インド人がボスニアでの狂躁の担い手?

たまにはヴェーバーの信じられない記述を。
単に「フランク博士」から聞いたというだけの話を、ボスニアでの狂躁やエクスタシーの典型的な担い手がインド人だったと決めつけにしています。ChatGPTに調べさせた所では訳注に書いたように、「インド出身とされる」シャイフが一人いた、というだけのことです。それもインドといっても西南パキスタンの出身だというだけです。信じられないことに、さらにこの後でもこのフランク博士から聞いたことが出てきて、インドの狂躁がイスラム世界に持ち込まれたと拡大して一般化されるようです。これが教科書として書かれたなんて全く信じられません。大体フランク博士なんて当時のヨーロッパには100人単位でいたと思います。

原文
Durch den Sufismus ist die sublimierte Intellektuellenekstase sowohl wie andererseits auch die Derwischorgie, wenn auch in gemilderter Form, in den Islam getragen worden. Inder sind, bis nach Bosnien hinein (nach einer authentischen Mitteilung Dr. Franks aus den letzten Monaten) noch jetzt dort deren typische Träger.

丸山訳
精緻化された知識階級のエクスタシーは、スーフィズムを通じて、他方ではまた同様にダルヴィーシュの狂躁を通じて、それはまたより穏やかにされた形態であったとしても、イスラム教で行われている。インド人は、ボスニアにかけての地域において(フランク博士の数ヶ月前の信頼出来る報告[1] によれば)、[ヴェーバー当時の]現在でもなおその地域でのそういったエクスタシーや狂躁の典型的な担い手である。

[1] 詳細不明、全集の注ではストラスブール大学の東洋学者・アッシリア学者Carl Frankまたはハイデルベルクで学位を得た哲学者Erich Frankの可能性が示唆されているが、いずれにせよ文献としては特定出来ておらず口頭での報告の可能性もある。当時のボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国に併合されているが、イスラム教は残っている。ボスニアのブラガイ・テッケのスーフィ系修道院には19世紀にバルーチスターン(パキスタン西南部)出身で「インド人」と呼ばれたシェイフ、ムハンメド・ヒンディがいたことは確認されるが、もしそれを元にヴェーバーが「インド人が担い手」としているのであればこじつけもはなはだしい。しかも後でまたこのフランク博士から聞いた話が再登場する。

 

折原浩訳の問題点(84)

今日も已むことのない折原誤訳。
(1)なんで唐突に「インド亜大陸」が出て来るのか。ここは救済の手段のほとんどがインド起源であると述べた後で、「インド自身では」と言っているだけです。別にインドというのがどこを指すかなんて何も書いてありません。
(2)nie wieder は単なる強調で「再び~することはない」などと訳すと、では一度失われたのか、とおかしな意味になります。昔のウルトラマンのナレーションの「もしカラータイマーが消えてしまったら、二度と再び立ち上がる力を失ってしまうのだ」を思い出しました。(笑)

原文
Die spezifischen Mittel der soteriologischen Heilsmethodik sind in ihrer raffiniertesten Entwicklung fast alle indischer Provenienz. Sie sind dort in unbezweifelbarer Anlehnung an die Methodik magischen Geisterzwangs entfaltet worden. In Indien selbst haben diese Mittel zunehmend die Tendenz gehabt, zur Selbstvergottungsmethodik zu werden und haben dort auch diesen Charakter nie wieder ganz verloren.

折原訳
さて、宗教的救済論によって基礎づけられた救済技法に特有の手段についてみると、その洗練された発展形態は、ほとんど全てインド起源である。インドでは、そうした手段が、疑いもなく、魔術的精霊強制の技法に依拠して発展を遂げた。インド亜大陸自体においては、そうした手段が、ますます自己神化の技法となる傾向を帯び、そこではまた、こうした性格をふたたび完全に失うことはけっしてなかった。

丸山訳
宗教的救済論に基づく救済の方法論の特別な諸手段は、そのもっとも精緻な発展においては、ほとんど全てがインドに起源を持つものであった。そういった諸手段はインドにおいては、魔術的な精霊の力による強制という方法論に疑いようもなく依存する形で発展した。インドそのものにおいては、こういった諸手段は次第に次のような傾向を持つようになった。つまり、自己神化という方法論を採ることであり、インドにおいてはそういう性格が完全に失われれることは決してなかった。

折原浩訳の問題点(83)

ここの誤訳も大物。
折原訳は「ヒステリー」の俗なイメージである「わいわい騒ぎ立てる」をおそらく想定して、それを「発作」としているが、実際には当時ヒステリーと言われたのは様々な身体的不調状態の総称であり「発作」はおかしい。「情動を抑制すること」が発作になるのではなく、その人がストレスに対する感情を抑圧しようとすることが、反動として様々な身体症状として現れるということ。そもそも私が注釈に書いたような背景をまったく理解していません。おそらくオットー・グロスも知らないんでしょうね。
また、「それぞれ特異な状態性への素質を、しばしば突発的に交錯させながら顕現することもある。」は日本語としてまったく意味不明。それに「交錯」ではなく「交代」。「顕現する」ではなく「起きる」。

原文
Die Erfahrung lehrte, daß durch hysterisierende »Abtötung« es bei Qualifizierten möglich war, den Körper unempfindlich oder kataleptisch starr zu machen, ihm allerhand Leistungen zuzumuten, welche eine normale Innervation niemals hervorbringen konnte, daß gerade dann besonders leicht alle Arten visionärer und pneumatischer Vorgänge, Zungenreden, hypnotische und andere suggestive Macht bei dem einen, Leibhaftigkeitsgefühle, Dispositionen zur mystischen Erleuchtung und ethischen Bekehrung, zu tiefem Sündenschmerz und frohem Gottinnigkeitsgefühl, oft in jähem Wechsel miteinander, bei den andern sich einstellten, daß dagegen all dies bei rein »naturhafter« Hingabe an die Funktionen und Bedürfnisse des Körpers oder an ablenkende Alltagsinteressen wieder dahinschwand.

折原訳
経験が教えるところでは、もともとある素質をそなえた人に、「情動を抑制して」ヒステリー性発作にいたらしめると、身体が無感覚になり、硬直症風にこわばって、正常な刺激伝達ではけっして起きないあらゆる種類の無理な仕種を引き起こすことが可能となる。そのさいには、とくに容易に、あらゆる種類の幻覚ないし霊的現象が現れ、異言が発せられ、ある人は催眠術その他の教唆をおこなう能力を発揮し、また別のある人は、[超感性的な力の] 体現感情や、神秘的開悟と倫理的回心、深い罪悪感による苦悩と、神と共にある歓喜の感情、といった、それぞれ特異な状態性への素質を、しばしば突発的に交錯させながら顕現することもある。ところが、こうした現象は全て、彼らが身体的機能や欲求のままに、あるいは、集中力を散逸させる日常的関心事に、ごく「自然のままに」没頭すると、ふたたび消滅する。

丸山訳
経験上知られているのは[1]、元々ヒステリー的な資質を持った人[2]が、そのヒステリー症状をもたらすような「情動抑制」[Abtötung、ヒステリー的な資質の人がストレスに対処するため、自己の情動を無理矢理抑制しようとしている状態]によって、次のようなことが起こり得たということである[3]。即ち身体が無感覚になったり、あるいはこわばって動かなくなったり、そしてその者に正常な神経状態では決して現れて来ることはないあらゆる種類の行為が期待されるようになることである。ここからまさにある者においては非常に容易にあらゆる種類の幻視的・霊的な出来事、異言、催眠術的またはその他の暗示的な力が生じ、また別の者達では何かの化身となったという感情と、神秘的な光による啓示と倫理的な回心へと向かう性向において、深い罪による苦悶と、喜びに溢れた神が自己の中にあるという感情、それらはしばしば交互に急激に交代して起きる。それに対してこれらの全てが純粋に身体の諸機能と諸要求への、あるいはこうしたものから意識を逸らさせる日常的な関心への「自然な」没頭によって、再び消えていく、ということも生じる。

[1] ヴェーバーがここでは「経験によって」と曖昧に書いている内容は、ほぼフロイトによるヒステリーの原因の説明に一致している。1895年にジークムント・フロイトとヨーゼフ・ブロイアーにより「ヒステリー研究」が出ており、更には1904年のヴィリー・ヘルパッハ(Willy Hellpach、1877~1955年、ドイツの医学心理学者、政治家)による” Grundlinien einer Psychologie der Hysterie”もヴェーバーは読んでいるだけでなく著者とも交信がある。ここのAbtötungがヒステリー的な身体症状の原因であるというのはフロイト説そのものである。またヴェーバーはエルゼ・ヤッフェから紹介されたオットー・グロス(フロイトの弟子、麻薬中毒者、フリーセックス主義者、無政府主義者、エルゼとフリーダの姉妹の双方と肉体関係を持っていた)から送られた論文を自身が編集に携わっていた雑誌に掲載するかどうかを審査して結局拒絶しているが、その際にかなりフロイトの著作を読んでいる。「マックス・ヴェーバーとその同時代群像」(みすず書房)に収録されているトレイシー・B・ストロングの論文「ヴェーバーとフロイト」にはヴェーバーは彼が編集していた雑誌に投稿されたオットー・グロスの論文を審査して拒絶した上で、「フロイトへの研究内容への関心を明らかにしたうえで彼は、精神分析学は実際のところまだ揺籃期にあり(「まだ、おむつをしている」)、もっと専門的な研究による成熟を必要としていると論じた。」となっており、フロイトの学説を科学としては十分に認めていなかった。ここの「経験による」という曖昧な書き方はそれが影響している可能性がある。

[2] 現在では「ヒステリー」という病名は既に使われなくなっている。DSM-5/DSM-5-TRでは、運動麻痺・感覚脱失・けいれん様発作など、旧来「転換ヒステリー」と関係づけられた症状は conversion disorder(functional neurological symptom disorder)として、「身体症状症および関連症群」に分類されている。一方、ICD-11 では、対応する症状群は dissociative neurological symptom disorder「解離性神経症状症」の系統として扱われ、非てんかん性発作、麻痺・筋力低下、運動障害、感覚障害などに細分類されている。

[3] 以下のような、宗教的な異言や神がかりといった現象を精神的な疾患によるものとして説明することは、現在においては抑制されるようになっている。科学的に言えばそうした精神疾患が原因のものも含まれている、ぐらいである。

折原浩訳の問題点(82)

ここも初級文法の問題。

(1)sollenは英語のshallに相当し、マッカーサーの I shall returnが「私は(神の意志によって)きっと帰ってくる」であるのと同様に「(神の意志)で実現されねばならない」と言った強い意味です。それを「しようとするだけである」などと訳すのは完全にピンボケです。マッカーサーの言葉を「私は帰ってこようとするだけである」と訳したらお笑いです。
(2)religiösen Qualitäten: sie wird damit のsieはHeilsmethodik「救済の方法論」(女性名詞)であり、折原訳だと「宗教的諸性質の獲得」みたいに読めますが、それは間違いです。
(3)冒頭のnurは「~のみ」ではなく「但し」ですが、折原訳は「ただこれ~だけ」と解釈されており間違い。
(4)相変わらずHabitusの意味が取れていない。単に「習性」では弱すぎ。

原文
Nur soll dies jetzt möglichst zu einem Dauerhabitus werden. Die Heilsmethodik ist also auf diesseitigen Besitz des Göttlichen selbst ausgerichtet. Wo nun aber ein allmächtiger überweltlicher Gott den Kreaturen gegenübersteht, da kann Ziel der Heilsmethodik nicht mehr die Selbstvergottung in diesem Sinn sein, sondern die Erringung der von jenem Gott geforderten religiösen Qualitäten: sie wird damit jenseitig und ethisch orientiert, will nicht Gott »besitzen« — das kann man nicht — sondern entweder 1. Gottes »Werkzeug« oder 2. von ihm zuständlich erfüllt sein. Der zweite Habitus steht ersichtlich der Selbstvergottungsidee näher als der erste.

折原訳
ただこれを、いまやできるかぎり、ある持続的な習性にしようとするだけである。したがって、こんどは救済技法が、神的なもの自体の此岸における所有を目指して編成される。だがしかし、全能の超越神が被造物に対峙する場合には、救済技法の目標はもはや、この意味における自己神化ではありえず、当の神から要求される宗教的諸性質の獲得となる。すなわち、神を「所有する」こと――それは人間にはできない――ではなく、彼岸的また倫理的な準拠標にしたがって、1. 神の「道具」となるか、あるいは2. 神に充たされた状態に到達するか、どちらかである。

丸山訳
ただこの自己神化は、いまや可能な限り、ある継続的な恩寵による魂の性向[Habitus]となるべきものである。救済の方法論はそれ故に、現世において神的なもの自身を所有するという方向に向けて遂行される。しかしある全能の超現世的な神が被造物に対置される場合には、その場合は救済の方法論の目的はもはやこの意味での自己神化ではなく、そうではなくてその神より要求された宗教的な諸資質の獲得である:救済の方法論はそれによって来世的・倫理的なものに志向するようにされ、神を「所有する」ことを欲するのではないのである--それは不可能であり--そうではなくて次のどちらかである。1.神の「道具」となるか、または 2.神によって常に充たされている、かである。

折原浩訳の問題点(81)

もうこの辺り誤訳のオンパレードで今日3つ目。

(1)また凝りもせず「開悟」を使う→大体悟りを開いたら一切の感情や執着は無くなりますのでオイフォリーなんかになりません。(今丁度古仏教のスッタニパータを読んでいます。)
(2)多幸感というより多幸状態と訳した方が持続性が感じられる。
(3)単に「より」という比較級をまた「どちらかといえば」と訳す。
(4)一つの、とか一柱の、とかは不要
(5)穏やかな形態二つが全体の主語で最後の2つに対応するのであり「関係が」ではない。前の箇所もそうだけどこの人は勝手に原文の論理構造を改変します、というか文の構文を正確に把握することが本当に下手。
(6)traumhaft (mystischen)、aktiv (ethischen)はどちらも「副詞(形容詞)」の構造なので、両方を「~的(~的)」と訳すのは間違い。
(7)ここにBekehrungが出てきますが、むしろこちらがAndachtよりも「帰依」に近いです。kehrenは「帰る」ですから意味的にも近いです。もちろん普通は「サウロの回心」があるので「回心」ですが。

原文
Die milderen Formen einer, je nachdem, mehr traumhaft (mystischen) als »Erleuchtung« oder mehr aktiv (ethischen) als Bekehrung empfundenen Euphorie, scheinen dagegen den dauernden Besitz des charismatischen Zustands sicherer zu verbürgen, ergeben eine sinnhafte Beziehung zur »Welt« und entsprechen qualitativ den Wertungen einer »ewigen« Ordnung oder eines ethischen Gottes, wie ihn die Prophetie verkündet.

折原訳
急性の法悦に対して、いっそう穏やかな形態は多幸感(オイフォリー)とも呼べようが、その形態は、事情次第で、どちらかといえば夢想的 (神秘的) に「開悟(エアロイヒトゥンク)」として、あるいは、どうちらかといえば能動的 (倫理的) に「回心(ベケールンク)」として、体験される。それらは、カリスマ的状態の持続的な所有を [エクスタシーよりも] いっそう確実に保証するように思われ、「世界」にたいする意味のある関係を発生させる。この関係は、質的には、ひとつの「永遠の」秩序、あるいは預言者が告知する一柱の倫理的な神、という価値評価に、それぞれ対応している。

丸山訳
さらにそれは預言者的信仰が展開するような「意味のある」内容物に欠けている。より穏やかな諸形態は、場合によって、より夢のように(神秘的な)「光を受ける啓示[Erleuchtung]」として、あるいはより能動的に(倫理的な)「回心[Bekehrung]」として感じ取られる多幸状態として、急性のエクスタシーとは反対に、カリスマとしての状態の持続的な保持を保証しているように見えるのであり、その結果として「現世」に対する意味のある関係を生じさせ、質的にはある「永遠の」秩序の、または預言者がそれを告知するような倫理的な神の、価値づけに対応している。

 

折原浩訳の問題点(80)

あっという間に80回目。完全にトマス・アクィナス並みに「折原浩誤訳大全」になりつつあります。(笑)
今回のは最初の箇所から引っ掛かります。「ヒステリーや癲癇の素質をもった人」って、そういうメンタルな病気を持っていることを「素質」とは言いません。それにヒステリー的、てんかん的症状の、という意味で、ずばりヒステリー・てんかんとはヴェーバーは言っていません。それから「伝染して」もきわめて無神経ですね。もちろんメンタルな症状は伝染性疾患ではありませんので、単に他人の狂躁状態を引き起こすと言っているだけです。それからこの方は positive をいつも「積極的」と訳していますが、positiv / negativ は多くの場合はプラスの/マイナスの、です。
「事柄の本質から」も「事物の本性」をちゃんと理解しているんでしょうか。

それから折原訳の「法悦」は私は使うのはやめて「エクスタシー」で統一します。「法悦」は宗教的なイメージが強すぎ、ヴェーバーの論述ではそれに限定されていません。

原文
Oder man provozierte bei dazu Qualifizierten hysterische oder epileptoide Anfälle, welche die orgiastischen Zustände bei den andern hervorriefen. Diese akuten Ekstasen sind aber der Natur der Sache und auch der Absicht nach transitorisch. Sie hinterlassen für den Alltagshabitus wenig positive Spuren. Und sie entbehren des »sinnhaften« Gehalts, den die prophetische Religiosität entfaltet.

折原訳
あるいは、ヒステリーや癲癇の素質をもった人に、発作を起こさせ、これが他人にも伝染して狂騒状態をひき起こす、というやり方も用いられた。しかし、こうした急性の法悦は、事柄の本質としても、意図からしても、一時的・一過的な現象である。それは、日常的習性には、ほとんど積極的な痕跡を残さない。それはまた、預言者的宗教性が展開するような「意味のある」内容を欠いている。

丸山訳
または、ヒステリー的・てんかん的症状に陥りやすい性質をもった人の発作を誘発し、それが他の者の狂躁状態を呼び起こすのである。こういった急性のエクスタシーはしかし事物の本性[1]から考えても、そしてまた意図から考えても一過性のものである。それは日常的な魂の性向[Habitus]にはほとんどプラスの痕跡を残すことはない。さらにそれは預言者的信仰が展開するような「意味のある」内容物に欠けている。

[1] 元々ルクレティウスのDe Rerum Naturaに典型的なラテン語の表現がドイツ語になったものだが、ヴェーバーがこの言葉を使う時にはほぼ「一般原則から考えて」ぐらいの意味である。時には法律が存在しない時に「公序良俗から判断して」という意味で使われることもある。

折原浩訳の問題点(79)

Orgieを「狂躁道」と訳すの、ググったらヴェーバー関係しか出て来ないので、おそらく日本のヴェーバー学者が作った言葉だと思います。しかし「計画的な救済技法ではない」と言っていて、内容も要するに乱痴気騒ぎのことであり、「道」というのとまったくかけ離れていると思います。しかもわざわざヴェーバーが”der Weg”ではない、と言っている所で…(笑)

また、musikalisch-orchestrischen は音楽と踊りで、ということで、オーケストラではありません。またerzieltenは「服用」ではなく、「引き起こされた」ということです。急性中毒も変。急速に引き起こされた酩酊状態ということ。

しかしこのヴェーバーの定義だと、徳島の阿波踊りも十分 Orgie ですね。(笑)元は死者のための踊り(モラエスの表現)ですが。

原文
Für die Erzeugung der lediglich akuten Ekstase war natürlich nicht die planvolle Heilsmethodik der Weg, sondern ihr dienten vorzüglich die Mittel zur Durchbrechung aller organischen Gehemmtheiten: die Erzeugung akuten toxischen (alkoholischen oder durch Tabak oder andere Gifte erzielten) oder musikalisch-orchestrischen oder erotischen Rausches (oder aller drei Arten zusammen): die Orgie.

折原訳
たんに急性の法悦を生み出す方途としては、当然、計画的な救済技法ではなく、主要にはむしろ、あらゆる身体諸器官の抑圧を取り払う手段が用いられた。すなわち、(アルコール飲料・煙草・その他の有毒物の服用による) 急性中毒、歌唱-器楽演奏、あるいは性的興奮 (のいずれか、あるいはこれら三者の併用) によって陶酔状態を生み出す狂騒道(オルギア)である。

丸山訳
単なる急性のエクスタシー状態を作り出すためには、もちろん十分に計画された救済の方法論がその手段なのではなく、その生成に資するのは主に全ての肉体的な障壁を突破する手段であり:中毒性のものにより(アルコール飲料により、あるいは煙草、またはその他の毒物によって引き起こされた)、あるいは音楽・踊りにより、または性的なものによって、急性の酩酊状態を生み出すことであり(あるいはこの3つを全て一緒に):つまりはいわゆる狂躁儀礼[Orgie]である。

折原浩訳の問題点(78)

今日も2つで78回目。ともかくも折原センセはHabitusの意味が分かっていなくて、単に英語のhabitに似たようなものだと思っているのでしょう。カトリックのHabitusをきちんと定義付けたのはトマス・アクィナスであり、「(神の恩寵により)後天的に獲得された個人の性質、性向」という意味です。英語で言えば disposition です。「宗教に特有な習性」ってまるで意味不明でヴェーバーがここで言っていることをまったく理解していない訳です。

(1)何故か前に間違えた急性-慢性と  je nachdem はここでは正しく解釈しています。(おそらく創文社訳を見たんでしょうが。)
(2)「脱我」って何ですか?それを言うならせいぜい「脱自」でしょうし、「忘我」ぐらいが一番分かりやすいと思います。
(3)「瞑想への沈潜」なんて原文にありません。そもそも「瞑想的-高揚」という対照と、「生が高められる-生から遠ざけられる」という対照の2つを、勝手に順番変えて組み合わせていて、原文の意味構造を改変しています。また sei es~oder auchは「それぞれそういう場合もある」ぐらいで(接続法第1式の「認容・譲歩」)、決してこの二つに限定される二者択一ではなく「どちらかである」もおかしい。そもそも「どちらかといえば~、どちらかといえば~、のどちらかである。」って日本語として「曖昧-曖昧-限定の断定」で破綻していると思います。
(4)「ここで問題となるのは」も、客観的にそこが重要だということではなく、この論考で取り上げるのはこの2つだ、ということなので、1人称をきちんと使って訳すべきです。(英語と違ってドイツ語論文は1人称はなるべく使ってはいけない、なんていうルールはありません。)

原文
Die Ekstase als Mittel der »Erlösung« oder »Selbstvergottung«, als welches sie uns hier allein angeht, kann mehr den Charakter einer akuten Entrücktheit und Besessenheit oder mehr den chronischen eines, je nachdem, mehr kontemplativ oder mehr aktiv gesteigerten spezifisch religiösen Habitus, sei es im Sinne einer größeren Lebensintensität oder auch Lebensfremdheit haben.

折原訳
ここで問題となるのは、もっぱら「救済」ないし「自己神化」の手段としての法悦である。それは、どちらかといえば急性の、脱我や憑依という性格を帯びることもあれば、どちらかといえば慢性の、宗教に特有の習性という性格をそなえていることもある。後者はさらに、事情次第で、生の密度をたかめ、どちらかといえば能動性の昂揚をともなうか、あるいは生からの疎隔を強めて、どちらかといえば瞑想への沈潜をもたらすか、どちらかである。

丸山訳
「救済」または「自己神化」の手段としてのエクスタシーは、そういうものとしてのみ、我々はここでは考察するが、ある急性の忘我となって何かに憑かれた状態か、あるいはむしろ慢性の、場合に応じて、より瞑想的かあるいはより能動的に高揚させられた、特別に宗教的な恩寵による魂の性向[Habitus][1]という性格をより多く持つことが出来る。そういう高められた魂の性向の意味は、生の強度がより高められたという場合も、あるいはまたより生から遠ざけられたという場合であることもある。

[1] 参考:基督教研究 第28巻、第3、4号
「倫理性に於けるルッターと中世 --基督教倫理思想史の一齣--」今井晋
スコラ神学は、アウグスティヌスの見解を発展させて、サクラメントの儀式によって、奇蹟的に、人間に「注がれる」(ロマ書5.8)神の超自然的な恩寵の状態をハビトゥス(habitus)と名付け、サクラメントに依存するかかる超自然的な神の愛の協力が、始めて善き行為を真に功績ある行為、即ち永生に値する行為として価値づけるとしたのである。

折原浩訳の問題点(77)

また問題の折原訳。77回目で、目出度くない誤訳の「喜寿」達成。(笑)

(1)またも元服式とか佩用式とか帯刀礼などの変な和風語彙を使う。しかも別に王族とか封建家臣に限定されている訳ではない。ニューギニア高地人のペニスケース(コテカ)とかもその例。(笑)
(2)「といった制度の残滓」ではなく、そういう制度自体が古の再生儀式の残滓。
(3)「それぞれ「英雄」ないし「魔術師」への「再生」の意味を帯びている。」ではなく、ある場合は英雄として、また別の場合は魔術師として、ぐらい。
je nachdem の意味がまったく訳されていない。

原文
In all jenen Resten von Jünglingsweihe, von Bekleidung mit den Mannesinsignien (China, Indien — die der höheren Kasten heißen bekanntlich: die zweimal Geborenen), Rezeptionen in die religiöse Bruderschaft der Phratrie, Wehrhaftmachung haben ursprünglich den Sinn der »Wiedergeburt«, je nachdem als »Held« oder als »Magier«.

折原訳
元服式 [成人聖祓式]、[王や封建家臣の身分・権力・地位の取得を象徴する冠・笏・杖・刀剣・徽章などの]佩用式 (中国、インド――ここでは周知のとおり、上層カーストへの所属者が「再生族」と呼ばれる)、フラトリー の宗教的兄弟団への加入-受け入れ式、帯刀[その他の武装免許]礼、といった制度の残滓はことごとく、始原に遡ればそれぞれ「英雄」ないし「魔術師」への「再生」の意味を帯びている。

丸山訳
他の全ての残りの目的は、つまり[男性の若者への通過儀礼としての]成年式、男性らしさを象徴するような服飾品の着用(中国、インド--カーストの上位に所属するものが知られている通り:再生族と呼ばれる)、宗教的なフラトリー[1] の兄弟団への受け入れ、武装許可といったものは、根源的には「再生」という意味を持っていたのであり、状況によって英雄としてであったり、魔術師としてであった。

[1] 古代ギリシアのφρατρίαのことで、いわゆるメンナーハウスに起源を持つ、成年男性の行政的機能と祭式的機能を併せ持つ社会集団のこと。

「心意倫理」という訳の問題点

折原センセはGesinnungsethikの訳として「心情倫理」は誤訳であり「心意倫理」とすべきだと主張します。
しかし、この主張には色々問題があります。

(1)「心情」は「思い」という意味で、意思も感情も含む語である。
(2)「心意」という日本語は存在しない。
(3)「意」も「思い」という意味であり、必ずしも意思という意味に限定されない。
(4)(3)のことから「心意」は「思い思い」と言っているトートロジーである。
(5)「心意」と聞くと私は「意馬心猿」(=煩悩が制御出来ない状態)を想像する。
(6)Gesinnung自体が「個人の基本的な考え方、心根、心情、志操、主義」であり、必ずしも「意思」的な意味に限定されるものではない。
(7)小学館の独和大辞典のGesinnungの説明の中に「心情」が入っている。

ということから、「心情倫理」の方が「心意倫理」のようなおかしな訳よりもずっと原語のニュアンスを伝えていると思います。
ともかくこの人は「人の目のおがくずを指摘する癖に自分の目の中の丸太に気が付かない」人であり、このレベルのものを「誤訳」とか言う前に、自分の翻訳の質を上げてほしいです。