ここで何度も指摘しているように「宗教ゲマインシャフテン」の中で、ヴェーバーは信者の内面を一種の複式簿記の帳簿として説明することを何度も行っています。これってヴェーバーがある意味独自にやったのかと思っていたら、コンツェルマンの「新約聖書神学概説」の中に、「(一)法律的。人間は律法を満たしていない。罪人である。しかし神はキリストの救済行為を人間の貸方に記帳し、それによって人間は買いもどされた。」というのが出てきました。これはパウロについての説明ですが、ローマの信徒への手紙の4:3-4では
「3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」
となっており、3の「義と認められた」の元のギリシア語は λογίζομαι であり、これの本来の意味には「信用を与える、記帳する」があり、元々会計的な用語を使っています。
さらには4の「当然支払われるべきもの」とはつまり債権ということです。
もちろんパウロの時代に複式簿記はありませんが、少なくともドイツのルター派の中では信仰義認論の中で経理・会計用語はかなり使われていた、というのが真相のようです。もちろんヴェーバーはそれを更に拡大して使ってはいますが。
折原浩訳の問題点(125)
今日の所は、ほぼ全文問題を抱えています。
「人格総体の恒常的実践慣行」って一体何ですか?(笑)
何度も書いていますが、要するにカトリックにおけるHabitusの概念をきちんと押さえていないから、こういう珍妙な訳が出て来る訳です。
原文
Nicht der gesamte, durch Askese oder Kontemplation oder beständig wache Selbstkontrolle und Bewährung stets neu festzustellende Habitus der Persönlichkeit, sondern das konkrete einzelne Tun wird gewertet.
折原訳
人格総体の恒常的実践慣行が、禁欲か瞑想か、あるいはつねに醒めた自己制御と確証によって、絶えず改めて確立されなければならない、というのではなく、具体的な個々の所業が、そのかぎりで評価される。
丸山訳
全体としての、禁欲または瞑想によるか、あるいは持続的に目覚めた状態での自己制御と確証によって、常に新たに確立されるべきである人格の、恩寵による性向[Habitus[1]]ではなく、そうではなくて具体的な個々の行いが価値付けられるのである。
[1] 参考(再掲):基督教研究 第28巻、第3、4号「倫理性に於けるルッターと中世 --基督教倫理思想史の一齣--」今井晋
スコラ神学は、アウグスティヌスの見解を発展させて、サクラメントの儀式によって、奇蹟的に、人間に「注がれる」(ロマ書5.8)神の超自然的な恩寵の状態をハビトゥス(habitus)と名付け、サクラメントに依存するかかる超自然的な神の愛の協力が、始めて善き行為を真に功績ある行為、即ち永生に値する行為として価値づけるとしたのである。
折原浩訳の問題点(124)
こちらも同じ。短い文をこねくり回しています。
(1)止まり→留まり(おそらくかな漢字変換の選択ミス)
(2)「償いないし贖い」どっちも同じ意味なのと、後は「贖い」はキリスト教ではキリストが十字架上の死によって人間の罪を償ったことを言うので、ここで使うのは不可。それにKompensationはおそらくは「補償金」のイメージで、贖宥状を頭に置いている可能性が高いです。
(3)「対置すればよいことになろう。」→単に「対置される」と言っているだけです。本当に余計な脚色が多いです。
原文
Und vor allem bleiben die Sünden einzelne Handlungen, denen andere einzelne Handlungen als Kompensation oder Buße gegenübergestellt werden.
折原訳
とりわけ、およそどんな罪も、個別の行為に止まり、これには償いないし贖いとして、別のやはり個別の行為を対置すればよいことになろう。
丸山訳
特に、この場合は罪というものが個々の行為に留まり、それに対しては他の個々の行為が補償または贖罪として組み合わされるのである。
折原浩訳の問題点(123)
ここはこんな短い文でも勝手に余計なものを付け加えて、原文の意味を改変してしまっている例です。
(1)Sündigendeは現在進行的な意味ではなく、単に動詞を形容詞化しただけ。ドイツ語の現在分詞が進行形ではないというのは初級文法の問題です。
(2)「そのつど宗教上の臨機的行為をおこなえば」といった条件付きの話ではなく、また(1)と合わせると、ある瞬間に罪を犯した者が、それ毎に免罪行為を行えば、のような変な意味に読めてしまう。
(3)「知ることになる」もおかしく、将来の話ではなく元々知っているということ。
(4)「臨機的行為」も間違いではないけど、意味は「機会を見てしかるべき時に行う行為」という意味です。
原文
Denn der Sündigende weiß, daß er von allen Sünden immer wieder durch ein religiöses Gelegenheitshandeln Absolution erhalten kann.
折原訳
それというのも、罪を犯しつつある者が、そのつど宗教上の臨機的行為をおこなえば、どんな罪からも赦免される、と知ることになるからである。
丸山訳
というのは罪を犯す者は、全ての罪について、常に何度でも、宗教上の機会を見たしかるべき行為によって免罪を得ることが出来ることを知っているからである。
パウロのオリーブの接ぎ木の譬えについて
ヴェーバーは、パウロの「ローマ人への手紙」11:17~24で、パウロが野性のオリーブ(異邦人)が良いオリーブの木(ユダヤ人)に接ぎ木されてという譬えを使い、これは実際の接ぎ木とは逆(野性のオリーブに良質なオリーブの木が接ぎ木される)であり、パウロは都会人で農業のことなど知らないのでこういう間違いをした、と論じています。
しかし、ここの24ではπαρὰ φύσινという表現が使われており(εἰ γὰρ σὺ ἐκ τῆς κατὰ φύσιν ἐξεκόπης ἀγριελαίου καὶ παρὰ φύσιν ἐνεκεντρίσθης εἰς καλλιέλαιον, πόσῳ μᾶλλον οὗτοι οἱ κατὰ φύσιν ἐνκεντρισθήσονται τῇ ἰδίᾳ ἐλαίᾳ.{Nestle Greek New Testament 1904}、もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。{新共同訳})、共同訳では「元の性質に反して」(その注釈では「直訳『自然に反して』」)となっています。即ち、パウロは普通の接ぎ木の方向とは逆であることは先刻承知でこの譬えを用いて、異邦人にイエスの教えを説くというユダヤ人から見たらとんでもないことを逆説的に表現している、と解釈した方が自然です。
大体、ヴェーバーのオリーブに関する知識はローマの農業書で覚えたいわゆる「本で得た知識」であり、実際のオリーブ栽培を見たことがないのは、むしろヴェーバーの方でしょう。(そもそもヴェーバーの当時のドイツの気候ではオリーブは育たない。)オリーブはパウロの時代のオリエント及びローマでも、栽培植物としてきわめて普及しており、聞いた人もわざと逆に言っていることはすぐに理解されたんだと思います。私に言わせればヴェーバーはある種の「宗教音痴」であり、こうした間違ったことを十分検証もせずに書き散らす傾向があると思います。これは私個人の意見だけでなく、ダイスマンもヴェーバーのこの部分の見解を批判しているようです。
折原浩訳の問題点(122)
またここも文書の論理構造が理解出来ていない例。
so weit は「~する限りにおいて」で「どの程度」ではない。
また、それはso…daß…構文でもあるので、「その結果」あるいは「~するまでに」ということになります。
原文
Das, was Gott verlangt, so weit zu erfüllen, daß das Hinzutreten der gespendeten Anstaltsgnade zum Heil genügt, müssen prinzipiell alle Menschen zulänglich sein.
折原訳
神が要求するところをどの程度実行すればよいかについて、分与されるアンシュタルト恩恵で補えば救済にとって十分というのであるから、そうすることは原理上、全ての人間に可能なはずである。
丸山訳
神が所望することを実行する限り[その結果として]、贈与されたアンシュタルトによる恵みが付け加えられたことが救済の条件を満たし、原則上は全ての人にとって救済に十分とならなければならない。
折原浩訳の問題点(121)
ここもひどい訳。「余剰の寄与によって余剰の恩恵を蓄え、これを処置する」はまったく意味不明で、要するにThesaurusのカトリック教会での意味がまったく分かっていません。Verfügungも「処置」ではなく自分の財産として自由に処分出来ることです。前の文のAnstaltgnadeの内容をまったく理解出来ていません。
原文
Sie kann ihrerseits wieder direkt durch rein magische Sakra|mente oder kraft der ihr übertragenen Verfügung über den Thesaurus der überschüssigen, gnadenwirkenden Leistungen ihrer Beamten oder Anhänger wirken.
折原訳
このアンシュタルトが[恩恵分与の]作用を発揮し、機能を維持することができるのは、それがそれとして再度、直接に、純然たる魔術としての秘蹟をおこなうことによってか、あるいは、アンシュタルトの職員ないし帰依者が余剰の寄与によって余剰の恩恵を蓄え、これを処置する権能がアンシュタルトに委託されることによって[間接に]か、どちらかである。
丸山訳
そういったアンシュタルト化されたゲマインシャフトは、それ自体として再び直接的に、純粋に魔術的な秘蹟によってか、あるいはその聖職者や信奉者の有り余るほどの恵みを与える働きの源泉である功徳の宝庫[Thesaurus[1]]の自由な処分を任されていることにより、作用を及ぼすのである。
[1] Thesaurus meritorum(功徳の宝庫)のこと。キリストの無限の功徳と聖人達の功徳が集まっているとされる霊的な貯蔵庫のこと。1343年に教皇クレメンス6世によって正式に定義された。いわゆる「贖宥状」を発行する根拠となるもの。
折原浩訳の問題点(120)
折原センセは、「理解社会学のカテゴリー」の概念に非常にこだわりますが、しかしながらここの訳は問題が多いです。何故Anstaltsgemeinschaftを分解して訳すのか。アンシュタルトはゲゼルシャフトの中でも高次のもので、例としては国家やカトリック教会が挙げられています。なのでここは「アンシュタルト化した(アンシュタルトの段階にまで達した)ゲマインシャフト」と訳すしかありません。ゲマインデが元はゲマインシャフトと同義でありながら、現在ではゲゼルシャフト化されて地方自治体になっているのと構図はまったく一緒です。
原文
Die Erlösung erfolgt dann durch Gnaden, welche eine ihrerseits durch göttliche oder prophetische Stiftung beglaubigte, Anstaltsgemeinschaft kontinuierlich spendet: Anstaltsgnade.
折原訳
すなわち、神ないし預言によって創立された施設として信任されるゲマインシャフト自体が、ひとつのアンシュタルトとして、継続的に恩恵を分与することにより、救済が達成される、という見地 (アンシュタルト恩恵) である。
丸山訳
それは救済が恵みによる結果として起きるが、その恵みが、あるそれ自体として神的なものあるいは預言に基づいて創立された施設が、つまりアンシュタルト化した[アンシュタルトの段階にまで達した]ゲマインシャフトが継続的に贈与するものである場合である:つまりアンシュタルトによる恵みである。
折原浩訳の問題点(119)
ここも原文の構造を大幅に改変した訳。それで読みやすくなっているんなら、それもありかもしれませんが、私にはそう思えません。
それからグノーシス主義について折原センセが知識がないのは既に分かっているので、正しく訳せないだろうと思ったら、やはりそうでした。
「7人の支配者」→アルコーンのギリシア語の元々の意味は確かに「支配者」ですが、「7人のアルコーン」はグノーシス主義での用語なので、ヴェーバーがそうしている通り「アルコーン」とそのままにすべきです。
「デーミウールゴスやヤハウェ」→ここでヴェーバーがoderとしているのは別々にそういう場合があるということではなく、グノーシス主義ではデミウルゴス=ヤハウェ=ヤルダバオートであるということです。
「救助者」→この文脈(神話)では明らかに「救世主」でしょう。
「業誇り」→これは折原語というか、日本のヴェーバー業界のジャーゴンですが、「誇り」っておかしくないですか?要するに信仰によって義とされるの逆で、自分の行い(善行)によって義とされるということで、「誇り」というのは盛り過ぎのように思います。
「グノーシス派」→グノーシスは同様の傾向を持つ多数の教派に対する総称であって、グノーシス派というまとまった教派があったのではないので、この語は不適当です。
原文
Statt eines Naturgotts, besonders eines Sonnengotts, der mit anderen Naturmächten, namentlich also mit Finsternis und Kälte ringt und dessen Sieg den Frühling bringt, ersteht auf dem Boden der Erlösungsmythen ein Retter, der aus der Gewalt der Dämonen (wie Christus), oder aus der Verknechtung unter die astrologische Determiniertheit des Schicksals (die sieben Archonten der Gnostiker), oder, im Auftrag des verborgenen gnädigen Gottes, aus der ihrer Anlage nach durch den minderwertigen Schöpfungsgott (Demiurg oder Jehova) verderbten Welt (Gnosis), oder aus der hartherzigen Verstocktheit und Werkgerechtigkeit der Welt (Jesus) und der Bedrücktheit von dem durch das Wissen um die Verbindlichkeit ihrer unerfüllbaren Gesetzesforderungen erst entstandene Sündenbewußtsein (Paulus, etwas anders auch Augustin, Luther) von der abgrundtiefen Verderbtheit der eigenen sündigen Natur (Augustin) den Menschen zur sicheren Geborgenheit in der Gnade und Liebe des gütigen Gottes führt.
折原訳
救済神話という基礎のうえで、他の自然力、とくに暗黒や寒冷と闘い、勝利して春をもたらす自然神とくに太陽神に代わって、ひとりの救助者が登場する。そして、この救助者が、[以下のとおり、さまざまに解釈される] 困窮の状態から、人間を救い出し、善なる神の恩恵と愛に包まれる安全な状態へと導いてくれる。困窮の状態とは、悪霊の支配であったり (キリストの場合)、占星術的に決定された運命への隷属であったり (グノーシス派の七人の支配者)、あるいは、低位の創造神 (デーミウールゴスやヤハウェ) によって本性上堕落した世界で、隠れた慈悲深い神の委託によってそこから救出されるのであったり (同じくグノーシス)、現世の冷酷な非情さや業誇りであったり (イエス)、充足しえない律法の要求による拘束を察知して初めて発生する罪の意識であったり (パウロ、いくぶんニュアンスは異なるが、アウグスティヌス、ルター)、自分の罪性による底知れない堕落であったりする (アウグスティヌス)。
丸山訳
自然神、特に太陽神で、他の自然の諸力、つまり暗黒と寒冷と格闘して、その者の勝利が春をもたらす、そういう神に替わって、救済神話に基づいて一人の救世主が立ち上がり、その者は(キリストのように)悪魔の暴力から、あるいは占星術により定められた運命による奴隷化から(グノーシス主義者の7人のアルコーン[1])、あるいは、隠された恵み深い神の命令で、劣位の諸創造神(デミウルゴスまたはヤハウェ[2])によって堕落させられた現世(グノーシス主義)の状態から、あるいは現世の無情な冷酷さと行為による義認(イエス)から、また律法の諸要求を遵守できないことを知ることにより初めて生じる罪の意識の拘束による意気消沈から(パウロ、多少違っているがアウグスティヌス、ルター)から、自分自身の本来の罪深い本性による底なしの堕落から(アウグスティヌス)、人間を、慈悲深い神の恵みと愛の中にある安全な場所へと導くのである。
[1] ヤハウェと同じとされるヤルダバオートを筆頭とする劣位の創造神かつ地上の支配者で、7つの天界(太陽、月、木星、土星、金星、水星、火星)に関連付けられている点で占星術の影響がある。
[2] この2つはグノーシス主義では同じ(ヤルダバオート)とされる。
折原浩訳の問題点(118)
ここもまた前の箇所と同様原文の構造を壊してしまっています。
まず大事なのは救済は自分の善行によってではなく他者の働きによるであり、英雄か神かはサブなのに、折原訳だとそのどちらかが重要みたいに読めてしまいます。
「追求者自身の業は、救済という目的に対してまったく不十分と見なされ、」を元の位置から外して後に持っていっているのでますます構造が分からなくなります。なんでこの人、わざわざ原文を理解しにくくなるような訳をするんですかね。可能な限りは原文に出て来る順番で訳すのが基本だと思います。
またここは明らかにイエスのことを想定しているので、「化身」は不可で「受肉」でないとおかしいです。この訳者は何故か仏教系の用語に傾きがちです。(同じく仏教系語彙が好きな創文社訳は、ここではちゃんと「受肉」と訳しています。)
それから「なされた業からex opera operato」も間違いで「なされたわざによってex opere operato」です。ミススペルと誤訳の両方。
原文
II. Die Erlösung kann ferner vollbracht werden nicht durch eigene Werke — welche dann als zu diesem Zweck völlig unzulänglich gelten —, sondern durch Leistungen, die entweder ein begnadeter Heros oder geradezu ein inkarnierter Gott vollbracht hat und die seinen Anhängern als Gnade ex opere operato zugute kommen. Entweder als direkt magische Gnadenwirkungen oder indem aus dem Überschuß der durch Leistungen verdienten Gnaden des menschlichen oder göttlichen Heilandes Gnade gespendet wird.
折原訳
Ⅱ. 救済はまた、追求者自身の業ではなく、神の恵みを受けた英雄か、あるいは化身した神自身か、どちらかの業績によって、もたらされる場合もある。その場合には、追求者自身の業は、救済という目的に対してまったく不十分と見なされ、英雄または神自身の業績が、「なされた業からex opera operato」の恩恵として、その信奉者たちに役立てられる。すなわち、直截に魔術的な恩恵効果として与えられるか、あるいは、人間ないし神的な救世主の業績によって獲得される恩恵の余剰のなかから、一部が分与されるか、どちらかである。
丸山訳
II.更に救済が成し遂げられ得るのは、己自身の善行によってではなく--そういった善行はこの目的には全く不十分でしかないとされるのであり--そうではなくて神の恵みを受けた英雄あるいはまさに受肉した神が成就した働きによってであり、そしてそれはその信奉者に対して、ex opere operato[なされたわざによって]恩恵として利益となるのである。あるいは直接の魔術的な恵みの諸作用としてか、あるいは働きによって得られた人間的あるいは神的な救世主の恵みの剰余からという形で、恵みが贈与されるのである[1]。
[1] この辺りの表現もまた全般的に、救済を一種の経済的な行為であるかのように描写する単語が多数用いられている。