リッケルト「自然科学の概念形成の限界。歴史科学への論理的入門」を入手。

「理解社会学のカテゴリー」論文の冒頭に言及されている文献の内、リッケルト(リッカート)の「自然科学の概念形成の限界。歴史科学への論理的入門」は残念ながら日本語訳が出ていません。それでドイツ語版を取り寄せようとしたのですが、これもなかなか面倒でインドの出版社によるファクシミリ版をようやく入手しました。(なお、このファクシミリ版は1ページがかすれれていてほぼ判読不能です。)
ファクシミリ版の表紙に「第一部」とあったので、第二部があるのかと思って探しましたが、結局このファクシミリ版は第一部と第二部を合本したものでした。第一部(第一~三章)が出版されたのは1896年で、第二部(第四~五章)は1902年で6年開いています。リッケルトの緒言によれば、第一部は「自然科学の方法論の限界について、つまり歴史の科学がそれではないこと」について述べたもの、第二部が「歴史科学の本質について」となっています。ヴェーバーが参照しているのは、当然両方です。
なお、邦訳がある(岩波文庫)「文化科学と自然科学」は1901年と第一部と第二部の間に出ており、著者自身が「限界」論文の入門編としても読める、と述べているので、こちらを読んでも大枠は分ると思います。(私は現在他の文献も平行して読みながらこちらを読書中です。)
なお目次部分(第二部の冒頭にあります)について、スキャンしたものを載せておきます。画像はクリックで拡大します。
ちなみに、ヴェーバーとリッケルトは一つ違い(リッケルトが一つ上)ですが、ギムナジウムでの同級生だったようです。そういう意味でヴェーバーの良き論争相手でした。

雑誌「ロゴス」についてのメモ

ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」とフッサールの「厳密な学としての哲学」の発表誌はどちらも哲学雑誌「ロゴス」誌です。これについてちょっと調べました。まず正式な名前は”Logos. Internationale Zeitschrift für Philosophie der Kultur.”です。単なる哲学雑誌ではなく、「文化の哲学」のための国際雑誌、となっています。「文化の哲学」と聞くとまずリッケルトを思い出しますが、実際に編集に携わったゲオルク・メーリスはリッケルトの弟子筋にあたる新カント学派の哲学者です。出版社はおなじみモーア・ジーベックです。「国際」の方はロシア語版他の各国語版が計画されていたようです。1910年創刊で年1冊のペースで刊行されたようで1933年まで続きます。その後ナチスの政権奪取で雑誌の性格が変わってしまったようです。ここにどなたが作られたか存じ上げませんが、各巻の執筆者とのその表題の一覧があります。それを見ると、フッサール、リッケルト、ヴィンデルバント、ジンメル、ラートブルフ等々、「理解社会学のカテゴリー」の冒頭で言及されている学者が多数登場します。タイトルからも分るように、純粋な形而上学に限定した雑誌ではなく、幅広い分野の学者が寄稿していたことが分ります。ちなみにマリアンネも2回寄稿しています。最初の寄稿はヴェーバーより先です。

20世紀初頭の心理学ー江戸川乱歩の「心理試験」より

20世紀初頭の心理学がどういったものであるかを、江戸川乱歩の「心理試験」(1925年)が良く描写していますので紹介します。(引用元:青空文庫)元々、高砂美樹著、「心理学史はじめの一歩 改訂新版: ルネサンスから現代心理学へ 」の中のコラムで紹介されているものです。当時の心理学がこうした装置を用いて人間の心理の動きを数値やグラフにして調べようとしていたことが良く分ります。

「蕗屋(注:殺人犯)の考によれば、心理試験はその性質によって二つに大別することが出来た。一つは純然たる生理上の反応によるもの、今一つは言葉を通じて行われるものだ。前者は、試験者が犯罪に関聯した様々の質問を発して、被験者の身体上の微細な反応を、適当な装置によって記録し、普通の訊問によっては、到底知ることの出来ない真実を掴もうとする方法だ。それは、人間は、仮令言葉の上で、又は顔面表情の上で嘘をついても、神経そのものの興奮は隠すことが出来ず、それが微細な肉体上の徴候として現われるものだという理論に基くので、その方法としては、例たとえば、Automatograph 等の力を借りて、手の微細な動きを発見する方法。ある手段によって眼球の動き方を確める方法。Pneumograph によって呼吸の深浅遅速を計る方法。Sphygmograph によって脈搏の高低遅速を計る方法。Plethysmograph によって四肢の血量を計る方法。Galvanometer によって掌の微細なる発汗を発見する方法。膝の関節を軽く打って生ずる筋肉の収縮の多少を見る方法、其他これらに類した種々様々の方法がある。」

Automatograph
Pneumograph
Sphygmpgraph
Plethysmograph
M0016397 A moving coil galvanometer.
Credit: Wellcome Library, London. Wellcome Images
images@wellcome.ac.uk
http://wellcomeimages.org
A moving coil galvanometer of the type designed by D’Arsonval.
Published: –
Copyrighted work available under Creative Commons Attribution only licence CC BY 4.0 http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

中野氏の「ヴェーバー入門」における「心理学」の説明への疑問

色々と「理解社会学のカテゴリー」の周辺の書籍を読んでいった結果として、当時の心理学、つまり実験心理学がどういうものであったのか調べていますが、中野敏男氏の「ヴェーバー入門」に登場する「心理学」という単語が使われている説明は、いくつかの概念を混同していて、正しく使われておらず、読者に誤解を与えるものだと思います。
まずは氏は、シュモラーの例のヴェーバーとの学問における価値判断の取扱についての論争の説明で、シュモラーの立場を「心理学により正義を語る国民経済学」としています。そこで「当時進展を見せていた科学としての心理学の知見」をシュモラーが議論の支えにした、とあります。(下線部は原文は傍点)そして「正義の理念は、必然的な心理過程から発生し」ということを引用しています。しかし、当時の「科学としての心理学」で一体だれが、正義の理念の発生を解明するまでの業績を挙げたのでしょうか?先に書きましたが、この当時の「科学としての心理学」というのは、実験心理学のことです。その具体的な業績とは、例えばヘルムホルツが神経における神経興奮の伝達速度が、1秒当たり30m前後であることを突き止めた、とかそういうことで、まさしく「実験室で」「実験によって」確かめられたものです。また、ヴェーバーの「ロッシャーとクニース」の中で言及・批判されている心理学者は、ヴィルヘルム・ヴントとヒューゴー・ミュンスターバーグ(同書の日本語訳中ではミュンスターベルク)などの実験心理学者であり、フロイトやユングではありません。
それから更に、ヴェーバーの理解と科学的心理学の違いの説明として、「代償行為」とか「防衛機制」等を「科学的心理学の立場からの説明」としています。この説明はヤスパースの「精神病理学原論」のような精神病理学であれば成り立つと思いますが、「当時の」科学的心理学の説明としてはまったく不適です。
それからもっと大きな問題は、中野氏がこういった当時の実験心理学に対する批判的な発展として、哲学の認識論の分野での心理学主義を一まとめにして「科学的心理学」としてしまっていることです。ディルタイは解釈学を打ち立てる前は「記述的分析心理学」を提唱していました。そして何度か紹介しているフッサールも、彼の現象学というものは、当時の実験心理学が人間の表象などの心的現象をきちんと定義も無しにアプリオリなものとして扱っているのに対し、哲学の認識論的なバックグラウンドを与えて厳密化しようとしたものと言えるでしょう。そしてそのディルタイに対する批判としてヴィンデンバルトやリッケルトが登場しまたフッサールもディルタイ批判を「厳密な学としての哲学」でしています。またディルタイの主張を発展させて自分なりに作り替えたのがジンメルであり、これらの学者は全てヴェーバーが理解社会学というものを提唱する上で大きな影響を与えています。
これらのディルタイ、ヴィンデンバルト、リッケルト、フッサールについての説明は中野書にはまったくといって良いほど出ていません。例外的にP.50でヴェーバーの理解は解釈学的な流れではなくむしろ哲学的な認識論につながる、と説明がありそこにディルタイが登場しますが、ここもまたおかしな説明で、ディルタイもヴィンデンバルトもリッケルトもジンメルもフッサールも、カント以来の伝統である哲学的な認識論からスタートしているのであり、ヴィンデンバルトやリッケルトが「新カント学派」とされていることからもそれは明らかです。

ヴェーバーの科学論文で言及されている「心理学」とは

それから「カテゴリー」論文他のヴェーバーの科学論文で言及されている「心理学」についての注です。一般に「心理学」というと、フロイトの夢分析やリビドー説、ニーチェのルサンチマン説、そういったものをイメージされる方が多いと思いますが、ヴェーバー他がこの時代に言及している「心理学」は「実験心理学」という、「自然科学の一分野としての」心理学です。名前の通り、「実験」という自然科学の手段(例えば刺激の強弱による神経の反応度合いの変化の測定実験)で理論を構築するものです。それを提唱したのは、誰をさておき、ヴィルヘルム・ヴント(1832-1920)です。ヴントが提唱した自然科学的な心理学を応用することで、全ての精神科学もそれが人間の精神の働きである限りにおいて、心理学によって基礎付けることが出来るという考え方が「心理学主義」であり、ディルタイがまず精神科学の手段として記述的・分析的心理学を打ちだし、またフッサールも最初はまさにそういうことをやろうとしており、彼の最初の著作は「算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―」です。フッサールは最初の著作が「その立場では科学の客観性が担保されない」という批判を受けてから、心理学批判の方向に転換し、「現象学」を以て「真の」心理学を構築しようとします。ヴェーバーもクニース批判の中でヴントに言及していますし、また同じく実験心理学者であったミュンスターベルクについての批判もあります。

フッサールの「厳密な科学としての哲学」(2)

別稿で書いたように、「理解社会学のカテゴリー」の冒頭の注で挙げられている多数の本を平行して読む、というある意味無謀なことをやっていて、その中のフッサールの「厳密な科学としての哲学」を一通り読み終わりました。ところで、モーア・ジーベックの全集のこの部分についての注釈がどう書いているかというと、フッサールについては、「論理的諸研究」の第一巻と第二巻を特に参照しろ、とあり、この本についての言及はまったくありません。しかしこの本の訳者の佐竹哲雄さんは「訳者のことば」でこう書いています。「『論理的諸研究』に至るまでの諸著作にあっては、フッサールの哲学の方法は、いわば無意識的に操作されるに止まっていて、方法そのものに対する自覚的な省察は殆ど試みられていないように思う。」
それだけでなく、「理解社会学のカテゴリー」冒頭注の複数の文献を一緒に読んで理解したのは、そもそも理解社会学の「理解」とか「了解」ということを最初に言い出したのはディルタイであり、それらの複数の文献のほとんどはディルタイの方法論を深化させるかあるいは批判しているものだと言うことです。(ディルタイとジンメル、ヴェーバーの関係は、向井守著「マックス・ウェーバーの科学論 -ディルタイからウェーバーへの精神史的考察ー」を参照。)フッサールにおいては、そのディルタイを批判しているのがまさにこの「厳密な科学としての哲学」であり、彼はディルタイの方法論を、精神科学(リッケルトの言う文化科学と同じで、自然科学以外の人文科学と社会科学のこと)の基礎として歴史主義的世界観哲学を持ってきているとし、それを批判し精神科学の基礎としての現象学を打ち出しています。
この二つのこと、つまりこの「厳密な科学」で初めてフッサールの方法論がはっきりと打ち出されていること、そしてディルタイを乗り越えようという試みが初めてされていること、を考えると、ヴェーバーがフッサールについて言及したのは他を差し置いてまずこの「厳密な科学」であるというのが私の意見です。「全集」は、シュルフター教授によれば「ドイツの学界の総力を結集した」ということですが、細部を見るとこの例のように深い考察の跡が見られない通り一篇の解説に終っているものが多々あります。(「中世合名・合資会社成立史」の日本語訳の時も、「全集」の注を参照して同じことを思いました。)
なお、ついでに言えば、ヤスパースの「精神病理学原論」も緒言・第一章までは読みましたが、その内容はディルタイの方法論を批判的に受け継ぐという意味で、驚くほどフッサールと共通性があり、人間の精神の観察を「現象学」と呼んでいます。

「理解社会学のカテゴリー」を「経済と社会」旧稿の「頭」と表現するのは適切か?


ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」、理解社会学の意味をもう一度自分なりに考えなおすため、最近写真に写っている複数の書籍を、「同時に」少しずつ読んでいます。とはいってもどれもほんの少しを読んだだけであり、まだ結論を出すには早すぎますが、それでも私なりに見えて来たものがあるので、途中経過の記録という意味でアップします。
まず「理解社会学のカテゴリー」自体をヴェーバーが後にどう評価しているかと言うと、それは「社会学の根本概念」の冒頭にありますが、「社会学の根本概念」での規定と合わせて、「こうした入門的な概念規定はたしかに欠くことができないものであるが、しかしそれはいきおい抽象的かつ没現実的 (Wirklichkeitsfremd) とならざるをえない。」としています。(恒星社厚生閣、阿閉・内藤訳、P.5)”Wirklichkeitsfremd”はもっと噛み砕けば「現実とは縁遠い」ということです。こうした述懐が、「理解社会学のカテゴリー」を書いて、その後「経済と社会」の旧稿を書いて、そして第1次世界大戦によるインターバルの後に書かれているというのは非常に興味深いです。このことは私自身、「経済と社会」の旧稿を含む一通りを通読して、同様に感じた所です。もちろん旧稿を読むのに「理解社会学のカテゴリー」の用語法をまず知っておく必要性があるのは当然のことで何も否定しませんが、果たしてそれが「頭」というほど全体を支配している方法論なのかというと疑問です。もちろん法社会学での法教義学と法社会学の区別といった概念的な所では「カテゴリー」の概念は上手く使われています。しかし、法社会学の後半部、支配、都市、宗教といった歴史上の具体的な部分を扱う場所については、ヴェーバーが自身言うように「現実とは縁遠い」概念であり、それが有効に働いているとは思えません。私自身が旧稿に対する「カテゴリー」の位置付けを形容するのであれば、それは「頭」というより音楽用語での「通奏低音」みたいなものではないかと。
写真に写っているような書籍を眺めだして段々と見えて来た、「理解社会学のカテゴリー」(および一連の科学論文)をヴェーバーが書いた動機と言うのは、

(1)19世紀後半の国民経済学に顕著な科学と倫理を一緒にしたような学問のあり方への批判(グスタフ・フォン・シュモラー、「国民経済、国民経済学および方法」、日本経済評論社、田村信一訳、P.172、原著:1911年「古い宗教・道徳体系、古い国家理論、古い国民経済学は、存在・事象を説明しようとするよりも、むしろ価値判断と理想に立脚して当為Sollenを説教しようとすいる目的をもっていたといっても過言ではない。」→シュモラーはヴェーバーとの価値判断論争で有名ですが、だからといってシュモラーが学問と価値判断をまぜこぜにしている訳ではなく、シュモラーもまた古い国民経済学から訣別しようとしていました。シュモラーとヴェーバーの違いは「客観的な」価値判断というものが成立するかどうかという点です。)
(2)19世紀後半に優勢だった「心理学が全ての科学の基礎である」(心理学主義)という考え方からはっきりと自分の立場を別にすること。(この点はフッサールがやったこととほぼ同じ。またテンニースの後継者の社会学者フィーアカントがまさに心理学主義的な社会学を提唱した。)
(3)マルクス主義における唯物論、史的弁証法、あるいは唯物論の逆の唯心論(シュタムラー)、国家有機体説(ヘーゲル、ロッシャー他)など、複雑な歴史の諸現象を単純な枠組みで全て説明してしまうような乱暴な方法論からの訣別
(4)人間集団を表現するタームを日常的な用語法からはっきり切り離して、ある程度厳密で科学的な定義を与えること(おそらくゴットルの影響?)
(5)ジンメル的なすべてを人間の表象に還元し、歴史における客観的事実を認めない立場との差別化
(6)メンガーとシュモラーの間で行われたいわゆる「方法論争」に対するヴェーバーなりの応答。メンガーらが経済学で行った「限界効用」という基礎概念に基づく分析の社会学版を検討しようとした。

といったことではないかと思います。フッサールの書籍のタイトルをもじれば、「厳密な科学としての社会経済学」を打ち立てようという、ある意味野心的試みかと思います。それはいいのですが、「経済と社会」がそもそも教科書として書かれたということを考えれば、ヴェーバーがやはり「社会学の根本概念」の緒言で書いているように、あまりにペダンチックだと思います。ミュンヘン大学の学生が「理解社会学のカテゴリー」をほとんど理解しなかったすれば、それは「教科書」としては失格ということになります。

「理解社会学のカテゴリー」の冒頭で言及されているフッサールの著作

この前の投稿で、理解社会学のカテゴリーの冒頭の注釈で言及されているフッサールの著作は「厳密な学としての哲学」ではないかと推定しましたが、実際に取り寄せてみたら、その推定は正しかった(少なくともこの書は間違いなくその一つ)と思います。

(1)これが書かれたのが1910年、「カテゴリー」は1913年で時系列では無理が無い。
(2)掲載誌が、「カテゴリー」と同じ「ロゴス」で、それも創刊号。これによってヴェーバーが読んでいる可能性が高くなります。
(3)下記の目次(クリックで拡大します)を見ても、心理学への批判、(現象学と)心理学との区別についての言及があり、「カテゴリー」と共通性があります。(フッサールの最初のまとまった論考は「算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―」で、タイトル通り数学・算数を心理学的なものとして位置付けようとしています。しかしそれでは科学の客観性が担保されないという批判を受けて、その後心理学主義から訣別します。)
(4)訳者によればこの書で始めて「現象学」が厳密に定義されたそうです。

中野氏に解説していただきたかったこと

中野敏男氏の「ヴェーバー入門」批評の補遺。
ヴェーバーは「理解社会学のカテゴリー」の冒頭の注釈で、以下の人名(と書名)を挙げています。(後ろに?があるのは書名記載が無く、私が想像したもの)

ジンメル「歴史哲学の諸問題」
リッケルト「自然科学の概念形成の限界。歴史科学への論理的入門」(第二版)
ヤスパース「精神物理学総論」
ゴットル「言葉の支配」
ラートブルフ「法哲学」?
フッサール「厳密な学としての哲学」?
エミール・ラスク「哲学の論理学とカテゴリー論」?

テンニース「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」
フィーアカント「社会学」
シュタムラー「唯物論的歴史把握による経済と法」

最初の7人はヴェーバーが影響を受けたもの。そしてその次の2人はヴェーバーが「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」について別の説明をしているけど、2人の見解を否定しているのではない、としているもの。そしてシュタムラーはヴェーバーが批判して、このカテゴリー論文を本来はシュタムラーが書くべきだったもの、としています。

中野書でこれらの人と書について解説があるのは、ほぼジンメルだけです。その他シュモラー、クニース、ヘーゲル等ここには出て来ない人に対してかなりのページが割かれています。「理解社会学」が重要だと言うなら、何故ヴェーバーが一番最初に言及しているこれらの人々の主張とのつながりが解説されていないのでしょうか。ちなみにこれらの参照は、ほぼそのまま「社会学の根本概念」でも繰り返されています。入門書レベルで解説すべきではない、というならシュモラーやクニースやヘーゲルの説明もそうであり、一貫していません。

私は上記のものについて、入手可能な邦訳を取り寄せ中です。ゴットルについては森川剛光さんの「社会科学方法論における初期ゴットルとマックス・ヴェーバー」がここで入手可能です。これを読んだだけでも、私の理解社会学への理解はかなり深まりました。ゴットルは国民経済学の根本概念として 「財 」 「資本」 「価 値 」 「富」 「経済」などが使われているのを、国民経済学者はそれらについての意味を一般的な世間での曖昧な概念に依存していて、きちんとした学問的な定義を行うことなくそれぞれだけを個別に論じている、と批判しています。ヴェーバーがここでゴットルに言及しているのは、ヴェーバーもカテゴリー論文で、日常的に使われている「ゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフト」を、その一般的な意味をベースにするのではなく、学問的にどう定義するかという意味で、ゲマインシャフト行為やゲゼルシャフト行為といった、実際の人間集団においてはほとんど意識されない始原的な発生契機に遡って分析して定義に使っていると理解しました。

ところで折原浩先生が、私の中野書批評で、「経済と社会」は理解社会学のカテゴリーの概念だけでは読めない、その例としてギールケのゲノッセンシャフト他を挙げたのに対し、下記のコメントをされています。
「これは別件ですが、「カテゴリー論文」で規定されるのは、まさにいくつかのeinigeもっとも一般的な基礎範疇(「シュタムラーが本来――規範学と経験科学とを混同せずに――言うべきであったこと」)にほかなりません。「家」、「近隣」、「氏族」その他、「普遍的な種類のゲマインシャフト」にかんする基礎概念ではありません。① たとえば、突然の驟雨に通行人が一斉に雨傘を広げる、相互間に意味関係」はない、自然現象への「斉一反応」、②「無定形のゲマインシャフト行為」、③「慣習律に準拠する諒解(ゲマインシャフト)行為」、④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト行為」という四基礎範疇を定立し、社会関係一般の 「合理化」尺度を「類的理念型}として設定し、「旧稿」本論における具体的適用にそなえているわけです。」

この折原先生の意見に対しては以下反論します。
(1)ギールケのゲノッセンシャフトは、歴史における個々の「普遍的な種類のゲマインシャフト」を指すものではなく、それ自体ヴェーバーのゲマインシャフトやゲゼルシャフトと同じレベルのカテゴリー概念である。(ギールケはゲルマン民族のもっとも特徴的な「精神」と捉えています。)
(2)何よりヴェーバー自身がまさに「理解社会学のカテゴリー」の中で「国家」や「ゲノッセンシャフト」(海老原・中野訳では「仲間団体」)や「封建制」の概念は、社会学にとっては一般的に言って、人間の特定の種類の共同行為のカテゴリーを表現している、と書いています。(海老原・中野訳、P.38。ついでですが、Genossenschaftは「仲間団体」などとは訳さず、「ゲノッセンシャフト」と訳すべきと思います。ギールケの「ドイツ団体法論」の訳者の庄子良男さんもそう主張され、一貫して「ゲノッセンシャフト」と訳されています。また単語としてはGenossenverband, Genossenschafstverbandというのもドイツ語にはあります。後者は海老原・中野訳式だと「仲間団体団体」になってしまいます。)
(3)ヴェーバーが「理解社会学のカテゴリー」ではフェライン、アンシュタルト等も定義しており、これらはギールケの「ドイツ団体法論」でも登場する。(ヴェーバーとは若干定義が違う。)

(1)~(3)から、ヴェーバーを(経済と社会を)理解するには「理解社会学」があればいい、といった主張はバランスを欠いていると思いますし、また最初に書いたように、そう主張するならもう少し丁寧に同時代の他の思想家・学者の主張との関連を説明して欲しかったです。(なお、「理解社会学のカテゴリー」の日本語訳にある中野氏の「解説」も参照しましたが、そこにもそういう説明はありませんでした。)

 

 

 

 

都市の類型学におけるヴェーバーの「日本の都市」分析の誤り

「都市の類型学」で日本の都市についての言及が3箇所ぐらい出てきますが、どうも私はこれが信用出来ないと思います。

(1)世良訳のP.26

ヨーロッパの都市は、衛戌えいじゅ地(軍隊が永久的に駐屯している土地)または特殊な要塞であり、日本にはこういう都市はまったく存在しなかった。つまりは日本にはそもそも都市が存在しなかった。

古い方で言えば、佐賀の吉野ヶ里遺跡は、相当な規模の環濠や物見櫓と思われるものを供えたある意味要塞的な小都市です。
また戦国時代の大名の城を中心とした城下町は要塞都市と十分言えるでしょうし、また石山本願寺のあった大坂、堺、奈良の今井などはすべて環濠城塞都市でしょう。また、日本は海に囲まれて外国からの侵略を受けることが相対的に非常に少なかったので、環濠都市の必要性が低かっただけで、それをもってして日本に都市は無かったなどとは暴論です。(私は九州に多い、「原」を「バル・ハル」と読む地名が、サンスクリットの-pur(城塞都市を示す地名接尾語。例:シンガプラ=シンガポール)と関係があるのではという仮説を立てたことがあります。日本では確かに大規模な城塞都市がほとんどなかったのは事実です。)

(2)世良訳のP.42

都市ゲマインデの条件は(1)防御施設(2)市場(3)自分自身の裁判所、独自の法(4)団体として他から区別される性格を持つこと(5)自律性と自首性をもつこと。(日本にはそういう都市は存在しなかった。)

堺や今井については、(1)、(2)、(3)、(4)、(5)は全て揃っていたと見なし得ます。堺については、他ならぬヨーロッパからの宣教師であるガスパル・ヴィレラが「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる。」というようにヴェネツィアと同じく自治都市であることをはっきりと書いています。

(3)世良訳のP.45

都市の住民の特殊身分的な資格が中国・インド・日本の都市には全く存在していない。

やはりイエズス会の宣教師の報告書の中に堺について「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者もこの町に在住すれば、皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加えるものなし。」とあり、明らかに堺の住民は他の日本の地域とは明らかに違う特殊な身分であったことが伺えます。「都市の空気は自由にする」という言葉は堺にも当てはまるでしょう。

ヴェーバーの日本の都市に関する考察は、明治政府のお抱え外人だった経済学者のラートゲン(ちなみにヴェーバーがメンタルの病気を発症後、ハイデルベルク大学の国民経済学教授の地位を継いだ人です)が書いたもの等を参考にしているようですが、上記のように短兵急で限られた資料からだけ判断したお粗末なものだと思います。