ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(38)P.228~231

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第38回です。今回は、主要街道などの沿線の土地が割当てられる場合は、その占有者に道路改修の義務が課せられたというのと、小麦などの穀物の輸送に従事するものに土地を与えた、というどちらも何らかの労役提供義務が伴う土地についての分析です。
なお、この翻訳で「小作人」という言葉が出て来ても、いわゆる零細農民のイメージで解釈しないでください。公有地を借りている農民は、自営農民に限りなく近いです。後に大土地所有が進んで、現代のイメージでの小作人が出てくることになります。
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もしある公有地の賃借人がその土地を誰かに取られた場合、その取上げの行為が正当な権利を持っていた賃借人に対しての占有状態を否定するような侵害で無かったのであれば、その場合行政当局は新たな占有者を[新たな]賃借人としてその占有を認めることが出来たのであり、そして元の占有者からの保護の訴えを拒絶出来た。しかしいつもそうしなければならなかった訳ではなく、確かなこととしては、行政上の根本原則に従うのと同様に、行政手続きを進めるためにも、こういったケースでどちらを保護するかについての慣習法的な判定手続きが生み出されていた。

公有地においての無期限の所有状態/個人による労働力の提供を条件とする土地割当て 1. viasii vicani

我々はここまで通常の、法律上ある決まった期間に対して土地を譲渡された貸借小作人の状況について見て来た。しかしながら遅くともグラックス兄弟の頃からもう一種類の公有地が出現して来ており、それは ager publicus である一方でしかし期限の設定無しに個人に譲渡された土地であるが、それはペルニーチェ 34)≪Alfred Pernice、1841~1901年、ドイツのローマ法学者≫の表現に従えば、「留保条件付きで」割当てられた土地である。

34) Parerga≪ヴェーバーはこれをイタリック(この日本語訳では下線)にしているが人名ではなく書名、ギリシア語で「副次的な研究」、の意味≫, Zeitschrift der Saviny-Stiftung für Rechtsgeshichite Rom. Abt, V, p. 74ff。

そういった土地に分類されるものとしては、まずは viasii vicani として割当てられた土地があり、それについては知ることが出来るのはただ a.u.c. 643年の公有地改革法 35) のみである。

35) Z. 11-13(モムゼンの補完に基づく、≪≪≫内はさらに全集の注による≫): (Quei ager publicus populi Romanei in terram Italiam P. Muucio L. Calpurnio cos. fuit … quod ejus IIIviri a. d. a. ≪=agris dandis adsignandis≫ viasiei)s vicaneis, quei in terra Italia sunt, dederunt adsignaverunt reliquerunt: neiquis facito quo m(i)nus ei oetantur fruantur habeant po(ssiderentque, quod ejus possessor … agrum locum aedifici)um non abalienaverit, extra eum a(grum … extra) que eum agrum, quam ex h. l. ≪=hac lege≫ venire dari reddive oportebit. — Quei ager locus aedificium ei, quem in | //AG144// (vi)asieis vicanisve ex s. c. ≪=senatus consulto≫ esse oportet oportebitve (ita datus adsignatus relictusve est eritve … quo magis is ag)er locus aedificium privatus siet, quove ma(gis censor queiquomque erit, eum agrum locum in censum referat … quove magis is ager locus aliter atque u)tei est, siet, ex h. l. n. r. ≪= hac lege nihilum rogato≫
[このイタリアにあるローマ人民の公有地について、それが Publius Mucias Scaevola と Lucius Calpurnius Piso Frugi が執政官であった年≪BC133年≫において、土地の割当て・譲渡を担当する三人委員会が、イタリアにある街道と地方道の沿線にある土地を割当てて譲渡し[その地域の住民の住居用として]残しておいた:誰もその土地を割当てられた者について、その者がその土地を使用し、そこから利益を得、それを占有し所有することを妨げることは出来ない。但しその占有者が…その土地、場所、建物を売却していない限りにおいてであり、その場合その土地やその他がこの法律の規定によって売却されたり、譲渡されたり、返還される場合を除く。――街道や地方道沿いにある土地、場所、建物が、元々元老院の決議によって譲渡され割当てられそこの住民に残されたものであった場合は…その土地、場所、建物が私有地とされるべきか、あるいは監察官が、それが誰であっても、土地と場所をケンススに登録すべきか、またそれらが現在[ケンススに]登録されているものと違っているかどうかは、この法律の関知するところではない。]

十二表法が道路の維持の責任を “amsegetes” に、つまりその道路の側に住んでいる者に課し、特徴的なこととしてまたこの命令の実施を次の規定によって確実なものにした。その規定とは、十分な道路改修を行う人手や必要資金の不足によって、その業務はその道路沿線の耕地の所有者に課され、そのことは大規模な国家の街道網が建設された結果として、直接国がそれをメンテナンスする以外のやり方でそれを行うことが必要となり、そして結局それは次のやり方で実現されたということである。つまり街道沿いの公有地を与えることの引き換え条件として、その公有地に隣接する道路の維持管理を義務付けたのである。この義務がそういう場所に位置していた地域コミュニティ[vics]の全体に課され、その義務の履行が労働の提供によってかあるいは[外部委託のための]資金の提供によったのか、あるいは地域コミュニティ全体ではなく個々の地所に対して義務が課されていたのか、それらについては何も知られていない;navicularius ≪船の持ち主に港町の土地を提供する代償としてローマに穀物を輸送する義務を負わせた制度≫の例(後述)から類推すると、考えられ得る発展の形は、まずは最初の方、つまり地域コミュニティ全体に義務が課されたというのがより確からしく思われる;もちろん法規定から発生することとして、道路改修義務が個々の土地区画の権利上のランクに影響を及ぼしており、そのことからこの負荷が個々の土地区画に課されていると容易に解釈出来るが、しかしその場合ももしかすると義務を負わされた土地所有者達が当番制で実際の作業または支払いを行っていたのかもしれない。

この viasii vicani の耕地の権利上のランクに関係するその他のこととして、土地改革法はむしろこの種の土地に逆に不利になる事項を規定しており、それはつまり viasii vcani は私有地ではないとされ、ケンススに登録出来るというメリットも提供されなかった。その他そういった土地はその権利上のランクについてただ次のように言い換えることが出来た、その土地は「そのように[特殊な用途で]利用されている」と。これらのことからはっきりと分ることは:この土地は全くもって私権に属するものではなく、土地所有においての行政法上のカテゴリーである、ということである。

こういった耕地は “ex senatus consulto” [元老院の決議に基づいて]割当てられている。その際に与えられた条件としては、この割当てに対して所有権は全く与えられず、また民会の決議によってこの割当てが別の種類の割当てによって無効とされることもあり、つまりは「当面の間での」割当てに過ぎなかった。そこで更に言及されていることは、占有者以外の市民による訴訟手続きが適用出来るかということ――それはまさに全ての耕作されている「場所」を保護していたが――についてではない、ということである。同様にローマでの取引きの形式、つまり握取行為[mancipatio]がその場合に使われたということもあり得ず、また一般的に土地の譲渡が国家当局の関与無しに行われるということが許可されていなかったのであり、それは確実に法規 36) 自体から派生していることであった。この viasii vicani による土地所有が相続の対象となることは、この制度自体の特性から考えて当然のことであった。もちろんこの手の土地所有が相続遺産分割裁判の正規の手続きにおいてどのように扱われたかについては、きわめて曖昧なままのように思える。後にまた論ずることになるが、劣位法で規定されている土地所有についての任意の分割は一般的には許可されていなかった。次のこともまた同様に許可されていなかったと考えられる。つまり正規の判決がそのような土地所有について[の争いに関して]調停する、ということである。というのは判決による調停というものは法的には所有権に対しての判決なのであり、一般的にまずはより古くからある遺言と遺贈の形式と調和せず、また市民の権利として遺言においてそういった土地について直接的に言及するということも適当ではなかったからである。

36) 前注の”…um non abalienaverit” [~が売却されていない限りにおいて]の箇所を参照。

この法律の viasii vicani について規定している箇所には、他の所有形態についての規定に出て来る文言が多く繰り返されているが、しかし遺産が遺言や譲渡によって獲得されること[hereditate testament deditone obvenit]が保護される、という文言は出て来ない。しかし相続財産獲得の許可は、それが Interdictum Quorum bonorum による保護で根拠がきちんとある限りにおいて、賃借人にとっての賃借契約の相続がそうであったように、自明のことであった。もちろん相続順位という点で、無遺言の場合と遺言有りの場合で全く差がなく扱われたということから、一般論として次のことは疑いようがない。つまり市民である遺言に基づく相続人もまた権利の承継者として財産を問題なく受け取ることが出来たということで、その理由は所有しているという状態が相続可能であるということは、法にも規定されている通り、疑いの余地がないからである。しかしながら相続人が多数いた場合には面倒なことになった。相続についての法規制は、相続人が一人でなかった場合には、誰が土地を受け取るかという決定については公権力の介入なしではほとんど不可能であったし、同様の事態はローマ法での全ての同様の関与者に係わる所有状態について繰り返されており、それはドイツ法他の全ての法において同じであった。ここにおいてはまた、行政官の自由裁量に基づいてではなく、こうした状況を取り締まる上での何らかの共通の行政上の原則が存在していてそれに従って行政処分が行われていたに違いないが、それについては何も知られていない。重要であろうと思われるのは、まず何よりも次の問いに答えることで、それは土地に付随している義務が履行されなかった場合に何が起きたのかということであり、つまり義務を強制的に果たさせるための何らかの執行がされたのか、あるいは義務を果たさない者に対してその者に委託された土地を取り上げたか、である。おそらくは両方とも行われていたのであろう 37)、というのもこの二つの直接的または間接的な強制が、最初の文献としては帝政期のものに並記されているのが見いだされるからであるが、その始まりはもっと以前から行われていた制度に遡る:navicularii
である。

37) 当該の法規は ager privatus vectigalisque の所有者に対する権利の剥奪を規定しており、そしてまた虚偽の占有または賃借料支払いの遅延に対しても同様であり、それらは明らかに次の処置からの類推として決められており、それはケンススへの未登録の場合とか、相続の結果引き継いだ何らかの支払い義務についての支払い遅延の場合(後述の箇所参照)とか、しかしそれは賃借料の支払いではない場合のもので、更には購買した者がその代金に対しての担保を提供しておらずかつ支払いが遅れている場合に、即時の現金払い[pecunia prasenti]を求めること、などからの類推である。シチリアにおいては徴税請負人は貸借農民から担保を取ったが、しかし誰に対してであれその者の所有権がどうなっているかということは全く考慮していなかった。

2. navicularii と穀物調達に関する労役

navicularii とは次のような団体のことである。それは外海に面している港のある場所に設置されており、その港に到着した穀物のローマへの輸送を実行しており、また外国からその港まで穀物を輸送する船の調達とその運航にも従事していた。そういった制度が作られた理由を確認してみたい。C.I.L., VIII, 970の碑文が示しているように、誰が制定したかは不明であるが、その内容は transvecturarius et navicularius secundo [陸上・海上輸送を推進する]というもので大体AD400年頃のもので、義務を負わされる者が順番に担当するようになっていた。しかしテオドシウス法典≪438年に公布された東ローマ皇帝テオドシウス2世によるローマ法典≫のXIII, 6 の標題が示しているのは、[そういった義務の]執行[functio]は個々の土地区画に対して昔から[antiquitas]その土地区画の価額に応じて[secundum agri opinionem]課されており(399年の1. 81. c)、そしてその団体のための義務を果たさない場合はその土地は取上げられたということである。

その規定に並記して、Nov. Theodos. 36 は義務を遂行させるための強制執行を許可している。実行義務を果たさない場合に、その当時は移行期間ではあったが、またその者の土地を売却することも許されていた。(引用書1. 8)強制執行がどういった形で行われたかについては 38)、それはまず何よりは帝政期に初めて行われるようになったものである。――テオドシウス法 1 の de aquaed[uctu] の 15, 2 は同様に労役を行わない者の土地を取上げることを許可している。――

38) 強制的に土地を放棄させ返却させること。

我々は第1章で次のことを確からしいとして来た。つまり土地の配分がまた別のケースとして何らかの労働提供に対して行われており、取り分け港がある町において穀物の収穫作業との関連でそれが行われている、というのを見て来たが、しかしそれについての確実な資料は不足している。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(37)P.224~227

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第37回です。
今、安西徹雄さんの「英文翻訳術」という本を読んでいます。私が既に自分で考えて実行している翻訳の方法:(1)文章の順番を変えないで、思考の流れを元の文章のまま訳す。(「次のことは確かなことである。つまり…」のように訳し「…ということは確かなことである。」という訳にしないこと)(2)指示代名詞はなるべくそれが指しているものを繰り返して訳す などが重要なルールとして挙げられていて我が意を得たり、という感じでした。
その本に触発されて、今回はなるべく日本語としてこなれた訳になるように努力しましたが、それに成功したかどうかは自信がある訳ではありません。まあこれまで訳した分の見直しも含め、最後まで翻訳の質の向上を図りたいと思います。
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まずは次のようなことは事実上不可能であった。つまり土地を借りたいと思った者がその土地には住んでいない場合で、かつそのような広大な土地の複合体の全体の権利を与えられるのではない場合に、その対象の土地を実地に検分するためにそこに行ってみる価値があると考え、それを実際にやってみる、ということである。しかしながら次に:これについては後で更に述べるが、アフリカにおける国有地について、643年の土地改革法によって 26) 公有地の賃借人のためにある一定の貸借期間分として先払いとして支払う賃借料の総額が決められたということは、その場合それは該当の領域の土地についてそれが法によって規定されていた性格を変更することなく決められたが、――そのことは当時の競売による新規譲渡とどう矛盾しないように行われたのであろうか?≪競売ということは貸借料額は入札または応募によって行われその時々で異なる筈であるので、土地改革法でそれが決めらたというのは矛盾する。≫そしてまた次の事実はどう解釈すべきであろうか。つまりカンパニアの公有地では部分的に私的な占有によって元々公有地であるということが隠蔽されていて 27)、もし全ての土地区画が明らかに規則的に5年毎に新たな賃貸契約が行われていたのであれば、それは果たして矛盾なしに実行可能であったのだろうか?

26) C.I.L., I の Z.85, 86 の箇所についてのモムゼンの解釈による。

27) これまでに何度も引用したリチニアヌスの文章(前掲:p.123{原文})を参照。それ自体が意味しているのはまた:その該当の公職人が賃借しようとする農民に対して公定価格でそれを行ったということである。しかしその場合競売によって行われたのではなかったということである。

監察官による賃貸が経済上もたらした影響

しかしながら自然なこととして考えられるのは、このように(国家によって賃貸されるようになった)対象の土地領域においての所有状態の革命的な変化は、たとえそれが当面影響する範囲が特に広いものではなかったとしても、それが継続して行われる性格のものであるということは、むしろそれだけ人々が感じ取るようになったに違いない。ゲマインデ諸団体を法的に取り潰した結果、事実上時の経過に連れて古い諸ゲマインデの成員であった人々がお互いに混じり合うという結果になった。というのもキケロが次のように述べているからである。つまりレオンティノイの耕地においては、公有地の賃借人の下に、更に元々あったゲマインデ出身である家族が(土地を又借りして)暮らしていた、ということである 28)。

28) ウェッレス弾劾演説 1.3, 109

更にまたもう一つの経済的な帰結は「事物の本性」≪既出≫に沿うものであった。それはそれぞれの広大な領域の売却(賃貸)においてより好都合なことであったのであり、それは(広大な)公有地をごく小さな面積の土地に分割し、それによって多くの小規模の賃借人が入手しやすいようにし、それは監察官がローマにおいて、公有地について競売的なやり方で賃借人を募集することを真剣に試みた時に実際に行われていたことである。それ故に一般的に所有状態が時の経過の中で変わっていった限りにおいて、(分割された多数の土地をまとめて借りる)大規模な賃借人の数が増加していくという傾向が強く出てきており、それと適合していることは、キケロのウェッレス弾劾演説の中 29)シチリアのゲマインデにおいて賃借人として土地を所有している者の数がそれほど多くないと言及されていることである。

29) ウェッレス弾劾演説 1.3, 120

その他(地方総督の)個々の行政上の失策は直ちに小規模な土地所有者(賃借人)への圧迫につながったし、そしてその結果当然のこととして大規模経営者の数の増加 30) となった。

30) もちろんこの後者の現象はまた、所有する耕地がローマの公有地にはなっていなかった課税対象の諸ゲマインデ(の土地)にも関係することであった。キケロによる(前出の)申し立てによれば、ウェッレスによる統治は賃借人の減少という結果につながっていた:レオンティヌス人の土地においては84人が32人に減少し、ムーティカ人≪現代のイタリアのシチリアのモディカ≫の土地では188人が88人に、ヘルビタ人≪シチリアの中の町≫の土地では250人が120人に、そしてアジーク人≪シチリア島中央部の町≫の土地では250人が80人にまで減少していた。減少した人数の内、何パーセントが小規模経営者を犠牲にしての大規模経営者の増加によるものか、あるいは何パーセントが耕作地放棄によるものか、もちろん不明であるが、しかしキケロが深く考えないで全体の減少は後者によってであるとしているのは、正しいとは認め難い。

そしてローマの地方総督の行政において一つも失策が無かったなどということがあり得るだろうか?≪ウェッレスの例にも見られるように、共和制時代の属州の総督の地位は不正蓄財の温床となっていて、後にアウグストゥスが税の徴収を専門の官吏が行うように改めるまでそれが続いた。≫そういった類いの大規模賃借人達はもちろん次のことを強く望んでいた。それは彼らの土地所有をまた長期貸借において法的に保証してもらうことであった。こうした連関については、ヒュギヌスの次の箇所(p.116、ラハマン)において確認することが出来る(モムゼンの R. Staatsr. II. p.459 での補完に基づく):

Vectigales autem agri sunt obligati, quidam rei publicae populi Romani, quidam coloniarum aut municipiorum aut civitatium aliquarum, qui et ipsi plerique ad populum Romanum pertinent. Ex hoste capti agri postquam divisi sunt per centurias, ut adsignarentur militibus, quorum virtute capti erant, amplius quam destinatio modi quamve militum exigebat numerus qui superfuerunt agri, vectigalibus subjecti sunt, alii per annos (quinos), alii[vero mancipibus ementibus, id est conducentibus], in annos centenos pluresve: finito illo tempore iterum veneunt locanturque ita ut vectigalibus est consuetudo.
[使用料支払い義務のある土地とは、次のものに対して支払い義務がある土地で、あるものはローマの人民の共和国に、またあるものは植民市に、さらにあるものは何らかの地域コミュニティに対して支払い義務があり、中でもそういった土地自体の大部分はローマの人民に対して義務があるものである。敵国を占領して得た土地は後に、その武勇によってその土地を勝ち取った兵士に割当てるためにケントゥリアで分割され、(元々割当て用として)指定された全面積より大きいか、あるいは兵士全員に割当てた分以外の面積の土地は余った土地とされ、それらの土地に対しては誰かが使用する場合には使用料の支払い義務が課され、ある者には5年の期間で賃貸され、またある者には[間違いなく manceps に対して売却され、それはつまり{握取}契約によってという意味であるが]、100年間以上の長期間で:その期間が終了すると再び売却または賃貸契約され、それ故に使用料支払いについては慣例的なルールとなった。」

公有地における大規模賃借人

(ラテン語原文の引用で)[]内の部分はモムゼンが抹消したものである。≪握取契約は本来所有権の完全移転のためであるのに、この場合はあくまで賃貸契約で国家が持ち主であることが変わらないのが矛盾すると考えたのであろうか?≫この抹消について同意する場合、私はそれに賛成であるが、その場合は次のことも最低限読み取ることが出来ると思われる。それはつまりまた、”finito”以下の最後の文[訳文で「その期間が終了すると」で始まる文]はただ長期の方の賃貸契約についてのみ言っていると解釈した場合、2種類の賃貸契約が言及されている箇所が言っているのは、片方は法律上では5年間という短期間に制限されていて、他方は100年以上もの長期間が許されている、ということである。この長期間の方については、賃貸契約が大規模な引き受け者、つまり mancipes [manceps、(握手行為による)契約者]に、それ故に競売方式によって行われたのであり、同様に契約期間が満了した場合の再契約も最初の時と同じやり方で行われており、これ以外の場合でも公有物についての賃貸契約についてと同じであったと考えられる。以上のことは先の文章に続く数行の内容と矛盾していない:Mancipes vero, qui emerunt lege dicta jus vectigalis, ipsi per centurias locaverunt aut vendiderunt proximis quibusque possessoribus. [契約者たちは実際のところ、決められた法律によって地代の徴収の権利を獲得し、その者達はケントゥリア単位でお互いに隣接している占有者のそれぞれに、それを再度賃貸または売却した。]つまり大規模な公有地の賃借契約者達がその借りた公有地を更に二次賃借人達に譲渡し、そしてそこでまさに行われていることは、大規模賃借人達がその購入した権利(jus vectigalis)をあたかも元々それが自分達の権利であったかのように再度賃貸契約している、ということである 31)。

31) このような賃貸契約をケンススの期間である5年の期限で行ったということは、監察官の意向によるものではなく、元老院の決議によるものと思われる。しかしそれは法律ではなく、というのはそういう法律はこの場合以外に trientabula ≪既出、国の債務の1/3を土地で返すもの≫の制度の全体設計をする際に初めて本当に必要になったに違いないからであり、というのもその場合は常に債権者に対して[土地による]返済を[法律により]承認させる必要があって、官庁への土地の後からの取戻しについての承認を取り付ける必要があったのではないからである。

――その他にも賃貸契約の2種類のやり方の間で同じような対立が起きている:競売方式で5年間の期間で契約者に貸与されるやり方と、そういった短期の制限のない公有地の賃借人(「(5年を超える)長い年に及ぶ賃貸契約」[annua conductio])として貸与されるやり方と、またそれ以外にウェスタの処女≪神に使える乙女で30年間処女であり続ける必要があった≫に[その犠牲の代償として]与えられた土地についてのやり方について、ヒュギヌスが言及している(p.117, 5ff)。――公有地賃借人の実際の状況の全容は、先の箇所で一度述べようと試みたが、また彼らの権利がどう守られていたかを見た場合、私法上の権利[私権]が与えられていた、と見なすことが出来る。市民の訴訟手続きにおいてはそういった賃借契約付きの国家の土地についての占有として、その状態に対してのある種の侵害に対しての禁止命令によって保護されていた。Interdictum de loco publico fruendo [公有地の違法な使用を防止する命令]32) がどれくらい前からあったかについては不確かである;それはソキウス≪ソキエタースの成員≫という概念が法規定の中に採用されたことが示しているのと同じく、本質的にはその命令は大規模賃借人の、つまり企業家達の利益に資するために発せられたのである。≪ソキエタースは複数の人間が共同で何らかの経済行為を行う目的で結成されるものであり、それと同じく企業家のための命令であるとヴェーバーは言っている。≫

32) Quo minus loco publico, quem is, cui locandi jus fuit, fruendum alicui locavit, ei qui conduxit sociove eius e lege locationis frui liceat, vim fieri veto.[ある公有地について、その賃借権を持っている者がそれを誰かに更に貸した場合、その(新たな)契約人や共同の借主がその賃借契約に基づいてその土地を使用することを暴力によって妨げることを禁ずる。] (レネル≪Otto Lenel、1849~1938年、ドイツの法学者・法制史家》、Edikt p.368)

こうした大規模賃借人にとってそういう禁止命令は望ましいものであった。何故ならば、既に見て来たように、彼らは賃借した土地を次の二次賃借人に譲渡し、そしてそれらのそれぞれの土地も、かつその土地全体も自分で経営(耕作)しようとはしなかったからであり、それ故「賃借契約をしていること」[frui e lege locationis]が保護の対象であり、「占有していること」が対象ではなかったのであり、さらにまた契約の直近の年度における所有状態の保護は、占有状態が彼らからみて[長期間]継続したことに見られるように、その下位の賃借人の所有状態に関係なく行われねばならなかったであろうからである。 禁止令はそれ故に大規模賃借人に対しては(実質的に)時間的な制限無く保護を与えたが、その一方で(その下の)小規模賃借人に対しては占有についての禁止令はただ直近の契約年度についてだけその所有状態が保護される、としたのである。小規模賃借人にこの禁止令が等しく効力を持つものであったかどうかということは、言い回しの上ではそう解釈することも出来ようが、実際には疑わしい。もしそうでなかったとしたら、通常の小規模賃借人は公有地において市民の権利としては、既に述べたように、ただ占有状態のみが保護されたのであり、そして占有状態の保護が相続人に対して相続財産を違法な形で奪われることを防止するのに有用である限りにおいて(D.1. §44 de vi 43, 16)、相続人への事実上の財産の移行がまた保護されたのである。その他ここでもまた、公有地に対しての通常の占有の場合と同様に、Interdictum Quorum bonorum[法務官による相続財産の引き渡し命令]が関係している。こういった[公権力によって保護された]譲渡は当たり前のことであり、というのは賃借契約というものはそれ自体は単純に移転するということはなく、国家権力に対してはより不安定なものに過ぎなかったし、監察官ないしは執政官のみが別の賃借契約人を指定出来たからである。実務的には賃貸契約関係はこれまで述べた結果で行われた結果、上位の公職人は賃貸契約の相続人との再契約については、特別な場合にのみそれを拒否することが出来たのであり、それは例えば多くの相続人がその権利の継承について、誰がそれを受けるのかについて合意がなされておらず、そしてそれによって国家は誰と賃貸契約を再度締結するかについて疑いがあったような場合である。全く同様のやり方で、賃借中の土地をどのように賃借契約者から[相続人などに]譲渡するかの手続きも整備された。純粋に法律上にはそういった手続きに関する規定が存在していなかったことは、敢えて言うまでもないことである。実務上では、権利の相続人[Remplaçant、フランス語で代理人、代表者の意]33)が、一人の者に決められていた場合は、公職人はその者を賃貸契約者として認めないことはなかった。

33)キケロのウェッレス弾劾演説 3, 120 で賃貸契約の相続人に対して “vicarii” [代理の]という表現を用いている。

lex censoria censoria≪成立年不明、監察官制度が出来たのがBC5Cなので、その後とすれば共和制の中期。監察官が公共財や公有地を貸し出すことについての規定と思われる。≫がそういった相続人への賃借権の譲渡について規定していたかどうかは全く不明であるが、公職人達はこの場合についての間違いなく存在していた諸原則を遵守していた。というのもそういった状況には一般論としてローマ社会の特質を良く示しているものであるからである:ある規定すべきことについて、それに対して市民の権利に関する法文が存在していないことは、そのことが直ちに公職人が好き勝手に振る舞えたということを意味せず、行政上の様々な根本原則がそこでは目差すべき尺度として使われていたのであり、そしてモムゼンが正しく注記しているように、関係者はある規則的に発生する状況に対しては、それを悪化させるのではなく良い方向に持っていこうと努めていたのである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(36)P.220~223

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第36回です。
ようやく折り返し地点(50%)に到達しました。まだまだ先は長いですが。
ここの部分にはキケロの著作が登場します。キケロという人は文章は見事なのですが、生き方という意味ではあまり好きになれない人です。ここに出て来る「ウェッレス弾劾演説」も純粋に社会正義のためというより、自分の弁護力のアピールという印象をどうしても受けてしまいます。ただ、この演説のおかげでその当時の属州の実情が良く分かるみたいですが。
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ビファンク権はイタリアにおいては ager publicus によって消滅し、それが再度出現するのは辺境の属州の中の Rottland≪荒れ地や森林を新たに開墾した土地≫と荒地においてのみであった(C. Th. 1 de rei vindicatione 2, 23)。ager publicus の運命は、それが開墾出来る土地から成り立っている場合は、イタリア人のために用立てるよう定められた。最後の特筆すべきまとまった土地をカエサルが自分の軍団のヴェテラン兵に割当てた。そして subseciva ≪の占有≫については、既に詳説したように、ドミティアヌス帝がそれを完全に無効にした。それ以後は本質的にはアプリア≪現在のプーリア州、イタリア半島の踵の部分≫に向かう公共の小道が通っている牧場と 14a)、個々の[土地ゲマインシャフトの中にある]放牧地のみが ager publicus 以外の土地として留まった。しかしその時までにはイタリアでは更に別の、今やここで検討すべき所有形態が発達していた。

14a) 碑文としては例えば、C.I.L., IX 2438, 更にはウァッローの res rusticae II, 1がこのことに言及している。

その他の公有地の所有の諸形態

 全てのこういった所有形態において何はさておき共通していることは、それらの土地に対する保護はただその場所[locus]に対してのみ与えられた、ということである。古い時代の占有については、次のことは実務的により大きな意味を持っていたに違いない。つまりその占有はただ法務官の権限に基づいて相続財産と認められ、何故なら遺産に対しての法的な保護はただ法務官による相続財産引き渡し命令[Interdictum Quorum Bonorum]の中でのみ成り立っていたからであり、それ故に遺産相続権の認可は法務官のさじ加減次第であったのである。私にはこれは本質的なことではないが、部族や男系氏族に従属しているフーフェの権利から自由な善意に基づく法定相続権の発生についての一つの説明になっているとは思われる。土地貴族については、法務官の布告の中で、その相続のやり方については自分達の裁量によって決定することが出来るとされていた 14b)。

14b) この手段によって相続関係の中で実際に行われた専横的な処置については、キケロの「ウェッレス弾劾演説」≪BC73年から3年間シチリアの総督であって私利を貪ったウェッレスをシチリア島民からの依頼でその当時の担当財務官であったキケロが告発したもの。≫の第1巻と比較すべきである。

 個々の場合においては所有状態の法的な性質については様々な発展段階が存在していた。

 戦争によって獲得した土地と公的な土地一般の民族ゲマインシャフトの側からの占有による利用以外に、時が経過するに連れ国庫の利害に基づく財政上の理由からの土地の売却が登場した。収穫物全体に対しての一定割合の貢納を条件とする占有を放任したその元々のやり方は、[国家による]この目的に適合した土地のシステマチックな売却及び賃貸しに取って替わられた。その最初のものについては以前(第1章で)取上げたが、これについては更に後述する;ここにおいて我々は賃貸しの農地、つまり ager vectigalis の様々な実際の例における本質的な傾向の観察をひとまず保留しておいて、まずはそこにおいて属州での所有状態の変動が見て取れる権利形態の探求に向かう。

ケンススを実施する場所の決定

 次のことは周知のことである。つまり公的な土地を個人が利用するか農作物を栽培する目的で譲渡する、という形態において、それが幾ばくかの(ほぼ例外なく年額での)賃借料の支払いまたは収穫物(の一部)を納めるのを条件とするというのは、ケンスス(への登録)によって取り決められるものであった。この手続きについては2つのステップに分かれていた:まずは耕地の、元々そこを耕作していた農民への(ケンススの登記上の)譲渡と、次にその公有地の総面積に対しての契約によって定められた賃借料による賃貸しの開始である。ここで我々に興味深いのは、この2つのステップの最初のものだけである。公有地の賃貸しの実施は、ローマ国家によって公有地についてのケンススの登記内容(の書き換え)に基づいて行われた 15)。

15) Tabulae censoriae、プリニウス、H.N.18, 3,11。キケロ、農地法について、1,2,4。

こうした個々の土地断片の集合について、全ての個々の土地区画にそういう区分状況を書き込んだ地図の作成は、対象となる土地が恐ろしい勢いで拡大した結果、ただより大きな単位の土地に対してであっても最初から大きな障害として立ちふさがっていた 16)。

16) このことは、C.I.L., VI, 919にて言及されている。帝政期においては、例えばウェスパシアヌス帝の下で(ヒュギヌス p.122, 20)可能な範囲でまあまあ正確である略地図が作成された。

特に収穫高の多い公有地で、そこで(略地図程度では)何か不都合があることが判明した場合は、例えば地味豊かなカンパニア地方≪現在のナポリ周辺、カンパニア州≫においては、第1章で引用したリチニアヌスが示しているように、それ故、測量人はその土地の測量と地図の作成のために土地の中を歩き回ったのであり、そこで既に言及されていたことであるが、そこで使われていた測量の方法は原則的には、実際は全ての場合ではないにせよ、strigae と scamna を使ったものであった。そういった地図が作られていた場合は、その土地での賃貸しの実行は間違いなくその地図に基づいていた。法的には賃貸借関係は各年の3月15日まで継続し、それは[前年の]その日に新しいケンススの登録の適用が開始されてから1年間ということである。この[賃貸借契約の]公的な適用の開始は、モムゼンがそれについて表現しているように 17)、あたかも全ての国家による賃貸借契約の[前年の分の]解約告知としての役割を果たしていた。

17) Staatsr. II, p.347,425 の注4。

実際の所は、賃貸借契約による土地の契約者ないしはその家族による所有は、非常に規則的なこととして、もっとはるかに長い期間継続するものであった。次のことは事物の本性≪既出≫に沿っている。つまり、形の上ではもしかすると新規の賃貸借と考えられたケンススに基づく賃貸しが、実際には圧倒的に多くの場合部分的には既に存在していた賃貸借契約の改定 18)という性格を持っており、更に別の部分では小作人の土地の所有状態の整理という性格も持っていたと考えるべき、ということである。

18) モムゼンが(Staatsr. II, p.428)a.u.c.585/6年の監察官についてのリウィウスの報告(Liv. 43, 14ff)に基づいて主張しているように、既に存在している契約の改定は、その他の監察官による「授業料徴収行為」≪Tuitionsakten, 全集の注によると監察官がゲマインデに対して収入と支出の規制を行ったことをモムゼンがこう表現したもの≫の先駆けとなった。

土地の所有者達に対しての調停と大規模な賃貸料の独力での引上げは、通常の場合は監察官にとっても、丁度フランク王国の国王が一度家臣に与えたレーエン≪土地と役職の両方の意味。フランク王国ではカール大帝の頃から一度家臣に与えられたものが世襲の特権と化する傾向が強かった。≫を取り戻すことがそうであったように、どちらも同じように困難なことであった。というのは ager von Leontinoi ≪レオンティノイの土地、レオンティノイは現在のレンティーニでシチリア島東岸部のコムーネ。元々はギリシアの植民市に由来する。≫というものがあり、それはシチリアの公有地の中で最も重要な部分であったが、事実上はその土地を代々所有している小作人の家族のものとなっており 19)、そしてそのことがより明白にするのは、その全領域がわずか82人に対して賃貸しされている場合に 20)、その者達の各人についてはそれ故、監察官でも無視し得ないような財力を持っていたことを意味したに違いない、ということである。

19) キケロのウェッレス弾劾演説 3, 97、及び3, 120を参照。そこで主張されているのはウェッレス≪ガイウス・ウェッレス、C.114~43BC、シチリア総督の時代に農民から不正に富を強奪し、農民からの訴えを受けたキケロによって告発された。≫の行政上の不正行為によってレオンティノイの公有地の農民が[84人中の]52人減らされており、つまりその52人の農民はそこから追放された、ということである。”ita…, ut his ne vicarii quidem successerint” [それ故、(52人の農民が追放され)、その後を継ごうとするものも誰も居なかった]原則であったのはそれ故に所有状態をそのまま維持することであった。

20) キケロのすぐ前の引用箇所。

カンパニアの耕地はそれに対してより小規模な小作人によって所有されていたことが多かったように思われるが 21)、その小作人達の有能さをキケロが称賛している;しかしそこでもまた、公有地の小作人達はその多くが生まれてからずっと賃貸借契約をした地所にて過ごしていたのである。

21) キケロ、農地法について、2, 31, 84。

そのことはまた発展の道筋にも沿っていた。監察官の管理する賃貸借は収穫物の一定割り合いの貢納を条件とする占有と同じ位置もしくはそのすぐ隣に来るものとして登場した。それは一般的に言えばまずは国家によって整理され規制された形態の占有であり、定期的な改訂を伴うものであった。シチリアの公有地の賃貸しは特に耕地を元々の所有者 22)に返還する形式として把握され、また測量人達も占領された領土の公有地の賃貸しの形での利用について、何も所有状態の革命的な変化を思わせるような表現は使っておらず、それについて”agrum vectigalibus subjicere”[その土地を使用料付きのものに組み入れる]と表現している 23)。

22) キケロのウェッレス弾劾演説 3, 13。
23) ヒュギヌスのp.116。

それ故にこれらの処置は、採用された形式と、ひょっとするとわずかな額であったかもしれない使用料という点で見た場合、トリウスが(公有地を不法に占拠した形の)私有地を使用料支払い月の賃貸しの公有地に変えた時に、ager publicus に対する占有についての権利状況の改善とみなすことが出来るであろう 24)。

24) トリウスがつまりそういう風に変えていたら、ということである。しかし後述の箇所で、使用料の強制による権利状態の変更については更に先へ進んだ、ということが確認される。

それ故に私には、マルクヴァルトの説明である、賃貸期間がより長く設定されたことによって公有地における賃貸対象の土地について相対的に安定した性格が得られた、については全く根拠不明であるように思える。現時点でただ記憶に留めておくべきなのは、ここで扱われているのは一般的にある本当に形だけの、個々の賃貸借対象区画に対する新規の使用料設定ではなく、法律上期間が終了する契約 24a) がその規則によって単純に確認されたに違いない、ということである。

24a) 一般的にはなるほどこのことは暗黙の現状維持[relocatio tacita]≪明示的な更新手続き無しに契約が自動更新されること≫によって行われている。”Locare”[契約する]の意味はモムゼンの訳によれば「保管する」「配置する」ということであり、その含意としては、監察官が規則的に土地を、それらは「配置」され、現状のままに留められた、ということである。その他公的な業務を他人に引き継ぐということ自体に関しては厳格に取り扱われていた。(キケロ、ウェッレス弾劾演説 2,1,130)

というのは私には次のことを前提にするということを無理に想定する必要はないと思われる。つまり国家全体での個々の賃貸対象の土地について、それぞれの賃貸期間が満了した後に、競売によるような新規の授与が行われたに違いない、ということであるが 25)、そうではなくむしろ、私はそう信ずるが、決定的に様々な理由がそれと反対のことを語っている。

25) キケロによる注釈(農地法について、1.3.7と2,21,55)は授与に基づく賃貸しが引き合いに出されている。公有地におけるこういったやり方の賃貸しが例外なく等しく行われていたと考えることは出来ないということは、疑いようがない。または公有地を賃借する者はまたその土地に対して保証人や担保を差し出さねばならなかったのであろうか?監察官が公有地の賃貸しを競売のようなやり方で行い得たということは、間違いなく監察官が賃貸借契約を大規模にかつ長期間に行おうとするものと締結しようと意図した時には、そうするしかなかった、というのが非常に確からしいことである。

マイツェン門下の二人

ヴェーバーの「ローマ土地制度史」を訳していて、あまりにもドイツのフーフェ、マルク、アルメンデとかゲノッセンシャフトとかを無邪気にローマ史に適用するのが気になっています。これは明らかにヴェーバーの師であるマイツェンの影響だと思いますが、それを確認したくて、マイツェンの”Siedelung und Agrarwesen”をAmazonで購入しました。ところが、販売ページにはそんなことは書いてなかったのに、届いたものは第3巻だけの内容でした。これは統計とか地図、家屋の絵なんかの資料集みたいな巻で、これはこれで面白いのですが、マイツェンがどういうことを述べていたかは、1、2巻を参照する必要があります。それで調べていたら何とWeb上にフリーのテキストがありました。ドイツ語のWikipediaで、August Meitzenの項の下部にリンクがあります。

https://www.archive.org/details/siedelungundagra01meituoft
https://www.archive.org/details/siedelungundagra02meituoft

それで序文をちょっと眺めていたのですが、マイツェンは気さくな人柄なのか、同僚とか自分の先生への感謝だけでなく、多くの年下の自分の学生にも感謝の言葉を贈っています。一緒に調査旅行に行ったり、セミナーを開いたりしていたみたいで、何だか楽しそうです。ヴェーバーはその2番目に言及されていますが、トップに言及されているのが、何とカール・ランプレヒト!ヴェーバーより8歳年長ですが、この二人がいわば同門というのは知りませんでした。ヴェーバーは、いわゆる「ランプレヒト論争」の際にランプレヒトを典型的なディレッタントだとか山師と呼んで批判しています。
本文はちょっとだけ眺めただけですが、いきなり先日調べるのに苦労したReebning(デンマークでの耕地整理)が出て来ましたので、やはりヴェーバーへの影響は大きいようです。(念のため、この本の出版は1895年で、ヴェーバーの「ローマ土地制度史」より後です。第3巻でヴェーバーが附録で付けたアラウシオの耕地図をマイツェンも引用していて、ヴェーバーが使ったことにも言及しています。)

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(35)P.216~219

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第35回です。ager comascuus についての議論の続きです。ここで気になるのが、ローマにおける牧畜の程度です。私は牧草地というのを農耕に使用する牛などに草をやるという風に理解していますが、ローマにおいてどの程度いわゆる牧畜業が行われていたかは、確認する必要があるかと思います。従来は古代ローマではあまり肉食は行われないとされていた一方で、牛乳やチーズは主食の一部として重要であり、また帝政期に入ると食の内容が高度化し肉食の割合いも増えて行ったということのようです。
それからここにアッピアノスのギリシア語のテクストの引用があります。ギリシア語のアクセント記号の入力は非常に大変なのですが、今回、以下の手順で比較的楽に行うことが出来ました。
(1) アクセント無しのテキストを、ChatGPT4oにアクセント付きのテキストに変えてもらう。
(2) (1)で出来たアクセント記号が付いたギリシア語の文を同じくChatGPT4oにすべてHTMLにおける文字参照(コード参照)に変えてもらう。
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土地資本主義

確からしいこととして――そのことは当時の(土地を巡る紛争の)和解についての性格全てに当てはまることであるが――当時の全ての市民の公共の土地への関係における形だけの権利の平等が、自由な牧草地利用を禁ずる制限撤廃の許可と同じく自由な占有の許可によって作り出されており 10)、そしてこのことにより当時の人々は少なくとも理論的な形で導入された土地税の支払いによって、このような類を見ない(土地)資本の獲得の奨励をカモフラージュしようと試みたのである。というのも、この自由な競争が小農民の土地所有者にとって有用だったのではなく、ただ大資本家、つまり世襲貴族とまた(裕福な)平民にとってのみ有用だったということが、しばしば強調されている。そういった自由競争は事実上は土地制度の領域における全く制限の設けられていない資本主義を意味するのであり、それは歴史の中でかつて実際に行われていたのであり、そしてこのことは既に述べた中世末期におけるグルントヘル(大地主)による土地の不法獲得と囲い込みとの対比という意味では、量的にも質的にもほぼ遜色の無いレベルにまで達していたのである。

10) というのも平民に対して、リキニウス・ストロ≪Gaius Licinius Stolo、 正確な生没年不詳、BC4世紀のローマの執政官・護民官。護民官の時にセクスティウスとリキニウス・セクスティウス法を制定した。その法律では500ユゲラ以上の土地の所有が禁じられた。≫が自分自身が制定した法律による土地の占有の上限を超えたことにより罰金を払ったという伝承が示しているように、決定的なこととして考えられるのは、既にそれが起きる以前の時代で占有ということが許可されていたに違いないということである。

経済的かつ社会的な階級の利害とこの自由競争の結果が一緒になって示しているものはまさに、ローマ史を通して一般的に、赤裸々な人間の姿であり、それは古代における政治家と近代の社会史家に等しく利点を提供しているのであるが、それは古典古代のファッションの実態が同時代の芸術を理解する上で有用であるのと同様である。それから ager publicus を巡っての階級闘争がより一層激しい段階へ突入したということは良く知られている 11)。リキニウスの提案は占有の上限を500ユゲラにすることでこれを是正しようと必死に努力していたものである 11a)。

11) ここにおいてはこの階級闘争の個々のケースについて追いかけることはしない。何故ならば土地制度史という見地に立った場合、様々な事実を見出すことが出来るのは確かであるが、それによってこれまで知られている階級闘争の実像について何も新しいものを付け加えることは出来ないからである。

11a) もしかするとこの時に初めて牧草地の使用料(税)というものが導入されたのかもしれない。いずれにせよ伝えられているのは、リキニウス・セクティアヌス法はまた非課税の家畜の飼育を伴う耕作の上限――牛・馬の場合は100頭、鶏などの小家畜の場合は500頭(羽)――を導入しているということである。(参照、アッピアノスの引用済みの1、8)。≪鶏はインド→エジプト→ペルシア→ギリシアのルートで、ギリシアにBC9世紀頃伝わり、その後ローマに入った。≫

公有地の分割割当てを求める声は、共和政の時代を通じて一度も社会から消えてなくなることは無かったが、しかしその声を上げていた多くの無産者が、その元々の性格を次第に失っていった時、その声に応えてローマの内部でその認可が行われることは無くなっていた。以前は(利用出来る)平地に対して植民の人数の過剰という状態があり、そのために廃嫡または遺産分割によって零落した農民である土地所有者の子供達は、耕地の新規分割割当てによって自分自身による耕作の新規開始と、また tribus rusticae に受け入れられることで、彼らの親達が属していた adsidui ≪税を納める義務のある一人前の市民≫に復帰することの可能性を得ようと必死だったのである。ただローマが大都市的な性格を強めていった結果、プロレタリアートはそのエネルギーを増大させていくことが出来なくなり、彼らは近代的な性格での都市の下層民として十把一絡げの状態になっていき、彼らについては土地所有者の身分上の体面という意味は加速度的に失われてしまったのであり、――そうした変化は同様の状況の場所ではどこであってももはや時間の問題であったことであるが、――その者達にとっては農民としての生計の基盤である土地が、より勢いを増しながら(他者の所有物へと)吞み込まれていったのであり、そして彼らの状況により大土地所有のための耕地整理の推進に対抗して自分の土地を守り抜く、というエネルギーが奪い取られたのである。割当てられた土地は色々な意味で投機の対象となり、植民者の所有物から換金の対象に変わり、その目的は大都市(居住者)の(投機という)享楽のためであり、グラックス兄弟、スッラ、そしてカエサルによる、新規植民者が入手した土地の売却についての購買の上限を設けることで制限しようとする試みは、常に失敗に終らざるを得なかった。その理由は、その政策が関係者の利害を、敵対者(世襲貴族)の利害と同じく、著しく損ねたからであり、また確からしいこととしてこの種の土地はケンススへの完全な登録を行うことが出来ず、それ故所有者の政治的な意味での階級としての権利を高めることがなかったからでもあった 12)。

12) 土地改革法の第38条に確かに起因していることである、グラックス兄弟が ager optimo jure privatus ≪非課税の私有地≫についてケンススへの登録を認めたこととはまた別のことである。しかし残念ながら確実なこととして、少なくともケンスス制度の何らかの部分的な改革について、つまりフーフェの土地の登録からある種の財産登録という変化については、何も知られていない。おそらく可能性があると思われるのは、その場合でもクイリーテース所有権による土地の占有はどういう形でも許されていなかったのではないか、ということであり、しかし私が確かなこととして考えたいのは、この種の占有はいずれの場合にも tribus rusticae における assidui ≪軍役を負担する市民≫への登録にはつながらなかったのではないか、ということである。キケロのフラックス弁護の80にて、ある者が小アジアのアポロニア≪現代のトルコのアナトリア半島の北西部にある湖とその周辺≫に土地を所有していて、それがローマでケンススに登録されたことによって、その者が利益を得た、とある。しかしキケロはその弁明に対して次のように異論を唱えている: Illud quaero: sintne ista praedia censui censendo? habeant jus civile? sint necne sint mancipi? subsignari apud aerarium aut apud censorem possint? In qua tribu denique ista praedia censuisti? [私は次のことを問う:その農場は(本当に)ケンススに登録されたのか?それは(本当に)法的な権利を持っていたのか?それは正式な売買手続き(mancipatio)に拠って獲得されたものかそうではないのか?それは国庫に登録されたのか、あるいはケンススに登録される形で獲得されたのか?どの部族にてその農場は実際にケンススに登録されたのか?]

占有と ager compascuus の終焉

土地政策と社会政策の性格を持つ最後の大規模な土地分配の試み、つまりグラックス兄弟の改革によってもたらされた全ての土地所有に関係することがらの大混乱は、先に見て来たように、次のような結果をもたらした。それは3つの新しい土地法であり、その最後のものが u.a.c. 643年の土地改革法であったが、それはそれまでの占有を、ケンススへの登録の許可を与えることと ager privatus の全ての他の特権をそれらの占有された土地にも許可することによって最終的に認可したのであるが、それはつまりグラックス兄弟によって推進された植民者の土地の売却制限 13) をケンススへの登録の許可という形で取り除いたのである。

13) ケンススへの登録許可は3つのここで想定されている法律の最初のもので既に認められていた。643年の法律はただこのことを間違いのないこととして再確認したのであり、その中で――これが第8条のまさに意味する所であるが――そういった占有された土地に対して正規の売却手続きを行う権利を付与したのである。

未来に向けて土地改革法は更にまた農民のアルメンデと徴税権の古くからの対立も取り除き、その中でその法はそういった形でまだ残っていた ager publicus の残りの部分について compascua として使うことと占有を許可すること 14) の両方を等しく終了させたのである。(25条)

14) グラックス兄弟は周知のようにリキニウス・セクスティウス法に修正を加え、その法で認められていた公有地の保有上限500ユゲラ以外に、息子2人まで各250ユゲラを追加で保有することを認めたが、更に修正を加え、その他、他の全ての占有を禁止した(C.I.L., Iのモムゼンの土地改革法への注記)。しかしながら後になって占有の認可が再度討議され、643年の土地改革法では一人あたり30ユゲラまでの占有は許可された。しかしその間に、lex Thoria agraria≪アッピアノスによると lex agraria の後に制定された3つの法の内の2番目≫によって、そのように見えるのであるが、占有に関して重要な変更が加えられており、それについてキケロ(Brutus, 36, 136)は次のように描写している:(Sp. Thorius) … agrum publicum vitiosa et inutili lege vectigali levavit. [ある者がその欠陥の多い無用な法律により公有地に課されていた税金を軽減した。]モムゼンによればルドルフ(Römische Rechtsgeschichte, 1, S41)による説明は以下の通りである:彼≪Spurius Thorius、lex Thoria の制定者とされる者≫は(公有地に)課税することで ager publicus をそのある欠陥の多い無用な法律から解放した。≪公有地の課税率が軽減された結果、私的な占有が加速したのを、lex Thoria が再度税率を戻すことによって、そうした私的占有に歯止めをかけようとした。≫この説明は文法的には全く無理がないとは言い難いように思えるが、しかし文脈の意味に従えば、私はそう信じるが、別の満足の行く説明をこの箇所に加えることは困難であろう。≪元の文章は悪法を制定したということを言っているように思えるが、このルドルフの解釈はそれをまた是正したとしている。levavit =軽減する、解放する、が税率のことを言っているの公有地のことを言っているのかという問題である。≫少なくともこの解釈はアッピアノスの次の説明(引用済みの箇所、1, 27)との連関で:”τὴν μὲν γῆν μηκέτι διανέμειν, ἀλλ’ εἶναι τῶν ἐχόντων, καὶ φόρους ὑπὲρ αὐτῆς τῷ δήμῳ κατατίθεσθαι”[その土地はもはや分配されず、現在その土地を占有している者のものになっており、その土地に関する税金は(本来は)民衆のために納められるべきである(のにそうなっていない)。]良い説明となっており、つまり:ager publicus の占有は ager vectigalis ≪課税される土地≫へと転換させられたのであり、それが意味するのは(理論的には成立していた筈の)現物貢納の支払いの代わりに、それは収穫物の内の一定割合を土地の使用者と親族関係にあるその土地の地主に払うもので、法的には不安定な低位の所有状態の証拠として捉えるべきものであるが、帝政期において非常にしばしば地主達がそれを得ようと努めかつ渇望していたのと同じように≪現物貢納は収穫高とその時々の穀物の相場で取り分が変動するので、地主には固定額の現金払いの方が都合が良かった≫、(現物貢納に換わって)確固たる現金払いが登場するのであるが、つまり adaeratio ≪現金での使用料払い≫が生じていたのである。そして更に、ある土地での使用料取り立て可という認定は、もしかすると使用料免除の場合だけにされた≪本来は使用料を払うべき土地であることを確認してから免除した≫のかもしれないが、しかしその他の場合では所有状態の不安定さを解消したのである。(後述の箇所参照)

同時に lex agraria は ager compascuus に対して次のように取り決めている(第14、15条、モムゼンの補完に基づく):Quei in agrum compascuom pequdes majores non plus X pascet quae(que ex eis minus annum gnatae erunt postea quam gnatae erunt … queique ibei pequdes minores non plus …) pascet quaeque ex eis minus annum gnatae erunt post ea qua(m gnatae erunt: is pro iis pequdibus … populo aut publicano vectigal scripturamve nei debeto neive de ea re sati)s dato neive solvito. [共有放牧地において大きな家畜(牛や馬)を10頭以上放牧しない者で、その家畜の中で生後1年未満のものについては、その後産まれたものについても、それらの家畜について…ローマ人民や公共の徴税人に対して土地の使用税やその他の税を支払う必要はなく、そのための担保を提供したり支払いを行うこともない。]私見としてそこから考えられることは、ager compascuus は、それがある耕地ゲマインシャフトのアルメンデという意味で成立していた限りにおいては――というのはここではただそういう ager compascuus のみを扱っているのであり、任意の個々人により共通に獲得された土地の断片に類したものを扱っているのではないからであり――、ローマの人民の公有地の一部としての意味で把握されるのであり、その土地については国家のための目的という建前で使用することが出来たものである。こういった見方に基づいて明らかに以前の時期よりこの ager compascuus に対しても使用税[scriptura]の支払いを義務化するという試みがなされており、その故にこの法律の中にはこういったアルメンデにおける非課税の牧草地利用の程度に関しての規定が含まれていた。その他、既に述べたように、この ager compascuus という制度はこの法律によって完全に死滅させられた。測量人達の記述によって我々が知っている土地の割当てという形ではアルメンデは上述したような解釈での法的な根拠を与えられることはなかった。Ager compascuus はその結果として、注記したように、ある個々の特定の fundus においての牧草地に過ぎなくなった。その他、こうした法律は、植民市建設が共通の敵に対抗し、かつ都市を新たに建設するという特性に適合しており、牧草地はただ pascua publica ≪公共の牧草地≫という形でのみ、つまりゲマインデに従属して自由に使用出来るものとして、個人の権利[jura singulorum]については、ager compascuus でそれが可能であったように、一部は自由な牧草地の区域が植民市に対して割当てられ、また一部は――既にその前からしばしば起きていたことであるが――取り消し可能な権利としては実際には廃止されていた。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(34)P.212~215

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第34回です。
ここで面白いのは、ヴェーバーが氏族関係が経済的な意味で働く例として自分の「中世合名・合資会社成立史」の内容を引き合いに出していることです。
それはいいんですが、納得出来ないのはここでの「ゲノッセンシャフト」の説明で、ゲノッセンシャフトなのに大規模家畜所有者がそこの主人のように振る舞っている、といった話が出て来ます。私はそれはもうゲノッセンシャフトではなく、そもそもローマの王制の頃とかあるいはその前がゲノッセンシャフト社会であったなどというのはまったく信じがたいです。ゲノッセンシャフトはそもそもカエサルのガリア戦記やタキトゥスのゲルマニアに出てくる、牧畜を主体として少し農耕もやるゲルマンの部族が、少人数で移動を繰り返しているような場合に、階層社会ではなくフラットな仲間関係の社会を構成しているというのが元々であり、ローマの太古の状態に敷衍出来るようなものとは思いません。
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ドイツのアルメンデとの類似はまた次の点にも現れている。それは compascua として存在している領域に対する管轄権に関して、統一された考え方は全く存在せず、しばしば直接的には非常に不透明なままであった、ということである。そのために、その領域に放牧権を持っている特定の所有者達は、compascua が通常の意味での共有物になっているということは全く当てに出来ず、いずれの場合も裁判による共有物の分割[actio communi dividundo]による調整によって、自由に随時分割するという方法は使えなかったのである。しかし他方では明白なこととして発生していたことは――そしてこちらの方が実務的にはより重要であったのだが――また非常に多くのケースでその土地に関連する人間関係と ager publicus の土地との境界についての疑念であった。フロンティヌスによる注解書では compascua について次のように述べられている(p.15, 26):certis personis data sunt depascenda, sed in communi: quae multi per potentiam invaserunt et colunt.[ある人達に放牧を行う権利が与えられたが、それは共有の形であった;そこに多くの者が力づくで侵入し耕作を行っている。]ここについては誰もが中世の末期で地主が垣による囲い込みで村のアルメンデを力づくで奪ったことを思い出すのではないだろうか?――そして実際の所、必要な修正を加えて考えれば[mutatis mutandis]二つの現象は同じ起源を持っているのである。

占有の起源。マルクとアルメンデ。

前章においては、次の前提から議論を進めて来た。つまりイタリアでの定住については、我々が知らされている限りにおいては、氏族社会に対立するゲノッセンシャフト的なものであったと。この見解はしかしながら、フーフェ制度の他の全てを説明し得ていないように思われる。公的な成果[戦争の勝利など]に基づく農地の分配やフーフェの土地に対する公的な権利に基づく測量といったことはゲノッセンシャフトとの相違点を示している。しかしそのことによって次のことを言おうとしているのでは全くない。それはローマ史の先史への入り口において、他のほとんどの国と同様に、そのより古い時代の社会組織については何も情報を持ってはいないが、家への隷属を伴う厳格な士族的組織が存在しており、その影の残余物が、例えばクリエント制≪ローマでのパトロンとクリエントという、一種の親分子分的な互酬の人間関係のこと≫やローマの家族制度の在り方において歴史時代においてもなお深く投げかけられているのであると 7)。

7) 我々の知る限り、歴史において人間のゲマインシャフトにおける組織の頂点に、純粋に経済的な観点から考えてそういった氏族組織が存在していた、ということはない。親族ないしは氏族団体を継承したのはむしろようやく後の時代に、土地制度以外の領域において――私が全く別の事例として私の論文である「中世合名・合資会社成立史(中世商事会社史)」において論証しようと試みたように≪おそらくは中世のイタリアで家計・家業ゲマインシャフトから合名会社などのゲゼルシャフトが発生したことを言っていると思われる≫――本質的に経済上の観点で組織されたものである。こういったことによって結果としてもたらされたのは、個々の家族がそれだけより緊密な形で一まとまりになったということである。≪家計ゲマインシャフトから生まれた合名会社はファミリーの財産を分散させずに一まとまりに保つのに貢献し、より巨大な財閥ファミリーへと発展するのに役立った。≫それ故にそれはもしかするとローマでも起こったことかもしれない。

我々はここでただ次のことに思いが至る。それはこれまで見て来た限りにおいて、確実かつ決定的なこととしてゲノッセンシャフト的な観点での「植民」が発生していたに違いない、ということである。そのように確実にあったと思われる植民が意味したことは、しばしば直接的に、家父長的支配からのある種の解放ということである。大規模家畜所有者は、主要な放牧中心の経済が半遊牧民的な耕作を伴っていた時代においては、たとえ氏族制度が形の上で成立していない場合でも、経済的には他の部族ゲノッセンシャフトの主人であり、それ故に彼らは常に全ての確実かつ決定的に行われた植民の生来の敵対者だったのである;耕作地においての自由な牧草地の利用権と移住してきた植民者のためのアルメンデは、そういった大規模家畜所有者達にとっては再度奪い取って権利回復させなければならないものだったのであり、彼らは常に移住してきた植民者のゲノッセンシャフトのために分離されたアルメンデを共有のマルクの中に取り込もうと試みていた。土地を家畜の牧草地として利用することはしかし、全くもってマルクを搾取するただ一つの方法ではなかった。古代ゲルマンではよりむしろ別の形に刻印されたビファンク権が知られていた。それは新規に荒野や森林を開梱した土地[Rottland]の占有について、開墾した者が新たに手に入れた領域を私的に利用している限り、またその間その者がそこで耕作している限りは、その領域を垣で囲い込むことが許されたものである 8)。

8) フェスタス≪Sextas Pompeius Festus、2世紀後半のローマの文法家、フラックスの De verborum significatione という百科全書の要約版を作り、そこに語源と意味を追加したものを著わした。 ≫参照:Occupaticius ager dicitur qui desertus a cultoribus frequentari propriis, ab aliis occupatur. [占有されている土地とは、その土地を耕作していた者がそこを放棄し、別の者によって占有されているものを言う。]

そして耕作の意義が増大するに連れて、そして牧畜経営にとっては家畜に牧草を与える土地を得られる余地がどんどん少なくなっていく、という点でこのことは意味を持っていた。ローマ国家によって法に規定された状態においては、この占有については、それが禁止されていなかった限りにおいて、その占有地についてその地域における権力者に使用料を支払うことが行われるということにしばしばなっていた。そしてその意味で私はカルロヴァ≪Otto Karlowa、1836~1904年、ドイツのローマ法制史学者≫の見解 8a) である、アッピアノス≪AD95頃~165年頃、ギリシア人でローマ市民権を得て、全24巻の「ローマ史」を著わした。≫が報告している、より後の時代の占有の状態として記述している、その土地の収穫高に応じた一定の支払いが義務付けられた、ということを非常に確からしいと考える。おそらくは通常論じられているようにこの使用料の支払い義務が忘れられてしまったのではなく、世襲貴族達はそもそもその義務自体を一度も認識したことがなく、ただその時々の政治的な力関係によって大なり小なりそれに従わざるを得なかっただけである。もちろん次の場合、それは先行して発生していたことのように思われるが、つまり国家によって征服されたとかあるいは敵に奪われた開墾済みの土地領域について、特別な公示によって全ての市民に対して自由な占有が開放され、そしてこのことが確からしいこととしては公共の土地の国庫上の利害関心においての最古の利用方法であり、ここでは確固たる公課の宣告が行われ、アッピアノスによれば耕地の場合は1/10、森林の場合は1/5の税が間違いなく課されたのであるが、共有マルクにおいての開墾地においてはしかし根源的なこととして、この課税ということが行われることがほとんどなかったのであり、この2つの状況をきちんと区別して同定することは、その課税対象の土地の所有者の利害関係に依存することであって、非常に区別が難しいのである 9)。

9) 同様の区別の難しさという点での混乱がまた、ager occupatorius ≪戦争の勝者によって占有され、元の住民が追放された土地≫の概念からもまた生じて来ると思われ、それが ager occupaticius ≪元の耕作者が放棄し、別の者が占有している土地≫とは別のものであるということが多くの者によって強調されている。(例えばモムゼンルドルフ≪Adolf Friedrich Rudorff、1803~1873年、ドイツのローマ法制史家≫、―ブルンズフォンテス p.348 N.5、Roemische Feldmesser II, 252)まず第一に、今挙げた最後の文献の言及する所では、使用料支払い義務のある占有地という形で利用された(略奪による)占有地が成立していたのであると。シクルス・フラックスは p.138 で次のように述べている:
Occupatorii autem dicuntur agri quos quidam arcifinales vocant, quibus agris victor populus occupando nomen dedit. Bellis enim gestis victores populi terras omnes, ex quibus victos ejecerant, publicavere atque universaliter territorium dixerunt intra quos fines jus dicendi esset. Deinde ut quisque virtute colendi quid occupavit, arcendo vicinum arcifinalem dixit.
[しかし占有された土地と言われるものは、ある者が”arcifinales”(未測量の土地)と呼ぶ土地であり、勝利した方の国民がそれを占領することによってその名前が与えられた。戦争が終わった後、勝利した国民は全ての領地を、そこから敗れた者達を追放して占領した。勝者はその土地を公有地とし、そのすべてを領土と呼び、その中で司法権が行使される境界を定めた。それから各々の者がその耕作の能力に応じてある土地を占有した場合、その者はその土地に隣接する周りの土地を保護し、それを arcifinales と呼んだ。]
それに対して、ヒュギヌスが De cond. agr. p.115, 6 で言っているのは、明らかに同様に先に名前を出した ager occupatorius についてのものである:… quia non solum tantum occupabat unusquisque, quantum colere praesenti tempore poterat, sed quantum in spem colendi habuerat ambiebat(参照:シクルス・フラックス p.137, 20)
[何故ならば各人がその時点で耕作出来る土地を占有しただけではなく、また先々に耕作する見込みがある土地を囲い込んで持っていたからである]
事実上の耕作の範囲に依存していたのは、おそらくはただ新規開墾地の占有の場合だけでなく、収穫高に応じた税という条件での征服された土地の占有の場合もそうであろう。というのも国家は、1/10税を徴収する主体として耕作地の領域の範囲に利害関心を持っていたからであろうし、そして継続して未耕作の土地は他方では放棄されたのである。ここで言及されている占有、つまり「(将来)耕作する見込みのある土地を所有していた」は。2つのケース(占領によるものと、新規開墾によるもの)のどちらでもなく、通常の ager arcifinius について言っているのであり、つまりそれは市民ムニキピウムの土地で、ローマ式の測量が未実施のものである。というのも643 u.a.c. 年の土地改革法によって個人の占有が許された土地はほとんどがローマの征服地においての ager occupatorius だったからであり、そのためにそこの(新たな)住民は(未測量の)不規則な形の土地ブロックを全て自分の所有地と同一視したのである。それ故私には ager occupatorius はより範囲の広い、測量といういう観点で ager arcifinius と、そして将来の所有を期待するといういう意味でガビイの土地≪地権はあるが未測量・未割当ての土地≫と同一視すべき概念と思われ、一方 ager occupaticius の法はビファンク権≪開墾者がその土地の占有を許される権利≫から派生した所有形態の特別な場合と思われる。――以上述べたような土地の種類の同一視はまた次のことの理由でもある。それは何故 “vetus possessor”≪以前の所有者≫が、つまりモムゼンの納得の行く説明(C.I.L., Iでの lex agraria への)に拠れば “ager publicus”のある種の占有で、その所有状態がグラックス兄弟の制定した諸法律もしくは u.a.c. 643年の土地改革法の前に根拠付けられたものであり、その時々において一般的に未測量・未割当て地の所有者と同一視される、ということへの理由であり、そのようにシクルス・フラックスの引用箇所や、更には(より具体的な把握として)フロンティヌスの p.5, 9 や、同じくシクルス・フラックスの p.157, 22 とヒュギヌススのp. 195, 17 が述べている通りである。そしてこのことは更に次のことの理由でもあったのかもしれない。それは何故 ager arcifinius が一般に完全な個人所有権を認められたものになっていなかったということの理由であり、そのことは三人組委員会による土地の強制的な買い上げと、一般的に言って強制的なやり方でのそれまでの旧所有者達への全てまとめての新規耕地の再分配に現れており、それはそれらの文献において法的な視点で実質的なこととして表現されている限りにおいて、そうだと言える。

もちろん次のことも想定出来るかもしれない。つまり、十二表法の時代での耕地分割の際の公共地の牧草地としての使用への課税[scriptura]と同じく、それぞれの土地への課税が一般的に導入されたか、あるいは導入されねばならなかった、ということである。というのは単に普通の開墾済みのマルクの自由な占有だけではなく、牧草地のそれも認容されていたということは、私が考えるに、元々その者には権利が与えられていなかった領域でのビファンク権の侵害という性格も持っていたのである。古い耕地ゲマインシャフトが併合と分離の機会において、それが元々持っていたアルメンダがその際におそらくは一般的なこととして、ager publicus という容器の中に投げ入れられたのであり、またそれまでの所有状態については特定の個人の fundus に応じての compascua への割当てということが各地で行われたのであり、それはまさに後の時代の土地の割当てと同様であり、それこそ測量人達が述べていることである。

「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(33)P.208~211

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」(表題の訳を変えました)の日本語訳の第33回です。ここでは隣人間で共有される ager compascuus (共同牧草地)についての議論が展開されます。しかし私にはここの議論は噴飯ものに思います。測量人達が「時たま見られる」としている、単にケントゥリアで角形の土地を取っていった結果周辺部などに必然的に発生する余った土地(subseciva)を共有の牧草地として隣人間で利用する、というだけの話を、強引にゲルマン民族のフーフェ制度のアルメンデ他に関連付けて議論します。アルメンデなど持ち出さなくとも、例えば日本だってこういう共有の牧草地は「入会地」「まぐさ場」といった名前で知られていますし、牛や馬を使った農耕が行われていた所であれば全世界的にそういうものがあったと思います。ともかくヴェーバーはローマが法律によって土地制度を整備する前は、ゲルマン民族と同じフーフェ制度が行われていたという、まったく証明もされていない仮定を元に強引な議論を進めています。私はマイツェンの理論がどのようなものだったのかその著作の日本語訳も出ていないので知りませんが、ヴェーバーのこの論文全体での方法論には眉唾という気持ちが訳していて拭えません。
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もう一方で明らかなことは、農民のゲマインシャフトには、耕作地に隣接していてそこへの行き来が保証され、かつ(メンバー以外は使用禁止と)規制された牧草地の領域を持つことが必要であった、ということである。しかし次のことは確からしいと思われる。それは ager publicus の権利上の構造が、周知のように、古代での耕地ゲマインシャフトにおいての共同牧草地のそれではなく、我々はその共有牧草地の痕跡を後の時代においての、それとは別の破片のように散らばった現象において探さねばならない、つまりそれは ager compascuus ≪隣人間における共有の牧草地≫においてである、ということである。

共同牧草地 [ager compascuus]

この制度は測量人達の文献では、ただ時々のみ見出されるものとして言及しており、特にその中でも subseciva [という半端な余った土地]の転用という形である。Ager compascuus と一般的な牧草地である pascua publica [公共の牧草地]との違いは、2つの点にある。一つは、前者は測量人達の時代においてはただある特定の、多くは隣人同士である(proxim)土地区画所有者達が共有の牧草地として所有し、そしてその権利は彼らの土地の付属物として通用しており(所有権)移転の際には一緒に扱われる、という点にある 3)。

3) 測量人達の compascuus についての記述でもっとも重要な箇所は次のフロンティヌスの De contr. p. 15 である:Est et pascuorum proprietas pertinens ad fundos, sed in commune; propter quod ea conpascua multis locis in Italia communia appellantur, quibusdam in provinciis pro indiviso.
[それはまた fundus の土地に付属する牧草地の所有権であり、しかしそれは共有される;このために、イタリアの多くの場所で牧草地は「共同のもの]と呼ばれ、ある属州においては「分割されないもの」と呼ばれる。
-さらにヒュギヌスの De cond. agr. p.116, 23:In his igitur agris (den zum Verkauf bereitgestellten überschüssigen Äckern) quaedam loca propter asperitatem aut sterilitatem non invenerunt emptorem. Itaque in formis locorum talis adscriptio, id est “in modum compascuae”, aliquando facta est, et “tantum compascuae”; quae pertinerent ad proximos quosque possessores, qui ad ea attingunt finibus suis. Quod genus agrorum, id est compascuarum, etiam nunc in adsignationibus quibusdam incidere potest.
[それ故これらの土地において(売却の準備が出来ている余剰の土地において)いくつかの土地は荒れ地であるか不毛の土地であることによって買主を見つけられなかった。それ故に測量地図上に次のように書き加えられた、つまり「共有の牧草地の状態にある」と。そして時には「ただ共有牧草地としてのみ(使われる)」と記載されることもあった。その所有権はその土地の境界が接する隣人達の(共有の)所有となっていた。このような種類の土地、つまり共有牧草地は、また今日でもいくつかの割当てられた土地において(隣接して)存在している場合がある。]
シクルス・フラックスの p. 157:Inscribuntur et “compascua”; quod est genus quasi subsecivorum, sive loca quae proximi quique vicini, id est qui ea contingunt, pascua … (Lücke).
[(測量地図上に)「共同牧草地」と書かれているもの;それが subseciva の類いの土地であるか、またはその土地の近隣の複数の隣人達の(共有の)土地であるか、それがこの類いの土地が発生する理由であり、牧草地が…(テキスト欠落)。]
-ヒュギヌスス、De lim. const. p.201, 12:Siqua compascua aut silvae fundis concessae fuerint, quo jure datae sint formis inscribemus. Multis coloniis immanitas agri vicit adsignationem, et cum plus terrae quam datum erat superesset, proximis possessoribus datum est in commune nomine compascuorum: haec in forma similiter comprehensa ostendemus. Haec amplius quam acceptas acceperunt, sed ut in commune haberent.
[もし共有牧草地または森林が土地に付与されているならば、それがどういう権利で与えられているかを我々(測量人)は測量地図に書き込むだろう。多くの植民市において広大なサイズの土地を割当てることに成功し、そしてこれらの与えられた土地以外に余っていた土地があったので、それらは(近隣の)土地の所有者である隣人達の共同の所有物として compascuus の名前で与えられた:この土地については測量地図上においても同様に把握され、その旨我々(測量人)は明示する。この土地は元々(割当てで)受け取った土地以外の土地として受け取るが、しかしそれは共有の形で保持する。]
Aggenius Urbicus≪フロンティヌスの著書で引用されている技術書の著者≫の引用部分である p. 15 については後で論じる。

(二つの相違点の内の)もう一つ明らかな点は、この Ager compascuus に対する権利の保護が特別なものであったということである。「もしその土地が Ager compascuus であるならば」とキケロは言う(トピカ 12)「その権利とは共有地で家畜に草を食べさせることである」≪キケロは comasucuus と compascere を同族語(coniugata)の例として出している≫その対立物は明らかであり、つまり公共の土地において、つまりpascua publica において、ある「種別」、つまりここでは個人の権利としての、訴訟において保護される牧草地としての権利への請求権は成立していないのである。この牧草地としての権利として保護された訴えがどういう類いのものであったかは、もちろん知られていない。ひょっとするとキケロの時代においては事実上、ペルニーチェ≪Lothar Anton Alfred Pernice、1841~1901年、ドイツのローマ法学者≫が推測しているように、イェーリング流の≪Rudolf von Jhering、1818~1892年、ドイツの法学者。責任ある市民は自分の権利擁護のために戦うべきという義務を主張した「権利のための闘争(Der Kampf ums Recht)」という書籍はベストセラーになり26ヶ国語に翻訳された。≫応急的な権利訴求手段である actio injuriarum ≪不正行為に対する訴訟、名誉毀損、肉体への暴力、プライバシー侵害などの行為に対して訴えを起すもの≫に訴えるものとして理解すべきなのかもしれない。より古い時代については私は次のように考える。つまり耕地に対しての正当な持分関係を確立するための手段として controversia de modo があったのとまったく同じように、牧草地としての権利を得る上でそれに使えるように構成された何かの法的手段が存在した、ということである 4)。

4) フロンティヌスの p. 48, 26, 49(そしてそれについての Aggenius Urbics の p. 15,
28):de eorum (scil. der compascua) proprietate jus ordinarium solet moveri, non sine interventu mensurarum, quoniam demonstrandum est quatenus sit assignatus ager.
[その(compascuaの)所有権については通常の法的手続きが進められることが多いが、測量が介在しない訳ではない。何故ならばある土地がどこまで割当てられているのかをはっきりさせる必要があるからである。]

こことまた先の注釈で引用した箇所についてフロンティヌスは compasucua を controversia de
proprietate ≪所有権についての訴訟≫のカテゴリーの中で扱っている。測量人達は概して fundus
への個々の付属物――耕地区画、森林の伐採権、牧草地としての権利への請求権の行使を――controversia de
proprietateとして取り扱っている。共有牧草地についての持ち分はまさに元々は全く同じように、かつまた実際的な行使においては大きく異ならない程度に「所有権」の対象物であり、それは耕地ゲマインシャフトの中で耕地についての持ち分と同様であった。そのことから、ドイツのアルメンデ[共有地]のように,それらが容易に普通の共有の所有権となることが出来るのは明らかである。もちろん D. 20 §1 それ自体の場合においても si servitus vincidetur (8,5)(スカエウォラでは: Plures ex municipibus qui diversa praedia possidebant, saltum communem, ut jus compascendi haberent, mercati sunt, idque etiam a successoribus eorum est observatum; sed nonnulli ex his, qui hoc jus habebant, praedia sua illa propria venumdederunt; quaero, an in venditione etiam jus illud secutum sit praedia, quum ejus voluntatis venditores fuerint, ut et hoc alienarent? [wird bejaht, sodann weiter:] Item quaero, an, quum pars illorum propriorum fundorum legato ad aliquem transmissa sit, aliquid juris secum hujus compascui traxerit? Resp., quum id quoque jus fundi, qui legatus esset, videretur, id quoque cessurum legatario)
[異なる農地を所有していたムニキピウムの複数の住民が共通の放牧地を購入し、それによって共同の牧草地を持つことにした。そしてその土地は彼らの相続人によっても保持されている;しかしこの権利を持っていたこれらの者の中で何人かは、自身の遺産であるその土地を売却した;私は問うが、その売却において、売主の意向がそうであった時に、その権利も共同所有権から分割されて土地と一緒に譲渡されたのか?【これは肯定される。そして更に:】同じく私は問う。fundusの所有権の一部が遺産として誰かに渡された場合に、この共同牧草地の分割された権利も移転されるのか?ある者が答えて、遺産として受け取った土地の権利が、その土地に付属するものと見なされる場合は、その権利もまた相続人に移転されると。]≪【】はヴェーバーの追記≫
という部分は、通常の共同所有権が本当に存在していたのか疑わしく思える。(権利分割請求か?)もっとも通常はそれはもちろん可能なことであったが。考慮すべきことはいずれにせよ個々の fundus を個々人の所有に属するとしている描写であり、そして次の可能性が考えられるだろう。つまり、ここで取り扱われているのは賃貸借によるか、あるいは永代借地としてか、または購入されたか(ager quaestorius の権利で)である公有地の耕作で所有権が与えられていない場合であるということである。この場合、次のように考えられるかもしれない。つまり、この文書で主張されているように、単なる行政的に保護された権限ではなく、ある権利が得られたのであり、――そこにおいては古い制度であるアルメンデへの準拠が起きているのかもしれない。比較すべきなのは:キケロの pro Quincto. c. 6 の最後の部分である。アリメンタ制度の表≪Alimentartafeln、皇帝ネルウァやトラヤヌスの時代に設けられた貧しい家庭の子供や孤児への福祉制度。その財源として土地所有者からの寄付が使われた。≫(Veleja col. 4,、84行目、 Baebiani col. 2、49行目)の中に付属物として共通の fundus とsaltus ≪小道≫について言及されている。この制度はつまり、私が思うには、次のような人間関係を否定している。その人間関係とは、例えば耕地ゲマインシャフトの成立の際のそれとか、そして後には農地の錯綜状態や古代の土地制度の残滓である諸状態がまだ支配的であったとか、あるいは存在していたに違いないというそういう人間関係である。全ての他の状態との類推の中で、当時に唯一適用出来るのが、耕地においてある者がゲノッセンシャフトの成員として持分を耕地において所有していたということであり、そして確かにその当時牧草地の権利の範囲はフーフェの権利に従って決められていたし、そして共同牧草地の権利というのは全ての土地区画所有者に与えられていたのではなく、ただ “fundus” の資格者にのみ牧草地において割当てられていた。同様に次に耕地の分割と合併が行われた時、個々の土地所有者に一定のユゲラの面積の土地が改めて割当てられたのであるが、その分割と併合はアルメンデの共有地においては、それが以前と同一の物として一般的にある土地ゲマインデの牧草地という古い形で成立していた限りにおいては、次の結果、つまり一定の面積の土地区画についてある決まった面積が――それが全員同じ面積であったというのは疑わしいが――飼育している家畜の数に応じて割当てられ、部分的にはまた使用料の支払いに応じて割当てられた、につながったのである。土地の(再)割当てによる耕地の併合においては常にまた共有地の設定が同時に行われており、そして明らかなこととしては、そこに植民市があったと推定される場所においては、それまでのそこの土地の所有者の権利を取上げることを意図せず、むしろアルメンデを拡張された領域の中に編入することで必然的に生じる土地面積の余剰部分が得られたのであり、また元からの土地所有者は分割割当てによって一つにまとまった土地区画を得ることと経済的に解放された地位を得ることが、アルメンデの喪失という損を埋め合わせた、と信じられていたのである 5)。

5) シクルス・フラックスの p. 155, 20 の併合された土地の所有者について: … in locum ejus quod in diverso erat majorem partem accepit … [彼らに割当てられた土地はそれぞれ面積が異なっていたが、彼らはその大部分を(不平不満なく)受け取っている。]このことは次の場合においてのみ可能である。つまり、土地の併合においてはまた、新たに割当てられる面積が以前耕地として持っていた総面積よりも大きかった場合であり、そしてこのやり方はただアルメンデを同時に分割することによってのみ可能であった。

というのもこういった農地の分配はまた、既に注記したように、おそらくはイタリアにおいて古代ゲルマンの土地制度と同様に根源的なものとして成立した基礎原理、つまりフーフェの土地を所有する農民のみが、その耕地に定住している全員ではなく、牧草地の権利を与えられたということと、またそれ故に古いフーフェのある種の土地ゲマインデが成立していたこと、そういったことを一掃してしまった、――そして実際のところそのことは、土地区画の(実質的)所有者が Usukapion ≪時効による取得≫が認められることによって、フーフェの土地を所持する農民と同列の位置に置かれるようになった後は、よる古い時代の(一部の農民にのみ認められていた)権利状態を得ることが、長い時間をかけずに≪時効取得は2年≫可能となり、それについて仮定されるのは、ここで考えて来たようなやり方で同様のことが実際に起きていたということである。フーフェの土地を所持する農民とそうでない者の違いはもはや確認することが出来なくなっていたし、また人がそこからその制度を存続させようとしていた限りにおいて、人は土地の正当な所有者を見分けるためには、牧草地の土地に境界を示すものを設置するような外面的な手段に拠るしかなかった 6)。

6) 注3で引用した箇所を参照。

こうした人間関係の全体の扱いは、それ故にまたより後の時代のローマの耕地制度のこれ以外の他の全ての共通経済においての敵対的傾向に合致するのであり、それについては既に前述の箇所で見て来た。

もちろん ager compascuus は意味においてこの側面のみに限定される訳ではなく、それは土地領域を ager publicus 6a) に取られてしまうことになったのである。

6a) ここで意味しているのは:一般的な家畜へ草を食べさせることの自由と占有権の基盤となる土地に対してである。

a.u.c. 643年(BC111年)の土地改革法は、イタリアの ager publicus について25行目で次のように規定している:
neive is ager compascuus esto, neive quis … defendito quo mi(nus quei v)elit compascere liceat.
[この土地は(もはや特定の権利者だけの)共有牧草地ではない、誰も…そこで家畜に草を食べさせようと欲する者を閉め出すことは許されない。]

ager compascuus と、共有牧草地ではない ager publicus との対比を明確にするならば、前者ではある特定の土地ゲマインシャフトのメンバーのみに排他的に牧草地の使用権を与えているのに対し、ager publicusの方では特徴的なことは、上記の lex agrari の同じ箇所で規定された、ager compascuus にぴての占有権の排除、といことが実際には本質的な要素であった。この両方について、周知のように、またゲルマン族のアルメンデと共有のマルク≪アルメンデよりも広い範囲での共有地≫が所有という面で対立していたのに対応している。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(32)P.204~207

ローマ土地制度史」の日本語訳の第32回目です。
ようやく第2章が終わり、第3章に入りました。
この辺り、「階級闘争」的な描写が多く、おそらくロードベルトゥスの影響を受けているのかな、と思います。
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こういった貿易と農場経営の結びつきは非常にはっきりした形で統合されたのであり、大規模事業経営についてその中に国際的な性格を取り込むことになり、また同じくそれに対して国家の政治においての服務という位置付けも与えられたのである。しかしもちろんまた次のことも読みとれる。それはローマの世襲貴族が古代アテネのそれと全く同様に、小土地所有の農民を相当にひどい程度までに搾取し、それによってその層と対立する者[自分達]を富ましたのであると。

古代ローマの陸上の戦争が行われていた間においていまや、覇権獲得のために必要であったアルバ・ロンガ≪ラティウム地区にあったラテン人の都市国家≫の制圧と暴力的なシュノイキスモスの形での周辺地域の吸収統合という観点で見た場合、そういった戦争はただ略奪戦争という性格のものであり――そのことはまた(外交)技術的な表現である”res repetere”[取り返すべきもの]が通告祭司≪ローマの祭司でまとまってコレギウム(同業者団体)を作っており、外交に従事し戦争の開始や終了の通告を行っていた。≫の最終通告の中で使われていることと矛盾しないが――十二表法制定の数十年後に始ったのは拡大していく、戦勝の度に強まっていく対外侵略推進政策であり、それは単に政治的な支配領域の拡大という結果になっただけではなく、また同時にゲマインデに所属する住民の耕作に用立てられる耕地の領域がとてつもない面積にまで拡大されたことにもなったのであり、そしてその反面の帰結として海外展開の政策は完全に抑制されることになったのである。それと同時にローマ内部における重大な内部闘争の結果は、ますます世襲貴族の側に不利なものに成っていた。モムゼンは次のことを正当に指摘している。つまりローマの平民の大きな政治的成果は護民官の選出が民会によって行われるようになった瞬間から始っており、そしてその革新において特徴的だったのは、平民で構成される民会の代表者がローマに居住している貴族ではない市民、それは中小規模の土地所有者であったが、その代表者になったということである。実際の所、この民会の目的は以下のものであった:既に慣例として認められていた権利の成文法化、借金の免除、土地所有者の地位から落伍した余剰人員の救済を、公地をその者達に分割割当てすることとそれに使う土地を侵略によって拡大することにより行うこと、であった。農民の、あるいはより正確には中流の農耕市民派≪Ackerbűrgerpartei、全集の注によればマルクス主義者のカール・ロードベルトゥスの用語≫の目的で特徴的なことは、そこにはそういう派が次の場合には成立していたに違いないが≪ヴェーバーは Partei = 党、という語を使用しているが、共和政ローマにおいて今日の政党のようなものは存在していないことに注意≫、その場合とはそういった市民が大規模商業と都市の本質的な部分に触れることにより、そういう小規模の土地所有者としてそこに更に事業者的な外見を付加された場合であるが、その外見は我々がローマの≪大規模≫農場経営者に刻印されたものとして見るものと同じであった。そういった傾向を本質的に推進したのはしかし、土地所有の法的・経済的な自由化であったに違いなく、それはまた14世紀のフィレンツェにおいての教皇党[グェルフ]が大土地所有者≪封建領主≫であった皇帝派[ギベリン]に対して行った戦いと同様であるが――ただフィレンツェでは都市のツンフト[ギルド]≪フィレンツェではアルテ・ディ・カリマラという毛織物業者の同業者組合がかなりの力を持っていた。≫が政治力を持っており、一方ローマでは2つの土地を巡る利害関係者グループ≪全集の注によれば独立手工業者と商人のそれぞれの組合、モムゼンのローマ史による≫がお互いに対立していたのである。土地所有の法的な解放が平民層に与えたのは、セルウィウス≪第6代ローマ王》の改革でのケントゥリア民会≪ローマ軍を構成する市民による兵士をその所有する財産の額で階級分けしたもの≫の結成にあたっての、フーフェの農民による土地台帳の作成≪フーフェとして共同体から割り当てられていただけの土地を自分自身の所有の土地にしたこと≫であった。そしてそこに随伴していたのは、十二表法においての取引の自由の原則的な認定であった。我々は次のことを仮定しなければならないだろう。つまり分離と併合という性格を持っている経済的な解放はまた、共通経済的負担のようなものからの自由な個人経済への勝利であり、また土地の分割によっての耕地ゲマインシャフトの完全な個人所有権への解体であり、それがまさに農耕市民派が目的としたことであり、また≪セルウィウスの改革や十二表法と≫同じ時代における成果であった、ということを。そういった解放は、次のような意味での個人所有権の概念を作り出した、あるいはよりむしろそういった概念を土地所有に適用したと言えるのであるが、その意味とは、それは利害調整の政治が反映された人為的な産物である一方で、他方はその論理的構成を徹底研究して技巧に走りすぎた結果としての、法学者の考えであるということだが、それがそのような性格を持っていた限りにおいて、それは支配的な考え方であったし、今日でもなおそれはそうである 105)。

105) ただ暗示的なこととして考えるべきことではあるが、ここでは次のことを想起することが出来る。それはアテネのソロン≪BC6~7Cのアテネの政治家で、貴族と平民の対立を緩和するためのいわゆる「ソロンの改革」を行った。≫が、新しく発見された≪1891年1月≫アリストテレスの書簡に記載されているように、似たような≪貴族と平民の≫対立を妥協に導こうとしたことである。もしかするとこの事実が周知の≪リヴィウス、「ローマ建国史」の作者の≫報告への注釈の原因になっている可能性がある。その注釈とはソロンによる立法が十二表法制定作業の開始にあたって調査の対象にされるべきとされた、というものである。

地所についての個人所有権の解放はしかし、農耕市民派の土地制度上の目標の一つに過ぎなかった。もう一つ別の目標は周知のように、ager publicus、つまり公有地に関連したものであり、この公有地に関する争いは良く知られているように、ローマ内部の争闘としては一般的に言ってもっとも程度のひどいものを引き起こした。我々はしかし ager publicus の運命についてそれでも取上げることとする。ここではそれについてそれ自身が提供する本質的な土地制度上の現象の中において、手短かに研究を進めるべきと考えるし、それも望ましくはローマの個人所有権の対象となっていなかった地所との関連においてそうすべきであり、これからその観察を進めることとする。

III. 公有地でありかつ課税可能な土地とより劣位の権利での所有状態について

ager publicus の性格

より後の時代におけるローマの土地制度の、大まかな形でありながらそれでいてはっきりと作り出された個人所有権への対立物である ager publicus の人為的な成立の経緯について明確に描写したものは何も存在していない。それがケンススの対象とはならなかったこと、法的な保護がただ禁止令という手続きによってのみ行われたこと、またその保護がほとんど犯罪的な性格を持つ侵害に対してだけ行われたこと、その譲渡の形式が定められていなかったこと、それら全ては単純化して言えば、それが権利の譲渡ではなく、ただ保護された占有状態においての地位を継承するだけのものだったからであり、事実上の力による占有が認められなくなることによって、占有していたある面積の土地への各人の法的な関係性が消滅してしまったことは、――それは公的な土地についての最古の所有状態の周知の特性である。こうした所有状態の発生の仕方は:単なる占有と耕作を通じてであり、ただまたむしろ人口がかなり多い土地では、こういった所有状態の発生は全く普通のことではなかったように思われる。

ager privatus と ager publicus の対立について人がまずしがちなのが、その対立を耕作地と放牧地の間の対立だという形で結びつけて考えることである。実際にある共和制期の公職人は彼がある土地の割当てにおいて ager publicus を作り出した作業について次の言葉を残している:”fecei ≪おそらく feci の誤記≫ ut de agro poplico agratibus cederent paastores” 1)[私は公有地の割当てにおいて、放牧者が(土地を)鋤(農耕者)に引渡すようにさせた。]そして監察官[ケンソル]によって賃貸しされた土地区画は、≪測量人達の≫技術用語としては、多く pascua ≪牧場≫と呼ばれた 2)。

1) C.I.L. I, 551 参照。モムゼンの推定によれば、U.C. 622年[B.C. 132年]の執政官ポピリウスによるグラックスの法の執行においても同様の記述が見られる。

2) プリニウス、H. N. 18, §11。キケロ, De 1. agr. 1, 1, 3 参照。

もちろん次のことは明らかである。つまり実務的にはローマの土地の領域において公共の(共有の)放牧地が、ドイツでの村落の耕地においてのものと似たような組織的なつながりを耕地と持っているということは、既に非常に早くからもはや問題とはされていなかった、ということである。≪ドイツのフーフェ制度では、牧草地は共有地[アルメンデ]として村落ゲマインシャフト・ゲマインデの中で位置付けられていた。≫

「ローマ土地制度史」の日本語訳(31)P.200~203

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第31回目です。
ヴェーバーはイタリア半島において、ローマの前はフーフェ制度というゲルマン民族の耕地ゲマインシャフトと同様のものがあって、ローマが十二表法の時代にそれを解体して、土地を個人の私有財産にして売買も出来るようにしたことを「革命」と表現しています。しかし、ローマに昔フーフェ制度が行われていたというのはまったく検証されていない仮説に過ぎず、結局はヴェーバーも後になって間違いであったことを認めています。なのでここの記述は割り引いて読むべきと思います。
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しかしながらこれらの植民市はその後廃止され、そして後には属州においては植民市や他のゲマインデはただ例外的な場合にのみ構築され、それらに対しては設立の際に「イタリア権」[jus Italicum]≪イタリア半島以外にある都市に、ローマ皇帝がほぼローマに準ずる権利を特権として与えたもの。その都市で生まれた者はローマ市民権を与えられ、自由に財産を売買出来、また土地税も免除された。≫がその時にかあるいは後になって与えられたのである。その他の特徴として、またフロンティヌス(de contr. agr. II, p.36)が注記しているように、属州における植民市の領域は規則的なこととして納税義務を負っていた。しかしそのことによって例えば植民市の土地はローマ式に分割されるべきという原則が除外されてはいなかった。反対に第1章で分析したアラウシオの碑文からは、そこは免税の植民市では無かったが、そこでも[ローマ式の]土地の分割と配分が行われていたことを見て取ることが出来る。その碑文は土地の分割が耕地整理のためであることを明確に示している。(”ex tributario…redactus in colonicum” 103))[「課税地から…植民市の土地において与えられた。」]

103) おそらくはそこから更に割当てられる土地区画について、それぞれ異なる面積のものが作られている。この論文に添付した測量図[下図]を参照。

この碑文から同時にかなりの確からしさをもって見て取れることは、もちろんそれは他の史料によっても確認しなければならないが、属州内の植民市においての土地への課税は、個々の土地区画を単位としてされていたということである。そこの農民はそれ故、第1章で説明した意味において、土地に課された税を納める義務を負っていた。測量人達もこの碑文と同様に、――既に述べて来たことではあるが――、そこにおいては scamna と strigae [だけ]による線引きではなく、 limites [小路]によって[も]境界設定が行われていた≪つまりケントゥリアで土地分割が行われていた≫ことを述べている。このことは明確に、そこにおいては道路システム[limites]を無しで済ますことを避けようとしたのであり、また既に示して来たように、ヒュギヌスによって課税地に対する土地の割当て方法として推奨されている ager centuriatus per scamna assignatus [scamna と strigae による長方形に区切られた土地ながら、さらに limites によっても区切られており240ユゲラ≪標準的なケントゥリアは200ユゲラ≫の変則的ケントゥリアとして扱われたもの]がただ割当ての目的のためだけに使われ、その際には個々人には全て同じ面積の土地区画が割当てられたのであり、それ故に[属州の中にはない]他の植民市においてはこの方法を使う事が出来なかったのである。既に述べて来たように、いずれにせよ土地に対して課税出来るといいうことは植民地の土地割当てに対して、何らの他の経済的な損害を与えるものではなかったのであり、常にそこに内在していた要因は、目的と方法という点で近代的な耕地整理と同等の手続きの一つだったのである 104)。

104) 次のことは偶然であろう。つまりサルペンサ≪現代のスペインのウトレラにあったローマの同盟市≫とマラカ≪同じくスペインのマラガにあった同盟市≫の都市法について、耕地に関係するもの(灌漑、水道、道路)についての規定が含まれておらず、その一方でジェネティヴァ≪Genetiva Iula、ユリウス・カエサルが現代のスペインのオスナに建設した植民市≫の植民市の法にはそれらが含まれている、ということが。しかしおそらくは最初に挙げた2つの(ラテン)ゲマインデの法規は実際の所それらについては何も触れていない。その他の特徴として、カエサルにより制定されたマミリア法[lex Mamilia Roscia Peducaea Alliena Fabia]はただ植民市のためだけではなく、また「この法律によって」[ex hoc lege]構築されたムニキピウムのためでもあり、そして limites についての規定があるということは、ムニキピウムの領域においての退役兵への(小規模で非定期的な)土地割当てにおいては自然なことであった。新規のムニキピウムは、この法令に基づいて、おそらくほぼ常に、既にスッラによって行われたように、農村トリブスの解体の結果として作られ、そのことから個々人に割当てられた土地はムニキピウムに従属するものとされた。limites によって区切られ割当てられた耕地の存在ではなく、土地の面積を統一された decumanus を使った測量システムと、同じく統一された測量地図の中において、各人にボニタリー所有権の土地として、フーフェ原理に従って割当てを行う全体の耕地を管理する組織の存在こそが、これまで何度も述べて来たように、植民市に固有のものであるというのが、ここで提示して来た見解なのである。非常に稀でかつ異常なことであるのは、植民市において2つの(別々で重なり合わない基準線としての)decumanus を用いた測量システムが用いられている場合で、その例はノーラ≪現代のイタリアのナポリ県の都市、アウグストゥスとウェスパシアヌスによって多くの植民市がここに建設された。≫で、しかしそこでは一つの統一された測量地図の中では、2つの decumanus の座標系が「右の」(dexterior)と「左の」(sinisterror)という風に結合されており、私がここで主張している耕地分割の統一性の原理はここに確かな証拠を見出すのである。≪2つの decumanus が存在する植民市であっても、それを「右」と「左」という形で測量地図の中に一緒にまとめることで統一性を保ち、測量され分割された土地の範囲=植民市であるという証拠になっている。≫

ローマとその時代における土地制度上の大変革

我々は次のことを見て来たし、また先に論じて来た観点を詳細に検討する上で次のことを疑うことは出来ない。それはつまり、ローマの ager privatus [私有地]は意図的な土地政策に見られたある傾向に起因するものであり、そこではかなりの部分まで作為的な方法を用いて土地所有権の経済的・法的な配分における無制約の自由とその可能な限りの高い流動性の確保を達成しようと努めたものであり、そして事実上、多くの社会的・経済的なマイナス点を伴うことなしにそれを達成出来たということである。我々は更に次のことも見て来たし、それどころかそれを確かめることもして来た。それは、こういった意識的に人々を動かし先へと進められた発展は、ある耕地ゲマインシャフトの存在していた場所で起きたのであり、その組織については個々のケースについて再現することは確かにもはや不可能であるが、後の時代の土地制度上の秩序においての確かな特性を、より古い時代の諸制度から新しいものへの転換として説明可能にしている、ということである。ここで最後に次のことを問うのは妥当であろう:それではこのような物事における秩序の古いものから新しいものへの革命的な転換は、一対いつ頃起きたと推定されるのであろうか?というのも、ここで取り上げている転換は、徐々に変化して来た結果としてのものではなく、近代での合併と分離[耕地整理]とはその点で全く異なっている。そのような進歩を実現した決定は、おそらくゲマインシャフトの長期に渡っての検討課題に留まり、もっとも激烈な階級闘争の対象となるのが常であったろうし、それを実施することは時によっては何世代にも渡っての仕事であったこともあろうし、それはプロイセンにおいての土地規制と統一された土地分割もそうであったのと同様であるが、しかしそこにおいて導入された原則というものは徹底して新しいものであり、その中身はもっとも偉大な革命の一つであり、土地制度の領域で実現されたものである。そういった革命は、全ての土地制度において、都市において法的思考を過剰に重んじるということが起きていた場合には、同様なまたは違った形で実現されることが出来たであろうが、ローマにおいてのように尖鋭的な形でそれが行われたケースは他にはほとんどなかった。

全てが私の思い違いでなければ、我々は十二表法制定の時代においての新しい権利状態について、部分的には確かに十二表法と関連付けてそれを確認するという決定を下さざるを得ない。既にこの論文の導入部で次のことに言及して来た。つまり我々が最も古いローマの政治について知っていることの全ては、それが大規模商業の観点をもっとも重んじているという性格を持っていたということである。それ故にカルタゴとの取引契約は、それはラテン人のこの都市国家との取引をローマが独占するものであり、そしてローマだけがラテン人の原産物の集散地となり、全ての海上取引による輸入品目の独占取扱い者となるというものであり、―ローマの市民植民市の沿岸地方への独占的設置は、他のラテン人の同盟市をそこから閉めだし、諸港湾都市をローマ市民の居住区へと変え、それらはローマによって、それらがまるでローマの自身の街区であるかのように管理され、―アンティウムにおいては、そこの(元からの)住民が自分達で海上取引を行うことは禁止された。そしてまたローマ史の頂点に来ることとして、伝承によれば王政期全体を通じてシュノイキスモス≪集住、小さな町や村が集まって都市が形成されること≫が持続的に起きていたということは、これまで述べて来たことと適合している。というのも、こうした経過もまた、古代における大規模な海上取引の拠点となった都市ではおきまりの現象だったからである。ただこういったプロセスがローマにおいては適当な時機に中止され、別の方針に席を譲ったが、その一方で例えばアテネでテミストクレスがその方向を更に推進し、それによって元々アテネの位置する場所の地理的な性質が元々持っていたリスクを増大させ、市場と後背地を結び付けていた神経網が後にずたずたに寸断されるという結果を招いていた。≪ヴェーバーがここでアテネについて言っていることを推定すると、おそらくはテミストクレスがペルシアを打ち破るために多数のガレー船を建造して海軍力を強化し、その結果サラミスの海戦で大勝利を得、そのおかげでデロス同盟という形でエーゲ海一帯を支配して大きな輸出市場を得ることに成功したが、その後にスパルタとの戦争に敗れて海軍力を失うと、アテネの経済の根幹であった貿易依存がまったく立ちゆかなくなったことを言っているのかと思われる。これと比較してローマはカルタゴとポエニ戦争を始めるまではほとんど海軍力を持っておらず、これはヴェーバーが言うようにどこかで海外市場開拓路線を止めたためかと思われる。≫このことは古代の特性に合致しているが、ここまで徹底して行われたのはただイギリスにおいて大規模植民地拡張の時代にそれが見直されたことがあるくらいだが≪ここのイギリスの説明はいつのことを言っているのか不明。イギリスがヴェーバーの時代に自由貿易主義から植民地中心主義に転じたことを言っているのか?≫、我々はここではまたローマにおいての世襲貴族を、大規模商業を推進していた大土地所有者[農場経営者]の身分として考えてみる必要があるだろう。その身分については、この2つの職業[貿易業者と農場経営者]の社会的評価という意味で、それに対する郷愁が後の共和国時代にも知られているように、まだ残っていたのである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(30)P.196~199

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第30回目です。ここの注102は長さにして小さな字でほぼ2ページもありますが、その内容は、ヴェーバーとモムゼンが、ヴェーバーの博士号論文審査の時に議論した「ムニキピウムとコローニアの違い」に関するものです。モムゼンは「マックス君、そうは言っても君が主張しているような仮説を裏付けるような文献史料を私は知らないね。」という態度で、私はここに文献学者として慎重さを保つモムゼンと、限定された少数の資料からかなり強引に仮説を作り出そうとする(しかもかなり多くの場合間違っている)ヴェーバーの学問手法の本質的な違いが出ていて興味深いです。
個人的な意見ですが、ローマの植民市は入植ということが第一目的なのではなく、軍事拠点として退役軍人にそこの土地を割当てて住み着かせ、彼らを予備役として、またその子弟が新たに兵士となって防衛を維持していく、ということが第一目的であったように思います。その場合兵士に均等に土地を割り振るのに、元々の所有者の境界線をそのまま使わず、正方形ないし長方形の土地を機械的に作ってそれを割当てるのはある意味合理性から考えて当り前であり、それをドイツの耕地整理と同一視するのは違うのではないかと思います。
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既に先の箇所で述べて来たことであるが、我々における近代的な土地の分離と併合[耕地整理]は、同じ手段で同じ目的を達成しようとするものである。それが成立するのは、錯綜地の中にある土地区画のその価値に応じた強制的な交換を行うのと、それによって可能になった共通経済的な関係から生じて来た地役権と所有権への制限を撤廃するという状況においてであった。全く同じ成果が次の場合にも得られていた。それは、ある耕地がそれまでの所有者によって分割されており、そしてローマ式のやりかたで割当てられた時、この後者が実施された場合である。この場合連続した所有地[continuae possessiones]が作り出され、そしてまたその手続きも同じであった:”particulas quasdam agrorum”[ある土地断片を]、シクルス・フラックスは言う(p.155)、”»in diversis locis habentes duo quibus agri reddebantur, ut continuam possessionem haberent, modum pro modo secundum bonitatem taxabant.”[異なる場所にいくつかの土地の断片を持っている二人に対して、その土地が(再割当てのために)返還された場合に、二人が連続したまとまった土地を改めて持つことが出来るように、それぞれの土地の面積について適切で公正な評価が行われた。]こうした耕地移転の手続きは測量人達の見る所では、植民市建設という概念から見て余りにも当り前のことだったので、ヒュギヌスは次のような見解に到達出来ていた。つまり土地の所有者達は、彼らには単純に元通りの面積が返還されるべきであり、また彼らの社会的な地位(condicio)は変えられる(mutata)べきではなく、そのため植民市の団体の中に編入されることが全くない、という見解である(p.119, 18)。我々は先に更に次のことも見て来た。つまり植民市の全耕地は根本的なこととして、ローマ式の耕地の分割と割当ての及ぶ所と一致していたということである。これについて、我々は次のことが定められていたとまでは主張するのではない。つまりこのようなローマ式の耕地分割のやり方が、この種のローマ市民の植民地にとって本質的なことであるとか 99)、またこのやり方が行われなかった場所ではローマ市民の植民地は全く成立していなかった、ということである。ローマの市民が植民した場所が植民市となるのではなく、イタリカ≪スペイン南西部の植民市≫においてのように 99a)、またある場所で全ての植民がローマ市民によって行われたということがそこを植民市にするのではなく、ローマ式の耕地分割が行われて初めてそこが植民市となるのである。

99) ここでは次のことを確実であると主張しているのではない:1) ――自明のこととして――全てのローマ式の耕地分割は植民市の建設を伴っていた、2)――土地制度が市民植民地の唯一の本質的な目印である。

99a) C.I.L., I 546 とモムゼンの引用済みの箇所を参照。

それ故にアグリゲントゥム≪現在のシチリア島のアグリジェント、元々ギリシアの植民市で後にローマの植民市となった。≫は植民市であったという推定にもかかわらず 99b)、ローマ市民の植民市では全くなかった。というのはそこでの耕地は外国の法に基づいていたのであり、同じく言えることとして、ローマ式の耕地分割は明らかにラテン人による植民市の市民植民市の目印の一つであるからである 100)。そのような植民市が事実上またはもっぱらローマの市民によって建設されたと推論される場合でも 101)、その植民市はそれによって直ちに市民植民市となるのではない。何故ならばそこの耕地は外国人の土地[ager peregrinus]に留まっていたからである。そして逆にあるローマの植民市がラテン人やその他の同盟者によって分割された場合、その分割方法がローマ式であった場合は、ローマ市民の植民市という性格は失われなかったのである。

99b) C.I.L. X, p.737 参照。

100) 我々はラテン人の植民市における耕地分割の実例を知っていない。またそもそもそれが一般的にローマ式に分割が行われていたのかどうか、またそれによって subceciva ≪分割の結果生じた非角形の土地≫が生じていたのかどうか、更にそこから何が生じていたのかについては、我々は判っていない。我々が文献史料から知ったのは、その耕地はローマの耕地とはされなかった、ということだけである。より古い時代での土地制度における異なった性格について明らかになっているのは次のことである。つまり市民植民市における(一日の)入植者の数は常にフーフェの成員300人であったことが推論される一方で、それはローマの一部族の成員数(の単位数)と一致しているが、ラテン人の植民市においてはそういった数的な条件は存在していなかった、ということである。

101) そのようにリヴィウスの34, 53 では述べている… Q. Aelius Tubero tribunus plebis ex senatus consulto tulit ad plebem plebesque scivit, ut Latinae duae coloniae … deducerentur. His deducendis triumviri creati, quibus in triennium potestas esset. [クイントゥス・アエリウス・トゥベロが護民官として元老院の指示により平民会に次のことを提案し、平民会がそれを承認した。それは2つのラテン人の植民市を建設することであった。この建設のため3人組委員会が作られ、その任期は3年であった。]ここでイタリアにおける植民市についての推論で正しいと思われるのは、それが純粋にローマの仕事として行われていたということである。

植民市法[jus coloniae]の土地制度上の意味

こういったやり方での土地制度の特質が市民植民市についての本質的な目印であったとしたら、後の帝政期には全ての政治的な差異がほぼ無意味になってしまった≪最終的に皇帝カラカラが属州の住民にもローマの市民権を認めた。≫ことを考慮すると、次のことを仮説として提示出来る。それはつまり、諸ゲマインデが、それはこの時代には徐々に植民市に変わり始めていたのであるが、まさにこういった土地制度を導入する上において、植民市への転換ということが実質的・本質的には土地の併合と分割を伴う耕地規制を受け入れることを意味していたのである 102)。

102) 私は既に私自身の公的な学位の昇進≪1889年8月にベルリン大学で法学博士号を授与されたこと≫の際に、我々の偉大なる学問の巨匠であるモムゼン教授と、ある[ラテン語から]翻訳されたテキストの解釈について議論を試みるという栄誉の機会を得ることが出来た。≪ヴェーバーの博士号論文である「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」の公開審査の際に、テオドール・モムゼンがゲストとして招かれていたが、一番最後になってヴェーバーに対し、ヴェーバーがそれまでの議論の中で示したローマにおけるコロニアとムニキピウムの違いの説明について、それについて長い間悩んでいたモムゼンがヴェーバーの解釈について質問し、議論したもの。モムゼンはヴェーバーの説明に納得しなかったものの、「<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ヴェーバーに向かってであろう。」という祝福の言葉を与えて議論を打ち切った。おそらくその後も二人はこの問題について口頭で議論を続けていたようで、この注釈はヴェーバーからのモムゼンへの議論の続きであると思われる。≫モムゼン教授はその際及びまた後の機会に、私の仮説については決定的な証拠がない、と仰っていた。ただ私が信じたいのは、諸事実の全体の関係からそれについては一定の確からしさがある、ということである。ローマの歴史的諸文献の中に、ムニキピウムとコロニアの違いという論点において、この[土地制度という]側面が言及されているものを見出すことが出来ないということは、私の仮説を裏付ける根拠が与えられないということである:[しかし同様に]人が膨大な我々の近代の資料の中にプロイセンの耕地整理に対する評価を探し出そうとしても無駄であろう。ある近代の耕地整理されたゲマインデと(されていない)他のゲマインデの国法上の根本的な差というものは、ローマの帝政期のコロニアとムニキピウムの間の差と同様にほとんど存在しない。私は次のことを否定するつもりはない。つまりコロニアとムニキピウムの差異は歴史的には、かつそれに関わった者達のイメージとしては、まず第一に次のようなものとして成立しており、つまりコロニアの方がまずはほとんどの場合で全くの所非独立の外国における市民居住区であり、それに対してムニキピウムの方は多くは昔からの主権を持った都市国家が国家としての統治権を一部だけ残して大部分を失ったゲマインデになったものであり、この二つが国法上は帝政期に別々のものとして存在していたのである。しかし市民植民市が元々は市民の居住区として管理されていたのであろうという一方で、しかしそれはまた最初から本質的に同程度に耕地の分割とフーフェ組織にも依存するものでもあった。ラテン人の植民市が同盟市戦争の後全て例外なくムニキピウムになったということは、それはしかしまたローマ式の土地管理を行う組織が存在していなかったことにも強く影響されていた。全ての耕地整理が植民市の形成原理として不可欠なものとして行われたとは私は主張しない。しかし次のことは正しいと信じている。つまりローマの市参事会によって全ての耕地の統一的な配置換えが統一的な decumanus [と card]を使った測量とそれに基づいた測量地図の作成が行われた場所においては、耕地整理こそ植民市の形成原理だったのであると。-モムゼンは (Schriften d. r. Feldm. II, p.156)グラウィスカエ≪エトルリア人の都市、タルクゥイニーにある港≫とヴェールラエ≪現在のイタリアのヴェーロソ、ローマの東南東79Kmに位置する。≫を次のようなゲマインデの例として挙げている。それらにおいては耕地整理がそれによってゲマインデから植民市に昇格するという意図無しに行われていると。liber coloniarum の注釈 (239, 11)はヴェールラエについて次のように述べている:”»ager ejus limitibus Gracchanis in nominibus est adsignatus, ab imperator Nerva colonis est redditus”[そこの土地はグラックスの名前において設定された境界線によって割当てられており、皇帝ネルヴァ≪第12代ローマ皇帝、在位96年9月~98年1月≫によって植民者に引渡された。]の部分は私の見る所では、そこで起きたことの結果を記述しているものではない。そこでのグラックスによる境界線設定においては、ただ退役兵への非定期的・小規模な土地割当て、つまりは耕地のほんの一部分のことを扱っているに過ぎないのである。グラウィスカエの場合はまた事情が異なっている。この都市はU.C.573年[BC181年]に建設された市民植民市である。liber coloniarum はこの都市について次のように言っている(p.220, 1):Colonia Graviscos ab Augusto deduci jussa est: nam ager ejus in absoluto tenebatur. Postea imperator Tiberius Caesar jugerationis modum servandi causa lapidibus emensis rei publicae loca adsignavit. Nam inter privatos terminos egregios posuit, qui ita a se distant, ut brevi intervallo facile repperiantur. Nam sunt et per recturas fossae interjectae, quae communi ratione singularum jura servant. [グラウィスカエの植民市は、アウグストゥスの命令によって(新たにローマ植民市として)設置されたというのもそこの土地は(ローマによって)完全に保持されていたからである。その後皇帝ティベリウス・カエサル≪既出≫が面積を測り記録するという目的で境界石でその土地を分割し、ローマの人々にその土地を割当てた。それは個人の土地の間に境界を区別するために(境界石が)設置されたのであり、それぞれの境界は離されて設置されており、それは見分けることを容易にするためであった。というのも直線の溝が設置されており、それによって公共の方法として個人の権利を守っていた。]

グラウィスカエの遺跡。境界線としての石積みが確認出来る。(溝は明確には残っていない。) English: The excavations of ancient Gravisca, the harbour of Tarquinia. Date 26 September 2012, 19:50:05 Source Own work Author Robin Iversen Rönnlund

――植民市の領地は――というのもその植民市は(ejus という語が示すように)またアウグストゥスのもの[皇帝領]としてあった、そして「彼の植民市」という語については、グラウィスカエに関してセルスス D.30 de legatis II でも使われており――アウグストゥス帝の時代には「完全に」[in absoluto]所有されていた。土地区画に対しての Usukapion の結果として、それは古いシステムを破壊して置き換わったのである。アウグストゥスはそれ故に、その都市を[市民植民市に]転換することを命じた。それはつまり、(nam という語で)関連性が示されているように、ただ:その都市をローマ植民市に置換し、面積ベースで新しい割当てを実施し、そして測量地図にそれを記入するということである。よって転換と置換は同じことを意味しており、それは前記の引用箇所の見解に合致するが、ティベリウスはしかし全く逆のこと、つまり個人の所有地の境界に(inter privatus)石を設置し、個々人の所有地を保証することをやったのである。ティベリウスはひょっとするとその都市が植民市となる資格、もしそれが成立していたとした場合であるが、それを反古にしたのであり、それは彼がまたプラエネスラ≪パレストリーナ≫でやったのと同じことであった。私の見解ではこの箇所は私がここで提示している仮説の証拠となっている。(しかし)この仮説が仮に正しいとしても、この論文の大部分の記述と同様に、そこにおいては学芸における最も困難なこと、つまり”ars ignorandi” ≪重要ではない情報を無視し、本質的な部分に集中するという学問・討論上の技法≫が何重にも失われてしまっているのである。私は次のことを確かに自覚している。つまり私の記述において明確化という意味で成功していない多くの命題が見出され、それらについては個々の[文献]調査によって再検証されなければならないということである。それについてはただ私が、ここで提示した見解について、それをより大きな因果連関の中で検討する試みをせず、ただそれを何としても記述しなければならないという強迫観念に駆られていたことに、自分で気が付いていなかったと言える。

逆にティベリウス帝によるプラエネステの場合のようにその土地をムニキピウムの地位に戻すことになった場合は、次のように考えることが出来るであろう。つまり元々の土地制度についての調整とそれに伴う一定の結果的処置が意図されていたのであると。そしてこのケースこそまさにそうであったと推論出来る。ローマにおける耕地の分割でもっとも面倒な要素は、道路をどう作り直すかということと、元々の境界線を開放することであった。プラエネステはこの場合、全ての耕地領域が既にキケロの時代において少数の大土地所有者のものとなっており、彼らにとって元々の境界線を開放することはまったくメリットが無いことであり、彼らの所有地をばらばらに分割している境界線は非常に取扱いが難しいものであり、(開放した場合は)そこからごろつきどもが彼らの邸宅の庭やテラスに入り込むことが出来てしまうのであり、このことを禁止令によって防止することが可能になっていた。彼らの便益のために、元の境界線の開放という必然性は取り除かれることになった。――

我々はここまでもちろん本質的にはイタリアの土地においての植民市の建設を我々の観察の中心に据えて来たが、その場合に結果として生じたのは、そこの土地をローマ式の非課税の個人所有地に割当てるということである。我々がその際にイタリアでの植民市化を属州と明示的に区別していないということは次のことに起因している。つまり、二つの概念の全ての相違点にもかかわらず、ここにおいての本質的・経済的な諸連関においては注目すべき差異が存在していない、ということである。全ての点においてイタリアでの植民市化と同じやり方の:非課税の個人所有地の割当てを、一属州に対しても適用するということは、C. グラックスがカルタゴに対して初めて行ったことである。