折原浩訳の問題点(192)

ここはデコトラと、また原文の順番を勝手に変えて読んでまったく理解出来ない日本語訳にしている例。
(1)Inappellabilitätは裁判用語で確かに「控訴不可能性」という意味ですが、それを「なにか高次の法廷に訴えて、理念や規範に照らして議論する、ということができない。」とまで勝手に解釈する必要はまったくありません。要するに共通の何かに基づいて反駁することが出来ない、という比喩に過ぎません。
(2)元々一つの文が折原訳では5文に変えられ、しかも順番が入れ換えられています。しかも「宗教性の側からはおそらく、臆病さと結びついた特別の非情さのもっとも深刻な一形式と見なされるにちがいない。」という結論部が説明もなく先に呈示され、その後から間の説明が追加される、という意味不明の翻訳です。
(3)「当の所作の帰結と正当性」はその規範の帰結と正当性です。

原文
Aber die subjektivistische Inappellabilität jedes Geschmacksurteils über menschliche Beziehungen, wie es in der Tat der Kultus des Ästhetentums anzuerziehen pflegt, kann gegenüber der religiös-ethischen Norm, der sich der Einzelne, ethisch ablehnend, aber im Wissen von der eigenen Kreatürlichkeit menschlich miterlebend, für sich selbst ebenso unterstellt wie denjenigen, dessen Tun er im Einzelfall beurteilt und deren Konsequenzen und Berechtigung vor allem dem Prinzip nach diskussionsfähig erscheinen, von der Religiosität sehr wohl als eine tiefste Form von spezifischer Lieblosigkeit, verbunden mit Feigheit, angesehen werden.

折原訳
人間の諸関係にかんする趣味判断は、およそいかなるものであれ、なにか高次の法廷に訴えて、理念や規範に照らして議論する、ということができない。そのかぎりで主観主義的な性格をそなえている。この性格は、じっさいには通例、審美家の流儀を崇め立てることによって育成されるが、宗教性の側からはおそらく、臆病さと結びついた特別の非情さのもっとも深刻な一形式と見なされるにちがいない。宗教的-倫理的な規範に対しては、個々人は、たとえそれを倫理的に拒否する場合にも、人間としての自分の被造物性をわきまえれば、それを、他人と共に体験し、自分自身にとっても、他人にとっても、まったく同様に服すべき規範と感得する。かれが、他人の所作につき、個々の場合に判断をくだすとしても、当の所作の帰結と正当性については、とくに原則に照らして議論することが可能と思われている。

丸山訳
しかし全ての人間の諸関係についての趣味的判断が、主観的に[何か共通の土台の上で]論駁することが不可能であるということは、それは唯美主義崇拝において実際にしばしば教え込まれることになりがちであるが、宗教的・倫理的規範に対しては、個々の者が倫理的に拒否的であるとしても、しかし自身の被造物性について知ることによって[それを語る人と]共に体験することで、自分自身については同様にそういった規範に服するのであり、それは個々人がその行為を個々の事例で判断する者達がそうするのと同様であり、かつその結果と正当化がまずは原理原則に従って議論可能であるように見えるのであり、信仰の立場からは、まさしく臆病さと結び付いた特別な冷酷さのもっとも深刻な形態と見なされるのである。

 

折原浩訳の問題点(191)

ここは訳の本文というより、謎のルビ問題。Sensationenに何故かフランス語読みの「サンサシオン」というルビを振っています。それがフランス語の別な意味を残した単語ならそういうのもあるかもしれませんが、Sensation自体はドイツ語になっており、読みもゼンザチオンです。しかもここは複数形ですから、余計に「サンサシオン」というルビは不要かつ不適です。単に自分がフランス語知っているとひけらかしたいようにしか見えません。

「宗教ゲマインシャフテン」丸山大幅改訳、R10

「宗教ゲマインシャフテン」丸山大幅改訳版のR10を公開します。これで90%まで行き、後1回で最後まで行きます。
最後まで行ったら前から述べているように前半3割の中途半端に折原訳を残している所を見直します。
今回の箇所は「性と宗教」であり、全体の中ではかなり脱線気味に感じます。
なお訳注が現時点で953まで行っています。最終的には1000を超えるでしょう。これは創文社訳の訳注の2.5倍の数であり、また全集の注よりもはるかにカバーしている範囲が広いですし、また全集の注の誤りと思われる部分を修正したりもしています。

20260910_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R10.pdf

折原浩訳の問題点(190)

(1)若い夫→若いって一体いくつまで?ここは元の申命記の記述を見れば、すぐに「新婚の夫」「結婚したばかりの夫」であることは自明です。
(2)「性交中絶」→ほとんどラテン語の直訳ですが、いわゆる「膣外射精」です。オナンが兄嫁と交わって、精液を大地に流した、ということ。
(3)「意味づけから合理的に [自己目的として意識的に] 解き放たれ、分離された」→良く分からない訳と補足です。要するに、性愛というのは宗教的には好ましくないんだけれど、子孫を作るという合理的な目的のためには許容されており、しかしながらその目的を逸脱する行為にはまったく譲歩していない、ということです。
(4)「若い夫は愛妻を悦ばせるべきだ」→元の聖書が「めとった妻を喜ばせねばならない」なのに比べると、妙にエロチックです。(笑)しかもヴェーバーの原文は「その者がその新婚の愛を享受すべきだ」ですので、原文にないことを勝手に想像して書いています。

原文
Die altjüdische Motivierung der Freiheit des jungen Ehemanns von politischen Pflichten: daß er seiner jungen Liebe froh werden solle, steht sehr vereinsamt. Der alttestamentliche Fluch über die Sünde Onans (coitus interruptus), den die katholische Perhorreszierung der sterilisierten Begattung als Todsünde übernahm, zeigt, daß auch im Judentum keine Konzessionen an die in bezug auf die Folgen rational von jenem Sinn losgelöste Erotik gemacht wurden.

折原訳
古代ユダヤには、若い夫は愛妻を悦ばせるべきだという理由で、政治的 [従軍]義務から解放する考え も見受けられるが、これは、その箇所にしか出てこない純然たる孤立例である。旧約聖書はオナンの罪 (性交中絶) を呪詛し、このスタンスは、避妊性交を死罪として忌避するカトリック教会にも継承されているが、そうした呪詛には、ユダヤ教もまた、[性交の] 結果にかんする上記の [労働力および祖先崇拝の担い手の養育のためという] 意味づけから合理的に [自己目的として意識的に] 解き放たれ、分離された [純然たる]エロスに、なんら譲歩してはいない、という事情が示されている。

丸山訳
古代ユダヤの新婚の夫が政治的義務[兵役]から自由にされるという動機付け:つまりその者がその新婚の愛を享受すべき[1] というのは、それ自体は非常に孤立したものである。旧約聖書でのオナンの罪[2](膣外射精による避妊)への呪詛は、カトリック教会がそれを性行為での避妊を死に値する罪として忌み嫌うという形で受け継いでいるが、それが示しているのは、ユダヤ教においてもまた、先ほど言及した理由から合理的に緩められた性愛[に関しての制限]について、その結果に関してはまったく何の譲歩もしていなかった、ということである。

[1] 旧約聖書、申命記 24:5「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」

[2] 旧約聖書、創世記 38:9。

折原浩訳の問題点(189)

Weibは成人女性のことなので、前の箇所も含めて折原訳の「婦女子」はおかしいです。大体「婦女子」は成人男性から見て弱い保護すべき存在という言い方であって、その意味でも適当ではないです。
それから例によって折原訳には訳注がありませんが、ここでヴェーバーが挙げている例は色々怪しいです。私の訳注を参照してください。

原文
Das individuelle Weib ist dann »heilig«, die Gattung Gefäß der Sünde. Immerhin: fast alle orgiastische und Mystagogenpropaganda einschließlich der des Dionysos hat wenigstens temporär und relativ eine »Emanzipation« der Frauen befördert, wo nicht andere Religionstendenzen und die Ablehnung hysterischer Frauenprophetie sie überdeckten, wie bei den Jüngern Buddhas, ebenso wie im Christentum schon bei Paulus, oder mönchische Weiberfurcht, wie am extremsten bei Sexualneurasthenikern z.B. Alfons von Liguori.

折原訳
そういう場合、個々の婦女子は「神聖」でも、類としての婦女子は「罪の器」である。とはいえ、ほとんど全ての狂騒的布教や、ディオニュソスの密儀も含む密儀師の布教は、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人の「解放」を促進している。この点、別の宗教的傾向性、とりわけ特有のヒステリー症候をともなう女性の預言にたいする拒否の姿勢が、前景に出て、背後の事実を覆い隠していることも、しばしば見受けられる。たとえば、ブッダの弟子や、キリスト教ではすでにパウロの場合、あるいは修道士的な女人恐怖症、とりわけ極端な場合には、アルフォンス・フォン・リグオーリに見られるような、性神経症の域にも達する女人恐怖症など、事例に事欠かない。

丸山訳

個々の女性がそういった場合で「聖なる」者であったとしても、人間の種別としての女性は罪の器である。ともかくも:ほとんど全てのオルギア的・秘教司祭としての宣教は、ディオニューソスのそれを含めて、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人達の「解放」を促進していたし、それは他の宗教の諸傾向と女性によるヒステリー的な予言への拒絶がそれを覆い隠していない場合そうであり、そういった覆い隠しの例としてはブッダの弟子達があり[1]、また同様にキリスト教でも既にパウロの時にそうであり[2]、あるいは修道士の女性恐怖症、もっとも極端な例として例えばアルフォンソ・デ・リゴリ[3]の性的な神経衰弱[4] がある。

[1] ここは前の箇所の「ブッダが宗教的資質に富んだ女性を足元にひれ伏させるのを好んだ」という箇所を合わせて、ブッダ自身が女性拒否ではなくその弟子達が女性を拒否したと読めるが、実際はブッダ自身が女性の出家に対して否定的であり、ブッダの養母であるマハーパジャーパティが多くの女性を連れて出家を願った時に、ブッダは三度これを拒絶している。

[2] ここについても、パウロは1コリント11:5で条件は付けているものの女性の預言自体は認めているので例としては不適切。おそらくは1コリント14:34–35の「女性は集会では黙っていろ」の部分を誇張しているように見える。

[3] Alfonso Maria de’ Liguori、1696~1787年、イタリアの司教でカトリックの聖人。

[4] アルフォンソ・デ・リゴリは、極端な女性嫌いで、顔を合わせることも(実の母親を含めて)、握手などの身体的接触も避けた。しかしこれは性的神経衰弱ではなく、現代では「強迫観念(良心の呵責 / Scrupulosity)」、一種の強迫性障害と解釈されている。

ヴェーバー当時(1890年代)の「ゲマインデ」の実態資料

加藤房雄先生の本に、「ゲマインデ事典」というのが出て来て、ヴェーバーが土地問題・農業問題を扱う時に参照した統計資料のようです。原題は”Gemeindelexikon für das Königreich Preußen”です。インターネット上で現物を見られます。例えば、https://www.digitale-sammlungen.de/de/view/bsb11480933?page=12,13

これの中身の分類が、今日でいう地方自治体だけではなく、
Stadtgemeinden(都市型ゲマインデ)
Landgemeinden(農村型ゲマインデ)
Gutsbezirke(大土地所有領域)
となっています。都市ゲマインデがおそらく地方都市など、農村ゲマインデは多くは名前の通り、村でしょうが、その中には、昔のマルク共同体が単に名前を変えただけのものも多く含まれていて、旧マルク共同体の権利者集団が Realgemeinde / Altgemeindeとして新しいゲマインデの中でも依然として権利をそのまま保持した構成員として残っている例があります。
これだけを見ても、折原浩の間違った説明「ゲマインデは地域ゲマインシャフトでゲゼルシャフト化を契機としたもの」という説明がおかしいことは明らかです。ヴェーバーはゲマインデについて何か新しい定義を与えたりはしておらず、当時の歴史的実体としてのゲマインデを使っていることに再度注意すべきです。また、地方自治体とはまったく関係のない大地主の所領も含めて全体でゲマインデとしていることにも注意すべきです。
ただStadtgemeindenのここでの使い方を見て、「宗教ゲマインシャフテン」に出てくるのはやっぱり「都市ゲマインデ」でいいんだ、と勝手に勘違いされると困りますが。(笑)宗教ゲマインシャフテンに出てくるStadtgemeindeは明らかに一つの都市がある教団の拠点化することですから。(そもそもヴェーバーの原文は以下で、Stadtgemeindeという言い方すらしていません。
Und in beiden Fällen hemmten jene Momente sogar, sahen wir, die Entwicklung der Stadt zu einer »Gemeinde« weit stärker als die des Dorfes.)

折原浩訳の問題点(188)

まずはモーセの十戒が出てくるのですから、Ehebruchは言うまでもなく、「姦通」ではなく「姦淫」と訳すべきです。Hurereiもこちらも「姦淫」ですが、「性的放縦」といった曖昧な意味ではなく、具体的な売春とかでしょう。
それよりもっと罪が重く、とても社会学者が訳したと思えないのは、Univiraを「一夫一婦制」としていること。一夫一婦制は前に出て来ていますが、ヴェーバーはわざわざ「離婚の許されない一夫一婦制」としていますし、ギリシア人とローマ人で自由な離婚があったことも言及されていますから、単なる単婚制と厳密に区別してウニヴィラという単語を使っているのに、全く分かっていない語訳です。要するに女性が離婚した後、別の男性と結婚してもそれは「一夫一婦制」の範疇ですが、Univiraは生涯で一人の男性としか婚姻関係を持たなかった女性のことです。創文社訳が「一夫制」とまあまあ正しく訳しているのをとんでもない誤訳にしています。

原文
Der mosaische Dekalog wie die hinduistischen heiligen Rechte und die relativistischen Laienethiken der indischen Mönchsprophetien verpönen den Ehebruch, und die Prophetie Jesus geht mit der Forderung der absoluten und unlöslichen Monogamie in der Einschränkung der zulässigen legitimen Sexualität über alle anderen hinaus; Ehebruch und Hurerei gelten im frühesten Christentum fast als die einzige absolute Todsünde, die »Univira« als ein Spezifikum der Christengemeinde innerhalb der durch Hellenen und Römer zwar zur Monogamie, aber mit freier Scheidung, erzogenen mittelländischen Antike.

折原訳
モーセの十戒も、インドの聖法も、同じくインドにおける修行僧預言の相対主義的な平信徒倫理も、姦通を厳禁している。また、イエスの預言は、容認される正当な性的関係については、離別を認めない絶対的な一夫一婦制を要求する点にかけて、他の全ての預言を凌駕している。最初期のキリスト教では、姦通と性的放縦が、ほとんど唯一の絶対的死罪とみなされ、「一夫一婦制(ウニヴィラ)」が、地中海的古代の内部で、キリスト教ゲマインデに特有の、それを見分けるひとつの識別標識をなしていた。古代地中海世界のゲマインデ一般は、なるほどギリシア人とローマ人から一夫一婦制を教わってはいたが、自由な離別による抜け道もあった。

丸山訳

モーセの十戒も、同様にインドの聖なる法と、インドの修行僧の予言の相対主義的な平信徒諸倫理も、姦淫を厳禁しており、そしてイエスの預言は、絶対的で別れることを許さない単婚制[一夫一婦制、モノガミー]の要求について、容認されうる正当な性愛の制限という点において、他の全ての預言を凌駕している;姦淫と売春は最初期のキリスト教においては、ほとんど唯一の絶対的な死に値する罪とされており、「ウニヴィラ[1]」は、ギリシア人とローマ人から単婚制という制度を受け入れてはいたが、しかし自由な離婚も存在していた、古代地中海世界において、キリスト教団を他から見分ける識別手段となっていた。

[1] 古代ローマにおいて、生涯一人の夫を守り、あるいは夫と死別しても他の男と再婚しなかった女性を貞淑な妻の理想として Univira (一人の男しか持たなかった女性の意味)と呼んで称賛した。

折原浩訳の問題点(187)

ここは上野千鶴子先生が大喜びで問題にしそうな(笑)、女性差別的誤訳。
再度のweil以下の主語のsieはdie irreguläre Erotikなのに、折原センセは「婦女子の本性は」として、「君子の内面的平静を掻き乱してやまない」までも女性のせいにしています。

原文
Für die christliche und indische außerweltliche Askese versteht sich die ablehnende Stellung von selbst. Die mystischen indischen Prophetien der absoluten kontemplativen Weltflucht lehnen natürlich als Voraussetzung der vollen Erlösung jede Sexualbeziehung ab. Aber auch der konfuzianischen Ethik der absoluten Weltanpassung gilt die irreguläre Erotik als minderwertige Irrationalität, weil sie die innere Contenance des Gentleman stört und das Weib ein irrationales, schwer zu regierendes Wesen ist.

折原訳
キリスト教的およびインドの現世外的禁欲にとって、拒否のスタンスは、自明のことである。インドの絶対的な瞑想的遁世の神秘的預言は、当然ながら、十全な救済の前提条件として、いかなる性的関係も拒否する。ところが、儒教倫理の絶対的現世適応にとっても、[婚姻関係によって規制されない]非正規のエロスは、価値に乏しい非合理な所業とみなされる。それというのも、婦女子の本性は、非合理的で、制御し難く、君子の内面的平静を掻き乱してやまない、と見られるからである。

丸山訳
キリスト教とインドの現世外的禁欲にとっては、性愛を拒否する態度は自明なことである。絶対的・瞑想的な現世逃避の神秘主義的なインドの諸予言は、当然のことながら、完全な救済の前提条件として、全ての性的関係を拒絶する。しかし絶対的な現世適合の儒教倫理においても、非合法の性愛は低劣な非合理性と見なされ、その理由はそういった性愛は、士君子の内的な節度を妨げ、女性一般は非合理的で扱いにくい存在であるとされたからである[1]

[1] いわゆる「論語」陽貨第十七の「女子と小人は養い難し」をヴェ-バーが言い換えているもの。

 

折原浩訳の問題点(186)

(1) 折原センセは、Sekteについては常にゼクテとカタカナで訳していますが、訳注に書いたように、ヴェーバーは現在の宗教社会学では区別される、教派とセクトの両方にSekteを用いています。ここのロシアのフリスト派なんかは明らかにセクトです。
(2) 「舞踏狂騒の随伴結果」→こんなこと書いていません。前の文にひきずられています。
(3) 「聖域として保護される売春宿を旅商人に提供する」→「宗教的に保護された商人のための売春宿の役割を引き受ける」
(4) 何故同じBordellという単語を「売春宿」と「遊郭」に訳し分ける必要性があるのか。というか「遊郭」ってあなたいつの時代の人?(笑)

原文
So von modernen Sekten noch bei der Tanzorgiastik der Chlysten, — was, wie wir sahen, die Veranlassung zur Bildung der Skopzensekte gab, die eben diese askesefeindliche Konsequenz auszuschalten trachtete. Gewisse, viel mißdeutete Institutionen, so namentlich die Tempelprostitution, knüpfen an orgiastische Kulte an. In ihrer praktischen Funktion hat die Tempelprostitution dann sehr häufig die Rolle eines Bordells für die reisenden, sakral geschützten Kaufleute angenommen, die ja auch heute der Natur der Sache nach überall typisches Bordellpublikum sind. Die Zurückführung der sexuellen außeralltäglichen Orgiastik auf eine endogene Sippen- oder Stammes-»Promiskuität« als eigentlich primitive Institution des Alltags ist schlechthin töricht.

折原訳
近代のゼクテについて見ると、たとえばクリュスティ派 による舞踏狂騒の随伴結果が挙げられる。すでにわれわれが見たとおり 、これが契機となり、まさにそうした反禁欲的帰結の排除をめざして、去勢派(スコプティ)が形成されたのである。また、ある種の制度、とくに神殿売春は、しばしば誤って解釈されているが、本来、狂騒的礼拝と結びついている。その場合、神殿売春は、実践的機能においてはきわめてしばしば、聖域として保護される売春宿を旅商人に提供する役割を果たした。じっさい旅商人は、事柄の本性上、今日なお、遊廓の典型的な常連客である。非日常的な性的狂騒の起原を、本来原初的な日常の制度である氏族ないし部族の内部に発生する「雑婚」に求める所見 は、見当違いも甚だしい。

丸山訳

近代のセクト[1] についてでもなお、フリスト派[2] における舞踏オルギアの例がある、--既に我々が見た通り、そのセクトがスコプツィ[3][去勢派]の形成のきっかけになっており、そのスコプツィはまさにそうした禁欲の敵となるような帰結を排除しようと志したのである。ある種の、非常に誤解されている諸制度、特に神殿売春は、それはオルギア的礼拝と結び付いている。その実際の機能においては、それはそれ以外に非常にしばしば、旅行者である、宗教的に保護された商人のための売春宿の役割を引き受けるようになっており、そういった旅商人は確かに今日でもまた、事物の本性に従って、どこにおいても売春宿の典型的な顧客である。性的な非日常的オルギアの起源として、氏族や種族の内部的な、本来原初的な日常的制度としての「乱婚」に求める[4] のは、端的に馬鹿げている。

[1] ヴェーバーはSekteで、主としてプロテスタントの諸教派を意味し、時としてここの例のように現代の宗教社会学の分類では「セクト」(Sekte=教派に比べよりラジカルで排他的なもの)ものも含めている。例えばゲルト・タイセン著、廣石望訳、「イエス運動--ある価値革命の社会史」では教会-教派-セクト-カルト集団の四分類を取っている。(該当書、P.159)

[2] 1645年にロシアでダニロ・フィリポヴィッチによって創設されたセクトであり、厳格な禁欲主義を取る一方で、ラジェーニエという儀式で、激しく踊り回転しながら、自らを鞭打ってでトランス状態に入り、そのことで聖霊が自らの体に宿ると信じていた。

[3] 訳注422参照。

[4] バッハオーフェンの説。

折原浩訳の問題点(185)

ここは、まずは冒頭の文の主語、Erで男性名詞を受けていることが示されているのに、折原訳では「それは」。
次に、Saktireligiositätはシャクティ信仰なのに、折原訳では「性力崇拝的宗教性」という一体それ何ですか?という訳。ここに、religiositätと来ると何とかの一つ覚えで「宗教性」と訳す弊害が出ています。大体「性力崇拝的宗教性で性的な陶酔の機能が残っています」って当たり前でトートロジーでしかありません。シャクティ信仰の中に女性原理とか生殖力への崇拝とかありますが、「性力崇拝的宗教性」とするのはあまりにひどいです。

原文
Er behält diese Funktion auch in relativ systematisierter Religiosität gelegentlich ganz direkt und beabsichtigt. So bei der Saktireligiosität in Indien noch fast nach Art der alten Phalluskulte und Riten der die Zeugung (der Menschen, des Viehs, des Samenkorns) beherrschenden sehr verschiedenen Funktionsgottheiten. Teils und häufiger aber ist die erotische Orgie wesentlich ungewollte Folgeerscheinung der durch andere orgiastische Mittel, namentlich Tanz, erzeugten Ekstase.

折原訳
それは、相対的には体系化された宗教性においても、ときとしてまったく直接的また意図的に、この機能を維持している。インドの性力崇拝的宗教性においては、いまなお、古い男根崇拝や、生殖 (人間、家畜、穀物の種) を支配する多種多様な機能神崇拝の儀礼という流儀で、そうした機能が維持されている。ところが、性愛的な狂騒は、別の狂騒手段とくに舞踏によって生み出される陶酔の、もともとは意図されない随伴結果である場合もあり、むしろこのほうがいっそう頻繁である。

丸山訳
こうした性的な陶酔は、相対的に体系化された信仰においてもまた、時としては全く直接的にかつ意図的にこうした働きを保っている。インドのシャクティ信仰においては、未だにほとんど古代の男根崇拝と、生殖(人間の、家畜の、穀種の)を司る非常に多様の機能神の儀式のやり方に従ったそういった働きが残っている。しかしながら部分的には、そしてよりしばしば性愛的なオルギアは、他のオルギア的手段の本質的に望んではいなかった随伴現象であり、その手段とは特に舞踏によって引き起こされたエクスタシーである。