またも変な創文社の訳(とそれをそのまま採用する折原訳)

Die charismatische Erziehung in diesem Sinn, mit ihren Noviziaten, Mutproben, Torturen, Graden der Weihe und Würde, ihrer Jünglingsweihe und Wehrhaftmachung ist eine in Rudimenten fast überall erhaltene universelle Institution aller kriegerischen Vergesellschaftung.

折原訳(前半部は創文社訳そのまま)
この意味におけるカリスマ教育は、修練期・肝試し・しごき・聖祓と威厳の格付け・元服式・佩刀礼をともなう、戦士的ゲゼルシャフト結成の普遍的制度で、ほとんどいたるところに痕跡を止めている。

丸山訳
この意味でのカリスマ的教育は、修練期・勇気の試練・苦行・聖別(注)と位階の格付け・[通過儀礼としての]成年式および武装の許可を伴うものであり、ほとんどすべての戦士的ゲゼルシャフトとして形成された集団において、痕跡的ながら普遍的に認められる制度である。
(注:聖別:カトリックや聖公会などで人や物を宗教上の目的で他の人や物から別の聖なるものとすること。)

何ですか肝試しとか元服式とか佩刀礼って。ここで言っている成年式はマサイ族でライオン一匹を一人で倒すとかの、いわゆる通過儀礼としての成年式であって、単なる成人のお祝いの儀式ではありません。(通過儀礼:人の一生で一回だけでそれを通過しない限り次の段階に進めないという儀礼。反対語は循環儀礼で毎年のお祭りなど。)そもそもここは宗教カリスマと戦士カリスマの共通性を論じている重要な箇所ですが、「肝試し」とか訳した瞬間に元の文章の緊張感がすっ飛んでしまいます。

「宗教社会学」折原浩訳、丸山補訳、R3

折原浩私家版訳「宗教社会学」の丸山補訳版のR3(P.90まで)を公開します。
ここはヴェーバーの記述より、折原浩先生の訳の不正確さが目立ちました。
申し訳ありませんが、あれだけ人の誤訳を声高に主張するのであれば、ご自身で訳される時には最善の注意を払っていただきたいと思いますが、残念ながら良く考えられた翻訳ではありません。先に例に出したように「理解社会学のカテゴリー」の概念を含む文ですらきちんと訳出されていません。「無神経な」翻訳です。

202511104_宗教社会学補訳R3.pdf

折原浩先生訳の問題点

「宗教社会学」のゲマインデ(教団)の宗教性について定義している箇所ですが、

原文
Wir wollen nur da von ihrem Bestand reden, wo die Laien 1. zu einem dauernden Gemeinschaftshandeln vergesellschaftet sind, auf dessen Ablauf sie 2. irgendwie auch aktiv einwirken.

折原訳
われわれはもっぱら、平信徒が、① ゲゼルシャフト形成によって[スタッフと平信徒、相互の権利-義務を規定する秩序の制定によって、この秩序に準拠する]継続的なゲマインシャフト行為に編成され、同時にまた、②当のゲマインシャフト行為の経過に、なんらかの仕方で能動的にもはたらきかけている場合にかぎって、ゲマインデ宗教性が存立すると考えたい。

丸山訳
我々はもっぱら、平信徒が、① 単発のゲマインシャフト行為ではなくそれが継続的に[何らかの制定律に準拠しているかのように]繰り返されるという形でゲゼルシャフト化されているという場合で 、そしてその経過において、②そういった連続したゲマインシャフト行為が何らかの形で能動的に作用している場合に、ゲマインデの宗教性が成立していると考えたい。

を比較してどう思われますか?
折原訳の「ゲゼルシャフト形成がゲマインシャフト行為に編成される」という訳、まるで意味不明です。また「理解社会学のカテゴリー」の定義からもまったくあり得ません。因果関係が逆です。私が訳したように、あるゲマインシャフト行為が何度も繰り返し行われることによってそこにまるである種の暗黙の制定律への準拠が見られるという形でゲゼルシャフト形成が行われるで何ら問題ないと考えます。

p.s.
その後の部分でも、Kleine Reste von Gemeinderechten sind in einigen orientalischen christlichen Kirchen erhalten und fanden sich auch im katholischen Okzident und im Luthertum.を「いくつかの東方キリスト教会では、ゲマインデの権利の残滓がわずかながら維持されており、そうした残滓はまた、カトリック的西洋とルター派にも見られた。」と訳しています。
ヴェーバーはゲマインデをゲゼルシャフト化されたものと捉えている訳ですがから、こでのGemeinderechtenは権利ではなく、ゲマインデの制定律(内部ルール)のことでなければおかしいです。初期のキリスト教の信徒団の中でのルールが現在のカトリックやルター派においてもまだ名残りが見られる、という解釈は自然で無理がありません。折原先生は「理解社会学のカテゴリー」を重視すると言いながら、実際の読解ではその内容に沿った理解が出来ていません。

創文社訳の「宗教社会学」もひどいです。

「とりわけユダヤ教の預言者たち、あるいはまた、たとえばモンタヌスやノヴァティアヌス 、さらにはまた、もとより顕著に合理的な特徴を帯びてはいるが、マニとマヌス 、他方、いっそう情動的な性格を帯びたジョージ・フォックス 、こういった人々はいずれも、そういう告知をなした[したがって、ここでの規定によれば、そのかぎり預言者に該当する]。」という預言者について述べている所で創文社訳の訳注はこの「マニとマヌス」の後者(前者はマニ教の創始者)を勝手にマヌに変えて、インド神話のマヌとしています。しかしインド神話のマヌは旧約聖書で言えばノアと同じで、大洪水をヴィシュヌ神から教えてもらって生き延び、人類の始祖とされる人です。ノアが預言者でないのと同じでマヌも預言者ではまったくありません。私の解釈は、Manusはマニのラテン語綴りのManesを間違えたもので、「マニまたはマネス」と書きたかったのだろうと解釈します。他の人はいずれも歴史上実在する人で、マヌスだけ神話の登場人物というのもまったく整合的ではありません。(ちなみに全集はここについてはテキスト欠損により解明不可、としています。)

ドイツ語を日本語に訳するということ。

während der Prophet ebenso wie der charismatische Zauberer lediglich kraft persönlicher Gabe wirkt. を折原浩先生は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、かれの即人的な天賦の才によって活動する 。 」と訳しています。正確には創文社の訳を折原先生がそのまま採用してしまったものです。(例によって「即人的」は除く。)ここでの新たな問題はGabeを「天賦の才」と訳していることです。冒頭でカリスマと同じと言っているのですから、ここで言っているのは生まれつきの才能という意味ではなく、当然神から得た戒律(モーセの十戒)や神の言葉を得て、と訳すべきです。私の訳は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、その者個人に神より賜わったもので影響を及ぼす 。」にしています。

他の例では、der Prophet dagegen kraft persönlicher Offenbarung oder Gesetzes Autorität beansprucht. を折原浩先生は「預言者は、即人的な啓示ないし原則によって権威を要求する。」と訳しています。(例によって(笑)「即人的」は無視して)ここでのGesetzesは当然上の文にも出て来た戒律・律法と解釈すべきと思います。またAutorität beanspruchtは「権威が自分に属すると主張する=自らを権威付ける」ということ、つまり「預言者は、個人的な啓示ないし戒律(律法)によって自己を権威付ける 。」ということです。「権威を要求する」は意味不明です。要するに翻訳というものは辞書に載っているそれぞれの単語の意味をつなぎ合わせることではない、ということです。

既にこれまで訳が存在するものの新しい訳を出すのであれば、その古い訳の間違いをそのまま持ち込まないように気を付けるべきと思います。

折原浩先生の日本語訳の特殊さ

「宗教社会学」でヴェーバーが「預言者」の定義を述べている所、折原浩先生の訳は
「われわれはここでは、「預言者」という言葉のもとに、自分の使命として宗教的教理ないし神の命令を告知する、純然たる個人・即人カリスマの担い手、を理解することにしたい。」

原文は
“Wir wollen hier unter einem »Propheten« verstehen einen rein persönlichen Charismaträger, der kraft seiner Mission eine religiöse Lehre oder einen göttlichen Befehl verkündet.”

です。問題は「個人・即人カリスマ」です。この訳一体何ですか?普通に訳せば”einen rein persönlichen Charismaträger”は「ある純粋に個人としてのカリスマの持ち主」です。何故か折原浩先生はpersönlichを文脈も見ず100%「即人的」と訳し、私はそれをこれまで全部別の訳に変えています。おそらくは「即物的」の反対の意味での造語でしょうが、この「即人的」はまるで意味不明ですし、それをまたここではわざわざ「個人・即人」と重ねています。ヴェーバーはここで別に哲学を論じている訳ではなく、persönlichはごく一般的な意味で使っているとしか解釈しようがありません。大体、哲学の語だって本来は日常語ですよ。ハイデガーのDaseinは文字通り「そこにあること」という意味でしかなく、「現存在」とかの日本語にすると途端に意味が分からなくなります。また、折原浩先生、「最終総括」で「推転」なるマルクス主義者御用達語(元はヘーゲルらしい)を使われていましたが、これも元はÜbergangで「夏から秋への移り変わり」という時の「移り変わり」という意味に過ぎません。こういうおかしな訳がこれまでヴェーバーの文章を実態以上に難解だと思わせることに貢献して来たのだと思います。

p.s.
Googleで「”即人的” site:http://hkorihara.com」で検索すると多数出てくるので、この訳に限ったことではなく「即人的」は昔から使っていたということが確認出来ました。おそらくはsachlich=即物的の反対語としての造語なんでしょう。そう考えると理解出来なくもないですが、問題は最初に読んだ人はそんなことは分からないということです。それからヴェーバーがいつも同じ語は同じ意味で使っているなんてことはありえないということです。それをいつもある語が出たらそれに同じ日本語を当てるのは、これもヴェーバーのテキストをある意味「聖典」化している訳です。

「宗教社会学」折原浩訳、丸山補訳、R2

折原浩私家版訳「宗教社会学」の丸山補訳版のR2(P.60まで)を公開します。
ここもひどいですね。特にインドや中国・日本に関する記述はほとんどデタラメばかりです。こういう論文からヴェーバーの「合理化」の考え方が出て来たことを考えると、その合理化論も根底から見直す必要がありそうです。

20251019_宗教社会学補訳R2.pdf

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ7

まあヴェーバーの「宗教社会学」について、突っ込み所のネタが尽きることは当分ありません。
「それというのも、不覚にも精霊を刺激して、当人に乗り移られるとか、あるいは別人にもつぎつぎに乗り移られて、魔術的な危害を被ることがないように、いずれにせよそういうきっかけを与えないようにしなければならない。その結果、該当者は、肉体的にも社会的にも隔離されて、他人との接触を避けなければならず、場合によっては、なんと本人も、自分自身の人格との接触を許されなくなる。この理由で、たとえばポリネシアのカリスマ的諸侯のように、自分の食物も [自分に憑依した] 魔力で汚染されないように、自分では食せず、他人に注意深く食べさせてもらう、ということもしばしばある[1]。」

これについて私が付けた訳注は以下。ちなみにオペレッタ「ミカド」の初演は1885年でヴェーバーは21歳。音楽好きなヴェーバーですし当時欧州で非常に流行ったオペレッタでもあり、おそらくは観ている可能性が高いと思います。要するに当時の欧州の日本もポリネシアも中国も一緒くたにする風潮にヴェーバーもそのまま影響を受けていたようです。

[1] 出典はおそらくはフレイザーの「金枝篇」か。ポリネシアではなく日本の太古の「ミカド」が自分で体を動かしてはいけず、体を洗うのも寝ている間に従者が行うという記述がある。(この辺りギルバート&サリヴァンのオペレッタの「ミカド」を想像させる。「ミカド」にはナンキ・プーとかヤムヤムとかのポリネシア風の名前の人物が多く登場する。)いずれにせよフレイザーの記述自体が単なる言い伝えレベルであっておそらく神道などでの「斎戒」の話と混同しており、「しばしばある」ような事例ではまったくなく、例によってヴェーバーによる誇張である。

 

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ6

ついに極めつけのデタラメな文章を発見。
中国で風水思想によって合理的な行動が妨げられたという説明の後で
「日露戦争のさいにもなお、日本軍は、神占上不都合という理由で個々の勝機を逃したように見える 。」
だそうです。おそらく当時の雑誌などでのゴシップ記事をそのまま使ったんでしょうが、もう学者としてはダメダメですね。日本の近代化の程度についても完全に見誤って大衆レベルの偏見(要するに「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」)で書いています。

p.s.
おそらくはこれは、日露戦争の開戦直後に諏訪大社の御柱が倒れた(これが倒れると天下騒乱になるとされていた)のが新聞等で報じられたのが間違って伝わったのではないかと。

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ5

まだまだ続きます。ヴェーバーの宗教社会学の怪しい記述。今日のは「他方、定型としては純然たる「呪術師」のもとでも、たとえばアメリカ先住民のハーメッツ族の兄弟団のように、修業期と教説とをそなえているものもある。」(折原訳のインディアンは先住民に変更)

これに対して私が付けた注釈は:

Heinrich Schurtz(1863~1903年)の”Altersklassen und Männerbünde: Eine Darstellung der Grundformen der Gesellschaft”にある記述をヴェーバーが間違って引用しているもので、正しくはカナダのブリティッシュ・コロンビアの先住民クワキウトル族の秘密儀礼Hamatsaでハーメッツ族という部族は存在していない。Hamatsaはクワキウトル族の冬季儀礼の中心を担う秘密結社であり、入会には長期間の修行・教育が必要とされたが、これを「呪術師」と捉えるのは疑問。なおこの冬季儀礼で同じく行われる顕示的消費が有名なポトラッチである。なおヴェーバーの論考に度々メンナーハウスが出てくるのはこのSchurtzの本が元でこのHamatsaも一種のメンナーハウス的結社である。

となりますが、この部分は、
(1) 私はこんな事例まで研究していますよと言う顕示欲の現れ
(2) しかもその引用と解釈がまったく正しくない
という意味でヴェーバーの最悪の部分が出ている箇所と思います。
折原浩先生は例によって何の訳注も付けずスルー、創文社の訳も同じくスルーです。