辞書は新しい方がいいか?

宗教社会学の次の箇所:
Ganz im Gegensatz dazu gilt in der Vergangenheit die Stadt als Sitz der Frömmigkeit, und noch im 17. Jahrhundert erblickt Baxter in den (durch hausindustrielle Entwicklung herbeigeführten) Beziehungen der Weber von Kidderminster zur Großstadt London ausdrücklich eine Förderung der Gottseligkeit unter ihnen.

ここのBeziehungenをどう訳すか?おそらくは皆様の手持ちの新しい独和辞典には「関係」の意味しか載っていないと思います。
しかし写真にあるようにここは「移住」という意味です。

私の訳:
しかしそれとは正反対に過去においては、都市こそが敬虔的信仰の中心地だったのであり、17世紀においてもなおバクスターは(手工業の発展の結果としての)キダーミンスターの織工の大都市ロンドンへの移住について、それが明らかにその者達の間で神への敬虔な信仰が進んだ印と捉えていたのである。

この単語の本来の意味は「移住」で「関係」は後から派生した意味ですが、しかし現在では「移住」の意味は廃れたので、新しい独和辞典にはこの意味が出ていません。写真は1963年の木村相良独和辞典のコンパクト版です。この辞書は古いドイツ語文献を読むときには良いと故麻生建先生に教わって、ヴェーバーを訳す時はほとんどこれです。

折原センセ、あなたはもう学者として終わっています。

「宗教社会学」の gegen die stadtsässigen Großgrund- und Geldbesitzer gerichtetenに折原センセが付けた訳が「都市に在住する大土地所有者兼金貸しの専横を糾弾する」、さらに追い討ちをかけると言うか恥の上塗りで訳注にまたも「都市在住の大土地所有者は、遠隔地交易にも従事し、高利貸しも営み、返済不能に陥った農耕市民を債務奴隷に貶め、土地を兼併して肥太っていた。これが、古典古代の都市における典型的な階級対立であった。」と俗流マルクス主義テンプレートを繰り返しています。しかも原文は単に「都市に住む大地主と金持ちに対して向けられた」と言っているだけです。それを勝手に折原センセがくっつけてなおかつ「金貸し」という原文にないものまででっち上げています。
このブログを読まれている方にはかつて折原センセに教わった人とかお世話になった方も多数いらっしゃると思いますが、そういう方に申し訳ありませんが私はもう折原センセに対する尊敬心が0になりました。この人学者じゃないです。

折原センセの
「これが、古典古代の都市における典型的な階級対立」
が如何に間違っているか:
1.古代ローマ
そもそも貴族、騎士(エクイティ)、市民、解放奴隷、奴隷という階級とまったく一致しない。大地主は貴族、金貸しは主に騎士層。
2.古代ユダヤ
周知の通り律法で同胞に利子を取って貸し付けることは禁止。
3.古代ギリシア
アテネでもスパルタでも、市民は兵士であって基本的に金貸しなどやっていない。
4.古代エジプト
そもそも貨幣経済がまだなので金貸しなど存在しないし、また中央集権で国家が直接統治。
5.キリスト教以降
ローマ教会が利子付き貸し付けを禁止。

それにローマの自営農民が没落したのは度重なる戦争に兵士として駆り出され自分の農地を管理出来なかったのと、戦勝の結果獲得した属州(シチリア・エジプト・アフリカ)から安い穀物が大量に入ってきた、そして戦争によって獲得した奴隷を使って大地主が農園を経営して大規模生産を行ってそちらとの競争にも負けた、ぐらいは高校の世界史レベルの話です。

折原浩先生訳の問題点(6)

折原先生の「古代には一般に都市に在住する領主」に珍しく付けている訳注が:

「零細農民を債務奴隷に陥れ、土地を収奪-集積して大地主になると同時に、都市に在住して遠隔地交易にも携わり、その利得を農民に高利で貸し付けて収奪-兼併を強める都市貴族・不在地主層。」

何ですかこのバリバリのマルクス主義注釈は。ほとんど昔のマルクス主義者の常套語のつなぎ合わせで、しかも「零細農民を債務奴隷に陥れ」と「その利得を農民に高利で貸し付けて」と同じことを2回も言っています。折原センセ、ちゃんと「ローマ土地制度史」を読んでください!(笑)要するにこれは例えばローマで都市に在住した貴族が地方に土地を持ち、その管理は管理人にやらせて自分は都市に住み続けて地代だけを受け取っていた、というだけです。どっから農民に高利で貸し付けとか遠隔地交易にも携わり、とか出て来るんでしょうか。(大体、貸金で稼ぐなら都市でのんびり不在地主でいるなど不可能。)

更には”Versklavung oder Proletarisierung”と「または」とあるのを勝手に「奴隷化されると同時に無産化された。」と訳しています。古代ローマで奴隷と無産市民はまったく別の階層でそれが同時に起きることはあり得ません。

そもそも土地代=レンテで生活する地主というのは中世のオイコス経営につながり、近代的経営と対比されるヴェーバーの中でも重要概念です。それをこんな俗流マルクス主義テンプレートで置き換えてしまうなど、申し訳ありませんが、ヴェーバーの研究者としては失格です。

誤訳による勝手な「含意」の創造

先の投稿で紹介したページで折原先生はまた、以下のような原書に書いていないことを勝手に「含意」としていますが、
「すなわち、「ゲマインシャフト関係」を「ゲゼルシャフト関係」の上位概念とし、しかも、ゲゼルシャフト形成は通例、その合理的目的「の範囲を越える」ゲマインシャフト関係を「創成する」という含意のある基礎範疇」

これはおそらく「宗教社会学」翻訳における以下の誤訳(紹介済み)に起因すると思います。

原文
Wir wollen nur da von ihrem Bestand reden, wo die Laien 1. zu einem dauernden Gemeinschaftshandeln vergesellschaftet sind, auf dessen Ablauf sie 2. irgendwie auch aktiv einwirken.

折原訳
われわれはもっぱら、平信徒が、① ゲゼルシャフト形成によって[スタッフと平信徒、相互の権利-義務を規定する秩序の制定によって、この秩序に準拠する]継続的なゲマインシャフト行為に編成され、同時にまた、②当のゲマインシャフト行為の経過に、なんらかの仕方で能動的にもはたらきかけている場合にかぎって、ゲマインデ宗教性が存立すると考えたい。

丸山訳
我々はもっぱら、平信徒が、① 単発のゲマインシャフト行為ではなくそれが継続的に[何らかの制定律に準拠しているかのように]繰り返されるという形でゲゼルシャフト化されているという場合で 、そしてその経過において、②そういった連続したゲマインシャフト行為が何らかの形で能動的に作用している場合に、ゲマインデの宗教性が成立していると考えたい。

二つの訳文を比べていただいて、折原訳が如何に原文にない勝手な解釈をでっち上げているかご判断ください。こういう元々ヴェーバーが述べてもいないことを勝手に拡張するのが折原ヴェーバー学の大きな問題です。

折原浩先生訳の問題点(5)

Vornehmlich diese praktischen Aufgaben von Predigt und Seelsorge sind es auch, welche die Systematisierung der kasuistischen Arbeit der Priesterschaft an den ethischen Geboten und Glaubenswahrheiten in Gang erhalten und sie überhaupt erst zur Stellungnahme zu den zahllosen konkreten Problemen zwingen, welche in der Offenbarung selbst nicht entschieden sind.

折原訳
主としてこの、説教と司牧という実践的課題が、倫理的な命令や信仰上の真理にかかわる祭司層の働きを、決疑論的な体系化の方向に釘付けにした。というよりもむしろ、そうした課題が、およそ祭司層を、啓示そのものにおいては未決定の無数の具体的問題に取り組み、自ら初めて態度決定をくださざるをえないように、仕向けたのである。

丸山訳
主として、伝道や司牧にかかわるこうした実践的な課題こそが、祭司達の決疑論的な実務を、倫理的戒律や信仰上の真理に沿った形で体系化させ続ける原動力となり、そして同時に、啓示そのものでは決定されていない無数の具体的問題について、祭司たちの態度を明確にすることをも迫るのである 。

この部分は折原訳で「釘付けにする」に引っ掛かって原文を確認したもの。
in Gang erhalten は「動いてる状態=Gangを保持する」、つまり推進力・原動力となる、という意味です。何も難しいことはありません。「釘付けにする」というと固定するような意味になり、また否定的なニュアンスになってしまい明らかな誤訳です。

折原先生はこの「私家版」について創文社への手紙で、「しかし、今回は、上記のような事情を踏まえ、前訳の大いなる長所と無理からぬ欠陥を明示明記したうえ、後者[注:解説と訳注]は補填し、読者がこんどこそ、ヴェーバーの「宗教社会学」を、基礎カテゴリーから体系的に読めるように、半生の研究成果を注いで全力を尽くしたいと思います。こんどは、正式の全訳・解説者と名乗り出て、形式上も全責任を負います。この点、御社にも、武藤氏他の初訳者各位にも、ご了承いただけるものと確信いたします。」
と書いていますが、「半生の研究成果を注いで全力を尽くした」結果の日本語訳であるとはまったく評価出来ません。途中で投げ出されたレベルの低い日本語訳です。申し訳ありませんが、折原先生は典型的な「人には厳しく自分には甘い」人であり(マタイ7:3、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」)、また「眼高手低」(言っていることは正しいがいざ自分がやるとまるで出来ない)の人でもあります。ここまで折原訳をチェックして来てそう結論付けざるを得ません。

折原浩先生訳の問題点(4)

今回の箇所の折原訳は本当にひどいです。中途半端に創文社の訳の注を参照して勝手に解釈して奇妙な訳語を多用しています。
ムフティーについての創文社の注で「ユダヤ教のラビに相当」とあるのをいいことにそのまま「律法学者」と訳しています。言うまでもなくイスラム教に律法学者などという人はいません。
ダルヴィーシュ=シャイフも「托鉢修道団長」などというおよそ意味不明の訳を使っています。普通にスーフィー派という用語を使った方がはるかに分かりやすいと思いますし、シャイフは修道団長ではありません。木村・相良の独和辞典にDerwishが「(回教)の托鉢僧」とあるのに引き摺られたんでしょうが。
それにこういう専門用語が多数使われている箇所で訳注まったく無しというのは信じられません。創文社の訳は現在でも講談社からオンデマンド出版で販売されていますが、確か6,000円くらいした筈です。新訳なのに旧訳の訳注を参照しろなどというのは新訳の意味がゼロです。

Die Ratschläge der Rabbinen im Judentum, der katholischen Beichtväter, pietistischen Seelenhirten und gegenreformatorischen Seelendirektoren im Christentum, der brahmanischen Purohitas an den Höfen, der Gurus und Gosains im Hinduismus, der Muftis und Derwisch-Scheikhs im Islam(以下略)

折原訳
ユダヤ教におけるラビ、キリスト教では、カトリックの聴罪師、敬虔派の牧者、対抗改革派の霊的指導者、さらには、バラモン教の宮廷付き教父、ヒンドゥー教のグルとゴーサーイン、イスラムの律法学者や托鉢修道団長

丸山訳と訳者注
ユダヤ教におけるラビ(N1)、キリスト教では、カトリックの聴罪司祭(N2)、敬虔派(N3)の傾向を持つ牧師、カトリック改革派(N4)の霊的指導者、さらには、バラモン教の宮廷祭司(N5)、ヒンドゥー教のグルとゴーサイン(N6)、イスラム教におけるムフティー(N7)やダルヴィーシュ=シャイフ(N8)

N1<丸山>ユダヤ教の宗教的指導者・聖職者。トーラーを教えることを職業とする。元々パリサイ人の中から発生し、タルムードの時代に発生した。</丸山>
N2<丸山>カトリックにおいて司教より聴罪を許可された司祭のこと。信徒の死に際しての告解の秘蹟に際してその告白を聴き取って教え導く。</丸山>
N3<丸山>ドイツのプロテスタントにおいて、17世紀中頃から末にかけてシュペーナーが起こした形式的な宗教実践よりも信者の敬虔さを重んじる宗派。</丸山>
N4<丸山>イエズス会など。</丸山>
N5<丸山>Purohita、元々は宮廷の大祭司であるが、時代が下ると家庭にて結婚式や葬儀を司る家庭祭司という意味が強くなる。</丸山>
N6<丸山>ヒンドゥー教の中で苦行を行う行者(サドゥー)の集団のこと。グルが正規の宗教的指導者であるのに対し、非正規の聖者。</丸山>
N7<丸山>イスラム教で宗教法的な判断を下す専門家、法的顧問。</丸山>
N8 <丸山>ダルヴィーシュはスーフィー(イスラム神秘主義)の修道僧のことで、シャイフはその中で一般のスーフィー達を教え導くことを許された年長者のこと。</丸山>

折原浩先生訳の問題点(3)

今回は誤訳というより語彙の選定の問題です。

Sie kann aber auch individuelle Belehrung über konkrete religiöse Pflichten in Zweifelsfällen sein, oder endlich, in gewissem Sinn, zwischen beiden stehen, Spendung von individuellem religiösem Trost in innerer oder äußerer Not.

折原訳
とはいえ、それは、具体的な宗教的義務について疑いが生じた場合に、当の義務にかかわる個別的な教化でもありうる。さらには、これらふたつの場合の、ある意味における中間項、すなわち、内的ないし外的な窮境における個別的な慰藉の分与でもありうる。

丸山訳
しかしそれはまた、具体的な宗教的義務について判断に迷う場合には、当の義務に関する個別的な助言でもあり得るし、さらに状況によっては、これら二つのある意味中間的なもの、即ち内的または外的な苦境に陥っている個人に対して宗教的な慰めを施すことでもありうる 。

「内的ないし外的な窮境における個別的な慰藉の分与」って原文をより難しくて読む人に余分な努力を強いるような訳だとは思いませんか?何故もっとこなれた日本語が書けないのか理解に苦しみます。これぞ悪い意味での翻訳調でしょう。

「布置連関」のおかしさ

これも折原語でドイツ語のKonstellationを「布置連関」と訳しています。本人だけならまだしもこれを真似して使っている研究者が多数存在します。しかし、おかしいとは思わないのでしょうか?「布置連関」は言ってみれば「馬から落ちて落馬する」と同じ重言です。「布置」自体に「関連を持った配置」という意味が既に含まれています。例えば囲碁で「布石」と言えば、競技者がある戦略を持って配置する石のことです。誰も「連関布石」とは言いません。更にはユングの心理学でもまったく同じ概念が登場しますが、これの日本語訳は「コンステレーション」とそのままカタカナにするか、「布置」であることを付け加えておきます。

折原訳 persönlich =「即人的」の理由推測

折原浩先生の persönlich を「即人的」とする奇妙な訳ですが、ようやく根拠らしきものを突き止めました。
The Max Weber Dictionary: Key Words and Central Conceptsという本があって、元々この本の存在は折原先生に教えてもらったものです。(本の中に折原先生のドイツ語論文の一部の引用がある関係で献本を受けたようです。)この本にPersönlichkeitの項目があり、「ヒンドゥー教と仏教」の一部を参照しています。そこを見たら、要するにヴェーバーは西欧のPersönlichkeit(人格)や人格神といったものを例によって西欧独特と見ており、アジア宗教ではPersönlichkeitが例えば仏教における「我」のように通常は否定的に扱われているという議論をしています。ヴェーバーは「ここでは」Persönlichkeitを「責任主体性」「合理的自我」のような特殊な意味で使っている訳です。
ですが、これを根拠にpersönlich を「即人的」としたのであれば、これは完全にナンセンスです。

1.「宗教社会学」は第一次世界大戦前のいわゆる「旧稿」の一部で、そこに出て来る言葉を戦後に書かれた「ヒンドゥー教と仏教」での特殊な用語法に基づいて解釈するのは完全に誤り。

2. 「宗教社会学」でヴェーバーはそのような定義を一切しておらず、ネイティブが読んでもそんな特殊な意味を読み取ることはありえない。

3. しかも元の単語はあくまで名詞であり、その副詞形が同じ意味を保持しているというのもまったく根拠がない。

4.更には「即人的」という語はまったくの意味不明であり、「責任主体に関連するような」という意味にもまったく取れません。

1.についてはそもそも「経済と社会」の旧稿は戦後に書かれた「社会学の根本概念」ではなく戦前に書かれた「理解社会学のカテゴリー」を参照して読むべきと主張している人にしては完全なダブルスタンダードです。

またこの例からも分かるように折原先生はヴェーバーの思想的発展・変化を無視して、何か完成したヴェーバー社会学が存在するかのような幻想を元に、「ヴェーバーが使う単語はきちんと定義されており、常に同じ意味で使われる」といった、まったく証明も出来ないしかつ正しくもない思いこみがあるようです。以前も書いたように「経済と社会」という「完成した」「ヴェーバー社会学の教科書」を捏造しようとしていることからこういう発想が出て来るのだと思います。前にも言ったようにそれはもうヴェーバー学ではなく折原学に過ぎません。

p.s.
もう一つの可能性としては、即+なんとか、というのは単に1960年代の学生運動用語の影響かも。即物、即知、即時など。あるいは実存主義的翻訳?

オープン翻訳の理念への誤解

ここの所、折原浩先生の「宗教社会学」私家版翻訳を厳しく批判しています。
この理由は、まず第一には先生が私のオープン翻訳という理念を正しく理解していないと思うからです。元々オープン翻訳はソフトウェアの世界でのオープンソースの考え方にならったものです。そこでは「無料である」ことが最重要なのではなく、
(1)開発過程をオープンにし、中身をソフトウェアエンジニアであれば誰でも分かるようにする。
(2)バグを発見した場合には開発者以外でも修正してそれを公開出来る。
(3)いつでも内容の改訂が可能。
(4)お互いがお互いのリソースを利用することで、全体で更に高度なソフトウェアを開発する。
といった理念に基づくものです。実際にオープンソースで開発されたWebサーバーソフトであるapacheやngnxは、商用であるマイクロソフトのIISに比べて機能的にまったく遜色ないだけではなく、実使用のシェアでもIISを上回っています。そういった意味で「安かろう悪かろう」のソフトウェアではまったくありません。オープン翻訳もまったく同じです。

折原浩先生のこの「宗教社会学」の私家版訳は、ご本人が「創文社から出版してもらいたかった」と仰っていますが、私がこれまで見た限りでは、見る目がある編集者であればこのレベルの日本語訳をそのまま採用する人はいないと思います。
問題点として
(1)しばしば奇妙な独自の単語を訳として使っている。(例:即人的な)
(2)創文社訳の誤訳・不適切訳をそのまま持ち込んでいる場合が多々ある。
(3)更には創文社が正しく訳しているものをわざわざ誤訳に変えてしまっているものもかなりの箇所ある。
(4)訳者の注釈は宗教学的なものについてはまったく付いておらず、社会学的なものについても最初の数ページだけで後は「○○という注釈が必要」というメモだけ。
を挙げておきます。要するに時間をかけないで適当に作った雑な訳ということです。
こういった批判は厳し過ぎるのかもしれませんが、ご自身が他者の翻訳についてあれこれ批判をなさっているので、ご自身にブーメランとして返ってくるのはある意味自業自得と考えます。
「オープンだから質が低くてよい」という誤解を持つ人がいるかもしれません。しかし真実は逆で、閉鎖的に作られた(これまでの)翻訳の方が検証も改善もなされず、誤訳が温存されやすい構造になっています。(これは折原浩先生がこれまで批判してきた通り。)私は「叩かれることを厭わず最善を目指して公開し続ける精神」こそが、ウェーバー研究の未来に必要だと確信しています。