折原浩訳の問題点(58)

またも折原訳の変なこねくり回し。”durch Schaffung einer, durch einen zentralen Sinn oder ein positives Ziel zusammengehaltenen, spezifisch religiös determinierten »Lebensführung«, “は全部まとまっている部分なのに、それをわざわざ二つに分解して、「構造的に関連づけて把持される。」などと原文から離れた訳にしています。zusammengehaltenen は単に一まとめにされた、というだけのことです。原文をより難しくかつ不正確に訳しています。
それから折原センセ、ほとんどの場合でSinnを意味と訳し、Bedeutungを意義と訳すことが多いんですが(折原センセに限らず、これまでのヴェーバー関係者も)、それは逆です。主観的に捉えられたのがSinnでBedeutungはある程度客観的な「意味」です。参考:ゴットロープ・フレーゲ「意義と意味について」(Über Sinn und Bedeutung)
Der Sinn der »Wertfreiheit« der soziologischen und ökonomischen Wissenschaften の何種類かある邦訳も全部「意味」ですが、私はこれも「意義」だと思います。これも「ローマ土地制度史」が「ローマ農業史」と誤訳されてそれが50年以上訂正されなかったのと一緒の現象ですね。

ずっとこのような訳し直し作業をやっている訳ですが、これはもう一種のハラスメントで、「オリハラ」と名付けたいと思います。(笑)人の誤訳は極めて声高に批判する癖に、自分の訳文は間違いだらけ、意味不明な日本語だらけで読む人に苦痛を与えるという意味です。(笑)

原文
Eine solche positive und diesseitige Wendung gewinnt sie am stärksten durch Schaffung einer, durch einen zentralen Sinn oder ein positives Ziel zusammengehaltenen, spezifisch religiös determinierten »Lebensführung«, dadurch also, daß, aus religiösen Motiven, eine Systematisierung des praktischen Handelns in Gestalt seiner Orientierung an einheitlichen Werten entsteht.

折原訳
救済への憧憬が、もっとも顕著に、そのように此岸に方向を転じ、積極的な作用を発揮するのは、宗教によって独自に決定される、ある「生き方」を創始することによってである。そうした「生き方」は、ひとつの中心的な意味ないし積極的な目標と、構造的に関連づけて把持される。したがって、それが創り出されると、宗教的な動機から、統一的な価値への準拠という形で、実践的な行為のある体系化が達成されるのである。

丸山訳
救済への憧れは、ある中心的な意義または明確な目標によって一つにまとめられた、特別に宗教的に規定された「生活実践」を創り出すことにより、最も確実にそのように明確な現世志向になるのであり、つまりそれによって、宗教的な諸動機から、実際の行為の体系化が、ある統合された諸価値へ志向するという形で、成立するようになるのである。

 

折原浩訳の問題点(57)

今日も豊作の折原誤訳。
(1)oder mehr von der unvermeidlichen persönlichen UnvollkommenheitはBefreiungにかかるのをそう訳せていない。
(2)chronisch – acute は当然「慢性-急性」なのをそう訳せていない。
(3)最後のsprituell がどこにも訳されていない。
(4)「いずれかに力点を置いて」は原文に無いし余計な追加。
(5)ここではまた persönlich が「個々人の」で「即人的」が消えている。「即人的不完全性」という超意味不明訳を期待していたんですが。(笑)

原文
Der spezifische Inhalt der »jenseitigen« Erlösung kann mehr die Freiheit von dem physischen oder seelischen oder sozialen Leiden des Erdendaseins bedeuten, oder mehr Befreiung von der sinnlosen Unrast und Vergänglichkeit des Lebens als solchem, oder mehr von der unvermeidlichen persönlichen Unvollkommenheit, werde diese nun mehr als chronische Beflecktheit oder als akute Neigung zur Sünde oder mehr spirituell als Gebanntheit in die dunkle Verworrenheit der irdischen Unwissenheit aufgefaßt.

折原訳
「彼岸における」救済に特有の内容は、地上の生存における身体的・精神的・また社会的な苦難からの解放か、あるいは、生の無意味な慌ただしさや無常性そのものからの解放か、さらにはまた、個々人の避けがたい不完全性か、いずれかに力点を置いて解釈されよう。そして、この不完全性もまた、これはこれで、慢性的な汚染状態、突発的にもろもろの罪に陥る傾向、地上的な無知による暗闇の昏迷状態への呪縛、といった窮境のうち、いずれかに力点を置いて把握されよう。

丸山訳
「来世における」救済の特別な内容は、むしろ「地上においての生存においての肉体的なあるいは心的なあるいは社会的な苦しみからの自由を意味することが出来、あるいはむしろ生の無意味なせわしなさと無常さからの解放であるか、またはむしろ避け難い個々人の不完全さからの解放であるか、そしてその不完全さは、そうなるとむしろ慢性的な穢れ、あるいは急性的な罪への傾き、あるいはむしろ地上においての無知による暗黒の混迷状態へと霊的に縛り付けられていると把握されよう。

折原浩訳の問題点(56)

やれやれ、またもmassivを「頑強に存続する」と訳しています。ここは「(岩のように)明確な、はっきりした」ぐらいの意味。
それから仏教の話であれば、「平信徒」はおかしく「在家」とすべきです。キリスト教の平信徒は教会の指導の下に救いを目指しますが、仏教の在家は基本的に解脱を目指しません。

それにここも例によって、ヴェーバーの行き過ぎた図式化・単純化の弊害が見られる箇所だと思います。(私の訳注参照。)

原文
Reichtum vor allem erwartet, neben massiven Jenseitsverheißungen, Zarathustra für sich und seine Getreuen von der Gnade seines Gottes. Geehrtes und langes Leben und Reichtum stellt der Buddhismus als Lohn der Laiensittlichkeit hin, in voller Übereinstimmung mit der Lehre aller indischen religiösen innerweltlichen Ethik.

折原訳
ゾロアスターは、頑強に存続する彼岸の約束とならんで、なによりも富を、かれの神の恩恵として、自分とかれの教えに忠実な信徒たちに期待している。仏教は、尊敬に値する長寿とともに富を、平信徒の道徳遵守の報酬として説いているが、この点は、インドにおける全ての現世内的な宗教倫理と完全に一致している。

丸山訳
明確な来世への約束と並んで、何にも増して富を、ザラスシュトラは自分自身とその信者についてその神からの恩恵として期待している[1]。仏教は在家の徳義の報いとして、尊敬され長寿を全うする生を設定しているが、それはインドにおけるあらゆる宗教的な現世内倫理と完全に一致している[2]

[1] ここはまたヴェーバーの誇張が入っていると思われる。ガーサーの中には「家畜・繁栄・長寿」をアフラ・マズダの恩恵とするような内容はあるが、直接に富を重視しているとまでは言えない。

[2] この2つは富の追求とは違うし、またどこの社会・宗教にも普遍的に見られるもので、特にインドや仏教に限った話とは言えない。また古仏教の在家は、キリスト教の平信徒とはまったく違い、輪廻から抜け出して解脱することを目差すものではなく、出家とは明確に区別されていたことにも注意。

そしてもう一つ。
sich befindenは「~の中にいる、自身を~の中に見出す」ということであり、「移行する」という意味はありません。確かに次の文では「移行」が出てきますが、それを前の文で先取りする意味はありません。

原文
Freilich befinden wir uns mit diesen letzten Fällen bereits innerhalb einer Auffassung, welche trotzdem den Reichtum (und irgendwelche anderen diesseitigen Güter) sehr entschieden als ein »religiöses Ziel« ablehnen würden. Aber praktisch ist der Übergang bis zu diesem Standpunkt flüssig.

折原訳
もとより、最後に挙げた [禁欲的プロテスタンティズムの]諸事例では、富 (ならびに、なにか別の此岸的財目) 自体を「宗教上の目標」として立てることは断固拒否する、という捉え方に、すでに移行している。ところが、この立場への移行は、実践上はきわめて流動的である。

丸山訳
もちろん最後に挙げた諸事例においては、そういった富への考え方は、しかしながら富を(あるいは何らかの他の現世的な諸財を)非常に明確に「宗教上の目的」としては放棄するという把握の仕方の中に既に存在しているのである。しかしこの見地への移行は実際には流動的である。

折原浩訳の問題点(55)

折原センセの常識に欠けていること、そして翻訳に当たって調べることをしないこと、にも関わらず適当な訳を当てはめるという悪いところが全部出ている誤訳です。 Schu Kingは「詩経」ではなく「書経」です。大体、孔子が「一言以て之を蔽う。曰く、思(おもい)邪(よこしま)無し」と評した詩経にお金の話とか財宝目録が出て来る筈がないのは常識で分かると思いますが。創文社訳は「中国の経書」、これは間違いではないが、調べないで逃げているのを、折原訳はそれを勝手に「詩経」にしてどうしようもない間違いにしてしまっています。なお、全集には正しく注釈が付いていますが、これも当然見ていません。正しい出典は私の訳注を参照願います。それから「財宝目録」も変。財産として重要なものの順番リスト(原典では五福)です。
写真は私の漢詩・漢文関係の蔵書の一部です。詩経も当然読んでいます。

原文
Reichtum, das, nächst langem Leben, höchste Gut in der Gütertafel des Schu King, hängt für die chinesischen Untertanen an der richtigen Ausführung des offiziellen Kultes und der eigenen Erfüllung der religiösen Pflichten, während irgendwelche Jenseitshoffnungen und Vergeltungen ganz fehlen.

折原訳
中国の詩経の財宝目録では、富が、長寿に次ぐ最高の財とされているが、中国の臣民にとって、富の取得は、公的な礼拝が正しく遂行され、各人が自ら宗教的諸義務を果たすことにかかっており、彼岸への希求や応報といった観念はまったくない。

丸山訳
書経では五福の最高財の序列で、富が長寿の次に来ており[1]、中国の臣下にとっては公的な祭礼を正しく遂行することと自分自身が宗教的な諸義務を果たすことが富の条件であり、一方で来世の色々な希望や報いといったような考え方は全く欠如していたのである。

[1] 「書経」の周書の洪範(大いなる法の意味)にて、五福として寿、富、康寧、攸好徳、考終命(長寿、富裕、安寧、徳を修めること、老いて天寿を全うすること)が出て来る。しかしそこでは五福以外にも五行、五紀、五事などが挙げられていて、一種の分類体系を示しているものに過ぎない。また五行にランキングがないように、五福も五つ並べただけであり、二番目に富が来ているからそれが二番目に重視されていたという解釈はこじつけである。更に注意すべきは、これはわざわざ書経を引用しなくても、世界の多くの文化では当たり前の項目であることで、むしろキリスト教などの方が特殊だと考えるべき。それに中国の官吏であっても儒教だけでなく仏教に帰依していた人もいたはずで、彼岸=涅槃への志向もあった筈である。中国の仏教は隋の時代ぐらいから広まり、初期の帰依者は皇帝や貴族であった。ヴェーバーの中国理解は限られた翻訳資料から単純な図式を作り出しているもので、かなりの西欧的な先入観を含んだもので注意が必要である。

折原浩訳の問題点(54)

また折原訳の変な日本語。massivst は「頑強このうえない功利的期待」ではなく、「これ以上ないほど剥き出しの、露骨な功利的期待」です。ゴツゴツした岩などが誰が見てもはっきりそう見える、という意味です。要するに通常我々が「救済」と聞いて想像する倫理的な性格をもったものではなく、まったくの現世御利益的なものと言っている訳です。そういう文脈が何故読み取れないのか、「頑強な期待」が日本語としておかしいと感じないのか、不思議です。

原文
Zahlreiche andere Religionen kennen »Erlösung« nur als eine in engen Konventikeln gepflegte Sonderangelegenheit, oft als einen Geheimkult. Auch bei religiösen Handlungen, welche als ganz spezifisch »heilig« gelten und ihren Teilnehmern ein nur auf diesem Wege erreichbares Heil versprechen, stehen sehr oft die massivsten utilitarischen Erwartungen an Stelle von irgend etwas, was wir gewohnt sind, »Erlösung« zu nennen.

折原訳
それ以外の数多の宗教では、「救済」が、狭い範囲の信徒集会で育成される特別の事項として、しばしば秘教的な礼拝として、知られているだけである。まったく独特の意味で「神聖」とみなされる宗教的行為で、その参加者にはもっぱらそこを通って救済に到達できると約束されている場合にも、頑強このうえない功利的期待が、「救済」と呼びならわされているものにとって代わっていることが、頻繁に見られる。

丸山訳
数多い他の諸宗教は「救済」を、ただ限定されたメンバーでの秘密集会にて取り上げられる特別な問題として、しばしば秘密の祭儀としてのみ知っている。また宗教的な諸行為においても、それらが全く特別に「聖なる」ものと見なされ、そしてその諸行為を行う者に対して、この方法によってのみ到達可能な救済が約束され、非常にしばしば、我々が通常「救済」と呼ぶものの代わりに、これ以上無いほど露骨な功利主義的な諸期待が存在しているのである。

折原浩訳の問題点(53)

ここは、折原訳の無神経で間違った訳語選択と、ヴェーバー自身のおかしな議論の箇所です。

(1)折原訳はspiritualistischを「唯心論的」と訳しています。しかしここで説明されているのは明らかにグノーシス主義・マニ教的な二元論であり、それを唯心論的とは言えません。以下はWikipediaの「心霊主義」の項の説明より:「心霊主義はspiritualism(スピリチュアリズム)の日本語訳のひとつであるが、「唯心論」「精神主義」とも訳されるため注意が必要である。」私は「霊的な二元論」としました。
(2)ヴェーバー自身のおかしな議論については私の訳の訳注を参照してください。

原文
Die Zerspaltung der Welt in zwei Prinzipien besteht hier nicht, wie in der ethisch-dualistischen Vorsehungsreligiosität, in dem Dualismus der heiligen und allmächtigen Majestät Gottes gegen die ethische Unzulänglichkeit alles Kreatürlichen, und nicht wie im spiritualistischen Dualismus, in der Zerspaltung alles Geschehens in Licht und Finsternis, klaren und reinen Geist und finstere und befleckende Materie, sondern in dem ontologischen Dualismus vergänglichen Geschehens und Handelns der Welt und beharrenden ruhenden Seins der ewigen Ordnung und des mit ihr identischen, unbewegten, in traumlosem Schlaf ruhenden Göttlichen.

折原訳
さて、全被造物の倫理的不完全性に、神の神聖で全能な尊厳を対置する倫理上二元論的な摂理信仰、あるいはまた、全ての出来事を、光と闇に、明澄にして清浄な精神と、暗黒で汚濁をもたらす物質とに分割する唯心論的な二元論では、世界がふたつの原理に分裂する。ところが、古仏教においては、そういう分裂はなく、ただ、一方には、世界の無常な出来事と行為、他方には、夢も見ない眠りに安らぐ、永遠の秩序と同じく不動の神的存在という、存在論的な二元論があるばかりである。

丸山訳
輪廻転生の考え方においては、倫理的二元論の摂理信仰、つまり神の神聖で全能の至高性が全ての被造物の倫理的な不完全さに対置されるという二元論におけるように、二つの原理の間で現世が分裂するということは起きない。そして更にそれは霊的な二元論のように、全ての発生事象を光と闇の間の分裂、つまり清澄で純粋な霊と、暗くて穢れをもたらす物質との分裂として見るのでもなく、そこに見られる考え方は、無常である現世での発生事象と、そして永遠の秩序が終わることなく存続することと、その存続と同一視される不動の、夢のない眠りに安らぐ神的なものの、存在論的な二元論である[1]

[1] ここでのヴェーバーが古仏教を存在論的二元論とするのは、全体を二元論でまとめるために無理に作ったロジックにしか見えない。インドでの典型的な二元論ではブラフマンとアートマンの二元論があるが、これも「梵我一如」という言葉に示されるように結局は一つのものとされている。また「夢のない眠りに安らぐ神的なもの」は通常ブラフマンについてのヒンドゥー教的説明であって、これも仏教の説明には適当ではない。また重要なのは仏教は「無我」と言われるようにアートマン自体を否定している。

折原HPのとある記事より

折原HPに下記の記載有り、それによると少なくとも「宗教社会学」の英訳の内容の正しさをゼミでチェックしていたみたいですが、そういう作業を経てなおあの恐るべき誤訳だらけの日本語ですか、と聞きたくなります。(笑):
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小生、1968年春から「東大紛争」に直面し、関与を迫られましたが、当時とくに頻繁に接触して議論を交わした相手が、小生よりほぼ10~12年年少のゼミ生でした。 みな、たいへんな勉強家でした。1967年度のゼミでは、「ヴェーバー宗教社会学講読」と題してEphraim Fischoff訳のThe Sociology of Religion (1963, Boston: Beacon Press) を輪読し、「ヴェーバー宗教社会学」の内容と思考方法を会得しようと目論んだのですが、始めるとすぐ、報告を分担した学生たちが、英文テキストに続々と誤訳・不適訳 (らしく、意味が通らない箇所) を見つけ、「これでは駄目だ」というので、結局、大庭君、八木君ら、(ドイツ語の初級文法は修得し終えた) 二年生から始めて、ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)「第六章」の難解なドイツ語原文にあたり、原意を汲み取ったうえで報告してもらい、各人の読解案を検討しながら「改訳ゼミ」を進めることになりました。

折原浩訳の問題点(52)

この訳者には、何が論じられているかによって適切に訳語を使い分けるということがまったく出来ていません。仏教の輪廻転生と解脱の話なのに、なんで「止揚」とか「実存」が登場するのかまったく意味不明です。実存主義の話でもヘーゲル哲学の話でもありません。悪しき「一語一訳」主義の人です。

ちなみに以下は折原センセの発言から。まあ本当にブーメランの人です。
「学会のHPに「誤訳問題コーナー」を開設し、会員から申請があって重要と認定したばあい、審査委員会を設けて審査し、その結果を公表して、関連分野における翻訳の水準維持に配慮し、高度に責任を担っていく、という方途も考えられましょう。」

原文
Der Sinn ethischen Verhaltens kann nur entweder, bei bescheidenen Ansprüchen, in der Verbesserung der Wiedergeburtschancen oder, wenn der sinnlose Kampf um das bloße Dasein beendet werden soll, in der Aufhebung der Wiedergeburt als solcher bestehen.

折原訳
倫理的な振る舞いの意味はもっぱら、要求が控えめな場合には、再生のシャンスを改善すること、あるいは[要求がその域を越える場合]、たんなる実存のための無意味な闘いを終わらせるために、再生そのものを止揚すること、このどちらかに求められるほかはない。

丸山訳
倫理的な行為の意義は、ただ次のどちらとして、つまり控えめな要望としては、転生のチャンスを改善することであり、あるいはこういった単なる存在のための無意味な戦いを終わらせ、そういった輪廻転生の輪から抜け出そうとする場合にのみ存在する。

折原浩訳の問題点(51)

さあ今日も十分ネタになる大物誤訳来ました!(笑)

(1)「われわれの思考習慣における自然主義的な「因果律」」っておよそ意味不明。我々が自然に因果関係的な考え方をしがちである、ということに過ぎないと思います。
(2)「倫理的に意義のあるいかなる行為[の倫理的意義]」も日本語として変。「倫理的に重要な行為の意義」でいいと思いますが。
(3)「不滅の世界過程」→この訳者がWeltを「世界」と訳す典型例。(たまたま今読んでいる、H・コンツェルマンの「新約聖書神学概論」の訳者後書きで田川建三氏がキリスト教的文脈ではWeltは「世界」ではなく「現世」「この世」と訳せ、と書いています。)「現世の進行過程」でいいと思います。
(4)そして極めつけ:「世界過程自体にそなわる自動装置によっておのずと決済していくからである。」→自動装置、自動機械が来たら「決済」?単にここは自動的な機構によって無しで済ますと言っているだけで、自動販売機のイメージは関係ありません。

原文
Er rationalisiert sie und damit den Kosmos unter rein ethischen Prinzipien. Die naturalistische »Kausalität« unserer Denkgewohnheiten wird also ersetzt durch einen universellen Vergeltungsmechanismus, bei dem keine ethisch relevante Tat jemals verloren geht. Die dogmatische Konsequenz liegt in der völligen Entbehrlichkeit und Undenkbarkeit eines in diesen Mechanismus eingreifenden allmächtigen Gottes: denn der unvergängliche Weltprozeß erledigt die ethischen Aufgaben eines solchen durch seine eigene Automatik.

折原訳
輪廻信仰は、そうしたアニミズム的観念を合理化し、そのさい宇宙をもっぱら倫理的な諸原理のもとに合理化する。われわれの思考習慣における自然主義的な「因果律」が、ひとつの普遍的な応報機制にとって代わられ、ここでは、倫理的に意義のあるいかなる行為[の倫理的意義]も、けっして消滅することはない。そこからは、この機制に干渉する全能の神は、まったく必要がないばかりか、考えることさえできない、という教義上の結論が導き出される。それというのも、不滅の世界過程が、そういう神の倫理的な[正義の規準に則って賞罰を配する]課題を、世界過程自体にそなわる自動装置によっておのずと決済していくからである。

丸山訳
輪廻転生の信仰はそうしたアニミズムの概念を合理化し、それによって同時に宇宙を純粋に倫理的な諸原則の下に置いて合理化する。我々の思考においてありがちな自然な「因果関係」がそれ故にある普遍的な報いのメカニズムによって代替され、その際に倫理的に重要な行為の意義が失われるということは決してないのである。教義としての帰結は、ある全能の神がこのメカニズムに干渉するということを完全に無しで済まし、想定しないということである:というのは不滅の現世の進行過程が、それ自身の自動機構によって、そういった神の倫理的な諸課題を無にするからである。

折原浩訳の問題点(50)

ついに50回。本当にほぼ全ての訳文に問題があることがお分かりいただけるかと思います。いいですか、皆さん、これが人の翻訳に対してあれこれと批判する人のご自身の翻訳の実態です。

(1)「不浄化」って何ですか?「浄化」はありますけど。大体やたらと「彼岸」とかを使うのなら、ここは日本語として自然な「穢れ」を使うべきです。
(2)「堕落」といった変な価値判断を訳者が勝手に追加し変更しています。原文は要は光の領国から闇の領国への「転落」としか言っていません。
(3)「暗黒と紛糾の国」って何ですか?「紛糾」は議論とか会議とかにしか普通使いませんが。
この短い文をよくもこれだけ変な風にこねくり回せるものだと呆れます。

原文
Das Böse erscheint als Verunreinigung, die Sünde, ganz nach Art der magischen Frevel, als ein verächtlicher, in Schmutz und gerechte Schande führender Absturz aus dem Reich der Reinheit und Klarheit in das Reich der Finsternis und Verworrenheit.

折原訳
悪が不浄化とみなされ、もろもろの罪は、魔術上の冒涜 [儀礼侵害]行為とまったく同じように、曇りのない清浄な国から暗黒と紛糾の国への転落、しかも汚濁と相応の恥辱に陥るのも当然の、軽蔑すべき堕落とみられる。

丸山訳
悪は穢れとみなされ、様々な罪は、魔術上の冒涜に対してとまったく同じで、軽蔑すべき、汚れたもので、当然の汚名を蒙ることになる、清浄さと明澄さの領国から闇と混乱の領国への転落である。