折原浩訳の問題点(64)

本当にこの方は原文を素直に読まないで曲げたり、余計なことを付け加える傾向が強いです。
(1)「帰依」(Andacht)は本来仏教用語(帰依仏、帰依法、帰依僧)なので使うべきではない。「敬虔な」で良い。
(2)「儀礼主義的な」というより原文は「儀式(偏重)主義者の」。
(3)Dieser äußerste Typusは前の説明を受けて「こういった極端な類型」であり、「敬虔な帰依がこの方向で徹底されたとすれば、その類型は、」のように、この極端な類型を更に徹底するなどという解釈はあり得ない。

原文
Die Konsequenzen einer ritualistischen Andachtsreligiosität können sehr verschiedene sein. Die restlose rituelle Reglementierung des Lebens des frommen Hindu, die für europäische Vorstellungen ganz ungeheuerlichen Ansprüche, welche Tag für Tag an den Frommen gestellt werden, würden bei wirklich genauer Durchführung die Vereinigung eines exemplarisch frommen, innerweltlichen Lebens mit intensivem Erwerb nahezu ausschließen. Dieser äußerste Typus der Andachtsfrömmigkeit bildet darin den äußersten Gegenpol gegen den Puritanismus. Nur der Besitzende, von intensiver Arbeit Entbundene könnte diesen Ritualismus durchführen.

折原訳
儀礼主義的な帰依宗教性の帰結は、きわめて多種多様でありうる。敬虔なヒンドゥー教徒の、余すところのない儀礼的な生活規制は、ヨーロッパ的な考え方からすればまったく途方もない要求を、敬虔な信徒に日々課すことになるが、そうした要求がじっさい厳格に遵守されたとすれば、現世内における模範的に敬虔な生活と、精力的な営利追求活動とを両立させることは、ほとんど不可能であろう。敬虔な帰依がこの方向で徹底されたとすれば、その類型は、ピューリタニズムの[敬虔という点では等価な]類型と、その点で、極端な対照をなす。集約的な労働から免れている有産者以外には、そうした儀礼主義に徹することはできないであろう。

丸山訳
儀式偏重主義者の敬虔な信仰の結果は、非常に様々であり得る。敬虔なヒンドゥー教徒が絶え間なくその生を儀式上の規則でがんじがらめにすることは、それはヨーロッパ的なイメージでは全く途方もないほどの様々な要求に見えるが、それは敬虔な信者に日毎に課され、その実際での厳格な実施においては、模範的に敬虔な信者の現世内的生活において、集中して生業に勤しむことと両立させることはほとんど無理である。このような敬虔な信心の極端な類型はこの点で、ピューリタニズムとの極端な対照関係を成している。日常の生業の仕事から解放されている資産家だけが、こうした儀礼主義を貫徹することが出来る。

「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の第1.20版を公開

「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の第1.20版を公開しました。
まだ決して完全とは言えないとは思いますが、この版を一応の校正完了版とします。
「宗教ゲマインシャフテン」の翻訳が完了したら、再度見直すことも有り得ますが、当面これでフリーズします。

折原浩訳の問題点(63)

今日3本目。後半1/3に入りましたが、誤訳の方もパワーアップしています。
もう言葉もないくらいひどい誤訳ですね。
最後の文で、採用する→発展させる、彫琢し、完成させて→そちらもしている、です。よくもここまで勝手な解釈に改変出来るものです。こういう一見意味が通る誤訳が一番たちが悪いです。大体救済への方法論に完成なんてあり得ないと思いますが。vollbringen には確かに「完成させる」という意味もありますが、ここは単に「行う、遂行する」という意味です。oftではあるがnicht immerではない、と言っているだけです。

原文
1. rein rituelle Kulthandlungen und Zeremonien sein, sowohl innerhalb eines Gottesdienstes, wie im Verlauf des Alltags. Der reine Ritualismus ist an sich von der Zauberei in seiner Wirkung auf die Lebensführung nicht verschieden und steht zuweilen in dieser Hinsicht sogar insofern hinter der magischen Religiosität zurück, als diese unter Umständen eine bestimmte und ziemlich einschneidende Methodik der Wiedergeburt entwickelt hat, was der Ritualismus oft, aber nicht immer vollbringt.

折原訳
1.神礼拝の内部または日常の生活過程における純儀礼的な礼拝行為および儀式であるという場合もある。そういう純然たる儀礼主義それ自体は、生き方への作用の点では、呪術となんら異なるものではない。この点ではときに、魔術的宗教性に劣っている場合もある。それというのも、魔術的宗教性も、事情次第では、再生にかかわるかぎりで生き方にもくい込み、深刻な影響をおよぼす特定の方法を発展させたからである。それに反して、儀礼主義のほうは、そうした方法をしばしば採用するとしても、かならずしもそれを彫琢し、完成させてはいない。

丸山訳
1. 純粋に儀礼的な礼拝行為と様々な儀式であり、日常的なことであるのと同時に神への礼拝の中で行われる。純粋な儀式主義は、それ自体が生活実践に対しての作用を持つという意味で呪術と何ら異なっておらず、この観点では時には、むしろ魔術的な信仰に劣っている場合すらあるが、魔術的な信仰は状況によっては、ある一定の、かなり影響力の大きい再生への方法体系を発展させているのに対し、儀式主義もしばしばそうしているのだが、しかし常にではない。

折原浩訳の問題点(62)

次から次に芋掘りのように問題訳が登場します。(笑)

ここも無神経な訳語選択の例。der psychischen Qualität は救済についての文であれば「霊的な資質」であって「心理的性質」などという心理学の領域の話ではない。

また後者は、古仏教の文脈で「業」を使えば、多くのひとが「わざ」とは読まず「ごう」と誤読するでしょう。(今創文社訳を見たら、こちらも「業」を使っているけど、ちゃんとルビで「わざ」と振っています。折原訳は何も無し。)さらには「地上を越え出る」は「天上の」と訳すべきです。

原文1
Der Einfluß einer Religion auf die Lebensführung und insbesondere die Voraussetzungen der Wiedergeburt sind nun je nach dem Erlösungsweg und — was damit aufs engste zusammenhängt — der psychischen Qualität des erstrebten Heilsbesitzes sehr verschieden.

折原訳1
ところで、ある宗教が生き方におよぼす影響、とりわけ再生への前提条件におよぼす影響は、当の宗教において追求される救済への道、ならびに、これとも密接な関連にある、追求される救済所有 [救済財] の心理的性質の如何に応じて、以下のとおり、きわめてさまざまである。

丸山訳1
ある宗教の生活実践への影響と、取り分け再生の諸前提は、いまやそれぞれの救済への方法によって--そしてそれと最も緊密に関係しているものとして--得ようとしている救済の保持に関しての霊的な資質によって様々に異なっている。

原文2
I. Die Erlösung kann eigenstes, ohne alle Beihilfe überirdischer Mächte zu schaffendes Werk des Erlösten sein, wie z.B. im alten Buddhismus, Dann können die Werke, durch welche die Erlösung errungen wird,

折原訳2
Ⅰ. 救済は、一方では、たとえば古仏教においてのように、被救済者が、地上を越え出る諸力のいかなる支援もなしに、純然たる自力で創出すべき業である、という場合がある。そのさい、救済が達成される方途としての業が、

丸山訳2
I. 救済は最も個人的な、全ての天上の諸力の手助け無しに創り出すべき被救済者の行為であり、それは例えば古仏教においてのようなものである。次にそれはそれによって救済の状態に達する様々な行為そのものでも有り得、

折原浩訳の問題点(61)

ここはヴェーバーの原文が唐突な感じの記述で、職業的呪術師と英雄カリスマがどう関係するのかと悩んで考えたのですが、前の文で職業的呪術師が英雄戦士を教育するというのが出てきたのでそのことでしょう。折原訳はただ部分の訳をつないでいるだけで読んでもさっぱり意味が分かりません。
なお、ついでにErlösungとHeilはどちらも「救済」と訳されますが、前者は「何かの束縛からの解放としての救済」、後者は「心の平安、癒しとしての救済」であるという違いがあります。

原文
Die »Wiedergeburt« wird zunächst nur für den berufsmäßigen Zauberer, aus einer magischen Voraussetzung zauberischen oder heldischen Charisma, in den konsequentesten Typen der »Erlösungsreligionen«, zu einer für das religiöse Heil unentbehrlichen Gesinnungsqualität, die der Einzelne sich aneignen und in seiner Lebensführung bewähren muß.

折原訳
「再生」は当初、呪術カリスマないしは英雄カリスマの魔術的前提からして、もっぱら職業的呪術師にのみ求められたが、「救済宗教」のもっとも徹底した諸類型においては、信徒各個人が自ら獲得し、自分の生き方において確証しなければならず宗教的救済の至福 [感] に欠くことのできない心意の性質ともなっている。

丸山訳
「再生」は最初はただ職業的な呪術師において成され、それは呪術的あるいは英雄的カリスマの[カリスマを覚醒させるための]魔術的な前提条件として成されたが、もっとも首尾一貫した「救済諸宗教」の類型においては、宗教的な救済[Heil、癒しとしての救済]にとって不可欠な内面的態度の質にまでなるのであり、そういった内面的態度の質は個々の者にとって自らそれと向きあい、そしてその生活実践において確かめなければならないものである。

ルター派と浄土真宗

ヴェーバーの「ヒンドゥー教と仏教」の日本仏教の分析で、ヴェーバーが浄土真宗とルター派の類似性を指摘していますが、これはヴェーバーが独自で見出したことだと思っていませんか?
このことは既に戦国時代に日本にて初めてキリスト教を布教しようとしたイエズス会の宣教師、有名なフランシスコ・ザビエルやヴァリニャーノによって指摘されていますので、勘違いされませんように。ザビエルは「日本の仏教徒の間で、ルター派の異端に出会った」と故郷への手紙に書いているそうです。また逆に浄土真宗の方でも、ルターを「ドイツの親鸞」(笑)として研究している僧侶がいたようです。
確かに阿弥陀仏への帰依とSola Fide、万人祭司的な還俗型僧侶、僧侶の結婚OKなど、両者はかなり似ています。ヴェーバーはしかし両方とも現世内禁欲を生み出せなかったとばっさり切っていますが。

出典:ルードルフ・オットー「インドの宗教とキリスト教」講談社学術文庫P.26f

折原浩訳の問題点(60)

また今日もかなり問題の折原誤訳、60回記念(笑)。

(1)「呪術者の後継者養成」なんて原文にはありません。
(2)魔術と呪術が混じって分かりにくい。
(3)「[魔術的能力がすでに獲得されている場合には]その確保-継続を追求する」これもそんなことは書いてない。
(4)»Entrückung«はキリスト教で言う「携挙」のことで、ある状態から奪われて別の状態に移行するということ。「虚脱」なんて意味はない。大体エクスタシー-虚脱、ってまるでポルノ小説です。(笑)
(5)「聖祓」もそんな言葉は無く、「聖別」です。神道用語の「清祓」と混同しているようです。(と思ったら元は創文社訳でした。創文社訳は更に[僧侶の得道]と謎の注釈を入れています。Weiheはカトリック用語で仏教じゃないんですけど。)

原文
Der Besitz des magischen Charisma setzt fast stets Wiedergeburt voraus: die ganz spezifische Erziehung der Zauberer selbst und der Kriegshelden durch sie und die spezifische Art der Lebensführung der ersteren erstrebt Wiedergeburt und Sicherung des Besitzes einer magischen Kraft, vermittelt durch »Entrückung« in Form der Ekstase und Erwerb einer neuen »Seele«, die meist auch Namensänderung zur Folge hat, — wie diese ja als Rudiment solcher Vorstellungen noch bei der Mönchsweihe vorkommt.

折原訳
魔術カリスマの所持は、ほとんどつねに再生を前提としている。すなわち、呪術師自身に固有の生き方と、呪術師の後継者養成、ならびに、英雄戦士の呪術師による育成は、再生による魔術的能力の覚醒 [カリスマ覚醒教育 ] を要し、[魔術的能力がすでに獲得されている場合には]その確保-継続を追求するものである。その手段は、法悦形態への「虚脱」と、新しい「霊魂」の獲得にある。この獲得はたいてい、改名をもともない、修道士が聖祓のさいに改名されるのも、そうした観念の残滓と見られよう。

丸山訳
呪術的なカリスマを持つことはほとんど常に再生を前提としている:呪術師それ自身へと戦士英雄への呪術師による特別な教育と、呪術師の特別な種類の生活実践は再生と魔力の所有への保証を得ようとし、エクスタシーという形態の「魂の離脱[キリスト教用語では「携挙[1]」]」と、新しい「霊魂」の獲得は、その多くは改名を結果として伴い、--その例としてはそういった概念の残滓として今でも修道士が聖別[2] される際に改名が行われている。

[1] プロテスタントにおいて復活の時に起きるとされている現象で、一度滅びた肉体の復活と魂の復活、昇天とキリストとの一体化が続けて起こるもの。テサロニケの信徒への手紙:4:16-17によれば「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 17それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」

[2] 修道士の場合、修道院に入って一定期間修行し、まず単式聖願を行って更に限定された期間の修行を行った後、盛式請願を行い、一生神に身を捧げることを誓うが、この盛式請願によって「聖別された」存在、つまり身を神に捧げる神聖な存在となる。

 

折原浩訳の問題点(59)

ともかくも折原訳で信じられないのはきわめてしばしば原文の意味するところを勝手に変えて作文してしまうこと。以下の文で、In höchst verschiedenem Grade und in typisch verschiedener Qualität はそれぞれ別のことですが、折原訳では「こうなる度合いと類型的性質は、… 、きわめてまちまちである。」と勝手にまとめられてしまいます。また「最高度に異なった(höchst verschiedenem)」というニュアンスは「きわめてまちまち」では十分に伝わりません。この訳者は自分勝手なヴェーバー解釈を作ってそれを読者に押しつけようとしているという点で、最悪の訳者と言わざるを得ません。それでこんな意味不明の訳文を作って自分が「解説者」の顔をするんだからたちが悪いと言わざるを得ません。

原文
In höchst verschiedenem Grade und in typisch verschiedener Qualität ist dies bei den einzelnen Religionen und innerhalb jeder einzelnen von ihnen wieder bei ihren einzelnen Anhängern der Fall. Auch die religiöse Systematisierung der Lebensführung hat natürlich, soweit sie Einfluß auf das ökonomische Verhalten gewinnen will, feste Schranken vor sich.

折原訳
こうなる度合いと類型的性質は、個々の宗教ごとに、またそれぞれの宗教の内部でも、個々の信徒ごとに、きわめてまちまちである。生き方の宗教的な体系化も、経済的な振る舞いへの影響力を取得しようとするかぎり、当然のことながら、強固な障壁に直面する。

丸山訳
そうした生活実践の意義と目的は、個々の諸宗教毎に、そしてまた全個別宗教の内部においても、それらの諸宗教の個々の信者毎に、程度がこれ以上ないくらい異なっており、その類型としての性質も異なっている。生活実践の宗教上での体系化もまたもちろん、それが経済的な行為に対する影響を及ぼそうとする限りにおいて、その前に確固たる障壁が立ち塞がることになる。

折原浩訳の問題点(58)

またも折原訳の変なこねくり回し。”durch Schaffung einer, durch einen zentralen Sinn oder ein positives Ziel zusammengehaltenen, spezifisch religiös determinierten »Lebensführung«, “は全部まとまっている部分なのに、それをわざわざ二つに分解して、「構造的に関連づけて把持される。」などと原文から離れた訳にしています。zusammengehaltenen は単に一まとめにされた、というだけのことです。原文をより難しくかつ不正確に訳しています。
それから折原センセ、ほとんどの場合でSinnを意味と訳し、Bedeutungを意義と訳すことが多いんですが(折原センセに限らず、これまでのヴェーバー関係者も)、それは逆です。主観的に捉えられたのがSinnでBedeutungはある程度客観的な「意味」です。参考:ゴットロープ・フレーゲ「意義と意味について」(Über Sinn und Bedeutung)
Der Sinn der »Wertfreiheit« der soziologischen und ökonomischen Wissenschaften の何種類かある邦訳も全部「意味」ですが、私はこれも「意義」だと思います。これも「ローマ土地制度史」が「ローマ農業史」と誤訳されてそれが50年以上訂正されなかったのと一緒の現象ですね。

ずっとこのような訳し直し作業をやっている訳ですが、これはもう一種のハラスメントで、「オリハラ」と名付けたいと思います。(笑)人の誤訳は極めて声高に批判する癖に、自分の訳文は間違いだらけ、意味不明な日本語だらけで読む人に苦痛を与えるという意味です。(笑)

原文
Eine solche positive und diesseitige Wendung gewinnt sie am stärksten durch Schaffung einer, durch einen zentralen Sinn oder ein positives Ziel zusammengehaltenen, spezifisch religiös determinierten »Lebensführung«, dadurch also, daß, aus religiösen Motiven, eine Systematisierung des praktischen Handelns in Gestalt seiner Orientierung an einheitlichen Werten entsteht.

折原訳
救済への憧憬が、もっとも顕著に、そのように此岸に方向を転じ、積極的な作用を発揮するのは、宗教によって独自に決定される、ある「生き方」を創始することによってである。そうした「生き方」は、ひとつの中心的な意味ないし積極的な目標と、構造的に関連づけて把持される。したがって、それが創り出されると、宗教的な動機から、統一的な価値への準拠という形で、実践的な行為のある体系化が達成されるのである。

丸山訳
救済への憧れは、ある中心的な意義または明確な目標によって一つにまとめられた、特別に宗教的に規定された「生活実践」を創り出すことにより、最も確実にそのように明確な現世志向になるのであり、つまりそれによって、宗教的な諸動機から、実際の行為の体系化が、ある統合された諸価値へ志向するという形で、成立するようになるのである。

 

折原浩訳の問題点(57)

今日も豊作の折原誤訳。
(1)oder mehr von der unvermeidlichen persönlichen UnvollkommenheitはBefreiungにかかるのをそう訳せていない。
(2)chronisch – acute は当然「慢性-急性」なのをそう訳せていない。
(3)最後のsprituell がどこにも訳されていない。
(4)「いずれかに力点を置いて」は原文に無いし余計な追加。
(5)ここではまた persönlich が「個々人の」で「即人的」が消えている。「即人的不完全性」という超意味不明訳を期待していたんですが。(笑)

原文
Der spezifische Inhalt der »jenseitigen« Erlösung kann mehr die Freiheit von dem physischen oder seelischen oder sozialen Leiden des Erdendaseins bedeuten, oder mehr Befreiung von der sinnlosen Unrast und Vergänglichkeit des Lebens als solchem, oder mehr von der unvermeidlichen persönlichen Unvollkommenheit, werde diese nun mehr als chronische Beflecktheit oder als akute Neigung zur Sünde oder mehr spirituell als Gebanntheit in die dunkle Verworrenheit der irdischen Unwissenheit aufgefaßt.

折原訳
「彼岸における」救済に特有の内容は、地上の生存における身体的・精神的・また社会的な苦難からの解放か、あるいは、生の無意味な慌ただしさや無常性そのものからの解放か、さらにはまた、個々人の避けがたい不完全性か、いずれかに力点を置いて解釈されよう。そして、この不完全性もまた、これはこれで、慢性的な汚染状態、突発的にもろもろの罪に陥る傾向、地上的な無知による暗闇の昏迷状態への呪縛、といった窮境のうち、いずれかに力点を置いて把握されよう。

丸山訳
「来世における」救済の特別な内容は、むしろ「地上においての生存においての肉体的なあるいは心的なあるいは社会的な苦しみからの自由を意味することが出来、あるいはむしろ生の無意味なせわしなさと無常さからの解放であるか、またはむしろ避け難い個々人の不完全さからの解放であるか、そしてその不完全さは、そうなるとむしろ慢性的な穢れ、あるいは急性的な罪への傾き、あるいはむしろ地上においての無知による暗黒の混迷状態へと霊的に縛り付けられていると把握されよう。