折原浩訳の問題点(189)

Weibは成人女性のことなので、前の箇所も含めて折原訳の「婦女子」はおかしいです。大体「婦女子」は成人男性から見て弱い保護すべき存在という言い方であって、その意味でも適当ではないです。
それから例によって折原訳には訳注がありませんが、ここでヴェーバーが挙げている例は色々怪しいです。私の訳注を参照してください。

原文
Das individuelle Weib ist dann »heilig«, die Gattung Gefäß der Sünde. Immerhin: fast alle orgiastische und Mystagogenpropaganda einschließlich der des Dionysos hat wenigstens temporär und relativ eine »Emanzipation« der Frauen befördert, wo nicht andere Religionstendenzen und die Ablehnung hysterischer Frauenprophetie sie überdeckten, wie bei den Jüngern Buddhas, ebenso wie im Christentum schon bei Paulus, oder mönchische Weiberfurcht, wie am extremsten bei Sexualneurasthenikern z.B. Alfons von Liguori.

折原訳
そういう場合、個々の婦女子は「神聖」でも、類としての婦女子は「罪の器」である。とはいえ、ほとんど全ての狂騒的布教や、ディオニュソスの密儀も含む密儀師の布教は、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人の「解放」を促進している。この点、別の宗教的傾向性、とりわけ特有のヒステリー症候をともなう女性の預言にたいする拒否の姿勢が、前景に出て、背後の事実を覆い隠していることも、しばしば見受けられる。たとえば、ブッダの弟子や、キリスト教ではすでにパウロの場合、あるいは修道士的な女人恐怖症、とりわけ極端な場合には、アルフォンス・フォン・リグオーリに見られるような、性神経症の域にも達する女人恐怖症など、事例に事欠かない。

丸山訳

個々の女性がそういった場合で「聖なる」者であったとしても、人間の種別としての女性は罪の器である。ともかくも:ほとんど全てのオルギア的・秘教司祭としての宣教は、ディオニューソスのそれを含めて、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人達の「解放」を促進していたし、それは他の宗教の諸傾向と女性によるヒステリー的な予言への拒絶がそれを覆い隠していない場合そうであり、そういった覆い隠しの例としてはブッダの弟子達があり[1]、また同様にキリスト教でも既にパウロの時にそうであり[2]、あるいは修道士の女性恐怖症、もっとも極端な例として例えばアルフォンソ・デ・リゴリ[3]の性的な神経衰弱[4] がある。

[1] ここは前の箇所の「ブッダが宗教的資質に富んだ女性を足元にひれ伏させるのを好んだ」という箇所を合わせて、ブッダ自身が女性拒否ではなくその弟子達が女性を拒否したと読めるが、実際はブッダ自身が女性の出家に対して否定的であり、ブッダの養母であるマハーパジャーパティが多くの女性を連れて出家を願った時に、ブッダは三度これを拒絶している。

[2] ここについても、パウロは1コリント11:5で条件は付けているものの女性の預言自体は認めているので例としては不適切。おそらくは1コリント14:34–35の「女性は集会では黙っていろ」の部分を誇張しているように見える。

[3] Alfonso Maria de’ Liguori、1696~1787年、イタリアの司教でカトリックの聖人。

[4] アルフォンソ・デ・リゴリは、極端な女性嫌いで、顔を合わせることも(実の母親を含めて)、握手などの身体的接触も避けた。しかしこれは性的神経衰弱ではなく、現代では「強迫観念(良心の呵責 / Scrupulosity)」、一種の強迫性障害と解釈されている。

ヴェーバー当時(1890年代)の「ゲマインデ」の実態資料

加藤房雄先生の本に、「ゲマインデ事典」というのが出て来て、ヴェーバーが土地問題・農業問題を扱う時に参照した統計資料のようです。原題は”Gemeindelexikon für das Königreich Preußen”です。インターネット上で現物を見られます。例えば、https://www.digitale-sammlungen.de/de/view/bsb11480933?page=12,13

これの中身の分類が、今日でいう地方自治体だけではなく、
Stadtgemeinden(都市型ゲマインデ)
Landgemeinden(農村型ゲマインデ)
Gutsbezirke(大土地所有領域)
となっています。都市ゲマインデがおそらく地方都市など、農村ゲマインデは多くは名前の通り、村でしょうが、その中には、昔のマルク共同体が単に名前を変えただけのものも多く含まれていて、旧マルク共同体の権利者集団が Realgemeinde / Altgemeindeとして新しいゲマインデの中でも依然として権利をそのまま保持した構成員として残っている例があります。
これだけを見ても、折原浩の間違った説明「ゲマインデは地域ゲマインシャフトでゲゼルシャフト化を契機としたもの」という説明がおかしいことは明らかです。ヴェーバーはゲマインデについて何か新しい定義を与えたりはしておらず、当時の歴史的実体としてのゲマインデを使っていることに再度注意すべきです。また、地方自治体とはまったく関係のない大地主の所領も含めて全体でゲマインデとしていることにも注意すべきです。
ただStadtgemeindenのここでの使い方を見て、「宗教ゲマインシャフテン」に出てくるのはやっぱり「都市ゲマインデ」でいいんだ、と勝手に勘違いされると困りますが。(笑)宗教ゲマインシャフテンに出てくるStadtgemeindeは明らかに一つの都市がある教団の拠点化することですから。(そもそもヴェーバーの原文は以下で、Stadtgemeindeという言い方すらしていません。
Und in beiden Fällen hemmten jene Momente sogar, sahen wir, die Entwicklung der Stadt zu einer »Gemeinde« weit stärker als die des Dorfes.)

折原浩訳の問題点(188)

まずはモーセの十戒が出てくるのですから、Ehebruchは言うまでもなく、「姦通」ではなく「姦淫」と訳すべきです。Hurereiもこちらも「姦淫」ですが、「性的放縦」といった曖昧な意味ではなく、具体的な売春とかでしょう。
それよりもっと罪が重く、とても社会学者が訳したと思えないのは、Univiraを「一夫一婦制」としていること。一夫一婦制は前に出て来ていますが、ヴェーバーはわざわざ「離婚の許されない一夫一婦制」としていますし、ギリシア人とローマ人で自由な離婚があったことも言及されていますから、単なる単婚制と厳密に区別してウニヴィラという単語を使っているのに、全く分かっていない語訳です。要するに女性が離婚した後、別の男性と結婚してもそれは「一夫一婦制」の範疇ですが、Univiraは生涯で一人の男性としか婚姻関係を持たなかった女性のことです。創文社訳が「一夫制」とまあまあ正しく訳しているのをとんでもない誤訳にしています。

原文
Der mosaische Dekalog wie die hinduistischen heiligen Rechte und die relativistischen Laienethiken der indischen Mönchsprophetien verpönen den Ehebruch, und die Prophetie Jesus geht mit der Forderung der absoluten und unlöslichen Monogamie in der Einschränkung der zulässigen legitimen Sexualität über alle anderen hinaus; Ehebruch und Hurerei gelten im frühesten Christentum fast als die einzige absolute Todsünde, die »Univira« als ein Spezifikum der Christengemeinde innerhalb der durch Hellenen und Römer zwar zur Monogamie, aber mit freier Scheidung, erzogenen mittelländischen Antike.

折原訳
モーセの十戒も、インドの聖法も、同じくインドにおける修行僧預言の相対主義的な平信徒倫理も、姦通を厳禁している。また、イエスの預言は、容認される正当な性的関係については、離別を認めない絶対的な一夫一婦制を要求する点にかけて、他の全ての預言を凌駕している。最初期のキリスト教では、姦通と性的放縦が、ほとんど唯一の絶対的死罪とみなされ、「一夫一婦制(ウニヴィラ)」が、地中海的古代の内部で、キリスト教ゲマインデに特有の、それを見分けるひとつの識別標識をなしていた。古代地中海世界のゲマインデ一般は、なるほどギリシア人とローマ人から一夫一婦制を教わってはいたが、自由な離別による抜け道もあった。

丸山訳

モーセの十戒も、同様にインドの聖なる法と、インドの修行僧の予言の相対主義的な平信徒諸倫理も、姦淫を厳禁しており、そしてイエスの預言は、絶対的で別れることを許さない単婚制[一夫一婦制、モノガミー]の要求について、容認されうる正当な性愛の制限という点において、他の全ての預言を凌駕している;姦淫と売春は最初期のキリスト教においては、ほとんど唯一の絶対的な死に値する罪とされており、「ウニヴィラ[1]」は、ギリシア人とローマ人から単婚制という制度を受け入れてはいたが、しかし自由な離婚も存在していた、古代地中海世界において、キリスト教団を他から見分ける識別手段となっていた。

[1] 古代ローマにおいて、生涯一人の夫を守り、あるいは夫と死別しても他の男と再婚しなかった女性を貞淑な妻の理想として Univira (一人の男しか持たなかった女性の意味)と呼んで称賛した。

折原浩訳の問題点(187)

ここは上野千鶴子先生が大喜びで問題にしそうな(笑)、女性差別的誤訳。
再度のweil以下の主語のsieはdie irreguläre Erotikなのに、折原センセは「婦女子の本性は」として、「君子の内面的平静を掻き乱してやまない」までも女性のせいにしています。

原文
Für die christliche und indische außerweltliche Askese versteht sich die ablehnende Stellung von selbst. Die mystischen indischen Prophetien der absoluten kontemplativen Weltflucht lehnen natürlich als Voraussetzung der vollen Erlösung jede Sexualbeziehung ab. Aber auch der konfuzianischen Ethik der absoluten Weltanpassung gilt die irreguläre Erotik als minderwertige Irrationalität, weil sie die innere Contenance des Gentleman stört und das Weib ein irrationales, schwer zu regierendes Wesen ist.

折原訳
キリスト教的およびインドの現世外的禁欲にとって、拒否のスタンスは、自明のことである。インドの絶対的な瞑想的遁世の神秘的預言は、当然ながら、十全な救済の前提条件として、いかなる性的関係も拒否する。ところが、儒教倫理の絶対的現世適応にとっても、[婚姻関係によって規制されない]非正規のエロスは、価値に乏しい非合理な所業とみなされる。それというのも、婦女子の本性は、非合理的で、制御し難く、君子の内面的平静を掻き乱してやまない、と見られるからである。

丸山訳
キリスト教とインドの現世外的禁欲にとっては、性愛を拒否する態度は自明なことである。絶対的・瞑想的な現世逃避の神秘主義的なインドの諸予言は、当然のことながら、完全な救済の前提条件として、全ての性的関係を拒絶する。しかし絶対的な現世適合の儒教倫理においても、非合法の性愛は低劣な非合理性と見なされ、その理由はそういった性愛は、士君子の内的な節度を妨げ、女性一般は非合理的で扱いにくい存在であるとされたからである[1]

[1] いわゆる「論語」陽貨第十七の「女子と小人は養い難し」をヴェ-バーが言い換えているもの。

 

折原浩訳の問題点(186)

(1) 折原センセは、Sekteについては常にゼクテとカタカナで訳していますが、訳注に書いたように、ヴェーバーは現在の宗教社会学では区別される、教派とセクトの両方にSekteを用いています。ここのロシアのフリスト派なんかは明らかにセクトです。
(2) 「舞踏狂騒の随伴結果」→こんなこと書いていません。前の文にひきずられています。
(3) 「聖域として保護される売春宿を旅商人に提供する」→「宗教的に保護された商人のための売春宿の役割を引き受ける」
(4) 何故同じBordellという単語を「売春宿」と「遊郭」に訳し分ける必要性があるのか。というか「遊郭」ってあなたいつの時代の人?(笑)

原文
So von modernen Sekten noch bei der Tanzorgiastik der Chlysten, — was, wie wir sahen, die Veranlassung zur Bildung der Skopzensekte gab, die eben diese askesefeindliche Konsequenz auszuschalten trachtete. Gewisse, viel mißdeutete Institutionen, so namentlich die Tempelprostitution, knüpfen an orgiastische Kulte an. In ihrer praktischen Funktion hat die Tempelprostitution dann sehr häufig die Rolle eines Bordells für die reisenden, sakral geschützten Kaufleute angenommen, die ja auch heute der Natur der Sache nach überall typisches Bordellpublikum sind. Die Zurückführung der sexuellen außeralltäglichen Orgiastik auf eine endogene Sippen- oder Stammes-»Promiskuität« als eigentlich primitive Institution des Alltags ist schlechthin töricht.

折原訳
近代のゼクテについて見ると、たとえばクリュスティ派 による舞踏狂騒の随伴結果が挙げられる。すでにわれわれが見たとおり 、これが契機となり、まさにそうした反禁欲的帰結の排除をめざして、去勢派(スコプティ)が形成されたのである。また、ある種の制度、とくに神殿売春は、しばしば誤って解釈されているが、本来、狂騒的礼拝と結びついている。その場合、神殿売春は、実践的機能においてはきわめてしばしば、聖域として保護される売春宿を旅商人に提供する役割を果たした。じっさい旅商人は、事柄の本性上、今日なお、遊廓の典型的な常連客である。非日常的な性的狂騒の起原を、本来原初的な日常の制度である氏族ないし部族の内部に発生する「雑婚」に求める所見 は、見当違いも甚だしい。

丸山訳

近代のセクト[1] についてでもなお、フリスト派[2] における舞踏オルギアの例がある、--既に我々が見た通り、そのセクトがスコプツィ[3][去勢派]の形成のきっかけになっており、そのスコプツィはまさにそうした禁欲の敵となるような帰結を排除しようと志したのである。ある種の、非常に誤解されている諸制度、特に神殿売春は、それはオルギア的礼拝と結び付いている。その実際の機能においては、それはそれ以外に非常にしばしば、旅行者である、宗教的に保護された商人のための売春宿の役割を引き受けるようになっており、そういった旅商人は確かに今日でもまた、事物の本性に従って、どこにおいても売春宿の典型的な顧客である。性的な非日常的オルギアの起源として、氏族や種族の内部的な、本来原初的な日常的制度としての「乱婚」に求める[4] のは、端的に馬鹿げている。

[1] ヴェーバーはSekteで、主としてプロテスタントの諸教派を意味し、時としてここの例のように現代の宗教社会学の分類では「セクト」(Sekte=教派に比べよりラジカルで排他的なもの)ものも含めている。例えばゲルト・タイセン著、廣石望訳、「イエス運動--ある価値革命の社会史」では教会-教派-セクト-カルト集団の四分類を取っている。(該当書、P.159)

[2] 1645年にロシアでダニロ・フィリポヴィッチによって創設されたセクトであり、厳格な禁欲主義を取る一方で、ラジェーニエという儀式で、激しく踊り回転しながら、自らを鞭打ってでトランス状態に入り、そのことで聖霊が自らの体に宿ると信じていた。

[3] 訳注422参照。

[4] バッハオーフェンの説。

折原浩訳の問題点(185)

ここは、まずは冒頭の文の主語、Erで男性名詞を受けていることが示されているのに、折原訳では「それは」。
次に、Saktireligiositätはシャクティ信仰なのに、折原訳では「性力崇拝的宗教性」という一体それ何ですか?という訳。ここに、religiositätと来ると何とかの一つ覚えで「宗教性」と訳す弊害が出ています。大体「性力崇拝的宗教性で性的な陶酔の機能が残っています」って当たり前でトートロジーでしかありません。シャクティ信仰の中に女性原理とか生殖力への崇拝とかありますが、「性力崇拝的宗教性」とするのはあまりにひどいです。

原文
Er behält diese Funktion auch in relativ systematisierter Religiosität gelegentlich ganz direkt und beabsichtigt. So bei der Saktireligiosität in Indien noch fast nach Art der alten Phalluskulte und Riten der die Zeugung (der Menschen, des Viehs, des Samenkorns) beherrschenden sehr verschiedenen Funktionsgottheiten. Teils und häufiger aber ist die erotische Orgie wesentlich ungewollte Folgeerscheinung der durch andere orgiastische Mittel, namentlich Tanz, erzeugten Ekstase.

折原訳
それは、相対的には体系化された宗教性においても、ときとしてまったく直接的また意図的に、この機能を維持している。インドの性力崇拝的宗教性においては、いまなお、古い男根崇拝や、生殖 (人間、家畜、穀物の種) を支配する多種多様な機能神崇拝の儀礼という流儀で、そうした機能が維持されている。ところが、性愛的な狂騒は、別の狂騒手段とくに舞踏によって生み出される陶酔の、もともとは意図されない随伴結果である場合もあり、むしろこのほうがいっそう頻繁である。

丸山訳
こうした性的な陶酔は、相対的に体系化された信仰においてもまた、時としては全く直接的にかつ意図的にこうした働きを保っている。インドのシャクティ信仰においては、未だにほとんど古代の男根崇拝と、生殖(人間の、家畜の、穀種の)を司る非常に多様の機能神の儀式のやり方に従ったそういった働きが残っている。しかしながら部分的には、そしてよりしばしば性愛的なオルギアは、他のオルギア的手段の本質的に望んではいなかった随伴現象であり、その手段とは特に舞踏によって引き起こされたエクスタシーである。

折原浩訳の問題点(184)

ここも間違い探しのようなひどい訳。
(1)「世俗内的禁欲のみである。」→「ただ現世内禁欲の職業倫理のみである。」
(2)「それ相応の問題機制が潜んではいる。」→「そういった留保事項にはそれ相応の問題がある」
(3)[世俗内的禁欲による内面的適合の方向ばかりではなく]→そんなことは書いていない。
(4)Zu….,…, gehört という構文を理解していない。暴力行使の合理化の事実上の諸結果に非合理性への逃避が随伴する、と言っているのにそういう訳にまるでなっていない。
(5)「いたるところで通例、脱政治的感情の非合理性への逃避が強められる。」→「そういった暴力行使の合理化の諸結果はwo以下の場合は至る所で通例出てくるものであるが」であり、最後の文にかかっているのではない。
(6)国民「国家」→合理的国家
(7)[そういう英雄が自分たちで秩序を定立・制定し、互いに準拠し合うという]→これもそんなことは書いていない。
(8)「即人主義」→繰り返しになるけど「人格主義」。

原文
Wirklich innerlich adäquat ist der Versachlichung der Gewaltherrschaft — mit ihren rationalen ethischen Vorbehalten, in welchen die Problematik steckt — nur die Berufsethik der innerweltlichen Askese. Zu den tatsächlichen Folgen der Gewaltsamkeitsrationalisierung aber, die, in verschieden starkem Grade und auch in der Art unterschiedlich sich äußernd, überall da aufzutreten pflegten, wo jene Hinwegentwicklung der Gewaltsamkeit von der personalistischen Helden- und Gesellschaftsgesinnung zum rationalen »Staat« sich entfaltete, gehört die gesteigerte Flucht in die Irrationalitäten des apolitischen Gefühls.

折原訳
さて、暴力支配の即物化に真に内面的に適合できるのは、世俗内的禁欲のみである。しかしそれも、合理的かつ倫理的な留保をともなっており、そうした留保には、それ相応の問題機制が潜んではいる。とはいえ、暴力機構の合理化から生まれる諸結果は、事実上[世俗内的禁欲による内面的適合の方向ばかりではなく]、さまざまな強度で、さまざまに異なる性質を帯びて現れてくる。そして、そうした事実上の諸結果のひとつとして、暴力支配が、即人主義的な英雄の心意と [そういう英雄が自分たちで秩序を定立・制定し、互いに準拠し合うという]ゲゼルシャフト的な心意とから離れて、国民「国家」に発展を遂げるところでは、いたるところで通例、脱政治的感情の非合理性への逃避が強められる。

丸山訳
実際に権力的支配の物化に内面で適合するのは--その支配の合理的・倫理的な留保事項についての適合であり、そういった留保事項にはそれ相応の問題があるが--ただ現世内禁欲の職業倫理のみである。暴力行使の合理化の事実上の諸結果についてはしかし、それらは様々な強さで、そしてまた様々な形で出て来る、人格主義的な英雄の心情とゲゼルシャフトの心情においての暴力性が、合理的な「国家」にまで進むというあの発展が起きたところでは、どこでもしばしば登場してくるものであるが、その暴力行使の諸結果には、非政治的感情の非合理性への逃避ということが随伴してくるのである。

折原浩訳の問題点(183)

ここは、創文社訳も折原訳もさっぱり意味が分からなかったので、生成AIの助けを借りました。
根本的な間違いは、eigenenを「(個々の)祭司自身の」と解釈していることで、これは「カトリック教会自身の」です。それから「権力への利害関心を救い出す」もさっぱり意味不明の訳です。これはカトリック教会が、自身の祭司制度などの利害を、近代社会の中で他の政治団体などと同じように、保全しようとする、ことです。
それから細かいことですが、gleichen und ähnlichenは「同じか、あるいは類似の」ではなく、同じ手段と類似の手段の両方です。この訳者、こういう所が本当に雑です。他の箇所で逆にoderをundにして誤訳している例もあります。
さらにはInteresseが多くの場合「利害関心」と訳されていますが、「利害」か「関心」かどちらかであり、「利害関心」みたいな訳は読む人にとって迷惑この上ないです。

原文
— Die Anpassungen nun, welche die heutige kirchliche Ethik dieser Situation gegenüber vornimmt, sind hier nicht näher zu schildern. Im wesentlichen bedeuten sie ein Sichabfinden damit von Fall zu Fall und, namentlich soweit die katholische Kirche in Betracht kommt, vor allem eine Salvierung der eigenen, ebenfalls zunehmend zur »Kirchenräson« versachlichten priesterlichen Machtinteressen mit den gleichen und ähnlichen modernen Mitteln, wie sie dies weltliche Machtstreben benützt.

折原訳
――さて、今日の教会倫理が、この状況に対して企てるさまざまな適応については、ここで逐一採り挙げて詳論する必要はあるまい。それらは本質上、こうした状況にたいするその場その場の妥協を意味している。とくにカトリック教会を考えるかぎりでは、そうした適応はとりわけ、ここでもまた次第に「教会理性」に即物化されていく祭司自身の権力への利害関心を、世俗的な権力追求が用いるのと同じか、あるいは類似の、近代的手段によって、救い出そうとする企てを意味する。

丸山訳
--今日の教会倫理がこういった状況に対して行おうとする様々な適応については、ここではより詳細に論じることはしない。本質的にはそういった諸適応が意味するのは、ケースバイケースでの状況との妥協であり、特にカトリック教会について考慮する限りでは取り分け、カトリック教会自身の、同様に次第に「教会理性」へという形に物化されてゆく祭司制度の権力的利害を[政治の場合と]同じ近代的手段とまた類似のそれによって保全することであり、そういった手段はこのような世俗的な権力志向にて用いられるものと同様である。

折原浩訳の問題点(182)

下記の句の、fabulistischesはEigenpathosにかかるのであり、折原訳の「寓話作家なみに」はまったく意味不明の訳です。
これは英語ならfabulousで「まるでおとぎ話のように信じられないほど素晴らしい」といった意味でしょう。

原文
von Napoleon gelegentlich glänzend formuliertes fabulistisches Eigenpathos

折原訳
この情念を、ナポレオンは寓話作家なみに、ときに輝かしい光彩を添えて定式化した

丸山訳
それについてナポレオンが時折華やかに表現した信じがたいほど素晴らしき自己の情熱

折原浩訳の問題点(181)

ここのAnsehenを「人柄」と訳すのは内容をまったく理解していないひどい誤訳です。そもそもansehenという動詞自体が「~を見る」という意味なので、内面的な人柄に関して言っているのでまったくなく、(外から見える)「地位・立場・身分」に応じて振る舞いを変える、と言っている訳です。
また、「たとえばトマス・アクィナスによって問われている」も「またトマス・アクィナスにおいても」であり、何故こんな簡単な箇所を正しく訳せないのか理解に苦しみます。これは学術的な翻訳ではなく折原版「超訳」です。

原文
Daß man nach Ansehen der Person verschiedenen verfahren müsse, versteht sich der personalistischen ständischen Ordnung von selbst und nur in welchem Sinn wir gelegentlich, auch bei Thomas von Aquino, zum Problem. »Ohne Ansehen der Person«, »sine ira et studio«, ohne Haß und deshalb ohne Liebe, ohne Willkür und deshalb ohne Gnade, als sachliche Berufspflicht und nicht kraft konkreter persönlicher Beziehung erledigt der homo politicus ganz ebenso wie der homo oeconomicus heute seine Aufgabe gerade dann, wenn er sie in idealstem Maße im Sinn der rationalen Regeln der modernen Gewaltordnung vollzieht.

折原訳
即人主義的な身分秩序にとっては、人柄の如何に応じて対応を変えるのが、自明のことで、ただいかなる意味で自明なのかが、時折、たとえばトマス・アクィナスによって問われているだけである。今日の政治人は、経済人とまったく同様、近代的権力秩序の合理的規則に即して、もっとも理想的に [なにか変則的にではなく] 自分の課題を果たすときにこそ、「人柄の如何を問わず」「怒りも偏愛もなく」――憎悪がないとはいえ愛着もなく、恣意がないので寵愛もなく、つまり具体的な即人的関係に準拠してではなく、即物的な職業的義務として――、自分の課題を遂行する。

丸山訳
人が他人の身分・地位・立場[Ansehen]によって振る舞い方を変えなければならないということは、人格主義的な身分秩序自身には自明のことであり、ただどういう意味でかがその時々に、またトマス・アクィナスにおいても、問題にされるのである。「相手がどういう[立場・身分・地位の]人であるかに関係無く」、「怒りと偏見なしに[1]」、つまり憎しみもなく、それ故に偏愛もなく、恣意もなく、それ故に愛顧もなく、物的な職業義務として、具体的な人的な関係に拠るのではなく、ホモ・ポリティクス[政治的人間]とまさしく同様にホモ・エコノミクス[経済的人間][2] も、今日ではそれぞれの課題をまさに、その者がそういった課題を近代的な権力秩序の合理的な規則という意味でもっとも理想的な形で遂行する場合に、解決するのである。

[1] sine ira et studio、ローマの歴史家タキトゥスの「年代記」の冒頭に書かれた章句。

[2] ホモ・ポリティクス[政治的人間]もホモ・エコノミクス[経済的人間]も、人間の政治的・経済的な要素だけを純粋に取り出した仮想的な人間像のこと。近代経済学の仮定する経済的に合理的な行動はホモ・エコノミクスのものである。