳者の方で別途調べて、下記の箇所の可能性も検討した:
„Klassen“, „Stände“ und „Parteien“(「階級」、「身分」、「政党」)
最初の全集のP.635
Aber die ständische Ehre muß nicht notwendig an eine „Klassenlage“ anknüpfen, sie steht normalerweise vielmehr mit den Prätensionen des nackten Besitzes als solchem in schroffem Widerspruch.

濱島朗訳(みすず書房「権力と支配」P.226)
「だが身分的名誉は必然的にある「階級的地位」に結びつくとはかぎらない。かえってそれは、露骨な所有自体の要求ときびしく矛盾するのが普通である。」(漢字を新字体に変更)

しかしここも直接の参照先としては微妙に違っているように思われれる。何故ならばここでヴェーバーが述べているのは文化人類学で言うポトラッチ(顕示的消費)的なことであるからである。むしろ可能性があるのは最初の全集のsehen wir が正しいということである。「ポトラッチ」は既にフランツ・ボアズの1897年のクワキウトル族研究で扱われていたから、ヴェーバーが「ポトラッチ」を知っていた可能性がある。そもそもこの論文の最初の方で出て来たハマチャの兄弟団も同じクワキウトル族の話であることを考えれば、更に知っていた可能性は高い。また何より、ヴェーバーは1903年のグリァソンのThe Silent Tradeについて他の箇所で複数回言及している(Der stumme Tauschの形で「法」で2回、「市場」で1回言及している)ので間違いなく読んでいるが、その中に「例えば、ユーコン川南部の部族では、寛大という名声を得んものとする気概はきわめて大きく、そのためにお返しなど望まず数年間にわたって貯えてきたものを惜しげもなく分配(ギブナウェイ)して、敢えて素寒貧になろうとする。」(ハーベスト社、「沈黙交易」、中村勝訳、P.49)のようなポトラッチについての記述が複数箇所にあるので、ヴェーバーがポトラッチ的概念を知っていたのはほぼ確実である。またグリァソンの本では沈黙交易の発展段階としてゲスト・フレンドシップ(客人招請)も論じられており、ここのヴェーバーの記述と一致する。以上のことから改めて考えると、sehen wir は前後参照句ではなく、単に「自然経済的な状況で見られるように」という意味の可能性が高く、訳語もそうした。

今度こそMWGの全集の間違った注釈

In naturalwirtschaftlichen Verhältnissen nobilitiert aber überhaupt, sahen wir, nicht der Besitz als solcher, sondern die freigebig gastfreie Lebensführung.
(自然経済的な諸状況において、前に述べたように、しかし一般にそういった財産の所有がではなく、物惜しみしない、客をもてなす生き方が人を高貴にするのである。)

のsahen wirの参照先を全集注は最初の全集の209ページとしています。しかしそこに書いてあるのは、

Der große Besitz ferner lockt, einfach weil er Besitz und als solcher Träger einer sozialen Position ist …

「大所有は、まさに所有であるがゆえに社会的地位の担い手となる」と上記の文章とは反対のことです。

色々調べましたが、おそらく可能性のある参照先は以下です。

„Klassen“, „Stände“ und „Parteien“(「階級」、「身分」、「政党」)
最初の全集のP.635
Aber die ständische Ehre muß nicht notwendig an eine „Klassenlage“ anknüpfen, sie steht normalerweise vielmehr mit den Prätensionen des nackten Besitzes als solchem in schroffem Widerspruch.

濱島朗訳(みすず書房「権力と支配」P.226)
「だが身分的名誉は必然的にある「階級的地位」に結びつくとはかぎらない。かえってそれは、露骨な所有自体の要求ときびしく矛盾するのが普通である。」(漢字を新字体に変更)

ただここもそのものずばりではありません。要するにヴェーバーがここで述べているのは、気前の良さが身分的威信につながるという、言ってみればポトラッチ的なことです。ここは元々sahen wir ではなく、sehen wir でした。なので今の全集が勝手に間違った所を参照先として辻褄を合わせるために変更した可能性があります。ヴェーバーはこの論文の最初の方でクワキウトル族の「ハマチャの兄弟団」について言及しているので、同じクワキウトル族の話である「ポトラッチ」を知っていた可能性は十分あると思います。

折原浩訳の問題点(150)

ここは、ヴェーバーのエピソード捏造に加え、折原訳がその間違いを増幅しています。
訳注に書いた通り、こんなブッダのエピソードは(おそらく)存在せず、翻訳書籍に載った何かの話をヴェーバーが誤解したかあるいはねじ曲げて使ったものであり、それを本来は単に「驚いた」だけなのに「大いに驚嘆する」と折原訳が更に悪化させているもの。更には、伝承を聞いて驚いたのではなく、その伝承の中で驚いたと伝えられている、です。
また全集も何も注を付けず、せめて「出典不明」ぐらい書くべきと思います。本当にこの全集の編集陣はインド関係弱いです。
後、唯一普遍性の「普遍性」もそんなことは原文にはありません。

原文
Gegen die fremde Religiosität wird sie gerade bei Hervortreten der Konkurrenz der Gemeindereligiositäten und dem Anspruch auf Einzigkeit des eigenen Gottes sehr erschwert. Die Jainamönche wundern sich in der buddhistischen Überlieferung, daß der Buddha seinen Jüngern geboten hat, auch ihnen Speise zu geben.

折原訳
ところが、他の宗教性に対しては、まさしくゲマインデ宗教性の間に競合関係が生まれ、それぞれが自分たちの神こそ唯一普遍的な神であると主張するために、愛の普遍主義の実現はきわめて困難となる。ブッダが、ジャイナ教の修行僧にも食物を与えるように弟子たちに命じた、という仏教の伝承に、ジャイナ僧たちはおおいに驚嘆する。

丸山訳
異質な信仰に対しては、隣人愛の普遍的展開は、まさしく教団信仰間の競争の出現において、また自分達の神こそ唯一のものであるという主張によって非常な程度にまで妨げられる。ジャイナ教の僧侶は、ブッダがその弟子達に、ジャイナ教の僧侶にも食物を与えることを命じた、という伝承にて驚ろいているのである[1]

[1] これについては創文社訳も全集も何も注を付けていない。訳者が調べた限りではこのような逸話は確認出来なかった。おそらくはウパーリ経(優波離経)に出てくる、ジャイナ教徒だったウパーリ(十大弟子のウパーリとは別の人)が釈迦の話を聞いて仏教に帰依するようになった後、元々資産家であったウパーリがジャイナ僧に食物を与えていたのを続けてもよいとされた話などをヴェーバーが間違って解釈した可能性がある。そもそもジャイナ教の僧侶は、アヒンサーに従っている間違いのない食物かどうか確認出来ないものを簡単にもらって食べたりはしない。また驚き感激したのはウパーリ自身であり、他のジャイナ僧ではない。実際にウパーリ経では、ウパーリが改宗したと聞いたニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教の開祖のマハーヴィーラの仏教典での呼び方)は激怒してウパーリを非難し、そしてジャイナ僧はその後のウパーリからの食物の提供は拒絶している。
参考サイト:
https://sujaata.net/terakoya/post-1693/ 61話 資産家ウパーリ ・・・・ ジャイナ教を捨てて(アシン・クサラダンマ長老著 /奥田昭則訳 /チョウ・ピュー・サン 挿絵)
https://www.dhammatalks.org/suttas/MN/MN56.html (The Teaching to Upāli Upālivāda Sutta  (MN 56) )

折原浩訳の問題点(149)

まあここは細かい指摘になりますが、
1.「もっとも身近な人」→こう訳すと友人とかが含まれてしまいます。原文は端的に「隣の人」です。
2.[双方が互いに効力を減殺し合って]→またも余分な補足で勝手な解釈です。ここで言われているのは例えば複数の種族ゲマインシャフトが一つの政治ゲマインシャフトの中に取り込まれた場合に、それぞれの神々が解放されるといったことであり、混合が減殺を意味するとは限りません。
3.愛の普遍主義→抽象的すぎて何のことだか分かりませんし、何かのキャンペーンみたいです。「隣人愛の普遍的展開」ということです。また別にLiebesakosmismus(神との愛において世界を無と考えるもの)というのもありますので、余計にまずいです。

原文
Die brüderliche Nothilfe stammt, sahen wir, aus dem Nachbarverband. Der »Nächste« hilft dem Nachbar, denn auch er kann seiner einmal bedürfen. Erst eine starke Mischung der politischen und ethnischen Gemeinschaften, und die Loslösung der Götter als universeller Mächte vom politischen Verband führt zur Möglichkeit des Liebesuniversalismus.

折原訳
すでに見たとおり 、同胞としての救難援助は、隣人団体に由来する。「もっとも身近な人」が隣人を助けるのも、かれ自身が、いつなんどき隣人を必要とするか、分からないからである。政治ゲマインシャフトと種族ゲマインシャフトとが著しく混淆して [双方が互いに効力を減殺し合って] 初めて、神々が政治団体から解き放たれて普遍的な力となり、愛の普遍主義の可能性が生まれる。

丸山訳
兄弟的な緊急時の相互援助は、既に見てきたように[1]、隣人団体に由来する。「隣に住む人」がその隣人を助けるのであり、何故ならまたその助けた者がまたいつの日か助けられた者の援助を必要とすることもあるからである。様々な政治的・倫理的ゲマインシャフトが強く混ぜ合わされた場合に初めて、神々が普遍的な力を持つ者として政治的な諸団体から解き放たれ、そこに隣人愛の普遍的展開の可能性が生じる。

[1] 全集 I/22-1のP.122のHausgemeinschaftenの箇所。Der Nachbar ist der typishce Nothelfer, und “Nachbarschaft” daher Trägerin der “Bruderlichkeit”… 以下。(なお全集の訳注のP.198は元の全集のページであり誤り。)