「経済と社会」の構造図をもし作るとしたら

下記のテキストは以前アップした折原先生による「経済と社会」の再構成案です。
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I. 概念
0.基礎概念→「理解社会学のカテゴリー」海老原明夫・中野敏男訳、未来社
1.社会-行為と秩序→「経済行為の社会学的基礎範疇」、富永健一訳、中央公論社、「世界の名著 ウェーバー」に収録
2.法と経済→「法社会学」、創文社、世良晃志郎訳、第1章
3.社会と経済→「経済と社会集団」、厚東洋輔訳、中央公論社、「世界の名著 ウェーバー」に収録
II. 社会
1.家、近隣、氏族、経営とオイコス→「経済と社会集団」、厚東洋輔訳、中央公論社、「世界の名著 ウェーバー」に収録
2.種族→「種族的共同社会関係」、中村貞二訳、「みすず」1977年9・10月号、http://nam-students.blogspot.jp/2013/03/blog-post_3538.html
3.宗教→「宗教社会学」、武藤一雄他訳、創文社
4.市場→(邦訳無し、但し折原浩氏の試訳有り)
5.政治→「政治ゲマインシャフト」の部分は邦訳無し。「権力と支配」、浜島朗訳、みすず書房、第二部第二章(同書の有斐閣版と講談社学術文庫版ではこの部分は削除されているので注意、またこの翻訳は「経済と社会」第3版をベースにしているので、第5版と構成が違います。)
6.法→「法社会学」、世良晃志郎訳、創文社、第7章
7.階級、身分、党派→「権力と支配」、浜島朗訳、みすず書房、第二部第四章(同書の有斐閣版と講談社学術文庫版ではこの部分は削除されているので注意)
8.国民→「権力と支配」、浜島朗訳、みすず書房、第二部第三章(同書の有斐閣版と講談社学術文庫版ではこの部分は削除されているので注意)
III. 支配
1.支配一般→「支配の社会学」I、世良晃志郎訳;「支配の社会学」II、世良晃志郎訳、創文社
2.正当的支配の三類型→「支配の諸類型」、世良晃志郎訳、創文社、第3章
(1)合理的支配
(2)伝統的支配
(3)カリスマ的支配
3.俗権と教権→「支配の社会学」II、世良晃志郎訳、創文社、第9章第7節
4.都市→「都市の類型学」、世良晃志郎訳、創文社
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でもこれを見て納得感あります?私にはありません。ただそれは折原先生の案をけなしているのではなく、そもそもヴェーバーの草稿群はこのような2次元のアウトラインには元々向いていないと思うからです。例えば案では「支配」が最後の方にありますが、前の方にある「法律」は当然この「支配」と密接に関係しています。また真ん中の方にぽつんとある「宗教」はこれもまた「カリスマ」の分析でやはり「支配」と密接に関係します。要するにこの論文で論じられる様々な理念型は全体で複雑に絡み合っていて、とてもじゃありませんがここに書かれたような直線的な図解では表し得ません。ではこういった複雑な絡み合いを図解するにはどうするかですが、最適なのはニューラルネットワークだと思います。(例:下図)

I.hidekazu, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

元々人間の脳神経のニューロンのつながりを説明するためのものですが、ヴェーバーの書くものがその脳の中にある広範な知識があふれ出た性格のものであれば、ニューラルネットワークを図解に使うのは自然な考え方です。そもそもこのブログのあるインターネットのwwwもウェブと言われるように蜘蛛の巣状のニューラルネットワークに近いものです。問題はそれで図解出来たとして、実際何かの役に立つかですが、それは最先端の情報処理技術を適用すべきと思います。以前既に書いたことがありますが、各理念型を一つのベクトルにした多次元ベクトル空間を作り、それで各種の社会現象を解析するというアプローチが可能なのではないでしょうか。少なくとも未完成の草稿群をこれまた書きかけに近いカテゴリー論文で無理矢理再構成案をでっち上げるよりはるかに前向きかつ最先端のやり方だと思います。

 

折原浩先生訳の問題点 (6)

折原先生の「古代には一般に都市に在住する領主」に珍しく付けている訳注が:

「零細農民を債務奴隷に陥れ、土地を収奪-集積して大地主になると同時に、都市に在住して遠隔地交易にも携わり、その利得を農民に高利で貸し付けて収奪-兼併を強める都市貴族・不在地主層。」

何ですかこのバリバリのマルクス主義注釈は。「ローマ土地制度史」を読んでください。(笑)要するにこれは例えばローマで都市に在住した貴族が地方に農園を持ち、その管理は管理人にやらせて自分は都市に住み続けて地代だけを受け取っていた、というだけです。どっから農民に高利で貸し付けとか遠隔地交易にも携わり、とか出て来るんでしょうか。

更には”Versklavung oder Proletarisierung”と「または」とあるのを勝手に「奴隷化されると同時に無産化された。」と訳しています。古代ローマで奴隷と無産市民はまったく別の階層でそれが同時に起きることはあり得ません。

異常に静的なヴェーバーの社会学理論

ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」で歴史がまったく説明出来ない例です。 「理解社会学のカテゴリー」では、ゲマインシャフト行為からゲマインシャフトが形成されると読めます。 このように人間の行為によって何らかの集団が結成される例があるかというと、それはあります。但しそれが例えば古代ローマの軍団がある部族を戦いで打ち破りその部族の生き残りを奴隷にした場合を考えると、この奴隷の集団は明らかにローマ軍の指揮者と兵士の戦いという行為によって作り出されたものです。しかしその行為において、ローマ軍と相手の部族は慣習も習俗も法規も何も共有しておらず、単にお互いに敵として戦っただけなので、ローマ軍の行為はゲマインシャフト行為ともゲゼルシャフト行為ともまったく定義付けられません。こういった事例は現在では稀でしょうが、古代ローマの時代ではきわめて普通の事例であり、それがまったく説明出来ないカテゴリーには一体何の意味があるのでしょうか。

ということを考えて、さらによく考えてみたら、カテゴリーに留まらずヴェーバーの著作全体で「戦争」とか「革命」と言ったものを正面から論じたものがほとんどないことに気が付きました。支配も秩序も官僚制も既に出来上がっているものを後から説明するような静的なものばかりで、そうった秩序や社会が他の例えば国家との戦いで崩壊したり、革命が起きて秩序がひっくり返ったり、そういったことが全く論じられていないように思います。これはある意味同時代のマルクス主義的な思想から距離を置いているとも読めますが、要するに自分の属するブルジョアジーの価値観の反映であり、革命も戦争もネガティブにだけ捉えているということかと思います。この辺りがマンハイムが批判したように、ヴェーバーが価値自由を唱えていながら、その背後にかなり強い価値判断が存在しているという一つの事例でもあります。更にもう一つ言うならば、結局ヴェーバーは最初に学んだ法学の思考パターンから抜け出せていないのかとも思います。法学は基本的に秩序が存在することを前提とした学問であり、戦争法学、革命法学といったものは存在しません。更にいえば19世紀のドイツの社会科学全体を支配していた「官房学(国家学)」の伝統から抜け出していないとも言えると思います。(ヴェーバーへの国家学の影響は、牧野雅彦氏の「マックス・ウェーバーの社会学 『経済と社会』から読み解く」を参照。)

誤訳による勝手な「含意」の創造

先の投稿で紹介したページで折原先生はまた、以下のような原書に書いていないことを勝手に「含意」としていますが、
「すなわち、「ゲマインシャフト関係」を「ゲゼルシャフト関係」の上位概念とし、しかも、ゲゼルシャフト形成は通例、その合理的目的「の範囲を越える」ゲマインシャフト関係を「創成する」という含意のある基礎範疇」

これはおそらく「宗教社会学」翻訳における以下の誤訳(紹介済み)に起因すると思います。

原文
Wir wollen nur da von ihrem Bestand reden, wo die Laien 1. zu einem dauernden Gemeinschaftshandeln vergesellschaftet sind, auf dessen Ablauf sie 2. irgendwie auch aktiv einwirken.

折原訳
われわれはもっぱら、平信徒が、① ゲゼルシャフト形成によって[スタッフと平信徒、相互の権利-義務を規定する秩序の制定によって、この秩序に準拠する]継続的なゲマインシャフト行為に編成され、同時にまた、②当のゲマインシャフト行為の経過に、なんらかの仕方で能動的にもはたらきかけている場合にかぎって、ゲマインデ宗教性が存立すると考えたい。

丸山訳
我々はもっぱら、平信徒が、① 単発のゲマインシャフト行為ではなくそれが継続的に[何らかの制定律に準拠しているかのように]繰り返されるという形でゲゼルシャフト化されているという場合で 、そしてその経過において、②そういった連続したゲマインシャフト行為が何らかの形で能動的に作用している場合に、ゲマインデの宗教性が成立していると考えたい。

二つの訳文を比べていただいて、折原訳が如何に原文にない勝手な解釈をでっち上げているかご判断ください。こういう元々ヴェーバーが述べてもいないことを勝手に拡張するのが折原ヴェーバー学の大きな問題です。

「理解社会学のカテゴリー」の欠陥、再追加

「理解社会学のカテゴリー」を実際に読んでいない人が「「経済と社会」の頭は「理解社会学のカテゴリー」を置いて読まねばならない」という主張を聞くと、どんなに立派なカテゴリー論なのかと勘違いするかもしれませんが、そこで定義されているカテゴリーは目次に出ている通り、「ゲマインシャフト行為」、「ゲゼルシャフト関係」(定義無し)、「ゲゼルシャフト行為」、「諒解」、「アンシュタルト」、「団体」の6つだけです。前の投稿で書いたようにどこにも「ゲマインシャフト関係」などというカテゴリーはありません。

それに何より、最初の「ゲマインシャフト行為」自体の定義もかなり破綻しています。ヴェーバーの「ゲマインシャフト行為」の定義は以下:
「人間の行為が当人の主観において他の人間の行動へと意味の上で関係付けられている場合、われわれはそれを「ゲマインシャフト行為」と呼ぶことにする。」
この定義が奇妙なのは「ゲマインシャフト」というタームが使われているにもかかわらず、定義されている内容は、一人の人間が他の人間との関係で何らかの意味を持って行う行為が全て該当してしまうことです。普通ならまず「ゲマインシャフト関係」が定義され、「その成員の間で」上記のように行われる行為が「ゲマインシャフト行為」であるというなら理解出来ますが、ここの定義はそうではありません。
更にはヴェーバーが例に出すものがまた混乱に拍車をかけます。ヴェーバーは2台の自転車が交差点でたまたま衝突した時はゲマインシャフト行為ではないが、2台がお互いに回避行動を取った場合はそれはゲマインシャフト行為であると言います。この定義からは「ゲマインシャフトというものはゲマインシャフト行為によって動的に生成される」としか読めません。しかし、例えば衝突の相手がたまたまその日そこに旅行して来ていた人だった場合、そもそもゲマインシャフトが生成されるのでしょうか。しかも仮にゲマインシャフトが生成したとしても、それは一体どのくらいの時間持続するのでしょうか。
また具体的な「ゲマインシャフト」を考えた場合でも、例えば家族は典型的なゲマインシャフトと考えられますが、配偶者に限定すれば二人は何らかのゲマインシャフト行為を契機として夫婦になったのであろうから、ヴェーバーの定義でも通ります。しかしそこに子供が生まれた場合、子供は生まれながらにしてその家族ゲマインシャフトに組み込まれるだけであって、ゲマインシャフト行為は何の役目も果たしていません。
以上のようにヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」は整然とした理論的な定義にはまったくなっていないいわば試作品のようなものに過ぎないということは明らかです。ましてやそんなものが「経済と社会」の頭になっているなど、空想の産物以外の何物でもありません。

また発見:折原先生のおかしな説明

また折原センセの「理解社会学のカテゴリー」についてのおかしな説明を発見。折原センセは「ゲマインシャフト関係はゲゼルシャフト関係の上位概念である」と説明します。
http://hkorihara.com/toujitsukou.htm 「『経済と社会』(旧稿)の社会学的基礎範疇と体系的統合」「これらは、「カテゴリー論文」で定立され、「旧稿」に適用された基礎範疇――すなわち、「ゲマインシャフト関係」を「ゲゼルシャフト関係」の上位概念とし」)
しかし、
(1)ヴェーバーは「ゲマインシャフト関係」は定義も言及もしていません。
(2)「ゲゼルシャフト関係」は何故か定義なく突然「ゲゼルシャフト行為」の定義の中で登場します。
(3)ヴェーバーが言っているのは「ゲマインシャフト行為」が「ゲゼルシャフト行為」の上位概念ということだけです。

折原センセの説明はヴェーバーが定義していない「ゲマインシャフト関係」を「ゲゼルシャフト関係」の上位概念としており、関係と行為を混同しています。

おそらくヴェーバーがゲマインシャフト、ゲゼルシャフトを直接定義しなかったのは、テンニースのあまりにも有名になった概念を書き換える新しい定義を作る時間も自信もなかったからではないかと想像しますが、元著者が書いていないことを勝手に説明すべきではありません。こういう基本的な所から混乱しているのでは、「経済と社会」を「理解社会学のカテゴリー」で体系的に読むという意図は最初の一歩から失敗していると言わざるを得ません。

マックス・ヴェーバーとファイヒンガー

ファイヒンガーの「かのようにの哲学」は彼が主宰していた哲学雑誌のKantstudienに連載されていたものです。問題はヴェーバーがこの雑誌を読んでいたかどうかですが、このページを見ると、この雑誌の編集をジンメルとヴェーバーの弟のアルフレートが手伝っていた、ということなので、これはもうヴェーバーが目を通していたのはほぼ間違いないですね。他にもディルタイやヴィンデルバントも編集メンバーであり、むしろヴェーバーが読んでいない方が不自然です。下記の表紙の写真は1899年のもの。

「理解社会学のカテゴリー」の欠陥、追加

「支配の社会学」を読みなおす途中で「理解社会学のカテゴリー」について考えたこと追加。 「カテゴリー論文」の問題点・欠陥は、あまりにもミクロな、「一つの」人間集団しか扱っていないこと。例えばゲマインシャフト関係はヴェーバーの定義ではゲマインシャフト行為によって(動的に)生まれるとされる。しかし現実の社会は複数の人間集団(ゲマインシャフト、ゲゼルシャフト、その他)の間のある意味パワーゲームであるが、「カテゴリー論文」はこうした複数の人間集団間にどういう力が働くのか、それは「ゲマインシャフト行為」とか「ゲゼルシャフト行為」というものではまるで定義出来ていない。例えば「支配の社会学」でヴェーバーは支配とはゲマインシャフト行為にもっとも影響を及ぼす要素である、と書いているが、実際の社会では支配する階層と支配される階層があって、支配の力とはその2つの人間集団の関係として作用するのであり、直接「支配」が個々の人間のゲマインシャフト行為を規制するのではない。カテゴリー論文はこうした複数の人間集団の関係をまったく扱っておらず、「経済と社会」のいわばマクロ的な分析とはまったく接続しない空想的カテゴリー論である。従って「カテゴリー論文」が「経済と社会」の頭となっているという仮説はこの点から見ても誤っている。

「経済と社会」再構成問題の状況整理

「経済と社会」へのテンブルックの批判の後に起きたことの私なりの整理。

(1)マリアンネとヴィンケルマンの編集の「二部構成」の「経済と社会」は難解で、部分的には参照されても全体を体系的に論じる人はいなかった。

(2)そこにテンブルックが二部構成はそもそも間違っており、後から書かれた「社会学の根本概念」で全体を解釈するのは間違い、また「経済と社会」は出版社からの頼まれ仕事でヴェーバーの主著でも何でもないと批判。(1976年)

(3)折原浩、シュルフターなどがテンブルック批判を受け、「社会学の根本概念」の代わりに「理解社会学のカテゴリー」に準拠すべきと主張。そしてテンブルックの「主著ではない」批判は受け入れなかった。

(4)これまで「経済と社会」が全体として理解されなかったのは「間違った頭」のせいで、「理解社会学のカテゴリー」という正しい頭に付け替えて読めば体系的に読めるという思い込みが、主として折原浩によって主張された。

(5)しかし本来まったく体系的には書かれていない「経済と社会」を、またそれ自体に問題の多い「理解社会学のカテゴリー」に準拠しても、結局状況として誰も全体の構成を明解に説明することは出来なかった。

(6)シュルフターは途中でそれに気付き、ヴェーバーのカテゴリー論は途中で変化していったとして「理解社会学のカテゴリー」と「社会学の根本概念」の双頭説に転換し、折原との間で論争が行われたが、現状尻切れとんぼ状態で終わっている。

(7)折原浩は「経済と社会」の全体どころか、「宗教社会学」に限定しても再構成は出来ておらず途中で新訳の作業を放棄した。

 

ヴェーバーの著作は体系的か?

再度折原浩先生から引用「ヴェーバーの「宗教社会学」を、基礎カテゴリーから体系的に読めるように」、しかしヴェーバーの論考、文章はそもそもそんなに体系的なものなのでしょうか?

向井守「マックス・ウェーバーの科学論」P.249
「全体として彼の理想型(注:向井は「理念型」ではなく「理想型」)を見ると、限界効用学派経済学、歴史学派経済学、マルクス主義経済学、さらには法学、政治学、宗教学についての巨大な知識を背景にして彼の思想がとめどもなく爆発的に噴火し、体系的には制御しがたく奔流しているような印象を受ける。」

ヴェーバー「ローマ土地制度史」第2章注102より
「(前略)この論文の大部分の記述と同様に、そこにおいては学芸における最も困難なこと、つまり”ars ignorandi”(重要ではない情報を無視し、本質的な部分に集中するという学問・討論上の技法) が何重にも失われてしまっているのである。私は次のことを確かに自覚している。つまり私の記述において明確化という意味で成功していない多くの命題が見出され、それらについては個々の[文献]調査によって再検証されなければならないということである。それについてはただ私が、ここで提示した見解について、それをより大きな因果連関の中で検討する試みをせず、ただそれを何としても記述しなければならないという強迫観念に駆られていたことに、自分で気が付いていなかったと言える。 」

この2つの例を見るだけでも、ヴェーバーの論文というのは頭の中に浮かんで来た様々な雑多な知識をとにかく並び立てなければ気が済まない、といったもので、「体系的」な論文とはおよそ正反対であることが分かります。(こういうと差し障りがあるかもしれませんが、双極性障害の患者の躁状態の時の思考パターンとしては非常に典型的です。)

折原浩先生のやろうとしていたのは、元々まったく体系的でないヴェーバーの「経済と社会」を無理矢理「理解社会学のカテゴリー」の概念で統一的に構成されていると事実に反することを仮定して解釈しようとした、「想像の産物」であることを再度強調させていただきます。

「経済と社会」はもっとも教科書を書いてはいけないタイプの学者が無理に教科書を書こうとした、元々無理ゲーです。(笑)