また佐藤俊樹がヴェーバーにかこつけたくだらない本を出すようです。
「マックス・ウェーバー誕生 「組織の時代」の幕開け (講談社選書メチエ)
佐藤 俊樹 (著)」
Amazonに書いてあった説明を読んで、ほとんど吐き気がしてきました。既にこのブログで前の岩波新書を批判済みですが、それをまた性懲りもなくさらに脚色した本です。皆様、間違えても買わないように。
大体、この人この意味なし研究に科研費を使って何年もかけています。時間とお金の管理が出来ていないのはあなたでしょう。(笑)
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(1) menschenbezwingendenは「人間を圧倒するような」であり「人間として抑えようのない」ではありません。
(2) 「歓喜の叫びを」「行間から」「感得する」って日本語としてつながりません。
「行間を読む」は元の文章にははっきり書いていないことを読み解くことです。また「感得する」は「深い道理などをはっきりと感じ、悟ること」(明鏡国語辞典)です。ヴェーバーが言っているのはパウロ書簡のどの行を見ても、そこには律法から解放された圧倒的な喜びをすぐに感じ取ることが出来る、と言っているだけです。行間を読んだり、感得する必要性はまったくありません。日本語センスの怪しい方々に限って、国語辞書を引くという習慣がないように見えます。
Den menschenbezwingenden Jubel des aus dem hoffnungslosen »Sklavengesetz« mit dem Blut des Messias in die Freiheit Erkauften fühlen wir aus jeder Zeile, die Paulus schrieb. Die Möglichkeit christlicher Weltmission aber war die Folge. Ganz ebenso übernahmen die Puritaner gerade nicht das talmudische und auch nicht das alttestamentliche spezifisch jüdische rituelle Gesetz, sondern die sonstigen im Alten Testament bezeugten — schwankend, in welchem Umfang noch maßgebenden — Willensäußerungen Gottes, oft bis in Einzelheiten, und fügten sie zusammen mit den neutestamentlichen Normen.
折原訳
メシアの血によって、望みのない「奴隷律法」から自由の身へと贖い出された者たちの、人間として抑えようのない歓喜の叫びを、我々はパウロ書簡のどの行間からも感得する。キリスト教の世界伝道の可能性は、まさにそこで開けたのである。まったく同様に、ピューリタンが引き継いだものは、タルムードの律法や、旧約聖書中のユダヤ教に特有の儀礼的律法ではなく、旧約聖書に証示されている、まさにそれ以外の――どこまでが権威あるものかは、確定し難いが――しばしば細部にまでおよぶ神意の表明であり、しかもこれを、ピューリタンは、新約聖書の諸規範と接合したのである。
丸山訳
希望の持てない「奴隷律法」から、メシアの血によって自由へと購われたことへの人間を圧倒するほどの歓喜を、我々はパウロが書いたもののどの1行からも感じることが出来る。キリスト教の世界伝道の可能性はしかしその結果である。全く同様にピューリタン達が受け取ったのは、まさしくタルムードのそして旧約聖書の、特別にユダヤ的な儀式律法ではなく、そうではなくてその他の、旧約聖書にて証明された--どの範囲までが決定的なものなのかは流動的ではあるが--様々な神の意志の表示であり、それもしばしば個々の部分までであり、ピューリタン達はそれを新約聖書の規範とつなぎ合わせたのである。
— die übrigens (wie im Katholizismus) durchaus nicht universell anerkannt war —の所を、折原訳は「ちなみに、人間の不十分さは、ユダヤ教においては、どこまでも普遍的に認められたわけではなく、この点でカトリックの場合とは異なっていた。」と訳して、ユダヤ教に限定していますが、これは明らかな間違いで、universellは他の世界宗教においては、ということです。実際に「儒教と道教」でキリスト教の宣教師が人間の不完全さ=原罪を中国人に説いても、それはほとんど受け入れられなかった、というのが出て来ます。なので訳は「--それはその他の場合では(カトリックの教義におけるのと同様には)決して普遍的には認識されてはいなかったのであるが--」となります。
原文
Dann aber deshalb: weil hier in der Tat, wie im Katholizismus, das Tun des einzelnen Gesetzmäßigen ein Produzieren der eigenen Heilschancen ist, mag auch (hier wie dort) Gottes Gnade die menschliche Unzulänglichkeit — die übrigens (wie im Katholizismus) durchaus nicht universell anerkannt war — ergänzen müssen. Die kirchliche Anstaltsgnade war, seit dem Verfall der alten palästinensischen Beichte (theschuba) weit unentwickelter als im Katholizismus, und diese Selbstverantwortlichkeit und Mittlerlosigkeit gab der jüdischen Lebensführung in der Tat notwendig etwas wesentlich Eigenmethodischeres, Systematischeres als der durchschnittlichen katholischen.
折原訳
いまひとつには、ユダヤ教においても、じっさいにはカトリックの場合と同様、律法に適う個々の行為が、たとえ(双方いずれにおいても)人間の不十分さが神の恩恵によって補填されなければならないとしても、[それでもあくまで、人間の個々の行為が]自分の救済の可能性を生み出す[現実根拠と見なされている]という事情が、方法的-体系的禁欲への動機づけを弱めた。ちなみに、人間の不十分さは、ユダヤ教においては、どこまでも普遍的に認められたわけではなく、この点でカトリックの場合とは異なっていた。教会のアンシュタルト恩恵は、パレスチナにおける古い回心 の衰微以来、カトリックの場合に比してはるかに未発達のままであった。して、この [自分の外部にあるアンシュタルトには頼れず、自力で恩恵を獲得しなければならないという] 自己責任性と、仲保者の喪失とは、じっさいユダヤ教徒の生き方に、カトリック教徒の生き方に比べれば、本質上いっそうの自己方法性 [自分で自分を方法的に制御していく自律的な生き方] と、いっそうの体系性とを、与えずにはおかなかった。
丸山訳
しかしさらには以下の理由の故に:実際の所、ユダヤ教でもカトリックにおけるのと同様に、個々の律法に適った行為が、その者自身の救済のチャンスを産み出すものであるからであり、それはまた(ユダヤ教でもカトリックでも)神の恵みが、人間の不十分さを--それはその他の場合では(カトリックの教義におけるのと同様には)決して普遍的には認識されてはいなかったのであるが--補完しなければならなかったであろう。教会によるアンシュタルトしての恵みは、古い時代のパレスチナ式の回心[theschuba[1]]が衰退して以来、カトリックの場合と比べるとはるかに未発達であったし、こうしたユダヤ教においての自己責任性と仲介者が不在であったということは、ユダヤ人の生活実践に対して、平均的なカトリック教徒に比べて、実際の所必然的に何か本質的に自分で方法体系を定めていく態度や、体系的なものを与えていた
[1] 一般的な表記はתשובה/Teshuvah/テシューバー。単なる懺悔・告解[Beichte]ではなく、間違った方向から引き返し、正しい道に戻るというニュアンス。
ここの”welche als einzelne mit anderen einzelnen verglichen und aufgerechnet wird”を折原訳は「あくまでも個々の行為が、他の個々の行為と比較され、[正負が]相殺される」と訳していますが、aufgerechnetはgegenが付いていれば「~に対して相殺される」という意味になりますが、ここはmitなので、他の項目と一緒に帳簿(当座勘定)に記載される、と言っているだけです。結果として二つが相殺になる場合もあり、逆に善行ないしは悪行の増強となる場合もあり、片方だけを言っているのではありません。
原文
Unrichtig ist es, wenn gesagt wird: nur die Äußerlichkeit der Gesetzesbefolgung sei religiöses Erfordernis gewesen. Das ist der naturgemäße Durchschnitt. Aber das Postulat stand höher. Allerdings aber ist es die einzelne Handlung, welche als einzelne mit anderen einzelnen verglichen und aufgerechnet wird. Und wenn auch die Auffassung der Beziehung zu Gott als eines Kontokorrentes (sie findet sich übrigens gelegentlich auch bei Puritanern) der einzelnen guten und bösen Werke mit ungewissem Gesamtergebnis nicht die offiziell herrschende war, so ist allerdings die zentrale methodisch-asketische Orientiertheit der Lebensführung, wie sie den Puritanismus kennzeichnet, von den schon erwähnten Gründen abgesehen, einmal infolge der doppelten Moral eine unvermeidlich ungleich schwächere als dort.
折原訳
宗教上の要件は、律法遵守の外形だけだった、と主張されるとすれば、それは正しくない。必然的に生ずる平均は、そうしたところに落ち着かざるをえなかったとしても、要請される水準はもっと高かった。とはいえ、あくまでも個々の行為が、他の個々の行為と比較され、[正負が]相殺される、という事情に、変わりはない。そして、神との関係を、全体としての結果はどうなるか分からない、個々の善行と悪行との差引残高として割り出す、そうした捉え方(ちなみにそれは、ピューリタンにも時折みられる)が、ユダヤ教において公式に支配的となったわけではないとしても、ピューリタンを特徴づけているような、生き方を中心から方法的・禁欲的に方向づけ、体系化していく生活態度は、すでに論じた理由は別としても、ひとつには対内道徳と対外道徳との二重性の結果、ピューリタンの場合に比べてはるかに弱まらざるをえなかった。
丸山訳
次のことは間違いである:律法を遵守しているという外観だけが宗教的な要求である、と主張することである。それは自然な平均的な考え方である。しかしながら、ユダヤ教での要求水準はもっと高いものであった。しかしもちろん、個々の行為が、別の個々の行為と比較され、一緒に帳簿に記載される、ということである。そしてまた、神との関係を一種の当座勘定として把握することが(そういった把握の仕方は、時折またピューリタンの間でも見出されるが)、個々の善き業と悪しき業を未確定の総決算とセットにして考えるというやり方が、公的に支配的なものではなかったとしても、その場合でももちろん、生活実践が方法体系的・禁欲的なものを中心にして方向付けられているということは、それはピューリタニズムの特徴であるが、これまで論じて来た様々な根拠から判断すれば、一つには[対内倫理と対外倫理の]二重倫理の結果としてユダヤ人においてはそれは、ピューリタンと比べ避け難く、同質ではなくより弱いものでしかなかった。
ずっと、ユダヤ人の対内倫理と対外倫理の二重性の話をしているのに、折原訳はVerkehrをずっと「交渉」と訳しています。いうまでもなく、ここでは「取引」の意味で使われています。英語で言えばtrafficです。
最後の「[「証された」救済が来世に期待できる、というわけではない]」も余計な補足と思います。そういうのは読者が自分で考えることです。
後は間違いとまでは言いませんが、
nüchtern → 「醒めた」、より「冷静に」(この訳者はwachも必ずといっていいくらい「醒めた」と訳します。)
»sachlich«→「事柄に即する」という意味の良く分からない訳ではなく「私情を交えず」「事務的に」ぐらい。
原文
Er hatte ein weit schwereres inneres Schicksal zu überwinden als der seiner »Erwählung« für das Jenseits sichere Puritaner. Der Einzelne muß sich mit der Tatsache der Verheißungswidrigkeit der bestehenden Welt, solange Gott sie zuläßt, eben abfinden und sich genügen lassen, wenn Gott ihm Gnade und Erfolg schenkt im Verkehr mit den Feinden seines Volks, denen er, wenn er den Ansprüchen seiner Rabbinen genügen will, legal und nüchtern rechnend, ohne Liebe und ohne Haß, »sachlich« gegenübertritt und sie so behandelt, wie es ihm Gott erlaubt hat.
折原訳
彼は、自分が「彼岸において選ばれていること」を確信しているピューリタンに比して、はるかに苛酷な内面的運命に耐えなければならなかった。個々人は、現存する世界が、いかに神の約束には反する実情にあっても、神がそれを許容しているかぎり、その実情と折り合いをつけなければならない。そのうえで、民族の敵たちとの交渉にあたって、ラビたちの要求にしたがおうとすれば、当の敵たちを、合法的かつ醒めた計算にもとづき、愛も憎しみも交えず、「事柄に即する」態度で、神に許されるとおりに、処遇しなければならない。じっさいにそのとおりに振る舞って、神がかれに恩恵と成果を贈ってくれるのであれば、そのかぎりで満足しなければならないのである [「証された」救済が来世に期待できる、というわけではない]。
丸山訳
そのユダヤ人は、自分の来世での救済へと「選ばれていること」について確信しているピューリタンよりも、はるかに過酷な内的な運命を耐え忍ばなければならなかった。個々の者は、今ある現世の、神の諸約束とは反する現状に、その現状を神が認める限りにおいて、満足し良しとしなければならなかったし、神がその者に、その民族の敵達との取引において恵みと成果を贈る場合は、その者は敵達について、その者がラビ達からの様々な要求を満たそうと欲する場合は、合法的にかつ冷静に計算して、愛も憎しみもなく、「私情を交えず[sachlich]」対処し、それによる恵みと成果については、神がその者に許し給うたものとして扱うのである。
1.(in der Diaspora schon lange vor der Zerstörung des Tempelkults)の所、折原訳の「(神殿礼拝が破壊されるずっと以前から、離散状態にあって)」は意味不明です。ディアスポラはエルサレムの神殿がまだ存在している時代からあったので、「ディアスポラにおいては」と言っているだけです。創文社訳は「すでに神殿礼拝が破壊されるはるか以前から、離散状態(ディアスポラ)にあるユダヤ教徒に見られた」ときちんと訳しているのに、また勝手な変更を加えて意味不明にしてしまっています。
2.「純粋な教説と命令の性格を厳守し [て、形象化を排し] たこと」の「厳守」とか「形象化を排し」なんて原文にはありません。「純粋な教説・命令の性格において」と言っているだけ。
原文
Über die letztere ist hier nicht zu reden, da weder ihre kabbalistische noch ihre chassidistische noch andere Formen typische Motive für das praktische Verhalten der Juden zur Wirtschaft abgegeben haben, so symptomatisch wichtig die beiden genannten religiösen Erzeugnisse sind. Die »asketische« Abwendung von allem Künstlerischen hat, neben dem zweiten Gebot, welches in der Tat das Umschlagen der s.Z. weit entwickelten Angelologie in künstlerische Formung hinderte, vor allem in dem reinen Lehr- und Gebotscharakter des typischen synagogalen Gottesdienstes (in der Diaspora schon lange vor der Zerstörung des Tempelkults) seinen Grund: schon die Prophetie hatte gerade die plastischen Elemente des Kults herabgesetzt, die orgiastischen und orchestrischen im Erfolg so gut wie gänzlich ausgemerzt.
折原訳
この要素について、ここで語る必要はないであろう。それというのも、ユダヤ教のカバラ的形態も、ハッシディズム的形態も、それ以外の形態も、(殊に前二者の宗教的所産は、ユダヤ教の徴候を示すものとして重要ではあるが)こと経済にたいするユダヤ教徒の実践的行動には、類型的な動機を提供するものではなかったからである。芸術的なものの全てからの「禁欲的」離反の根拠は、十戒の第二戒――これはじっさい、当時盛んにおこなわれていた天使論が、芸術的造形に転化するのを阻止した――とならんで、とくにユダヤ教の会堂における典型的礼拝が、(神殿礼拝が破壊されるずっと以前から、離散状態にあって)純粋な教説と命令の性格を厳守し [て、形象化を排し] たこと、にあった。すでに預言が、礼拝の他ならぬ造形的要素を貶価し、狂騒や歌舞音曲の類も、結果として完全に削除したに等しい。その点では、ローマ文化もピューリタニズムも (動機はまったく異なるが) 結果においては同じような道を進んでいる。
丸山訳
ユダヤ教の神秘主義の他の要素についてここで語るべきではないだろう。というのは神秘主義のカバラ[1] 的、ハシディズム[2] 的、さらには他の諸形態も、ユダヤ人の経済に対しての実際の行動について、何らの典型的な諸動機を作り出すこともなかったからであり、その二つは[ユダヤ教が産み出した]徴候としては重要ではあるが。全ての芸術的なものから禁欲的に背を向けることは、十戒の2番目の命令[偶像禁止]と並んで、それは実際に当時発達していた天使に関する教えが芸術的な形に作り替えられるのを妨げたが、取り分け典型的なシナゴーグでの礼拝の純粋な教説・命令の性格において(ディアスポラにおいては既に神殿礼拝の破壊よりもはるか前から)その理由があり:既に預言がまさしく祭式においての造形的な要素の価値を引き下げ、結果的にオルギア的・管弦的な要素もほぼ完全に消し去ったのである。
[1] ユダヤ教に基づく神秘主義思想。旧約聖書の内容を神秘的に解釈した、創造論、終末論、メシア論を含む秘教的思想。元々は文字では伝えきれない部分を口伝で師匠から弟子に伝えるという意味があり、律法遵守と必ずしも矛盾していなかった。16世紀頃になると、キリスト教徒の中にもカバラの影響を受けて、神秘主義的に聖書を解釈するクリスチャンカバラが生まれた。
[2] イスラエル・ベン・エリエゼルが18世紀に創始した超正当派に属するユダヤ教運動で、敬虔主義運動とも訳される。当初はハプスブルク帝国の中のガリツィア(現在のウクライナとポーランドの一部)を中心としていた。非常に強く伝統主義的でかつ神秘主義的な傾向を持っていた。
最近、ゾンバルトの「ユダヤ人と経済生活」を少しずつ読んでいますが、どうもヴェーバーの資本主義精神がプロテスタンティズムから来ている、というのより、ゾンバルトの方が正しいように思い始めています。その辺り、ちょっとGeminiに聞いてみた結果を公開します。
ここは一発ネタ。Stadtmenschが「都会人」はないでしょう。(笑)シティ派のユダヤ人みたいな変なイメージが湧いてきます。
原文
Der fromme Jude schon der Zeit des Josias, erst recht der nachexilische Jude ist ein Stadtmensch. Das ganze Gesetz ist darauf zugeschnitten. Weil ein Schächter notwendig war, lebte der orthodoxe Jude nicht isoliert, sondern möglichst in Gemeinden (auch jetzt Spezifikum der Orthodoxie gegenüber den Reformjuden z.B. in Amerika).
折原訳
敬虔なユダヤ教徒は、すでにヨシアの時代にも、そうとすれば捕囚後のユダヤ教徒はなおのこと、都会人である。 律法全体は、この関係に照準を合わせている。律法に則った屠殺者が必要だったので、正統派のユダヤ教徒は、孤立しては生きられず、できるかぎりゲマインデに結集して生活した (この点がいまでも、正統派のユダヤ教徒を、たとえばアメリカの改革派ユダヤ教徒から区別する特徴となっている)。
丸山訳
敬虔なユダヤ人は既にヨシヤの時代[1] において、捕囚後のユダヤ人ならなおさら、都市の住民である。律法の全体はこうした状況に合わせて編成されている。律法の定める通りに動物を処理する屠殺者が不可欠だったため、正統なユダヤ教徒は孤立して住むことはなく、可能な限り教団として結束して生活した(例えばアメリカでは、このことが正統派ユダヤ教徒と改革派[2] ユダヤ教徒を識別する目印となっている)。
[1] 紀元前7世紀後半。
[2] 19世紀はじめぐらいからドイツに起こった、律法のルールと生活の簡素化を推進し、またディアスポラをそのまま受け止め、各地域のローカルな言語を礼拝に取り入れたりした。イギリス、アメリカその他にも波及した。
ここは再登場の誤訳:Bibelfestigkeit × 聖書堅持 ○ 聖書に精通していること から引き摺られて他も誤訳しているもので、jüdische Gesetzeskenntnisは「律法認識」ではなく「律法の知識」です。最初のイエスのもそうです。
また、笑えるのが前回聖書の引用に勝手に追加していたんですが、今回はヴェーバーが聖書の2つの引用を混ぜて「羊が井戸に落ちた」としているのを、片方にだけ合わせて「羊が穴の中に落ちた」と変えていることです。聖書との距離感が一定ではありません、というかもう一箇所あるのに気付いてなかったんでしょうが。
それから、全集の訳注チェックのおかげで今ゾンバルトの「ユダヤ人と経済生活」を読んでいるんですが、それを読んでいるとここでのヴェーバーが書いていることまったく難しくなくてそのまま理解出来ます。
原文
Seine Art der Gesetzeserfüllung und Gesetzeskenntnis ist jener Durchschnitt, welchen der praktisch arbeitende Mann, der auch am Sabbat nicht sein Schaf im Brunnen liegen lassen kann, wirklich leistet. Die für den eigentlich Frommen obligatorische jüdische Gesetzeskenntnis dagegen geht, schon in der Art der Jugenderziehung, nicht nur quantitativ, sondern qualitativ weit über die Bibelfestigkeit des Puritaners hinaus und ist nur allenfalls mit den Ritualgesetzen der Inder und Perser zu vergleichen, nur daß sie eben in weit größerem Umfang neben bloßen rituellen und Tabunormen auch sittliche Gebote enthält.
折原訳
イエスの律法遵守と律法認識の仕方は、安息日にも穴に落ちた羊を放っておくわけにはいかない 、じっさいに働いて生活している人々が、現実に達成できる平均水準にひとしい。それに対して、ユダヤ教において本来の敬虔な信徒に義務として課されている律法認識は、すでに青少年教育のやり方についてみても、量的にばかりか、質的にも、ピューリタンにおける聖書堅持をはるかに凌駕している。ユダヤ教の律法と [戒律の総量において] どうにか比肩できるのは、インド人やペルシア人の儀礼戒律のみであるが、ただ、ユダヤ教の律法認識は、たんなる儀礼規範やタブー規範とならび、道徳上の命令をも [インド人やペルシア人の場合に比べて] はるかに広範囲に含んでいるにすぎない。
丸山訳
イエスのやり方での律法遵守と律法知識は、実際に働いている人で、また安息日にその羊が井戸の中に落ちたのをそのままにすることは出来ない[1] 人、そういった平均的な人が実際に達成出来るものである。それに対して、本来は敬虔な者のための義務的なユダヤ人の律法についての知識は、既に若者への教育の仕方において、単に量的にだけではなく、質的にもピューリタンの聖書に対する精通のレベルをはるかに超えるものであり、そしてただ何とかそれに比肩するのは、インド人とペルシア人の儀式の戒律ぐらいであり、ただ違うのはユダヤ人の律法の知識はまさしく、単なる儀式上のそしてタブーとしての規範以外にはるかに広範囲の倫理上の命令を含んでいるということである。
[1] マタイによる福音書 12:11-12「そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」 また、ルカによる福音書 14:5「そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」」ヴェーバーはこの2つを混ぜ合わせて引用している。
ここは翻訳における注意深さという点に関してです。
Spätjudentumを創文社訳も折原訳も「後期ユダヤ教」と訳していますが、これだとまるで中世におけるユダヤ教のように響きます。実際は訳注に書いた通り、ヴェーバーの当時は、イエスの時代のユダヤ教がキリスト教に切り替わっていく時期という意味で「後期」とされた、ということであり、現在ではもはや使われていない時代区分です。
ちなみに「ナザレの片田舎から」も例によって勝手な追加。元が聖書の句ですから、勝手に訳者の解釈を付け加えるべきではありません。
Gegen eben diesen intellektualistischen, schriftgelehrtenhaften Zug des genuinen Spätjudentums lehnt sich Jesus auf. Nicht die in ihn hineininterpretierten »proletarischen« Instinkte, sondern die Art der Gläubigkeit und das Niveau der Gesetzeserfüllung des Kleinstädters und Landhandwerkers, im Gegensatz zu den Virtuosen des Gesetzeswissens ist es, was in dieser Hinsicht seinen Gegensatz bildet gegen die auf dem Boden der Polis Jerusalem gewachsenen Schichten, die ganz wie jeder Großstadtbürger der Antike fragen: »Was kann von Nazareth Gutes kommen?«
折原訳
真正な後期ユダヤ教の、まさにこの知性主義的で律法学者流の特徴的傾向に、イエスは反撥している。イエスが、都市国家エルサレムを基盤として成長を遂げ、古代のどの大都市の市民ともまったく同様に、「ナザレの片田舎から、なにか良いことが出て来るのか?」と問う社会層に対して、敵対するのは、 [昨今の解釈が]かれのなかに読み込もうとする「プロレタリア」的本能によるのではなく、小都市市民と地方手工業者の信仰ならびに律法遵守の、達人的な律法知識とは異なるあり方と水準ゆえである。
丸山訳
真正なイエスの時代のユダヤ教[1] の、まさにこうした主知主義的な、律法学者的な性向に対して、イエスは反抗している。[そういた反抗の元となっているのは]彼においての、そう解釈される「プロレタリア的な」本能ではなく、信心深さのあり方と小都市の住民と農村部の職人達の律法遵守の水準であり、それは律法を熟知している宗教的練達者[Virtuosen]に対置されており、それがこの観点でイエスの都市国家エルサレムを基盤として成長した社会層[2] への反対を形作っているのであり、そうした社会層は全ての古代における大都市住民と同様に問いかけるのである:「ナザレから何か良いものが出るだろうか?[3]」
[1] 元はSpätjudentumだが、「spät=後期」という言い方はヴェーバー当時のものであり、ここではいわゆる「第二神殿時代」(BC516~AD70)の中のイエスと同時代の、ぐらいの意味。Spätjudentumは当時の歴史区分で要するにユダヤ教がキリスト教に切り替わるというキリスト教側から見た時代区分で、決して「中世の」とかの意味ではない。
[2] 主としてファリサイ派やサドカイ派。
[3] ヨハネ1:46「するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。」