折原浩訳の問題点(53)

ここは、折原訳の無神経で間違った訳語選択と、ヴェーバー自身のおかしな議論の箇所です。

(1)折原訳はspiritualistischを「唯心論的」と訳しています。しかしここで説明されているのは明らかにグノーシス主義・マニ教的な二元論であり、それを唯心論的とは言えません。以下はWikipediaの「心霊主義」の項の説明より:「心霊主義はspiritualism(スピリチュアリズム)の日本語訳のひとつであるが、「唯心論」「精神主義」とも訳されるため注意が必要である。」私は「霊的な二元論」としました。
(2)ヴェーバー自身のおかしな議論については私の訳の訳注を参照してください。

原文
Die Zerspaltung der Welt in zwei Prinzipien besteht hier nicht, wie in der ethisch-dualistischen Vorsehungsreligiosität, in dem Dualismus der heiligen und allmächtigen Majestät Gottes gegen die ethische Unzulänglichkeit alles Kreatürlichen, und nicht wie im spiritualistischen Dualismus, in der Zerspaltung alles Geschehens in Licht und Finsternis, klaren und reinen Geist und finstere und befleckende Materie, sondern in dem ontologischen Dualismus vergänglichen Geschehens und Handelns der Welt und beharrenden ruhenden Seins der ewigen Ordnung und des mit ihr identischen, unbewegten, in traumlosem Schlaf ruhenden Göttlichen.

折原訳
さて、全被造物の倫理的不完全性に、神の神聖で全能な尊厳を対置する倫理上二元論的な摂理信仰、あるいはまた、全ての出来事を、光と闇に、明澄にして清浄な精神と、暗黒で汚濁をもたらす物質とに分割する唯心論的な二元論では、世界がふたつの原理に分裂する。ところが、古仏教においては、そういう分裂はなく、ただ、一方には、世界の無常な出来事と行為、他方には、夢も見ない眠りに安らぐ、永遠の秩序と同じく不動の神的存在という、存在論的な二元論があるばかりである。

丸山訳
輪廻転生の考え方においては、倫理的二元論の摂理信仰、つまり神の神聖で全能の至高性が全ての被造物の倫理的な不完全さに対置されるという二元論におけるように、二つの原理の間で現世が分裂するということは起きない。そして更にそれは霊的な二元論のように、全ての発生事象を光と闇の間の分裂、つまり清澄で純粋な霊と、暗くて穢れをもたらす物質との分裂として見るのでもなく、そこに見られる考え方は、無常である現世での発生事象と、そして永遠の秩序が終わることなく存続することと、その存続と同一視される不動の、夢のない眠りに安らぐ神的なものの、存在論的な二元論である[1]

[1] ここでのヴェーバーが古仏教を存在論的二元論とするのは、全体を二元論でまとめるために無理に作ったロジックにしか見えない。インドでの典型的な二元論ではブラフマンとアートマンの二元論があるが、これも「梵我一如」という言葉に示されるように結局は一つのものとされている。また「夢のない眠りに安らぐ神的なもの」は通常ブラフマンについてのヒンドゥー教的説明であって、これも仏教の説明には適当ではない。また重要なのは仏教は「無我」と言われるようにアートマン自体を否定している。

折原HPのとある記事より

折原HPに下記の記載有り、それによると少なくとも「宗教社会学」の英訳の内容の正しさをゼミでチェックしていたみたいですが、そういう作業を経てなおあの恐るべき誤訳だらけの日本語ですか、と聞きたくなります。(笑):
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小生、1968年春から「東大紛争」に直面し、関与を迫られましたが、当時とくに頻繁に接触して議論を交わした相手が、小生よりほぼ10~12年年少のゼミ生でした。 みな、たいへんな勉強家でした。1967年度のゼミでは、「ヴェーバー宗教社会学講読」と題してEphraim Fischoff訳のThe Sociology of Religion (1963, Boston: Beacon Press) を輪読し、「ヴェーバー宗教社会学」の内容と思考方法を会得しようと目論んだのですが、始めるとすぐ、報告を分担した学生たちが、英文テキストに続々と誤訳・不適訳 (らしく、意味が通らない箇所) を見つけ、「これでは駄目だ」というので、結局、大庭君、八木君ら、(ドイツ語の初級文法は修得し終えた) 二年生から始めて、ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)「第六章」の難解なドイツ語原文にあたり、原意を汲み取ったうえで報告してもらい、各人の読解案を検討しながら「改訳ゼミ」を進めることになりました。

折原浩訳の問題点(52)

この訳者には、何が論じられているかによって適切に訳語を使い分けるということがまったく出来ていません。仏教の輪廻転生と解脱の話なのに、なんで「止揚」とか「実存」が登場するのかまったく意味不明です。実存主義の話でもヘーゲル哲学の話でもありません。悪しき「一語一訳」主義の人です。

ちなみに以下は折原センセの発言から。まあ本当にブーメランの人です。
「学会のHPに「誤訳問題コーナー」を開設し、会員から申請があって重要と認定したばあい、審査委員会を設けて審査し、その結果を公表して、関連分野における翻訳の水準維持に配慮し、高度に責任を担っていく、という方途も考えられましょう。」

原文
Der Sinn ethischen Verhaltens kann nur entweder, bei bescheidenen Ansprüchen, in der Verbesserung der Wiedergeburtschancen oder, wenn der sinnlose Kampf um das bloße Dasein beendet werden soll, in der Aufhebung der Wiedergeburt als solcher bestehen.

折原訳
倫理的な振る舞いの意味はもっぱら、要求が控えめな場合には、再生のシャンスを改善すること、あるいは[要求がその域を越える場合]、たんなる実存のための無意味な闘いを終わらせるために、再生そのものを止揚すること、このどちらかに求められるほかはない。

丸山訳
倫理的な行為の意義は、ただ次のどちらとして、つまり控えめな要望としては、転生のチャンスを改善することであり、あるいはこういった単なる存在のための無意味な戦いを終わらせ、そういった輪廻転生の輪から抜け出そうとする場合にのみ存在する。

折原浩訳の問題点(51)

さあ今日も十分ネタになる大物誤訳来ました!(笑)

(1)「われわれの思考習慣における自然主義的な「因果律」」っておよそ意味不明。我々が自然に因果関係的な考え方をしがちである、ということに過ぎないと思います。
(2)「倫理的に意義のあるいかなる行為[の倫理的意義]」も日本語として変。「倫理的に重要な行為の意義」でいいと思いますが。
(3)「不滅の世界過程」→この訳者がWeltを「世界」と訳す典型例。(たまたま今読んでいる、H・コンツェルマンの「新約聖書神学概論」の訳者後書きで田川建三氏がキリスト教的文脈ではWeltは「世界」ではなく「現世」「この世」と訳せ、と書いています。)「現世の進行過程」でいいと思います。
(4)そして極めつけ:「世界過程自体にそなわる自動装置によっておのずと決済していくからである。」→自動装置、自動機械が来たら「決済」?単にここは自動的な機構によって無しで済ますと言っているだけで、自動販売機のイメージは関係ありません。

原文
Er rationalisiert sie und damit den Kosmos unter rein ethischen Prinzipien. Die naturalistische »Kausalität« unserer Denkgewohnheiten wird also ersetzt durch einen universellen Vergeltungsmechanismus, bei dem keine ethisch relevante Tat jemals verloren geht. Die dogmatische Konsequenz liegt in der völligen Entbehrlichkeit und Undenkbarkeit eines in diesen Mechanismus eingreifenden allmächtigen Gottes: denn der unvergängliche Weltprozeß erledigt die ethischen Aufgaben eines solchen durch seine eigene Automatik.

折原訳
輪廻信仰は、そうしたアニミズム的観念を合理化し、そのさい宇宙をもっぱら倫理的な諸原理のもとに合理化する。われわれの思考習慣における自然主義的な「因果律」が、ひとつの普遍的な応報機制にとって代わられ、ここでは、倫理的に意義のあるいかなる行為[の倫理的意義]も、けっして消滅することはない。そこからは、この機制に干渉する全能の神は、まったく必要がないばかりか、考えることさえできない、という教義上の結論が導き出される。それというのも、不滅の世界過程が、そういう神の倫理的な[正義の規準に則って賞罰を配する]課題を、世界過程自体にそなわる自動装置によっておのずと決済していくからである。

丸山訳
輪廻転生の信仰はそうしたアニミズムの概念を合理化し、それによって同時に宇宙を純粋に倫理的な諸原則の下に置いて合理化する。我々の思考においてありがちな自然な「因果関係」がそれ故にある普遍的な報いのメカニズムによって代替され、その際に倫理的に重要な行為の意義が失われるということは決してないのである。教義としての帰結は、ある全能の神がこのメカニズムに干渉するということを完全に無しで済まし、想定しないということである:というのは不滅の現世の進行過程が、それ自身の自動機構によって、そういった神の倫理的な諸課題を無にするからである。

折原浩訳の問題点(50)

ついに50回。本当にほぼ全ての訳文に問題があることがお分かりいただけるかと思います。いいですか、皆さん、これが人の翻訳に対してあれこれと批判する人のご自身の翻訳の実態です。

(1)「不浄化」って何ですか?「浄化」はありますけど。大体やたらと「彼岸」とかを使うのなら、ここは日本語として自然な「穢れ」を使うべきです。
(2)「堕落」といった変な価値判断を訳者が勝手に追加し変更しています。原文は要は光の領国から闇の領国への「転落」としか言っていません。
(3)「暗黒と紛糾の国」って何ですか?「紛糾」は議論とか会議とかにしか普通使いませんが。
この短い文をよくもこれだけ変な風にこねくり回せるものだと呆れます。

原文
Das Böse erscheint als Verunreinigung, die Sünde, ganz nach Art der magischen Frevel, als ein verächtlicher, in Schmutz und gerechte Schande führender Absturz aus dem Reich der Reinheit und Klarheit in das Reich der Finsternis und Verworrenheit.

折原訳
悪が不浄化とみなされ、もろもろの罪は、魔術上の冒涜 [儀礼侵害]行為とまったく同じように、曇りのない清浄な国から暗黒と紛糾の国への転落、しかも汚濁と相応の恥辱に陥るのも当然の、軽蔑すべき堕落とみられる。

丸山訳
悪は穢れとみなされ、様々な罪は、魔術上の冒涜に対してとまったく同じで、軽蔑すべき、汚れたもので、当然の汚名を蒙ることになる、清浄さと明澄さの領国から闇と混乱の領国への転落である。

折原浩訳の問題点(49)

なんでこの方はこの程度の難しくもない短い文章を正しく訳せないのですかね。
(1)「転じてしまう」なんて書いていません。「~の形で」ということ。
(2)「傾向」は原文にありません。
(3) 「倫理的志向性をそなえた宗教にも、ほとんどつねに見出されるものである。」→「倫理的な志向を持ったほとんど全ての宗教に見出される。」
勝手に原文の意味を変えてしまっています。

原文
Uneingestandene Einschränkungen der göttlichen Allmacht in Gestalt von Elementen dualistischer Denkweise finden sich in fast allen ethisch orientierten Religionen.

折原訳
そのようにして、神の全能を知らず知らず制限して、二元論的思考法を構成する諸要素に転じてしまう傾向は、倫理的志向性をそなえた宗教にも、ほとんどつねに見出されるものである。

丸山訳
神の全能を二元論的思考の諸要素の形で無意識の内に制限することは、倫理的な志向を持ったほとんど全ての宗教に見出される。

折原浩訳の問題点(48)

ちょっと長いですが、
慎重さに欠け、構文も理解しておらず、日本語も変、という三拍子揃っています。

(1)der Reinen und Erlesenen
ここは「清浄な者たち」と「選ばれた者たち」の並列ですが、それを勝手に「選ばれた清浄な人々」とまとめてしまう。

(2)Tendenz zu einer rein ethischen Wendung zeigt
「純粋に倫理的な尺度に基づく表現になりがち」を、「もっぱら倫理的な方向に転ずる」と断定に変えているのとまた「転ずる」では意味が分からない。

(3)spirituell は宗教的・二元論的文脈なので「精神主義的」はあり得ず、誰が考えても「霊的」。

(4)Materiellen, Körperlichen
ここも「物質的なもの、肉体的なもの」の並列を「質料的なもの、つまり身体的なもの」に勝手にまとめている。また「質料的」もここでは明らかに「物質的」の意味。変な哲学用語で訳すべきではない。ちなみに「いっそう粗野な」もここは比較級の絶対用法と解釈した方が自然で、「非常に粗野な」ということ。

(5)Lichtreich
これは決して誤訳じゃありませんが「光の国」と訳すと、私以下の世代はほぼ全員M78星雲を連想するので(笑)、私は「光の領国」にしました。

原文
Der schließliche Sieg der lichten Götter in dem nun entstehenden Kampf steht meist — eine Durchbrechung des strengen Dualismus — fest. Der leidensvolle, aber unvermeidliche Weltprozeß ist eine fortgesetzte Herausläuterung des Lichtes aus der Unreinheit. Die Vorstellung des Endkampfs entwickelt naturgemäß ein sehr starkes eschatologisches Pathos. Die allgemeine Folge solcher Vorstellungen muß ein aristokratisches Prestigegefühl der Reinen und Erlesenen sein. Die Auffassung des Bösen, welche bei Voraussetzung eines schlechthin allmächtigen Gottes stets die Tendenz zu einer rein ethischen Wendung zeigt, kann hier einen stark spirituellen Charakter annehmen, weil der Mensch ja nicht als Kreatur einer absoluten Allmacht gegenübersteht, sondern Anteil am Lichtreich hat, und weil die Identifikation des Lichtes mit dem im Menschen Klarsten: dem Geistigen, der Finsternis dagegen mit dem alle gröberen Versuchungen an sich tragenden Materiellen, Körperlichen fast unvermeidlich ist.

折原訳
ただし、現に発生している闘いにおいて、光の神々が最終的に勝利を収めるであろうことは――厳格な二元論を破ることにはなるが――おおむね確定している。不浄なもののなかから光を取り出して絶えず浄化することが、苦悩に満ちてはいるが避けることのできない世界過程である。[暗黒の力にたいする光の神々] の最終的な闘いという観念からは、当然ながら、きわめて強烈な終末論的情熱が発生する。
こうした観念からは、一般的な帰結として、選ばれた清浄な人々の貴族主義的な威信感情が生まれるほかはない。端的に全能な神という前提のもとでは、悪の観念がつねに、もっぱら倫理的な方向に転ずるが、この二元論のもとでは、むしろ顕著に精神主義的な性格を帯びることになろう。それというのも、人間が、被造物として全能の絶対神に対峙するのではなく、光の国に参与していることになるれば、一方では光を、人間におけるもっとも曇りのないもの、つまり精神的なものと同一視し、他方では暗黒を、それ自体としていっそう粗野なあらゆる誘惑をそなえた質料的なもの、つまり身体的なものと同一視することが、ほとんど避けがたいのである。

丸山訳
光の神々の新たに発生した戦いにおいての最終的な勝利は多くの場合--それは厳密な意味での二元論を破壊することになるが--確定していた。苦しみに満ちた、しかし避け難い世界における過程は、光を継続して不純さから分離し浄化することである。最後の戦いという概念は自明のこととして、強い終末論的な熱情を発展させる。こういった概念の一般的な結果は、心の清い人々と選ばれた人々の貴族的な威信感情であるに違いない。悪人というものの把握は、それは単なる全能の神という前提の元では常に純粋に倫理的な尺度に基づく表現になりがちであるが、二元論においては強く霊的な性格を取るのであり、何故ならば人は被造物としてある全能者に対置されるのではなく、光の領国において持ち分を確保しているからであり、さらには光と人間の一体化は人間の内でもっとも清澄なもの、つまり霊的なものにおいて起こり、それに対して闇は全ての非常に粗野な欲望をそれ自身に担っている物質的なもの、肉体的なものと一体化するのは、ほとんど避け難いことである。

折原浩訳の問題点(47)

ここは、折原センセがグノーシス主義についてまるで理解していないことを示しています。ちなみに創文社訳もデミウルゴスについてギリシア語の原義しか説明しておらず、こちらも同様に分かっていません。ヴェーバーが100年以上前に、ほぼ正確に書いていることを、日本の訳者が理解していないとは嘆かわしいです。(ちなみにグノーシス主義のナグ・ハマディ文書は1945年に発見されたもので、ヴェーバーの時代にはその内容はまったく知られていません。)大体折原センセは日本におけるグノーシス主義研究のパイオニアである荒井献先生と同時期に駒場キャンパスで教えていたので、その気があれば聞けたと思うんですが。ヴェーバー自身が、アーダルベルト・メルクス、アドルフ・ダイスマン、エルンスト・トレルチなどから自分にはないキリスト教関係の知識を得ていたのに比べるとかなり劣ります。そもそも折原訳は単にドイツ語を日本語に置き換えているだけで、背景にある知識を自分で調べようとする姿勢がまるで感じられません。

(1)「一従属的な世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」)の価値が劣っていることから発生する。」→従属的ではなく、「下位の」世界創造者、「価値が劣っている」ではなくその神自体が低劣であるということ。下記の私の訳注を参照してください。
(2)「触発される」ではなく、もっとダイレクトに「接触する」である。
(3)「不浄な質料」→変な哲学用語ではなく「不浄な物質」

私は訳注に書いた本だけでなく、荒井献先生の「トマス福音書」も読んでいます。

原文
Ungerechtigkeit, Unrecht, Sünde, alles also was das Problem der Theodizee entstehen läßt, sind Folgen der Trübung der lichten Reinheit der großen und guten Götter durch Berührung mit der ihnen gegenüber selbständigen Macht der Finsternis und, was damit identifiziert wird, der unreinen Materie, welche einer satanischen Macht Gewalt über die Welt gibt und die durch einen Urfrevel von Menschen oder Engeln oder — so bei manchen Gnostikern — durch die Minderwertigkeit eines subalternen Weltschöpfers (Jehovas oder des »Demiurgos«) entstanden ist.

折原訳
不義・不正・罪など、およそ神義論の問題を発生させる全てのことは、偉大にして善良な神々の清浄な光が、神々に対して自立している闇の力や、それと同一視される不浄な質料の力に触発されて生ずる、混濁の結果である。この不浄な質料が、悪魔的な力に、世界支配の権能を与えるのであるが、それはもともと、人間や天使の原罪や、――数多のグノーシスが説くところでは――一従属的な世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」)の価値が劣っていることから発生する。

丸山訳
不正・過失・罪といった神義論の問題を発生させる全てのものはそれ故、偉大で良き神々の光に満ちた純粋さが、神に対して独立している闇の力と、それと同一視される、サタンの力に世界に影響を及ぼす権能を与える不純な物質、の双方と接触して混濁した結果であり、そして人間または天使の原罪によって、または--多くのグノーシス主義者においては--下位の世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」[1])の劣等さによって生じたのである。

[1] 本来はギリシア語で「職人」「製作者」「造物主」の意。グノーシス主義では、至高神とは別の下位の世界創造者を指すことが多い。グノーシス主義のナグ・ハマディ文書の一つである「ヨハネのアポクリフォン」に書かれた神話では、ソフィアと呼ばれた知恵の女神が、自分だけで新たな神を生み出そうとし、それに失敗して不完全な神を流産して生み出してしまう。その神は蛇とライオンの外見を持つ奇怪なもので、ソフィアはその子を他の神に知られるのを恐れ神々の世界(プレーローマ界)の外へ投げ捨てる。この捨てられた神は「ヤルダバオート」という名前を付けられ、そして自分で世界を創造し、自分だけが唯一の神だと思い込む。つまり「ヤルダバオート」は旧約聖書のヤハウェのことであり、グノーシス主義ではヤハウェは無知と傲慢に満ちた神とされている。グノーシス主義ではデミウルゴスは、このヤルダバオートと同一視された。参考文献:大田俊寛「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション、春秋社」

折原浩訳の問題点(46)

今日の所は、ヴェーバーの言っていることがおかしいのと、例によって折原訳がおかしいのと両方。
1.マンダ教、グノーシス主義、マニ教は元々ユダヤ教やキリスト教から発祥していると考えられており、例えばマニ教においてのゾロアスター教の影響は後の話です。(更に言うならゾロアスター教の二元論と、グノーシス主義やマニ教の二元論はかなり性格が違い、一緒にまとめるのは粗すぎる。)ちなみにマンダ教もグノーシス主義の一派です。

2.折原訳の「キリスト教と世界制覇を争う寸前にあったように見える、マニ教の壮大な概念構想」の「キリスト教と」は原文にない。またauch in der mittelländischen Antikeとあるように「古代地中海世界『でも』」であり、マニ教は遠く中国までも伝わった世界宗教であり、キリスト教とだけ覇を争っていた訳ではありません。ゾロアスター教や仏教とも勢力争いをし、その教義を中に取り込んでいます。ちなみに全集の注もキリスト教との関係にしか触れていません。この全集の編集者は知識が西洋中心に偏っていると感じます。

原文
Zunächst der Dualismus, wie ihn die spätere Entwicklung der zarathustrischen Religion und zahlreiche, meist von ihr beeinflußte vorderasiatische Glaubensformen mehr oder minder konsequent enthielten, namentlich die Endformen der babylonischen (jüdisch und christlich beeinflußten) Religion im Mandäertum und in der Gnosis, bis zu den großen Konzeptionen des Manichäismus, der um die Wende des 3. Jahrhunderts auch in der mittelländischen Antike dicht vor dem Kampf um die Weltherrschaft zu stehen schien.

折原訳
そのうちには、まず二元論があり、これは、ゾロアスター教の後期の発展段階や、おおかたゾロアスター教の影響を受けた西アジアの信仰諸形態に、多かれ少なかれ首尾一貫して含まれていた。後者の主要な事例としては、バビロニアの宗教が(ユダヤ教およびキリスト教の影響を受けて)行き着いた、マンダ教やグノーシスの最終的諸形態、また、紀元三世紀の終わりには、古代地中海世界においても、キリスト教と世界制覇を争う寸前にあったように見える、マニ教の壮大な概念構想、などが挙げられよう。

丸山訳
まず挙げられるのは二元論であり、それはゾロアスター教の後期の発展に見られるのと、数多い、多くはゾロアスター教に影響された近東の信仰の諸形態に多かれ少なかれ一貫して含まれているが、その中でも特にバビロニア宗教(ユダヤ教とキリスト教に影響された)の最終形態である、マンダ教と、グノーシス主義が挙げられ、更にはマニ教においての大構想までがそうであり、マニ教は3世紀の終わりから4世紀初めにかけて、古代地中海世界においても支配的な宗教の地位に就く寸前の状態にあったように見える。

折原浩訳の問題点(45)

ここはなかなか面倒な箇所ですが、
(1)「[瞑想ではなく]能動的な「行為」」の[]内の注釈は明らかに変。神は瞑想なんかしません。行為と瞑想が対立的になるのは人間の方。
(2)「神的なものの本質を、...徹底して置き換え」って一体何を置き換えるのか?ここは単に「置いた」ということ。
(3)1~4とも全て動詞は接続法二式で、ヴェーバーは自分の意見として断定しては書いていないのに、折原訳は全て断定で訳している。
(4)(44)と同じですが「即人的な摂理」、一体何ですかそれ。(笑)

原文
Es kann keinerlei Auffassung der religiösen Beziehung geben,
die 1. so radikal aller Magie entgegengesetzt wäre, theoretisch wie praktisch, wie dieser, die großen theistischen Religionen Vorderasiens und des Okzidents beherrschende Glaube, keine auch,
die 2. das Wesen des Göttlichen so stark in ein aktives »Tun«, in die persönliche providentielle Regierung der Welt verlegte und dann keine,
für welche 3. die göttliche, frei geschenkte Gnade und die Gnadenbedürftigkeit der Kreaturen, der ungeheure Abstand alles Kreatürlichen gegen Gott
und daher 4. die Verwerflichkeit der »Kreaturvergötterung« als eines Majestätsfrevels an Gott so feststünde.
Gerade weil dieser Glaube keine rationale Lösung des praktischen Theodizeeproblems enthält, birgt er die größten Spannungen zwischen Welt und Gott, Sollen und Sein.

折原訳
宗教的関係にかんするなんらかの捉え方のうちで、西アジアおよび西洋の有神論的な大宗教を支配した、この摂理信仰ほど、つぎの諸特徴を顕著にそなえたものはない。すなわち、1. 理論上も実践上も、あらゆる魔術に根本的に敵対し、2. 神的なものの本質を、[瞑想ではなく]能動的な「行為」つまり即人的な摂理にもとづく世界統治に、徹底して置き換え、3. 神の自由な贈り物としての恩恵を、被造物が切実に必要としながらも、その神に対しては全被造物が途方もない深淵によって隔てられている、と説き、それゆえ4. [被造物がその隔たりを抹消しようとする]「被造物神格化」を、神にたいする最大の冒涜 [不法行為]として非難したこと、――この四特徴である。この信仰は、実践的な神義論問題の合理的な解決をなんら含んでいないのであるが、まさにそれゆえに、世界と神、当為と存在との最大の緊張を内包している。

丸山訳
宗教上の神と人の関係の把握において、近東及び西洋での規模の大きな人格神的諸宗教を支配したこの摂理信仰ほど、以下の点にまで達したものは存在していない:
1.これほど徹底してあらゆる魔術に対して、理論的も実践的にも対立するものはないであろうこと。
2.神的なものの本質を非常に強く能動的な「行為」に、つまり人格神的な摂理による世界の支配という点に置いていると思われること。
3.この摂理信仰にとって、神が自由に贈った恵み、被造物の恵みへの欲求、そして全ての被造物的な事柄と神との間の距離が途方もない隔たりが、これほど確固たるものとなっているであろうこと。
4.そしてそれ故に、「被造物神化」を神の威厳への冒涜として排斥されるべきものとしてこれほどはっきりと決まっていたであろうこと。
そしてまさにこういった信仰が実際的な神義論問題の解決をまったく含んでいなかったために、それは世界と神、当為と存在の間の非常に強い緊張関係を孕んだままなのである。