折原浩訳の問題点(150)

ここは、ヴェーバーのエピソード捏造に加え、折原訳がその間違いを増幅しています。
訳注に書いた通り、こんなブッダのエピソードは(おそらく)存在せず、翻訳書籍に載った何かの話をヴェーバーが誤解したかあるいはねじ曲げて使ったものであり、それを本来は単に「驚いた」だけなのに「大いに驚嘆する」と折原訳が更に悪化させているもの。更には、伝承を聞いて驚いたのではなく、その伝承の中で驚いたと伝えられている、です。
また全集も何も注を付けず、せめて「出典不明」ぐらい書くべきと思います。本当にこの全集の編集陣はインド関係弱いです。
後、唯一普遍性の「普遍性」もそんなことは原文にはありません。

原文
Gegen die fremde Religiosität wird sie gerade bei Hervortreten der Konkurrenz der Gemeindereligiositäten und dem Anspruch auf Einzigkeit des eigenen Gottes sehr erschwert. Die Jainamönche wundern sich in der buddhistischen Überlieferung, daß der Buddha seinen Jüngern geboten hat, auch ihnen Speise zu geben.

折原訳
ところが、他の宗教性に対しては、まさしくゲマインデ宗教性の間に競合関係が生まれ、それぞれが自分たちの神こそ唯一普遍的な神であると主張するために、愛の普遍主義の実現はきわめて困難となる。ブッダが、ジャイナ教の修行僧にも食物を与えるように弟子たちに命じた、という仏教の伝承に、ジャイナ僧たちはおおいに驚嘆する。

丸山訳
異質な信仰に対しては、隣人愛の普遍的展開は、まさしく教団信仰間の競争の出現において、また自分達の神こそ唯一のものであるという主張によって非常な程度にまで妨げられる。ジャイナ教の僧侶は、ブッダがその弟子達に、ジャイナ教の僧侶にも食物を与えることを命じた、という伝承にて驚ろいているのである[1]

[1] これについては創文社訳も全集も何も注を付けていない。訳者が調べた限りではこのような逸話は確認出来なかった。おそらくはウパーリ経(優波離経)に出てくる、ジャイナ教徒だったウパーリ(十大弟子のウパーリとは別の人)が釈迦の話を聞いて仏教に帰依するようになった後、元々資産家であったウパーリがジャイナ僧に食物を与えていたのを続けてもよいとされた話などをヴェーバーが間違って解釈した可能性がある。そもそもジャイナ教の僧侶は、アヒンサーに従っている間違いのない食物かどうか確認出来ないものを簡単にもらって食べたりはしない。また驚き感激したのはウパーリ自身であり、他のジャイナ僧ではない。実際にウパーリ経では、ウパーリが改宗したと聞いたニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教の開祖のマハーヴィーラの仏教典での呼び方)は激怒してウパーリを非難し、そしてジャイナ僧はその後のウパーリからの食物の提供は拒絶している。
参考サイト:
https://sujaata.net/terakoya/post-1693/ 61話 資産家ウパーリ ・・・・ ジャイナ教を捨てて(アシン・クサラダンマ長老著 /奥田昭則訳 /チョウ・ピュー・サン 挿絵)
https://www.dhammatalks.org/suttas/MN/MN56.html (The Teaching to Upāli Upālivāda Sutta  (MN 56) )

折原浩訳の問題点(149)

まあここは細かい指摘になりますが、
1.「もっとも身近な人」→こう訳すと友人とかが含まれてしまいます。原文は端的に「隣の人」です。
2.[双方が互いに効力を減殺し合って]→またも余分な補足で勝手な解釈です。ここで言われているのは例えば複数の種族ゲマインシャフトが一つの政治ゲマインシャフトの中に取り込まれた場合に、それぞれの神々が解放されるといったことであり、混合が減殺を意味するとは限りません。
3.愛の普遍主義→抽象的すぎて何のことだか分かりませんし、何かのキャンペーンみたいです。「隣人愛の普遍的展開」ということです。また別にLiebesakosmismus(神との愛において世界を無と考えるもの)というのもありますので、余計にまずいです。

原文
Die brüderliche Nothilfe stammt, sahen wir, aus dem Nachbarverband. Der »Nächste« hilft dem Nachbar, denn auch er kann seiner einmal bedürfen. Erst eine starke Mischung der politischen und ethnischen Gemeinschaften, und die Loslösung der Götter als universeller Mächte vom politischen Verband führt zur Möglichkeit des Liebesuniversalismus.

折原訳
すでに見たとおり 、同胞としての救難援助は、隣人団体に由来する。「もっとも身近な人」が隣人を助けるのも、かれ自身が、いつなんどき隣人を必要とするか、分からないからである。政治ゲマインシャフトと種族ゲマインシャフトとが著しく混淆して [双方が互いに効力を減殺し合って] 初めて、神々が政治団体から解き放たれて普遍的な力となり、愛の普遍主義の可能性が生まれる。

丸山訳
兄弟的な緊急時の相互援助は、既に見てきたように[1]、隣人団体に由来する。「隣に住む人」がその隣人を助けるのであり、何故ならまたその助けた者がまたいつの日か助けられた者の援助を必要とすることもあるからである。様々な政治的・倫理的ゲマインシャフトが強く混ぜ合わされた場合に初めて、神々が普遍的な力を持つ者として政治的な諸団体から解き放たれ、そこに隣人愛の普遍的展開の可能性が生じる。

[1] 全集 I/22-1のP.122のHausgemeinschaftenの箇所。Der Nachbar ist der typishce Nothelfer, und “Nachbarschaft” daher Trägerin der “Bruderlichkeit”… 以下。(なお全集の訳注のP.198は元の全集のページであり誤り。)

またもMWG全集の誤記?

「宗教ゲマインシャフテン」以下の箇所(全集版のP.372)で”sahen wir”の参照箇所が、全集注では、全集I/I/22-1のP.198になっています。しかしその箇所は「市場ゲマインシャフト」の箇所であり間違いです。正しくはP.122のHausgemeinschaftの箇所です。この全集、こうやって間違いがかなりあるのですが、正誤表みたいなのをWebで公開していないのは本当にひどいと思います。高い値段を付けるのならちゃんと仕事しろ、と言いたいです。

(と思ったら、WuG1 とある場合は、最初の全集のページを示す、ということのようです。しかし本当にユーザーフレンドリーではないです。)

Die brüderliche Nothilfe stammt, sahen wir, aus dem Nachbarverband. Der »Nächste« hilft dem Nachbar, denn auch er kann seiner einmal bedürfen. Erst eine starke Mischung der politischen und ethnischen Gemeinschaften, und die Loslösung der Götter als universeller Mächte vom politischen Verband führt zur Möglichkeit des Liebesuniversalismus.

折原浩訳の問題点(148)

まず、「同胞愛 [兄弟愛]」が文脈を見ないひどい訳です。前の文で家族や氏族ではなく同じ教団の仲間を大切にしろ、ということが述べられているのに「同胞愛」では矛盾します。要するにパウロがその書簡で「兄弟達よ」と呼びかけているあれです。これは(146)の[ゲマインデ内の誓約同胞関係が、原生的家族の血縁的紐帯に優越して]という余計な補足がもたらした連鎖誤訳。(笑)
また weil sie die Emanzipation vom politischen Verbande am tiefsten vollziehtのsieが指しているのは教団の信仰であり、男性名詞であるGebot(命令)ではありません。
さらには、nicht ohne weiteres nach außenは「外部に向かっては躊躇なく拒否される」ではなく、「外部に対しては直ちに適用されるのではない」です。
また、am tiefsten を「もっとも深いところで」は直訳過ぎます。要するに程度が大きいということを言っているだけです。
また Christenheitもここでは単にキリスト教という意味ではなく、まさにゲマインデ=エクレシアとしてのその当時のキリスト教団全体ということです。
これだけの短い文で4箇所の誤訳と1箇所の不適切訳です。

原文
Daraus erwächst dann das Gebot der »Brüderlichkeit«, welches der Gemeindereligiosität — nicht etwa aller, aber doch gerade ihr — spezifisch ist, weil sie die Emanzipation vom politischen Verbande am tiefsten vollzieht. Auch in der frühen Christenheit, z.B. bei Klemens von Alexandrien, gilt die Brüderlichkeit in vollem Umfang nur innerhalb des Kreises der Glaubensgenossen, nicht ohne weiteres nach außen.

折原訳
ここからはやがて「同胞愛 [兄弟愛]」の命令が生まれる。この命令が、政治団体からの解放を、もっとも深いところで達成するのであるから、それは、全てのゲマインデ宗教性とまではいえなくとも、やはりゲマインデ宗教性にこそ特有の命令である。とはいえ、初期キリスト教においても、たとえばアレクサンドリアのクレメンス のもとで、同胞愛がまっとうされるのは、もっぱら信仰仲間の範囲内にかぎられ、外部に向かっては躊躇なく拒否される。

丸山訳
そこから出て来るのは「兄弟愛」の命令であり、それは教団の信仰に、--信仰全てがそうではなくとも、まさに教団信仰に--特有のものであり、何故ならばそういった教団の信仰が政治団体からの解放をもっとも強く達成するからである。初期キリスト教団においても、例えばアレクサンドリアのクレメンス[1] においては、兄弟愛は信仰を同じくする仲間の内の全体に限定されたもので、外部に対しては直ちに適用されるのではない。

[1] Titus Flavius Clemens、150?~ 215年。エジプトのアレクサンドリアで活躍した2世紀のキリスト教神学者。ギリシア哲学の考え方をキリスト教に持ち込んだロゴスとしてのキリストを初めて論じた。

折原浩訳の問題点(147)

ゲノッセンシャフトやケルパーシャフトを無神経に「団体」と訳すのと逆の例。
ここでのAlle gesellschaftliche Ordnungは一般論を述べているのであって、
「ゲゼルシャフトの秩序」などと訳すのは逆に誤解を招き、「社会的秩序」と普通に訳すべきと思います。「理解社会学のカテゴリー」にこだわりすぎている例です。

原文
Beides ist Vergeltung: der Verletzende »verdient« die Strafe, deren Vollziehung den Zorn besänftigt, ebenso wie der Nachbar die Nothilfe. Daß man den Feinden Böses mit Bösem vergelte, versteht sich für die chinesische, vedische und zarathustrische Ethik ebenso wie bis in die nachexilische Zeit für die der Juden. Alle gesellschaftliche Ordnung scheint ja auf gerechter Vergeltung zu beruhen, und daher lehnt die weltanpassende Ethik des Konfuzius die in China teils mystisch, teils sozialutilitarisch motivierte Idee der Feindesliebe direkt als gegen die Staatsräson gehend ab.

折原訳
双方とも、原則は応報にある。侵害者は、罰を受けるに「相応しい」のであり、その執行が、怒りを和らげる。同様に、難儀した隣人は、救難援助に「相応しい」。敵にたして、悪には悪をもって、とは、中国・ヴェーダ・およびゾロアスターの倫理にとっても、捕囚後の時期にいたるユダヤ教の倫理にとっても、自明のことである。じっさい、あらゆるゲゼルシャフトの秩序は、公正な応報に依拠しているように見受けられる。それゆえに、孔子の現世適応倫理は、中国において片や神秘的、片や社会功利的に動機づけられていた敵愛の理念 を、国家理性に反するものとして直截に拒否している。

丸山訳
その二つの動機は家族関係に基づくものではない日常的行為を決定付ける:その倫理の侵害者に対する適切な同害報復[目には目を歯には歯を]と、親しい隣人達が困っている場合の兄弟愛的な援助である。どちらの動機も報い[報復と報酬]である:侵害者は罰に「値し」、その罰の執行が[神の]怒りを鎮めるのであり、困っている隣人を援助するのも[それに値し、そのことが神を喜ばせるという意味で]まったく同じことである。敵に対して目には目を歯には歯をで報いるのは、捕囚後の時期に至るまでのユダヤ人にとってと全く同様に、ユダヤ人の中国・インドのヴェーダ・ザラスシュトラの倫理にとっては自明のことであった。全ての社会的秩序は確かに適切な報いに依存しているように見えるが、それによって孔子の現世適合的な倫理は、中国において一部は神秘的に、一部は社会実利的に動機付けられた敵を愛するという考え方[1] を、直接に国家にとっての道理に反するものとして拒絶した。

[1] 老子においての報怨以徳(怨みに報いるに徳をもってす)や、墨子の兼愛(普遍的な博愛)など。

 

折原浩訳の問題点(146)

ここは[ゲマインデ内の誓約同胞関係が、原生的家族の血縁的紐帯に優越して]という余分な補足のひどさ。ウェーバーの論文で誓約は誓約ゲノッセンシャフト(Eidgenossennschaft、例えば中世イタリアの都市国家)で出て来るものであり、同胞関係が誓約で作られるというのはここが宗教の教団の話であることを考えれば全く不適切です。また初期のキリスト教の教団は、ゲマインシャフトかあるいは信仰ゲノッセンシャフトまたは召命ゲノッセンシャフトであり、誓約同胞関係とはまったく関係ありません。また洗礼は仲間同士の誓約ではまるでありません。何故社会学者でしかもヴェーバーの専門家と称している人がこんなデタラメなことを書くのでしょうか。

原文
Im polaren Gegensatz dazu die Sprengung aller Familienbande durch die radikalere Form der Gemeindereligiosität: wer nicht seinen Vater hassen kann, kann nicht Jesu Jünger sein. Oder etwa die strengere Wahrheit der indischen und zarathustrischen Ethik gegenüber der des jüdisch-christlichen Dekalogs (Beschränkung auf die gerichtliche Zeugenaussage) und andererseits das völlige Zurücktreten der Wahrheitspflicht gegenüber den zeremoniellen Schicklichkeitsgeboten in der Standesethik der konfuzianischen chinesischen Bürokratie.

折原訳
それと正反対の対極をなすのは、ゲマインデ宗教性がいっそう徹底した形態をとり [ゲマインデ内の誓約同胞関係が、原生的家族の血縁的紐帯に優越して]、「自分の父親を憎めない者は、イエスの弟子とはなれない」といわれる場合であり、ここでは家族的紐帯が破砕されることにならざるをえなかった。あるいは、[一方では]インドとゾロアスター教徒の倫理における [一般的な]正直の義務は、(当の義務が法廷証言に限定される) ユダヤ教-キリスト教の十戒に比べて、いっそう厳格であったが、他方で、中国の官僚制における儒教の身分倫理では、儀礼上の礼節の命令が優先されて、正直の義務はすっかり後退した 。

丸山訳
儒教の孝順の強調とまさに正反対なのが、教団の信仰の徹底した様式によるあらゆる家族的紐帯の破壊である:その父を憎むことが出来ないものは、イエスの弟子にはなり得ない[1]、である。あるいは例えば、ユダヤ教・キリスト教の十戒(正直であることが裁判での証人の供述に限定される[=偽証してはならない])に比べてより厳格なインドとゾロアスター教の真実を語る義務と、他方では儒教に基づく中国の官僚制の身分倫理における儀式上の礼儀作法に対して、真実を語る義務が完全に後退した[2] ことが挙げられる。

[1] マタイ 10:35「わたしは敵対させるために来たからである。 人をその父に、 娘を母に、 嫁をしゅうとめに。」

[2] 参考:「論語」子路第十三18 「葉公孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者有り。其の父羊を攘みて、子之を証す。孔子曰わく、吾が党の直き者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。」ただ、ここをヴェーバーが根拠にしているのであれば、「真実を語る義務が完全に後退した」というのはかなりの誇張である。

折原浩訳の問題点(145)

今日2つ目で、これまたひどい誤訳。前半のJe…, desto…の部分でdieseとihreは同じく「宗教的倫理の現世に対しての位置付け」(前の文)を指しているのに、折原訳は前を「現世」、後ろを「宗教倫理」と変えるという有り得ない訳をしています。そしてもし「現世」が正しいと仮にするならば、今度は「現世の現世の諸秩序への緊張」という意味不明なことになってしまいます。
そして最後の「ならざるを得ない」は単に「なり得る」と言っているだけ。可能を必然として訳すのは本当に勝手な訳者による論理の捏造です。
それからEigengesetzlichkeit の訳語として「固有法則性」はおかしく、ここは「自律性」、つまり現世のそれぞれの生活圏で独自のルール(法律・習律)が作られそれに従った生活が行われ、それが宗教倫理との摩擦を引き起こす、と言っているのですから。なんでこんなそれこそ社会学として重要でかつ「理解社会学のカテゴリー」の内容とも関わる語を正しく訳さないのか理解に苦しみます。

原文
Je systematisch-rationaler diese unter religiösen Gesichtspunkten zu einem Kosmos geformt wird, desto prinzipieller kann ihre ethische Spannung gegen die innerweltlichen Ordnungen werden, und zwar um so mehr, je mehr diese selbst ihrerseits nach ihrer Eigengesetzlichkeit systematisiert werden.

折原訳
現世が、宗教的観点のもとでひとつの宇宙へと体系的-合理的に形成されるにつれて、現世内の諸秩序にたいする宗教倫理の緊張は、それだけ原理的となる。しかもそのさい、現世内の諸秩序の側が、これはこれで、それぞれの固有法則性に即して体系化されると、それだけ宗教倫理との緊張も原理的とならざるをえない。

丸山訳
この現世に対する位置付けが、宗教的な見地である秩序ある世界[Kosmos]としてまで、より体系的・合理的に形成されるほど、現世内諸秩序に対するその位置付けの倫理的な摩擦はそれだけいっそうより原則的なものになり得、しかも現世内諸秩序自身がそれはそれとしてその自律性に沿う形で体系化される時はよりいっそうそうなり得る。

折原浩訳の問題点(144)

ここは3つの間違い。sanktionieren は元々「神聖にする」という意味で、そこから「承認する・是認する」という意味が派生します。社会学では確かにサンクションは承認と処罰の両方を含む場合がありますが、ここではそういう両義的な意味と解釈することは文脈上不可能です。

「それだけ柔軟な適応性を取得することができる。」の「できる」も間違い。原文はistで終わっており、「可塑的で適応性を持っている。」です。どこにも「取得する」という動詞はなくまたkannもありません。

それからProblematikはeinerが付いているので単数なのに、折原訳は勝手に「問題群」と複数にしてしまっています。

最後に「ステロ化」は日本の学会の方言みたいなもので、和製語彙であり、私は使いません。(おそらくは元は印刷屋さんでステレオタイプ(鉛活字)のことをステロ版と呼んでいたのが、学界にも入ったものと思われます。どちらにせよ今では一般に通じません。)

原文
Sie kennt kein »heiliges Recht«, sondern eine »heilige Gesinnung«, welche je nach der Situation verschiedene Maximen des Verhaltens sanktionieren kann, also elastisch und anpassungsfähig ist. Statt stereotypierend kann sie, je nach der Richtung der Lebensführung, die sie schafft, von innen heraus revolutionierend wirken. Aber sie erkauft diese Fähigkeit um den Preis einer wesentlich verschärften und »verinnerlichten« Problematik.

折原訳
そうした「心意倫理」への体系化は、「聖法」は知らず、ひとつの「聖なる心意」を知るのみである。そして、この「聖なる心意」は、そのときどきの状況に応じて、さまざまな行動の準則を両義的に裏打ち(サンクション) [あるものは賞揚し、あるものは非難]できるので、それだけ柔軟な適応性を取得することができる。したがってそれは、ステロ化にとって代わり、それぞれによって創り出される生き方の方向に向けて、内面から革命的に作用する場合もある。ところで、心意倫理への体系化が、こうした [革命的作用への] 力能を獲得するには、ある一連の、本質上尖鋭化され「内面化」された問題群を抱え込む、という代償を払わなければならない。

丸山訳
心情倫理への体系化は「聖なる法」には通じておらず、ある「神聖な心情」には通じており、その心情はその時々の状況に応じて様々な行動の原則を是認することが出来るのであるが、それ故に可塑的で適応性を持っている。そういった体系化は、ステレオタイプ的にする代わりに、それが作り出す生活実践の方向に向けて、内部からの革命的な作用を及ぼすことが出来る。しかしそういった体系化はそういった能力を、ある本質的に研ぎ澄まされ「内面化された」問題点を代償にして獲得する。

折原浩訳の問題点(143)

「夫婦間の自慰」という謎の誤訳。Onanismusは「自慰」ではなく、創世記38に出て来るオナンが、レヴィレート婚(兄が死んだ場合に弟が寡婦となった兄の妻と結婚すること)で元の兄の妻と結婚したのに、子供が産まれても自分のではなく兄の子とされるのを嫌って、精液を地に流したということです。「子供は二人まで」という産児制限のための避妊の話です。
ここも約20ページ前に「フランスでは時折、聖職者達が「子供は二人まで」というやり方に対して、利子禁止と同じような取扱いをして認めるべきだという扇動を行った。」という風に既に論じられています。

原文
Dem ebenso verpönten »Onanismus matrimonialis« (Zweikindersystem) dürfte es ebenso ergehen.

折原訳
同じように厳禁されていた「夫婦間の自慰」(二児制) についても、事態は同様に推移したにちがいない。

丸山訳
同様に厳禁されていた「夫婦間での避妊[1] [Onanismus matrimonialis]」(子供は二人までというやり方)においても、同様の処置が取られたのかもしれない[2]

[1] 参考:創世記 38:9「オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。」

[2] この内容も既にP.239にて論じられている。

折原浩訳の問題点(142)

ここもまたデコトラ翻訳の典型例。原文は特に複雑なことを言っている訳ではなく、宗教的な命令と経済上の様々な要求を矛盾なく処理するのに3つのやり方、つまり解釈を変える、決疑論的に違反していい場合を作る、実践において無かったことにする、というのがある、と言っているだけです。3つしかないのにわざわざ番号を付けるのは何故かと思います。しかも色々補っていることが勝手な解釈で、間違ってもいます。「利子禁止」はイエスの教えというよりモーセの律法で、ユダヤ教からキリスト教に引き継がれたものです。「[この [3] に類する] 後述のやり方」、も意味不明で、後述は利子禁止が実質的に廃止されるやり方を説明するだけのものの筈です。(実際は後述ではなく、既にこの点はかなり詳しく論じられており、ここのヴェーバーの記述は意味不明。おそらく書かれた順番が今回の箇所の方が先だった可能性あり。)「ただ運用において、実質上廃棄に等しい無効化を達成した」もどこにそんなことが書いてあるの、と思います。

原文
Die Bedürfnisse des ökonomischen Lebens machen sich entweder durch Umdeutung der heiligen Gebote geltend oder durch ihre kasuistisch motivierte Umgehung, zuweilen auch durch einfache praktische Beseitigung, im Wege der Praxis der geistlichen Buß- und Gnadenjurisdiktion, die z.B. innerhalb der katholischen Kirche eine so wichtige Bestimmung wie das Zinsverbot in bald zu erwähnender Weise auch in foro conscientiae völlig ausgeschaltet hat, ohne es doch — was unmöglich gewesen wäre — ausdrücklich zu abrogieren.

折原訳
経済生活の諸欲求が貫徹されるのは、[1]聖なる命令を解釈替えすることによって、あるいは[2]聖なる命令を回避してよい場合を、決疑論的に確定しておくことによって、あるいはまた、ときとしては [3] 聖職者が告解を聴聞して恩恵を分与する管轄権の行使にあたり、当の命令違反は不問に付し、実践上は直截な除外に等しい効果を達成することによって、なされる。たとえば、カトリック教会の内部では、利子取得禁止令のように重大な規定が、[この [3] に類する] 後述のやり方で、 良心の法廷においても、完全に排除された。そのさい、規定そのものの公然たる廃棄は [聖書に明文をもって記されているイエスの教えに抵触するので]不可能であったろうから、そうはせずに、ただ運用において、実質上廃棄に等しい無効化を達成したわけである。

丸山訳
経済的な生の諸要求が満たされるのは次のどれかによってである。つまり神聖な諸命令として見なされているものの新たな解釈によってか、あるいはそういった諸命令の決疑論的に動機づけられた違背によってか、時にはまた単純に実践的にはその命令を無かったことにすることによってかであり、最後の場合は霊的な悔い改めと恵みの管轄権の実践の中で行われるのであり、その管轄権は例えば、カトリック教会の内部では、利子禁止のようなある非常に重要な既定を、このすぐ後で言及するようなやり方で、良心の法廷においては[in foro conscientiae]完全に除外したのであり、しかしその場合でも、--それは不可能であったであろうから--明示的に廃止することなく行われた。