「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第51回です。ここは本当に大変で、ギリシア語の土地台帳が出てくるかと思えば、次には長大なラテン語でしかもギリシア語の単語を含んでいるといった具合です。アクセント記号付きのギリシア文字は、入力するだけでも大変です。ここではローマが既に衰退に入って、カラカラ帝の時に大盤振る舞いして属州の住民にもローマ市民権を与えた結果として属州税が入って来なくなり、その結果として新しい税制を構築する必要があり、そのためにディオクレティアヌス帝が行った税制改革の実態が論じられています。
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125) アスティパレア島≪エーゲ海南東部のドデカネス諸島の一つ。BC105年にローマとの間で条約が結ばれ、ローマの自由州とされた。オリエント諸国との関係でローマのために何らかの軍事的な役割を果たしていたと言われている。≫の土地台帳の断片を含む C.I.Graec. 8657 の碑文は、課税された土地区画の存在を次のように証拠付けている:
(Δε)σπο(τί)ας Θεοδούλου.
χω. Ἀχιλλικὸς ζυ. ….
χω. Βάρρος με … ζυ … ἄνθρωρ . κϑ
χω. Βατράχου με …. δ, ζυ … ἄνθρωρ . κ
χω. Δάρνιον ζυ….
[テオドゥレスの地主達。
場所 アキッリコス 牛馬…
場所 バッロス 区画…牛馬…人間。κϑ
場所 バトラク 区画…δ、牛馬…人間、κ
場所 ダルニオン 区画…]
ζυ. = ζυγά は耕作用の牛馬やロバなどの動物であり、ἄνθρω(ωποι)は植民者(小作人)と奴隷達である。με.についてはベック≪August Baeckh, 1785~1867年、ドイツの古典文献学者≫は μέρη の略である割合で課税される土地区画として解読を試みている。トラッレス≪Tralles、古代フリギアの都市、正確な場所は不明≫の土地台帳の断片(Bulletin de correspondance hellénique IV, p.336f., 417f.)は同様に土地区画を地主の人名毎に記録しており、それぞれの地主の支配地において ἀγροί[耕地] と τόποι[その他の土地]があってこれらは ζ(υγά = juga)に従って数えられ、また奴隷とζῶα [家畜]は κ(εφαλαί)[合計数]で数えられ、総合計を求める際には,ζυγά と κεφαλαί は同一視された。アスティパレアはトラッレスのように自由都市だったのであり、そこでは確からしくは税の合計額は総人口数に比例して課税されたのであり、そしてこの課税方法が彼ら自身によるそこの住民への課税においては単に juga と capita に比例して割当てられたのである。――これに対してテラ≪Thera、現在のギリシアのサントリーニ島≫とレスボス島の土地台帳の断片は、その二つの都市においては周知のように αὐτονομία[自治権]が与えられていなかったのであり、そこの耕地はそれ故に昔から使用料の支払いを義務付けられていて、専制政治によって納税義務を課された土地区画及びその中の耕地(γῆ σπόριμος [耕されていた土地])、そしてブドウ畑(ἄμπελος [ワイン]) はユゲラ当たりで、そしてオリーブ畑(ἐλαία [野生のオリーブの樹])は樹木の本数またはγυρά[環濠]の数当たりで、同様に[レスボスでは]牧草地と牧場地はユゲラ当たりで課税されていたことが示されており、それに並んで申告した年齢毎の奴隷、牛、ロバ[πρόβατα]、そしてついには[トレッラにて]πάροικοι[外国から来た小作人]が示されている。ここにおいてはそれ故に専制政治によるユガティオとカピタティオが初めて税額として一緒にまとめて計算され、その中にその対象の耕地の品質についての情報が含まれる形で伝えられているに違いない。この最後の事例において juga の確定のやり方は、そこではつまり個々の土地区画に対する土地税の割当てが juga に統一されていたのであるが、それはシリア・ローマ法律文書(モムゼン、Hermes III、430)の次の箇所と関連がある: agros vero rex Romanus mensura perticae sic emensus est. Centum perticae sunt πλέθρον (das griechische Wort steht im Original). Ἰοῦγον autem diebus Diocletiani regis emensum et determinatum est. Quinque iugera vineae, quae X πλέθρα efficiunt, pro uno iugo posita sunt. Viginti iugera seu XL πλέθρα agri consiti annonas dant unius iugi. Trunci (?) CCXX(V) olearum vetustarum unius iugi annonas dant: trunci CDL in monte unum iugum dant. Similiter (si) ager deterioris et montani nomine positus (est), XL iugera quae efficiunt LXXX πλέθρα, unum iugum dant. Sin in τρίτη positus seu scriptus est, LX iugera, quae efficiunt (CXX) πλέθρα, unum iugum dant. Montes vero sic scribuntur: Tempore scriptionis ii, quibus ab imperio potestas data est, aratores montanos ex aliis regionibus advocant, quorum δοκιμασία scribunt, quot tritici vel hordei modios terra montana reddat. Similiter etiam terram non consitam, quae pecudibus minoribus pascua praebet, scribunt, quantam συντἐλειαν in ταμιεῖον factura sit, et postalatur pro agro pascuo, quem in ταμιεῖον quotannis offerat, denarius (d.h. aureus) unus seu duo seu tres et hocce tributum agri pascui exigunt Romani mense Nisan (April) pro equis suis.
[ローマ王(皇帝)はこのように土地を測量棒を使って測量した。100ペルティカは1プレスロンに相当する。(πλέθρον≪ギリシアの面積単位。≫ は元々の文献に登場するギリシア語)しかしユグムはディオクレティアヌス王(皇帝)の時に測量され決められた。5ユゲラのブドウ畑は10プレスラ≪プレスロンの複数形≫になり、それが1ユグムとして設定された。20ユゲラまたは40プレスラの耕地は1ユグム分の(年間の)穀物の収穫量を供給する。220(225)本の老木のオリーブの樹は1ユグムの収穫量を供給する:山中のオリーブの樹は450本で1ユグム分を供給する。≪山の中のオリーブの樹は生産効率が約1/2ということ。≫同様に(もし)土地の質として劣るもの、あるいは山地として分類された場合、40ユゲラ、つまり80プレスラに相当、が1ユグムを供給する。しかし三級の土地と分類されたりまた記録された場合は、60ユゲラ、つまり(120)プレスラが1ユグムを供給する。山地については次のように記録される:その記録の際に、ローマ帝国から権限を与えられた者は、山地での耕作者を他の地域から呼び寄せ、彼らによる評価結果を記録し、その山地が小麦または大麦を何モディウス産出するかを記録する。同様にまた、耕作されていない土地で、小家畜の牧草地になるものも記録される。いくらの共同納付税を国庫に納めることになるかが記録される。そして牧草地に対して国庫に毎年納めるものとして、1または2または3デナリウス(つまりアウレウス)が課される。この牧草地税はローマ人が自分達の馬のためにニサンの月(4月)≪元はユダヤ教の正月≫に徴収される。]
これに対して最初の方法について語っているのは、つまりある決まった割当て額の capita がある場所全体に課されていた場合であるが、Eumen. gratiar. actio のある箇所で、そこ自身による記述ではそれをコンスタンティヌス1世≪在位306~337年、4つに分裂していたローマを再統一した。またローマ皇帝で初めてキリスト教徒になった。≫の命令としているが:septem milia capitum remisisti … remissione ista septem milium capitum ceteris viginti quinque milibus dedisti vires, dedisti opem, dedisti salutem.
[あなた(=コンスタンティヌス一世)は7,000人分の人頭税(カプティオ)を免除した…この7,000人分の免除によって残った25,000人に力を与え、支援と救済をも与えた。]
エデュアー≪Aedeur または Haeduer、ガリアにおけるケルト人の最大の部族≫は、ここはその者達について語っているのであるが、つまり合計で32,000人分の人頭税を課せられていたのを、その内の7,000人分を免除されている。この人頭税は実際にこの部族のフーフェに対して課せられた税とは一致していない。32,000人分の人頭税について更に分割するということは語られておらず、分割の結果は25,000人に留まっている。ここにおいてのように純粋な価値の大きさ、つまり実際は「概念的な課税対象のフーフェ」が扱われている場合は caput という表現が用いられ、それに対して具体的な大地主の土地所有について言う場合は jugum という表現が用いられる。確からしいのは、このことが2つの表現の根本的な相違点なのであるということである。価値という観点からのこの区別から分かることは、この区別が、この時代のローマで共通して[promiscue]用いられていたということである。――Vokeji≪詳細不詳≫(C.I.L., X, 407)の323年の土地台帳の断片は、個々の土地をユゲラを使って表現しており、その土地の価額を千単位で報告している。こういった土地区画を全体として価値評価しているということは、同様にそれらの土地がより古い時代に非課税のものであったということと関連しており、それに対しての課税はこのやり方のみが許されていたのである。それ故にイタリア半島においては後に jugum の代わりに millena が登場しているが、それは事実上は jugum と差が無いものであり(Valent. nov. Tit. V, § 4. Nov. Major. Tit. VII, §16 とユスティニアヌス帝の国事詔書≪554年、ゴート戦争後のイタリア再編についてのユスティニアヌス1世による勅令≫の554、c. 26)、例外として相違するのは通例異なった品質等級を持つ複数の耕地が組み合わされ、その結果違うやり方が採用されたという点であるが。
こうした改革は全体として、自然なこととして徐々に進められ、決して完了に至ることなく、多くの場合で反動が起きていた。ここにおいてその時々に見られたこととしては、属州の破産という事態の結果として、ローマ国家によるその属州への税査定を放棄し、改めて属州に対して、それ自身による税負担能力の申告に基づいて税の総額を改めて割当て直す、ということが必要になり、それは先に引用したヌミディアについての箇所でも同様であり、また同じ時代(テオドシウス2世≪東ローマ帝国テオドシウス朝の第2代皇帝、在位408-450年≫、424年)の別の例としてマケドニアとアジア属州での例を確認出来る 126)。
126) テオドシウス法典 33 de annon[a] et tribut[is] 11, 1。そこでは更に次のことが特別に主張されている。つまりどのような検査官[inspector]も属州の財の評価をしてはならないと。
同時に最初に引用した箇所が示しているのは、ヌミディアでは税フーフェのシステムの導入という意味での税制改革はまだようやく始められたばかりの状態であったということである;他の固定された税以外では、全ヌミディア人はわずか200人分の人頭税しか払っていなかった。同様にアフリカでは税額の計算はその時点でもケントゥリア当たりでいくらの使用料支払いの原則に従っていたのであり、それは部分的には、以前主張したように、もしかするとグラックス兄弟の時代のやり方をそのまま継承していたのかもしれない 127)。
127) カエサルによるカンパーニア地方でのヴィリタン土地割当てにおけるケントゥリアについては、ごくわずかな不連続になっている部分を除いて今日でもその跡ははっきりと分かるものであり、それは[ヴェーバーの当時の]今日のカプアの地図が示している通りである。≪Googleマップで現在のカプアの古カプアに相当するサンタ・マリーア・カプア・ヴェーテレ周辺の地図を確認した限りでは、ケントゥリアによるいわゆる条里制の痕跡は確認出来なかった。≫(尊敬する枢密参事官のマイツェン教授は、私に同様の事例についての記述を参照する機会を与えてくれた。それは間もなく教授の著作として刊行される。≪おそらくマイツェンの Siedelung und Agrarwesen 、1895年のAnlage 29、”Reste der Assignationen Caesars um Capua”のこと。2ページ半のテキストのみで特に地図や図は付いていない。”um”という前置詞の意味から、カプアの中心地ではなくその周辺のことであろう。≫)ケントゥリアは一般に200ユゲラと見なされた。それ故にカンパーニアでもまた常に正確に次のことを計算することが出来た。それはある土地での総課税対象額がいくらであったかというのと、課税対象の土地の面積が何ユゲラであったかということである。――参照:D. 2 de indulg[entis] deb[itorum](ホノリウス帝とアルカディウス帝≪ホノリウス帝はテオドシウス1世の次男、アルカディウス帝は長男で前者が西、後者が東を治めてローマは再び分裂した。≫ 395)、そこでは528,042ユゲラ分の税が砂漠と荒れ地に対して免除されている――アフリカでの例と同じく。
そして結論としては言及した箇所は次のことを証明している。それはその当時であってもまだ植民市に対する課税方法はその他のゲマインデに対するそれとは違いが存在していた、ということである。というのはこの[改革された]税制は、もちろんそれは部分的には修復不可能なほど壊れていたのであるが、植民市のルシカデ≪現代のアルジェリアのスキクダにあったローマの植民市≫とチュル≪プリニウスの書籍に出てくるヌミディアの町≫においては、あ特別な課税用の面積算定方法で統一的に simplumに基づく土地台帳を使ったものが前提とされていたからであり、それについての規定が存在する 128)。
128) そこでは5%[centesimae]の税について規定されている。
ゲマインデの税制上の自治の廃止
しかしながらもちろんディオクレティアヌス帝による税制改革は様々に異なった課税方式の統一を図る試みを更に先に進めていた。まず第一に土地区画に対する国家の直接的な課税が広範囲に渡って導入された。課税されていたゲマインデの税制上の自治は常に不安定な形で成り立っており、それはそのゲマインデに対して税の総額の徴収が委託されていた場合でもそうであった。そういったゲマインデが全体として統一された税対象物をまとめ上げていた限りにおいて、その全体としての状態の変更はいずれにせよ――例えばそれまでのその町の課税用の地図を破棄するなど≪町を一度取り壊して再度建設する場合≫129)――そのゲマインデを支配している国家の同意なしには決して行われることはなかった。
129) そのようにウェスパシアヌス帝はある碑文に含まれた(C. I. L., I, 1423)スペインのサボーラ≪スペインのヒスパニア・バエティカにあった町≫の処置について許可しているが、その処置とはその町を一度取り壊し同じ平野の中で再度建設するというものであり、それは壊す前の現状の土地使用料をそのまま保つという確約の元で行われた。もしその町の者達が新たな税を設けようと欲した場合には、その町を管轄する総督に対して許可を請わなければならなかった。
しかしながら国税の割当てにおいての税制の自治の原則全体は、一般的に次々に制限されるようになっていた。同じことが自治団体の公共組織からの解放によっても生じていた。コンスタンティヌス1世の治世において知られているのは、課税方法についてある種の濫発が起き、それは諸ゲマインデにおける富裕者の金権政治的な制度によって引き起こされていた 130)。
130) テオドシウス法 3 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11, 16(コンスタンティヌス1世 324)では追加の税を取り立てており、その理由はカルケドン≪小アジアのビチニア地方の港湾都市≫とマケドニアでは、権力者(金持ち)が他者の納税義務を勝手に軽減したり、あるいは自身への munera[義務]の割り当て分をゲマインデを通じて軽減したりしていたからである。諸ゲマインデにおいては以前から税負担を平等にするという目的での管理が行われていたが 131)、その後コンスタンティヌス1世の治世においては税支払いの義務の割当て方法について部分的ではあるが正式なやり方が規定された 132)。
131) テオドシウス法 4 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11. 16 (コンスタンティヌス1世 328)。まず最初に確認されなければならなったのは、富者が、それから平均的な人が、そして貧者がそれぞれ何を負担すべきか、ということである。この点で夫役との関連が再度明らかになっている。明らかに富者はそういう夫役の負担の順番において常に下層の者より開始することにしており、その結果として自分には順番が回って来ないようにしていた。
132) 注130と131の文献の箇所を参照せよ。後者においてはただ属州の総督によって定められた規準のみが権威のあるものとされた。
最終的には部分的にゲマインデの10人組の長[decurio]から税割当てと徴収の権利が有無を言わさず取上げられ 133)、つまりは国家による直接課税が導入されたのである。
133) 同じくより小規模の占有者もテオドシウス法 12 de exact[ionibus] 11, 7 (383年)によってそれらの権利を取上げられた。