折原浩先生訳の問題点(20)

本当にほぼ毎ページ誤訳があります。今回のはまた特にひどいです。

(1) für den zweitenは「両者の」ではなく、「二番目の」、つまり小市民的主知主義のこと。初級文法のミスです。
(2) Gemeingefühlがなんで「ゲマインデ感情」になるのか。単なる「共通の感情」です。本当に雑です。
(3) Ghatas については「頌偈」(じゅげ)はおそらく創文社訳から取ったものですが、これは仏教語であってここでは適しません。

In Ostasien und Indien fehlt der Paria-, ebenso wie der Kleinbürgerintellektualismus, so viel bekannt, fast gänzlich, weil das Gemeingefühl des Stadtbürgertums, welches für den zweiten, und die Emanzipation von der Magie, welche für beide Voraussetzung ist, fehlt. Ihre Ghatas nehmen sich selbst die auf dem Boden niederer Kasten entstandenen Formen der Religiosität ganz überwiegend von den Brahmanen.

折原訳
東アジアとインドには、知られるかぎり、パーリア知性主義も、小市民的知性主義も、ほとんどまったく存立しなかった。それというのも、両者の前提条件となる魔術からの解放と、小市民的知性主義の前提条件となる都市市民層のゲマインデ感情とが、欠落していたからである。下層カーストを地盤として成立した形態の宗教性においても、その偈頌はほとんどもっぱらバラモンから引き継がれている。

丸山訳
東アジアとインドでは、パーリア民族主知主義も小市民主知主義も、よく知られているように、ほぼ完全に存在しなかったのであり、その理由は小市民的主知主義にとって前提となるべき都市住民の共通感情と、魔術からの解放が存在しなかったからである。それらの地域の Ghatas 注)は、下層カーストにおいて成立した信仰においては、ほとんど全てバラモンのものから取られている。

注:創文社訳と折原訳は「頌偈(じゅげ)」(Gāthā)としているが、これは仏教語であり不適。ただサンスクリットのGāthāを指している可能性は高く、それを複数形にしたもので、その場合は「宗教的な韻文・詠唱」などを指していると思われる。全集は「この語の使用の意図は不明である。ゾロアスター教由来の “Gathas” という語は、この文脈では意味をなさない」としているが、ゾロアスター教とヒンドゥー教は元々一つであり、両方に共通の概念があるということであり、ここでゾロアスター教の用語として解釈する必然性はない。

無教会主義と日本における聖書研究の一つの系譜

私は「ローマ土地制度史」の日本語訳の序文で「日本におけるマックス・ヴェーバー研究はご承知の通り、実質的には1930年代後半に梶山力が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の翻訳を開始したことから始まっており、初期の研究者の多くは内村鑑三の流れを汲む無教会主義のクリスチャンでした(例えば梶山以外に、大塚久男、内田芳明、関根正雄など)。」と書きました。

しかしヴェーバー研究に留まらず、日本における聖書を学問的に研究する流れにも、無教会主義は大きな影響を及ぼしています。簡単に図示すると、
内村鑑三(1861年~1930年)→塚本虎二(1885年~1973年)→関根正雄(1912年~2000年)、前田護郞(1915年~1980年)→佐竹明(1929年~2024年)、荒井献(1930年~2024年)、八木誠一(1932年~)、田川建三(1935年~2025年)

という流れになります。佐竹明以降の四人はおそらく無教会主義ではありませんし、田川建三に至っては「神を信じない」と公言している人です。塚本虎二は岩波文庫の「福音書」の翻訳者として知られています。

そして佐竹明、荒井献、八木誠一の3人は私の出身学科である教養学部教養学科ドイツ科の1953、54、55年の卒業生です。

そもそもこの流れを作ったのは、1949年に東大の教養学部長になった(1951年には東大の総長にもなった)矢内原忠雄です。矢内原忠雄自身がその前の東大総長であった南原繁と同じく、内村鑑三の教えを受けた無教会主義のクリスチャンです。そして矢内原忠雄が教養学部で一般教養を教えるだけではなく、卒業生を出したいということで1951年に教養学科を創設し、その大学院に西洋古典科を作り、戦争中ずっとドイツとスイスに留学していた、同じ無教会主義の聖書学者の前田護郞を招聘します。その元でドイツ科から3人の聖書研究者が育った訳です。なお田川建三は3人と同じコースを取りたくて前田護郞を訪ねていますが、「それだったら佐竹明君に聞いてみたまえ」と冷たくあしらわれて、宗教学の大畠清の勧めもあって本郷の宗教学科に進み、大学院で駒場の西洋古典科に進んでいます。(ちなみに、私の推測ですが田川建三が荒井献をある意味ヒステリックに批判するのは、3人とは違うコースで来たということである種の外様意識があったのではないかと思います。)

私は教養学科時代の最後の学期に半年だけですが、荒井献先生から教えを受ける機会がありました。その私が今「宗教ゲマインシャフテン」の日本語訳をしているというのも、何かの縁を感じます。まあ聖書学については門前の小僧以外の何者でもありませんが。

また、戦後のアノミー状態で、知識人に大きな影響を与えたのはマルクス主義とキリスト教だと思います。日本でのマックス・ヴェーバーの受容というのはこの両方に深く関係している訳です。

折原浩先生訳の問題点(19)

また折原訳の問題点。
Rentnerを「不労所得生活者」、Pfründnerを「俸禄受給者」と訳しています。いずれも間違いとまではいえませんが、RenteもPfründeもヴェーバーでは非常に重要な概念であり、Renteの「定期的に入ってくる、労働の対価ではない収入→家賃や土地貸し料、利子、年金など」という意味の半分しか訳せていません。またレンテは経営による収益と対になる概念です。後者は単なる俸禄ではなく、レーエンと対になる概念で、官僚や聖職者などの特殊専門職に与えられる給与でその特権的な地位とセットになっている意味が全く出ていませんし、何より世良晃志郎さんが「支配の社会学」などの訳で訳注を付けた上で「プフリュンデ」としていますので、それに合わせるべきと思います。何より「経済と社会」の再構成を主張している人が、こういう他でも出てくる重要概念を適当に訳しているのは問題です。

原文
Diese philosophische, von — durchschnittlich — sozial und ökonomisch versorgten Klassen, vornehmlich von apolitischen Adligen oder Rentnern, Beamten, kirchlichen, klösterlichen, Hochschul- oder anderen Pfründnern irgendwelcher Art getragene Art von Intellektualismus ist aber nicht die einzige und oft nicht die vornehmlich religiös relevante.

折原訳
さて、この種の哲学的知性主義は、社会的また経済的に平均的にみて恵まれた階級、とりわけ非政治的な貴族、不労所得生活者、官吏、教会・修道院・大学その他、なんらかの種類の俸祿受給者、によって担われるが、けっして唯一の知性主義ではないし、とくに宗教的な意義をそなえた知性主義にかぎってみても、しばしばその主要形態ではない。

丸山訳
このような哲学的な、--平均して--社会的・経済的に生活に余裕がある諸階級、特に非政治的な貴族またはレンテ生活者 1) 、官僚、教会の、修道院の--または他の何らかの形のプフリュンデ 2) 生活者によって担われた主知主義はしかし、主知主義の唯一のものではないし、またしばしば宗教的に特別に重要なものでもない。

1) 地代などの労働を伴わないで定期的に入ってくる収入によって暮らしている者。
2) レーエン(封建制に基づく土地の授与)と対比される語で、家産制国家において特定の職務についている官僚などに対し与えられる俸給のことをこう呼ぶ。また教会で聖職者に与えられる俸禄のことも指す。

折原浩先生訳の問題点(18)

またも「開悟」などという安易な仏教用語の使用。ここでのErleuchtungというのは文字通り「光を受けること」、つまり神の光を感じてその啓示を受けることであり、仏教的な「悟りを開く」とはまったく異なります。あまりにも無神経な訳です。この啓示的神秘主義とはいわゆる Unio Mystica(神秘的合一)のことです。最後の eigen も訳していません。ついでにstammendenは「~に由来する」じゃなくて「~の出身の」です。「立ち入って分析する」の「立ち入って」も原文にはなくただ「後で分析することになる」だけです。こんな短い文で4箇所も誤訳・訳し漏れしている訳です。(ついでにこの「開悟」は元々創文社訳のもの。「翻訳の体を成していない」と批判する割りには、創文社訳を十分検討しないでそのまま採用している訳です。)

Der vornehmen, aus den privilegierten Klassen stammenden Erlösungssehnsucht ist generell die Disposition für die, mit spezifisch intellektualistischer Heilsqualifikation verknüpfte, später zu analysierende »Erleuchtungs«-Mystik eigen.

折原訳
特権づけられた階級に由来する貴族的な救済憧憬は、知性主義に特有の救済への資質と結びついて神秘的「開悟」にいたる傾向をそなえているが、これについては、後段で 立ち入って分析するとしよう。

丸山訳
プラスの特権を与えられた階級の出自である貴族の救済に対する憧れは一般に、特殊な形での主知主義的な救済への資格という考え方と結び付いた、後で分析することになる特有の「啓示」的神秘主義に向かう傾向を持っている。
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ついでに次の文も。
ここでも、psychologischerと来たら「心理学」だと思っているし、Sinnlichは感性的なことではなく、感覚に関わること、つまり官能的・肉欲的なこと、という意味です。もう次から次に誤訳が出てくるのがご理解いただけると思います。「貶価(へんか)」も手元の国語辞書(広辞苑クラス含む)には載っていない語彙です。誰かの翻訳語としての造語でしょう。(中国語としては「値切る」こと。)しかもそれを「厳しく貶価される」などと受動態で訳したら益々意味不明です。(念のため青空文庫も検索してみましたが、「貶価(へんか)」はヒット0。完全に一部のアカデミズムでのいわゆるJargon的な訳語です。)

Das ergibt eine starke Deklassierung des Naturhaften, Körperlichen, Sinnlichen, als — nach psychologischer Erfahrung — einer Versuchung zur Ablenkung von diesem spezifischen Heilsweg.

折原訳
そこでは、自然なもの・身体的なもの・感性的なものが、心理学的経験に照らして、人をこの独特の救済道から逸らせる誘惑として、厳しく貶価される。

丸山訳
そこから生じるのは、本能的なこと、身体的なこと、肉欲的なものを、--心的な経験として--この特殊な意味での救済に至る道から逸脱させる誘惑として非常に低く評価することである。

折原浩先生訳の問題点(17)

また折原訳の問題点。
(1)vorderasiatischen を「西南アジア」と訳すのは誤訳。そうするとインドが入ってしまう。ここはいわゆる「中近東」の内の「近東」のこと。(オスマントルコの支配地とほぼ同等の意味。)
(2)「預言的な性格を帯びようとも、また、平信徒知性主義によって担われたオリエントならびにヘレニズムの救済教説は」と分けるのはおかしい。「預言的な性格を持つものでまた同様に平信徒の知性主義に担われたオリエントやヘレニズム地域のものであれ」と一つに訳すべき。
(3)Abwendungは「目を逸らす、離脱する」という意味で「政治活動に叛いて背を向けた」といった強い意味はない。「強いられて背を向けた」は日本語としても変。

Die vorderasiatischen Erlösungsreligionen, sei es mystagogischen, sei es prophetischen Charakters und ebenso die vom Laienintellektualismus getragenen, orientalischen und hellenistischen, sei es mehr religiösen, sei es mehr philosophischen Erlösungslehren, sind (soweit sie überhaupt sozial privilegierte Schichten erfassen) fast ausnahmslos Folgeerscheinung der erzwungenen oder freiwilligen Abwendung der Bildungsschichten von politischem Einfluß und politischer Betätigung.

折原訳
西南アジアの救済宗教は、密儀的な性質であろうと、預言的な性格を帯びようとも、また、平信徒知性主義によって担われたオリエントならびにヘレニズムの救済教説は、宗教的な性質と哲学的な性格とのどちらが優ろうとも、(それらがおよそ、社会的に特権づけられた社会層を捉えて根を下ろしたかぎりでは) ほとんど例外なく、教養層が強いられて、あるいは自発的に、政治的な影響力と政治活動に叛いて背を向けた結果である。

丸山訳
近東における諸救済宗教は、秘教的なものであれ、預言的な性格を持つものでまた同様に平信徒の知性主義に担われたオリエントやヘレニズム地域のものであれ、より宗教的性格が強いものであれ、より哲学的な救済教説であれ、それらは(一般的に言って社会的にプラスの特権を与えられた層を信者として捉えている限りにおいて)ほとんど例外なく、教養層が政治的な影響や活動から、強制によってかあるいは自発的にか身を退いた結果としての現象である。

折原浩先生訳の問題点(16)

もういい加減ウンザリしてきますが、折原訳については毎ページでおかしな訳に遭遇します。
ここまで見た限り、この訳者にはドイツ語の基本的な読解力が不足しているか、あるいは翻訳にあたって十分時間を取って考えていない(辞書も引いていない)のどちらか、あるいは両方だと思います。

Daher tritt sie typisch dann auf, wenn die, sei es adligen, sei es bürgerlichen herrschenden Schichten entweder durch eine bürokratisch-militaristische Einheitsstaatsgewalt entwickelt und entpolitisiert worden sind, oder sich selbst aus irgendwelchen Gründen davon zurückgezogen haben, wenn also die Entwicklung ihrer intellektuellen Bildung in ihre letzten gedanklichen und psychologischen inneren Konsequenzen für sie an Bedeutung über ihre praktische Betätigung in der äußeren diesseitigen Welt das Übergewicht gewonnen hat.

折原訳
したがって、救済宗教性が典型的に出現するのは、貴族的であれ市民的であれ、支配権を掌握した社会層が、官僚制的・軍事的な統一国家権力の発展によって、非政治化[政治権力を剥奪]されるか、あるいは、なんらかの理由で、自ら政治活動から脱退した場合、したがって、そうした社会層にとって、彼らの知的な教養を発展させ、その思想的また心理的な究極の内面的帰結にまで突き詰めることが、此岸の外界における実践活動に優る意義をもつと感得される場合、である。

丸山訳
そのため、救済信仰が典型的に出現するのは、それが貴族であれ市民であれ支配者に[一旦は]なった社会層が、官僚制的・軍事的な統一国家の権力によって、発展させられながらも非政治化された場合か、あるいは自ら何らかの理由でそこから身を引いたかの場合であり、つまりはその者達にとっての心の中での最終的な思想・心理上の論理帰結に至るまでに、知的な教養を発展させることが、この世の中での外部の諸事に実務的に関与することよりも重要になった場合である。

上記の文のentwickeltが官僚制的・軍事的な統一国家の権力にかかるなんて、あり得ません。ヴェーバーがここで「発展させられるけども(結局は)非政治化される」と非常に興味深いことを言っている(おそらく想定しているのは古代ローマの貴族層と、ピューリタン)のが、まったく違った意味になってしまいます。

「宗教社会学」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R5

「宗教社会学」の元訳折原浩、大幅改訳私のR5です。これで約半分です。
トップページのタイトルも「元訳折原浩」を小さくしています。
また訳注もこれまで私が付けたものに<丸山></丸山>というタグを付けていましたが、私の訳注:折原訳注は95:5ぐらいであり、どう考えても圧倒的に比率が高い方にわざわざタグを付けるのは非合理的なので、逆に折原訳注の方に<折原></折原>というタグを付けるよう変えました。なお前半部にはまだ元訳の文章が多く残っていますが、最後まで行ったらまた戻ってそこも私の訳に直します。その過程で折原訳注は全部取る(あるいは書き直す)かもしれません。

今回訳した部分でいわゆる「苦難の神義論」とかルサンチマンの議論が出て来ますが、正直な所かなり恣意的で実証性に乏しい議論だと思います。

20260305_宗教社会学大幅改訳R5.pdf

ヴェーバーにおける文法ミス?

「宗教社会学」(宗教ゲマインシャフト)の訳も、後半に入りつつありますが、加速的にヴェーバーの書き方が書き殴りに近い状態になっていき、ろくろく校正もされていなように思います。例えば以下の箇所:

Es besteht daher vor allem keine Spur jenes augenfälligen Konflikts zwischen der durch Gottes Verheißungen geschaffenen sozialen Prätension und der verachteten Lage in der Realität, welche in dem dergestalt in ständiger Spannung gegen seine Klassenlage Lebenden und in ständiger Erwartung und furchtloser Hoffnung lebenden Juden die Weltunbefangenheit vernichtete, und die religiöse Kritik an den gottlosen Heiden, auf welche dann erbarmungsloser Hohn antwortete, umschlagen ließ in ein immer waches, oft erbittertes, weil ständig von geheimer Selbstkritik bedrohtes Achten auf die eigene Gesetzestugend.

丸山訳
そこでは、神の約束によって生み出された[選民としての]社会的自負と、その反対に現実においては蔑まれた状態にあることという矛盾する状態のせめぎあいの痕跡はかけらも見られない。そういった状況は、ユダヤ人の、自分達の階級的地位がそのようにして常に緊張状態に置かれる生き方において、かつ持続する期待と恐れを持たない希望を持つことによって、彼らの現世に対する素直な見方を失わせたのである。そしてユダヤ人による神なき異教徒への宗教的批判は、それは無慈悲な侮蔑として戻って来たが、そのことが逆にもたらしたのは、常に目覚めた状態で、しばしば怒りも伴って、常に秘かな自己批判によって省みられる自分自身の律法遵守の姿勢への注視である。

問題は下線のwelche、これは後半部の主語になっているんですが、これが何を指しているのかですが、創文社訳と折原訳の双方が、Konflikt(葛藤)にしています。しかし、Konfliktは男性名詞なので、これを受けるのであればwelcherにならないとおかしく「葛藤」は文法的には成立しません。私は直前のRealität(現実)と解釈しましたが、Lageも含めて最終的には「そういった状況」と意訳しました。ちなみにChatGPT5.2は最初創文社訳・折原訳と同じくKonfliktを主語にしていましたが、誤りを指摘したらじゃあSpurだろうと回答しました。しかしSpurは「痕跡」という意味で、後半の主語はそういう「何かの影響が後に少し残ったもの」ということではなく、その痕跡を残した元のものが本当の主語の筈です。
それから最後から2行目のweilの使い方も変で、動詞が存在せず、文がそもそも閉じていない上に、一般的な「~故に」という意味でもなく、むしろ英語のwhile(~である一方で)とでも訳すしかないように思います。こういったweilはこのすぐ前の箇所にも出て来ています。

p.s. ドイツ語不変化詞辞典(岩崎英二郎・小野寺和夫共編)のweilの項を見たら、「古・方」という表示付きで、「~する間に」とまさに英語のwhileの意味があるとありました。なるほど。
それからグリム辞書等で調べると、ドイツ語のweilも英語のwhileも共通のゲルマン祖語から派生したもののようで、元々は「ある時間的区切りの間」という意味だったのが、ドイツ語では18世紀ぐらいに「その時間に起きた→あることの起きた理由」という風に意味変化が起きたようで、「~している間」という意味は廃れたようですが、20世紀初頭になってヴェーバーがまだそんな古い語義を無意識か意識的にか使っていたのは興味深いです。(が、訳者泣かせの箇所でもあります。)

折原浩先生訳の問題点(15)

折原センセの訳は、使うべきでない所で「彼岸・此岸」や「(因果)応報」のような仏教用語を多用しているのですが、逆に使わなければいけない(輪廻転生)所であっさり「再生」と訳していて、まったくセンスというものが感じられません。ここではヒンドゥー教徒や仏教徒と言っているのですからキリスト教にもある単なる「再生」でないのは明らかです。

Seine fast völlige Abwesenheit, und ebenso das Fehlen fast aller sozialrevolutionären, religiösen Ethik in der Religiosität des frommen Hindu und des buddhistischen Asiaten erklärt sich aus der Art der Wiedergeburtstheodizee; die Ordnung der Kaste als solche bleibt ewig und ist absolut gerecht.

折原訳
ところで、敬虔なヒンドゥー教徒とアジア人仏教徒の宗教性には、そうした神義論がほとんどまったくなく、これに即応して、ほとんどあらゆる社会革命的な宗教倫理も欠落している。それは、再生の神義論の性質から説明がつく。すなわち、そこでは、カースト秩序そのもの永遠で、しかも絶対に公正である、と説かれている。

丸山訳
敬虔なヒンドゥー教徒や仏教徒であるアジア人において、そうした神義論がほぼ完全に欠如していたこと、そして社会革命的な宗教倫理も同じく完全に欠如していたということは、輪廻転生の神義論のあり方から説明することが出来る:つまりはカーストの秩序はそのまま永遠に続くのであり、かつ絶対的に正当である、ということである。

創文社訳の誤訳、折原訳の弱い訳

ルサンチマン的性格が詩篇の中に見られると言う箇所での三者の訳:

原文
Entweder in der Form: daß dem Gott die eigene Befolgung seiner Gebote und das eigene Unglück und demgegenüber das gottlose Treiben der stolzen und glücklichen Heiden, die infolgedessen seiner Verheißungen und Macht spotten, vorgehalten werden.

創文社訳
そしてそこでは、神の約束と威勢をあざわらう高慢にしてしかも幸福な異教徒たちの神なきがごとき振る舞いと対照させながら、神の誡命を忠実に守りつつしかも不幸なみずからの姿を描き出すという形態がとられるか、

折原訳
それにはふたつの形式がある。ひとつは、高慢でしかも幸福な、したがって神の約束と勢威を嘲笑う不信の徒の姿を、神の戒命を遵守しながら不幸な、自らの姿と対比させて、神に差し出す、という形式である。

丸山訳
その形式は次のいずれかである:神の命令を厳格に遵守しているのにしかし自身が不幸であることと、それとは反対におごり高ぶりそれでいて幸福な異教徒が、神を無きものとしてふるまっていること、その異教徒達はその結果としてユダヤ人の神の約束と力を嘲笑していること、それらを神に対して糾弾するという形が一つである。

ここの構文は、dem Gott ~vorgehalten werden で「「なぜなんですか」と神に糾弾調で問いかけられる」ということですが、創文社訳はまったくの誤訳、そして折原訳の「神に差し出す」は創文社訳よりはマシですがvorhaltenの意味を正しく訳していません。要はどちらも旧約聖書をちゃんと読んでいないからでしょう。
それからついでにここでヴェーバーが「詩篇は復讐の感情に満ちている」などと書いているは完全な誇張で、詩篇の中で復讐について書かれているのはほんの数ヶ所に過ぎません。またヤハウェに対しての「復讐」の要求は、要は神とユダヤの民は契約を結んだのだから、民が十戒を守りヤハウェを信じる限りにおいてはヤハウェの方もきちんと責任を果たせ、ということだと思います。それからニーチェのルサンチマンは本来はキリスト教に対しての説明であり、ユダヤ教に対する説明ではありません。