折原浩訳の問題点(37)

と思ったら今日はさらに極めつきの誤訳がありました。unpersönliche und übergöttliche はOrdnungに両方かかる並記に過ぎないのに、折原訳では何故か「神々を越える有意味の人格的秩序と捉える 」などという完全な誤訳になりunpersönlicheのunが飛んでしまっており、更にそれに恥の上塗りのように余計な補足が付いています。ここもヴェーバー説ではなく単に折原説です、しかも間違った。

原文
Die ganze indische Religiosität ist von ihm in der durch die dort gegebenen Voraussetzungen bestimmten Art beeinflußt: auch eine sinnvolle unpersönliche und übergöttliche Ordnung der Welt stieß ja auf das Problem ihrer Unvollkommenheit.

折原訳
インドの宗教性全体も、当の地域の所与の前提によって規定された仕方においてではあれ、この神義論問題の影響を受けている。すなわち、世界を、神々を越える有意味の人格的秩序と捉える [「超感性的諸力」によって構成される「万神殿」の「合理化」が、唯一の超世界的人格神という観念とは異なる帰結に到達した]場合にも、やはり当の秩序の不完全性という問題に直面せざるをえなかったのである。

丸山訳
インドにおける信仰の全体は、そこでの所与の前提に規定された仕方で、そうした神義論の問題によって影響を受けている:ここでもまた意味深い、非人間的で神々をも超えた世界の秩序が、やはりその不完全さという問題に突き当たったのである。[1]

[1] ここのヴェーバーの議論はかなり恣意的であり、インドには唯一にして世界の創造神である神という概念は存在せず、神々すらも宇宙という舞台に登場する役者のようなものであり、神義論は元々存在していないし、成立の余地もない。

折原浩訳の問題点(36)

本日の折原誤訳日記。(笑)

何故この人は、Je mehr…desto mehr (~すればするほど、それだけ一層~となる)を普通に訳せないのでしょうか。政治家の答弁じゃあるまいし「遅かれ早かれ抱懐されてきて、応答が喫緊の課題となる。」って何ですか?そんな表現原文にはありません。大体誤訳だけじゃなくて「問題が抱懐されてきて」って日本語自体が変。(「問題」を抱懐する人はいない、また普通受け身では使われない。要するに「抱懐する」の語義を理解していない。)ついでに主語も「崇高な神」ではなく、その前の文章に出てきた「そういった神の卓越性のあり方と意味」(Art und Sinn dieser Erhabenheit)でしかあり得ません。

原文
Je mehr sie aber in der Richtung der Konzeption eines universellen überweltlichen Einheitsgottes verläuft, desto mehr entsteht das Problem: wie die ungeheure Machtsteigerung eines solchen Gottes mit der Tatsache der Unvollkommenheit der Welt vereinbart werden könne, die er geschaffen hat und regiert.

折原訳
ところで、そうした崇高な神が、世界を超越する普遍的な統一神という概念の方向に発展を遂げると、そういう神の威力の途轍もない昂揚と、その神によって創造され統治されているこの世界の不完全という事態を、いったいいかにすれば、和解させ、矛盾なく説明できるか、という問題が、遅かれ早かれ抱懐されてきて、応答が喫緊の課題となる。

丸山訳
そういった神の卓越性のあり方と意味が、普遍的な超現世的唯一神という概念の方向に推移すればするほど、それだけ一層次の問題が発生してくる:そういった神の途方もない力の増大と、その神自身が創造かつ治めている世界が不完全であるという事実がどのように統一的に解釈出来るか、ということである。

もう一つ。「一様に生々しく」のおかしさ。その前でそれぞれ独自の方向と言っているのに「一様に」は矛盾。またlebendig は「生々しく」というより、単に明確に、はっきりと、存在していたということ。(そのつ→その都度、は元からの誤記)

原文
Das so entstehende Problem der Theodizee ist in der altägyptischen Literatur wie bei Hiob und bei Aischylos, nur in jedesmal besonderer Wendung, lebendig.

折原訳
このようにして発生する神義論の問題 は、古代エジプトの文学にも、ヨブ記にも、アイスキュロスにも、もとよりそのつ独特のニュアンスを帯びてではあれ、一様に生々しく表明されている。

丸山訳
そのようにして生じて来た神義論の問題は、古代エジプトの文献にも、ヨブ記にも、アイスキュロス[1] にも、ただそれぞれにおいて独自の方向に向けてではあるが、はっきりと存在していた[2]

[1] BC525~BC496年、古代アテナイの三大悲劇詩人の一人。代表作品は「アガメムノーン」「縛られたプロメテウス」など。アイスキュロスの作品においては人間の苦しみは神が人間の不遜さを知らしめ、神の知恵を実現する手段と描かれている。[2] そこまで神義論を広げるなら、中国の史記の「天道是か非か」というのも十分に神義論的と言えよう。

 

折原浩訳の問題点(35)

もはやほとんど日記化して来ました。今日の部分は大丈夫かと思ったら、やっぱり最後にやらかしてくれました。「専権事項としてなされるほかはない」なんてどこにも原文には書いてありません。折原センセが勝手に脳内で捏造しているとしか思えません。

原文
Aber allerdings ruht jede spezifisch ethische Prophetie, zu deren Legitimation stets ein Gott gehört, der mit Attributen einer großen Erhabenheit über die Welt ausgestattet ist, normalerweise auf einer Rationalisierung auch der Gottesidee in jener Richtung.

折原訳
とはいえ、固有の意味における倫理預言は、いずれも通例、神の理念がやはり世界を越える絶大な威光をそなえた一神という方向に合理化されることを基礎としている。倫理預言が正当化されるためには、どうしてもそうした属性の神が必要で、その専権事項としてなされるほかはないからである。

丸山訳
しかしながらもちろん全ての特殊な倫理的預言は、その預言の正当化には常にある神が必要とされて、そしてその神には現世に対しての偉大なる卓越性が属性として与えられるが、通常の場合はまた神のイメージのそういった方向に向かっての合理化が土台となっているのである。

折原浩訳の問題点(34)

ここは細かい点は指摘しませんが、折原訳を読んで意味が取れるかどうか試してみてください。混乱の極みですし、原文にないおかしな文章が多数追加されています。

原文
Das Interesse der privilegierten Schichten an der Erhaltung der bestehenden Religion als Domestikationsmittel, ihr Distanzbedürfnis und ihr Abscheu gegen die ihr Prestige zerstörende Massenaufklärungsarbeit, ihr begründeter Unglaube daran, daß den überkommenen Glaubensbekenntnissen, von deren Wortlaut beständig jeder etwas fortdeutet, die »Orthodoxie« 10%, die »Liberalen« 90%, ein wirklich wörtlich von breiten Schichten zu akzeptierendes neues Bekenntnis substituiert werden könne, vor allem die verachtende Indifferenz gegenüber religiösen Problemen und der Kirche, deren schließlich höchst wenig lästige Formalitäten zu erfüllen kein schweres Opfer kostet, da jedermann weiß, daß es eben Formalitäten sind, die am besten von den offiziellen Hütern der Orthodoxie und Standeskonvention und weil der Staat sie für die Karriere fordert, erfüllt werden, — all dies läßt die Chancen für die Entstehung einer ernsthaften Gemeindereligiosität, die von den Intellektuellen getragen würde, ganz ungünstig erscheinen.

折原訳
特権づけられた社会層の、既成の宗教を [大衆]馴致手段として維持することへの利害関心・彼らの威信を毀損するような大衆啓蒙活動に距離をとろうとする欲求・そうした活動への嫌悪感・誰もがその原文から常時 (「正統派」でも10パーセント、「自由派」ともなると90パーセントは) 割り引いて解釈する伝来の信仰告白に代わって、広汎な信徒層に文字どおり受け入れられる、新しい信仰告白が出現するはずはない、という根深い不信・とりわけ宗教問題や教会にかかわる形式的要件の充足は、多少は煩わしくとも畢竟対して犠牲を要することでもなく、誰もが知っているとおり、まさしく形式的要件なのだから、正統信仰や身分的慣習律の守護職に委ねておくのが最善であり、とりわけ国家が、彼ら守護職の立身出世-栄達のため、そう要求してもいるのだから、従っておくにしくはない、といった、宗教を軽蔑して見下す無関心――、こうした諸事由が全て、知識人によって担われる、真摯なゲマインデ宗教性が成立する見込みはまったくない、という印象の成立に、一役買っている。

丸山訳
プラスの特権を与えられた社会層の、既存の宗教を大衆を飼い慣らす手段として保持することへの利害関心、その者達の威信を破壊しかねない大衆への啓蒙活動に対して距離を取りたいという欲求と嫌悪、その者達の根拠のある次のことへの不信、つまり昔からの信仰信条について、誰もがその言い回しから常に多少なりとも新たな意味を読み取り、「正統派教会」の場合で10%程度、「自由主義神学[1]」の場合だと90%も、字義通り広範囲の社会層に受け入れられる新しい信条によって置き換えが可能である、という考え方への不信であるが、また取り分け宗教的問題と教会に対しての軽蔑を伴う無関心は、その問題と教会に対しては、結局は教会がほとんど負担にならない形式的な手続きで問題を処理することは何らコストがかかるものではなく、というのもそれが単なる形式上のことであることは誰でも知っており、それは正統派教会と聖職身分の慣習律の監督者によって、そして国家はその監督者については必要なキャリアを要求しているのであるから、処理させておけば間違いないといった無関心であるが、--全てのこうしたことはある真剣な教団的信仰で知識層によって担われるものを成立させる可能性を、まるで見込みがないもののように見せるのである。

[1] 19世紀のドイツに発生した聖書や教義を絶対視せず、歴史的・理性的に再解釈しようとうする立場。シュライエルマッハー、リッチュル、ハルナックなどが主唱。現在の学術的な聖書・キリスト教研究も元はここから始まっている。

 

折原浩訳の問題点(33)

毎日、必ずという確率で折原誤訳を発見します。これ本当に100回行きそうです。折原誤訳100物語ですね。(笑)
ついでに全集の注も批判しました。

(1) [神を信奉する人々のゲマインデ]ってほぼ全ての宗教にある話であり、ブラフモ・サマージの説明にまったくなっていません。
(2) インドにおける「ブラフモ・サマージとペルシア的啓蒙主義」なのに、インドの「ブラフマ・サマージ」とペルシアの啓蒙主義と訳しています。17~19世紀の話をしているのに、ペルシア!(「ペルシア的啓蒙主義」の方は私が訳注に記したように、ここで挙げるような話かについては疑問がありますが。)
(3) ヴェーバーは ist で断定しているのに、勝手に「であろう」と推測に変更。しかもなんで普通に訳さないで主語と述語をひっくり返すのか。私は可能な限り、元の語順を保った訳にすべきと考えて、出来るだけそうしています。だってネイティブは前から順に読んで理解するのですから。

Ein Produkt der Berührung mit europäischer Kultur ist andererseits die hinduistische (Brahma-Samaj) und persische Aufklärung in Indien.

折原訳
他方、インドにおけるヒンドゥー教 (ブラフマ・サマージ [神を信奉する人々のゲマインデ]) およびペルシアの啓蒙主義は、ヨーロッパ文化との接触の所産であろう。

丸山訳
そういったヨーロッパ文化との接触の産物であるのは、他方でインドにおけるヒンドゥー教の(ブラフモ・サマージ[1])とペルシア的な啓蒙主義[2] である。

[1] 19世紀のヒンドゥー教改革運動の一つで、名称は「ブラフマンの元に参集した人々」の意味。純粋なキリスト教とヒンドゥー教には一致点があり、そこに普遍性があるとして古代のヒンドゥー教の復興を目指した運動。
[2] 全集の注によればムガル帝国のアクバル帝の宗教融和政策のこととなっているが、それは西欧の影響は非常に少ないし(例外的にイエズス会と接触したりはしているが)、また時代的にも16世紀であり合わない。私見ではアクバル帝ではなく、その子のシャー・ジャハーンないしはダーラー・シコーの時代の話ではないか。シャー・ジャハーンの王妃はペルシア系であるし、ダーラー・シコーはウパニシャッドをペルシア語に訳させたりしているし、イエズス会士やヒンドゥー教の僧侶と議論したりもしている。この全集の注は先のGāthāへの注も含めて、インド関係になると急に信頼性が落ちているように思う。

折原浩訳の問題点(32)

今日も今日とて折原誤訳。

(1)agrarkommunistisch を「農業共産主義的」と、agrarと来たら「農業」しか頭にないみたい。大体共産主義的農業はあり得ますが、農業共産主義は意味不明で、共有するのは土地(と生産手段)です。
(2)原文はVerbindung zu bringen gesucht wurdeで「結合が試みられた」(しかし実際には成功しなかった)ですが、「さまざまな結合を達成した」と全く逆に訳しています。
(3)あれほどpersönlichを「即人的」と訳していたのに、ここでは「個人として」で、まったく主張していることに一貫性がありません。

原文
Dies hatte die in den 70er Jahren des vorigen Jahrhunderts mit der Entstehung des sog. Narodnitschestwo (Volkstümlerei) beginnende, naturrechtliche, vorwiegend agrarkommunistisch orientierte Bewegung im Gefolge, welche in den 90er Jahren mit der marxistischen Dogmatik teils in scharfen Kampf geriet, teils sich in verschiedener Art verschmolz und mehrfach zuerst mit slawophil-romantischer, dann mit mystischer Religiosität oder doch Religionsschwärmerei in eine meist wenig klare Verbindung zu bringen gesucht wurde, bei manchen und zwar relativ breiten Intelligentenschichten aber, unter dem Einfluß Dostojewskis und Tolstois, eine asketische oder akosmistische persönliche Lebensführung bewirkte.

折原訳
そこからは、前世紀の70年代に、いわゆるナロードニチェストゥヴォ (人民派) の発生とともに、自然法的それも圧倒的に農業共産主義的な方向性をそなえた運動が招来された。この運動は、90年代には、一方で、マルクス主義の教義学と片や鋭い闘争に陥り、片やさまざまな仕方で融合を遂げながら、他方では、当初にはスラヴ派のロマン主義的宗教性と、やがては神秘的な宗教性ないし宗教的狂信と、おおかたは明瞭でない、さまざまな結合を達成した。そのさい、相対的には広汎な知識層に、ドストイェフスキーとトルストイの影響のもとで、個人として禁欲的あるいは無宇宙論的に生きようとする生き方[生活方法論]が形成された。

丸山訳
これらの知識人層の動向の結果として、1870年代において、いわゆるナロードニチェストヴォ(人民主義)の成立と共に始まる、自然法的で、土地共有の共産主義の実現を目差す運動が発生し、それは1890年代にはある部分ではマルクス主義のドグマとの激しい戦いに陥り、別の部分では逆に様々な形でそれと融合し、更にそれよりもはるかに強く、最初はスラブ派的-ロマン主義的信仰と、次には神秘主義的信仰またはそれどころか宗教的狂躁との、大部分はほとんどはっきりしない一体化が模索されたが、多くの、しかも相対的に広範囲の知識人階層においてはしかし、ドストエフスキーとトルストイの影響下で、禁欲的または現世を認めない[無宇宙論的な]個人主義的な生活実践が生み出された。

折原浩訳の問題点(31)

この箇所は今までの誤訳に比較してもひどく、翻訳というより一種の自由作文になってしまっています。「学術的要素が後退する」と言っているだけなのを「知識人に委ねなくなる」などとおかしな解釈をしています。tut das Übrige=余計なことをする、予期しない結果となる、も勝手に変えられています。「なお生き残るとしても」も原文にはありません。「真の宗教的信仰」もおかしく、ある種の宗教的信仰と見なし得ると言っているだけです。ここも折原訳だけ読むとヴェーバー学ではなく、勝手に折原学に変えられてしまう典型例です。

原文
Je mehr die ökonomischen Interessenten selbst ihre Interessenvertretung in die Hand nehmen, desto mehr tritt gerade dies »akademische« Element zurück; die unvermeidliche Enttäuschung der fast superstitiösen Verklärung der »Wissenschaft« als möglicher Produzentin oder doch als Prophetin der sozialen gewaltsamen oder friedlichen Revolution im Sinn der Erlösung von der Klassenherrschaft tut das Übrige, und die einzige in Westeuropa als wirklich einem religiösen Glauben äquivalent anzusprechende Spielart des Sozialismus: der Syndikalismus, gerät infolgedessen leicht in die Lage, in jenem zu einem romantischen Sport von Nichtinteressenten zu werden.

折原訳
ところが、経済上の利害関係人自身が、自分たちの利害を代表するすべを心得て、知識人に委ねなくなれば、ほかならぬこの「知的」分子は、それだけ退場を余儀なくされる。「学問」を、階級支配からの解放という意味における暴力的ないし平和的な社会革命の可能な生産者ないし (さなくとも) 預言者に見立てて、ほとんど迷信的に称揚する傾向が、なお生き残るとしても、その挫折にともなう幻滅は避けがたく、知識人層の宗教まがいの信仰には止めが刺されよう。その結果、西ヨーロッパにおいて唯一、真の宗教的信仰とも等価とみなされる社会主義の一変種、サンディカリズムも、その点で容易に、利害関係をもたない第三者のロマン主義的遊戯となりさがるほかはない。

丸山訳
経済的な利害関係者自身がその利害関係を代表する立場を手中に収めれば収めるほど、それだけ一層まさしくこの種の「学術的」要素は後退することになる;ほとんど迷信的な「学問」が社会を正しい方向へ変えることへの避けがたい幻滅、つまり学問が階級支配からの救済という意味での、暴力的・平和的な社会革命を生み出すことが出来る者あるいはそれどころか預言者ですらあるという期待への幻滅が、予期せぬ結果をもたらすことになり、そして西欧において唯一社会主義において実際にある種の宗教的信仰同等物と認め得る種類のものは:サンディカリスムであるが、結果としてはそれも容易に利害関係者以外の者による一種のロマン主義的遊戯という事態に陥ったのである。

折原誤訳の(ここまでの)総括

ChatGPT5に折原誤訳の特徴をまとめさせると
「折原訳の問題は、個別の誤訳の多さにあるのではない。強い先入見、独断的な理論枠組み、語彙理解の欠如、文法把握の甘さ、既訳依存、歴史的無知が相互に増幅しあって、訳文全体を恒常的に歪めているところにある。」
となりました。

以下、10ほど例を再度挙げます。どの一つをとってもまともな翻訳ならあってはならないものですが、折原訳ではこれらが複合して登場します。こういう方が「翻訳の責任倫理」について語る資格はありません。まずは自分の翻訳責任をきちんと果たしてからにして欲しいと言いたいです。
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折原浩誤訳パターン集

(1)不適切な訳注
まずは誤訳ではないが、マルクス主義バリバリの本文とほとんど関係のないおかしな訳注を付ける。(ちゃんとした訳注はほとんど付けていないにもかかわらず。)

「古代には一般に都市に在住する領主」への訳注→「零細農民を債務奴隷に陥れ、土地を収奪-集積して大地主になると同時に、都市に在住して遠隔地交易にも携わり、その利得を農民に高利で貸し付けて収奪-兼併を強める都市貴族・不在地主層。」

(2)Gemeindeに関する独自の珍解釈
ヴェーバーはGemeindeに関しては「理解社会学のカテゴリー」でも「社会学の根本概念」でも一度も言及していないにもかかわらず、「このように、「ゲマインデ」の三範疇は、「旧稿」内部で、あちこちに分散し、バラバラに論じられているようにも見えますが、じつはそうではなく、カテゴリー論文に特有の「ゲゼルシャフト結成」概念によって結びつけられています。」とし、創文社訳がStadtgemeindeを「都市教団」と正しく訳しているのに対し「都市ゲマインデ」と訳すべきと主張し、このことを理由に創文社訳が翻訳の体を成していないと非難しています。しかし、ゲマインデは地方自治体という意味でも、宗教的な共同体という意味でも元々ゲマインシャフトから出発していて、ゲマインシャフトの意味とゲゼルシャフトの意味との両方を持つ語であり、「ゲゼルシャフト化されたものがゲマインデ」などというのは完全な誤り。

(3)「理解社会学のカテゴリー」にこだわり、時にはそれに書いていない独自の珍解釈を行う
の問題点
「宗教社会学」のゲマインデ(教団)の宗教性について定義している箇所ですが、

原文
Wir wollen nur da von ihrem Bestand reden, wo die Laien 1. zu einem dauernden Gemeinschaftshandeln vergesellschaftet sind, auf dessen Ablauf sie 2. irgendwie auch aktiv einwirken.

折原訳
われわれはもっぱら、平信徒が、① ゲゼルシャフト形成によって[スタッフと平信徒、相互の権利-義務を規定する秩序の制定によって、この秩序に準拠する]継続的なゲマインシャフト行為に編成され、同時にまた、②当のゲマインシャフト行為の経過に、なんらかの仕方で能動的にもはたらきかけている場合にかぎって、ゲマインデ宗教性が存立すると考えたい。

丸山訳
我々はもっぱら、平信徒が、① 単発のゲマインシャフト行為ではなくそれが継続的に[何らかの制定律に準拠しているかのように]繰り返されるという形でゲゼルシャフト化されているという場合で 、そしてその経過において、②そういった連続したゲマインシャフト行為が何らかの形で能動的に作用している場合に、ゲマインデの宗教性が成立していると考えたい。

私の訳で普通に自然に訳せるのに、「ゲゼルシャフト形成によって、この秩序に準拠する継続的なゲマインシャフト行為に編成され」という、ゲゼルシャフト形成がゲマインシャフト行為を編成するという、カテゴリー論文に書いていないことを勝手にでっち上げています。

(4)「理解社会学のカテゴリー」に書いていない社会学的概念は誤訳だらけ
ケルパーシャフトは「理解社会学のカテゴリー」には出て来ないものの、ドイツの団体形成の歴史では重要な概念ですが、折原はGebietskörperschaftsを「地域団体」と訳して終わりです。これではゲマインデとケルパーシャフトの違いがまったく分かりません。他にもゲノッセンシャフトを「仲間団体」と訳して終わり。この訳だとGenossenschaftsverband(ゲノッセンシャフト団体)を訳すと「仲間団体団体」になって破綻します。

(5)創文社訳を批判しつつ、一方では創文社訳のおかしな訳をそのまま踏襲。
Die charismatische Erziehung in diesem Sinn, mit ihren Noviziaten, Mutproben, Torturen, Graden der Weihe und Würde, ihrer Jünglingsweihe und Wehrhaftmachung ist eine in Rudimenten fast überall erhaltene universelle Institution aller kriegerischen Vergesellschaftung.

折原訳(前半部は創文社訳そのまま)
この意味におけるカリスマ教育は、修練期・肝試し・しごき・聖祓と威厳の格付け・元服式・佩刀礼をともなう、戦士的ゲゼルシャフト結成の普遍的制度で、ほとんどいたるところに痕跡を止めている。

丸山訳
この意味でのカリスマ的教育は、修練期・勇気の試練・苦行・聖別(注)と位階の格付け・[通過儀礼としての]成年式および武装の許可を伴うものであり、ほとんどすべての戦士的ゲゼルシャフトとして形成された集団において、痕跡的ながら普遍的に認められる制度である。

「修練期・肝試し・しごき・聖祓と威厳の格付け・元服式・佩刀礼」などとほぼ全て日本の用語に直した訳は元の語の意味を歪めてしまいますが、折原はそのまま踏襲しています。

(6)辞書を見たり、調査しないで間違った訳語を濫発
Surrogate(代替物)をスローガン、 erastianisch(エラストゥス主義)をエラスムス的、などぱっと見の印象での不正確極まる訳が目立ちます。imperialistisch(帝国主義的)が何故か「知性主義的」に。entlehnen(借りる)を「拒否する」に。

(7)奇妙な造語的訳語の濫発
persönlichを多くのところで「即人的」と訳し、それについての説明もなし。またAblenkungを「貶価」などという辞書にもない造語で訳している。

(8)勝手に元のnichtを落としたり、oderをundに変える
Soweit diese Gruppe sich nicht in den Dienst der Bildung der Reformations→「人文主義者の集群は、改革派教会あるいは対抗改革派の宗教性の形成に関与したかぎりで」と正反対に訳している。
また、Versklavung oder Proletarisierung で「または」とあるのを勝手に「奴隷化されると同時に無産化された。」と誤訳。(ローマで奴隷化と無産市民化が同時に起きることはあり得ない。)

(9)仏教用語の多用
開悟だの、彼岸・此岸、応報等々、仏教以外のことについて書かれている箇所で仏教用語を多用。

(10) 歴史的事実のねじ曲げ
旧約聖書の「申命記」について、ヴェーバーがOktroyierung(王による上からの強制)と書いているのを何と「欽定訳」と訳す。

 

折原浩訳の問題点(30)

ついに30まで到達。
信仰を巡る戦い→清教徒革命などのことが言及されていることから、これは明らかに17世紀の話であって、United Kingdom = イギリスはまだ成立していません。何ですか「イギリス本国」って?スコットランドが別に言及されていることからも明らかです。こんな高校生レベルの世界史の基礎知識も折原センセは持っていません。

原文
Er ist, im Gegensatz zu Holland, Teilen von Schottland und den amerikanischen Kolonien, wenigstens in England selbst auch bald wieder kollabiert, nachdem die Machtsphären und -chancen im Glaubenskampf erprobt und festgestellt schienen.

折原訳
そうした大衆的知性主義は、オランダ、スコットランドの各地およびアメリカ植民地とは対照的に、少なくともイギリス本国では、その勢力範囲と拡大可能性が、信仰戦争において試練を受け、確立したかに見えた後に、まもなくふたたび衰退している。

丸山訳
そういった大衆主知主義は、オランダやスコットランドの一部、そしてアメリカの植民地とは対照的に、少なくともイングランド自体では、その勢力範囲と勢力拡大の可能性が信仰を巡る戦いの中で試されそして確かなものになったように見えたその後で、再びまた衰退した。

なお、ここまで執拗に折原誤訳を摘出し指摘していることに疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、このことは折原氏自身が主張していることを忠実に実践しているだけということを申し上げておきます。以下はこの私家版訳をこちらに送って来た時のメールの一部です。内容は創文社訳に対してのものですが、見事に自分の訳に戻って来るブーメランになっています:
「そこで、こういう(積極的と否定的)二義的な読解状況に直面した後進-後輩には、そういう先訳に、原則としてどう対応すべきか、という、翻訳の「哲学」ないし「責任倫理」の問題が、提起されざるをえません。そして、この問題提起にたいしては、一方では、武藤氏他訳の、宗教史上の諸事象にかんする豊富な訳注は尊重し、保存しつつも、他方では、全篇にわたる術語の誤訳-不適訳は逐一摘出し、是正して、ヴェーバー「宗教社会学」とは何であるかを、そのつど具体的に解説して、読者の理解に資する、という方針が定立されましょう。」

折原浩訳の問題点(29)

もはや「1ページに数ヶ所」の誤訳というレベルではなく、この辺りは「ほぼ全ての文で」誤訳があります。全くヴェーバーが論じていることについて行けていません。よくもまあ、こんなレベルの人が「ヴェーバー宗教社会学の専門家」などと言って人に教えていたものです。これも聖書の譬えで
「そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(マタイ15:14、新共同訳)がぴったりです。この譬えの最初の盲人は自分が律法を知りそれを守っていると思っているパリサイ人のことだと思いますが、折原浩も「自分こそヴェーバーの宗教社会学をもっとも理解しているし読み込んでもいる」と思っているという点でまったく一緒です。

(1) erastianisch を字面だけで判断して「エラスムス的」と誤訳。正しくは「エラストゥス主義」(下記の訳注参照)。大体エラスムスはルターと激しく論争していますけど。(ちなみに創文社訳は正しく訳し、かつ訳注も付けている。)

(2) Priester und Prädikanten を「祭司や説教者」といつの時代か分からないような、また並記しているかのような誤訳。ここは宗教改革の時の争いの話ですから、カトリックの司祭とプロテスタントの牧師の間の言い争いとデマゴギーに嫌気が差して、ということです。(ここは創文社訳の誤訳をそのまま踏襲。)

原文
Ihrem Lebensniveau entsprechend waren die klassisch gebildeten Humanistenschichten im ganzen antibanausisch und antisektiererisch gesinnt, dem Gezänk und vor allem der Demagogie der Priester und Prädikanten abhold, daher im ganzen erastianisch oder irenäisch gesinnt und schon dadurch zur zunehmenden Einflußlosigkeit verurteilt.

折原訳
古典的教養をそなえた人文主義者層は、その生活水準に相応しく、全体として、反俗的また反ゼクテ的な心情-心意の持ち主であり、祭司や説教者の口論、とくに大衆煽動を嫌った。それゆえ、全体としては、エラスムス的あるいは宗派宥和主義的な心情-心意に傾き、すでにそのことからしても、ますます影響力を失っていくほかはなかったのである。

丸山訳
古典についての教養を持った人文主義者層はその生活水準に適合して、全くの反世俗的で反教派的な志向を持っていたが、[カトリックの]司祭と[プロテスタントの]牧師の絶え間ない争いと特に大衆への扇動を嫌い、そのため全くのエラストゥス主義[1] または宥和主義的な志向に傾き、そのことによって既に、次第に影響力を持ち得なくなっていると否定的に判定されたのである。

[1] 16世紀のツヴィングリ派の神学者トーマス・エラストゥス(1524~1583年、スイス)に由来する考え方で、教会は独自の行政権や裁判権など持つべきではなく、国家に従属すべきというもの。