折原浩訳の問題点(135)

この辺りのヴェーバーの議論、ほとんど壊れているとしか言いようがありません。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教の共通要素を取り出してそれをGlaubensreligiositätなどと勝手に名付け、(大体宗教で「信仰」を持たないものがあるのか?)、それがアジアにはない、って当たり前でしょう。(正確に言えばキリスト教等は「西アジア」から発生しているのでこの言い方もおかしいですが。)
そういう壊れた議論を、折原センセが盛りまくる。(笑)
「どこかで、なんらかの点で」→どっちかだけでいいでしょ。
「知られていない」→fremdは知られていないではなく、異質である。
「けっして偶然ではなく」→原文にはそんなこと書いてありません。
「[現世超越的人格神の不在から生ずる]特徴→勝手にヴェーバーが書いてもいないことを補足しないでください。

原文
Glaubensreligiosität setzt jedenfalls stets einen persönlichen Gott, Mittler, Propheten voraus, zu dessen Gunsten an irgendeinem Punkt auf Selbstgerechtigkeit und eigenes Wissen verzichtet wird. Sie ist daher den asiatischen Religiositäten in dieser Form spezifisch fremd.

折原訳
いずれにせよ、信仰を旨とする宗教性はつねに、人格をそなえたひとりの神・仲保者・預言者を前提とし、そのために、自己義認と自分自身の知は、どこかで、なんらかの点で、断念される。それゆえ、アジアの諸宗教に、信仰宗教性のこの形態が知られていないのは、けっして偶然ではなく、アジア的宗教性に独自の [現世超越的人格神の不在から生ずる]特徴にほかならない。

丸山訳

信仰を重んじる宗教[1]は、常にいずれにせよ一人の位格[ペルソナ]を持った神、仲介者[2]、預言者を前提として持ち、そういった者の存在のために、ある何らかの点において、自分自身の正しい行いと知的理解というものは放棄される。それ故にアジアの諸宗教において、この形での宗教性は特別に異質なものである。

[1] ここで言っている「信仰」は唯一神に無条件に帰依する、といった意味であって一般的な「信仰」ではない。

[2] 仲介者はキリスト教ならイエスであり、イスラム教ならムハンマドがそれを兼ねているが、ユダヤ教にはそういう概念は存在しない。つまりかなり乱暴な一般化である。

折原浩訳の問題点(134)

ここも複数の間違いと不適切訳。
(1)「すでに古代に、ギリシア的な思考形式を採り入れ」という訳だと、キリスト教側が積極的にギリシア思想を採り入れたことになるが、Durchtränkungは「流入・浸透」なので自然に入ってきたことであり、おかしい。
(2)ここで出て来るDialektikはヘーゲルとかのそれではなく、ギリシア哲学においてレトリケーと対になるディアレクティケーなので、「弁証法」と訳すのはおかしく「弁証術」と訳すべき。
(3)「キリスト教がこの弁証論を確立したのは」→「こうした信仰が大学を産み出したのは」でdieの指すものを間違えている誤訳。
(4)「ローマ法学者」→こう書くと、古代ローマの法学者のことのようであるが、実際は中世のローマ法主義者の法学者のこと。

原文
Sie fördert kraft ihrer zunehmenden Durchtränkung mit hellenischen Denkformen schon im Altertum, dann erneut und weit stärker noch im Mittelalter Schaffung der Universitäten eigens als Stätten der Pflege der Dialektik, die sie, unter dem Eindruck der Leistungen der romanistischen Juristen für die konkurrierende Macht des Kaisertums, ins Leben rief. Glaubensreligiosität setzt jedenfalls stets einen persönlichen Gott, Mittler, Propheten voraus, zu dessen Gunsten an irgendeinem Punkt auf Selbstgerechtigkeit und eigenes Wissen verzichtet wird.

折原訳
すなわち、すでに古代に、ギリシア的な思考形式を採り入れ、次第に深くまで取り込むことによって、やがて中世には、弁証論を育成する固有の場として、大学を創設することによって、改めて、またはるかに顕著に、知性主義を促進した。もっとも、キリスト教がこの弁証論を確立したのは、対抗勢力としての皇帝権力の発展にローマ法学者が大いに貢献している、という印象のもとに、これに対抗しようとしたからである。

丸山訳
こうした信仰は、古代においての増大するギリシア的な思考形式の流入によって、更に新たにかつより強く、中世においても大学の創設を、特別な弁論術の教育の場として、奨励したが、その大学は、こうした信仰がロマニステン[ローマ法主義者]の法律家の成果が[ローマ教会と]競合している[神聖ローマ帝国の]皇帝権力へ貢献しているという印象を持ったことにより産み出されたのである。

折原浩訳の問題点(133)

ここも大きな間違い。ヴェーバーは「現世を超越している神と共にある諸宗教の救済信仰」が知性によって世界を知ろうとすることとも全く異なるけど、近代的なそもそも世界とは何か、という問いを放棄する知性主義とも全く異なると言っています。折原訳は「そうした「意味」探究それ自体に対して、むしろ厳しく対峙し、対決する。」とまったく反対の意味に訳しています。
更に、「ヘレニズム時代の碑文」は単なる碑文ではなく、墓碑銘です。
それから、ここでヴェーバーが仏教について言っていることも仏教全般に言えることではありません。(訳注参照)更には全般的に例の挙げ方が乱暴そのもので、脳が暴走しているとしか思えません。(笑)

原文
Hier wie überall betont die Erlösungsreligiosität der Religionen mit überweltlichem Gott die Unzulänglichkeit der eigenen intellektuellen Kraft gegenüber der Erhabenheit Gottes und ist daher etwas spezifisch gänzlich anderes als der buddhistische Verzicht auf das Wissen vom Jenseits — weil es der allein erlösenden Kontemplation nicht frommt — oder den allen Intellektuellenschichten aller Zeiten, den hellenistischen Grabschriften so gut wie den höchsten Renaissanceprodukten (etwa Shakespeare), wie der europäischen, chinesischen, indischen Philosophie, wie dem modernen Intellektualismus gemeinsamen, skeptischen Verzicht auf die Kenntnis eines »Sinns« der Welt, den sie vielmehr schroff bekämpfen muß.

折原訳
現世を超越する神を戴く諸宗派の救済宗教性は、ここでもまた、いたるところでそうであるのと同様、自分の知力では神の超絶性にとうていおよばないという関係を、強調して止まない。したがって、それは、仏教が、彼岸にかんする知を――唯一救済に通じる瞑想には役立たないという理由で――断念するのとは、なにかまったく別種の態度である。あるいはまた、あらゆる時代のあらゆる知識層に共通の――たとえば、ヘレニズム時代の碑文や(たとえばシェークスピアのような)ルネッサンスの最高の作品や、ヨーロッパ・中国・インドの哲学・とりわけ近代の知性主義に共通の――、世界の「意味」を知ることへの懐疑的断念とは、なにかまったく異なる態度である。現世超越的な神を戴く救済宗教性は、そうした「意味」探究それ自体に対して、むしろ厳しく対峙し、対決する。

丸山訳
どこでもそうであるようにここでも、現世を超越している神と共にある諸宗教の救済信仰は、神の卓越性に対しての人間自身の知的な力の不十分さを強調しており、そしてそのことからそれは例えば仏教においての彼岸についての理解の断念[1]--何故ならばそれだけが唯一救済に至る道である瞑想にそれは役に立たないからであり--と比べると特別で全く異なったものであり、あるいは全ての時代の全ての知的諸階層について、ヘレニズム期の墓碑銘[2] と同様に、最高レベルのルネサンスが産んだ作品(例えばシェークスピア[3])や、欧州・中国・インドの哲学のような[4]、近代的な主知主義に共通に見られるような、現世の「意義」の認識についての懐疑的な放棄に対しても同様に全く異なっており、救済信仰はそういった放棄とよりむしろ厳しく戦わなければならないのである。

[1] 古仏教は「慧」、つまり彼岸も含めて世界というものの成り立ちを正しく理解することを解脱に至る必須条件の一つとしており、ヴェーバーは例によって一般化が過ぎている。この「彼岸についての知識の放棄」というのが当てはまるのは、阿弥陀仏の慈悲にすがっていればいいといった大乗仏教の一部でしかない。

[2] ヘレニズム期の墓碑銘では、一種の文学であるかのように、単なる死の嘆きではなく、個人的な感情の表出が見られる。但し、実際の墓碑銘というより後から創作されたものも多いとされる。

[3] ここでのシェークスピアがどんな作品を想定しているか不明であるが、まずシェークスピアはイングランド・ルネサンスの人であり、いわゆるルネサンスの人ではない。また、シェークスピアはジュネーブ聖書から多数引用するなど、それなりに宗教的な人であり、ここで言うような近代的な懐疑主義の例として挙げるのは疑問。

[4] 具体的に何を想定しているのか不明。中国やインドに懐疑主義は確かにあったであろうが、個別名を挙げずにただ中国・インドの、というくくり方は乱暴そのものである。

折原浩訳の問題点(132)

創文社訳も折原訳もBibelfestigkeitを「聖書堅持」として、聖書を固く信仰するかのように訳していますが、これはBibel+Festigkeitではなく、bibelfest(聖書に精通した)の名詞形です。(in etw(3) fest sein=~に精通している。)なので意味は「聖書に精通していること」(神学的な意味ではなく、内容をすぐに引用出来るとか、そういうこと)です。こういうのが、誰かが一度間違って訳すと、日本のコミュニティーではそれが定着してしまうという悪しき一例だと思います。「聖書堅持」と訳すと、聖書無謬主義とか聖書原理主義みたいな間違ったイメージを持ってしまいます。

折原浩訳の問題点(131)

出ました!persönlicheの訳が「個人として即人的に」。何のことだか不明。
単に個人として教義を承認する、と言っているだけですが。
「当の宗教が教団宗教となって、教義学が形成されるときに」もおかしく、「その宗教がゲマインデ宗教となった場合に、教義学が形成されて」です。
また最後の文は勘違いも甚だしく、pflegen(~しがちである)が全く訳されておらずlediglich(ただ)は「そういう信条として」にかかります。「要求されるにすぎない」などとはどこにも書いてありません。

原文
Und tatsächlich ist er dies in allen prophetischen Religionen entweder von Anfang an gewesen oder mit Ausbildung der Dogmatik namentlich dann geworden, wenn sie Gemeindereligion wurde. Die Annahme der Dogmen ist, außer in den Augen der asketischen oder — und namentlich — der mystischen Virtuosen, zwar nirgends irrelevant. Aber die ausdrückliche persönliche Anerkennung von Dogmen, im Christentum technisch »fides explicita« genannt, pflegt lediglich für bestimmte, im Gegensatz zu anderen Dogmen als absolut wesentlich angesehene »Glaubensartikel« gefordert zu werden.

折原訳
事実、全ての預言者的宗教において、信仰とは当初からそういうものであったか、あるいは、当の宗教が教団宗教となって、教義学が形成されるときに、そういうものとなるか、どちらかであった。教義を受け入れることは、禁欲の達人か、あるいは――とりわけまた――神秘主義の達人の目で見た場合は別として、いかなる場合にもけっして、取るに足りないことではない。しかし、個人として即人的に、教義を承認し表明することは、キリスト教では「顕示的信仰fides explicita」という特別の用語を当てられる事項であって、通例、他の教義に比して絶対に本質的とみなされる特定の「信仰箇条」にかぎって、要求されるにすぎない。

丸山訳
そして事実上、信仰というものは全ての預言的宗教においては最初からこういった性格のものであったか、あるいはその宗教がゲマインデを形成する場合に殊に、教義学が形成されてそういう性格となったか、どちらかである。教義の受容は、禁欲的なあるいは--特に--神秘主義的な練達者[Virtuosen]の目から見た場合を除けば、確かに何ら些末なことではない。しかしながら教義の明白で個人としての承認は、キリスト教においては技術的に”fides explicita”[明示的な信仰]と呼ばれ、ただ特定の、他の教義を対置した上で、絶対的に本質的と見なされる「信条」として要求されるようになるのが常であった。

折原浩訳の問題点(130)

この間100回に行ったと思ったら、早くも130回目到達。その記念にふさわしい大型誤訳。というかグノーシス主義をまったく理解していないということですが。
「霊知家」「唯物家」「心霊家」「信心家」って日本語にすればいいってもんじゃありません。オカルト主義者と唯物主義者と信心家の集まりっておかしいとは思わないのでしょうか。それぞれの正しい理解については私の訳注を参照してください。

それから「無理にも貫徹しようとすると」も変。「~という帰結なしには実施出来なかった」と言っているだけ。

原文
Allein unter normalen Verhältnissen ist eine solche Anforderung in Gemeindereligionen undurchführbar ohne die Konsequenz, entweder des Ausschlusses aller nicht zu den philosophisch Wissenden (Gnostikern) gehörigen (der »Hyliker« und der mystisch unerleuchteten »Psychiker«) vom Heil oder doch der Beschränkung auf eine Seligkeit geringeren Grades für die unintellektuellen Frommen (Pistiker), wie sie in der Gnosis und ähnlich auch bei indischen Intellektuellenreligionen vorkommt.

折原訳
しかし、通常の諸関係のもとでは、ゲマインデ宗教の内部でそうした要求を貫徹しようとしても、実行不可能であり、無理にも貫徹しようとすると、つぎのような帰結を免れない。すなわち、哲学的な知者(霊知家)には属さない全ての信徒(「唯物家」および神秘的な開悟にはいたらない「心霊家」)が、救済から排除されるか、あるいは、そうではなくとも、知識人でない敬虔者(信心家)が、現にグノーシス派やインドの知識人諸宗教に生じたように、一段格下げされた浄福に制限される、という帰結である。

丸山訳
しかしながら、通常の事情においては、そうした知的な教義の理解という要求は、次の帰結なしには実施不可能であった。その帰結とは、あるいは全ての、哲学的な霊智に至っている者(グノーシス主義者[Gnostiker[1]])には属さない者達(「ヒュリカー[Hyliker[2]]」と神秘的な光を受ける啓示には至らない「サイキカー[Psychiker[3]]」)を救済から除外するか、あるいはそれどころか知的ではないが敬虔な者達(ピスティカー[Pistiker[4]])にとっては至福についてよりわずかな程度の可能性しかないと制限するかという帰結であり、それはグノーシス主義とまた同様にインドの知識人諸宗教において起きたことであった。

[1] この場合、正確にはPneumatikerとするべきである。Gnostikerではグノーシス主義の信者の総称になってしまう。後ろにHylikerとPsychikerが出て来ることからも明らか。

[2] ギリシア語のὕλη(ヒュレー、質料)に由来し、物質的・肉体的な欲求に囚われて霊智(グノーシス)に達することが出来ない者のことを言う。

[3] ある程度の倫理性を備え、信仰心もあるが、未だ神の認識には至っていない中間層のこと。

[4] (再掲)グノーシス主義では「グノーシス(叡智)」を理解しているプニューマテコイと呼ばれる精神的エリートとただ素朴な信仰(ピスティス)だけを持っているプシュキコイが厳密に区別され、後者は低く見られた。

折原浩訳の問題点(129)

折原訳は最初の文からおかしく、元々受動態で、「~を用いて論じられている、考察されている」(ローマの信徒への手紙のこと)なのに、それを「救済論上の諸観念が、現実に活きてはたらいている。」と能動態にし、また手段を主語にしてしまっています。

また、ヴェーバーがKompromißformeln(妥協的な定式化)と書いているのを「和協信条」と訳していますが、それはルター派だけのもので、しかもそちらの原語はKonkordienformelなので、間違いです。後者は前者の中の一つの例に過ぎません。

それから「宗教改革に荷担した諸教会」って集団で悪事を行ったんじゃないんだから不適です。

原文
Immerhin wird hier noch mit soteriologischen Vorstellungen gearbeitet, welche innerhalb einer an das Grübeln über die Bedingungen der Erlösung gewöhnten städtischen, dabei mit jüdischer oder hellenischer Kasuistik irgendwie vertrauten Proselytenschicht gangbar waren, und es ist andererseits bekannt, daß auch im 16. und 17. Jahrhundert breite Kleinbürgerkreise die Dogmen der Dordrechter und der Westminstersynode und die vielen komplizierten Kompromißformeln der Reformationskirchen sich intellektuell angeeignet haben.

折原訳
ともあれそこではなお、救済論上の諸観念が、現実に活きてはたらいている。それらが、救済の諸条件を穿鑿することに慣れ、しかもそのさい、ユダヤ的あるいはギリシア的な決疑論になにほどか通じている、都市の改宗者層の内部に、普及していたのである。他方また、十六、七世紀にも、広汎な小市民層は、ドルトレヒトやウェストミンスターの教会会議 で定められた教義や、宗教改革に荷担した諸教会の複雑な和協信条 の多くを、知的に「わがものとして獲得」していた。

丸山訳
ともかくも、ここではなお救済論上の諸観念を用いて考察されているのであり、それの諸観念は、救済の諸条件についての穿鑿に慣れていた都市の、そこでのユダヤ人のまたはギリシア人の決疑論をそれなりに熟知していた改宗者層の内部において一般化していたのであるが、そして他方次のことも知られている。つまり、16世紀と17世紀においても、広範囲の小市民諸集団は、ドルト(ドルトレヒト)会議[1] とウェストミンスター会議[2] の諸教義と、多くの複雑な宗教改革諸教会の妥協的に定式化された諸教義[3] を、知的な意味で自分のものとしていた、ということである。

[1] 1618年から19年にかけてオランダのドルトレヒトで開催されたオランダ改革派の宗教会議。その当時勃興していたアルミニウス主義の問題の解決のため開かれ、アルミニウス主義を完全に否定した。アルミニウス主義はカルヴァン派の予定説をある意味弱めようとしていて、神が救おうとするのは、最初から決められているのではなく、信仰を持つであろうと予見した者を救うとし、また人間が神の恵みを拒むことも出来るとしていた。

[2] 1643〜1649年の清教徒革命の時期に、イングランド長期議会の招集によって行われた宗教会議。カルヴァン主義によるイギリス国教会の改革を目的として、ウェストミンスター信仰告白などが定められた。1660年の王政復古でこの時に決められたことはイングランドでは無効とされた。

[3] その中でルター派内での妥協は、Konkordienformel(和協信条)と呼ばれる。

折原浩訳の問題点(128)

短い文ですが、ここも原文に書いてあることを忠実に訳すのではなく脚色が目立ちます。

(1)zunehmend(増大する)は「侵入」と「対決」の両方に書かれているのにそう訳されていません。
(2)「浸潤を被り」というとまるで癌細胞かなんかのようですが、ここは単にキリスト教の中に入って来た、と言っているだけ。
(3)sonstは先行する発言とは反対の場合を想定して、そうでなければ、ですから条件となっている知性主義の侵入・対決がなかったらこれほどまでには発達しなかった程度にまで、です。折原訳は「他には類例をみないほど」として、この意味を取り違えています。

原文
Dagegen haben die christlichen Kirchen mit zunehmendem Eindringen des Intellektualismus und zunehmender Auseinandersetzung mit ihm ein sonst unerreichtes Maß offizieller bindender rationaler Dogmen, einen Theologenglauben, entwickelt.

折原訳
それに対して、キリスト教の教会は、知性主義の浸潤を被り、これとの対決がそれだけ熾烈となるにつれて、合理的で拘束力をそなえた公式の教義、すなわちひとつの神学者信仰を、他には類例を見ないほどに発展させた。

丸山訳
これに対して、キリスト教の諸教会は増大して知性主義が入り込んだことと、同じく増大したそれとの対決によって、それらが無ければ達成出来なかったであろう程度までの、公式でかつ強制的な合理的な教義を、神学者による信仰を、発展させた。

「宗教ゲマインシャフテン」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R8

「宗教ゲマインシャフテン」の大幅改訳版のR8をお届けします。これで大体全体の3/4ぐらいです。
今回の辺りを読むと、これは一般的な宗教社会学と言うより、あくまでも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の拡大強化版に過ぎないという印象を強く受けます。色んな宗教が登場しますけど、全てそれはプロテスタンティズムを目立たせるための背景にだけ使っているという感じです。またカトリックの教義に対する過小評価もひどいと感じます。

20260708_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R8.pdf

折原浩訳の問題点(127)

これはずっと書こうかどうしようか迷っていたことですが、この訳者は文頭にaberが来ると、高い確率で「ところで」と訳します。しかし言うまでもなく、aberは多くの場合前の文章とは反対のことを言う(この場合ではカトリックで告解がそれなりの力を持っているという話とは逆に、ということ)場合に使います。それが「ところで」では単に話題を変えていることになってしまいます。はっきりいって小学生の作文の添削レベルですが、敢えて公開しておきます。

原文
Aber daß das Judentum einerseits, der asketische Protestantismus andererseits keinerlei Beichte und Gnadenspendung durch irgendeine menschliche Person und keinerlei magische Sakramentsgnade kennen, hat historisch jenen ungeheuer scharfen Druck im Sinn der Entwicklung einer ethisch rationalen Lebensgestaltung geübt, der beiden Arten von Religiosität, so stark sie sonst voneinander abweichen, gemeinsam ist.

折原訳
ところで、一方ではユダヤ教、他方では禁欲的プロテスタンティズムが、なんらかの人間によってなされる、いかなる聴罪も恩恵分与も、また、およそいかなる魔術的な秘蹟恩恵も、知らないということは、歴史上、倫理的に合理的な生活形成を発展される方向において、おそろしく強烈な圧力をおよぼした。ユダヤ教と禁欲的プロテスタンティズムというふたつの宗教性は、その他の点では互いに顕著に異なっているとしても、この圧力は、両者共通に認められる。

丸山訳
しかしながら、一方でユダヤ教が、他方では禁欲的プロテスタンティズムが、何らかの人間的ペルソナによる告解と恵みの贈与を知らず、更に魔術的な秘蹟による恩恵も知らないということは、歴史的に、あの強大で激しい、倫理的に合理的な生活の形成を発展させるという意味での圧力を及ぼしたのであり、この二つの信仰の種類は、それ以外では相互に非常に異なっているにもかかわらず、この点に関しては共通なのである。