折原浩訳の問題点(186)

(1) 折原センセは、Sekteについては常にゼクテとカタカナで訳していますが、訳注に書いたように、ヴェーバーは現在の宗教社会学では区別される、教派とセクトの両方にSekteを用いています。ここのロシアのフリスト派なんかは明らかにセクトです。
(2) 「舞踏狂騒の随伴結果」→こんなこと書いていません。前の文にひきずられています。
(3) 「聖域として保護される売春宿を旅商人に提供する」→「宗教的に保護された商人のための売春宿の役割を引き受ける」
(4) 何故同じBordellという単語を「売春宿」と「遊郭」に訳し分ける必要性があるのか。というか「遊郭」ってあなたいつの時代の人?(笑)

原文
So von modernen Sekten noch bei der Tanzorgiastik der Chlysten, — was, wie wir sahen, die Veranlassung zur Bildung der Skopzensekte gab, die eben diese askesefeindliche Konsequenz auszuschalten trachtete. Gewisse, viel mißdeutete Institutionen, so namentlich die Tempelprostitution, knüpfen an orgiastische Kulte an. In ihrer praktischen Funktion hat die Tempelprostitution dann sehr häufig die Rolle eines Bordells für die reisenden, sakral geschützten Kaufleute angenommen, die ja auch heute der Natur der Sache nach überall typisches Bordellpublikum sind. Die Zurückführung der sexuellen außeralltäglichen Orgiastik auf eine endogene Sippen- oder Stammes-»Promiskuität« als eigentlich primitive Institution des Alltags ist schlechthin töricht.

折原訳
近代のゼクテについて見ると、たとえばクリュスティ派 による舞踏狂騒の随伴結果が挙げられる。すでにわれわれが見たとおり 、これが契機となり、まさにそうした反禁欲的帰結の排除をめざして、去勢派(スコプティ)が形成されたのである。また、ある種の制度、とくに神殿売春は、しばしば誤って解釈されているが、本来、狂騒的礼拝と結びついている。その場合、神殿売春は、実践的機能においてはきわめてしばしば、聖域として保護される売春宿を旅商人に提供する役割を果たした。じっさい旅商人は、事柄の本性上、今日なお、遊廓の典型的な常連客である。非日常的な性的狂騒の起原を、本来原初的な日常の制度である氏族ないし部族の内部に発生する「雑婚」に求める所見 は、見当違いも甚だしい。

丸山訳

近代のセクト[1] についてでもなお、フリスト派[2] における舞踏オルギアの例がある、--既に我々が見た通り、そのセクトがスコプツィ[3][去勢派]の形成のきっかけになっており、そのスコプツィはまさにそうした禁欲の敵となるような帰結を排除しようと志したのである。ある種の、非常に誤解されている諸制度、特に神殿売春は、それはオルギア的礼拝と結び付いている。その実際の機能においては、それはそれ以外に非常にしばしば、旅行者である、宗教的に保護された商人のための売春宿の役割を引き受けるようになっており、そういった旅商人は確かに今日でもまた、事物の本性に従って、どこにおいても売春宿の典型的な顧客である。性的な非日常的オルギアの起源として、氏族や種族の内部的な、本来原初的な日常的制度としての「乱婚」に求める[4] のは、端的に馬鹿げている。

[1] ヴェーバーはSekteで、主としてプロテスタントの諸教派を意味し、時としてここの例のように現代の宗教社会学の分類では「セクト」(Sekte=教派に比べよりラジカルで排他的なもの)ものも含めている。例えばゲルト・タイセン著、廣石望訳、「イエス運動--ある価値革命の社会史」では教会-教派-セクト-カルト集団の四分類を取っている。(該当書、P.159)

[2] 1645年にロシアでダニロ・フィリポヴィッチによって創設されたセクトであり、厳格な禁欲主義を取る一方で、ラジェーニエという儀式で、激しく踊り回転しながら、自らを鞭打ってでトランス状態に入り、そのことで聖霊が自らの体に宿ると信じていた。

[3] 訳注422参照。

[4] バッハオーフェンの説。

折原浩訳の問題点(185)

ここは、まずは冒頭の文の主語、Erで男性名詞を受けていることが示されているのに、折原訳では「それは」。
次に、Saktireligiositätはシャクティ信仰なのに、折原訳では「性力崇拝的宗教性」という一体それ何ですか?という訳。ここに、religiositätと来ると何とかの一つ覚えで「宗教性」と訳す弊害が出ています。大体「性力崇拝的宗教性で性的な陶酔の機能が残っています」って当たり前でトートロジーでしかありません。シャクティ信仰の中に女性原理とか生殖力への崇拝とかありますが、「性力崇拝的宗教性」とするのはあまりにひどいです。

原文
Er behält diese Funktion auch in relativ systematisierter Religiosität gelegentlich ganz direkt und beabsichtigt. So bei der Saktireligiosität in Indien noch fast nach Art der alten Phalluskulte und Riten der die Zeugung (der Menschen, des Viehs, des Samenkorns) beherrschenden sehr verschiedenen Funktionsgottheiten. Teils und häufiger aber ist die erotische Orgie wesentlich ungewollte Folgeerscheinung der durch andere orgiastische Mittel, namentlich Tanz, erzeugten Ekstase.

折原訳
それは、相対的には体系化された宗教性においても、ときとしてまったく直接的また意図的に、この機能を維持している。インドの性力崇拝的宗教性においては、いまなお、古い男根崇拝や、生殖 (人間、家畜、穀物の種) を支配する多種多様な機能神崇拝の儀礼という流儀で、そうした機能が維持されている。ところが、性愛的な狂騒は、別の狂騒手段とくに舞踏によって生み出される陶酔の、もともとは意図されない随伴結果である場合もあり、むしろこのほうがいっそう頻繁である。

丸山訳
こうした性的な陶酔は、相対的に体系化された信仰においてもまた、時としては全く直接的にかつ意図的にこうした働きを保っている。インドのシャクティ信仰においては、未だにほとんど古代の男根崇拝と、生殖(人間の、家畜の、穀種の)を司る非常に多様の機能神の儀式のやり方に従ったそういった働きが残っている。しかしながら部分的には、そしてよりしばしば性愛的なオルギアは、他のオルギア的手段の本質的に望んではいなかった随伴現象であり、その手段とは特に舞踏によって引き起こされたエクスタシーである。

折原浩訳の問題点(184)

ここも間違い探しのようなひどい訳。
(1)「世俗内的禁欲のみである。」→「ただ現世内禁欲の職業倫理のみである。」
(2)「それ相応の問題機制が潜んではいる。」→「そういった留保事項にはそれ相応の問題がある」
(3)[世俗内的禁欲による内面的適合の方向ばかりではなく]→そんなことは書いていない。
(4)Zu….,…, gehört という構文を理解していない。暴力行使の合理化の事実上の諸結果に非合理性への逃避が随伴する、と言っているのにそういう訳にまるでなっていない。
(5)「いたるところで通例、脱政治的感情の非合理性への逃避が強められる。」→「そういった暴力行使の合理化の諸結果はwo以下の場合は至る所で通例出てくるものであるが」であり、最後の文にかかっているのではない。
(6)国民「国家」→合理的国家
(7)[そういう英雄が自分たちで秩序を定立・制定し、互いに準拠し合うという]→これもそんなことは書いていない。
(8)「即人主義」→繰り返しになるけど「人格主義」。

原文
Wirklich innerlich adäquat ist der Versachlichung der Gewaltherrschaft — mit ihren rationalen ethischen Vorbehalten, in welchen die Problematik steckt — nur die Berufsethik der innerweltlichen Askese. Zu den tatsächlichen Folgen der Gewaltsamkeitsrationalisierung aber, die, in verschieden starkem Grade und auch in der Art unterschiedlich sich äußernd, überall da aufzutreten pflegten, wo jene Hinwegentwicklung der Gewaltsamkeit von der personalistischen Helden- und Gesellschaftsgesinnung zum rationalen »Staat« sich entfaltete, gehört die gesteigerte Flucht in die Irrationalitäten des apolitischen Gefühls.

折原訳
さて、暴力支配の即物化に真に内面的に適合できるのは、世俗内的禁欲のみである。しかしそれも、合理的かつ倫理的な留保をともなっており、そうした留保には、それ相応の問題機制が潜んではいる。とはいえ、暴力機構の合理化から生まれる諸結果は、事実上[世俗内的禁欲による内面的適合の方向ばかりではなく]、さまざまな強度で、さまざまに異なる性質を帯びて現れてくる。そして、そうした事実上の諸結果のひとつとして、暴力支配が、即人主義的な英雄の心意と [そういう英雄が自分たちで秩序を定立・制定し、互いに準拠し合うという]ゲゼルシャフト的な心意とから離れて、国民「国家」に発展を遂げるところでは、いたるところで通例、脱政治的感情の非合理性への逃避が強められる。

丸山訳
実際に権力的支配の物化に内面で適合するのは--その支配の合理的・倫理的な留保事項についての適合であり、そういった留保事項にはそれ相応の問題があるが--ただ現世内禁欲の職業倫理のみである。暴力行使の合理化の事実上の諸結果についてはしかし、それらは様々な強さで、そしてまた様々な形で出て来る、人格主義的な英雄の心情とゲゼルシャフトの心情においての暴力性が、合理的な「国家」にまで進むというあの発展が起きたところでは、どこでもしばしば登場してくるものであるが、その暴力行使の諸結果には、非政治的感情の非合理性への逃避ということが随伴してくるのである。

折原浩訳の問題点(183)

ここは、創文社訳も折原訳もさっぱり意味が分からなかったので、生成AIの助けを借りました。
根本的な間違いは、eigenenを「(個々の)祭司自身の」と解釈していることで、これは「カトリック教会自身の」です。それから「権力への利害関心を救い出す」もさっぱり意味不明の訳です。これはカトリック教会が、自身の祭司制度などの利害を、近代社会の中で他の政治団体などと同じように、保全しようとする、ことです。
それから細かいことですが、gleichen und ähnlichenは「同じか、あるいは類似の」ではなく、同じ手段と類似の手段の両方です。この訳者、こういう所が本当に雑です。他の箇所で逆にoderをundにして誤訳している例もあります。
さらにはInteresseが多くの場合「利害関心」と訳されていますが、「利害」か「関心」かどちらかであり、「利害関心」みたいな訳は読む人にとって迷惑この上ないです。

原文
— Die Anpassungen nun, welche die heutige kirchliche Ethik dieser Situation gegenüber vornimmt, sind hier nicht näher zu schildern. Im wesentlichen bedeuten sie ein Sichabfinden damit von Fall zu Fall und, namentlich soweit die katholische Kirche in Betracht kommt, vor allem eine Salvierung der eigenen, ebenfalls zunehmend zur »Kirchenräson« versachlichten priesterlichen Machtinteressen mit den gleichen und ähnlichen modernen Mitteln, wie sie dies weltliche Machtstreben benützt.

折原訳
――さて、今日の教会倫理が、この状況に対して企てるさまざまな適応については、ここで逐一採り挙げて詳論する必要はあるまい。それらは本質上、こうした状況にたいするその場その場の妥協を意味している。とくにカトリック教会を考えるかぎりでは、そうした適応はとりわけ、ここでもまた次第に「教会理性」に即物化されていく祭司自身の権力への利害関心を、世俗的な権力追求が用いるのと同じか、あるいは類似の、近代的手段によって、救い出そうとする企てを意味する。

丸山訳
--今日の教会倫理がこういった状況に対して行おうとする様々な適応については、ここではより詳細に論じることはしない。本質的にはそういった諸適応が意味するのは、ケースバイケースでの状況との妥協であり、特にカトリック教会について考慮する限りでは取り分け、カトリック教会自身の、同様に次第に「教会理性」へという形に物化されてゆく祭司制度の権力的利害を[政治の場合と]同じ近代的手段とまた類似のそれによって保全することであり、そういった手段はこのような世俗的な権力志向にて用いられるものと同様である。

折原浩訳の問題点(182)

下記の句の、fabulistischesはEigenpathosにかかるのであり、折原訳の「寓話作家なみに」はまったく意味不明の訳です。
これは英語ならfabulousで「まるでおとぎ話のように信じられないほど素晴らしい」といった意味でしょう。

原文
von Napoleon gelegentlich glänzend formuliertes fabulistisches Eigenpathos

折原訳
この情念を、ナポレオンは寓話作家なみに、ときに輝かしい光彩を添えて定式化した

丸山訳
それについてナポレオンが時折華やかに表現した信じがたいほど素晴らしき自己の情熱

折原浩訳の問題点(181)

ここのAnsehenを「人柄」と訳すのは内容をまったく理解していないひどい誤訳です。そもそもansehenという動詞自体が「~を見る」という意味なので、内面的な人柄に関して言っているのでまったくなく、(外から見える)「地位・立場・身分」に応じて振る舞いを変える、と言っている訳です。
また、「たとえばトマス・アクィナスによって問われている」も「またトマス・アクィナスにおいても」であり、何故こんな簡単な箇所を正しく訳せないのか理解に苦しみます。これは学術的な翻訳ではなく折原版「超訳」です。

原文
Daß man nach Ansehen der Person verschiedenen verfahren müsse, versteht sich der personalistischen ständischen Ordnung von selbst und nur in welchem Sinn wir gelegentlich, auch bei Thomas von Aquino, zum Problem. »Ohne Ansehen der Person«, »sine ira et studio«, ohne Haß und deshalb ohne Liebe, ohne Willkür und deshalb ohne Gnade, als sachliche Berufspflicht und nicht kraft konkreter persönlicher Beziehung erledigt der homo politicus ganz ebenso wie der homo oeconomicus heute seine Aufgabe gerade dann, wenn er sie in idealstem Maße im Sinn der rationalen Regeln der modernen Gewaltordnung vollzieht.

折原訳
即人主義的な身分秩序にとっては、人柄の如何に応じて対応を変えるのが、自明のことで、ただいかなる意味で自明なのかが、時折、たとえばトマス・アクィナスによって問われているだけである。今日の政治人は、経済人とまったく同様、近代的権力秩序の合理的規則に即して、もっとも理想的に [なにか変則的にではなく] 自分の課題を果たすときにこそ、「人柄の如何を問わず」「怒りも偏愛もなく」――憎悪がないとはいえ愛着もなく、恣意がないので寵愛もなく、つまり具体的な即人的関係に準拠してではなく、即物的な職業的義務として――、自分の課題を遂行する。

丸山訳
人が他人の身分・地位・立場[Ansehen]によって振る舞い方を変えなければならないということは、人格主義的な身分秩序自身には自明のことであり、ただどういう意味でかがその時々に、またトマス・アクィナスにおいても、問題にされるのである。「相手がどういう[立場・身分・地位の]人であるかに関係無く」、「怒りと偏見なしに[1]」、つまり憎しみもなく、それ故に偏愛もなく、恣意もなく、それ故に愛顧もなく、物的な職業義務として、具体的な人的な関係に拠るのではなく、ホモ・ポリティクス[政治的人間]とまさしく同様にホモ・エコノミクス[経済的人間][2] も、今日ではそれぞれの課題をまさに、その者がそういった課題を近代的な権力秩序の合理的な規則という意味でもっとも理想的な形で遂行する場合に、解決するのである。

[1] sine ira et studio、ローマの歴史家タキトゥスの「年代記」の冒頭に書かれた章句。

[2] ホモ・ポリティクス[政治的人間]もホモ・エコノミクス[経済的人間]も、人間の政治的・経済的な要素だけを純粋に取り出した仮想的な人間像のこと。近代経済学の仮定する経済的に合理的な行動はホモ・エコノミクスのものである。

 

折原浩訳の問題点(180)

180回記念。今回も大物。
Racker von Staatは「国家というならず者」という意味なのに、何故か折原センセは「国家という膏血搾り器」というこれまた過去の俗流マルクス主義の亡霊みたいな訳です。しかもおかしいのは、自分で珍しく訳注を付けていて、全集のP.400を見ろとしているのに、そこに書いている正しい説明をまったく読んだ形跡がありません。こうなるともう翻訳というより個人の作文です。大体、現代の読者に「膏血」(人の脂と血という意味)自体が死語だと思いますが。(青空文庫で検索しても、ほぼ明治・大正まで。)私は国枝史郎の「神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)」を連想しました。(笑)こちらも人の生き血を絞って染めた布を巡る話です。

原文
Ein Charakter der Gewaltbeziehungen also, an welche man ethische Postulate in dem gleichen Sinn stellen kann wie an jede andere rein persönliche Beziehung. Aber nicht nur die »herrenlose Sklaverei« (Wagner) des modernen Proletariats, sondern vor allem der Kosmos der rationalen Staatsanstalt, des von der Romantik perhorreszierten »Rackers von Staat« hat absolut nicht mehr diesen Charakter, wie wir s.Zt. zu erörtern haben werden.

折原訳
それらは、権力関係にはちがいないとしても、他の純然たる即人的関係のいずれにも倫理的要請を提起できるのと同じ意味で、倫理的要請を提起でき[て、制御でき]る権力関係という性格を帯びている。ところが、近代プロレタリアートの「主人なき奴隷状態」(ヴァーグナー)ばかりではなく、とりわけ合理的国家アンシュタルトの宇宙、すなわちロマン主義者に嫌悪される「国家という膏血搾り器(ラッカー)」[1]の宇宙は、もはやそうした性格をまったくそなえてはいない。この点については、後段のしかるべきところで論ずることになろう。

[1] 解説。全集版 S. 400.

丸山訳
しかし、ただ近代のプロレタリアートの「主人のいない奴隷」(ワーグナー[1])だけではなく、取り分けロマン主義によって嫌われた「国家というならず者[2]」である合理的な国家アンシュタルトの世界もまた、もはやこうした人格主義的な性格をまったく備えておらず、それについては後で詳しく述べることとする[3]

[1] Adolf Heinrich Gotthilf Wagner、1835~1917年、ドイツの経済学者で、国家社会主義や講壇社会主義の代表的論客。

[2] Racker von Staat、Rackerは「ごろつき、ならず者、盗賊」と言った意味。全体で「国家というならず者」という意味。語源としては諸説あるが、ある農民がヴィルヘルム4世に宛てた手紙で「皇帝陛下に税金を納めるのはやぶさかではないが、あの国家というならず者には納めたくない」に拠るというのが一つ。19世紀後半のドイツで一種の流行語のようになった。

[3] ここの前方参照の箇所は不明。書かれなかった可能性が高い。敢えて挙げれば近代的な官僚制に関する議論の箇所か。

 

折原浩訳の問題点(179)

personalistischもpersönlichも「即人(的)」で済ませているけど、仮に「即人的」というおかしな日本語を認めたとしても(私は認めませんが)同じ訳はないと思います。ここでのpersonalistischは要するに儒教の、文人的教養と儒教的礼を身に付けた官僚の「人格主義」のことであり、「即人主義的性格」は単に「即人的」より更に意味不明です。persönlichの方は要は「人と人の関係に基づく」ぐらいの意味です。
それから最後の「制御されている」って機械じゃあるまいし。ここは「特に行政」とあるのだから、「統治されている」です。

原文
Überdies aber ruhte die mittelalterliche wie die lutherische traditionalistische Berufsethik auch rein faktisch auf einer zunehmend schwindenden allgemeinen Voraussetzung, welche beiden mit der konfuzianischen Ethik gemeinsam ist: dem rein personalistischen Charakter ebenso der ökonomischen wie der politischen Gewaltverhältnisse, bei welchem die Justiz und vor allem die Verwaltung ein Kosmos des Sichauswirkens persönlicher Unterwerfungsverhältnisse ist, beherrscht durch Willkür und Gnade, Zorn und Liebe, vor allem aber durch gegenseitige Pietät des Herrschenden und Unterworfenen nach Art der Familie.

折原訳
そのうえ、中世およびルター派の伝統主義的職業倫理は、純然たる事実の平面においても、次第に減衰していく一般的な前提に依拠するものであった。その前提とはすなわち、両者と儒教倫理とに共通の、経済的また政治的権力関係の即人主義的な性格である。この性格を前提とれば、司法および行政、とくに後者は、即人的な服従関係が有効に行き渡っている宇宙であり、恣意と恩恵・怒りと愛・とりわけ家族関係に倣う支配者-服従者間の相互的恭順によって制御されていると見られよう。

丸山訳
その外にしかし、中世のまたルター派の伝統主義的職業倫理は、また純粋に事実として、ある次第に衰えていく一般的な諸前提の上に安んじており、その諸前提とは、両者と儒教倫理に共通のものである:つまり経済的かつ政治的な権力諸関係の純粋に人格主義的な性格であり、その性格においては、司法と特に行政は人的な服従諸関係が効果を及ぼす一つの世界であり、そこでの統治は自由裁量と慈悲、怒りと愛、取り分けしかし家族的な関係と見なされた支配する側と服従する側の相互の恭順によって行われている。

折原浩訳の問題点(178)

今回は訳注の例。この方は訳注が必要な箇所には全く訳注を付けないのに、一方では訳注が必要のない所に、勝手に自分が作った理屈を入れてしまっています。

折原センセが「神秘的救済追求および禁欲的達人宗教性とアンシュタルト的正統性との葛藤 」に付けた訳注:
訳注:「アンシュタルトの官職組織は、その統制下にあるアンシュタルト恩恵の域を越えて、個人的・即人的に救済を追求しようとするカリスマ的(ないしはカリスマを僣称する)分子を、通例、「異端」として排除ないし統制しようとする。そこに生ずる「正統」組織と「異端」分子との葛藤-闘争。」

ヴェーバーが宗教的Virtuosenが現世内秩序で役割を与えられた場合も、なおそういう争いが生じることがある、と言っているだけなのに、折原センセは勝手にそれを一般化してしまっています。またおそらくヴェーバーはフランシスコ会のスピリチュアル派がローマ法王によって弾圧されて多くが火刑にされたような事実を念頭に置いていると考えられ、現世の体制の中に組み込まれて役割を与えられた宗教的Virtuosenさえもが時として異端として排除されるということで、折原センセの訳注はそういう複雑さを全部排除して単純な正統-異端の問題にすり替えてしまっています。

折原浩訳の問題点(177)

9月に入りましたが、いきなりまたひどい訳の箇所。
(1)「黄金時代と至福の始原状態における人間の普遍的な無政府的平等」→何でひっくり返して係り受けが曖昧になるように訳すのか。「普遍的な無政府状態にあるような人間の平等という黄金時代と天国的な始原状態」であり、黄金時代=天国的な始原状態、です。
(2)「人間には、罪の結果は全て度外視するとしても、純然たる自然の差異がある」→ rein natürlichen Verschiedenheit der Menschen以下がトマス・アクィナスの主張であり、その前の部文は全て前にかかります。「アニミズム的な霊魂・あの世の信仰に多様な形で良く知られているイメージでもあり、自然な、また全ての罪の結果を見ないようにした場合のものであるが」(但し下記の訳注参照。)
(3)「形而上学的に演繹してもいる」→直訳調以外の何物でもありません。「そこから形而上学として演繹的に導かれる」とした方がはるかに自然です。
(4)「あるいは二元論的に動機づけられた世界の堕落のゆえ、いずれかによる。」→原文のverurteiltを訳していない。「判決を受けている」は直訳過ぎるけど、「宣告されている」「運命付けられている」ぐらいの訳が必要。
(5)「ストア派および古代キリスト教の教説」→なぜつながっているものを別のものにするのか。「ストア派的な古代のキリスト教」ということ。

ちなみに、この部分ヴェーバーの記述も例によって飛躍がひどく、かなり眉唾です。

原文
Teils nimmt sie, wie z.B. Thomas von Aquino im Gegensatz — wie Troeltsch mit Recht betont — zur stoischen antik-christlichen Lehre vom goldenen Zeitalter und seligen Urstand der allgemeinen anarchischen Gleichheit der Menschen, die schon dem animistischen Seelen- und Jenseitsglauben vielfach geläufige Vorstellung von der natürlichen, auch, von allen Folgen der Sünde abgesehen, rein natürlichen Verschiedenheit der Menschen, welche ständische Unterschiede des Diesseits- und Jenseitsschicksals bedingt, auf. Daneben aber deduziert sie die Gewaltverhältnisse des Lebens metaphysisch. Entweder kraft Erbsünde oder kraft individueller Karmankausalität oder kraft dualistisch motivierten Weltverderbs sind die Menschen verurteilt, Gewalt, Mühsal, Leiden, Lieblosigkeit zu ertragen, insbesondere auch die Unterschiede der ständischen und Klassenlage.

折原訳
この有機体説的職業倫理は、一方では、たとえばトマス・アクィナスが、――この点はトレルチが正当にも強調したところであるが――黄金時代と至福の始原状態における人間の普遍的な無政府的平等というストア派および古代キリスト教の教説に反対して唱えた場合と同様、人間には、罪の結果は全て度外視するとしても、純然たる自然の差異がある、という考え方を採り入れる。これは、すでにアニミズム的な霊魂信仰や彼岸信仰にも多様に見られる、ありきたりの観念で、此岸および彼岸の運命が身分的に分化を遂げるのも、そうした自然の差異に起因すると考えられるのである。他方、有機体説的職業倫理は、この観念とならび、生の暴力的諸関係を。人間が暴力・艱難・苦悩・非情その他・とりわけ身分状況と階級状況の差異を耐え忍ばなければならないのは、原罪のゆえ、個々人の業-因果のゆえ、あるいは二元論的に動機づけられた世界の堕落のゆえ、いずれかによる。

丸山訳
有機的な[1] 職業倫理が部分的に受け入れているのは次のものである。それは例えばトマス・アクィナスが[2]--トレルチが正当にも強調したように[3]--ストア派的[4] な古代のキリスト教の教えである、普遍的な無政府状態にあるような人間の平等という黄金時代と天国的な始原状態に対して反対した、そういった考え方は既に、アニミズム的な霊魂・あの世の信仰に多様な形で良く知られているイメージでもあり[5]、自然な、また全ての罪の結果を見ないようにした場合のものであるが、[そうではなくて]純粋に自然な人間の差異、それは現世と来世の運命においての身分的な差異によって条件付けられたものであるが、そうった差異である[6]。それに並んでしかしそこから形而上学として演繹的に導かれるのは、生においての暴力的な諸関係である。原罪によってか、業の因果律によってか、あるいは二元論的に説明される現世の荒廃によってか、人間は暴力、困窮、苦難、無情さを、特にまた身分的・階級状態の差異をも耐え忍ばなければならないよう、宣告されているのである。

[1] 全集注によれば、中世の教会が世俗社会とのある意味一体化を果たし、現世の職業がある意味その身体の一部として組み込まれた、という意味。

[2] トマス・アクィナスは「神学大全」で人間は神の似姿として創られたという点では平等ではあるものの、神は世界の多様性を実現するために、それぞれの人間に差異を与えた、と説いた。

[3] この部分は全集注によれば、トレルチが1910年のドイツ社会学者会議で述べた内容に基づいているが、その内容は「教会が相対的な自然法と絶対的な自然法の区別について、ストア派的な二つの区別の考え方を受け入れることによって、自身の中に取り入れた。」であり、ヴェーバーがここでトレルチに言及しているのはかなりの論理的飛躍がある。

[4] ストア派は社会的な地位や財産といった外面的な差異は重要ではなく、人は等しく理性(ロゴス)を与えられた平等な存在であると主張した。

[5] ここは素直に文面通り読むと、「人間の差異」という考え方がアニミズムで一般的となるが、一般的なアニミズム理解と全く逆であり、訳者は「アニミズムでは人間平等的」と判断して訳している。

[6] この議論は例によって独断的であり、トマスの人間差異論は神が世界の多様性を実現するためにそうした、というもので、トマスはそれによって人間の運命が決定付けられてると言っているのではない。