折原浩訳の問題点(171)

これで8月は31回目の問題点指摘で、既に8月で1件/日以上となっています。
womöglichは「おそらくは、ひょっとしたら」ぐらいで「まかり間違っても~ない」といった強い意味はありません。
創文社訳が「--そう考える人がいるかもしれないが--~ない」と訳している方がはるかに適切です。これも辞書を引けば簡単に分かることですが、この訳者は多くの場合辞書をきちんと調べないで思い込みだけで訳しています。

原文
Nicht aus »sozialpolitischen« Interessen, womöglich aus »proletarischen« Instinkten heraus, sondern gerade aus dem völligen Wegfall dieser Interessen erwuchs die Macht der apolitischen christlichen Liebesreligion ebenso wie die zunehmende Bedeutung aller Erlösungslehren und Gemeindereligiositäten seit dem ersten und zweiten Jahrhundert der Kaiserzeit überhaupt. Es sind dabei keineswegs nur, oft nicht einmal vorwiegend, die beherrschten Schichten und ihr moralistischer Sklavenaufstand, sondern vor allem die politisch desinteressierten, weil einflußlosen oder degoutierten Schichten der Gebildeten, welche Träger speziell antipolitischer Erlösungsreligiositäten werden.

折原訳
キリスト教のような非政治的な愛の宗教の勢力が成長を遂げたのは、「社会政策的な」利害関心からではなく、まかり間違っても「プロレタリア的」本能からではなく、むしろ正反対に、そうした利害関心の完全な欠落からである。また、ローマ帝政時代の紀元一、二世紀以降、あらゆる救済教説やゲマインデ宗教性の意義が一般に増大したのも、同様の理由による。そのさい、そうした独特の反政治的救済宗教性の担い手となるのは、被支配者層と彼らの道徳主義的奴隷叛乱のみではけっしてなく、しばしば彼らが主要な担い手になるということですらない。そうした宗教性の担い手となるのはむしろ、政治的影響力を失ったか、嫌気がさしたか、いずれにせよ政治的に無関心となった教養社会層である。

丸山訳
「社会政治的な」利害からではなく、また[そう考える人もいるであろうが]おそらくは「プロレタリア的な」本能からではもなく、まさに完全にこういった利害を禁止することから、非政治的なキリスト教的な愛の宗教の力が成長して来たのであり、それとまさに同様に全ての救済説と教団信仰の増大する意味も一般的に、ローマの帝政期である1・2世紀以来そうであった。その場合に、反政治的な救済諸信仰の担い手となるのは、被支配層とその道徳的な奴隷反乱だけでは全くなく、また多くの場合それらは一度も主要なものであったこともなく、何よりも担い手になったのは政治に無関心な、何故なら影響力を持っていなかったか、あるいは政治に嫌気が差した教養層であった。

折原浩訳の問題点(170)

169の箇所は重要性が高いのでそこだけ別にしましたが、この箇所は他にも色々おかしな訳があります。

(1)「伝統から解放された諸個人による」→von der Tradition Gelöstenは(von der Tradition) Gelöstenであり、führtの目的語です。
(2)「固有法則性」→既に指摘済みですが、「自律性」と訳すべき。
(3)「局地的で束の間の興亡」→partikulärenは「個々の」であり、「局地的で」などという意味はない。
(4)「大規模な世界帝国における普遍的な平和化と権力闘争の全面的な圧殺」→何故か二つに分けていますが、「大世界帝国においての、権力を巡る全ての闘争の普遍的な平定と根絶」です。また「圧殺」は誰によって?という疑問が出るので不適で「根絶」の方がはるかに良いと思います。
(5)「権力を拒否する宗教的同胞倫理」→ここではMachtとGewaldが使い分けられていますから、「暴力を拒否する宗教的な兄弟愛倫理」。また「同胞」も指摘済みですがおかしい。

Aber nicht dieser priesterlich organisierte »Sklavenaufstand« in der Moral allein, sondern jedes Emporwachsen asketischer und vor allem mystischer persönlicher Heilssuche des Einzelnen, von der Tradition Gelösten führt, wie wir sahen, kraft Eigengesetzlichkeit in die gleiche Richtung. Typische äußere Situationen aber wirken verstärkend. Sowohl der sinnlos scheinende Wechsel der, gegenüber einer universalistischen Religiosität und (relativen) sozialen Einheitskultur (wie in Indien), partikulären und ephemeren, kleinen politischen Machtgebilde, wie gerade umgekehrt auch die universelle Befriedung und Austilgung alles Ringens um Macht in den großen Weltreichen, und speziell die Bürokratisierung der politischen Herrschaft (wie im Römerreich), alle Momente also, welche den politischen und sozialen, am kriegerischen Machtkampf und sozialen Ständekampf verankerten Interessen den Boden entziehen, wirken sehr stark in der gleichen Richtung der antipolitischen Weltablehnung und der Entwicklung gewaltablehnender religiöser Brüderlichkeitsethik.

折原訳
とはいえ、このように祭司によって組織される、道徳における「奴隷叛乱」 ばかりでなく、伝統から解放された諸個人による、禁欲的、またとりわけ神秘的な、即人的救済追求が台頭してくると、それらはいずれも、すでに見たとおり 、それぞれの固有法則性にしたがって、同じ方向に進む。とはいえ、そのさい、つぎのような類型的な外的状況も、その方向を促進する方向に作用する。すなわち、(インドにおけるような) 普遍主義的な宗教性 [業教説や仏教]と、社会的文化の(相対的)統一 [カースト制]に比べて、まったく無意味にも見える、小規模な政治的権力形象の局地的で束の間の興亡や、正反対に、大規模な世界帝国における普遍的な平和化と権力闘争の全面的な圧殺、とりわけ (ローマ帝国における) 政治的支配の官僚制化、――つまり、戦士としての権力闘争と社会的な身分闘争に根ざす政治的また社会的な利害関心から、その基盤を根こそぎ奪ってしまうような、こうした全ての動因が、反政治的な現世拒否と、権力を拒否する宗教的同胞倫理の展開という同一の方向に、きわめて顕著な作用をおよぼすのである。

丸山訳
しかしながら、このような祭司によって組織された道徳における「奴隷反乱[1]」だけではなく、禁欲的でありまた取り分け神秘的な個々人の個人的な救済への希求の成長の全てもまた、既に見て来たように[2]、伝統から解放された者達を、自律性によって、同じ方向に導く。しかし典型的な外的な諸状況もまたそれを強化する方向に働く。例えば普遍的な信仰と(相対的に)社会的な統一文化(インドのように)に対しての、個々のそして極めて短期しか続かない権力形態の無意味に見える変遷と同様に、それとは丁度逆にまた、大世界帝国においての、権力を巡る全ての闘争の普遍的な平定と根絶もその例であり、そして特に政治的支配の官僚制化(ローマ帝国のように)もそうであり、従って政治的・社会的な、戦士による権力闘争と社会的な地位を巡る闘争に結び付けられた利害の根底を揺るがす、全ての契機は、反政治的な現世拒絶と暴力を拒否する宗教的な兄弟愛倫理の発展と同じ方向にて、非常に強く作用するのである。

[1] 以前も登場しているが、ニーチェが「道徳の系譜」の中で、ルサンチマンの感情により、現世での強者の道徳を「悪」として価値観をひっくり返すことの形容。

[2] 本翻訳のP.281他。

折原浩訳の問題点(169)

以下の折原訳に、この訳者の変な癖がみられます。形容詞として使われる動詞の過去分詞をこの人は高い確率で「~された」と訳さず、「~される」と訳しています。例のゲマインデの「ゲゼルシャフト化を契機とする」という誤解も、元はvergesellschaftet でしかなく、「(今日のドイツでは)ゲゼルシャフト化されている」という意味でしかないのを「ゲゼルシャフト化される」と訳して、それが必ず必要な契機のように誤解しています。折原訳では前もder Sündigende を「罪を犯しつつある者」と現在進行形のように訳していて、分詞全般の理解の仕方がおかしいです。

原文
Aber nicht dieser priesterlich organisierte »Sklavenaufstand« in der Moral allein

折原訳
とはいえ、このように祭司によって組織される、道徳における「奴隷叛乱」 ばかりでなく

丸山訳
しかしながら、このような祭司によって組織された道徳における「奴隷反乱」だけではなく、

折原浩訳の問題点(168)

今回は新しいパターンで、おそらくはドイツ語は正しく理解しているのに、それを日本語にする時に不適切な誤解を招くものにしてしまっている例。
「最終的には自国の権力保有者も、祭司は承認して」と書くと、多くの人は祭司が権力者を承認した、と解釈してしまいますが、そんな筈はありません。というか元は受動態で、「外国の支配者や自国の権力者によって承認された祭司達」です。それを能動態に変え、本人は「祭司「は」」承認して、のつもりなんでしょうが、そもそも他に承認しなかったものがいたなどとも全く書かれていないために、完全におかしな日本語です。
それから「[祭司の]経験とも、結びついて、」の「経験」も原文にはありません。

原文
Und die Domestikation der Massen, welche sowohl Fremdherrschaften (so zuerst systematisch die Perser) wie schließlich auch die eigenen heimischen Gewalthaber den von ihnen anerkannten Priestern zuweisen, gibt, verbunden mit der Eigenart ihrer persönlichen unkriegerischen Tätigkeit und der Erfahrung von der überall besonders intensiven Wirkung religiöser Motive auf Frauen, mit zunehmender Popularisierung der Religion zunehmende Gründe, jene wesentlich femininen Tugenden der Beherrschten als spezifisch religiös zu werten.

折原訳
外国の支配者 (体系的には、まずもってペルシア人) も、最終的には自国の権力保有者も、祭司は承認して[その地位と支配権は保全し]、大衆の馴致(ドメスティカティオン)を指示する。そして、この大衆の馴致[という役柄]が、[一方では]祭司自身の非戦士的な活動の特性とも、[他方では]宗教的諸動機がとりわけ婦人たちに際立って顕著な作用をおよすという[祭司の]経験とも、結びついて、祭司に、上記のとおり本質上女性的な被支配者の徳目を、宗教に特有の徳性として評価する動機を与え、この動機が、宗教の大衆化とともに、ますます強まるのである。

丸山訳
大衆の家畜化を、外国の支配者(つまりまずは組織的には古代ペルシア人[1])と同様に最終的にはまたその民族自身の権力者達もまた、その者達によって承認された祭司達に割当て、そしてそういった家畜化は、祭司達の個人として戦士的ではない活動と、至る所で特別に効果的な女性への宗教的動機の働きかけと結び付いて、その宗教が次第に一般化して行くに連れて、被支配者のそういった本質的に女性的な諸徳性を特別に宗教的に評価する、次第に強まっていく正当化の理由付けも与えるのである。

[1] 古代ペルシアのアケメネス朝のキュロス2世は、バビロン捕囚にあったユダヤ人を解放し、また寛容な統治でユダヤ人の信仰の保持を許した。

折原浩訳の問題点(167)

まず折原訳は、um so + 比較級、als A、als B (AとBの場合はそれだけいっそう~になる)を正しく訳しておらず、「つぎの事情から」と単純な因果関係に訳している間違い。
また、 der Unterwerfung unter die Fügung des ethischen Gottes und der Priester selbst の所のFügungは「服従」と「摂理」の意味がありますが、「摂理」とするとPriesterにもかかるので「祭司達自身の摂理」となりおかしい。なのでここは神と祭司自身に「服従し屈服すること」と訳すのが自然です。「祭司達自身が定めるところ」は意味不明です。
さらには「不正にたいする弱腰の譲歩と寛容」も変。「不正に対しての好意的な許容と寛大さ」です。

原文
Die Priesterschaft mußte die spezifischen Tugenden dieser Schichten um so exklusiver rezipieren, als diese: Einfachheit, geduldiges Sichschicken in die Not, demütige Hinnahme der gegebenen Autorität, freundliches Verzeihen und Nachgiebigkeit gegenüber dem Unrecht, gerade auch diejenigen Tugenden waren, welche der Unterwerfung unter die Fügung des ethischen Gottes und der Priester selbst zugute kamen, und als sie alle ferner in gewissem Maß Komplementärtugenden der religiösen Grundtugend der Mächtigen: der großmütigen Karitas, darstellten, und als solche von den patriarchalen Nothelfern selbst bei den von ihnen Unterstützten erwartet und gewünscht werden.

折原訳
祭司層は、そうした社会層に特有の、質朴さ・困窮への忍耐強い順応・既成の権威にたいする謙虚な献身・不正にたいする弱腰の譲歩と寛容といった諸徳性を、つぎの事情から、それだけ排他的に受け入れざるをえなかった。すなわち、とりわけそれらの徳目が、倫理的な神と祭司自身の定めるところにたいする従順な服従を助け、さらにはそれらが全て、有力者の宗教上の基本徳目としての寛大な慈悲をある程度補完し、家父長制的な救難援助者自身も、被保護者に期待し、願わしいと見る徳目であった、という事情である。

丸山訳
祭司層は、この社会諸層の様々な特別な徳性を、つまりこれらの社会層の、単純さ、忍耐強い困窮への順応、所与の権威の従順な甘受、不正に対しての好意的な許容と寛大さ、そしてそれらはまたまさに倫理的な神と祭司自身への屈服・服従に役に立つ諸徳性であった場合には、そういったものとしての諸徳性をそれだけいっそう選択の余地なく受け入れざるを得なかったのである。そしてさらにはそういった諸特性の全てをある程度まで有力者の宗教的な基本徳性:気前のよい慈善、を補完するものとして位置付けられ、そしてそう言った諸徳性自身が、そういった有力者達によって保護された者達について、家父長制的な緊急時の援助者達自身によって期待され望まれる場合もそうである。

「宗教ゲマインシャフテン」の日本語訳作成にあたっての参考書籍

基本的に今回の日本語訳にあたって、ここ2年間ぐらいで「実際に読んだ」参考書籍リストが以下です。(新旧約聖書も全部読み直しています、もちろんクルアーンも。)最終的な日本語訳にも載せる予定ですが、取り敢えずここを見ている人のご参考として公開します。
一部だけ学生時代から持っていて、今回改めて参照した(例:フレイザーの「金枝篇」など)ものもあります。
また、例の羽入辰郎批判の時に、宗教改革や英訳聖書関係はここに載っているもの以外で数十冊レベルで読んでいるし、またキリスト教神学事典、仏教辞典のような辞典・事典類も入れていません。また儒教関係は中学生の頃からそれなりに読んでいますが、今さら挙げるまでもないので、一部だけしか載せていません。ちなみにジェームズ・レッグの論語の英訳(ヴェーバーも参照している)は、大学時代に平川祐弘先生の授業で一部を読んでいます。
折原センセの訳には色々問題がありますが、最大の問題はここに挙げているような文献をほとんど参照していないことです。調べようと努力した形跡も見られず、「訳注については創文社訳を参照してください」で済ましています。

ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、その他インド

1.辻直四郎訳、「リグ・ヴェーダ讃歌」、岩波文庫
2.岩本裕編訳、「ウパニシャッド」、ちくま学芸文庫
3.上村勝彦訳、「バガヴァッド・ギーター」、岩波文庫
4.森本達雄著、「ヒンドゥー教--インドの聖と俗」、中公新書
5.中村元著、「インド思想史」、講談社学術文庫
6.立川武蔵著、「はじめてのインド哲学」、講談社現代新書
7.渡辺研二著、「ジャイナ教」、講談社学術文庫
8.清水俊史著、「ブッダという男--初期仏典を読みとく」、ちくま新書
9.並川孝儀著。「パーリ語初期韻文経典にみる最古の仏教」、春秋社
10.梶山雄一著、「輪廻の思想」、講談社学術文庫
11.末木文美士著、「日本仏教再入門」、講談社学術文庫
12.金子大栄注、「歎異抄」、岩波文庫
13.日本思想体系11「親鸞」(教行信証)、岩波書店
14.宮田登著、「弥勒」、講談社学術文庫
15.長部日出雄著、「仏教と資本主義」、新潮新書
16.吉永千鶴子著、「チベット仏教」、岩波新書
17.ヴァーツヤーヤナ、岩本裕訳著、「完訳カーマ・スートラ」、平凡社東洋文庫

儒教・道教

18.坂出祥伸著、「道教とはなにか」、中公叢書
19.窪徳忠著、「道教の神々」、講談社学術文庫
20.姜在彦著、「朝鮮儒教の二千年」
21.貝塚茂樹著、「孟子」、講談社学術文庫

イスラム教

22.水谷周監訳著、杉本恭一郎訳補完、「クルアーン やさしい和訳」、国書刊行会
23.河田尚子著、「日本人女性信徒が語るイスラーム案内」、つくばね叢書
24.渥美堅持著、「イスラーム基礎講座」、東京堂出版
25.大川玲子、「聖典クルアーンの思想--イスラームの世界観」、ちくま学芸文庫

マーニー教、ゾロアスター教

26.山本由美子著、「マニ教とゾロアスター教」、山川出版社世界史リブレット
27.ニコラス・J・ベーカー=ブライアン著、 青木健訳、 「マーニー教--再発見された古代の信仰」、青土社

グノーシス主義

28.大田俊寛著、「グノーシス主義の思想--<父>というフィクション」、春秋社
29.荒井献著、「トマスによる福音書」、講談社学術文庫
30.荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治編訳、「ナグ・ハマディ文書抄」、岩波文庫

ユダヤ教、キリスト教

31.聖書、聖書協会共同訳(旧約聖書続編付き、引照・注付き)、2018年、日本聖書協会
32.田川建三訳、「新約聖書 本文の訳」、作品社
33.B.U.シッパー、山我哲雄訳、「古代イスラエル史--『ミニマリズム論争』の後で 最新の時代史」、教文館
34.関根正雄著、「古代イスラエルの思想--旧約の預言者たち」、講談社学術文庫
35.浅野順一著、「予言者の研究」、講談社学術文庫
36.吉田博司、「旧約聖書の政治学--預言者たちの過酷なサバイバル」。春秋社
37.田川建三著、「原始キリスト教史の一断面--福音書文学の成立」、勁草書房
38.荒井献著、「イエスとその時代」、岩波新書
39.R.F.ホック著、笠原義久訳、「天幕づくりパウロ--その伝道の社会的考察」、日本基督教団出版局
40.ウェイン・A・ミークス著、加山久夫監訳・布川悦子・挽地茂男訳、「古代都市のキリスト教--パウロ伝道圏の社会学的研究」、ヨルダン社
41.ゲルト・タイセン著、廣石望訳、「イエス運動--ある価値革命の社会史」
42.コンツェルマン著、田川建三・小河陽訳、「新約聖書神学概論」、新教出版社
43.田川建三著、「宗教とは何か 上 宗教批判をめぐる」、洋泉社MC新書
44.N.T.ライト、岩上敬人訳、「すべての人のためのローマ書1,2」、教文館
45.聖アウグスティヌス、服部英次郎訳、「告白 上下」、岩波文庫
46.G.K.チェスタトン著、生地竹郎訳、「聖トマス・アクィナス」、ちくま学芸文庫
47.トマス・アクィナス著、稲垣良典・山本芳久編、稲垣良典訳、「精選 神学大全1,2」、岩波文庫
48.上田閑照著、「エックハルト--異端と正統の間で」、講談社学術文庫
49.シュヴァイツェル著、鈴木俊郎訳、「キリスト教と世界宗教」、岩波文庫
50.岡本亮輔著、「キリスト教入門の系譜」。中公新書
51.鈴木範久著、「内村鑑三」、岩波新書
52.赤江達也著、「矢内原忠雄--戦争と知識人の使命」、岩波新書
53.無教会史研究会編、「内村鑑三の系譜 無教会キリスト教信仰を生きた人びと」。新地書房
54.G.ジンメル、深澤英隆訳、「ジンメル宗教論集」、岩波文庫
55.ルードルフ・オットー著、立川武蔵・立川希代子訳、「インドの宗教とキリスト教」

神道

56.井上寛司著、「『神道』の虚像と実像」、講談社現代新書
57.久米邦武著、「神道ハ祭天の古俗」、明治24年刊
58.山村明義著、「神道と日本人--魂とこころの源を探して」、新潮社
59.島薗進著、「教養としての神道--生きのびる神々」

その他

60.谷川政美訳、「ウガリトの神話 バアルの物語」、翻訳工房
61.フランセス・イエイツ著、前野佳彦訳、「ジョルダノ・ブルーノとヘルメス教の伝統」、工作舎
62.ジョルジュ・デュメジル著、松村一男訳、「神々の構造--印欧語族三区分イデオロギー」
63.P.J.H.グリァソン著、中村勝訳・解説、「沈黙交易--異文化接触の原初的メカニズム序説--」
64.J.G.フレイザー著、吉川信訳、「金枝篇 上下」。ちくま学芸文庫
65.吉田禎吾著、「日本の憑きもの--社会人類学的考察」、法蔵館文庫
66.タキトゥス著、泉井久之助訳注、「ゲルマーニア」、岩波文庫
67.カエサル著、近山金次訳、「ガリア戦記」、岩波文庫
68.W.J.モムゼン他編、鈴木広他訳、「マックス・ヴェーバーとその同時代人群像」、ミネルヴァ書房
69.マーティン・グリーン、塚本明子訳、「リヒトホーフェン姉妹」、みすず書房
70.内田芳明著、「ヴェーバー『古代ユダヤ教』の研究」、岩波書店
71.内田芳明著、「マックス・ヴェーバーと古代史研究」、岩波書店
72.マックス・ヴェーバー著、丸山尚士訳、「中世合名・合資会社成立史」、Amazon Publishing
73.マックス・ヴェーバー著、丸山尚士訳、「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」、Amazon Publishing
74. マックス・ヴェーバー著、世良晃志郎訳、「法社会学」、創文社
75.マックス・ヴェーバー著、世良晃志郎訳、「支配の社会学 1,2」、創文社
76.ハインリヒ・ミッタイス著、世良晃志郎・広中俊雄訳、「ドイツ私法概説」、創文社

折原浩訳の問題点(166)

ここもいわば翻訳検定第二弾。(笑)

(1)「経済界で万事が合理的に運用されるようになると」→どこにもそんな原文はありません。それに「経済界」は財界みたいで、不適切です。「経済の世界」と普通に訳せば十分です。
(2)「同胞愛」→前にも指摘しましたが「兄弟愛」
(3)「他には選択の余地がない絶対的」→whallosをそのまま解釈した誤訳。有無をいわなさい、闇雲な、無差別の、という意味であり、「善意」が選択の余地がないのではなく、「善意」の対象が無差別な、という意味。
(4)「外套を乞われればシャツまで与えてしまう」→ここは明らかに山上の垂訓のもじりなので、「上着を乞われれば、下着も与える」と訳さないとおかしいです。

原文
Den entgegengesetzten Weg gegenüber der Rationalisierung der Wirtschaft muß eine mystische Religiosität gehen. Gerade das prinzipielle Scheitern der Brüderlichkeitspostulate an der lieblosen Realität der ökonomischen Welt, sobald in ihr rational gehandelt wird, steigert hier die Forderung der Nächstenliebe zu dem Postulat der schlechthin wahllosen »Güte«, die nach Grund und Erfolg der absoluten Selbsthingabe, nach Würdigkeit und Selbsthilfefähigkeit des Bittenden überhaupt nicht fragt und das Hemd gibt, wo der Mantel erbeten ist, für die aber eben deshalb in ihren letzten Konsequenzen auch der einzelne Mensch, für den sie sich opfert, sozusagen fungibel und in seinem Wert nivelliert wird, der »Nächste« der jeweils zufällig in den Weg kommende ist, relevant nur durch seine Not und seine Bitte: eine eigentümliche Form mystischer Weltflucht in Gestalt objektlos liebender Hingabe nicht um des Menschen, sondern um der Hingabe, der »heiligen Prostitution der Seele« (Baudelaire), willen.

折原訳
神秘的宗教性は、経済の合理化とは正反対の道をたどらざるをえない。経済界で万事が合理的に運用されるようになると、その非情な現実に直面して、同胞愛への要請は、原則的に挫折する。ところが、神秘的宗教性においては、まさにその挫折から、隣人愛の要求が、他には選択の余地がない絶対的「善意」の要請にまでたかめられる。そしてこの善意は、絶対的な自己献身について、その理由も結果も、また懇請する人の価値や自助能力も、およそ問うことなく、外套を乞われればシャツまで与えてしまう体のものである。ところが、まさにそれゆえ、その最終的な帰結においては、そうした献身を受ける個々の人間もまた、いわば誰でもよいこととなり、その価値において平準化される。「隣人」とは、そのときどきにたまたま出くわした者ということになり、その困窮と懇請以外にはなんの意義ももたない者となる。これが、対象を問わない愛の献身という姿をとる、神秘的な現世逃避に特有の形態であり、しかもその献身は、人間のためではなく、献身そのもの、いわば「魂の聖なる売淫」(ボードレール) のため、である。

丸山訳
神秘的な信仰の場合は、経済の合理化に対しては、反対の道を行かざるを得ない。まさしく兄弟愛の要請の、経済の世界においての冷酷な現実に面しての原則的な難破は、その世界において合理的に兄弟愛が取り扱われるようになるや否や、そこでは隣人愛の要求が直ちに無差別の「善意」の要求にまで高められるのであり、その善意は絶対的な自己献身の理由と結果について、またその善意を乞う者の尊厳と自助能力について問わないのであり、上着を乞われた時に、下着も与えるのであり[1]、しかしその慈善についてはしかし、まさしくそれ故にその最終的な帰結においては、その者のために善意が自己を犠牲にする、個々の人間は、言って見れば誰でも良いことになり、その者の価値については平均化されてしまうのであり、その場合「隣人」はその時々に偶然道で出くわした者であり、重要なのはただその者の困窮と懇願でしかない:ある神秘的な現世逃避の特有の形態であり、人間に対してではなく、献身そのものへの対象の無い愛に基づく献身の姿を取ること、つまり「聖なる魂の売春[2]」(ボードレール)を欲するのである。

[1] マタイ5:40「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」(山上の垂訓)を反対にして言っている。

[2] ボードレールの散文詩集「パリの憂鬱」に出てくる表現で、自分の魂を解放し群衆や他者と一体化しようとする行為のこと。

折原浩訳の問題点(165)

ここはもう、誤訳検定みたいなのがあったら、格好の問題になるような誤訳群です。
(1)最初の文のbehauptetは主張ではなく、放棄していなかった、無くしてはいなかった、ということ。しかも過去完了なのに「しつづけていた」はない。
(2)「倫理的諸宗教の無数の慈善施設」の慈善施設は、単に慈善一般ということ。慈善施設に限定する理由がない。
(3)「貧民救済の焚き出し回数が日毎に決められる」→全く意味不明。これは要するに貧民が100人来ようが200人来ようが配食の数が最初から固定されていたということ。
(4)「炊き出し」は非常時の場合に使う語であって、毎日貧民に食事を配るのに使うのはおかしい。
(5)「公式の焚き出し日が確定される」→「確定される」は原文にない。おそらく中国もビサンチンと同様に公的な配食日が決められていて、決められた数だけ配食されるという意味。
(6)「傾向を免れがたい」→そんなこと書いてありません、~にしてしまった、ということ。
(7)「直截」は「ストレートに、ずけずけと」という意味であり、direktの訳としてはおかしい。

原文
Aber seine Bedeutung als gutes Werk hatte das planlose Almosen behauptet. Die zahllosen karitativen Stiftungen aller ethischen Religionen haben der Sache nach ebenfalls entweder zu einer direkten Züchtung des Bettels geführt und überdies, wie etwa in der fixierten Zahl der täglichen Armensuppen in byzantinischen Klosterstiftungen und in dem chinesischen offiziellen Suppentage, die Karitas zu einer rein rituellen Geste werden lassen.

折原訳
ところが、無計画な喜捨も、善行としての意義を保持し、主張しつづけていた。あらゆる倫理的諸宗教の無数の慈善施設は、いずれの場合にも実質上、直截に物乞いを育成することになるか、あるいはまた、たとえばビザンチンの修道院施設で、貧民救済の焚き出し回数が日毎に決められるとか、あるいは中国における公式の焚き出し日が確定されるとか、慈善を純然たる儀礼的ジェスチャーに化せしめる傾向を免れがたい。

丸山訳
しかしながら無計画な慈善は、良き業としての意味を無くしてはいなかった。全ての倫理的な諸宗教での無数の慈善としての寄付は、その本質においては同様に、あるいは直接的に乞食の数を増やすことにつながり、かつまた、例えばビサンチンでの修道院の救貧施設においての毎日の貧民への食料配給の固定された数や、中国においての公的な配食日においてのように、慈善をある儀礼上のポーズにしてしまっていた。

折原浩訳の問題点(164)

最後のイスラム教でのdie Armensteuerとは、いわゆるザカートと呼ばれるイスラム教での5つの戒律の一つです。ムハンマドの時代からあるものなので、折原訳での「導入」は原文にもないものを勝手に補っているもので、間違いです。またザカートは義務化された喜捨であり、税金とは違います。ドイツ語のdie ArmensteuerもSteuerが入っていますが、税金ではなく貧者への支援金のことです。
また「なるほど~てはいた。」と訳していますが、そう訳すとカルヴァンの慈善否定と同じような動きがあった、という風に読めてしまいます。カルヴァンの慈善否定と慈善の合理化・体系化は似て非なるものであり、むしろ対立するものです。

原文
Theoretisch ist dies die Leistung des Salmasius. Vor allem vernichtete aber ganz allgemein der Calvinismus die überkommenen Formen der Karitas. Das planlose Almosen war das erste, was er beseitigte. Allerdings war schon seit der Einführung fester Normen für die Verteilung der Gelder des Bischofs in der späteren Kirche und dann durch die Einrichtung des mittelalterlichen Spitals der Weg zur Systematisierung der Karitas betreten, wie im Islam die Armensteuer eine rationale Zentralisation bedeutet hatte.

折原訳
これは、理論上は、サルマシウスの業績 である。ところが、カルヴィニズムは、慈善の伝来の諸形式を、とくに全面的に廃絶した。無計画な喜捨こそ、カルヴィニズムが排除した第一のものであった。なるほど、慈善の体系化への道は、中世後期の教会で、司教による金銭配分に確定的な規範が導入されて以来、その後やがては中世救貧院の設立以来、すでに歩み始められてはいた。イスラムにおいても、貧民救済税の導入は、慈善の合理的集中化を意味していた。

丸山訳
このことは、サルマシウス[1] の業績である。しかし取り分けカルヴィニズムは、慈善の伝来の諸型式を、一括して無効とした。無計画な慈善は、彼が真っ先に廃止したものである。もちろん既に[中世の]後期の教会で司教による資金の分配についての確固たる規範が導入されて以来、そして次に中世での救貧院の設立によって、慈善の体系化への道が開かれたのであり、それはイスラム教においての義務的な喜捨による貧民の支援[ザカート[2]]が合理的な慈善の集中化を意味していたのと同じである。

[1] Claudius Salmasius、1588~1653年、フランスの古典学者かつ法律家。1630年のDe usuris liberとそれに続く一連の文書で、貨幣はそれ自体の経済的価値があるのでその対価としての利子は正当であると論じ、また利子付き貸し出しを自由化した方が利率が下がるとも論じた。その論拠として古代ローマでは利子付き貸し出しが広く行われており、利子を取ることが自然法に反していないと論じた。

[2] イスラム教で一定以上の財産を持つ者に課せられる義務的な喜捨のこと。ヴェーバーはArmensteuerと税金のようにドイツ語で表現しているが、税金そのものではない。

 

折原浩訳の問題点(163)

ここも経済・金融のことが良く分かっていない例。原文にKreditとしか書いてないのに勝手に「信用貸し」にしてしまっています。「信用貸し」は一般的に無担保融資のこと。ここでは単なる「信用供与」ということです。
それから、教会にモンテ・ディ・ピエタによる貧者への融資が非常な暴利として忌避された、というのは歴史的事実に反し、そういう貧者への融資が低利で行われている一方で、ユダヤ人などによる商業者への高利融資が非難された、ということだと思います。モンテ・ディ・ピエタ自体の利子は必要最小限の経費をカバーするもので禁止されている類いの利子ではないと公会議によって公認されています。

原文
Das Zinsverbot selbst wurde vom Protestantismus, speziell vom asketischen Protestantismus, auf Fälle konkreter Lieblosigkeit beschränkt. Der Zins wurde jetzt gerade da, wo ihn die Kirche selbst in den Montes pietatis faktisch geduldet hatte: bei Kredit an die Armen, als liebloser Wucher perhorresziert, — die Juden sowohl wie die christliche Geschäftswelt empfanden seit langem deren Konkurrenz als lästig, — dagegen wurde er als eine Form der Teilnahme des Kapitalgebers an den mit geliehenem Gelde gemachten Geschäftsprofit und überhaupt für den Kredit an die Mächtigen und Reichen (politischer Kredit an Fürsten) legitimiert.

折原訳
利子禁止令自体は、プロテスタンティズム、とくに禁欲的プロテスタンティズムにおいては、具体的に非情な事態を引き起こす場合にかぎって適用された。いまや利子は、かつて教会自体がモンテス・ピエターティスという形で事実上容認していた、貧者への融資にかんして、非情な暴利として忌避された。――ユダヤ人およびキリスト教徒の実業界も、長らく教会との競合を、煩わしいと感得してはいた。――それに対して、いまや利子は、貸与された貨幣をもって生み出される事業利得に、当の貸与者が与る形式として、また、一般に有力者および富者にたいする信用貸し(王侯への政治的信用貸し)として、正当化された。

丸山訳
利子禁止それ自体は、プロテスタンティズムによって、特に禁欲的なプロテスタンティズムによって、利子を取ることが具体的に冷酷な場合にのみ限定して適用された。利子は今やまさに、教会自身がモンテ・ディ・ピエタの制度において貧者に対する信用供与という形で事実上許容していたが、それでも冷酷な高利貸しとして嫌悪されていた状況において、--ユダヤ人と同様キリスト教の商業界も、かなり前から教会の命令との競合を煩わしいと感じていたのであるが--そういった状況に対して、資本供与者の、貸与された資金がもたらす事業収益へ与ることの一形態として、そして一般に諸権力者と富者への信用(世俗の高位者への政治的信用供与)に対して正当化されたのである。