「ローマ土地制度史」Amazonでの紹介文

Amazonでの販売用に考えた紹介文です。この程度でもこれまでこの論文の内容をここまで的確にまとめたものはありませんでした。
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マックス・ヴェーバーの教授資格論文である1891年の”Die römische Agrargeschichte in ihrer Bedeutung für das Staats- und Privatrecht”の最初の日本語訳です。訳者にとって2020年9月にリリースした同じくマックス・ヴェーバーの「中世合名・合資会社成立史」に続く第二弾の日本語訳となります。
この論文でヴェーバーは古代ローマにおいての様々な土地の測量方法と分類、税制、それを規定する法規と行政政策、そして中世の荘園制へとつながっていく大地主制度の発展といった広範囲な内容を論じています。特に中心となるのは共和政後期から帝政期にかけて度重なるローマの侵略戦争によって獲得された広大な元の敵地が、一旦は ager publicus というローマ人民の公有地となり、次第にそれが貴族を中心とした階層の占有地に変わって行き、さらに途中でグラックス兄弟の改革で没落自営農民への救済手段に転用されようとして大混乱を引き起こします。その後それが紀元前111年の土地改革法で全面的に見直され、ager privatus vectigalisque という、個人に割当てされた土地でありながら、地代(税)を払わなければならない土地へと変えられていきます。最終的にはそれが中世に続く大土地所有制度の基礎を作るようになっていく過程の私法・公法・行政法上の扱いを、法的文献だけでなく測量人達の残した資料、大カトーやコルメッラ、ウアッローといった人の農業書、また当時モムゼンを中心として解読が進められていたローマの碑文集などの様々な文献にあたりながらまとめています。
直接的にはローマ法を論じた論文でありながら、最終的に「経済と社会」としてまとめられようとしていたヴェーバーの社会経済史研究の原点を成す重要な論文であり、発表当時その綿密な文献調査は驚きをもって受け止められ、少壮気鋭の学者としてのヴェーバーの名前を広く知らしめた論文です。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳 正式0.99版

ほぼ最終版です。明日念のため通してチェックして初版とする予定です。

Weber-Roemische-Agrargeschichite-Ver0_99.pdf

追記:8月28日
校了し、正式版を公開しました。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳 正式0.81版

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳 正式0.81版です。訳者の序文を付けてほぼ完成形に近い形となっています。これまではPC上で校正していましたが、これからはこれを印刷して紙での校正を行い、それを最終校正として初版にします。9月頭の公開及びAmazonでの販売開始を目標としています。

Weber-Roemische-Agrargeschichite-Ver0_81.pdf

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳 正式0.51版

まだ序文等は入れていませんが、取り敢えず訳者注を脚注にし、また原注は一行開けてかつポイントを落とすという作業が完了しました。全体で301ページ、訳者注は500を超えました。

Weber-Roemische-Agrargeschichite-Ver0_51.pdf

信じられない全集の編集ミス発見。

またモーア・ジーベックの全集の信じられない編集ミス発見。「ローマ土地制度史」の第3章の下記の注を丸ごと落としてしまっています。何だこの全集、本当に。
原注と全集側の注の間に不自然な空白があり、何かのミスでここを削除してしまった可能性が高いです。

[42] Die Verhältnisse dieser laeti werden hier nicht näher erörtert. Cf. Böcking ad Not. Dign. Vol. II, p.1044ff. Auf das Gesetz des Honorius und Theodosius, betreffend die Scyren, kommen wir weiter unten noch zu sprechen.
(以下証拠画像。クリックで拡大。)

 

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(69)付記部

附録でついているアラウシオの耕地図についてのヴェーバーの説明です。これで本当に最後になります。
なおこの耕地図のヴェーバーの解釈がどうなのかは、さすがに私の手には余りますので、あくまでヴェーバーの説明をそのまま訳したものとしてご理解願います。
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付記 アラウシオの碑文 C.I.L., XII, 1224
(参照 上記文献への追記部)

上記の文献情報にある以下に掲げる碑文の断片のオリジナルは、全体が失われている碑文の2部分を一つにしたものであるが、元々はヒルシュフェルト≪Gustav Hirschfeld、1847~1895年、ドイツの考古学者≫教授が所有されていたものを氏のご厚意でご提供いただいたものである。私はこの断片についてそのサイズのため、それについてはC.I.L.が情報を付けていないのであるが、ただ概略的なコピーとしてここに掲載したが、それ故にその他の諸点で全くもって正確な複製品ではない。最後の点はテキストが何とか読めることから、そこまでの正確さを期す必要性はないであろう。二番目に右隣にある断片[二つ目の断片]はC.I.L.の追記部からのものであるが、それについてはヒルシュフェルト教授は模写のみを提供されている。この断片の原寸は私には不明である。そのサイズについて考えられることは、次のことが私には非常に確からしいと考えられる。つまりはこの2番目の断片は1番目の断片の右下に元々あったものが欠落した部分だということである。上方の部分の境界内に書いてあるテキストの解読は確実性が高いとは全く言えない。しかしながら私はこの断片上のテキストを継ぎはぎしてみることは試みなかった。というのは私個人ではこの断片の中のそれぞれの領域の面積について論証することが出来ないからである。しかし私が考えたそれぞれの部分の組み合わせ方が正しいとしたら、この碑文は1ケントゥリアの領域をほぼ丸ごと含んでいることになる:S. D. X. C. K. Ex tr. XII. col. XCVIII. (XC. VIII?) Colvarius (col. Varius?) Calid xx. a. IIX. 𐆖[Xに横棒を引いたものでこれは通貨単位のデナリを表す。ちなみにMax Weber im TextのCD-ROMはここを10の1000倍で10000としているが、そうも解釈出来るが全集の注によれば間違い。]. XXVI. n. a. II. XII. Appuleja Paula XLII. a. IIX. 𐆖. …. a. II. XII. Valer. Secundas IV. a. IIX. 𐆖. II.(もちろん次のことは目に付く。つまり横線の下にある左側の部分は右側の部分よりも一列分大きいということである。)長方形の区画部分についてその縦横比は約6 : 5(14 : 11.6 cm)となっており、これはつまり24 : 20 ローマフィートに相当し、偶然ではなく、故意にそうされたもので、何故ならこの略地図上では水道の位置がずらされているように見えるからである。というのはそのような引き方が意図的に引かれたということは、私にはこの断片の左下の部分が全く断片とはなっていないことから疑いようないと思われる。3番目の断片、下にある方はC.I.L.によればそれはただより古い版のものがそのまま使われている可能性があり、テキストが破損しているように思われる。――補完がほとんど試みられていないということはそれ自体当然のことであろう。この断片に書かれたテキストからすれば、この碑文は帝政期の盛期に作られたものであろう;というのはこの測量地図はしかし青銅と亜麻布の上に描かれており、よってこれは単なるコピーであって原本は更にかなり古いものである可能性があるからである。この碑文の解釈にあたっては、その最も重要なことの理解に成功したとすれば、それは属州の植民市での課税状況と、全体の土地の分割の仕方についてであり、a. IIXが3回繰り返し登場しているということが特に注目に値するであろう。人名から始まる部分でそれが10ユゲラの面積を持っているとするならば、それは次のことに適合するであろう。つまりこのケントゥリアはニプススによって言及された240ユゲラの面積のものであり、それは課税対象の土地として規定されたものである(ニプススはこれらの土地を単に”ager scamnatus”として描写している)。これらの土地の全体の面積は、それは先に引用したa または DX とは合致していないが、20+12+42+12+4 = 90 ユゲラとなり、つまりは、この数字が二列目のXC[= 90]の意味するもので、そして次の VIII は次の領域に属するものとすれば、その計算となる。もしかすると a. IIX が意味するのは耕地に対しての現物貢納[octava = 1/8]の率であり、その隣にデナリウス記号の下に書かれた数字によって固定の税額が示されているのであろうと思われ、そして a. II. (arvum secundum [二級の耕地]?) は XII[= 12]の意味であるか、あるいは税が課せられない狭小な土地であろう。a. は “asses”[銅貨]と解釈すべきとモムゼンが主張している。しかしそうでないことは非常に確からしいと思われる。いずれにせよ私の考えでは名前の後に続く数字はその名前の者に割当てられた土地の面積である。≪全集注によればここはモムゼン説よりヴェーバーの見解が正しいとされている。≫左側の[実際の図では下の]ケントゥリアの断片図は、ある者に割当てられた土地が複数のケントゥリアにまたがっていることを示している。モムゼンがこの断片に対して前書きとして補足していることは: ex tributario (scil. agro) redactus in colonicum[植民市の tributario (すなわち土地)から減らされた部分]であり、それはつまりヒュギヌスが203ページ以下で言及しているケースを扱っている図である:つまりローマの測量地図を使った課税対象の農地の分配である。その際にそれぞれ割当てられた土地が異なった面積であるに違いないことは明白である。しかしながら一般的に言って、いずれにせよこの碑文においての数字の記載の仕方から、ここではボニタリー所有権として把握された土地割当てが行われているように想われる(Calidus は XX[= 20] と XXIV [= 24]デナリの税金を課され、Secundusは IV [= 4]と II [= 2]デナリである)。このコピーが作られた目的は同様に不明であるが、他のことと同様に、前述の通り解釈して注記したことは、依然疑わしさを含むものである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(68)P.349~352

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第68回目です。ついに本文を全て訳し終わりました。後は付録のアラウシオの耕地図についての解説が4ページ残っているだけです。ヴェーバーはこの長大な論文の結論部として、何とわずか半ページしか書いていません。しかもその内容は「世界市民」といった、それまで一度も議論しなかったことに関しての極めて舌足らずな議論であり、肩透かしを食らったように感じました。まあローマ法講義資格を得るための論文であって、独立の書物ではない、ということを考えても、この論文も結局の所はトルソなのではないのか、という思いを禁じ得ません。
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次のことを頭の中に思い浮かべなければならない。つまり古代の世界では帝政期の初期においてべーベルの理想≪アウグスト・べーベル、1840~1913年、マルクス主義者でドイツ社会民主党の創始者。その主著の「女性と社会主義」で、男女の自由意志に基づく平等な結婚を主張した。≫に合致するような結婚の法的構成は上述したような状態で de facto [事実上]のものとなっており、その後一般的にまた de jure [法律上]でも有効なものとなっていった。その結果として起きたことは周知のこととなっている。こうしたローマにおける労働の実態という枠組みの中で、このような経済的発展とキリスト教的な結婚の理想の関係を評価することは不可能である。しかし次のことは明らかである。つまり農場の経営者が奴隷という存在を解体したことが、それらの奴隷にとっては内面深くにおいての精神の健全さの回復につながったのであるが、それはしかし社会の最上位層1万人[権力者・大富豪]の没落の中で、諸蛮族はそういった結婚の理想を高く評価して自分達の制度として受け入れる、ということは全くしなかった、ということである。外面的には既に注記したように、奴隷を使った自営的農業経営の確立は、それは労働力調達コストの高騰とそれによる大農場制による自分の土地の耕作で上がる利益の減少と共に現われたことから分かるように、帝政期においての農業発展の結果であった。こうした発展が次に向かったのは、当然のことながら次の地点であった。それは奴隷達が奴隷舎を出て、自分自身の家に住み単婚状態で暮らしている「解放農奴」――[ヴェーバーの時代の]現代的な例えを使うならば≪プロイセンでは19世紀初頭から社会改革として農奴を自営農民に解放する政策が進められていた。≫――に成ったという地点である。奴隷の農場主に対しての権利状態が同様に示していたのは、その農場主の経営を固定地代に基づくものに変えていく方向に導いていた、ということである。文献史料は次の二つの場合を区別している。一つは奴隷が固定地代を支払うことを条件としてある土地区画に留まる状態であり、もう一つは奴隷が “fide dominica” 117a)[主人=地主に対して忠誠を誓った状態]で、ある土地区画をその地主自身の経営のために耕作している状態である。

117a) D. 20 §1 de instructo 33, 7 (スカエウォラ)。ある者がある土地をそこで使う農具と一緒に遺贈した、――”quaesitum est, an Stichus servus, qui praedium unum ex his colonit … debeatur. Respondit, si non fide dominica, sed mercede, ut extranei coloni solent, fundum coluisset, non deberi. [奴隷のスティクス≪典型的な奴隷の名前。同名の奴隷を主人公にした喜劇有り。≫に関して次の問いが発せられた。その者はこの土地のある区画に住んでいたのだが…~をする義務があるか、という問いである。(裁判において)法学者は答えた。その者が地主に対して忠誠を誓っているのではなく、地代を支払っているだけで、それは外部のコローヌスが通常そうするように、そうやって農地を耕作していたのであれば、その義務を負うことはない。]
それに対して D. 18 § 44 の前掲部(パウルス)では: Quum de vilico quaereretur, et an instrumento inesset, et dubitaretur, Scaevola consultus respondit, si non pensionis certa quantitate, sed fide dominica coleretur, deberi. — [農場の管理人から(その奴隷の)農具がその者に属するか疑わしい、という疑義が提示された時に、法律の専門家であるスカエウォラは答えた。もし固定額の地代を支払っているのではなく、農場主に忠誠を誓った状態でそこに住んでいたのであれば、(その農具を返却する)義務があると。]――最初の箇所が述べているのは、”dotes colonorum”[コローヌスの嫁資=結婚相手の女性が自分の財産として持参するお金。夫と離婚したり死別した場合にはその女性に返却される。]が一緒に遺贈された、ということであり、つまり独立してある土地を耕作しているコローヌスにとっては、嫁資もその他の財産と一緒に遺贈すべき財産の一つであった、ということである。これらのことほど、次のことをはっきりと示しているものはない。一つにはコローヌス達がここで地主による奴隷を使った経営を単純に置き換えている、ということであり、もう一つはまたこうした奴隷を使った経営が次の傾向を持っていた、ということで、つまりそれが[コローヌス毎に]独立した土地区画に基づく経営で、そこから大地主が固定額の地代を取る、という形式に変わっていく、という傾向である。次の段階での更なる発展の進行においては(後述のテキストを参照)、その他の政治的な要求が農場主にとって自分自身で耕作を行っていくことを不可能にしたのであり、また “fide dominica” として働いていた奴隷による耕作について、その奴隷をどうしても解放せざるを得なくなり、そしてただ政治的な従属、つまりは隷属だけが後に残ったのである。

後者の場合は奴隷は農場主の財産目録の中の一つに過ぎなかったが、前者の場合はそうではなかった。この “fides dominica” とフランク族が征服した地域における “in truste dominica” を比較するのは、ここは適当な場所ではない。≪ヴェーバーはおそらく “in truste dominica” を「領主による農民の保護」と誤解しているように見える。しかし全集の注他によれば、この表現はフランク王国の6世紀のメロヴィング朝にて制定された lex salica に出てくるもので、その意味は「王に忠誠を誓った貴族による親衛隊、従士団」であり、農民に関係したことではなく、 “fides dominica” とは dominica が共通するだけでそもそも比較対象になるようなものではない。≫奴隷達のコローヌスへの接近は、すなわち地方においての農業従事者においてのこうした変化は、しかしながらローマの帝政期の歴史においての、もっとも重要なものの一つであり、また疑いようもなく確実に起きた事実である。

紀元後の最初の世紀において、奴隷達は既に一種の同業者組合[ギルド]のような団体を結成しており、その目的は部分的には相互扶助・葬儀共済のためであり、また他の部分では狭い個人また知り合いとの交わり以外のものであって 118)、それはしかしながら一般的に言えば、諸家族の自発的な組織化の始まりということが出来る。

118) プテオリにおける皇帝領において、奴隷達と自由民達は、モムゼンの C. I. L., X, 1746 – 48 への注記によれば、西方の地の評議会[ordo]とデクリオーネス達と collegium ≪一種のギルド、後には大学や会社という意味でも使われるようになる。≫を組織化していた。バウリ≪ナポリの西20Km、現在のポッツォーリの一部≫の農場においては、C. I. L., X, 1447 によれば collegium Baulanorum [バウリのギルド]が見出され、また ordo Baulanorum [バウリの評議会]もである。同じように見たところでは存在していたようであるのは(モムゼンによる)、C. I. L., X, 1748 での ルクッルス≪BC118~BC56年、共和制ローマの政治家・軍人。美食と豪華な別荘で有名。≫の別荘のある地≪おそらくナポリ湾沿岸の高級別荘地≫でのデクリオーネスである。C. I. L., X, 1746 ではバウリのある一族の管理人[villicus]が墓所を買い求めている。参照:ブリタニアでの碑文 C. I. L., VII, 572 (collegium conservorum [奴隷仲間のギルド])とC. I. L., X, 4856 の collegium familiae publicae [公共的な存在である諸家族のギルド]。C. I. L., XIV, 2112 の法規ではギルドの構成員が他の構成員の恥ずべき行為に対して罰金を科している(参照:C. I. L., II, 27)。ギルドの成員が死んだ場合には、その葬儀がギルドの費用で執り行われ、もし農場主がその奴隷の死体を引き渡さなかった場合には、死体無しでの仮想的な告別式が行われた。プテオリの土地においてのギルドはいずれの場合も公的な性格を持っていて、ゲマインデ団体の形式を真似た諸家族を集めた組織であった。

既に早い時期においてローマの大地主はその配下の手工業者達がまた市場で販売するものを製作するために働くことを承認しており、あるいはよりむしろ、このことは色々な意味で地主にとっての収益源であり、奴隷達に手工業者の技術を学ばせることの目的であった。都市において大地主はそういった産物の販売のための小規模店舗を持っており、その店について大地主は自分の家の息子達や奴隷達を責任者[Institor]にして管理していた 118a)。

118a) 比較する上でもっとも統合された例としては、ロシアのオブロク≪Оброк、ロシア語で賦役や貢納という意味で、農奴に課せられていた義務のこと。≫を課せられていた農奴において同様の状態を見出すことが出来る。

部分的には大地主はこういった者達に対してその店舗を独立採算で営むことを許していた。そのことに関する法律上の概念であるいわゆる adjektizischen Klagen ≪ラテン語で actiones adjecticiae qualitatis, 付随的な資格に基づく訴権、つまりこうした奴隷や息子が行った商売上の不法行為に対して取引相手が実質的な権利者・責任者である大地主を訴えることが出来る権利。「中世合名・合資会社成立史」の中でも連帯責任の議論の中で登場している概念。≫についてはまだ採用されるまでには至っていなかった。中世においての土地に従属している手工業者と、この当時の手工業者との本質的な違いは、古代における大地主の経営が持っていた意味の中に存在しており、それはその当時決して消え去ることがなかったものであり、それが継続して存在したことには次の理由があった。つまり皇帝による有給の官吏を使った国家の行政とまた軍隊の存在が、占有に対してより上位に立っていた、という理由である。そういった占有というものは一旦崩壊し、また至る所でその本来の性質に従って相互に競い合うように地方においての大地主の自治的支配権が確立し、自らリスクを取るようになったに違いないのであるが、――その次の段階が到来し、そこでは占有者達が自らの農場内での工房において自ら武器を鍛造させるようになり、そして大農場経営制による自給自足がそれらの工房を、その地域での権力を掌握するための新しい組織の唯一可能な細胞であるように見せつけるようになるのであり、そこではしかしながら大地主にとって農業的なそして産業的な発展が弱体化してしまい、そして占有者にとっては大土地所有の政治的な意味が再び前面に登場してくるのであるが、一方ではそうした産業上の発展は今やその土地に隷属している手工業者自らが担うことになったのである。

結論

ローマにおける国家意識が、共和国をしてムニキピウムの各ゲマインデ団体の集合としての世界[orbis terrarum]という考え方を意識的に捨てさせることになった。次に長く続いた帝政期には、国家ゲマインシャフトによる狭い地域に限定された愛国主義というものを、有効的な国家の推進力としては排除した。世界市民という考え方は、その本来の性質から、政治的なイデオロギーではなく、宗教的な推進力の根底にあるものとして把握され、また同時に成果をもたらすこととなった。至る所で遅延し、そして財政についての行政上の必要性と混ぜ合わされて一体化した、そういった世界市民という考え方を、単なる理想論から現実的なものにしていこうとする試みは、帝国全体の住民の過半数に対して、その者達をローマの領地と国家的な強制組織の中に併合すること≪カラカラ帝による属州民へのローマ市民権の付与などを言っていると思われる。≫と組み合わされた形で実施された。ただその者が耕作している足元の土塊を、ローマの世界帝国の住民は再び勝ち取ったのであり、そういった土塊がその住人にとって、そこからその者の思考や利害に関係することごとが生み出されるものとして再び把握され始めたのである。新しい発展が引き起こされるためには、領土と地方での権力の両方においてのローマ帝国の没落が必須だったのであり、その発展の過程においては、更にまた古くからの帝国の統一状態というものが、もはや皇帝による課税と行政管理の機構としてではなく、ある種の統一された世界という観念的な像として人々の前に現れて来たのであり、その結果としてそれが作用する領域を拡大することが出来たのである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(67)P.345~348

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第67回目です。ヴェーバーはここを書いていた時期、丁度軍隊で訓練を受けており、そのせいか農場での奴隷の生活を軍隊とそっくりと描写しています。しかしこれについては本当にそう単純化していいのか、という疑問があります。また農場の管理人達が単婚制で一般の奴隷はそうではない、と何度も述べていますが、これも眉唾です。この時代ともかくも単婚制になる前は乱婚制だったという誤った歴史認識がはびこっており、ヴェーバーも間違いなくそういうバイアスを受けていると思います。
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そういった居住の仕方は次のような場合にもまた同じであった。つまりコローヌスが奴隷の進化した者として現れており、かつそれ故にまず第一には労働者である場合で、そういった労働者は土地の管理人である actor や villicus の厳しい監督下に置かれており、それはコルメッラが前提としていることであるが、特にそのコローヌス達の食事が農場の側で供給されねばならなかった場合にそうであり、そうされた理由は夫役の日数が自由な日の日数より多かったからである 105)。

105) ガリアでは次のことが起きていたと思われ、それについては敬愛する顧問官のマイツェン教授が私に気が付かせてくれたものであるが、ある邸宅を取り囲むような集住が次のようなやり方で、つまりコローヌス達が農場主の邸宅の周りを囲むように集住して村落を形成し、また方形の耕地がそこに置かれる、というやり方で起きていたということである。このことは私の考える所では、ただ次の意味だけを持っていた。つまり大地主が奴隷をもはや相当な程度の数で抱えておくことがなく、そのために今や全ての耕地にただ夫役に従事するコローヌス達のみを配置し、要するにこういった好都合な、夫役に従事する農民とまさに同じ者達を使うしかなかったのであり、そしてコローヌス達のフーフェ制度のやり方に従って形成された村落によっての地主の邸宅の囲い込みが要望され、そしてその結果土地のの新たな分割割当てが行われ、その際に他方では大地主その配下の者達を、軍事上の理由から自分の邸宅の近くに集めたのである。しかしながらこのことが起きたのはドイツの植民地建設[民族大移動の結果による]の後であり、それ故この時代に起きたことではない。

コルメッラはそれ以外に次のことも規則的に起きたこととして認めている。それはコローヌス達が大地主が管轄する領域から離れた場所に居住していた場合もあった、ということである。それ故にコローヌスの大地主に対しての位置付けというものはもはや、コローヌスに対して実際に成立していた従属性の程度と社会的な状態については、一般化出来るようなことはほとんどない。glebae adscriptio [土地の付属物]という表現は、それが何らかの新しい要素を包含している限りにおいては、コローヌス達の地位が悪化したという意味は持っていない。

地方における労働者という身分の運命

そういったコローヌスの状況に対して、奴隷の状況についてはいくつかの発展傾向が新たに確立されていた。我々が先に見て来たように、奴隷を使った農場経営はその頂点を極めた時、つまり帝政期の初期においては、強度に軍隊風であった。奴隷達は兵舎のような共同の宿舎で眠り、一緒に食事を摂り、単婚制的な男女の関係は一般的にそこではほとんど見られなかった。≪これはヴェーバーの思いこみで正しくない。実際は同棲形態で暮らす男女の奴隷は多くいた。≫軍隊での10人組風のやり方で朝になると集まり、男性または女性の管理人によって点呼を受け、そして3-10人の単位で仕事場に連れて行かれ、「現場監督」(monitores)の監視の下で働かされた 106)。

106) コルメッラ 1, 9;12, 1。

労働のためのグループ分けは各奴隷の体力に応じて行われ――体力のある者は穀物畑に、逆に体力に劣る者はブドウ畑に振り分けられ 107)、――更には残った者はブドウ畑とオリーブ畑に割り振られ、また先に詳述したように、価格の安いかつほとんどが鎖につながれたままの通称有罪奴隷もそちらに回された。

107) コルメッラ 1, 9。

――奴隷に与えらる衣服は、我々が兵舎で支給されるものと同様のもので、その兵舎[宿舎]の中での決まった場所に保管されていた。奴隷は毎年チュニック≪2枚の長方形の布を肩で結んだトーガの下に着る内着≫を、2年に1回サガ≪外套≫(カトー 59)を受け取っておあり、それと並んでその者は仕事の時に使うための継ぎを当てた上着(centones)を所有していた。月に2回員数点検が行われた 108)。

108) コルメッラ 11, 1。

祝祭日用の飾りつけは男性奴隷は女性の管理人に対して「部屋の中で」行うことになっていた。女性の管理人達は調理場を共有し、同様に機織り機もであり、それを使って女性の奴隷が衣服の必要を満たすために機を織っており、また病室も同様に共有していた 109)。

109) コルメッラ 12, 1。

通常の奴隷の上に、既に言及したように、管理人である villicus がおり、大抵はその農場で生まれ育った奴隷の一人であり、後にはより上位の管理人である actores が出現している。後者については、コルメッラが言及するところでは、より上質の衣服を着用していたとされている(12, 3)。actores は単婚制を取っており、時には農場主の食卓に招かれることもあり 110)、そして大地主と共有する財産というプレミアムを与えられていた。≪全集の注によればこのプレミアムはインセンティブ的に一般の奴隷にも与えられていた。≫全く同じことが奴隷の区分けに権限のあった praefecti [praefectus の複数形]にも言え、その者達も単婚制を取っており≪ヴェーバーは単婚制を actores や praefectus の特権であったように書いているが、一般の奴隷においても婚姻権こそ無いものの、contubernium 、字義としては「同じテントで寝る」、という同棲婚が多く行われていた。これは奴隷に子供を作らせる上でも有効なため、コルメッラの農業書などでも奨励されていた。≫、また同じくプレミアムを与えられていた 111) 、――この二つの身分はしばしば同列に扱われていた。

110) コルメッラ 1, 8。
111) ウァッロー 1, 17。

奴隷の供給が封印されればされる程、そのために地方の奴隷達がまさしく自分達だけで何とかやって行くしか方法が無くなった程、そしてそれによって耕地で農作業を行う奴隷の人口が減っていけばいく程、それだけ一層奴隷達の組織は確固たる形で構築されねばならなかった。コルメッラの農業書では magistri officiorum ≪ローマ帝国の最後期での最上位の行政管理官≫が言及されているが 112) 、奴隷達はそれ故にただ純粋に「会社組織のように」階級や10人組制度に従って組織化されたのではなく、そうではなくまたその仕事の内容に従って、またその労働力の種類によって組織化されたのである。

112) コルメッラ 11, 1。

そのことは農場で必要とされる技術がより一層細かくなり高度化したことと関係がある。カトーやウァッローのようなより早い時期の農業書においては、多くの場合ただ家畜の世話をする飼育係だけが他と区別されており、他の全ての人員は operarii [作業者]として一まとめにされていた。コルメッラがしかし言及しているのは、新たに次のことにより重点を置かなければならない、ということで、それは例えばブドウの栽培であり、それに対してそれまでは最低価格で購える人員が使われていたのであるが、熟練の vinearii [ブドウ栽培人]を雇い入れなければならないと主張しており 113)、そういった者達は当然のこととしてその部門に継続して留まったのである。

113) コルメッラ 3, 3。

そういった人員間の区別は次の場合にはより一層はっきりしたものになったに違いない。それはより規模の大きな農場で、自前の手工業者を組織化し始めた時である。コルメッラが更に言及していることは 114)、fabri [手工業者]は多くの場合購入奴隷であったということで、――もしかするとそういう者達は相当規模の学校出身であり、しかしより確からしくは都市の親方達の元で技術を取得した者達であっただろう 115)。

114) コルメッラ 11, 1。
115) 法的史料にしばしば見られるのは手工業に従事する奴隷の訓練についての契約書である。

しかし後の時代になるとこれに対して、既にパラディウスの時代には、上述したように、手工業者を自分の農場内で養成するようになった。より後の時代の農場の組織においては、農業労働者の部門の――officia――と手工業者の部門――artificia 116)――がはっきりと区別されるようになった。

116) D. 65 de legat[is] :ある奴隷が officium から artificium に異動させられた場合は、その労働の対象が変わることによってその奴隷が持っていた[土地などの]相続対象物の権利は消失した。familia rustica 「地方での一族郎党]と familia urbana [都市での一族郎党]の明確な区別についてはより古くからあるものであるが、後の時代のものについては D.99 pr. de legat[is] 3;D.10, §4, de usu et habit[atione] 7, 8 と比較せよ。共和制期においては、不要となった人員を familia urbana から地方へ持って行くことが行われていたが、これは後になると変わり、コルメッラは familia rustica が基本的にはより高い地位に置かれるようになっていたことを確認しようとしていた(コルメッラ 1, 8)。

二つの部門のどちらに所属しているかということは、いずれの場合もその奴隷の奴隷舎からの解放が実現するとすぐに明らかにされ、そして手工業者にとっては一般的に行われたことは、その所属の地位が事実上相続可能なものとなったことである。農場での共通の奴隷舎からの解放が一般論として決定的な発展の主因となっていた。農場の管理人達、つまり officiales においては、既に述べたように、それらが確立したのはコルメッラの時代であり、その者達は単婚制を取っており農場主からプレミアムを受け取っていた。≪先に書いたようにどちらも管理人達だけの特権ではない。≫既に帝政の初期においてその者達と自由民の結婚が行われていたし、≪奴隷には正式な婚姻は認められておらず、ここでの話はおそらく解放奴隷のことと思われる。≫大地主経営する農場に属している者達は、こういった形でまさに大農場の中で組織分けされている限りにおいて、その状態を一種の身分と捉えており、共同宿舎からの解放はただその農場の中においての昇進と思われていた 117)。

117) 奴隷と自由民の結婚については C.I.L., X, 4319.5297.6336.7685。villicus と自由民の結婚を記録しているのは C.I.L., II, 1980。自由民と管理人の結婚については C.I.L., X, 6332、actores の単婚状態については:C.I.L., V.90.1939; XII, 2250。通常の奴隷の確固たる同棲婚の例としては C.I.L., V, 2625.3560.7060。servi dispensatores [財務担当の奴隷]はしばしば富裕な者達であり(ヘンケン≪1816~1887年、モムゼンと一緒に古代ローマの碑文の解読を行った文献学者≫, 6651)、そしてそれらの奴隷が解放されなかった理由は、モムゼンの推測によれば(C.I.L., V, 83)、その者達が会計管理人として場合によって[不正なことをした場合には]拷問にかける可能性があったからではないかとしている。確固たる同棲関係が古典法学の時代に規定として認められていたとしたら、その場合には既にその当時そういった関係を継続性があるものとし、良く知られた「奴隷の内縁者」として認めていたのかもしれない。

こうした発展の道徳的な意義については、ここでは特段何かを述べる必要はないであろう。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(66)P.341~344

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第66回目です。ここでも次第に農奴的な存在になっていって奴隷と同じく、土地の売却の際には土地と一緒に売却されるようになっていくコローヌスの姿が分析されます。残り12ページになりました。
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しかし事実上はローマ帝国全体に荘園制度網が張り巡らされたのであり、その状況において諸ムニキピウムは産業的な生活や、資本形成という欠くべからざる中心点を自分の中に置くことなく、また市場という不可欠なものにもなることもなく、結局のところは国家の税収管理においての単なる税金吸い取り装置という状態に留まったのである。

大地主制の内部の組織

ここで我々は占有の内部の状況についてそれを観察する必要がある。占有者達は自分の地所を、それについては既に見て来たが、次のように管理していた。つまりムニキピウムの官吏を真似してその土地領域に管理人を置いて管理させたのである。管理人[villicus]は確かに帝政期においてもなお、大地主制においての業務遂行者であるのを見て取ることが出来るが 95)、しかしながらその者と並んでそして事実上はその地位を置き換えているように見える者として、”actor”[代理人]が登場して来ており 96)、それはムニキピウムの同名の役職に相当しており、既にその名前にほのめかされているように、その者は官庁の業務について、準国家的な行政管理業務を委託されていたのであり、それは文献史料にも示されている 97)。

95) C.I.L., V, 878.7739; X,1561.1746.4917。

96) C.I.L., V, 90.5005.1939; VIII, 8209; XII, 2250。

97) この後に引用する箇所を参照せよ。コルメラの 1, 7では actor は familia [一族郎党]に並記されている。

Villicus の場合と同様に actor は通常奴隷であった。管理規模の大きい農園においては actor の上位または actor の代わりに procurator [上級管理人]が置かれ 98)、それは皇帝に所属する官吏の名称を借用したのであるが、その者は解放奴隷であった。

98) 私人である Prokurator については C.I.L., V, 4241.4347; VIII, 2891.2922.8993。皇帝の官吏である Prokurator については例えば X, 1740.6093。

こうした上級の管理人は一般的な管理業務は免除されており、また人員や資産のリストを作成することになっており、その者達は国家のまたは皇帝の管理担当の官吏と全く同等に扱われた 99);現金の出納業務については規模の大きい、特に皇帝領の土地においては、dispensator [管財人]100) がその者達を支援したが、その管財人も多くの場合は奴隷であり、財産目録の作成においては fabularius [会計士]がその者達を支援していた 101)。

99) C.I.L., X, 3910:ある者で、元々公的な官吏であった者がある(もちろん非常に重要な)私人の “praefectus”[任命された者]になったのである。このことは明らかに次のケースと同じである。つまり[ヴェーバー当時の]今日ある者が国の官吏からある貴族の所有する森林の管理人になって登場することである。”praefectus”という表現は当時間違いなく官職としての仕事を意味していた。ウァッローの 1, 17 によれば”praefecti”[praefectusの複数形]は農場経営においての監督者であって villicus の下に置かれたが、しかしやはり奴隷であり、しかしながら一般には一夫一婦制を取っていた。”Procuratores”[ procurator の複数形]はウァッロー(3, 6)においては鳥小屋の管理人として登場し、コルメラの(9, 9)においては養蜂場の管理人として現れ、それ故に当時はまだ純粋に経済的な機能を果たす者であった。

100) C.I.L., V, 83; XIV, 2431。

101) C.I.L., VIII, 5361(私人の)、3290 (皇帝の)。

こうした農場における官吏達の干渉については度々訴訟沙汰となっており 102)、それもその理由の大部分はアフリカにおいての夫役への苦情と同じであった。コローヌスの位置付けは、特にムニキピウムによる管理外とされた個人地主によって支配されていた場合には、色々な面で不安定なものであった。

102) テオドシウス法典 I, 7, 7。そこでは有力な procuratores が拘束され受刑することになっている。同法典 1 de jurisd[ictione] 2, 1;同法典 1 de actor[ibus] 10, 4。

以前見て来たように、コローヌス達は事実上その耕作する地所に縛り付けられていたのであり、それはつまりまず第一に、その土地領域から切り離されて立ち去ることが出来るような状態にはなかったということである。それにもかかわらず、こうした自由な移動権の制限はほとんど負担になるものとしては受け取られておらず、というのもここでの自由な移動権は単なる可能性としての意味しか持っておらず、その可能性としては耕作している土地を放棄する、ということであるが、それ故に価値の高い権利としては全く受け取られていなかったのかもしれない。コローヌス達にとってはるかに重要であったのは次のことで、つまりその者達が地主の意向に逆らってまでなおその耕作地との結び付きを許されるかどうかであり、それ故に地主達にとってはコローヌス達は、通常の自由民である賃借者のように、解約の予約をしたり、あるいは賃借期間が満期になった時に賃借料を引き上げることを許された、そういう存在ではなかったのである。ある土地領域に定住している人が、猶予期間無しにその土地領域から退去させられることが可能であったということは明らかである。というのはどのゲマインデもその者を受け入れることを義務とはしていなかったからである。先ほどのコローヌス達にとってはるかに重要であったことが実務的に意味していたのはつまり:地主が農民をその土地に「配置」し、そして日雇い労働者についてはその扱いを改めるなどしてその土地区画を取り上げ他の者に与えることが出来たかどうか、ということである。明らかなのは、地主が[その従属下の]誰かが死んで相続が行われる時に、そのやり方に干渉し、かつ土地の引継ぎについて取り決めることが、ほとんど随意に行うことが出来るものであった、ということである。その他第3章で我々は次のことを見て来た。つまり土地改革法[lex agraria]はアフリカの国有地の賃借人あるいは 1/10 税の義務のある占有者に対して、lex censoria によって賃借料他を値上げすることを禁止することに利害関心を持っていた、ということである。leges censoriae には渥取行為に基づく国有地の賃貸借契約において、確かに同様に大規模賃借人が小規模[2次]賃借人 に要求出来る賃料の上限を定めた条項が含まれており、このことは皇帝領の賃貸しの場合にも同様であったし、更にまた同様にコローヌスから土地を奪うことについての許可についても、それに関する規定が含まれていたのである。そのようにコンスタンティヌス帝のシチリア、サルディーニャ、そしてコルシカの国有地の管理についての指示を規定しているので(テオドシウス法典、[de] comm[uni] div[idunde] 2, 25)、その結果として土地を分割する際には家父長達と永代借地契約者達は奴隷達の血縁者 [agnatio]を一緒のままで居られるようにし、恣意的にその者達を分割することが禁じられた。こういった純粋に訓令的でかつ奴隷に関しての規定からトリボニアンは良く知られた “coloni adscripticae condicionis”[ケンススに登録された身分としてのコローヌス、実際にはコローヌスではないのにケンスス上でそう扱われた者を含む]に関しての法律(C.I.II comm[uni] div[idundo] 3, 28)を作り出し、そしてその規定は全く一般的に個人である占有者達に関連付けられた。この規定は本来は全くもって私人に関するものではなかった。より一層私人に対して関係付けられていたのは、コンスタンティヌス帝による法規であり(C.I. 2 de agric[olis], 11, 47)、その中で禁止されたのは、ある土地を売却した者がその土地のコローヌスを自分の元に引き留めて他の目的に使用することであった。そういった禁止は市民法やまた行政法に従った場合には、それ自体必要不可欠なものであったことは全く無いと思われるが、――というのは土地に従属するコローヌス達は元々その土地に対して自分の出生地として確かに縛りつけられているからであり、――もし私法と行政法の複合したものが先の禁止に相当する解釈に達し得なかった場合でも、コローヌス達は所属という観点では私法的な意味においてのその主人[地主]に属していたのである。奴隷に関する法をコローヌスに対しても適用するというまさに法律の濫用は、コローヌス達を人員として奴隷と同様に売却することを可能にしようとする試みであった。コローヌス達はその土地に本来は単に住民として所属するものであったので、このことは法学的には問題外であった。しかしその後試みられたことはコローヌスの状況について次の混同を引き起こすことであり、それはつまりある者が小さな土地区画を売却した際に、その土地区画と共にその土地を耕作していたコローヌス達についての主権と処分権をも一緒に移転させた、ということであり、その結果として事実上コローヌス達も売却可能にする、ということが試みられたのである 103)。

103) 似たような困難さは、尚≪ヴェーバー当時の≫今日我々≪プロイセン≫においても、大地主の土地領域を構成している土地を分割する際には生じている。実務的な取扱い方法はその際にぞれぞれの地方にて異なっている。

この方向を歓迎し、そしてユスティニアヌス法典 7 の前掲部がこの禁止令を更に servi rustici adscripticae condicionis [ケンススに登録された身分としての地方の農場の奴隷]に拡張適用しようとしたものであり、これが意味しているのはコローヌスと奴隷という者達は、地主の財産のケンススへの登録リスト上、特別にその[人頭税の]税率と共に記帳された、ということである。コローヌス達とこれらのコローヌスに接近したものとなった奴隷達は土地の分割売却の際にはぞれぞれの面積に応じて[pro rata]分割されて引き渡されることとなった。コローヌスの地位を奪うことの禁止は、それ以外では文献史料において明確に記載しているものはない。しかしながらただ現にある耕作地についてそれをその耕作者の土地とみなすことを許す行政上の保護が行われていたようには思われ、何故ならば地主が[購入した土地に付属している]コローヌス達を競り落とそうとする試みに対してある種の特別な手続きが許されていたからである 104)。

104) ここでは市民への裁判について述べているのではなく、「犯罪行為を立証する」[facimus comprobare]ことについて述べているのであり、そしてまた任意の判決内容を求めることが許されていたのであり、――もちろん、というのも地主の土地領域においては正規の司法当局というものは成立していなかったからであり、そしてもまた裁判を行えるかということについても疑わしいものであったに違いないからである。

そういった干渉行為はただ任意のものであったので、その結果現金による納税義務者による大土地経営においては例えば第3章で述べたことに従って≪ager stipendiariorum はローマの領土として取り扱われており、そこでは法的な訴えは起こすことが出来ず、ただ行政上の処理のみが適用可能であったということ。≫おそらくは常に許可されており、そしてもしかするとそこからそういう状況が生じて来た可能性もある。[コローヌスの家父長の]死亡の場合においては地主に対して次の可能性が与えられた。つまり相続資格のある者達について、誰を相続者にするかと指定する、ということで、それは決してその者達の中から人を削減することが可能になったのではなく、相続者以外の残った者達は結局 “inquilini” [同居人]となったのである。私人の土地領域でどの程度まで実際に「農民保護」が行われたかについて、知り得る情報は無い。その他の点では地主は一般的にコローヌスの扶養までは必要とされておらず、というのは農場主自身が、既に論じたように、自費と自己責任で生活して耕作している農場の従属者であって、種蒔きと収穫の際に労働者として使用出来る者達の扶養の方に関心があったからである。――コローヌス達の独立性の程度とその一般的な状態は非常に様々であったのであり、もしかするとそのためにある土地への植民のやり方もまた非常に様々であったかもしれない。アフリカにおいては――しかしながらまた砂漠の諸部族からの襲撃を考慮して―― die vici der plebeji [平民の住む村々]が置かれており、というのはそこでは現金による納税義務者について言っているのであるが、全ての居住者、コローヌス、手工業者、商人が住む村々がそういった納税義務者の邸宅を取り囲むようにして防御する形になっており、それを”in modum munitionum” [要塞の境界線上に]と測量人達は先に引用した箇所において描写していた。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(65)P.337~340

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第65回目です。デクリオーネスが諸都市から距離を置いて自分の経営する農園に閉じこもるという傾向について更に論じられます。ヴェーバーは基本的にローマを都市が中心になって作られた国家として捉えており、このような貴族階級の地方への閉じ籠もりはローマを衰退させた要素として捉えており、中世になってイタリアの自治都市が勃興するまでを長い停滞期間と考えているようです。ヴェーバーの欧州での都市についての興味は「中世合名・合資会社成立史」から始まり、この論文で更に深まっているように見えます。
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資本形成は一般的には、次のような属州においてはかなりの程度まで妨げられていた。その属州とは辺境の諸邦のように植民を目的とした飛躍的な発展が見られたものとしては把握出来ないものである。資本形成が妨げられた理由としては、占有の土地においての自給自足と、大規模の産業分野での国有化、そういった理由の中でも取り分けまず生計を立てていくことを優先することが資本形成を妨げていた。またデクリオーネスに対してはより高い階級での軍役への参加は認められていなかったので、諸都市はそういった者達に対して実際の所より高い地位の市民になるための相対的にごくわずかなチャンスしか与えなかったか、あるいは場合によっては全く与えていなかったのである。このことは地主達において、特にデクリオーネスにおいての、諸都市から概して距離を保つという傾向を強めたのである。次のことについては既に上述の箇所で言及した。つまり帝政期の開始により貴族政治の可能性が失われたことによって、大地主が再び農場経営者に戻った、ということである。コルメラはその時代に既に次のことを推奨している。つまり大地主がその所有する土地で快適に過ごすための設備を整備することで、それがまた農園主の家族に対しても継続してその土地に滞在し続けられる環境を提供したのである 88)。

88) コルメラ、1, 4, 参照 1, 6。

パラディウスの場合は、主要な邸宅[praetorium]89) の存在――Palais[宮殿]――と更にそれと並んで fabrica90) ――工房――がきまって[農場経営の]前提条件とされていた。

89) パラディウス 1, 8.1, 33。彼によれば[主たる邸宅から]糞尿小屋は遠くに離して設置すべきものとされていた。

90) パラディウス 1, 8。

帝政期のより後の方になると、全く一般的な現象として次のことが登場する。それは占有者達が絵画、家具、大理石の壁板、そして他の装飾品一般を都市の住居から取り去ってそれらを地方の邸宅に移送して、都市の住居については一部では完全に退去する、ということである 91) 。

91) 既に 1, col. Genet, c.75, Eph. epigr. III の p.91 以下;C.I.L., X, 1401(44/ 46 年の元老院決議)。都市の住居の装飾品を地方に移すことについては、ユスティニアヌス法典 6 de aedif[iciis] priv[atus] 8, 10。高い身分の人の地方での滞在についてはユスティニアヌス法典の VI, 4 で述べられている。

特にまたデクリオーネスはこういったやり方で自分達の所有物をムニキピウム団体から分離することを進めていた。国家による法制定と地方の法規は、既に帝政期のより早い時期においてこれらの動きに干渉しており、都市においての建物やあるいは建物一般を行政当局の許可無しに取り壊すことを禁じており、同様に占有者達の都市の住居からの家具調度品の除去も禁止した。しかしながら都市の崩壊の進行は類を見ない程激しいものであった。このことは次のことと矛盾していない。つまり一方ではその人口と物質的な豊かさが増大していると把握されていた都市が存在していたということであり、それは例えばマイラント[ミラノ]であり、それは諸街道の結節点に位置しており、その諸街道は強力な植民政策による人口増大と建造物の密度の上昇が起きていた辺境の属州に向かって延びていたのであり、また一般的にそういった辺境の属州において都市としての持続的な発展が起きていた、ということともまた矛盾していない。ガリアにおいては、土地制度的な要素の優勢と結び付いた自然経済的な状態が衰え始めたのは、ようやくメロヴィング朝≪481~751年でフランク王国の最初の王朝≫においてであった。しかしながら中央において出ていた傾向を見た場合、諸封と古くからの属州においては、既に帝政後期においてまさに上述したような状態になっていた。有名な標語[都市の空気は自由にする]は次のように言い換えることが出来よう:「田舎の空気は自由にする」と。そしてこの状態が完全に解消されるまで状況が成熟するには実に500年が必要だったのである。≪中世イタリアの自治都市の興隆を踏まえて言っていると思われる。≫。この2つのケースにおいて自由というものは我々の個人主義的な意味で、次のことを指しているのではない。つまり占有者の保護の下でコローヌスになる形で逃げて来た都市住民とか、あるいは地方の農奴が都市の中に都市外在住市民として引き込まれた者としての自由ではない、ということである。そうではなくて、こういった何百年にも渡った[都市の]上昇と沈下の現象は次のことに帰属する。つまり個々の人間が何をもって「自由」と見なすのかと言うことと、そして何についてその者が自由でありたいと欲したのか、しかし取り分け関心を持たれていたのは、こういった発展が将来はどうなるのかということと、その時々の時代においてのイメージに合わせての、生きる価値のある生存という希望がどこにあるのか、ということである。ローマ帝国が没落した時代にはしかしながら発展の将来性は荘園制にかかっていた。

我々が文献史料から見て取ることは、地主に従属するコローヌスと「半地主従属的ー半自営農民的」状態にある者を、我々の[プロイセンの]農地法≪19世紀の初め頃からプロイセンでは農奴解放運動が起きていた。≫の用語で語ろうとする試みは成立せず、そういった者達においては地主との関係は純粋に契約に基づくもので、相互に独立して存在していたのであり、その関係は地主の農場の外側に存在していた。しかしここで第3章において述べた次のことが関係して来る。つまりデクリオーネスが納税義務を課せられていたことは、その結果として起きたことは諸都市の領土が何十にも分割された専制[者の土地]へと解体された、ということであり、こういった専制はより小規模の地主をその中に囲い込んだのであり、そしてそれぞれの専制政治を行う者によってその専制領域の税は、その者自身が経営する農場に対するものと、また中に囲い込まれた小規模地主に対してのもの、そしてコローヌスに対してのものを含む形に拡大されており、そのことによってその専制領域に属する納税義務者は事実上統合されたのである 92)。

92) テオドシウス法典 2 de exact[ionibus] 11, 7 (319年のコンスタンティヌス帝の立法による):いかなるデクリオーネスも次のこと以外で訴えられることはない、それはその者に課せられた人頭税についてと、その者の配下のコローヌスと人頭税を課せられた者達についてであり、「他のデクリオーネスやまたはその領地を理由として」[pro alio decurione vel territorio]訴えられることはない。デクリオーネス自身に全体責任が課され、[各デクリオーネスの中から更に]一人の長が選び出されてそのゲマインデの全体での税の総額に対してその者に責任が課されたのであり、それは既に D. 5 de cens[ibus] 50, 15 に規定されていた。今や各都市の領土は専制者の領土 [territoria] [の集合]に変わってしまって破壊され、それぞれのデクリオーネスが自分の領域について責任を負うようになっていた。このことは先に(第3章で)扱った土地台帳の断片の内容と矛盾していない。πάροικοι [傍に住む者→市民権は持っていないが住み着いている者]自身は単なるコローヌスであるということはあり得ず、この表現はマルクス・アウレリウス帝の時代のボイオーティア地方≪古代ギリシアの地方名で中心都市はテーバイ≫の碑文に同様に出てくる(C. J. Gr. 1625)。そこでは誰かが次の者達、つまり πολεἰταις [正規の市民に対して]、かつ παροίκοις [正規の市民ではない居住者に対して]、かつ ἐκτημένοις [正規の市民ではないが土地だけを取得した者に対して]贈与を行っている。ここでは πάροικοι はコローヌスとはほとんど見なし難く、それ以上に C. I. G. 2906 が確認しているようなデクリオーネス(πολεῖται)として直接納税の義務のある住民ではなく、ここで πάροικοι として語られているのは18~20歳の青年[Epheben]≪軍事訓練を受け成年になる準備をしている青年≫のことである。πάροικοι はよりむしろ受動的な資格の市民であり、つまり確からしいのは、tributarius [現物貢納の義務を負った者]と表現されている者達と同じであり、そしてこれらの者は(上述の箇所参照)コローヌスに並置されており、ムニキピウムの租税に関連付けられた者としてそう名付けられている。既に述べたことではあるが、私には次のように思える。つまりそういった者の中には、専制下に置かれるようになった小規模の地主が含まれており、その者達はそれ故に占有者ではなくなっているのであるが、そういった者達が規定されており、そのこととテオドシウス法典 2 si vag[um] pet[atur mancipium] 10, 12 の規定は矛盾していないであろう。地主への現物貢納の義務については、それは文献史料を一瞥すれば明らかなことであるが、コローヌスに関する全ての状況の中で非常に重きが置かれていたのであり、全てのケンススでの納税義務のある登録者[adscripticii]というものの実体がコローヌスに接近していった、ということは不思議なことではないのである。コローヌスという表現は一般に時においてはその土地に定住している訳ではないその土地の従属者に対してもまた用いられていた(テオドシウス法典 4 de extr[aordinariis] et sord[idis] mnu[eribus] 11, 14 とGothofredus≪Iakobus Gothofredus、 1587~1652年、ジュネーブ生まれの法学者・法制史家≫)。――コローヌスとして扱われた者についてではなく、ただある占有者の専制の中に囲い込まれた者の不完全に併合された納税義務は私には、その他の点では不明確で全く破綻しているユスティニアヌス法典 2 in q[uibus] c[ausis] col[onii dominos accusare possunt] の法令に関連しているように思われる。その法令は coloni censibus dumtaxat adscripti [ケンススだけによってコローヌスとして登録された者]について規定しており、またその者達が負わなければならない現物貢納についても扱っており、更にはその者達がコローヌスと同様にその主人に対して訴えを起こす権利が無く、ただ限定された、コローヌスにも許された場合にのみ特別な法的保護が与えられることを規定している。 ここについての法規の目的はそういった単なる adscripti をコローヌス一般と平等に扱うことであったように思われる。この章句に続く部分はおそらくは Tribonian ≪ビサンチン帝国の法学者達でユスティニアヌス法典の編纂に従事した。≫によって書き加えられたものであり、その時代にはこの2つの集団の差異はもはや無くなっており、そこについて Tribonian はこの部分は奴隷についての記述だと思っていたのであろう。

納税義務者[tributarii]とは占有者に従属するこういった身分の者達であった。占有者の身分直接的な納税義務を負う土地所有者としての特別な身分として他からはっきりと区別される際立った存在となった。占有者の各都市のクリエへの帰属はもはやそれらの都市の領土では無くなった占有された土地についての税負担 93) という風に見なされることが可能になっており、そのことは占有者の義務、例えば新兵募集の義務、をその者達の土地が直接負担するものでないように切り離すこと 94) を動機付けた。

93) テオドシウス法典 33 de decur[ionibus] 12, 1;同法典 1 de praed[iis] et manc[ipiis] cur[ialium] 12, 3。

94) テオドシウス法典 1 qui a praeb[itione] tir[onum…excusentur] 11, 18。

次のことは言うまでもないことである。つまりこうした展開は各地方において非常に異なった程度にそれぞれ到達しており、一部ではまだ始まったばかりであったし、それは当時ローマ帝国の領土の全てをムニキピウム領域において一つの組織で統一するという皇帝の理想の進展と同様であった、ということである。この発展傾向をより押し進めようと欲した場合、常にそれは次の留保条件付きとなったのであり、つまりそれはただ傾向に過ぎず、そしてその実施の程度は地方毎に異なっていたのであり、その傾向というのは完全に純粋な形ではもしかするとどこにおいても実現してないと見えるものとして、つまりは理想像として形作られており、それ故に、私は信じるが、それほど大胆ではなくとも次のように言うことが出来るであろう:皇帝の考えはもしかすると元々は次のようなものであったのかもしれない、つまりローマ帝国を自己管理し自治を行う諸ムニキピウムと、その諸ムニキピウムが負担する国家への分担金と結び付けたものにする、ということであるが、しかし帝政期にはそういう自己管理は次第に無効にされていったし、そして諸ムニキピウムは通常の場合はローマ帝国の行政管理の及ぶ領域とされたのである。