折原浩訳の問題点(74)

ここも何故こんな単純ミスをするのか、という例。im strengen gesinnungsethischen Sinn で streng は誰が見たってSinnにかかっているのに、折原訳では「厳格に要求する」と原文とはまったく違う訳になってしまいます。
こういうレベルの誤訳がほぼ全文に近い確率であるということです。
心意倫理も聞いたことがない単語で、通常は心情倫理と訳すと思います。
(と思ったらHPで心情倫理は誤訳と主張していました。私はgütig gesinnt = 好意を持っている、好意的である、のような表現もあることから考えて、「心情倫理」で意思も感情も含めており問題ないと思います。まったく人の訳は非常に細かいレベルで「誤訳」だと決めつけるのに、自分は信じられないほどのひどい誤訳を多数している訳です。)

原文
Wo diese Auffassung konsequent bleibt, verzichtet sie auf das Verlangen der »Wiedergeburt« im strengen gesinnungsethischen Sinn. Die Lebensführung bleibt ein ethisch unmethodisches Nacheinander einzelner Handlungen.

折原訳
こうした見方が貫徹されるところでは、心意倫理的な意味の「再生」を厳格に要求することは断念される。生き方は、倫理的観点から方法的に規制されることのない、個々の行為の継起に止まる。

丸山訳
こうした把握の仕方が首尾一貫している場合には、そういう把握は「再生」の望みを、厳密な心情倫理的な意味では放棄する。生活実践はその場合倫理によって規制されていない、個々の行為の連続に留まる。

折原浩訳の問題点(73)

ここも良く調べないで思いこみで訳を付けている例。dolusは辞書を引けばその意味は”trick, device, deceit, treachery, trickery, cunning, fraud”であり明らかに詐欺的な行為ということであり、「故意」ではありません。折原訳は「過失」が来たから「故意」だろう、ぐらいのノリで訳したとしか思えません。そもそもここはintentio の説明であり、それ自体に「故意」という意味があり、そこで更に「故意」を使うと単なる同義語の反復になってしまいます。また「善意」「悪意」も私が注を付けたように日本の法律用語としては一般の意味と違うので適切な訳とはいえません。本来のローマ法での意味はbona fides は「詐欺・欺罔・不公正な振る舞いを含まない誠実な態度」です。
大体、こんな未完成もいい所の下訳レベルで、しかも先行訳にも大幅に劣るものを「オープン翻訳」を「騙って」(まさしく dolus)出すなんて、ちょっとその神経が信じられません。

p.s.
創文社訳の訳注には船田亮二の「羅馬法」の訳に従ったとして、dolusが確かに「故意」になっています。
しかしインターネット上のLSDというサイトの説明だと
Dolus is a Roman and civil law term for intentional wrongdoing. It primarily refers to fraud or deceit, indicating bad faith or conduct intended to mislead. It can also describe intentional aggression or willful injury, especially to another’s property, distinguishing it from mere negligence or accident.
となっており、ローマ法では単なる故意ということよりも「故意での詐欺行為」です。それにここではIntentioが最初に来ていてその説明でローマ法の概念が示されているので、単なる「故意」では合わないと考えます。なので私の訳の「詐欺的意図」ぐらいが適当と思います。

原文
Denn die »intentio«, auf welche es nach der Sündenlehre des Katholizismus für die ethische Bewertung des Handelns ankommt, ist nicht eine einheitliche Persönlichkeitsqualität, deren Ausdruck die Handlung ist, sondern sie ist, im Sinne etwa von bona fides, mala fides, culpa, dolus des römischen Rechts, die »Meinung« bei der konkreten einzelnen Handlung.

折原訳
それというのも、カトリックの罪業説によれば、行為の倫理的評価のさいに重視される「志向(インテンチオ)」とは、行為に表明される統一的な人格的資質ではなくて、ローマ法のたとえば善意・悪意・過失・故意の意味における、個々の具体的な行為の「意向(マイヌンク)」にすぎないからである。

丸山訳
というのはカトリックの罪に関する教説がその上に行為の倫理的評価を関連付ける”intentio”[行為者の志向]とは、その表出が行為となる統一された人格的資質ではなく、例えばローマ法の誠実 [bona fides]、不誠実 [mala fides][1]、過失 [culpa]、詐欺的意図 [dulas]などの意味での、「主観的意向」[Meinung]である。

[1] ここの原文は、bona fides、mala fidesであるが「善意」「悪意」と訳すと、日本の法律では「ある事情を知らなかったか知っていたか」という意味になるため、誠実、不誠実と訳した。本来例えばbona fidesは「信義・誠実」「詐欺や不公正な取引の不存在」という意味であり、現在の日本の法律用語はその内のごく一部だけを使用していることに注意。

折原浩訳の問題点(72)

今日も期待通りにやらかしてくれています。
(1)「戦士天堂」って何ですか?ググってもヒット0。(ふしぎ駄菓子屋「銭天堂」が大量ヒット。)何だか「封神演義」の世界みたいです。(笑)ここは要するに北欧神話のヴァルハラなどのことです。
(2)eben dies zu finden「まさにそれを見出すことになる」が何故「体系化への道を開鑿するのが、通例、預言の機能である。」の「開鑿する」になるんでしょうか。土木工事の話ではありませんが。(笑)
(3)「戦死者を優遇した。」ではなく戦死者には(特別の)報賞が与えられた、ということです。
(4)いくらバラモンでも王に対して「死ね」という命令は出来ませんが。(笑)

ジャストシステム時代にATOK関係者の間で「語彙空間」というタームを使っていましたが、本当にこの方の「語彙空間」は謎です。

原文
Die Kriegsgötter z.B. nehmen sehr oft in ihr Paradies nur die in der Schlacht Gefallenen auf oder diese werden doch prämiiert. Für den König empfahl die brahmanische Ethik direkt, daß er den Tod in der Schlacht suchen möge, wenn er den Sohn seines Sohnes sehe. Auf der andern Seite können sie Werke der »Nächstenliebe« sein. In jedem Fall aber kann die Systematisierung einsetzen, und es ist wie wir sahen regelmäßig die Funktion der Prophetie, eben dies zu finden.

折原訳
たとえば、戦争の神々はしばしば、戦場で仆れた者しか、彼らの楽園 [戦士天堂]に受け入れないか、あるいは受け入れるとしても戦死者を優遇した。バラモンの倫理は、王に対して、息子の息子を見たら [男児の孫をえたら]、戦場における死を求めよ、と直截に命じている。他面、「隣人愛」の所業が、そうした社会的功業に数えられることもある。いずれの場合にも、倫理にはある体系化が生ずるが、すでに見たとおり 、まさしくそうした体系化への道を開鑿するのが、通例、預言の機能である。

丸山訳
例えば戦争の神々は非常にしばしば、その楽園にただ戦闘で倒れた者達のみを受け入れるか、そうでない場合もこうした者達は報賞を与えられた。王に対してバラモンの倫理が端的に推奨しているのは、その王に孫が産まれる歳になった場合には、戦いにおいての死を求めることである。別の側面では、社会的行為が「隣人愛」に関するものであることもある。いずれの場合でもしかし、体系化が発生し得るのであり、それは我々がこれまで見てきたように、規則的に預言の機能であり、まさにこうした体系化を見出すのである。

折原浩訳の問題点(71)

ここも原文にないことを勝手に補って書いています。「神なき不信仰の徒と同一視して憚らなかった。」ってどこにも書いていなくて、「~の性格がユダヤ人をそういう方向に誘導した」というだけです。「折原捏造超訳」とでも名付けますか。(笑)
それから、「国民学校」はないでしょう。いくらVolksだからといって、ご自身の子供の頃の語彙を使わないで欲しいです。しかも「現在の」と書いているから「えっ、現在に国民学校?」と二重におかしく感じます。現在って書くなら「ヴェーバー当時の現在の」って書くべきです。100年以上前に書かれたものなのですから。
von früher Jugend anを「幼年期から」とするのも若過ぎ。後に小学校が出て来るからせいぜい6-7歳くらいのことでしょう。私は「まだ年端もいかない子供の時から」と訳しました。これで想定されている年齢は合っていると思います。こういうのが「文化的」翻訳です。

原文
Daß der Jude schon im Altertum, wie Philo hervorhebt, im Gegensatz zu allen anderen Völkern, von früher Jugend an, nach Art unserer Volksschule, fortgesetzt intellektuell systematisch-kasuistisch trainiert wurde, daß auch in der Neuzeit z.B. in Osteuropa aus diesem Grunde nur die Juden systematische Volksschulbildung genossen, ist die Folge dieses Schriftgelehrsamkeitscharakters des jüdischen Gesetzes, welches die jüdischen Frommen schon im Altertum veranlaßte, den im Studium des Gesetzes Ungebildeten, den Amhaarez, mit den Gottlosen zu identifizieren.

折原訳
ユダヤ人はすでに古代においても、フィロンが強調した とおり、他の全ての民族とは対照的に、幼年期から、現代ドイツの国民学校と同じ方式で、体系的-決疑論的な知的訓練を継続的に受けた。また、近代においても、たとえば東ヨーロッパでは、同じ理由で、ユダヤ人だけが、体系的な国民学校教育を受けていた。これらのことは、ユダヤ教の律法が、聖典に精通する学識を重んじた結果であり、その性格からして、敬虔なユダヤ教徒は、すでに古代においても、律法にかんする教養をそなえていない者、すなわち「地の民」を、神なき不信仰の徒と同一視して憚らなかった。

丸山訳
ユダヤ人は既に古代において、フィロンが強調したように、他の全ての民族とは対照的に、まだ年端もいかない子供の時から、我々の[ヴェーバーの時代の]小学校と同じやり方で、連続的に、知的な体系的・決疑論的なトレーニングを与えられたということ、そしてまた近代においても例えば東欧で、この理由からただユダヤ人だけが体系的な小学校教育を享受していたということは、ユダヤ教の律法がこのように解釈され口伝されたという性格の結果であり、その性格はユダヤ人の敬虔な信者が既に古代において、律法の学習を行っていない者を、つまりアム・ハアレツ[地の民]を、神なき者であると見なすよう誘発したのである。

折原浩訳の問題点(70)

超速ペースで70回目達成です。(笑)

ここも原文の構造がまったく見えていません。1番目の文の da と、2番目の文の wo が呼応しているので、wo以下の所では、~になる、と言っているので切って訳してはいけません。また最後のdassも、derart~、dass~という構文で、「このように~されるのでその結果」ということですが、そういう訳にはまったくなっていません。
また、Unterlassenは「思い止まる」ではなく単に「しないこと」、Schulung und Lehreは訓練と指導です。Lehreが来るといつも「教説」と訳すような一語一訳主義は問題です。

原文
Auf einem anderen und indirekten Wege kann eine ritualistische Religiosität da ethisch wirken, wo die Erfüllung der Ritualgebote das aktive rituelle Handeln (oder Unterlassen) des Laien fordert und nun die formalistische Seite des Ritus zu einem umfassenden »Gesetz« derart systematisiert wird, daß es einer besonderen Schulung und Lehre bedarf, um es überhaupt genügend zu kennen, wie es im Judentum der Fall war.

折原訳
儀礼主義的な宗教性は、いまひとつ別の間接的な道を通って、倫理的に作用しうる。それはすなわち、儀礼上の命令を十全に果たすために、平信徒にも能動的に儀礼行為をおこなうこと (あるいは逆に、思い止まること) が要求され、儀礼の形式主義的な側面が、ひとつの包括的な「律法」にまで体系化されて、「律法」を遵守する前提として当の「律法」を知るためだけにも、特別の訓練と教説が必要とされる場合である。ユダヤ教が、その事例に該当する。

丸山訳
儀式における諸命令の遵守が、平信徒に積極的な儀式上の所作(あるいは行わないこと)を強要し、そしてそれにより儀式の形式主義的な側面がある種の包括的な「律法」にまで合理化される場合には、ある儀式主義的な信仰が、ある別の、間接的な経路で倫理的な影響を及ぼすことが出来るが、その結果として[別の間接的経路である]律法が必要とするのは、その律法を一般的な意味で十分知るための特別の訓練と指導であり、それはユダヤ教において起きたことであった。

折原浩訳の問題点(69)

ここでも3つ問題があります。ここでも基本文法を正しく理解せず、また勝手な文章を追加するという悪い癖が出ています。

(1)So sehr,…, dennoch という構文(いかに~してもそれだけいっそう)という構文を理解せず、So sehrを「まさにそれゆえ」と誤訳しています。
(2)「ピューリタンのもとでは、双方とも達成されたが」達成された、は余計です。単にピューリタンでは両方該当するが、と言っているだけです。
(3)[救いの確かさを求めて生き方全体を自己制御する方向に]の注釈もおかしく、jeneが付いているから先に説明した秘蹟が日常生活に倫理的影響を及ぼすこと一般についてであり、ピューリタンに限定した話をしているのではありません。

原文
So sehr, daß gerade bei vollster Entwertung des magischen Charakters des Sakraments und bei gänzlichem Fehlen aller Kontrolle durch Beichte — beides bei den Puritanern — das Sakrament dennoch, und zwar unter Umständen gerade deshalb, jene ethische Wirkung entfalten kann.

折原訳
まさにそれゆえ、聖礼典の魔術的性格が完全に貶価され、告解による制御が完全に廃棄されたところで――ピューリタンのもとでは、双方とも達成されたが――、それにもかかわらず、あるいは、事情次第ではむしろまさにそれゆえに、聖礼典が、かの[救いの確かさを求めて生き方全体を自己制御する方向に]倫理的な作用を発揮することもありうる。

丸山訳
いかに秘蹟の魔術的性格がまさに完全に低く見られており、そして告解による[行為の]コントロールが完全に欠如している--ピューリタンでは両方が該当する--場合でも、それでもなお秘蹟は、しかも状況によってはまさにそれ故に、あの倫理的な作用を発展させることが出来るのである。

Andachtを「帰依」と訳すまずさ

創文社訳も折原訳もドイツ語のAndacht(信心深い敬虔な気持ち、祈祷)を仏教用語の「帰依」と訳しています。おかしな翻訳は逆翻訳をやってみればチェック出来ます。ドイツ語で「帰依」はZufluchtであり、「避難所、拠り所、庇護を求める先」という意味です。つまり「帰依」という訳はこの意味からしてもおかしいということになります。大体創文社訳はやたらと仏教用語寄りに訳していて、それをまた折原訳が無批判で流用してしまっています。日本人に分かりやすいと思ってそうしているのかもしれませんが、学術論文で述べられたことに対して間違ったイメージを与えてしまっています。

Andachtはグリム辞書の説明では、attentio、intentio、Sammlung der Gedanken auf einen Gegenstand、inniges Andenken
となっていますから、「注意、専心、思いの何かの対象への集中、内的な思考」という意味で、ここから「帰依」という日本語訳は普通出て来ないと思います。

折原浩訳の問題点(68)

と思ったら次の文もまた誤訳。なんで最後が「異なってくるだろう」になるんでしょう。まず推測じゃなくて断定ですが、それだけでなく、es kommt auf etwas an (~次第となる、~が重要となる、~に依存するようになる)という構文がきちんと訳されておらず、またauf 以下が2つ出てきて並列なんですが、何故か訳し方を変えています。「告解が成立すれば」も変で、「告解が行われるようになった場合では」「告解が存在している場合には」だと思います。

原文
Diese Mysterien kannten also meist keine Beichte. Wo aber die Anforderung ritueller Reinheit zur seelischen Sündenreinheit rationalisiert worden ist, da kommt es nun weiter auf die Art der Kontrolle und, wo die Beichte besteht, auf deren möglicherweise sehr verschiedenen Charakter für die Art und das Maß der ihr möglichen Einwirkung auf das Alltagsleben an.

折原訳
したがって、そうした密儀はたいてい告解を知らなかった。とはいえ、儀礼上の清浄への要求が、魂の罪なき清浄へと合理化されると、いまや[そうした要求に応ずる]制御の方法が問題となり、告解が成立すれば、それが採りうる多種多様な性格のうち、どんな性格の制度が採用されるかに応じて、日常生活への可能な作用の性質と程度も、異なってくるであろう。

丸山訳
これらの秘教はそれ故に多くの場合、告解というものを知らなかった。しかし儀式においての清浄さへの要求が合理化されて[儀式参加者の]魂の罪なき清浄さ[への要求]となる場合は、そういった秘教にとっては次には、そういった要求をどうコントロールするかが重要になり、また告解というものが存在している所では、更には告解の日常生活への考えられる作用の性質とその程度についての、考え得る限りで様々に異なった性格も重要になる。

折原浩訳の問題点(67)

今日は誤訳ないかと思ったら、やっぱりやらかしてくれます。本当に神経の行き届いていない、下書きレベルに過ぎない雑な翻訳です。
ここではキリスト教以外の話をしているのに、何故「聖礼典を受ける資格」が出て来るのでしょうか。「聖礼典」や「秘蹟」の意味も良くわからずに訳しているということが良く分かります。「個々の特別の重罪」も原文にはないことを勝手に追加しています。schwere が「殺人罪」にしかかかっていないことは明らかです。
この方、論文のタイトルに「プロレゴーメナ」とか使う人ですから、それなりにカントは知っているんでしょうが、定言命法を理解もしていないし、実践もしていないと思います。

原文
Fast alle antiken und die meisten außerchristlichen Mysterienkulte haben dafür lediglich rituelle Reinheit verlangt, daneben galten unter Umständen schwere Blutschuld oder einzelne spezifische Sünden als disqualifizierend.

折原訳
古代のほとんど全ての密儀礼拝およびキリスト教以外のたいていの密儀礼拝は、そうした要件として、たんに儀礼上の清浄のみを要求した。それとならんでは、事情次第で、重大な殺人罪ないし個々の特別の重罪を犯せば、聖礼典を受ける資格を失うものとされた。

丸山訳
ほとんど全ての古代の、そして大部分のキリスト教以外の秘教的礼拝は、ただその礼拝に対して儀式においての清浄さを要求したし、それと並んで事情によっては程度のひどい殺人罪や個々に特別に定められた様々な罪は、礼拝への参加資格を失なわせるものとされた。

折原浩訳の問題点(66)

この辺りずっと儀式主義の議論が続いていますが、どうも使われている単語から判断すると、ヴェーバーはカトリックを頭に置いて論じていると思います。その場合、折原訳がSacramentを「聖礼典」(プロテスタント用語)と訳すのは完全にピンボケで、カトリックの用語である「秘蹟」にしないとおかしいです。(単に訳語だけでなく、プロテスタントでは2つだけですが、カトリックでは7つあります。)
それからVorgangを折原訳では「出来事」と訳していますが、私は「先行・優位」と解釈しました。これも先日のBeziehungと同じで、昔の辞書には「先行・優越」が第一の意味として出ていますが、新しい辞書は「経過」が先に来ています。この経過は本来のこの語の意味ではなく、後から出来た意味です。ChatGPTはまたも「経過」説を言い張りましたが、グリム辞書のコピーを貼り付けたら納得しました。なお、創文社訳の「事象」もおかしな訳です。

Ihr typischer Sinn ist die Spendung von »Sakramentsgnade«: Erlösung von Schuld durch die Heiligkeit der Manipulation als solcher, also durch einen Vorgang, welcher die Tendenz jeder Magie teilt, aus dem Alltagsleben herauszufallen und dieses nicht zu beeinflussen.

折原訳
類型論上の意味は「聖礼典恩恵」の分与にある。そこで、罪からの救済が達成されるのは、所作そのものの神聖性によって、ということはつまり、どんな魔術とも共通に、日常生活から離脱させ、日常生活には影響をおよぼさない、そういう傾向をそなえた出来事によって、である。

丸山訳
そういった秘教的礼拝の意義とは、「秘蹟の恩寵」の授与である:つまり[秘蹟の儀式においての]所作の神聖さによっての罪からの救済、つまり全ての魔術が共有する傾向である、ある種の優位な位置に立つことによる救済で、日常生活から外へ連れ出し、そしてその日常生活には何も影響を与えないということである。