何度も繰り返される折原浩の間違ったゲマインデ論

折原センセへのシノドスのインタビューを読み直していたら、そこでも以下の発言がありました。
これ、何度も書いていますが、全部誤読の産物です。
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ところが、それでは、ヴェーバーのゲマインデを、かれ自身の理論展開に即して的確に捉えようとすると、まずは『経済と社会』(旧稿)中の用語法を網羅的に検索して、たとえば、(1)ペルシャ帝国の「大衆馴致政策」により、ネヘミアの監督下、祭司長エズラに率いられて「バビロン捕囚」からエルサレムに帰還したユダヤ教「教団」、(2)「家産制」的支配者が「区画して『ライトゥルギー(賦役-貢納義務)』を課しoktroyieren」、「連帯責任」を負わせた農村の「近隣団体」、(3)政治的「自首・自律」(注26)を達成した「地域団体」としての「西洋都市」など、各所に分散して出てくる適用例を拾い集めて、比較照合し、それらに共通の「ゲゼルシャフト結成に媒介された近隣ゲマインシャフト(群)」という一般的規定を突き止めなければなりません。

(注26)団体の「首長Herr」を、外部から指定されるのではなく、内部から選出するのが「自首Auto-kephalie」。団体の「秩序Ordnung」を、内部で制定するのが「自律Auto-nomie」。

ところが、そうするとこんどは、「ゲゼルシャフト結成に媒介されたゲマインシャフト」とは、一体全体どういうことか――「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」というふたつの基礎範疇が、(どうやら、「利益社会」と「共同社会」と機械的に訳出される学界通念とは異なり、「対概念」ではなさそうなのだけれども、では厳密には)どう概念規定され、どういう関係に置かれているのか――と問わざるをえません。

折原浩訳の問題点(40)

今日はこの訳者の日本語に関する無神経さ、センスの無さの例を見ていただきます。要するにこの訳者は小説などを含めた幅広いジャンルの本を多数読んできていないということだと思います。学術書ばかり読んでいると語彙が偏りますし、言葉のセンスも磨かれません。

ちなみにシノドスでのインタビューにこういう記述があります:
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・受験対策で、思いがけず清水『社会的人間論』に出会う
さて、「理科少年」「野球少年」が社会学に関心を惹かれる機縁は、「部活」を終えて受験勉強に切り換える時期に、思いがけない形でやってきました。当初は志望どおり理科Ⅰ類(理学部・工学部進学予定)を受験するつもりで、不得意科目で「命取り」になりかねない「現代文」をなんとかしようと、「哲学者や社会科学者の硬い論文を読むとよい」という受験雑誌の助言にしたがい、何冊か繙いたのです。」
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私に言わせれば(念のため高校{受験校}で現代国語は学年1位でした)、現代文が不得意だから硬い論文(だけ)を読むというのは半分間違っています。

原文
Eine sehr häufige Vorstellung ließ vielmehr die Totengeister in Tieren und Pflanzen sich verkörpern, verschieden je nach Lebens- und Todesart, Sippe und Stand, — die Quelle der Seelenwanderungsvorstellungen.

折原訳
むしろ、きわめて頻繁に現れる観念では、死者の精霊は、生と死のありようや氏族や身分の如何に応じて、動物や植物に化身する。これが、輪廻転生という観念の起源である。

→輪廻転生による生まれ変わりを「化身」とは言いません。

原文
Wo ein Totenreich, zunächst an einem geographisch entlegenen Ort, später unter- oder überirdisch, geglaubt wird, ist das Leben der Seelen dort keineswegs notwendig zeitlich ewig.

折原訳

死者の国が、当初には地理上遠く離れた土地に、後には地下や天上にある、と信じられても、そこにおける死者の生存が時間的に永遠であるとはかぎらない。

→死者の生存って一体どういう意味ですか?大体原文は「霊魂」の生存(存続)ですが。

原文
Sie können gewaltsam vernichtet werden oder durch Unterlassen der Opfer untergehen oder einfach irgendwann sterben (anscheinend die altchinesische Vorstellung).

折原訳

死者の霊魂は、無理やり抹殺されることもあれば、供犠の不履行によって没落することもあれば、ただたんにいつかは死滅することもある (古代中国では多分そう考えられていた)。

→これも前のと同じで「霊魂の死滅」って変だと思わないのでしょうか?(完全)消滅とかそういう訳にすべきです。

原文
Nur sie, zuweilen nur Häuptlinge und Priester, nicht die Armen, selten die Frauen, können sich die jenseitige Existenz sichern und scheuen dann freilich oft die ungeheuersten Aufwendungen nicht, es zu tun. Vornehmlich ihr Beispiel propagiert die Beschäftigung mit den Jenseitserwartungen. 折原訳

彼らのみ、しばしば酋長や祭司のみが、彼岸の生存も確保しようとして、そのためには途轍もなく厖大な出費も惜しまない。貧者はそういうわけにはいかないし、女性も稀にしかそうはできない。主に貴族や富裕層の実例によって、彼岸への配慮と期待にもとづく取り組みが開始され、広められることにもなる。

→「酋長」って差別表現で現在は使う人はほぼいません。「首長」「部族長」でしょう。また、「彼岸の生存」って一体何ですか?まだしも「彼岸での生存」なら理解出来なくもないですが。前から何度も指摘していますが「彼岸」という仏教用語ではなく、「来世」などにすべきです。

「宗教ゲマインシャフテン」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R6

今回からタイトルを「宗教社会学」から「宗教ゲマインシャフテン」(ゲマインシャフテンはゲマインシャフトの複数形)に変えました。
結構大変な作業なのですが、毎日のようにとんでもない折原誤訳が見つかるので、それがいい息抜きになっています。(笑)
これで全体の6割程度。なお最初の1/4くらいはまだ全文チェック出来ておらず、今の作業が最後まで行ったら最初に戻ってそちらも訂正します。

20260305_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R6.pdf

折原浩訳の問題点(39)

本日の日替わり折原誤訳。(笑)
sich verdichtenは「濃くなる、凝集する」という意味で、ここは主語は「死者の霊の存在(という考え方)」であって、「死者の霊魂が密集して」と訳すのはもう笑っちゃうしかないです。この前の文もtreiben weiterという自動詞を「人を駆り立てる」と他動詞として訳してしまっています。正しくは「先へ進んで行く」です。

原文
Die Vorstellung von einem »Jenseits« ist im Keim mit der Entwicklung der Magie zum Seelenglauben gegeben. Zu einem besonderen Totenreich aber verdichtet sich die Existenz der Totenseelen keineswegs immer.

折原訳
ある種の「彼岸」の観念は、魔術が霊魂信仰へと発展するさいに、萌芽として孕まれる。とはいえ、死者の霊魂が密集して、特別の死者の国で存続する、というふうに考えられるわけではない。

丸山訳
「来世」というイメージは、魔術が霊魂信仰へ発展する場合に萌芽的に発生する。死者の霊魂の存在という考え方はしかしながら、常に特別の死者の国という形に凝集していく訳ではまるでない。

折原浩訳の問題点(38)

今日の誤訳は致命的というほどではないですが、日本語としてまったくこなれていないし、原文の意味もきちんと理解していません。

(1)KinderとSorgeが来たら「子供を世話する」以外にはあり得ません。「子に対する気遣い」って意味が変わってしまっています。
(2)gegeben は哲学・数学で言う「所与の」ということ、この場合は生物の本能としての、ぐらいの意味。
(3)hinweisen auf は単に「~を指し示す」ということで、駆動因なんて意味はありません。
(4)「彼方」だけでいいのに(創文社訳)、それに「彼岸」をまたもくっつける。

原文
Die Sorge für die Kinder war überall ein organisch gegebenes Streben, welches über die eigenen persönlichen Interessen auf ein »Jenseits« wenigstens des eigenen Todes hinwies.

折原訳
いずこにおいても、子にたいする気遣いは、生物有機体としての人間個体に与えられたひとつの力であり、個体としての自己の利害関心を越えて、ひとつの「彼岸」少なくとも自分の死の「彼方」に思いを馳せる方向への駆動因である。

丸山訳
子供を世話することは、どこにおいても生物としての本能的な志向であり、それは自分自身の個人的な関心を超えて、少なくとも自分自身の死の向こう側のものを指し示すのである。

折原浩訳の問題点(37)

と思ったら今日はさらに極めつきの誤訳がありました。unpersönliche und übergöttliche はOrdnungに両方かかる並記に過ぎないのに、折原訳では何故か「神々を越える有意味の人格的秩序と捉える 」などという完全な誤訳になりunpersönlicheのunが飛んでしまっており、更にそれに恥の上塗りのように余計な補足が付いています。ここもヴェーバー説ではなく単に折原説です、しかも間違った。

原文
Die ganze indische Religiosität ist von ihm in der durch die dort gegebenen Voraussetzungen bestimmten Art beeinflußt: auch eine sinnvolle unpersönliche und übergöttliche Ordnung der Welt stieß ja auf das Problem ihrer Unvollkommenheit.

折原訳
インドの宗教性全体も、当の地域の所与の前提によって規定された仕方においてではあれ、この神義論問題の影響を受けている。すなわち、世界を、神々を越える有意味の人格的秩序と捉える [「超感性的諸力」によって構成される「万神殿」の「合理化」が、唯一の超世界的人格神という観念とは異なる帰結に到達した]場合にも、やはり当の秩序の不完全性という問題に直面せざるをえなかったのである。

丸山訳
インドにおける信仰の全体は、そこでの所与の前提に規定された仕方で、そうした神義論の問題によって影響を受けている:ここでもまた意味深い、非人間的で神々をも超えた世界の秩序が、やはりその不完全さという問題に突き当たったのである。[1]

[1] ここのヴェーバーの議論はかなり恣意的であり、インドには唯一にして世界の創造神である神という概念は存在せず、神々すらも宇宙という舞台に登場する役者のようなものであり、神義論は元々存在していないし、成立の余地もない。

折原浩訳の問題点(36)

本日の折原誤訳日記。(笑)

何故この人は、Je mehr…desto mehr (~すればするほど、それだけ一層~となる)を普通に訳せないのでしょうか。政治家の答弁じゃあるまいし「遅かれ早かれ抱懐されてきて、応答が喫緊の課題となる。」って何ですか?そんな表現原文にはありません。大体誤訳だけじゃなくて「問題が抱懐されてきて」って日本語自体が変。(「問題」を抱懐する人はいない、また普通受け身では使われない。要するに「抱懐する」の語義を理解していない。)ついでに主語も「崇高な神」ではなく、その前の文章に出てきた「そういった神の卓越性のあり方と意味」(Art und Sinn dieser Erhabenheit)でしかあり得ません。

原文
Je mehr sie aber in der Richtung der Konzeption eines universellen überweltlichen Einheitsgottes verläuft, desto mehr entsteht das Problem: wie die ungeheure Machtsteigerung eines solchen Gottes mit der Tatsache der Unvollkommenheit der Welt vereinbart werden könne, die er geschaffen hat und regiert.

折原訳
ところで、そうした崇高な神が、世界を超越する普遍的な統一神という概念の方向に発展を遂げると、そういう神の威力の途轍もない昂揚と、その神によって創造され統治されているこの世界の不完全という事態を、いったいいかにすれば、和解させ、矛盾なく説明できるか、という問題が、遅かれ早かれ抱懐されてきて、応答が喫緊の課題となる。

丸山訳
そういった神の卓越性のあり方と意味が、普遍的な超現世的唯一神という概念の方向に推移すればするほど、それだけ一層次の問題が発生してくる:そういった神の途方もない力の増大と、その神自身が創造かつ治めている世界が不完全であるという事実がどのように統一的に解釈出来るか、ということである。

もう一つ。「一様に生々しく」のおかしさ。その前でそれぞれ独自の方向と言っているのに「一様に」は矛盾。またlebendig は「生々しく」というより、単に明確に、はっきりと、存在していたということ。(そのつ→その都度、は元からの誤記)

原文
Das so entstehende Problem der Theodizee ist in der altägyptischen Literatur wie bei Hiob und bei Aischylos, nur in jedesmal besonderer Wendung, lebendig.

折原訳
このようにして発生する神義論の問題 は、古代エジプトの文学にも、ヨブ記にも、アイスキュロスにも、もとよりそのつ独特のニュアンスを帯びてではあれ、一様に生々しく表明されている。

丸山訳
そのようにして生じて来た神義論の問題は、古代エジプトの文献にも、ヨブ記にも、アイスキュロス[1] にも、ただそれぞれにおいて独自の方向に向けてではあるが、はっきりと存在していた[2]

[1] BC525~BC496年、古代アテナイの三大悲劇詩人の一人。代表作品は「アガメムノーン」「縛られたプロメテウス」など。アイスキュロスの作品においては人間の苦しみは神が人間の不遜さを知らしめ、神の知恵を実現する手段と描かれている。[2] そこまで神義論を広げるなら、中国の史記の「天道是か非か」というのも十分に神義論的と言えよう。

 

折原浩訳の問題点(35)

もはやほとんど日記化して来ました。今日の部分は大丈夫かと思ったら、やっぱり最後にやらかしてくれました。「専権事項としてなされるほかはない」なんてどこにも原文には書いてありません。折原センセが勝手に脳内で捏造しているとしか思えません。

原文
Aber allerdings ruht jede spezifisch ethische Prophetie, zu deren Legitimation stets ein Gott gehört, der mit Attributen einer großen Erhabenheit über die Welt ausgestattet ist, normalerweise auf einer Rationalisierung auch der Gottesidee in jener Richtung.

折原訳
とはいえ、固有の意味における倫理預言は、いずれも通例、神の理念がやはり世界を越える絶大な威光をそなえた一神という方向に合理化されることを基礎としている。倫理預言が正当化されるためには、どうしてもそうした属性の神が必要で、その専権事項としてなされるほかはないからである。

丸山訳
しかしながらもちろん全ての特殊な倫理的預言は、その預言の正当化には常にある神が必要とされて、そしてその神には現世に対しての偉大なる卓越性が属性として与えられるが、通常の場合はまた神のイメージのそういった方向に向かっての合理化が土台となっているのである。

折原浩訳の問題点(34)

ここは細かい点は指摘しませんが、折原訳を読んで意味が取れるかどうか試してみてください。混乱の極みですし、原文にないおかしな文章が多数追加されています。

原文
Das Interesse der privilegierten Schichten an der Erhaltung der bestehenden Religion als Domestikationsmittel, ihr Distanzbedürfnis und ihr Abscheu gegen die ihr Prestige zerstörende Massenaufklärungsarbeit, ihr begründeter Unglaube daran, daß den überkommenen Glaubensbekenntnissen, von deren Wortlaut beständig jeder etwas fortdeutet, die »Orthodoxie« 10%, die »Liberalen« 90%, ein wirklich wörtlich von breiten Schichten zu akzeptierendes neues Bekenntnis substituiert werden könne, vor allem die verachtende Indifferenz gegenüber religiösen Problemen und der Kirche, deren schließlich höchst wenig lästige Formalitäten zu erfüllen kein schweres Opfer kostet, da jedermann weiß, daß es eben Formalitäten sind, die am besten von den offiziellen Hütern der Orthodoxie und Standeskonvention und weil der Staat sie für die Karriere fordert, erfüllt werden, — all dies läßt die Chancen für die Entstehung einer ernsthaften Gemeindereligiosität, die von den Intellektuellen getragen würde, ganz ungünstig erscheinen.

折原訳
特権づけられた社会層の、既成の宗教を [大衆]馴致手段として維持することへの利害関心・彼らの威信を毀損するような大衆啓蒙活動に距離をとろうとする欲求・そうした活動への嫌悪感・誰もがその原文から常時 (「正統派」でも10パーセント、「自由派」ともなると90パーセントは) 割り引いて解釈する伝来の信仰告白に代わって、広汎な信徒層に文字どおり受け入れられる、新しい信仰告白が出現するはずはない、という根深い不信・とりわけ宗教問題や教会にかかわる形式的要件の充足は、多少は煩わしくとも畢竟対して犠牲を要することでもなく、誰もが知っているとおり、まさしく形式的要件なのだから、正統信仰や身分的慣習律の守護職に委ねておくのが最善であり、とりわけ国家が、彼ら守護職の立身出世-栄達のため、そう要求してもいるのだから、従っておくにしくはない、といった、宗教を軽蔑して見下す無関心――、こうした諸事由が全て、知識人によって担われる、真摯なゲマインデ宗教性が成立する見込みはまったくない、という印象の成立に、一役買っている。

丸山訳
プラスの特権を与えられた社会層の、既存の宗教を大衆を飼い慣らす手段として保持することへの利害関心、その者達の威信を破壊しかねない大衆への啓蒙活動に対して距離を取りたいという欲求と嫌悪、その者達の根拠のある次のことへの不信、つまり昔からの信仰信条について、誰もがその言い回しから常に多少なりとも新たな意味を読み取り、「正統派教会」の場合で10%程度、「自由主義神学[1]」の場合だと90%も、字義通り広範囲の社会層に受け入れられる新しい信条によって置き換えが可能である、という考え方への不信であるが、また取り分け宗教的問題と教会に対しての軽蔑を伴う無関心は、その問題と教会に対しては、結局は教会がほとんど負担にならない形式的な手続きで問題を処理することは何らコストがかかるものではなく、というのもそれが単なる形式上のことであることは誰でも知っており、それは正統派教会と聖職身分の慣習律の監督者によって、そして国家はその監督者については必要なキャリアを要求しているのであるから、処理させておけば間違いないといった無関心であるが、--全てのこうしたことはある真剣な教団的信仰で知識層によって担われるものを成立させる可能性を、まるで見込みがないもののように見せるのである。

[1] 19世紀のドイツに発生した聖書や教義を絶対視せず、歴史的・理性的に再解釈しようとうする立場。シュライエルマッハー、リッチュル、ハルナックなどが主唱。現在の学術的な聖書・キリスト教研究も元はここから始まっている。

 

折原浩訳の問題点(33)

毎日、必ずという確率で折原誤訳を発見します。これ本当に100回行きそうです。折原誤訳100物語ですね。(笑)
ついでに全集の注も批判しました。

(1) [神を信奉する人々のゲマインデ]ってほぼ全ての宗教にある話であり、ブラフモ・サマージの説明にまったくなっていません。
(2) インドにおける「ブラフモ・サマージとペルシア的啓蒙主義」なのに、インドの「ブラフマ・サマージ」とペルシアの啓蒙主義と訳しています。17~19世紀の話をしているのに、ペルシア!(「ペルシア的啓蒙主義」の方は私が訳注に記したように、ここで挙げるような話かについては疑問がありますが。)
(3) ヴェーバーは ist で断定しているのに、勝手に「であろう」と推測に変更。しかもなんで普通に訳さないで主語と述語をひっくり返すのか。私は可能な限り、元の語順を保った訳にすべきと考えて、出来るだけそうしています。だってネイティブは前から順に読んで理解するのですから。

Ein Produkt der Berührung mit europäischer Kultur ist andererseits die hinduistische (Brahma-Samaj) und persische Aufklärung in Indien.

折原訳
他方、インドにおけるヒンドゥー教 (ブラフマ・サマージ [神を信奉する人々のゲマインデ]) およびペルシアの啓蒙主義は、ヨーロッパ文化との接触の所産であろう。

丸山訳
そういったヨーロッパ文化との接触の産物であるのは、他方でインドにおけるヒンドゥー教の(ブラフモ・サマージ[1])とペルシア的な啓蒙主義[2] である。

[1] 19世紀のヒンドゥー教改革運動の一つで、名称は「ブラフマンの元に参集した人々」の意味。純粋なキリスト教とヒンドゥー教には一致点があり、そこに普遍性があるとして古代のヒンドゥー教の復興を目指した運動。
[2] 全集の注によればムガル帝国のアクバル帝の宗教融和政策のこととなっているが、それは西欧の影響は非常に少ないし(例外的にイエズス会と接触したりはしているが)、また時代的にも16世紀であり合わない。私見ではアクバル帝ではなく、その子のシャー・ジャハーンないしはダーラー・シコーの時代の話ではないか。シャー・ジャハーンの王妃はペルシア系であるし、ダーラー・シコーはウパニシャッドをペルシア語に訳させたりしているし、イエズス会士やヒンドゥー教の僧侶と議論したりもしている。この全集の注は先のGāthāへの注も含めて、インド関係になると急に信頼性が落ちているように思う。