折原浩訳の問題点(78)

今日も2つで78回目。ともかくも折原センセはHabitusの意味が分かっていなくて、単に英語のhabitに似たようなものだと思っているのでしょう。カトリックのHabitusをきちんと定義付けたのはトマス・アクィナスであり、「神から与えられた恩寵・徳・信仰・愛徳などに関わる霊的な態勢・力」という意味です。「宗教に特有な習性」ってまるで意味不明です。

(1)何故か前に間違えた急性-慢性と  je nachdem はここでは正しく解釈しています。(おそらく創文社訳を見たんでしょうが。)
(2)「脱我」って何ですか?それを言うならせいぜい「脱自」でしょうし、「忘我」ぐらいが一番分かりやすいと思います。
(3)「瞑想への沈潜」なんて原文にありません。そもそも「瞑想的-高揚」という対照と、「生が高められる-生から遠ざけられる」という対照の2つを、勝手に順番変えて組み合わせていて、原文の意味構造を改変しています。
(4)「ここで問題となるのは」も、客観的にそこが重要だということではなく、この論考で取り上げるのはこの2つだ、ということなので、1人称をきちんと使って訳すべきです。(英語と違ってドイツ語論文は1人称はなるべく使ってはいけない、なんていうルールはありません。)

原文
Die Ekstase als Mittel der »Erlösung« oder »Selbstvergottung«, als welches sie uns hier allein angeht, kann mehr den Charakter einer akuten Entrücktheit und Besessenheit oder mehr den chronischen eines, je nachdem, mehr kontemplativ oder mehr aktiv gesteigerten spezifisch religiösen Habitus, sei es im Sinne einer größeren Lebensintensität oder auch Lebensfremdheit haben.

折原訳
ここで問題となるのは、もっぱら「救済」ないし「自己神化」の手段としての法悦である。それは、どちらかといえば急性の、脱我や憑依という性格を帯びることもあれば、どちらかといえば慢性の、宗教に特有の習性という性格をそなえていることもある。後者はさらに、事情次第で、生の密度をたかめ、どちらかといえば能動性の昂揚をともなうか、あるいは生からの疎隔を強めて、どちらかといえば瞑想への沈潜をもたらすか、どちらかである。

丸山訳
「救済」または「自己神化」の手段としての法悦は、そういうものとしてのみ、我々はここでは考察するが、ある急性の忘我となって何かに憑かれた状態か、あるいはむしろ慢性の、場合に応じて、より瞑想的かあるいはより能動的に高揚させられた、特別に宗教的な魂の力という性格をより多く持つことが出来る。そういう高められた魂の力の意味は、生の強度がより高められたという場合も、あるいはまたより生から遠ざけられたという場合であることもある。

折原浩訳の問題点(77)

また問題の折原訳。77回目で、目出度くない誤訳の「喜寿」達成。(笑)

(1)またも元服式とか佩用式とか帯刀礼などの変な和風語彙を使う。しかも別に王族とか封建家臣に限定されている訳ではない。ニューギニア高地人のペニスケース(コテカ)とかもその例。(笑)
(2)「といった制度の残滓」ではなく、そういう制度自体が古の再生儀式の残滓。
(3)「それぞれ「英雄」ないし「魔術師」への「再生」の意味を帯びている。」ではなく、ある場合は英雄として、また別の場合は魔術師として、ぐらい。
je nachdem の意味がまったく訳されていない。

原文
In all jenen Resten von Jünglingsweihe, von Bekleidung mit den Mannesinsignien (China, Indien — die der höheren Kasten heißen bekanntlich: die zweimal Geborenen), Rezeptionen in die religiöse Bruderschaft der Phratrie, Wehrhaftmachung haben ursprünglich den Sinn der »Wiedergeburt«, je nachdem als »Held« oder als »Magier«.

折原訳
元服式 [成人聖祓式]、[王や封建家臣の身分・権力・地位の取得を象徴する冠・笏・杖・刀剣・徽章などの]佩用式 (中国、インド――ここでは周知のとおり、上層カーストへの所属者が「再生族」と呼ばれる)、フラトリー の宗教的兄弟団への加入-受け入れ式、帯刀[その他の武装免許]礼、といった制度の残滓はことごとく、始原に遡ればそれぞれ「英雄」ないし「魔術師」への「再生」の意味を帯びている。

丸山訳
他の全ての残りの目的は、つまり[男性の若者への通過儀礼としての]成年式、男性らしさを象徴するような服飾品の着用(中国、インド--カーストの上位に所属するものが知られている通り:再生族と呼ばれる)、宗教的なフラトリー[1] の兄弟団への受け入れ、武装許可といったものは、根源的には「再生」という意味を持っていたのであり、状況によって英雄としてであったり、魔術師としてであった。

[1] 古代ギリシアのφρατρίαのことで、いわゆるメンナーハウスに起源を持つ、成年男性の行政的機能と祭式的機能を併せ持つ社会集団のこと。

「心意倫理」という訳の問題点

折原センセはGesinnungsethikの訳として「心情倫理」は誤訳であり「心意倫理」とすべきだと主張します。
しかし、この主張には色々問題があります。

(1)「心情」は「思い」という意味で、意思も感情も含む語である。
(2)「心意」という日本語は存在しない。
(3)「意」も「思い」という意味であり、必ずしも意思という意味に限定されない。
(4)(3)のことから「心意」は「思い思い」と言っているトートロジーである。
(5)「心意」と聞くと私は「意馬心猿」(=煩悩が制御出来ない状態)を想像する。
(6)Gesinnung自体が「個人の基本的な考え方、心根、心情、志操、主義」であり、必ずしも「意思」的な意味に限定されるものではない。
(7)小学館の独和大辞典のGesinnungの説明の中に「心情」が入っている。

ということから、「心情倫理」の方が「心意倫理」のようなおかしな訳よりもずっと原語のニュアンスを伝えていると思います。
ともかくこの人は「人の目のおがくずを指摘する癖に自分の目の中の丸太に気が付かない」人であり、このレベルのものを「誤訳」とか言う前に、自分の翻訳の質を上げてほしいです。

折原浩訳の問題点(76)

ここも「人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要」などという原文にない余計な付け加えをしているだけでなく、この付け加え自体が全体の論旨に反しています。この後に、要するに倫理的な行為・努力は「救済の方法論」の手段に過ぎないと言っているのに、それに近い「人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要」は矛盾しています。これに続く箇所で「自分の人格への宗教的な働きかけ」と言っているのはカリスマ的覚醒における神秘的体験のことであり人格の研磨(これもそれを言うなら「人格の陶冶」でしょう)とかではありません。

原文
Auf die religiöse Arbeit an der eigenen Person kommt vielmehr alles an. Die religiös qualifizierten, sozial gewendeten guten Werke sind dann lediglich Mittel

折原訳
むしろ、宗教上の目標に向けて自分の人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要となる。そうなると、宗教的な性質をそなえて社会に向けられるもろもろの善き業は、自己完成つまり「救済技法」上の手段にすぎなくなる

丸山訳
よりむしろ全てにおいて重要となるのは、自分本来の人格[1] に対しての宗教的な働きかけである。宗教的な価値を認められた、社会に向けられた善行はその場合単に次のことの手段に過ぎなくなる

[1] ここは次の文でデーモンに憑依されたり、霊界に連れ去られたりというのが出て来ることから、ペルソナ的な意味での「人格」であり、道徳的な意味のそれではない。

折原浩訳の問題点(75)

またひどいのが出てきました。原文の構造を勝手に変え、多くの場所で意味不明の訳をしています。

(1)Oder以下は別の文なのに、それをくっつけてしまっている。
(2)「善の「修練」による習得が原理上可能なものか、どちらかである」は可能かどうかではなく、可能である場合もあるという意味であり誤解を招く。
(3) Habitusの「(神から与えられた)霊的な力」の意味がまったく取れていない。
(4) positiv はここでは「積極的」ではなく「プラスの」、である。
(5)「外化され表現される」は日本語として意味不明、sich äußern は単に~において現れる、ということ。
(6)Gerichtetheit は「~に向けられていること」であり「心意が」は余計で不要。折原訳だと何か行為者が自分でそうするみたいになるが、ここは神の恩寵でそういう風に方向付けられていること、という意味。
(7)「ある方法に準拠して統一的に形成される生き方」も「ある統一され、方法的に整えられた生活実践」 で折原訳ではeinerが「方法」という書かれていない単語にかかるように読めてしまいます。

(私は心意倫理という訳は、理解は出来ますが、従来の心情倫理で十分意味としてはカバーされていると考えますので採用しません。)

原文
Aber sie ist es durchaus nicht immer, vielmehr ist sie meist die spezifische Form des ethischen Rigorismus. Der religiös positiv qualifizierte Gesamthabitus kann dabei entweder reines göttliches Gnadengeschenk sein, dessen Existenz sich eben in jener generellen Gerichtetheit auf das religiös Geforderte: einer einheitlich methodisch orientierten Lebensführung äußern. Oder sie kann umgekehrt durch »Einübung« des Guten im Prinzip erwerbbar sein.

折原訳
ただ、つねに必ずしもそうとはかぎらず、心意倫理はたいてい、むしろ倫理上の厳格主義に特有の形態である。その場合、宗教上積極的な性質をそなえたものと評価される人格全体の習性は、もっぱら神の恩恵による賜物であるか、あるいは逆に、善の「修練」による習得が原理上可能なものか、どちらかである。前者の場合、そうした賜物があるかどうかは、宗教的に要求される事柄に心意が全面的に向けられるあり方、つまり、ある方法に準拠して統一的に形成される生き方、に外化され表現される。

丸山訳
しかし心情倫理がいつもそうである訳ではまったく無く、むしろ大抵の場合は倫理的リゴリズムの特別な形態を取っていることが多い。宗教的にプラスの評価を与えられた総体での霊的な力は、その際にあるいは純粋に神からの恩恵としての賜物であり、その存在はまさに、宗教的に要求されることに対して、あの一般的に言われる方向付けられていることが:ある統一され、方法的に整えられた生活実践において現れるのである。またはそういう霊的な力は逆に善行の「訓練」によって一般的に獲得可能であるか、である。

折原浩訳の問題点(74)

ここも何故こんな単純ミスをするのか、という例。im strengen gesinnungsethischen Sinn で streng は誰が見たってSinnにかかっているのに、折原訳では「厳格に要求する」と原文とはまったく違う訳になってしまいます。
こういうレベルの誤訳がほぼ全文に近い確率であるということです。
心意倫理も聞いたことがない単語で、通常は心情倫理と訳すと思います。
(と思ったらHPで心情倫理は誤訳と主張していました。私はgütig gesinnt = 好意を持っている、好意的である、のような表現もあることから考えて、「心情倫理」で意思も感情も含めており問題ないと思います。まったく人の訳は非常に細かいレベルで「誤訳」だと決めつけるのに、自分は信じられないほどのひどい誤訳を多数している訳です。)

原文
Wo diese Auffassung konsequent bleibt, verzichtet sie auf das Verlangen der »Wiedergeburt« im strengen gesinnungsethischen Sinn. Die Lebensführung bleibt ein ethisch unmethodisches Nacheinander einzelner Handlungen.

折原訳
こうした見方が貫徹されるところでは、心意倫理的な意味の「再生」を厳格に要求することは断念される。生き方は、倫理的観点から方法的に規制されることのない、個々の行為の継起に止まる。

丸山訳
こうした把握の仕方が首尾一貫している場合には、そういう把握は「再生」の望みを、厳密な心情倫理的な意味では放棄する。生活実践はその場合倫理によって規制されていない、個々の行為の連続に留まる。

折原浩訳の問題点(73)

ここも良く調べないで思いこみで訳を付けている例。dolusは辞書を引けばその意味は”trick, device, deceit, treachery, trickery, cunning, fraud”であり明らかに詐欺的な行為ということであり、「故意」ではありません。折原訳は「過失」が来たから「故意」だろう、ぐらいのノリで訳したとしか思えません。そもそもここはintentio の説明であり、それ自体に「故意」という意味があり、そこで更に「故意」を使うと単なる同義語の反復になってしまいます。また「善意」「悪意」も私が注を付けたように日本の法律用語としては一般の意味と違うので適切な訳とはいえません。本来のローマ法での意味はbona fides は「詐欺・欺罔・不公正な振る舞いを含まない誠実な態度」です。
大体、こんな未完成もいい所の下訳レベルで、しかも先行訳にも大幅に劣るものを「オープン翻訳」を「騙って」(まさしく dolus)出すなんて、ちょっとその神経が信じられません。

p.s.
創文社訳の訳注には船田亮二の「羅馬法」の訳に従ったとして、dolusが確かに「故意」になっています。
しかしインターネット上のLSDというサイトの説明だと
Dolus is a Roman and civil law term for intentional wrongdoing. It primarily refers to fraud or deceit, indicating bad faith or conduct intended to mislead. It can also describe intentional aggression or willful injury, especially to another’s property, distinguishing it from mere negligence or accident.
となっており、ローマ法では単なる故意ということよりも「故意での詐欺行為」です。それにここではIntentioが最初に来ていてその説明でローマ法の概念が示されているので、単なる「故意」では合わないと考えます。なので私の訳の「詐欺的意図」ぐらいが適当と思います。

原文
Denn die »intentio«, auf welche es nach der Sündenlehre des Katholizismus für die ethische Bewertung des Handelns ankommt, ist nicht eine einheitliche Persönlichkeitsqualität, deren Ausdruck die Handlung ist, sondern sie ist, im Sinne etwa von bona fides, mala fides, culpa, dolus des römischen Rechts, die »Meinung« bei der konkreten einzelnen Handlung.

折原訳
それというのも、カトリックの罪業説によれば、行為の倫理的評価のさいに重視される「志向(インテンチオ)」とは、行為に表明される統一的な人格的資質ではなくて、ローマ法のたとえば善意・悪意・過失・故意の意味における、個々の具体的な行為の「意向(マイヌンク)」にすぎないからである。

丸山訳
というのはカトリックの罪に関する教説がその上に行為の倫理的評価を関連付ける”intentio”[行為者の志向]とは、その表出が行為となる統一された人格的資質ではなく、例えばローマ法の誠実 [bona fides]、不誠実 [mala fides][1]、過失 [culpa]、詐欺的意図 [dulas]などの意味での、「主観的意向」[Meinung]である。

[1] ここの原文は、bona fides、mala fidesであるが「善意」「悪意」と訳すと、日本の法律では「ある事情を知らなかったか知っていたか」という意味になるため、誠実、不誠実と訳した。本来例えばbona fidesは「信義・誠実」「詐欺や不公正な取引の不存在」という意味であり、現在の日本の法律用語はその内のごく一部だけを使用していることに注意。

折原浩訳の問題点(72)

今日も期待通りにやらかしてくれています。
(1)「戦士天堂」って何ですか?ググってもヒット0。(ふしぎ駄菓子屋「銭天堂」が大量ヒット。)何だか「封神演義」の世界みたいです。(笑)ここは要するに北欧神話のヴァルハラなどのことです。
(2)eben dies zu finden「まさにそれを見出すことになる」が何故「体系化への道を開鑿するのが、通例、預言の機能である。」の「開鑿する」になるんでしょうか。土木工事の話ではありませんが。(笑)
(3)「戦死者を優遇した。」ではなく戦死者には(特別の)報賞が与えられた、ということです。
(4)いくらバラモンでも王に対して「死ね」という命令は出来ませんが。(笑)

ジャストシステム時代にATOK関係者の間で「語彙空間」というタームを使っていましたが、本当にこの方の「語彙空間」は謎です。

原文
Die Kriegsgötter z.B. nehmen sehr oft in ihr Paradies nur die in der Schlacht Gefallenen auf oder diese werden doch prämiiert. Für den König empfahl die brahmanische Ethik direkt, daß er den Tod in der Schlacht suchen möge, wenn er den Sohn seines Sohnes sehe. Auf der andern Seite können sie Werke der »Nächstenliebe« sein. In jedem Fall aber kann die Systematisierung einsetzen, und es ist wie wir sahen regelmäßig die Funktion der Prophetie, eben dies zu finden.

折原訳
たとえば、戦争の神々はしばしば、戦場で仆れた者しか、彼らの楽園 [戦士天堂]に受け入れないか、あるいは受け入れるとしても戦死者を優遇した。バラモンの倫理は、王に対して、息子の息子を見たら [男児の孫をえたら]、戦場における死を求めよ、と直截に命じている。他面、「隣人愛」の所業が、そうした社会的功業に数えられることもある。いずれの場合にも、倫理にはある体系化が生ずるが、すでに見たとおり 、まさしくそうした体系化への道を開鑿するのが、通例、預言の機能である。

丸山訳
例えば戦争の神々は非常にしばしば、その楽園にただ戦闘で倒れた者達のみを受け入れるか、そうでない場合もこうした者達は報賞を与えられた。王に対してバラモンの倫理が端的に推奨しているのは、その王に孫が産まれる歳になった場合には、戦いにおいての死を求めることである。別の側面では、社会的行為が「隣人愛」に関するものであることもある。いずれの場合でもしかし、体系化が発生し得るのであり、それは我々がこれまで見てきたように、規則的に預言の機能であり、まさにこうした体系化を見出すのである。

折原浩訳の問題点(71)

ここも原文にないことを勝手に補って書いています。「神なき不信仰の徒と同一視して憚らなかった。」ってどこにも書いていなくて、「~の性格がユダヤ人をそういう方向に誘導した」というだけです。「折原捏造超訳」とでも名付けますか。(笑)
それから、「国民学校」はないでしょう。いくらVolksだからといって、ご自身の子供の頃の語彙を使わないで欲しいです。しかも「現在の」と書いているから「えっ、現在に国民学校?」と二重におかしく感じます。現在って書くなら「ヴェーバー当時の現在の」って書くべきです。100年以上前に書かれたものなのですから。
von früher Jugend anを「幼年期から」とするのも若過ぎ。後に小学校が出て来るからせいぜい6-7歳くらいのことでしょう。私は「まだ年端もいかない子供の時から」と訳しました。これで想定されている年齢は合っていると思います。こういうのが「文化的」翻訳です。

原文
Daß der Jude schon im Altertum, wie Philo hervorhebt, im Gegensatz zu allen anderen Völkern, von früher Jugend an, nach Art unserer Volksschule, fortgesetzt intellektuell systematisch-kasuistisch trainiert wurde, daß auch in der Neuzeit z.B. in Osteuropa aus diesem Grunde nur die Juden systematische Volksschulbildung genossen, ist die Folge dieses Schriftgelehrsamkeitscharakters des jüdischen Gesetzes, welches die jüdischen Frommen schon im Altertum veranlaßte, den im Studium des Gesetzes Ungebildeten, den Amhaarez, mit den Gottlosen zu identifizieren.

折原訳
ユダヤ人はすでに古代においても、フィロンが強調した とおり、他の全ての民族とは対照的に、幼年期から、現代ドイツの国民学校と同じ方式で、体系的-決疑論的な知的訓練を継続的に受けた。また、近代においても、たとえば東ヨーロッパでは、同じ理由で、ユダヤ人だけが、体系的な国民学校教育を受けていた。これらのことは、ユダヤ教の律法が、聖典に精通する学識を重んじた結果であり、その性格からして、敬虔なユダヤ教徒は、すでに古代においても、律法にかんする教養をそなえていない者、すなわち「地の民」を、神なき不信仰の徒と同一視して憚らなかった。

丸山訳
ユダヤ人は既に古代において、フィロンが強調したように、他の全ての民族とは対照的に、まだ年端もいかない子供の時から、我々の[ヴェーバーの時代の]小学校と同じやり方で、連続的に、知的な体系的・決疑論的なトレーニングを与えられたということ、そしてまた近代においても例えば東欧で、この理由からただユダヤ人だけが体系的な小学校教育を享受していたということは、ユダヤ教の律法がこのように解釈され口伝されたという性格の結果であり、その性格はユダヤ人の敬虔な信者が既に古代において、律法の学習を行っていない者を、つまりアム・ハアレツ[地の民]を、神なき者であると見なすよう誘発したのである。

折原浩訳の問題点(70)

超速ペースで70回目達成です。(笑)

ここも原文の構造がまったく見えていません。1番目の文の da と、2番目の文の wo が呼応しているので、wo以下の所では、~になる、と言っているので切って訳してはいけません。また最後のdassも、derart~、dass~という構文で、「このように~されるのでその結果」ということですが、そういう訳にはまったくなっていません。
また、Unterlassenは「思い止まる」ではなく単に「しないこと」、Schulung und Lehreは訓練と指導です。Lehreが来るといつも「教説」と訳すような一語一訳主義は問題です。

原文
Auf einem anderen und indirekten Wege kann eine ritualistische Religiosität da ethisch wirken, wo die Erfüllung der Ritualgebote das aktive rituelle Handeln (oder Unterlassen) des Laien fordert und nun die formalistische Seite des Ritus zu einem umfassenden »Gesetz« derart systematisiert wird, daß es einer besonderen Schulung und Lehre bedarf, um es überhaupt genügend zu kennen, wie es im Judentum der Fall war.

折原訳
儀礼主義的な宗教性は、いまひとつ別の間接的な道を通って、倫理的に作用しうる。それはすなわち、儀礼上の命令を十全に果たすために、平信徒にも能動的に儀礼行為をおこなうこと (あるいは逆に、思い止まること) が要求され、儀礼の形式主義的な側面が、ひとつの包括的な「律法」にまで体系化されて、「律法」を遵守する前提として当の「律法」を知るためだけにも、特別の訓練と教説が必要とされる場合である。ユダヤ教が、その事例に該当する。

丸山訳
儀式における諸命令の遵守が、平信徒に積極的な儀式上の所作(あるいは行わないこと)を強要し、そしてそれにより儀式の形式主義的な側面がある種の包括的な「律法」にまで合理化される場合には、ある儀式主義的な信仰が、ある別の、間接的な経路で倫理的な影響を及ぼすことが出来るが、その結果として[別の間接的経路である]律法が必要とするのは、その律法を一般的な意味で十分知るための特別の訓練と指導であり、それはユダヤ教において起きたことであった。