折原浩訳の問題点(219)

この箇所は全部新約聖書に出てくるフレーズをヴェーバーが若干言い換えて引用しているだけです。なので、その元の文章を参照してそれを使えばいい訳です。天国と御国は同じことで、「ないしは」ではありません。「深夜の盗賊」は「盗人が夜やって来る」、「現代の世代」は「ここに立っている人」です。

原文
Das Himmelreich, ein Reich der leidlosen und schuldlosen Freude auf Erden ist ganz nahe herbeigekommen, dies Geschlecht wird nicht aussterben ohne es zu sehen, es wird kommen wie der Dieb in der Nacht, ja es ist eigentlich schon mitten unter den Menschen im Anbruch begriffen. Man mache sich Freunde mit dem ungerechten Mammon, statt an ihm zu hängen. Man gebe dem Kaiser was sein ist, — was liegt an solchen Dingen? Man bete zu Gott um das tägliche Brot und sorge sich nicht um den kommenden Tag.

折原訳
天国ないしは地上における、苦悩がなく罪責もない歓喜の国は、間近に来ており、現在の世代も、その到来に先立って死ぬことはないであろう。それは、深夜の盗賊のように、突如として現れるであろう。いや、それどころか,それはじつは、人間たちのただなかに現れ始めている。不正なマンモンに執着するのでなく、それで友達をつくるがよい。皇帝のものは皇帝に与えよ。そんなものがいったい何だというのか? 日々のパンのために祈り、明日のことは思い煩わないがよい。

丸山訳
天国、つまり地上においての苦しみも罪もない御国は、ほんの近くにまで来ているのであり[1]、ここに立っている人は神の国が到来するのを見るまでは決して死なないのであり[2]、それは盗人が夜やって来るように来るのであり[3]、それは実に既に人々の間に現れつつあるのである[4]。不正にまみれた富に執着するより、それで友達を作りなさい[5]。皇帝のものは皇帝に与えなさい[6]、--そんなものに思い悩むな。神に日々の必要な糧を与えてくれるように祈り、明日のことまで思い悩むな[7]。

[1] マタイ:10:7「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」

[2] マタイ:16:28「はっきり言っておく。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

[3] テサロニケの信徒への手紙5:2「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」

[4] ルカ:17:20-21「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」」

[5] ルカ:16:9「わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」

[6] マタイ:22:21「彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

[7] マタイ:6:34「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」」

折原浩訳の問題点(218)

折原訳の最後の「全てを決定している。」は完全な誤訳。「全く決定的なことなのである」。初級者でも分かる内容です。
また[]の補足は全て無くても分かるようなもので不要。むしろ必要なのは「ラザロの伝説」の訳注による説明。

原文
Deshalb, um sich Schätze im Himmel zu sammeln, soll man auch dem leihen, von dem man vielleicht nichts wiederbekommen wird, — denn sonst ist es kein Verdienst. Mit dem gerechten Ausgleich der Schicksale wird stark in der Lazaruslegende und auch sonst gelegentlich operiert: schon deshalb also ist Reichtum eine gefährliche Gabe. Im übrigen ist aber völlig entscheidend die absolute Indifferenz der Welt und ihrer Angelegenheiten.

折原訳
それゆえまた、天に宝を積もうとすれば、なにも返してはもらえないであろう相手にも、貸してやるべきである。そうでなければ[返してもらうことをあてにして貸すのであれば]、なんの功績[功徳]にもならない。運命は公正に埋め合わされるという思想は、ラザロ伝説で主題として採り上げられ、強調されているが、それ以外のところでも、ときどき採り上げられている。すでにその点からいっても、富は[不運に反転する]危険を孕む賜物である。しかし、それ以外の点では、現世とその諸案件にたいする完全な無関心が、全てを決定している。

丸山訳

それ故に、天においての財を自らのために集めるためには、人はまた、ひょっとすると何も返してもらえないかもしれない相手にも貸してやるべきであり、--というのはそうでなければ、その行為は何らの功徳とはならないのである。運命の公平な平準化については、はっきりとラザロの伝説[1]とまたそれ以外でも時々用いられてる:既にその理由で富は危険な賜物である。その他の点では、しかし、現世とその諸問題についての徹底した無関心が、全く決定的なことなのである。

[1] ルカ:16:19-31。ある金持ちとその門前で乞食をしていたラザロが、死後は金持ちは陰府で苛まれ、それに対しラザロは宴席でアブラハムの側でもてなされた、という話。

折原浩訳の問題点(217)

ここは”Wehe”と”über den widerspenstigen Feigenbaum”の訳の問題。どちらも新約聖書のイエスの逸話について言っている部分なので、その内容に沿って訳すべきです。まず”Wehe”は確かに「悲痛な叫び」という意味もありますが、ここはイエスが奇蹟を行ったのに悔い改める者が出なかった町に対する呪詛の言葉ですから、「悲痛な叫び」はまったくおかしいです。
また、”widerspenstig”は確かに辞書的な意味は「反抗的とか不従順」ですが、ここは季節ではないので実がなかったいちじくにイエスがある意味八つ当たりした場面なので、「反抗的ないちじく」はあまりにもいちじくが可哀想。(笑)「イエスの期待を満たさなかった」ぐらいでしょう。

原文
Deshalb erklingt das »Wehe« über die Galiläerstädte ganz ebenso wie der zornige Fluch über den widerspenstigen Feigenbaum, und deshalb wird ihm die Erwählung Israels immer wieder problematisch, die Bedeutung des Tempels zweifelhaft und die Verwerfung der Pharisäer und Schriftgelehrten zur Sicherheit.

折原訳
したがって、ガリラヤの町々にたいする「悲痛な叫び」は、反抗的な無花果の木に投げかけられる怒りの呪詛とまったく同様に響く。まさにそれゆえ、イスラエルは選ばれてある、ということが、イエスには再三再四疑問とされ、神殿の意義は揺らぎ、ファリサイ人や律法学者は神に見捨てられている、と確信される。

丸山訳

それ故に、イエスのガリラヤの町々に対する「災いの言葉[1]」は、まさにイエスの期待を満たさなかったいちじくの木に対して投げかけた怒りのこもった呪いの言葉[2] と同様に響くのであり、それ故に、イエスにはイスラエルの選ばれていることが繰り返し問題のあることとなり、神殿の意味は疑わしく、ファリサイ派と律法学者に永劫の罰が下さされることは確実なのであった。

[1] マタイ:11:20-24「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。また、カファルナウム、お前は、 天にまで上げられるとでも思っているのか。 陰府にまで落とされるのだ。 お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」など。コラジン、ベトサイダの両方ともガリラヤ湖北側の町。

[2] マルコ:11:12-14。「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」

折原浩訳の問題点(216)

ここはeine nie fortzudatierende Stützeの訳の問題。折原訳の「この点はけっして無視されてはならない。」はどこにも書かれていないことを訳しています。fortzudatierendeの意味は「先日付の」ということです。小切手であれば先日付であればその日が来るまで換金出来ません。それにnieが付いているので、「決して先日付ではない→今すぐに有効である」という意味です。なので「先の話ではなく今すぐに頼ることの出来る支柱であった」ということです。創文社訳の「不可欠であった」も間違いです。要するにイエスにとって、将来の救済の約束ではなく、その場その場での奇蹟の実施が彼の存在理由を支えた、ということです。

原文
Magie und Dämonenglauben stehen nun auch an der Wiege der zweiten großen, in einem spezifischen Sinn »weltablehnenden« Religion: des alten Christentums. Sein Heiland ist vor allen Dingen ein Magier, das magische Charisma eine nie fortzudatierende Stütze seines spezifischen Selbstgefühls.

折原訳
ところで、魔術と悪霊信仰は、固有の意味で「現世拒否的」な第二の大宗教、すなわち古キリスト教の発生にもかかわりがある。キリスト教の救世主は、なにものにもまして魔術師であり、魔術カリスマがかれ特有の自負心を支えたのであり、この点はけっして無視されてはならない。

丸山訳
さて魔術と悪魔信仰は、特別な意味での「現世拒否的」な二番目の大宗教の揺籃期においてもまた存在している:つまり古キリスト教である。その救世主は何よりもまず魔術師であり、その魔術的なカリスマが、イエスの特別な自己の存在の感覚の、先の話ではなく今すぐに頼ることの出来る支柱であったのである。

折原浩訳の問題点(215)

折原訳では、nüchternもwachもどちらもほとんどの場所で「醒めて」と訳していますが、聖書ではこの二つは使い分けられている(もちろん近い意味としてですが)ことを発見しました。

Luther Bibel 1.Petrus 5:8
„Seid nüchtern und wachet; denn euer Widersacher, der Teufel, geht umher wie ein brüllender Löwe und sucht, welchen er verschlinge.“

共同訳では「身を慎み、目を覚ましていなさい。」です。田川建三訳だと「しらふでおり、目覚めていなさい。」
なので、「醒めて」でしらふでいることと、目を覚ましていることの両方を併せて言おうとするのは雑な訳と言わざるを得ません。

折原浩訳の問題点(214)

この誤りは2回目なんですが、宗教社会学の翻訳としてはあってはならないレベルの間違いなので、もう一度取り上げます。
ここでの話は仏教での輪廻転生の話ですから、diesseitigem wie jenseitigemを折原訳のように「此岸であれ彼岸であれ」と訳すのは、致命的な誤りです。輪廻転生での「今の生」「次の生」ということです。言うまでもなく「彼岸」というのはそういう輪廻転生から「解脱」した場所のことです。

それからdie schmutzigste Sinnlichkeitを「汚れ果てた感性的欲望」と訳していますが、これも「この上なく汚れた肉欲」ということです。金融業者については大小を問わず「金貸し」で済ましているのに、こうした性関係の言葉になると奇妙なまでにぼかした訳にしてしまっています。
また「熱狂」も「高貴な」と合わず、ここで言っているのは宗教的昂揚感ぐらいです。

原文
Der edelste Enthusiasmus wie die schmutzigste Sinnlichkeit führen beide gleichmäßig immer wieder hinein in diese Verkettung der Individuation (für die buddhistische Metaphysik, die keine Seele kennt, sehr mit Unrecht »Seelenwanderung« genannt), solange nicht der »Durst« nach Leben, diesseitigem wie jenseitigem, der ohnmächtige Kampf um die eigene individuelle Existenz mit all ihren Illusionen, vor allem derjenigen einer einheitlichen Seele und »Persönlichkeit«, absolut ausgerottet ist.

折原訳
このうえなく高貴な熱狂も、汚れ果てた感性的欲望も、つねにひとしなみに、こうした個体化の連鎖(これを「霊魂輪廻」と呼ぶのは、霊魂を認めない仏教の形而上学からすれば、まったく不当なことであろう)に編入される。こうしたことが、此岸であれ彼岸であれ、生への渇望が根絶されないかぎり、つまり、自分自身の個体的生存をめぐるあらゆる幻想――とりわけ、ひとつの統一的な霊魂や「人格」といった幻想――による無力な悪あがきが、根絶し尽くされないかぎりは、とめどなく永遠に繰り返される、というのである。

丸山訳
最高度に高貴な昂揚も、この上なく汚れた肉欲も、両方同じように常に繰り返される個体化の連鎖の中にはまり込むが(仏教の世界観からすれば、それは霊魂というものを知らないので、それを「霊魂輪廻」と呼ぶのは非常に不当であるが[1])、現世についても来世についても、生そのものに対する渇望、つまり   存在についてのあらゆる幻想、取り分けある一つにまとまった霊魂と「人格」という幻想と一緒になった、自分自身の個別の存在を巡る空しい戦いが、完全に根絶されない限りは、そこからは抜け出せないのである。

[1] ここのヴェーバーの記載は正しく、アートマン(我)というものは仏教は認めていないが、しかし輪廻していくものとしての業によって条件づけられた因果的連続性は認めており、後の大乗仏教ではそれを阿頼耶識(ālaya-vijñāna)と名付けている。

 

折原浩訳の問題点(213)

最初の、「肉を40日食べない者」についての非難は預言者ムハンマドが言ったとは確定されないので、ヴェーバーは「ある預言者に帰せられている」としているのを、折原訳は預言者ムハンマドに特定してしまっています。ついでに言えば、その後の「髪を染めた」エピソードも預言者ムハンマドではなく、別の者の本当かどうか不明の逸話です。さらには「と答えたりしている」も原文のニュアンスを変えてしまっており、「言わせられている」です。(訳注にも書いたように、この女性と上手くやる、はジョークとして言われた可能性があります。)訳注に書いたように、ヴェーバーのイスラム教に対する先入観や偏見がよく出ている箇所です。

原文
Aber wenn ein Prophetenspruch den Charakter dessen anzweifelt, der 40 Tage kein Fleisch genießt, oder wenn einer anerkannten, teilweise als Mahdi gefeierten Säule des alten Islam auf die Frage, warum er, im Gegensatz zu seinem Vater Ali, Haarkosmetika brauche, die Antwort: »um bei den Frauen Erfolg zu haben« in den Mund gelegt wird — so stände Derartiges wohl einzig in der Hagiologie einer ethischen »Erlösungsreligion« da. Allein eine solche ist der Islam in dieser Ausprägung eben überhaupt nicht.

折原訳
ところで、預言者ムハンマドの言表が、肉を四十日間食べなかった人の性格に疑いを差し挟んだり、あるいは、初期イスラムにおいて定評ある、ときとして救世主と崇められるほどの柱石をなす聖者が、「父親のアリとはちがい、なぜ整髪水を用いるのか」と問われて、「女性たちのもとで、首尾よからんがため」と答えたりしているのは、倫理的「救済宗教」の聖者列伝には類例を見ないことであろう。ところで、イスラムは、こうした特徴を顕すかぎり、じつはおよそ救済宗教といえるものではない。

丸山訳
しかしある預言者[1] に帰せられている託宣が、次の者の性格に対して疑念を抱いた場合、つまり40日間肉をまったく食べなかった者の性格についてであるが、あるいはある良く知られた、一部ではマフディー[2]として崇拝された古イスラムの重鎮であった人物[3] に対して発せらた問い、つまり何故、その父であるアリーの行いに反して、髪を染めているのか、に対し、その答えは:「女性が側にいる時に、[女性の機嫌を取って]上手くやるため」という内容を言わせられている[4]--このような逸話は倫理的な「救済宗教」の聖徒伝においてはまさに唯一の例であろう。しかしながら、イスラム教は、こうしたはっきりした特徴を見る限りでは、そういった救済宗教とはまるで言えない[5]。

[1] ジャアファル・アッ=サーディクやアリー、または預言者ムハンマドなど諸説あって、誰が言ったことかは確定されておらず、またその言った内容とされるものも一定ではない。

[2] イスラム教における救世主的、終末論的な人物で、世界の終わりの時に現れ、イーサー(イエス)と共に正義を立て直し、敵を打ち倒すと考えられていた者。

[3] イブン・ハナフィーヤのこと。637または638~700または701年、初期の聖戦で勇猛に戦って功績を挙げた。

[4] イブン・サアドの伝記集に出てくる話を、東洋学者のゴルトツィーエル・イグナーツがその著作に書き、それをヴェーバーが引用しているもの。歴史的事実であったかどうかはゴルトツィーエル自体が保証していない。またゴルトツィーエルが「多少ユーモラスな意図もあって」、つまり半分ジョークであった可能性を指摘している。

[5] ここの断定も、かなり偏見が伴ったもので、この事実かどうかも不明な逸話からイスラム教が倫理的救済宗教ではまるでない、という断定は不可能であろう。

折原浩訳の問題点(212)

ヴェーバーがルターについて言っているderb-sinnliche Naturは「粗野で肉欲的な」ということで、かなりの程度ディスっています。折原訳の「抑制が不可能な自然の感性が露呈しており」は綺麗事にしすぎ。(笑)原文の侮蔑調がまったく消えています。
それから、ここのルターの引用はかなり問題で、資料操作に近いレベルです。また訳注に書いたように、タルムードの方もそんな強い宗教的な戒告ではありません。

原文
Die strikte Ablehnung zwar nicht aller und jeder Askese (vor Fastern, Betern, Büßern bekundet Muhammed seinen Respekt), wohl aber jedes Mönchtums (rahbanija) im Koran mag, soweit dabei die Keuschheit in Betracht kommt, bei Muhammed persönlich ähnliche Gründe gehabt haben wie in den bekannten Aussprüchen, in denen Luthers derb-sinnliche Natur hervortritt; also in der auch dem Talmud eigenen Überzeugung, daß, wer mit einem bestimmten Alter nicht verheiratet sei, ein Sünder sein müsse.

折原訳
コーランにおいては、なるほど、どんな禁欲もことごとく拒否されるのではないとしても(ムハンマドは、断食者・祈祷者・懺悔者には、敬意を表している)、およそ修道院制(ラーバニヤ)は厳格に拒否されるが,これはおそらく、[修道院における]貞潔戒が問題とされるかぎり、ムハンマド個人に、ルターの周知の言葉に表明されているのとよく似た理由があったからかもしれない。ルターの言表には、抑制が不可能な自然の感性が露呈しており、「一定の年齢に達しても結婚していない者は、罪を犯しているにちがいない」というタルムードに特有の確信とも、軌を一にしている。

丸山訳
あらゆる禁欲を厳格に拒否することはないにしても(断食者、祈祷者、懺悔者に対してはムハンマドは敬意を表している)、しかしクルアーンにおいては全ての禁欲的修道院制[ラフバーニーヤ]が拒否された[1] のは、そこにて貞潔さが考慮されている場合には、ムハンマドにおいては個人的に、ルターの有名な言説であって、そこに彼の粗野で肉欲的な性質が現れているものと似た理由を持っていたと思われるが;つまりタルムードにおいてもまたそれ独自で論証されている、ある一定の年齢に達して結婚していない者は、罪を犯していることになる、ということである[2]。

[1] クルアーン57:27の一部「だが禁欲の修道院制は,かれらが自分で作ったもので,われがかれらにそれを指示してはいない。アッラーの喜びを得たいばかりにしたことだが,かれらはそれも守らねばならないようには守っていなかった。」

[2] ルターは聖職者の結婚禁止に反対して自身も結婚しているが、「独身者は罪を犯している」といったことまでは言っていない。ルターが言っているのは「良心に従って独身のままでいられるなら、そうしてよい。貞潔を保てないなら妻を娶れ」程度、一方タルムードでは、Kiddushin 29bに以下の記述がある。”When will he marry a woman? Once he reaches the age of twenty and has not married, He says: Let his bones swell, i.e., he is cursed and God is no longer concerned about him.”なのでここに引用されているのはタルムードのものであり、ルターの有名な言説ではない。またこのタルムードも要は父親に向かって、息子が早く結婚出来るようにしてやりなさい、と説いている箇所であり、独身者を直接糾弾しているものではない。また前にもあったが、ヴェーバーはムハンマドを「性欲を制御出来なかった」者として描写するのが前の箇所にも出て来ていた。

 

折原浩訳の問題点(211)

(1) die getauften Judenは、洗礼を受けたユダヤ人→キリスト教に改宗したユダヤ人のこと。折原訳の「洗礼派に改宗した」は意味不明。なんでユダヤ人がそんな特殊なプロテスタントに改宗しないといけないのか。大体この訳者、ヴェーバーのTäufer(再洗礼派)をいつも「洗礼派」と間違って訳しています。(洗礼派=バプティストは別にいます。)

(2) 「教育同盟」→これは固有名詞ですから、こんな風に訳すべきではありません。例によって訳注も「説明要」だけ。

(3) 「たとえばドイツでは、そうした改革派のユダヤ教徒が、」→ここは改革派ユダヤ人、キリスト教に改宗したユダヤ人など全部を含めた「正統派以外のユダヤ人」ぐらい。

(4) 「何世代にもわたって」→継続性の話ではなく、結果として「何世代を経た今でも」ということ。

(5) 「同化ユダヤ教徒」→キリスト教に改宗した人も含みますから、「ユダヤ教徒」はおかしい。

特に(1)はひどいです。

原文
Nicht die frommen, orthodoxen Juden, wohl aber die der Orthodoxie entronnenen Reformjuden, noch jetzt z.B. Zöglinge der Educational Alliance, und vollends die getauften Juden werden in der Tat gerade von den puritanischen Völkern, speziell den Amerikanern, früher ohne weiteres und trotz allem auch noch jetzt relativ leicht bis zur absoluten Spurlosigkeit des Unterschieds resorbiert, während sie etwa in Deutschland durch lange Generationen eben »Assimilationsjuden« bleiben.

折原訳
正統的で敬虔なユダヤ教徒ではなく、おそらくは正統派から離脱した改革派ユダヤ教徒、今日なお、たとえば「教育同盟」 の出身者や、ましてや洗礼派に改宗したユダヤ教徒たちは、まさにピューリタン的な諸国民によって、とくにアメリカ人によって、事実上吸収されている。しかも、以前にはまったく問題なく、今日なお、相対的には容易に、差異の痕跡をまったく残さないまでに吸収されるのである。ところが、たとえばドイツでは、そうした改革派のユダヤ教徒が、何世代にもわたって、まさに「同化ユダヤ教徒」のままでいる。

丸山訳
敬虔な正統派のユダヤ人ではないが、しかし正統派から流出した改革派ユダヤ人、今日でも例えばエデュケーショナル・アライアンス[1] で教育を受けた者達や、そしてさらにはキリスト教に改宗したユダヤ人は、実際の所、まさしくピューリタンの諸民族によって、特にアメリカ人によって、早い時期に直ちに、それにもかかわらず今日でも、相対的に容易に、違いの痕跡がほとんど見られない程に、吸収され、その一方でそういったユダヤ人はドイツでは、何世代を経た後でも依然「同化ユダヤ人」として留まっている。

[1] Educational Alliance、1889年にロウアー・マンハッタンに設置された、東欧のユダヤ系住民がアメリカに移民で入った時の支援センター。子供と大人に、英語、アメリカの歴史と社会、料理などについて教えた。

 

折原浩訳の問題点(210)

(1) menschenbezwingendenは「人間を圧倒するような」であり「人間として抑えようのない」ではありません。
(2) 「歓喜の叫びを」「行間から」「感得する」って日本語としてつながりません。
「行間を読む」は元の文章にははっきり書いていないことを読み解くことです。また「感得する」は「深い道理などをはっきりと感じ、悟ること」(明鏡国語辞典)です。ヴェーバーが言っているのはパウロ書簡のどの行を見ても、そこには律法から解放された圧倒的な喜びをすぐに感じ取ることが出来る、と言っているだけです。行間を読んだり、感得する必要性はまったくありません。日本語センスの怪しい方々に限って、国語辞書を引くという習慣がないように見えます。

Den menschenbezwingenden Jubel des aus dem hoffnungslosen »Sklavengesetz« mit dem Blut des Messias in die Freiheit Erkauften fühlen wir aus jeder Zeile, die Paulus schrieb. Die Möglichkeit christlicher Weltmission aber war die Folge. Ganz ebenso übernahmen die Puritaner gerade nicht das talmudische und auch nicht das alttestamentliche spezifisch jüdische rituelle Gesetz, sondern die sonstigen im Alten Testament bezeugten — schwankend, in welchem Umfang noch maßgebenden — Willensäußerungen Gottes, oft bis in Einzelheiten, und fügten sie zusammen mit den neutestamentlichen Normen.

折原訳
メシアの血によって、望みのない「奴隷律法」から自由の身へと贖い出された者たちの、人間として抑えようのない歓喜の叫びを、我々はパウロ書簡のどの行間からも感得する。キリスト教の世界伝道の可能性は、まさにそこで開けたのである。まったく同様に、ピューリタンが引き継いだものは、タルムードの律法や、旧約聖書中のユダヤ教に特有の儀礼的律法ではなく、旧約聖書に証示されている、まさにそれ以外の――どこまでが権威あるものかは、確定し難いが――しばしば細部にまでおよぶ神意の表明であり、しかもこれを、ピューリタンは、新約聖書の諸規範と接合したのである。

丸山訳
希望の持てない「奴隷律法」から、メシアの血によって自由へと購われたことへの人間を圧倒するほどの歓喜を、我々はパウロが書いたもののどの1行からも感じることが出来る。キリスト教の世界伝道の可能性はしかしその結果である。全く同様にピューリタン達が受け取ったのは、まさしくタルムードのそして旧約聖書の、特別にユダヤ的な儀式律法ではなく、そうではなくてその他の、旧約聖書にて証明された--どの範囲までが決定的なものなのかは流動的ではあるが--様々な神の意志の表示であり、それもしばしば個々の部分までであり、ピューリタン達はそれを新約聖書の規範とつなぎ合わせたのである。