折原浩訳の問題点(118)

ここもまた前の箇所と同様原文の構造を壊してしまっています。
まず大事なのは救済は自分の善行によってではなく他者の働きによるであり、英雄か神かはサブなのに、折原訳だとそのどちらかが重要みたいに読めてしまいます。
「追求者自身の業は、救済という目的に対してまったく不十分と見なされ、」を元の位置から外して後に持っていっているのでますます構造が分からなくなります。なんでこの人、わざわざ原文を理解しにくくなるような訳をするんですかね。可能な限りは原文に出て来る順番で訳すのが基本だと思います。
またここは明らかにイエスのことを想定しているので、「化身」は不可で「受肉」でないとおかしいです。この訳者は何故か仏教系の用語に傾きがちです。(同じく仏教系語彙が好きな創文社訳は、ここではちゃんと「受肉」と訳しています。)
それから「なされた業からex opera operato」も間違いで「なされたわざによってex opere operato」です。ミススペルと誤訳の両方。

原文
II. Die Erlösung kann ferner vollbracht werden nicht durch eigene Werke — welche dann als zu diesem Zweck völlig unzulänglich gelten —, sondern durch Leistungen, die entweder ein begnadeter Heros oder geradezu ein inkarnierter Gott vollbracht hat und die seinen Anhängern als Gnade ex opere operato zugute kommen. Entweder als direkt magische Gnadenwirkungen oder indem aus dem Überschuß der durch Leistungen verdienten Gnaden des menschlichen oder göttlichen Heilandes Gnade gespendet wird.

折原訳
Ⅱ. 救済はまた、追求者自身の業ではなく、神の恵みを受けた英雄か、あるいは化身した神自身か、どちらかの業績によって、もたらされる場合もある。その場合には、追求者自身の業は、救済という目的に対してまったく不十分と見なされ、英雄または神自身の業績が、「なされた業からex opera operato」の恩恵として、その信奉者たちに役立てられる。すなわち、直截に魔術的な恩恵効果として与えられるか、あるいは、人間ないし神的な救世主の業績によって獲得される恩恵の余剰のなかから、一部が分与されるか、どちらかである。

丸山訳
II.更に救済が成し遂げられ得るのは、己自身の善行によってではなく--そういった善行はこの目的には全く不十分でしかないとされるのであり--そうではなくて神の恵みを受けた英雄あるいはまさに受肉した神が成就した働きによってであり、そしてそれはその信奉者に対して、ex opere operato[なされたわざによって]恩恵として利益となるのである。あるいは直接の魔術的な恵みの諸作用としてか、あるいは働きによって得られた人間的あるいは神的な救世主の恵みの剰余からという形で、恵みが贈与されるのである[1]

[1] この辺りの表現もまた全般的に、救済を一種の経済的な行為であるかのように描写する単語が多数用いられている。

折原浩訳の問題点(117)

ともかくもこの訳者は、文が長くなるととたんに構造が読めなくなって、勝手気ままに変に作り替えられた訳になってしまいます。
この文は特に後半が動詞が省略されて単なる列記になって読みにくいですが、要するに修道院の世俗外禁欲とプロテスタンティズムの世俗内禁欲を対比しているだけです。なので前半は、nicht…, aber… の繰り返しになります。それなのに折原訳のように「西洋の現世内禁欲が信徒に要求するものは」という原文の最後にあるものを勝手に冒頭に入れると、却って読む人には対比が見えにくくなります。
他にも、
(1)修道士の話であれば「純潔」ではなく「童貞」「貞潔」と訳すべきです。
(2)「封建制的な虚飾 に支出して」、まずこの人は封建制度的と封建的の区別がついていません。ここでは封建制について述べているのではありません。またOstentationは「虚飾」ではなく「見せびらかし」です。ポトラッチ(顕示的消費)とかも知らないのでしょうね。
(3)「修道院における行為の減殺」はまったく意味不明。Abtötung も要は禁欲のことですが、難行苦行的ということ。

原文
Nicht Keuschheit, wie beim Mönch, aber Ausschaltung aller erotischen »Lust«, nicht Armut, aber Ausschaltung alles rentenziehenden Genießens und der feudalen lebensfrohen Ostentation des Reichtums, nicht die asketische Abtötung des Klosters, aber wache, rational beherrschte Lebensführung und Vermeidung aller Hingabe an die Schönheit der Welt oder die Kunst oder an die eigenen Stimmungen und Gefühle sind die Anforderungen, Disziplinierung und Methodik der Lebensführung das eindeutige Ziel, der »Berufsmensch« der typische Repräsentant, die rationale Versachlichung und Vergesellschaftung der sozialen Beziehungen die spezifische Folge der okzidentalen innerweltlichen Askese im Gegensatz zu aller anderen Religiosität der Welt.–

 

折原訳
西洋の現世内禁欲が信徒に要求するものは、世界中の他の全ての宗教性とは異なって、「純潔」ではなく、あらゆる性的「快楽」の排除であり、清貧ではなく、富を不労所得源として享有し、封建制的な虚飾 に支出して、生活を心置きなく楽しもうとする、あらゆる誘惑の排除であり、修道院における行為の減殺ではなく、自分の生き方を醒めて合理的に制御し、現世の美や芸術、自分の気分や感情へのいっさいの耽溺を忌避することである。唯一の目標は、生き方の規律化と方法的制御であり、典型的な代表者は「職業人」であり、特有の結果は、社会的諸関係の合理的な即物化 とゲゼルシャフト形成 である。――

 

丸山訳
修道士においてのような童貞[貞潔]ではなく、全ての性的な「快楽」の遮断であり、[修道会や修道団の]清貧ではなく、全ての不労所得を受けること、また封建的な生を楽しむような富の見せびらかしの遮断であり、修道院の苦行的な禁欲ではなく、目覚めた、合理的に統制された生活実践と、現世においての美や芸術への、あるいは自分自身の気分と感情への、全ての没頭を避けることであり、それらは生活実践における諸要求、規律化、そして方法論であり、また一義的な目的であり、そして典型的な代表者が「職業人」であり、社会的諸関係の合理的な即物化とゲゼルシャフト化が、世界の全ての他の信仰とは対照的に、西洋の現世内的禁欲の特有の帰結なのである。--

 

折原浩訳の問題点(116)

ここもまた、原文の論理構造を理解せず、勝手に組み替えた訳文にしている典型例。
ここの文は間に長大な形容詞句の挿入があるものの、構造は単純で、主語はDerwischorden、動詞はpflegen、目的語はeine Heilsmethodikというものです。それなのに折原訳では主語が救済技法になってしまい、かつまた形容詞であるorientierteが何故か「志向していた」と動詞として訳されてしまっています。pflegenもここは「育成する」ではなく単に「行っている」「実践している」です。
また「スーフィー教徒のインド-ペルシア的な」も間違っており、最後に「スーフィーの神秘的な救済の追求に方向付けられた救済の方法論」となってこの2つは直接的にはつながっていません。ともかく間違いだらけのひどい訳です。
またダルウィーシュを托鉢修道団と訳すのも不適です。普通それはフランシスコ会とかドミニコ会のことを指します。ちなみにインドに関しても托鉢僧とか訳していますが、それも訳すなら乞食(こつじき)僧です。

原文
Denn die innerweltlichen Derwischorden des Islam pflegen eine unter sich verschiedene, letztlich aber immer noch an der indisch-persischen entweder direkt orgiastischen oder pneumatischen oder kontemplativen, dem Wesen nach jedenfalls nicht in dem hier gebrauchten Sinne des Wortes asketischen, sondern mystischen Heilssuche der Sufis orientierte Heilsmethodik.

折原訳
イスラムの現世内的な托鉢修道団が育成した救済技法は、それ自体の内部にさまざまな変種を含むとはいえ、究極的にはやはり、スーフィー教徒のインド-ペルシア的な、直接に狂騒道的か・あるいは聖霊主義的か・瞑想的か・いずれにせよ本質上ここで用いられる語義において禁欲的ではなく、神秘的な救済追求に志向していた。

丸山訳
というのはイスラム教の現世内的なダルヴィーシュの教団は、それぞれの間で異なった、結局はしかし常になおインド・ペルシア的で、直接的に狂躁的かあるいは霊的または瞑想的な、本質的にはいずれにせよここで使用している言葉の意味での禁欲的なものではなく、そうではなくてスーフィーの神秘的な救済の追求に方向付けられた救済の方法論を実践している。

折原浩訳の問題点(115)

ここもまた、単に「ゲマインデ」と訳して読者がどちらの意味なのか考えなければいけない悪訳。(そもそもその本人が「ゲマインデ」はゲゼルシャフト化を契機とする、とか間違ったことを言い張って読む人を混乱させているのですが。)
それから「継受」は色んな意味で問題な訳。ローマで「継受」とくれば、西洋法制史を知っている人は「ローマ法の継受」を想像してしまいます。またここでは合理主義がローマ自身が発展させたもので、別の文明などから受け取ったという意味ではなく、その意味でも「継受」は不可。
「確定的な性格特徴を刻印した」もおかしく、西洋のキリスト教団がそういう特徴を見出した、ということ。
Ablehnungの「禁圧」も強すぎる不適切訳。

原文
Die Ablehnung jeder Art der Ekstase ebenso wie jeder Befaßtheit mit individueller Heilsmethodik seitens des weltbeherrschenden militärischen Amtsadels Roms — entsprechend etwa der jeder Heilsmethodik ebenfalls streng feindlichen konfuzianischen Bürokratie — war nun eine der Quellen jenes durchaus praktisch politisch gewendeten, streng sachlichen Rationalismus, den die Entwicklung der okzidentalen Christengemeinden als feststehenden Charakterzug aller auf eigentlich römischem Boden möglichen Religiosität vorfand und den die römische Gemeinde speziell ganz bewußt und konsequent übernahm.

折原訳
ところで、世界を支配したローマの軍事的官職貴族が、あらゆる種類の法悦を拒否し、個々の救済技法への関与をことごとく禁圧したのは――儒教の官僚制がいかなる救済技法をも厳しく敵視したのと同様の対応であったが――、徹底して政治的実践に志向し、厳格に即物的な合理主義が生まれてくる源泉のひとつであった。この合理主義は、西洋でキリスト教のゲマインデが発展するさい、与件としてすでに存立していたが、ローマ的な土壌のうえでおよそ発展が可能ないかなる宗教性に対しても、確定的な性格特徴を刻印したものである。殊にローマのゲマインデは、当の合理主義を、徹頭徹尾、意識的かつ首尾一貫して継受した。

丸山訳
全ての種類のエクスタシーの拒絶と、同様に世界を支配している軍事的な官僚貴族の側からの、個人的な救済の方法論との全ての関与の拒絶は--それは例えば儒教の官僚制が同様に全ての救済の方法論を厳しく敵視したのに対応しているが--あの全く実際的・政治的な方向を目指した、厳格に即物的な合理主義の一つの源泉であったのであり、その合理主義を西洋のキリスト教団は、全ての本来ローマ的な基盤の上で可能であった信仰の確実な特徴として見出したのであり、そしてローマのキリスト教団はそれを特別に完全に意識し、首尾一貫して負ったのである。

折原浩訳の問題点(114)

ここの折原訳、耕作兄弟団って何?というのと、ゲマインデ仲間という訳は、この論文ではゲマインデが地方団体と教団という2つの意味で使われている以上、どちらとも取れるような曖昧な訳は困りますね。ここは訳注にも書きましたが、祭儀の他の参加者は遮断して扉を閉めた中で神官達のみが踊ったということ。折原訳だと地方団体の他の成員を遠ざけてみたいに読めてしまいますし、「門扉」もおかしいです。要はどういう祭なのか自分で調べていないからこういう適当な訳になる訳です。

原文
Kultischer Tanz findet sich nur bei den ältesten Priesterkollegien und im eigentlichen Sinne des Tanzreigens nur bei den fratres arvales, und zwar charakteristischerweise hinter verschlossenen Türen nach Entfernung der Gemeinde.

折原訳
祭儀としての舞踏は、最古の祭司仲間のもとではおこなわれていたが、輪舞という本来の意味における舞踏は、もっぱら「耕作兄弟団fratres arvales」 仲間にかぎり、しかも特徴的なことに、門扉を閉ざしてゲマインデ仲間を遠ざけた後に、実施された。

丸山訳
祭儀での舞踏はただ最古の祭司団体においてのみ見出されるが、野外での輪舞の本来の意味ではただ、fratres arvales[1] [アルウァーレスの兄弟団]においてのみ、それも特徴的なこととして、扉を閉ざして他の祭礼参列者を遠ざけた中で行われた。

[1] 古代ローマで豊穣の神への祭典を12人の高位の神官が中心になって行ったもの。共和政期には廃れていたがアウグストゥスがそれを復活させた。豊穣の神デア・ディアに捧げる祭の第二日に神殿内で儀礼が行われ、その後閉じた扉の背後で、神官達のみが厳粛な踊り、三拍子の踊りを踊った後、頌歌を歌った。

折原浩訳の問題点(113)

また折原センセの世界史知識が怪しい例。
折原訳だとともかくも古代ギリシアは小規模ながら封建制ということになりますが、言うまでもなくそんな事実はありません。ヴェーバーは「封建制として見るのもほぼ無理である」と言っています。要するにローマのようなクリエンテース-パトローヌスのような主従的人間関係がほとんど発達しなかったと言っているだけです。
しかもここご丁寧に、メモ訳注で「「封建制」の概念を含めて、解説。」としています。(笑)

原文
Die Verhältnisse waren in jeder Hinsicht kleiner und minder feudal.

折原訳
社会的生活諸関係は、どの点をとっても、封建制としては見劣りするほど小規模であった 。

丸山訳
社会状況は、どう見ても、より小規模であり、封建的性格も弱かった。

折原浩訳の問題点(112)

ここもまた折原デコトラ翻訳の典型例。短い文章の中で以下の6箇所の誤訳、不適切訳。

(1)「都市貴族層が強い疑念を抱いてことごとく排斥した」なんて書いてありませんし、歴史的にもそういう事実はありません。せいぜい都市貴族層が「苦々しく思っていた」というぐらい。
(2) Innewerden は「感じ取ること、理解すること」であり「内在化した状態性」などという意味ではありません。辞書を引かないで想像で訳を作っています。
(3)Euphorieも「多幸症」と病気みたいに訳すのではなく、「多幸状態」「高揚」ぐらいです。
(4)Musik は言うまでもなく、「旋律」ではなく「音楽」です。
(5)Göttlichsten の最上級が訳されていません。
(6)Das Hellenentumはギリシアの民族性、文化、精神という意味でギリシア世界という意味ではない。

原文
Das Hellenentum schätzte, trotz aller Bedenken des Stadtpatriziates gegen den dionysischen Rauschkult, die Ekstase, die akut orgiastische als göttlichen Rausch, die milde Form der Euphorie, wie sie vor allem Rhythmus und Musik vermittelten, als ein Innewerden des spezifisch Göttlichsten im Menschen.

折原訳
ギリシア世界においては、急性の狂騒的陶酔を神的と評価するディオニュソス祭儀の法悦に対しては、都市貴族層が強い疑念を抱いてことごとく排斥したとしても、多幸症的エクスタシーの穏やかな形態、とりわけ律動と旋律に媒介される形態は、独特の神々しい感情が人間に内在化した状態性として、高く評価された。

丸山訳
ギリシア精神は、都市貴族のディオニュソスの陶酔的祭礼、エクスタシー、急性の狂躁的な神的な陶酔など全てへの疑念にもかかわらず、穏やかな形の高揚状態、特にリズムと音楽に媒介されるもののようなものを、特別の最高度に神的なものを感じ取った状態として評価した。

折原浩訳の問題点(111)

もはやあまり細かいのはわざわざアップしないようにしているんですが、それでも毎日のように誤訳が出てきます。

(1)der nicht schlechthin über 以下は、その前の ein Gott だけにかかるのを、折原訳は「非人格的な神的力・業因果律によって自足完結的に律せられる永遠の世界を超絶するのでなく、そこに内在している神」と全部勝手にまとめた誤訳にしてしまっています。

(2)unpersönliche はならいつものように「非即人的」としていた方がまだましで、ここの意味は「非人格的」ということではなく、「人間的なものではない」ということで、「人間を越えた」ということです。そもそも「人格」を使うとペルソナ(位)を連想させるので良くないです。

(3)vollendsをいつもこの方は「いわんや」と訳すんですが、そこまで強い意味ではなく、「更にはまた」ぐらいでいいと思います。私は「いわんや」と来ると、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を想像してしまいます。宗教関係の文献だけになおさら。(笑)

(4)Wendungの意味がまたも取れていなくて、ここは「法的な表現の仕方」という意味なのを「転換」と誤訳しています。

原文
Eine unpersönliche göttliche Macht oder ein Gott, der nicht schlechthin über, sondern innerhalb einer ewigen, sich selbst durch die Karmankausalität regulierenden Welt stand, oder das Tao, oder die himmlischen Ahnengeister des chinesischen Kaisers, und vollends die asiatischen Volksgötter konnten eine solche Wendung der Heilsmethodik nie produzieren.

折原訳
非人格的な神的力・業因果律によって自足完結的に律せられる永遠の世界を超絶するのでなく、そこに内在している神・あるいは中国の道・天にある皇帝の祖先の霊・いわんやアジアの民間の神々、これらはいずれも、救済技法のそういう [法的手続きへの] 転換を絶えて生み出せなかった。

丸山訳
人間を越える神の力が、またはある永遠の、自分自身をカルマ[業]の因果律で律する現世をただ越えるのではなく、そうではなくその内部に拠って立つ神が、あるいは道が、または中国の皇帝の祖霊が、そしてそれに加えてアジアにおける民衆の諸神が、そういった救済方法の[法的な]表現の仕方を生みだし得たことは一度もなかった。

折原浩訳の問題点(110)

ここもまた原文を大幅に改変(改悪)するひどい翻訳。
weder … gefunden werdenなのに、どこから「残りなく吸収されることはありえなかったし」などという訳が出て来るのか。そして「救済追求」ではなく単に「救済」です。後、wie dort は場所だから「アジア人の場合」は変。「作品であるからには」という理由的な訳もおかしい。

原文
Weder konnte daher im Okzident die mystische Erlösung restlos im Bewußtsein der absoluten Einheit mit einer höchsten weisen »Ordnung« als dem einzig wahren »Sein« gefunden werden, noch war andererseits ein Werk von göttlicher Provenienz jemals in dem Sinn möglicher Gegenstand absolutester Flucht wie dort.

折原訳
それゆえ西洋では、神秘的救済追求も、唯一真実の「存在」として最高の叡知をそなえた「秩序」との絶対的合一という意識に、残りなく吸収されることはありえなかったし、他方では、世界も神に由来する作品であるからには、アジア人の場合と異なり、絶対的に逃避しきれる対象とはなりえなかった。

丸山訳
それ故に、西洋においては、神秘主義の救済は、唯一の真実の「存在」として、至高の賢い「秩序」を備えた絶対的な統一体と意識されて、完全に見出されるのではなく、また他方では、アジアにおいてのように、神に由来する作品がいつかそこからの絶対的な逃避[解脱]が可能な対象物となるという意味も持ち得なかった。

折原浩訳の問題点(109)

折原デコトラ翻訳の典型例。
「神秘的なマリアよりも禁欲的なマルタ」なんて原文にはまったくないものを勝手に追加しています。大体聖書を読んでいる人は、この場面でマルタが禁欲的だ、などと言えないのは知っています。(単にイエスをもてなすための食事の準備をしていただけです。)ついでに最後の文で次の文をくっつけてしまったことです。このためキリスト教が最初からマルタを上に置いていたと読めてしまいますが、もちろんそれは事実ではありません。
それから「シトー会修道院の瞑想・フランチェスコ会修道院の聖霊主義的瞑想」も変です。詳しくは私の訳と訳注を参照してください。

原文
Sowohl die bernhardinische wie die franziskanisch-spiritualistische, wie die täuferische und die jesuitische Kontemplation wie die Gefühlsschwelgerei Zinzendorfs hinderten nicht, daß bei der Gemeinde und oft beim Mystiker selbst, Handeln und Bewährung der Gnade im Handeln immer wieder, wenn auch freilich in sehr verschiedenem Maße, asketisch rein oder kontemplativ gebrochen, die Oberhand behielten, und Meister Eckhart stellt schließlich Martha über Maria, dem Heiland zum Trotz.

折原訳
シトー会修道院 の瞑想・フランチェスコ会修道院の聖霊主義的瞑想・洗礼派とイエズス会派の瞑想・ツィンツェンドルフの感情耽溺、これらいずれの場合にも、ゲマインデでは、しばしば神秘家自身においてさえ、行為と行為における恩恵の確証とが、たえず繰り返し優位を占めた。そのさい、純然たる禁欲に傾くか、瞑想によって打ち砕かれた形態をとるか、程度の差が大きかったことはいうまでもない。神秘家のマイスター・エックハルトでさえ、救世主イエスの言にすら反して、結局は神秘的なマリアよりも禁欲的なマルタを上位に置いたが、これはある程度、キリスト教に当初から固有のことであった。

丸山訳
ベルナール主義[1] の、フランシスコ会-心霊派[2] の、そして再洗礼派とイエズス会の瞑想も同様に、さらには、ツィンツェンドルフの感情への耽溺もまた、次のことを妨げない。それは教団において、またしばしば神秘主義者それ自身においても、行為とそれにおける恩恵の確証が、繰り返し、もちろんまたそれぞれ非常に異なった程度に、禁欲上純粋な形の場合も、あるいは瞑想的に打ち砕かれた場合があったとしても、優位を占め続けたのであり、マイスター・エックハルト[3] は、救世主の言葉に反して、結局はマルタをマリアよりも上としているのである[4]

[1] クレルヴォーのベルナールはフランスのシトー会所属の神学者で、旧約聖書の雅歌のイメージを使って霊魂を花嫁、キリストを花婿とするような恋愛感情的な神との一体化を主張した。

[2] 13世紀後半に北イタリアと南フランスで、その頃のフランシスコ会の清貧原則の緩和方針に反対し、清貧の厳格な実施を提唱したが、これを心霊派(スピリチュアル主義)と言う。

[3] 1260?~1328年頃、ドイツの神学者で神秘主義者。信者の魂における神の子の誕生という説を唱えたことで、異端審問にかけられ、その審問を待っている間に死亡した。

[4] 新約聖書、ルカ10:38-42。イエスがマルタの家に迎え入れられ、マルタはイエスのための食事の準備に没頭したが、妹のマリアは姉を手伝わずただイエスの話を聞いていた。マルタがマリアに何故手伝わないのかと咎めた時に、イエスが「マルタは色々なことに思い煩いすぎであり、マリアは必要である一つのことを選んだのだからそれを取り上げてはいけない」と諭したもの。エックハルトがマルタをより高く評価したのは事実であるが、それは彼自身の特殊な考え方(異端とされた)に基づくもので、キリスト教の内部で一般的な解釈であったのではまったくない。