折原浩訳の問題点(112)

ここもまた折原デコトラ翻訳の典型例。短い文章の中で以下の6箇所の誤訳、不適切訳。

(1)「都市貴族層が強い疑念を抱いてことごとく排斥した」なんて書いてありませんし、歴史的にもそういう事実はありません。せいぜい都市貴族層が「苦々しく思っていた」というぐらい。
(2) Innewerden は「感じ取ること、理解すること」であり「内在化した状態性」などという意味ではありません。辞書を引かないで想像で訳を作っています。
(3)Euphorieも「多幸症」と病気みたいに訳すのではなく、「多幸状態」「高揚」ぐらいです。
(4)Musik は言うまでもなく、「旋律」ではなく「音楽」です。
(5)Göttlichsten の最上級が訳されていません。
(6)Das Hellenentumはギリシアの民族性、文化、精神という意味でギリシア世界という意味ではない。

原文
Das Hellenentum schätzte, trotz aller Bedenken des Stadtpatriziates gegen den dionysischen Rauschkult, die Ekstase, die akut orgiastische als göttlichen Rausch, die milde Form der Euphorie, wie sie vor allem Rhythmus und Musik vermittelten, als ein Innewerden des spezifisch Göttlichsten im Menschen.

折原訳
ギリシア世界においては、急性の狂騒的陶酔を神的と評価するディオニュソス祭儀の法悦に対しては、都市貴族層が強い疑念を抱いてことごとく排斥したとしても、多幸症的エクスタシーの穏やかな形態、とりわけ律動と旋律に媒介される形態は、独特の神々しい感情が人間に内在化した状態性として、高く評価された。

丸山訳
ギリシア精神は、都市貴族のディオニュソスの陶酔的祭礼、エクスタシー、急性の狂躁的な神的な陶酔など全てへの疑念にもかかわらず、穏やかな形の高揚状態、特にリズムと音楽に媒介されるもののようなものを、特別の最高度に神的なものを感じ取った状態として評価した。

折原浩訳の問題点(111)

もはやあまり細かいのはわざわざアップしないようにしているんですが、それでも毎日のように誤訳が出てきます。

(1)der nicht schlechthin über 以下は、その前の ein Gott だけにかかるのを、折原訳は「非人格的な神的力・業因果律によって自足完結的に律せられる永遠の世界を超絶するのでなく、そこに内在している神」と全部勝手にまとめた誤訳にしてしまっています。

(2)unpersönliche はならいつものように「非即人的」としていた方がまだましで、ここの意味は「非人格的」ということではなく、「人間的なものではない」ということで、「人間を越えた」ということです。そもそも「人格」を使うとペルソナ(位)を連想させるので良くないです。

(3)vollendsをいつもこの方は「いわんや」と訳すんですが、そこまで強い意味ではなく、「更にはまた」ぐらいでいいと思います。私は「いわんや」と来ると、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を想像してしまいます。宗教関係の文献だけになおさら。(笑)

(4)Wendungの意味がまたも取れていなくて、ここは「法的な表現の仕方」という意味なのを「転換」と誤訳しています。

原文
Eine unpersönliche göttliche Macht oder ein Gott, der nicht schlechthin über, sondern innerhalb einer ewigen, sich selbst durch die Karmankausalität regulierenden Welt stand, oder das Tao, oder die himmlischen Ahnengeister des chinesischen Kaisers, und vollends die asiatischen Volksgötter konnten eine solche Wendung der Heilsmethodik nie produzieren.

折原訳
非人格的な神的力・業因果律によって自足完結的に律せられる永遠の世界を超絶するのでなく、そこに内在している神・あるいは中国の道・天にある皇帝の祖先の霊・いわんやアジアの民間の神々、これらはいずれも、救済技法のそういう [法的手続きへの] 転換を絶えて生み出せなかった。

丸山訳
人間を越える神の力が、またはある永遠の、自分自身をカルマ[業]の因果律で律する現世をただ越えるのではなく、そうではなくその内部に拠って立つ神が、あるいは道が、または中国の皇帝の祖霊が、そしてそれに加えてアジアにおける民衆の諸神が、そういった救済方法の[法的な]表現の仕方を生みだし得たことは一度もなかった。

折原浩訳の問題点(110)

ここもまた原文を大幅に改変(改悪)するひどい翻訳。
weder … gefunden werdenなのに、どこから「残りなく吸収されることはありえなかったし」などという訳が出て来るのか。そして「救済追求」ではなく単に「救済」です。後、wie dort は場所だから「アジア人の場合」は変。「作品であるからには」という理由的な訳もおかしい。

原文
Weder konnte daher im Okzident die mystische Erlösung restlos im Bewußtsein der absoluten Einheit mit einer höchsten weisen »Ordnung« als dem einzig wahren »Sein« gefunden werden, noch war andererseits ein Werk von göttlicher Provenienz jemals in dem Sinn möglicher Gegenstand absolutester Flucht wie dort.

折原訳
それゆえ西洋では、神秘的救済追求も、唯一真実の「存在」として最高の叡知をそなえた「秩序」との絶対的合一という意識に、残りなく吸収されることはありえなかったし、他方では、世界も神に由来する作品であるからには、アジア人の場合と異なり、絶対的に逃避しきれる対象とはなりえなかった。

丸山訳
それ故に、西洋においては、神秘主義の救済は、唯一の真実の「存在」として、至高の賢い「秩序」を備えた絶対的な統一体と意識されて、完全に見出されるのではなく、また他方では、アジアにおいてのように、神に由来する作品がいつかそこからの絶対的な逃避[解脱]が可能な対象物となるという意味も持ち得なかった。

折原浩訳の問題点(109)

折原デコトラ翻訳の典型例。
「神秘的なマリアよりも禁欲的なマルタ」なんて原文にはまったくないものを勝手に追加しています。大体聖書を読んでいる人は、この場面でマルタが禁欲的だ、などと言えないのは知っています。(単にイエスをもてなすための食事の準備をしていただけです。)ついでに最後の文で次の文をくっつけてしまったことです。このためキリスト教が最初からマルタを上に置いていたと読めてしまいますが、もちろんそれは事実ではありません。
それから「シトー会修道院の瞑想・フランチェスコ会修道院の聖霊主義的瞑想」も変です。詳しくは私の訳と訳注を参照してください。

原文
Sowohl die bernhardinische wie die franziskanisch-spiritualistische, wie die täuferische und die jesuitische Kontemplation wie die Gefühlsschwelgerei Zinzendorfs hinderten nicht, daß bei der Gemeinde und oft beim Mystiker selbst, Handeln und Bewährung der Gnade im Handeln immer wieder, wenn auch freilich in sehr verschiedenem Maße, asketisch rein oder kontemplativ gebrochen, die Oberhand behielten, und Meister Eckhart stellt schließlich Martha über Maria, dem Heiland zum Trotz.

折原訳
シトー会修道院 の瞑想・フランチェスコ会修道院の聖霊主義的瞑想・洗礼派とイエズス会派の瞑想・ツィンツェンドルフの感情耽溺、これらいずれの場合にも、ゲマインデでは、しばしば神秘家自身においてさえ、行為と行為における恩恵の確証とが、たえず繰り返し優位を占めた。そのさい、純然たる禁欲に傾くか、瞑想によって打ち砕かれた形態をとるか、程度の差が大きかったことはいうまでもない。神秘家のマイスター・エックハルトでさえ、救世主イエスの言にすら反して、結局は神秘的なマリアよりも禁欲的なマルタを上位に置いたが、これはある程度、キリスト教に当初から固有のことであった。

丸山訳
ベルナール主義[1] の、フランシスコ会-心霊派[2] の、そして再洗礼派とイエズス会の瞑想も同様に、さらには、ツィンツェンドルフの感情への耽溺もまた、次のことを妨げない。それは教団において、またしばしば神秘主義者それ自身においても、行為とそれにおける恩恵の確証が、繰り返し、もちろんまたそれぞれ非常に異なった程度に、禁欲上純粋な形の場合も、あるいは瞑想的に打ち砕かれた場合があったとしても、優位を占め続けたのであり、マイスター・エックハルト[3] は、救世主の言葉に反して、結局はマルタをマリアよりも上としているのである[4]

[1] クレルヴォーのベルナールはフランスのシトー会所属の神学者で、旧約聖書の雅歌のイメージを使って霊魂を花嫁、キリストを花婿とするような恋愛感情的な神との一体化を主張した。

[2] 13世紀後半に北イタリアと南フランスで、その頃のフランシスコ会の清貧原則の緩和方針に反対し、清貧の厳格な実施を提唱したが、これを心霊派(スピリチュアル主義)と言う。

[3] 1260?~1328年頃、ドイツの神学者で神秘主義者。信者の魂における神の子の誕生という説を唱えたことで、異端審問にかけられ、その審問を待っている間に死亡した。

[4] 新約聖書、ルカ10:38-42。イエスがマルタの家に迎え入れられ、マルタはイエスのための食事の準備に没頭したが、妹のマリアは姉を手伝わずただイエスの話を聞いていた。マルタがマリアに何故手伝わないのかと咎めた時に、イエスが「マルタは色々なことに思い煩いすぎであり、マリアは必要である一つのことを選んだのだからそれを取り上げてはいけない」と諭したもの。エックハルトがマルタをより高く評価したのは事実であるが、それは彼自身の特殊な考え方(異端とされた)に基づくもので、キリスト教の内部で一般的な解釈であったのではまったくない。

理解社会学のカテゴリー→ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの間

折原訳を読んでいると、Vergesellschaftungにしばしば「ゲゼルシャフト結成」とか「ゲゼルシャフト結成態」のような訳が当てられています。要するに折原センセはこの2つを一種の発展段階、階段状の進化だと捉えているんだと思います。しかし例えば「中世商事会社史」(中世合名・合資会社成立史)に、フィレンツェのアルベルティ家の遺産分割の話が出て来ますが、父親の死後、相続人である兄弟の間で契約が結ばれて家ゲマインシャフトがゲゼルシャフト化されるんですが、実はこの契約は父親の死後17年経ってからです。それでその契約で確かに法律的にはその時点がゲゼルシャフト(一種の合名会社)の成立ということになりますが、社会学的に見たゲゼルシャフトの形成はそのようにある一点で突然変化したのではなく、既に長い年月をかけて、費用の分担、ファミリービジネスの収益の分割といったゲゼルシャフト化が段階的に進展し、最後に契約という形になったのだと思います。

たまたま今日訳していた宗教ゲマインシャフテンの箇所に次のような記述がありました。「そういった宗教は常に実践的な合理主義を合理的な行為を次のようにまで高める、という意味で要求していた。それは外面的な生活実践の方法論的な体系化であり、さらには、それが修行僧のゲマインシャフトであれ神政政治であれ、地上の諸秩序を合理的に事物化しゲゼルシャフト化するという意味である。」
ここで、修行僧のゲマインシャフトがゲゼルシャフト化されるは分かりましたが、神政政治がゲゼルシャフト化っていう意味が最初良くわかりませんでした。しかし法社会学の「カノン法」の所の記述によれば、ローマ教会のカノン法を世俗法とは上手く分離した形でそれ自体の合理化を進めた、と評価している一方で神政政治をヴェーバーは「混ぜ合わせ」と描写しています。神政政治はそれ自体には既にある程度のゲゼルシャフト化の過程がもちろん含まれていますが、ヴェーバーはそれをまだ十分なゲゼルシャフト化が進んでいないとして、ここを書いているのだと思います。折原訳はここを「修道士ゲマインシャフトの秩序であれ、神政政治体制の秩序であれ、そうした秩序――の合理的な [脱即人的・即物的]事象化とゲゼルシャフト結成の強化、である。」と「ゲゼルシャフト結成」と訳していて、この訳だとそういう含意が十分に伝わりません。前にも、宗教ゲマインデである行為が持続して何度も行われることで実質的にゲゼルシャフト化される、といった記述が出てきましたが、ここでもやはりゲマインシャフト→ゲゼルシャフトの間は流動的な進化であると考えられています。

折原浩訳の問題点(108)

ついに108回目で、除夜の鐘の煩悩の数に到達しました。まだ解脱にはほど遠いです。(笑)
ここでヴェーバーが言っているのはアジアでの禁欲的な信仰の代表であるジャイナ教でさえも、最終目標は解脱という瞑想的なものに置いていた、ということで、折原訳の「禁欲的な救済技法でさえ、純然たる瞑想的神秘主義の究極目標に登り詰めているが」は技法が目標になる、としていて間違いです。

ここのヴェーバーの主張も独断的でかつ非論理的であり、それを言うなら「現世内禁欲を貫くカルヴィニストですら、その究極の目標は神によって永遠の命へと救われる神秘的な信仰であった」と書けるので、西洋とアジアの区別にはまったくなっていませんし、要するに方法論と目標がきちんと区別されないでごちゃごちゃにされています。それから、東アジアにおいての仏教が大乗仏教として阿弥陀仏とかを持ち出したことで、それが救済宗教になったのは事実と思いますが、それと瞑想はほとんど関係ないでしょ。むしろ瞑想にふけるのは禅宗みたいにそういう他力本願的なものが薄い宗派。
ヴェーバーは rein empirische Betrachtung (純粋に経験的な観察)と自分で言っているけど、他の宗教について2次文献・3次文献だけを読んだだけなのをそう表現することは無理です。(笑)

原文
Denn der Effekt im Handeln ist es, der uns angeht. In Indien gipfelt selbst eine so asketische Heilsmethodik wie die der Jainamönche in einem rein kontemplativen mystischen letzten Ziel, in Ostasien ist der Buddhismus die spezifische Erlösungsreligiosität geworden.

折原訳
それというのも、われわれにとって問題となるのは、行為にたいする効果だからである。
インドでは、ジャイナ教修行僧の救済技法のような、禁欲的な救済技法でさえ、純然たる瞑想的神秘主義の究極目標に登り詰めているが、東アジアでは、仏教が、独特の救済宗教性となった。

丸山訳
というのは、我々に関係があるのは、行為においてのその効果であるからである。インドにおいて、ジャイナ教の修行僧のような非常に禁欲的な救済方法論自体ですら、ある純粋に瞑想的・神秘的な最終目標[悟り]を頂点に置いているが、東アジアにおいては仏教は特別な救済宗教となった。

 

折原浩訳の問題点(107)

ここもごく基礎的なことが分かっていない例。「東洋的およびアジア的」って何ですか?morgenländischはオリエント的・近東的、という意味ですけど。それから「歴史上」を2回も言う必要はありません。

しかし、ここのヴェーバーの結論もひどいですね。単純化すればいい、というものではないと思います。いくらでも反例を挙げられます。

原文
Es ist nun der historisch entscheidende Unterschied, der vorwiegend morgenländischen und asiatischen, gegenüber den vorwiegend okzidentalen Arten der Erlösungsreligiosität, daß die ersteren wesentlich in Kontemplation, die letzteren in Askese ausmünden.

折原訳
ところで、歴史上、東西の救済宗教性を決定的に区別する歴史上の差異、すなわち、主として東洋的およびアジア的な種類の救済宗教性と、主として西洋的な種類のそれとを歴史的に区別する決定的差異は、前者が本質上瞑想に帰着しているのに対して、後者が本質上禁欲に流れ込むことである。

丸山訳
さて、歴史的に見て決定的な区別、すなわち主にオリエントとアジア的な救済信仰のあり方と、それに対して主として西洋のそれの区別は、前者は本質的には瞑想に行き着き、後者は禁欲に行き着くということである。

折原浩訳の問題点(106)

これはまたはっきりとした誤訳。Akosmismusは無律法主義ではなく、無宇宙主義、無世界主義。前に出たAnomismusに引っ張られた、またもそそっかしい誤訳。

原文
Wo auf dem Boden genuiner Mystik Gemeinschaftshandeln entsteht, da ist es der Akosmismus des mystischen Liebesgefühls, der seinen Charakter prägt.

折原訳
純正な神秘主義を基盤としてゲマインシャフト行為が発生する場合、その特徴となる性格は、神秘的な愛の感情による無律法主義である。

丸山訳
純粋な神秘主義の基盤の上にゲマインシャフト行為が発生する所では、その性格を形作るのは神秘主義的な愛の感情においての無世界主義である。

 

折原浩訳の問題点(105)

ここはこの訳者がいかに注意深さに欠けているかの好例です。最後の部分のirdischen は「地上の、現世の」ということで、「インドの」ではありません。ただ怪我の功名的に、文脈としては確かにインドの修行僧のことなんで、意味を歪める訳ではありませんが。要するに神と一体化するような瞑想ではなく、現世の煩悩から離脱して解脱に至ることを目差す瞑想ということ。大体、Erde → irdisch であり難しい単語ではありませんし、宗教関係では良く出て来る単語です。

原文
Je mehr er innerhalb der Welt steht, desto »gebrochener« wird im allgemeinen seine Haltung zu ihr im Gegensatz zu dem stolzen Heilsaristokratismus der außerweltlichen irdischen Kontemplation.

折原訳
神秘家が現世の内部にいればいるほど、現世にたいするかれの態度は、それだけ「砕かれた」ものとなる。この点は、インドの現世外的瞑想の誇り高い救済貴族主義とは対照的である。

丸山訳
神秘主義者が現世内部で過ごせば過ごす程、それだけいっそうその者の現世に対しての心構えは「打ち砕かれた状態」となり、それは現世外においての地上的な瞑想の誇りを持った救済貴族主義と対照を成す。

折原浩訳の問題点(104)

ここの»Stillen im Lande«、ヴェーバーが引用符を付けているのに、折原訳も創文社訳も背景を調べずに、適当に日本語にしています。大体ここの Land はほぼ現世と同じ意味で、田園とか田舎という意味ではありません。「田園の隠者」と聞くと、私は陶淵明の帰去来辞を思い出してしまいます。ここで表現されているのは元々は、ドイツの敬虔主義者の信者達が、現世の中で「ひっそりと静かに」暮らしている様子のことです。
また、schicken を「適従する」と訳すのもおかしく、「適従」はある教えや命令、人に従うことであり、現世に対応することの表現としてはおかしいです。「順応」と訳せばいいのに、わざわざ難しい、しかも適切ではない漢語を使っている訳です。

原文
Er minimisiert also sein Handeln, indem er sich in die Ordnungen der Welt, so wie sie sind, »schickt«, in ihnen sozusagen inkognito lebt, wie die »Stillen im Lande« es zu aller Zeit getan haben, weil Gott es nun einmal so gefügt hat, daß wir darin leben müssen.

折原訳
したがって彼は、あるがままの現世の秩序に「適従する」ことで、自らの行為を極小化する。あらゆる時代の「田園の隠者」たちが、そうしてきたように、現世の秩序の内部で、いわば「人に知られないように」生きる。それというのも、われわれが現世のなかで生きなければならない、というのは、なんとしても神が定めたことだからである。

丸山訳
瞑想的な神秘主義者はそれ故に、現世の諸秩序の中で、それがあるがままに「順応」しながら、自分の行為を最小にするのであり、その者はそこにおいていわば「お忍びで」生きるのであり、それはまさに「地にある静者達[die Stillen im Lande[1]]」があらゆる時代で行ったことであるが、それは何故ならば、神がかつて我々は現世の諸秩序の中で生きなければならない、と定めたからである。

[1] 18世紀にドイツの Gerhard Tersteegen(1697~1769年) が使った表現で、教会外で内面的・静寂な生活を送る敬虔主義・神秘主義的な信仰者をこう呼んだ。元々は詩篇の35:20の「地に暮らす穏やかな人々」(共同訳)から来ている。