折原浩訳の問題点(129)

折原訳は最初の文からおかしく、元々受動態で、「~を用いて論じられている、考察されている」(ローマの信徒への手紙のこと)なのに、それを「救済論上の諸観念が、現実に活きてはたらいている。」と能動態にし、また手段を主語にしてしまっています。

また、ヴェーバーがKompromißformeln(妥協的な定式化)と書いているのを「和協信条」と訳していますが、それはルター派だけのもので、しかもそちらの原語はKonkordienformelなので、間違いです。後者は前者の中の一つの例に過ぎません。

それから「宗教改革に荷担した諸教会」って集団で悪事を行ったんじゃないんだから不適です。

原文
Immerhin wird hier noch mit soteriologischen Vorstellungen gearbeitet, welche innerhalb einer an das Grübeln über die Bedingungen der Erlösung gewöhnten städtischen, dabei mit jüdischer oder hellenischer Kasuistik irgendwie vertrauten Proselytenschicht gangbar waren, und es ist andererseits bekannt, daß auch im 16. und 17. Jahrhundert breite Kleinbürgerkreise die Dogmen der Dordrechter und der Westminstersynode und die vielen komplizierten Kompromißformeln der Reformationskirchen sich intellektuell angeeignet haben.

折原訳
ともあれそこではなお、救済論上の諸観念が、現実に活きてはたらいている。それらが、救済の諸条件を穿鑿することに慣れ、しかもそのさい、ユダヤ的あるいはギリシア的な決疑論になにほどか通じている、都市の改宗者層の内部に、普及していたのである。他方また、十六、七世紀にも、広汎な小市民層は、ドルトレヒトやウェストミンスターの教会会議 で定められた教義や、宗教改革に荷担した諸教会の複雑な和協信条 の多くを、知的に「わがものとして獲得」していた。

丸山訳
ともかくも、ここではなお救済論上の諸観念を用いて考察されているのであり、それの諸観念は、救済の諸条件についての穿鑿に慣れていた都市の、そこでのユダヤ人のまたはギリシア人の決疑論をそれなりに熟知していた改宗者層の内部において一般化していたのであるが、そして他方次のことも知られている。つまり、16世紀と17世紀においても、広範囲の小市民諸集団は、ドルト(ドルトレヒト)会議[1] とウェストミンスター会議[2] の諸教義と、多くの複雑な宗教改革諸教会の妥協的に定式化された諸教義[3] を、知的な意味で自分のものとしていた、ということである。

[1] 1618年から19年にかけてオランダのドルトレヒトで開催されたオランダ改革派の宗教会議。その当時勃興していたアルミニウス主義の問題の解決のため開かれ、アルミニウス主義を完全に否定した。アルミニウス主義はカルヴァン派の予定説をある意味弱めようとしていて、神が救おうとするのは、最初から決められているのではなく、信仰を持つであろうと予見した者を救うとし、また人間が神の恵みを拒むことも出来るとしていた。

[2] 1643〜1649年の清教徒革命の時期に、イングランド長期議会の招集によって行われた宗教会議。カルヴァン主義によるイギリス国教会の改革を目的として、ウェストミンスター信仰告白などが定められた。1660年の王政復古でこの時に決められたことはイングランドでは無効とされた。

[3] その中でルター派内での妥協は、Konkordienformel(和協信条)と呼ばれる。

折原浩訳の問題点(128)

短い文ですが、ここも原文に書いてあることを忠実に訳すのではなく脚色が目立ちます。

(1)zunehmend(増大する)は「侵入」と「対決」の両方に書かれているのにそう訳されていません。
(2)「浸潤を被り」というとまるで癌細胞かなんかのようですが、ここは単にキリスト教の中に入って来た、と言っているだけ。
(3)sonstは先行する発言とは反対の場合を想定して、そうでなければ、ですから条件となっている知性主義の侵入・対決がなかったらこれほどまでには発達しなかった程度にまで、です。折原訳は「他には類例をみないほど」として、この意味を取り違えています。

原文
Dagegen haben die christlichen Kirchen mit zunehmendem Eindringen des Intellektualismus und zunehmender Auseinandersetzung mit ihm ein sonst unerreichtes Maß offizieller bindender rationaler Dogmen, einen Theologenglauben, entwickelt.

折原訳
それに対して、キリスト教の教会は、知性主義の浸潤を被り、これとの対決がそれだけ熾烈となるにつれて、合理的で拘束力をそなえた公式の教義、すなわちひとつの神学者信仰を、他には類例を見ないほどに発展させた。

丸山訳
これに対して、キリスト教の諸教会は増大して知性主義が入り込んだことと、同じく増大したそれとの対決によって、それらが無ければ達成出来なかったであろう程度までの、公式でかつ強制的な合理的な教義を、神学者による信仰を、発展させた。

「宗教ゲマインシャフテン」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R8

「宗教ゲマインシャフテン」の大幅改訳版のR8をお届けします。これで大体全体の3/4ぐらいです。
今回の辺りを読むと、これは一般的な宗教社会学と言うより、あくまでも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の拡大強化版に過ぎないという印象を強く受けます。色んな宗教が登場しますけど、全てそれはプロテスタンティズムを目立たせるための背景にだけ使っているという感じです。またカトリックの教義に対する過小評価もひどいと感じます。

20260708_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R8.pdf

折原浩訳の問題点(127)

これはずっと書こうかどうしようか迷っていたことですが、この訳者は文頭にaberが来ると、高い確率で「ところで」と訳します。しかし言うまでもなく、aberは多くの場合前の文章とは反対のことを言う(この場合ではカトリックで告解がそれなりの力を持っているという話とは逆に、ということ)場合に使います。それが「ところで」では単に話題を変えていることになってしまいます。はっきりいって小学生の作文の添削レベルですが、敢えて公開しておきます。

原文
Aber daß das Judentum einerseits, der asketische Protestantismus andererseits keinerlei Beichte und Gnadenspendung durch irgendeine menschliche Person und keinerlei magische Sakramentsgnade kennen, hat historisch jenen ungeheuer scharfen Druck im Sinn der Entwicklung einer ethisch rationalen Lebensgestaltung geübt, der beiden Arten von Religiosität, so stark sie sonst voneinander abweichen, gemeinsam ist.

折原訳
ところで、一方ではユダヤ教、他方では禁欲的プロテスタンティズムが、なんらかの人間によってなされる、いかなる聴罪も恩恵分与も、また、およそいかなる魔術的な秘蹟恩恵も、知らないということは、歴史上、倫理的に合理的な生活形成を発展される方向において、おそろしく強烈な圧力をおよぼした。ユダヤ教と禁欲的プロテスタンティズムというふたつの宗教性は、その他の点では互いに顕著に異なっているとしても、この圧力は、両者共通に認められる。

丸山訳
しかしながら、一方でユダヤ教が、他方では禁欲的プロテスタンティズムが、何らかの人間的ペルソナによる告解と恵みの贈与を知らず、更に魔術的な秘蹟による恩恵も知らないということは、歴史的に、あの強大で激しい、倫理的に合理的な生活の形成を発展させるという意味での圧力を及ぼしたのであり、この二つの信仰の種類は、それ以外では相互に非常に異なっているにもかかわらず、この点に関しては共通なのである。

折原浩訳の問題点(126)

ここは折原訳の間違いというより、創文社訳とその訳注が間違っているのですが、少なくともカトリックでは避妊は禁じられているので、「子供は二人まで」が敬虔なカトリック教徒に遵守されているなどという訳は噴飯ものです。それに Hintanhaltungは「遵守」の逆の「遅らせること・妨げること」という意味です。ヴェーバーの言っていることとまったく反対の訳になってしまっています。そもそも中国が長らく「一人っ子政策」を取っていたのは有名ですが、欧州の国で優生政策以外で産児制限を設けた国はなかったと思います。その意味でも「二児制」などと訳すのは問題です。

原文
Dennoch ist z.B. etwa in der fühlbaren Hintanhaltung des Zweikindersystems bei frommen Katholiken die Beichteinwirkung noch heute zuweilen »ziffernmäßig« greifbar, so sehr sich in Frankreich die Schranken der kirchlichen Macht auch hierin zeigen.

折原訳
それにもかかわらず、たとえば敬虔なカトリック教徒の間で、二児制が建前にとどまらずじっさいにも遵守されている事例のように、告解の影響は、今日もなお時として「統計の数値によって」捉えられるほどである。ただし、フランスでは、この点にかけても、教会の力の限界が、明らかに示されている。

丸山訳
とはいっても、例えば敬虔なカトリック教徒によって、「子供は二人まで」というやり方がはっきり分かるほど阻止されている[1] ことに見られるように、告解の作用は今日でも時折「統計数字によって」把握可能なのであり、しかしフランスでは教会の力の限界がこの点においても現れている。

[1] カトリックでは原則的に避妊は禁止で、産児制限というのは教義に完全に反する考え方である。しかし、特にフランスでは、フランス革命以後、「世俗的かつ宗教的権威に対する反逆の運動」として、既に1750年頃から自発的な出産制限が始まっており、そのことを指していると思われる。参考:深澤敦、立命館産業社会論集、2014年12月、「フランスにおける人口問題と家族政策の歴史的展開─第一次世界大戦前を中心として─(上)」。この動きもあって20世紀初頭にはフランスの出生率は2を割って少子化社会・人口減となっており、その頃からフランスは逆に出産奨励政策に転じている。またイギリスなどでも貧困を避けるためには科学的な産児数管理を行うべきだという主張が19世紀初頭にされている。(新マルサス主義)この主義を標榜する団体はドイツにも作られている。またサンガー夫人がアメリカで家族計画のパンフレットを出したのが1914年であり、こういった産児制限は当時の最新のトピックだった。

ヴェーバーの宗教に対する会計用語の使用について

ここで何度も指摘しているように「宗教ゲマインシャフテン」の中で、ヴェーバーは信者の内面を一種の複式簿記の帳簿として説明することを何度も行っています。これってヴェーバーがある意味独自にやったのかと思っていたら、コンツェルマンの「新約聖書神学概説」の中に、「(一)法律的。人間は律法を満たしていない。罪人である。しかし神はキリストの救済行為を人間の貸方に記帳し、それによって人間は買いもどされた。」というのが出てきました。これはパウロについての説明ですが、ローマの信徒への手紙の4:3-4では
「3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」
となっており、3の「義と認められた」の元のギリシア語は λογίζομαι であり、これの本来の意味には「信用を与える、記帳する」があり、元々会計的な用語を使っています。
さらには4の「当然支払われるべきもの」とはつまり債権ということです。
もちろんパウロの時代に複式簿記はありませんが、少なくともドイツのルター派の中では信仰義認論の中で経理・会計用語はかなり使われていた、というのが真相のようです。もちろんヴェーバーはそれを更に拡大して使ってはいますが。

折原浩訳の問題点(125)

今日の所は、ほぼ全文問題を抱えています。
「人格総体の恒常的実践慣行」って一体何ですか?(笑)
何度も書いていますが、要するにカトリックにおけるHabitusの概念をきちんと押さえていないから、こういう珍妙な訳が出て来る訳です。

原文
Nicht der gesamte, durch Askese oder Kontemplation oder beständig wache Selbstkontrolle und Bewährung stets neu festzustellende Habitus der Persönlichkeit, sondern das konkrete einzelne Tun wird gewertet.

折原訳
人格総体の恒常的実践慣行が、禁欲か瞑想か、あるいはつねに醒めた自己制御と確証によって、絶えず改めて確立されなければならない、というのではなく、具体的な個々の所業が、そのかぎりで評価される。

丸山訳
全体としての、禁欲または瞑想によるか、あるいは持続的に目覚めた状態での自己制御と確証によって、常に新たに確立されるべきである人格の、恩寵による性向[Habitus[1]]ではなく、そうではなくて具体的な個々の行いが価値付けられるのである。

[1] 参考(再掲):基督教研究 第28巻、第3、4号「倫理性に於けるルッターと中世 --基督教倫理思想史の一齣--」今井晋
スコラ神学は、アウグスティヌスの見解を発展させて、サクラメントの儀式によって、奇蹟的に、人間に「注がれる」(ロマ書5.8)神の超自然的な恩寵の状態をハビトゥス(habitus)と名付け、サクラメントに依存するかかる超自然的な神の愛の協力が、始めて善き行為を真に功績ある行為、即ち永生に値する行為として価値づけるとしたのである。

折原浩訳の問題点(124)

こちらも同じ。短い文をこねくり回しています。

(1)止まり→留まり(おそらくかな漢字変換の選択ミス)
(2)「償いないし贖い」どっちも同じ意味なのと、後は「贖い」はキリスト教ではキリストが十字架上の死によって人間の罪を償ったことを言うので、ここで使うのは不可。それにKompensationはおそらくは「補償金」のイメージで、贖宥状を頭に置いている可能性が高いです。
(3)「対置すればよいことになろう。」→単に「対置される」と言っているだけです。本当に余計な脚色が多いです。

原文
Und vor allem bleiben die Sünden einzelne Handlungen, denen andere einzelne Handlungen als Kompensation oder Buße gegenübergestellt werden.

折原訳
とりわけ、およそどんな罪も、個別の行為に止まり、これには償いないし贖いとして、別のやはり個別の行為を対置すればよいことになろう。

丸山訳
特に、この場合は罪というものが個々の行為に留まり、それに対しては他の個々の行為が補償または贖罪として組み合わされるのである。

折原浩訳の問題点(123)

ここはこんな短い文でも勝手に余計なものを付け加えて、原文の意味を改変してしまっている例です。
(1)Sündigendeは現在進行的な意味ではなく、単に動詞を形容詞化しただけ。ドイツ語の現在分詞が進行形ではないというのは初級文法の問題です。
(2)「そのつど宗教上の臨機的行為をおこなえば」といった条件付きの話ではなく、また(1)と合わせると、ある瞬間に罪を犯した者が、それ毎に免罪行為を行えば、のような変な意味に読めてしまう。
(3)「知ることになる」もおかしく、将来の話ではなく元々知っているということ。
(4)「臨機的行為」も間違いではないけど、意味は「機会を見てしかるべき時に行う行為」という意味です。

原文
Denn der Sündigende weiß, daß er von allen Sünden immer wieder durch ein religiöses Gelegenheitshandeln Absolution erhalten kann.

折原訳
それというのも、罪を犯しつつある者が、そのつど宗教上の臨機的行為をおこなえば、どんな罪からも赦免される、と知ることになるからである。

丸山訳
というのは罪を犯す者は、全ての罪について、常に何度でも、宗教上の機会を見たしかるべき行為によって免罪を得ることが出来ることを知っているからである。

 

パウロのオリーブの接ぎ木の譬えについて

ヴェーバーは、パウロの「ローマ人への手紙」11:17~24で、パウロが野性のオリーブ(異邦人)が良いオリーブの木(ユダヤ人)に接ぎ木されてという譬えを使い、これは実際の接ぎ木とは逆(野性のオリーブに良質なオリーブの木が接ぎ木される)であり、パウロは都会人で農業のことなど知らないのでこういう間違いをした、と論じています。
しかし、ここの24ではπαρὰ φύσινという表現が使われており(εἰ γὰρ σὺ ἐκ τῆς κατὰ φύσιν ἐξεκόπης ἀγριελαίου καὶ παρὰ φύσιν ἐνεκεντρίσθης εἰς καλλιέλαιον, πόσῳ μᾶλλον οὗτοι οἱ κατὰ φύσιν ἐνκεντρισθήσονται τῇ ἰδίᾳ ἐλαίᾳ.{Nestle Greek New Testament 1904}、もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。{新共同訳})、共同訳では「元の性質に反して」(その注釈では「直訳『自然に反して』」)となっています。即ち、パウロは普通の接ぎ木の方向とは逆であることは先刻承知でこの譬えを用いて、異邦人にイエスの教えを説くというユダヤ人から見たらとんでもないことを逆説的に表現している、と解釈した方が自然です。
大体、ヴェーバーのオリーブに関する知識はローマの農業書で覚えたいわゆる「本で得た知識」であり、実際のオリーブ栽培を見たことがないのは、むしろヴェーバーの方でしょう。(そもそもヴェーバーの当時のドイツの気候ではオリーブは育たない。)オリーブはパウロの時代のオリエント及びローマでも、栽培植物としてきわめて普及しており、聞いた人もわざと逆に言っていることはすぐに理解されたんだと思います。私に言わせればヴェーバーはある種の「宗教音痴」であり、こうした間違ったことを十分検証もせずに書き散らす傾向があると思います。これは私個人の意見だけでなく、アドルフ・ダイスマンもヴェーバーのこの部分の見解を批判しているようです。