ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(69)付記部

附録でついているアラウシオの耕地図についてのヴェーバーの説明です。これで本当に最後になります。
なおこの耕地図のヴェーバーの解釈がどうなのかは、さすがに私の手には余りますので、あくまでヴェーバーの説明をそのまま訳したものとしてご理解願います。
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付記 アラウシオの碑文 C.I.L., XII, 1224
(参照 上記文献への追記部)

上記の文献情報にある以下に掲げる碑文の断片のオリジナルは、全体が失われている碑文の2部分を一つにしたものであるが、元々はヒルシュフェルト≪Gustav Hirschfeld、1847~1895年、ドイツの考古学者≫教授が所有されていたものを氏のご厚意でご提供いただいたものである。私はこの断片についてそのサイズのため、それについてはC.I.L.が情報を付けていないのであるが、ただ概略的なコピーとしてここに掲載したが、それ故にその他の諸点で全くもって正確な複製品ではない。最後の点はテキストが何とか読めることから、そこまでの正確さを期す必要性はないであろう。二番目に右隣にある断片[二つ目の断片]はC.I.L.の追記部からのものであるが、それについてはヒルシュフェルト教授は模写のみを提供されている。この断片の原寸は私には不明である。そのサイズについて考えられることは、次のことが私には非常に確からしいと考えられる。つまりはこの2番目の断片は1番目の断片の右下に元々あったものが欠落した部分だということである。上方の部分の境界内に書いてあるテキストの解読は確実性が高いとは全く言えない。しかしながら私はこの断片上のテキストを継ぎはぎしてみることは試みなかった。というのは私個人ではこの断片の中のそれぞれの領域の面積について論証することが出来ないからである。しかし私が考えたそれぞれの部分の組み合わせ方が正しいとしたら、この碑文は1ケントゥリアの領域をほぼ丸ごと含んでいることになる:S. D. X. C. K. Ex tr. XII. col. XCVIII. (XC. VIII?) Colvarius (col. Varius?) Calid xx. a. IIX. 𐆖[Xに横棒を引いたものでこれは通貨単位のデナリを表す。ちなみにMax Weber im TextのCD-ROMはここを10の1000倍で10000としているが、そうも解釈出来るが全集の注によれば間違い。]. XXVI. n. a. II. XII. Appuleja Paula XLII. a. IIX. 𐆖. …. a. II. XII. Valer. Secundas IV. a. IIX. 𐆖. II.(もちろん次のことは目に付く。つまり横線の下にある左側の部分は右側の部分よりも一列分大きいということである。)長方形の区画部分についてその縦横比は約6 : 5(14 : 11.6 cm)となっており、これはつまり24 : 20 ローマフィートに相当し、偶然ではなく、故意にそうされたもので、何故ならこの略地図上では水道の位置がずらされているように見えるからである。というのはそのような引き方が意図的に引かれたということは、私にはこの断片の左下の部分が全く断片とはなっていないことから疑いようないと思われる。3番目の断片、下にある方はC.I.L.によればそれはただより古い版のものがそのまま使われている可能性があり、テキストが破損しているように思われる。――補完がほとんど試みられていないということはそれ自体当然のことであろう。この断片に書かれたテキストからすれば、この碑文は帝政期の盛期に作られたものであろう;というのはこの測量地図はしかし青銅と亜麻布の上に描かれており、よってこれは単なるコピーであって原本は更にかなり古いものである可能性があるからである。この碑文の解釈にあたっては、その最も重要なことの理解に成功したとすれば、それは属州の植民市での課税状況と、全体の土地の分割の仕方についてであり、a. IIXが3回繰り返し登場しているということが特に注目に値するであろう。人名から始まる部分でそれが10ユゲラの面積を持っているとするならば、それは次のことに適合するであろう。つまりこのケントゥリアはニプススによって言及された240ユゲラの面積のものであり、それは課税対象の土地として規定されたものである(ニプススはこれらの土地を単に”ager scamnatus”として描写している)。これらの土地の全体の面積は、それは先に引用したa または DX とは合致していないが、20+12+42+12+4 = 90 ユゲラとなり、つまりは、この数字が二列目のXC[= 90]の意味するもので、そして次の VIII は次の領域に属するものとすれば、その計算となる。もしかすると a. IIX が意味するのは耕地に対しての現物貢納[octava = 1/8]の率であり、その隣にデナリウス記号の下に書かれた数字によって固定の税額が示されているのであろうと思われ、そして a. II. (arvum secundum [二級の耕地]?) は XII[= 12]の意味であるか、あるいは税が課せられない狭小な土地であろう。a. は “asses”[銅貨]と解釈すべきとモムゼンが主張している。しかしそうでないことは非常に確からしいと思われる。いずれにせよ私の考えでは名前の後に続く数字はその名前の者に割当てられた土地の面積である。≪全集注によればここはモムゼン説よりヴェーバーの見解が正しいとされている。≫左側の[実際の図では下の]ケントゥリアの断片図は、ある者に割当てられた土地が複数のケントゥリアにまたがっていることを示している。モムゼンがこの断片に対して前書きとして補足していることは: ex tributario (scil. agro) redactus in colonicum[植民市の tributario (すなわち土地)から減らされた部分]であり、それはつまりヒュギヌスが203ページ以下で言及しているケースを扱っている図である:つまりローマの測量地図を使った課税対象の農地の分配である。その際にそれぞれ割当てられた土地が異なった面積であるに違いないことは明白である。しかしながら一般的に言って、いずれにせよこの碑文においての数字の記載の仕方から、ここではボニタリー所有権として把握された土地割当てが行われているように想われる(Calidus は XX[= 20] と XXIV [= 24]デナリの税金を課され、Secundusは IV [= 4]と II [= 2]デナリである)。このコピーが作られた目的は同様に不明であるが、他のことと同様に、前述の通り解釈して注記したことは、依然疑わしさを含むものである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(68)P.349~352

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第68回目です。ついに本文を全て訳し終わりました。後は付録のアラウシオの耕地図についての解説が4ページ残っているだけです。ヴェーバーはこの長大な論文の結論部として、何とわずか半ページしか書いていません。しかもその内容は「世界市民」といった、それまで一度も議論しなかったことに関しての極めて舌足らずな議論であり、肩透かしを食らったように感じました。まあローマ法講義資格を得るための論文であって、独立の書物ではない、ということを考えても、この論文も結局の所はトルソなのではないのか、という思いを禁じ得ません。
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次のことを頭の中に思い浮かべなければならない。つまり古代の世界では帝政期の初期においてべーベルの理想≪アウグスト・べーベル、1840~1913年、マルクス主義者でドイツ社会民主党の創始者。その主著の「女性と社会主義」で、男女の自由意志に基づく平等な結婚を主張した。≫に合致するような結婚の法的構成は上述したような状態で de facto [事実上]のものとなっており、その後一般的にまた de jure [法律上]でも有効なものとなっていった。その結果として起きたことは周知のこととなっている。こうしたローマにおける労働の実態という枠組みの中で、このような経済的発展とキリスト教的な結婚の理想の関係を評価することは不可能である。しかし次のことは明らかである。つまり農場の経営者が奴隷という存在を解体したことが、それらの奴隷にとっては内面深くにおいての精神の健全さの回復につながったのであるが、それはしかし社会の最上位層1万人[権力者・大富豪]の没落の中で、諸蛮族はそういった結婚の理想を高く評価して自分達の制度として受け入れる、ということは全くしなかった、ということである。外面的には既に注記したように、奴隷を使った自営的農業経営の確立は、それは労働力調達コストの高騰とそれによる大農場制による自分の土地の耕作で上がる利益の減少と共に現われたことから分かるように、帝政期においての農業発展の結果であった。こうした発展が次に向かったのは、当然のことながら次の地点であった。それは奴隷達が奴隷舎を出て、自分自身の家に住み単婚状態で暮らしている「解放農奴」――[ヴェーバーの時代の]現代的な例えを使うならば≪プロイセンでは19世紀初頭から社会改革として農奴を自営農民に解放する政策が進められていた。≫――に成ったという地点である。奴隷の農場主に対しての権利状態が同様に示していたのは、その農場主の経営を固定地代に基づくものに変えていく方向に導いていた、ということである。文献史料は次の二つの場合を区別している。一つは奴隷が固定地代を支払うことを条件としてある土地区画に留まる状態であり、もう一つは奴隷が “fide dominica” 117a)[主人=地主に対して忠誠を誓った状態]で、ある土地区画をその地主自身の経営のために耕作している状態である。

117a) D. 20 §1 de instructo 33, 7 (スカエウォラ)。ある者がある土地をそこで使う農具と一緒に遺贈した、――”quaesitum est, an Stichus servus, qui praedium unum ex his colonit … debeatur. Respondit, si non fide dominica, sed mercede, ut extranei coloni solent, fundum coluisset, non deberi. [奴隷のスティクス≪典型的な奴隷の名前。同名の奴隷を主人公にした喜劇有り。≫に関して次の問いが発せられた。その者はこの土地のある区画に住んでいたのだが…~をする義務があるか、という問いである。(裁判において)法学者は答えた。その者が地主に対して忠誠を誓っているのではなく、地代を支払っているだけで、それは外部のコローヌスが通常そうするように、そうやって農地を耕作していたのであれば、その義務を負うことはない。]
それに対して D. 18 § 44 の前掲部(パウルス)では: Quum de vilico quaereretur, et an instrumento inesset, et dubitaretur, Scaevola consultus respondit, si non pensionis certa quantitate, sed fide dominica coleretur, deberi. — [農場の管理人から(その奴隷の)農具がその者に属するか疑わしい、という疑義が提示された時に、法律の専門家であるスカエウォラは答えた。もし固定額の地代を支払っているのではなく、農場主に忠誠を誓った状態でそこに住んでいたのであれば、(その農具を返却する)義務があると。]――最初の箇所が述べているのは、”dotes colonorum”[コローヌスの嫁資=結婚相手の女性が自分の財産として持参するお金。夫と離婚したり死別した場合にはその女性に返却される。]が一緒に遺贈された、ということであり、つまり独立してある土地を耕作しているコローヌスにとっては、嫁資もその他の財産と一緒に遺贈すべき財産の一つであった、ということである。これらのことほど、次のことをはっきりと示しているものはない。一つにはコローヌス達がここで地主による奴隷を使った経営を単純に置き換えている、ということであり、もう一つはまたこうした奴隷を使った経営が次の傾向を持っていた、ということで、つまりそれが[コローヌス毎に]独立した土地区画に基づく経営で、そこから大地主が固定額の地代を取る、という形式に変わっていく、という傾向である。次の段階での更なる発展の進行においては(後述のテキストを参照)、その他の政治的な要求が農場主にとって自分自身で耕作を行っていくことを不可能にしたのであり、また “fide dominica” として働いていた奴隷による耕作について、その奴隷をどうしても解放せざるを得なくなり、そしてただ政治的な従属、つまりは隷属だけが後に残ったのである。

後者の場合は奴隷は農場主の財産目録の中の一つに過ぎなかったが、前者の場合はそうではなかった。この “fides dominica” とフランク族が征服した地域における “in truste dominica” を比較するのは、ここは適当な場所ではない。≪ヴェーバーはおそらく “in truste dominica” を「領主による農民の保護」と誤解しているように見える。しかし全集の注他によれば、この表現はフランク王国の6世紀のメロヴィング朝にて制定された lex salica に出てくるもので、その意味は「王に忠誠を誓った貴族による親衛隊、従士団」であり、農民に関係したことではなく、 “fides dominica” とは dominica が共通するだけでそもそも比較対象になるようなものではない。≫奴隷達のコローヌスへの接近は、すなわち地方においての農業従事者においてのこうした変化は、しかしながらローマの帝政期の歴史においての、もっとも重要なものの一つであり、また疑いようもなく確実に起きた事実である。

紀元後の最初の世紀において、奴隷達は既に一種の同業者組合[ギルド]のような団体を結成しており、その目的は部分的には相互扶助・葬儀共済のためであり、また他の部分では狭い個人また知り合いとの交わり以外のものであって 118)、それはしかしながら一般的に言えば、諸家族の自発的な組織化の始まりということが出来る。

118) プテオリにおける皇帝領において、奴隷達と自由民達は、モムゼンの C. I. L., X, 1746 – 48 への注記によれば、西方の地の評議会[ordo]とデクリオーネス達と collegium ≪一種のギルド、後には大学や会社という意味でも使われるようになる。≫を組織化していた。バウリ≪ナポリの西20Km、現在のポッツォーリの一部≫の農場においては、C. I. L., X, 1447 によれば collegium Baulanorum [バウリのギルド]が見出され、また ordo Baulanorum [バウリの評議会]もである。同じように見たところでは存在していたようであるのは(モムゼンによる)、C. I. L., X, 1748 での ルクッルス≪BC118~BC56年、共和制ローマの政治家・軍人。美食と豪華な別荘で有名。≫の別荘のある地≪おそらくナポリ湾沿岸の高級別荘地≫でのデクリオーネスである。C. I. L., X, 1746 ではバウリのある一族の管理人[villicus]が墓所を買い求めている。参照:ブリタニアでの碑文 C. I. L., VII, 572 (collegium conservorum [奴隷仲間のギルド])とC. I. L., X, 4856 の collegium familiae publicae [公共的な存在である諸家族のギルド]。C. I. L., XIV, 2112 の法規ではギルドの構成員が他の構成員の恥ずべき行為に対して罰金を科している(参照:C. I. L., II, 27)。ギルドの成員が死んだ場合には、その葬儀がギルドの費用で執り行われ、もし農場主がその奴隷の死体を引き渡さなかった場合には、死体無しでの仮想的な告別式が行われた。プテオリの土地においてのギルドはいずれの場合も公的な性格を持っていて、ゲマインデ団体の形式を真似た諸家族を集めた組織であった。

既に早い時期においてローマの大地主はその配下の手工業者達がまた市場で販売するものを製作するために働くことを承認しており、あるいはよりむしろ、このことは色々な意味で地主にとっての収益源であり、奴隷達に手工業者の技術を学ばせることの目的であった。都市において大地主はそういった産物の販売のための小規模店舗を持っており、その店について大地主は自分の家の息子達や奴隷達を責任者[Institor]にして管理していた 118a)。

118a) 比較する上でもっとも統合された例としては、ロシアのオブロク≪Оброк、ロシア語で賦役や貢納という意味で、農奴に課せられていた義務のこと。≫を課せられていた農奴において同様の状態を見出すことが出来る。

部分的には大地主はこういった者達に対してその店舗を独立採算で営むことを許していた。そのことに関する法律上の概念であるいわゆる adjektizischen Klagen ≪ラテン語で actiones adjecticiae qualitatis, 付随的な資格に基づく訴権、つまりこうした奴隷や息子が行った商売上の不法行為に対して取引相手が実質的な権利者・責任者である大地主を訴えることが出来る権利。「中世合名・合資会社成立史」の中でも連帯責任の議論の中で登場している概念。≫についてはまだ採用されるまでには至っていなかった。中世においての土地に従属している手工業者と、この当時の手工業者との本質的な違いは、古代における大地主の経営が持っていた意味の中に存在しており、それはその当時決して消え去ることがなかったものであり、それが継続して存在したことには次の理由があった。つまり皇帝による有給の官吏を使った国家の行政とまた軍隊の存在が、占有に対してより上位に立っていた、という理由である。そういった占有というものは一旦崩壊し、また至る所でその本来の性質に従って相互に競い合うように地方においての大地主の自治的支配権が確立し、自らリスクを取るようになったに違いないのであるが、――その次の段階が到来し、そこでは占有者達が自らの農場内での工房において自ら武器を鍛造させるようになり、そして大農場経営制による自給自足がそれらの工房を、その地域での権力を掌握するための新しい組織の唯一可能な細胞であるように見せつけるようになるのであり、そこではしかしながら大地主にとって農業的なそして産業的な発展が弱体化してしまい、そして占有者にとっては大土地所有の政治的な意味が再び前面に登場してくるのであるが、一方ではそうした産業上の発展は今やその土地に隷属している手工業者自らが担うことになったのである。

結論

ローマにおける国家意識が、共和国をしてムニキピウムの各ゲマインデ団体の集合としての世界[orbis terrarum]という考え方を意識的に捨てさせることになった。次に長く続いた帝政期には、国家ゲマインシャフトによる狭い地域に限定された愛国主義というものを、有効的な国家の推進力としては排除した。世界市民という考え方は、その本来の性質から、政治的なイデオロギーではなく、宗教的な推進力の根底にあるものとして把握され、また同時に成果をもたらすこととなった。至る所で遅延し、そして財政についての行政上の必要性と混ぜ合わされて一体化した、そういった世界市民という考え方を、単なる理想論から現実的なものにしていこうとする試みは、帝国全体の住民の過半数に対して、その者達をローマの領地と国家的な強制組織の中に併合すること≪カラカラ帝による属州民へのローマ市民権の付与などを言っていると思われる。≫と組み合わされた形で実施された。ただその者が耕作している足元の土塊を、ローマの世界帝国の住民は再び勝ち取ったのであり、そういった土塊がその住人にとって、そこからその者の思考や利害に関係することごとが生み出されるものとして再び把握され始めたのである。新しい発展が引き起こされるためには、領土と地方での権力の両方においてのローマ帝国の没落が必須だったのであり、その発展の過程においては、更にまた古くからの帝国の統一状態というものが、もはや皇帝による課税と行政管理の機構としてではなく、ある種の統一された世界という観念的な像として人々の前に現れて来たのであり、その結果としてそれが作用する領域を拡大することが出来たのである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(67)P.345~348

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第67回目です。ヴェーバーはここを書いていた時期、丁度軍隊で訓練を受けており、そのせいか農場での奴隷の生活を軍隊とそっくりと描写しています。しかしこれについては本当にそう単純化していいのか、という疑問があります。また農場の管理人達が単婚制で一般の奴隷はそうではない、と何度も述べていますが、これも眉唾です。この時代ともかくも単婚制になる前は乱婚制だったという誤った歴史認識がはびこっており、ヴェーバーも間違いなくそういうバイアスを受けていると思います。
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そういった居住の仕方は次のような場合にもまた同じであった。つまりコローヌスが奴隷の進化した者として現れており、かつそれ故にまず第一には労働者である場合で、そういった労働者は土地の管理人である actor や villicus の厳しい監督下に置かれており、それはコルメッラが前提としていることであるが、特にそのコローヌス達の食事が農場の側で供給されねばならなかった場合にそうであり、そうされた理由は夫役の日数が自由な日の日数より多かったからである 105)。

105) ガリアでは次のことが起きていたと思われ、それについては敬愛する顧問官のマイツェン教授が私に気が付かせてくれたものであるが、ある邸宅を取り囲むような集住が次のようなやり方で、つまりコローヌス達が農場主の邸宅の周りを囲むように集住して村落を形成し、また方形の耕地がそこに置かれる、というやり方で起きていたということである。このことは私の考える所では、ただ次の意味だけを持っていた。つまり大地主が奴隷をもはや相当な程度の数で抱えておくことがなく、そのために今や全ての耕地にただ夫役に従事するコローヌス達のみを配置し、要するにこういった好都合な、夫役に従事する農民とまさに同じ者達を使うしかなかったのであり、そしてコローヌス達のフーフェ制度のやり方に従って形成された村落によっての地主の邸宅の囲い込みが要望され、そしてその結果土地のの新たな分割割当てが行われ、その際に他方では大地主その配下の者達を、軍事上の理由から自分の邸宅の近くに集めたのである。しかしながらこのことが起きたのはドイツの植民地建設[民族大移動の結果による]の後であり、それ故この時代に起きたことではない。

コルメッラはそれ以外に次のことも規則的に起きたこととして認めている。それはコローヌス達が大地主が管轄する領域から離れた場所に居住していた場合もあった、ということである。それ故にコローヌスの大地主に対しての位置付けというものはもはや、コローヌスに対して実際に成立していた従属性の程度と社会的な状態については、一般化出来るようなことはほとんどない。glebae adscriptio [土地の付属物]という表現は、それが何らかの新しい要素を包含している限りにおいては、コローヌス達の地位が悪化したという意味は持っていない。

地方における労働者という身分の運命

そういったコローヌスの状況に対して、奴隷の状況についてはいくつかの発展傾向が新たに確立されていた。我々が先に見て来たように、奴隷を使った農場経営はその頂点を極めた時、つまり帝政期の初期においては、強度に軍隊風であった。奴隷達は兵舎のような共同の宿舎で眠り、一緒に食事を摂り、単婚制的な男女の関係は一般的にそこではほとんど見られなかった。≪これはヴェーバーの思いこみで正しくない。実際は同棲形態で暮らす男女の奴隷は多くいた。≫軍隊での10人組風のやり方で朝になると集まり、男性または女性の管理人によって点呼を受け、そして3-10人の単位で仕事場に連れて行かれ、「現場監督」(monitores)の監視の下で働かされた 106)。

106) コルメッラ 1, 9;12, 1。

労働のためのグループ分けは各奴隷の体力に応じて行われ――体力のある者は穀物畑に、逆に体力に劣る者はブドウ畑に振り分けられ 107)、――更には残った者はブドウ畑とオリーブ畑に割り振られ、また先に詳述したように、価格の安いかつほとんどが鎖につながれたままの通称有罪奴隷もそちらに回された。

107) コルメッラ 1, 9。

――奴隷に与えらる衣服は、我々が兵舎で支給されるものと同様のもので、その兵舎[宿舎]の中での決まった場所に保管されていた。奴隷は毎年チュニック≪2枚の長方形の布を肩で結んだトーガの下に着る内着≫を、2年に1回サガ≪外套≫(カトー 59)を受け取っておあり、それと並んでその者は仕事の時に使うための継ぎを当てた上着(centones)を所有していた。月に2回員数点検が行われた 108)。

108) コルメッラ 11, 1。

祝祭日用の飾りつけは男性奴隷は女性の管理人に対して「部屋の中で」行うことになっていた。女性の管理人達は調理場を共有し、同様に機織り機もであり、それを使って女性の奴隷が衣服の必要を満たすために機を織っており、また病室も同様に共有していた 109)。

109) コルメッラ 12, 1。

通常の奴隷の上に、既に言及したように、管理人である villicus がおり、大抵はその農場で生まれ育った奴隷の一人であり、後にはより上位の管理人である actores が出現している。後者については、コルメッラが言及するところでは、より上質の衣服を着用していたとされている(12, 3)。actores は単婚制を取っており、時には農場主の食卓に招かれることもあり 110)、そして大地主と共有する財産というプレミアムを与えられていた。≪全集の注によればこのプレミアムはインセンティブ的に一般の奴隷にも与えられていた。≫全く同じことが奴隷の区分けに権限のあった praefecti [praefectus の複数形]にも言え、その者達も単婚制を取っており≪ヴェーバーは単婚制を actores や praefectus の特権であったように書いているが、一般の奴隷においても婚姻権こそ無いものの、contubernium 、字義としては「同じテントで寝る」、という同棲婚が多く行われていた。これは奴隷に子供を作らせる上でも有効なため、コルメッラの農業書などでも奨励されていた。≫、また同じくプレミアムを与えられていた 111) 、――この二つの身分はしばしば同列に扱われていた。

110) コルメッラ 1, 8。
111) ウァッロー 1, 17。

奴隷の供給が封印されればされる程、そのために地方の奴隷達がまさしく自分達だけで何とかやって行くしか方法が無くなった程、そしてそれによって耕地で農作業を行う奴隷の人口が減っていけばいく程、それだけ一層奴隷達の組織は確固たる形で構築されねばならなかった。コルメッラの農業書では magistri officiorum ≪ローマ帝国の最後期での最上位の行政管理官≫が言及されているが 112) 、奴隷達はそれ故にただ純粋に「会社組織のように」階級や10人組制度に従って組織化されたのではなく、そうではなくまたその仕事の内容に従って、またその労働力の種類によって組織化されたのである。

112) コルメッラ 11, 1。

そのことは農場で必要とされる技術がより一層細かくなり高度化したことと関係がある。カトーやウァッローのようなより早い時期の農業書においては、多くの場合ただ家畜の世話をする飼育係だけが他と区別されており、他の全ての人員は operarii [作業者]として一まとめにされていた。コルメッラがしかし言及しているのは、新たに次のことにより重点を置かなければならない、ということで、それは例えばブドウの栽培であり、それに対してそれまでは最低価格で購える人員が使われていたのであるが、熟練の vinearii [ブドウ栽培人]を雇い入れなければならないと主張しており 113)、そういった者達は当然のこととしてその部門に継続して留まったのである。

113) コルメッラ 3, 3。

そういった人員間の区別は次の場合にはより一層はっきりしたものになったに違いない。それはより規模の大きな農場で、自前の手工業者を組織化し始めた時である。コルメッラが更に言及していることは 114)、fabri [手工業者]は多くの場合購入奴隷であったということで、――もしかするとそういう者達は相当規模の学校出身であり、しかしより確からしくは都市の親方達の元で技術を取得した者達であっただろう 115)。

114) コルメッラ 11, 1。
115) 法的史料にしばしば見られるのは手工業に従事する奴隷の訓練についての契約書である。

しかし後の時代になるとこれに対して、既にパラディウスの時代には、上述したように、手工業者を自分の農場内で養成するようになった。より後の時代の農場の組織においては、農業労働者の部門の――officia――と手工業者の部門――artificia 116)――がはっきりと区別されるようになった。

116) D. 65 de legat[is] :ある奴隷が officium から artificium に異動させられた場合は、その労働の対象が変わることによってその奴隷が持っていた[土地などの]相続対象物の権利は消失した。familia rustica 「地方での一族郎党]と familia urbana [都市での一族郎党]の明確な区別についてはより古くからあるものであるが、後の時代のものについては D.99 pr. de legat[is] 3;D.10, §4, de usu et habit[atione] 7, 8 と比較せよ。共和制期においては、不要となった人員を familia urbana から地方へ持って行くことが行われていたが、これは後になると変わり、コルメッラは familia rustica が基本的にはより高い地位に置かれるようになっていたことを確認しようとしていた(コルメッラ 1, 8)。

二つの部門のどちらに所属しているかということは、いずれの場合もその奴隷の奴隷舎からの解放が実現するとすぐに明らかにされ、そして手工業者にとっては一般的に行われたことは、その所属の地位が事実上相続可能なものとなったことである。農場での共通の奴隷舎からの解放が一般論として決定的な発展の主因となっていた。農場の管理人達、つまり officiales においては、既に述べたように、それらが確立したのはコルメッラの時代であり、その者達は単婚制を取っており農場主からプレミアムを受け取っていた。≪先に書いたようにどちらも管理人達だけの特権ではない。≫既に帝政の初期においてその者達と自由民の結婚が行われていたし、≪奴隷には正式な婚姻は認められておらず、ここでの話はおそらく解放奴隷のことと思われる。≫大地主経営する農場に属している者達は、こういった形でまさに大農場の中で組織分けされている限りにおいて、その状態を一種の身分と捉えており、共同宿舎からの解放はただその農場の中においての昇進と思われていた 117)。

117) 奴隷と自由民の結婚については C.I.L., X, 4319.5297.6336.7685。villicus と自由民の結婚を記録しているのは C.I.L., II, 1980。自由民と管理人の結婚については C.I.L., X, 6332、actores の単婚状態については:C.I.L., V.90.1939; XII, 2250。通常の奴隷の確固たる同棲婚の例としては C.I.L., V, 2625.3560.7060。servi dispensatores [財務担当の奴隷]はしばしば富裕な者達であり(ヘンケン≪1816~1887年、モムゼンと一緒に古代ローマの碑文の解読を行った文献学者≫, 6651)、そしてそれらの奴隷が解放されなかった理由は、モムゼンの推測によれば(C.I.L., V, 83)、その者達が会計管理人として場合によって[不正なことをした場合には]拷問にかける可能性があったからではないかとしている。確固たる同棲関係が古典法学の時代に規定として認められていたとしたら、その場合には既にその当時そういった関係を継続性があるものとし、良く知られた「奴隷の内縁者」として認めていたのかもしれない。

こうした発展の道徳的な意義については、ここでは特段何かを述べる必要はないであろう。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(66)P.341~344

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第66回目です。ここでも次第に農奴的な存在になっていって奴隷と同じく、土地の売却の際には土地と一緒に売却されるようになっていくコローヌスの姿が分析されます。残り12ページになりました。
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しかし事実上はローマ帝国全体に荘園制度網が張り巡らされたのであり、その状況において諸ムニキピウムは産業的な生活や、資本形成という欠くべからざる中心点を自分の中に置くことなく、また市場という不可欠なものにもなることもなく、結局のところは国家の税収管理においての単なる税金吸い取り装置という状態に留まったのである。

大地主制の内部の組織

ここで我々は占有の内部の状況についてそれを観察する必要がある。占有者達は自分の地所を、それについては既に見て来たが、次のように管理していた。つまりムニキピウムの官吏を真似してその土地領域に管理人を置いて管理させたのである。管理人[villicus]は確かに帝政期においてもなお、大地主制においての業務遂行者であるのを見て取ることが出来るが 95)、しかしながらその者と並んでそして事実上はその地位を置き換えているように見える者として、”actor”[代理人]が登場して来ており 96)、それはムニキピウムの同名の役職に相当しており、既にその名前にほのめかされているように、その者は官庁の業務について、準国家的な行政管理業務を委託されていたのであり、それは文献史料にも示されている 97)。

95) C.I.L., V, 878.7739; X,1561.1746.4917。

96) C.I.L., V, 90.5005.1939; VIII, 8209; XII, 2250。

97) この後に引用する箇所を参照せよ。コルメラの 1, 7では actor は familia [一族郎党]に並記されている。

Villicus の場合と同様に actor は通常奴隷であった。管理規模の大きい農園においては actor の上位または actor の代わりに procurator [上級管理人]が置かれ 98)、それは皇帝に所属する官吏の名称を借用したのであるが、その者は解放奴隷であった。

98) 私人である Prokurator については C.I.L., V, 4241.4347; VIII, 2891.2922.8993。皇帝の官吏である Prokurator については例えば X, 1740.6093。

こうした上級の管理人は一般的な管理業務は免除されており、また人員や資産のリストを作成することになっており、その者達は国家のまたは皇帝の管理担当の官吏と全く同等に扱われた 99);現金の出納業務については規模の大きい、特に皇帝領の土地においては、dispensator [管財人]100) がその者達を支援したが、その管財人も多くの場合は奴隷であり、財産目録の作成においては fabularius [会計士]がその者達を支援していた 101)。

99) C.I.L., X, 3910:ある者で、元々公的な官吏であった者がある(もちろん非常に重要な)私人の “praefectus”[任命された者]になったのである。このことは明らかに次のケースと同じである。つまり[ヴェーバー当時の]今日ある者が国の官吏からある貴族の所有する森林の管理人になって登場することである。”praefectus”という表現は当時間違いなく官職としての仕事を意味していた。ウァッローの 1, 17 によれば”praefecti”[praefectusの複数形]は農場経営においての監督者であって villicus の下に置かれたが、しかしやはり奴隷であり、しかしながら一般には一夫一婦制を取っていた。”Procuratores”[ procurator の複数形]はウァッロー(3, 6)においては鳥小屋の管理人として登場し、コルメラの(9, 9)においては養蜂場の管理人として現れ、それ故に当時はまだ純粋に経済的な機能を果たす者であった。

100) C.I.L., V, 83; XIV, 2431。

101) C.I.L., VIII, 5361(私人の)、3290 (皇帝の)。

こうした農場における官吏達の干渉については度々訴訟沙汰となっており 102)、それもその理由の大部分はアフリカにおいての夫役への苦情と同じであった。コローヌスの位置付けは、特にムニキピウムによる管理外とされた個人地主によって支配されていた場合には、色々な面で不安定なものであった。

102) テオドシウス法典 I, 7, 7。そこでは有力な procuratores が拘束され受刑することになっている。同法典 1 de jurisd[ictione] 2, 1;同法典 1 de actor[ibus] 10, 4。

以前見て来たように、コローヌス達は事実上その耕作する地所に縛り付けられていたのであり、それはつまりまず第一に、その土地領域から切り離されて立ち去ることが出来るような状態にはなかったということである。それにもかかわらず、こうした自由な移動権の制限はほとんど負担になるものとしては受け取られておらず、というのもここでの自由な移動権は単なる可能性としての意味しか持っておらず、その可能性としては耕作している土地を放棄する、ということであるが、それ故に価値の高い権利としては全く受け取られていなかったのかもしれない。コローヌス達にとってはるかに重要であったのは次のことで、つまりその者達が地主の意向に逆らってまでなおその耕作地との結び付きを許されるかどうかであり、それ故に地主達にとってはコローヌス達は、通常の自由民である賃借者のように、解約の予約をしたり、あるいは賃借期間が満期になった時に賃借料を引き上げることを許された、そういう存在ではなかったのである。ある土地領域に定住している人が、猶予期間無しにその土地領域から退去させられることが可能であったということは明らかである。というのはどのゲマインデもその者を受け入れることを義務とはしていなかったからである。先ほどのコローヌス達にとってはるかに重要であったことが実務的に意味していたのはつまり:地主が農民をその土地に「配置」し、そして日雇い労働者についてはその扱いを改めるなどしてその土地区画を取り上げ他の者に与えることが出来たかどうか、ということである。明らかなのは、地主が[その従属下の]誰かが死んで相続が行われる時に、そのやり方に干渉し、かつ土地の引継ぎについて取り決めることが、ほとんど随意に行うことが出来るものであった、ということである。その他第3章で我々は次のことを見て来た。つまり土地改革法[lex agraria]はアフリカの国有地の賃借人あるいは 1/10 税の義務のある占有者に対して、lex censoria によって賃借料他を値上げすることを禁止することに利害関心を持っていた、ということである。leges censoriae には渥取行為に基づく国有地の賃貸借契約において、確かに同様に大規模賃借人が小規模[2次]賃借人 に要求出来る賃料の上限を定めた条項が含まれており、このことは皇帝領の賃貸しの場合にも同様であったし、更にまた同様にコローヌスから土地を奪うことについての許可についても、それに関する規定が含まれていたのである。そのようにコンスタンティヌス帝のシチリア、サルディーニャ、そしてコルシカの国有地の管理についての指示を規定しているので(テオドシウス法典、[de] comm[uni] div[idunde] 2, 25)、その結果として土地を分割する際には家父長達と永代借地契約者達は奴隷達の血縁者 [agnatio]を一緒のままで居られるようにし、恣意的にその者達を分割することが禁じられた。こういった純粋に訓令的でかつ奴隷に関しての規定からトリボニアンは良く知られた “coloni adscripticae condicionis”[ケンススに登録された身分としてのコローヌス、実際にはコローヌスではないのにケンスス上でそう扱われた者を含む]に関しての法律(C.I.II comm[uni] div[idundo] 3, 28)を作り出し、そしてその規定は全く一般的に個人である占有者達に関連付けられた。この規定は本来は全くもって私人に関するものではなかった。より一層私人に対して関係付けられていたのは、コンスタンティヌス帝による法規であり(C.I. 2 de agric[olis], 11, 47)、その中で禁止されたのは、ある土地を売却した者がその土地のコローヌスを自分の元に引き留めて他の目的に使用することであった。そういった禁止は市民法やまた行政法に従った場合には、それ自体必要不可欠なものであったことは全く無いと思われるが、――というのは土地に従属するコローヌス達は元々その土地に対して自分の出生地として確かに縛りつけられているからであり、――もし私法と行政法の複合したものが先の禁止に相当する解釈に達し得なかった場合でも、コローヌス達は所属という観点では私法的な意味においてのその主人[地主]に属していたのである。奴隷に関する法をコローヌスに対しても適用するというまさに法律の濫用は、コローヌス達を人員として奴隷と同様に売却することを可能にしようとする試みであった。コローヌス達はその土地に本来は単に住民として所属するものであったので、このことは法学的には問題外であった。しかしその後試みられたことはコローヌスの状況について次の混同を引き起こすことであり、それはつまりある者が小さな土地区画を売却した際に、その土地区画と共にその土地を耕作していたコローヌス達についての主権と処分権をも一緒に移転させた、ということであり、その結果として事実上コローヌス達も売却可能にする、ということが試みられたのである 103)。

103) 似たような困難さは、尚≪ヴェーバー当時の≫今日我々≪プロイセン≫においても、大地主の土地領域を構成している土地を分割する際には生じている。実務的な取扱い方法はその際にぞれぞれの地方にて異なっている。

この方向を歓迎し、そしてユスティニアヌス法典 7 の前掲部がこの禁止令を更に servi rustici adscripticae condicionis [ケンススに登録された身分としての地方の農場の奴隷]に拡張適用しようとしたものであり、これが意味しているのはコローヌスと奴隷という者達は、地主の財産のケンススへの登録リスト上、特別にその[人頭税の]税率と共に記帳された、ということである。コローヌス達とこれらのコローヌスに接近したものとなった奴隷達は土地の分割売却の際にはぞれぞれの面積に応じて[pro rata]分割されて引き渡されることとなった。コローヌスの地位を奪うことの禁止は、それ以外では文献史料において明確に記載しているものはない。しかしながらただ現にある耕作地についてそれをその耕作者の土地とみなすことを許す行政上の保護が行われていたようには思われ、何故ならば地主が[購入した土地に付属している]コローヌス達を競り落とそうとする試みに対してある種の特別な手続きが許されていたからである 104)。

104) ここでは市民への裁判について述べているのではなく、「犯罪行為を立証する」[facimus comprobare]ことについて述べているのであり、そしてまた任意の判決内容を求めることが許されていたのであり、――もちろん、というのも地主の土地領域においては正規の司法当局というものは成立していなかったからであり、そしてもまた裁判を行えるかということについても疑わしいものであったに違いないからである。

そういった干渉行為はただ任意のものであったので、その結果現金による納税義務者による大土地経営においては例えば第3章で述べたことに従って≪ager stipendiariorum はローマの領土として取り扱われており、そこでは法的な訴えは起こすことが出来ず、ただ行政上の処理のみが適用可能であったということ。≫おそらくは常に許可されており、そしてもしかするとそこからそういう状況が生じて来た可能性もある。[コローヌスの家父長の]死亡の場合においては地主に対して次の可能性が与えられた。つまり相続資格のある者達について、誰を相続者にするかと指定する、ということで、それは決してその者達の中から人を削減することが可能になったのではなく、相続者以外の残った者達は結局 “inquilini” [同居人]となったのである。私人の土地領域でどの程度まで実際に「農民保護」が行われたかについて、知り得る情報は無い。その他の点では地主は一般的にコローヌスの扶養までは必要とされておらず、というのは農場主自身が、既に論じたように、自費と自己責任で生活して耕作している農場の従属者であって、種蒔きと収穫の際に労働者として使用出来る者達の扶養の方に関心があったからである。――コローヌス達の独立性の程度とその一般的な状態は非常に様々であったのであり、もしかするとそのためにある土地への植民のやり方もまた非常に様々であったかもしれない。アフリカにおいては――しかしながらまた砂漠の諸部族からの襲撃を考慮して―― die vici der plebeji [平民の住む村々]が置かれており、というのはそこでは現金による納税義務者について言っているのであるが、全ての居住者、コローヌス、手工業者、商人が住む村々がそういった納税義務者の邸宅を取り囲むようにして防御する形になっており、それを”in modum munitionum” [要塞の境界線上に]と測量人達は先に引用した箇所において描写していた。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(65)P.337~340

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第65回目です。デクリオーネスが諸都市から距離を置いて自分の経営する農園に閉じこもるという傾向について更に論じられます。ヴェーバーは基本的にローマを都市が中心になって作られた国家として捉えており、このような貴族階級の地方への閉じ籠もりはローマを衰退させた要素として捉えており、中世になってイタリアの自治都市が勃興するまでを長い停滞期間と考えているようです。ヴェーバーの欧州での都市についての興味は「中世合名・合資会社成立史」から始まり、この論文で更に深まっているように見えます。
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資本形成は一般的には、次のような属州においてはかなりの程度まで妨げられていた。その属州とは辺境の諸邦のように植民を目的とした飛躍的な発展が見られたものとしては把握出来ないものである。資本形成が妨げられた理由としては、占有の土地においての自給自足と、大規模の産業分野での国有化、そういった理由の中でも取り分けまず生計を立てていくことを優先することが資本形成を妨げていた。またデクリオーネスに対してはより高い階級での軍役への参加は認められていなかったので、諸都市はそういった者達に対して実際の所より高い地位の市民になるための相対的にごくわずかなチャンスしか与えなかったか、あるいは場合によっては全く与えていなかったのである。このことは地主達において、特にデクリオーネスにおいての、諸都市から概して距離を保つという傾向を強めたのである。次のことについては既に上述の箇所で言及した。つまり帝政期の開始により貴族政治の可能性が失われたことによって、大地主が再び農場経営者に戻った、ということである。コルメラはその時代に既に次のことを推奨している。つまり大地主がその所有する土地で快適に過ごすための設備を整備することで、それがまた農園主の家族に対しても継続してその土地に滞在し続けられる環境を提供したのである 88)。

88) コルメラ、1, 4, 参照 1, 6。

パラディウスの場合は、主要な邸宅[praetorium]89) の存在――Palais[宮殿]――と更にそれと並んで fabrica90) ――工房――がきまって[農場経営の]前提条件とされていた。

89) パラディウス 1, 8.1, 33。彼によれば[主たる邸宅から]糞尿小屋は遠くに離して設置すべきものとされていた。

90) パラディウス 1, 8。

帝政期のより後の方になると、全く一般的な現象として次のことが登場する。それは占有者達が絵画、家具、大理石の壁板、そして他の装飾品一般を都市の住居から取り去ってそれらを地方の邸宅に移送して、都市の住居については一部では完全に退去する、ということである 91) 。

91) 既に 1, col. Genet, c.75, Eph. epigr. III の p.91 以下;C.I.L., X, 1401(44/ 46 年の元老院決議)。都市の住居の装飾品を地方に移すことについては、ユスティニアヌス法典 6 de aedif[iciis] priv[atus] 8, 10。高い身分の人の地方での滞在についてはユスティニアヌス法典の VI, 4 で述べられている。

特にまたデクリオーネスはこういったやり方で自分達の所有物をムニキピウム団体から分離することを進めていた。国家による法制定と地方の法規は、既に帝政期のより早い時期においてこれらの動きに干渉しており、都市においての建物やあるいは建物一般を行政当局の許可無しに取り壊すことを禁じており、同様に占有者達の都市の住居からの家具調度品の除去も禁止した。しかしながら都市の崩壊の進行は類を見ない程激しいものであった。このことは次のことと矛盾していない。つまり一方ではその人口と物質的な豊かさが増大していると把握されていた都市が存在していたということであり、それは例えばマイラント[ミラノ]であり、それは諸街道の結節点に位置しており、その諸街道は強力な植民政策による人口増大と建造物の密度の上昇が起きていた辺境の属州に向かって延びていたのであり、また一般的にそういった辺境の属州において都市としての持続的な発展が起きていた、ということともまた矛盾していない。ガリアにおいては、土地制度的な要素の優勢と結び付いた自然経済的な状態が衰え始めたのは、ようやくメロヴィング朝≪481~751年でフランク王国の最初の王朝≫においてであった。しかしながら中央において出ていた傾向を見た場合、諸封と古くからの属州においては、既に帝政後期においてまさに上述したような状態になっていた。有名な標語[都市の空気は自由にする]は次のように言い換えることが出来よう:「田舎の空気は自由にする」と。そしてこの状態が完全に解消されるまで状況が成熟するには実に500年が必要だったのである。≪中世イタリアの自治都市の興隆を踏まえて言っていると思われる。≫。この2つのケースにおいて自由というものは我々の個人主義的な意味で、次のことを指しているのではない。つまり占有者の保護の下でコローヌスになる形で逃げて来た都市住民とか、あるいは地方の農奴が都市の中に都市外在住市民として引き込まれた者としての自由ではない、ということである。そうではなくて、こういった何百年にも渡った[都市の]上昇と沈下の現象は次のことに帰属する。つまり個々の人間が何をもって「自由」と見なすのかと言うことと、そして何についてその者が自由でありたいと欲したのか、しかし取り分け関心を持たれていたのは、こういった発展が将来はどうなるのかということと、その時々の時代においてのイメージに合わせての、生きる価値のある生存という希望がどこにあるのか、ということである。ローマ帝国が没落した時代にはしかしながら発展の将来性は荘園制にかかっていた。

我々が文献史料から見て取ることは、地主に従属するコローヌスと「半地主従属的ー半自営農民的」状態にある者を、我々の[プロイセンの]農地法≪19世紀の初め頃からプロイセンでは農奴解放運動が起きていた。≫の用語で語ろうとする試みは成立せず、そういった者達においては地主との関係は純粋に契約に基づくもので、相互に独立して存在していたのであり、その関係は地主の農場の外側に存在していた。しかしここで第3章において述べた次のことが関係して来る。つまりデクリオーネスが納税義務を課せられていたことは、その結果として起きたことは諸都市の領土が何十にも分割された専制[者の土地]へと解体された、ということであり、こういった専制はより小規模の地主をその中に囲い込んだのであり、そしてそれぞれの専制政治を行う者によってその専制領域の税は、その者自身が経営する農場に対するものと、また中に囲い込まれた小規模地主に対してのもの、そしてコローヌスに対してのものを含む形に拡大されており、そのことによってその専制領域に属する納税義務者は事実上統合されたのである 92)。

92) テオドシウス法典 2 de exact[ionibus] 11, 7 (319年のコンスタンティヌス帝の立法による):いかなるデクリオーネスも次のこと以外で訴えられることはない、それはその者に課せられた人頭税についてと、その者の配下のコローヌスと人頭税を課せられた者達についてであり、「他のデクリオーネスやまたはその領地を理由として」[pro alio decurione vel territorio]訴えられることはない。デクリオーネス自身に全体責任が課され、[各デクリオーネスの中から更に]一人の長が選び出されてそのゲマインデの全体での税の総額に対してその者に責任が課されたのであり、それは既に D. 5 de cens[ibus] 50, 15 に規定されていた。今や各都市の領土は専制者の領土 [territoria] [の集合]に変わってしまって破壊され、それぞれのデクリオーネスが自分の領域について責任を負うようになっていた。このことは先に(第3章で)扱った土地台帳の断片の内容と矛盾していない。πάροικοι [傍に住む者→市民権は持っていないが住み着いている者]自身は単なるコローヌスであるということはあり得ず、この表現はマルクス・アウレリウス帝の時代のボイオーティア地方≪古代ギリシアの地方名で中心都市はテーバイ≫の碑文に同様に出てくる(C. J. Gr. 1625)。そこでは誰かが次の者達、つまり πολεἰταις [正規の市民に対して]、かつ παροίκοις [正規の市民ではない居住者に対して]、かつ ἐκτημένοις [正規の市民ではないが土地だけを取得した者に対して]贈与を行っている。ここでは πάροικοι はコローヌスとはほとんど見なし難く、それ以上に C. I. G. 2906 が確認しているようなデクリオーネス(πολεῖται)として直接納税の義務のある住民ではなく、ここで πάροικοι として語られているのは18~20歳の青年[Epheben]≪軍事訓練を受け成年になる準備をしている青年≫のことである。πάροικοι はよりむしろ受動的な資格の市民であり、つまり確からしいのは、tributarius [現物貢納の義務を負った者]と表現されている者達と同じであり、そしてこれらの者は(上述の箇所参照)コローヌスに並置されており、ムニキピウムの租税に関連付けられた者としてそう名付けられている。既に述べたことではあるが、私には次のように思える。つまりそういった者の中には、専制下に置かれるようになった小規模の地主が含まれており、その者達はそれ故に占有者ではなくなっているのであるが、そういった者達が規定されており、そのこととテオドシウス法典 2 si vag[um] pet[atur mancipium] 10, 12 の規定は矛盾していないであろう。地主への現物貢納の義務については、それは文献史料を一瞥すれば明らかなことであるが、コローヌスに関する全ての状況の中で非常に重きが置かれていたのであり、全てのケンススでの納税義務のある登録者[adscripticii]というものの実体がコローヌスに接近していった、ということは不思議なことではないのである。コローヌスという表現は一般に時においてはその土地に定住している訳ではないその土地の従属者に対してもまた用いられていた(テオドシウス法典 4 de extr[aordinariis] et sord[idis] mnu[eribus] 11, 14 とGothofredus≪Iakobus Gothofredus、 1587~1652年、ジュネーブ生まれの法学者・法制史家≫)。――コローヌスとして扱われた者についてではなく、ただある占有者の専制の中に囲い込まれた者の不完全に併合された納税義務は私には、その他の点では不明確で全く破綻しているユスティニアヌス法典 2 in q[uibus] c[ausis] col[onii dominos accusare possunt] の法令に関連しているように思われる。その法令は coloni censibus dumtaxat adscripti [ケンススだけによってコローヌスとして登録された者]について規定しており、またその者達が負わなければならない現物貢納についても扱っており、更にはその者達がコローヌスと同様にその主人に対して訴えを起こす権利が無く、ただ限定された、コローヌスにも許された場合にのみ特別な法的保護が与えられることを規定している。 ここについての法規の目的はそういった単なる adscripti をコローヌス一般と平等に扱うことであったように思われる。この章句に続く部分はおそらくは Tribonian ≪ビサンチン帝国の法学者達でユスティニアヌス法典の編纂に従事した。≫によって書き加えられたものであり、その時代にはこの2つの集団の差異はもはや無くなっており、そこについて Tribonian はこの部分は奴隷についての記述だと思っていたのであろう。

納税義務者[tributarii]とは占有者に従属するこういった身分の者達であった。占有者の身分直接的な納税義務を負う土地所有者としての特別な身分として他からはっきりと区別される際立った存在となった。占有者の各都市のクリエへの帰属はもはやそれらの都市の領土では無くなった占有された土地についての税負担 93) という風に見なされることが可能になっており、そのことは占有者の義務、例えば新兵募集の義務、をその者達の土地が直接負担するものでないように切り離すこと 94) を動機付けた。

93) テオドシウス法典 33 de decur[ionibus] 12, 1;同法典 1 de praed[iis] et manc[ipiis] cur[ialium] 12, 3。

94) テオドシウス法典 1 qui a praeb[itione] tir[onum…excusentur] 11, 18。

次のことは言うまでもないことである。つまりこうした展開は各地方において非常に異なった程度にそれぞれ到達しており、一部ではまだ始まったばかりであったし、それは当時ローマ帝国の領土の全てをムニキピウム領域において一つの組織で統一するという皇帝の理想の進展と同様であった、ということである。この発展傾向をより押し進めようと欲した場合、常にそれは次の留保条件付きとなったのであり、つまりそれはただ傾向に過ぎず、そしてその実施の程度は地方毎に異なっていたのであり、その傾向というのは完全に純粋な形ではもしかするとどこにおいても実現してないと見えるものとして、つまりは理想像として形作られており、それ故に、私は信じるが、それほど大胆ではなくとも次のように言うことが出来るであろう:皇帝の考えはもしかすると元々は次のようなものであったのかもしれない、つまりローマ帝国を自己管理し自治を行う諸ムニキピウムと、その諸ムニキピウムが負担する国家への分担金と結び付けたものにする、ということであるが、しかし帝政期にはそういう自己管理は次第に無効にされていったし、そして諸ムニキピウムは通常の場合はローマ帝国の行政管理の及ぶ領域とされたのである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(64)P.333~336

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第64回目です。
ここではコローヌス制と奴隷使役の上に立つ農場経営が次第に自立・自営の動きを強めていって、ローマの国家の中のいわば小さな別の国家になっていく様子が辿られます。ヴェーバーは明らかに中世のグーツヘルシャフト制(荘園制)の起源をローマのこの農場経営に求めています。それはいいのですが、ここでホノリウス帝の時のスキリア族に土地を与えてローマ領内に住ませたことがコローヌスと同様の制度として論じられています。注に書きましたが、これは西ローマ帝国末期のきわめて暫定的な処置と捉えるべきであり、ヴェーバーは法律にだけ注目してそういう背景情報をまったく書いておらず、誤解を招きます。
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このようなコローヌスの取り戻しの現実的な可能性は、大地主にとっては本質的な利害に関係するものであり、それはまた特に次の理由で、つまり大地主はコローヌスの税率について責任を負っていたからである。このような――土地税と人頭税――はコローヌス達が使用している土地のユガティオとしてケンススに登録され(adscribere) 77)、コローヌス達はそのことによって adscripticii[登録された者]と呼ばれた。大地主に対して諸ゲマインデに対するのと同様に次の義務が課された。つまりその大地主の責任となる新兵徴集ノルマという義務であるが、このことは土地それ自体が負担すべき現物的な義務として把握されており、そして大地主達は何とかこの義務を免除してもらおうとし、それは定期的な金銭支払いに代えてもらうことで部分的には成功したのである 78)。

78) Adscribere の手続きについては常に――テオドシウス法典 26 de annon[a] 11, 1;同法典 3 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11, 16;同法典 51 de decr[ionibus] 12, 1;同法典 7 de censu 13, 10;同法典 34 de op[eribus] pub[icis] 15, 1;同法典 2, 3 de aquaed[uctu] 15, 2;同法典 2, sine censu 11, 3 (servi adscripti censibus)――占有者や10人委員会の長による夫役や税の負担についてケンススに登録することが必要とされた。

78) テオドシウス法典 1 qui a praeb[itione] tiron[um] 11, 18、は帝政期の土地の例によれば、それについては同法典 2 de tiron[ibus] 7, 13 が制定された後は免除されるようになっていた。同法典 13 の同じ箇所の Adaeration [adaeratio]≪金銭の支払いによって免除された義務≫を参照。

属州におけるコローヌスについては、一般に人頭税が課せられた状態になっていたと思われるが、そのコローヌスはそのことによって censiti と呼ばれており、その結果としてコローヌス達はその者達の市民的な権利が弱められた階級に所属することになっており、それがこの状態の帰結であった 79)。

79) より下のクラスの者の人頭税免除については、その者達に拷問を加えることを可能にするという目的で、censiti の階級に入れられたということが、テオドシウス法典の 3 de numerar[iis] 8, 1 にて特別に規定されている。

大地主に属するコローヌスと自由なコローヌス

次のことは明らかである。それは以上のことをもってコローヌスとして知られた法的な状態についての全ての本質的な外形的特徴が与えられている、ということである。この状態がまさしく大地主の土地区画において発生していたということは、それによって説明されるのは次のことである。つまり帝政期の法律文献において、そういったコローヌスと並んで自由な期間限定賃借人の通常の賃貸借関係が見出される、ということである。

大地主に土地に従属するコローヌスの所有権について法学者がほとんど言及していないことの理由は、このコローヌスという状態について特別に適用されるように作られた規則の行政処理的な性格にある。ひょっとしたらコローヌスの法律上の状態は当時まだ実務的な処理においては様々に解釈し得るものだったのであり、それ故に該当する法学者達がその著作の編集においてはそれを扱わなかったのである。

類似の状態。軍事上の城砦。蛮族の定住。

コローヌスと同等の状態にあるものとして、一連の他の組織について見て行くこととする。その場合アフリカでの軍事上の城砦の住民は明らかにその土地に従属するコローヌスであったのであり、夫役の義務を課せられかつ皇帝によって任命された特別官の管理下に置かれた 80)。

80) アレクサンデル・セウェルス帝≪第24代ローマ皇帝、在位222~235年。≫は234年に “per colonus ujusdem castelli”[コローヌスを使って同じ城を]、――つまりマウリタニアの Dianense ≪現在のアルジェリアにあった属州マウレタニア・カエサリエンシスの都市≫の城――城壁を建設し、つまりそれはコローヌスを使役することによってであった。(C.I.L., VIII, 8701。参照 8702, 8710, 8777。)

また取り分け辺境の蛮族はコローナートゥス制≪コローヌスを使った小作制度≫の権利でそこに定住していた。ホノリウス帝≪西ローマ帝国皇帝、在位393~423年、暗君であって西ローマ帝国滅亡の原因を作り、在位中にローマが蛮族に占領された。≫はスキリア族≪東ゲルマンの部族で現在のウクライナに住んでいたが、フン族に追われて西ローマ帝国領に侵入した。≫を彼らがローマに屈服した後に、大地主の下にコローヌスとして置いて分割したが 81)、それは労働忌避者を大地主の下に送って使役させたのと同様である。

81) 409年のホノリウスの法とテオドシウス法典 V, 4, 1. 3:Scyras .. . imperio nostro subegimus. Ideoque damus omnibus copiam, ex praedicta gente hominum agros proprios frequentandi, ita ut omnes sciant, susceptos non alio jure quam colonatus apud se futuros.
[スキリア族を…我々の支配権の下に服属させた。それ故に全ての者に次の許可を与える。つまり、先に述べた民族について、その者達を自分の土地に住まわせることである。その際に全ての者が知っておくべきことは、こうして受け入れられた者は法的にはその受け入れられた者の下でコローヌスとなる、ということである。]
≪この例は、西ローマ帝国末期の暫定的な処置であったと思われ、実際にこの409年にはローマは蛮族の占領を受けている。またスキリア族も一旦ローマに恭順の意を示したが、すぐ後にフン族と共謀してローマに再度反旗を翻しており、決して安定的に持続した法的制度ではなかったことに注意。≫

既にこのことに遡って同様の処置が既に行われていた可能性がある。モムゼンはコローヌスの起源をマルクス・アウレリウス帝の時の蛮族の定住に求めているが、ガリアでのラエティア人≪元々ポー川流域に住んでいたエトルリア系と言われている部族で、ガリア人の侵入により山地に移動した。≫をコローヌスと見なすことは否定されるであろう。そういう議論にもかかわらず、私には蛮族とコローヌスには本質的な違いがあると思われる。というのはラエティア人とローマ帝国領内に定住した蛮族は全体で、我々が知る限りでは、より上位の農民に従属する土地付属の人間集団ではなく、[軍事力を提供する代わりに土地を与えられた]封土の所有者であったからである。次のことは完全に可能と思われる。つまり蛮族の定住が物権の発展の一般的傾向としての個人的及び公的な義務を本質的に強化した、ということであるが、しかし私が信ずるのは、コローヌスの権利状態というものは、そういう蛮族の定住のことを特に考慮しなくとも、法制史・経済史の観点で説明しうる、ということである。いずれにせよ定住させられた蛮族は、つまり gentiles は、文献史料の中でコローヌスとは区別され、gentiles については特別な個々人の身分を規定する法が存在した 82)。

82) 蛮族との結婚の禁止 テオドシウス法典 1 de nupt[iis] gent[ilium] 3, 14。

占有の法的位置付け

大地主のコローヌスに対しての権利の状態は完全に官憲的な性格を持っていた。一般論として大地主には警察力が与えられていたに違いなく、その力に基づいて saltus Burunitanus の請負人[conductor]はその配下のコローヌス達を棒で打ったりしていた。クラウディウス帝は元老院に対して、自身の土地においての一般的な市場開催権を認めさせており、その権利にはいずれの場合でも市場警察の権利が結びつけられており、そして大地主についてもまた次のような権利が与えられていた。それは市場で販売される家畜や奴隷について、商品そのもの、あるいはその商品の品質や員数不足に対しての購入者からの苦情に対して、按察官[アエディリアス]≪建築、道路、水道、市場などの管理を担当するローマの官吏≫のやり方に倣ってそれに対処する、という権利である。同様に市場においての司法権もまた私人である大地主に与えられた(C.I.L. VIII, 270)。大地主達は彼らに与えらえた警察権力を使ってその配下の者達に対して、それが適当と思われる場合においてはコローヌス達を奴隷のように収用部屋に監禁したのであり、このことは皇帝の立法によってこういったケースで監禁された私人に対して干渉し、そういった行為を越権行為[crimen laesae majestatis]≪元々の意味は国家に対する反逆などの重大な犯罪のこと≫として国家大権に基づく介入を行って調停しようとすることが試みられるまで続いた 83)。

83) テオドシウス法典 1 de privat[is] carc[eribus] 9, 5。

同様に明確に起きたことは、国家の行政当局と大地主の土地で官憲の関与を免除された領域の管理人との間の争いである。農場管理者の側は次のことを要求した。それは犯罪者の追及とその他の必要な措置をその領域の中ではただ要請を当局に対してするだけで出来るようにすることであり 84)、言い換えれば、農場管理者達はフランスにおいて治外法権[Immunität]と呼ばれているのが常であることを行使することを、当然の権利として要求したのである。

84) テオドシウス法典 11 de jurisd[ictione] 2, 1。大地主の代理人たちは一般的に全ての上位の裁判から免除されるように努力した。それとは反対のことがテオドシウス法典 1 の前掲部にある。

それについては皇帝の側から拒絶されたのである。他方では大地主達は部分的には次のことをやり通すことが出来た。つまりその配下の者達に対しての裁判を行うことであり、それも民事と刑事の両方についてであり、原則的にはグーツヘルシャフト制を先取りした形で公判を行っていた。大地主はコローヌスを法廷に出頭させ、その者達に[裁判によって]庇護を与えた 85)。

85) テオドシウス法典 de actor[ibus] 10, 4 の皇帝の配下の者についての規定。しかし私人である大地主達が同じことをやろうと努力しかつまたそれにある程度成功していた、ということは、その者達が精力的な弁護を行い、また部分的には法廷への出頭義務を免除してもらおうともしており、また部分的には小規模地主を保護しようとしており、そして自身で所有する土地領域に定住しようとしていること、あるいは自身の大地主としての地位を認識しようとしていたことを示している。テオドシウス法典 1, 2 de patroc[iniis] vic[orum] 11, 24 ;同法典 5, 6 前掲部;同法典 21 de lustr[ali] coll[atione] 13, 1;同法典 146 de decur[ionibus] 12, 1 (「有力者の庇護の下に」[sub umbram potentium]逃亡した10人委員会の長に対して)。ユスティニアヌス法典1, §1 ut nemo 11, 53 においては”clientela”[庇護民]という関係の表現が使われている。参照 D. 1, §1 de fugit[ivis] 11, 4。

所有する土地領域をムニキピウムの裁判管轄区域から除外してもらうという動きは、完全にそれ自身の意志だけによる発展であった。徴兵は更にまた税の徴収管理と同様大地主制にのみ関係することであった。地主はその者なりにその領域のケンススのリストへの登録を導入し、税を徴収し法の執行権を持っていた 86)。

86) D. 52 prd[e] a[ctionibus] e[mpti] v[enditi]、そこではある請負業者が saltus の土地区画を税を滞納したという理由で競売にかけている。地主が自身の官憲的機能の利用を奴隷やコローヌスに委託することがよく行われており、そのためにユスティニアヌス法典の 3 de tubular[iis] 10, 69 は、地主が奴隷やコローヌスが行ったことに対して地主自身が責任を負う、ということを規定している。その結果として起きたのは、諸都市から属州への大量の人口流入が、それらの諸都市は剣闘士の競技が行われなくなったこと、及びゲマインデにおいての同族間の争いへの関心が弱まった後は、その争いは今や政治的な意味でのみ支配している10人委員会の長の一族郎党の内部でのみ起きたのであるが、そして諸都市の市場が占有者達の農場においての農業に必要なものを自給する組織の形成によってその意味を失ったという状況により、大規模な占有者の保護の下に逃げ込むことが始まったことによって、その吸引力を失った、ということである 87)。

87) 注85の関連箇所を見よ。

占有者は次のことに利害関心を持っていた。つまりその配下の者達とその土地で使用出来る労働力について出来る限り徴兵されないようにする、ということであり、そして一般論としてその者達を暮らしていけるように保ち、その者達が負担出来る範囲の義務を課す、ということである。占有においては国家による課税のための組織化を免れており、その組織化の内容は都市の住民の大部分とまさにその者達が労働力を持っているという要素を、ある種の国家への従属者のように行政組織の中に組み入れたのであり、また産業における生産を一部国有化し、それに対して部分的にはある種の官憲的性格を刻印し、そしてそれらを国家による厳格な管理の下に置いた、ということである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(63)P.329~332

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第63回目です。
この辺りはヴェーバーが1年間の軍役に従事している時に書かれたもので、そのせいか文法的に破格な文章が多く、かなり意味を取るのに苦労しました。
なおかつ驚くのは、アウグストゥスが実施したケンススによって、マリアとヨセフがベツレヘムに帰郷しそこでイエスが産まれる、という話がルカ福音書に書いてあるのはクリスチャンなら常識ですが、ヴェーバーはそれをマタイ福音書と間違えています。(序文で訂正しています。)後年宗教社会学をやる人とはまるで思えないお粗末さです。
序文でそこを訂正しているのは、読んだ人にすぐ指摘されたのでしょう。
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コローヌスの夫役はそこから、既に引用済みのアフリカの碑文にて、モムゼンが主張したように、ゲマインデ、例えば Genetiva≪Julia Genetiva Ursonesis、スペイン≫によって課された夫役に完全に相似するものとして取り扱われ 68)、まるで公的に課された労働であるかのように見なされ、その場合には請負人[conductor]にそれを扱う職権が与えられたのである。

68) Genetiva の法規、c.98。

コローヌスの土地に関しての所有権についての全ての法的な争いが行政的に解決された、ということは、第三章にて詳論した内容によって明らかである。請負人が賃借している土地の内の一区画を誰か他の者に与えることを許すのを望んだかどうかは、もちろんその請負人の意向によるものであった。アフリカにおける現金での税支払者の土地区画の状況も前の章で詳しく述べた通り同様であった。ここでの土地の所有は属州総督の職権と行政が関与するものとしてのみ可能となっていた。というのは結局のところは、イタリアにおける例外扱いの土地や、アフリカにおいて永代小作地とされた ager privatus vectigalisque においてのように、コローヌス達は事実上は地主から土地を借りているだけの存在であり、いずれの場合もムニキピウムの司法当局が関与することはなく、可能であったのはより上位の裁判所への訴えであり、それは何よりもただローマの中央裁判所への訴えであった。後の帝政期にはこの制度は色あせたものとなり、コローヌスに留保条件付きで許されたのは、正規の裁判官に対して地主を訴えるということで、特にそれはまた次のケース、つまり地主がコローヌスへのそれまでの賃貸料を引き上げようとした時 69) に起きていた。

69) ユスティニアヌス法典のXIの章の49。

つまりまたここで起きていたことは、元々の国家の賃貸人と元々の私的な賃貸人の区別が無くなって一まとめに扱われているということであり、国家の直轄地の大規模賃借人がその下の小規模な賃借人に対して行うことが許されていなかったこと――つまり賃貸料の値上げが――他の占有者達に対しても禁じられていた、ということである。他の条件においても同じにすることが行われていたが、この値上げ禁止ということはしかしコローヌスにとって有利なことだった。次のことは既に何度も主張して来た。つまり分割されていないまとまった土地の所有には、明らかに個々の土地領域 70) を測量によって境界線をはっきりさせるということは必要ではなかった、ということである。

70) 何度も考察して来たアフリカの saltus Brinitanus の碑文は、確からしいこととして、測量が行われており、その碑文は tabularium principis ≪銅板に刻まれた法規≫を引用してかつ測量地図を参照しており、このケースでは2種類の書類上にその法規に近い規定が含まれていた。

いずれの場合も使用料として税金を払う土地領域とそしてまた例外扱いされた土地においては、コローヌスがその土地の所有権を得るということが起きていた可能性がある。この点については、コローヌスが自分の所有する土地を任意に売却出来るかどうかということは、恐らくは後に、コローヌスの大地主への依存関係が深く根を下ろした状態になった時には、疑義が生じていた。そしてそれは結局は許されない、ということで決定され 71)、それ故に所有権のある所有というものは、土地所有の変更という点においては、元々の貸借地としての所有ということと同一視され、何故ならば明らかにコローヌスの労働奉仕はその者が所有する全ての土地所有に課せられている負荷として、10人組による奉仕やそれに類似のものとして取り扱われたからである 72) 。

71) テオドシウス法典 1 ne col[onus] insc[io] dom[ino] 5, 11 (ウァレンティヌスとウァレンス):”non dubium est quin non licet “[合法的でないことは疑いの余地がない。]。

72) テオドシウス法典 2 de pign[oribus] 2, 30 は奴隷、代理人、コローヌス、管理人、請負業者が地主の土地を担保にして借金することを禁じており、そしてテオドシウス法典 1 quod jussu 2, 31 は次のように規定している。それは今挙げた者達が借金をしたことについては、地主は義務を負わない、ということである。これらの法文は明らかに次のことによって生じた混乱について扱っている。それはコローヌスが所有権を保持する土地と賃借料を払わなければならない地主の土地が明確には区別されていなかった、ということである。

出生と行政管理上の出生地への送還

また別の方向への動きとして次のことが登場して来る。つまり、公的な負荷を負わされた者に対して、10人組ないしはそれに似た制度による取扱いの一つで、それはこれまで述べて来た地主とコローヌスとの間の関係形成と類似している。あるゲマインデに所属しているということとそこから生じる全ての帰結は、ローマ帝国に属する者の出生地と結び付けられていた。コローヌスにおいてはこのことは、その者がそこで生まれた土地領域が存在する地域、ということであった。他の全てのゲマインデについては、それが許されていた場合には、自由に≪名目上の出生地を≫設定することが出来た。しかしここにおいてまた見出されることは、公的な労働奉仕を義務付けられていた者の自由移住権は、帝政期には事実上まだ非常に強く制限されていた、ということである。ある確実な程度まで、このことは常に起きていたことである。元老院議員に対しては、まだ会期が先に残っているのに帰郷する場合には、周知のように先行して≪ローマに戻ってくる保証のための≫担保を取ることが行われていた。元老院の会議に直接的な強制で連行するのは、適当な手段ではなくかつ実行不能とおそらく考えられていたのであり、また法的には許されないこととされていた。帝政期になると一般にはこうした担保による間接的な強制に代わって、違反の際には行政的な現物執行が行われることとなった。新約聖書のルカによる福音書が書かれた頃においては≪ヴェーバーはここをマタイによる福音書と間違えていた。正直な所、とてもキリスト教徒とは思えない初歩的なミスである。クリスマスイブの教会では必ずルカ福音書の第2章が朗読される。参考:ルカ福音書の第2章冒頭「イエスの誕生 1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」新共同訳≫、一般的な意識として次のことが許可されていると考えられていた。つまりケンススのために属州民が自分の出生地に赴くことが必要とされる、ということであり、それについてはアウグストゥスによるケンススの記録が示している。ウルピアーヌスの時代になると、次のことはもう疑義を持たれなかった。つまり10人組は自分の出生地が属しているゲマインデに強制的な形で帰されることが行われ得たということである。もし諸ゲマインデが相互にまたはある土地領域について、次の点で訴えを起こした場合には、つまりある土地区画及びそこに見出される人員が、そのゲマインデの領地に属しているのかということと、それ故にその人員はそのゲマインデに対して納税と兵士への応召義務があるのか、という点であるが、その場合は controversia de territorio に基づいて行政上の手続きとして裁かれたのである。既にウルピアーヌスの時代にはそういった争いの際には、”vindicatio incolarum” [住民の返還請求]という言葉が使われていた。次のことは自明である。つまり土地に依存しているコローヌス達の場合は10人組の一員以外の何者でもないとして取り扱われ、それはその者達が公的なまた準公的な義務、例えば夫役、を行うべきとされている限りにおいてそうであった。コローヌス達は行政的な方法でその出生地に送還された 73)。

73) Revocare ad originem bei Curialen [元のクリアに呼び戻すこと]D.1 de decurionibus 50, 2 (ウルピアーヌス)。テオドシウス法典 16 de agent[ibus] in re[ebus] 6, 27。そこから派生して curiales originales [元々のクリア]テオドシウス法典 96 de decur[ionibus] 12, 1。鉱夫のその出生地への変換 テオドシウス法典 15 de metallar[iis] 10, 19。こういった手続きの行政的な性格を記述している箇所は 1.1 de decur[ionibus] の本文にある。コローヌスにおいてのこの手続きが、本来行政上の処理であったことを記述しているのは、そのことを扱っている箇所の本文全体であり、同様に、行政法において元々の出生地を再確認するということを扱っているのは:テオドシウス法典 1 de fugit[ivis] col[onis] 5, 9。ここにおいてもまた個人の身分に基づく権利と私権として通用する規範を作り出すための行政上の手続きが形成されているのであり、更にはあるゲマインデへの帰属に対して婚姻が果たす作用についても同じであり、というのもケンススへの登録にあたっては、ゲマインデへの帰属と土地への帰属が規制されねばならなかったからである。次のことは非常に自然なことである。つまりその際に奴隷が持つ権利からの類推によって関係付けられた、ということである。仮に我々の国家権力が弱体化して個人の自由移住権が制限されていたとしたら、その場合は我々も自分の属する土地領域において全く同じことを経験するであろうし、特に次のこともまた経験するであろう。つまり農民としての大地主に対しての私法的な義務と、公法上の大地主への義務の2つが、行政当局には継続して識別することは出来なかったであろう、ということであるが――夫役義務のある農民については、例えばローマ国家の土地領域においては、ここではそういうことを扱っているのでは全くない、という可能性がある。結婚についての規制の行政上の由来は、またテオドシウス法典の 1 de inui[inis] et co[lonis] 5, 10 に示されており、特に次の規定で:つまりある者で、女性のコローヌスの返還を義務付けられた者は、代理の者を立てることでその義務を免れることが出来、そして年齢制限にかかる場合も同じであった、ということである。その他の点についての参照 Nov. Valent ≪ウァレンティヌス3世、在位425~455年、がテオドシウス法典の後に出した新勅法 [novella constitutio]≫ I, II、第9章、更にユスティニアヌス法典の 11, 50 の de col[onis] Palaest[inis] の唯一の条文――そこでは”lex a majoribus”≪祖先によって制定された古き良き法≫がアフリカの大土地区画[saltus]についてのハドリアヌス法典と並置されており、同様に章 11,51、そしてユスティニアヌス法典の 11, 47 の章の全文もそうである。何度も登場する “inquilini”[同宿人、下宿人]は「借家住まいの農民」、つまりコローヌスとしては扱われず、その土地区画に従属する居住者のことであり、本質的にはコローヌスの成れの果てである。ユスティニアヌス法典 13 de agric[olonis] 11, 47 はそれ故に次のように注記している、問題が出生地への帰還に関係するのであれば、コローヌスとインクイリニの2つのカテゴリーは等しいものとして扱う、と。

ディオクレティアヌス帝の時代になって市民の裁判と行政上の処理が混ざり合って一つになった時には、そこから “vindicatio”[返還請求]が起き、その際にゲマインデのクリエがそのゲマインデの参事会に対して所有権の訴えを、まるで可愛がっている家畜を一緒に追い立てるかのように行い、その結果コローヌスはそれだけいっそうほとんど家畜と同様の法的な扱いを受けるようになったのである。最終的には Interdictum Utrubi [どちらがその動産をより長く所持していたかによって所有権を確定させる命令]が奴隷に対してと同じようにコローヌスに対しても下され、それによってまた再びコローヌスの性格が定住の農業に従事する農場労働者であるということが明確に現れるようになっていた 74)。

74) テオドシウス法典 1 utrubi 4, 23。善意の占有者はまずはそのコローヌスを取り戻し、それからその訴えは “causa originis et proprietatis” [出生地と所有権に基づく訴え]として取り扱われた。

そのコローヌスがその大地主に「属する」とういうことは無条件に宣言され 75)、そして事実上そのことは実際の状況に合致していた。何故ならばそのコローヌスがその農場に従事しているということは、いまや十分に明白になっていたからである 76)。

75) テオドシウス法典 2 si vag[um] pet[atur mancipium] 10,12 の “cujus se esse profitetur”[それがその者に属すると宣言された]。

76) それ故に次のケースではその当時の見解に従えば農業従事者のカテゴリーを移動させることであった。その場合とは、テオドシウス法典 1 の de fugit[ivus] col[onis] 5, 9 によれば、逃亡したコローヌスは奴隷に落とされねばならず、その箇所での表現によれば、その目的は行政当局が次のことを認めることで、それはまた自由な農場への従属者であったに違いない者を、奴隷として新たに整理し直す、という場合である。Nov. Major. ≪マヨリアーヌス帝新法典、同帝は西ローマ皇帝、457~461年在位≫4, 1 のクリア民がクリアの奴隷として表現されているように、そしてテオドシウス法典 39 の de decur[ionibus] 12, 1 にてその者達に拷問を加えてはいけないことが特別に規定されているように、この場合のコローヌスは「領地に属する奴隷」となっていた。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(62)P.325~328

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第62回目です。ここには Domänen という単語が複数回登場します。これまでのヴェーバーの日本語訳ではこの語が「御料地」と訳されていることが非常に多いです。しかし「御料地」というのは明治時代に(旧)皇室典範が出来、それが1947年に廃止されるまでの皇室の領地ということで、現在は存在していません。(全て国有地)また私の世代で既にピンと来る人は少数でしょう。なおかつ日本だけの特殊なタームであり、世界史の事例にそのまま適用するのには適していません。なのでこの翻訳では「直轄地」と訳します。国の直轄地と皇帝の直轄地の2種類があります。
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――以下のことは明らかである。つまりコローヌスの土地との関係が、こういった状況下でその関係が純粋な貸借人という性格で前面に出てくる場合には、自然なこととしてその権利を金銭的報酬を得ることから収穫物の一部を得ることに移行したと把握されるが、それがいまや逆に、法的な取扱いが原則的に変更されることなく、しかしながらコローヌスの労働力を農場主のために使用することが大地主であるその農場主の主たる利害関心となっていた場所では、コローヌスと土地の関係はある土地区画を適価で貸してもらうことの条件として、自己の借りた土地と農場主の土地の両方を耕作する義務を引き受けるものと直ちに把握されるのであり、そのことは本質的な意味では既にコルメラの書からの引用箇所≪注56≫において起きていた、ということである。事実上コローヌス達は、相続対象になる土地に定住し、小農民と日雇い農業労働者のほぼ中間に位置する、大地主に従属する農民となっていた 61)。

61) 事実上相続可であることは自明のことであるが故に、D. 7. §11 comm[uni] difid[undo] においては、貸借権について分割の訴えを起こすことが出来ないことが特別に詳細に述べられている。何度も引用した 1, 112 de legat[is] は総督補佐官が貸借契約に相当する土地を実際には持っていない貸借人については、この後すぐの所で述べる農場地区に関連付けている。イタリアにおいて先行して存在している長期年度契約のコローヌスについては、モムゼンが saltus Burunitanus について考察している論文の中で言及している。

しかし最も重要なことは、巨大な地所の複合体の一部においてのこういった状態は、また大地主の土地の賃借人に対する、法的に保証された権力による支配関係としても見なすことが出来る、ということである。このことを論証するためには、次のことを考慮する必要がある。つまりどのように大規模農業事業の異なったカテゴリーがそこに生まれて来ているのか、ということと、それが法的には所有としてどのカテゴリーに属していたか、ということである。

大土地所有制の法的位置付け

こうした大規模農業の最古の形態は、以前論じた公有地[ager publicus]の占有である。この形態が奴隷を使った大規模農園の経営を指していることは全く疑いようがない。それと同様におそらくそうであったと思われるのは、既に注記したように、賃貸地を割り当てることによって生み出された、いつでも取り消し可能な契約に基づいた定住の小作人という身分の者が存在していた、ということである。占有は疑いなく、貴族政にとって実質的にもっとも重要な土地所有形態であった。占有者という者は、いくつかの私有地をまとめたもの以外に、自分自身をケンスス上での第一の階級に置くために、多くの土地を≪実質的に≫所有した者であり、その者はグラックス兄弟の改革より前の「古き良き時代」においてはトリブス民会≪選挙区であるトリブスでの貴族と平民の両方の意向をまとめるための集会≫に対しての活動において、次のような者と同様に見られていた。それは例えば≪ヴェーバー当時の≫今日の騎士領の領主であり、その者は村落においていくばくかのフーフェの土地を所有し、あるいはフーフェの他の農民と混じり合って存在している者である。≪騎士領は特に神聖ローマ帝国で領邦の君主が騎士資格のある農民貴族に公認している領地で、ヴェーバーの時代にもまだ存続していた。≫占有が市民法上では除外されているということと 61a)、そしてそれによって生じる無数の立法上の面倒さと課税の手間は、privilegium odiosum≪憎むべき特権、本来は認められるべきではないのに何らかの理由で認められている特権で、法的には最小限に解釈すべきもの、とされた。≫として捉えるべきでないのは、言うまでもないことである。≪ヴェーバーは占有をローマでは決して本来違法なものと位置付けられていなかった、と言っている。≫

61a) 市民法が占有について規定しているのはただ、占有の形で保護された、事実上成立している権力関係についての注意があるだけであり、このことがフーフェにおいての”locus” [場所]に対しての権利とはっきりと対立しているということは、私の考える所では、「物」に対する権利と「所有」の間の対立が先鋭化しているということである。”Pro herede”[相続人として]占有するということと、”Pro possessore”[占有人としてのみ]占有する≪相続人は相続の際にどちらかを選択出来た≫ことの分裂状態は、相続に関する訴訟において判例に依存する性格と結び付けられた、そういった所有状況の両方の性格が等しいという二重性に起因している。以上のことは、ここではただその可能性を示唆することが出来るだけである。

それ故に、まさに革命的なこととして受け止められたグラックス兄弟の改革が打ち出された時に初めて、フーフェの農民達が状況によっては、その者達が動産である資本を自分達の方に持ってくることが負担であると感じたであろうということは≪占有していた土地を売却して現金を得ることが大変であると感じていたであろうということは≫、そのことは改革を革命的な変革と見なすことはなく、ただその占有していた土地を私有地に転換する、ということにつながった。

Fundi excepti [例外として扱われた土地]

前章で見て来たように、こういった占有地について一部はイタリア半島においてムニキピウムへと組織化され、特に土地割当ての際に fundi excepti [例外として扱われた土地]としてゲマインデ団体の外側に留まったということは、――それは測量人達の表現によれば:in agro publico populi Romani [ローマ人民の公有の土地の中にある]となるが、そのことがここで意味するのは、占有地というものはただ中央官庁の行政上かつ裁判権上でのみの要請に応じるものとして理解されるものである、ということである 62)。

62) フラックスは p. 157, 7 でこのように述べている: Inscribuntur quaedam “excepta”, quae aut sibi reservavit auctor divisionis et assignationis, aut alii concessit.
[ある種の「除外地」として記録されている土地があり、土地の分割や割当ての実施者が自分のために取っておいたか、あるいは誰かに譲渡したものである。]
ヒュギヌスは p. 197, 10でこう書いている: excepti sunt fundi bene meritorum, ut in totum privati juris essent, nec ullam coloniae munificentiam deberent, et essent in solo populi Romani, —
[除外された土地とはそれを受けるに値する者に与えられた土地であり、これらは完全に私有地とされ、一つの植民市に対して何らの義務も負わず、ただローマ人民の公有地の中にあるもので、――]
ここで言っているのはつまり、そうした土地がムニキピウムの裁判管轄権外にあった、ということである。≪原文は植民市に対して義務を負わない、なのにヴェーバーはムニキピウムに言い換えている。そもそも植民市とムニキピウムの違いこそが、ヴェーバーの博士論文審査の時以来のモムゼンとヴェーバーの論争の争点であったことに注意。≫碑文としては2つの少なくともある一定の観点で除外された土地が、アウグストゥス帝の Venafrum ≪現在のイタリアのモリーゼ州にあたる土地にあった古代都市≫の水道橋についての命令の中に先行して見出される(C. I. L., X, 4842)。フロンティヌスの p. 36, 16:Prima … condicio possidendi haec est ac per Italiam, ubi nullus ager est tributarius, sed aut colonicus etc. … aut alicujus … saltus privati.
[(占有地というものを)可能にする第一の条件は、イタリア全土でそれは課税地ではなく、しかし植民市等々の土地であるか…あるいは誰かの土地である…私有の大区画の土地≪saltus は25ケントゥリアの正方形の土地区画≫である。]
Controversia de territorio [領土を巡る争い]については前章を見よ。またテオドシウス法 18 de lustr. coll. 13, 1 はアフリカについて territoria [主として属州の領地]と civitates [ローマ市民の土地である占有地]を区別している。

こういった形の土地で重要なカテゴリーとなっていたのは、何よりもまず皇帝の直轄地そのものであり、それはこのような形の占有地として確かにその当時から――後の時代になるとそれは文献で立証されるが――可能な限りゲマインデ団体からは除外されていたのである 63)。

63) この手の皇帝領の土地は controversia de territorio [領土を巡る争い]を引き起こしている。この点については先に引用したラハマンの p. 53 を参照せよ。クラウディウス帝は(スエトニウス、「ローマ皇帝伝」、クラウディウス帝 12)自身の皇帝領において市場を開設する権利を元老院に対して請願している。

同様のいくつかのカテゴリーをより広範囲において属州において見出すことが出来、皇帝の直轄地自身が、一部は永代貸借契約に基づいたものであり、また一部は fundi dominici (国庫に属する)≪皇帝の直轄領の中で、皇帝に任命された管理官が経営する農地≫であり、さらにまた一部は fundi patrimoniales (皇帝が私的に領有していた土地)であり、しかし全てのこれらのカテゴリーは皇帝の配下の役人によって管理されるものであり、ムニキピウムに属するものではないとして理解される。そこにはそれと並んで、我々が先に見て来たように、まとめて賃借料を払うことで長期間貸し出された国有地や、また皇帝の直轄地で5年間貸し出されたものがあった。どちらのタイプの土地も通常はいかなるゲマインデ団体にも組み入れられることは全くなく、というのはそれらの土地は公有地だったのであり、公有地についてはその他のやり方で譲渡されなかった場合に限って、ゲマインデに対して与えられたからである。

現金による納税義務者。国有地の貸借人。

更に以前見て来たもので、確からしくはアフリカにおいての現金による納税義務者が、同じような位置付けのゲマインデには所属させられなかった土地を受領しているということと、また ager privatus vectigalisque の土地の大規模な永代貸借人については、これまで述べて来た状況に対して不適合である事例として取り扱われるべきではない。これら全ての土地所有のカテゴリーは、以前そう主張して来たように、それぞれがただ一人の占有者に結び付けられている、という傾向を持っていた。国有地の皇帝直轄地の土地の貸借人は、しばしば次のことを貫徹した。それはそういった土地の賃貸料を固定額にすることと 64)、そして同様に統治者からその者達の土地所有を継続的に認可する約束を取り付けることであり、それはフランク王国の王がその封臣に対して認めたのと同じである;時には次のことが再度試みられた。つまり5年毎に土地の再割当てを競売方式で行うという原則を確立することであり 65)、それは間を空けないですぐに再割当てを実施させることが目的であった。

64) テオドシウス法 3 de locat[ione] fund[orum] jur[is] emph[yteutici] (380年の)。参照:テオドシウス法 1, 2 de pascuis, 7, 7。同法 5 de censitor[ibus] 13, 11。

65) テオドシウス法 1 de vectig[alibus] 4, 12。

現金による納税義務者とその他の除外扱いの私有地は、その次の段階ではユガティオの税制に従わされることとなった;その者達は税額を、自分達の占有する土地領域全体の分を、その領域に住んでいてその者達に従属している人員の分のカピタティオと一緒に支払うこととなった 66)。

66) テオドシウス法 14 de annon[a] et trib[utis] 11, 1。この法規に従った場合、コローヌス達は、もしその者達が占有地以外に更に小区画の土地を所有していた場合は、その土地の分として通常の徴税人に対して税を支払うように仕向けられた。しかしこのことはテオドシウス法の 1 ne col[onus] insc[io] dom[ino] 5, 11 からの類推によれば、実際にそうであったとは信じ難い。

占有されていた領域の居住者の法的な状態

次のことを頭に思い浮かべてみた場合、つまりそういった土地領域の居住者、とりわけコローヌスの法的状態がどういったものであったかということであるが、その場合まず明らかなのは、全ての国家の土地による賃貸地においては、そういった居住者と元請けの契約者との間での正規の訴訟手続きを取ることは、その争点がコローヌスの労働提供義務にあった限りにおいては不可能であった、ということである。皇帝直轄地の賃貸人の場合にも同様に、納税義務のある農民[publicanus]のようなコローヌスと≪直接≫契約を取り交わすことはほとんどなかった。測量人達が言及している握取契約を二次賃借人が≪直接≫取り交わした限りにおいては、賃貸契約が満期になった後は、その場合に存在していた小規模の賃借人は国家に所属するコローヌスとなったのである。大規模な賃借人は国家または国庫によって、元々は lex censoria に従って、後の時代にはアフリカの広大な土地において碑文として残されているハドリアヌス法の例のような類似の法規に従い、更にはその法文が銅板や石板の上に刻まれてその地方固有の法規として、その地位を定められるということが常に起こり、そしてコローヌスの義務もそこで定められており、賃借料支払い義務も負わされていた;大規模な賃借人は、コローヌス達に負荷を負わせ、その者達が得るものよりも多くのものを要求した。その結果として、更に後の時代にはもっともコローヌスにとって有利なケースで、国民の土地の受領人との間の行政手続きとしての解決が図られた事例が発生し 69)、帝政期においては常に直轄地の管理当局への行政上の租税関連案件としての訴えのみ、皇帝による最終審で審議される、ということが起きていた。

69) 例えば 1/10税の課税者と納税義務のある農民との間で。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(61)P.321~324

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第61回目です。この日本語訳では colonus はそのままラテン語をカタカナ表記にしたコロヌスを採用しています。その理由は一般に小作農や農奴と訳されることが多いようですが、元々のcolonusはcolere(住む、耕す、育てる・栽培する)から派生した語で 「耕す人」であり、自営農民も小作農民も両方を指す言葉でした。それがこの部分で議論されているように、次第に地主の大農場の耕作にも動員されるようになり、4世紀頃になると移動の自由もなく大農園に縛り付けられた存在となり、それが中世での農奴につながっていきます。そういう意味の変遷を伴う言葉であるため、敢えてコロヌスと訳しています。
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しかしながら、当時重点が置かれていたのは支払われた賃借料であった。それに対してより目的に合った形の大土地経営の組織は、それは大地主達が自分達にとって、農場経営者としての性格がより重要になった時に構築したものであるが、もはやその第一の目的としては外部から定期的な現金収入を得ることが出来るという意向には重きが置かれていなかった。コルメラはそのため次のように注意している。つまり農場経営者は、コロヌスの主な利用価値は賃借料ではなく、労働の成果[opus]に置くべきであると 56)。

56) コルメラが注意している本質的な部分(農業書 I, 7の)は以下の通りである: Atque hi (scil. homines) vel coloni, vel servi sunt, soluti, aut vincti. Comiter agat (scil. dominus) cum colonis, facilemque se praebeat, et avarius opus exigat, quam pensiones: quoniam et minus id offendit, et tamen in universum magis prodest. Nam ubi sedulo colitur ager, plerumque compendium, nunquam (nisi si coeli major vis, aut praedonis incessit) detrimentum affert, eoque remissionem colonus petere non audet. Sed nec dominus in unaquaque re, cui colonum obligaverit, tenax esse juris sui debet, sicut in diebus pecuniarum, ut lignis et ceteris parvis accessionibus exigendis, quarum cura majorem molestiam, quam impensam rusticis affert … L. Volusium asseverantem audivi, patrisfamilias felicissimum fundum esse, qui colonos indigenas haberet, et tanquam in paterna possessione natos, jam inde a cunabulis longa familiaritate retineret … propter quod operam dandam esse, ut et rusticos, et eosdem assiduos colonos retineamus, cum aut nobismetipsis non licuerit, aut per domesticos colere non expedierit: quod tamen non evenit, nisi in his regionibus, quae gravitate coeli, solique sterilitate vastantur. Ceterum cum mediocris adest et salubritas, et terrae bonitas, nunquam non ex agro plus sua cuique cura reddidit, quam coloni: nunquam non etiam villici, nisi si maxima vel negligentia servi, vel rapacitas intervenit … In longinquis tamen fundis, in quos non est facilis excursus patrisfamilias, cum omne genus agri tolerabilius sit sub liberis colonis, quam sub villicis servis habere, tum praecipue frumentarium, quem minime (sicut vineas aut arbustum) colonus evertere potest, et maxime vexant servi.
[そしてこの者達というのはコロヌス達であるか奴隷であり、拘束されていないか、あるいは鎖でつながれている者達である。農場主はコロヌスに対して親切にし、寛大な態度を取るべきであり、そして地代の支払いよりも労働の提供をむしろ貪欲に求めるべきである:何故ならば労働の提供の依頼の方がコロヌス達にとってはより不快を感じにくく、更に全体ではより好意的に受け止められるからである。というのは、土地がきちんと耕作されており、利益が出ている場合は、ほとんどの場合で(悪天候に大きく影響を受ける場合や盗賊が襲撃して来た場合を除いて)損害は発生しないために、コロヌスス達が地代の減免を敢えて要求することはまずないからである。しかしながら農場主達は、その者達がコロヌス達に権利を持っている全てのことがらについて、それを執拗に求めるべきではなく、例えば地代の支払日についての注意だとか、または焚き木やその他の些細な付属物について、それらをしつこく催促すべきではなく、そういったことが地方に住むコロヌス達には単純な出費よりも重荷となるのである…私はかつて L. ヴォルシウス≪Lucius Volusius Sturninus, BC38または37~AD56年、ローマの元老議員≫は]が次のように熱心に語っているのを聴いたことがある。彼が言っていたのは、農場主にとって、自分の土地で、そこのコロヌス達が生まれついてそこでコロヌスとして暮らしているのがもっとも利益を生む種類の土地であり、そこではコロヌス達がまるで自分の父親の資産である土地で生まれたかのように感じており、また赤児の時にまだゆりかごの中にいた時からずっと長く親しんでいる状態を保っているのである…このことから次のことについて努力しなければならない。地方の農民、つまり彼ら自身が定住しているコロヌス達をそのまま暮らしていけるようにするということである。何故ならば農場主自ら農場で耕作を行うとか、あるいは家人に耕作させることが得策ではない場合があるからである。そういったことが実際に起きるのは、その地域の天候が農耕に対して向いていないとか、また土地がやせていて荒廃している場合である。しかしそれ以外で良い気候とほどほどに肥えた土地に恵まれている場合には、それぞれの地主の管理の仕方によっては、コロヌス達に耕作させるよりも、多くの利益を得ることが出来る:また土地管理人が奴隷を使って耕作させる場合でも、その奴隷達が非常に怠惰であったり、収穫物の窃盗を行ったりしないのであれば同様の結果が得られる…にもかかわらず、遠く離れた場所にある土地での耕作の場合で、地主がそこまで監督に行くのが容易ではない場合には、土質の良否にかかわらず、管理人の下で奴隷を働かせるより、自由民であるコロヌス達に任せた方が良い。特に穀物栽培の場合は(ブドウやオリーブの栽培の場合とは違って)コロヌス達がそれを駄目にする可能性は低く、逆に奴隷に任せた場合は駄目にする危険性がある。]

その際にこの”opus”という語がコロヌスによる賃借料を課された土地の耕作についての言及と考えることは可能であり、しかしそれがただ賃借料付きの土地についてのみ言及していると考えるのは不確かであり;確からしいのはその際に収穫と耕作のための夫役も考慮されているということで、事実上そこから結論付けられることは、コロヌス達がそれぞれ農場主の土地の一定の場所について受け持ち、同時に他のコロヌス達が別の場所を受け持っていて、一緒に耕作し収穫していた、ということである。この状況はつまり小土地区画の賃貸と、農場耕作と収穫作業の一部を請負業者に請け負わせることを結合させたものであり、カトーの時に既に知られていたように、ただこの段階では請け負う者が地主に対して事実上の従属関係にある小規模のコロヌスになっており、そしてそのコロヌス自身の、その者によって耕作される土地でそれに対して賃借料を支払っているものについては、そのままの賃借料支払い[Ablöhnung]が続いたのである。≪Ablöhnungという語をヴェーバーが用いているのはおそらくは農場での作業賃との相殺のようなケースも想定している可能性がある。≫私の考える所 、文献史料は確かに次のことを述べている。つまり事実上はこうした状況はこれまでの所で概観して来たように発展したのであろう、ということである。コルメラがある箇所で示していることは、コロヌス達は土地を耕作することによって食べているのであり 57)、それは奴隷も同じであるが、――もちろんそれはその者達が農場主のために働いている間に限られてのことであるが、その労働は他の夫役と同様に普通のことだったのである。

57) コルメラ II, 9。前注で引用した箇所が次のことを意味しているとすれば、つまりコロヌスがその借りている土地を良い状態に維持している場合は、remissionem petere non audit [賃借料の減免を敢えて要求したりしない]のであり、私がそこから想定することは、ここで扱われているのは農場主の土地の耕作である、ということである。もし農場主の土地が上手く管理されているのであれば、その場合コロヌスはたとえ凶作の時であっても自分が借りている耕地について賃借料の免除を求めないであろう。

こういった状況はビジネスとして見た場合は次のように把握することが出来よう。つまりコロヌス達が労働者として農場主の土地の耕作や収穫の作業を行うことを受け入れ、そしてその者達への賃金は収穫物の一定量に対して、ある決まった割合を受け取るという形で成立していた。こういった実態は、経済的に重要なことという観点では、作業義務のある農民を使った農場経営の成立と、従来の定住している農場労働者との間の関係を関係を動揺させることとなった。コロヌス達によって耕作された農場主の土地が、確からしくはコモドゥス帝の時代≪在位180~192年≫のある碑文に見られる ”partes agrariae” [開拓地の一部]という語の意味であろう。それはモムゼンによって説得力がありかつ目覚ましいやり方で補完・解釈されたものであるが 58)、先に仮定した意味での農場経営の成立は、つまり中心にある自分自身の農場経営と、(とりもなおさず経済的には)従属しているコロヌス達の夫役労働を有機的に結び付けたものとして、きわめて明確に説明出来るものである。

58) Hermes XV, P. 390以下。

この碑文はアフリカにおていの皇帝領である山がちの土地のコロヌスが皇帝直轄地の賃借人(conductor)についての苦情を申し立てたものである。その請願者達 59) に対しての保証の点で、その賃借人はその者達に対して不正を働き、そして労働を強制したのであり、その者達はその土地に対する諸条件を規定している法規、つまりハドリアヌス法の中の一つであるが、それによって≪契約に無い追加の≫労働の義務は負っていなかったのである。

59) “Ita tota res compulit nos miserrimos homines iussum divinae providentiae tuae invocare. Et ideo rogamus, sacratissime Imperator, subvenias. Ut capite legis Hadrianae quod supra scriptum est, adscriptum est, ademptum sit jus etiam procuratoribus, nedum conductori, adversus colonos ampliandi partes agrarias aut operarum praebitionem jugorumve: et ut se habent litterae procuratorum, quae sunt in tabulario tuo tractus Carthaginiensis, non amplius annuas quam binas aratorias, binas sartorias, binas messorias operas debeamus itque sine ulla controversia sit, utpote cum in aere incisa et ab omnibus omnino undique versum vicinis visa perpetua in hodiernum forma praescriptum et procuratorum litteris, quas supra scripsimus.”
[こういった全ての状況がこの上なく哀れな人間である我々をして、皇帝陛下の神聖なるご意志である命令をご行使賜るというお願いに駆り立てたのです。それ故にこの上なく神聖なる皇帝陛下のご支援を願い奉るものです。既に上で述べましたハドリアヌス法の法文に規定してあるように、たとえ皇帝の代理の監督官でも、ましてや賃借人は言うに及ばず、コロヌスに対して耕作させる土地の面積や夫役やまた夫役に使う耕作牛の数などを勝手に増やす権利はありません。それからカルタゴ地区の陛下の文書保管庫に入っている代理の監督官たちの書面に記載されている通りに、1年の内開墾≪鋤でやる作業≫、播種≪種蒔き前後の鍬でやる作業≫、収穫の作業についてそれぞれ2日を超える労働の義務は負っていない筈であり、そのことは議論なく認められるべきです。何故ならばそれは銅板に記され、全ての近隣の者がどの場所からも見える形で恒久的に掲示されており、現在に至るまで有効な形式で決定されているからで、そしてそれは前記した代理の監督官の書面にも記載されています。]
自ら働くことによって生計を立てている者は、富裕な賃借人で皇帝の代理の監督官と親交が深い者に対しては反抗しなかった。

同法によればコロヌス達の夫役は年当たり2日の開墾≪鋤を使った作業≫、2日の整地と種蒔き≪鍬を使った作業≫、そして同様に収穫期の作業も2日分としてカウントされ、しかも人間による夫役と牛馬を使った夫役の両方であった。賃借人はそれから”partes agrariae”[土地の一部]を拡張した。それは私の考える所では、その賃借人が直接管理している主人の土地を拡げたのであり、新たな土地を開墾したのである。それと同じことがドイツの改革期≪ナポレオンに敗退したプロイセン王国が1807年から農奴解放などの近代化を図った時期≫にも行われており、次に夫役義務のある農民に対してこの拡大された部分の土地も、それまでのより少ない面積の土地と一緒に耕作し、収穫することを要求した。我々が考察しているローマの場合ではまた、人間による夫役と牛馬を使った夫役の両方を増やすことになったのは先行する事実からの当然の帰結であった。土地区画の賃借料と大農場経営においての播種と収穫の時期においての労働力需要の並存関係は、私が碑文の内容から考察する限りにおいて、非常に明確に成立している。

こうした大土地経済においての夫役に従事するコロヌス達を使用した組織は、それは農業においての労働者不足の問題の効果のある解決策となっているのであるが、おそらくそれは帝政期における全ての大規模土地所有において通常のことだったのである。法的文献史料においては、常に次のことが見出される。つまり、まとまった数のコロヌス達が大農場主の一人の請負人、代理人、そして管理人と一緒にされていることで、更にこのまとまった数のコロヌス達とは別に、一団の奴隷達が請負人または代理人の管理下にある土地において存在しているのであり、そして法的文献史料からは詳細な点は知ることが出来ないが、コロヌス達が大土地所有制に従属している、ということである 60)。

60) コロヌスを大土地所有制の中で使用することになったことの結果は、D.9, §3 locati で述べられているように、農園に対して適用される統一法規である lex locationis に基づいて(この表現に該当するのは、その前の時代の国家的大賃借人に適用された lex censoria、皇帝領だった Brunitanus ≪現チェニジア≫での saltus Burunitanusu ≪注59の碑文のこと≫についての lex Hadriana)、コロヌス達がある種のゲマインシャフト、つまり colonia [植民地]を形成したということである(D.84, §4 前掲箇所)。その者達に並べて考えられているのが、大規模賃借人、請負人とそれと一緒の奴隷の一団(D.11 pr. 前掲箇所)、あるいは農場主の代理人[procurator]である管理人(D.21, de pign[oribus])である。コロヌスに対しては以上述べて来たことに適合することとして、大農場の一部の土地が割当てられ、残りの部分の土地は農場主の代理人[actor]である管理人が管理した(D.32 de pign[oribus])。≪procurator はより大規模な領地の管理・代理人、actorは現場レベルの管理人。≫Relica colonorum [コロヌス達の残り]は、つまり賃借料滞納者のことであるが、そこからある一定のやり方で土地の従属物と見なされた可能性があり、それはその者達が厳密な法的な意味ではそれには該当しない場合にもそうであった(D.78, §3 de legai[is] III)。コロヌスと奴隷はお互いにその土地の住人として2つの異なるカテゴリーと見なされていた(D.91, 101 前掲箇所;D.10,§4 de usu et hab[itatione] 7, 8)。コロヌスは奴隷と同じく土地の売買の際にはその土地区画の価値にプラスされる付属物として扱われていた(D.49 pr. de a[ctionibus] e[mpti] v[enditi])。こういったコロヌスと、先に言及した長期契約を前提とした握取契約に基づく公有の農場での二次賃借人との関係について、D.53 locati が説明している。皇帝領の請負人については、それに対して通常はより短期の契約が結ばれ、法律上では5年であり、その契約期間はコロヌスへの再賃貸の場合にも適用された(D.24, §2 locati)。時々は混乱した表現が使われることもあり、例えば “colonus” がその領域全体の賃借者を指すものとしても使われていた場合がある:D.19, §2 locati; D.27, §9, §11 ad l[egem] Aquil[iam]。しかしながら明らかなこととして、fundi[土地]が一般的に大土地所有制として組織化されていない場合には、これから更に述べる意味での大土地所有制でコロヌスは全く使われていなかった。大土地所有制と自由なコロヌスとの意味の混同は、文献史料の位置付けを不明瞭にしている。――他の多くの箇所と同様に D.19, §2 locati の引用箇所が示しているのは、Location[土地の場所]を常に英語の joint business を思わせるような大地主とその賃借人のゲマインシャフト的な関係として説明していることである。ここにおいて経済的な諸関係にそのまま適合する形で、こうした形での個々の関係形成が、そのまま直ちに無数の類似の関係の形成の機会を与えたのであることは、明らかである。我々がここで論じる関係形成には、相対的に規模の大きい大地主の政治・経済的優位性が内包されており、そしてそれ故に賃借契約の関係がそのままヴェールに覆われた労働契約関係となっているのである。コロヌスはそのあてがわれた土地に対しての耕作義務を持つ者として D.25, §3 locati と D.30 の前掲箇所(ユリアヌスの、またそれ以外で引用して来た箇所であるスカエウォラ、パピニアヌス、ウルピアヌスそしてパウルスのもの)で把握されている。 それに適合するように、D.24, §2 locatiでは農場主は次の権利を持つものとされている。つまりコロヌスがその借りた土地を契約が満期となる前に放棄する場合は、直ちに、そのコロヌスに何か別の立ち退き理由があるのか、または賃借料の不払いに該当するかどうかの判定を待つことなしに、そのコロヌスに対して訴えを起こすことが出来るという権利である。何について訴えるのかということは書かれていない。しかし明らかに単なる利害関心の及ぶ所からの訴えであり、何故ならばその訴えの際の賃借地については、それが契約上どう定義されていたか、ということは含まれていないからである。それと並んで§3の前掲箇所で、コロヌスが成すべき労働について言及されており、そのことを理由として同様に訴えが行われているからである。農場主の土地の耕作者と賃貸している土地のそれはそれ故に同等のものとして扱われており、ただ原則として前提とされているのは、農場主は賃貸している土地の耕作の仕方についてはただ契約が終了した時に初めて何らかの形で関与する、ということである。その外に農場主はもちろん賃貸対象の土地を別のやり方でも譲渡することも出来た。このことは後の時代にはコロヌスの連れ戻しという形で起こったのであり、それは navicurarii [小麦の海上輸送]のための小麦栽培の耕地について、コロヌス達を徐々に強制的に連れ戻し再度耕地を与えた、というやり方であった。最初の土地契約終了時の例は市民法的な、navicurarii の例は行政上の強制行為であった。コロヌスが不自由な立場の奴隷に対して自由な農場での労働者であり、それは自由意志の賃借契約に基づいて賃借料を支払う代わりに土地をあてがわれたというのの類推として扱われた。実際の所、奴隷が地方の農園の中に住んでいた状態から、自分自身の家に移された場合には、その奴隷は直ちにコロヌスと同等に扱われたのである。

全集の校正漏れ、同じミスを4回

P.321にてまたもredemtores, redemtor(正しくはredemptores, redemptor;請負業者)の誤植放置をやっています。これで4箇所。こうなるとこの全集校正者のラテン語能力を疑いたくなります。英語でも意味は違いますがredemption(償い)は同じredimereというラテン語の動詞から派生したもので、こちらにもpは付いています。
念のため、Oxford Latin Dictionaryのredemptorの項の写真を上げておきます。redemtorと綴られる例があるなどとは全く書かれていません。