折原浩訳の問題点(104)

ここの»Stillen im Lande«、ヴェーバーが引用符を付けているのに、折原訳も創文社訳も背景を調べずに、適当に日本語にしています。大体ここの Land はほぼ現世と同じ意味で、田園とか田舎という意味ではありません。「田園の隠者」と聞くと、私は陶淵明の帰去来辞を思い出してしまいます。ここで表現されているのは元々は、ドイツの敬虔主義者の信者達が、現世の中で「ひっそりと静かに」暮らしている様子のことです。
また、schicken を「適従する」と訳すのもおかしく、「適従」はある教えや命令、人に従うことであり、現世に対応することの表現としてはおかしいです。「順応」と訳せばいいのに、わざわざ難しい、しかも適切ではない漢語を使っている訳です。

原文
Er minimisiert also sein Handeln, indem er sich in die Ordnungen der Welt, so wie sie sind, »schickt«, in ihnen sozusagen inkognito lebt, wie die »Stillen im Lande« es zu aller Zeit getan haben, weil Gott es nun einmal so gefügt hat, daß wir darin leben müssen.

折原訳
したがって彼は、あるがままの現世の秩序に「適従する」ことで、自らの行為を極小化する。あらゆる時代の「田園の隠者」たちが、そうしてきたように、現世の秩序の内部で、いわば「人に知られないように」生きる。それというのも、われわれが現世のなかで生きなければならない、というのは、なんとしても神が定めたことだからである。

丸山訳
瞑想的な神秘主義者はそれ故に、現世の諸秩序の中で、それがあるがままに「順応」しながら、自分の行為を最小にするのであり、その者はそこにおいていわば「お忍びで」生きるのであり、それはまさに「地にある静者達[die Stillen im Lande[1]]」があらゆる時代で行ったことであるが、それは何故ならば、神がかつて我々は現世の諸秩序の中で生きなければならない、と定めたからである。

[1] 18世紀にドイツの Gerhard Tersteegen(1697~1769年) が使った表現で、教会外で内面的・静寂な生活を送る敬虔主義・神秘主義的な信仰者をこう呼んだ。元々は詩篇の35:20の「地に暮らす穏やかな人々」(共同訳)から来ている。

折原浩訳の問題点(103)

(99)で gewendet に「~の言い回しでは」の意味は無いと指摘しましたが、ここでは逆に Wendung は明らかに「表現・語法」という意味なのに、折原センセは「転回」と訳しています。ここで言っているのは「職業」というものの意味付けが、現世内禁欲と瞑想的な神秘主義者ではまったく違うということです。おそらく頭の中で意味が逆になっているんでしょうね。

原文
Aber mit sehr anderer Wendung als bei der innerweltlichen Askese.

折原訳
ただし、それは、現世内禁欲の場合とはまったく異なる方向に、転回を遂げる。

丸山訳
しかし、その職業という語の意味する所は現世内禁欲においてとはまったく異なっている。

ヴェーバーのインドの宗教理解の皮相さ

今回は折原訳ではなく、ヴェーバーの話ですが、この辺りの類型化はデタラメもいいところです。そしてインドの宗教についてほとんど理解しておらず、仏教とジャイナ教の区別もついていません。詳しくは私の訳注を参照願います。

丸山訳
瞑想的な神秘主義は、その者がその生き方の首尾一貫性を完全に保とうとした場合は、その生については、その者に強制ではなく自然からあるいは人々から差し出されるものによってのみ、維持することが必要であった:森の中の果実、そしてそういうものが常に十分に入手出来る訳ではないので、喜捨によってか、--その例としてインドの沙門[出家・修行者]の、もっとも徹底した種類の者達において事実上そうであった(そこから特別に全てのインドの比丘の規則[また仏教徒においても[1]]においての厳格な禁止が出て来る:自発的に提供されたもの以外のものを取ってはいけない。)いずれにしても、瞑想的な神秘主義者は現世からの何らかの施しによって生きているのであり、仮に現世が、その者が罪であり神から遠ざけるものと考えているもの:つまり労働を、常にやってくれなかったとしたら、その者自身が生きてはいけないのであろうということである[2]。仏教の修行層にとっては特に耕作が、何故ならばそれが土中の生き物[小さな虫なども含む]を傷つけることにならざるを得ないので、全ての仕事の中でもっとも好ましくないものであり[3]、--しかしその者が集める施物の中身は、まずは何より農産物である。

[1] 本来比丘は仏教の修行僧のことなので、この書き方はおかしい。おそらくはヴェーバーは比丘がヒンドゥー教、ジャイナ教などの修行僧のことだと誤解している。

[2] ここも、インドの話なら沙門が労働を「罪」とか「神から遠ざけるもの」と見なしていたという事実は存在しないし、また欧州の神秘家の話ならその者達は托鉢修道会の会士などを除けば必ずしも施しだけで生きていた訳ではない。更にはキリスト教全般で労働をはっきりと罪にするような教義は見当たらないどころか、そもそもパウロが宣教をしながら自分の天幕布作り職人の仕事を続けそれを自身で是としていた。また例えばジャイナ教の出家者は餓死することを理想視していた。等々を考えるとここのヴェーバーの説明はこじつけが強すぎる。古仏教において、出家が布施を前提に生きる-在家が出家僧に布施するのが半義務化されている、といった共生的構造は認めることが出来る。

[3] この説明はジャイナ教の出家者についての説明であり、仏教においてそこまで農耕作業を忌避するような考え方はない。仏教のアヒンサー(不殺生)はジャイナ教のそれに比べるとはるかに徹底度が低い。

折原浩訳の問題点(102)

ここも折原デコトラ翻訳の例。ほとんど常に原文をより難解にこねくり回しています。
(1)Sichquälen には「自虐」といったマゾヒズム的なニュアンスはなく、単に「労苦」など。非常に苦労して何かを行うこと。
(2)geformten Lebens は単に形作られた生と言っているだけなのを「もろもろの形式に嵌め込まれ」などと訳すのは、盛り過ぎ。
(3)全部瞑想的神秘主義者から見た禁欲者のイメージで、受動で被害を受けている感じで書かれているのに、最後になって「自らを救いのない矛盾と妥協に縛りつけて止まずにいる。」などと能動・再帰的に訳すのは変。

原文
Der Asket wird, vom Standpunkt des kontemplativen Mystikers aus gesehen, durch sein, sei es außerweltliches, Sichquälen und Kämpfen, vollends aber durch asketisch-rationales innerweltliches Handeln stetig in alle Belastetheit des geformten Lebens mit unlösbaren Spannungen zwischen Gewaltsamkeit und Güte, Sachlichkeit und Liebe verwickelt, dadurch stetig von der Einheit in und mit Gott entfernt und in heillose Widersprüche und Kompromisse hineingezwungen.

折原訳
他方、瞑想的神秘家の観点から見れば、禁欲者は、たとえ世俗を離れてではあれ、かれの自虐と闘いによって、いわんや禁欲的で合理的な世俗内の行為によっては、もろもろの形式に嵌め込まれ、強制と善意、即物性と愛との和解不可能な緊張をともなう生のあらゆる荷重のなかに、たえず巻き込まれるばかりで、神のなかに神とともにある統一からたえず遠ざかり、自らを救いのない矛盾と妥協に縛りつけて止まずにいる。

丸山訳
禁欲は、[逆に]瞑想的な神秘主義の立場から見た場合は、その者の、たとえそれが現世外的なものだったとしても、労苦と戦いによって、さらにそれに加えて禁欲的・合理的な現世内行為によって、ある横暴さと親切さ、即物性と愛の間での解消出来ない緊張状態を伴った、形作られた生き方において全ての負荷を背負わされた状態へと常に巻き込まれ、それによって常に、神において、かつ神と共にある統一状態から遠ざかり、そして救いのない自家撞着と妥協の中に無理矢理押し入れられている、ということになる。

折原浩訳の問題点(101)

100回行ったと思ったら早速101回目も。
こういう原文にない変な表現を付けまくる翻訳を私は「デコトラ翻訳」と名付けました。昭和の遺物という意味でも。(笑)
「神的なものを周辺的な機能へと外化し疎隔する所為」ってまったく意味不明です。ともかく読みにくく意味が取れません。
またヴェーバーもヴェーバーで古仏教に「恩恵の状態の維持」などという考え方はありません!

原文
Dies ethische — positiv oder negativ — kämpfende Handeln aber ist für den kontemplativen Mystiker, der niemals »Werkzeug«, sondern nur »Gefäß« des Göttlichen sein will und kann, eine stete Veräußerlichung des Göttlichen an eine periphere Funktion: Nichthandeln, jedenfalls aber Vermeidung jedes rationalen Zweckhandelns (»Handeln mit einem Ziel«) als der gefährlichsten Form der Verweltlichung empfiehlt der alte Buddhismus als Vorbedingung der Erhaltung des Gnadenstandes.

折原訳
ところが、瞑想的神秘家は、けっして神の「道具」ではなく、もっぱら神の「容器」であろうとし、またそうでありうるから、積極的であれ消極的であれ、倫理的な闘いとしての行為は、神秘家にとってはつねに、神的なものを周辺的な機能へと外化し疎隔する所為にほかならない。古仏教は、恩恵の状態を維持する前提条件として、行為しないこと、いずれにせよ合理的な目的行為 (「ある目標をもった行為」) を、俗世への自己譲渡のもっとも危険な形式として回避するように勧奨している。

丸山訳
こうした倫理的で--積極的であれ消極的であれ--戦うような行為はしかし、一度も「神の道具」であったことはなく、そうではなくてただ神的なものの「器」であろうと欲しかつそれが可能である瞑想的な神秘主義者にとっては、常に神的なものを末梢的な機能として表に出すことである:古仏教は無行為を、つまりいずれの場合でもしかしながらもっとも危険な世俗化形態としてのあらゆる合理的な目的行為(「ある目的をもった行為」)を避けることを、恩恵の状態の維持[1] の前提条件として推奨している。

[1] 古仏教にそのような考え方は全くなく、例によって雑な類型化の例である。単純に対比すれば、キリスト教の神秘主義者の瞑想は神の光を自分の中に取り入れるという意味でプラスの瞑想、古仏教のそれはあらゆる執着・渇愛・煩悩を自分の中から取り去るマイナスの瞑想である。

折原浩訳の問題点(100)

100回記念。
ここはともかくこの訳者が原文を改変しまくって勝手な訳文に変える様を確認してください。ともかく学術論文の翻訳としては決してしてはいけないことばかりです。

(1)motorisch はモーター的な、ということで要するに精神的なものというより身体の運動的なものということ。折原訳の「動因からの」は意味不明。
(2)「そなえて「は」いる」などと原文にはないニュアンスを追加し、またNurを「但し」と訳しこれまた意味をすり替えている。
(3)一契機ではなく、einはFühlenにかかる。また「すぎない」というのも原文にはない。
(4)[救済目標として追求され、達成されるのではない]も原文にはない、余計な独自解釈の注釈。
(5)「生きられる場合のみである。」の「のみ」も原文にはない。

私の訳と比較して、いかにこの訳者が余計な改変や追加をして読者が原文を理解するのを妨げているかをご確認ください。

原文
Nur ist dies Fühlen ein sozusagen »motorisch« bedingtes. Es ist dann vorhanden, wenn er in dem Bewußtsein lebt, daß ihm das einheitlich auf Gott bezogene, rational ethische Handeln als Gottes Werkzeug gelingt.

折原訳
禁欲者にとっても、神的なものが感得され、意識され、把握されることは、中心的な意義をそなえてはいる。ただし、この感得は、いわば「動因からの」制約を被った一契機にすぎない [救済目標として追求され、達成されるのではない]。そうした感得が禁欲者に生まれるのは、統一的に神に関係づけられる合理的に倫理的な行為が、神の道具であるがゆえに首尾よく達成される、とかれに意識され、かれがそうした意識の裡に生きられる場合のみである。

丸山訳
ただ禁欲者にとってはこうした感情はいわゆる「身体運動的[motorisch]」に制約されたものである。そうった感情は、禁欲者にとって統一的に神に関係づけられた合理的・倫理的行為が、神の道具として上手く機能しているという意識にある時に生まれて来る。

折原浩訳の問題点(99)

ここも同じ間違いの繰り返し。gewendetに「~の言い回しでは」という意味はまったくありません。誤訳は繰り返されます。
後、「知と実践的心意との感情的統一」って書いている本人が意味分かるんですかね?大体「感情的統一」ではなく、「統一していると感じられること」ですけど。

原文
Dieses Ziel selbst besteht vielmehr ausschließlich in der einzigartigen Gefühlsqualität, praktisch gewendet: in der gefühlten Einheit von Wissen und praktischer Gesinnung, welche dem Mystiker die entscheidende Versicherung seines religiösen Gnadenstandes bietet.

折原訳
この目標そのものは、むしろもっぱら一種独特の感情状態に、実践的な言い回しでは、知と実践的心意との感情的統一の裡にある。この統一が、神秘家に、かれの宗教的恩恵状態を決定的に保証するのである。

丸山訳
こういった目標自体が成立するのはむしろ結局は唯一独特の感情の資質においてであり、それを実践的に方向付ければ:智と実践的な心情の統一を感じ取ることにあり、そういった統一は神秘主義者にとって、その者の宗教的な恩恵状態の決定的な保証を提供するのである。

折原浩訳の問題点(98)

また大文字で始まるHabenが出てきて、しかもここは»Haben«とまでヴェーバーはしているのに、折原訳は(創文社訳も)相変わらず「所持」という分かっていない訳。ヴェーバーは所持と言いたい時はちゃんとBesitzを使っています。ここで言われているのは、神秘的合一によって得られる「智」のことですが、ヴェーバーはそれが救済財と同じで貸方の一項目として存在することにより、そこから現世への位置決めや認識が得られると、完全に貸借対照表のイメージをここでも使っています。
それからこの辺りのWeltは全て「現世」と訳すべきですが、折原訳はWeltが単体で出て来るとすぐ「世界」になってしまっています。

原文
Seinem zentralen Wesen nach ist es vielmehr ein »Haben«, von dem aus jene praktische Neuorientierung zur Welt, unter Umständen auch neue kommunikable »Erkenntnisse« gewonnen werden.

折原訳
その核心にある本質からして、その知はむしろある「所持」であり、ここからして、世界にたいする実践的に新たな定位が、事情次第では、伝達が可能な新たな「認識」も、獲得される。

丸山訳
その中心的な本質からして、そういった智はむしろ、「貸方」の一項目なのであり、そこからあの実践的な現世への位置決めが、事情によってはまた新しい人に伝えることが可能な「認識」も勝ち取られる。

折原浩訳の問題点(97)

ここもまた、Habitusの意味がきちんと捉えられていないので、Gefühlshabitusが「感情の特定の習性」という意味不明の訳になってしまっています。
それから訳注に書きましたが、やはりヴェーバーは瞑想すらもキリスト教的「神秘的合一」でまとめてしまっています。仏教においては「無」の心には神も仏もないと思いますが。

原文
Die Kontemplation dagegen ist primär das Suchen eines »Ruhens« im Göttlichen und nur in ihm. Nichthandeln, in letzter Konsequenz Nichtdenken, Entleerung von allem, was irgendwie an die »Welt« erinnert, jedenfalls absolutes Minimisieren alles äußeren und inneren Tuns sind der Weg, denjenigen inneren Zustand zu erreichen, der als Besitz des Göttlichen, als unio mystica mit ihm, genossen wird: einen spezifischen Gefühlshabitus also, der ein »Wissen« zu vermitteln scheint.

折原訳
ところで、瞑想とはまず、神的なもののなかに、しかもそこにのみ、ある「安息」を求めることである。行為しないこと、突き詰めれば思考すらしないこと、なにほどか「現世」を思い出させるものは全て払拭して、ある空無の状態に到達すること、いずれにせよ全ての外的および内的行為を徹底して極小化して止まないことが、神的なものの所有、つまり神との「神秘的合一」として享受される内面的状態に到達する道である。したがって、この状態は、感情の特定の習性ではあるが、ある種の「知」を伝達する状態とも見られる。

丸山訳
それに対して瞑想とは、主として神的なものの中に、そしてただその中に「静寂」を求めるものである。それは行為しないこと、最終的には考えないこと、なんであれ多少であっても「現世」を思い出させるものを全て排除すること、いずれの場合でも全ての外的・内的な行為を絶対的に最小化することであり、そういったことが、神的なものの所有として、つまりその者においての神秘的合一[unio mystica[1]]として享受される、内的な状態に到達するための道なのである:その内的状態とはつまり特別な感情においての恩寵による魂の性向[Gefühlshabitus]であり、それがある「智」[Wissen]を導くように見えるのである[2]

[1] 神秘主義者の体験として言われる、神とその者とが一つに合一した状態のこと。

[2] この辺りの「瞑想」の説明、例によってキリスト教的「神秘的合一」で全てをまとめてしまっているが、例えば仏教の禅での瞑想の説明としてはナンセンスである。

折原浩訳の問題点(96)

ここもまた、辞書をきちんと確認せず、何となく似ている単語から間違った意味をでっち上げてしまったもの。
unausgesetzt は「間断なく、不断の」という意味ですが、折原訳は「前提としている」と訳してしまっています。vorausgesetztと混同しています。

原文
Der weltablehnende Asket hat mindestens die negative innere Beziehung unausgesetzten Kampfes zur »Welt«. Man spricht deshalb bei ihm zweckmäßigerweise von »Weltablehnung«, nicht von »Weltflucht«, die vielmehr den kontemplativen Mystiker kennzeichnet.

折原訳
現世拒否的禁欲者は、少なくとも「現世」にたいする闘いを前提としている点で、「現世」にたいする否定的な内面的関係を保持している。したがって、かれについては「現世逃避」ではなく「現世拒否」を語ったほうが、当をえている。「現世逃避」はむしろ、瞑想的神秘家を特徴づけるのに相応しい言い方である。

丸山訳
現世を拒絶する禁欲者は、少なくとも「現世」との絶え間ない戦いの内面においての否定的な関係を保持している。それ故にそういった禁欲者については「現世拒絶」という言い方がふさわしく、よりむしろ瞑想的な神秘思想家を示しているような「現世逃避」はふさわしくない。