「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第57回です。後2割を切っていよいよラストスパートに入っています。ここでは通常の農耕以外の牧畜業の実態が農業書に沿って論じられます。そしていよいよcolonus(小作農)の議論に入っていきます。19世紀初頭のドイツ、特にプロイセンでは農奴解放が行われました。このローマでの小作農の成立はいわばその逆のプロセスで、ヴェーバーだけでなく当時のドイツ人には関心の高いことがらだったのだと思います。
======================
しかしこの牧場経営というのもまた大規模経営という形でのみ行われ事実上そういった中小の地主達によって行われることはほとんど無かったのであり、そのことは折々主張されて来たが、その理由はイタリア半島でそういった牧畜という経済活動に適していたのは一部だけであり、古代においては特にアプリア≪現在のプーリア州でイタリア半島を靴としたら踵の部分≫においては、そこで見出されたのは calles、つまりアルペン山脈の中の牧草地においては≪ヴェーバー当時の≫今日なおそうであるように、≪定住して牧場を営むのではなく≫多数の家畜を引き連れて山中を移動していく移牧という形の牧者である 25)。
25) 帝政後期にそこで発達したのは、組織化されて他人に危害を及ぼす追剥の群れであった。テオドシウス法典のタイトル29、30、31を参照。ウァッローの農業書の第2巻は移牧者についての一般的な状況が説明されている。80-100匹の羊については1人、50頭の馬については2人が平均的な人員の数であった。アプリアでは馬追いが行われ、また同じくそこで輸送手段として使用するためのロバの移牧も行われた。ロバの価格はこのために高かった。ウァッローの p.207 (Bipont)によれば、一定の距離当たり40,000セスティルティウスであり、コルメラの時代ではよく訓練された奴隷の5倍の価格であった。家畜の群れは夏に高地にある公有地へと追い立てられる際に、徴税人によって牧畜税取り立ての目的で登録された。家畜の群れは冬にはアプリアでは、そこでは土地が小道で区切られて分割されていたが、より面積の広い、古代では800ユゲラの、後の時代では5,000ユゲラに達する農地・牧草地・家畜小屋が複合したものに留まった。この地域においては通常の農耕を主とする植民の試みは、どこにおいてもほとんど成功することはなかった。皇帝もまたアプリアでは山中の道と大規模な移牧用の家畜の群れを所有していた。そういった道が公有地化されることは、確からしいこととしては多くの場合起きておらず、むしろそれらの道全体はイタリアのムニキピウムにおいて、その領土に含まれない土地の中で最大のものとなったのであり、それ故にそれらは一般的に私財領域という名前で呼ばれていたのである。移牧者は武装しており、リーダー[magistri pecudis]に率いられて行動し、そのほとんどは奴隷であった。カエサルはそういった移牧者のグループの労働者の1/3は自由民にしなければならない、という法律を通そうとしていた。≪だが実現していない。没落農民の救済が目的。≫炊事などのために移牧者の群れに一人の女性が付けられ、1日の内のメインの食事はリーダーの下で全員が一緒に取り、それ以外の食事は各人がそれぞれ家畜の群れの側で取った。このようにまとめられた家畜の群れは、それが皇帝の所有物だった場合には、請負業者[conductores]に全体として任された。参照C.I.L., IX, 2438、そこではサニピウム≪現在のモリーゼ州のカンポバッソ県のセピーノ≫の地方官吏が請負業者への嫌がらせを中止するよう命じられている。その他の場合については、先に引用したウァッローの箇所と比較せよ。
ついには主要都市や交通量の多い街道の近くでは、特別に主要都市の贅沢品の表に載せられたようなものが生産され、そこにおいては実際大規模な家畜の飼育場が存在し、――いわゆる villiticae pastiones [ヴィラ内の飼育場]であるが――、それらに対しては多額の使用料が課せられていた 26)。
26) 参照ウァッローの1. IIIの冒頭と第1章にて。
こういった方向の発展は文献史料においてもまた現れており、というのは一方でカトーが牧畜をまだ農耕との有機的なつながりの中で取り扱っているのに対し、ウァッローは res pecuaris [牧畜]に既に独立した位置づけを与えており、その方針で独立した章を与えて詳述しているが、そして同様に villitane pestiones についても更に詳細に説明している。しかしその他の点では耕作の技術については農業書の著者達の記述を見る限りでは、カトー、ウァッローとコルメラの時代においては本質的な違いは存在しない。もっとも叙述された農場経営の次元の拡がりという点ではカトーと比較してコルメラにおいての方がより拡がっている。ワインとオリーブの製造は、カトーの記述(農業書3)によれば、まだ段階としては我々の時代で言う自家製造に留まっていた。最も頻繁に行われた業務としてのオリーブとブドウの収穫物の販売は青田売り≪まだ実が枝に残っている状態での売却≫であったように思われ、そしてこのような形での売却はまたコルメラによれば収益性計算の基礎でさえあった;しかしながら全ての大規模経営者はブドウ搾り場やオリーブ油搾り機を、自前の専門作業者を確保していたのと同様に、自分自身で保有していた。私の考える所では、読者は次のような印象を持たれるであろう。それは、このようなやり方で経済における需要充足を自分の独占販売という形で取り込み、そして製品を市場で売れるものに仕上げていくという傾向が、大規模な経営においては拡大しつつあった、ということであるが――それは国家行政においては賃借料としての税を廃止することと並行して起きた現象であるが――その原因については後で更に取り上げる。――
大小の経営
今や次のことを確実に行わなければならない。それはこういった大規模な事業がその他の点では、特に事実上それが単なる大規模所有に留まったのではなく、大規模経営であったかどうかを考えてみることであり――それがもし正しいのであればどのような形態でそれが行われたのか――、そしてその大規模経営が帝政期における所有権についての法形成をどう導いたか、ということである。その際に十分考えてみるべき問題は、どのような人達が、独立してまたは誰かに従属して、農業経営に従事したか、ということである。ここにおいて特に問題とすべきなのは:自営する農民達であって生計を維持していけるような身分というもので、我々の時代の(独立)農民に比肩するような者達が、存在していたのか、ということである。確実であるのは、小規模な地主の身分が、第二次ポエニ戦争以来、非常な程度にまで失われつつあったと把握されていた、ということで、その結果として立法上はそれらの者を保護する必要性があるように見なされていた、ということである。
こういった傾向は後には見られなくなっており、モムゼンによる統計的な食料配分表 27) のおかげでそれが明らかになっている。そしてこのことはなおトラヤヌス帝の時代においても、≪貧窮した独立農民救済のための≫三人委員会が廃止され時期と比較しても、更に減少していた。
27) ヘルメス XIX、p.395以下。(食料配分表とローマの土地分割)。
こうした考え方が消滅していくという傾向は、ベネヴェント≪カンパーニャ地方のアッピア街道沿いの都市≫の山沿いの地方ではよりゆるやかに進行し、ポー平原でがより速く進んだ 28)。
28) ベネヴェントに(強制)移住させられたリグリア族≪ローマ北西部に住んでいたローマの先住民の一つ≫に対しては約40万セスティルティウスの資本が66人に対して分割されて与えられており、またウェレイア族≪Velejaten、リグリア族の支族≫に対しては52人に対して100万セスティルティウスが与えられていた。ベネヴェントにおいてはまだ農民が個人で所有していたものの方が多く、ウェレイア族については受領者がもらった金額はそこの農民の≪土地に換算して≫半分で10万セスティルティウス以下であり、多くの農民が所有していた土地の合計は元老院がケンススに登録した土地よりはるかに多かった。広大な(公有地化された)山岳地帯の土地の評価額は最大で125万セスティルティウスに達していた。
このことは先の注記の内容から引き出される仮説を証明することになっている。それは交通量の非常に多い街道の近くでは一般的な発展傾向が加速された、ということである。こうした傾向のもたらしたものが、多少の程度の違いを無視すればほぼ完全なものだったとしたら、いずれにせよそこで見て取れるのは、自営の小規模地主(自作農)の身分というものが、更なる土地制度の発展の中ではもはや存続し続けていけるものではない、ということである。―経済面での更なる発展についてはむしろ次の形の経営の在り方が目に付くようになっている。それは地方の土地での villa rustica[地方の農園]と並んで更に villa urbana[都市圏での農園]を所有することであり、またそれまでの耕作においては使われていなかった1年の中での特定の期間について、新たな業務に従事することであり、地主が1年の内の全期間都市に住みつくという状態は、しばしば不在地主という呼び方で非難されることとなった。(しかし)それによって地主達は経営の範囲を拡大することが出来たのである。土地貴族による政治的支配ということは、その者達が常にローマに滞在して政治活動に参加することに基づいていた。そのような人物としては、リヴィウスが描いたキンキナトゥス≪BC5世紀の伝説的政務官≫のように、あるカテゴリーを形成するものであり、実際にはそのカテゴリーに多数の者が属しているということはなかった。このような地主としてのその所有地の場所での不在は、むしろ意味するのは土地の投機目的での利用であり、また資本家的なビジネスに参加することであるが、このことは次のような結果をもたらした。それは大地主の地位というものが本質的には土地から上がる賃借料をただ消費するだけで、自分の農場はめったに訪れない、都市における資本家になっていた、ということであり、そのことはカトーとウァッローがその農業書の中でそういった傾向を嘆いていることから判明するのである。ある継続的な、彼ら自身による合理的な経済活動の推進は、一般的に言ってそういった土地所有について何かを期待するのではなく、定期的にある決まった額の賃貸料を得るというだけのものであり、しばしば単にその時々に収益が上がれば十分と考えられていたこともあった。
共和政期の小作人
それに対して検討してみる価値が十分にあると思われるのは、「農民」と「小作人」――colonus――という呼び方で――それぞれがこの表現で呼ばれているような身分としてあったとして――それぞれの自己認識[アイデンティティー]において、それぞれが社会的に重要な農民としての特性を保持していたかどうか、ということである。それを否定することとしてはまず第一に、既にローマにおいての小作権の法学的構成において現れている。小作人は概して第三者に対抗出来る法的手段を持っていなかっただけでなく――また暴力による権利の侵害に対しても無力であり――、その者達には地主[dominus]に対抗するための所有権上の保護も与えられていなかった。我々の時代に通用している法から見れば、あり得ないほど苛酷な条件で締結された賃借契約は、それは大家の組合とか似たような利害団体がたくらみそうなことであるが、次のようなことを目的とすることが可能になっていた:それは(契約解除の際は)賃借人は直ちに借りている物件を明け渡さねばならず、そしてそこには何らの自力救済の手段もなくそれが強制され得たのであり、その後になってもしその賃借人がそこに引き続き住み続けることの権利を立証出来た場合には、その退去によって被った損害についての補償を受けることが出来たのであり、こういったことは賃借人だけではなく小作人に対してもローマ法の基本原理として適用されたのである。