折原浩訳の問題点(102)

ここも折原デコトラ翻訳の例。ほとんど常に原文をより難解にこねくり回しています。
(1)Sichquälen には「自虐」といったマゾヒズム的なニュアンスはなく、単に「労苦」など。非常に苦労して何かを行うこと。
(2)geformten Lebens は単に形作られた生と言っているだけなのを「もろもろの形式に嵌め込まれ」などと訳すのは、盛り過ぎ。
(3)全部瞑想的神秘主義者から見た禁欲者のイメージで、受動で被害を受けている感じで書かれているのに、最後になって「自らを救いのない矛盾と妥協に縛りつけて止まずにいる。」などと能動・再帰的に訳すのは変。

原文
Der Asket wird, vom Standpunkt des kontemplativen Mystikers aus gesehen, durch sein, sei es außerweltliches, Sichquälen und Kämpfen, vollends aber durch asketisch-rationales innerweltliches Handeln stetig in alle Belastetheit des geformten Lebens mit unlösbaren Spannungen zwischen Gewaltsamkeit und Güte, Sachlichkeit und Liebe verwickelt, dadurch stetig von der Einheit in und mit Gott entfernt und in heillose Widersprüche und Kompromisse hineingezwungen.

折原訳
他方、瞑想的神秘家の観点から見れば、禁欲者は、たとえ世俗を離れてではあれ、かれの自虐と闘いによって、いわんや禁欲的で合理的な世俗内の行為によっては、もろもろの形式に嵌め込まれ、強制と善意、即物性と愛との和解不可能な緊張をともなう生のあらゆる荷重のなかに、たえず巻き込まれるばかりで、神のなかに神とともにある統一からたえず遠ざかり、自らを救いのない矛盾と妥協に縛りつけて止まずにいる。

丸山訳
禁欲は、[逆に]瞑想的な神秘主義の立場から見た場合は、その者の、たとえそれが現世外的なものだったとしても、労苦と戦いによって、さらにそれに加えて禁欲的・合理的な現世内行為によって、ある横暴さと親切さ、即物性と愛の間での解消出来ない緊張状態を伴った、形作られた生き方において全ての負荷を背負わされた状態へと常に巻き込まれ、それによって常に、神において、かつ神と共にある統一状態から遠ざかり、そして救いのない自家撞着と妥協の中に無理矢理押し入れられている、ということになる。

折原浩訳の問題点(101)

100回行ったと思ったら早速101回目も。
こういう原文にない変な表現を付けまくる翻訳を私は「デコトラ翻訳」と名付けました。昭和の遺物という意味でも。(笑)
「神的なものを周辺的な機能へと外化し疎隔する所為」ってまったく意味不明です。ともかく読みにくく意味が取れません。
またヴェーバーもヴェーバーで古仏教に「恩恵の状態の維持」などという考え方はありません!

原文
Dies ethische — positiv oder negativ — kämpfende Handeln aber ist für den kontemplativen Mystiker, der niemals »Werkzeug«, sondern nur »Gefäß« des Göttlichen sein will und kann, eine stete Veräußerlichung des Göttlichen an eine periphere Funktion: Nichthandeln, jedenfalls aber Vermeidung jedes rationalen Zweckhandelns (»Handeln mit einem Ziel«) als der gefährlichsten Form der Verweltlichung empfiehlt der alte Buddhismus als Vorbedingung der Erhaltung des Gnadenstandes.

折原訳
ところが、瞑想的神秘家は、けっして神の「道具」ではなく、もっぱら神の「容器」であろうとし、またそうでありうるから、積極的であれ消極的であれ、倫理的な闘いとしての行為は、神秘家にとってはつねに、神的なものを周辺的な機能へと外化し疎隔する所為にほかならない。古仏教は、恩恵の状態を維持する前提条件として、行為しないこと、いずれにせよ合理的な目的行為 (「ある目標をもった行為」) を、俗世への自己譲渡のもっとも危険な形式として回避するように勧奨している。

丸山訳
こうした倫理的で--積極的であれ消極的であれ--戦うような行為はしかし、一度も「神の道具」であったことはなく、そうではなくてただ神的なものの「器」であろうと欲しかつそれが可能である瞑想的な神秘主義者にとっては、常に神的なものを末梢的な機能として表に出すことである:古仏教は無行為を、つまりいずれの場合でもしかしながらもっとも危険な世俗化形態としてのあらゆる合理的な目的行為(「ある目的をもった行為」)を避けることを、恩恵の状態の維持[1] の前提条件として推奨している。

[1] 古仏教にそのような考え方は全くなく、例によって雑な類型化の例である。単純に対比すれば、キリスト教の神秘主義者の瞑想は神の光を自分の中に取り入れるという意味でプラスの瞑想、古仏教のそれはあらゆる執着・渇愛・煩悩を自分の中から取り去るマイナスの瞑想である。

折原浩訳の問題点(100)

100回記念。
ここはともかくこの訳者が原文を改変しまくって勝手な訳文に変える様を確認してください。ともかく学術論文の翻訳としては決してしてはいけないことばかりです。

(1)motorisch はモーター的な、ということで要するに精神的なものというより身体の運動的なものということ。折原訳の「動因からの」は意味不明。
(2)「そなえて「は」いる」などと原文にはないニュアンスを追加し、またNurを「但し」と訳しこれまた意味をすり替えている。
(3)一契機ではなく、einはFühlenにかかる。また「すぎない」というのも原文にはない。
(4)[救済目標として追求され、達成されるのではない]も原文にはない、余計な独自解釈の注釈。
(5)「生きられる場合のみである。」の「のみ」も原文にはない。

私の訳と比較して、いかにこの訳者が余計な改変や追加をして読者が原文を理解するのを妨げているかをご確認ください。

原文
Nur ist dies Fühlen ein sozusagen »motorisch« bedingtes. Es ist dann vorhanden, wenn er in dem Bewußtsein lebt, daß ihm das einheitlich auf Gott bezogene, rational ethische Handeln als Gottes Werkzeug gelingt.

折原訳
禁欲者にとっても、神的なものが感得され、意識され、把握されることは、中心的な意義をそなえてはいる。ただし、この感得は、いわば「動因からの」制約を被った一契機にすぎない [救済目標として追求され、達成されるのではない]。そうした感得が禁欲者に生まれるのは、統一的に神に関係づけられる合理的に倫理的な行為が、神の道具であるがゆえに首尾よく達成される、とかれに意識され、かれがそうした意識の裡に生きられる場合のみである。

丸山訳
ただ禁欲者にとってはこうした感情はいわゆる「身体運動的[motorisch]」に制約されたものである。そうった感情は、禁欲者にとって統一的に神に関係づけられた合理的・倫理的行為が、神の道具として上手く機能しているという意識にある時に生まれて来る。

折原浩訳の問題点(99)

ここも同じ間違いの繰り返し。gewendetに「~の言い回しでは」という意味はまったくありません。誤訳は繰り返されます。
後、「知と実践的心意との感情的統一」って書いている本人が意味分かるんですかね?大体「感情的統一」ではなく、「統一していると感じられること」ですけど。

原文
Dieses Ziel selbst besteht vielmehr ausschließlich in der einzigartigen Gefühlsqualität, praktisch gewendet: in der gefühlten Einheit von Wissen und praktischer Gesinnung, welche dem Mystiker die entscheidende Versicherung seines religiösen Gnadenstandes bietet.

折原訳
この目標そのものは、むしろもっぱら一種独特の感情状態に、実践的な言い回しでは、知と実践的心意との感情的統一の裡にある。この統一が、神秘家に、かれの宗教的恩恵状態を決定的に保証するのである。

丸山訳
こういった目標自体が成立するのはむしろ結局は唯一独特の感情の資質においてであり、それを実践的に方向付ければ:智と実践的な心情の統一を感じ取ることにあり、そういった統一は神秘主義者にとって、その者の宗教的な恩恵状態の決定的な保証を提供するのである。

折原浩訳の問題点(98)

また大文字で始まるHabenが出てきて、しかもここは»Haben«とまでヴェーバーはしているのに、折原訳は(創文社訳も)相変わらず「所持」という分かっていない訳。ヴェーバーは所持と言いたい時はちゃんとBesitzを使っています。ここで言われているのは、神秘的合一によって得られる「智」のことですが、ヴェーバーはそれが救済財と同じで貸方の一項目として存在することにより、そこから現世への位置決めや認識が得られると、完全に貸借対照表のイメージをここでも使っています。
それからこの辺りのWeltは全て「現世」と訳すべきですが、折原訳はWeltが単体で出て来るとすぐ「世界」になってしまっています。

原文
Seinem zentralen Wesen nach ist es vielmehr ein »Haben«, von dem aus jene praktische Neuorientierung zur Welt, unter Umständen auch neue kommunikable »Erkenntnisse« gewonnen werden.

折原訳
その核心にある本質からして、その知はむしろある「所持」であり、ここからして、世界にたいする実践的に新たな定位が、事情次第では、伝達が可能な新たな「認識」も、獲得される。

丸山訳
その中心的な本質からして、そういった智はむしろ、「貸方」の一項目なのであり、そこからあの実践的な現世への位置決めが、事情によってはまた新しい人に伝えることが可能な「認識」も勝ち取られる。

折原浩訳の問題点(97)

ここもまた、Habitusの意味がきちんと捉えられていないので、Gefühlshabitusが「感情の特定の習性」という意味不明の訳になってしまっています。
それから訳注に書きましたが、やはりヴェーバーは瞑想すらもキリスト教的「神秘的合一」でまとめてしまっています。仏教においては「無」の心には神も仏もないと思いますが。

原文
Die Kontemplation dagegen ist primär das Suchen eines »Ruhens« im Göttlichen und nur in ihm. Nichthandeln, in letzter Konsequenz Nichtdenken, Entleerung von allem, was irgendwie an die »Welt« erinnert, jedenfalls absolutes Minimisieren alles äußeren und inneren Tuns sind der Weg, denjenigen inneren Zustand zu erreichen, der als Besitz des Göttlichen, als unio mystica mit ihm, genossen wird: einen spezifischen Gefühlshabitus also, der ein »Wissen« zu vermitteln scheint.

折原訳
ところで、瞑想とはまず、神的なもののなかに、しかもそこにのみ、ある「安息」を求めることである。行為しないこと、突き詰めれば思考すらしないこと、なにほどか「現世」を思い出させるものは全て払拭して、ある空無の状態に到達すること、いずれにせよ全ての外的および内的行為を徹底して極小化して止まないことが、神的なものの所有、つまり神との「神秘的合一」として享受される内面的状態に到達する道である。したがって、この状態は、感情の特定の習性ではあるが、ある種の「知」を伝達する状態とも見られる。

丸山訳
それに対して瞑想とは、主として神的なものの中に、そしてただその中に「静寂」を求めるものである。それは行為しないこと、最終的には考えないこと、なんであれ多少であっても「現世」を思い出させるものを全て排除すること、いずれの場合でも全ての外的・内的な行為を絶対的に最小化することであり、そういったことが、神的なものの所有として、つまりその者においての神秘的合一[unio mystica[1]]として享受される、内的な状態に到達するための道なのである:その内的状態とはつまり特別な感情においての恩寵による魂の性向[Gefühlshabitus]であり、それがある「智」[Wissen]を導くように見えるのである[2]

[1] 神秘主義者の体験として言われる、神とその者とが一つに合一した状態のこと。

[2] この辺りの「瞑想」の説明、例によってキリスト教的「神秘的合一」で全てをまとめてしまっているが、例えば仏教の禅での瞑想の説明としてはナンセンスである。

折原浩訳の問題点(96)

ここもまた、辞書をきちんと確認せず、何となく似ている単語から間違った意味をでっち上げてしまったもの。
unausgesetzt は「間断なく、不断の」という意味ですが、折原訳は「前提としている」と訳してしまっています。vorausgesetztと混同しています。

原文
Der weltablehnende Asket hat mindestens die negative innere Beziehung unausgesetzten Kampfes zur »Welt«. Man spricht deshalb bei ihm zweckmäßigerweise von »Weltablehnung«, nicht von »Weltflucht«, die vielmehr den kontemplativen Mystiker kennzeichnet.

折原訳
現世拒否的禁欲者は、少なくとも「現世」にたいする闘いを前提としている点で、「現世」にたいする否定的な内面的関係を保持している。したがって、かれについては「現世逃避」ではなく「現世拒否」を語ったほうが、当をえている。「現世逃避」はむしろ、瞑想的神秘家を特徴づけるのに相応しい言い方である。

丸山訳
現世を拒絶する禁欲者は、少なくとも「現世」との絶え間ない戦いの内面においての否定的な関係を保持している。それ故にそういった禁欲者については「現世拒絶」という言い方がふさわしく、よりむしろ瞑想的な神秘思想家を示しているような「現世逃避」はふさわしくない。

折原浩訳の問題点(95)

ここのwacheの訳の問題。折原訳は「醒めた」としていますが、問題はその前に出て来たeine nüchterne Kindererzeugungも「醒めた子どもづくり」としていること。後者は訳すなら「情欲に溺れない」「節度ある」くらいだと思います。私は「醒めた」を見ると、漁父の辞の「衆人皆酔、我独メタリ」を思いだし、「酒に酔っていない」というイメージが浮かびます。ここで言っているwacheは新約聖書に出て来る「(神の国はいつ来るか分からないから)目覚めていなさい」とか、J. S. バッハのカンタータの「目覚めよと呼ぶ声あり Wachet auf, ruft uns die Stimme」とかそちらのイメージだと思います。

原文
Der »innerweltliche Asket« ist ein Rationalist sowohl in dem Sinn rationaler Systematisierung seiner eigenen persönlichen Lebensführung, wie in dem Sinn der Ablehnung alles ethisch Irrationalen, sei es Künstlerischen, sei es persönlich Gefühlsmäßigen innerhalb der Welt und ihrer Ordnung. Stets aber bleibt das spezifische Ziel vor allem: »wache« methodische Beherrschung der eigenen Lebensführung.

折原訳
「現世内的禁欲者」は、かれ自身の即人的な生き方を合理的に体系化するという意味でも、倫理的に非合理なものを、芸術家的なものであれ、現世とその秩序の内部における即人的感情であれ、ことごとく拒否するという意味でも、合理主義者である。とりわけ、自分自身の生き方にたいする「醒めた」方法的制御が、現世内的禁欲者に特有の恒常的な目標である。

丸山訳
「現世内禁欲者」はその本人の個人的生活実践の合理的な体系化という意味でも、また全ての倫理的に非合理的なもの、それが芸術家的なものであれ、現世とその秩序の内部での個人としての感情的なものであれ、それらの拒絶という意味でも、合理主義者である。しかしその場合でも常に第一に優先されるべき特別の目的が残っている:自分自身の生活実践に対して「目覚めている」秩序ある自制である。

折原浩訳の問題点(94)

ここでは、ヴェーバーはVerpönt ist (忌むべきは、斥けられるべきは)で始まる文を5回繰り返しています。これは明らかに山上の垂訓の Selig sind…(幸いなるかな、~の者は)などの文体模写(パスティーシュ)です。なので余計な接続詞や、第一に、第二に、などを付けずに、「忌むべきは、…」で統一して訳すべきと思います。それに個人への倫理的な戒告なので「厳禁される」も合っていない訳だと思います。

それからここでのGewaltは明らかに暴力であって、「個々人の権力行使」って意味不明です。ここでは明らかに私的復讐禁止の話ですから。それから久し振りに「即人的」が復活しました。この前の文章でsachlichと「即物的」と訳しているので、これでこの語の折原訳における位置付けが分かりました。

原文
Verpönt ist Gewalt des Einzelnen gegen Menschen, aus Leidenschaft oder Rachsucht, überhaupt aus persönlichen Motiven — gottgewollt aber die rationale Niederhaltung und Züchtigung der Sünde und Widerspenstigkeit im zweckvoll geordneten Staate.

折原訳
第四に、他人にたいする個々人の権力行使は、激情からであれ、復讐欲からであれ、およそ即人的な動機に発するかぎり、厳禁される。とはいえ、合目的的に秩序づけられた国家において、罪と反抗を合理的に禁圧し懲戒することは、やはり神意に適う処置である。

丸山訳
忌むべきは、個々の者の他人に対しての暴力であり、激情からであれ、復讐が目的であれ、また一般的に個人的な動機によるものであれ--しかし合目的な制度を備えた国家における、犯罪と反抗の合理的な抑圧は神意に適うものである。