ヴェーバーのVirtuose概念の危うさ

今訳している所に、Virtuoseという概念が出てきます。音楽で言うヴィルトゥオーソ(名人)のことです。ちょっと引用します:
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宗教的な練達者[Virtuose]が、ウマル1世[1] の時代のイスラム教徒のように世界を征服しようとする宗教戦士団の仲間の一人であるか、あるいは大半のキリスト教徒のように、そしてそれより徹底はしていないがジャイナ教徒のような、現世を拒絶するような禁欲のそれであるか、あるいは仏教僧のように現世を拒絶する瞑想を行うそれであるか、古代でのキリスト教徒のように抵抗せずに殉教した者のそれであるか、あるいは禁欲的プロテスタントのように現世の中で自分の職業の有用性を示したそれであるか、ファリサイ派ユダヤ人のような形式的な律法遵守者のそれであるか、アシジの聖フランシスコのような現世否定の慈悲のそれであるか[2]、いずれにせよどの場合でも、練達者[Virtuose]は--既に確認した通り--真の救済の確証をただ、その者が自分自身で自分の練達者[Virtuose]としての心情を、試練の下で常に新しく確認する場合にのみ手に入れるのである。

[1] 在位634年~644年の第2代正統カリフで、聖戦を展開しイスラム教の勢力圏を拡大し、シリア・エジプト・イランを征服した。

[2] ヴェーバーはここで多数列挙してそれをVirtuoseの説明にしているが、まったく性格の違うものをただ列挙しただけで、定義としては全く破綻している。また特に仏教僧で悟った者は「救いの確証を不断に確かめる」といったことは絶対にしない。要するにここでヴェーバーがしていることは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でカルヴィニズムの信徒に使った説明を全宗教に無理矢理当てはめようとしているだけである。
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はっきり言ってここの説明はひどいです。ありとあらゆる宗教の登場人物を単にVirtuoseでくくって入れてしまっています。訳注に書いたように、仏教の悟りを開いた僧(阿羅漢)には全く当てはまりませんし、また殉教のVirtuoseって何?っていう感じです。また同じく訳注にあるようにここは単にプロ倫の説明をそのまま全宗教に使っただけです。「雑」な分析としか言いようがありません。

折原浩訳の問題点(88)

88回目で、誤訳の米寿達成。(笑)
何故か折原センセはMenschennatur(人間の本性)をMenschenとNaturにわざわざ分解し、「宗教的に加工されていない生の自然として」という意味不明の訳にしています。bearbeitenも「働きかける」であって「加工されている」は変。

原文
In ihrer gesinnungsethischen Interpretation bedeutet die Heilsmethodik praktisch stets: Überwindung bestimmter Begehrungen oder Affekte der religiös nicht bearbeiteten rohen Menschennatur.

折原訳
救済技法を心意倫理的に解釈すると、それは実践上つねに、人間性のうちの特定の欲望ないし情動を、宗教的に加工されていない生の自然として克服しようとすること、を意味している。

丸山訳
そういった者達を心情倫理的に解釈すると、救済の方法論は実践的には常に同じであった:宗教的な陶冶を受けていない元々の人間性の、特定の欲望ないしは情動の克服である。

折原浩訳の問題点(87)

よくもまあ毎日誤訳が出て来ると本当にあきれます。
(1)「一義的に明瞭」→どちらかでいいです。こういうのをトートロジーと言います。
(2)「当の技法をどの程度首尾一貫して実施できたかどうか、その度合いと結果も、同様に動揺を免れなかった。」→ここではKonsequenzは、方法体系を実践した結果、論理的帰結であり、「首尾一貫性」ではありません。(Konsequenzはコンピュータの「シーケンス処理」と同じことで、ある一連の処理をした「結果」が第一義であり、首尾一貫性はそこから派生した意味に過ぎません。)「その度合いと結果」は原文にありません。「動揺を免れなかった」→単に非常に多様だった、と言っているだけ。またこの訳者が得意な脚色です。

以上2点とも創文社訳は正しく訳しています。

原文
Der Weg zu diesem Ziel und der nähere Inhalt des Zieles selbst sind an sich nicht eindeutig, und die Konsequenz der Durchführung der Methodik ist ebenfalls sehr schwankend.

折原訳
もっとも、この目標に向けての道と、当の目標そのものの立ち入った内容とは、それ自体として一義的に明瞭ではなく、当の技法をどの程度首尾一貫して実施できたかどうか、その度合いと結果も、同様に動揺を免れなかった。

丸山訳
この目標に向かう道とその目標自体の詳細な内容は、それ自体が一義的なものではなく、方法体系を実践した結果は同様に非常に様々であった。

サンスクリットの格言

最近サンスクリットを少しずつ勉強し始めています。その練習問題に出て来た句。
शत्रोरपि गुणा ग्राह्या दोषा वाच्या गुरोरपि।
śatrorapi guṇā grāhyā doṣā vācyā gurorapi
敵の美点でさえ認めるべきであり、師の欠点でさえ指摘すべきである。

まさにここにぴったり。(笑)

折原浩訳の問題点(86)

今日は小ネタですが、相変わらず継続して誤訳が出てきます。
religiös gewendetは「宗教上の言い回しによれば」ではなく、「宗教的にはまったく逆になり」です。要するに本来は神に近付き救済財を得るためのものであった手段が結局は神に見捨てられた状態へと「反転する」ということです。
Wendungなら「言い回し」という意味がありますが、動詞のwendenにはそういう意味はなく「向きを変える、逆に進む」という意味です。後細かいことですが「急転」というのも原文にはありません。私は「推移する」と訳しましたが、原文は「交代する」となっています。Aの状態がBの状態に変わる、ということです。

原文
Denn wie jede Art von Rausch, die orgiastische Heldenekstase ebenso wie die erotischen Orgien und der Tanzrausch unvermeidlich mit physischem Kollaps wechselte, so die hysterische Erfülltheit vom Pneuma mit dem psychischen Kollaps, religiös gewendet: mit Zuständen tiefster Gottverlassenheit.

折原訳
それというのも、どんな種類の陶酔も、狂騒的な英雄エクスタシーであれ、性愛的な狂騒であれ、踊り狂う陶酔であれ、身体の虚脱状態への急転を避け難く、それとまったく同様、霊に充たされたヒステリー状態も、心的な虚脱状態に、宗教上の言い回しによれば「神に見捨てられて深淵に堕ちた状態」に急変するほかはなかったからである。

丸山訳
その理由は、全ての種類の酩酊がそうであるように、狂躁的な英雄エクスタシーとまったく同様に性的な狂躁、そして踊りによる狂躁は、避け難いこととして身体的な虚脱状態へと推移するのであり、それ故にヒステリー的に霊が充たされた状態で、それが精神の虚脱と一緒になっている場合は、宗教的には反転し:もっとも遠く神から見捨てられた状態へと変わる。

折原浩訳の問題点(85)

はい、今日もデタラメな折原訳です。
1.「きわめて多様な外皮に包まれていた」なんてどこにも書いてありません。ここは前の文の「日常と非日常の性向[Habitus]の間の矛盾を除去する」を受けて、その二つの間を「埋める、充填する」ということです。
2.ここでHabenは明らかに経理用語の「貸方」なのに、折原訳は単に「所持」にしてしまっています。所持ならBesitzなどを使う筈です。ヴェーバーが経済学者でもあることを完全に失念しています。私の解釈では救済財がまさに企業における「資本」のように簡単には増減しないというイメージも含まれているのだと思います。「中世合名・合資会社成立史」のテーマがまさに、合名会社の「特別財産」である資本金がどのように生まれたかの分析でした。まあ折原センセはそこまで気がつかないでしょうが。(折原センセだけじゃなく「中世合名・合資会社成立史」を読んでいない人は全員。)

原文
Aus der unermeßlichen Fülle jener inneren Zuständlichkeiten, welche die Heilsmethodik erzeugen konnte, schälten sich schließlich einige wenige deshalb als eigentlich zentral heraus, weil sie nicht nur eine außeralltägliche, seelisch-körperliche Einzelverfassung darstellten, sondern das sichere und kontinuierliche Haben des spezifischen religiösen Heilsguts in sich zu schließen schienen: die Gnadengewißheit (»certitudo salutis«, »perseverantia gratiae«).

折原訳
救済技法が生み出すことのできた内面的な状態性は、きわめて多様な外皮に包まれていたが、そのなかから、理由あって最終的に外皮を破り、本来の核心として、現れ出たのは、ごくわずかであった。その理由とは、非日常的な個々の精神的・身体的状態だけではなく、宗教に特有の救済財のいっそう確実な継続的所持をも、したがって恩恵の確かさ(「救いの確かさ」「恩寵の持続」)を内包しているかに見えた、というところにある。

丸山訳
救済の方法論が産み出すことが出来た、そういった内面の安定状態の計り知れない充溢の中から、最終的にはいくつかの少量のものが、それ故に実際は中心から外へと、殻を破って頭を出すのであり、何故ならそういった充溢はただ非日常的な、霊肉の一体性を表現するだけでなく、特別な宗教的救済財が確実かつ継続的に貸方に計上されているように見える[1]からである:つまり救いの確かさ(”certitudo salutis”[救いの確信]、”perseverantia gratiae”[神の恵みの堅忍])である。

[1] ヴェーバーはここでは複式簿記のイメージで信者にとって救済財が「借方」(外から入って来るもの、資本のイメージ)に入れられると表現している。

インド人がボスニアでの狂躁の担い手?

たまにはヴェーバーの信じられない記述を。
単に「フランク博士」から聞いたというだけの話を、ボスニアでの狂躁やエクスタシーの典型的な担い手がインド人だったと決めつけにしています。ChatGPTに調べさせた所では訳注に書いたように、「インド出身とされる」シャイフが一人いた、というだけのことです。それもインドといっても西南パキスタンの出身だというだけです。信じられないことに、さらにこの後でもこのフランク博士から聞いたことが出てきて、インドの狂躁がイスラム世界に持ち込まれたと拡大して一般化されるようです。これが教科書として書かれたなんて全く信じられません。大体フランク博士なんて当時のヨーロッパには100人単位でいたと思います。

原文
Durch den Sufismus ist die sublimierte Intellektuellenekstase sowohl wie andererseits auch die Derwischorgie, wenn auch in gemilderter Form, in den Islam getragen worden. Inder sind, bis nach Bosnien hinein (nach einer authentischen Mitteilung Dr. Franks aus den letzten Monaten) noch jetzt dort deren typische Träger.

丸山訳
精緻化された知識階級のエクスタシーは、スーフィズムを通じて、他方ではまた同様にダルヴィーシュの狂躁を通じて、それはまたより穏やかにされた形態であったとしても、イスラム教で行われている。インド人は、ボスニアにかけての地域において(フランク博士の数ヶ月前の信頼出来る報告[1] によれば)、[ヴェーバー当時の]現在でもなおその地域でのそういったエクスタシーや狂躁の典型的な担い手である。

[1] 詳細不明、全集の注ではストラスブール大学の東洋学者・アッシリア学者Carl Frankまたはハイデルベルクで学位を得た哲学者Erich Frankの可能性が示唆されているが、いずれにせよ文献としては特定出来ておらず口頭での報告の可能性もある。当時のボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国に併合されているが、イスラム教は残っている。ボスニアのブラガイ・テッケのスーフィ系修道院には19世紀にバルーチスターン(パキスタン西南部)出身で「インド人」と呼ばれたシェイフ、ムハンメド・ヒンディがいたことは確認されるが、もしそれを元にヴェーバーが「インド人が担い手」としているのであればこじつけもはなはだしい。しかも後でまたこのフランク博士から聞いた話が再登場する。

 

折原浩訳の問題点(84)

今日も已むことのない折原誤訳。
(1)なんで唐突に「インド亜大陸」が出て来るのか。ここは救済の手段のほとんどがインド起源であると述べた後で、「インド自身では」と言っているだけです。別にインドというのがどこを指すかなんて何も書いてありません。
(2)nie wieder は単なる強調で「再び~することはない」などと訳すと、では一度失われたのか、とおかしな意味になります。昔のウルトラマンのナレーションの「もしカラータイマーが消えてしまったら、二度と再び立ち上がる力を失ってしまうのだ」を思い出しました。(笑)

原文
Die spezifischen Mittel der soteriologischen Heilsmethodik sind in ihrer raffiniertesten Entwicklung fast alle indischer Provenienz. Sie sind dort in unbezweifelbarer Anlehnung an die Methodik magischen Geisterzwangs entfaltet worden. In Indien selbst haben diese Mittel zunehmend die Tendenz gehabt, zur Selbstvergottungsmethodik zu werden und haben dort auch diesen Charakter nie wieder ganz verloren.

折原訳
さて、宗教的救済論によって基礎づけられた救済技法に特有の手段についてみると、その洗練された発展形態は、ほとんど全てインド起源である。インドでは、そうした手段が、疑いもなく、魔術的精霊強制の技法に依拠して発展を遂げた。インド亜大陸自体においては、そうした手段が、ますます自己神化の技法となる傾向を帯び、そこではまた、こうした性格をふたたび完全に失うことはけっしてなかった。

丸山訳
宗教的救済論に基づく救済の方法論の特別な諸手段は、そのもっとも精緻な発展においては、ほとんど全てがインドに起源を持つものであった。そういった諸手段はインドにおいては、魔術的な精霊の力による強制という方法論に疑いようもなく依存する形で発展した。インドそのものにおいては、こういった諸手段は次第に次のような傾向を持つようになった。つまり、自己神化という方法論を採ることであり、インドにおいてはそういう性格が完全に失われれることは決してなかった。

折原浩訳の問題点(83)

ここの誤訳も大物。
折原訳は「ヒステリー」の俗なイメージである「わいわい騒ぎ立てる」をおそらく想定して、それを「発作」としているが、実際には当時ヒステリーと言われたのは様々な身体的不調状態の総称であり「発作」はおかしい。「情動を抑制すること」が発作になるのではなく、その人がストレスに対する感情を抑圧しようとすることが、反動として様々な身体症状として現れるということ。そもそも私が注釈に書いたような背景をまったく理解していません。おそらくオットー・グロスも知らないんでしょうね。
また、「それぞれ特異な状態性への素質を、しばしば突発的に交錯させながら顕現することもある。」は日本語としてまったく意味不明。それに「交錯」ではなく「交代」。「顕現する」ではなく「起きる」。

原文
Die Erfahrung lehrte, daß durch hysterisierende »Abtötung« es bei Qualifizierten möglich war, den Körper unempfindlich oder kataleptisch starr zu machen, ihm allerhand Leistungen zuzumuten, welche eine normale Innervation niemals hervorbringen konnte, daß gerade dann besonders leicht alle Arten visionärer und pneumatischer Vorgänge, Zungenreden, hypnotische und andere suggestive Macht bei dem einen, Leibhaftigkeitsgefühle, Dispositionen zur mystischen Erleuchtung und ethischen Bekehrung, zu tiefem Sündenschmerz und frohem Gottinnigkeitsgefühl, oft in jähem Wechsel miteinander, bei den andern sich einstellten, daß dagegen all dies bei rein »naturhafter« Hingabe an die Funktionen und Bedürfnisse des Körpers oder an ablenkende Alltagsinteressen wieder dahinschwand.

折原訳
経験が教えるところでは、もともとある素質をそなえた人に、「情動を抑制して」ヒステリー性発作にいたらしめると、身体が無感覚になり、硬直症風にこわばって、正常な刺激伝達ではけっして起きないあらゆる種類の無理な仕種を引き起こすことが可能となる。そのさいには、とくに容易に、あらゆる種類の幻覚ないし霊的現象が現れ、異言が発せられ、ある人は催眠術その他の教唆をおこなう能力を発揮し、また別のある人は、[超感性的な力の] 体現感情や、神秘的開悟と倫理的回心、深い罪悪感による苦悩と、神と共にある歓喜の感情、といった、それぞれ特異な状態性への素質を、しばしば突発的に交錯させながら顕現することもある。ところが、こうした現象は全て、彼らが身体的機能や欲求のままに、あるいは、集中力を散逸させる日常的関心事に、ごく「自然のままに」没頭すると、ふたたび消滅する。

丸山訳
経験上知られているのは[1]、元々ヒステリー的な資質を持った人[2]が、そのヒステリー症状をもたらすような「情動抑制」[Abtötung、ヒステリー的な資質の人がストレスに対処するため、自己の情動を無理矢理抑制しようとしている状態]によって、次のようなことが起こり得たということである[3]。即ち身体が無感覚になったり、あるいはこわばって動かなくなったり、そしてその者に正常な神経状態では決して現れて来ることはないあらゆる種類の行為が期待されるようになることである。ここからまさにある者においては非常に容易にあらゆる種類の幻視的・霊的な出来事、異言、催眠術的またはその他の暗示的な力が生じ、また別の者達では何かの化身となったという感情と、神秘的な光による啓示と倫理的な回心へと向かう性向において、深い罪による苦悶と、喜びに溢れた神が自己の中にあるという感情、それらはしばしば交互に急激に交代して起きる。それに対してこれらの全てが純粋に身体の諸機能と諸要求への、あるいはこうしたものから意識を逸らさせる日常的な関心への「自然な」没頭によって、再び消えていく、ということも生じる。

[1] ヴェーバーがここでは「経験によって」と曖昧に書いている内容は、ほぼフロイトによるヒステリーの原因の説明に一致している。1895年にジークムント・フロイトとヨーゼフ・ブロイアーにより「ヒステリー研究」が出ており、更には1904年のヴィリー・ヘルパッハ(Willy Hellpach、1877~1955年、ドイツの医学心理学者、政治家)による” Grundlinien einer Psychologie der Hysterie”もヴェーバーは読んでいるだけでなく著者とも交信がある。ここのAbtötungがヒステリー的な身体症状の原因であるというのはフロイト説そのものである。またヴェーバーはエルゼ・ヤッフェから紹介されたオットー・グロス(フロイトの弟子、麻薬中毒者、フリーセックス主義者、無政府主義者、エルゼとフリーダの姉妹の双方と肉体関係を持っていた)から送られた論文を自身が編集に携わっていた雑誌に掲載するかどうかを審査して結局拒絶しているが、その際にかなりフロイトの著作を読んでいる。「マックス・ヴェーバーとその同時代群像」(みすず書房)に収録されているトレイシー・B・ストロングの論文「ヴェーバーとフロイト」にはヴェーバーは彼が編集していた雑誌に投稿されたオットー・グロスの論文を審査して拒絶した上で、「フロイトへの研究内容への関心を明らかにしたうえで彼は、精神分析学は実際のところまだ揺籃期にあり(「まだ、おむつをしている」)、もっと専門的な研究による成熟を必要としていると論じた。」となっており、フロイトの学説を科学としては十分に認めていなかった。ここの「経験による」という曖昧な書き方はそれが影響している可能性がある。

[2] 現在では「ヒステリー」という病名は既に使われなくなっている。DSM-5/DSM-5-TRでは、運動麻痺・感覚脱失・けいれん様発作など、旧来「転換ヒステリー」と関係づけられた症状は conversion disorder(functional neurological symptom disorder)として、「身体症状症および関連症群」に分類されている。一方、ICD-11 では、対応する症状群は dissociative neurological symptom disorder「解離性神経症状症」の系統として扱われ、非てんかん性発作、麻痺・筋力低下、運動障害、感覚障害などに細分類されている。

[3] 以下のような、宗教的な異言や神がかりといった現象を精神的な疾患によるものとして説明することは、現在においては抑制されるようになっている。科学的に言えばそうした精神疾患が原因のものも含まれている、ぐらいである。

折原浩訳の問題点(82)

ここも初級文法の問題。

(1)sollenは英語のshallに相当し、マッカーサーの I shall returnが「私は(神の意志によって)きっと帰ってくる」であるのと同様に「(神の意志)で実現されねばならない」と言った強い意味です。それを「しようとするだけである」などと訳すのは完全にピンボケです。マッカーサーの言葉を「私は帰ってこようとするだけである」と訳したらお笑いです。
(2)religiösen Qualitäten: sie wird damit のsieはHeilsmethodik「救済の方法論」(女性名詞)であり、折原訳だと「宗教的諸性質の獲得」みたいに読めますが、それは間違いです。
(3)冒頭のnurは「~のみ」ではなく「但し」ですが、折原訳は「ただこれ~だけ」と解釈されており間違い。
(4)相変わらずHabitusの意味が取れていない。単に「習性」では弱すぎ。

原文
Nur soll dies jetzt möglichst zu einem Dauerhabitus werden. Die Heilsmethodik ist also auf diesseitigen Besitz des Göttlichen selbst ausgerichtet. Wo nun aber ein allmächtiger überweltlicher Gott den Kreaturen gegenübersteht, da kann Ziel der Heilsmethodik nicht mehr die Selbstvergottung in diesem Sinn sein, sondern die Erringung der von jenem Gott geforderten religiösen Qualitäten: sie wird damit jenseitig und ethisch orientiert, will nicht Gott »besitzen« — das kann man nicht — sondern entweder 1. Gottes »Werkzeug« oder 2. von ihm zuständlich erfüllt sein. Der zweite Habitus steht ersichtlich der Selbstvergottungsidee näher als der erste.

折原訳
ただこれを、いまやできるかぎり、ある持続的な習性にしようとするだけである。したがって、こんどは救済技法が、神的なもの自体の此岸における所有を目指して編成される。だがしかし、全能の超越神が被造物に対峙する場合には、救済技法の目標はもはや、この意味における自己神化ではありえず、当の神から要求される宗教的諸性質の獲得となる。すなわち、神を「所有する」こと――それは人間にはできない――ではなく、彼岸的また倫理的な準拠標にしたがって、1. 神の「道具」となるか、あるいは2. 神に充たされた状態に到達するか、どちらかである。

丸山訳
ただこの自己神化は、いまや可能な限り、ある継続的な恩寵による魂の性向[Habitus]となるべきものである。救済の方法論はそれ故に、現世において神的なもの自身を所有するという方向に向けて遂行される。しかしある全能の超現世的な神が被造物に対置される場合には、その場合は救済の方法論の目的はもはやこの意味での自己神化ではなく、そうではなくてその神より要求された宗教的な諸資質の獲得である:救済の方法論はそれによって来世的・倫理的なものに志向するようにされ、神を「所有する」ことを欲するのではないのである--それは不可能であり--そうではなくて次のどちらかである。1.神の「道具」となるか、または 2.神によって常に充たされている、かである。