折原浩訳の問題点(175)

8月はもうノルマ達成なのに、誤訳は次々に出て来てまるで誤訳椀子そば状態です。(笑)

(1)「地表上いたるところで」を何故かそれ以下の先頭においていますが、überhaupt aber zahlreiche で明らかに一回切れるので、勝手に前に持っていってはいけません。「特にロシアでの、様々に異なった動機を持ち、また世界の非常に様々な地域にて見られる諸教派」です。
(2)「政治権力との間に鋭い葛藤が生じた」→勝手に補うべきではありません。要するに兵役拒否自体が各所で摩擦を引き起こしたと言っているのであり、政治権力だけとの問題ではありません。それよりこんなどうでもいい不要な補足するぐらいなら、私が付けたような訳注を付けるべきで、そうでないと読んでいる人には背景が分かりません。

原文
Und die ihm entsprechende, tolerante Zulassung Andersdenkender hatte in Pennsylvanien selbst die Quäker zunächst zu einer immer peinlicher empfundenen Wahlkreisgeometrie, schließlich aber zur Abdikation vom Mitregiment gezwungen. Der grundsätzlich passive Apolitismus, wie ihn typisch das genuine Mennonitentum und ähnlich die meisten täuferischen Gemeinden, überhaupt aber zahlreiche, besonders russische, Sekten in verschieden motivierter Art, in den verschiedensten Teilen der Erde festgehalten haben, hat bei der absoluten Fügsamkeit, welche aus der Verwerfung der Gewaltsamkeit folgt, zu akuten Konflikten vornehmlich nur da geführt, wo persönliche militärische Dienstleistungen verlangt wurden.

折原訳
クエーカー教徒は、本拠のペンシルヴェニア州においてさえ、彼らに相応しい、自分とは異なった考え方をする者たちにたいする寛容につけ込まれて、まずは、彼らにとってはますます苦痛としか感じられない選挙区画制を押しつけられ、最終的には、共同統治権から締め出されてしまった。原則上受動的な非政治主義は、地表上いたるところで、典型的には純正なメノナイト派 に、類例としてはおおかたの洗礼派系ゲマインデに、一般的には数多のゼクテとくにロシアのゼクテに、さまざまな動機づけのもとで堅持された。そこでは、暴力放棄の結果として生ずる絶対的な従順のもとで、とくに即人的な軍事勤務が要求される場合にかぎって、政治権力との間に鋭い葛藤が生じた。

丸山訳
そしてクエーカー教徒達は、彼ららしい、他の考え方をする者達を寛容に許容するやり方によって、他ならぬペンシルベニアにおいてさえ、まず手始めに常に痛みを感じるような選挙区割りを押しつけられ[1]、最終的にはそれどころか共同統治から締め出されてしまった[2] のである。原理的な受動的非政治主義は、典型的なものとしては真正なメノナイトと、またそれと同様に大部分の再洗礼派系の諸教団に見られるが、一般的にはしかしまた多数の、特にロシアでの、様々に異なった動機を持ち、また世界の非常に様々な地域にて見られる諸教派が固持しているのであるが、その絶対的な従順さにおいて、それは暴力行使の否認から発生するのであるが、主として個人による軍務への従事が要求される場合においてのみ、激しい衝突を引き起こした。

[1] ペンシルベニアのクエーカー植民地では、当初はクエーカー教徒が多く住む東部から多くの議員が選ばれるような一種のゲリマンダリングが行われていたが、寛容政策の結果としてアイルランド系、ドイツ系、ピューリタンなどの移民が増え、その区割りが維持出来なくなり修正されたということ。

[2] 1754年に始まったフレンチ・インディアン戦争の結果として、1756年にペンシルベニアの総督と評議会がネイティブ・アメリカンの部族に対して宣戦布告した事態に臨んで、クエーカー教徒の議員がそれが自身の宗教的信条に反するとして一斉辞職せざるを得なくなったことを言っている。

折原浩訳の問題点(174)

「植民者列強」って一体どういう意味ですか?言うまでもなく「植民地列強」です。この方、当時のアメリカで多数の「植民地」が作られたことをまったく分かっていません。
また、ヴェーバーが書いているのそのままのクエーカー称賛ですが、実際には私が訳注に書いたように、非常にずるいやり方でネイティブ・アメリカンから土地を奪っています。それから未だに「インディアン」って書く人いるんですね。「原住者インディアン」って更にひどいような。(笑)

原文
Selbständige politische Bildungen auf einer nicht schlechthin anarchistischen, aber prinzipiell pazifistischen Grundlage haben existiert. Die wichtigste war das Quäkergemeinwesen in Pennsylvanien, dem es zwei Menschenalter lang tatsächlich gelang, im Gegensatz zu allen Nachbarkolonien, ohne Gewaltsamkeit gegen die Indianer auszukommen und zu prosperieren. Bis zuerst die bewaffneten Konflikte der Kolonialgroßmächte den Pazifismus zu einer Fiktion machten, und schließlich der amerikanische Unabhängigkeitskrieg, welcher im Namen grundlegender Prinzipien des Quäkertums, aber unter Fernhaltung der orthodoxen Quäker wegen des Nichtwiderstandsprinzips, geführt wurde, dies Prinzip auch innerlich tief diskreditierte.

折原訳
それにひきかえ、端的に無政府主義的ではないが、原則上平和主義的な基礎のうえに立つ自律的な政治形象は、存立したことがある。そのうちでもっとも重要なのは、ペンシルヴェニア州におけるクェーカー教徒の共同組織で、隣接する全ての植民者とは対照的に、事実上二世代にわたり、原住者インディアンに対して暴力を行使せずに折り合い、繁栄に成功した。ところが、まずは原住者との紛争における植民者列強の武力行使が、平和主義を空文化し、ついにはアメリカ独立戦争が、クェーカー派の根本原理を名目として闘われながら、じっさいには正統のクェーカー教徒が、その無抵抗原理ゆえに遠ざかっていたため、その原理は、内面的にも深く傷つけられた。

丸山訳
ただ単純に無政府主義ではなく、原則的に平和主義的な基礎の上に作られた独立の政治的な形成体は、実在していた。その内もっとも重要なものは、ペンシルヴェニアにおけるクエーカー教徒の植民地[Gemeinwesen[1]]で、事実上二世代に渡る期間[1681年~1776年]継続し、それは隣接する全ての諸植民地とは対象的であり、ネイティブ・アメリカンに対して暴力を用いることがなく共存し[2]、繁栄した。それは、植民地列強の武装闘争が平和主義を擬制に変えるまで続いたが、最終的にはアメリカ独立戦争が、[自由・平等といった]クェーカー教団の根本的な原理を名分として行われながら、しかし正統なクエーカー教徒が無抵抗主義を理由として戦闘へ参加することなく遂行され、そのことはこの無抵抗主義という原理をまた内部的に深く傷つけることとなった。

[1] 政治的共同体、国家という意味。前の箇所ではder Quäkerstaat(クェーカー国家)という表現をヴェーバーは使っていた。実際はイングランド国王から認可された植民地。訳注692参照。

[2] 確かに暴力は用いなかったが、「歩行契約」という悪名高い契約によって、先住のレナペ族他の土地をある意味だまし取っている。なのでここでのヴェーバーの記述は割り引いて読むべきである。(一人の男が1日半歩ける所までの土地を得ることが出来るという契約で、実際には植民地でもっとも足の速いものを使い、広大な土地を奪った。)

折原浩訳の問題点(173)

最後のwie dies z.B.以下は何故か折原訳は2つの文に分けています。そして分けたことによって分かりやすくなってないどころか、まったく勘違いの訳をしています。
wenn nicht ausgesprochenermaßenは、単にそのカルヴィニスト達が明示的に述べていなかったけれども、であって「公然と認められなかった」は誤訳です。しかも2つに分けてしまったために、「妥協付きではあったが、実践において基礎となっていた」という文構造が却って分かりにくくなってしまっています。

原文
Denn dies ist dann eben keine universalistische Erlösungsreligion. Der gottgewollte Zustand ist gerade die Gewaltherrschaft der Gläubigen über die geduldeten Ungläubigen, und also die Gewaltsamkeit als solche kein Problem. Eine gewisse Verwandtschaft damit zeigt die innerweltliche Askese dann, wenn sie, wie der radikale Calvinismus, die Herrschaft der zur »reinen« Kirche gehörigen religiösen Virtuosen über die sündige Welt zu deren Bändigung als gottgewollt hinstellt, wie dies z.B. der neuenglischen Theokratie, wenn nicht ausgesprochenermaßen, so doch in der Praxis, natürlich mit allerhand Kompromissen, zugrunde lag.

折原訳
つまりこの場合、宗教は、普遍主義的な救済宗教ではない。神意に適う状態とは、信仰者が、忍従する無信仰者に対してまさしく実力を行使し、無信仰者を支配することであり、それゆえ実力の行使は、それ自体、なんら問題ではない。
現世内禁欲にも、つぎの場合には、こうした立場との一定の親和性が認められる。すなわち、現世内禁欲が、急進的なカルヴィニズムのように、「純粋な教会」に属する宗教的達人による支配を、罪深い現世を制圧するために必要と認め、神意に適うとみなす場合である。たとえは、ニュー・イングランドの神政政治は、そうした支配を基礎としていた。この点は、もとより公然とは認められなかったとしても、実践においては否み難く、当然、ありとあらゆる妥協をともなっていた。

丸山訳
何故ならばこうした儒教や古イスラム教の場合は、普遍的な救済宗教ではまったくないからである。神が嘉する状態というのは、まさしくその信者による、忍耐強い不信心者に対しての暴力による支配であり、それ故に暴力行使それ自身は何の問題もない。今度は現世内禁欲の場合は、それが、極端なカルヴィニズムにおけるように、「本当の」教会に所属する宗教的な練達者[Virtuosen]が、罪にあふれた現世について、その飼い慣らしを、神が嘉することと位置付ける場合に、こうした暴力の認容と一定の類似性を示しており、その例としてはニューイングランドにおける神権政治[1] があり、明確に主張されていた訳ではないが、しかし実践において、もちろんあらゆる妥協付きではあったが、その基本に置かれていた。

[1] チャールズ1世による専制の期間を中心として、1641年までに20,000人を超えるピューリタンがアメリカに渡りニューイングランドに入植した。それから1728年まで、ピューリタンが教会組織そのものを政府とした神権政治を実施した。

折原浩訳の問題点(172)

8月のノルマ達成してもまだまだ出て来ます。
(1)「神秘主義的な宗教性に特有」→speziellは直後のmystischenにかかるので「特別に神秘的な諸信仰」
(2)weil以下の主語→die mystische Heilssucheであり、「神秘主義的宗教性」ではない。
(3)「生み出さざるをえないからである」→「生み出すに違いないからである」
(4)「微行」は偉い人がお忍びで行動すること(例:水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍)であり、ここでは「名前を隠すこと」ぐらい。 独和辞書に載っていた訳語を国語辞典で確認することもなくそのまま使ったんでしょう。

そしてここについている訳注も必要だとは思えません。 []内の補足も含めて、この訳者だけの特殊な理解を読者に押しつけています。
注:論理的に推論可能な合理性から類型的に偏倚するが、理解可能な心理現象。カテゴリー論文から補説。

原文
Sie eignet aber auch sonst speziell mystischen Religiositäten, weil die mystische Heilssuche mit ihrer das Inkognito in der Welt als einzige Heilsbewährung suchenden Minimisierung des Handelns diese Haltung der Demut und Selbstaufgabe fordert und sie überdies auch rein psychologisch aus dem akosmistischen objektlosen Liebesempfinden, welches ihr eignet, erzeugen muß. Jeder reine Intellektualismus aber trägt die Chance einer solchen mystischen Wendung in sich.

折原訳
とはいえ、そうした要求は、両者にかぎられるのではなく、とりわけ神秘主義的な宗教性に特有のことである。それというのも、神秘主義的宗教性は、現世内の微行を、救済の唯一の確証として、行為の極小化を追求し、謙虚さと自己放棄のスタンスを要求し、そのうえ、そうしたスタンスを、神秘主義的救済追求に固有の、対象を問わない無宇宙愛の感情から、純心理学的にも[神秘主義的救済追求の論理的帰結としての救済個人主義からは逸脱する、類型的な随伴現象として]生み出さざるをえない からである。純粋な知性主義はいずれも、こうした神秘主義的転回の萌芽を内包している。

丸山訳
しかしそういった要求はまたそれ以外にも特別に神秘的な諸信仰もその中に取り込むのであり、何故ならば神秘的な救済の希求は、現世で名前を隠すことを唯一の救いの確証として求める行為の極小化と結び付いて、こうした従順さと自己放棄の態度を要求し、またどこにおいても、そういった救済の希求に適合的な、純粋に心理学的に無世界主義的で対象の無い愛の感情から、そういった態度を生み出しているに違いないのである。全ての純粋な主知主義はしかし、そういった神秘的な方向に向かう要素をその中に持っている。

折原浩訳の問題点(171)

これで8月は31回目の問題点指摘で、既に8月で1件/日以上となっています。
womöglichは「おそらくは、ひょっとしたら」ぐらいで「まかり間違っても~ない」といった強い意味はありません。
創文社訳が「--そう考える人がいるかもしれないが--~ない」と訳している方がはるかに適切です。これも辞書を引けば簡単に分かることですが、この訳者は多くの場合辞書をきちんと調べないで思い込みだけで訳しています。

原文
Nicht aus »sozialpolitischen« Interessen, womöglich aus »proletarischen« Instinkten heraus, sondern gerade aus dem völligen Wegfall dieser Interessen erwuchs die Macht der apolitischen christlichen Liebesreligion ebenso wie die zunehmende Bedeutung aller Erlösungslehren und Gemeindereligiositäten seit dem ersten und zweiten Jahrhundert der Kaiserzeit überhaupt. Es sind dabei keineswegs nur, oft nicht einmal vorwiegend, die beherrschten Schichten und ihr moralistischer Sklavenaufstand, sondern vor allem die politisch desinteressierten, weil einflußlosen oder degoutierten Schichten der Gebildeten, welche Träger speziell antipolitischer Erlösungsreligiositäten werden.

折原訳
キリスト教のような非政治的な愛の宗教の勢力が成長を遂げたのは、「社会政策的な」利害関心からではなく、まかり間違っても「プロレタリア的」本能からではなく、むしろ正反対に、そうした利害関心の完全な欠落からである。また、ローマ帝政時代の紀元一、二世紀以降、あらゆる救済教説やゲマインデ宗教性の意義が一般に増大したのも、同様の理由による。そのさい、そうした独特の反政治的救済宗教性の担い手となるのは、被支配者層と彼らの道徳主義的奴隷叛乱のみではけっしてなく、しばしば彼らが主要な担い手になるということですらない。そうした宗教性の担い手となるのはむしろ、政治的影響力を失ったか、嫌気がさしたか、いずれにせよ政治的に無関心となった教養社会層である。

丸山訳
「社会政治的な」利害からではなく、また[そう考える人もいるであろうが]おそらくは「プロレタリア的な」本能からではもなく、まさに完全にこういった利害を禁止することから、非政治的なキリスト教的な愛の宗教の力が成長して来たのであり、それとまさに同様に全ての救済説と教団信仰の増大する意味も一般的に、ローマの帝政期である1・2世紀以来そうであった。その場合に、反政治的な救済諸信仰の担い手となるのは、被支配層とその道徳的な奴隷反乱だけでは全くなく、また多くの場合それらは一度も主要なものであったこともなく、何よりも担い手になったのは政治に無関心な、何故なら影響力を持っていなかったか、あるいは政治に嫌気が差した教養層であった。

折原浩訳の問題点(170)

169の箇所は重要性が高いのでそこだけ別にしましたが、この箇所は他にも色々おかしな訳があります。

(1)「伝統から解放された諸個人による」→von der Tradition Gelöstenは(von der Tradition) Gelöstenであり、führtの目的語です。
(2)「固有法則性」→既に指摘済みですが、「自律性」と訳すべき。
(3)「局地的で束の間の興亡」→partikulärenは「個々の」であり、「局地的で」などという意味はない。
(4)「大規模な世界帝国における普遍的な平和化と権力闘争の全面的な圧殺」→何故か二つに分けていますが、「大世界帝国においての、権力を巡る全ての闘争の普遍的な平定と根絶」です。また「圧殺」は誰によって?という疑問が出るので不適で「根絶」の方がはるかに良いと思います。
(5)「権力を拒否する宗教的同胞倫理」→ここではMachtとGewaldが使い分けられていますから、「暴力を拒否する宗教的な兄弟愛倫理」。また「同胞」も指摘済みですがおかしい。

Aber nicht dieser priesterlich organisierte »Sklavenaufstand« in der Moral allein, sondern jedes Emporwachsen asketischer und vor allem mystischer persönlicher Heilssuche des Einzelnen, von der Tradition Gelösten führt, wie wir sahen, kraft Eigengesetzlichkeit in die gleiche Richtung. Typische äußere Situationen aber wirken verstärkend. Sowohl der sinnlos scheinende Wechsel der, gegenüber einer universalistischen Religiosität und (relativen) sozialen Einheitskultur (wie in Indien), partikulären und ephemeren, kleinen politischen Machtgebilde, wie gerade umgekehrt auch die universelle Befriedung und Austilgung alles Ringens um Macht in den großen Weltreichen, und speziell die Bürokratisierung der politischen Herrschaft (wie im Römerreich), alle Momente also, welche den politischen und sozialen, am kriegerischen Machtkampf und sozialen Ständekampf verankerten Interessen den Boden entziehen, wirken sehr stark in der gleichen Richtung der antipolitischen Weltablehnung und der Entwicklung gewaltablehnender religiöser Brüderlichkeitsethik.

折原訳
とはいえ、このように祭司によって組織される、道徳における「奴隷叛乱」 ばかりでなく、伝統から解放された諸個人による、禁欲的、またとりわけ神秘的な、即人的救済追求が台頭してくると、それらはいずれも、すでに見たとおり 、それぞれの固有法則性にしたがって、同じ方向に進む。とはいえ、そのさい、つぎのような類型的な外的状況も、その方向を促進する方向に作用する。すなわち、(インドにおけるような) 普遍主義的な宗教性 [業教説や仏教]と、社会的文化の(相対的)統一 [カースト制]に比べて、まったく無意味にも見える、小規模な政治的権力形象の局地的で束の間の興亡や、正反対に、大規模な世界帝国における普遍的な平和化と権力闘争の全面的な圧殺、とりわけ (ローマ帝国における) 政治的支配の官僚制化、――つまり、戦士としての権力闘争と社会的な身分闘争に根ざす政治的また社会的な利害関心から、その基盤を根こそぎ奪ってしまうような、こうした全ての動因が、反政治的な現世拒否と、権力を拒否する宗教的同胞倫理の展開という同一の方向に、きわめて顕著な作用をおよぼすのである。

丸山訳
しかしながら、このような祭司によって組織された道徳における「奴隷反乱[1]」だけではなく、禁欲的でありまた取り分け神秘的な個々人の個人的な救済への希求の成長の全てもまた、既に見て来たように[2]、伝統から解放された者達を、自律性によって、同じ方向に導く。しかし典型的な外的な諸状況もまたそれを強化する方向に働く。例えば普遍的な信仰と(相対的に)社会的な統一文化(インドのように)に対しての、個々のそして極めて短期しか続かない権力形態の無意味に見える変遷と同様に、それとは丁度逆にまた、大世界帝国においての、権力を巡る全ての闘争の普遍的な平定と根絶もその例であり、そして特に政治的支配の官僚制化(ローマ帝国のように)もそうであり、従って政治的・社会的な、戦士による権力闘争と社会的な地位を巡る闘争に結び付けられた利害の根底を揺るがす、全ての契機は、反政治的な現世拒絶と暴力を拒否する宗教的な兄弟愛倫理の発展と同じ方向にて、非常に強く作用するのである。

[1] 以前も登場しているが、ニーチェが「道徳の系譜」の中で、ルサンチマンの感情により、現世での強者の道徳を「悪」として価値観をひっくり返すことの形容。

[2] 本翻訳のP.281他。

折原浩訳の問題点(169)

以下の折原訳に、この訳者の変な癖がみられます。形容詞として使われる動詞の過去分詞をこの人は高い確率で「~された」と訳さず、「~される」と訳しています。例のゲマインデの「ゲゼルシャフト化を契機とする」という誤解も、元はvergesellschaftet でしかなく、「(今日のドイツでは)ゲゼルシャフト化されている」という意味でしかないのを「ゲゼルシャフト化される」と訳して、それが必ず必要な契機のように誤解しています。折原訳では前もder Sündigende を「罪を犯しつつある者」と現在進行形のように訳していて、分詞全般の理解の仕方がおかしいです。

原文
Aber nicht dieser priesterlich organisierte »Sklavenaufstand« in der Moral allein

折原訳
とはいえ、このように祭司によって組織される、道徳における「奴隷叛乱」 ばかりでなく

丸山訳
しかしながら、このような祭司によって組織された道徳における「奴隷反乱」だけではなく、

折原浩訳の問題点(168)

今回は新しいパターンで、おそらくはドイツ語は正しく理解しているのに、それを日本語にする時に不適切な誤解を招くものにしてしまっている例。
「最終的には自国の権力保有者も、祭司は承認して」と書くと、多くの人は祭司が権力者を承認した、と解釈してしまいますが、そんな筈はありません。というか元は受動態で、「外国の支配者や自国の権力者によって承認された祭司達」です。それを能動態に変え、本人は「祭司「は」」承認して、のつもりなんでしょうが、そもそも他に承認しなかったものがいたなどとも全く書かれていないために、完全におかしな日本語です。
それから「[祭司の]経験とも、結びついて、」の「経験」も原文にはありません。

原文
Und die Domestikation der Massen, welche sowohl Fremdherrschaften (so zuerst systematisch die Perser) wie schließlich auch die eigenen heimischen Gewalthaber den von ihnen anerkannten Priestern zuweisen, gibt, verbunden mit der Eigenart ihrer persönlichen unkriegerischen Tätigkeit und der Erfahrung von der überall besonders intensiven Wirkung religiöser Motive auf Frauen, mit zunehmender Popularisierung der Religion zunehmende Gründe, jene wesentlich femininen Tugenden der Beherrschten als spezifisch religiös zu werten.

折原訳
外国の支配者 (体系的には、まずもってペルシア人) も、最終的には自国の権力保有者も、祭司は承認して[その地位と支配権は保全し]、大衆の馴致(ドメスティカティオン)を指示する。そして、この大衆の馴致[という役柄]が、[一方では]祭司自身の非戦士的な活動の特性とも、[他方では]宗教的諸動機がとりわけ婦人たちに際立って顕著な作用をおよすという[祭司の]経験とも、結びついて、祭司に、上記のとおり本質上女性的な被支配者の徳目を、宗教に特有の徳性として評価する動機を与え、この動機が、宗教の大衆化とともに、ますます強まるのである。

丸山訳
大衆の家畜化を、外国の支配者(つまりまずは組織的には古代ペルシア人[1])と同様に最終的にはまたその民族自身の権力者達もまた、その者達によって承認された祭司達に割当て、そしてそういった家畜化は、祭司達の個人として戦士的ではない活動と、至る所で特別に効果的な女性への宗教的動機の働きかけと結び付いて、その宗教が次第に一般化して行くに連れて、被支配者のそういった本質的に女性的な諸徳性を特別に宗教的に評価する、次第に強まっていく正当化の理由付けも与えるのである。

[1] 古代ペルシアのアケメネス朝のキュロス2世は、バビロン捕囚にあったユダヤ人を解放し、また寛容な統治でユダヤ人の信仰の保持を許した。

折原浩訳の問題点(167)

まず折原訳は、um so + 比較級、als A、als B (AとBの場合はそれだけいっそう~になる)を正しく訳しておらず、「つぎの事情から」と単純な因果関係に訳している間違い。
また、 der Unterwerfung unter die Fügung des ethischen Gottes und der Priester selbst の所のFügungは「服従」と「摂理」の意味がありますが、「摂理」とするとPriesterにもかかるので「祭司達自身の摂理」となりおかしい。なのでここは神と祭司自身に「服従し屈服すること」と訳すのが自然です。「祭司達自身が定めるところ」は意味不明です。
さらには「不正にたいする弱腰の譲歩と寛容」も変。「不正に対しての好意的な許容と寛大さ」です。

原文
Die Priesterschaft mußte die spezifischen Tugenden dieser Schichten um so exklusiver rezipieren, als diese: Einfachheit, geduldiges Sichschicken in die Not, demütige Hinnahme der gegebenen Autorität, freundliches Verzeihen und Nachgiebigkeit gegenüber dem Unrecht, gerade auch diejenigen Tugenden waren, welche der Unterwerfung unter die Fügung des ethischen Gottes und der Priester selbst zugute kamen, und als sie alle ferner in gewissem Maß Komplementärtugenden der religiösen Grundtugend der Mächtigen: der großmütigen Karitas, darstellten, und als solche von den patriarchalen Nothelfern selbst bei den von ihnen Unterstützten erwartet und gewünscht werden.

折原訳
祭司層は、そうした社会層に特有の、質朴さ・困窮への忍耐強い順応・既成の権威にたいする謙虚な献身・不正にたいする弱腰の譲歩と寛容といった諸徳性を、つぎの事情から、それだけ排他的に受け入れざるをえなかった。すなわち、とりわけそれらの徳目が、倫理的な神と祭司自身の定めるところにたいする従順な服従を助け、さらにはそれらが全て、有力者の宗教上の基本徳目としての寛大な慈悲をある程度補完し、家父長制的な救難援助者自身も、被保護者に期待し、願わしいと見る徳目であった、という事情である。

丸山訳
祭司層は、この社会諸層の様々な特別な徳性を、つまりこれらの社会層の、単純さ、忍耐強い困窮への順応、所与の権威の従順な甘受、不正に対しての好意的な許容と寛大さ、そしてそれらはまたまさに倫理的な神と祭司自身への屈服・服従に役に立つ諸徳性であった場合には、そういったものとしての諸徳性をそれだけいっそう選択の余地なく受け入れざるを得なかったのである。そしてさらにはそういった諸特性の全てをある程度まで有力者の宗教的な基本徳性:気前のよい慈善、を補完するものとして位置付けられ、そしてそう言った諸徳性自身が、そういった有力者達によって保護された者達について、家父長制的な緊急時の援助者達自身によって期待され望まれる場合もそうである。

「宗教ゲマインシャフテン」の日本語訳作成にあたっての参考書籍

基本的に今回の日本語訳にあたって、ここ2年間ぐらいで「実際に読んだ」参考書籍リストが以下です。(新旧約聖書も全部読み直しています、もちろんクルアーンも。)最終的な日本語訳にも載せる予定ですが、取り敢えずここを見ている人のご参考として公開します。
一部だけ学生時代から持っていて、今回改めて参照した(例:フレイザーの「金枝篇」など)ものもあります。
また、例の羽入辰郎批判の時に、宗教改革や英訳聖書関係はここに載っているもの以外で数十冊レベルで読んでいるし、またキリスト教神学事典、仏教辞典のような辞典・事典類も入れていません。また儒教関係は中学生の頃からそれなりに読んでいますが、今さら挙げるまでもないので、一部だけしか載せていません。ちなみにジェームズ・レッグの論語の英訳(ヴェーバーも参照している)は、大学時代に平川祐弘先生の授業で一部を読んでいます。
折原センセの訳には色々問題がありますが、最大の問題はここに挙げているような文献をほとんど参照していないことです。調べようと努力した形跡も見られず、「訳注については創文社訳を参照してください」で済ましています。

ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、その他インド

1.辻直四郎訳、「リグ・ヴェーダ讃歌」、岩波文庫
2.岩本裕編訳、「ウパニシャッド」、ちくま学芸文庫
3.上村勝彦訳、「バガヴァッド・ギーター」、岩波文庫
4.森本達雄著、「ヒンドゥー教--インドの聖と俗」、中公新書
5.中村元著、「インド思想史」、講談社学術文庫
6.立川武蔵著、「はじめてのインド哲学」、講談社現代新書
7.渡辺研二著、「ジャイナ教」、講談社学術文庫
8.清水俊史著、「ブッダという男--初期仏典を読みとく」、ちくま新書
9.並川孝儀著。「パーリ語初期韻文経典にみる最古の仏教」、春秋社
10.梶山雄一著、「輪廻の思想」、講談社学術文庫
11.末木文美士著、「日本仏教再入門」、講談社学術文庫
12.金子大栄注、「歎異抄」、岩波文庫
13.日本思想体系11「親鸞」(教行信証)、岩波書店
14.宮田登著、「弥勒」、講談社学術文庫
15.長部日出雄著、「仏教と資本主義」、新潮新書
16.吉永千鶴子著、「チベット仏教」、岩波新書
17.ヴァーツヤーヤナ、岩本裕訳著、「完訳カーマ・スートラ」、平凡社東洋文庫

儒教・道教

18.坂出祥伸著、「道教とはなにか」、中公叢書
19.窪徳忠著、「道教の神々」、講談社学術文庫
20.姜在彦著、「朝鮮儒教の二千年」
21.貝塚茂樹著、「孟子」、講談社学術文庫

イスラム教

22.水谷周監訳著、杉本恭一郎訳補完、「クルアーン やさしい和訳」、国書刊行会
23.河田尚子著、「日本人女性信徒が語るイスラーム案内」、つくばね叢書
24.渥美堅持著、「イスラーム基礎講座」、東京堂出版
25.大川玲子、「聖典クルアーンの思想--イスラームの世界観」、ちくま学芸文庫

マーニー教、ゾロアスター教

26.山本由美子著、「マニ教とゾロアスター教」、山川出版社世界史リブレット
27.ニコラス・J・ベーカー=ブライアン著、 青木健訳、 「マーニー教--再発見された古代の信仰」、青土社

グノーシス主義

28.大田俊寛著、「グノーシス主義の思想--<父>というフィクション」、春秋社
29.荒井献著、「トマスによる福音書」、講談社学術文庫
30.荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治編訳、「ナグ・ハマディ文書抄」、岩波文庫

ユダヤ教、キリスト教

31.聖書、聖書協会共同訳(旧約聖書続編付き、引照・注付き)、2018年、日本聖書協会
32.田川建三訳、「新約聖書 本文の訳」、作品社
33.B.U.シッパー、山我哲雄訳、「古代イスラエル史--『ミニマリズム論争』の後で 最新の時代史」、教文館
34.関根正雄著、「古代イスラエルの思想--旧約の預言者たち」、講談社学術文庫
35.浅野順一著、「予言者の研究」、講談社学術文庫
36.吉田博司、「旧約聖書の政治学--預言者たちの過酷なサバイバル」。春秋社
37.田川建三著、「原始キリスト教史の一断面--福音書文学の成立」、勁草書房
38.荒井献著、「イエスとその時代」、岩波新書
39.R.F.ホック著、笠原義久訳、「天幕づくりパウロ--その伝道の社会的考察」、日本基督教団出版局
40.ウェイン・A・ミークス著、加山久夫監訳・布川悦子・挽地茂男訳、「古代都市のキリスト教--パウロ伝道圏の社会学的研究」、ヨルダン社
41.ゲルト・タイセン著、廣石望訳、「イエス運動--ある価値革命の社会史」
42.コンツェルマン著、田川建三・小河陽訳、「新約聖書神学概論」、新教出版社
43.田川建三著、「宗教とは何か 上 宗教批判をめぐる」、洋泉社MC新書
44.N.T.ライト、岩上敬人訳、「すべての人のためのローマ書1,2」、教文館
45.聖アウグスティヌス、服部英次郎訳、「告白 上下」、岩波文庫
46.G.K.チェスタトン著、生地竹郎訳、「聖トマス・アクィナス」、ちくま学芸文庫
47.トマス・アクィナス著、稲垣良典・山本芳久編、稲垣良典訳、「精選 神学大全1,2」、岩波文庫
48.上田閑照著、「エックハルト--異端と正統の間で」、講談社学術文庫
49.シュヴァイツェル著、鈴木俊郎訳、「キリスト教と世界宗教」、岩波文庫
50.岡本亮輔著、「キリスト教入門の系譜」。中公新書
51.鈴木範久著、「内村鑑三」、岩波新書
52.赤江達也著、「矢内原忠雄--戦争と知識人の使命」、岩波新書
53.無教会史研究会編、「内村鑑三の系譜 無教会キリスト教信仰を生きた人びと」。新地書房
54.G.ジンメル、深澤英隆訳、「ジンメル宗教論集」、岩波文庫
55.ルードルフ・オットー著、立川武蔵・立川希代子訳、「インドの宗教とキリスト教」

神道

56.井上寛司著、「『神道』の虚像と実像」、講談社現代新書
57.久米邦武著、「神道ハ祭天の古俗」、明治24年刊
58.山村明義著、「神道と日本人--魂とこころの源を探して」、新潮社
59.島薗進著、「教養としての神道--生きのびる神々」

その他

60.谷川政美訳、「ウガリトの神話 バアルの物語」、翻訳工房
61.フランセス・イエイツ著、前野佳彦訳、「ジョルダノ・ブルーノとヘルメス教の伝統」、工作舎
62.ジョルジュ・デュメジル著、松村一男訳、「神々の構造--印欧語族三区分イデオロギー」
63.P.J.H.グリァソン著、中村勝訳・解説、「沈黙交易--異文化接触の原初的メカニズム序説--」
64.J.G.フレイザー著、吉川信訳、「金枝篇 上下」。ちくま学芸文庫
65.吉田禎吾著、「日本の憑きもの--社会人類学的考察」、法蔵館文庫
66.タキトゥス著、泉井久之助訳注、「ゲルマーニア」、岩波文庫
67.カエサル著、近山金次訳、「ガリア戦記」、岩波文庫
68.W.J.モムゼン他編、鈴木広他訳、「マックス・ヴェーバーとその同時代人群像」、ミネルヴァ書房
69.マーティン・グリーン、塚本明子訳、「リヒトホーフェン姉妹」、みすず書房
70.内田芳明著、「ヴェーバー『古代ユダヤ教』の研究」、岩波書店
71.内田芳明著、「マックス・ヴェーバーと古代史研究」、岩波書店
72.マックス・ヴェーバー著、丸山尚士訳、「中世合名・合資会社成立史」、Amazon Publishing
73.マックス・ヴェーバー著、丸山尚士訳、「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」、Amazon Publishing
74. マックス・ヴェーバー著、世良晃志郎訳、「法社会学」、創文社
75.マックス・ヴェーバー著、世良晃志郎訳、「支配の社会学 1,2」、創文社
76.ハインリヒ・ミッタイス著、世良晃志郎・広中俊雄訳、「ドイツ私法概説」、創文社