もはや日常業務化している、折原誤訳の指摘。
(1) 何故imperialistisch(帝国主義的、皇帝主義的)が「知性主義的」になるのか。まったく注意深さというものが感じられない。
(2) 最後のwelche以下は、知識人層についての付加的な説明を書いているだけであり、折原訳のように「グレゴリウスの改革運動ならびに [皇帝の俗権に対抗する]教皇の権力闘争は、台頭する市民層と提携して封建的権力に対抗した貴族的知識層のイデオロギーによって担われていた。」などと前にかかるように訳すのは明らかな誤訳。第一、ゲルフ・ギベリンという形でイタリアの都市国家が教皇と皇帝の対立に参加したのはグレゴリウス7世の改革運動よりも後の話で時代が合わない。
Die imperialistischen Bildungsschichten der karolingischen, ottonischen und salisch-staufischen Zeit wirkten im Sinne einer kaiserlich-theokratischen Kulturorganisation, so wie die ossipijanischen Mönche im 16. Jahrhundert in Rußland es taten, vor allem aber war die gregorianische Reformbewegung und der Machtkampf des Papsttums getragen von der Ideologie einer vornehmen Intellektuellenschicht, welche mit dem entstehenden Bürgertum gemeinsam Front gegen die feudalen Gewalten machte.
折原訳
カロリンガ朝、オットー朝、およびザリエル-シュタウフェン朝の知性主義的教養層は、16世紀のロシアにおける聖ヨシフ派修道士がなしたのと同じように、皇帝による神政政治 に沿う方向で、文化を組織化するのに貢献した。とりわけ、グレゴリウスの改革運動ならびに [皇帝の俗権に対抗する]教皇の権力闘争は、台頭する市民層と提携して封建的権力に対抗した貴族的知識層のイデオロギーによって担われていた。
丸山訳
カロリング朝[1]、オットー朝[2]、そしてザーリアー・シュタウフェン朝[3]の皇帝主義的な教養層は、16世紀のロシアでのヨシフ・ヴォロコラムスキー派の修道士[4] がそうしたように、皇帝的-神権政治的な文化組織という意味で活動したのであるが、しかし取り分けその中でもグレゴリウス7世の改革運動[5] と教皇による権力闘争は、ある貴族の知識人層のイデオロギーによって担われていたのであり、そういった知識人層は成立しつつあった市民層と封建制的な権力に対抗する共同戦線を構築した[6] のである。
[1] 751年~10世紀にかけてのフランク王国の王朝で、カール大帝の元でヨーロッパの大部分を支配した。
[2] 919年~1024年での東フランク王国の王朝。イタリアやローマ教会を下において神聖ローマ帝国の基礎を築いた。
[3] 11~12世紀にかけてローマ王、ローマ皇帝となったフランケン地方の貴族の家系によるザーリアー朝と、12~13世紀の神聖ローマ帝国を統治したシュヴァーベン家による王朝であるシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)のこと。後者はフリードリヒ1世、2世の元で神聖ローマ帝国の全盛期を築いた。
[4] ヨシフ・ヴォロコラムスキーが15~16世紀のロシアで形成した修道院の修道士達。ヴォロコラムスキーは私有財産を肯定し、またツァーリによる専制を支持し、強い教会の権威を作り上げた。
[5] グレゴリウス7世によって11世紀に行われたカトリック教会の改革で、聖職者の世俗権力による叙任を禁止し、聖職者の妻帯やその地位の売買を禁じて綱紀粛正を図った。
[6] いわゆる教皇党(ゲルフ)、皇帝党(ギベリン)の争いのことを指していると思われる。市民が権力を握ったイタリアの都市国家が両派に分かれて覇権争いをした。しかしそのことは宗教の本質とはほぼ無関係である。
