今回からタイトルを「宗教社会学」から「宗教ゲマインシャフテン」(ゲマインシャフテンはゲマインシャフトの複数形)に変えました。
結構大変な作業なのですが、毎日のようにとんでもない折原誤訳が見つかるので、それがいい息抜きになっています。(笑)
これで全体の6割程度。なお最初の1/4くらいはまだ全文チェック出来ておらず、今の作業が最後まで行ったら最初に戻ってそちらも訂正します。
投稿者: Moritz
折原浩訳の問題点(39)
本日の日替わり折原誤訳。(笑)
sich verdichtenは「濃くなる、凝集する」という意味で、ここは主語は「死者の霊の存在(という考え方)」であって、「死者の霊魂が密集して」と訳すのはもう笑っちゃうしかないです。この前の文もtreiben weiterという自動詞を「人を駆り立てる」と他動詞として訳してしまっています。正しくは「先へ進んで行く」です。
原文
Die Vorstellung von einem »Jenseits« ist im Keim mit der Entwicklung der Magie zum Seelenglauben gegeben. Zu einem besonderen Totenreich aber verdichtet sich die Existenz der Totenseelen keineswegs immer.
折原訳
ある種の「彼岸」の観念は、魔術が霊魂信仰へと発展するさいに、萌芽として孕まれる。とはいえ、死者の霊魂が密集して、特別の死者の国で存続する、というふうに考えられるわけではない。
丸山訳
「来世」というイメージは、魔術が霊魂信仰へ発展する場合に萌芽的に発生する。死者の霊魂の存在という考え方はしかしながら、常に特別の死者の国という形に凝集していく訳ではまるでない。
折原浩訳の問題点(38)
今日の誤訳は致命的というほどではないですが、日本語としてまったくこなれていないし、原文の意味もきちんと理解していません。
(1)KinderとSorgeが来たら「子供を世話する」以外にはあり得ません。「子に対する気遣い」って意味が変わってしまっています。
(2)gegeben は哲学・数学で言う「所与の」ということ、この場合は生物の本能としての、ぐらいの意味。
(3)hinweisen auf は単に「~を指し示す」ということで、駆動因なんて意味はありません。
(4)「彼方」だけでいいのに(創文社訳)、それに「彼岸」をまたもくっつける。
原文
Die Sorge für die Kinder war überall ein organisch gegebenes Streben, welches über die eigenen persönlichen Interessen auf ein »Jenseits« wenigstens des eigenen Todes hinwies.
折原訳
いずこにおいても、子にたいする気遣いは、生物有機体としての人間個体に与えられたひとつの力であり、個体としての自己の利害関心を越えて、ひとつの「彼岸」少なくとも自分の死の「彼方」に思いを馳せる方向への駆動因である。
丸山訳
子供を世話することは、どこにおいても生物としての本能的な志向であり、それは自分自身の個人的な関心を超えて、少なくとも自分自身の死の向こう側のものを指し示すのである。
折原浩訳の問題点(37)
と思ったら今日はさらに極めつきの誤訳がありました。unpersönliche und übergöttliche はOrdnungに両方かかる並記に過ぎないのに、折原訳では何故か「神々を越える有意味の人格的秩序と捉える 」などという完全な誤訳になりunpersönlicheのunが飛んでしまっており、更にそれに恥の上塗りのように余計な補足が付いています。ここもヴェーバー説ではなく単に折原説です、しかも間違った。
原文
Die ganze indische Religiosität ist von ihm in der durch die dort gegebenen Voraussetzungen bestimmten Art beeinflußt: auch eine sinnvolle unpersönliche und übergöttliche Ordnung der Welt stieß ja auf das Problem ihrer Unvollkommenheit.
折原訳
インドの宗教性全体も、当の地域の所与の前提によって規定された仕方においてではあれ、この神義論問題の影響を受けている。すなわち、世界を、神々を越える有意味の人格的秩序と捉える [「超感性的諸力」によって構成される「万神殿」の「合理化」が、唯一の超世界的人格神という観念とは異なる帰結に到達した]場合にも、やはり当の秩序の不完全性という問題に直面せざるをえなかったのである。
丸山訳
インドにおける信仰の全体は、そこでの所与の前提に規定された仕方で、そうした神義論の問題によって影響を受けている:ここでもまた意味深い、非人間的で神々をも超えた世界の秩序が、やはりその不完全さという問題に突き当たったのである。[1]
[1] ここのヴェーバーの議論はかなり恣意的であり、インドには唯一にして世界の創造神である神という概念は存在せず、神々すらも宇宙という舞台に登場する役者のようなものであり、神義論は元々存在していないし、成立の余地もない。
折原浩訳の問題点(36)
本日の折原誤訳日記。(笑)
何故この人は、Je mehr…desto mehr (~すればするほど、それだけ一層~となる)を普通に訳せないのでしょうか。政治家の答弁じゃあるまいし「遅かれ早かれ抱懐されてきて、応答が喫緊の課題となる。」って何ですか?そんな表現原文にはありません。大体誤訳だけじゃなくて「問題が抱懐されてきて」って日本語自体が変。(「問題」を抱懐する人はいない、また普通受け身では使われない。要するに「抱懐する」の語義を理解していない。)ついでに主語も「崇高な神」ではなく、その前の文章に出てきた「そういった神の卓越性のあり方と意味」(Art und Sinn dieser Erhabenheit)でしかあり得ません。
原文
Je mehr sie aber in der Richtung der Konzeption eines universellen überweltlichen Einheitsgottes verläuft, desto mehr entsteht das Problem: wie die ungeheure Machtsteigerung eines solchen Gottes mit der Tatsache der Unvollkommenheit der Welt vereinbart werden könne, die er geschaffen hat und regiert.
折原訳
ところで、そうした崇高な神が、世界を超越する普遍的な統一神という概念の方向に発展を遂げると、そういう神の威力の途轍もない昂揚と、その神によって創造され統治されているこの世界の不完全という事態を、いったいいかにすれば、和解させ、矛盾なく説明できるか、という問題が、遅かれ早かれ抱懐されてきて、応答が喫緊の課題となる。
丸山訳
そういった神の卓越性のあり方と意味が、普遍的な超現世的唯一神という概念の方向に推移すればするほど、それだけ一層次の問題が発生してくる:そういった神の途方もない力の増大と、その神自身が創造かつ治めている世界が不完全であるという事実がどのように統一的に解釈出来るか、ということである。
もう一つ。「一様に生々しく」のおかしさ。その前でそれぞれ独自の方向と言っているのに「一様に」は矛盾。またlebendig は「生々しく」というより、単に明確に、はっきりと、存在していたということ。(そのつ→その都度、は元からの誤記)
原文
Das so entstehende Problem der Theodizee ist in der altägyptischen Literatur wie bei Hiob und bei Aischylos, nur in jedesmal besonderer Wendung, lebendig.
折原訳
このようにして発生する神義論の問題 は、古代エジプトの文学にも、ヨブ記にも、アイスキュロスにも、もとよりそのつ独特のニュアンスを帯びてではあれ、一様に生々しく表明されている。
丸山訳
そのようにして生じて来た神義論の問題は、古代エジプトの文献にも、ヨブ記にも、アイスキュロス[1] にも、ただそれぞれにおいて独自の方向に向けてではあるが、はっきりと存在していた[2]。
[1] BC525~BC496年、古代アテナイの三大悲劇詩人の一人。代表作品は「アガメムノーン」「縛られたプロメテウス」など。アイスキュロスの作品においては人間の苦しみは神が人間の不遜さを知らしめ、神の知恵を実現する手段と描かれている。[2] そこまで神義論を広げるなら、中国の史記の「天道是か非か」というのも十分に神義論的と言えよう。
折原浩訳の問題点(35)
もはやほとんど日記化して来ました。今日の部分は大丈夫かと思ったら、やっぱり最後にやらかしてくれました。「専権事項としてなされるほかはない」なんてどこにも原文には書いてありません。折原センセが勝手に脳内で捏造しているとしか思えません。
原文
Aber allerdings ruht jede spezifisch ethische Prophetie, zu deren Legitimation stets ein Gott gehört, der mit Attributen einer großen Erhabenheit über die Welt ausgestattet ist, normalerweise auf einer Rationalisierung auch der Gottesidee in jener Richtung.
折原訳
とはいえ、固有の意味における倫理預言は、いずれも通例、神の理念がやはり世界を越える絶大な威光をそなえた一神という方向に合理化されることを基礎としている。倫理預言が正当化されるためには、どうしてもそうした属性の神が必要で、その専権事項としてなされるほかはないからである。
丸山訳
しかしながらもちろん全ての特殊な倫理的預言は、その預言の正当化には常にある神が必要とされて、そしてその神には現世に対しての偉大なる卓越性が属性として与えられるが、通常の場合はまた神のイメージのそういった方向に向かっての合理化が土台となっているのである。
折原浩訳の問題点(34)
ここは細かい点は指摘しませんが、折原訳を読んで意味が取れるかどうか試してみてください。混乱の極みですし、原文にないおかしな文章が多数追加されています。
原文
Das Interesse der privilegierten Schichten an der Erhaltung der bestehenden Religion als Domestikationsmittel, ihr Distanzbedürfnis und ihr Abscheu gegen die ihr Prestige zerstörende Massenaufklärungsarbeit, ihr begründeter Unglaube daran, daß den überkommenen Glaubensbekenntnissen, von deren Wortlaut beständig jeder etwas fortdeutet, die »Orthodoxie« 10%, die »Liberalen« 90%, ein wirklich wörtlich von breiten Schichten zu akzeptierendes neues Bekenntnis substituiert werden könne, vor allem die verachtende Indifferenz gegenüber religiösen Problemen und der Kirche, deren schließlich höchst wenig lästige Formalitäten zu erfüllen kein schweres Opfer kostet, da jedermann weiß, daß es eben Formalitäten sind, die am besten von den offiziellen Hütern der Orthodoxie und Standeskonvention und weil der Staat sie für die Karriere fordert, erfüllt werden, — all dies läßt die Chancen für die Entstehung einer ernsthaften Gemeindereligiosität, die von den Intellektuellen getragen würde, ganz ungünstig erscheinen.
折原訳
特権づけられた社会層の、既成の宗教を [大衆]馴致手段として維持することへの利害関心・彼らの威信を毀損するような大衆啓蒙活動に距離をとろうとする欲求・そうした活動への嫌悪感・誰もがその原文から常時 (「正統派」でも10パーセント、「自由派」ともなると90パーセントは) 割り引いて解釈する伝来の信仰告白に代わって、広汎な信徒層に文字どおり受け入れられる、新しい信仰告白が出現するはずはない、という根深い不信・とりわけ宗教問題や教会にかかわる形式的要件の充足は、多少は煩わしくとも畢竟対して犠牲を要することでもなく、誰もが知っているとおり、まさしく形式的要件なのだから、正統信仰や身分的慣習律の守護職に委ねておくのが最善であり、とりわけ国家が、彼ら守護職の立身出世-栄達のため、そう要求してもいるのだから、従っておくにしくはない、といった、宗教を軽蔑して見下す無関心――、こうした諸事由が全て、知識人によって担われる、真摯なゲマインデ宗教性が成立する見込みはまったくない、という印象の成立に、一役買っている。
丸山訳
プラスの特権を与えられた社会層の、既存の宗教を大衆を飼い慣らす手段として保持することへの利害関心、その者達の威信を破壊しかねない大衆への啓蒙活動に対して距離を取りたいという欲求と嫌悪、その者達の根拠のある次のことへの不信、つまり昔からの信仰信条について、誰もがその言い回しから常に多少なりとも新たな意味を読み取り、「正統派教会」の場合で10%程度、「自由主義神学[1]」の場合だと90%も、字義通り広範囲の社会層に受け入れられる新しい信条によって置き換えが可能である、という考え方への不信であるが、また取り分け宗教的問題と教会に対しての軽蔑を伴う無関心は、その問題と教会に対しては、結局は教会がほとんど負担にならない形式的な手続きで問題を処理することは何らコストがかかるものではなく、というのもそれが単なる形式上のことであることは誰でも知っており、それは正統派教会と聖職身分の慣習律の監督者によって、そして国家はその監督者については必要なキャリアを要求しているのであるから、処理させておけば間違いないといった無関心であるが、--全てのこうしたことはある真剣な教団的信仰で知識層によって担われるものを成立させる可能性を、まるで見込みがないもののように見せるのである。
[1] 19世紀のドイツに発生した聖書や教義を絶対視せず、歴史的・理性的に再解釈しようとうする立場。シュライエルマッハー、リッチュル、ハルナックなどが主唱。現在の学術的な聖書・キリスト教研究も元はここから始まっている。
折原浩訳の問題点(33)
毎日、必ずという確率で折原誤訳を発見します。これ本当に100回行きそうです。折原誤訳100物語ですね。(笑)
ついでに全集の注も批判しました。
(1) [神を信奉する人々のゲマインデ]ってほぼ全ての宗教にある話であり、ブラフモ・サマージの説明にまったくなっていません。
(2) インドにおける「ブラフモ・サマージとペルシア的啓蒙主義」なのに、インドの「ブラフマ・サマージ」とペルシアの啓蒙主義と訳しています。17~19世紀の話をしているのに、ペルシア!(「ペルシア的啓蒙主義」の方は私が訳注に記したように、ここで挙げるような話かについては疑問がありますが。)
(3) ヴェーバーは ist で断定しているのに、勝手に「であろう」と推測に変更。しかもなんで普通に訳さないで主語と述語をひっくり返すのか。私は可能な限り、元の語順を保った訳にすべきと考えて、出来るだけそうしています。だってネイティブは前から順に読んで理解するのですから。
Ein Produkt der Berührung mit europäischer Kultur ist andererseits die hinduistische (Brahma-Samaj) und persische Aufklärung in Indien.
折原訳
他方、インドにおけるヒンドゥー教 (ブラフマ・サマージ [神を信奉する人々のゲマインデ]) およびペルシアの啓蒙主義は、ヨーロッパ文化との接触の所産であろう。
丸山訳
そういったヨーロッパ文化との接触の産物であるのは、他方でインドにおけるヒンドゥー教の(ブラフモ・サマージ[1])とペルシア的な啓蒙主義[2] である。
[1] 19世紀のヒンドゥー教改革運動の一つで、名称は「ブラフマンの元に参集した人々」の意味。純粋なキリスト教とヒンドゥー教には一致点があり、そこに普遍性があるとして古代のヒンドゥー教の復興を目指した運動。
[2] 全集の注によればムガル帝国のアクバル帝の宗教融和政策のこととなっているが、それは西欧の影響は非常に少ないし(例外的にイエズス会と接触したりはしているが)、また時代的にも16世紀であり合わない。私見ではアクバル帝ではなく、その子のシャー・ジャハーンないしはダーラー・シコーの時代の話ではないか。シャー・ジャハーンの王妃はペルシア系であるし、ダーラー・シコーはウパニシャッドをペルシア語に訳させたりしているし、イエズス会士やヒンドゥー教の僧侶と議論したりもしている。この全集の注は先のGāthāへの注も含めて、インド関係になると急に信頼性が落ちているように思う。
折原浩訳の問題点(32)
今日も今日とて折原誤訳。
(1)agrarkommunistisch を「農業共産主義的」と、agrarと来たら「農業」しか頭にないみたい。大体共産主義的農業はあり得ますが、農業共産主義は意味不明で、共有するのは土地(と生産手段)です。
(2)原文はVerbindung zu bringen gesucht wurdeで「結合が試みられた」(しかし実際には成功しなかった)ですが、「さまざまな結合を達成した」と全く逆に訳しています。
(3)あれほどpersönlichを「即人的」と訳していたのに、ここでは「個人として」で、まったく主張していることに一貫性がありません。
原文
Dies hatte die in den 70er Jahren des vorigen Jahrhunderts mit der Entstehung des sog. Narodnitschestwo (Volkstümlerei) beginnende, naturrechtliche, vorwiegend agrarkommunistisch orientierte Bewegung im Gefolge, welche in den 90er Jahren mit der marxistischen Dogmatik teils in scharfen Kampf geriet, teils sich in verschiedener Art verschmolz und mehrfach zuerst mit slawophil-romantischer, dann mit mystischer Religiosität oder doch Religionsschwärmerei in eine meist wenig klare Verbindung zu bringen gesucht wurde, bei manchen und zwar relativ breiten Intelligentenschichten aber, unter dem Einfluß Dostojewskis und Tolstois, eine asketische oder akosmistische persönliche Lebensführung bewirkte.
折原訳
そこからは、前世紀の70年代に、いわゆるナロードニチェストゥヴォ (人民派) の発生とともに、自然法的それも圧倒的に農業共産主義的な方向性をそなえた運動が招来された。この運動は、90年代には、一方で、マルクス主義の教義学と片や鋭い闘争に陥り、片やさまざまな仕方で融合を遂げながら、他方では、当初にはスラヴ派のロマン主義的宗教性と、やがては神秘的な宗教性ないし宗教的狂信と、おおかたは明瞭でない、さまざまな結合を達成した。そのさい、相対的には広汎な知識層に、ドストイェフスキーとトルストイの影響のもとで、個人として禁欲的あるいは無宇宙論的に生きようとする生き方[生活方法論]が形成された。
丸山訳
これらの知識人層の動向の結果として、1870年代において、いわゆるナロードニチェストヴォ(人民主義)の成立と共に始まる、自然法的で、土地共有の共産主義の実現を目差す運動が発生し、それは1890年代にはある部分ではマルクス主義のドグマとの激しい戦いに陥り、別の部分では逆に様々な形でそれと融合し、更にそれよりもはるかに強く、最初はスラブ派的-ロマン主義的信仰と、次には神秘主義的信仰またはそれどころか宗教的狂躁との、大部分はほとんどはっきりしない一体化が模索されたが、多くの、しかも相対的に広範囲の知識人階層においてはしかし、ドストエフスキーとトルストイの影響下で、禁欲的または現世を認めない[無宇宙論的な]個人主義的な生活実践が生み出された。
折原浩訳の問題点(31)
この箇所は今までの誤訳に比較してもひどく、翻訳というより一種の自由作文になってしまっています。「学術的要素が後退する」と言っているだけなのを「知識人に委ねなくなる」などとおかしな解釈をしています。tut das Übrige=余計なことをする、予期しない結果となる、も勝手に変えられています。「なお生き残るとしても」も原文にはありません。「真の宗教的信仰」もおかしく、ある種の宗教的信仰と見なし得ると言っているだけです。ここも折原訳だけ読むとヴェーバー学ではなく、勝手に折原学に変えられてしまう典型例です。
原文
Je mehr die ökonomischen Interessenten selbst ihre Interessenvertretung in die Hand nehmen, desto mehr tritt gerade dies »akademische« Element zurück; die unvermeidliche Enttäuschung der fast superstitiösen Verklärung der »Wissenschaft« als möglicher Produzentin oder doch als Prophetin der sozialen gewaltsamen oder friedlichen Revolution im Sinn der Erlösung von der Klassenherrschaft tut das Übrige, und die einzige in Westeuropa als wirklich einem religiösen Glauben äquivalent anzusprechende Spielart des Sozialismus: der Syndikalismus, gerät infolgedessen leicht in die Lage, in jenem zu einem romantischen Sport von Nichtinteressenten zu werden.
折原訳
ところが、経済上の利害関係人自身が、自分たちの利害を代表するすべを心得て、知識人に委ねなくなれば、ほかならぬこの「知的」分子は、それだけ退場を余儀なくされる。「学問」を、階級支配からの解放という意味における暴力的ないし平和的な社会革命の可能な生産者ないし (さなくとも) 預言者に見立てて、ほとんど迷信的に称揚する傾向が、なお生き残るとしても、その挫折にともなう幻滅は避けがたく、知識人層の宗教まがいの信仰には止めが刺されよう。その結果、西ヨーロッパにおいて唯一、真の宗教的信仰とも等価とみなされる社会主義の一変種、サンディカリズムも、その点で容易に、利害関係をもたない第三者のロマン主義的遊戯となりさがるほかはない。
丸山訳
経済的な利害関係者自身がその利害関係を代表する立場を手中に収めれば収めるほど、それだけ一層まさしくこの種の「学術的」要素は後退することになる;ほとんど迷信的な「学問」が社会を正しい方向へ変えることへの避けがたい幻滅、つまり学問が階級支配からの救済という意味での、暴力的・平和的な社会革命を生み出すことが出来る者あるいはそれどころか預言者ですらあるという期待への幻滅が、予期せぬ結果をもたらすことになり、そして西欧において唯一社会主義において実際にある種の宗教的信仰同等物と認め得る種類のものは:サンディカリスムであるが、結果としてはそれも容易に利害関係者以外の者による一種のロマン主義的遊戯という事態に陥ったのである。