ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(65)P.337~340

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第65回目です。デクリオーネスが諸都市から距離を置いて自分の経営する農園に閉じこもるという傾向について更に論じられます。ヴェーバーは基本的にローマを都市が中心になって作られた国家として捉えており、このような貴族階級の地方への閉じ籠もりはローマを衰退させた要素として捉えており、中世になってイタリアの自治都市が勃興するまでを長い停滞期間と考えているようです。ヴェーバーの欧州での都市についての興味は「中世合名・合資会社成立史」から始まり、この論文で更に深まっているように見えます。
================
資本形成は一般的には、次のような属州においてはかなりの程度まで妨げられていた。その属州とは辺境の諸邦のように植民を目的とした飛躍的な発展が見られたものとしては把握出来ないものである。資本形成が妨げられた理由としては、占有の土地においての自給自足と、大規模の産業分野での国有化、そういった理由の中でも取り分けまず生計を立てていくことを優先することが資本形成を妨げていた。またデクリオーネスに対してはより高い階級での軍役への参加は認められていなかったので、諸都市はそういった者達に対して実際の所より高い地位の市民になるための相対的にごくわずかなチャンスしか与えなかったか、あるいは場合によっては全く与えていなかったのである。このことは地主達において、特にデクリオーネスにおいての、諸都市から概して距離を保つという傾向を強めたのである。次のことについては既に上述の箇所で言及した。つまり帝政期の開始により貴族政治の可能性が失われたことによって、大地主が再び農場経営者に戻った、ということである。コルメラはその時代に既に次のことを推奨している。つまり大地主がその所有する土地で快適に過ごすための設備を整備することで、それがまた農園主の家族に対しても継続してその土地に滞在し続けられる環境を提供したのである 88)。

88) コルメラ、1, 4, 参照 1, 6。

パラディウスの場合は、主要な邸宅[praetorium]89) の存在――Palais[宮殿]――と更にそれと並んで fabrica90) ――工房――がきまって[農場経営の]前提条件とされていた。

89) パラディウス 1, 8.1, 33。彼によれば[主たる邸宅から]糞尿小屋は遠くに離して設置すべきものとされていた。

90) パラディウス 1, 8。

帝政期のより後の方になると、全く一般的な現象として次のことが登場する。それは占有者達が絵画、家具、大理石の壁板、そして他の装飾品一般を都市の住居から取り去ってそれらを地方の邸宅に移送して、都市の住居については一部では完全に退去する、ということである 91) 。

91) 既に 1, col. Genet, c.75, Eph. epigr. III の p.91 以下;C.I.L., X, 1401(44/ 46 年の元老院決議)。都市の住居の装飾品を地方に移すことについては、ユスティニアヌス法典 6 de aedif[iciis] priv[atus] 8, 10。高い身分の人の地方での滞在についてはユスティニアヌス法典の VI, 4 で述べられている。

特にまたデクリオーネスはこういったやり方で自分達の所有物をムニキピウム団体から分離することを進めていた。国家による法制定と地方の法規は、既に帝政期のより早い時期においてこれらの動きに干渉しており、都市においての建物やあるいは建物一般を行政当局の許可無しに取り壊すことを禁じており、同様に占有者達の都市の住居からの家具調度品の除去も禁止した。しかしながら都市の崩壊の進行は類を見ない程激しいものであった。このことは次のことと矛盾していない。つまり一方ではその人口と物質的な豊かさが増大していると把握されていた都市が存在していたということであり、それは例えばマイラント[ミラノ]であり、それは諸街道の結節点に位置しており、その諸街道は強力な植民政策による人口増大と建造物の密度の上昇が起きていた辺境の属州に向かって延びていたのであり、また一般的にそういった辺境の属州において都市としての持続的な発展が起きていた、ということともまた矛盾していない。ガリアにおいては、土地制度的な要素の優勢と結び付いた自然経済的な状態が衰え始めたのは、ようやくメロヴィング朝≪481~751年でフランク王国の最初の王朝≫においてであった。しかしながら中央において出ていた傾向を見た場合、諸封と古くからの属州においては、既に帝政後期においてまさに上述したような状態になっていた。有名な標語[都市の空気は自由にする]は次のように言い換えることが出来よう:「田舎の空気は自由にする」と。そしてこの状態が完全に解消されるまで状況が成熟するには実に500年が必要だったのである。≪中世イタリアの自治都市の興隆を踏まえて言っていると思われる。≫。この2つのケースにおいて自由というものは我々の個人主義的な意味で、次のことを指しているのではない。つまり占有者の保護の下でコローヌスになる形で逃げて来た都市住民とか、あるいは地方の農奴が都市の中に都市外在住市民として引き込まれた者としての自由ではない、ということである。そうではなくて、こういった何百年にも渡った[都市の]上昇と沈下の現象は次のことに帰属する。つまり個々の人間が何をもって「自由」と見なすのかと言うことと、そして何についてその者が自由でありたいと欲したのか、しかし取り分け関心を持たれていたのは、こういった発展が将来はどうなるのかということと、その時々の時代においてのイメージに合わせての、生きる価値のある生存という希望がどこにあるのか、ということである。ローマ帝国が没落した時代にはしかしながら発展の将来性は荘園制にかかっていた。

我々が文献史料から見て取ることは、地主に従属するコローヌスと「半地主従属的ー半自営農民的」状態にある者を、我々の[プロイセンの]農地法≪19世紀の初め頃からプロイセンでは農奴解放運動が起きていた。≫の用語で語ろうとする試みは成立せず、そういった者達においては地主との関係は純粋に契約に基づくもので、相互に独立して存在していたのであり、その関係は地主の農場の外側に存在していた。しかしここで第3章において述べた次のことが関係して来る。つまりデクリオーネスが納税義務を課せられていたことは、その結果として起きたことは諸都市の領土が何十にも分割された専制[者の土地]へと解体された、ということであり、こういった専制はより小規模の地主をその中に囲い込んだのであり、そしてそれぞれの専制政治を行う者によってその専制領域の税は、その者自身が経営する農場に対するものと、また中に囲い込まれた小規模地主に対してのもの、そしてコローヌスに対してのものを含む形に拡大されており、そのことによってその専制領域に属する納税義務者は事実上統合されたのである 92)。

92) テオドシウス法典 2 de exact[ionibus] 11, 7 (319年のコンスタンティヌス帝の立法による):いかなるデクリオーネスも次のこと以外で訴えられることはない、それはその者に課せられた人頭税についてと、その者の配下のコローヌスと人頭税を課せられた者達についてであり、「他のデクリオーネスやまたはその領地を理由として」[pro alio decurione vel territorio]訴えられることはない。デクリオーネス自身に全体責任が課され、[各デクリオーネスの中から更に]一人の長が選び出されてそのゲマインデの全体での税の総額に対してその者に責任が課されたのであり、それは既に D. 5 de cens[ibus] 50, 15 に規定されていた。今や各都市の領土は専制者の領土 [territoria] [の集合]に変わってしまって破壊され、それぞれのデクリオーネスが自分の領域について責任を負うようになっていた。このことは先に(第3章で)扱った土地台帳の断片の内容と矛盾していない。πάροικοι [傍に住む者→市民権は持っていないが住み着いている者]自身は単なるコローヌスであるということはあり得ず、この表現はマルクス・アウレリウス帝の時代のボイオーティア地方≪古代ギリシアの地方名で中心都市はテーバイ≫の碑文に同様に出てくる(C. J. Gr. 1625)。そこでは誰かが次の者達、つまり πολεἰταις [正規の市民に対して]、かつ παροίκοις [正規の市民ではない居住者に対して]、かつ ἐκτημένοις [正規の市民ではないが土地だけを取得した者に対して]贈与を行っている。ここでは πάροικοι はコローヌスとはほとんど見なし難く、それ以上に C. I. G. 2906 が確認しているようなデクリオーネス(πολεῖται)として直接納税の義務のある住民ではなく、ここで πάροικοι として語られているのは18~20歳の青年[Epheben]≪軍事訓練を受け成年になる準備をしている青年≫のことである。πάροικοι はよりむしろ受動的な資格の市民であり、つまり確からしいのは、tributarius [現物貢納の義務を負った者]と表現されている者達と同じであり、そしてこれらの者は(上述の箇所参照)コローヌスに並置されており、ムニキピウムの租税に関連付けられた者としてそう名付けられている。既に述べたことではあるが、私には次のように思える。つまりそういった者の中には、専制下に置かれるようになった小規模の地主が含まれており、その者達はそれ故に占有者ではなくなっているのであるが、そういった者達が規定されており、そのこととテオドシウス法典 2 si vag[um] pet[atur mancipium] 10, 12 の規定は矛盾していないであろう。地主への現物貢納の義務については、それは文献史料を一瞥すれば明らかなことであるが、コローヌスに関する全ての状況の中で非常に重きが置かれていたのであり、全てのケンススでの納税義務のある登録者[adscripticii]というものの実体がコローヌスに接近していった、ということは不思議なことではないのである。コローヌスという表現は一般に時においてはその土地に定住している訳ではないその土地の従属者に対してもまた用いられていた(テオドシウス法典 4 de extr[aordinariis] et sord[idis] mnu[eribus] 11, 14 とGothofredus≪Iakobus Gothofredus、 1587~1652年、ジュネーブ生まれの法学者・法制史家≫)。――コローヌスとして扱われた者についてではなく、ただある占有者の専制の中に囲い込まれた者の不完全に併合された納税義務は私には、その他の点では不明確で全く破綻しているユスティニアヌス法典 2 in q[uibus] c[ausis] col[onii dominos accusare possunt] の法令に関連しているように思われる。その法令は coloni censibus dumtaxat adscripti [ケンススだけによってコローヌスとして登録された者]について規定しており、またその者達が負わなければならない現物貢納についても扱っており、更にはその者達がコローヌスと同様にその主人に対して訴えを起こす権利が無く、ただ限定された、コローヌスにも許された場合にのみ特別な法的保護が与えられることを規定している。 ここについての法規の目的はそういった単なる adscripti をコローヌス一般と平等に扱うことであったように思われる。この章句に続く部分はおそらくは Tribonian ≪ビサンチン帝国の法学者達でユスティニアヌス法典の編纂に従事した。≫によって書き加えられたものであり、その時代にはこの2つの集団の差異はもはや無くなっており、そこについて Tribonian はこの部分は奴隷についての記述だと思っていたのであろう。

納税義務者[tributarii]とは占有者に従属するこういった身分の者達であった。占有者の身分直接的な納税義務を負う土地所有者としての特別な身分として他からはっきりと区別される際立った存在となった。占有者の各都市のクリエへの帰属はもはやそれらの都市の領土では無くなった占有された土地についての税負担 93) という風に見なされることが可能になっており、そのことは占有者の義務、例えば新兵募集の義務、をその者達の土地が直接負担するものでないように切り離すこと 94) を動機付けた。

93) テオドシウス法典 33 de decur[ionibus] 12, 1;同法典 1 de praed[iis] et manc[ipiis] cur[ialium] 12, 3。

94) テオドシウス法典 1 qui a praeb[itione] tir[onum…excusentur] 11, 18。

次のことは言うまでもないことである。つまりこうした展開は各地方において非常に異なった程度にそれぞれ到達しており、一部ではまだ始まったばかりであったし、それは当時ローマ帝国の領土の全てをムニキピウム領域において一つの組織で統一するという皇帝の理想の進展と同様であった、ということである。この発展傾向をより押し進めようと欲した場合、常にそれは次の留保条件付きとなったのであり、つまりそれはただ傾向に過ぎず、そしてその実施の程度は地方毎に異なっていたのであり、その傾向というのは完全に純粋な形ではもしかするとどこにおいても実現してないと見えるものとして、つまりは理想像として形作られており、それ故に、私は信じるが、それほど大胆ではなくとも次のように言うことが出来るであろう:皇帝の考えはもしかすると元々は次のようなものであったのかもしれない、つまりローマ帝国を自己管理し自治を行う諸ムニキピウムと、その諸ムニキピウムが負担する国家への分担金と結び付けたものにする、ということであるが、しかし帝政期にはそういう自己管理は次第に無効にされていったし、そして諸ムニキピウムは通常の場合はローマ帝国の行政管理の及ぶ領域とされたのである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(64)P.333~336

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第64回目です。
ここではコローヌス制と奴隷使役の上に立つ農場経営が次第に自立・自営の動きを強めていって、ローマの国家の中のいわば小さな別の国家になっていく様子が辿られます。ヴェーバーは明らかに中世のグーツヘルシャフト制(荘園制)の起源をローマのこの農場経営に求めています。それはいいのですが、ここでホノリウス帝の時のスキリア族に土地を与えてローマ領内に住ませたことがコローヌスと同様の制度として論じられています。注に書きましたが、これは西ローマ帝国末期のきわめて暫定的な処置と捉えるべきであり、ヴェーバーは法律にだけ注目してそういう背景情報をまったく書いておらず、誤解を招きます。
=================================
このようなコローヌスの取り戻しの現実的な可能性は、大地主にとっては本質的な利害に関係するものであり、それはまた特に次の理由で、つまり大地主はコローヌスの税率について責任を負っていたからである。このような――土地税と人頭税――はコローヌス達が使用している土地のユガティオとしてケンススに登録され(adscribere) 77)、コローヌス達はそのことによって adscripticii[登録された者]と呼ばれた。大地主に対して諸ゲマインデに対するのと同様に次の義務が課された。つまりその大地主の責任となる新兵徴集ノルマという義務であるが、このことは土地それ自体が負担すべき現物的な義務として把握されており、そして大地主達は何とかこの義務を免除してもらおうとし、それは定期的な金銭支払いに代えてもらうことで部分的には成功したのである 78)。

78) Adscribere の手続きについては常に――テオドシウス法典 26 de annon[a] 11, 1;同法典 3 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11, 16;同法典 51 de decr[ionibus] 12, 1;同法典 7 de censu 13, 10;同法典 34 de op[eribus] pub[icis] 15, 1;同法典 2, 3 de aquaed[uctu] 15, 2;同法典 2, sine censu 11, 3 (servi adscripti censibus)――占有者や10人委員会の長による夫役や税の負担についてケンススに登録することが必要とされた。

78) テオドシウス法典 1 qui a praeb[itione] tiron[um] 11, 18、は帝政期の土地の例によれば、それについては同法典 2 de tiron[ibus] 7, 13 が制定された後は免除されるようになっていた。同法典 13 の同じ箇所の Adaeration [adaeratio]≪金銭の支払いによって免除された義務≫を参照。

属州におけるコローヌスについては、一般に人頭税が課せられた状態になっていたと思われるが、そのコローヌスはそのことによって censiti と呼ばれており、その結果としてコローヌス達はその者達の市民的な権利が弱められた階級に所属することになっており、それがこの状態の帰結であった 79)。

79) より下のクラスの者の人頭税免除については、その者達に拷問を加えることを可能にするという目的で、censiti の階級に入れられたということが、テオドシウス法典の 3 de numerar[iis] 8, 1 にて特別に規定されている。

大地主に属するコローヌスと自由なコローヌス

次のことは明らかである。それは以上のことをもってコローヌスとして知られた法的な状態についての全ての本質的な外形的特徴が与えられている、ということである。この状態がまさしく大地主の土地区画において発生していたということは、それによって説明されるのは次のことである。つまり帝政期の法律文献において、そういったコローヌスと並んで自由な期間限定賃借人の通常の賃貸借関係が見出される、ということである。

大地主に土地に従属するコローヌスの所有権について法学者がほとんど言及していないことの理由は、このコローヌスという状態について特別に適用されるように作られた規則の行政処理的な性格にある。ひょっとしたらコローヌスの法律上の状態は当時まだ実務的な処理においては様々に解釈し得るものだったのであり、それ故に該当する法学者達がその著作の編集においてはそれを扱わなかったのである。

類似の状態。軍事上の城砦。蛮族の定住。

コローヌスと同等の状態にあるものとして、一連の他の組織について見て行くこととする。その場合アフリカでの軍事上の城砦の住民は明らかにその土地に従属するコローヌスであったのであり、夫役の義務を課せられかつ皇帝によって任命された特別官の管理下に置かれた 80)。

80) アレクサンデル・セウェルス帝≪第24代ローマ皇帝、在位222~235年。≫は234年に “per colonus ujusdem castelli”[コローヌスを使って同じ城を]、――つまりマウリタニアの Dianense ≪現在のアルジェリアにあった属州マウレタニア・カエサリエンシスの都市≫の城――城壁を建設し、つまりそれはコローヌスを使役することによってであった。(C.I.L., VIII, 8701。参照 8702, 8710, 8777。)

また取り分け辺境の蛮族はコローナートゥス制≪コローヌスを使った小作制度≫の権利でそこに定住していた。ホノリウス帝≪西ローマ帝国皇帝、在位393~423年、暗君であって西ローマ帝国滅亡の原因を作り、在位中にローマが蛮族に占領された。≫はスキリア族≪東ゲルマンの部族で現在のウクライナに住んでいたが、フン族に追われて西ローマ帝国領に侵入した。≫を彼らがローマに屈服した後に、大地主の下にコローヌスとして置いて分割したが 81)、それは労働忌避者を大地主の下に送って使役させたのと同様である。

81) 409年のホノリウスの法とテオドシウス法典 V, 4, 1. 3:Scyras .. . imperio nostro subegimus. Ideoque damus omnibus copiam, ex praedicta gente hominum agros proprios frequentandi, ita ut omnes sciant, susceptos non alio jure quam colonatus apud se futuros.
[スキリア族を…我々の支配権の下に服属させた。それ故に全ての者に次の許可を与える。つまり、先に述べた民族について、その者達を自分の土地に住まわせることである。その際に全ての者が知っておくべきことは、こうして受け入れられた者は法的にはその受け入れられた者の下でコローヌスとなる、ということである。]
≪この例は、西ローマ帝国末期の暫定的な処置であったと思われ、実際にこの409年にはローマは蛮族の占領を受けている。またスキリア族も一旦ローマに恭順の意を示したが、すぐ後にフン族と共謀してローマに再度反旗を翻しており、決して安定的に持続した法的制度ではなかったことに注意。≫

既にこのことに遡って同様の処置が既に行われていた可能性がある。モムゼンはコローヌスの起源をマルクス・アウレリウス帝の時の蛮族の定住に求めているが、ガリアでのラエティア人≪元々ポー川流域に住んでいたエトルリア系と言われている部族で、ガリア人の侵入により山地に移動した。≫をコローヌスと見なすことは否定されるであろう。そういう議論にもかかわらず、私には蛮族とコローヌスには本質的な違いがあると思われる。というのはラエティア人とローマ帝国領内に定住した蛮族は全体で、我々が知る限りでは、より上位の農民に従属する土地付属の人間集団ではなく、[軍事力を提供する代わりに土地を与えられた]封土の所有者であったからである。次のことは完全に可能と思われる。つまり蛮族の定住が物権の発展の一般的傾向としての個人的及び公的な義務を本質的に強化した、ということであるが、しかし私が信ずるのは、コローヌスの権利状態というものは、そういう蛮族の定住のことを特に考慮しなくとも、法制史・経済史の観点で説明しうる、ということである。いずれにせよ定住させられた蛮族は、つまり gentiles は、文献史料の中でコローヌスとは区別され、gentiles については特別な個々人の身分を規定する法が存在した 82)。

82) 蛮族との結婚の禁止 テオドシウス法典 1 de nupt[iis] gent[ilium] 3, 14。

占有の法的位置付け

大地主のコローヌスに対しての権利の状態は完全に官憲的な性格を持っていた。一般論として大地主には警察力が与えられていたに違いなく、その力に基づいて saltus Burunitanus の請負人[conductor]はその配下のコローヌス達を棒で打ったりしていた。クラウディウス帝は元老院に対して、自身の土地においての一般的な市場開催権を認めさせており、その権利にはいずれの場合でも市場警察の権利が結びつけられており、そして大地主についてもまた次のような権利が与えられていた。それは市場で販売される家畜や奴隷について、商品そのもの、あるいはその商品の品質や員数不足に対しての購入者からの苦情に対して、按察官[アエディリアス]≪建築、道路、水道、市場などの管理を担当するローマの官吏≫のやり方に倣ってそれに対処する、という権利である。同様に市場においての司法権もまた私人である大地主に与えられた(C.I.L. VIII, 270)。大地主達は彼らに与えらえた警察権力を使ってその配下の者達に対して、それが適当と思われる場合においてはコローヌス達を奴隷のように収用部屋に監禁したのであり、このことは皇帝の立法によってこういったケースで監禁された私人に対して干渉し、そういった行為を越権行為[crimen laesae majestatis]≪元々の意味は国家に対する反逆などの重大な犯罪のこと≫として国家大権に基づく介入を行って調停しようとすることが試みられるまで続いた 83)。

83) テオドシウス法典 1 de privat[is] carc[eribus] 9, 5。

同様に明確に起きたことは、国家の行政当局と大地主の土地で官憲の関与を免除された領域の管理人との間の争いである。農場管理者の側は次のことを要求した。それは犯罪者の追及とその他の必要な措置をその領域の中ではただ要請を当局に対してするだけで出来るようにすることであり 84)、言い換えれば、農場管理者達はフランスにおいて治外法権[Immunität]と呼ばれているのが常であることを行使することを、当然の権利として要求したのである。

84) テオドシウス法典 11 de jurisd[ictione] 2, 1。大地主の代理人たちは一般的に全ての上位の裁判から免除されるように努力した。それとは反対のことがテオドシウス法典 1 の前掲部にある。

それについては皇帝の側から拒絶されたのである。他方では大地主達は部分的には次のことをやり通すことが出来た。つまりその配下の者達に対しての裁判を行うことであり、それも民事と刑事の両方についてであり、原則的にはグーツヘルシャフト制を先取りした形で公判を行っていた。大地主はコローヌスを法廷に出頭させ、その者達に[裁判によって]庇護を与えた 85)。

85) テオドシウス法典 de actor[ibus] 10, 4 の皇帝の配下の者についての規定。しかし私人である大地主達が同じことをやろうと努力しかつまたそれにある程度成功していた、ということは、その者達が精力的な弁護を行い、また部分的には法廷への出頭義務を免除してもらおうともしており、また部分的には小規模地主を保護しようとしており、そして自身で所有する土地領域に定住しようとしていること、あるいは自身の大地主としての地位を認識しようとしていたことを示している。テオドシウス法典 1, 2 de patroc[iniis] vic[orum] 11, 24 ;同法典 5, 6 前掲部;同法典 21 de lustr[ali] coll[atione] 13, 1;同法典 146 de decur[ionibus] 12, 1 (「有力者の庇護の下に」[sub umbram potentium]逃亡した10人委員会の長に対して)。ユスティニアヌス法典1, §1 ut nemo 11, 53 においては”clientela”[庇護民]という関係の表現が使われている。参照 D. 1, §1 de fugit[ivis] 11, 4。

所有する土地領域をムニキピウムの裁判管轄区域から除外してもらうという動きは、完全にそれ自身の意志だけによる発展であった。徴兵は更にまた税の徴収管理と同様大地主制にのみ関係することであった。地主はその者なりにその領域のケンススのリストへの登録を導入し、税を徴収し法の執行権を持っていた 86)。

86) D. 52 prd[e] a[ctionibus] e[mpti] v[enditi]、そこではある請負業者が saltus の土地区画を税を滞納したという理由で競売にかけている。地主が自身の官憲的機能の利用を奴隷やコローヌスに委託することがよく行われており、そのためにユスティニアヌス法典の 3 de tubular[iis] 10, 69 は、地主が奴隷やコローヌスが行ったことに対して地主自身が責任を負う、ということを規定している。その結果として起きたのは、諸都市から属州への大量の人口流入が、それらの諸都市は剣闘士の競技が行われなくなったこと、及びゲマインデにおいての同族間の争いへの関心が弱まった後は、その争いは今や政治的な意味でのみ支配している10人委員会の長の一族郎党の内部でのみ起きたのであるが、そして諸都市の市場が占有者達の農場においての農業に必要なものを自給する組織の形成によってその意味を失ったという状況により、大規模な占有者の保護の下に逃げ込むことが始まったことによって、その吸引力を失った、ということである 87)。

87) 注85の関連箇所を見よ。

占有者は次のことに利害関心を持っていた。つまりその配下の者達とその土地で使用出来る労働力について出来る限り徴兵されないようにする、ということであり、そして一般論としてその者達を暮らしていけるように保ち、その者達が負担出来る範囲の義務を課す、ということである。占有においては国家による課税のための組織化を免れており、その組織化の内容は都市の住民の大部分とまさにその者達が労働力を持っているという要素を、ある種の国家への従属者のように行政組織の中に組み入れたのであり、また産業における生産を一部国有化し、それに対して部分的にはある種の官憲的性格を刻印し、そしてそれらを国家による厳格な管理の下に置いた、ということである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(63)P.329~332

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第63回目です。
この辺りはヴェーバーが1年間の軍役に従事している時に書かれたもので、そのせいか文法的に破格な文章が多く、かなり意味を取るのに苦労しました。
なおかつ驚くのは、アウグストゥスが実施したケンススによって、マリアとヨセフがベツレヘムに帰郷しそこでイエスが産まれる、という話がルカ福音書に書いてあるのはクリスチャンなら常識ですが、ヴェーバーはそれをマタイ福音書と間違えています。(序文で訂正しています。)後年宗教社会学をやる人とはまるで思えないお粗末さです。
序文でそこを訂正しているのは、読んだ人にすぐ指摘されたのでしょう。
==============================
コローヌスの夫役はそこから、既に引用済みのアフリカの碑文にて、モムゼンが主張したように、ゲマインデ、例えば Genetiva≪Julia Genetiva Ursonesis、スペイン≫によって課された夫役に完全に相似するものとして取り扱われ 68)、まるで公的に課された労働であるかのように見なされ、その場合には請負人[conductor]にそれを扱う職権が与えられたのである。

68) Genetiva の法規、c.98。

コローヌスの土地に関しての所有権についての全ての法的な争いが行政的に解決された、ということは、第三章にて詳論した内容によって明らかである。請負人が賃借している土地の内の一区画を誰か他の者に与えることを許すのを望んだかどうかは、もちろんその請負人の意向によるものであった。アフリカにおける現金での税支払者の土地区画の状況も前の章で詳しく述べた通り同様であった。ここでの土地の所有は属州総督の職権と行政が関与するものとしてのみ可能となっていた。というのは結局のところは、イタリアにおける例外扱いの土地や、アフリカにおいて永代小作地とされた ager privatus vectigalisque においてのように、コローヌス達は事実上は地主から土地を借りているだけの存在であり、いずれの場合もムニキピウムの司法当局が関与することはなく、可能であったのはより上位の裁判所への訴えであり、それは何よりもただローマの中央裁判所への訴えであった。後の帝政期にはこの制度は色あせたものとなり、コローヌスに留保条件付きで許されたのは、正規の裁判官に対して地主を訴えるということで、特にそれはまた次のケース、つまり地主がコローヌスへのそれまでの賃貸料を引き上げようとした時 69) に起きていた。

69) ユスティニアヌス法典のXIの章の49。

つまりまたここで起きていたことは、元々の国家の賃貸人と元々の私的な賃貸人の区別が無くなって一まとめに扱われているということであり、国家の直轄地の大規模賃借人がその下の小規模な賃借人に対して行うことが許されていなかったこと――つまり賃貸料の値上げが――他の占有者達に対しても禁じられていた、ということである。他の条件においても同じにすることが行われていたが、この値上げ禁止ということはしかしコローヌスにとって有利なことだった。次のことは既に何度も主張して来た。つまり分割されていないまとまった土地の所有には、明らかに個々の土地領域 70) を測量によって境界線をはっきりさせるということは必要ではなかった、ということである。

70) 何度も考察して来たアフリカの saltus Brinitanus の碑文は、確からしいこととして、測量が行われており、その碑文は tabularium principis ≪銅板に刻まれた法規≫を引用してかつ測量地図を参照しており、このケースでは2種類の書類上にその法規に近い規定が含まれていた。

いずれの場合も使用料として税金を払う土地領域とそしてまた例外扱いされた土地においては、コローヌスがその土地の所有権を得るということが起きていた可能性がある。この点については、コローヌスが自分の所有する土地を任意に売却出来るかどうかということは、恐らくは後に、コローヌスの大地主への依存関係が深く根を下ろした状態になった時には、疑義が生じていた。そしてそれは結局は許されない、ということで決定され 71)、それ故に所有権のある所有というものは、土地所有の変更という点においては、元々の貸借地としての所有ということと同一視され、何故ならば明らかにコローヌスの労働奉仕はその者が所有する全ての土地所有に課せられている負荷として、10人組による奉仕やそれに類似のものとして取り扱われたからである 72) 。

71) テオドシウス法典 1 ne col[onus] insc[io] dom[ino] 5, 11 (ウァレンティヌスとウァレンス):”non dubium est quin non licet “[合法的でないことは疑いの余地がない。]。

72) テオドシウス法典 2 de pign[oribus] 2, 30 は奴隷、代理人、コローヌス、管理人、請負業者が地主の土地を担保にして借金することを禁じており、そしてテオドシウス法典 1 quod jussu 2, 31 は次のように規定している。それは今挙げた者達が借金をしたことについては、地主は義務を負わない、ということである。これらの法文は明らかに次のことによって生じた混乱について扱っている。それはコローヌスが所有権を保持する土地と賃借料を払わなければならない地主の土地が明確には区別されていなかった、ということである。

出生と行政管理上の出生地への送還

また別の方向への動きとして次のことが登場して来る。つまり、公的な負荷を負わされた者に対して、10人組ないしはそれに似た制度による取扱いの一つで、それはこれまで述べて来た地主とコローヌスとの間の関係形成と類似している。あるゲマインデに所属しているということとそこから生じる全ての帰結は、ローマ帝国に属する者の出生地と結び付けられていた。コローヌスにおいてはこのことは、その者がそこで生まれた土地領域が存在する地域、ということであった。他の全てのゲマインデについては、それが許されていた場合には、自由に≪名目上の出生地を≫設定することが出来た。しかしここにおいてまた見出されることは、公的な労働奉仕を義務付けられていた者の自由移住権は、帝政期には事実上まだ非常に強く制限されていた、ということである。ある確実な程度まで、このことは常に起きていたことである。元老院議員に対しては、まだ会期が先に残っているのに帰郷する場合には、周知のように先行して≪ローマに戻ってくる保証のための≫担保を取ることが行われていた。元老院の会議に直接的な強制で連行するのは、適当な手段ではなくかつ実行不能とおそらく考えられていたのであり、また法的には許されないこととされていた。帝政期になると一般にはこうした担保による間接的な強制に代わって、違反の際には行政的な現物執行が行われることとなった。新約聖書のルカによる福音書が書かれた頃においては≪ヴェーバーはここをマタイによる福音書と間違えていた。正直な所、とてもキリスト教徒とは思えない初歩的なミスである。クリスマスイブの教会では必ずルカ福音書の第2章が朗読される。参考:ルカ福音書の第2章冒頭「イエスの誕生 1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」新共同訳≫、一般的な意識として次のことが許可されていると考えられていた。つまりケンススのために属州民が自分の出生地に赴くことが必要とされる、ということであり、それについてはアウグストゥスによるケンススの記録が示している。ウルピアーヌスの時代になると、次のことはもう疑義を持たれなかった。つまり10人組は自分の出生地が属しているゲマインデに強制的な形で帰されることが行われ得たということである。もし諸ゲマインデが相互にまたはある土地領域について、次の点で訴えを起こした場合には、つまりある土地区画及びそこに見出される人員が、そのゲマインデの領地に属しているのかということと、それ故にその人員はそのゲマインデに対して納税と兵士への応召義務があるのか、という点であるが、その場合は controversia de territorio に基づいて行政上の手続きとして裁かれたのである。既にウルピアーヌスの時代にはそういった争いの際には、”vindicatio incolarum” [住民の返還請求]という言葉が使われていた。次のことは自明である。つまり土地に依存しているコローヌス達の場合は10人組の一員以外の何者でもないとして取り扱われ、それはその者達が公的なまた準公的な義務、例えば夫役、を行うべきとされている限りにおいてそうであった。コローヌス達は行政的な方法でその出生地に送還された 73)。

73) Revocare ad originem bei Curialen [元のクリアに呼び戻すこと]D.1 de decurionibus 50, 2 (ウルピアーヌス)。テオドシウス法典 16 de agent[ibus] in re[ebus] 6, 27。そこから派生して curiales originales [元々のクリア]テオドシウス法典 96 de decur[ionibus] 12, 1。鉱夫のその出生地への変換 テオドシウス法典 15 de metallar[iis] 10, 19。こういった手続きの行政的な性格を記述している箇所は 1.1 de decur[ionibus] の本文にある。コローヌスにおいてのこの手続きが、本来行政上の処理であったことを記述しているのは、そのことを扱っている箇所の本文全体であり、同様に、行政法において元々の出生地を再確認するということを扱っているのは:テオドシウス法典 1 de fugit[ivis] col[onis] 5, 9。ここにおいてもまた個人の身分に基づく権利と私権として通用する規範を作り出すための行政上の手続きが形成されているのであり、更にはあるゲマインデへの帰属に対して婚姻が果たす作用についても同じであり、というのもケンススへの登録にあたっては、ゲマインデへの帰属と土地への帰属が規制されねばならなかったからである。次のことは非常に自然なことである。つまりその際に奴隷が持つ権利からの類推によって関係付けられた、ということである。仮に我々の国家権力が弱体化して個人の自由移住権が制限されていたとしたら、その場合は我々も自分の属する土地領域において全く同じことを経験するであろうし、特に次のこともまた経験するであろう。つまり農民としての大地主に対しての私法的な義務と、公法上の大地主への義務の2つが、行政当局には継続して識別することは出来なかったであろう、ということであるが――夫役義務のある農民については、例えばローマ国家の土地領域においては、ここではそういうことを扱っているのでは全くない、という可能性がある。結婚についての規制の行政上の由来は、またテオドシウス法典の 1 de inui[inis] et co[lonis] 5, 10 に示されており、特に次の規定で:つまりある者で、女性のコローヌスの返還を義務付けられた者は、代理の者を立てることでその義務を免れることが出来、そして年齢制限にかかる場合も同じであった、ということである。その他の点についての参照 Nov. Valent ≪ウァレンティヌス3世、在位425~455年、がテオドシウス法典の後に出した新勅法 [novella constitutio]≫ I, II、第9章、更にユスティニアヌス法典の 11, 50 の de col[onis] Palaest[inis] の唯一の条文――そこでは”lex a majoribus”≪祖先によって制定された古き良き法≫がアフリカの大土地区画[saltus]についてのハドリアヌス法典と並置されており、同様に章 11,51、そしてユスティニアヌス法典の 11, 47 の章の全文もそうである。何度も登場する “inquilini”[同宿人、下宿人]は「借家住まいの農民」、つまりコローヌスとしては扱われず、その土地区画に従属する居住者のことであり、本質的にはコローヌスの成れの果てである。ユスティニアヌス法典 13 de agric[olonis] 11, 47 はそれ故に次のように注記している、問題が出生地への帰還に関係するのであれば、コローヌスとインクイリニの2つのカテゴリーは等しいものとして扱う、と。

ディオクレティアヌス帝の時代になって市民の裁判と行政上の処理が混ざり合って一つになった時には、そこから “vindicatio”[返還請求]が起き、その際にゲマインデのクリエがそのゲマインデの参事会に対して所有権の訴えを、まるで可愛がっている家畜を一緒に追い立てるかのように行い、その結果コローヌスはそれだけいっそうほとんど家畜と同様の法的な扱いを受けるようになったのである。最終的には Interdictum Utrubi [どちらがその動産をより長く所持していたかによって所有権を確定させる命令]が奴隷に対してと同じようにコローヌスに対しても下され、それによってまた再びコローヌスの性格が定住の農業に従事する農場労働者であるということが明確に現れるようになっていた 74)。

74) テオドシウス法典 1 utrubi 4, 23。善意の占有者はまずはそのコローヌスを取り戻し、それからその訴えは “causa originis et proprietatis” [出生地と所有権に基づく訴え]として取り扱われた。

そのコローヌスがその大地主に「属する」とういうことは無条件に宣言され 75)、そして事実上そのことは実際の状況に合致していた。何故ならばそのコローヌスがその農場に従事しているということは、いまや十分に明白になっていたからである 76)。

75) テオドシウス法典 2 si vag[um] pet[atur mancipium] 10,12 の “cujus se esse profitetur”[それがその者に属すると宣言された]。

76) それ故に次のケースではその当時の見解に従えば農業従事者のカテゴリーを移動させることであった。その場合とは、テオドシウス法典 1 の de fugit[ivus] col[onis] 5, 9 によれば、逃亡したコローヌスは奴隷に落とされねばならず、その箇所での表現によれば、その目的は行政当局が次のことを認めることで、それはまた自由な農場への従属者であったに違いない者を、奴隷として新たに整理し直す、という場合である。Nov. Major. ≪マヨリアーヌス帝新法典、同帝は西ローマ皇帝、457~461年在位≫4, 1 のクリア民がクリアの奴隷として表現されているように、そしてテオドシウス法典 39 の de decur[ionibus] 12, 1 にてその者達に拷問を加えてはいけないことが特別に規定されているように、この場合のコローヌスは「領地に属する奴隷」となっていた。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(62)P.325~328

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第62回目です。ここには Domänen という単語が複数回登場します。これまでのヴェーバーの日本語訳ではこの語が「御料地」と訳されていることが非常に多いです。しかし「御料地」というのは明治時代に(旧)皇室典範が出来、それが1947年に廃止されるまでの皇室の領地ということで、現在は存在していません。(全て国有地)また私の世代で既にピンと来る人は少数でしょう。なおかつ日本だけの特殊なタームであり、世界史の事例にそのまま適用するのには適していません。なのでこの翻訳では「直轄地」と訳します。国の直轄地と皇帝の直轄地の2種類があります。
=======================
――以下のことは明らかである。つまりコローヌスの土地との関係が、こういった状況下でその関係が純粋な貸借人という性格で前面に出てくる場合には、自然なこととしてその権利を金銭的報酬を得ることから収穫物の一部を得ることに移行したと把握されるが、それがいまや逆に、法的な取扱いが原則的に変更されることなく、しかしながらコローヌスの労働力を農場主のために使用することが大地主であるその農場主の主たる利害関心となっていた場所では、コローヌスと土地の関係はある土地区画を適価で貸してもらうことの条件として、自己の借りた土地と農場主の土地の両方を耕作する義務を引き受けるものと直ちに把握されるのであり、そのことは本質的な意味では既にコルメラの書からの引用箇所≪注56≫において起きていた、ということである。事実上コローヌス達は、相続対象になる土地に定住し、小農民と日雇い農業労働者のほぼ中間に位置する、大地主に従属する農民となっていた 61)。

61) 事実上相続可であることは自明のことであるが故に、D. 7. §11 comm[uni] difid[undo] においては、貸借権について分割の訴えを起こすことが出来ないことが特別に詳細に述べられている。何度も引用した 1, 112 de legat[is] は総督補佐官が貸借契約に相当する土地を実際には持っていない貸借人については、この後すぐの所で述べる農場地区に関連付けている。イタリアにおいて先行して存在している長期年度契約のコローヌスについては、モムゼンが saltus Burunitanus について考察している論文の中で言及している。

しかし最も重要なことは、巨大な地所の複合体の一部においてのこういった状態は、また大地主の土地の賃借人に対する、法的に保証された権力による支配関係としても見なすことが出来る、ということである。このことを論証するためには、次のことを考慮する必要がある。つまりどのように大規模農業事業の異なったカテゴリーがそこに生まれて来ているのか、ということと、それが法的には所有としてどのカテゴリーに属していたか、ということである。

大土地所有制の法的位置付け

こうした大規模農業の最古の形態は、以前論じた公有地[ager publicus]の占有である。この形態が奴隷を使った大規模農園の経営を指していることは全く疑いようがない。それと同様におそらくそうであったと思われるのは、既に注記したように、賃貸地を割り当てることによって生み出された、いつでも取り消し可能な契約に基づいた定住の小作人という身分の者が存在していた、ということである。占有は疑いなく、貴族政にとって実質的にもっとも重要な土地所有形態であった。占有者という者は、いくつかの私有地をまとめたもの以外に、自分自身をケンスス上での第一の階級に置くために、多くの土地を≪実質的に≫所有した者であり、その者はグラックス兄弟の改革より前の「古き良き時代」においてはトリブス民会≪選挙区であるトリブスでの貴族と平民の両方の意向をまとめるための集会≫に対しての活動において、次のような者と同様に見られていた。それは例えば≪ヴェーバー当時の≫今日の騎士領の領主であり、その者は村落においていくばくかのフーフェの土地を所有し、あるいはフーフェの他の農民と混じり合って存在している者である。≪騎士領は特に神聖ローマ帝国で領邦の君主が騎士資格のある農民貴族に公認している領地で、ヴェーバーの時代にもまだ存続していた。≫占有が市民法上では除外されているということと 61a)、そしてそれによって生じる無数の立法上の面倒さと課税の手間は、privilegium odiosum≪憎むべき特権、本来は認められるべきではないのに何らかの理由で認められている特権で、法的には最小限に解釈すべきもの、とされた。≫として捉えるべきでないのは、言うまでもないことである。≪ヴェーバーは占有をローマでは決して本来違法なものと位置付けられていなかった、と言っている。≫

61a) 市民法が占有について規定しているのはただ、占有の形で保護された、事実上成立している権力関係についての注意があるだけであり、このことがフーフェにおいての”locus” [場所]に対しての権利とはっきりと対立しているということは、私の考える所では、「物」に対する権利と「所有」の間の対立が先鋭化しているということである。”Pro herede”[相続人として]占有するということと、”Pro possessore”[占有人としてのみ]占有する≪相続人は相続の際にどちらかを選択出来た≫ことの分裂状態は、相続に関する訴訟において判例に依存する性格と結び付けられた、そういった所有状況の両方の性格が等しいという二重性に起因している。以上のことは、ここではただその可能性を示唆することが出来るだけである。

それ故に、まさに革命的なこととして受け止められたグラックス兄弟の改革が打ち出された時に初めて、フーフェの農民達が状況によっては、その者達が動産である資本を自分達の方に持ってくることが負担であると感じたであろうということは≪占有していた土地を売却して現金を得ることが大変であると感じていたであろうということは≫、そのことは改革を革命的な変革と見なすことはなく、ただその占有していた土地を私有地に転換する、ということにつながった。

Fundi excepti [例外として扱われた土地]

前章で見て来たように、こういった占有地について一部はイタリア半島においてムニキピウムへと組織化され、特に土地割当ての際に fundi excepti [例外として扱われた土地]としてゲマインデ団体の外側に留まったということは、――それは測量人達の表現によれば:in agro publico populi Romani [ローマ人民の公有の土地の中にある]となるが、そのことがここで意味するのは、占有地というものはただ中央官庁の行政上かつ裁判権上でのみの要請に応じるものとして理解されるものである、ということである 62)。

62) フラックスは p. 157, 7 でこのように述べている: Inscribuntur quaedam “excepta”, quae aut sibi reservavit auctor divisionis et assignationis, aut alii concessit.
[ある種の「除外地」として記録されている土地があり、土地の分割や割当ての実施者が自分のために取っておいたか、あるいは誰かに譲渡したものである。]
ヒュギヌスは p. 197, 10でこう書いている: excepti sunt fundi bene meritorum, ut in totum privati juris essent, nec ullam coloniae munificentiam deberent, et essent in solo populi Romani, —
[除外された土地とはそれを受けるに値する者に与えられた土地であり、これらは完全に私有地とされ、一つの植民市に対して何らの義務も負わず、ただローマ人民の公有地の中にあるもので、――]
ここで言っているのはつまり、そうした土地がムニキピウムの裁判管轄権外にあった、ということである。≪原文は植民市に対して義務を負わない、なのにヴェーバーはムニキピウムに言い換えている。そもそも植民市とムニキピウムの違いこそが、ヴェーバーの博士論文審査の時以来のモムゼンとヴェーバーの論争の争点であったことに注意。≫碑文としては2つの少なくともある一定の観点で除外された土地が、アウグストゥス帝の Venafrum ≪現在のイタリアのモリーゼ州にあたる土地にあった古代都市≫の水道橋についての命令の中に先行して見出される(C. I. L., X, 4842)。フロンティヌスの p. 36, 16:Prima … condicio possidendi haec est ac per Italiam, ubi nullus ager est tributarius, sed aut colonicus etc. … aut alicujus … saltus privati.
[(占有地というものを)可能にする第一の条件は、イタリア全土でそれは課税地ではなく、しかし植民市等々の土地であるか…あるいは誰かの土地である…私有の大区画の土地≪saltus は25ケントゥリアの正方形の土地区画≫である。]
Controversia de territorio [領土を巡る争い]については前章を見よ。またテオドシウス法 18 de lustr. coll. 13, 1 はアフリカについて territoria [主として属州の領地]と civitates [ローマ市民の土地である占有地]を区別している。

こういった形の土地で重要なカテゴリーとなっていたのは、何よりもまず皇帝の直轄地そのものであり、それはこのような形の占有地として確かにその当時から――後の時代になるとそれは文献で立証されるが――可能な限りゲマインデ団体からは除外されていたのである 63)。

63) この手の皇帝領の土地は controversia de territorio [領土を巡る争い]を引き起こしている。この点については先に引用したラハマンの p. 53 を参照せよ。クラウディウス帝は(スエトニウス、「ローマ皇帝伝」、クラウディウス帝 12)自身の皇帝領において市場を開設する権利を元老院に対して請願している。

同様のいくつかのカテゴリーをより広範囲において属州において見出すことが出来、皇帝の直轄地自身が、一部は永代貸借契約に基づいたものであり、また一部は fundi dominici (国庫に属する)≪皇帝の直轄領の中で、皇帝に任命された管理官が経営する農地≫であり、さらにまた一部は fundi patrimoniales (皇帝が私的に領有していた土地)であり、しかし全てのこれらのカテゴリーは皇帝の配下の役人によって管理されるものであり、ムニキピウムに属するものではないとして理解される。そこにはそれと並んで、我々が先に見て来たように、まとめて賃借料を払うことで長期間貸し出された国有地や、また皇帝の直轄地で5年間貸し出されたものがあった。どちらのタイプの土地も通常はいかなるゲマインデ団体にも組み入れられることは全くなく、というのはそれらの土地は公有地だったのであり、公有地についてはその他のやり方で譲渡されなかった場合に限って、ゲマインデに対して与えられたからである。

現金による納税義務者。国有地の貸借人。

更に以前見て来たもので、確からしくはアフリカにおいての現金による納税義務者が、同じような位置付けのゲマインデには所属させられなかった土地を受領しているということと、また ager privatus vectigalisque の土地の大規模な永代貸借人については、これまで述べて来た状況に対して不適合である事例として取り扱われるべきではない。これら全ての土地所有のカテゴリーは、以前そう主張して来たように、それぞれがただ一人の占有者に結び付けられている、という傾向を持っていた。国有地の皇帝直轄地の土地の貸借人は、しばしば次のことを貫徹した。それはそういった土地の賃貸料を固定額にすることと 64)、そして同様に統治者からその者達の土地所有を継続的に認可する約束を取り付けることであり、それはフランク王国の王がその封臣に対して認めたのと同じである;時には次のことが再度試みられた。つまり5年毎に土地の再割当てを競売方式で行うという原則を確立することであり 65)、それは間を空けないですぐに再割当てを実施させることが目的であった。

64) テオドシウス法 3 de locat[ione] fund[orum] jur[is] emph[yteutici] (380年の)。参照:テオドシウス法 1, 2 de pascuis, 7, 7。同法 5 de censitor[ibus] 13, 11。

65) テオドシウス法 1 de vectig[alibus] 4, 12。

現金による納税義務者とその他の除外扱いの私有地は、その次の段階ではユガティオの税制に従わされることとなった;その者達は税額を、自分達の占有する土地領域全体の分を、その領域に住んでいてその者達に従属している人員の分のカピタティオと一緒に支払うこととなった 66)。

66) テオドシウス法 14 de annon[a] et trib[utis] 11, 1。この法規に従った場合、コローヌス達は、もしその者達が占有地以外に更に小区画の土地を所有していた場合は、その土地の分として通常の徴税人に対して税を支払うように仕向けられた。しかしこのことはテオドシウス法の 1 ne col[onus] insc[io] dom[ino] 5, 11 からの類推によれば、実際にそうであったとは信じ難い。

占有されていた領域の居住者の法的な状態

次のことを頭に思い浮かべてみた場合、つまりそういった土地領域の居住者、とりわけコローヌスの法的状態がどういったものであったかということであるが、その場合まず明らかなのは、全ての国家の土地による賃貸地においては、そういった居住者と元請けの契約者との間での正規の訴訟手続きを取ることは、その争点がコローヌスの労働提供義務にあった限りにおいては不可能であった、ということである。皇帝直轄地の賃貸人の場合にも同様に、納税義務のある農民[publicanus]のようなコローヌスと≪直接≫契約を取り交わすことはほとんどなかった。測量人達が言及している握取契約を二次賃借人が≪直接≫取り交わした限りにおいては、賃貸契約が満期になった後は、その場合に存在していた小規模の賃借人は国家に所属するコローヌスとなったのである。大規模な賃借人は国家または国庫によって、元々は lex censoria に従って、後の時代にはアフリカの広大な土地において碑文として残されているハドリアヌス法の例のような類似の法規に従い、更にはその法文が銅板や石板の上に刻まれてその地方固有の法規として、その地位を定められるということが常に起こり、そしてコローヌスの義務もそこで定められており、賃借料支払い義務も負わされていた;大規模な賃借人は、コローヌス達に負荷を負わせ、その者達が得るものよりも多くのものを要求した。その結果として、更に後の時代にはもっともコローヌスにとって有利なケースで、国民の土地の受領人との間の行政手続きとしての解決が図られた事例が発生し 69)、帝政期においては常に直轄地の管理当局への行政上の租税関連案件としての訴えのみ、皇帝による最終審で審議される、ということが起きていた。

69) 例えば 1/10税の課税者と納税義務のある農民との間で。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(61)P.321~324

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第61回目です。この日本語訳では colonus はそのままラテン語をカタカナ表記にしたコロヌスを採用しています。その理由は一般に小作農や農奴と訳されることが多いようですが、元々のcolonusはcolere(住む、耕す、育てる・栽培する)から派生した語で 「耕す人」であり、自営農民も小作農民も両方を指す言葉でした。それがこの部分で議論されているように、次第に地主の大農場の耕作にも動員されるようになり、4世紀頃になると移動の自由もなく大農園に縛り付けられた存在となり、それが中世での農奴につながっていきます。そういう意味の変遷を伴う言葉であるため、敢えてコロヌスと訳しています。
==========================
しかしながら、当時重点が置かれていたのは支払われた賃借料であった。それに対してより目的に合った形の大土地経営の組織は、それは大地主達が自分達にとって、農場経営者としての性格がより重要になった時に構築したものであるが、もはやその第一の目的としては外部から定期的な現金収入を得ることが出来るという意向には重きが置かれていなかった。コルメラはそのため次のように注意している。つまり農場経営者は、コロヌスの主な利用価値は賃借料ではなく、労働の成果[opus]に置くべきであると 56)。

56) コルメラが注意している本質的な部分(農業書 I, 7の)は以下の通りである: Atque hi (scil. homines) vel coloni, vel servi sunt, soluti, aut vincti. Comiter agat (scil. dominus) cum colonis, facilemque se praebeat, et avarius opus exigat, quam pensiones: quoniam et minus id offendit, et tamen in universum magis prodest. Nam ubi sedulo colitur ager, plerumque compendium, nunquam (nisi si coeli major vis, aut praedonis incessit) detrimentum affert, eoque remissionem colonus petere non audet. Sed nec dominus in unaquaque re, cui colonum obligaverit, tenax esse juris sui debet, sicut in diebus pecuniarum, ut lignis et ceteris parvis accessionibus exigendis, quarum cura majorem molestiam, quam impensam rusticis affert … L. Volusium asseverantem audivi, patrisfamilias felicissimum fundum esse, qui colonos indigenas haberet, et tanquam in paterna possessione natos, jam inde a cunabulis longa familiaritate retineret … propter quod operam dandam esse, ut et rusticos, et eosdem assiduos colonos retineamus, cum aut nobismetipsis non licuerit, aut per domesticos colere non expedierit: quod tamen non evenit, nisi in his regionibus, quae gravitate coeli, solique sterilitate vastantur. Ceterum cum mediocris adest et salubritas, et terrae bonitas, nunquam non ex agro plus sua cuique cura reddidit, quam coloni: nunquam non etiam villici, nisi si maxima vel negligentia servi, vel rapacitas intervenit … In longinquis tamen fundis, in quos non est facilis excursus patrisfamilias, cum omne genus agri tolerabilius sit sub liberis colonis, quam sub villicis servis habere, tum praecipue frumentarium, quem minime (sicut vineas aut arbustum) colonus evertere potest, et maxime vexant servi.
[そしてこの者達というのはコロヌス達であるか奴隷であり、拘束されていないか、あるいは鎖でつながれている者達である。農場主はコロヌスに対して親切にし、寛大な態度を取るべきであり、そして地代の支払いよりも労働の提供をむしろ貪欲に求めるべきである:何故ならば労働の提供の依頼の方がコロヌス達にとってはより不快を感じにくく、更に全体ではより好意的に受け止められるからである。というのは、土地がきちんと耕作されており、利益が出ている場合は、ほとんどの場合で(悪天候に大きく影響を受ける場合や盗賊が襲撃して来た場合を除いて)損害は発生しないために、コロヌスス達が地代の減免を敢えて要求することはまずないからである。しかしながら農場主達は、その者達がコロヌス達に権利を持っている全てのことがらについて、それを執拗に求めるべきではなく、例えば地代の支払日についての注意だとか、または焚き木やその他の些細な付属物について、それらをしつこく催促すべきではなく、そういったことが地方に住むコロヌス達には単純な出費よりも重荷となるのである…私はかつて L. ヴォルシウス≪Lucius Volusius Sturninus, BC38または37~AD56年、ローマの元老議員≫は]が次のように熱心に語っているのを聴いたことがある。彼が言っていたのは、農場主にとって、自分の土地で、そこのコロヌス達が生まれついてそこでコロヌスとして暮らしているのがもっとも利益を生む種類の土地であり、そこではコロヌス達がまるで自分の父親の資産である土地で生まれたかのように感じており、また赤児の時にまだゆりかごの中にいた時からずっと長く親しんでいる状態を保っているのである…このことから次のことについて努力しなければならない。地方の農民、つまり彼ら自身が定住しているコロヌス達をそのまま暮らしていけるようにするということである。何故ならば農場主自ら農場で耕作を行うとか、あるいは家人に耕作させることが得策ではない場合があるからである。そういったことが実際に起きるのは、その地域の天候が農耕に対して向いていないとか、また土地がやせていて荒廃している場合である。しかしそれ以外で良い気候とほどほどに肥えた土地に恵まれている場合には、それぞれの地主の管理の仕方によっては、コロヌス達に耕作させるよりも、多くの利益を得ることが出来る:また土地管理人が奴隷を使って耕作させる場合でも、その奴隷達が非常に怠惰であったり、収穫物の窃盗を行ったりしないのであれば同様の結果が得られる…にもかかわらず、遠く離れた場所にある土地での耕作の場合で、地主がそこまで監督に行くのが容易ではない場合には、土質の良否にかかわらず、管理人の下で奴隷を働かせるより、自由民であるコロヌス達に任せた方が良い。特に穀物栽培の場合は(ブドウやオリーブの栽培の場合とは違って)コロヌス達がそれを駄目にする可能性は低く、逆に奴隷に任せた場合は駄目にする危険性がある。]

その際にこの”opus”という語がコロヌスによる賃借料を課された土地の耕作についての言及と考えることは可能であり、しかしそれがただ賃借料付きの土地についてのみ言及していると考えるのは不確かであり;確からしいのはその際に収穫と耕作のための夫役も考慮されているということで、事実上そこから結論付けられることは、コロヌス達がそれぞれ農場主の土地の一定の場所について受け持ち、同時に他のコロヌス達が別の場所を受け持っていて、一緒に耕作し収穫していた、ということである。この状況はつまり小土地区画の賃貸と、農場耕作と収穫作業の一部を請負業者に請け負わせることを結合させたものであり、カトーの時に既に知られていたように、ただこの段階では請け負う者が地主に対して事実上の従属関係にある小規模のコロヌスになっており、そしてそのコロヌス自身の、その者によって耕作される土地でそれに対して賃借料を支払っているものについては、そのままの賃借料支払い[Ablöhnung]が続いたのである。≪Ablöhnungという語をヴェーバーが用いているのはおそらくは農場での作業賃との相殺のようなケースも想定している可能性がある。≫私の考える所 、文献史料は確かに次のことを述べている。つまり事実上はこうした状況はこれまでの所で概観して来たように発展したのであろう、ということである。コルメラがある箇所で示していることは、コロヌス達は土地を耕作することによって食べているのであり 57)、それは奴隷も同じであるが、――もちろんそれはその者達が農場主のために働いている間に限られてのことであるが、その労働は他の夫役と同様に普通のことだったのである。

57) コルメラ II, 9。前注で引用した箇所が次のことを意味しているとすれば、つまりコロヌスがその借りている土地を良い状態に維持している場合は、remissionem petere non audit [賃借料の減免を敢えて要求したりしない]のであり、私がそこから想定することは、ここで扱われているのは農場主の土地の耕作である、ということである。もし農場主の土地が上手く管理されているのであれば、その場合コロヌスはたとえ凶作の時であっても自分が借りている耕地について賃借料の免除を求めないであろう。

こういった状況はビジネスとして見た場合は次のように把握することが出来よう。つまりコロヌス達が労働者として農場主の土地の耕作や収穫の作業を行うことを受け入れ、そしてその者達への賃金は収穫物の一定量に対して、ある決まった割合を受け取るという形で成立していた。こういった実態は、経済的に重要なことという観点では、作業義務のある農民を使った農場経営の成立と、従来の定住している農場労働者との間の関係を関係を動揺させることとなった。コロヌス達によって耕作された農場主の土地が、確からしくはコモドゥス帝の時代≪在位180~192年≫のある碑文に見られる ”partes agrariae” [開拓地の一部]という語の意味であろう。それはモムゼンによって説得力がありかつ目覚ましいやり方で補完・解釈されたものであるが 58)、先に仮定した意味での農場経営の成立は、つまり中心にある自分自身の農場経営と、(とりもなおさず経済的には)従属しているコロヌス達の夫役労働を有機的に結び付けたものとして、きわめて明確に説明出来るものである。

58) Hermes XV, P. 390以下。

この碑文はアフリカにおていの皇帝領である山がちの土地のコロヌスが皇帝直轄地の賃借人(conductor)についての苦情を申し立てたものである。その請願者達 59) に対しての保証の点で、その賃借人はその者達に対して不正を働き、そして労働を強制したのであり、その者達はその土地に対する諸条件を規定している法規、つまりハドリアヌス法の中の一つであるが、それによって≪契約に無い追加の≫労働の義務は負っていなかったのである。

59) “Ita tota res compulit nos miserrimos homines iussum divinae providentiae tuae invocare. Et ideo rogamus, sacratissime Imperator, subvenias. Ut capite legis Hadrianae quod supra scriptum est, adscriptum est, ademptum sit jus etiam procuratoribus, nedum conductori, adversus colonos ampliandi partes agrarias aut operarum praebitionem jugorumve: et ut se habent litterae procuratorum, quae sunt in tabulario tuo tractus Carthaginiensis, non amplius annuas quam binas aratorias, binas sartorias, binas messorias operas debeamus itque sine ulla controversia sit, utpote cum in aere incisa et ab omnibus omnino undique versum vicinis visa perpetua in hodiernum forma praescriptum et procuratorum litteris, quas supra scripsimus.”
[こういった全ての状況がこの上なく哀れな人間である我々をして、皇帝陛下の神聖なるご意志である命令をご行使賜るというお願いに駆り立てたのです。それ故にこの上なく神聖なる皇帝陛下のご支援を願い奉るものです。既に上で述べましたハドリアヌス法の法文に規定してあるように、たとえ皇帝の代理の監督官でも、ましてや賃借人は言うに及ばず、コロヌスに対して耕作させる土地の面積や夫役やまた夫役に使う耕作牛の数などを勝手に増やす権利はありません。それからカルタゴ地区の陛下の文書保管庫に入っている代理の監督官たちの書面に記載されている通りに、1年の内開墾≪鋤でやる作業≫、播種≪種蒔き前後の鍬でやる作業≫、収穫の作業についてそれぞれ2日を超える労働の義務は負っていない筈であり、そのことは議論なく認められるべきです。何故ならばそれは銅板に記され、全ての近隣の者がどの場所からも見える形で恒久的に掲示されており、現在に至るまで有効な形式で決定されているからで、そしてそれは前記した代理の監督官の書面にも記載されています。]
自ら働くことによって生計を立てている者は、富裕な賃借人で皇帝の代理の監督官と親交が深い者に対しては反抗しなかった。

同法によればコロヌス達の夫役は年当たり2日の開墾≪鋤を使った作業≫、2日の整地と種蒔き≪鍬を使った作業≫、そして同様に収穫期の作業も2日分としてカウントされ、しかも人間による夫役と牛馬を使った夫役の両方であった。賃借人はそれから”partes agrariae”[土地の一部]を拡張した。それは私の考える所では、その賃借人が直接管理している主人の土地を拡げたのであり、新たな土地を開墾したのである。それと同じことがドイツの改革期≪ナポレオンに敗退したプロイセン王国が1807年から農奴解放などの近代化を図った時期≫にも行われており、次に夫役義務のある農民に対してこの拡大された部分の土地も、それまでのより少ない面積の土地と一緒に耕作し、収穫することを要求した。我々が考察しているローマの場合ではまた、人間による夫役と牛馬を使った夫役の両方を増やすことになったのは先行する事実からの当然の帰結であった。土地区画の賃借料と大農場経営においての播種と収穫の時期においての労働力需要の並存関係は、私が碑文の内容から考察する限りにおいて、非常に明確に成立している。

こうした大土地経済においての夫役に従事するコロヌス達を使用した組織は、それは農業においての労働者不足の問題の効果のある解決策となっているのであるが、おそらくそれは帝政期における全ての大規模土地所有において通常のことだったのである。法的文献史料においては、常に次のことが見出される。つまり、まとまった数のコロヌス達が大農場主の一人の請負人、代理人、そして管理人と一緒にされていることで、更にこのまとまった数のコロヌス達とは別に、一団の奴隷達が請負人または代理人の管理下にある土地において存在しているのであり、そして法的文献史料からは詳細な点は知ることが出来ないが、コロヌス達が大土地所有制に従属している、ということである 60)。

60) コロヌスを大土地所有制の中で使用することになったことの結果は、D.9, §3 locati で述べられているように、農園に対して適用される統一法規である lex locationis に基づいて(この表現に該当するのは、その前の時代の国家的大賃借人に適用された lex censoria、皇帝領だった Brunitanus ≪現チェニジア≫での saltus Burunitanusu ≪注59の碑文のこと≫についての lex Hadriana)、コロヌス達がある種のゲマインシャフト、つまり colonia [植民地]を形成したということである(D.84, §4 前掲箇所)。その者達に並べて考えられているのが、大規模賃借人、請負人とそれと一緒の奴隷の一団(D.11 pr. 前掲箇所)、あるいは農場主の代理人[procurator]である管理人(D.21, de pign[oribus])である。コロヌスに対しては以上述べて来たことに適合することとして、大農場の一部の土地が割当てられ、残りの部分の土地は農場主の代理人[actor]である管理人が管理した(D.32 de pign[oribus])。≪procurator はより大規模な領地の管理・代理人、actorは現場レベルの管理人。≫Relica colonorum [コロヌス達の残り]は、つまり賃借料滞納者のことであるが、そこからある一定のやり方で土地の従属物と見なされた可能性があり、それはその者達が厳密な法的な意味ではそれには該当しない場合にもそうであった(D.78, §3 de legai[is] III)。コロヌスと奴隷はお互いにその土地の住人として2つの異なるカテゴリーと見なされていた(D.91, 101 前掲箇所;D.10,§4 de usu et hab[itatione] 7, 8)。コロヌスは奴隷と同じく土地の売買の際にはその土地区画の価値にプラスされる付属物として扱われていた(D.49 pr. de a[ctionibus] e[mpti] v[enditi])。こういったコロヌスと、先に言及した長期契約を前提とした握取契約に基づく公有の農場での二次賃借人との関係について、D.53 locati が説明している。皇帝領の請負人については、それに対して通常はより短期の契約が結ばれ、法律上では5年であり、その契約期間はコロヌスへの再賃貸の場合にも適用された(D.24, §2 locati)。時々は混乱した表現が使われることもあり、例えば “colonus” がその領域全体の賃借者を指すものとしても使われていた場合がある:D.19, §2 locati; D.27, §9, §11 ad l[egem] Aquil[iam]。しかしながら明らかなこととして、fundi[土地]が一般的に大土地所有制として組織化されていない場合には、これから更に述べる意味での大土地所有制でコロヌスは全く使われていなかった。大土地所有制と自由なコロヌスとの意味の混同は、文献史料の位置付けを不明瞭にしている。――他の多くの箇所と同様に D.19, §2 locati の引用箇所が示しているのは、Location[土地の場所]を常に英語の joint business を思わせるような大地主とその賃借人のゲマインシャフト的な関係として説明していることである。ここにおいて経済的な諸関係にそのまま適合する形で、こうした形での個々の関係形成が、そのまま直ちに無数の類似の関係の形成の機会を与えたのであることは、明らかである。我々がここで論じる関係形成には、相対的に規模の大きい大地主の政治・経済的優位性が内包されており、そしてそれ故に賃借契約の関係がそのままヴェールに覆われた労働契約関係となっているのである。コロヌスはそのあてがわれた土地に対しての耕作義務を持つ者として D.25, §3 locati と D.30 の前掲箇所(ユリアヌスの、またそれ以外で引用して来た箇所であるスカエウォラ、パピニアヌス、ウルピアヌスそしてパウルスのもの)で把握されている。 それに適合するように、D.24, §2 locatiでは農場主は次の権利を持つものとされている。つまりコロヌスがその借りた土地を契約が満期となる前に放棄する場合は、直ちに、そのコロヌスに何か別の立ち退き理由があるのか、または賃借料の不払いに該当するかどうかの判定を待つことなしに、そのコロヌスに対して訴えを起こすことが出来るという権利である。何について訴えるのかということは書かれていない。しかし明らかに単なる利害関心の及ぶ所からの訴えであり、何故ならばその訴えの際の賃借地については、それが契約上どう定義されていたか、ということは含まれていないからである。それと並んで§3の前掲箇所で、コロヌスが成すべき労働について言及されており、そのことを理由として同様に訴えが行われているからである。農場主の土地の耕作者と賃貸している土地のそれはそれ故に同等のものとして扱われており、ただ原則として前提とされているのは、農場主は賃貸している土地の耕作の仕方についてはただ契約が終了した時に初めて何らかの形で関与する、ということである。その外に農場主はもちろん賃貸対象の土地を別のやり方でも譲渡することも出来た。このことは後の時代にはコロヌスの連れ戻しという形で起こったのであり、それは navicurarii [小麦の海上輸送]のための小麦栽培の耕地について、コロヌス達を徐々に強制的に連れ戻し再度耕地を与えた、というやり方であった。最初の土地契約終了時の例は市民法的な、navicurarii の例は行政上の強制行為であった。コロヌスが不自由な立場の奴隷に対して自由な農場での労働者であり、それは自由意志の賃借契約に基づいて賃借料を支払う代わりに土地をあてがわれたというのの類推として扱われた。実際の所、奴隷が地方の農園の中に住んでいた状態から、自分自身の家に移された場合には、その奴隷は直ちにコロヌスと同等に扱われたのである。

全集の校正漏れ、同じミスを4回

P.321にてまたもredemtores, redemtor(正しくはredemptores, redemptor;請負業者)の誤植放置をやっています。これで4箇所。こうなるとこの全集校正者のラテン語能力を疑いたくなります。英語でも意味は違いますがredemption(償い)は同じredimereというラテン語の動詞から派生したもので、こちらにもpは付いています。
念のため、Oxford Latin Dictionaryのredemptorの項の写真を上げておきます。redemtorと綴られる例があるなどとは全く書かれていません。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(60)P.317~320

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第60回目です。
ここでは帝政期に入ってローマの対外拡張と内乱が止んだ結果として奴隷の供給が大幅に減り、その結果農場経営が深刻な労働者不足に陥った状況とそれに対しての対策が論じられます。
ヴェーバーはここでも2箇所(注47と48)怪しげな史料引用操作をしています。(本人は操作しているという意識はおそらく無かったのでしょうが。)これまではヴェーバーが挙げる細かい注を原典にあたって調べるということはほとんどされてなかったと思いますが、今は少なくともインターネット上にある史料は生成AIの助けを借りて簡単に調べることが出来ます。
=================
しかしウァッローがその農業書の1年の農業暦の中で、耕作に必要な労働力についてほんの少ししか言及していない一方で、コルメラが要求しているのは、洗濯は全て農場の中で行うことであり、そしてパラディウスは次のことを主張している。つまり農場主は自前の鍛冶屋、大工、桶屋、そして陶工を備えるべきということで、そういった作業を町の職人に依頼することを完全に無しで済ますことである 47)。

47) パラディウス 1, 60。次のことは知られている。それはアウグストゥスが自分の家で織った衣服だけを着用していたことである(スエトニウス 「ローマ皇帝伝」アウグストゥス第73章)。≪スエトニウスの書に書いてあるのは、アウグストゥスがただ家族が織った衣服だけを着用していた質素な人であったというだけで、別にアウグストゥスが自分の農場で織物を内部でやらせていたという意味ではまるでなく、無関係で余計な注釈である。≫

オイコス≪ギリシア語で「家」のことで、閉鎖的な家族経済から、大規模な家産制まで広く示す概念≫の自給自足、それをロードベルトゥスが、その他の部分では非常に才知あふれる古代の経済史の全体の過程についての議論において、基本的要素としており、彼によればそれはしかし帝政期には消滅してしまったと把握する必要があるとしているが、しかしながらそれはまた地方においての大土地所有においては、本質的な部分においてはまだ発達中であった。カトーの時代になると、次のような非常に目的合理的なことが利害関心の最前面に来るようになった。それはつまり、経営において産品の再加工・追加加工を減らすこと、分業においてそういった業務を解消すること、農園主のリスクを除去すること、そして農園主自身に定期的な現金収入を確保することである 48)。

48) コルメラにおいてもまたウァッローからの伝承として、次の農場管理人への指示を引用している、それはどんな時でも農場主の資金流動性を保ち、いつでも出金可能にしておくこと、それ故に主人のお金を何かの購入や業務のための何かに使わないということで、それ以外にもいつも前提とすべきことは “ubi aeris numeratio exigitur, res pro nummis ostenditur”(コルメラ 11, 1)。[現金が不足する場合は、物を現金の代わりに支払うことになる。]≪コルメラが言っているのは、まさしく現金が手元に無い時は現物で支払わざるを得なくなる、というだけであり、ヴェーバーの文脈から想像される「現金を支払わないようにするため、なるべく現物で支払うようにせよ」という意味ではまったく無いことに注意。≫

カトーはこういった目的がどうやったら達成されるかについて、非常に詳細に記述している。後の時代になるとこうしたこと≪何でも自給しようとすること≫は非常にはっきりと分かる形で後退し、本来の業務が前景に来るようになった。農場の組織については、この後再度手短に見ていくこととする、――いずれにせよ私には出来るだけ目的のために労働力を使い尽くすことが出来るかどうかが、大地主型経営の課題を引き受ける上での本質的な基礎であると思われ、そういった大地主型経営は先進的な分業システムによって都市部の様々な職人達を使わないで済ませたのである。しかしながら収穫時の労働力についての本来の需要は、こうした分業システムによって解決されることはなかった。というのはこの需要を満たすためには、言って見ればある種の産業の先進化が必要とされたからであり、またその需要を満たすことによって損失を出すのも許されず、手工業の技術を取得した奴隷達が、純粋に農業的な労働力需要に対して、安価な単純労働力として使用されたのである。

帝政開始期に起きた農業危機

しかしながらこうした農業での危機は、ローマにおいての元首制の確立の結果として起きた様々なことによって、緊急に解決が必要な急性のものとなった。この状態は次の条件が満たされる限りは持ちこたえ得るものであった。その条件とは、侵略戦争と内乱の結果として奴隷市場に継続して労働力が供給されることである。アウグストゥスとティベリウスの下でのローマ帝国の国境の更なる拡張の断念は、こうした奴隷の供給を著しく減少させた。それはある時急に起きたことではないにせよ、一定の時間をかけて徐々に起きていた。その状況の結果として起きたことは、農業にとって耐えがたい状況であったに違いない。既にアウグストゥス帝の治下において、土地の占有者達が労働力を暴力(拉致)によって確保している、という訴えが成されている。アウグストゥスはそれに対してイタリア半島での罪人の名簿を作らせそれを調査している 49)。

49) スエトニウス「ローマ皇帝伝」アウグストゥス 32:rapti per agros viatores sine discrimine liberi servique ergastulis possessorem opprimebantur. Infolgedessen: ergastula recognovit. [農地を通行する者が自由人・奴隷の区別なく土地占有者によって捕らえられて奴隷収容所に入れられた。その結果として:罪人名簿が作られ調査された。]

ティベリウスの治下でも同じ訴えが繰り返された:旅行者や、更には軍隊への応召義務に応えないで逃亡している者が待ち伏せられ、――馬に乗ったならず者が、財産を盗もうとするのではなく労働力を確保しようとし、その者達はおそらく土地所有者達が街道に派遣したのであるが――そしてティベリウスは全てのイタリア半島の罪人名簿を、そのための臨時の官吏を任命することによって調査しその内容を改訂した、――それはほとんど農場調査官という言葉を使ってもいいようなものだった 50)。

50) スエトニウス「ローマ皇帝伝」ティベリウス 8:curam administravit … repurgandorum tota Italia ergastulorum, quorum domini in invidiam venerant, quasi exceptos opprimerent, non solum viatores sed et quos sacramenti metus ad ejus modi latebras compulisset. [(ティベリウス帝は)責任を持って監督した…イタリア半島全土の奴隷部屋について粛正を実施した。それらの奴隷部屋の主人達は、その者達が捕らえた者達を抑圧していたと非難されていた、。その捕らえられた者達は単に旅人だけでなく、また兵役への応召を拒否して逃亡していた者達までも含まれており、このような拘束部屋に強制的に監禁されていた。]

大規模な奴隷の反乱が≪再度≫起きることが懸念されていたが≪BC73~71に古代ローマでの最大の奴隷反乱であるスパルタクスの乱が起きている。≫、それは実際に起きる前に抑圧された(タキトゥス、年代記IV、27)。ティベリウスは全体としては大規模な奴隷を使った農場経営の規制を目論んでいたが、しかしながら元老院からの消極的抵抗により、その規制を土地所有者達に対して実際に行うことは敢えてしなかったのであり、またティベリウスは積極的な是正を行うことは不可能であると感じていたので、元老院に対して当時の土地制度の問題点を指摘する布告を出すことに留めた 51)。

51) タキトゥス、年代記II、33;III、53。

当時のイタリア半島においてはおそらく不動産価格は大幅に下落し、また信用需要は大であったであろう。というのは元老院はティベリウス帝の治下で貸金業者に対しその資本の内の1/3を不動産に投資するように命じているからである 52)。

52) タキトゥス、年代記、IV、23。アウグストゥス帝の治下ではアレキサンドリアの占領の後≪正しくはアエギュプトス{=エジプトの旧名}全体の私領化の後≫、金がそこからローマに流入し、それが≪豊富な資金によって≫一般的な不動産価格の上昇を引き起こしていた(スエトニウス、「ローマ皇帝記」、アウグストゥス、41)。

既にアウグストゥスが、アレキサンドリアの例では、地主に対しての無利子の貸し付けを認可しており 53)、そしてトラヤヌス帝による子弟養育支援制度≪地主に資金を融資し、その利子を貧しい人の子弟への義援金とした制度≫も、利率が低い状態に留まっていた
54) 状況において、同様の目的を持っていたと認め得る。

53) スエトニウス、前掲箇所。

54) Veleja においては 5%、もしかしたら更に低い 2.5% の可能性もあるが、確からしいのは 5%。

こうした共和制から帝政への移行期に起きた農業危機は深刻なものであった。しかしながら更に別の契機も影響を及ぼしていたのであり、農場経営を担った組織の重心の移動ということを検討する必要がある。

続き。夫役義務を負った農民を使用した農場経営の発展

ローマ帝国における平和の到来と元老院(貴族)支配が取り除かれたことにより、こうしたローマにおける障害に対してそれまでに水面下にあった政治的な利害関心が表面化することになった。大地主の純粋に経済的な利害関心が再びより前面に登場したに違いなく、それはドイツにおいての「永久ラント平和令」≪Ewige Landfriede。1495年に神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世が、ウォルムスの帝国議会において、フェーデと呼ばれる私的復讐行為を全面的に禁止したもの。≫の後の状況と類似している。その時と同様にこのローマの時でも結果として起きたことは、大土地経営[Gutswirtschaften]が基礎付けられたことで、この表現はクナップ≪Georg Friedrich Knapp、1842~1926年、ドイツの経済学者、貨幣国定説で有名≫が使っている意味でのものであり、それはつまり労働者を使って経営する大農場と夫役義務を負った農民達が結合したものである。コロヌス≪完全な農奴ではなく、自由農民としての性格も持っていた小作人≫達は農場に隷属する農民と同様、収穫期における労働力の不足を補うために、手作業の、及び牛馬を使った夫役へと召集された。ある程度まで確からしいこととして、このことはほぼ常に起きていたことであった。古代ローマでのプレカリスト[Precarist]≪地主から恩恵として土地を借りて耕作している農民≫は、我々の意味での小作人では全くなく、農業労働者であって、地主からいつでも契約を取り消されることがある形で土地を借りている者で、――少なくとも私としてはこの制度について他の統一的な経済上の目的を考えることが出来ず、そしてその制度が隷属やそれに類したものと必ずしも関連したものではないということは、それがなお古典法学の時代にあっても存続していたことの理由となっている 55)。

55) D. 10 a[dquirenda] p[ossessione] 41, 2(ウルピアヌス)に次のような事例が詳しく述べられている。それは、まず誰かが小作人となって土地を借り、それから≪その期限が切れる時に≫プレカリストになることを要請した、ということである。≪rogiert はラテン語の rogo{依頼する}をドイツ語風にしたヴェーバーの造語。≫そこで扱われているのはまさに、小規模地主が、まず賃借料を払って土地を≪別に≫借り、そしてその契約が切れる時に、その地位の代わりにいつでも契約を打ち切られることがあり得る労働者の地位に留まる、ということである。それと適合するケースとしては、契約上地主がコロヌスに地代を請求してはならない(D. 56 de pact[is])≪地代の代わりに労働力を提供させるので≫、というものがある。

またここで重要なのは、この制度はコロヌスの労働の成果次第である、ということで、それ以外でそういった仕事がどういった意味を持っていたのかは、私には良く分からない。このプレカリストというものは、まさしくローマ的な純小作人の最初の形態である。共和制期にはコロヌスは一定の労働の成果に縛られていたということは、その者の地位はそのまま≪帝政期に≫持ち越されたのではなく、事実上はコロヌス達はいずれにせよ、子供達やあるいはその者自身が、場合によっては大地主のための単なる労働者となってしまう可能性を計算していた。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(59)P.313~316

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第59回です。
ここではローマの農園における過酷な奴隷労働について説明されています。但し過酷さを強調しようとしているのか勇み足的な議論があり、一点はヴェーバーは男女の奴隷がいわば乱婚状態にあったと思い込んでるのではないか、という点と、隔離病棟に入れられた病人が他の奴隷の世話を受けることが許されていなかった、という明らかに間違った議論がされています。それぞれどう間違っているかは訳注(≪≫の中)を参照願います。
===============
もう一つのより重要性の高い要素は、ローマの全時代を通しての農業における労働者確保の基本的かつ完全に普遍的な困難さと関係している:それは労働力の需要と供給のミスマッチで、種蒔きの時、更にはむしろ収穫時、そしてその他の時季であってもそうであった。多くの奴隷を例えば収穫時に必要な人数だけ確保しておかなければならない、ということは、何もしない労働力を数ヶ月間も扶養し続ける、ということを意味していた。カトーの時代にはブドウとオリーブの栽培を一括して請け負い業者に任せることでこの労働力不足を何とか乗り切ろうとしていた。同時に耕地の土地造成・土壌改良の作業も専門業者[politores]に≪次に栽培する作物用の耕地について≫任せることが行われ、また最初の植え付け作業、つまり種蒔きと耕耘も当時一部は業者に委託されていた 34)。

34) 土地改良[politio](カトー 農業書136)の代金は、良質の耕地の場合は収穫の 1/8、質の劣る耕地の場合は 1/5であった。ブドウの栽培を部分的に外部の業者に委託するのは同書の 137 に出ている。オリーブ収穫作業の請け負いは:カトーの 145、オリーブ油の圧搾作業は 146、まだ樹に成った状態のオリーブの販売は同じ箇所、在庫しているワインの販売は 147、――ブドウを搾り器で搾った後に 148本単位で容器に詰めることは厳密な先物取引的性格の手続きとして行われた。牧場での冬期の食料の販売は 149 に出ている。羊毛や羊肉など[fructus ovium]については 150に出ている。どこにおいても地主は労働者の扶養料の一部を負担していたし、さらには多くの場合は必要な道具も供給しており、例えばまた部分的な作業の委託業者に焼成した石灰を供給≪イタリア半島では多く採れる石灰岩を高温で焼くと土壌改良用の生石灰ができる。≫していた場合もあった(カトー 16)。明白なのはただ(具体的な)労働がこういった形で作り出されねばならなかった、ということであり;農場主は必要な労働力を確保していなかったというだけの理由で、その者は現場の労働者にとって都合の良い形での請け負いを収穫の一部を支払いに当てるという形で準備しなければならなかった。労働者にその際にその他扶養料も支払うことになっていたのは、多くの場合自明のことであった;ディオクレティアヌス帝の布告である de pretiis rerum venalium [雇用者の賃金について]が示していることは、このことは自由民の労働者を雇用する場合の規則であった、ということである。

その際に農場主達は次のことを強制的に行わなければならない状態に置かれていた。つまり収穫物を無条件で安値で叩き売り、農地での作業についてそれぞれに対価を支払わねばならなかった。その理由は農場主達は自分達の力だけでは収穫させることも作業させることも出来なかったからであり、その結果として事業の収益は望ましくないほど低水準に留まった。穀物の収穫に至っては更に、それは営利事業としての可能性がほとんどなかったのであるが、それを行わずに済ますことは出来なかったし、かつまた家族を養うという意味でも必要であった。それ故に自由民の労働者が必要とされたのであり 34a)、その者達は多くの場合収益の点でそれなりに主要となる部分の労働に従事させられたので、それ故にカトーは十分な数の労働者[operariorem copia]を確保出来る地方を賞賛している。

34a) このことは我々≪ヴェーバー当時のドイツ≫の大土地所有者においての「自分の本来の」労働者に加えての「外部の(外国人の)」労働者の需要と適合している。東プロイセンにおいては、この外部労働者の必要性について全体の労働者の約1/4までの人数を使うことが許されている。

しかしながらまた、こうした外部の労働者の使用を継続して行うことも不可能であった。定期的に現金で払わなければならない支払金の額が地主にとって大きな問題になって来れば来るほど、それだけいっそう奴隷、つまり「言葉をしゃべる財産」 34b)(instumentum vocale[言葉をしゃべる道具])の労働力の酷使は激しくなっていったし、それ故にまた農場経営のその他の世界からの隔離もいっそう厳しいものとなっていったのである 35)。

34b) それに対比されるものとしては “instrumentum semivocale” [半分しゃべる道具](家畜)と “instrumentum mutum” [物言わぬ道具](通常の道具類)があった。

35) 全ての農業書の著者達は次の点で意見が一致している(参照:コルメラ 1, 8)、つまり農場の管理者は農場を市場から、そしてまた周辺の領域から出来るだけ遠ざけるように管理しなければならず、いずれの場合でも付き合うことを許された人間というのは農場主が許可した者に限られた。来客は原則として農場の中に迎え入れることが許されておらず(カトー 5と142、ウアッロー 1, 16)、奴隷達は一般に農場を離れることが出来なかった(ウアッロー、前掲箇所)。このことが次のことの主要な理由の一つであり、つまり何故、そういった農場が自分達自身の手工業者を育成することによって、町の手工業者を使わなくていいようにすることを試みたか、ということである(ウアッロー 1, 16)。

農場経営者達は無条件で、その農場の経営を自由民の労働者をより長い間雇って働かせてやっていく 36)ということを避けていた。

36) カトー 農業書5:(vilicus) operarium, mercenarium, politorem, diutius eundem ne habeat die.[(農場管理人)作業者、雇い人、土地改良人については同じ者を一日でも長く使い続けるべきではない。]

その結果起きたことは、自由民の労働力の供給が自然に減っていった、ということである。特に収穫期のような特別に労働力が必要だった場合以外でも、農場主達にとっては奴隷以外に農業で使えるものは存在しなかったし、都市のプロレタリアートは農業を好まなかったし、また実際に使うことも出来なかった 37)。

37) このことが示しているのは農業のための労働力への全ての需要が陥った運命であり、その労働力とは都市での浮浪者の収容所や同様の場所に収容されていた者達のことであり、また無料の交通手段が提供されたばあいに独力で農場まで行けた者達のことである。都市においての無職者で農場で使用可能であったのは全体の1%にも満たなかった。帝政期の末期には無職者は精力的に農場へと移動しそこで自身の労働力を地主に無条件に[brevi manu]提供した(後述の箇所を参照せよ)、――このことはその他の時代では地主達にとってほとんど起きなかったことである。

この結果として起きたことはまず第一には、周知のように、奴隷の労働力の搾取が一層強められた、ということである。その当時地主達が購入した奴隷は最低レベルの価格のものであり、それは noxii と呼ばれた罪人の奴隷であり、その目的はその者達をブドウとオリーブの栽培に使用するためであり、それについてはコルメラにおいては審理として説明出来る動機が存在したのであるが 38)、この手の罪人連中は一般論として抜け目がない性格を持っており、それ故にブドウやオリーブの栽培に適している者として使われたのであるが、一方で穀物の栽培については手堅い性格の作業者が求められたのである。

38) コルメラ 1, 9 Plerumque velocior animus est improborum hominum, quem desiderat hujus operis conditio. Non solum enim fortem, sed et acuminis strenui ministrum postulat. Ideoque vineta plurimum per alligatos excoluntur. (Aus Anstandsrücksichten setzt er hinzu): Nihil tamen ejusdem agilitatis homo frugi non melius, quam nequam, faciet. Hoc interposui, ne quis existimet, in ea me opinione versari, qua malim per noxios quam per innocentes rura colere.
[一般に悪人の頭脳は敏捷に働くのであり、この仕事(=ブドウ栽培)にはそういった敏捷さが望ましい。実際の所、力があるだけでなく、鋭敏であり活動的な奉仕者をこの仕事は必要とするのである。このため多くのブドウ畑が鎖につながれた者(有罪奴隷)によって耕作されている。道徳的配慮からコルメラは次のように付け加えている:しかしながら同じ程度に敏捷さを持ち善良な者は、悪い者と比べてより良い仕事をするであろう。このことを追加で述べたのは、私の意見が無実の者より罪人に農場の作業をさせるのが良いと主張していると思われたくないからである。]

コルメラがそこで更に推奨しているのが奴隷達を原則的に疲労困憊の状態になるまで働かせることで、そうすれば奴隷達は働いた後はただ眠るだけで余計なことを考える暇がなくなるから、ということである 39)。

39) コルメラ 1. 8(p.47 Bipont)。

農場主達はその配下の奴隷について出来るだけ沢山の子供を産ませようとした 40)。

40) コルメラ、前掲箇所。

農場主達は農場の管理人に対し、男女の奴隷の間での結婚に相当する確定した関係になることを、そういった事情から規則的に認めており、むしろそういった関係を奨励するだけではく、要求すらした 41)。

41) コルメラ 1, 8。ウアッロー 1, 17。管理人達は “conjunctas conservas (habeant) e quibus habeant filios” [親密な女奴隷を内縁の妻として持ち、その者から息子達を得る。]

それ以外では男性奴隷は、無秩序なあるいは恣意的に統制された男女交際の結果として息子達の父親となることはなく、ただ女性奴隷だけが息子達の母親となった。≪この説明はヴェーバーが母権制の成立の理由とするものと同じである。実際にはローマの農場では奴隷が法的な父親になることはなかったものの、いわゆる乱婚関係ではなかったとされ、ヴェーバーの議論はある意味想像に基づいている。≫というのは彼女達が産んだ子供達のみの養育が彼女達に任され、そしてそれが報賞の対象になっていたからである(コルメラ 前掲書)。その他の点ではしかし、一般に農業書で描写されているのは、というのは奴隷達は兵舎のような住居に一緒に入れられていたのであるが 42)、しかし同じ宿舎の住人同士の連帯についてはあり得ず、そうではなくてただ女性奴隷にその産んだ子供の数に対して報賞を与えていた、ということであり、――それは時には一時的な休業を与えたり、時にはその女奴隷を解放してやる場合もあった 43)――そして男女奴隷の交際の規制については自由競争に任せるようにしており、ただもちろん目的に沿うように農場管理人の監視の下にそうしていた。

42) 奴隷 “instrumentum vocale” の住まいは家畜小屋の中に設けられていた。奴隷達は有罪奴隷ではない場合は、南に面した部屋[cellae meridiem spectentes]で寝て、鎖につながれた有罪奴隷は地下にある囚人部屋で寝(”quam saluberrimum subterraneum ergastulum, plurimis, idque angustis, illustratum fenestris, atque a terra sic editis, ne manu contingi possint”[出来る限り健康的に作られた地下の奴隷部屋を、多くの狭い窓で採光するようにし、しかもその窓は床から十分高く設けられていて手が届かないようにすべきである])ていた。農場管理人は農場の門の隣に住んでいた。監視人は我々の≪ヴェーバーの≫時代の兵舎における室長用の仕切部屋と同じような個室を与えられていた(コルメラ 1, 6)。食事の時はしばしば家族と見なせるようなメンバーが一緒に食べ、監視人は特別なテーブルで食べたが、しかしそれは奴隷達を見渡せるようにするためであった(コルメラ 11, 1)。

43) コルメラ 1, 8。 Feminis quoque foecundioribus, quarum in sobole certus numerus honorari debet, otium nonnunquam et libertatem dedimus, cum complures natos educassent. Nam cui tres essent filii, vacatio, cui plures libertas quoque contingebat. Haec enim justitia et cura patrisfamilias multum confert augendo patrimonio.
[またより多くの子供をもうけた女奴隷について、一定の数の子供によって報賞に値する者は、もし何人かの子供を育て上げた場合には、時々の労働の免除やあるいは奴隷身分からの解放を我々は与えて来た。例えば3人の子供がいた場合には労働が免除され、それ以上であれば自由さえ与えられたのである。このような公平さと家父長としての配慮は、結局は財産を増大させることになる。]
奴隷の身分からの解放は、年老いてもう子供を産めなくなった女奴隷を自由にするという人道的な形で行われた。それ以外でも農場主達は高齢になった奴隷達を何らかの形で処分することを試みた。(カトー 2)。その他の場合でも、農場主達は昔から年老いた病弱な奴隷を農場から追い出して来ており、それは自分自身の子供と奴隷の子供がもはや使用出来なくなった時と同様であった(ユスティニアヌス法典 8, 151)。そういった不要になった者達を殺害することをクラウディウス帝は禁止し(スエトニウス「ローマ皇帝伝」25)、そしてそういった者達を追い出す際にはその者達が自由の身分となることが出来るよう規定した。

しかし更には――このことがより重要な点であるのだが――収穫時に必要となる労働力の大部分を恒常的に保持しておく必要性によって次の傾向がより顕著に現れて来たに違いない、つまり出来る限り全ての必需品を自分自身の経営の中で手に入れ、さらに生産物を市場で売れるものに自らがしていくということであるが、その理由はこのようなやり方によって通常は余っている労働力を繁忙期以外の月であっても活用出来たからである。ギリシア語における ἐργαστἠριον 44)[作業場、工房]に相当する ergastulum というラテン語が昔から農場において使用されていたが、そこでは鎖を付けられた奴隷、債務者、そして罪人が働きかつ寝泊まりしており 45)、また他の禁固刑に該当するものがそこで刑に服したのであり 46)、それは多くは天窓付きの地下室であった。

44) 同じ語が碑文では公的または私的な工房(=パラディウス≪4世紀のローマの農学者≫の言う fabrica)の意味で使われることは稀ではなかったし、またある種の土地の使用方法も意味し、その例として C. I. Gr. I. 1119 には、耕作や施肥――κὀπρον εἰσἀγειν [肥料を加える]――が禁じられた場所について、その土地区画の隣りに ἐργαστἠριον が置かれていた、というものがある。

45) 鎖に何か不具合がないかどうかの確認は農場管理人の義務となっていた(コルメラ 11, 1)。

46) そういった刑罰を科すことは農場管理人の権限であった。ただそういった罪人を許すことはただ農場主自身のみが出来た(コルメラ 11, 1)。元々は ergastulum はまた隔離棟≪特にハンセン病患者の≫の意味でも使われた。後には患者は valetudinarium [回復中の病人の収容施設]に入れられ、そこではまさに多くの軍事的な隔離棟と同じく食事制限と拘禁が治療法として実施されていた(コルメラ 12, 1);そういった隔離棟の病人の世話を一緒に住んでいる奴隷が行うことは、それは病人には望ましいことではあったろうが、許可されていなかった。≪この記述はヴェーバーのコルメラの書の誤読。実際にはvaletudinariusという名前で呼ばれた専任の奴隷が病人の世話をしたのであり、誰も世話しなかったということではない。おそらくヴェーバーは valetudinarium と valetudinarius を同じような意味と勘違いしている。後者は「隔離棟係」といった意味。≫

そこで行われた受刑者達の労働は、必ずしも常に特別に決められたものではなかった、ということは考えられることである。

また「ローマ土地制度史」全集版の校正漏れ

「ローマ土地制度史」のモーア・ジーベックの全集版のP.313に”Man suchte sich zu Catos Zeit durch Vergebung der Wein- und Ölernte im ganzen an redemtores zu helfen.”とありますが、この”redemtores”は”redemptores”(請負人、契約業者)の間違いです。元々ヴェーバーの書き間違いでしょうが、このパターンの校正ミス、2回目です。いい加減にしてほしいです!

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(58)P.309~312

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第58回です。ここは地主と小作人の関係が詳しく論じられています。借金を相続によって背負わないため、相続人が小作人になって土地の使用権を得る(同時におそらく相続税も免れる)といった、古典的な財テクみたいなことが行われているのが興味深いです。また地主と小作人は地主が小作人を搾取するといった唯物史観的な見方だけをするべきではなく、ローマ社会で一般的だったクリエンテスーパトロヌスの関係(親分子分関係)としても理解するべきと思います。
===================================
次のことは言うべきではない。つまり平均的な事例を見る限りでは、このような劣悪な扱いは自明のこととしてまでは起きていなかった、ということであるが――いずれにしても次のことは確かである。つまり社会的に重要でかつその自覚も持っていた者達は、そのような劣悪な権利状態を甘受しようとはしなかったのではないか、ということである。国家から公有地を借りていた者は確かに国家に対しては不安定な状態に置かれており、特に契約がケンススでの登録期間が満了した場合に解除される可能性があって、そしてただ行政上の保護のみを受けられた場合にそうであり、その他の点ではしかしその者達はただ場所[locus]としての保護を、それが元々ただ一般的に存在していたもの、つまり占有されていたものとして、という範囲での保護を受けられるだけであった。個人の土地を借りていた者達については、こういったレベルの保護すら与えられておらず、そのことからはっきり分かることは、その者達の他の全ての社会的条件が劣位にあったことと、経済的に弱者であった、ということである。このことからすぐ明らかなこととして結論付けることが出来るのは、我々は大規模な賃借人の身分について、それが≪ヴェーバー当時の≫今日のイタリアにおいて大地主達と部分的に対立しているということを、そのまま古代ローマでも同様であったろうと考えるべきではない、といことである。≪ヴェーバーが言っているのは19世紀のイタリアでのメッガドリーナという分益小作制度を古代ローマの小作制度と同一視すべきではない、ということ。≫カトーは賃借人について、自分自身でその土地を耕作しないで、その土地を一族郎党に耕作させようと欲している者を厳しく諫めている。そしてまた確かに公有地が資本家達に対してかなりなまで大規模に提供され、その使用目的は個々の土地区画の大規模な複合体を賃貸目的で使うことであり、またそういった土地を次の程度までに投機のために使い尽くす(搾取する)ことであり、その程度とは個人の小地主には決して利用させてもらうことができないものであり、またその一方で manceps[中間契約者]の仲間たちが利用出来る公有地の管理については、その使い方について厳しくチェックされることがほとんどなかった、そういう程度である。lex censoria はなたそれについての条項などをその中に含めようとしていた。一般的にそういった状況に適合する形で、大地主達に対して、その者達がその土地の多くを賃貸ししている所では、それに対して小規模な賃借人が対置され 29)、そして土地区画の面積という点でより大規模な所有地の貸出しは、今日と同じく当時も相対的に高い賃料が課せられることが多く、このことはまた事業としても見ても有利なことだったからである。

29) 特にまた、これについては次に述べることになるが、継続して定住させられた小作人達は、圧倒的に小規模の賃借人であったに違いなく、中規模以上の家長達ではなかった。全ての我々が持っている知識(例えばメクレンブルクにて≪メクレンブルクは19世紀後半になってもグーツヘルによる大農場が継続し、農奴解放が遅れていた。≫)によれば、次のことが知られている。それは継続的な植民というものは、国家がより大規模経営の可能な農民をそこに公有地の領主または非常に大規模なグーツヘル、例えばプレス公のような地位の者≪プレス公ハンス・ハインリヒII世はシュレージエン地方に数万ヘクタールの土地を所有していた。≫、を送り込むことで行われ得たのであり;より小規模のグーツヘル達は常にただ小作人または小農民という立場にされたのであり、そういったことが植民地化という作業を非常に容易にした可能性がある。

何よりもまず土地区画について賃貸料を取ることは、定常的な土地レンテ≪労働を伴わないで定期的に入ってくる収入≫を取ることが出来るようにすることを目指すことを可能にし、そしてこのことは共和政期と帝政早期においては本質的な観点であったに違いなく、というのはそこから上がる収益はそこ以外で――つまりローマで――消費されることになったであろうからである。確からしいこととしてこの理由から、分益小作≪地主が土地を提供し、小作人が耕作し、収穫物を地主と小作人で分け合うという一種の共同事業形式の小作≫はその完成形までの発展はほとんど起きなかった、――分益小作は法律史料にただ一度だけ次のような内容で言及されていた。つまりそのことの法的な構成が――場所についてなのかソキエタース≪地主と小作人の事業組合≫についてなのか――疑わしく思われる、そういった内容である。地主が――その者が非常に規模の大きな地主階層に属していなかった場合に――確実な現金収入を得るための手段としてのオリーブ油とワインの製造を保留にして放棄したように、小作人との≪共同事業的≫関係もまた進展しなかった。そのことに符合していることは、地主(自身)が農業に必要な土地以外の装備一式[instrumentum fundi]を用意したということと、また小作人に対しては、一般に農場経営を立ち上げる際に、小作人の自由に任せて好きにさせることはほとんどなかった、ということである:小作制度の本質的な目的は、リスクを地主が負うのではなく小作人に押しつけるということと、また地主の方にとっては確からしいことは、大きな金額ではないにせよ確実な現金収入を得る保証を得ることであった。というのも、こういった関係の全体は、また地主が自分の土地で農耕を行う方法・やり方として把握されるからである 29a)。

29a) コルメラ 1, 7。

土地区画賃貸の存在条件

以上述べて来たことの中には、本質的に既に後の時代の変化の萌芽が見られるのであり、それは農地においての労働のあり方が変わったことと関連している。たった今論じて来たように、土地区画単位の賃貸について、いずれにせよ最も頻繁に行われた土地の現金化の手段として語ることが出来るのであれば、しかしその場合でも次のようなことまでは言うべきではない。つまり全体の所有地の個々の土地区画への分割がしばしば行われた可能性がある、ということである。また次のことも考えられよう。つまり特に土地の大規模所有が発生しておらず、土地が多くの者に分割して所有されていた場所において、しかしながら農業書の著者達によって一般的に、地方の農場で、管理人と多少の範囲の差はあっても広範囲の家族集団によって形成されていた人間集団が常に、より広範囲な土地においての農業事業の中心としてどこにおいても前提として扱われているのであり、そしてまたコルメラはただ agri longinquiores [longinqui fundi]、つまりその農場経営の中心地から地理的に離れた場所にある、相対的に小さな土地区画と分農場を小作人へ≪小作地として≫譲渡することについてのみ語っている 30)。

30) コルメラ、先に引用した箇所。

特にブドウとオリーブの栽培は、非常に規則的に大地主の本来の支配領域で行われており、全体の事業においてのその部分は、投機的かつ収益の上がるものと評価されて最も高度に統合されていたのであり、その一方次のような耕地の耕作については、それは多くの労働力を必要とししかし高い賃貸料を取ることが出来ないような耕地であるが、ブドウやオリーブの耕作とは反対に、相対的に見て自立していて、自分自身のリスクで耕作を行う小規模の家長で自分の家族をそれで養っていた者、つまり小作人に≪小作地として≫譲渡されたのである 31)。

31) もちろんここにおいても大地主は自分の所有する地所で、より良いものは出来るだけ自分の元に残しておいたのであり、その場合その者達はそこを貸して得られる小作人の賃借料の金額よりも多い金額を自分自身で稼ぎだそうとしたからである(コルメラ 前掲箇所)。その他の点ではしかし彼らはまさに穀物用の土地[ager frumentarius]を≪小作地として≫譲渡したのであり、というのも小作人は少なくとも濫作によって万一の損害を受ける場合にその程度を最小に抑えることが出来たが、≪雇い入れる≫奴隷を使った場合にはしかし、必要不可欠な人数を細心の注意を払って注文した場合であっても、経済的には非常に損する結果となる場合もあったからである。(コルメラ 前掲箇所)。

このやり方ではまた適当な額の賃貸料をそれに加えて獲得することが出来たが 32)、その理由は地方においての諸市場が、それは穀物取引については全体にほとんど扱われていなかったのであるが、農民による市場での直接的な穀物販売については、先に注記したように、恒常的な可能性が存在していたのである。

32) そういった地主達は次の理由からもこのやり方を採用出来るようになっていた。というのは近頃ゾムバルト(sen.≪=ヴェルナーの父であるヴィルヘルム・ゾムバルト≫)によって世の中に認められるようになった”Kuhbauern”≪直訳は雌牛農民。酪農を兼業して不作の時も何とか自活していくようなしっかりした農民のこと。≫を似たような農民層として見なすことが出来、そういった農民達は自分とその家族郎党の労働力だけを用い、一般に他人を雇い入れることが無く、それ故に固定費の支払いが無く、不作の時にはその者達自身だけで何とかやり繰りし「飢餓を耐え凌いで」[durchzuhungern]いたのである。結局のところは小作人の生存能力にとって、それにもかかわらず、またはむしろまさしく、小作人達の非独立的な経済的地位によって、次の要素が考慮されることになる。その要素とは小規模の地主に対して大地主の賃料の、他が同一条件の場合での優位性を基礎づけたのであり、そしてまたそれが次のことの基礎にもなっている:小作人達の生存能力についての地主自身の利害関心が、この者達に経済状況の厳しい際に一定の土台を与え、また非常に程度の大きい危機の衝撃を、地主達が所有している土地全体の経営においての諸要素の弾力性によって分散した、ということである;他方では土地を小区画に分割してそれぞれを賃貸して小資本を得ることによって、結果として小規模地主が持つことが出来ない事業の運転資金を確保出来るためより経済的に上手くやっていけるのであり、そして相続開始の際の不動産債務のリスクも取り除くことが出来た:大地主は、その者の意に適うように見える者、多くの場合は相続人の一人を小作人にしたのである。≪相続は今日と同じで財産だけでなく負債も引き継ぐが、小作人になるのであれば負債を引き継ぐことなく、土地の利用権だけが入手出来る。≫

地方における労働者

それでは大地主のその支配地に存在している農地で、そこで耕作を行った者達は一体どういった人員であったのだろうか?大地主の農場には、ほぼ自由民であるような日雇い労働者を見出すことが出来ないということは改めて強調する必要もないことである。奴隷による農場経営と、借金が返却出来なくなって強制労働を命じられたプロレタリア、または不法行為または握手行為の結果としてその農場の家族に加えられた市民の家の息子≪まだ独立していない息子≫達、それらがほぼ農業を事業として行う場合の主要な労働力の形態であった、――そのことについては農業書の著者達は全く疑念をはさんでいない。しかしながらもっぱら奴隷だけを使用することは、奴隷労働の上に本質的に構築された経営方式それ自体にとって、きわめて不利益な点が存在した。まず第一の点は奴隷が死亡した場合の資本損失である。ウァッローはそのため次のようにアドバイスしている 33)。それは健康に害があるような場所での作業には、奴隷ではなく自由労働者を使うということで、何故ならば万一その者達が病気になったり死亡した場合でも地主がそれを補償する必要は無かったからである。

33) ウァッロー 1, 17。