「宗教ゲマインシャフテン」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R8

「宗教ゲマインシャフテン」の大幅改訳版のR8をお届けします。これで大体全体の3/4ぐらいです。
今回の辺りを読むと、これは一般的な宗教社会学と言うより、あくまでも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の拡大強化版に過ぎないという印象を強く受けます。色んな宗教が登場しますけど、全てそれはプロテスタンティズムを目立たせるための背景にだけ使っているという感じです。またカトリックの教義に対する過小評価もひどいと感じます。

20260708_宗教ゲマインシャフテン大幅改訳R8.pdf

ヴェーバーの宗教に対する会計用語の使用について

ここで何度も指摘しているように「宗教ゲマインシャフテン」の中で、ヴェーバーは信者の内面を一種の複式簿記の帳簿として説明することを何度も行っています。これってヴェーバーがある意味独自にやったのかと思っていたら、コンツェルマンの「新約聖書神学概説」の中に、「(一)法律的。人間は律法を満たしていない。罪人である。しかし神はキリストの救済行為を人間の貸方に記帳し、それによって人間は買いもどされた。」というのが出てきました。これはパウロについての説明ですが、ローマの信徒への手紙の4:3-4では
「3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」
となっており、3の「義と認められた」の元のギリシア語は λογίζομαι であり、これの本来の意味には「信用を与える、記帳する」があり、元々会計的な用語を使っています。
さらには4の「当然支払われるべきもの」とはつまり債権ということです。
もちろんパウロの時代に複式簿記はありませんが、少なくともドイツのルター派の中では信仰義認論の中で経理・会計用語はかなり使われていた、というのが真相のようです。もちろんヴェーバーはそれを更に拡大して使ってはいますが。

折原浩訳の問題点(114)

ここの折原訳、耕作兄弟団って何?というのと、ゲマインデ仲間という訳は、この論文ではゲマインデが地方団体と教団という2つの意味で使われている以上、どちらとも取れるような曖昧な訳は困りますね。ここは訳注にも書きましたが、祭儀の他の参加者は遮断して扉を閉めた中で神官達のみが踊ったということ。折原訳だと地方団体の他の成員を遠ざけてみたいに読めてしまいますし、「門扉」もおかしいです。要はどういう祭なのか自分で調べていないからこういう適当な訳になる訳です。

原文
Kultischer Tanz findet sich nur bei den ältesten Priesterkollegien und im eigentlichen Sinne des Tanzreigens nur bei den fratres arvales, und zwar charakteristischerweise hinter verschlossenen Türen nach Entfernung der Gemeinde.

折原訳
祭儀としての舞踏は、最古の祭司仲間のもとではおこなわれていたが、輪舞という本来の意味における舞踏は、もっぱら「耕作兄弟団fratres arvales」 仲間にかぎり、しかも特徴的なことに、門扉を閉ざしてゲマインデ仲間を遠ざけた後に、実施された。

丸山訳
祭儀での舞踏はただ最古の祭司団体においてのみ見出されるが、野外での輪舞の本来の意味ではただ、fratres arvales[1] [アルウァーレスの兄弟団]においてのみ、それも特徴的なこととして、扉を閉ざして他の祭礼参列者を遠ざけた中で行われた。

[1] 古代ローマで豊穣の神への祭典を12人の高位の神官が中心になって行ったもの。共和政期には廃れていたがアウグストゥスがそれを復活させた。豊穣の神デア・ディアに捧げる祭の第二日に神殿内で儀礼が行われ、その後閉じた扉の背後で、神官達のみが厳粛な踊り、三拍子の踊りを踊った後、頌歌を歌った。

折原浩訳の問題点(105)

ここはこの訳者がいかに注意深さに欠けているかの好例です。最後の部分のirdischen は「地上の、現世の」ということで、「インドの」ではありません。ただ怪我の功名的に、文脈としては確かにインドの修行僧のことなんで、意味を歪める訳ではありませんが。要するに神と一体化するような瞑想ではなく、現世の煩悩から離脱して解脱に至ることを目差す瞑想ということ。大体、Erde → irdisch であり難しい単語ではありませんし、宗教関係では良く出て来る単語です。

原文
Je mehr er innerhalb der Welt steht, desto »gebrochener« wird im allgemeinen seine Haltung zu ihr im Gegensatz zu dem stolzen Heilsaristokratismus der außerweltlichen irdischen Kontemplation.

折原訳
神秘家が現世の内部にいればいるほど、現世にたいするかれの態度は、それだけ「砕かれた」ものとなる。この点は、インドの現世外的瞑想の誇り高い救済貴族主義とは対照的である。

丸山訳
神秘主義者が現世内部で過ごせば過ごす程、それだけいっそうその者の現世に対しての心構えは「打ち砕かれた状態」となり、それは現世外においての地上的な瞑想の誇りを持った救済貴族主義と対照を成す。

折原浩訳の問題点(86)

今日は小ネタですが、相変わらず継続して誤訳が出てきます。
religiös gewendetは「宗教上の言い回しによれば」ではなく、「宗教的にはまったく逆になり」です。要するに本来は神に近付き救済財を得るためのものであった手段が結局は神に見捨てられた状態へと「反転する」ということです。
Wendungなら「言い回し」という意味がありますが、動詞のwendenにはそういう意味はなく「向きを変える、逆に進む」という意味です。後細かいことですが「急転」というのも原文にはありません。私は「推移する」と訳しましたが、原文は「交代する」となっています。Aの状態がBの状態に変わる、ということです。

原文
Denn wie jede Art von Rausch, die orgiastische Heldenekstase ebenso wie die erotischen Orgien und der Tanzrausch unvermeidlich mit physischem Kollaps wechselte, so die hysterische Erfülltheit vom Pneuma mit dem psychischen Kollaps, religiös gewendet: mit Zuständen tiefster Gottverlassenheit.

折原訳
それというのも、どんな種類の陶酔も、狂騒的な英雄エクスタシーであれ、性愛的な狂騒であれ、踊り狂う陶酔であれ、身体の虚脱状態への急転を避け難く、それとまったく同様、霊に充たされたヒステリー状態も、心的な虚脱状態に、宗教上の言い回しによれば「神に見捨てられて深淵に堕ちた状態」に急変するほかはなかったからである。

丸山訳
その理由は、全ての種類の酩酊がそうであるように、狂躁的な英雄エクスタシーとまったく同様に性的な狂躁、そして踊りによる狂躁は、避け難いこととして身体的な虚脱状態へと推移するのであり、それ故にヒステリー的に霊が充たされた状態で、それが精神の虚脱と一緒になっている場合は、宗教的には反転し:もっとも遠く神から見捨てられた状態へと変わる。

折原浩訳の問題点(84)

今日も已むことのない折原誤訳。
(1)なんで唐突に「インド亜大陸」が出て来るのか。ここは救済の手段のほとんどがインド起源であると述べた後で、「インド自身では」と言っているだけです。別にインドというのがどこを指すかなんて何も書いてありません。
(2)nie wieder は単なる強調で「再び~することはない」などと訳すと、では一度失われたのか、とおかしな意味になります。昔のウルトラマンのナレーションの「もしカラータイマーが消えてしまったら、二度と再び立ち上がる力を失ってしまうのだ」を思い出しました。(笑)

原文
Die spezifischen Mittel der soteriologischen Heilsmethodik sind in ihrer raffiniertesten Entwicklung fast alle indischer Provenienz. Sie sind dort in unbezweifelbarer Anlehnung an die Methodik magischen Geisterzwangs entfaltet worden. In Indien selbst haben diese Mittel zunehmend die Tendenz gehabt, zur Selbstvergottungsmethodik zu werden und haben dort auch diesen Charakter nie wieder ganz verloren.

折原訳
さて、宗教的救済論によって基礎づけられた救済技法に特有の手段についてみると、その洗練された発展形態は、ほとんど全てインド起源である。インドでは、そうした手段が、疑いもなく、魔術的精霊強制の技法に依拠して発展を遂げた。インド亜大陸自体においては、そうした手段が、ますます自己神化の技法となる傾向を帯び、そこではまた、こうした性格をふたたび完全に失うことはけっしてなかった。

丸山訳
宗教的救済論に基づく救済の方法論の特別な諸手段は、そのもっとも精緻な発展においては、ほとんど全てがインドに起源を持つものであった。そういった諸手段はインドにおいては、魔術的な精霊の力による強制という方法論に疑いようもなく依存する形で発展した。インドそのものにおいては、こういった諸手段は次第に次のような傾向を持つようになった。つまり、自己神化という方法論を採ることであり、インドにおいてはそういう性格が完全に失われれることは決してなかった。