折原浩訳の問題点(68)

と思ったら次の文もまた誤訳。なんで最後が「異なってくるだろう」になるんでしょう。まず推測じゃなくて断定ですが、それだけでなく、es kommt auf etwas an (~次第となる、~が重要となる、~に依存するようになる)という構文がきちんと訳されておらず、またauf 以下が2つ出てきて同格なんですが、何故か訳し方を変えています。「告解が成立すれば」も変で、「告解が行われるようになった場合では」「告解が存在している場合には」だと思います。

原文
Diese Mysterien kannten also meist keine Beichte. Wo aber die Anforderung ritueller Reinheit zur seelischen Sündenreinheit rationalisiert worden ist, da kommt es nun weiter auf die Art der Kontrolle und, wo die Beichte besteht, auf deren möglicherweise sehr verschiedenen Charakter für die Art und das Maß der ihr möglichen Einwirkung auf das Alltagsleben an.

折原訳
したがって、そうした密儀はたいてい告解を知らなかった。とはいえ、儀礼上の清浄への要求が、魂の罪なき清浄へと合理化されると、いまや[そうした要求に応ずる]制御の方法が問題となり、告解が成立すれば、それが採りうる多種多様な性格のうち、どんな性格の制度が採用されるかに応じて、日常生活への可能な作用の性質と程度も、異なってくるであろう。

丸山訳
これらの秘教はそれ故に多くの場合、告解というものを知らなかった。しかし儀式においての清浄さへの要求が合理化されて[儀式参加者の]魂の罪なき清浄さ[への要求]となる場合は、そういった秘教にとっては次には、そういった要求をどうコントロールするかが重要になり、また告解というものが存在している所では、更には告解の日常生活への考えられる作用の性質とその程度についての、考え得る限りで様々に異なった性格も重要になる。

折原浩訳の問題点(67)

今日は誤訳ないかと思ったら、やっぱりやらかしてくれます。本当に神経の行き届いていない、下書きレベルに過ぎない雑な翻訳です。
ここではキリスト教以外の話をしているのに、何故「聖礼典を受ける資格」が出て来るのでしょうか。「聖礼典」や「秘蹟」の意味も良くわからずに訳しているということが良く分かります。「個々の特別の重罪」も原文にはないことを勝手に追加しています。schwere が「殺人罪」にしかかかっていないことは明らかです。
この方、論文のタイトルに「プロレゴーメナ」とか使う人ですから、それなりにカントは知っているんでしょうが、定言命法を理解もしていないし、実践もしていないと思います。

原文
Fast alle antiken und die meisten außerchristlichen Mysterienkulte haben dafür lediglich rituelle Reinheit verlangt, daneben galten unter Umständen schwere Blutschuld oder einzelne spezifische Sünden als disqualifizierend.

折原訳
古代のほとんど全ての密儀礼拝およびキリスト教以外のたいていの密儀礼拝は、そうした要件として、たんに儀礼上の清浄のみを要求した。それとならんでは、事情次第で、重大な殺人罪ないし個々の特別の重罪を犯せば、聖礼典を受ける資格を失うものとされた。

丸山訳
ほとんど全ての古代の、そして大部分のキリスト教以外の秘教的礼拝は、ただその礼拝に対して儀式においての清浄さを要求したし、それと並んで事情によっては程度のひどい殺人罪や個々に特別に定められた様々な罪は、礼拝への参加資格を失なわせるものとされた。

折原浩訳の問題点(66)

この辺りずっと儀式主義の議論が続いていますが、どうも使われている単語から判断すると、ヴェーバーはカトリックを頭に置いて論じていると思います。その場合、折原訳がSacramentを「聖礼典」(プロテスタント用語)と訳すのは完全にピンボケで、カトリックの用語である「秘蹟」にしないとおかしいです。(単に訳語だけでなく、プロテスタントでは2つだけですが、カトリックでは7つあります。)
それからVorgangを折原訳では「出来事」と訳していますが、私は「先行・優位」と解釈しました。これも先日のBeziehungと同じで、昔の辞書には「先行・優越」が第一の意味として出ていますが、新しい辞書は「経過」が先に来ています。この経過は本来のこの語の意味ではなく、後から出来た意味です。ChatGPTはまたも「経過」説を言い張りましたが、グリム辞書のコピーを貼り付けたら納得しました。なお、創文社訳の「事象」もおかしな訳です。

Ihr typischer Sinn ist die Spendung von »Sakramentsgnade«: Erlösung von Schuld durch die Heiligkeit der Manipulation als solcher, also durch einen Vorgang, welcher die Tendenz jeder Magie teilt, aus dem Alltagsleben herauszufallen und dieses nicht zu beeinflussen.

折原訳
類型論上の意味は「聖礼典恩恵」の分与にある。そこで、罪からの救済が達成されるのは、所作そのものの神聖性によって、ということはつまり、どんな魔術とも共通に、日常生活から離脱させ、日常生活には影響をおよぼさない、そういう傾向をそなえた出来事によって、である。

丸山訳
そういった秘教的礼拝の意義とは、「秘蹟の恩寵」の授与である:つまり[秘蹟の儀式においての]所作の神聖さによっての罪からの救済、つまり全ての魔術が共有する傾向である、ある種の優位な位置に立つことによる救済で、日常生活から外へ連れ出し、そしてその日常生活には何も影響を与えないということである。

折原浩訳の問題点(65)

最近、ほとんど1日辺り複数のポストになって来ています。
ここもひどいです。
(1)最初の文は、先に述べたようなともかくも避けることの出来る例に比べてより深くに進んでいるのは、であって「それだけ避けられない」なんてそんなことは一言も述べられていない。ともかく余計な付け加えが多いです。
(2)「気分の充実した帰依へとで最大限に醇化」→およそ意味不明の日本語。醇化も書くなら「純化」。「帰依」が仏教用語だけにそれに「気分の充実した」が付くとほとんどお笑いです。お坊さんに「どんな帰依のことですか」って聞いたら困るでしょうね。(笑)
(3)Stimmungsgehaltは「気分内容」ではなく、「情緒的没入感」ぐらいだと思います。要するに小説を読む時にその主人公の気分と同化してしまうとかありますが、儀式の最高潮で参加者をそういう風に同化させること。つまりGehalt=中身、というよりhaltenの過去分詞的に「保たれている、つかまれている」意味を含めて訳すべきだということです。英語に spellbound(魔法にかけられた、うっとりした)という表現がありますが、この-boundとちょっと似ています。Stimmungも元のstimmen(同調する、一致する)から訳を考えるべきです。 単にStimmungとGehaltの意味を足せばいいってものではありません。(この語に関してはDudenの説明と用例を確認しています。)
(4)「力点が置く」ってそもそも日本語としても間違ってますが。ご自身での校正の跡がほとんど認められません。要するにこの方多数本を出されていますけど、この手の校正は全部出版社任せで自分で最後まで責任をもって校正した経験自体がないんでしょうね。

原文
Tieferliegend aber als diese immerhin vermeidbare Konsequenz ist der Umstand: daß die rituelle Erlösung, speziell dann, wenn sie den Laien auf die Rolle des Zuschauers oder auf eine Beteiligung nur durch einfache oder wesentlich rezeptive Manipulationen beschränkt und zwar gerade da, wo sie die rituelle Gesinnung möglichst zu stimmungsvoller Andacht sublimiert, den Nachdruck auf den »Stimmungsgehalt« des frommen Augenblicks legt, der das Heil zu verbürgen scheint.

折原訳
この帰結はともかくも避けることができるが、つぎのような事態は、いっそう深い基礎に根ざしているので、それだけ避けられない。すなわち、儀礼上の救済が、とりわけ平信徒を儀礼の見物人の役割に限定する場合、あるいは、平信徒の参与を許すとしても、本質的に受動的な、単純な所作に限定する場合、しかもまさしく、儀礼上の心意を、気分の充実した帰依へとで最大限に醇化し、救済を保証すると思える敬虔な瞬間の「気分内容」に力点が置く場合である。

丸山訳
しかし今のべたようなともかくも避けることの出来る結果のものより更に一歩進んだ儀礼主義とは次のような場合である:儀式による救済で、特別に平信徒を見物人の役に限定するか、あるいは平信徒の儀式への参加をただ簡単なあるいは本質的に受動的な所作だけに限定し、それもまさに、儀式の志向を可能な限り情緒に溢れた敬虔な信仰へと純化する場合に、まさに救済を保証するかのように見える敬虔さに満ちた瞬間へ、の「情緒的没入感」を強調する場合である。

折原浩訳の問題点(64)

本当にこの方は原文を素直に読まないで曲げたり、余計なことを付け加える傾向が強いです。
(1)「帰依」(Andacht)は本来仏教用語(帰依仏、帰依法、帰依僧)なので使うべきではない。「敬虔な」で良い。
(2)「儀礼主義的な」というより原文は「儀式(偏重)主義者の」。
(3)Dieser äußerste Typusは前の説明を受けて「こういった極端な類型」であり、「敬虔な帰依がこの方向で徹底されたとすれば、その類型は、」のように、この極端な類型を更に徹底するなどという解釈はあり得ない。

原文
Die Konsequenzen einer ritualistischen Andachtsreligiosität können sehr verschiedene sein. Die restlose rituelle Reglementierung des Lebens des frommen Hindu, die für europäische Vorstellungen ganz ungeheuerlichen Ansprüche, welche Tag für Tag an den Frommen gestellt werden, würden bei wirklich genauer Durchführung die Vereinigung eines exemplarisch frommen, innerweltlichen Lebens mit intensivem Erwerb nahezu ausschließen. Dieser äußerste Typus der Andachtsfrömmigkeit bildet darin den äußersten Gegenpol gegen den Puritanismus. Nur der Besitzende, von intensiver Arbeit Entbundene könnte diesen Ritualismus durchführen.

折原訳
儀礼主義的な帰依宗教性の帰結は、きわめて多種多様でありうる。敬虔なヒンドゥー教徒の、余すところのない儀礼的な生活規制は、ヨーロッパ的な考え方からすればまったく途方もない要求を、敬虔な信徒に日々課すことになるが、そうした要求がじっさい厳格に遵守されたとすれば、現世内における模範的に敬虔な生活と、精力的な営利追求活動とを両立させることは、ほとんど不可能であろう。敬虔な帰依がこの方向で徹底されたとすれば、その類型は、ピューリタニズムの[敬虔という点では等価な]類型と、その点で、極端な対照をなす。集約的な労働から免れている有産者以外には、そうした儀礼主義に徹することはできないであろう。

丸山訳
儀式偏重主義者の敬虔な信仰の結果は、非常に様々であり得る。敬虔なヒンドゥー教徒が絶え間なくその生を儀式上の規則でがんじがらめにすることは、それはヨーロッパ的なイメージでは全く途方もないほどの様々な要求に見えるが、それは敬虔な信者に日毎に課され、その実際での厳格な実施においては、模範的に敬虔な信者の現世内的生活において、集中して生業に勤しむことと両立させることはほとんど無理である。このような敬虔な信心の極端な類型はこの点で、ピューリタニズムとの極端な対照関係を成している。日常の生業の仕事から解放されている資産家だけが、こうした儀礼主義を貫徹することが出来る。

「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の第1.20版を公開

「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の第1.20版を公開しました。
まだ決して完全とは言えないとは思いますが、この版を一応の校正完了版とします。
「宗教ゲマインシャフテン」の翻訳が完了したら、再度見直すことも有り得ますが、当面これでフリーズします。

折原浩訳の問題点(63)

今日3本目。後半1/3に入りましたが、誤訳の方もパワーアップしています。
もう言葉もないくらいひどい誤訳ですね。
最後の文で、採用する→発展させる、彫琢し、完成させて→そちらもしている、です。よくもここまで勝手な解釈に改変出来るものです。こういう一見意味が通る誤訳が一番たちが悪いです。大体救済への方法論に完成なんてあり得ないと思いますが。vollbringen には確かに「完成させる」という意味もありますが、ここは単に「行う、遂行する」という意味です。oftではあるがnicht immerではない、と言っているだけです。

原文
1. rein rituelle Kulthandlungen und Zeremonien sein, sowohl innerhalb eines Gottesdienstes, wie im Verlauf des Alltags. Der reine Ritualismus ist an sich von der Zauberei in seiner Wirkung auf die Lebensführung nicht verschieden und steht zuweilen in dieser Hinsicht sogar insofern hinter der magischen Religiosität zurück, als diese unter Umständen eine bestimmte und ziemlich einschneidende Methodik der Wiedergeburt entwickelt hat, was der Ritualismus oft, aber nicht immer vollbringt.

折原訳
1.神礼拝の内部または日常の生活過程における純儀礼的な礼拝行為および儀式であるという場合もある。そういう純然たる儀礼主義それ自体は、生き方への作用の点では、呪術となんら異なるものではない。この点ではときに、魔術的宗教性に劣っている場合もある。それというのも、魔術的宗教性も、事情次第では、再生にかかわるかぎりで生き方にもくい込み、深刻な影響をおよぼす特定の方法を発展させたからである。それに反して、儀礼主義のほうは、そうした方法をしばしば採用するとしても、かならずしもそれを彫琢し、完成させてはいない。

丸山訳
1. 純粋に儀礼的な礼拝行為と様々な儀式であり、日常的なことであるのと同時に神への礼拝の中で行われる。純粋な儀式主義は、それ自体が生活実践に対しての作用を持つという意味で呪術と何ら異なっておらず、この観点では時には、むしろ魔術的な信仰に劣っている場合すらあるが、魔術的な信仰は状況によっては、ある一定の、かなり影響力の大きい再生への方法体系を発展させているのに対し、儀式主義もしばしばそうしているのだが、しかし常にではない。

折原浩訳の問題点(62)

次から次に芋掘りのように問題訳が登場します。(笑)

ここも無神経な訳語選択の例。der psychischen Qualität は救済についての文であれば「霊的な資質」であって「心理的性質」などという心理学の領域の話ではない。

また後者は、古仏教の文脈で「業」を使えば、多くのひとが「わざ」とは読まず「ごう」と誤読するでしょう。(今創文社訳を見たら、こちらも「業」を使っているけど、ちゃんとルビで「わざ」と振っています。折原訳は何も無し。)さらには「地上を越え出る」は「天上の」と訳すべきです。

原文1
Der Einfluß einer Religion auf die Lebensführung und insbesondere die Voraussetzungen der Wiedergeburt sind nun je nach dem Erlösungsweg und — was damit aufs engste zusammenhängt — der psychischen Qualität des erstrebten Heilsbesitzes sehr verschieden.

折原訳1
ところで、ある宗教が生き方におよぼす影響、とりわけ再生への前提条件におよぼす影響は、当の宗教において追求される救済への道、ならびに、これとも密接な関連にある、追求される救済所有 [救済財] の心理的性質の如何に応じて、以下のとおり、きわめてさまざまである。

丸山訳1
ある宗教の生活実践への影響と、取り分け再生の諸前提は、いまやそれぞれの救済への方法によって--そしてそれと最も緊密に関係しているものとして--得ようとしている救済の保持に関しての霊的な資質によって様々に異なっている。

原文2
I. Die Erlösung kann eigenstes, ohne alle Beihilfe überirdischer Mächte zu schaffendes Werk des Erlösten sein, wie z.B. im alten Buddhismus, Dann können die Werke, durch welche die Erlösung errungen wird,

折原訳2
Ⅰ. 救済は、一方では、たとえば古仏教においてのように、被救済者が、地上を越え出る諸力のいかなる支援もなしに、純然たる自力で創出すべき業である、という場合がある。そのさい、救済が達成される方途としての業が、

丸山訳2
I. 救済は最も個人的な、全ての天上の諸力の手助け無しに創り出すべき被救済者の行為であり、それは例えば古仏教においてのようなものである。次にそれはそれによって救済の状態に達する様々な行為そのものでも有り得、

折原浩訳の問題点(61)

ここはヴェーバーの原文が唐突な感じの記述で、職業的呪術師と英雄カリスマがどう関係するのかと悩んで考えたのですが、前の文で職業的呪術師が英雄戦士を教育するというのが出てきたのでそのことでしょう。折原訳はただ部分の訳をつないでいるだけで読んでもさっぱり意味が分かりません。
なお、ついでにErlösungとHeilはどちらも「救済」と訳されますが、前者は「何かの束縛からの解放としての救済」、後者は「心の平安、癒しとしての救済」であるという違いがあります。

原文
Die »Wiedergeburt« wird zunächst nur für den berufsmäßigen Zauberer, aus einer magischen Voraussetzung zauberischen oder heldischen Charisma, in den konsequentesten Typen der »Erlösungsreligionen«, zu einer für das religiöse Heil unentbehrlichen Gesinnungsqualität, die der Einzelne sich aneignen und in seiner Lebensführung bewähren muß.

折原訳
「再生」は当初、呪術カリスマないしは英雄カリスマの魔術的前提からして、もっぱら職業的呪術師にのみ求められたが、「救済宗教」のもっとも徹底した諸類型においては、信徒各個人が自ら獲得し、自分の生き方において確証しなければならず宗教的救済の至福 [感] に欠くことのできない心意の性質ともなっている。

丸山訳
「再生」は最初はただ職業的な呪術師において成され、それは呪術的あるいは英雄的カリスマの[カリスマを覚醒させるための]魔術的な前提条件として成されたが、もっとも首尾一貫した「救済諸宗教」の類型においては、宗教的な救済[Heil、癒しとしての救済]にとって不可欠な内面的態度の質にまでなるのであり、そういった内面的態度の質は個々の者にとって自らそれと向きあい、そしてその生活実践において確かめなければならないものである。

ルター派と浄土真宗

ヴェーバーの「ヒンドゥー教と仏教」の日本仏教の分析で、ヴェーバーが浄土真宗とルター派の類似性を指摘していますが、これはヴェーバーが独自で見出したことだと思っていませんか?
このことは既に戦国時代に日本にて初めてキリスト教を布教しようとしたイエズス会の宣教師、有名なフランシスコ・ザビエルやヴァリニャーノによって指摘されていますので、勘違いされませんように。ザビエルは「日本の仏教徒の間で、ルター派の異端に出会った」と故郷への手紙に書いているそうです。また逆に浄土真宗の方でも、ルターを「ドイツの親鸞」(笑)として研究している僧侶がいたようです。
確かに阿弥陀仏への帰依とSola Fide、万人祭司的な還俗型僧侶、僧侶の結婚OKなど、両者はかなり似ています。ヴェーバーはしかし両方とも現世内禁欲を生み出せなかったとばっさり切っていますが。

出典:ルードルフ・オットー「インドの宗教とキリスト教」講談社学術文庫P.26f