ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(62)P.325~328

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第62回目です。ここには Domänen という単語が複数回登場します。これまでのヴェーバーの日本語訳ではこの語が「御料地」と訳されていることが非常に多いです。しかし「御料地」というのは明治時代に(旧)皇室典範が出来、それが1947年に廃止されるまでの皇室の領地ということで、現在は存在していません。(全て国有地)また私の世代で既にピンと来る人は少数でしょう。なおかつ日本だけの特殊なタームであり、世界史の事例にそのまま適用するのには適していません。なのでこの翻訳では「直轄地」と訳します。国の直轄地と皇帝の直轄地の2種類があります。
=======================
――以下のことは明らかである。つまりコローヌスの土地との関係が、こういった状況下でその関係が純粋な貸借人という性格で前面に出てくる場合には、自然なこととしてその権利を金銭的報酬を得ることから収穫物の一部を得ることに移行したと把握されるが、それがいまや逆に、法的な取扱いが原則的に変更されることなく、しかしながらコローヌスの労働力を農場主のために使用することが大地主であるその農場主の主たる利害関心となっていた場所では、コローヌスと土地の関係はある土地区画を適価で貸してもらうことの条件として、自己の借りた土地と農場主の土地の両方を耕作する義務を引き受けるものと直ちに把握されるのであり、そのことは本質的な意味では既にコルメラの書からの引用箇所≪注56≫において起きていた、ということである。事実上コローヌス達は、相続対象になる土地に定住し、小農民と日雇い農業労働者のほぼ中間に位置する、大地主に従属する農民となっていた 61)。

61) 事実上相続可であることは自明のことであるが故に、D. 7. §11 comm[uni] difid[undo] においては、貸借権について分割の訴えを起こすことが出来ないことが特別に詳細に述べられている。何度も引用した 1, 112 de legat[is] は総督補佐官が貸借契約に相当する土地を実際には持っていない貸借人については、この後すぐの所で述べる農場地区に関連付けている。イタリアにおいて先行して存在している長期年度契約のコローヌスについては、モムゼンが saltus Burunitanus について考察している論文の中で言及している。

しかし最も重要なことは、巨大な地所の複合体の一部においてのこういった状態は、また大地主の土地の賃借人に対する、法的に保証された権力による支配関係としても見なすことが出来る、ということである。このことを論証するためには、次のことを考慮する必要がある。つまりどのように大規模農業事業の異なったカテゴリーがそこに生まれて来ているのか、ということと、それが法的には所有としてどのカテゴリーに属していたか、ということである。

大土地所有制の法的位置付け

こうした大規模農業の最古の形態は、以前論じた公有地[ager publicus]の占有である。この形態が奴隷を使った大規模農園の経営を指していることは全く疑いようがない。それと同様におそらくそうであったと思われるのは、既に注記したように、賃貸地を割り当てることによって生み出された、いつでも取り消し可能な契約に基づいた定住の小作人という身分の者が存在していた、ということである。占有は疑いなく、貴族政にとって実質的にもっとも重要な土地所有形態であった。占有者という者は、いくつかの私有地をまとめたもの以外に、自分自身をケンスス上での第一の階級に置くために、多くの土地を≪実質的に≫所有した者であり、その者はグラックス兄弟の改革より前の「古き良き時代」においてはトリブス民会≪選挙区であるトリブスでの貴族と平民の両方の意向をまとめるための集会≫に対しての活動において、次のような者と同様に見られていた。それは例えば≪ヴェーバー当時の≫今日の騎士領の領主であり、その者は村落においていくばくかのフーフェの土地を所有し、あるいはフーフェの他の農民と混じり合って存在している者である。≪騎士領は特に神聖ローマ帝国で領邦の君主が騎士資格のある農民貴族に公認している領地で、ヴェーバーの時代にもまだ存続していた。≫占有が市民法上では除外されているということと 61a)、そしてそれによって生じる無数の立法上の面倒さと課税の手間は、privilegium odiosum≪憎むべき特権、本来は認められるべきではないのに何らかの理由で認められている特権で、法的には最小限に解釈すべきもの、とされた。≫として捉えるべきでないのは、言うまでもないことである。≪ヴェーバーは占有をローマでは決して本来違法なものと位置付けられていなかった、と言っている。≫

61a) 市民法が占有について規定しているのはただ、占有の形で保護された、事実上成立している権力関係についての注意があるだけであり、このことがフーフェにおいての”locus” [場所]に対しての権利とはっきりと対立しているということは、私の考える所では、「物」に対する権利と「所有」の間の対立が先鋭化しているということである。”Pro herede”[相続人として]占有するということと、”Pro possessore”[占有人としてのみ]占有する≪相続人は相続の際にどちらかを選択出来た≫ことの分裂状態は、相続に関する訴訟において判例に依存する性格と結び付けられた、そういった所有状況の両方の性格が等しいという二重性に起因している。以上のことは、ここではただその可能性を示唆することが出来るだけである。

それ故に、まさに革命的なこととして受け止められたグラックス兄弟の改革が打ち出された時に初めて、フーフェの農民達が状況によっては、その者達が動産である資本を自分達の方に持ってくることが負担であると感じたであろうということは≪占有していた土地を売却して現金を得ることが大変であると感じていたであろうということは≫、そのことは改革を革命的な変革と見なすことはなく、ただその占有していた土地を私有地に転換する、ということにつながった。

Fundi excepti [例外として扱われた土地]

前章で見て来たように、こういった占有地について一部はイタリア半島においてムニキピウムへと組織化され、特に土地割当ての際に fundi excepti [例外として扱われた土地]としてゲマインデ団体の外側に留まったということは、――それは測量人達の表現によれば:in agro publico populi Romani [ローマ人民の公有の土地の中にある]となるが、そのことがここで意味するのは、占有地というものはただ中央官庁の行政上かつ裁判権上でのみの要請に応じるものとして理解されるものである、ということである 62)。

62) フラックスは p. 157, 7 でこのように述べている: Inscribuntur quaedam “excepta”, quae aut sibi reservavit auctor divisionis et assignationis, aut alii concessit.
[ある種の「除外地」として記録されている土地があり、土地の分割や割当ての実施者が自分のために取っておいたか、あるいは誰かに譲渡したものである。]
ヒュギヌスは p. 197, 10でこう書いている: excepti sunt fundi bene meritorum, ut in totum privati juris essent, nec ullam coloniae munificentiam deberent, et essent in solo populi Romani, —
[除外された土地とはそれを受けるに値する者に与えられた土地であり、これらは完全に私有地とされ、一つの植民市に対して何らの義務も負わず、ただローマ人民の公有地の中にあるもので、――]
ここで言っているのはつまり、そうした土地がムニキピウムの裁判管轄権外にあった、ということである。≪原文は植民市に対して義務を負わない、なのにヴェーバーはムニキピウムに言い換えている。そもそも植民市とムニキピウムの違いこそが、ヴェーバーの博士論文審査の時以来のモムゼンとヴェーバーの論争の争点であったことに注意。≫碑文としては2つの少なくともある一定の観点で除外された土地が、アウグストゥス帝の Venafrum ≪現在のイタリアのモリーゼ州にあたる土地にあった古代都市≫の水道橋についての命令の中に先行して見出される(C. I. L., X, 4842)。フロンティヌスの p. 36, 16:Prima … condicio possidendi haec est ac per Italiam, ubi nullus ager est tributarius, sed aut colonicus etc. … aut alicujus … saltus privati.
[(占有地というものを)可能にする第一の条件は、イタリア全土でそれは課税地ではなく、しかし植民市等々の土地であるか…あるいは誰かの土地である…私有の大区画の土地≪saltus は25ケントゥリアの正方形の土地区画≫である。]
Controversia de territorio [領土を巡る争い]については前章を見よ。またテオドシウス法 18 de lustr. coll. 13, 1 はアフリカについて territoria [主として属州の領地]と civitates [ローマ市民の土地である占有地]を区別している。

こういった形の土地で重要なカテゴリーとなっていたのは、何よりもまず皇帝の直轄地そのものであり、それはこのような形の占有地として確かにその当時から――後の時代になるとそれは文献で立証されるが――可能な限りゲマインデ団体からは除外されていたのである 63)。

63) この手の皇帝領の土地は controversia de territorio [領土を巡る争い]を引き起こしている。この点については先に引用したラハマンの p. 53 を参照せよ。クラウディウス帝は(スエトニウス、「ローマ皇帝伝」、クラウディウス帝 12)自身の皇帝領において市場を開設する権利を元老院に対して請願している。

同様のいくつかのカテゴリーをより広範囲において属州において見出すことが出来、皇帝の直轄地自身が、一部は永代貸借契約に基づいたものであり、また一部は fundi dominici (国庫に属する)≪皇帝の直轄領の中で、皇帝に任命された管理官が経営する農地≫であり、さらにまた一部は fundi patrimoniales (皇帝が私的に領有していた土地)であり、しかし全てのこれらのカテゴリーは皇帝の配下の役人によって管理されるものであり、ムニキピウムに属するものではないとして理解される。そこにはそれと並んで、我々が先に見て来たように、まとめて賃借料を払うことで長期間貸し出された国有地や、また皇帝の直轄地で5年間貸し出されたものがあった。どちらのタイプの土地も通常はいかなるゲマインデ団体にも組み入れられることは全くなく、というのはそれらの土地は公有地だったのであり、公有地についてはその他のやり方で譲渡されなかった場合に限って、ゲマインデに対して与えられたからである。

現金による納税義務者。国有地の貸借人。

更に以前見て来たもので、確からしくはアフリカにおいての現金による納税義務者が、同じような位置付けのゲマインデには所属させられなかった土地を受領しているということと、また ager privatus vectigalisque の土地の大規模な永代貸借人については、これまで述べて来た状況に対して不適合である事例として取り扱われるべきではない。これら全ての土地所有のカテゴリーは、以前そう主張して来たように、それぞれがただ一人の占有者に結び付けられている、という傾向を持っていた。国有地の皇帝直轄地の土地の貸借人は、しばしば次のことを貫徹した。それはそういった土地の賃貸料を固定額にすることと 64)、そして同様に統治者からその者達の土地所有を継続的に認可する約束を取り付けることであり、それはフランク王国の王がその封臣に対して認めたのと同じである;時には次のことが再度試みられた。つまり5年毎に土地の再割当てを競売方式で行うという原則を確立することであり 65)、それは間を空けないですぐに再割当てを実施させることが目的であった。

64) テオドシウス法 3 de locat[ione] fund[orum] jur[is] emph[yteutici] (380年の)。参照:テオドシウス法 1, 2 de pascuis, 7, 7。同法 5 de censitor[ibus] 13, 11。

65) テオドシウス法 1 de vectig[alibus] 4, 12。

現金による納税義務者とその他の除外扱いの私有地は、その次の段階ではユガティオの税制に従わされることとなった;その者達は税額を、自分達の占有する土地領域全体の分を、その領域に住んでいてその者達に従属している人員の分のカピタティオと一緒に支払うこととなった 66)。

66) テオドシウス法 14 de annon[a] et trib[utis] 11, 1。この法規に従った場合、コローヌス達は、もしその者達が占有地以外に更に小区画の土地を所有していた場合は、その土地の分として通常の徴税人に対して税を支払うように仕向けられた。しかしこのことはテオドシウス法の 1 ne col[onus] insc[io] dom[ino] 5, 11 からの類推によれば、実際にそうであったとは信じ難い。

占有されていた領域の居住者の法的な状態

次のことを頭に思い浮かべてみた場合、つまりそういった土地領域の居住者、とりわけコローヌスの法的状態がどういったものであったかということであるが、その場合まず明らかなのは、全ての国家の土地による賃貸地においては、そういった居住者と元請けの契約者との間での正規の訴訟手続きを取ることは、その争点がコローヌスの労働提供義務にあった限りにおいては不可能であった、ということである。皇帝直轄地の賃貸人の場合にも同様に、納税義務のある農民[publicanus]のようなコローヌスと≪直接≫契約を取り交わすことはほとんどなかった。測量人達が言及している握取契約を二次賃借人が≪直接≫取り交わした限りにおいては、賃貸契約が満期になった後は、その場合に存在していた小規模の賃借人は国家に所属するコローヌスとなったのである。大規模な賃借人は国家または国庫によって、元々は lex censoria に従って、後の時代にはアフリカの広大な土地において碑文として残されているハドリアヌス法の例のような類似の法規に従い、更にはその法文が銅板や石板の上に刻まれてその地方固有の法規として、その地位を定められるということが常に起こり、そしてコローヌスの義務もそこで定められており、賃借料支払い義務も負わされていた;大規模な賃借人は、コローヌス達に負荷を負わせ、その者達が得るものよりも多くのものを要求した。その結果として、更に後の時代にはもっともコローヌスにとって有利なケースで、国民の土地の受領人との間の行政手続きとしての解決が図られた事例が発生し 69)、帝政期においては常に直轄地の管理当局への行政上の租税関連案件としての訴えのみ、皇帝による最終審で審議される、ということが起きていた。

69) 例えば 1/10税の課税者と納税義務のある農民との間で。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA