出ました!persönlicheの訳が「個人として即人的に」。何のことだか不明。
単に個人として教義を承認する、と言っているだけですが。
「当の宗教が教団宗教となって、教義学が形成されるときに」もおかしく、「その宗教がゲマインデ宗教となった場合に、教義学が形成されて」です。
また最後の文は勘違いも甚だしく、pflegen(~しがちである)が全く訳されておらずlediglich(ただ)は「そういう信条として」にかかります。「要求されるにすぎない」などとはどこにも書いてありません。
原文
Und tatsächlich ist er dies in allen prophetischen Religionen entweder von Anfang an gewesen oder mit Ausbildung der Dogmatik namentlich dann geworden, wenn sie Gemeindereligion wurde. Die Annahme der Dogmen ist, außer in den Augen der asketischen oder — und namentlich — der mystischen Virtuosen, zwar nirgends irrelevant. Aber die ausdrückliche persönliche Anerkennung von Dogmen, im Christentum technisch »fides explicita« genannt, pflegt lediglich für bestimmte, im Gegensatz zu anderen Dogmen als absolut wesentlich angesehene »Glaubensartikel« gefordert zu werden.
折原訳
事実、全ての預言者的宗教において、信仰とは当初からそういうものであったか、あるいは、当の宗教が教団宗教となって、教義学が形成されるときに、そういうものとなるか、どちらかであった。教義を受け入れることは、禁欲の達人か、あるいは――とりわけまた――神秘主義の達人の目で見た場合は別として、いかなる場合にもけっして、取るに足りないことではない。しかし、個人として即人的に、教義を承認し表明することは、キリスト教では「顕示的信仰fides explicita」という特別の用語を当てられる事項であって、通例、他の教義に比して絶対に本質的とみなされる特定の「信仰箇条」にかぎって、要求されるにすぎない。
丸山訳
そして事実上、信仰というものは全ての預言的宗教においては最初からこういった性格のものであったか、あるいはその宗教がゲマインデを形成する場合に殊に、教義学が形成されてそういう性格となったか、どちらかである。教義の受容は、禁欲的なあるいは--特に--神秘主義的な練達者[Virtuosen]の目から見た場合を除けば、確かに何ら些末なことではない。しかしながら教義の明白で個人としての承認は、キリスト教においては技術的に”fides explicita”[明示的な信仰]と呼ばれ、ただ特定の、他の教義を対置した上で、絶対的に本質的と見なされる「信条」として要求されるようになるのが常であった。