立川武蔵はインド学・仏教学のそれなりの大家だと思っていましたが、氏の「般若心経の思想史」(法蔵館文庫)を読んでいて啞然としました。何とマックス・ヴェーバーがユダヤ人であると、しかもご丁寧に2回も書いています。そしてヴェーバーがキリスト教では人は神の道具、仏教やヒンドゥー教では神の容器にした、と説明しています。ちなみに参照しているのは青木書店のウェーバー社会学論集に入っている中間考察です。文学博士、民族博物館名誉教授だそうですが、本当に信じられないほどひどいです。これ自体が日本で長くヴェーバーがその言っていることの正しさも検証されず盲目的に受容されて来たことの証拠の一つだと思います。
折原浩訳の問題点(194)
ここも実に盛大なデコトラ。「仮象への囚われにすぎず」「預言者はこれを拒否せざるをえないからである。」なんてどこにも書いてありません。
また「人間の業」もここでは変で、「人間の作品、作ったもの」です。「これがいつかは表明される」って一体誰が表明するんですか?単に「いつかは現れて来る」ということです。
原文
Vor allem aber wirkt bei der eigentlichen Prophetie zweierlei in antiästhetischer Richtung. Einmal die ihr stets selbstverständliche Ablehnung der Orgiastik und, meist, der Magie. Die ursprünglich magisch bedingt gewesene jüdische Scheu vor dem »Bildnis und Gleichnis« deutet die Prophetie spiritualistisch aus ihrem absolut überweltlichen Gottesbegriff heraus um. Und irgendwann zeigt sich dann die Spannung der zentral ethisch religiösen Orientierung der prophetischen Religion gegen das »Menschenwerk«, die aus dessen, vom Propheten aus gesehen, Scheinerlösungsleistung folgt. Die Spannung ist um so unversöhnlicher, je überweltlicher und gleichzeitig je heiliger der prophetisch verkündete Gott vorgestellt wird.
折原訳
ところが、本来の意味における預言のもとで、反審美的な方向に作用する要因には、つぎの二種類がある。ひとつは、狂騒の拒否、たいていの場合には、魔術の拒否であり、こうした拒否は、預言にとってはつねに自明のことであろう。ユダヤ人の「形像と画像」にたいする嫌悪は、本源的には魔術によって制約されていたが、それを預言者は、彼らの絶対的に現世超越的な神観から、霊性主義的に解釈しなおしている。そのさい、預言者的宗教の中心にある倫理的宗教性への準拠関係から、「人間の業」にたいする緊張が生まれて、これがいつかは表明されることにもなるが、そうなるのも、「人間の業」に救済への寄与を認めるような見地は、預言者から見れば仮象への囚われにすぎず、預言者はこれを拒否せざるをえないからである。この緊張は、預言者の告知する神が、いっそう現世超越的な、同時にいっそう神聖な神として、表象されればされるほど、それだけいっそう非和解的となる。
丸山訳
しかし本来の預言においては、反美学的な方向に作用するのは、次の二つである。まずは預言については常に自明のことであるオルギアと、そして多くの場合魔術の拒否である。根源的には魔術的に条件付けられていたユダヤ人の「[神の]似姿」への嫌悪を、預言は聖霊主義的に、絶対的な超現世的な神の概念からそれを新たに解釈している。そして[二つ目として]いつの日にか現れて来るのは、預言的宗教の中心においての倫理的な敬虔さへの志向においての、「人間の作品」に対しての緊張関係で、それは、預言者から見た場合、「人間の作品」の見せかけだけの救済の働きから出てくるのである。そういった緊張関係は、預言として告げられた神が、より超現世的で同時により神聖なものとされればされるほど、それだけいっそう宥和することが出来ないものとなる。
折原浩訳の問題点(193)
(1)書籍宗教→Buchreligionをこう訳しているけど、このBuchは聖なる本=経典ということ。
(2)「書籍宗教への移行にともなってつねにもたらされるものである。」→これまた原文にはないナンセンスを持ち込んでいます。折原訳だと書籍宗教ではない前段階があったことになってしまいます。nach sich ziehenは直訳すれば自分の方へ引っ張るということ。つまりそういうことが結果として生じる、ということ。
原文
Die so bedingte religiöse Entwertung der Kunst geht naturgemäß im ganzen ziemlich genau parallel mit der Entwertung der magischen, orgiastischen, ekstatischen und ritualistischen Elemente der Religiosität zugunsten von asketischen und spiritualistisch-mystischen. Ferner mit dem rationalen und literarischen Charakter der Priester- und Laienbildung, wie ihn eine Buchreligion stets nach sich zu ziehen pflegt.
折原訳
芸術にたいする宗教的貶価は、以上のような制約のもとにあるので、それは当然のことながら、宗教性における魔術的・狂騒的・エクスタシー的・また儀礼主義的な要素の貶価、それゆえ、禁欲的また霊性主義的-神秘的要素の優越と、全体としてはかなり正確に比例して進展する。さらにはまた、祭司教育と平信徒教育の合理的また文献的性格が強まるのにも並行して進展するが、この性格は通例、書籍宗教への移行にともなってつねにもたらされるものである。
丸山訳
以上のような形で条件付けられた宗教の芸術に対する低い価値評価は、自然なこととして、禁欲的な、霊的・神秘主義的な要素を優先し、魔術的、オルギア的、エクスタシー的、そして儀式主義的な要素を低く見ることと、全体でかなりの程度までほぼ平行した現象となっている。さらには祭司・平信徒への教育の合理的で文献重視的な性格にも平行しており、そういった性格は経典宗教において常に傾向として見られるものである。
折原浩訳の問題点(192)
ここはデコトラと、また原文の順番を勝手に変えて読んでまったく理解出来ない日本語訳にしている例。
(1)Inappellabilitätは裁判用語で確かに「控訴不可能性」という意味ですが、それを「なにか高次の法廷に訴えて、理念や規範に照らして議論する、ということができない。」とまで勝手に解釈する必要はまったくありません。要するに共通の何かに基づいて反駁することが出来ない、という比喩に過ぎません。
(2)元々一つの文が折原訳では5文に変えられ、しかも順番が入れ換えられています。しかも「宗教性の側からはおそらく、臆病さと結びついた特別の非情さのもっとも深刻な一形式と見なされるにちがいない。」という結論部が説明もなく先に呈示され、その後から間の説明が追加される、という意味不明の翻訳です。
(3)「当の所作の帰結と正当性」はその規範の帰結と正当性です。
原文
Aber die subjektivistische Inappellabilität jedes Geschmacksurteils über menschliche Beziehungen, wie es in der Tat der Kultus des Ästhetentums anzuerziehen pflegt, kann gegenüber der religiös-ethischen Norm, der sich der Einzelne, ethisch ablehnend, aber im Wissen von der eigenen Kreatürlichkeit menschlich miterlebend, für sich selbst ebenso unterstellt wie denjenigen, dessen Tun er im Einzelfall beurteilt und deren Konsequenzen und Berechtigung vor allem dem Prinzip nach diskussionsfähig erscheinen, von der Religiosität sehr wohl als eine tiefste Form von spezifischer Lieblosigkeit, verbunden mit Feigheit, angesehen werden.
折原訳
人間の諸関係にかんする趣味判断は、およそいかなるものであれ、なにか高次の法廷に訴えて、理念や規範に照らして議論する、ということができない。そのかぎりで主観主義的な性格をそなえている。この性格は、じっさいには通例、審美家の流儀を崇め立てることによって育成されるが、宗教性の側からはおそらく、臆病さと結びついた特別の非情さのもっとも深刻な一形式と見なされるにちがいない。宗教的-倫理的な規範に対しては、個々人は、たとえそれを倫理的に拒否する場合にも、人間としての自分の被造物性をわきまえれば、それを、他人と共に体験し、自分自身にとっても、他人にとっても、まったく同様に服すべき規範と感得する。かれが、他人の所作につき、個々の場合に判断をくだすとしても、当の所作の帰結と正当性については、とくに原則に照らして議論することが可能と思われている。
丸山訳
しかし全ての人間の諸関係についての趣味的判断が、主観的に[何か共通の土台の上で]論駁することが不可能であるということは、それは唯美主義崇拝において実際にしばしば教え込まれることになりがちであるが、宗教的・倫理的規範に対しては、個々の者が倫理的に拒否的であるとしても、しかし自身の被造物性について知ることによって[それを語る人と]共に体験することで、自分自身については同様にそういった規範に服するのであり、それは個々人がその行為を個々の事例で判断する者達がそうするのと同様であり、かつその結果と正当化がまずは原理原則に従って議論可能であるように見えるのであり、信仰の立場からは、まさしく臆病さと結び付いた特別な冷酷さのもっとも深刻な形態と見なされるのである。
折原浩訳の問題点(191)
「宗教ゲマインシャフテン」丸山大幅改訳、R10
「宗教ゲマインシャフテン」丸山大幅改訳版のR10を公開します。これで90%まで行き、後1回で最後まで行きます。
最後まで行ったら前から述べているように前半3割の中途半端に折原訳を残している所を見直します。
今回の箇所は「性と宗教」であり、全体の中ではかなり脱線気味に感じます。
なお訳注が現時点で953まで行っています。最終的には1000を超えるでしょう。これは創文社訳の訳注の2.5倍の数であり、また全集の注よりもはるかにカバーしている範囲が広いですし、また全集の注の誤りと思われる部分を修正したりもしています。
折原浩訳の問題点(190)
(1)若い夫→若いって一体いくつまで?ここは元の申命記の記述を見れば、すぐに「新婚の夫」「結婚したばかりの夫」であることは自明です。
(2)「性交中絶」→ほとんどラテン語の直訳ですが、いわゆる「膣外射精」です。オナンが兄嫁と交わって、精液を大地に流した、ということ。
(3)「意味づけから合理的に [自己目的として意識的に] 解き放たれ、分離された」→良く分からない訳と補足です。要するに、性愛というのは宗教的には好ましくないんだけれど、子孫を作るという合理的な目的のためには許容されており、しかしながらその目的を逸脱する行為にはまったく譲歩していない、ということです。
(4)「若い夫は愛妻を悦ばせるべきだ」→元の聖書が「めとった妻を喜ばせねばならない」なのに比べると、妙にエロチックです。(笑)しかもヴェーバーの原文は「その者がその新婚の愛を享受すべきだ」ですので、原文にないことを勝手に想像して書いています。
原文
Die altjüdische Motivierung der Freiheit des jungen Ehemanns von politischen Pflichten: daß er seiner jungen Liebe froh werden solle, steht sehr vereinsamt. Der alttestamentliche Fluch über die Sünde Onans (coitus interruptus), den die katholische Perhorreszierung der sterilisierten Begattung als Todsünde übernahm, zeigt, daß auch im Judentum keine Konzessionen an die in bezug auf die Folgen rational von jenem Sinn losgelöste Erotik gemacht wurden.
折原訳
古代ユダヤには、若い夫は愛妻を悦ばせるべきだという理由で、政治的 [従軍]義務から解放する考え も見受けられるが、これは、その箇所にしか出てこない純然たる孤立例である。旧約聖書はオナンの罪 (性交中絶) を呪詛し、このスタンスは、避妊性交を死罪として忌避するカトリック教会にも継承されているが、そうした呪詛には、ユダヤ教もまた、[性交の] 結果にかんする上記の [労働力および祖先崇拝の担い手の養育のためという] 意味づけから合理的に [自己目的として意識的に] 解き放たれ、分離された [純然たる]エロスに、なんら譲歩してはいない、という事情が示されている。
丸山訳
古代ユダヤの新婚の夫が政治的義務[兵役]から自由にされるという動機付け:つまりその者がその新婚の愛を享受すべき[1] というのは、それ自体は非常に孤立したものである。旧約聖書でのオナンの罪[2](膣外射精による避妊)への呪詛は、カトリック教会がそれを性行為での避妊を死に値する罪として忌み嫌うという形で受け継いでいるが、それが示しているのは、ユダヤ教においてもまた、先ほど言及した理由から合理的に緩められた性愛[に関しての制限]について、その結果に関してはまったく何の譲歩もしていなかった、ということである。
[1] 旧約聖書、申命記 24:5「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」
[2] 旧約聖書、創世記 38:9。
折原浩訳の問題点(189)
Weibは成人女性のことなので、前の箇所も含めて折原訳の「婦女子」はおかしいです。大体「婦女子」は成人男性から見て弱い保護すべき存在という言い方であって、その意味でも適当ではないです。
それから例によって折原訳には訳注がありませんが、ここでヴェーバーが挙げている例は色々怪しいです。私の訳注を参照してください。
原文
Das individuelle Weib ist dann »heilig«, die Gattung Gefäß der Sünde. Immerhin: fast alle orgiastische und Mystagogenpropaganda einschließlich der des Dionysos hat wenigstens temporär und relativ eine »Emanzipation« der Frauen befördert, wo nicht andere Religionstendenzen und die Ablehnung hysterischer Frauenprophetie sie überdeckten, wie bei den Jüngern Buddhas, ebenso wie im Christentum schon bei Paulus, oder mönchische Weiberfurcht, wie am extremsten bei Sexualneurasthenikern z.B. Alfons von Liguori.
折原訳
そういう場合、個々の婦女子は「神聖」でも、類としての婦女子は「罪の器」である。とはいえ、ほとんど全ての狂騒的布教や、ディオニュソスの密儀も含む密儀師の布教は、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人の「解放」を促進している。この点、別の宗教的傾向性、とりわけ特有のヒステリー症候をともなう女性の預言にたいする拒否の姿勢が、前景に出て、背後の事実を覆い隠していることも、しばしば見受けられる。たとえば、ブッダの弟子や、キリスト教ではすでにパウロの場合、あるいは修道士的な女人恐怖症、とりわけ極端な場合には、アルフォンス・フォン・リグオーリに見られるような、性神経症の域にも達する女人恐怖症など、事例に事欠かない。
丸山訳
個々の女性がそういった場合で「聖なる」者であったとしても、人間の種別としての女性は罪の器である。ともかくも:ほとんど全てのオルギア的・秘教司祭としての宣教は、ディオニューソスのそれを含めて、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人達の「解放」を促進していたし、それは他の宗教の諸傾向と女性によるヒステリー的な予言への拒絶がそれを覆い隠していない場合そうであり、そういった覆い隠しの例としてはブッダの弟子達があり[1]、また同様にキリスト教でも既にパウロの時にそうであり[2]、あるいは修道士の女性恐怖症、もっとも極端な例として例えばアルフォンソ・デ・リゴリ[3]の性的な神経衰弱[4] がある。
[1] ここは前の箇所の「ブッダが宗教的資質に富んだ女性を足元にひれ伏させるのを好んだ」という箇所を合わせて、ブッダ自身が女性拒否ではなくその弟子達が女性を拒否したと読めるが、実際はブッダ自身が女性の出家に対して否定的であり、ブッダの養母であるマハーパジャーパティが多くの女性を連れて出家を願った時に、ブッダは三度これを拒絶している。
[2] ここについても、パウロは1コリント11:5で条件は付けているものの女性の預言自体は認めているので例としては不適切。おそらくは1コリント14:34–35の「女性は集会では黙っていろ」の部分を誇張しているように見える。
[3] Alfonso Maria de’ Liguori、1696~1787年、イタリアの司教でカトリックの聖人。
[4] アルフォンソ・デ・リゴリは、極端な女性嫌いで、顔を合わせることも(実の母親を含めて)、握手などの身体的接触も避けた。しかしこれは性的神経衰弱ではなく、現代では「強迫観念(良心の呵責 / Scrupulosity)」、一種の強迫性障害と解釈されている。
ヴェーバー当時(1890年代)の「ゲマインデ」の実態資料
加藤房雄先生の本に、「ゲマインデ事典」というのが出て来て、ヴェーバーが土地問題・農業問題を扱う時に参照した統計資料のようです。原題は”Gemeindelexikon für das Königreich Preußen”です。インターネット上で現物を見られます。例えば、https://www.digitale-sammlungen.de/de/view/bsb11480933?page=12,13
これの中身の分類が、今日でいう地方自治体だけではなく、
Stadtgemeinden(都市型ゲマインデ)
Landgemeinden(農村型ゲマインデ)
Gutsbezirke(大土地所有領域)
となっています。都市ゲマインデがおそらく地方都市など、農村ゲマインデは多くは名前の通り、村でしょうが、その中には、昔のマルク共同体が単に名前を変えただけのものも多く含まれていて、旧マルク共同体の権利者集団が Realgemeinde / Altgemeindeとして新しいゲマインデの中でも依然として権利をそのまま保持した構成員として残っている例があります。
これだけを見ても、折原浩の間違った説明「ゲマインデは地域ゲマインシャフトでゲゼルシャフト化を契機としたもの」という説明がおかしいことは明らかです。ヴェーバーはゲマインデについて何か新しい定義を与えたりはしておらず、当時の歴史的実体としてのゲマインデを使っていることに再度注意すべきです。また、地方自治体とはまったく関係のない大地主の所領も含めて全体でゲマインデとしていることにも注意すべきです。
ただStadtgemeindenのここでの使い方を見て、「宗教ゲマインシャフテン」に出てくるのはやっぱり「都市ゲマインデ」でいいんだ、と勝手に勘違いされると困りますが。(笑)宗教ゲマインシャフテンに出てくるStadtgemeindeは明らかに一つの都市がある教団の拠点化することですから。(そもそもヴェーバーの原文は以下で、Stadtgemeindeという言い方すらしていません。
Und in beiden Fällen hemmten jene Momente sogar, sahen wir, die Entwicklung der Stadt zu einer »Gemeinde« weit stärker als die des Dorfes.)
折原浩訳の問題点(188)
まずはモーセの十戒が出てくるのですから、Ehebruchは言うまでもなく、「姦通」ではなく「姦淫」と訳すべきです。Hurereiもこちらも「姦淫」ですが、「性的放縦」といった曖昧な意味ではなく、具体的な売春とかでしょう。
それよりもっと罪が重く、とても社会学者が訳したと思えないのは、Univiraを「一夫一婦制」としていること。一夫一婦制は前に出て来ていますが、ヴェーバーはわざわざ「離婚の許されない一夫一婦制」としていますし、ギリシア人とローマ人で自由な離婚があったことも言及されていますから、単なる単婚制と厳密に区別してウニヴィラという単語を使っているのに、全く分かっていない語訳です。要するに女性が離婚した後、別の男性と結婚してもそれは「一夫一婦制」の範疇ですが、Univiraは生涯で一人の男性としか婚姻関係を持たなかった女性のことです。創文社訳が「一夫制」とまあまあ正しく訳しているのをとんでもない誤訳にしています。
原文
Der mosaische Dekalog wie die hinduistischen heiligen Rechte und die relativistischen Laienethiken der indischen Mönchsprophetien verpönen den Ehebruch, und die Prophetie Jesus geht mit der Forderung der absoluten und unlöslichen Monogamie in der Einschränkung der zulässigen legitimen Sexualität über alle anderen hinaus; Ehebruch und Hurerei gelten im frühesten Christentum fast als die einzige absolute Todsünde, die »Univira« als ein Spezifikum der Christengemeinde innerhalb der durch Hellenen und Römer zwar zur Monogamie, aber mit freier Scheidung, erzogenen mittelländischen Antike.
折原訳
モーセの十戒も、インドの聖法も、同じくインドにおける修行僧預言の相対主義的な平信徒倫理も、姦通を厳禁している。また、イエスの預言は、容認される正当な性的関係については、離別を認めない絶対的な一夫一婦制を要求する点にかけて、他の全ての預言を凌駕している。最初期のキリスト教では、姦通と性的放縦が、ほとんど唯一の絶対的死罪とみなされ、「一夫一婦制(ウニヴィラ)」が、地中海的古代の内部で、キリスト教ゲマインデに特有の、それを見分けるひとつの識別標識をなしていた。古代地中海世界のゲマインデ一般は、なるほどギリシア人とローマ人から一夫一婦制を教わってはいたが、自由な離別による抜け道もあった。
丸山訳
モーセの十戒も、同様にインドの聖なる法と、インドの修行僧の予言の相対主義的な平信徒諸倫理も、姦淫を厳禁しており、そしてイエスの預言は、絶対的で別れることを許さない単婚制[一夫一婦制、モノガミー]の要求について、容認されうる正当な性愛の制限という点において、他の全ての預言を凌駕している;姦淫と売春は最初期のキリスト教においては、ほとんど唯一の絶対的な死に値する罪とされており、「ウニヴィラ[1]」は、ギリシア人とローマ人から単婚制という制度を受け入れてはいたが、しかし自由な離婚も存在していた、古代地中海世界において、キリスト教団を他から見分ける識別手段となっていた。
[1] 古代ローマにおいて、生涯一人の夫を守り、あるいは夫と死別しても他の男と再婚しなかった女性を貞淑な妻の理想として Univira (一人の男しか持たなかった女性の意味)と呼んで称賛した。
