「宗教ゲマインシャフテン」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R7

「宗教ゲマインシャフテン」大幅改訳版のR7をアップします。これで全体の2/3ぐらいです。前回アップから1ヵ月半経っておらず、かなりペースは上がって来ています。

どうもこの辺りのヴェーバーの議論は、かなり眉唾という感じがします。結局はプロ倫の延長線上で全ての宗教を解釈しようとする傾向が強いです。

20260531_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R7.pdf

折原浩訳の問題点(90)

ここは前回の箇所の次の文。一箇所間違えると連動して関連箇所も間違えるという例です。一行目の aktiv を折原訳はHandelnsにかかる形容詞のように「積極的な」と訳していますが、このすぐ前に救済財を「貸方」にある財産としていますので、ここのaktivは副詞であり、「借方での」という意味としか解釈出来ません。「借方」は外部に向かって出ていくものですから、この場合、「行為」はまさしくそういうものです。この「借方」側の行為が、「貸方」側の救済財とバランスしている、と自然に読めます。そもそも救済「財」という言い方からして、ヴェーバーはずっと宗教に対して経理的な説明をしているのを折原センセも創文社訳の訳者も読めていません。(ということは日本のヴェーバー関係者の大半も正しく読んでいないということです。)

原文
Entweder ist dies eine spezifische Gabe aktiv ethischen Handelns mit dem Bewußtsein, daß Gott dies Handeln lenke: daß man Gottes Werkzeug sei. Wir wollen für unsere Zwecke diese Art der durch religiöse Heilsmethodik bedingten Stellungnahme eine religiös-»asketische« nennen — ohne irgendwie zu bestreiten, daß man den Ausdruck sehr wohl auch in anderem, weiteren Sinn brauchen kann und braucht: der Gegensatz dazu wird später deutlich werden.

折原訳
そうした救済財は、神が人間の行為を導き、人間は神の道具である、という意識をもっておこなわれる、積極的な倫理的行為という独特の賜物である [か、それとも、後段で採り上げる] 独特の状態性であるか、どちらかである。宗教的救済技法によって制約された、この種の立場決定を、ここでは、われわれの目的に照らして、宗教上「禁欲的」な立場と呼ぶことにしたい。もとよりこの禁欲という表記は、もっと広い別の意味でも用いられようし、現に用いられているが、ここではそうした議論には立ち入らない。用語法のそうした対照的差異は、やがて後段で 、明らかにされるであろう。

丸山訳
そうした救済財はある場合は[1]、借方としての[2] 倫理的な行為の特別な賜物であり、次のような意識を伴っている。つまり、その行為を神が導いた、ないしは人が神の道具である、ということである。我々は我々の目的のために、この種の宗教的な救済の方法論に制約された態度表明を、宗教的に「禁欲的」なものと呼ぶことにしたい--ここでは次のことに対して異論を唱えることはしない。それはこの表現が非常にしばしばまた別の、より広い意味で使われうるし、実際に使われているということである:そういった一般用法との対比は後に明らかにされる。

[1] このEntwederに対応する別の場合は、ずっと先に出て来る。

[2] aktivは「借方の」という意味で、前の文で救済財を「貸方」としたのに対応している。

折原浩訳の問題点(89)

また出ました、Haben=貸方、が分かっていない不適切訳。
しかし、宗教社会学というより、宗教財政学、複式簿記で見た信仰の内訳。(笑)
まあ普通の会社に勤めた経験がない人は複式簿記って言葉で知っているだけで、実務的な借方・貸方(ドイツ語で Soll und Haben)の概念は分かってないでしょうね。(創文社訳もまったくきちんと訳せていません。)

原文
Im übrigen aber ist der positive Charakter der Heilsbewährung und also auch des praktischen Verhaltens, wie schon mehrfach angedeutet, grundsätzlich verschieden vor allem je nach dem Charakter jenes Heilsguts, dessen Haben die Seligkeit verbürgt.

折原訳
ちなみに、救いの確証の積極的性格と、そこに生ずる実践的振舞いの積極的性格も、すでにたびたび示唆してきたとおり 、とりわけ、いかなる性格の救済財所有が至福を保証するのか、その性格の如何に応じて、根本的に異なっている。

丸山訳
しかしその他、救いの確信と、それに基づくまた実際的な行為の積極的な性格は、既に何度も概説した通り、取り分けその貸方[への計上」が至福状態を保証している、救済財の性格によって根本的には様々なのである。

ヴェーバーのVirtuose概念の危うさ

今訳している所に、Virtuoseという概念が出てきます。音楽で言うヴィルトゥオーソ(名人)のことです。ちょっと引用します:
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宗教的な練達者[Virtuose]が、ウマル1世[1] の時代のイスラム教徒のように世界を征服しようとする宗教戦士団の仲間の一人であるか、あるいは大半のキリスト教徒のように、そしてそれより徹底はしていないがジャイナ教徒のような、現世を拒絶するような禁欲のそれであるか、あるいは仏教僧のように現世を拒絶する瞑想を行うそれであるか、古代でのキリスト教徒のように抵抗せずに殉教した者のそれであるか、あるいは禁欲的プロテスタントのように現世の中で自分の職業の有用性を示したそれであるか、ファリサイ派ユダヤ人のような形式的な律法遵守者のそれであるか、アシジの聖フランシスコのような現世否定の慈悲のそれであるか[2]、いずれにせよどの場合でも、練達者[Virtuose]は--既に確認した通り--真の救済の確証をただ、その者が自分自身で自分の練達者[Virtuose]としての心情を、試練の下で常に新しく確認する場合にのみ手に入れるのである。

[1] 在位634年~644年の第2代正統カリフで、聖戦を展開しイスラム教の勢力圏を拡大し、シリア・エジプト・イランを征服した。

[2] ヴェーバーはここで多数列挙してそれをVirtuoseの説明にしているが、まったく性格の違うものをただ列挙しただけで、定義としては全く破綻している。また特に仏教僧で悟った者は「救いの確証を不断に確かめる」といったことは絶対にしない。要するにここでヴェーバーがしていることは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でカルヴィニズムの信徒に使った説明を全宗教に無理矢理当てはめようとしているだけである。
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はっきり言ってここの説明はひどいです。ありとあらゆる宗教の登場人物を単にVirtuoseでくくって入れてしまっています。訳注に書いたように、仏教の悟りを開いた僧(阿羅漢)には全く当てはまりませんし、また殉教のVirtuoseって何?っていう感じです。また同じく訳注にあるようにここは単にプロ倫の説明をそのまま全宗教に使っただけです。「雑」な分析としか言いようがありません。

折原浩訳の問題点(88)

88回目で、誤訳の米寿達成。(笑)
何故か折原センセはMenschennatur(人間の本性)をMenschenとNaturにわざわざ分解し、「宗教的に加工されていない生の自然として」という意味不明の訳にしています。bearbeitenも「働きかける」であって「加工されている」は変。

原文
In ihrer gesinnungsethischen Interpretation bedeutet die Heilsmethodik praktisch stets: Überwindung bestimmter Begehrungen oder Affekte der religiös nicht bearbeiteten rohen Menschennatur.

折原訳
救済技法を心意倫理的に解釈すると、それは実践上つねに、人間性のうちの特定の欲望ないし情動を、宗教的に加工されていない生の自然として克服しようとすること、を意味している。

丸山訳
そういった者達を心情倫理的に解釈すると、救済の方法論は実践的には常に同じであった:宗教的な陶冶を受けていない元々の人間性の、特定の欲望ないしは情動の克服である。

折原浩訳の問題点(87)

よくもまあ毎日誤訳が出て来ると本当にあきれます。
(1)「一義的に明瞭」→どちらかでいいです。こういうのをトートロジーと言います。
(2)「当の技法をどの程度首尾一貫して実施できたかどうか、その度合いと結果も、同様に動揺を免れなかった。」→ここではKonsequenzは、方法体系を実践した結果、論理的帰結であり、「首尾一貫性」ではありません。(Konsequenzはコンピュータの「シーケンス処理」と同じことで、ある一連の処理をした「結果」が第一義であり、首尾一貫性はそこから派生した意味に過ぎません。)「その度合いと結果」は原文にありません。「動揺を免れなかった」→単に非常に多様だった、と言っているだけ。またこの訳者が得意な脚色です。

以上2点とも創文社訳は正しく訳しています。

原文
Der Weg zu diesem Ziel und der nähere Inhalt des Zieles selbst sind an sich nicht eindeutig, und die Konsequenz der Durchführung der Methodik ist ebenfalls sehr schwankend.

折原訳
もっとも、この目標に向けての道と、当の目標そのものの立ち入った内容とは、それ自体として一義的に明瞭ではなく、当の技法をどの程度首尾一貫して実施できたかどうか、その度合いと結果も、同様に動揺を免れなかった。

丸山訳
この目標に向かう道とその目標自体の詳細な内容は、それ自体が一義的なものではなく、方法体系を実践した結果は同様に非常に様々であった。

サンスクリットの格言

最近サンスクリットを少しずつ勉強し始めています。その練習問題に出て来た句。
शत्रोरपि गुणा ग्राह्या दोषा वाच्या गुरोरपि।
śatrorapi guṇā grāhyā doṣā vācyā gurorapi
敵の美点でさえ認めるべきであり、師の欠点でさえ指摘すべきである。

まさにここにぴったり。(笑)

折原浩訳の問題点(86)

今日は小ネタですが、相変わらず継続して誤訳が出てきます。
religiös gewendetは「宗教上の言い回しによれば」ではなく、「宗教的にはまったく逆になり」です。要するに本来は神に近付き救済財を得るためのものであった手段が結局は神に見捨てられた状態へと「反転する」ということです。
Wendungなら「言い回し」という意味がありますが、動詞のwendenにはそういう意味はなく「向きを変える、逆に進む」という意味です。後細かいことですが「急転」というのも原文にはありません。私は「推移する」と訳しましたが、原文は「交代する」となっています。Aの状態がBの状態に変わる、ということです。

原文
Denn wie jede Art von Rausch, die orgiastische Heldenekstase ebenso wie die erotischen Orgien und der Tanzrausch unvermeidlich mit physischem Kollaps wechselte, so die hysterische Erfülltheit vom Pneuma mit dem psychischen Kollaps, religiös gewendet: mit Zuständen tiefster Gottverlassenheit.

折原訳
それというのも、どんな種類の陶酔も、狂騒的な英雄エクスタシーであれ、性愛的な狂騒であれ、踊り狂う陶酔であれ、身体の虚脱状態への急転を避け難く、それとまったく同様、霊に充たされたヒステリー状態も、心的な虚脱状態に、宗教上の言い回しによれば「神に見捨てられて深淵に堕ちた状態」に急変するほかはなかったからである。

丸山訳
その理由は、全ての種類の酩酊がそうであるように、狂躁的な英雄エクスタシーとまったく同様に性的な狂躁、そして踊りによる狂躁は、避け難いこととして身体的な虚脱状態へと推移するのであり、それ故にヒステリー的に霊が充たされた状態で、それが精神の虚脱と一緒になっている場合は、宗教的には反転し:もっとも遠く神から見捨てられた状態へと変わる。

折原浩訳の問題点(85)

はい、今日もデタラメな折原訳です。
1.「きわめて多様な外皮に包まれていた」なんてどこにも書いてありません。ここは前の文の「日常と非日常の性向[Habitus]の間の矛盾を除去する」を受けて、その二つの間を「埋める、充填する」ということです。
2.ここでHabenは明らかに経理用語の「貸方」なのに、折原訳は単に「所持」にしてしまっています。所持ならBesitzなどを使う筈です。ヴェーバーが経済学者でもあることを完全に失念しています。私の解釈では救済財がまさに企業における「資本」のように簡単には増減しないというイメージも含まれているのだと思います。「中世合名・合資会社成立史」のテーマがまさに、合名会社の「特別財産」である資本金がどのように生まれたかの分析でした。まあ折原センセはそこまで気がつかないでしょうが。(折原センセだけじゃなく「中世合名・合資会社成立史」を読んでいない人は全員。)

原文
Aus der unermeßlichen Fülle jener inneren Zuständlichkeiten, welche die Heilsmethodik erzeugen konnte, schälten sich schließlich einige wenige deshalb als eigentlich zentral heraus, weil sie nicht nur eine außeralltägliche, seelisch-körperliche Einzelverfassung darstellten, sondern das sichere und kontinuierliche Haben des spezifischen religiösen Heilsguts in sich zu schließen schienen: die Gnadengewißheit (»certitudo salutis«, »perseverantia gratiae«).

折原訳
救済技法が生み出すことのできた内面的な状態性は、きわめて多様な外皮に包まれていたが、そのなかから、理由あって最終的に外皮を破り、本来の核心として、現れ出たのは、ごくわずかであった。その理由とは、非日常的な個々の精神的・身体的状態だけではなく、宗教に特有の救済財のいっそう確実な継続的所持をも、したがって恩恵の確かさ(「救いの確かさ」「恩寵の持続」)を内包しているかに見えた、というところにある。

丸山訳
救済の方法論が産み出すことが出来た、そういった内面の安定状態の計り知れない充溢の中から、最終的にはいくつかの少量のものが、それ故に実際は中心から外へと、殻を破って頭を出すのであり、何故ならそういった充溢はただ非日常的な、霊肉の一体性を表現するだけでなく、特別な宗教的救済財が確実かつ継続的に貸方に計上されているように見える[1]からである:つまり救いの確かさ(”certitudo salutis”[救いの確信]、”perseverantia gratiae”[神の恵みの堅忍])である。

[1] ヴェーバーはここでは複式簿記のイメージで信者にとって救済財が「借方」(外から入って来るもの、資本のイメージ)に入れられると表現している。

インド人がボスニアでの狂躁の担い手?

たまにはヴェーバーの信じられない記述を。
単に「フランク博士」から聞いたというだけの話を、ボスニアでの狂躁やエクスタシーの典型的な担い手がインド人だったと決めつけにしています。ChatGPTに調べさせた所では訳注に書いたように、「インド出身とされる」シャイフが一人いた、というだけのことです。それもインドといっても西南パキスタンの出身だというだけです。信じられないことに、さらにこの後でもこのフランク博士から聞いたことが出てきて、インドの狂躁がイスラム世界に持ち込まれたと拡大して一般化されるようです。これが教科書として書かれたなんて全く信じられません。大体フランク博士なんて当時のヨーロッパには100人単位でいたと思います。

原文
Durch den Sufismus ist die sublimierte Intellektuellenekstase sowohl wie andererseits auch die Derwischorgie, wenn auch in gemilderter Form, in den Islam getragen worden. Inder sind, bis nach Bosnien hinein (nach einer authentischen Mitteilung Dr. Franks aus den letzten Monaten) noch jetzt dort deren typische Träger.

丸山訳
精緻化された知識階級のエクスタシーは、スーフィズムを通じて、他方ではまた同様にダルヴィーシュの狂躁を通じて、それはまたより穏やかにされた形態であったとしても、イスラム教で行われている。インド人は、ボスニアにかけての地域において(フランク博士の数ヶ月前の信頼出来る報告[1] によれば)、[ヴェーバー当時の]現在でもなおその地域でのそういったエクスタシーや狂躁の典型的な担い手である。

[1] 詳細不明、全集の注ではストラスブール大学の東洋学者・アッシリア学者Carl Frankまたはハイデルベルクで学位を得た哲学者Erich Frankの可能性が示唆されているが、いずれにせよ文献としては特定出来ておらず口頭での報告の可能性もある。当時のボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国に併合されているが、イスラム教は残っている。ボスニアのブラガイ・テッケのスーフィ系修道院には19世紀にバルーチスターン(パキスタン西南部)出身で「インド人」と呼ばれたシェイフ、ムハンメド・ヒンディがいたことは確認されるが、もしそれを元にヴェーバーが「インド人が担い手」としているのであればこじつけもはなはだしい。しかも後でまたこのフランク博士から聞いた話が再登場する。