ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(47)P.264~267

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第47回です。
ここでは、グラックス兄弟の改革の中心となるLex agraria (土地改革法)が規定している、元々カルタゴの領地だった土地がどのように法的に処理されたかについての、かなり詳細な議論が続きます。
注意していただきたいのは、グラックス兄弟の改革はご承知のように世襲貴族と元老院の強い反対を受け、結局は失敗しているだけでなく、土地制度を巡っての大混乱をもたらした、ということで、それが最終的に収束するのはカエサルとアウグストスによる帝政期の開始の時期になります。またよくこの「土地改革法」の目的が、没落した独立農民の救済と言われますが、実際の法文を見れば分かるように、極めて色々なケースについての取り決めが含まれており、決してそういう単一目的のものではなかったことに注意すべきでしょう。
これで全体の2/3を訳し終わりました。
==================================
アジア属州≪アナトリア半島(いわゆる小アジア)西部に存在した元老院管轄の属州≫における1/10税地

アジア属州における同様の発展はシチリアにおいてよりも早く完成したように見える。アジア属州はまた、[グラックス兄弟の]センプロニウス法によれば1/10税の対象地とされ 93)、更にはしかしここではこういった税の形式はより以前からあったの他の形式の税より有利なものとして位置付けられるように見え、しかしその以前の税の個々の事例については知られておらず、王の恣意的な課税権に基づいて導入されたものであったように思われる。Vectigal による賃貸借にはローマの騎士階級≪世襲貴族と平民の中間の階層で商業などに従事した≫のローマ国家への利害関心から、ガイウス・グラックス≪弟≫の同じ法が使われ、それは実際的にはただ属州自身による諸ゲマインデ向け及び個人向けの土地の、競売においての競争を激化させた、という意味しか持っていなかった。その場合キケロ(弟クイントゥスへの書簡集、1,11 §33)がアジア属州の諸ゲマインデについて次のように言っているのであれば:nomen autem publicani aspernari non possunt, qui pendere ipsi vectigal sine publicano non potuerint, quod iis aequaliter Sulla descripserat,[しかし公有地貸借人という名前(立場)を拒絶することは出来ない。何故ならばその公有地貸借人という契約無しには、地代を払って公有地を借りて耕作することが出来なかったからであり、それはそういった者達に対してスッラが公平に制度化したものである]、そうであればここで言及されているのはほぼ次のことと同じで、つまり属州となった地域から得た[領土という]収入を個々のゲマインデに対してその元々の大きさに基づいて、元の面積の単位面積あたりに平均で決めた地代付きで改めて割当てるというやり方について言及されているのであり、つまり諸ゲマインデが決まった額の賃借料を支払うことを承諾し、その支払い[による公有地貸借契約]がその者達に対して認められたのである。しかしこの試みは、キケロの引用文を見る限りでは失敗したように思える。何故ならば後の時代になってもアジア属州に公有地貸借人が存在しているが、その者達については元々の所有状態を回復するということと関連付けられる必然性はもちろん無かったからである;いずれにせよ公有地の貸借料付き貸し出しは、地域毎に徐々に導入されたように思われる(キケロ フラックス弁護 37, 91)。というのもシチリアと同じくここでも固定額の使用料への移行が行われており、それもBC48年のカエサルによってである。(アッピアノス、1.1. 5,4)。

93) アッピアノス 内乱記 5,4

キケロによる有名な記述(Verr. III,6,12 94))によれば、次のような印象を得ることが出来る。つまりこうした状態は、それはカエサルがシチリアとアジア属州で構築したもののように見えるのであるが、他の属州でもその設立当初から存在していたのであり、それ故に属州全般で収穫高とは連動していない固定額の使用料の支払いという形で、諸ゲマインデ自身に割当てられた税というものが、属州の土地に対しての唯一の課税のやり方だったのである。

94) Ceteris impositum vectigal est certum, quod stipendiarium dicitur, ut Hispaniae et plerisque Poenorum.
[更には(シチリアとアジア属州以外の属州でも)課される土地使用料は固定額であり、その税はヒスパニア(スペイン)でも、また大部分のアフリカでも課された。]

しかし以上のような結論は少し早まったものであるかもしれない。例えばサルデーニャ島では反対の例が知られている 95)。

95) リヴィウス、36,2,13。同様にスペインにおいても1/10税地が存在しており、C.I.L.,II,1428 の碑文によれば、皇帝クラウディウス≪在AD41~54年≫が≪ケンススを行った≫監察官としてAD49年に記録している。≪実際のケンスス自体はAD48年。≫

しかしこのことは次のように解釈することが出来るだろう。つまり帝政期の始まりまでは、課税の発展傾向は次の方向に向かっていたということで、それはその属州に従属する諸ゲマインデに対して、税徴収に関しての自治権を与えそしてその税徴収の総額を固定化しようとすることである。≪面倒な個々の税徴収は諸ゲマインデに任せ、ローマ国家としてはその総額だけをもらえれば良かった。≫それについての例としてはアウグストゥスがガリアに対しての基本法の制定時に、そういった土地の年当たりの使用料(税)をその属州としての総額4千万セスティルティウス≪アウグストゥスが大型化した黄銅貨で 2+1/2 アエスに相当≫で導入しようとした際に 96)、個々の納税義務者の集団を分類する作業はローマの行政当局は全く関与しておらず、その分類はただ諸ゲマインデと諸種族に分ける、ということだけが行われていた可能性がある。≪参考:アウグストゥスは共和政期に属州長官となったものが税徴収のルートに入ることで中間で不当な利益(ピンハネ)を得ていたのを直接ローマに納入させるようにしている。≫

96) エウトロピウス、ローマ史概説、6.17。スエトン、De vita Caesarum, 25。

同様により確かなこととしてもちろん次のことは妥当であろう。つまりローマの国家の行政当局は税徴収に関する管理権を放棄したなどということはまったく無く、行政の根本原則が変わっていくのに合わせて、税徴収に関する自治権を取り上げることになった、ということであり、それについては既に見て来たし、また後述の箇所でも見ることになる。

アフリカにおける税の現金納入義務者

キケロが述べている箇所に拠れば、固定額の現金による税が課されていた属州に含まれるのは、大部分のアフリカ属州(”plerique Poenorum”)≪Ponenorum = フェニキアの、の意味は元々カルタゴを含めて北アフリカでフェニキア人が開いた都市、地域ということ≫もまたそうであった。アフリカ属州において知られていることとしては、そこにおいてポエニ戦争の後に7つの civitates liberae et immunes [自由でかつ免税の都市]が存在していたということで、それはウティカ≪Utica、現代のチェニジア、アフリカでもっとも古いローマの植民市≫、ハドルメトゥム≪Hadrumetum、チェニジアの港湾都市スースの古称≫、タプスス≪Thapsus、現代のチェニジアのベカルタの近くの港湾都市≫、レプティス≪Leptis minor (Parva)、現代のチェニジアのレムタ≫、アチョラ≪AchollaまたはAchilla、Achulla、現代のチェニジア東岸の港湾都市≫、ウセリス≪Usellus または Uselis、Usellis、サルディーニャ島西部の都市≫とテウダリス≪Theudalis または Theudali、チェニジアにあったローマの植民市≫の7市である。これらの都市は税支払いが完全に免除されていた。それに対してその他の都市ゲマインデはアフリカでは存在せず、全ての他の諸ゲマインデ団体はポエニ戦争の後に解体させられた 97)。

97) アッピアノス、ポエニ戦役、135:”κ α θ ε λ ε ῖ ν  ἁ π ά σ α ς”[徹底的に破壊する]≪該当箇所のChatGPT4o訳:彼ら(元老院の使節)は、カルタゴでまだ残っていたものが何であれ、スキピオの指揮のもと徹底的に破壊することを決定した。そして、誰にもカルタゴに居住することを禁じた。その際、特にビュルサや「メガラ」と呼ばれる場所に住む者には呪いをかけた。ただし、土地を訪れることまでは禁じなかった。(但しスキピオがカルタゴの農地全てに塩を撒いて二度と作物が獲れないようにした、という伝説は有名であるが、それを証拠付ける資料は戦争後すぐのものは残っておらず、後世になって言われたこと。そもそもグラックス兄弟がそのすぐ後にカルタゴに入植を進めたというのと矛盾する。)≫

アフリカにおいて国家に直接対抗する位置に置かれたのは、[もはやゲマインデや都市ではなく]ただ個々の人間集団であった。そういった人間集団の一部を成すのがグラックス兄弟の改革によって実現したカルタゴへの植民者であり、その者達は土地改革法によって viritane Assignation [小規模な非定期的な土地割り当て]によってその地に移住した(モムゼン C.I.L. I. p.97):その者達は税を免除されていた。

また免税の耕地の別の例として確かなものは、スキピオによってマシニッサ≪Masinissa、BC238~BC148年、第二次ポエニ戦役でローマに協力した功績でスミディア王となった。≫の後継者達≪マシニッサの死後、ヌミディアは彼の3人の息子であるミキプサ、グルッサ、マスタナベルがそれぞれ支配する王国に分割された≫に与えられた耕地かあるいはカルタゴからの投降者に対して割当てられた耕地であり、そしてまたローマ人の居留地であって、イタリア半島でも例があるように、公有地から免税のゲマインデに変更されたものである 98)。

98) 土地改革法の Z. 79. 80. 81。”perfugae”[(カルタゴ軍からの)脱走兵]の国法的な位置付けについては問題が多いように思われる。可能と思われるのは、モムゼンが推定しているように、その者達は自分達のゲマインデを作った、ということである。私にとってより確からしいと思えるのは、大土地所有者[(後の)ラティフンディウムの所有者]と関連があり、その者達は小作人を伴ってかつグーツヘル≪中世ドイツでの大地主≫として歴史に登場してくるのであるが、stipendiarii[現金による納税義務者](後述の文を参照)と同じであり、ただ税は免除されてその土地に留まっていた、ということである。そしてその者達に認められていた土地の所有状態とは、これもまたモムゼンが推定しているように、公有地の所有者ではない。

全てのこの種の所有状態は法的には取り消されることがあるものであり;法によっていつでも行政当局が意のままに処理することが可能だったのであり、そのことから既に次の状況が生じていた。それは土地改革法の規定がこういったカテゴリーの土地の所有者に対する補償について取り決めていたということであり、土地割当てまたは土地売却の結果としてそういった土地の所有権は部分的に取上げられた場合があり、――しかしながらそういった補償が法的に規定されていたという事実は、次のことを示している。つまりその所有状態は少なくとも行政法的には保証されており、それ故に法に基づかないで単なる行政処分によってその所有が否定されるということは許されていなかったのである 99)。

99) このことは私の考えでは、その権利状態は次のような者のそれと同じであり、それについて土地改革法が次の箇所で言及している(Z. 91):Quibuscum tran]sactum est, utei bona, quae habuisent, agrumque, quei eis publice adsignatus esset, haberent [possiderent fruerentur, eisquantus] modus agri de eo agro, quei eis publice [datus adsign]atus fuit, publice venieit, tantundem modum [agri de eo agro, quei publicus populi Romani in Africa est, quei ager publice non venieit, … magistratus commutato.
[その者達について次のことが行われた。その者達が持つ財産、及びその者達に公的に与えられ割当てられた土地を所有、占有、利用することが出来る、とされた。その者達に公的に与えられ割当てられた土地が公的に売却される場合は、その土地と同じ面積の別の土地を、ローマ人民のアフリカにおける公有地の中で公的にまだ売却されていない土地を交換として土地売却担当官が与えるものとする。
モムゼンが推定しているのは、ここではその者達との間で課税方法について協議され、取り決めがされた、そういう者達について扱っているのであるということである。私が信じたいのは、ここでは(納税義務のある)公有地の占有人達を扱っていて、その者達について行政の手法においてその所有権が整備され、その結果その者達は納税義務という点において、カルタゴ軍からの脱走兵と同等に扱われたのであるということである。その者達は stipendiarii (後述の文参照)ではない。何故ならばその者達の土地はローマ人民の公有地だからである。土地改革法の Z. 92/ 93 は通常の占有について述べている。そういった土地について公有地の貸借管理人は[その占有を]法的に無効にすることが出来た。監察官による公有地の賃貸しと不安定な公有地の占有への認可が根本的に全く同じことであるのは、ここでは極めて明白である。

納税義務のある所有形態として我々は先の箇所で ager privatus vectigalisque の永代貸借人と取り消し可能な ager publicus の賃借人について見て来た。しかしながら更に別のカテゴリー 100) として存在するのが “stipendiarii” [現金による土地への税の納入を義務付けられた者、そういう土地の占有者]である。

100) しかしながら注釈 99 も参照すること。公共の放牧地についてはここでは扱わない、何故ならばここでは単に色々な所有状態について論じているからである。

この現金による納税を義務付けられた諸ゲマインデについて非常にしばしば耳にする一方で、土地改革法においての表現はゲマインデのことなど何も言っておらず、現金納税を義務付けられた諸個人の土地所有についてのみ言及している 101)。

101) 土地改革法の Z. 77: II]vir, quei ex h. l. factus creatusve erit, is in diebus CL proxsumeis quibus factus creatusve erit, facito, quan[do Xvirei, quei ex] lege Livia factei createive sunt fueruntve, eis hominibus agrum in Africa dederunt adsignaveruntve, quos 78. stipendium || [pro eo agro populo Romano pendere oportet, sei quid eius agri ex h. l. ceivis Romanei esse oportet oportebitve, … de agro, quei publicus populi Romanei in Africa est, tantundem, quantum de agro stipendiario ex h. 1. ceivis] Romanei esse oportet oportebitve, is stipendiarieis det adsignetve idque in formas publicas facito ute[i referatur i(ta) u(tei) e r(e) p(ublica) f(ide)]q(ue) e(i) e(sse) v(idebitur).
[2人委員会は、この法律によって決められ任命されたのであるが、その委員会が決められ任命されてから150日以内に次のことを行わなければならない、つまりリウィウス法≪Lex Livia de coloniis deducendis(植民市建設についてのリウィウス法)、BC122年≫によって決定・任命されているかされていた10人委員会が、アフリカにおいて土地を与え割当てた者達について、その者達の土地がこの法律によってローマの人民のものとされるか、あるいはされていた場合は、その土地について税金をローマの人民に対して支払うことを義務付け、…≪もしその者達の土地が何らかの理由で没収された場合は≫ その土地がアフリカにあるローマ人民の公有地である場合、その税金分に相当する大きさの土地医をそれらの納税義務者に与え割当て、そして公共の測量図に記録し、公益と信義の観点から適切に実施されるようにしなかればならない。]

こういった所有関係についての法的な所有権を確認しようとした場合、まず最初に受ける印象は、この税金付きの土地の仕組みが、公有地売却担当官による公有地賃貸しのために使われる公有地の利用促進を目的として構築されたのではない、ということである。私がそこから考えたのは、この種の課税は一般論として公有地に対する使用料ではなく、純粋な土地税として理解すべきであろう、ということである。他面、次のことは疑いようもなく確かである。つまりこの種の税金付きの土地の法律上の所有権がローマ人民に属している、と見なし得る、ということである。というのも土地改革法で規定されているのは、この種の土地については部分的には売却と割当てによって処理されるということで、そのためこの土地の所有状態については[永代貸借が多くの場合認められていた]ager privatus vectigalisque とは反対に、いつでも取り消されることが可能だった、ということであり、そこから結果として出て来たことは、まず第一に、土地改革法の規定によればこの種の耕地については公的な測量図を作成して登録しなければならないという義務である。補足的に書かれている”utei e re publica fideque ei esse videbitur” [公益と信義の観点から]という表現から考えられることは、測量図の作成については十分な慎重さをもって行う必要性があったであろう、ということである。実際には、通常の測量方法であるケントゥリアを使ったものはこの場合は採用されていなかった。先の箇所(第1章)で既に測量の方法については論じて来たが、ここで言及されている測量の方式が per extremitatem mensura comprehendere [全面積が測量されているが区画に分けられておらず、その境界が自然物{川など}による土地]であり 102)、その場合はより広範囲での耕地の法的な定義付けがおそらくは地図上に記録されている可能性がある。

102) フロンティヌス p. 5, 6 : eadem ratione et privatorum agrorum aguntur. [同じ方法で個人所有の土地の測量も行われる。]

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(46)P.260~263

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第46回です。
ここでは属州、つまり主に戦争による勝利によってローマの領土になった場所でどのように土地が管理されたかのかなり細かい議論が続きます。
注意していただきたいのは、ローマは属州に対してやらずぶったくり的な搾取は決して行っておらず、属州側からすれば単に1/10税を払うだけで自分達の安全はローマの軍隊が守ってくれ、道路や水道などのインフラ整備もローマがやりかつ自由なビジネスも出来たということで、こういった寛容な政策が占領した土地のローマへの同化を容易にしたということです。
一旦ローマの土地となったものも、以下に詳論されているように、実質的には諸ゲマインデの所有に戻っています。
==================================
後者の区別の法的に不安定な位置付けは、その表現の中に明確に現れている。一方では農民の間で、他方では土地所有者と公有地貸借人との間で、法的な位置付けとしてその2つの間隙を橋渡しするような中間連結物は存在していなかった。

公有地ではない属州の土地

ここまで公有地とそれに倣った土地においての所有状態の法的形式について我々は見て来たのであるが、そうであれば次に我々は属州の土地においての同様な部分へと目を転ずることとするが、その部分はまたここでも土地の譲渡形態と私権的関係の間に因果関係が成立しているかどうかを調査するための属州の特別な性格となっているのである。そのような属州の土地は狭義の公有地、つまり ager publicus ではない。何故ならばその種の土地は[ager publicus ではないものとして]イタリアにも存在していたからである。他方でははっきりした契約による売買に基づく土地や、属州の総督の行政方針によって認可された租税免除の諸ゲマインデの土地もまたそういった類の土地には属しておらず、属州の土地の内そういった部分として見なすことが出来るのは、ローマの国家主権がそれらの土地を当然の自分達の土地として権利を主張し、しかしその場合でもその領域が ager publicus の根本原則に従った土地として利用されないか、あるいはそのようなものとしてローマの官吏によってローマの所有形態に沿った形では与えられていなかったものである。ここで消去法的に、かつまた不正確に描写された制度をいかに肯定的に理解すべきかということは、次に挙げるような属州についてその実態を一瞥することが必要で、そうした属州とはそれらが共和政期にどのように設立されたかについて多少は情報が残されている、シチリア、小アジアとアフリカである。

シチリアにおける1/10税地[Zehntland]

シチリアにおいては 82)、一部のゲマインデは租税を免除され、また一般的に言ってローマの行政権力が直接そこに及ぶことから免れていた。シチリアでの他の領域で戦争≪主に第一次ポエニ戦争≫によってローマのものとなった諸都市は、その領土に関する所有権を失い、その土地はローマによって没収され、ager publicus となり、監察官によって何らかの形で使用料を課され、それについては上述の箇所で見て来た通りである。その場合にそうした耕地が改めて測量されたかどうかは、つまりはカンパーニャ地方の土地の場合のようにであるが、何も知られていない。しかしフロンティヌスの arva publica [公有の耕地]についての注記がその他の場合を説明しているかもしれない。

82) 次のことは自明である。つまり属州に関する事実については、キケロのウェレス弾劾演説が決定的な文献情報であり、しかしそれはただここで取り扱っている問題に関係する箇所を検討する場合のみである。

いずれにせよしかしながら成立していたのは、それをこれから見て行く訳だが、この種の耕地についての何らかの統一的な所有権で、それは国家から土地を借りている者のものとしての、期限付きの所有権である。古くからの住民が元来はその多くが土地の賃借人であったということは、この辺りの事情を何ら変えることはない。また個々の土地区画の権利に関しての裁判権もまた、それが必要である限りにおいて、ローマの行政当局の手中にあった。

第三のカテゴリーの土地は、ローマに没収されなかったものの、非課税のままとされることもなかった領域である。まったく確かなのは、ローマ人がここではまた理論上は土地の所有権を書き換えて自分達のものにしたのではなく、それまでの土地の主人の、つまりシラクサのヒエロン王の所有権についてそれをそのまま継承したように思われる、ということである。特にその中でもローマ人がヒエロン王から受け取ったものは、王の租税に関する規定、つまりいわゆる lex Hieronica 83)である。

83) 参照:デーゲンコルプ≪Karl Heinrich Degenkolb、1832~1909年、ドイツの法学者≫、Die lex Hieronica、ベルリン、1861年;ペルニーチェ、Parerga、Z.f.R.G.,Rom. V, p.62f。

ヒエロン王の租税規定はまた、既に十分に検証されているように、王の1/10税に基礎を置いている。個々のゲマインデではそれぞれの地区の1/10税を課される農民の人数を毎年確認することになっており、そしてそのリストを公的に閲覧出来るようにしていた(Verr. acc の 3, 120)。農民の側からは、この目的のために使われる土地の面積のユゲラ数(同一書の53)と蒔いた種子[の種類](同一書 102)を申告することになっていた。次に一定の収穫が見込まれるシラクサ 84) のゲマインデ毎の領域が属州総督の名前で競売方式によって落札者に貸し出され、それについては見込みの収穫の一定割り合いの量を貢納し、また収穫が見込みよりも減った場合でも同じ量の貢納義務を負うリスクを受け入れるという条件付きであった。

84) キケロ、Verr III, 33, 77;III, 44, 104; III, 64, 149。

収穫に際して1/10税を徴収する権利のある者は、その耕地での収穫の1/10を取ることが出来、穀物を収穫に先立って受け取ることは許されていなかった。しかし事実上は一般的には収穫量の1/10が徴収されたのではなく、1/10税の義務を負う賃借人は個々の1/10税の徴収権利者と、収穫が予定より少なくなった場合にも変動しない一定の額の納付について取り決めていた。

法的な所有権

この手続きにおいて行政法的に本質的なことは、農民と1/10税を課された土地区画との関係が未確定のままにされた、ということである;1/10税を徴収する者は、その年にその土地を耕作する者に対して、その者がその土地の所有者であるか、あるいはある個人またはある自治体からその土地を賃借している者であるか、ということにはまったく無関心であった 85)。

85) Verr. III, 8, 20にて。

こういった私法的な関係についての裁判権は、その所有の権利についての基準の設定と同様に、それ故にそれぞれの自治体の手中に委ねられていた 86)。

86) Verr. II, 13, 32にて。

他方では所有権を回復しようとする者[Rekuperatoren]による訴訟が起きており、それは次の者達の組み合わせによって(ここについては十分な情報はないが、例えば以下のように)、つまり2つの利害集団、つまり[土地の]販売人と農民という、1/10税に関係する者達を≪原告と被告として≫ペアにして、しかし議事取り仕切りはローマの官吏の元で、1/10税の義務を負う者とその徴収の権利を持つ者との間で発生した争点について、決定が為された 87)。

87) デーゲンコルプの前掲書の既引用部参照。

――次のことは明らかである。つまりこの2つの利害集団の衝突が、それぞれの特別な観点において決定的な争いが避けられなかった、ということであり、というのも所有権回復訴訟においては納税義務者についての問題は、しばしば土地区画そのものへの権利の問題から分けて扱うことが不可能だったのであり、つまりは例えば業務上の犯罪が刑事訴訟案件として扱われる場合があるのと同様に 88)、取り扱われた、ということである。

88) 参照:Verr. III, 22, 55 にて。

どのようにしてこのような利害対立の関係が解決されたのかについては知られておらず 89)、しかしいずれにせよ我々がここで見てとることが出来るのは、ゲマインデの自治と国家による直接の課税を一つのものに統合しようとする試みの例であり、そしてこのような異なる考え方を混ぜて一つのものにするということは、属州における土地区画の権利状態を、統一された観点で遡及して研究する上での本質的な部分となっているのである。

89) 先に引用した箇所が示す所によれば、根本的な解決は出来ていなかったように見える。

一方では国家の個々の土地区画に対しての直接的な関係で、それはより後の時代に使われた課税地を意味する別の表現である praedium stipendiarium が既に当時使われ始めていたかのように思わせるのであるが、他方ではしかし諸ゲマインデが自治を望んだこと、つまりは[ローマ市民以外の]の外国人としての権利の維持であるが、この双方が属州における土地所有の権利状態を曖昧にしていることは否定できない。既に言及したケンススは形の上では国家による地方自治体へのケンススであったが、しかしそれは実質的にはその属州で支配的なゲマインデの実態を調べる属州によるケンススと言えるものであった。というのも属州総督側からの監査は、当然のこととして国家による課税がされている土地の場合でも無しで済ますことは出来なかったからであり、キケロが注記しているのは、この監督権に基づいて属州総督は事実上徴税簿の内容を把握していたのであり(Verr. acc. のII, 53, 131; II, 55, 138 にて)、そしてこのことは総督が土地所有者の利害を自分の管理下に置くことをそれだけ容易にしたのである。しかしその場合でも諸ゲマインデはまた自分達自身の必要物を調達するために土地台帳も必要としたのであり、それは間接税≪関税、通行税など≫とゲマインデの財産からの収益では十分ではない場合においてであるが、その場合次のことを認めるのは難しいであろう。それはその土地台帳がローマが自身の公課の目的で使っていたものとは別のものであるということである。キケロによる個々のケースの説明もまた、その2つの土地台帳が同一のものであったことを裏付けている(Verr. acc. III, 42, 100 にて)。

もちろんこういった関係は本質において人為的に作り出されたものであり、後の帝政期においても再度繰り返されている:この土地という領域におけるゲマインデの自治は形の上だけで成立していたものであり、その実質的な中身は何もなかった 90)。こういった状態についてはここではしかし保留とし、また別の所で扱うこととしたい。

90) 確かなこととしてこうした手続きは u.a.c.548年≪BC204年≫[の第二次ポエニ戦争の時]にローマに対して反乱を起こした 12 のラテン植民市に対して行われたものと同様のものであった。リヴィウスの 39, 15 で述べられているように、その 12 の植民市に対してその財産[の金銭換算額]1000に対して1の割合いの継続的な税が新たに課せられ、また次のように規定された:censumque in iis coloniis agi ex formula ab Romanis censoribus data [これらの植民市においてローマの監察官によって与えられた形式に基づいてケンススが実施されるべきである]、この句が意味するのは植民市がローマの一般的なケンススの形式におってではなく、ローマとその植民市の関係に合わせた、ローマの監察官側ら支給される特別の規則に従って評価されたということで、それはシチリアの諸都市がローマの側から定められた形式、つまり lex Hieronica によって評価されたのと全く同じである。元々そこの住民であった監察官達は、誓約下で彼らが実施したケンススの調査結果をローマに対して報告することになっていた。それに対してのある種の監査は法的に認められていたに違いない。

諸ゲマインデは民衆からの耐え難い圧力と属州総督の恣意に対抗して次のやり方で自衛しようとした。それは諸ゲマインデ自身が自分達の領域において競売に付された公有地を競り落としたり、あるいは最高価格を付けた入札者からその土地を買い取ることである 91)。

91) Ver. III,33,77; III, 39, 88; III, 42, 99 等にて。

これらのことが実際に起きたことだとしたら、諸ゲマインデは当該の年について、まるで彼ら自身が収穫物の内の固定の割合の貢納の義務を負っていて、かつそれは更に別の者に再割当てして負担させることについて正当な権利を持っているかのように振る舞うことを意図していたと言える。このようなケースバイケースで起きていたようなやり方は次の段階では――それも遅くともカエサルによって――継続的に行われるように変わって行ったのであり、それは現物貢納から現金地代へと変わったのと時期を同じくしていた 92)。

92) プリニウス、H. N. III, 91。

というのはこの変化した形が、より後の時代におけるシチリアの諸ゲマインデの状態となったからである。これによってその地方の土地の権利がより後の時代まで保証されることになり、実際の所シチリアにおけるその地方での土地の権利、例えば jus protimiseos [買占め権]の形で中世に入っても残っていた。≪全集の注は jus protimiseos はイタリア半島の制度が伝わったもので、シチリア島固有の制度ではないとしている。≫

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(45)P.256~259

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第45回です。ここではローマ法のvectigalを巡ってのかなり専門的な議論が続き難解です。下記の訳は現時点での私の理解ですが、まだまだこれから見直す必要があるかもしれません。
2024年の日本語訳公開はこれで終了です。次回は年明けになります。
===============================
そういった言い回しはよりむしろ次のことを意味しているのに等しい。つまりゲマインデの所有権の主張を、現物の土地の押収という形でか、あるいは土地への vectigal [地代、税、利子]を課する形で行うことが出来る、ということである。vectigal は公的な所有物を実質的に売却する上でのもっとも分かりやすい形式である。ある、既に vectigal が課されている fundus をゲマインデに対して遺贈することは、その有効性が疑わしいものとされた。何故ならばそういった土地は既にムニキピウムに属するものとされていたからであり(D. 71 §5, 6 de legat[is] I.30)、しかし更にはまた次のことも示唆されていた:ある植民市において水道橋の設置が必要となった場合は、その植民市の規約で決められていることとして、土地の強制収用権がその植民市自身(たとえば植民市ウル≪現スペインのオスナ≫)に帰属し、モムゼンが妥当な理由を持ってそれを主張しているように、水道橋が建設される fundus 全体に対してその権利が及んだ。その土地の側に住んでいる住人は今や(P.348, 6f. ラハマン) 水道橋の維持管理義務を負わされ、その者達にはそれ故に一種の税が課されたのと同じである。明らかなことであるのはその者達にそういった義務を課することを可能にするには、まずは補償を前提にその者達の fundus に対する所有権を取上げ、そしてその fundus を今度は fundus vectigalis という地代支払い義務のあるものとして戻すのであるが、もちろんその際には同様にその地代支払い義務の対価を支払うのであるが、その対価には強制収用の全支払金の中から補償金としての分が含まれていた。水道橋の建設を進めるためには、それらの土地に対する地役権≪他人の土地を利用出来る権利≫を設定することで十分であった。

レンテを課する時に使われた法的な形式は、もちろん握取行為の際に使用される既に述べた法規が定める形式である 78)。それによってレンテの権利を擬制的に持つことと、土地の用益権が等置されたということは、しかしただ次のことの理由となっていた。それは握取行為の形式がそれによって個人間で土地区画に対する継続的な権利が一つの行為によって設定されるただ一つの法的形式だったということである。というのはその形式は諸ゲマインデに主権とそこからまたある種の絶対的な行政権をもたらしたからである。

78) D.61(スカエウォラ)de pignor[ibus]。キケロの、De l. agrar. III, 2, 9。参照:C.I.L., V, 4485。それについてはまた 1. 219 D. de v[erborum] s[ignificatione] にある”locare”[契約する、契約して貸す]としても理解すべきであり、このことがまた C.I.L., X, 5853 のフェレンティヌム≪ローマの北北西70Kmの所にある、現在のヴィテルボ≫の碑文にある “redemit et reddidit”[買い戻して返却する]の意味である。この手続きは次のような内容を考えると常にかなりの不透明さを持ったものであり、つまりまずはゲマインデが所有している fundus をこの手続きである個人へ譲渡し、次にその個人からその fundus を一旦返却させ、更に今度はそれに vectigal を課した形で戻す、というものである。また≪単に≫”redimere”[買い戻す]はそれとは反対の手続きである。それに対して個人によるゲマインデへの土地の返却が、当事者の目には本質的にはただ形だけの手続きと映っていたとしたら、もし”redimere”[買い戻す]が先に来て、次に”reddere”[戻す、引渡す]と述べられているのであれば、その返却の手続きは特に注意すべきようなものではないのである。Redimere はこの一連の手続きの中での義務的なものを指し示し、reddere はその手続きの中での物権的な部分の最初の半分を指し示し、この部分の2番目のものは既に述べた法規に規定されている握取行為として成立していた。

――それ以外にもちろんまた、永代賃借においてそれが賃借料に依拠したものであることを明白にするために Remission[軽減](D.15 §4 locati 19, 2)という考え方が適用されていたのである。――他方ではこの形式は次の側面も持ったものとして現れて来ていた。つまり諸ゲマインデにおいては、vectigal が一見したところ益々ある一定の資本総額に対しての利率のように思われるようになり、更にはそれは文書による裏付けのある購入資金に対しての抵当権、という性格のものに近付いていった、ということである。この形式はその根拠をおそらくは国家による長期の賃貸しへの依存ということの中に持っていたのであり、そこにおいての代償としては、それはおそらくはそのようにして作り出されることが試みられたのであるが、永代の貸借権を得るために支払うお金とまたその利子として成立していたのである 79)。

79) そこから更にユスティニアヌス帝の法学提要によれば(§3 de loc[atione] III, 34) … familiaritatem aliquam inter se habere videntur emtio et venditio, item locatio et conductio, ut in quibusdam causis quaeri soleat, utrum emtio et venditio contrahatur an locatio et conductio. Ut ecce de praediis, quae perpetuo quibusdam fruenda traduntur.
[契約に基づく売買と、賃貸借とそれに基づく貸し出しとは、お互いに良く似た行為であると見なされる。ある取引きでそれが前者なのか後者なのか、どちらに基づいて行われたかが問題となることが多い。例えばある不動産について、それがある者に対して永久に使用させるために引渡された場合などである。]

発展の過程では実務的な観点に立てばいずれにせよ、vectigal 付きの fundus の占有者が次第に所有者と同一視されるようになっていった。その占有者自身による、あるいはその占有者に対しての境界線確定訴訟が起されることがあり得たということは、何も特別なことではない。何故ならその者はその場所の占有者として保護されており、その場所の境界線に関しての訴訟は、その場所の保護によって利益を享受する者に対して全面的かつ唯一帰属するものだったからである(D. 4 §9 fin[ium] reg[undorum] 10, 1)。

ただ、またそういった土地に関する訴訟としては、公有地分割訴訟(D. 7 pr. §1 h.t. 10, 3 )や更には家族間での遺産分割訴訟(D. 11 h.t. 10, 2)の対象となることも説明されており、vectigal 付きの fundus は遺贈することが可能であり(D. 219 de v[erborum] s[ignificatione])、更にはその vectigal 付きの fundus について、売却を許可された確定的な物権として訴訟を起すことも可能であった(D. 1 pr. de cond[itione] trit[iciaria] 13, 3)。しかし、もちろん該当する諸法規からは次のことを見て取ることが出来る。つまりはこの制度全体での諸関係の中には、実務上では疑問になる部分がある、ということである。特に土地分割訴訟を扱っている箇所(D. 7 pr. comm[uni] div[idundo])は改ざんされたのではないかという印象を与える:確かに根源的にはまだウルピアヌスの時代までにはムニキピウムの当局による認可と vectigal を分割した土地それぞれに対してそちらも分割して課す、ということが先に行われることが必要であった。土地の譲渡性が関係するものは、C. 3 de jure emphyteutico IV, 66 の規定であり、それは agri vectiglaes を基礎といている法規則に依存しており、この譲渡に関しては諸ゲマインデの同意が必要だったのである。そこで規定されている制度における予審上の処理、つまりこういった審理において代理人を立てるということは、単に正当な理由があるというだけでは許可されなかった、ということは、こうした全ての劣位の権利を持った所有状態においての全体の進め方に関する行政上の規則について、その本質をもっとも良く説明している。laudamium ≪土地の買取り権を行使しない場合に、元の地主に支払う補償金≫については、emphyteuse ≪永代賃貸借≫の場合と同じく、ager vectigalis においては何も知られていない。

結局問題となるのは、vectigal が支払われない場合に、その土地区画はゲマインデに戻されるのかどうかということで、それは当然ながらまだユスティニアヌス帝の法規の中でも言及されている論点の実際的な側面であり、つまりは契約を購入と見なすべきか貸借と見なすべきか、ということである 80)。

80) 先の注で引用した箇所の更に先の部分。

これらの全ての土地の授与においての主要な難点は、おそらくはまたまさに次の点にあった。つまり多くの場合は永代貸借の権利金が支払われており、それ故に vectigal の支払いはその土地を与えられた者の唯一の金銭支払い義務としては説明されておらず、従ってその理由から vectigal の不払いがあったからといって直ちに土地を取上げることは出来なかったのである。文献史料では(スカエウォラの D.31 de pign[oribus])支払い遅延の場合の財産取戻し権は、前述の法において構成要素として言及されているが、それは自明なものではないし、またマティアス≪Bernhard Matthiaß、1855~1918年、ドイツの法学者≫が主張しているような、この制度全体を構築する上での出発的としても見なすことは出来ない 81)。

81) このことはペルニーチェの Parerga (Z. f. R. G., Rom. V)において正当に主張されている。

ゲマインデそれ自体については、単に強制手段に訴える資格を与えられただけであるが、しかしながらおそらくは D. 31 の引用済みの箇所で述べられている規定は、永代貸借権に関する前述の法規のかなりの部分においての構成要素となっているのであり、それ故に後に時代にはこれらの制度全体は利子支払いという制約を付けられた上での土地の授与と把握することが可能であり、それは例えばパウルス≪Julius Paulusu、3世紀のローマの法学者、ユスティニアヌス法典でその著作が引用される5人の法学者に準ずる存在≫の D. 1 si ager vectigalis VI, 3 に現れている通りである。

永代賃貸借

次のことはこれまで既に指摘して来たし、また疑いようのないことでもある。それは、後の皇帝による法規での永代貸借権が歴史的にそして法的にムニキピウムの agri vectigales に依拠していて、属州の土地税を課された耕地に依拠するのではない、ということである。このことは次の現象に対して特徴的なこととなっており、その現象については最終章でもう一度扱うが、それはつまりプリンケプス≪市民の中の第一人者という意味で、元々初代皇帝アウグストゥスが自身のことをそう称したが、実質的には皇帝のこと≫はその土地所有についてゲマインデの諸団体からそれを分離しようとしたり、またはそこの権利から取り除こうと強く試みたのであり、そして地主としてのそれらの団体の地位、それは元々ゲマインデの当局が元の地主から奪い取ったように、ゲマインデの当局へその地位の返還を要求した、ということである。

Empyteuse[永代貸借権]は、その名称自体は、元々はオリエントのギリシア語から取られたものであり、まず最初は属州においての新規開拓地に対して使用された語であり、そこではそういった新規開拓を自分で行って自分の土地とした者が、地代[税金、利子]を継続して固定額にすることを望んだのである。この制度が ager vectigalis と違う点はまさに本質的には譲渡の、元の地主の先買権の、名義変更の2%の手数料の、そして[通常の土地としての登録からの]免除の理由の確認の、そういった諸前提全てについての確固たる標準規定が存在しているということである。そういった規定は永代貸借権を受ける者にとってはまことに好都合で、その者達に釣りあった、この制度全体の諸関係についての規制形式であった。その形式は諸ゲマインデの agri vectigales に対してのものであるのと同様に、国家の agri vectigalesque に対してのものでもあったが、しかしそれはまた、通常土地が大規模な経営者に与えられるという形式に過ぎず、それは明確なこととしては、D. 1 si ager vect[igalis petature] における、vectigales とそうでないものとの区別以外の何物からも発生していないように、そこでの区別は明確に主張されているように、次のような土地同士の区別と同じことであり、それは一方は契約者、つまり土地の貸借契約を引き受ける者に対して永代または有期で貸し出される土地であり、もう一方は耕地であって、農民、つまり独立の小農場経営者に、”colendi dati sunt”、つまり耕作目的で与えられたものであり、その相互の土地の区別と同じである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(44)P.252~255

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第44回です。
ここでは中世において盛んになる Rentenkauf (地代徴収権の売買)の萌芽がローマにおいて見られる、という私には非常に興味深い箇所です。Rentenkauf は中世においてはキリスト教会による利子禁止の回避手段として使われ、お金の貸し借りではなく、あくまでも地代を徴収する権利の売買として禁止の対象から外れました。しかしその代わり、借りた方は永久にレンテ(定期支払い金、地代)を払い続ける必要があります。ローマでは地代=税=利子が流動的な関係にあって、ゲマインデが土地を利用して資金(税金)を得る手段として使われたことが論じられます。
個人的には、この Rentenkauf については色々思い入れがあり、大学の卒論で研究したドイツの第1次世界大戦後のハイパーインフレを終息させる手段として発行された有名なレンテンマルクもまさしくこの Rentenkauf の仕組みを利用したものでした。また、そもそも「中世合名・合資会社成立史」を訳したのも、そこで Rentenkauf が論じられていたのがきっかけの一つです。
===================================
ただまだ論じていないケースに該当する所有状態についての、正規な手続きに基づく物権訴訟が後になって現れてくるが、このケースでは国家が関与するものではなくて、諸ゲマインデが関与していた劣位の権利を持った所有状態であった。

ムニキピウムによる Ager vectigalis

それは “si ager vectigalis petatur” [もし賃貸借料が課されている土地に対してその占有の取り消しが行われたら]≪法規の中の章名≫という場合においての形式である。この形式はレーネル≪Otto Lenel、1849~1935年、ドイツの法学者、法制史家≫によれば、疑い無く次のような場合においての耕地の占有を回復することに該当する。それはつまり貸借地あるいはむしろ永代貸借地であったものがゲマインデによってそれを取り消された場合であると。このケースについては後でより詳しく検討することにするが、というのもイタリアにおいてはいずれにせよ疑い無く、同盟市戦争の後ではローマ国家が認めた貸借人というものがもはや証明不能になり、アフリカにおいての ager privatus vectigalisque の資格証明はともかくも疑わしき状態に留め置かれたのであり、それ故にこの形式による手続きが、ローマ法が改正された時代においての、永代貸借権の全体の状態を明らかにする唯一のやり方だったのである。

以上述べた形式の行政法的な起源については、ここにおいて疑いようがない:どのような私人もこういった永代貸借権を与える側になることは出来ず、このやり方の制度化はそうではなくて国家の大権に基づくものであり、諸ゲマインデにおいてはそれは昔の国家主権の遺物と見なされていた 61)。

61) しかしながらまた、市民植民市もまた永代貸借権を賦与する側になることが出来たが、それについては既に注記した通りである。――Leibrenten≪一生支払い続ける義務のあるレンテ=定期支払い金≫で一まとまりの fundus に対して課せられるものも、また個人に対してのものとしても制度化出来ていた、参照:D. 12. 18 pr., 19 pr. de annuis 33, 1、C.I.L., V, 4489。しかしながらその類いの永久レンテは実際には存在しておらず、無期限のレンテの遺贈もそういった形では存在しておらず、ただ終身レンテの信託遺贈のみが行われていた、D. 12 前掲部参照。

諸ゲマインデはこの ager privatus vectigalisque の制度を彼らに元々帰属する土地として利用するのと同時に、ローマ国家の公有地から彼らに譲渡された土地として――しかも常に無期限にそうされたものとして――利用した。

ゲマインデの税とゲマインデの財産

ローマ領内の個々のゲマインデがどのようにしてそれぞれの必要物を調達していたのか、その方法については周知のようにほとんど知られていない。その構成員の大部分が夫役制への移行へと追い立てられ、そこに一方ではそのゲマインデに所属する人員と、他方でその人員と一緒に働いている家族や奴隷も引き入れられた、ということを、スペインにあったカエサルによって建設された市民植民市のウルソ 62)≪セビリア東方100Kmの所にあった、現在のオスナ≫の碑文として残されている法規から知ることが出来る。

62) Lex coloniae Genetivae, Ephem. epigr.≪Ephemeris Epigraphica、ヴェーバーの当時古代の碑文の解読を集めた雑誌≫ II, p.221f., c,98. 99。

そこにおいては、割当てることが認められた週あたりの夫役の日数は一人あたりが5日、1ユゲラの面積あたりでは3日と定められていた。こういった夫役と並んで、その夫役ではカバー出来ない需要について、先行して金銭による賦課も行われていたことは、同様に確実である 63)。

63) キケロ、Del. agr. ≪De Lege Agraria contra Rullum≫2, 30, 82, Verr. ≪In Verrem≫IIの53, 131, II, 55, 138, Pro Flacco の 9, 20; 更に C.I. 10. De vectig[alibus] IV, 61。

更に知られていることは、諸都市においての貧民救済施策≪ローマでは共和政末期から帝政期に、貧民に小麦を安価で支給した、いわゆる「パンとサーカス」政策。≫は、土地所有者に穀物の備蓄をさせ、それを特価で提供させる、という形で行われており 64)、あるいは現物貢納という形でも先行して行われていた 65)、ということである。しかしこういった賦課、特に金銭賦課がどのようにして徴収され、またどのような原則に基づいていたのかということについては知られていない。しかしながら古代の諸都市は中世の諸都市と次の点は共有しているように思われる。つまり全てのこういった直接税は都市の予算の均衡を作り出すための特別な手段という性格を持っていたということであり 66)、この関係でそれらの直接税は都市による借款に等しいものであり、ひょっとするとローマにおいてそうであったように、強制的な公債として通用していたのかもしれない。

64) D. 27, §3 de usufr[uctu] は属州による穀物の購入に相当する。

65) キケロの Verr. III, 42, 100 (ここではローマに支払うべき公課を補完するものとして)

66) このことに該当するのは、それがもしゲマインデに対する課税について扱っている場合は、徴税官の時限的措置である l. 28 de usu 33, 2 の箇所である。

いずれにせよこうした直接税が結果としてもたらしたものは、我々の把握するところでは、ゲマインデの財産を出来る限り吸い上げる結果として税額を非常な程度まで増大させようとする動きが各所で熱心に行われていた、ということである。間接税、とりわけ関税・通行税は、それらは土地の所有の結果として生じるものとして捉えられるが、ここでは詳細に論じず、ただ諸ゲマインデのレンテ収入のみを扱う。――中世の諸都市においてはそれらの財産の管理において、高度の、部分的には天才的と言ってよいほどの業務と権利の形態を創造したことが記録されている。その中でも特に不動産を活用したレンテ≪定期的に入って来る不労所得≫の業務を発展させ、それは相対的に見て安定した公債制度を作り出したという観点で理解されるべきである。ローマの領土内で諸ゲマインデが財政をどのように運用していたかについてはほとんど知られていないが、しかし次のことはそれでも確かである。それはこのレンテを利用した収入の手段の運営という意味では、相対的には非常に遅れていた、ということである。

レンテ業務

ローマの諸ゲマインデにおいての公債制度はおそらくは大部分はレベルの低いもので 67)、諸ゲマインデは確かに能動的なレンテ業務を発達させたことはさせたが、それはまだ非常に原始的なものであり、つまりはただの賃貸しであり、まだレンテ≪地代の徴収権≫そのものが売買の対象とされる段階には至っていなかった。

67) 小アジアの諸都市は、≪兵士への≫賃金を支払うことが出来なかった時に、高利貸しから資金を借りる羽目に陥った、(Plut. Lucull 7, 20)

通常のゲマインデの財についての賃貸権と永代賃貸借と並んで 68)ここで見出すことが出来るのは、土地区画を個人が経営している場合に、そしてその土地区画を地代を課すという形でその個人に≪正式に占有を認めて≫返還することが行われており、それはゲマインデの資金 69) という形であるか、あるいはひょっとしたら特定の公的なあるいは福祉目的のための永久レンテの形であり、その中でも特に貧困家庭に対して子供の養育費を援助するという目的であった 70)。

68) これらについては、たとえば D. 219 の de v[erborum] s[iginigicatione] では契約者による貸し出しの結果として成立すると説明されている。

69) 皇帝は総統とゲマインデの管理者に次のことを指示した。つまり以下について尽力せよということで、それは擬制的に投資されたゲマインデの資金が可能な限り元の債務者≪元々土地を使用していた者≫の手に残るようにする、ということである。≪永久レンテの設定は、本来なら資金をその土地の所有者に与え、それに対する永久の利子の支払いとして定期的に金を支払う、ということであるが、この場合資金の貸し付けは実際には行われておらず、土地の占有と使用を前のまま認めることがどの代替の方法となっている。≫D. 33 de usur[is] (32, 1)参照。

70) そのようにアティーナ≪ローマとナポリの中間に位置する都市≫の C.I.L., X, 6328 他はなっている。

帝政期においては中央権力の干渉が見られ、それはある観点では貧困者救済という利害関心によっての、資本の前払いという形で土地区画への利子を条件とする貸付投資を進めさせたということであり、それは福祉目的のためと定められていたが 71)、別の観点ではそれによってゲマインデの財の投資を監視しようとしたのである。

71) 知られているのはネルウァ帝≪在35~98年≫からアレクサンデル・セルウェルス帝≪在222~235年≫までに導入された離別された妻や私生児を扶助するための大規模な基金であり、それについての碑文としてはトラヤヌス帝≪在98~117年≫の時のものが2つC.I.L. に含まれている。C.I.L., IX, 1455、参照:デジャルダン≪Ernest Dejardins、1823~1886年、フランスの歴史家、地理学者、考古学者≫の De tab. alim. パリ、1854年。ヘンツェン≪Wilhelm Henzen、1816~1887年、ドイツの碑文研究家≫の arch. Inst. in Rom の1844年の年報。土地区画に課された使用料を財源とする基金の資金は低い利率で貸し出された。土地区画の所有者がこの課された使用料を免れることが許されていなかったことは、確かなことと見なすことが出来、それはまた別の点では低利率によって償還金額の合計額を一定の額以下に抑えるという効果もあった。

そういった形で部分的に土地の売却や永代貸借権の付与が制限され 72)、諸ゲマインデが独自に税を課すことも禁じられ 73)、また部分的に vectigal による収益は諸ゲマインデとローマ国家の間で分けられ 74)、その結果としてゲマインデからのその分の税収入が国家の税にとって追加分となったように見える。

72) lex. col. Genetivae c.82 では売却と永代貸借は5年以上その土地を借りてい場合にのみ許されていた。

73) セウェルス帝≪在193~211年≫とカラカラ帝≪在209~217年≫の c. 2 vectig[alia] nov[a] IV, 62。

74) テオドシウス帝≪在379~395年≫ウァレンティニアヌス朝≪ウァレンティニアヌス1世、ウァレンス、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス2世の4人の在位の364~392年のこと≫での c.13 de vectig[alibus] IV, 61(1/3 がゲマインデに、2/3 が国家にとなっている)。

どのように税がゲマインデから国家に吸い上げられたかという権利の侵害については、後に論じる。ここではゲマインデから利子を代償として与えられた土地について詳細に論じることにする。

ager vectigalis の法的性格

まずは次のことは確かである。それは諸ゲマインデがそういった土地区画の本来の所有者であった、と認められていたということである。確かに、次のような時々には利子≪税金≫を徴収する権利はゲマインデの権利の対象であるように見える。その時々とは、スペインのムニキピウムの Cartimitatum≪Cartima、現在のスペインのマラガ近郊のカルタマ≫の女性司祭が “vectigalia publica vindicavit”[公的な賃貸料を取る権利を主張した]と述べている場合(C.I.L., II, 1956)や、あるいはウェスパシアヌス帝≪在69~79年≫によって作られたスペインのあるゲマインデがその賃貸料徴収の権利を行使していなかった場合(同資料の1423)、あるいはティスバイの住民が元老院決議によってその者達が持っていた賃貸料徴収権を今後も継続して持つことを認可されている場合 75)、またドイツ語の表現で文書によって呈示される利子について “von Eigenschaft wegen”[所有権を持つことによって(その権利として派生する)]もこのことに適合しているし、またポンペイにおいてある者がゲマインデに対して利子≪使用料≫を支払っていて、その理由が “ob avitum et patritum fundi Rhdiani”[祖父と父がRudhiani≪正しくは Audiani≫に持っていた土地のため]となっている場合(Nr.123のポンペイの税受領書、モムゼンの Hermes XII p.88f と比較せよ)などである。しかしながら、ゲマインデが利子徴収権を持っているからといって、そういった土地の権利状態が曖昧になっている訳ではない。

75) Eph. epigr. I, p.279f。

ある者が自分の占有する土地区画に永久レンテを設定しようと欲した場合≪その土地区画をレンテ売買の形で売却しようとした場合≫、その者はその土地区画をゲマインデに売却せねばならず、次にその者は土地をこの永久レンテという形での≪永久≫利子支払いという条件の下で≪自分の土地の実質的な使用権を≫取り戻すことになる 76)。

76) C.I.L., IX≪正しくはX≫, 5853. Plinius, Ep. I, 8, 10; VII, 18, 2。

これに対して永久レンテが設定された土地区画の所有者は、用益権は留保しつつもその土地自体の所有権はゲマインデに対して放棄するのであり、それ故に[元の]所有者はもはやその土地を譲渡することが出来ない、というのは既にゲマインデがその所有権者になっているからである 77)。

77) C.I.L., X, 1783のプテオリ≪ポッツオーリ、前掲の地図参照≫での例。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(43)P.248~251

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第43回です。
生成AIであるChatGPT4oは、ラテン語の翻訳において便利な下調べツールとして有用なだけでなく、時として辞書代わりにもなります。ラテン語をドイツ語化した法律用語はほとんどの場合独和辞書には出て来ません。またググっても使用例は確認出来ますが、なかなか意味まで探すのは大変です。
例えば、
1.Litisaestimation
私:ローマ法の強制執行に関係した用語だと思いますが、Litisaestimationとはどういう意味ですか?
ChatGPT:
Litisaestimation(リティスエスティマティオ)とは、ローマ法において、訴訟対象の価値を評価・見積もることを指します。この用語は、主に訴訟における賠償額や義務履行の代替価値を決定する文脈で使用されます。

文脈と意味
強制執行の過程での評価

訴訟の中で、被告が原告に対して義務を果たさない場合、裁判所は義務履行の代わりに、損害賠償金としての金額を算出する必要があります。この金額の評価が「Litisaestimation」です。
例えば、不動産や財産の引渡しが物理的に不可能な場合、または拒否された場合、その対象物の金銭的価値を訴訟の一部として評価します。(以下略)
2.Strafsponsion
私:ドイツ語でStrafsponsionとはどういう意味ですか?そのまま解すると刑罰の誓約になりますが。
ChatGPT:
ドイツ語のStrafsponsion(ストラーフスポンシオン)は、ローマ法の文脈で特定の意味を持つ法的概念です。この用語は、特に訴訟手続きに関連する誓約や担保を指します。

具体的な意味
Strafsponsionとは、訴訟当事者の一方が不法行為を行った場合に、その違反に対して課される罰金や損害賠償を担保するための誓約または保証金を意味します。この誓約は訴訟手続きでプラエトル(裁判長)が要求することがありました。
(以下略)

といった具合で、単なる訳だけでなくかなり突っ込んだ背景まで含めて答えが得られます。
この日本語訳をスケジュール通り進めていく上で非常に役に立っています。
==========================================
そういった税額を維持しようとしたことと、個々の土地区画の種別が非常に容易に変更されるものであったということは、矛盾しているように思われる。更に言えばこの時代の法学の文献が “tributum soli”[土地税]について言及している箇所では、今指摘したことは次のような形で現れている。つまりは土地税というのものが、個々の具体的な土地区画に対しての固定された公課という前提で扱われているように見える、ということである57)。

57) 学説彙纂のD. 39、§ de legat[is] I, 30。それについて新カルタゴの碑文 C. I. L., II, 3424, によれば、ある者が神殿を建てようとした時に、総督補佐官の指示に従い、(5%税としての)20デナリウスの金額または土地税(つまりある固定額の)の控除無しにそれを行っている(モムゼンの同箇所への注釈を参照)。Vectigal と土地税は引用した学説彙纂の箇所では並記されている。この2つの対立については、vectigal の相対的に見て流動的な性格から考慮してみることが必要であろう。コンスタンティヌス大帝の統治下のフリギア≪小アジア中西部≫のナコレイアとオルキストゥス≪どちらもフリギアの都市≫の碑文が言及している tributum … ubertatis [土地の肥沃さに基づく土地税](C.I.L.,III,352)がまさしく、土地の価値によって固定額として定められた土地税に関することを確かに述べている。≪全集の注ではここは ubertatis ではなく libertatis(自由な) が正しいとされているので、ヴェーバーの推論は成立しない。≫同様の例として水道橋の側の土地に住んでいる者への土地税がある(p.348、ラハマン)。そしてまた D.42. 52,§2 de pact[is], 14 でも土地税が固定額の公課として扱われている。

最終的には税額の査定は一定の書式に基づいて行われ、それはウルピアーヌスが描写している(D.4 de censib[us])通りであるが、そこにはっきりと注記されていることは(前掲書§1)、ワイン用ブドウ畑とオリーブ栽培畑を――それらがもっとも高い地代を課されたカテゴリーであったが――それより低い地代のカテゴリーに変更する場合には、何故その変更が必要なのかについての十分な理由付けが必要であり、そしてそれは税査定官に対して良く説明されねばならず、そうでない場合はその変更申請は却下された。それによって税額が低くなる土地利用方法の変更の際には、それはただ relevatio [救済]または peraequatio [税の不平等の是正]という行政措置を利用してのみ可能であったが、それについてはすぐこの後で更に論じることになる。土地の利用方法の変更の結果としての、その土地の課税カテゴリーの高い方への移行に際してはしかしながら、徴税担当官は税の引き上げの実施を peraequatio による全体の税の見直しの機会まで待ったりはしなかった 58)。

58) どのような事情があろうと、それ故にこの種の土地税(他の全ての土地税と同じく)は、それがあまりにも実態より高く査定されていない限りにおいては、ともかくもそれはその耕地において行われている耕作を維持させるために手段だったのであり、というのも全体の税額が同じままで耕地を拡張することは、相対的に見てより多くの場合認められていたからである。この視点はハイスターベルク≪Bernhard Heisterbergk、1841~1898年、ドイツの古代史家、古典文献学者≫が適切に指摘しており、次のことは疑いようがない。つまり特にアフリカに関しての彼の本質的な視点である、収穫物に対する一定割合の現物貢納が、同地における穀物栽培をもしこの課税が仮に行われていなかった場合よりもより強固にしたに違いない、ということであるが、いずれにせよこの視点は非常に注目に値するものであるが、しかしまたコロヌス≪ローマ末期に現れて来る隷属的小作農民≫の制度の発展にとって本質的なものであったか、という点については、私は一般論としてそうは考えない。

添付の図面1のアラウシアの碑文[地図]の中に事実上、私にはいずれにせよ非常に確からしくそう思われるのであるが、割当てられた土地とそのそれぞれに課税合計額が記載されているとするならば、その場合そこから導かれることは、その課税額は常に固定されていた、ということである。ある特定の土地区画である特定のカテゴリーの耕作が行われているものに対して土地税を固定するという傾向は、土地税を変更する全ての理由を除外して考えると、全くのところ一般に安定していたものであり、またその傾向はゼノン≪東ローマ皇帝、在位474~491年≫の法(C.1 de j[ure] emph[yteutico] IV, 66)からも生じており、それに従って土地区画を(永代賃貸地に)転換する際の土地税の免除の根拠付けとして使われていた。その当時においては土地税の固定は既にそのずっと前の時代から一般的なものとして確立していたに違いない。それに適合していることとして既に皇帝スカエウォラの時に土地税を支払わなかったことによる法的な結果としての税徴収の資格を持つ者によるその土地区画の競売(D.52 pr. d[e]a[ctione] e[mptio] v[enditi] 19,1)が起きており、それ故に強制執行は≪ローマの中で≫統一的に実施されるように≪制度的に≫整備されていた。それと並んで C.Th.1 de aquaed[uctu] 15,2 (320年のもの)において見出すことが出来ることは、水道周辺の土地に義務として課されている清浄維持義務を果たさなかった場合のその土地の差し押さえである。しかしこちらは古い法により多く依存している。

公有地の所有状態の法的性格

我々はここまで次のような劣位の権利しかない所有状態について語って来た。それは国家の公有地を利用するという形で発展して来たものであり、そしてこの性格をたとえ個々の場合でかなりの程度変更が加えられた場合でも、本質においては保持していた、ということである。そういった所有状態のゲマインシャフトという観点から見た法的な特性は、一般的に言うならば、ただ否定的な方向に作用した、ということである。既にここまで次のことを見て来た。クイリテース所有権の欠如によってこの所有状態はケンススから、また握取行為[Akten per aes ut libram]からも根源的な原則として除外されただけでなく、またその他の私権に基づく譲渡行為や物権一般からも除外されたのである。その例外は占有そのものに関することが問題になっている場合と、そういう所有状態の一部となっている、ある地域の地所全体をまとめて獲得する場合であった。

行政上の手続き

今挙げたような様々な除外と同様に、それと関連する正規の法的手段からの原則的除外について既に色々な角度から論じて来た。訴訟の争点が占有に関することでない限りにおいては、そういった所有状態についての争い事に対して権限を持っていたのはただ行政当局の判断だけであり、従ってそういう争い事は「特別審理」[extraordinaria cognito]の領域に属していた。どういった官吏がその時々にそういう権限を与えられていたかについては、ここでは詳しく論じない、――グラックス兄弟の改革の時の三人委員会や643年の土地改革法の時の二人委員会のような特別な権限を与えられた者ではない限りは、それはその時々に暫定的に作り出されたのであり、一般的には部分的に監察官の権限であり、また別の部分では上級官吏、つまり執政官の権限として与えられていた。属州の長官の場合はこの二者の権限が一人の人間にまとめて与えられていた。ここにおいての違いというのは管轄権の範囲の違いであって、手続きの進め方の違いではない。これを理解することは非常に重要である。

というのはこの権利状態の正規の法的手段からの閉めだしは modus procedendi [契約の進め方、契約当事者の双方の義務]に関して大きな意味を持つことになったからである。特別審理[extraordinaria cognito]については、その特徴は全くもって単に訴訟手続き及びそれに関連した手続きだけが欠けている、ということではないのである。特別審理におけるこうした欠如は概して言えば不可欠なのにもかかわらず許されていなかった、ということではなく、ただ無くとも問題にはならない、という性質のものであった:また行政上の審理について決定権を持つ官吏は、その審理を陪審員に対して委託する命令を出すことが出来た。我々にとってより重要なのはひょっとするとこの手続きのもう一つの特性:現物に対する強制執行の可能性、であろう。

現物に対する強制執行

行政上の審理において決定権を持つ官吏はまた、法廷での決定に不服な者に対して、ただ罰金刑の宣告のみに留めることも出来、それは民事裁判での罰金刑の宣告に相当するものであった。しかしそういった官吏は疑いなくまたその宣告において現物で執行することが出来、つまり係争の対象になっていた土地区画を敗訴した者から取り上げ勝訴した者に与えることが出来たのである。特別審理においてこういった現物での処置が本質的なものであったことは、疑いの余地が無い。現物執行は地方総督の管轄となる訴訟においても完全に無くなることはなく、またそういった訴訟に先行して法で規定されている事例 59)とは違い、特別訴訟[Prozedur extra ordinem]の性格を事実上持っていた、ということも無かった。

59) D.2,§8 testam[enta] quemadmorum] 29, 3 (“omnimodo compelletur”); D.3,§9 de tab[ulis] exh[ibendis] 43,5 (“coërceri debere”); D.1,§3 de insp[iciendo] ventr. 25,4 (“cogenda remediis praetoriis”); D.5,§27 ut in poss[essione] leg[atorum] c[ausa esse liceat] 36,4 (per viatorem aut officialem); D.3,§1 ne vis fiat 43,4 (extraordinaria executio); D.1,§1 de migrando 43,32 (“extra ordinem subvenire”).

その際に扱われているのは本質的には審理を主導している者の判断に基づく執行である;それに対して特別訴訟や一般的な行政訴訟における手続きとしての現物執行は規定を設けてそれに則る形で行われていた。監察官は確かなこととして、次のことを必要であるとは認めなかった。つまり国家の賃貸人が土地を奪った方からその土地を取り上げ、代償として金銭で弁済する、ということで、そうではなくて監察官が出来たことは、国家の賃貸人に倒して≪土地を奪われた方に≫別の地代付きの土地を割当てさせることであった。グラックス兄弟による土地割当てにおいては、土地区画の譲渡不可という状況では執行は争いとなっている土地の価額の金銭での見積もりという形で、それは訴訟の目的を部分的に無効にさせる≪土地そのものは諦めさせるという意味で≫のと同じことを意味していたのかもしれない。controversia de territorio [領土を巡る争い]においては、それは同様に特別審理という形で決着を付けられたが、それについては碑文によれば執行が現物で行われた 60) ということが確認出来る。

60) C.I.L.,X, 7852 とそれに対するモムゼンの Hermes ≪当時の古典研究の雑誌≫II の注釈参照。

この現物執行ということは、その対象がまず第一に場所[locus]であり、一定の地代を課された、課税される、等々の全ての所有状態の土地に対して行われていた。面積[Areal]についても現物執行は有用なものとして扱われた。というのはそれは丁度、本来はただ場所についてのみ占有を保護する禁止令が、その強権的な罰金支払い誓約≪訴訟においてどちらか一方が判決で宣告されたある義務を果たさなかったり、あるいは違法行為を行った場合に罰金を支払うことを訴訟開始前に誓約すること≫などの威力も利用して、現物執行に近付こうとする努力と、現物での解決について服従を強いるということから発生して来たように、そういった事情は面積についても同じであったからである。訴訟手続きの更なる発展については、この現物執行はしかしながら大きな意味を持っており、というのはほとんどの属州においての土地区画は劣位の権利しか持たない状態で占有されていたからであり、物的訴訟においての現物執行の許容は時が経つに連れ共通の法≪ユス・コムーネ≫として扱われるようになり、それはウルピアヌスの D.68 de r[ei] v[indicatione] (VI, I)で既に見て来た通りである。

以上述べて来たことは大法官がこのような所有状態に対して、通常の裁判手続きに基づく訴訟を許可した場合は、当然のことながら事情が違っていた。しかしながらそういうケースで知られているものは無い。所有権という点において本来の≪クイリテース≫所有権の次に来るグラックス兄弟による土地の割当て自身が、法的な処理という点で、既に注記したように、彼らからして見れば管轄外だったのである。また擬制的な規定が作り出されたかどうかについても知られていない。

日本の学者と論争と

ここの所、宗教社会学研究の準備として、旧約聖書やクルアーン、そして神道の本などを読んでいますが、その関連で清水俊史の「ブッダという男 ――初期仏典を読みとく」というのも読了しました。ところがこの本の後書きにとんでもないことが書いてあって、この著者がある本を出そうとし、その中である有名な仏教学者の説を批判していたところ、その学者とその指導教官から呼び出しを受け、本を出せば大学教官の職に就けないようにする、と脅かされたそうです。折原浩先生が日本の学者が論争しないことを嘆かれていますが、論争しないどころか裏でそんなまさしくアカハラをやっているということに暗澹たる思いでした。
その関連で折原浩先生の批判を読み直していたのですが、ただ先生の批判にも問題と限界を感じました。それは論争しない学者を、学者にももとる、といった道義的・個人的な批判に終わっていることです。折原浩先生から大学でデュルケームの「自殺論」について学びましたが、そこで一番目からうろこが落ちた思いだったのが、冒頭の個人の性格の問題と考えられがちな自殺が実は巨視的に統計をからめて眺めれば、立派な社会現象である、ということでした。社会学であるならば、日本の学者が論争しないことを非難するだけではなく、それがどういう社会構造・社会風土に関連しているのかを分析し、個人の努力だけでなく社会として改善していくのにはどうしたらいいか、という方向に発展させるべきと思いますが、実際は残念ながらまるで進んでいません。古来からの日本論で、アメリカのルース・ベネディクトの「菊と刀」、土居健郎の「甘えの構造」、中根千枝の「タテ社会の人間関係」に匹敵するような日本社会論・日本人論を日本の社会学者が出したという例を私は寡聞にして知りません。また最近ビジネスの世界では非常に有名になった「心理的安全性」も提唱者のエドモンドソンは組織行動学・心理学者ですが、その内容はまさに社会学が扱ってしかるべきものだと思います。上記の清水俊史の例で見る限り、日本でもっとも心理的安全性の無い組織がアカデミズムの世界なんでしょうけど。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(42)P.244~247

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第42回です。今回も、ager privatus vectigalisque についての議論が続きます。この「私有地」と「(地代付きの)公有地」という曖昧な性格を持っている土地がヴェーバーの興味を惹いてヴェーバーがある意味乗って筆を進めている箇所のように思えます。
ヴェーバーも言及していますが、土地というのはそれを持っているだけでは、今の日本でも固定資産税がかかるだけのある意味負の資産であり、農地を除けば、自宅を建ててそこに住む、賃貸住宅や商業ビルなどを建ててそこから家賃を得る、そこまでお金がなければコイン駐車場にする、コインランドリーを作る、コンテナ倉庫にするなどでお金を得る手段を模索する必要があります。
==================================
同様に次のこともまた何より不可思議なことであろう。それは国家によって永代賃借人として認められた者で、全くその永代賃借料を支払わない者が存在していたに違いない、と仮定することである――というのは永代賃借人というのは法律が規定するところの ager privatus vetigalisque の占有者であったろうからであり、もしこの土地の法的な性質を市民の権利としての売却可能性が与えられない形の永代貸借と仮定する場合は、賃借料がただ名目的なものかどうかという検討は無意味になるからである 55)。

55) 先の箇所(第1章)でもここでも次のことが確からしいと想定される。それは通常の ager quaestorius は「事実上は」売却において制限が加えられていなかった、ということである。このことについての本質をより明らかにする必要がある。法的には ager quaestorius は ager publicus におけるある所有状態であり、他の全ての所有状態と同じく「所有し、占有し、使用し、そこから利益を得ること」が許されているが、握取行為による売却や占有状態以外に関する物権的な訴訟は許されていなかったのであり、そして行政上の保護下にだけ置かれるのみであり、その≪譲渡・売却の≫承認についてはおそらくは執政官の管轄だったのであろう(Liv. 31, 13によれば trientabula の土地の授与の承認も執政官が行っていたからである)。というのも国家にとってその土地が誰の所有物になるのかということへの利害関心は、trientabula の場合においてすら存在していなかったのであり、そのためそういった行政上の保護は一般に次のような者に与えられたのである。その者とはその場所を正規の書面以外を根拠として――つまりそれ以外の正当と見なされる理由に基づく引き渡しによって――やはりその前の不当にその土地を得たのではない所有者から獲得したそういう者である。しかしこのことがただ不安定な状態であるとのみ見なすのは困難であり、それは測量人達が ager quaestorius においての emtio venditio [獲得と引き渡し、売却]の形での売却を、規則的に行われているものとして言及していることからも分かる。ヒュギヌスが次のように注記している場合には:non tamen universas paruisse legibus quas a venditoribus suis acceperant [それにもかかわらず彼らの全員が売却者から受け取った土地について必ずしも法の定めるところに従っていた訳ではなかった]、その場合には≪正式な購買にいよる土地のケンススへの登録ではなく≫何かの土地の利用についての届出や何か類似のことが行われていた、と理解出来よう。――そういう意味で ager quaestorius の「売却可能性」は理解することが出来、またそう確認されなければならない。しかしこうした制限付きであっても、私には売却が実際に行われていたことについては疑いようがない。何故ならば ager queaestorius の譲渡不可という原則に固執することは、そこに貸借料が課されていないのであれば、それに対して≪国家の≫実際的な利害関心が存在したということはほとんど信じ難いからである。しかながらもちろん、こういった ager queaestorius の ager privatus vectigalisque との差異は法学原理から作り出されたものではなく、ただ実務的なものとして徐々に形成されたものである――注56a)を参照。

永代貸借権について後の売却可能性

永代貸借権の法律上の売却不可、という特徴がそもそも本当に行われていたのか、あるいは行われていた場合にはどのくらいの期間に渡ってそうであったのかについては、確かなことは分かっていないが、後の時代にはそういう禁止は無くなっており、というのは帝政期の法資料の中でそれについての記載が見られないからであり、そしてコンスタンティヌス大帝の下で売却の許可が確立したように見える。私見ではテオドシウス法典のある解釈に基づくテキストの p.186 ≪全集の注によれば正しくは p.97≫がこのことを規定しており、その部分からまた同時に分かることは、賃貸料支払いの義務のある土地区画の握取行為による譲渡はその時までは許可されていなかった、ということである。何故ならば ager queaestorius の土地の売却について課税上の利害関心を扱っている箇所については、それ以外では scamna 56) の売却については特別に詳しく規定する必要性を感じていなかったように思われるからである。

56) ここでは scamna =地代の支払い義務のある土地区画、の意味で使われており、それはケンススとの関連を示しているのであり、ケンススという語がこの規定が含まれている章のタイトルに含まれている。ここでは2つの種類の土地区画が扱われている:一つは握取行為によって譲渡可能なものであり、市民への課税を決定する国家のケンススに登録されるものであり、もう一つは個別の土地で、その土地の使用に対して税≪貸借料≫が課されるものである。しかし売却に関しての二つの実質的な違いは:前者の土地については所有権が握取行為によってケンスス上の登記を変更するという形で移転し、引き渡しについてはただ所有権移転の実施だけが行われ、それはつまりある通知で、その通知の内容としては握取行為に該当する面積の土地が、今や購入者の自由な処分に供される、ということである;こういった”vacuae possessionis traditio”[実質を伴わない形式的な所有状態の引き渡し]は、根本的には訴訟に備えたものではなく、それによって所有状態の保護を得るという意味だけを持っていた。それに対して scamna、つまり握取行為による譲渡が出来ない土地の場合は、引き渡しはただ所有権移転の具体的な行為だけであり、つまり前述した emtio venditio[購入-引渡し-売却]であって売却代金についての債務から発生する行為であった。法のこの部分が次に規定しているのは、既に前述の箇所(第2章)で詳しく論じたが、今後は握取行為によって売却しようとする土地の面積の、売却に先立つ測量または境界線に関しての通知を行うことを義務付けていることで、そしてこの規定によって握取行為が本来持っていた古くからの性質である、ただ割当てられた面積のみの売却、という性質を取り除いたのである。scamna の場合にはこういった視点に基づく規定は見られないが、というのは同意に基づく emtio[購入と引き渡し]は何らの所有権の移転を含んでいなかったからであるが、しかし同一の原則が――間違いなくコンスタンティヌス大帝によって――ここでも適用されるべきとされたのである。

推測されること、あるいはむしろ確かであるとさえ言っても良いことは、後の時代の同意に基づく emtio venditio と最終引渡しという流れによる売却の通常の形式は、場所の獲得の形式として一般的なものになっており、≪クイリーテース所有権≫より劣位の権利を持った所有状態について全体において唯一の売却形式だったのであり、その権利についての一般的な売却可能性は行政当局の裁量に基づくものとなっていた、ということである。。

その当時の人々は次のような内容を規定として定めていたに違いない。つまり「売却対象からの除外」というのはこの場合単純に次のことと同じ意味なのであり、それは握取行為からの除外であり、正規の訴訟手続において物権として正規の所有権が認められていない土地に対して保護が与えられない、ということであり、つまりは売却に対しての「法」規範の欠如を意味するのであり、そのためにこの売却が行政当局の実務で扱われるものである、ということは、それをどういった前提条件から導くべきなのか、あるいはそもそもそういう前提条件が存在するのか、という問題であった。「法的な」意味での売却性が認められるようになるのは次の時点からである。それは行政での実務上の原則が法としてきちんと確立する時点であり、そういった諸々の状況がもしかすると ager quaestorius の状況だったのであろう 56a)。

56a) モムゼン(C. I. L. Iの土地改革法の箇所)は、ager privatus vectigalisque の売却性をZ. 54. 63 においての表現から結論付けている:”cujus ejus agri hominis privati venditio fuerit”[その土地が私有のものであってそれが売却されていた場合]。私はこの表現はむしろ次のことを意味しているのではないかと考える。つまりこの法が売却に関しての何かの「特別な」意味を示しているということで、――もしかすると後の時代の Emphyteusis ≪土地の長期または永久貸借≫に似たようなもの――を意味していたのではないかと。この法がまたこの形式の耕地に対する権利の有効化について別に何らかの原則を定めていたかどうかは不明である。Z.93 での”in ious adire”[法的権利を主張する]という表現はおそらくはまさしくこのすぐ前の箇所にて言及した”ager ex senatus consulto datus assignatus”[元老院決議に基づく土地割当て]に関しての表現と思われる。この表現が具体的な耕地との関連で意味することを、モムゼンは引用済みの箇所でそれを公有地占有の形の土地についての表現と見なしている。この ex senatus consulto による土地に関する記述は、viasii vicani が出て来る箇所よりも先であるので、私は次の考え方はそう間違っていないと思う。つまりこの表現は先に既に述べた navicularii の耕地について言っているのではないか、ということである。この法にてこの部分に続く箇所では、ひょっとすると後の時代ではしばしば皇帝の命令によって出された業務である、非常に負担の重い農作物の輸送義務について述べているのかもしれない。

地税の中での vectigal の変遷

法律上の売却性という点について、地税の一種という分類においての vectigal の永代貸借料に関する規範という性格は変動していた。もちろんこの売却性というのはアフリカにおいての所有者達においては、もし私が先に述べた見解が正しいなら≪執政官 Ahenobarbus の時の lex censoria がアフリカでの賃借耕地からの収益に関して規定しているという見解≫、次のような我々が慣れ親しんでいる課税方法とは異なっている性格も持っており、つまり≪我々が親しんでいるように≫土地区画あたりの収穫高に応じて土地に課税上の等級を設定するのではなく、その土地の合計面積、つまり総ユゲラ数に応じて、均等にかあるいは耕地、牧草地、森林などについてそれぞれに大まかな税率が設定されて課税されていた。ここにおいてようやく公有地の価額の査定においての綿密に検討された行政上の技術が登場して来ているのであるが、それは単に定量的なもので根本原則的なものではなかった。もしかすると既にカンパーニャ地方の土地において――正確なものではなかったにせよともかくも推進された――譲渡金額についての査定と個々の区画に対しての決定についての何らかの手続きが行われていたのかもしれない。少なくとも測量地図の作成と”pretium indictum”[公示価格]はヒュギヌスの印刷本の p.121 に出て来る表現である”certa pretia”[固定価格]を思い出させるものである。この固定価格という表現は同じ本の p.119 との関連でどちらも同じケースを扱っているが、トラヤヌス帝の時代においてパンノニアにおける≪退役兵士への≫譲渡の対象とする土地に対して、次の6種の分類が行われていた:arvum primum[第1級の平地]、arvum secundum[第2級の平地]、pratum[牧草地]、silva glandifera [木の実が採取出来る森林地]、silva vulgaris [その他の森林地]、pascua [(共同の)放牧地]である。一人一人に割当てられた土地の面積である――66 2/3、80、100 ユゲラについては――それらの面積の土地が常にただ一つのこれらの課税クラスのどれかでなければならない、という考え方はされておらず、それよりむしろそれぞれの割当て地の税の総額が計算され、その計算はその土地の各部分での分類上のクラスで決められていた「それぞれのユゲラあたりの単価」 X 「それぞれに該当するユゲラ数」、の総計という形で行われていた。測量地図上には各割当て地について、その土地の中の arvi primi ≪arvum primum の複数形≫が何ユゲラ、prati が何ユゲラ、といった風に記載され、その情報に従って各クラスによって固定されていたユゲラあたりの税額を使って、その割当て地の合計税額は簡単に計算することが出来た。ではもし土地所有者がその土地の利用方法を≪例えば農耕から牧畜に≫変更した場合、その場合でも税額の総額は同じままであっただろうか?もし近代的な意味での土地税の話をしているのであればこの問いに対しての答えは間違いなくイエスであろう。しかしここで課されている賦課については次のことを考慮することが必要であろう。つまり歴史的にはこの賦課の制度は永代貸借の規範の中間形成段階から、それが最終的に確定した段階へと発展し変化し続けていた、ということである。そういった状況に即して考えてみれば、次のことは全く首尾一貫していると言えるだろう。それはその土地の利用方法が変わる度に、賃借料もそれぞれの土地の分類に従って総額が変更された、ということである。賃借人の土地の利用方法の変更による賃貸料収入の減少リスクに対しては、≪民間の≫賃貸し人もその立場での国家も次の手段でそのリスクを回避しようとした。それはその種の土地利用の変更について、賃借人がローマの規則一般にほぼ従わざるを得なかったという状況を利用して、土地利用の変更をさせないようにする≪圧力をかける≫、というやり方によってである――そのことについては最終章で再度扱う――そしてまた属州の住民に対して、代々の皇帝は周知のように次の権利を当然のものとして保持していた。つまりその住民達に対して土地利用の内の一定の種類のものをイタリアの土地全体の所有者としての利害関心からそれを禁止することが出来る、という権利である。それ故に次のことは全く可能であったであろうし、またもしかすると実際にはもっとも広く行われたケースであったかもしれないのであるが、個々の土地からの賃借料の額は、ヒュギヌスが記しているように、それぞれの利用方法の違いに応じて≪固定額として≫土地台帳に記入されたということであり、そして土地の利用の仕方、つまりワイン作りのためのぶどう畑などとして利用された面積のユゲラ数こそが、本質的にはヒュギヌス(既引用分)が言及しているように土地の占有ということの本質的な内容だったのである。しかしながらそういった土地利用の仕方の変更の禁止が行われていたとしても、それはいずれにせよただ経過的な措置に過ぎなかった。何らかの理由で起きたかもしれないある耕地の一部分についての利用の中止は、間違いなく税金の軽減の理由としては決して認められなかった。arvum primum と secundum といった土地の分類は、その土地の収穫「可能高」に基くその土地からの継続的な税徴収を意味していたし、そしてこうした分類基準については時間の経過に従いその分類を増やすという形で更に細分個別化されていったのであり、それについては後で論じる通りである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(41)P.240~243

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第41回です。
一般にグラックス兄弟や後のカエサルによる土地改革法の目的は、海外から安い小麦が入って来たり、貴族による大規模農園の経営によって競争力が無くなり没落して都市プロレタリアートとなった独立農民の救済と、かつ市民の数を維持してローマ軍の人数を確保することだったと説明されますが、ヴェーバーはそこに国家による資本家支援という非常にユニークな視点を提供しています。要するにローマが敵に打ち勝って新規に獲得して土地が、国家がきちんと使用方法を決める前に既に貴族などの富裕層による奴隷を使った農場経営が占有の形で行われていて、土地改革法はそういう占有を一方では上限を設けて制限する一方で、また改めて正式に認知した、という面があるのでしょう。
なお、vectigalというラテン語ですが、これの日本語訳は苦労します。小作料と訳すと、この時代に貧農層が多くいたような感じがしますし、地租と訳すと明治の日本みたいですし、現代の日本で言うなら固定資産税みたいなものですし、訳文中では賃借料と訳したり税金、地代と訳したり色々です。
==================================================
しかし当時更にまた、ユゲラ[面積]あたりの地代も規定されており、こちらの起源は間違いなくより古いものであった。同様に土地の購入にあたってユゲラあたりの価格で取り決めて行ったように、賃貸借でも同じやり方が用いられた。それ故に、また trientabula においても、名目地代は1ユゲラあたり1セステルティウスとされ、引渡される土地区画全体でいくら、という決め方ではなく、しかしその一方でその他の場合として、引渡される土地の価格がその土地の実勢価格に基づいて査定され、その時々の購入価額で担保に供されたということもあった。そのため、先に言及したルキウス・カエキリウス・メテッルス・デルマティクス ≪Lucius Caecilius Metellus Delmaticus、BC119年の執政官≫とグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス≪Gnaeus Domitius Ahenobarbus、BC122年の執政官≫の[2人が執政官であった]時に制定された lex censoria 50c) がアフリカにおいての賃貸耕地からの賃貸収益について規定しているのであれば、これは収穫物の一定割合か――法規は1/10税について言及しているが――あるいは固定額の(相対的にはより少額の)金銭地代であったかどちらかであり、その金銭地代は少なくとも地域毎に統一され、そしてあるいはまた二三の土地価額のクラスで分けられて、同じクラスであれば1ユゲラあたり同一価格で(その時は)あったか 51)、あるいは継続してそうであった可能性があり、というのはその公有地全体の全ての賃借耕地に対してそれぞれ個別に金額を提示するということまでは、そういった lex censoria の規定には含まれていなかった可能性があるからである。

50c) a.u.c. 693年(BC115年)

51) たとえばパンノニアにおいての耕地への貸借料設定は何段階かのクラスに分けられていた。

それ故にまた、より大きな面積でのまとまった土地を契約者が引き受けた場合には、貸借期間は100年とされ、ユゲラあたりのより低い固定額での地代が課され、競売において入札するものとしてはただ全体の購入価格のみ、とされたのである。そういった購入価額は、ただ保証人によってかあるいは所有資産(の証明)によって保証されたのであり、100年で満期となる毎年の賃借料の総額の支払いが必要だったのではない。このことによってさらに明らかになるのは、こうした公有地の賃借人は[通常の毎年の]賃借料を支払う小作人のように扱われたということであり(上述箇所参照)、同様にこの種の賃貸しの手続きは、”vectigalibus subjicere”[賃借料を条件とした]という表現と矛盾していない。このことが正しいと認められるなら、私の考える所では、次のことはかなりの程度確からしくなる。それは ager privatus vectigalisque についても手続きは同様のものであった、ということである 51a)。

51a) 法はおそらくZ.52 の:”(habeat pos)sideat fruaturque item, utei sei is ager loucs publi(ce a censoribus mancipi locatus esset ?”[その土地や場所を所有し、占有し、かつそこから利益を得ることが出来、それはまるでその土地や場所が監察官によって購入者に公的に貸借されているかのようである。]の所で暗に賃貸し耕地の競売による授与のことを述べていた。

いずれにせよ私見では、モムゼンがこの法において実質的な地代が定められていたという可能性を疑っていることは、意味をなさなくなるであろう。次に考えられるのは、法は現在失われている箇所(特にZ.51、52の欠落部)52) において、いずれにせよ相当な額のユゲラまたはケントゥリアあたりの地代を、おそらくはその際に初めて課していて、その結果として永代賃借料を引き上げた形になった、ということである 53)。

52) 確かに次のことは疑わしい。それは引用文献中の証拠の箇所として、その碑文中の欠落部分を使うことである。しかしそれにもかかわらず、この場合には次のことは確かである。つまりこの法がこの制度とそれに伴う該当する耕地についての、地代納入義務の規定を含んでいるということである。というのはこの規定について Z. 66 において参照されているからである。

53) 次のことがもし明らかになるのであれば、この地代の額についてもう少しはっきりしたことが分かるであろう。それは競売されている耕地を購入しようとする者が、この法の Z. 53 以下に従って何を公的に申告しないといけないか、ということである。私が信じたいのは、後のパンノニアにおける占有と同様に、その際の申告内容としてヒュギナスが p. 121 で言及しているが(更に後で引用する箇所を参照)、それはその耕地、牧草地、森、牧場の面積――あるいはまた同様のカテゴリーの――であるが、そしてその面積を購買者は所有することになったのであるが、その面積[とカテゴリー]に従って地代が課されたのである;というのも私がこの論文で統一的な地代の存在を確からしいものとして述べた際には、こうした原始的な諸カテゴリー、それらについては後で扱うことになるが、による地代の差異の可能性を決して排除していないからである。確からしいのは、土地購入についての公的な申告は、本質的にはこの目的[購入した土地のカテゴリーをはっきりさせて地代の額を決める]のためであったろう、ということである。その他のことについてこの法が規定しているのは、全体の処置においてまた、それどころかひょっとしたら主要目的として、所有者のことを規定しているのであり、その所有者達はこの法の発布の前から既に「購買」によって[本来は公有地である]土地を獲得していたのである。先に記述した貸借対象耕地の契約者についての注釈≪国家が土地斡旋によって資本家を作り出そうとしていたこと≫が正しかったとすれば、ここで扱われているのは、次の者達(注51a参照)に対して、その者達はアフリカの公有地における耕地を永代賃借料を支払う条件で貸借したのであるが、その者達自身に対してまた、取り消し不能な有限の所有状態が保証された、ということであり、そしてこのことがもし正しければ、その場合はここにおいてこの立法の前代未聞な資本家支援的な傾向が剥き出しの姿で登場してきているのである:なるほど立法家は公有地の大規模な土地所有者に対して直ちに地代を免除することは、イタリアでの例のように、躊躇していたが、しかし立法家は lex Thoria によって彼らに対してイタリアにおいての[大規模]占有者の地位を認めたのである。これに対して、次のような公有地の所有者、つまりその者の土地が監察官によって与えられることが多かった者[a censoribus locari solet]、つまり小規模の賃借人のことであるが、そしてそれは古くからのその土地の住民またはイタリア人であったが、その者達に立法家は保証(前述箇所を見よ)を与えこそしたものの、かつその者達はそれまでのような額の賃借料を支払う必要はなくなったものの、その代わりその所有状態は法的には不安定なものに留まった。――

もしハラエサ≪シチリア島北部のギリシア人による植民都市≫の碑文に――カイベル、ギリシア碑文集、シチリアとイタリア、Nr. 352――事実上、カイベルがそう想定しているように、作り出された土地区画についての地代に関する記載が含まれているのであれば、そのことは自然に考えればただ名目的に設定された一般的な価格であった可能性がある。その他、この碑文での κλᾶροι と δαίθμοι の制度については≪全集の注によれば、前者[クラーロイ]は単に(籤で)割当てられた土地の一単位、後者[ダイスモイ]はその内で賃借人に割当てられた区画のこと≫ここでの土地の位置決めは本質的には元々の所有者達の間での配置換えだったのであり、そこには[競売という]競争が入り込む余地は全く無かった。有名なアクラエ≪シチリア島南部のギリシア植民都市≫の碑文(カイベル、前掲書、Nr. 217)については作り出された土地の所有状態がどのような種類のものであったかについては不明であり(参照:ゲットリング≪Karl Wilhelm Göttling、1793~1869年、ドイツの言語・古典学者≫のアクラエ碑文、そしてデーゲンコルプ≪Karl Heinrich Degenkolb、1932~1909年、ドイツの法学者≫の先に引用した lex Hieronica に関する論文)我々にとってはそれらの情報は意味が無い。

永代賃借料は次の場合には当然のことながら課されなかった。それは同じ土地授与対象物全体を様々な購買者に何度も売却した結果として、ある者が購入済みで(既に代金も支払った)土地[が誰か別の者に与えられてしまった場合]の換わりに、別の土地が改めて授与された場合である:それがこの法の Z. 66 においての購買者に1セステルティウス[の形だけの代金]を支払わせた、ということの意味である。

測量地図

これらの耕地の測量はケントゥリア単位で行われており、それは完全な所有権を入手出来る土地割当ての場合のケントゥリアと区別されていなかったように思える(Z. 66)、故にその面積は200ユゲラであり ager quaestorius の場合のようにただ50ユゲラだけではなかった。土地の授与は取り消せない性質のものであり、それは “privatus”という表現が示す通りである。ager vectigalis としての性質は次のような結果を生んだに違いない。つまり土地の授与は握取行為の形式では行われなかったし、そういった土地の相続に関しての規制においては、それが国家当局の干渉無しに行われることもなかった、ということである 54)。

54) このことは、Z. 62、64の相続人に関する規定で言及されているようなやり方で法規中に出現している。このことが意味したことは単純に、属州の知事は次のことを行いうる立場にあったということであり、それはその者が土地の授与を許可したり、また誰にその土地を相続させるかについて原則を作り、それを布告する、ということである。というのはその者は行政担当官であるのと同時に裁判官でもあったからである。ager quaestorius と更に違うことは、ここでは limites viae publicae [公共の道路による境界線]であり、何故ならばZ. 89 とそれに続く部分でそのような補足を加えている規定は、[元の]カルタゴの領土だけでなく全てのケントゥリアに対して適用されていたからである。というのも賃借料は――我々の仮定では――ユゲラあたりで等しかったので、このことは課税可能な対象物を個々の購買者それぞれに十分に行き渡るまで分割することを可能にし、個々の購買者から単純にどの位の税が取れるか、その者が1ケントゥリアの中で何ユゲラを所有しているのか、それから1ケントゥリアあたりで[分割して]割当てた土地の合計が200ユゲラであることの確認、などについての管理を非常に楽にした。属州アフリカにおける土地の分割と土地制度全体の安定した状態は、あり得ないくらい長期に渡って変更されることなく維持されていたように見え、つまりは皇帝ホノリウス≪在位393~423年の西ローマ皇帝≫の時代まで続いたのであった。その当時(422年)に実施された改定が及んだのはテオドシウス法典の13の de indulgentis debitorum [借金返済の猶予について]によれば:アフリカ総督の管轄下:課税対象地として9002ケントゥリアと141ユゲラ、荒れ地として5700ケントゥリアと144 1/2ユゲラ、ビサンチンにおいて:課税対象地として7460ケントゥリアと169ユゲラ、荒れ地として7715ケントゥリアと3 1/2 ユゲラであり、合計でアフリカ総督管轄下で:16703ケントゥリア≪計算上は14703≫と85 1/2 ユゲラ、ビサンチンでは:15175ケントゥリア≪計算上は15075≫と172 1/2 ユゲラが課税対象領域において測量済みの土地面積である。

以上の記述からはまだその当時でも税の計算上は[ほぼ]1ケントゥリア=1ケントゥリア、つまり1ユゲラ=1ユゲラとして計算されていた、という印象を受ける。≪おそらくは実面積に何かの係数をかけて補正した形での面積を使って税が計算されてはいなかった、ということであろう。≫このようにして税額が決められ課税された全体の領域の面積は、ほぼ≪ヴェーバー当時の≫東プロイセン州の(例えばポーゼン≪現在のポーランドのポズナン≫の鋤で耕された耕地の大きさと同じであり、当時の制度に従ったやり方として、ただアフリカの耕された土地の大半について一部のみが、そうではあってもまたかなりの大きさのものではあるが、ここでは描写されている可能性がある。その他の部分の土地についての記述は後述の箇所で扱う。ここで述べられていることの全ては、私には何よりも次のことについて語っているように見える。つまりここで言及されている耕地に対しては、実質的な賃借料が課されていた、ということである。同様に次のことも述べている。つまりここでは境界線がまた道路として直線のまま保たれていた、ということである:そのことは既に注記したように、課税の管理を楽にしていた≪中世のドイツの農地では牛が鋤を牽いて蛇行して耕す結果として境界線が波状になっている土地が多かった。≫;これに対して通常の ager quaestorius においては、境界線は同じようにその土地の範囲を確定させるために厳格に管理されるべきであったが、しかし確からしいことと思われるのは、実質的な地代がそこでは課されなかったがために、その境界線を直線のまま保つことに対しての利害関心が全く生まれていなかったことになり、結果としては直線性は失われてしまったのである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(40)P.236~239

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第40回です。
ここは今まで一番苦労しました。というのは注50で細かい字で延々と1ページ以上に及ぶ、かつ断片的な土地改革法の引用文が出て来たからです。ChatGPT4oの助けを借りながらなんとか訳しましたが、訳中にも注記したようにこれまで以上にここは参考訳です。
その内英訳等を探して再チェックしたいと思います。なお全集の注によるとヴェーバーはモムゼンの原文をそのまま引用したのではなくBrunsの本の引用から孫引用した上に、更には自分に都合の悪い所は抜いた、といったことが書いてあります。ヴェーバーの知的誠実性がどうの、というしょうもない本が過去にありましたが、しかしヴェーバーも軍役で忙しかったのかもしれませんが、決して完璧な仕事とは言えません。
============================================
この地代の名目性という点において、収穫物の内の一定割合の物納から固定額の地代への変更が行われていたとしたら、次のケンスス実施までの期限付きの賃貸契約の決定においては占有ということはほとんど考慮されていなかったのと、またこの制度が[占有という]不安定な所有権状態を保持したままで継続するということがもはや不可能になっていたという二つの理由で、グラックス兄弟[の兄]がこの制度においての補償としてはただ占有状態の回復のみを規定しようと欲した後では、そこで規定されていたのは、lex Thoria の時代から lex agraria (a.u.c. 643年)での[公有地の不法]占有は、それらの法は占有を完全な私的所有権という観点ではその定義を変更したのであるが、もっとも確からしいのは ager privatus vectigalisque として扱うようにして、しかし名目的な地代ではなく実質的な地代を支払う義務のあるものに変えたということが起きた、ということであろう。以上のことは法の制定目的にも合致しているし、その法は一旦地代付きの私有地に変更された占有地の取り戻しを法律上不可能にしようとしたのである 49)。

49) というのもアッピアノスによれば(先に引用した箇所のI, 27)その中身は:
τῆν μέν γῆν μηκέτι διανέμειν, ἀλλ’ εἰναι τῷν ἐχόντων, καί φόρους ῷπέρ αὐτῆς τῷ δῆμῶ κατατίθεσθαι.
[その土地をもはや分配せず、それを市民のためにそのままに保持し、市民の利益になるようにする(課税する)べきである。]

より広範囲においての同様の所有状態がイタリアに存在していたことのはっきりした証拠は存在しない。というのは次のような仮定をするのは不当であるからである。つまり測量人達がイタリアにおける国有地としてしばしば言及している ager vectigales が、vectigalibus obligati agri [支払いを義務付けられた土地]という永遠に支払い義務のあるレンテン[定期支払い金]を思い起こさせるような表現にもかかわらず、法的には取り消し可能な貸借契約に基づく土地とは少し違うものと考えることである。この表現がこういった借地が事実上相続出来るものとされたことの結果であり、そのことについては先に論じた。

アフリカでの Ager privatus vectigalisque

これに対して一つの難問があり、それは次のような次のような国家の領土をどのように理解出来るかということで、その領土とは[ポエニ戦争の最終的な勝利の結果としてカルタゴが滅びローマの領土となった]属州アフリカにおいて a.u.c. 643年の土地改革法の規定によって、ローマ国家による公的な売却の形で私有の所有地へと変えられたものであり、そして同法によって agri privati vectigalesque と表現されたものである。――その法の該当部分の[不完全な現存テキストの]補完と解釈において 50)、何らかのより確実性の高いと表現してもよい前進を、次のものを越えて行うことは、それはつまりモムゼンがCorpus Insc. Lat. (Vol. I p.175 n.200)で述べていることであるが、あるいはそれ以外に追加の何かのもっともらしい仮説を立てることは、元資料の状態を考えれば私には不可能である。しかしいくつかの注記は述べておくことにする。

50) その内容はモムゼンの前述の箇所での補完に従えば以下の通りである:≪以下の日本語訳は参考程度。他のラテン語引用箇所と比べても抜けが多く、非常に意味を取りづらい。またヴェーバーによるイタリック体への変更箇所は、単語の途中でされていたりして意味不明なため、特に下線には変えていない。また原文の番号分けと日本語訳の分け方は必ずしも完全には一致していない。≫
49. esto, isque ager locus privatus vectigalisque u. … tus erit; quod eius agri locei extra terra Italia est … [socium nominisve Latini,
[(ローマの公有地である属州アフリカの土地は)それらは ager locus privatus vectigalisque として扱われる..;それらの土地と場所≪以前の議論で土地は割当てや売却の際にただ面積のみがそうされるのと、具体的な位置が割当てられることの両方があったことを参照≫がイタリアの領土外にある場合、ラテン同盟や同盟市の人々、]
50. quibus ex formula t]ogatorum milites in terra Italia inperare solent, eis po[puleis], … ve agrum locum queiquomque habebit possidebit
[また通常ローマ市民としてイタリアの領土での軍役に従事する人々に対して、…また誰であれ土地や場所を所有し、占有し、]
51. [fruetur, … eiusv]e rei procurandae causa erit, in eum agrum, locum, in[mittito … se dolo m]alo.
[それによって利益を得る者は、…またはその土地を管理するために、その土地または場所に悪意無く立ち入ることが出来るとする。]
52. Quei ager locus in Africa est, quod eius agri [… habeat pos]sideat fruaturque item, utei sei is ager locus publi[ce … IIvir, quei ex h. l. factus creatusve erit,] in biduo proxsumo,
アフリカにある土地や場所で、その土地を…誰かが所有し、占有し、またそこから利益を得るものについては、その土地や場所は公有地として扱われる…。この法律により選出された2人の者(担当官)は、選出されてから2日以内に、
53. quo factus creatusve erit, edici[to … in diebus] XXV proxsumeis, quibus id edictum erit [… datu]m adsignatum siet, idque quom
[公告を出し、そしてその公告が出されてから25日以内に、その土地が与えられ割当てられるようにすること、]
54. profitebitur cognito[res … ] mum emptor siet ab eo quoius homin[is privatei eius agri venditio fuerit, … L.] Calpurni(o) cos.
[(その割当てられた土地を割当てられた者から買った者の)代理人がその土地をケンススに登録する申告を行う時に、その土地の売却が私有地として行われていた場合は、その代理人が売却した者から(元々 ager privatus vectigalesque として割当てられた)その土地の購入者であることを確認してもらうことになる, …ルキウス・カルプルニウスが執政官であった年に]
55. facta siet, quod eius postea neque ipse n[eque …] praefectus milesve in provinciam er[it … colono eive, quei in coonei nu]mero
[行われたことのうち、その後に彼自身も…その代理官や兵士も属州において…(その土地が)植民者や植民者名簿に]
56. scriptus est, datus adsignatus est, quodve eius … ag … [u]tei curator eius profiteatur, item ute[i … ex e]o edicto, utei is, quei
[記載されている者に割り当てられたものである場合は、またはその土地についてその土地の管理人が申告するようにし、同様に…その公告に基づいて]
57. ab bonorum emptore magistro curato[reve emerit, … Sei quem quid edicto IIvirei ex h. l. profiteri oportuer]it, quod edicto IIvir(ei) professus ex h. l. n[on erit, … ei eum agrum lo]cum neive emp-
[またはその土地をその土地の売却管理人か売却責任者から購入した者が、…そしてもしこの法律を基いて出された2人の担当官の公告に従って何かを申告する義務のある者が申告を行わなかった場合は、その者に対してその土地や場所が]
58. tum neive adsignatum esse neive fuise iudicato. Q … do, ei ceivi Romano tantundem modu[m agri loci . . .] quei ager publice non venieit, dare reddere commutareve liceto.
[購入されたものでも、割当てられたものでもなかった、あるいは存在していなかったと判断されるものとする。Q…がそのローマ市民に対して、同じ面積の土地または場所を与えるものとする…その公有地が売却されていなかった場合には、その者はその土地を譲渡、返却、または交換することが認められる。]
59. IIvir, q[uei ex h. 1. factus creatusve erit … de] eis agreis ita rationem inito, itaque h…. et, neive unius hominis nomine, quoi ex lege Rubria quae fuit colono eive, quei [in colonei numero
[この法律により任命され選出された2人の担当官は、これらの土地について次のように会計上の処理を行い、…ただ一人の名前だけでそういった処理を行うことは出来ず、その者がルブリア法≪南ガリアに作られた植民市についての法≫に基づいて、植民者や植民者として登録された者に対して]
60. scriptus est, agrum, quei in Africa est, dare oportuit licuitve … data adsign]ata fuise iudicato; neive unius hominus [nomine, quoi … colono eive, quei in colonei nu]mero scriptus est, agrum quei in Africa est, dare oportuit licuitve, amplius iug(era) CC in [singulos
[アフリカにある土地を与えることが必要とされたり許可されたりすることがないようにするものとする…与えられ割当てられたと判断されるべきである;どのような一個人の名義においても、ルブリア法に基づき植民者とされたかあるいは植民者として登録された者に対してアフリカにある土地を割当てる必要があった場合でも、その個人に対して割当てられる土地は200ユゲラを超えないものとし、]
61. homines data adsignata esse fuiseve iudicato … neive maiorem numerum in Africa hominum in coloniam coloniasve deductum esse fu]iseve iudicato quam quantum numer[um ex lege Rubria quae fuit . . . a IIIviris coloniae dedu]cendae in Africa hominum in coloniam coloniasve deduci oportuit licuitve.
[(もし超えていた場合には)その土地がその者に割当てられているかあるいは割当てられていたと判断してはなならない。アフリカに入植した人の数が、過去に存在したルブリア法に基づいてアフリカに入植するために…植民市の三人委員会によって入植許可が与えられた人数よりも多い、または多かったと判断されるべきではない。]
62. Iivir, quei [ex h. 1. factus ereatusve erit …] re Rom … agri [… d]atus ad[signatus … quod eiu]s agri ex h. l. adioudicari
[この法律によって選ばれ任命された2人の担当官は、ローマ国家の権限で…その土地の授与または割当てについて…その土地が追加で与えられることが]
63. licebit, quod ita comperietur, id ei heredeive eius adsignatum esse iudicato [… quod quand]oque eius agri locei ante kal. I [… quoiei emptum] est ab eo, quoius eius agri locei hominus privati venditio
[許可されるならば、その土地がその者またはその者の相続人に割当てられたと判定すべきである…そしてその土地や場所が1月1日よりも前の時点で、その土地や場所の元々の私有地を売却した者から購入した者の所有となっていること、]
64. fuit tum, quom is eum agrum locum emit, quei [… et eum agrum locum, quem ita emit emer]it, planum faciet feceritve emptum esse, q[uem agrum locum neque ipse] neque heres eius, neque quoi is heres erit abalienaverit, quod eius agri locei ita planum factum
[ならびにその者がその土地や場所を購入した場合に、その土地または場所が存在していたならば、その土地についての測量図を作成するか、または既に作成していて、その購入の事実を明確にするであろう。その土地または場所は、彼自身も彼の相続人も、また彼の相続人となる者も譲渡しておらず、そしてその土地または場所についての測量図が作られている場合は、]
65. erit, IIvir ita [… dato re]ddito, quod is emptum habuerit quod eius publice non veniei[t. Item IIvir sei is] ager locus, quei ei emptus fuerit, publice venieit, tantundem modum agri locei de eo agro loco, quei ager lo[cus in Africa est, quei publice non venieit,
[2人の担当官が、その土地をその者に与え返還することとする…更に2人の担当官はその者が購買したことになっているが公的にはその者に売却されていないことになっている土地や場所について、その土地や場所が公的に別の者に売却済みの場合は、その者に対してその土地や場所と同じ面積のアフリカにある場所か土地で公的に未売却のものを、改めて割当てそれらをその者に戻すこととする。]
66. ei quei ita emptum habuerit, dato reddito … Queique ager locus ita ex h. l. datus redditus erit, ei, quoius ex h. l. f]actus erit, HS n(ummo) I emptus esto, isque ager locus privatus vectigalisque ita, [utei in h. l. supra] scriptum est, esto.
[この法律でによってそのように割当てられたか返還された土地や場所が、この法律に基づいて、それらを与えられた者達に、一単位≪おそらく200ユゲラ≫あたり1,000セステルティウス≪ローマの銀貨、奴隷一人が約6,000セステルティウスぐらい≫で売却され、そういった土地や場所はこの法律に書かれているように ager locus privatus vectigalisque とされる。]

先に言及した同法の規定によって通常の公有地賃借人のアフリカにおける賃借地の購入金額は、それぞれの土地での lex censoria に定められて決まっていた。それによって当時の公有地においての財の所有者は、その所有を事実上相続可能な財産とすることが出来、ただその所有状態に関していつでも取り消し可能という純粋に法的な不安定さがそれを他の所有状態から区別するものとなっていた。こういった不安定さが無いということと、無期限の所有割当てが、今や明らかに ager privatus vectigalisque の所有者を他の一般的な公有地賃借人から区別するものとなっている。

ager privatus vectigalisque における賃借料の性質

この ager privatus vectigalisque という土地については、法が明確に規定しているように、疑いなく資本払い込みに対しての土地授与という点が肝要である。このことからまた、こういった形での土地の授与は、我々が先に ager quaestorius の特徴として見出したこととまさに同じなのであり、そしてモムゼンも2つを同種のものとして総括している。しかし私にはこの ager privatus vectigalisque をその意味で理解することが出来るかどうかについては、全く確実とは思っておらず、そしてそのことは次の疑問と関係している。それはここでの賃借料が単に名目的なものだったのか、あるいはその額がごくわずかであったとしても実際に支払うものだったのか、という疑問で、それは検討してみるべきである。ager quaestorius が一般的に賃借料を条件とされていたのであれば――そのことによってその制度においては何も無条件には引き渡されてはおらず――、そのためその制度はある名目的なものと特徴付けることが出来、それは torientabula の場合においてモムゼンが確からしいと認めていることであるのと同じであるが、このことはまたアフリカでの ager privatus vectigalisque においても同じだったのである。ともかくも通常の ager quaestorius はそれ以外の点においては決して ager privatus vectigalisque と呼ばれることはなかったし、モムゼンもまたアフリカにおいて購入された土地について次のことまでは主張していない。つまりそれが一旦売却したものを将来再度買い戻す前提での担保という性格を持っていた、ということである。この名称は、前半部の”privatus”は一旦割り当てられた土地が取り消されることがないということを意味し、後半部の”vectigalis”は何らかの公租公課の負担義務があることを意味しているが、しかしこの2つをくっつけた場合には、それは不適切な(矛盾する)名称となってしまっているのでないだろうか。しかし特記すべきなのは、そういった所有状態で ager quaestorius が実質的にその中身と同じものを新たに作り出すにあたって、立法は必要とされず、ただ元老院決議にだけ基づいていた、ということである;法律はただ割当ての取り消しが出来ない、ということを定めたに留まっており、更にはローマの人民にとっての nudum jus Quiritium ≪ただローマ法上の虚構的な理論として存在していて実質的には存在しないクイリーテース所有権≫に留まっていて、その結果必然的なこととして、グラックス兄弟による土地割当ての際と、Lex Thoriaの時においてでは、ager privatus vectigalisque という表現の意味するところは変化していた。しかしながら次のことは確かに可能である。つまりモムゼンの仮説である、この制度における vectigal の性質としては、単なる仮課税と見なし得る、ということであるが、――グラックス兄弟においての土地割当てのやり方はアフリカに対して植民を進めるようなものと言え、そこで行われたのは、法においての資本家的な精神に沿っていて、土地が貧困者に割当てられたのではなく、富裕者に割当てられた、ということである。私は次のことを可能であると考え否定するものではない。それは、私にとっては主観的には以下のことが確からしいと考えられるということで、つまりは既に述べたことではあるが、賃借する土地の授与においてはまず次のやり方が先行したということで、そのやり方とは、ある契約者が個々の土地区画ではなく複数の土地のまとまりを長期間である確定した賃借料という形で競り落とした、ということである。次のことについては不確かなままである。つまり土地の競売において一対何に対して参加者は価格を提示したのか、ということである。我々は≪ヴェーバー当時の≫現代の競売についての知識から次のように考えがちである:賃借料の金額がそれであると 50a)。

50a) ヘラクレイア≪現代のトルコのマルマラ海の北岸の都市≫においての寺院領が競売された場合はそうであった。参照:カイベル≪Georg Kaibel、1849~1901年、ドイツの文献学者で古代ギリシアの金石分の専門家≫のギリシア碑文集の中の彼の担当部の Tabula Helacleensis に対しての注記。イタリアでの同様の例は同じ書の No. 645 を参照。碑文についてはしかしそれ以外で我々にとって重要な情報を提供してくれていない。競売対象を個別化して分けるということが同様に先に引用したエドフ神殿≪ナイル川西岸に位置するエドフの町にある古代エジプトの神殿 ≫の碑文において認めることが出来る。土地区画は大半が長方形で通路によってお互いに分離されていた。カイベルの書のP. 172、173の図を見よ。

しかしながら、こういったやり方はローマでの慣習的なやり方とほとんど合致していなかったように思われる。後にはもちとん、ヒュギナス(原文の P. 204)の印刷本の P. 121 にあるように、個別の、区画分けされた土地が、その面積と肥沃さに応じた地代を課されており、つまり個々人毎に異なっていた 50b)。

50b) 更に詳しい例は後述箇所を見よ。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(39)P.232~235

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第39回です。
前回あたりからグラックス兄弟の公有地分配政策が登場します。ご承知の通り、この政策はある意味ローマにおいて階級闘争的な大混乱を引き起こし、グラックス兄弟は二人とも殺されてしまい、改革は中途半端で終わり、最終的な政策の完成はカエサルを待たないといけません。しかしその法的解釈となるとなかなか難解です。ager privatus vectigalisque ≪私有地であるが課税される土地≫というのが出て来ますが、考えてみれば現代の日本の私有地も、私有地といいつつ固定資産税という名前の名目地代を永遠に支払わないといけません。このルールはやはりローマなのでしょう。
=====================================
帝政末期になって出て来た agri limitrophi ≪ベテラン兵士達に定期借地権の土地として与えられたもので、ライン川やドナウ川などのローマにとっての前線に位置する場所に多く配置された。≫は年間の収穫高[annona]と[賃借料が]関係付けられており、軍隊に対して食料を供給する目的で、牛馬を使った耕作を行うことを条件として与えられたものであった 39)。

39) テオドシウス法典のXI, 59の表題を参照。

3.城主の封土と辺境の封土

agri limitrophi と同じ権利形態[の土地貸与]は帝政期においては更に一般的な他の用途にも使われるようになっていた。10人組長による徴税義務に加え、大土地所有者の徴兵義務 40) ですら土地に付随した義務として扱われるようになり、そして最終的に、agri limitanei [国境に接した土地]において、また軍隊の駐屯地において、国境の防衛義務までが相続による権利継承を通じて、その封ぜられた土地区画に切っても切り離せない物的な負担として課され 41)、更には≪ガリアなどの≫蛮族の諸部族がローマの軍役に服することと引き替えに大規模な領地を封ぜられた時に 42)、そういった状況はもはやほとんど “beneficium” 43)[特権の受益者]概念の統一的な発展の開始地点に立っているようなものであるが、その概念からゲルマン民族の王達の征服した領土においての行政法的な意味での封建制度が成長して来たのである。

40) テオドシウス法典の13の de tiron[ibus][徴兵について]VII, 13, そこでは元老院所有の土地についての新兵徴兵義務が定期金の支払いによって免除されている。

41) アレクサンデル・セウェレス≪Marcus Aurelius Severus Alexander Augustus、209~235年、第24代ローマ皇帝≫が国境の住民に対して土地を授与した時、”ut eorum essent, si heredes eorum militarent, nec unquam ad privatos pertinerent” (Lamprid. Alex. c. 57)[彼らの相続人が軍役に従事していたならば、それらの土地は彼らのものであり続け、決して(別の)個人の所有物にされることはない。](Aelius Lampridius による Alexander の伝記のc.57≪Historia Augusta という皇帝列伝の中の一つ≫)、プロブス≪Marcus Aurelius Probus, 232~282年、276年から282年までローマの軍人皇帝≫がイサウリア≪小アジアの南東部の地名≫のベテラン兵に土地を授与した時のもの、”ut eorum filii ab anno XVIII ad militiam mitterentur.”[彼らの息子達は18歳になると軍役に従事させられた。]更には軍の城砦に付属する土地について、参照:テオドシウス法、1 de burgariis VII, 14と同法の2, 3 de fundis limitrophis et terris et paludibus et pascuis et limitaneis et castellorum XI, 59[国境に接する土地、領域、沼地、牧草地と城砦の土地について]。至る所で土地の譲渡が行われた場合と土地の相続において、国家当局が介入して逃れることの出来ない義務を負わせるやり方で、その行政の実施においての原則に従って、そういった土地の権利全てに本質的に関わることを定めていた。

この場合の本質的に同質な点は、まず第一に何らかの国家に関係する業務を遂行することを条件とした封土としての土地の授与というだけに留まらず、取引きにおいての所有権の移転という点でもまたそうであったし、更には当該の土地区画についての権利関係、つまりそれの私権と法的な取扱いの形態と規制についてもそうであったし、
そういった権利関係はこのような劣位の権利保持状態においては重要なものとして扱われるのであるが、ローマの行政法はこうした方向への発展の基礎を整備していたのであった。最も重要でかつ独特で新しい要素は、それはゲルマンの法概念から取り入れられたに違いなく、そしてそれは社会的・政治的な意味においてその他の部分では同レベルであったゲルマン法の発展の中で、他に卓越して優位なものとなることの基礎を作ったのであるが、それは独特の形で作り出された個人間の信義関係であり、それは当時の古代世界においては[他では]もはや復活することは出来なかったものである。≪この辺り、ギールケの言うゲノッセンシャフト的人間関係を思わせる。あるいは原始共産制から社会が発展したという発展段階説も思わせる。≫

43) “beneficium” についてテオドシウス法がまず第一に想定しているのは次のような土地区画に対してである。それは世襲財産としてかまたは永代借地契約に基づいて貸与される土地であってかつ永代借地料を支払う必要がないものである。(テオドシウス法 5 de coll[atione] don[atarum vel relevatarum possessionem][税の支払いを免除されたか軽減された占有地について] XI, 20の424);次に(c.6, 同じ箇所の430)全ての形式での relevatio[軽減策]、adaeratio [現金払いの代用]であり、つまり私有地においてか、より優遇された課税カテゴリーにおける国家によって保証される土地についての、土地に付随する負担の軽減策としてである。

地代支払いを条件としての無期限の土地の譲渡

我々は法律の上では期限付きの公有地の賃貸制度について概観して来て次のような公有地の割当てについて論じるまでに至った。それはある種の継続的な労役を引き受けることの引き替えとして無期限の賃貸を受けるものであった。そしてこうしたやり方についてここまで次のようなものとして詳論して来た。それはその実際の労役の内容が本質的には個人が行う種類の労役、奉仕として成立しているものである。続いて我々は再び国家所有の土地区画を金銭の支払いまたは収穫物の貢納を条件として引き受けるやり方に立ち返る。その理由は、この形の土地の授与においてもまた、権利の期限が設定されない所有状態が存在していたからである。

名目地代。Trientabula。

権利として次のケンススまで有効期限を持った通常の公有地の所有状態は、事実上多くのケースで、というより大部分のケースでと言ってよいだろうが、家族においての相続可能な所有権となった、ということは既に前述の通り詳論して来た。次に論じるべきなのは利子の支払いまたはその土地からの収穫物の一定割合の納付を条件として、つまり代々の賃借人に対して与えられる土地についてである。イタリアでは次のようなケースは全く知られていない。つまり国家からの土地の授与であって、その条件として国庫に入る永久に支払う必要がある、そして名目的なものではない地代を確実に支払うという仕組みが確立していたケースである。それとは反対に多くの事例があったのは、土地の授与が期限の設定無しに、名目地代≪実質的な土地の価値に比べて非常に低額な地代≫だけを課すことで行われていた場合である。既に先に、そのような形での土地の授与として trientabula について詳論して来た。この制度は元老院決議に基づき、そのことによって次のことが最初から当然のこととされた。それは私権が、それはローマの訴訟においては占有以外の理由として有効とされた可能性があるが、その制度においては与えられなかった、ということであり、更に同様に最初から当然のこととされたのは、民会での決議を通じて私権を毀損することなしに、一旦授与した後にその土地を取り戻すことが可能であった、ということである 44)。(Trientabulaで授与された土地の)売却が制限されていたか、ということは明らかではない。そして少なくとも事実上 ager quaestorius という形の土地の売却のやり方に torientabula のやり方が使われた(第1章参照)ということは、売却が可能であったことを裏付ける事例である 45)。

44) それ故にそういった場合は技術的にはただ「trientabula で利益を得ること」[frui in trientabula]であり、(モムゼンによる部分的な補完による)土地改革法のZ. 32においてそう呼ばれており、それ故にまた諸ゲマインデに譲渡された公有地としての一つのまとまりの中に入れられていた。

45) 先に引用した測量人の記述の箇所では、土地区画の売却について言及されている。しかしそれ故に可能であったであろうやり方は、ager quaetorius は法律上はある地域の土地の全体がまとめて譲渡されたということであり、そうでない場合は行政官の同意が必要だったということである。そのため ager quaestorius についてはまた名目地代が課されたのであろう。

次のことはしかしこのケースの独自性において全く可能なことであり、また確かなことであるのは、そういった売却制限が実際に行われていたということであり46)、そして売却制限が、グラックス兄弟による名目地代を支払うことを条件とした土地の割当てと全く同様に、そういった制限は通常の ager quaetorius においては伝えられていないが――可能ではあったろうが(参照:シクルス・フラックスの p.151, 20; 154,1)――、言葉として表現されていたに違いないのである。

46) それについて言及しているのはただ土地改革法の先に引用済みの箇所の ex testamento, hereditate, deditione
[遺産、相続、占有に基づく]獲得、の箇所のみである。”ex deditione”による獲得の部分は、モムゼンは(C. I.L., Iの土地改革法の註解にて)それを総督補佐官からのもので、また死因贈与≪ある者が死の直前に意思表示し、その者の死後贈与が行われるもの。もし死ななかった場合は取り消すことが出来た。≫と解釈しようとしている。私から見てより確からしく思われるのは、生前の包括承継[Universalsuccession inter vivos]、つまり養子縁組による財産の承継のケースが想定されている、ということである。

そうした売却の制限はあるいはここではただ通常の賃借農民においてと同じ意味を持っていて、というのもいずれの場合でも禁止令という観点からはただ行政上の権利保護が行われただけであり、それ故行政官は売却を自身の裁量で許可出来たからである。同様にそういう制限は相続に関しての規制手続きとも関係があったに違いない;遺産の包括的獲得は認められており、また遺言による獲得も同様であり、しかし遺産の分割と遺産に関する争いについての判決がその点についてどのように行われていたかは不明であり、ここにおいて行政の協力が無くても済んだ、ということは考えにくい。

グラックス兄弟による公有地割当て

グラックス兄弟による Viritan-Assignation≪既出≫においての名目地代の賦課は trientabula において売却が出来ないことと間違いなく関係があった。この2つにおいての違いはただ、グラックス兄弟による割当てにおいてはそれが民会の決議に基づいて行われたということと、それと関連して土地を取り戻すことが私権の毀損無しに可能であったかもしれない、ということである。このことが”ager privatus vectigalisque”≪私有地でありながら地代が課された土地≫という表現が意味する所であり、この形の土地こそがまさにグラックス兄弟による土地の割当ての際に適用されたのである(後述の箇所参照)。その法的な地位については、その所有状態をそれ以前に想定されていたものと区別することは出来ず、ただ手続きのためだけに、それはこのグラックス兄弟による土地割当ての時にも等しく使われたのであるが、グラックス兄弟による法規で決められた3人委員会――IIIviri agris iudicandis adsignandis ≪土地について判定し割当てる≫あるいは adtribuendis ≪割当てる≫と呼ばれたが 47) ――この種の土地に対して権限を持っていた。

47) C.I.L., I, 554-556, IX, 1024-1026の境界石上に書かれたもの、a.u.c. 624/5年。

2.実質地代。永代借地。

しかし確かに次のことは非常に特異に響くであろう。つまりある法的な形態が、地代を条件として無期限に授与された耕地の形態と同様に、ただ名目的に法的仮構≪事実とは異なるが法律上はそれがあるかのように扱うもの≫の形態として特定の目的のために、それが実際には本当の制度としては存在していないかのように仮定されて使われたのであろう、ということである。そして実際のところ先行したケースとしては、確かにほぼ確実にそれが起きたとは言えないまでも、全く低い確率でもないと思われることは、国家による永代貸与地のシステムが実際に成立していたことが推測出来るということである。

lex Thoria に基づく占有

――まず第一に挙げられるのは lex Thoria による、地代支払いを条件とする占有を通じて獲得された所有権であり、それは公有地においてこのlex Thoria (BC118年)から643 a.u.c.(BC111年)まで存在していた。そういった所有権がそれに対して地代を課されることで、その法的な地位がより良いものになった、というのは確かである 48)。

48) 先に引用した(原文p.218の注14)のアッピアヌスキケロの文章の該当箇所を参照。

更にはこの場合の地代が単なる名目的なものであったに違いないという見解は、アッピアヌスの見解(引用済みの箇所)である。しかしそれはこの地代収入がローマ人民への無料の穀物給付の財源に使われた、というのと矛盾している。