折原浩訳の問題点(97)

ここもまた、Habitusの意味がきちんと捉えられていないので、Gefühlshabitusが「感情の特定の習性」という意味不明の訳になってしまっています。
それから訳注に書きましたが、やはりヴェーバーは瞑想すらもキリスト教的「神秘的合一」でまとめてしまっています。仏教においては「無」の心には神も仏もないと思いますが。

原文
Die Kontemplation dagegen ist primär das Suchen eines »Ruhens« im Göttlichen und nur in ihm. Nichthandeln, in letzter Konsequenz Nichtdenken, Entleerung von allem, was irgendwie an die »Welt« erinnert, jedenfalls absolutes Minimisieren alles äußeren und inneren Tuns sind der Weg, denjenigen inneren Zustand zu erreichen, der als Besitz des Göttlichen, als unio mystica mit ihm, genossen wird: einen spezifischen Gefühlshabitus also, der ein »Wissen« zu vermitteln scheint.

折原訳
ところで、瞑想とはまず、神的なもののなかに、しかもそこにのみ、ある「安息」を求めることである。行為しないこと、突き詰めれば思考すらしないこと、なにほどか「現世」を思い出させるものは全て払拭して、ある空無の状態に到達すること、いずれにせよ全ての外的および内的行為を徹底して極小化して止まないことが、神的なものの所有、つまり神との「神秘的合一」として享受される内面的状態に到達する道である。したがって、この状態は、感情の特定の習性ではあるが、ある種の「知」を伝達する状態とも見られる。

丸山訳
それに対して瞑想とは、主として神的なものの中に、そしてただその中に「静寂」を求めるものである。それは行為しないこと、最終的には考えないこと、なんであれ多少であっても「現世」を思い出させるものを全て排除すること、いずれの場合でも全ての外的・内的な行為を絶対的に最小化することであり、そういったことが、神的なものの所有として、つまりその者においての神秘的合一[unio mystica[1]]として享受される、内的な状態に到達するための道なのである:その内的状態とはつまり特別な感情においての恩寵による魂の性向[Gefühlshabitus]であり、それがある「智」[Wissen]を導くように見えるのである[2]

[1] 神秘主義者の体験として言われる、神とその者とが一つに合一した状態のこと。

[2] この辺りの「瞑想」の説明、例によってキリスト教的「神秘的合一」で全てをまとめてしまっているが、例えば仏教の禅での瞑想の説明としてはナンセンスである。

折原浩訳の問題点(96)

ここもまた、辞書をきちんと確認せず、何となく似ている単語から間違った意味をでっち上げてしまったもの。
unausgesetzt は「間断なく、不断の」という意味ですが、折原訳は「前提としている」と訳してしまっています。vorausgesetztと混同しています。

原文
Der weltablehnende Asket hat mindestens die negative innere Beziehung unausgesetzten Kampfes zur »Welt«. Man spricht deshalb bei ihm zweckmäßigerweise von »Weltablehnung«, nicht von »Weltflucht«, die vielmehr den kontemplativen Mystiker kennzeichnet.

折原訳
現世拒否的禁欲者は、少なくとも「現世」にたいする闘いを前提としている点で、「現世」にたいする否定的な内面的関係を保持している。したがって、かれについては「現世逃避」ではなく「現世拒否」を語ったほうが、当をえている。「現世逃避」はむしろ、瞑想的神秘家を特徴づけるのに相応しい言い方である。

丸山訳
現世を拒絶する禁欲者は、少なくとも「現世」との絶え間ない戦いの内面においての否定的な関係を保持している。それ故にそういった禁欲者については「現世拒絶」という言い方がふさわしく、よりむしろ瞑想的な神秘思想家を示しているような「現世逃避」はふさわしくない。

折原浩訳の問題点(95)

ここのwacheの訳の問題。折原訳は「醒めた」としていますが、問題はその前に出て来たeine nüchterne Kindererzeugungも「醒めた子どもづくり」としていること。後者は訳すなら「情欲に溺れない」「節度ある」くらいだと思います。私は「醒めた」を見ると、漁父の辞の「衆人皆酔、我独メタリ」を思いだし、「酒に酔っていない」というイメージが浮かびます。ここで言っているwacheは新約聖書に出て来る「(神の国はいつ来るか分からないから)目覚めていなさい」とか、J. S. バッハのカンタータの「目覚めよと呼ぶ声あり Wachet auf, ruft uns die Stimme」とかそちらのイメージだと思います。

原文
Der »innerweltliche Asket« ist ein Rationalist sowohl in dem Sinn rationaler Systematisierung seiner eigenen persönlichen Lebensführung, wie in dem Sinn der Ablehnung alles ethisch Irrationalen, sei es Künstlerischen, sei es persönlich Gefühlsmäßigen innerhalb der Welt und ihrer Ordnung. Stets aber bleibt das spezifische Ziel vor allem: »wache« methodische Beherrschung der eigenen Lebensführung.

折原訳
「現世内的禁欲者」は、かれ自身の即人的な生き方を合理的に体系化するという意味でも、倫理的に非合理なものを、芸術家的なものであれ、現世とその秩序の内部における即人的感情であれ、ことごとく拒否するという意味でも、合理主義者である。とりわけ、自分自身の生き方にたいする「醒めた」方法的制御が、現世内的禁欲者に特有の恒常的な目標である。

丸山訳
「現世内禁欲者」はその本人の個人的生活実践の合理的な体系化という意味でも、また全ての倫理的に非合理的なもの、それが芸術家的なものであれ、現世とその秩序の内部での個人としての感情的なものであれ、それらの拒絶という意味でも、合理主義者である。しかしその場合でも常に第一に優先されるべき特別の目的が残っている:自分自身の生活実践に対して「目覚めている」秩序ある自制である。

折原浩訳の問題点(94)

ここでは、ヴェーバーはVerpönt ist (忌むべきは、斥けられるべきは)で始まる文を5回繰り返しています。これは明らかに山上の垂訓の Selig sind…(幸いなるかな、~の者は)などの文体模写(パスティーシュ)です。なので余計な接続詞や、第一に、第二に、などを付けずに、「忌むべきは、…」で統一して訳すべきと思います。それに個人への倫理的な戒告なので「厳禁される」も合っていない訳だと思います。

それからここでのGewaltは明らかに暴力であって、「個々人の権力行使」って意味不明です。ここでは明らかに私的復讐禁止の話ですから。それから久し振りに「即人的」が復活しました。この前の文章でsachlichと「即物的」と訳しているので、これでこの語の折原訳における位置付けが分かりました。

原文
Verpönt ist Gewalt des Einzelnen gegen Menschen, aus Leidenschaft oder Rachsucht, überhaupt aus persönlichen Motiven — gottgewollt aber die rationale Niederhaltung und Züchtigung der Sünde und Widerspenstigkeit im zweckvoll geordneten Staate.

折原訳
第四に、他人にたいする個々人の権力行使は、激情からであれ、復讐欲からであれ、およそ即人的な動機に発するかぎり、厳禁される。とはいえ、合目的的に秩序づけられた国家において、罪と反抗を合理的に禁圧し懲戒することは、やはり神意に適う処置である。

丸山訳
忌むべきは、個々の者の他人に対しての暴力であり、激情からであれ、復讐が目的であれ、また一般的に個人的な動機によるものであれ--しかし合目的な制度を備えた国家における、犯罪と反抗の合理的な抑圧は神意に適うものである。

折原浩訳の問題点(93)

今日は小ネタだけかと思いきや、ここは明確な誤訳。
die sie umbrandetは動詞が単数形なので、主語はDurchschnittsmenschen(平均的人間)ではなく、die Welt。
umbranden がちょっと分かりにくいのですが、brandenが「波が押し寄せ砕け散る」という意味なので、umが付くと「何かを囲んで波が打ち寄せる」という意味になります。要するに禁欲者達の集団が、大洋に浮かぶ孤島のような存在で、その周りに「現世」が押し寄せるイメージです。その解釈は「現世の内部で、あるいは本来的には外部で」という表現とぴったり整合します。
折原訳の「周囲で平均的人間と衝突し」は主語と目的語が逆な上に、主語が単数であることを見落とした誤訳です。まあ創文社訳も同じく誤訳ですが。
ちょっと両方を弁護すると、このumbrandenは手元の辞書には[雅]とあるので、一種の文学表現です。こんな分かりにくい表現使わないで、普通に書けばいいのにと思います。まあヴェーバーの文章を単なる社会学だけと思ったら絶対にダメということです。法学、法制史、歴史一般、経済学(財政)、に文学表現まで理解する必要があります。

原文
Stets aber wird dann, infolge der Verschiedenheit der religiösen Qualifikation, ein solcher Zusammenschluß des Asketentums eine aristokratische Sonderorganisation innerhalb oder eigentlich außerhalb der Welt der Durchschnittsmenschen, die sie umbrandet — darin von »Klassen« prinzipiell nicht unterschieden.

折原訳
ところが、そうした禁欲者の結集態は、やがてはつねに、宗教的資質の差異のため、平均的な人間の世界の内部、というよりも、ほんとうのところはその外部に、貴族主義的な特別組織をつくり、周囲で平均的人間と衝突し、その点で原理上「階級」と区別されないものとなる。

丸山訳
それぞれの宗教的な資質の違いの結果として、平均的な人間の集う現世の内部で、あるいはそもそもは現世の外部で、そういった現世は禁欲者達の集団を囲んで波濤のように押し寄せているのであるが、貴族政的な特別な組織となり--そこにおいてはそれは「階級」と原理的に区別がつかなくなる。

折原浩訳の問題点(92)

今日のは小ネタです。
「クロムウェル麾下」は議会について言うのはおかしいでしょう。(「麾」=軍旗)鉄騎兵なら「麾下」でいいでしょうが、やはり日本語のセンスに問題があります。
それからこの辺りヴェーバーの記述がどんどんラフになっているので、訳注を付けないと読む人はなかなか理解出来ません。「クェーカー教徒の国家」なんて存在しません。

原文
Dann wird der Asket ein rationaler »naturrechtlicher« Reformer oder Revolutionär, wie ihn das »Parlament der Heiligen« unter Cromwell, der Quäkerstaat und in anderer Art der radikale pietistische Konventikel-Kommunismus gekannt hat.

折原訳
そのとき禁欲者は、クロムウェル麾下の「聖者の議会」や、クェーカー教徒の国家や、その他、性質は異なるが、敬虔派の急進的な信徒集会-共産主義に見られるような、合理的な「自然法的」改革者か革命家となる。

丸山訳
その場合には禁欲者は合理的な「自然法に沿った」改革者か革命家になるのであり、その例としてはクロムウェルの元での「聖徒議会[1]」や、クェーカー教徒の植民地[2] と他のやり方での過激で敬虔主義に基づく信者の集会-共産主義[3] などが知られている。

[1] 1653年にクロムウェルが招集したベアボーンズ議会のことで、全議員がクロムウェルの指名に基づき、140名全員がピューリタンであった。急進的な改革を試みたが成功せず5ヵ月で解散した。

[2] 原文はder Quäkerstaatだがクェーカー教徒が国家を作ったことはなく、おそらくはクェーカー教徒がペンシルヴェニア州に作ろうとした理想的な植民地のこと。ウィリアム・ペンがイングランド国王にお金を払って領主となることを認めてもらい、クェーカー教徒の避難所となる植民地を建設した。住民への信仰の自由と経済活動の自由を保証し、ネイティブ・アメリカンの自由も認めた。

[3] 敬虔主義での信者の集団(エクレシア)が財産共有などの共産主義的な行動を生み出す母体となった場合がある、ぐらいの意味と思われる。

折原浩訳の問題点(91)

91回目。
ともかくこの訳者は「盛る」。そして「改変する」。
(1) 「現世秩序に逆らって、活動し、」は変。世俗内禁欲はともかう現世とは折り合っていくので、逆らったりする訳ではない。
(2) 「廃絶」も変。別に核兵器みたいに完全に無くしましょうと言っているのではなく、距離を置くということを言っているだけ。
(3) 「文字通り完全な隔離」の「完全な」は原文になく、またいくらなんでも完全に隔離したら生きていけません。

原文
Diese Konzentration kann ein förmliches Ausscheiden aus der »Welt«, aus den sozialen und seelischen Banden der Familie, des Besitzes, der politischen, ökonomischen, künstlerischen, erotischen, überhaupt aller kreatürlichen Interessen notwendig, jede Betätigung in ihnen als ein von Gott entfremdendes Akzeptieren der Welt erscheinen lassen: weltablehnende Askese. Oder sie kann umgekehrt die Betätigung der eigenen spezifisch heiligen Gesinnung, der Qualität als erwählten Werkzeugs Gottes gerade innerhalb und gegenüber den Ordnungen der Welt verlangen: innerweltliche Askese.

折原訳
こうした救いの業への集中が、「現世」からの文字通り完全な隔離――すなわち、家族や財産や、政治的・経済的・芸術的・性愛的・その他、およそあらゆる被造物的利害関心に発する社会的また精神的紐帯からの隔離――を必要とし、そうした利害関心によるいかなる活動も、神からは疎隔される現世受容とみなされ、廃絶されるにいたる、という場合もある。これが現世拒否的禁欲である。あるいは逆に、自分に特有の神聖な心意、すなわち、神によって選ばれた道具としての自分の資質を、他ならぬ現世秩序の内部で、また、現世秩序に逆らって、活動し、そうすることによって確証することが、要求される場合もある。これが現世内的禁欲である。

丸山訳
こうした専心は、文字通り「現世」からの断絶で有り得、それは家族、財産、政治的・経済的・芸術的・性愛的なものとの社会的・精神的なつながりからの断絶であり、つまり一般的に言えば被造物の全ての関心からの断絶が不可欠なのであり、そういった関心からの全ての活動を、神から遠ざける現世の受容と見させるのであり:これが現世拒絶の禁欲である。あるいは専心は逆に自分本来の特別な神聖な心情、選ばれた神の道具としての資質からの行いの確証を、現世秩序の真っ只中で、そしてそれに向き合って望むのである:つまり現世内禁欲である。

「宗教ゲマインシャフテン」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R7

「宗教ゲマインシャフテン」大幅改訳版のR7をアップします。これで全体の2/3ぐらいです。前回アップから1ヵ月半経っておらず、かなりペースは上がって来ています。

どうもこの辺りのヴェーバーの議論は、かなり眉唾という感じがします。結局はプロ倫の延長線上で全ての宗教を解釈しようとする傾向が強いです。

20260531_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R7.pdf

折原浩訳の問題点(90)

ここは前回の箇所の次の文。一箇所間違えると連動して関連箇所も間違えるという例です。一行目の aktiv を折原訳はHandelnsにかかる形容詞のように「積極的な」と訳していますが、このすぐ前に救済財を「貸方」にある財産としていますので、ここのaktivは(活用語尾もなく)副詞であり、「借方での」という意味としか解釈出来ません。「借方」は外部に向かって出ていくものですから、この場合、「行為」はまさしくそういうものです。(貸借対照表の貸方、借方は外部からその企業を見た場合の貸し借りです。なので貸方はその企業にとってはお金が入って来ること、借方は出ていくことになります。)この「借方」側の行為が、「貸方」側の救済財とバランスしている、と自然に読めます。そもそも救済「財」という言い方からして、ヴェーバーはずっと宗教に対して経理・複式簿記的な説明をしているのを折原センセも創文社訳の訳者も読めていません。(ということは日本のヴェーバー関係者の大半も正しく読んでいないということです。)

原文
Entweder ist dies eine spezifische Gabe aktiv ethischen Handelns mit dem Bewußtsein, daß Gott dies Handeln lenke: daß man Gottes Werkzeug sei. Wir wollen für unsere Zwecke diese Art der durch religiöse Heilsmethodik bedingten Stellungnahme eine religiös-»asketische« nennen — ohne irgendwie zu bestreiten, daß man den Ausdruck sehr wohl auch in anderem, weiteren Sinn brauchen kann und braucht: der Gegensatz dazu wird später deutlich werden.

 

折原訳
そうした救済財は、神が人間の行為を導き、人間は神の道具である、という意識をもっておこなわれる、積極的な倫理的行為という独特の賜物である [か、それとも、後段で採り上げる] 独特の状態性であるか、どちらかである。宗教的救済技法によって制約された、この種の立場決定を、ここでは、われわれの目的に照らして、宗教上「禁欲的」な立場と呼ぶことにしたい。もとよりこの禁欲という表記は、もっと広い別の意味でも用いられようし、現に用いられているが、ここではそうした議論には立ち入らない。用語法のそうした対照的差異は、やがて後段で 、明らかにされるであろう。

丸山訳
そうした救済財はある場合は[1]、借方としての[2] 倫理的な行為の特別な賜物であり、次のような意識を伴っている。つまり、その行為を神が導いた、ないしは人が神の道具である、ということである。我々は我々の目的のために、この種の宗教的な救済の方法論に制約された態度表明を、宗教的に「禁欲的」なものと呼ぶことにしたい--ここでは次のことに対して異論を唱えることはしない。それはこの表現が非常にしばしばまた別の、より広い意味で使われうるし、実際に使われているということである:そういった一般用法との対比は後に明らかにされる。

[1] このEntwederに対応する別の場合は、ずっと先に出て来る。

[2] aktivは「借方の」という意味で、前の文で救済財を「貸方」としたのに対応している。