ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(51)P.280~283

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第51回です。ここは本当に大変で、ギリシア語の土地台帳が出てくるかと思えば、次には長大なラテン語でしかもギリシア語の単語を含んでいるといった具合です。アクセント記号付きのギリシア文字は、入力するだけでも大変です。ここではローマが既に衰退に入って、カラカラ帝の時に大盤振る舞いして属州の住民にもローマ市民権を与えた結果として属州税が入って来なくなり、その結果として新しい税制を構築する必要があり、そのためにディオクレティアヌス帝が行った税制改革の実態が論じられています。
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125) アスティパレア島≪エーゲ海南東部のドデカネス諸島の一つ。BC105年にローマとの間で条約が結ばれ、ローマの自由州とされた。オリエント諸国との関係でローマのために何らかの軍事的な役割を果たしていたと言われている。≫の土地台帳の断片を含む C.I.Graec. 8657 の碑文は、課税された土地区画の存在を次のように証拠付けている:
(Δε)σπο(τί)ας Θεοδούλου.

χω. Ἀχιλλικὸς ζυ. ….
χω. Βάρρος με … ζυ … ἄνθρωρ . κϑ
χω. Βατράχου με …. δ, ζυ … ἄνθρωρ . κ
χω. Δάρνιον ζυ….

[テオドゥレスの地主達。
場所 アキッリコス 牛馬…
場所 バッロス  区画…牛馬…人間。κϑ
場所 バトラク  区画…δ、牛馬…人間、κ
場所 ダルニオン 区画…]
ζυ. = ζυγά は耕作用の牛馬やロバなどの動物であり、ἄνθρω(ωποι)は植民者(小作人)と奴隷達である。με.についてはベック≪August Baeckh, 1785~1867年、ドイツの古典文献学者≫は μέρη の略である割合で課税される土地区画として解読を試みている。トラッレス≪Tralles、古代フリギアの都市、正確な場所は不明≫の土地台帳の断片(Bulletin de correspondance hellénique IV, p.336f., 417f.)は同様に土地区画を地主の人名毎に記録しており、それぞれの地主の支配地において ἀγροί[耕地] と τόποι[その他の土地]があってこれらは ζ(υγά = juga)に従って数えられ、また奴隷とζῶα [家畜]は κ(εφαλαί)[合計数]で数えられ、総合計を求める際には,ζυγά と κεφαλαί は同一視された。アスティパレアはトラッレスのように自由都市だったのであり、そこでは確からしくは税の合計額は総人口数に比例して課税されたのであり、そしてこの課税方法が彼ら自身によるそこの住民への課税においては単に juga と capita に比例して割当てられたのである。――これに対してテラ≪Thera、現在のギリシアのサントリーニ島≫とレスボス島の土地台帳の断片は、その二つの都市においては周知のように αὐτονομία[自治権]が与えられていなかったのであり、そこの耕地はそれ故に昔から使用料の支払いを義務付けられていて、専制政治によって納税義務を課された土地区画及びその中の耕地(γῆ σπόριμος [耕されていた土地])、そしてブドウ畑(ἄμπελος [ワイン]) はユゲラ当たりで、そしてオリーブ畑(ἐλαία [野生のオリーブの樹])は樹木の本数またはγυρά[環濠]の数当たりで、同様に[レスボスでは]牧草地と牧場地はユゲラ当たりで課税されていたことが示されており、それに並んで申告した年齢毎の奴隷、牛、ロバ[πρόβατα]、そしてついには[トレッラにて]πάροικοι[外国から来た小作人]が示されている。ここにおいてはそれ故に専制政治によるユガティオとカピタティオが初めて税額として一緒にまとめて計算され、その中にその対象の耕地の品質についての情報が含まれる形で伝えられているに違いない。この最後の事例において juga の確定のやり方は、そこではつまり個々の土地区画に対する土地税の割当てが juga に統一されていたのであるが、それはシリア・ローマ法律文書(モムゼン、Hermes III、430)の次の箇所と関連がある: agros vero rex Romanus mensura perticae sic emensus est. Centum perticae sunt πλέθρον (das griechische Wort steht im Original). Ἰοῦγον autem diebus Diocletiani regis emensum et determinatum est. Quinque iugera vineae, quae X πλέθρα efficiunt, pro uno iugo posita sunt. Viginti iugera seu XL πλέθρα agri consiti annonas dant unius iugi. Trunci (?) CCXX(V) olearum vetustarum unius iugi annonas dant: trunci CDL in monte unum iugum dant. Similiter (si) ager deterioris et montani nomine positus (est), XL iugera quae efficiunt LXXX πλέθρα, unum iugum dant. Sin in τρίτη positus seu scriptus est, LX iugera, quae efficiunt (CXX) πλέθρα, unum iugum dant. Montes vero sic scribuntur: Tempore scriptionis ii, quibus ab imperio potestas data est, aratores montanos ex aliis regionibus advocant, quorum δοκιμασία scribunt, quot tritici vel hordei modios terra montana reddat. Similiter etiam terram non consitam, quae pecudibus minoribus pascua praebet, scribunt, quantam συντἐλειαν in ταμιεῖον factura sit, et postalatur pro agro pascuo, quem in ταμιεῖον quotannis offerat, denarius (d.h. aureus) unus seu duo seu tres et hocce tributum agri pascui exigunt Romani mense Nisan (April) pro equis suis.
ローマ王(皇帝)はこのように土地を測量棒を使って測量した。100ペルティカは1プレスロンに相当する。(πλέθρον≪ギリシアの面積単位。≫ は元々の文献に登場するギリシア語)しかしユグムはディオクレティアヌス王(皇帝)の時に測量され決められた。5ユゲラのブドウ畑は10プレスラ≪プレスロンの複数形≫になり、それが1ユグムとして設定された。20ユゲラまたは40プレスラの耕地は1ユグム分の(年間の)穀物の収穫量を供給する。220(225)本の老木のオリーブの樹は1ユグムの収穫量を供給する:山中のオリーブの樹は450本で1ユグム分を供給する。≪山の中のオリーブの樹は生産効率が約1/2ということ。≫同様に(もし)土地の質として劣るもの、あるいは山地として分類された場合、40ユゲラ、つまり80プレスラに相当、が1ユグムを供給する。しかし三級の土地と分類されたりまた記録された場合は、60ユゲラ、つまり(120)プレスラが1ユグムを供給する。山地については次のように記録される:その記録の際に、ローマ帝国から権限を与えられた者は、山地での耕作者を他の地域から呼び寄せ、彼らによる評価結果を記録し、その山地が小麦または大麦を何モディウス産出するかを記録する。同様にまた、耕作されていない土地で、小家畜の牧草地になるものも記録される。いくらの共同納付税を国庫に納めることになるかが記録される。そして牧草地に対して国庫に毎年納めるものとして、1または2または3デナリウス(つまりアウレウス)が課される。この牧草地税はローマ人が自分達の馬のためにニサンの月(4月)≪元はユダヤ教の正月≫に徴収される。
これに対して最初の方法について語っているのは、つまりある決まった割当て額の capita がある場所全体に課されていた場合であるが、Eumen. gratiar. actio のある箇所で、そこ自身による記述ではそれをコンスタンティヌス1世≪在位306~337年、4つに分裂していたローマを再統一した。またローマ皇帝で初めてキリスト教徒になった。≫の命令としているが:septem milia capitum remisisti … remissione ista septem milium capitum ceteris viginti quinque milibus dedisti vires, dedisti opem, dedisti salutem.
[あなた(=コンスタンティヌス一世)は7,000人分の人頭税(カプティオ)を免除した…この7,000人分の免除によって残った25,000人に力を与え、支援と救済をも与えた。]
エデュアー≪Aedeur または Haeduer、ガリアにおけるケルト人の最大の部族≫は、ここはその者達について語っているのであるが、つまり合計で32,000人分の人頭税を課せられていたのを、その内の7,000人分を免除されている。この人頭税は実際にこの部族のフーフェに対して課せられた税とは一致していない。32,000人分の人頭税について更に分割するということは語られておらず、分割の結果は25,000人に留まっている。ここにおいてのように純粋な価値の大きさ、つまり実際は「概念的な課税対象のフーフェ」が扱われている場合は caput という表現が用いられ、それに対して具体的な大地主の土地所有について言う場合は jugum という表現が用いられる。確からしいのは、このことが2つの表現の根本的な相違点なのであるということである。価値という観点からのこの区別から分かることは、この区別が、この時代のローマで共通して[promiscue]用いられていたということである。――Vokeji≪詳細不詳≫(C.I.L., X, 407)の323年の土地台帳の断片は、個々の土地をユゲラを使って表現しており、その土地の価額を千単位で報告している。こういった土地区画を全体として価値評価しているということは、同様にそれらの土地がより古い時代に非課税のものであったということと関連しており、それに対しての課税はこのやり方のみが許されていたのである。それ故にイタリア半島においては後に jugum の代わりに millena が登場しているが、それは事実上は jugum と差が無いものであり(Valent. nov. Tit. V, § 4. Nov. Major. Tit. VII, §16 とユスティニアヌス帝の国事詔書≪554年、ゴート戦争後のイタリア再編についてのユスティニアヌス1世による勅令≫の554、c. 26)、例外として相違するのは通例異なった品質等級を持つ複数の耕地が組み合わされ、その結果違うやり方が採用されたという点であるが。

こうした改革は全体として、自然なこととして徐々に進められ、決して完了に至ることなく、多くの場合で反動が起きていた。ここにおいてその時々に見られたこととしては、属州の破産という事態の結果として、ローマ国家によるその属州への税査定を放棄し、改めて属州に対して、それ自身による税負担能力の申告に基づいて税の総額を改めて割当て直す、ということが必要になり、それは先に引用したヌミディアについての箇所でも同様であり、また同じ時代(テオドシウス2世≪東ローマ帝国テオドシウス朝の第2代皇帝、在位408-450年≫、424年)の別の例としてマケドニアとアジア属州での例を確認出来る 126)。

126) テオドシウス法典 33 de annon[a] et tribut[is] 11, 1。そこでは更に次のことが特別に主張されている。つまりどのような検査官[inspector]も属州の財の評価をしてはならないと。

同時に最初に引用した箇所が示しているのは、ヌミディアでは税フーフェのシステムの導入という意味での税制改革はまだようやく始められたばかりの状態であったということである;他の固定された税以外では、全ヌミディア人はわずか200人分の人頭税しか払っていなかった。同様にアフリカでは税額の計算はその時点でもケントゥリア当たりでいくらの使用料支払いの原則に従っていたのであり、それは部分的には、以前主張したように、もしかするとグラックス兄弟の時代のやり方をそのまま継承していたのかもしれない 127)。

127) カエサルによるカンパーニア地方でのヴィリタン土地割当てにおけるケントゥリアについては、ごくわずかな不連続になっている部分を除いて今日でもその跡ははっきりと分かるものであり、それは[ヴェーバーの当時の]今日のカプアの地図が示している通りである。≪Googleマップで現在のカプアの古カプアに相当するサンタ・マリーア・カプア・ヴェーテレ周辺の地図を確認した限りでは、ケントゥリアによるいわゆる条里制の痕跡は確認出来なかった。≫(尊敬する枢密参事官のマイツェン教授は、私に同様の事例についての記述を参照する機会を与えてくれた。それは間もなく教授の著作として刊行される。≪おそらくマイツェンの Siedelung und Agrarwesen 、1895年のAnlage 29、”Reste der Assignationen Caesars um Capua”のこと。2ページ半のテキストのみで特に地図や図は付いていない。”um”という前置詞の意味から、カプアの中心地ではなくその周辺のことであろう。≫)ケントゥリアは一般に200ユゲラと見なされた。それ故にカンパーニアでもまた常に正確に次のことを計算することが出来た。それはある土地での総課税対象額がいくらであったかというのと、課税対象の土地の面積が何ユゲラであったかということである。――参照:D. 2 de indulg[entis] deb[itorum](ホノリウス帝とアルカディウス帝≪ホノリウス帝はテオドシウス1世の次男、アルカディウス帝は長男で前者が西、後者が東を治めてローマは再び分裂した。≫ 395)、そこでは528,042ユゲラ分の税が砂漠と荒れ地に対して免除されている――アフリカでの例と同じく。

そして結論としては言及した箇所は次のことを証明している。それはその当時であってもまだ植民市に対する課税方法はその他のゲマインデに対するそれとは違いが存在していた、ということである。というのはこの[改革された]税制は、もちろんそれは部分的には修復不可能なほど壊れていたのであるが、植民市のルシカデ≪現代のアルジェリアのスキクダにあったローマの植民市≫とチュル≪プリニウスの書籍に出てくるヌミディアの町≫においては、あ特別な課税用の面積算定方法で統一的に simplumに基づく土地台帳を使ったものが前提とされていたからであり、それについての規定が存在する 128)。

128) そこでは5%[centesimae]の税について規定されている。

ゲマインデの税制上の自治の廃止

しかしながらもちろんディオクレティアヌス帝による税制改革は様々に異なった課税方式の統一を図る試みを更に先に進めていた。まず第一に土地区画に対する国家の直接的な課税が広範囲に渡って導入された。課税されていたゲマインデの税制上の自治は常に不安定な形で成り立っており、それはそのゲマインデに対して税の総額の徴収が委託されていた場合でもそうであった。そういったゲマインデが全体として統一された税対象物をまとめ上げていた限りにおいて、その全体としての状態の変更はいずれにせよ――例えばそれまでのその町の課税用の地図を破棄するなど≪町を一度取り壊して再度建設する場合≫129)――そのゲマインデを支配している国家の同意なしには決して行われることはなかった。

129) そのようにウェスパシアヌス帝はある碑文に含まれた(C. I. L., I, 1423)スペインのサボーラ≪スペインのヒスパニア・バエティカにあった町≫の処置について許可しているが、その処置とはその町を一度取り壊し同じ平野の中で再度建設するというものであり、それは壊す前の現状の土地使用料をそのまま保つという確約の元で行われた。もしその町の者達が新たな税を設けようと欲した場合には、その町を管轄する総督に対して許可を請わなければならなかった。

しかしながら国税の割当てにおいての税制の自治の原則全体は、一般的に次々に制限されるようになっていた。同じことが自治団体の公共組織からの解放によっても生じていた。コンスタンティヌス1世の治世において知られているのは、課税方法についてある種の濫発が起き、それは諸ゲマインデにおける富裕者の金権政治的な制度によって引き起こされていた 130)。

130) テオドシウス法 3 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11, 16(コンスタンティヌス1世 324)では追加の税を取り立てており、その理由はカルケドン≪小アジアのビチニア地方の港湾都市≫とマケドニアでは、権力者(金持ち)が他者の納税義務を勝手に軽減したり、あるいは自身への munera[義務]の割り当て分をゲマインデを通じて軽減したりしていたからである。諸ゲマインデにおいては以前から税負担を平等にするという目的での管理が行われていたが 131)、その後コンスタンティヌス1世の治世においては税支払いの義務の割当て方法について部分的ではあるが正式なやり方が規定された 132)。

131) テオドシウス法 4 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11. 16 (コンスタンティヌス1世 328)。まず最初に確認されなければならなったのは、富者が、それから平均的な人が、そして貧者がそれぞれ何を負担すべきか、ということである。この点で夫役との関連が再度明らかになっている。明らかに富者はそういう夫役の負担の順番において常に下層の者より開始することにしており、その結果として自分には順番が回って来ないようにしていた。

132) 注130と131の文献の箇所を参照せよ。後者においてはただ属州の総督によって定められた規準のみが権威のあるものとされた。

最終的には部分的にゲマインデの10人組の長[decurio]から税割当てと徴収の権利が有無を言わさず取上げられ 133)、つまりは国家による直接課税が導入されたのである。

133) 同じくより小規模の占有者もテオドシウス法 12 de exact[ionibus] 11, 7 (383年)によってそれらの権利を取上げられた。

英語 call とギリシア語 καλέω (呼ぶ)の関係

昔羽入辰郎の「マックス・ヴェーバーの犯罪」批判を書いた時に、コリントI 7,20の英訳の変遷の分析で、英語の call も元を正せば ギリシア語の καλέω ではないかと思ってOEDを調べたことがあるのですが、OEDでは古ゲルマン、古チュートンまでしか遡っていませんでした。最近知ったこととしてOEDは語源については英語と直接関係ない言語までの遡及はしないというのが方針だったようです。(恣意的な語源のこじつけを避けるためと、英語と直接関係ない言語にまで探索する時間が無かったのと両方みたいです。)
ChatGPT4oに改めて聞いてみたら、やはり関係があるようです。
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英語のcallという動詞は、古典ギリシア語のκαλέω(呼ぶ)と関係ありますか?ラテン語のcalendarはおそらくギリシア語のκαλεωから派生しているように思います。(月の初めの日を声を出して布告する係がいたと聞いています。)以前Oxford English Dictionaryでcallの語源を調べましたが、古チュートン語までにしか遡っていませんでした。OEDの方針として語源は英語と直接関係のない言語にまでは言及しないということのようです。

ChatGPT:

英語の call は、確かに古ノルド語 kalla(「呼ぶ」)に遡るゲルマン系の語彙ですが、より深い語源的な関連を探ると、ギリシア語 καλέω(kaleō)と共通のインド・ヨーロッパ祖語に由来する可能性が考えられます。

call の語源

  • 英語 call の直接の起源は古ノルド語 kalla(「呼ぶ、召喚する」)。
  • これは古英語 ceallian に取り込まれ、その後中英語 callen を経て現代英語 call になった。
  • 古ノルド語 kalla は、ゲルマン祖語 kallōną から派生し、他のゲルマン諸語(例えばオランダ語 kallen, ドイツ語 kallen)にも類似の形がある。

καλέω との関係

  • ギリシア語 καλέω は、確かに「呼ぶ」「名付ける」といった意味を持つ。
  • この語はインド・ヨーロッパ祖語の kal- または kele-(「呼ぶ」「呼び出す」)に由来する。
  • サンスクリット語の kalayati(「数える」「呼ぶ」)や、ラテン語の calare(「召集する、宣言する」)とも関連がある。

ラテン語 calendar との関係

  • ラテン語 calendae(カレンダエ)は「月の最初の日(朔日)」を指し、これは布告者(calator)がその日を市民に告げる習慣に由来するとされる。
  • calendae は動詞 calare(「呼ぶ、告げる」)の派生語であり、これはギリシア語 καλέω に対応する。

結論

英語の call は直接ギリシア語 καλέω から借用されたわけではなく、ゲルマン語内部で独自に発達した語ですが、より深いインド・ヨーロッパ語族の語源を探れば、共通の祖語(kal- / kele-)に遡る可能性があります。したがって、callκαλέω は最終的には同じ語根に由来する可能性が高いですが、英語に入る過程では別々の系統をたどったと考えられます。

OEDが古チュートン語までしか遡らないのは、直接的な英語の系譜を重視するからでしょうが、印欧語族全体の視点では、より古い共通の語源を見出すことができます。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(50)P.276~279

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第50回です。ここではヴェーバーはティオクレティアヌス帝による税制改革と、カール大帝の税制との共通点を論じています。この例に限らず、ヴェーバーはこの論文でローマと中世ドイツの土地制度の共通性を論じている箇所が非常に多いように思います。そもそも何度も出てくる「フーフェ」は中世ドイツの封建制においての農村のあり方であり、ローマの土地制度が元々フーフェから発展したなどというのは、ある意味歴史を逆に捉えている、私から言わせればある種の「トンデモ説」です。またゲノッセンシャフトがローマに昔あったというのも噴飯物の議論であり、ローマはスタートは王制、その後は世襲貴族を中心とした共和政というのは誰でも知っていることで、まごうこと無き階層社会です。この論文はヴェーバーの長所と短所がどちらもかなり強く出ているものであり、そういう意味で私には非常に興味深い論文です。
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事実上はこうした変更された課税方式は、フーフェの耕地の中で個々人に与えられた持ち分についての権利に基づいた課税と比較した場合、最初から本質的には異なったものではなかったのであろうし、というのはその新しい方式では夫役と本来の個々人の耕作の維持という観点でバランスを取ったものであったからである。ケンススに登録された財産のリストが実際には元からの土地所有の情報を含んでいなかったとしたら、それはただ夫役を課する上で役立っただけであり、そのことと符丁が合っているだろうことは、ただ夫役の義務を負うことが可能な財産≪例:奴隷≫のみがケンスス登録の対象とされたことである。しかしながら次のことは非常に確かである。それは昔から相続人を登録することがフーフェの農民による報告として行われていた以外に、このことについてまたケンススへの登録も必要とされた、ということである。もしかするとケンススのリストというのは[フーフェの共同体単位で]相互に独立したものとして作られていて、それは後の時代の有権者リストや納税者リストと同様であった。というのも相続人登録というのは、まず第一に政治的な権利の継承という意味合いが強かったからである 119)。

119) というのは植民市においては、ユガティオとカピタティオに基づく夫役については、そもそもそこの住民への税はいずれにせよローマにおいて元から存在する tributum という税の課税のやり方を真似する形で課されたのであり、公的な業務の必要性を満たすために、その業務を行わせる対象者のリストを作成せよ、という指図については、そういったものがあったとしたら、植民市では重複した作業となっていたに違いない。

しかし明らかに既にかなり早期からフーフェでの土地の権利という尺度に対して関係づけられていたのである。ディオクレティアヌス帝の税制において、juga に基づく負担というものが再び登場した際には、それはまず第一には[フーフェの]耕地所有面積に比例した形の税だったのである;そのため実際に何が起きたかというと、1日の作業量という原則に忠実に従おうとした場合、その計算根拠に使われたのは本当の個々の農民の作業実績に基づいた[平均的な]作業量ではなく、[何らかの取り決め基準に基づく]仮想的な作業能力だったのである。大地主達は疑いなく、その配下の小作人に対して行政当局からの命令に基づいて――そのことについては最終章で再度取り上げるが――作業夫役を課したのであるが、その際にも同様にこうした仮想的な計算方法が使われていた 120)。

120) 一度作業夫役が課された植民市は、何らかの理由でそれに充当すべき実際の労働力が不足することになっても、それを理由に夫役を免除されることはなかった。このことと符合するのは、後に植民市に対して[夫役を課す上での根拠となっていた]”peculium” [個人資産]の売却が禁止された、とうことである。

土地所有面積に比例した課税の他に存在していた税は、またローマにおいての元々の税である tributem であった。その、より後の時代においての実態は、1000アウレウス当たりで――「一人当たり」[caput]121) で――その市民の持つ課税対象の資本について、それはその市民の生業に基づいてケンスス上で確認されるものであったが、必要に応じてその都度異なる金額で課されていた。この税制にて、土地台帳上での評価額の1,000アウレウスという金額は、丁度ケントゥリア[百人組]の中での軍事的な階級と同様に、土地財産に対する公的な評価レートに対して相当分の土地を言っているのであり、そのことは既にフシュケ≪Eduard Huschke、1801~1886年、ドイツの法学者≫(Ritters u. Schneiders krit. Jahrb, XVIIIm P.617)によって主張されている。ただ私はその場合に、それがある決まった面積の土地に対する金銭評価の始まりであった、という考え方は正しいとは思わない。類推出来ることの全ては、むしろ次のことを示唆している。つまりここでは土地の金銭評価をフーフェでの権利に比例したものとして扱っている、ということであり、それはつまり個々人に対してその者が属するフーフェの全耕地の中で、その者に割当てられ帰属した耕地、放牧地、そして他の用益権 122) に比例していた、ということである。

121) フロンティヌス P.364(モムゼンの補完による Abhandl. d. Berl. Ak. der Wissenschaften 1864, P.85):tributorum collatio cum sit alias in capita, id est ex censu …[税の支払いはまたある場合には人数当たりとして、それはケンススに登録してある人数に基づいて…]
Liv. 29, 15, 9. 39, 7, 4 vv.”in milia aeris”[1000アウレウス当たりで]。

122) このことはまた何故古くからの共同経済的なフーフェの農民の用益権に代わって地方の農地の地役権[servitutes praediorum rusticorum]がケンススに登録可能な手中物[res mancipi]≪渥取行為によらなければ所有権の移転が出来ない財産≫として登場して来たかの理由である。

任意の土地区画の所有で、それがフーフェの取り決めに全く関係ないものは、もっとも古い規則によれば、第2章で詳しく述べたように、私法上の保護も受けられなかったし、ケンススに登録することも出来なかった。ようやく Uskapion[土地の時効取得]が許可されるようになった時に、フーフェに属していない者の土地であっても物権的に保護されるようになり、それによってフーフェ制度全体が崩壊し、土地の面積当たりでいくらという評価に基づいた土地の金銭価値への換算が行われるようになったに違いない。フーフェ制度はしかし確からしくは既に耕地ゲマインシャフトの分割の際に、その際には何らかの形での地所の価値評価がまずは必要となったのであるが、それはケンスス制度に対しての基礎となったのであり、その際には農地の分配において、フーフェの成員全員の個々のフーフェの権利が、ある決められた価額である一人当たり 1,000 アウレウス分の土地が等しく設定され、そして各人に地所の評価に基づいてその者に与えられるべき額に合わせて、それに相当する面積の土地が割り当てられ、それ故に 1,000 アウレウスに対してそれぞれの地所の評価額が異なっていたことにより、割当てられた土地の面積もそれぞれ異なっていたのである。この耕地ゲマインシャフトの分割の際のやり方は、それ故にまたティオクレティアヌス帝による税制における jugum の性質でもあったのである。こうした土地の金銭価額評価は、しかしながら次のことを可能にした。つまり財産ではあるが、土地所有としては認められていないかあるいはただ半端な面積の土地区画であって土地台帳に載せるほどの大きさではないものについて、アエラリウス≪ローマの最下層民で兵役に就くことが出来ないが納税義務はある。≫に対して同じ尺度で評価して課税する、ということである。このことが実際に起きたということは次のことから分かる。それはケンススの実施の結果として、トリブスでのゲノッセンシャフトからの懲罰としての追放が、その罰を受けた者へのケンススの原則の乗算的な適用≪おそらくはケンススによってまずそういう半端な土地まで課税対象として調査されただけではなく、更に財産の申告に虚偽があったり、あるいは財産の総額が一定額をし給わせる場合にプレブスからアエラリウスへ降格させられたことを言っていると思われる≫と結び付いていたのが常であった、ということである。そのことから分かるのは、アエラリウス[に降格するような貧しい者]に対しても同じ原則で課税していた、ということである。アエラリウスに属する者達については一人あたり 1,000 アウレウスは現実の土地の面積と同等ではなく、それはむしろ土地台帳上だけの概念的・仮想的なフーフェの土地として見なされた。こうした土地の金銭価額評価に基づく課税方式は、それはそれ故実質的に財産税という性格を持っていたが、疑い無くその発展は非常にゆっくりだったのであり、この発展が一般的に言ってどのレベルにまで達したのかもはっきりしない。こうした課税方式はもしかすると、”capite censi”[ケンススでの人員登録に基づいて]という表現が土地台帳に登録する地所を持っていない市民の存在をほのめかしているように、そうした市民のただ頭数だけを登録し、そしてその者達を土地税徴収の対象にしない場合も夫役を義務付ける対象とする、という手続きとして登場したのかもしれない。以上をまとめて言うなら、tributum というものはいずれにせよ土地所有に対する課税形式であり、それは元々のフーフェでの権利に対しての課税だったのであり、それが後には大規模な土地経営全体に対して適用されるようになったものであり、vectigal のように個々の具体的な面積の土地に対して課される税ではなかった。この課税方式と vectigal の関係に相応しているのは、割当てを受けた私有地の面積と国有地という所有状態の土地[で貸し出されたもの]との関係であり、更に同様の関係としては Hufenschoß ≪16世紀以降のプロイセンとブランデンブルクなどでのフーフェの土地への課税≫と”walzenden Grundstück ≪どの大地主の所有にも属さない自由に売買可能な土地≫への課税の関係が挙げられる。その他、この課税方式はもちろん、不完全ではあるが、一般的財産税と言い表すことが出来る。

属州における juga と capita、そして課税

ディオクレティアヌス帝の改革はローマ帝国全体に対して一般的な課税標準を定める必要性から始まっており、それは丁度カール大帝≪8世紀後半から9世紀後半にかけてのフランク国王、神聖ローマ帝国初代皇帝、「ヨーロッパの父」と呼ばれる≫がそういった標準を彼の帝国の大部分でドイツのフーフェ制度の中に見出したのと同様であったが、その改革は同じものをおそらくは1,000アウレウスの価値を持つ[仮想的な]税制上のフーフェの中に見出そうと試みたのである。≪元々1フーフェの土地とは、一家族がその土地を耕作することで食べていける広さの土地を指していた。≫そこではまず耕作の成果としての juga に税制が結び付けられ、更にそれによって耕作能力の概念にも結び付けられたのである。大地主に対しての課税は明らかに牛馬を使った耕作に従事可能な小作人の数と共に、大地主自体が雇い人を使って行っている耕作、それは大地主制の中に含まれるものであるが、その雇い人の数も基準として行われ、更に地主達は capitatio plebeja [平民に課された人頭税]という人頭税をその者達が所有している奴隷達とその他の手作業を行うことが出来るその大地主制の中の人員の分として支払うことが求められた 123)。

123) 夫役への関連付けは、412年のテオドシウス法 5 de itin[ere] mun[iendo] 15, 3にて示されており、それによればビテュニア≪小アジアの北西にあったローマの属州≫において道路関係の作業が土地の占有者達に対してその支配の及ぶ所の juga 及び capita の数に比例する形で課されていた。その際にその義務の賦課が一人当たりの一日当たりの作業量ベースではなかったことは、関連個所であるテオドシウス法 4 de equorum coll[atine][税支払いの公平性について]11, 17が明らかにしており、そこでは一日の作業能力について言及しているのであるが、表題が示唆している通り、しかしながら実際の一人一人の作業量ベースではなかったということは、possessionis jugationisve modus [占有されていて区画分けされた面積に基づいて]という表現から分かる。

耕地において juga に相当する面積を実際に測量するということは確かにこの場合では行われておらず、そうではなくて juga のみが数えられており、その juga は個々の土地ではなく、占有者がそれを全体として占有しているまとまりであった 124)。

124) このことはトラレス≪ギリシア、ローマ、ビサンチン帝国の植民市、現在のトルコのエフェレル(2012年まではアイドゥン)≫の専制がどのように保護されたのかを明らかにしている。(次の注を見よ。)

その土地の品質等級に応じた vectigal[使用料]を支払っていた耕地においては、新たに juga が個々の品質等級毎にある一定数のユゲラが換算表によって等価とされる形で設定され、それからその土地がその地区において測量され(”emesum”)、あるいはより現実的にそれを言い表すならば、何区画かの土地が juga にまとめられたということである。更に諸ゲマインデにおいて税の査定を受けることになった場所においては、それらの諸ゲマインデはそれまで全く税を支払っていなかったか、あるいはただゲマインデ全体から徴収した stipendium [税]のみを支払っていたのであるが、そこの人々は多くの場合、次のことで満足していた。それはそのゲマインデが支払うべき税の総額がある決まった数の simpla [等倍]に等しいとされ、そしてその者達にその徴収が委託された、ということである。この場合当然のことであるが caput は純粋に数による価値の大きさを表すものであったのであり、おそらくはそこではこの表現はまさにこのような場合において juga と並んで使われたのであるが、その一方で catpitatio は属州全体での人頭税を意味していたのである。そうであれば先に言及した文献史料においての capitatio の意味の説明の不適合を説明できる 125)。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(49)P.272~275

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第49回です。ここも本当に分かりにくく、ヴェーバーが書いている文章自体が、きわめておかしな所で切れて、挿入句が入るという具合で、3回も4回も見直した箇所があります。(ずっと考えていて、寝床の中でひらめいて意味が分かった箇所もあります。)ここでは何回もロードベルトゥスが出て来て、ヴェーバーはかなり影響を受けているようです。序文で「偉大な思想家」とあるのがロードベルトゥスかマルクスか判断しかねていたのですが、これは間違いなくロードベルトゥスでしょう。面白いのはヴェーバーはそこでさらに「多くのその模倣者達」と書いているのですが、おそらくはその模倣者の中にマルクスも入っています。確かに労働価値説、剰余価値、地代と労働賃金の関係などは最初にロードベルトゥスが言い出したことで、ロードベルトゥス自身もマルクスの「資本論」他を自分の理論の剽窃であると非難していました。今日、特殊な理由がない限り、ロードベルトゥスの著作を読む人はほとんどいないでしょうが、少なくともヴェーバーがこの論文を書いていた時代には高く評価されていた、ということが分かります。
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特に、非常に良く知られているカラカラ帝によるローマ帝国住民[で属州民などこれまでローマ市民権を持っていなかった者]へのローマ市民権の授与は、ロードベルトゥスがその背後で起こったと推測しているような、急激で根本的な変化をもたらしたりはしていなかった。その市民権の授与は税制上の意味としては、少なくとも土地に関するものについては、次の点においてはるかに進歩した、とは言えないものであった。それはつまり、その授与がそれまで免税でないしは課税であった諸ゲマインデの土地について、その土地の占有を行うことを許したり、そしてそのことによって課税に関する別のやり方を採用したり、あるいは新しい税を作りだしたり、また同様に諸ゲマインデ自身においてのその成員への課税についての非常に大きな相違を均等化する、といった点である。その諸ゲマインデへの課税と諸ゲマインデ自身の課税についての改革はしかし、既にアウグストゥスが着手しており、その後もそうした改革は西ローマ帝国の滅亡の日まで粛々と進められていたのである。しかしもちろんローマ市民権授与の結果であったのは、その際に土地に関する申告のやり方についての統一原則を作り出す、ということが試みられたことであり、その具体的な内容としては、個々のゲマインデにおいての土地所有権について、土地をある者が占有している場合には、それをケンススに登録することが義務付けられた、ということである。

ウルピアヌスの時代までの土地税

こういった自己申告は、それはウルピアヌスがまさに彼の時代において、丁度ロードベルトゥスが正当な理由があって推測したように、彼によって出版された法律書である de consibus ≪学説彙纂の中に収録されている≫の中でこれらの新しい申告方式について引証≪自分の論の根拠として引用すること≫を行っているが、そういった申告の仕組みは何よりも次のことと関連が深かった。それはヒュギナスの記述に従えば、使用料[土地税]支払い義務が課せられた属州における土地区画に対して適用されたに違いない、ということである。ウルピアヌスがその著書で引証に使ったものは 109)、以下のようなものと考えて間違いないであろう。つまり耕地の面積[ユゲラ数]でその時点で10年以内に耕作が開始されたもの、ブドウの樹の本数とオリーブの樹の本数、そして植え付け済みの耕地の面積[ユゲラ数]、牧草地、牧場と森林の面積である。

109) D.4 de censibus 50, 51。

そしてウルピアヌスが更に次のように述べている場合には:”ominia ipse, qui defert aestimet“[申告を行った本人が全てを評価すべきである]、そこから想定されることは、属州の住民達が、ローマの市民税の古くからの自己申告原則について、耕地の使用方法についても自己申告が可能とされて、申告者に占有が許されていた耕地の面積に関しての何らかのもっと概略的な規則と結び付けて、属州による土地評価に委ねてしまおうと試みた、ということであり、その評価に基づいて昔の tributum の税のように、単純に土地の評価額の単純合計[simplum]またはその2倍の額[duplum]等々に対する千分率[‰]という税率で課税することが出来るようにしたのである。ロードベルトゥスは正当に、この点についてLampridus 110) ≪6人の皇帝についての伝記の内の一つ≫からの引用部について確かと思われる解釈を述べている。

110) Lampr. Alex. 39 :Vectigalia publica in id contraxit, ut qui X aureos sub Heliogabalo praestiterant, tertiam partem auri praestarent, hoc est tricesimam partem. Tuncque primum semisses aureorum formati sunt, tunc etiam cum ad tertiam partem auri vectigal decidisset, tremisses …
[彼≪アレクサンデル・セウェレス帝、在位222~235年≫は、元々ヘリオガルス帝≪在位218~222年≫の時代には(土地税として)10アウレリス≪金貨で、1アウレリスは25デナリ≫を支払っていた場合、それを 1/3 の 3.33 アウレリスの支払いへと減税した。これは元々の 1/10 税から考えれば 1/30 税になった、ということである。それからその支払いのためセミッシウス金貨(1/2 アウレリス)が初めて鋳造され、また地代(土地税)が 1/3 に減額された際にはトレミッセス(1/3 アウレリス)金貨も鋳造され…]
[こういったラテン語文献の解読では]常にあることだが、この箇所を本当はどう解釈すべきかという判断を保留とした場合、その場合でも次のことはまず確かであろう。それは最初の文で言われているのは、金貨で支払うように決められていた税が 10 アウレウスから 3.33 アウレウスへの減税が行われ、それはつまり地所の課税基礎額の3.33 % への減税が意図されていた、ということである。しかしながらこういった政策がどの範囲にまで使われたのかや、その実施の程度については非常に疑わしいことが多く、それは先に引用したヌミディアに関する箇所が示している通りである。特にこの政策は、実際に即して上記で簡単に説明した意味で考察した場合、それは課税対象物について実際上個々のものの価額の見積もりを課税される側の自己申告によって行おうとした試みであるが、それは貫徹されることはなかった。というのは、ディオクレティアヌス帝が制定した規則の中ではそのことは全く触れられていないからであり、そしてそのことと矛盾していないのは、ウルピアヌスが述べているように、この新しいやり方では平均的な土地の価額が長期に渡って保持されるということを前提としており、つまりは土地台帳に記載された土地という財産の状態を継続的に固定化することをおそらくは意図していたのである。ティオクレティアヌス帝の改革でも引き続きこういった考え方に結びつけられていたが、法的史料が示すように、次のような考え方は消失してしまった。それはつまり、法的には、全ての土地所有において、他の負荷も課されている者自身が 111)、土地税も課されるべきという考え方である。

111) 参照、例えばテオドシウス法 13 de senat[oribus] 6, 2, そこでは特に navucularii の財産の自由が定められている。

ディオクレティアヌス帝による土地税制度

ディオクレティアヌス帝による税制は、今さら論証するまでもなく、土地台帳を作成するというのと同じ試みから始っており、その土地台帳は土地への課税をその台帳に記載されているその土地の価額に対して何%かを掛けるという単純な税額決定法を可能にしていた。この目的のために新しい税制は juga ≪土地の生産力に比例して設定された単位となる地積≫と capita≪耕作者一人が決まった時間で耕作出来る面積≫という課税のための面積単位を作り出し、それぞれが同じ価額を持つようにした。この2つの caput [カピタティオ]と jugum [ユガティオ]は常に併用され完全に同じものとして使われ、そのために二つが全く同じ金額であったことについては事実上何の疑いも持ち得ない。しかしながらこの2つの課税用の面積単位がどのように作り出されたかは、難しい、完全に正しい答えを得ることがほとんど不可能な問題である。一方でこのことについてはっきりと述べている情報 112) が存在しており、それによると、ユガティオの場合はそれぞれの土地の等級に応じて異なった単位面積が測量で決められ、それぞれ等級毎の異なる単位面積がお互いに価額として等しいものとされた。≪例えばオリーブ畑の単位面積は小麦畑の単位面積より小さい、など。≫他方ではカピタティオについてはいくつかの所見が存在するが、それらはカピタティオを何らかの課税対象となり得る対象物と同一視することは考えにくいと思われる、といった説明をしている 113)。

112) モムゼンの Hermes III, 430 の中に翻訳として収録されている、いわゆるシリア・ローマ法律文書[syrisch-römischen Rechtsbuch] より。

113) 特に Eumenii gratiarum actio 11。≪EumeniusのPanegyrici Latini、ラテン語称賛演説集。≫

ここでほとんどユガティオとカピタティオの意味を無条件に同一視することから議論を始めたが、その場合には矛盾が生じ、それはかなり力ずくな方法でもない限り解決出来ないように思われる。もしかすると真相についての確からしいと思われる推測を次の場合にはすることが出来るかもしれない。それはディオクレティアヌス帝によって導入された課税方法について、それがどのような先行物から作られたのかということと、税制上の関係でその方法がどのような社会状態に対応させられていたに違いないか、ということを考えてみる場合である。

“jugum”という表現は「一人の一日分の仕事量」という意味で、共和政期と帝政期の早期に夫役の概念に結び付けられて登場して来ていたが、その表現は個々の耕地について、ある部分はその者が属するゲマインデに対して、別の部分はその土地の地主に対する関係で税[使用料]を課せられていた、ということである。lex coloniae Genetivae 114) ≪カエサルが作ったスペインの Genetiva Iuria の植民市法≫に示されているように、公的な賦課については、特別な原則によって規制された兵役義務は例外として、ローマ市民による植民市の初期の形態においては、その植民市の市民とその家族に対しては、手作業による夫役と牛馬を使った耕作の夫役が次のようなやり方で課せられていた。つまり1日の作業量に対して、同じく一人当たりの人員に対して、国家当局の要求に基づいての何らかの現物が固定量で課せられていたに違いない。植民市というのはいわば首都ローマのコピー都市でもあったので、こうした課税方式はローマでも全く異なるところなく実施されていた。ウルソの法律では≪前述の lex coloniae Genetivae の中の1章。ウルソは現代でのスペインのオスナであり、Genetiva Iuria が存在した場所≫――同じことがこの時代どこの植民市でも行われていたのであるが――一人当たりの一月の、そして一日の作業量当たりの、最大日数と最大時間がそれぞれ定められたのである 115)。

114) C. 98
115) 一人当たり月5日、一日あたり3時間。

家父はまたいずれにせよ、耕作能力がある場合には、自分の作業と、かつ家父の指示に従わなければならない成年の人員――[成年の]子供・孫達、奴隷――の作業をそういった夫役に割当て、そしてまた手仕事による夫役も行わせることになった。全く同様に大地主制において地主によって土地の使用料を設定された農民達も、彼らの作業能力に対する一定の割合で設定された夫役とかつまた手仕事による夫役について彼ら自身の家族と更に家族に従属する人員に対して義務付けられた 116)。

116) C.I.L,. VIII, 10570;参照、モムゼンの Hermes XV, p.385ff, 478ff。

ゲマインデが貨幣経済への移行を欲して、自然物による貢納の要求を[貨幣による]税としての支払い要求に置き換えを図った場合は、あるいはそれが必要不可欠であった場合は、何らかの必需品でそれが自然物の貢納では徴収され得ないものについては、それらを提供する[ための労働]義務を課すことで代替手段とし、その結果としてまず行われた可能性があるのは、次のようなやり方である。それは1日の作業量(jugum)と同じく一人当たりの人員(caput)当たりの義務を果たすために、ある一定額の現金支払いやその他の物の納付が行われるようになった、ということである。実際の所は、次のことは除外されていない。つまりローマにおいてもまた、この手の課税方式は一旦採用されたのであり、少なくともタルクィニウス王≪ローマの王政時代の最後の王。在位BC535~509年。圧制で民を苦しめたことで有名。≫が試みたような、課税方式で全ての市民が[働けない老人や子供も含めて]一人当たりで等しく課税された 117) という暗い圧制の残滓を同類のものとして思い起こさせるのである。

117) Dionysios 4, 43の確かに非常に混乱している箇所にて。また独立の未成年(孤児)と被後見者と寡婦についての特別な意味付けは、課税を成人のローマ市民の夫役義務と根本的に結び付けることによって説明される。

またそのような課税方式の変更は、かつて、つまり耕地ゲマインシャフトの成立の際に、常に考えられるものであったのであり、ケンススによって利益を生み出す能力があるとされた最古の対象物は、実際の所は荷物を運ばせるための牛馬など、車を引かせる牛馬など、そして奴隷、それらと並んでもちろん自由ではあるが暴力によって従属させられた市民達 118) である人間である。

118) また homo liber in mancipio [隷属状態の自由人]、つまり日雇い作業に貸し出された家の息子。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(48)P.268~271

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第48回です。ここの議論も非常に分かりにくく、日本語訳も何度か見直しています。ここから分かるのがポエニ戦争の後の北アフリカが様々な混乱を巻き起こすと同時に、新しい制度を産み出す母体ともなっているということで、ヴェーバーはグルントヘルシャフトというドイツ史用語を使用していますが、要するにラティフンディウムという大土地所有制度とコローヌスという小作人の発生をここでの混乱の中に起源を求めているように思います。まあ最終章を読まないとその辺はまだはっきりしませんが。
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ager privatus vectigalisque と ager stipendiariorum を区別するものは、前者は[一度契約したら]没収されることがない、ということである。それに対して後者を通常の賃借耕地から区別しているのは、所有についての期限が定められていないことと、そして一旦譲渡された土地の法的な地位の固定とそれによって監察官による賃貸し地としての管理下に置かれない、という2点で国家が課税対象とする他の土地一般から違っているということであり、更にはまた同様に耕作という本来の目的以外には全く使用出来ないということで、それは[抵当設定するといった]法律上の手段も含んでおり、またそれに関する訴訟も行うことが出来ない、ということである。そのことから私にはこの状況は次のように把握出来ると思われる。それはローマの国家に対しての解体された諸ゲマインデの位置に大地主[グルントヘル]が登場して来ている、ということであり――というのは多数の小区画の土地所有者に対する[まとめての]土地の譲渡においては、それらの者がシチリア島での例のように無条件に法的に賃借人として取り扱われた、ということは考え難く、――またこういった地域が本来であれば諸ゲマインデにされたであろうやり方と同じように、ある決まった継続的な税支払いを現金でかあるいは農作物、アフリカでは穀物で、行うということを引き受けることと引き替えに譲渡されたのであると。

以上のことによって譲渡された所有地はローマの領土として取り扱われたのであり、従ってそういった大土地所有制度[グルントヘルシャフト]での所有物については正規の法的手段による訴えを起すことは出来ず、そういった土地に対してはただ公的測量図に基づく行政上の処理だけが許されていたのであり、その処理については測量人達は controversia de territorio [領土についての争い]として知っており、第1章で詳しく述べたサルディーニャ島の Patukenser と Galienser ≪どちらもサルディーニャ島に住んでいた種族≫の間での土地の境界を巡る争いについてその語が使われているのを見て取ることが出来るが 103)、それは結局は公的測量図に記載された境界について、行政処分としての現物執行と土地の返還という結果につながったのである 104)。

103) C. I. L., X, 7852
104) この制度が実際の所、本質的な傾向として見た場合に際立って特徴的なことは、しばしば他の関連で引用して来たフロンティヌスの著作の次の部分(ラハマンの p. 53):
Inter res p[ublicas] et privatos non facile tales in Italia controversiae moventur, sed frequenter in provinciis, praecipue in Africa, ubi saltus non minores habent privati quam res p[ublicae] territoria: quin immo multis saltus longe maiores sunt territoriis: habent autem in saltibus privati non exiguum populum plebeium et vicos circa villam in modum munitionum. Tum r[es] p[ublicae] controversias de iure territorii solent mouere, quod aut indicere munera dicant oportere in ea parte soli, aut legere tironem ex vico, aut vecturas aut copias devehendas indicere eis locis quae loca res p[ublicae] adserere conantur. Eius modi lites non tantum cum privatis hominibus habent, sed ed plerumque cum Caesare, qui in provincia non exiguum possidet.
[イタリアにおいては公共の土地と個人の土地との間で、争いが容易に起きることはないが、しかし属州、特にアフリカではそれがしばしば発生する。そこでは[測量されていない]森林や放牧地が私有地として公共の領域よりも大きくなっている:いや実際にはそれどころか、多くの者にとってはその広大な森林や放牧地の方が公共の領域よりもはるかに大きい:しかしながらそういった私有の森林や放牧地には相当数の平民が住んでおり、またそういった平民の家の周りにはまるで砦を成しているかのように村落が形成されている。同様に諸ゲマインデは領域についての争いを起すことが良くある。それはある土地について、その一部だけがローマによって与えられて割当てられたとすべきだと宣告したり、村から徴兵したり、または輸送を行わせたりそのための多くの者を徴用すると宣告する場合であり、その土地を自分のものだと主張しようとする場所でそれらのことを行うのである。こういった土地に関する訴訟事は、個々の人間が所有している土地に関してだけでなく、多くの場合属州において少なからぬ土地を占有している皇帝との間でも起こる。]≪res publicae は通常は共和国であるローマのことであるが、ここでは文脈から、「諸ゲマインデ」、つまり元々その土地にあった地域集団、と解釈した。≫

同様に当然のこととして大土地所有制度[グルントヘルシャフト]の中でのその他の土地の権利に関することの調整はその大土地の地主の責務であったに違いなく、しかし常にそこから除外されるのは、また課税されている諸ゲマインデにおいては、当然のことながらそういった調整は属州総督の管轄であったということであり、それはローマ国家の利害に関わることが問題になっている場合や、あるいは関係者の請願に応じてそういった案件に関わることになったのである。そういった類いの土地所有について相続と売却が可能であったということは非常に疑わしく思える。複数の土地区画の一部を切離して売却することは、ローマの国家に対しては存在しなかった行為として見なされたが、それはその売却者が地主への税金支払いが出来なかったために拘禁された場合に限ってのことである。その結末がどうなったかは最終章にて取上げる。相続人への土地の所有権の移転はそれとは違って疑わしく思われるものではなかった;国家の側から見れば、税金さえきちんと支払ってもらえるのであれば、国家が行う調整の中身としては相続関係者の要請に基づいてそれを認可する、ということだけであった。おそらく可能であったと思われることは、売却にあたっては元々所有権の確認が必須だったということで、そこからおそらく生じたのは後の永代小作制[Emphyteuse]においての領主への、公有地の優先買取権を行使しなかった場合の手数料の支払いである。というのは後の時代には次のことが見出されるからである。それはゲマインデの団体には明らかに許されなかった元老院によるアフリカにおいての大規模な土地所有について、それが封土を与えられた者の名簿に基づいて、それぞれの者に対して土地が与えられており、その中では該当する地主に帰属する権利として、特に非定期的な市(いち)の開催権が記録されており 105)、そのことから考えて自由な売却が許されていた可能性は、全体のこの制度のその他の部分の状況から見て、ほとんど無かった、と言えよう。

105) C. I. L., VIII, 270 のBeguensis ≪不明、おそらく北アフリカの地名≫の放牧地での市(いち)について、参照:ヴィルマンス≪Gustav Wilmanns, 1845 ~ 1878年、アフリカの碑文の研究者≫、Ephemeris Epigraphica, II, p. 278。

その他の点では、そういった名簿は全ての土地割当てに対して公式の測量図に添付すべきとされた公文書と言える。ここにおいてこの制度で生み出された土地所有者の全体像を一言で言えば、これまで記述した理解の仕方が正しければ、納税義務者であり、ここでは従って大規模な永代貸借料の支払い者達、それについては ager privatus vectigalisque の制度においての実質的な土地の所有者であったろうと推定して来たのであるが、その者達に類似した者達であり、しかしながらただ法的には所有者としてそこまではっきりと確立されたカテゴリーではなかった、ということである。次のことは特徴的である。つまり、この手の小規模な土地の所有者について、それが属州の元々の住民であろうとローマ市民であろうと、同じく取り消し可能な賃借人として扱うことは、一方では大規模な地主は国籍によって区別されていたのであるが、両方を小規模地主としてまとめて考えた方がよりよく理解出来る、ということである。この制度についての結論については、つまりここで主張して来た小作農の個人的な権利設定のための課税義務付き土地所有という法的概念の形成があったに違いなく、かつ実際にそうであったと言うことであるが、それについては最終章で論じる。―帝政期の時の経過の中で、都市ゲマインデにおける属州の土地の大部分は、そして取り分け植民市においても、組織化が進んだのである。―

課税業務においてのゲマインデ自治のその後の運命

これまでの詳述の後で、ローマでの元首制≪初代皇帝アウグストゥスは自身をプリンケプス=第一人者と呼んで公式には皇帝とは称さなかった。このため帝政ではなく元首制と呼ぶ場合がある。≫の始まりまでの時代について、次のことが確からしいのであれば、即ち一般論として、そして例えばアフリカの属州での特別な事情から見て、発展傾向として属州のゲマインデの固定化とそれに伴った税収入の分配においての(相対的な)自治が、そのゲマインデ独自の税と同様に国税においても進行したということであるが、その場合でも帝政期が更に進行するにつれて、本質的には全く逆の発展が始まっていた。例えばアジア属州では疑いなくカエサル以降は課税地であった一方で、それ故に諸ゲマインデ自身による税徴収が復活していると、ヒュギヌスは何度も言及して来たある土地税についての箇所である p.204 で述べているが、そこでは不正な占有の結果として地主達の間での訴訟が起きていたらしいのであるが、それもヒュギヌスは土地の測量方法に関連付けているのであり、そこから分かるのはここにおいてはローマ国家による土地への課税がいずれにせよ相当程度までその時点で成立していたに違いない、ということである。概してヒュギヌスは ager arcifinius vectigalis ≪未測量であるが使用料を課せられた土地≫について語っており、そのカテゴリーがローマの測量上の分類に追加されたのであるが、それが追加されたのは、それが全くもって常に繰り返されるような現象として見て取れるものであったからに違いない。アウグストゥスによる測量もまた、土地税についての規則に拠ったという以外の意味は全く無かったのである。ごくわずかな文献資料が、それは土地税の成立に関したものであるが、どういうことかというと、税の対象である土地を、ある財産の集合に対して一定の額を課税する中での一つの構成要素として関係付けるのではなく、それ自体に対して課税するのであり、それはカラカラ帝≪カラカラ帝は属州民にもローマの市民権を大盤振る舞いした。≫よりも先の時代に成立したのであるが、今やそれは例外なく植民市に対して適用されたのである。まさにその例であるのが付図1として添付したアラウシオの碑文[地図]であり、更には新カルタゴの碑文もそうであり 106)、同様にシリアのカイサリア≪現在のイスラエルの領土内にあったカエサルにちなむ植民市≫ 107) に関しての学説彙纂の de censibus のタイトルの箇所もそうである。

106) 注釈57参照。
107) Divus Vespasianus Caesarienses colonos fecit, non adiecto, ut et juris Italici essent, sed tributum bis remisit capitis; sed Divus Titus etiam solum immunem factum interpretatus est. D. 8, § 7 de cens. 50, 15. [神君ウェスパシアヌス帝はカイサリアを植民市としたが、しかしイタリア権≪ローマ以外の都市に与えられた特権で、免税と住民へのローマ市民権の授与が行われた。≫は与えなかった。しかし住民に対して人頭税は免除した;しかし神君ティトゥス帝はまた、そこの土地も免税になったと解釈した。]

更にはイタリア権と土地への非課税が法的な要件として結びつけられていたのであれば、それはある土地がクィリタリウム所有権の法的有効性についての要件を満たしているのと同じことであったが、そしてそれらが実際に導入されたのであれば、更にはこの権利がまた疑いなく圧倒的に多くの事例で植民市に対して与えられたのだとしたら、その場合は次のことが想定出来よう。つまり地所の分配と測量が、それは間違いなく(第2章)帝政期における植民市での変化の実際的な中身となっていたが、具体的な土地区画に対しての課税額の固定化とまたはパンノニアでの状況からの類推としてある決まった土地の品質等級毎の1ユゲラ当たりの[固定]税額と、更には土地税に関しての国家の徴税義務の制限、それらと結びつけられていた。次のことはまた目的に適合していた:ローマの市民は[彼らにとって都合が良かったという意味で]より良き帝政期には、理論的なローマ市民の税として考えた場合、より一層直接税へと関係付けられたのであり、ある市民が土地を所有していて、そしてその土地に対して土地税が課せられていた場合は、あるいはその市民の土地に小作人が居た場合は 108) 、その市民は人頭税支払いの義務もあり、小作人への人頭税は地主としてその市民が立て替えて払っていた。

108) こうしたケースはアフリカにおいて起こったことであったに違いない、そこでは第三次ポエニ戦役の後に人頭税が一般的に課せられるようになっており、そうしたケースであった。

――その他の点についてはこうした状況がどのように発展したかについては知られていることが少なく、ただ皇帝直轄の属州に対しての属州税[provinciae tributarie]についての記述から推測することが出来るのは、そこでは土地に対しての課税の規制が、パンノニアに見られるような方向に向かって、非常な速度で進んでいた、ということである。個々の課税の実情が非常に多様であったことはしかし、それは実際に存在していた課税システムからの類推で結論付けられるように、ずっと継続してそうであったに違いないのであり、そしてディオクレティアヌス帝≪在位284~305年。四分割統治を初めて採用するなどの改革を進め、「3世紀の危機」という状況をひとまず乗り越えた。≫による改革がそれに続いてのであり、それについては新テオドシウス法の 23 が述べている通りであるが、そこではヌミディアに対する課税の規制において様々に異なった課税方法を統合したが、しかしそれでもお互いに異なる3種類の方式を残した:固定額の現金による納税、annona ≪一年毎の穀物等の収穫高に応じた課税≫と capitatio ≪その土地で耕作する農民の一人当たりいくらで行う課税≫の3種である。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(47)P.264~267

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第47回です。
ここでは、グラックス兄弟の改革の中心となるLex agraria (土地改革法)が規定している、元々カルタゴの領地だった土地がどのように法的に処理されたかについての、かなり詳細な議論が続きます。
注意していただきたいのは、グラックス兄弟の改革はご承知のように世襲貴族と元老院の強い反対を受け、結局は失敗しているだけでなく、土地制度を巡っての大混乱をもたらした、ということで、それが最終的に収束するのはカエサルとアウグストスによる帝政期の開始の時期になります。またよくこの「土地改革法」の目的が、没落した独立農民の救済と言われますが、実際の法文を見れば分かるように、極めて色々なケースについての取り決めが含まれており、決してそういう単一目的のものではなかったことに注意すべきでしょう。
これで全体の2/3を訳し終わりました。
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アジア属州≪アナトリア半島(いわゆる小アジア)西部に存在した元老院管轄の属州≫における1/10税地

アジア属州における同様の発展はシチリアにおいてよりも早く完成したように見える。アジア属州はまた、[グラックス兄弟の]センプロニウス法によれば1/10税の対象地とされ 93)、更にはしかしここではこういった税の形式はより以前からあったの他の形式の税より有利なものとして位置付けられるように見え、しかしその以前の税の個々の事例については知られておらず、王の恣意的な課税権に基づいて導入されたものであったように思われる。Vectigal による賃貸借にはローマの騎士階級≪世襲貴族と平民の中間の階層で商業などに従事した≫のローマ国家への利害関心から、ガイウス・グラックス≪弟≫の同じ法が使われ、それは実際的にはただ属州自身による諸ゲマインデ向け及び個人向けの土地の、競売においての競争を激化させた、という意味しか持っていなかった。その場合キケロ(弟クイントゥスへの書簡集、1,11 §33)がアジア属州の諸ゲマインデについて次のように言っているのであれば:nomen autem publicani aspernari non possunt, qui pendere ipsi vectigal sine publicano non potuerint, quod iis aequaliter Sulla descripserat,[しかし公有地貸借人という名前(立場)を拒絶することは出来ない。何故ならばその公有地貸借人という契約無しには、地代を払って公有地を借りて耕作することが出来なかったからであり、それはそういった者達に対してスッラが公平に制度化したものである]、そうであればここで言及されているのはほぼ次のことと同じで、つまり属州となった地域から得た[領土という]収入を個々のゲマインデに対してその元々の大きさに基づいて、元の面積の単位面積あたりに平均で決めた地代付きで改めて割当てるというやり方について言及されているのであり、つまり諸ゲマインデが決まった額の賃借料を支払うことを承諾し、その支払い[による公有地貸借契約]がその者達に対して認められたのである。しかしこの試みは、キケロの引用文を見る限りでは失敗したように思える。何故ならば後の時代になってもアジア属州に公有地貸借人が存在しているが、その者達については元々の所有状態を回復するということと関連付けられる必然性はもちろん無かったからである;いずれにせよ公有地の貸借料付き貸し出しは、地域毎に徐々に導入されたように思われる(キケロ フラックス弁護 37, 91)。というのもシチリアと同じくここでも固定額の使用料への移行が行われており、それもBC48年のカエサルによってである。(アッピアノス、1.1. 5,4)。

93) アッピアノス 内乱記 5,4

キケロによる有名な記述(Verr. III,6,12 94))によれば、次のような印象を得ることが出来る。つまりこうした状態は、それはカエサルがシチリアとアジア属州で構築したもののように見えるのであるが、他の属州でもその設立当初から存在していたのであり、それ故に属州全般で収穫高とは連動していない固定額の使用料の支払いという形で、諸ゲマインデ自身に割当てられた税というものが、属州の土地に対しての唯一の課税のやり方だったのである。

94) Ceteris impositum vectigal est certum, quod stipendiarium dicitur, ut Hispaniae et plerisque Poenorum.
[更には(シチリアとアジア属州以外の属州でも)課される土地使用料は固定額であり、その税はヒスパニア(スペイン)でも、また大部分のアフリカでも課された。]

しかし以上のような結論は少し早まったものであるかもしれない。例えばサルデーニャ島では反対の例が知られている 95)。

95) リヴィウス、36,2,13。同様にスペインにおいても1/10税地が存在しており、C.I.L.,II,1428 の碑文によれば、皇帝クラウディウス≪在AD41~54年≫が≪ケンススを行った≫監察官としてAD49年に記録している。≪実際のケンスス自体はAD48年。≫

しかしこのことは次のように解釈することが出来るだろう。つまり帝政期の始まりまでは、課税の発展傾向は次の方向に向かっていたということで、それはその属州に従属する諸ゲマインデに対して、税徴収に関しての自治権を与えそしてその税徴収の総額を固定化しようとすることである。≪面倒な個々の税徴収は諸ゲマインデに任せ、ローマ国家としてはその総額だけをもらえれば良かった。≫それについての例としてはアウグストゥスがガリアに対しての基本法の制定時に、そういった土地の年当たりの使用料(税)をその属州としての総額4千万セスティルティウス≪アウグストゥスが大型化した黄銅貨で 2+1/2 アエスに相当≫で導入しようとした際に 96)、個々の納税義務者の集団を分類する作業はローマの行政当局は全く関与しておらず、その分類はただ諸ゲマインデと諸種族に分ける、ということだけが行われていた可能性がある。≪参考:アウグストゥスは共和政期に属州長官となったものが税徴収のルートに入ることで中間で不当な利益(ピンハネ)を得ていたのを直接ローマに納入させるようにしている。≫

96) エウトロピウス、ローマ史概説、6.17。スエトン、De vita Caesarum, 25。

同様により確かなこととしてもちろん次のことは妥当であろう。つまりローマの国家の行政当局は税徴収に関する管理権を放棄したなどということはまったく無く、行政の根本原則が変わっていくのに合わせて、税徴収に関する自治権を取り上げることになった、ということであり、それについては既に見て来たし、また後述の箇所でも見ることになる。

アフリカにおける税の現金納入義務者

キケロが述べている箇所に拠れば、固定額の現金による税が課されていた属州に含まれるのは、大部分のアフリカ属州(”plerique Poenorum”)≪Ponenorum = フェニキアの、の意味は元々カルタゴを含めて北アフリカでフェニキア人が開いた都市、地域ということ≫もまたそうであった。アフリカ属州において知られていることとしては、そこにおいてポエニ戦争の後に7つの civitates liberae et immunes [自由でかつ免税の都市]が存在していたということで、それはウティカ≪Utica、現代のチェニジア、アフリカでもっとも古いローマの植民市≫、ハドルメトゥム≪Hadrumetum、チェニジアの港湾都市スースの古称≫、タプスス≪Thapsus、現代のチェニジアのベカルタの近くの港湾都市≫、レプティス≪Leptis minor (Parva)、現代のチェニジアのレムタ≫、アチョラ≪AchollaまたはAchilla、Achulla、現代のチェニジア東岸の港湾都市≫、ウセリス≪Usellus または Uselis、Usellis、サルディーニャ島西部の都市≫とテウダリス≪Theudalis または Theudali、チェニジアにあったローマの植民市≫の7市である。これらの都市は税支払いが完全に免除されていた。それに対してその他の都市ゲマインデはアフリカでは存在せず、全ての他の諸ゲマインデ団体はポエニ戦争の後に解体させられた 97)。

97) アッピアノス、ポエニ戦役、135:”κ α θ ε λ ε ῖ ν  ἁ π ά σ α ς”[徹底的に破壊する]≪該当箇所のChatGPT4o訳:彼ら(元老院の使節)は、カルタゴでまだ残っていたものが何であれ、スキピオの指揮のもと徹底的に破壊することを決定した。そして、誰にもカルタゴに居住することを禁じた。その際、特にビュルサや「メガラ」と呼ばれる場所に住む者には呪いをかけた。ただし、土地を訪れることまでは禁じなかった。(但しスキピオがカルタゴの農地全てに塩を撒いて二度と作物が獲れないようにした、という伝説は有名であるが、それを証拠付ける資料は戦争後すぐのものは残っておらず、後世になって言われたこと。そもそもグラックス兄弟がそのすぐ後にカルタゴに入植を進めたというのと矛盾する。)≫

アフリカにおいて国家に直接対抗する位置に置かれたのは、[もはやゲマインデや都市ではなく]ただ個々の人間集団であった。そういった人間集団の一部を成すのがグラックス兄弟の改革によって実現したカルタゴへの植民者であり、その者達は土地改革法によって viritane Assignation [小規模な非定期的な土地割り当て]によってその地に移住した(モムゼン C.I.L. I. p.97):その者達は税を免除されていた。

また免税の耕地の別の例として確かなものは、スキピオによってマシニッサ≪Masinissa、BC238~BC148年、第二次ポエニ戦役でローマに協力した功績でスミディア王となった。≫の後継者達≪マシニッサの死後、ヌミディアは彼の3人の息子であるミキプサ、グルッサ、マスタナベルがそれぞれ支配する王国に分割された≫に与えられた耕地かあるいはカルタゴからの投降者に対して割当てられた耕地であり、そしてまたローマ人の居留地であって、イタリア半島でも例があるように、公有地から免税のゲマインデに変更されたものである 98)。

98) 土地改革法の Z. 79. 80. 81。”perfugae”[(カルタゴ軍からの)脱走兵]の国法的な位置付けについては問題が多いように思われる。可能と思われるのは、モムゼンが推定しているように、その者達は自分達のゲマインデを作った、ということである。私にとってより確からしいと思えるのは、大土地所有者[(後の)ラティフンディウムの所有者]と関連があり、その者達は小作人を伴ってかつグーツヘル≪中世ドイツでの大地主≫として歴史に登場してくるのであるが、stipendiarii[現金による納税義務者](後述の文を参照)と同じであり、ただ税は免除されてその土地に留まっていた、ということである。そしてその者達に認められていた土地の所有状態とは、これもまたモムゼンが推定しているように、公有地の所有者ではない。

全てのこの種の所有状態は法的には取り消されることがあるものであり;法によっていつでも行政当局が意のままに処理することが可能だったのであり、そのことから既に次の状況が生じていた。それは土地改革法の規定がこういったカテゴリーの土地の所有者に対する補償について取り決めていたということであり、土地割当てまたは土地売却の結果としてそういった土地の所有権は部分的に取上げられた場合があり、――しかしながらそういった補償が法的に規定されていたという事実は、次のことを示している。つまりその所有状態は少なくとも行政法的には保証されており、それ故に法に基づかないで単なる行政処分によってその所有が否定されるということは許されていなかったのである 99)。

99) このことは私の考えでは、その権利状態は次のような者のそれと同じであり、それについて土地改革法が次の箇所で言及している(Z. 91):Quibuscum tran]sactum est, utei bona, quae habuisent, agrumque, quei eis publice adsignatus esset, haberent [possiderent fruerentur, eisquantus] modus agri de eo agro, quei eis publice [datus adsign]atus fuit, publice venieit, tantundem modum [agri de eo agro, quei publicus populi Romani in Africa est, quei ager publice non venieit, … magistratus commutato.
[その者達について次のことが行われた。その者達が持つ財産、及びその者達に公的に与えられ割当てられた土地を所有、占有、利用することが出来る、とされた。その者達に公的に与えられ割当てられた土地が公的に売却される場合は、その土地と同じ面積の別の土地を、ローマ人民のアフリカにおける公有地の中で公的にまだ売却されていない土地を交換として土地売却担当官が与えるものとする。
モムゼンが推定しているのは、ここではその者達との間で課税方法について協議され、取り決めがされた、そういう者達について扱っているのであるということである。私が信じたいのは、ここでは(納税義務のある)公有地の占有人達を扱っていて、その者達について行政の手法においてその所有権が整備され、その結果その者達は納税義務という点において、カルタゴ軍からの脱走兵と同等に扱われたのであるということである。その者達は stipendiarii (後述の文参照)ではない。何故ならばその者達の土地はローマ人民の公有地だからである。土地改革法の Z. 92/ 93 は通常の占有について述べている。そういった土地について公有地の貸借管理人は[その占有を]法的に無効にすることが出来た。監察官による公有地の賃貸しと不安定な公有地の占有への認可が根本的に全く同じことであるのは、ここでは極めて明白である。

納税義務のある所有形態として我々は先の箇所で ager privatus vectigalisque の永代貸借人と取り消し可能な ager publicus の賃借人について見て来た。しかしながら更に別のカテゴリー 100) として存在するのが “stipendiarii” [現金による土地への税の納入を義務付けられた者、そういう土地の占有者]である。

100) しかしながら注釈 99 も参照すること。公共の放牧地についてはここでは扱わない、何故ならばここでは単に色々な所有状態について論じているからである。

この現金による納税を義務付けられた諸ゲマインデについて非常にしばしば耳にする一方で、土地改革法においての表現はゲマインデのことなど何も言っておらず、現金納税を義務付けられた諸個人の土地所有についてのみ言及している 101)。

101) 土地改革法の Z. 77: II]vir, quei ex h. l. factus creatusve erit, is in diebus CL proxsumeis quibus factus creatusve erit, facito, quan[do Xvirei, quei ex] lege Livia factei createive sunt fueruntve, eis hominibus agrum in Africa dederunt adsignaveruntve, quos 78. stipendium || [pro eo agro populo Romano pendere oportet, sei quid eius agri ex h. l. ceivis Romanei esse oportet oportebitve, … de agro, quei publicus populi Romanei in Africa est, tantundem, quantum de agro stipendiario ex h. 1. ceivis] Romanei esse oportet oportebitve, is stipendiarieis det adsignetve idque in formas publicas facito ute[i referatur i(ta) u(tei) e r(e) p(ublica) f(ide)]q(ue) e(i) e(sse) v(idebitur).
[2人委員会は、この法律によって決められ任命されたのであるが、その委員会が決められ任命されてから150日以内に次のことを行わなければならない、つまりリウィウス法≪Lex Livia de coloniis deducendis(植民市建設についてのリウィウス法)、BC122年≫によって決定・任命されているかされていた10人委員会が、アフリカにおいて土地を与え割当てた者達について、その者達の土地がこの法律によってローマの人民のものとされるか、あるいはされていた場合は、その土地について税金をローマの人民に対して支払うことを義務付け、…≪もしその者達の土地が何らかの理由で没収された場合は≫ その土地がアフリカにあるローマ人民の公有地である場合、その税金分に相当する大きさの土地医をそれらの納税義務者に与え割当て、そして公共の測量図に記録し、公益と信義の観点から適切に実施されるようにしなかればならない。]

こういった所有関係についての法的な所有権を確認しようとした場合、まず最初に受ける印象は、この税金付きの土地の仕組みが、公有地売却担当官による公有地賃貸しのために使われる公有地の利用促進を目的として構築されたのではない、ということである。私がそこから考えたのは、この種の課税は一般論として公有地に対する使用料ではなく、純粋な土地税として理解すべきであろう、ということである。他面、次のことは疑いようもなく確かである。つまりこの種の税金付きの土地の法律上の所有権がローマ人民に属している、と見なし得る、ということである。というのも土地改革法で規定されているのは、この種の土地については部分的には売却と割当てによって処理されるということで、そのためこの土地の所有状態については[永代貸借が多くの場合認められていた]ager privatus vectigalisque とは反対に、いつでも取り消されることが可能だった、ということであり、そこから結果として出て来たことは、まず第一に、土地改革法の規定によればこの種の耕地については公的な測量図を作成して登録しなければならないという義務である。補足的に書かれている”utei e re publica fideque ei esse videbitur” [公益と信義の観点から]という表現から考えられることは、測量図の作成については十分な慎重さをもって行う必要性があったであろう、ということである。実際には、通常の測量方法であるケントゥリアを使ったものはこの場合は採用されていなかった。先の箇所(第1章)で既に測量の方法については論じて来たが、ここで言及されている測量の方式が per extremitatem mensura comprehendere [全面積が測量されているが区画に分けられておらず、その境界が自然物{川など}による土地]であり 102)、その場合はより広範囲での耕地の法的な定義付けがおそらくは地図上に記録されている可能性がある。

102) フロンティヌス p. 5, 6 : eadem ratione et privatorum agrorum aguntur. [同じ方法で個人所有の土地の測量も行われる。]

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(46)P.260~263

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第46回です。
ここでは属州、つまり主に戦争による勝利によってローマの領土になった場所でどのように土地が管理されたかのかなり細かい議論が続きます。
注意していただきたいのは、ローマは属州に対してやらずぶったくり的な搾取は決して行っておらず、属州側からすれば単に1/10税を払うだけで自分達の安全はローマの軍隊が守ってくれ、道路や水道などのインフラ整備もローマがやりかつ自由なビジネスも出来たということで、こういった寛容な政策が占領した土地のローマへの同化を容易にしたということです。
一旦ローマの土地となったものも、以下に詳論されているように、実質的には諸ゲマインデの所有に戻っています。
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後者の区別の法的に不安定な位置付けは、その表現の中に明確に現れている。一方では農民の間で、他方では土地所有者と公有地貸借人との間で、法的な位置付けとしてその2つの間隙を橋渡しするような中間連結物は存在していなかった。

公有地ではない属州の土地

ここまで公有地とそれに倣った土地においての所有状態の法的形式について我々は見て来たのであるが、そうであれば次に我々は属州の土地においての同様な部分へと目を転ずることとするが、その部分はまたここでも土地の譲渡形態と私権的関係の間に因果関係が成立しているかどうかを調査するための属州の特別な性格となっているのである。そのような属州の土地は狭義の公有地、つまり ager publicus ではない。何故ならばその種の土地は[ager publicus ではないものとして]イタリアにも存在していたからである。他方でははっきりした契約による売買に基づく土地や、属州の総督の行政方針によって認可された租税免除の諸ゲマインデの土地もまたそういった類の土地には属しておらず、属州の土地の内そういった部分として見なすことが出来るのは、ローマの国家主権がそれらの土地を当然の自分達の土地として権利を主張し、しかしその場合でもその領域が ager publicus の根本原則に従った土地として利用されないか、あるいはそのようなものとしてローマの官吏によってローマの所有形態に沿った形では与えられていなかったものである。ここで消去法的に、かつまた不正確に描写された制度をいかに肯定的に理解すべきかということは、次に挙げるような属州についてその実態を一瞥することが必要で、そうした属州とはそれらが共和政期にどのように設立されたかについて多少は情報が残されている、シチリア、小アジアとアフリカである。

シチリアにおける1/10税地[Zehntland]

シチリアにおいては 82)、一部のゲマインデは租税を免除され、また一般的に言ってローマの行政権力が直接そこに及ぶことから免れていた。シチリアでの他の領域で戦争≪主に第一次ポエニ戦争≫によってローマのものとなった諸都市は、その領土に関する所有権を失い、その土地はローマによって没収され、ager publicus となり、監察官によって何らかの形で使用料を課され、それについては上述の箇所で見て来た通りである。その場合にそうした耕地が改めて測量されたかどうかは、つまりはカンパーニャ地方の土地の場合のようにであるが、何も知られていない。しかしフロンティヌスの arva publica [公有の耕地]についての注記がその他の場合を説明しているかもしれない。

82) 次のことは自明である。つまり属州に関する事実については、キケロのウェレス弾劾演説が決定的な文献情報であり、しかしそれはただここで取り扱っている問題に関係する箇所を検討する場合のみである。

いずれにせよしかしながら成立していたのは、それをこれから見て行く訳だが、この種の耕地についての何らかの統一的な所有権で、それは国家から土地を借りている者のものとしての、期限付きの所有権である。古くからの住民が元来はその多くが土地の賃借人であったということは、この辺りの事情を何ら変えることはない。また個々の土地区画の権利に関しての裁判権もまた、それが必要である限りにおいて、ローマの行政当局の手中にあった。

第三のカテゴリーの土地は、ローマに没収されなかったものの、非課税のままとされることもなかった領域である。まったく確かなのは、ローマ人がここではまた理論上は土地の所有権を書き換えて自分達のものにしたのではなく、それまでの土地の主人の、つまりシラクサのヒエロン王の所有権についてそれをそのまま継承したように思われる、ということである。特にその中でもローマ人がヒエロン王から受け取ったものは、王の租税に関する規定、つまりいわゆる lex Hieronica 83)である。

83) 参照:デーゲンコルプ≪Karl Heinrich Degenkolb、1832~1909年、ドイツの法学者≫、Die lex Hieronica、ベルリン、1861年;ペルニーチェ、Parerga、Z.f.R.G.,Rom. V, p.62f。

ヒエロン王の租税規定はまた、既に十分に検証されているように、王の1/10税に基礎を置いている。個々のゲマインデではそれぞれの地区の1/10税を課される農民の人数を毎年確認することになっており、そしてそのリストを公的に閲覧出来るようにしていた(Verr. acc の 3, 120)。農民の側からは、この目的のために使われる土地の面積のユゲラ数(同一書の53)と蒔いた種子[の種類](同一書 102)を申告することになっていた。次に一定の収穫が見込まれるシラクサ 84) のゲマインデ毎の領域が属州総督の名前で競売方式によって落札者に貸し出され、それについては見込みの収穫の一定割り合いの量を貢納し、また収穫が見込みよりも減った場合でも同じ量の貢納義務を負うリスクを受け入れるという条件付きであった。

84) キケロ、Verr III, 33, 77;III, 44, 104; III, 64, 149。

収穫に際して1/10税を徴収する権利のある者は、その耕地での収穫の1/10を取ることが出来、穀物を収穫に先立って受け取ることは許されていなかった。しかし事実上は一般的には収穫量の1/10が徴収されたのではなく、1/10税の義務を負う賃借人は個々の1/10税の徴収権利者と、収穫が予定より少なくなった場合にも変動しない一定の額の納付について取り決めていた。

法的な所有権

この手続きにおいて行政法的に本質的なことは、農民と1/10税を課された土地区画との関係が未確定のままにされた、ということである;1/10税を徴収する者は、その年にその土地を耕作する者に対して、その者がその土地の所有者であるか、あるいはある個人またはある自治体からその土地を賃借している者であるか、ということにはまったく無関心であった 85)。

85) Verr. III, 8, 20にて。

こういった私法的な関係についての裁判権は、その所有の権利についての基準の設定と同様に、それ故にそれぞれの自治体の手中に委ねられていた 86)。

86) Verr. II, 13, 32にて。

他方では所有権を回復しようとする者[Rekuperatoren]による訴訟が起きており、それは次の者達の組み合わせによって(ここについては十分な情報はないが、例えば以下のように)、つまり2つの利害集団、つまり[土地の]販売人と農民という、1/10税に関係する者達を≪原告と被告として≫ペアにして、しかし議事取り仕切りはローマの官吏の元で、1/10税の義務を負う者とその徴収の権利を持つ者との間で発生した争点について、決定が為された 87)。

87) デーゲンコルプの前掲書の既引用部参照。

――次のことは明らかである。つまりこの2つの利害集団の衝突が、それぞれの特別な観点において決定的な争いが避けられなかった、ということであり、というのも所有権回復訴訟においては納税義務者についての問題は、しばしば土地区画そのものへの権利の問題から分けて扱うことが不可能だったのであり、つまりは例えば業務上の犯罪が刑事訴訟案件として扱われる場合があるのと同様に 88)、取り扱われた、ということである。

88) 参照:Verr. III, 22, 55 にて。

どのようにしてこのような利害対立の関係が解決されたのかについては知られておらず 89)、しかしいずれにせよ我々がここで見てとることが出来るのは、ゲマインデの自治と国家による直接の課税を一つのものに統合しようとする試みの例であり、そしてこのような異なる考え方を混ぜて一つのものにするということは、属州における土地区画の権利状態を、統一された観点で遡及して研究する上での本質的な部分となっているのである。

89) 先に引用した箇所が示す所によれば、根本的な解決は出来ていなかったように見える。

一方では国家の個々の土地区画に対しての直接的な関係で、それはより後の時代に使われた課税地を意味する別の表現である praedium stipendiarium が既に当時使われ始めていたかのように思わせるのであるが、他方ではしかし諸ゲマインデが自治を望んだこと、つまりは[ローマ市民以外の]の外国人としての権利の維持であるが、この双方が属州における土地所有の権利状態を曖昧にしていることは否定できない。既に言及したケンススは形の上では国家による地方自治体へのケンススであったが、しかしそれは実質的にはその属州で支配的なゲマインデの実態を調べる属州によるケンススと言えるものであった。というのも属州総督側からの監査は、当然のこととして国家による課税がされている土地の場合でも無しで済ますことは出来なかったからであり、キケロが注記しているのは、この監督権に基づいて属州総督は事実上徴税簿の内容を把握していたのであり(Verr. acc. のII, 53, 131; II, 55, 138 にて)、そしてこのことは総督が土地所有者の利害を自分の管理下に置くことをそれだけ容易にしたのである。しかしその場合でも諸ゲマインデはまた自分達自身の必要物を調達するために土地台帳も必要としたのであり、それは間接税≪関税、通行税など≫とゲマインデの財産からの収益では十分ではない場合においてであるが、その場合次のことを認めるのは難しいであろう。それはその土地台帳がローマが自身の公課の目的で使っていたものとは別のものであるということである。キケロによる個々のケースの説明もまた、その2つの土地台帳が同一のものであったことを裏付けている(Verr. acc. III, 42, 100 にて)。

もちろんこういった関係は本質において人為的に作り出されたものであり、後の帝政期においても再度繰り返されている:この土地という領域におけるゲマインデの自治は形の上だけで成立していたものであり、その実質的な中身は何もなかった 90)。こういった状態についてはここではしかし保留とし、また別の所で扱うこととしたい。

90) 確かなこととしてこうした手続きは u.a.c.548年≪BC204年≫[の第二次ポエニ戦争の時]にローマに対して反乱を起こした 12 のラテン植民市に対して行われたものと同様のものであった。リヴィウスの 39, 15 で述べられているように、その 12 の植民市に対してその財産[の金銭換算額]1000に対して1の割合いの継続的な税が新たに課せられ、また次のように規定された:censumque in iis coloniis agi ex formula ab Romanis censoribus data [これらの植民市においてローマの監察官によって与えられた形式に基づいてケンススが実施されるべきである]、この句が意味するのは植民市がローマの一般的なケンススの形式におってではなく、ローマとその植民市の関係に合わせた、ローマの監察官側ら支給される特別の規則に従って評価されたということで、それはシチリアの諸都市がローマの側から定められた形式、つまり lex Hieronica によって評価されたのと全く同じである。元々そこの住民であった監察官達は、誓約下で彼らが実施したケンススの調査結果をローマに対して報告することになっていた。それに対してのある種の監査は法的に認められていたに違いない。

諸ゲマインデは民衆からの耐え難い圧力と属州総督の恣意に対抗して次のやり方で自衛しようとした。それは諸ゲマインデ自身が自分達の領域において競売に付された公有地を競り落としたり、あるいは最高価格を付けた入札者からその土地を買い取ることである 91)。

91) Ver. III,33,77; III, 39, 88; III, 42, 99 等にて。

これらのことが実際に起きたことだとしたら、諸ゲマインデは当該の年について、まるで彼ら自身が収穫物の内の固定の割合の貢納の義務を負っていて、かつそれは更に別の者に再割当てして負担させることについて正当な権利を持っているかのように振る舞うことを意図していたと言える。このようなケースバイケースで起きていたようなやり方は次の段階では――それも遅くともカエサルによって――継続的に行われるように変わって行ったのであり、それは現物貢納から現金地代へと変わったのと時期を同じくしていた 92)。

92) プリニウス、H. N. III, 91。

というのはこの変化した形が、より後の時代におけるシチリアの諸ゲマインデの状態となったからである。これによってその地方の土地の権利がより後の時代まで保証されることになり、実際の所シチリアにおけるその地方での土地の権利、例えば jus protimiseos [買占め権]の形で中世に入っても残っていた。≪全集の注は jus protimiseos はイタリア半島の制度が伝わったもので、シチリア島固有の制度ではないとしている。≫

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(45)P.256~259

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第45回です。ここではローマ法のvectigalを巡ってのかなり専門的な議論が続き難解です。下記の訳は現時点での私の理解ですが、まだまだこれから見直す必要があるかもしれません。
2024年の日本語訳公開はこれで終了です。次回は年明けになります。
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そういった言い回しはよりむしろ次のことを意味しているのに等しい。つまりゲマインデの所有権の主張を、現物の土地の押収という形でか、あるいは土地への vectigal [地代、税、利子]を課する形で行うことが出来る、ということである。vectigal は公的な所有物を実質的に売却する上でのもっとも分かりやすい形式である。ある、既に vectigal が課されている fundus をゲマインデに対して遺贈することは、その有効性が疑わしいものとされた。何故ならばそういった土地は既にムニキピウムに属するものとされていたからであり(D. 71 §5, 6 de legat[is] I.30)、しかし更にはまた次のことも示唆されていた:ある植民市において水道橋の設置が必要となった場合は、その植民市の規約で決められていることとして、土地の強制収用権がその植民市自身(たとえば植民市ウル≪現スペインのオスナ≫)に帰属し、モムゼンが妥当な理由を持ってそれを主張しているように、水道橋が建設される fundus 全体に対してその権利が及んだ。その土地の側に住んでいる住人は今や(P.348, 6f. ラハマン) 水道橋の維持管理義務を負わされ、その者達にはそれ故に一種の税が課されたのと同じである。明らかなことであるのはその者達にそういった義務を課することを可能にするには、まずは補償を前提にその者達の fundus に対する所有権を取上げ、そしてその fundus を今度は fundus vectigalis という地代支払い義務のあるものとして戻すのであるが、もちろんその際には同様にその地代支払い義務の対価を支払うのであるが、その対価には強制収用の全支払金の中から補償金としての分が含まれていた。水道橋の建設を進めるためには、それらの土地に対する地役権≪他人の土地を利用出来る権利≫を設定することで十分であった。

レンテを課する時に使われた法的な形式は、もちろん握取行為の際に使用される既に述べた法規が定める形式である 78)。それによってレンテの権利を擬制的に持つことと、土地の用益権が等置されたということは、しかしただ次のことの理由となっていた。それは握取行為の形式がそれによって個人間で土地区画に対する継続的な権利が一つの行為によって設定されるただ一つの法的形式だったということである。というのはその形式は諸ゲマインデに主権とそこからまたある種の絶対的な行政権をもたらしたからである。

78) D.61(スカエウォラ)de pignor[ibus]。キケロの、De l. agrar. III, 2, 9。参照:C.I.L., V, 4485。それについてはまた 1. 219 D. de v[erborum] s[ignificatione] にある”locare”[契約する、契約して貸す]としても理解すべきであり、このことがまた C.I.L., X, 5853 のフェレンティヌム≪ローマの北北西70Kmの所にある、現在のヴィテルボ≫の碑文にある “redemit et reddidit”[買い戻して返却する]の意味である。この手続きは次のような内容を考えると常にかなりの不透明さを持ったものであり、つまりまずはゲマインデが所有している fundus をこの手続きである個人へ譲渡し、次にその個人からその fundus を一旦返却させ、更に今度はそれに vectigal を課した形で戻す、というものである。また≪単に≫”redimere”[買い戻す]はそれとは反対の手続きである。それに対して個人によるゲマインデへの土地の返却が、当事者の目には本質的にはただ形だけの手続きと映っていたとしたら、もし”redimere”[買い戻す]が先に来て、次に”reddere”[戻す、引渡す]と述べられているのであれば、その返却の手続きは特に注意すべきようなものではないのである。Redimere はこの一連の手続きの中での義務的なものを指し示し、reddere はその手続きの中での物権的な部分の最初の半分を指し示し、この部分の2番目のものは既に述べた法規に規定されている握取行為として成立していた。

――それ以外にもちろんまた、永代賃借においてそれが賃借料に依拠したものであることを明白にするために Remission[軽減](D.15 §4 locati 19, 2)という考え方が適用されていたのである。――他方ではこの形式は次の側面も持ったものとして現れて来ていた。つまり諸ゲマインデにおいては、vectigal が一見したところ益々ある一定の資本総額に対しての利率のように思われるようになり、更にはそれは文書による裏付けのある購入資金に対しての抵当権、という性格のものに近付いていった、ということである。この形式はその根拠をおそらくは国家による長期の賃貸しへの依存ということの中に持っていたのであり、そこにおいての代償としては、それはおそらくはそのようにして作り出されることが試みられたのであるが、永代の貸借権を得るために支払うお金とまたその利子として成立していたのである 79)。

79) そこから更にユスティニアヌス帝の法学提要によれば(§3 de loc[atione] III, 34) … familiaritatem aliquam inter se habere videntur emtio et venditio, item locatio et conductio, ut in quibusdam causis quaeri soleat, utrum emtio et venditio contrahatur an locatio et conductio. Ut ecce de praediis, quae perpetuo quibusdam fruenda traduntur.
[契約に基づく売買と、賃貸借とそれに基づく貸し出しとは、お互いに良く似た行為であると見なされる。ある取引きでそれが前者なのか後者なのか、どちらに基づいて行われたかが問題となることが多い。例えばある不動産について、それがある者に対して永久に使用させるために引渡された場合などである。]

発展の過程では実務的な観点に立てばいずれにせよ、vectigal 付きの fundus の占有者が次第に所有者と同一視されるようになっていった。その占有者自身による、あるいはその占有者に対しての境界線確定訴訟が起されることがあり得たということは、何も特別なことではない。何故ならその者はその場所の占有者として保護されており、その場所の境界線に関しての訴訟は、その場所の保護によって利益を享受する者に対して全面的かつ唯一帰属するものだったからである(D. 4 §9 fin[ium] reg[undorum] 10, 1)。

ただ、またそういった土地に関する訴訟としては、公有地分割訴訟(D. 7 pr. §1 h.t. 10, 3 )や更には家族間での遺産分割訴訟(D. 11 h.t. 10, 2)の対象となることも説明されており、vectigal 付きの fundus は遺贈することが可能であり(D. 219 de v[erborum] s[ignificatione])、更にはその vectigal 付きの fundus について、売却を許可された確定的な物権として訴訟を起すことも可能であった(D. 1 pr. de cond[itione] trit[iciaria] 13, 3)。しかし、もちろん該当する諸法規からは次のことを見て取ることが出来る。つまりはこの制度全体での諸関係の中には、実務上では疑問になる部分がある、ということである。特に土地分割訴訟を扱っている箇所(D. 7 pr. comm[uni] div[idundo])は改ざんされたのではないかという印象を与える:確かに根源的にはまだウルピアヌスの時代までにはムニキピウムの当局による認可と vectigal を分割した土地それぞれに対してそちらも分割して課す、ということが先に行われることが必要であった。土地の譲渡性が関係するものは、C. 3 de jure emphyteutico IV, 66 の規定であり、それは agri vectiglaes を基礎といている法規則に依存しており、この譲渡に関しては諸ゲマインデの同意が必要だったのである。そこで規定されている制度における予審上の処理、つまりこういった審理において代理人を立てるということは、単に正当な理由があるというだけでは許可されなかった、ということは、こうした全ての劣位の権利を持った所有状態においての全体の進め方に関する行政上の規則について、その本質をもっとも良く説明している。laudamium ≪土地の買取り権を行使しない場合に、元の地主に支払う補償金≫については、emphyteuse ≪永代賃貸借≫の場合と同じく、ager vectigalis においては何も知られていない。

結局問題となるのは、vectigal が支払われない場合に、その土地区画はゲマインデに戻されるのかどうかということで、それは当然ながらまだユスティニアヌス帝の法規の中でも言及されている論点の実際的な側面であり、つまりは契約を購入と見なすべきか貸借と見なすべきか、ということである 80)。

80) 先の注で引用した箇所の更に先の部分。

これらの全ての土地の授与においての主要な難点は、おそらくはまたまさに次の点にあった。つまり多くの場合は永代貸借の権利金が支払われており、それ故に vectigal の支払いはその土地を与えられた者の唯一の金銭支払い義務としては説明されておらず、従ってその理由から vectigal の不払いがあったからといって直ちに土地を取上げることは出来なかったのである。文献史料では(スカエウォラの D.31 de pign[oribus])支払い遅延の場合の財産取戻し権は、前述の法において構成要素として言及されているが、それは自明なものではないし、またマティアス≪Bernhard Matthiaß、1855~1918年、ドイツの法学者≫が主張しているような、この制度全体を構築する上での出発的としても見なすことは出来ない 81)。

81) このことはペルニーチェの Parerga (Z. f. R. G., Rom. V)において正当に主張されている。

ゲマインデそれ自体については、単に強制手段に訴える資格を与えられただけであるが、しかしながらおそらくは D. 31 の引用済みの箇所で述べられている規定は、永代貸借権に関する前述の法規のかなりの部分においての構成要素となっているのであり、それ故に後に時代にはこれらの制度全体は利子支払いという制約を付けられた上での土地の授与と把握することが可能であり、それは例えばパウルス≪Julius Paulusu、3世紀のローマの法学者、ユスティニアヌス法典でその著作が引用される5人の法学者に準ずる存在≫の D. 1 si ager vectigalis VI, 3 に現れている通りである。

永代賃貸借

次のことはこれまで既に指摘して来たし、また疑いようのないことでもある。それは、後の皇帝による法規での永代貸借権が歴史的にそして法的にムニキピウムの agri vectigales に依拠していて、属州の土地税を課された耕地に依拠するのではない、ということである。このことは次の現象に対して特徴的なこととなっており、その現象については最終章でもう一度扱うが、それはつまりプリンケプス≪市民の中の第一人者という意味で、元々初代皇帝アウグストゥスが自身のことをそう称したが、実質的には皇帝のこと≫はその土地所有についてゲマインデの諸団体からそれを分離しようとしたり、またはそこの権利から取り除こうと強く試みたのであり、そして地主としてのそれらの団体の地位、それは元々ゲマインデの当局が元の地主から奪い取ったように、ゲマインデの当局へその地位の返還を要求した、ということである。

Empyteuse[永代貸借権]は、その名称自体は、元々はオリエントのギリシア語から取られたものであり、まず最初は属州においての新規開拓地に対して使用された語であり、そこではそういった新規開拓を自分で行って自分の土地とした者が、地代[税金、利子]を継続して固定額にすることを望んだのである。この制度が ager vectigalis と違う点はまさに本質的には譲渡の、元の地主の先買権の、名義変更の2%の手数料の、そして[通常の土地としての登録からの]免除の理由の確認の、そういった諸前提全てについての確固たる標準規定が存在しているということである。そういった規定は永代貸借権を受ける者にとってはまことに好都合で、その者達に釣りあった、この制度全体の諸関係についての規制形式であった。その形式は諸ゲマインデの agri vectigales に対してのものであるのと同様に、国家の agri vectigalesque に対してのものでもあったが、しかしそれはまた、通常土地が大規模な経営者に与えられるという形式に過ぎず、それは明確なこととしては、D. 1 si ager vect[igalis petature] における、vectigales とそうでないものとの区別以外の何物からも発生していないように、そこでの区別は明確に主張されているように、次のような土地同士の区別と同じことであり、それは一方は契約者、つまり土地の貸借契約を引き受ける者に対して永代または有期で貸し出される土地であり、もう一方は耕地であって、農民、つまり独立の小農場経営者に、”colendi dati sunt”、つまり耕作目的で与えられたものであり、その相互の土地の区別と同じである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(44)P.252~255

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第44回です。
ここでは中世において盛んになる Rentenkauf (地代徴収権の売買)の萌芽がローマにおいて見られる、という私には非常に興味深い箇所です。Rentenkauf は中世においてはキリスト教会による利子禁止の回避手段として使われ、お金の貸し借りではなく、あくまでも地代を徴収する権利の売買として禁止の対象から外れました。しかしその代わり、借りた方は永久にレンテ(定期支払い金、地代)を払い続ける必要があります。ローマでは地代=税=利子が流動的な関係にあって、ゲマインデが土地を利用して資金(税金)を得る手段として使われたことが論じられます。
個人的には、この Rentenkauf については色々思い入れがあり、大学の卒論で研究したドイツの第1次世界大戦後のハイパーインフレを終息させる手段として発行された有名なレンテンマルクもまさしくこの Rentenkauf の仕組みを利用したものでした。また、そもそも「中世合名・合資会社成立史」を訳したのも、そこで Rentenkauf が論じられていたのがきっかけの一つです。
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ただまだ論じていないケースに該当する所有状態についての、正規な手続きに基づく物権訴訟が後になって現れてくるが、このケースでは国家が関与するものではなくて、諸ゲマインデが関与していた劣位の権利を持った所有状態であった。

ムニキピウムによる Ager vectigalis

それは “si ager vectigalis petatur” [もし賃貸借料が課されている土地に対してその占有の取り消しが行われたら]≪法規の中の章名≫という場合においての形式である。この形式はレーネル≪Otto Lenel、1849~1935年、ドイツの法学者、法制史家≫によれば、疑い無く次のような場合においての耕地の占有を回復することに該当する。それはつまり貸借地あるいはむしろ永代貸借地であったものがゲマインデによってそれを取り消された場合であると。このケースについては後でより詳しく検討することにするが、というのもイタリアにおいてはいずれにせよ疑い無く、同盟市戦争の後ではローマ国家が認めた貸借人というものがもはや証明不能になり、アフリカにおいての ager privatus vectigalisque の資格証明はともかくも疑わしき状態に留め置かれたのであり、それ故にこの形式による手続きが、ローマ法が改正された時代においての、永代貸借権の全体の状態を明らかにする唯一のやり方だったのである。

以上述べた形式の行政法的な起源については、ここにおいて疑いようがない:どのような私人もこういった永代貸借権を与える側になることは出来ず、このやり方の制度化はそうではなくて国家の大権に基づくものであり、諸ゲマインデにおいてはそれは昔の国家主権の遺物と見なされていた 61)。

61) しかしながらまた、市民植民市もまた永代貸借権を賦与する側になることが出来たが、それについては既に注記した通りである。――Leibrenten≪一生支払い続ける義務のあるレンテ=定期支払い金≫で一まとまりの fundus に対して課せられるものも、また個人に対してのものとしても制度化出来ていた、参照:D. 12. 18 pr., 19 pr. de annuis 33, 1、C.I.L., V, 4489。しかしながらその類いの永久レンテは実際には存在しておらず、無期限のレンテの遺贈もそういった形では存在しておらず、ただ終身レンテの信託遺贈のみが行われていた、D. 12 前掲部参照。

諸ゲマインデはこの ager privatus vectigalisque の制度を彼らに元々帰属する土地として利用するのと同時に、ローマ国家の公有地から彼らに譲渡された土地として――しかも常に無期限にそうされたものとして――利用した。

ゲマインデの税とゲマインデの財産

ローマ領内の個々のゲマインデがどのようにしてそれぞれの必要物を調達していたのか、その方法については周知のようにほとんど知られていない。その構成員の大部分が夫役制への移行へと追い立てられ、そこに一方ではそのゲマインデに所属する人員と、他方でその人員と一緒に働いている家族や奴隷も引き入れられた、ということを、スペインにあったカエサルによって建設された市民植民市のウルソ 62)≪セビリア東方100Kmの所にあった、現在のオスナ≫の碑文として残されている法規から知ることが出来る。

62) Lex coloniae Genetivae, Ephem. epigr.≪Ephemeris Epigraphica、ヴェーバーの当時古代の碑文の解読を集めた雑誌≫ II, p.221f., c,98. 99。

そこにおいては、割当てることが認められた週あたりの夫役の日数は一人あたりが5日、1ユゲラの面積あたりでは3日と定められていた。こういった夫役と並んで、その夫役ではカバー出来ない需要について、先行して金銭による賦課も行われていたことは、同様に確実である 63)。

63) キケロ、Del. agr. ≪De Lege Agraria contra Rullum≫2, 30, 82, Verr. ≪In Verrem≫IIの53, 131, II, 55, 138, Pro Flacco の 9, 20; 更に C.I. 10. De vectig[alibus] IV, 61。

更に知られていることは、諸都市においての貧民救済施策≪ローマでは共和政末期から帝政期に、貧民に小麦を安価で支給した、いわゆる「パンとサーカス」政策。≫は、土地所有者に穀物の備蓄をさせ、それを特価で提供させる、という形で行われており 64)、あるいは現物貢納という形でも先行して行われていた 65)、ということである。しかしこういった賦課、特に金銭賦課がどのようにして徴収され、またどのような原則に基づいていたのかということについては知られていない。しかしながら古代の諸都市は中世の諸都市と次の点は共有しているように思われる。つまり全てのこういった直接税は都市の予算の均衡を作り出すための特別な手段という性格を持っていたということであり 66)、この関係でそれらの直接税は都市による借款に等しいものであり、ひょっとするとローマにおいてそうであったように、強制的な公債として通用していたのかもしれない。

64) D. 27, §3 de usufr[uctu] は属州による穀物の購入に相当する。

65) キケロの Verr. III, 42, 100 (ここではローマに支払うべき公課を補完するものとして)

66) このことに該当するのは、それがもしゲマインデに対する課税について扱っている場合は、徴税官の時限的措置である l. 28 de usu 33, 2 の箇所である。

いずれにせよこうした直接税が結果としてもたらしたものは、我々の把握するところでは、ゲマインデの財産を出来る限り吸い上げる結果として税額を非常な程度まで増大させようとする動きが各所で熱心に行われていた、ということである。間接税、とりわけ関税・通行税は、それらは土地の所有の結果として生じるものとして捉えられるが、ここでは詳細に論じず、ただ諸ゲマインデのレンテ収入のみを扱う。――中世の諸都市においてはそれらの財産の管理において、高度の、部分的には天才的と言ってよいほどの業務と権利の形態を創造したことが記録されている。その中でも特に不動産を活用したレンテ≪定期的に入って来る不労所得≫の業務を発展させ、それは相対的に見て安定した公債制度を作り出したという観点で理解されるべきである。ローマの領土内で諸ゲマインデが財政をどのように運用していたかについてはほとんど知られていないが、しかし次のことはそれでも確かである。それはこのレンテを利用した収入の手段の運営という意味では、相対的には非常に遅れていた、ということである。

レンテ業務

ローマの諸ゲマインデにおいての公債制度はおそらくは大部分はレベルの低いもので 67)、諸ゲマインデは確かに能動的なレンテ業務を発達させたことはさせたが、それはまだ非常に原始的なものであり、つまりはただの賃貸しであり、まだレンテ≪地代の徴収権≫そのものが売買の対象とされる段階には至っていなかった。

67) 小アジアの諸都市は、≪兵士への≫賃金を支払うことが出来なかった時に、高利貸しから資金を借りる羽目に陥った、(Plut. Lucull 7, 20)

通常のゲマインデの財についての賃貸権と永代賃貸借と並んで 68)ここで見出すことが出来るのは、土地区画を個人が経営している場合に、そしてその土地区画を地代を課すという形でその個人に≪正式に占有を認めて≫返還することが行われており、それはゲマインデの資金 69) という形であるか、あるいはひょっとしたら特定の公的なあるいは福祉目的のための永久レンテの形であり、その中でも特に貧困家庭に対して子供の養育費を援助するという目的であった 70)。

68) これらについては、たとえば D. 219 の de v[erborum] s[iginigicatione] では契約者による貸し出しの結果として成立すると説明されている。

69) 皇帝は総統とゲマインデの管理者に次のことを指示した。つまり以下について尽力せよということで、それは擬制的に投資されたゲマインデの資金が可能な限り元の債務者≪元々土地を使用していた者≫の手に残るようにする、ということである。≪永久レンテの設定は、本来なら資金をその土地の所有者に与え、それに対する永久の利子の支払いとして定期的に金を支払う、ということであるが、この場合資金の貸し付けは実際には行われておらず、土地の占有と使用を前のまま認めることがどの代替の方法となっている。≫D. 33 de usur[is] (32, 1)参照。

70) そのようにアティーナ≪ローマとナポリの中間に位置する都市≫の C.I.L., X, 6328 他はなっている。

帝政期においては中央権力の干渉が見られ、それはある観点では貧困者救済という利害関心によっての、資本の前払いという形で土地区画への利子を条件とする貸付投資を進めさせたということであり、それは福祉目的のためと定められていたが 71)、別の観点ではそれによってゲマインデの財の投資を監視しようとしたのである。

71) 知られているのはネルウァ帝≪在35~98年≫からアレクサンデル・セルウェルス帝≪在222~235年≫までに導入された離別された妻や私生児を扶助するための大規模な基金であり、それについての碑文としてはトラヤヌス帝≪在98~117年≫の時のものが2つC.I.L. に含まれている。C.I.L., IX, 1455、参照:デジャルダン≪Ernest Dejardins、1823~1886年、フランスの歴史家、地理学者、考古学者≫の De tab. alim. パリ、1854年。ヘンツェン≪Wilhelm Henzen、1816~1887年、ドイツの碑文研究家≫の arch. Inst. in Rom の1844年の年報。土地区画に課された使用料を財源とする基金の資金は低い利率で貸し出された。土地区画の所有者がこの課された使用料を免れることが許されていなかったことは、確かなことと見なすことが出来、それはまた別の点では低利率によって償還金額の合計額を一定の額以下に抑えるという効果もあった。

そういった形で部分的に土地の売却や永代貸借権の付与が制限され 72)、諸ゲマインデが独自に税を課すことも禁じられ 73)、また部分的に vectigal による収益は諸ゲマインデとローマ国家の間で分けられ 74)、その結果としてゲマインデからのその分の税収入が国家の税にとって追加分となったように見える。

72) lex. col. Genetivae c.82 では売却と永代貸借は5年以上その土地を借りてい場合にのみ許されていた。

73) セウェルス帝≪在193~211年≫とカラカラ帝≪在209~217年≫の c. 2 vectig[alia] nov[a] IV, 62。

74) テオドシウス帝≪在379~395年≫ウァレンティニアヌス朝≪ウァレンティニアヌス1世、ウァレンス、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス2世の4人の在位の364~392年のこと≫での c.13 de vectig[alibus] IV, 61(1/3 がゲマインデに、2/3 が国家にとなっている)。

どのように税がゲマインデから国家に吸い上げられたかという権利の侵害については、後に論じる。ここではゲマインデから利子を代償として与えられた土地について詳細に論じることにする。

ager vectigalis の法的性格

まずは次のことは確かである。それは諸ゲマインデがそういった土地区画の本来の所有者であった、と認められていたということである。確かに、次のような時々には利子≪税金≫を徴収する権利はゲマインデの権利の対象であるように見える。その時々とは、スペインのムニキピウムの Cartimitatum≪Cartima、現在のスペインのマラガ近郊のカルタマ≫の女性司祭が “vectigalia publica vindicavit”[公的な賃貸料を取る権利を主張した]と述べている場合(C.I.L., II, 1956)や、あるいはウェスパシアヌス帝≪在69~79年≫によって作られたスペインのあるゲマインデがその賃貸料徴収の権利を行使していなかった場合(同資料の1423)、あるいはティスバイの住民が元老院決議によってその者達が持っていた賃貸料徴収権を今後も継続して持つことを認可されている場合 75)、またドイツ語の表現で文書によって呈示される利子について “von Eigenschaft wegen”[所有権を持つことによって(その権利として派生する)]もこのことに適合しているし、またポンペイにおいてある者がゲマインデに対して利子≪使用料≫を支払っていて、その理由が “ob avitum et patritum fundi Rhdiani”[祖父と父がRudhiani≪正しくは Audiani≫に持っていた土地のため]となっている場合(Nr.123のポンペイの税受領書、モムゼンの Hermes XII p.88f と比較せよ)などである。しかしながら、ゲマインデが利子徴収権を持っているからといって、そういった土地の権利状態が曖昧になっている訳ではない。

75) Eph. epigr. I, p.279f。

ある者が自分の占有する土地区画に永久レンテを設定しようと欲した場合≪その土地区画をレンテ売買の形で売却しようとした場合≫、その者はその土地区画をゲマインデに売却せねばならず、次にその者は土地をこの永久レンテという形での≪永久≫利子支払いという条件の下で≪自分の土地の実質的な使用権を≫取り戻すことになる 76)。

76) C.I.L., IX≪正しくはX≫, 5853. Plinius, Ep. I, 8, 10; VII, 18, 2。

これに対して永久レンテが設定された土地区画の所有者は、用益権は留保しつつもその土地自体の所有権はゲマインデに対して放棄するのであり、それ故に[元の]所有者はもはやその土地を譲渡することが出来ない、というのは既にゲマインデがその所有権者になっているからである 77)。

77) C.I.L., X, 1783のプテオリ≪ポッツオーリ、前掲の地図参照≫での例。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(43)P.248~251

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第43回です。
生成AIであるChatGPT4oは、ラテン語の翻訳において便利な下調べツールとして有用なだけでなく、時として辞書代わりにもなります。ラテン語をドイツ語化した法律用語はほとんどの場合独和辞書には出て来ません。またググっても使用例は確認出来ますが、なかなか意味まで探すのは大変です。
例えば、
1.Litisaestimation
私:ローマ法の強制執行に関係した用語だと思いますが、Litisaestimationとはどういう意味ですか?
ChatGPT:
Litisaestimation(リティスエスティマティオ)とは、ローマ法において、訴訟対象の価値を評価・見積もることを指します。この用語は、主に訴訟における賠償額や義務履行の代替価値を決定する文脈で使用されます。

文脈と意味
強制執行の過程での評価

訴訟の中で、被告が原告に対して義務を果たさない場合、裁判所は義務履行の代わりに、損害賠償金としての金額を算出する必要があります。この金額の評価が「Litisaestimation」です。
例えば、不動産や財産の引渡しが物理的に不可能な場合、または拒否された場合、その対象物の金銭的価値を訴訟の一部として評価します。(以下略)
2.Strafsponsion
私:ドイツ語でStrafsponsionとはどういう意味ですか?そのまま解すると刑罰の誓約になりますが。
ChatGPT:
ドイツ語のStrafsponsion(ストラーフスポンシオン)は、ローマ法の文脈で特定の意味を持つ法的概念です。この用語は、特に訴訟手続きに関連する誓約や担保を指します。

具体的な意味
Strafsponsionとは、訴訟当事者の一方が不法行為を行った場合に、その違反に対して課される罰金や損害賠償を担保するための誓約または保証金を意味します。この誓約は訴訟手続きでプラエトル(裁判長)が要求することがありました。
(以下略)

といった具合で、単なる訳だけでなくかなり突っ込んだ背景まで含めて答えが得られます。
この日本語訳をスケジュール通り進めていく上で非常に役に立っています。
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そういった税額を維持しようとしたことと、個々の土地区画の種別が非常に容易に変更されるものであったということは、矛盾しているように思われる。更に言えばこの時代の法学の文献が “tributum soli”[土地税]について言及している箇所では、今指摘したことは次のような形で現れている。つまりは土地税というのものが、個々の具体的な土地区画に対しての固定された公課という前提で扱われているように見える、ということである57)。

57) 学説彙纂のD. 39、§ de legat[is] I, 30。それについて新カルタゴの碑文 C. I. L., II, 3424, によれば、ある者が神殿を建てようとした時に、総督補佐官の指示に従い、(5%税としての)20デナリウスの金額または土地税(つまりある固定額の)の控除無しにそれを行っている(モムゼンの同箇所への注釈を参照)。Vectigal と土地税は引用した学説彙纂の箇所では並記されている。この2つの対立については、vectigal の相対的に見て流動的な性格から考慮してみることが必要であろう。コンスタンティヌス大帝の統治下のフリギア≪小アジア中西部≫のナコレイアとオルキストゥス≪どちらもフリギアの都市≫の碑文が言及している tributum … ubertatis [土地の肥沃さに基づく土地税](C.I.L.,III,352)がまさしく、土地の価値によって固定額として定められた土地税に関することを確かに述べている。≪全集の注ではここは ubertatis ではなく libertatis(自由な) が正しいとされているので、ヴェーバーの推論は成立しない。≫同様の例として水道橋の側の土地に住んでいる者への土地税がある(p.348、ラハマン)。そしてまた D.42. 52,§2 de pact[is], 14 でも土地税が固定額の公課として扱われている。

最終的には税額の査定は一定の書式に基づいて行われ、それはウルピアーヌスが描写している(D.4 de censib[us])通りであるが、そこにはっきりと注記されていることは(前掲書§1)、ワイン用ブドウ畑とオリーブ栽培畑を――それらがもっとも高い地代を課されたカテゴリーであったが――それより低い地代のカテゴリーに変更する場合には、何故その変更が必要なのかについての十分な理由付けが必要であり、そしてそれは税査定官に対して良く説明されねばならず、そうでない場合はその変更申請は却下された。それによって税額が低くなる土地利用方法の変更の際には、それはただ relevatio [救済]または peraequatio [税の不平等の是正]という行政措置を利用してのみ可能であったが、それについてはすぐこの後で更に論じることになる。土地の利用方法の変更の結果としての、その土地の課税カテゴリーの高い方への移行に際してはしかしながら、徴税担当官は税の引き上げの実施を peraequatio による全体の税の見直しの機会まで待ったりはしなかった 58)。

58) どのような事情があろうと、それ故にこの種の土地税(他の全ての土地税と同じく)は、それがあまりにも実態より高く査定されていない限りにおいては、ともかくもそれはその耕地において行われている耕作を維持させるために手段だったのであり、というのも全体の税額が同じままで耕地を拡張することは、相対的に見てより多くの場合認められていたからである。この視点はハイスターベルク≪Bernhard Heisterbergk、1841~1898年、ドイツの古代史家、古典文献学者≫が適切に指摘しており、次のことは疑いようがない。つまり特にアフリカに関しての彼の本質的な視点である、収穫物に対する一定割合の現物貢納が、同地における穀物栽培をもしこの課税が仮に行われていなかった場合よりもより強固にしたに違いない、ということであるが、いずれにせよこの視点は非常に注目に値するものであるが、しかしまたコロヌス≪ローマ末期に現れて来る隷属的小作農民≫の制度の発展にとって本質的なものであったか、という点については、私は一般論としてそうは考えない。

添付の図面1のアラウシアの碑文[地図]の中に事実上、私にはいずれにせよ非常に確からしくそう思われるのであるが、割当てられた土地とそのそれぞれに課税合計額が記載されているとするならば、その場合そこから導かれることは、その課税額は常に固定されていた、ということである。ある特定の土地区画である特定のカテゴリーの耕作が行われているものに対して土地税を固定するという傾向は、土地税を変更する全ての理由を除外して考えると、全くのところ一般に安定していたものであり、またその傾向はゼノン≪東ローマ皇帝、在位474~491年≫の法(C.1 de j[ure] emph[yteutico] IV, 66)からも生じており、それに従って土地区画を(永代賃貸地に)転換する際の土地税の免除の根拠付けとして使われていた。その当時においては土地税の固定は既にそのずっと前の時代から一般的なものとして確立していたに違いない。それに適合していることとして既に皇帝スカエウォラの時に土地税を支払わなかったことによる法的な結果としての税徴収の資格を持つ者によるその土地区画の競売(D.52 pr. d[e]a[ctione] e[mptio] v[enditi] 19,1)が起きており、それ故に強制執行は≪ローマの中で≫統一的に実施されるように≪制度的に≫整備されていた。それと並んで C.Th.1 de aquaed[uctu] 15,2 (320年のもの)において見出すことが出来ることは、水道周辺の土地に義務として課されている清浄維持義務を果たさなかった場合のその土地の差し押さえである。しかしこちらは古い法により多く依存している。

公有地の所有状態の法的性格

我々はここまで次のような劣位の権利しかない所有状態について語って来た。それは国家の公有地を利用するという形で発展して来たものであり、そしてこの性格をたとえ個々の場合でかなりの程度変更が加えられた場合でも、本質においては保持していた、ということである。そういった所有状態のゲマインシャフトという観点から見た法的な特性は、一般的に言うならば、ただ否定的な方向に作用した、ということである。既にここまで次のことを見て来た。クイリテース所有権の欠如によってこの所有状態はケンススから、また握取行為[Akten per aes ut libram]からも根源的な原則として除外されただけでなく、またその他の私権に基づく譲渡行為や物権一般からも除外されたのである。その例外は占有そのものに関することが問題になっている場合と、そういう所有状態の一部となっている、ある地域の地所全体をまとめて獲得する場合であった。

行政上の手続き

今挙げたような様々な除外と同様に、それと関連する正規の法的手段からの原則的除外について既に色々な角度から論じて来た。訴訟の争点が占有に関することでない限りにおいては、そういった所有状態についての争い事に対して権限を持っていたのはただ行政当局の判断だけであり、従ってそういう争い事は「特別審理」[extraordinaria cognito]の領域に属していた。どういった官吏がその時々にそういう権限を与えられていたかについては、ここでは詳しく論じない、――グラックス兄弟の改革の時の三人委員会や643年の土地改革法の時の二人委員会のような特別な権限を与えられた者ではない限りは、それはその時々に暫定的に作り出されたのであり、一般的には部分的に監察官の権限であり、また別の部分では上級官吏、つまり執政官の権限として与えられていた。属州の長官の場合はこの二者の権限が一人の人間にまとめて与えられていた。ここにおいての違いというのは管轄権の範囲の違いであって、手続きの進め方の違いではない。これを理解することは非常に重要である。

というのはこの権利状態の正規の法的手段からの閉めだしは modus procedendi [契約の進め方、契約当事者の双方の義務]に関して大きな意味を持つことになったからである。特別審理[extraordinaria cognito]については、その特徴は全くもって単に訴訟手続き及びそれに関連した手続きだけが欠けている、ということではないのである。特別審理におけるこうした欠如は概して言えば不可欠なのにもかかわらず許されていなかった、ということではなく、ただ無くとも問題にはならない、という性質のものであった:また行政上の審理について決定権を持つ官吏は、その審理を陪審員に対して委託する命令を出すことが出来た。我々にとってより重要なのはひょっとするとこの手続きのもう一つの特性:現物に対する強制執行の可能性、であろう。

現物に対する強制執行

行政上の審理において決定権を持つ官吏はまた、法廷での決定に不服な者に対して、ただ罰金刑の宣告のみに留めることも出来、それは民事裁判での罰金刑の宣告に相当するものであった。しかしそういった官吏は疑いなくまたその宣告において現物で執行することが出来、つまり係争の対象になっていた土地区画を敗訴した者から取り上げ勝訴した者に与えることが出来たのである。特別審理においてこういった現物での処置が本質的なものであったことは、疑いの余地が無い。現物執行は地方総督の管轄となる訴訟においても完全に無くなることはなく、またそういった訴訟に先行して法で規定されている事例 59)とは違い、特別訴訟[Prozedur extra ordinem]の性格を事実上持っていた、ということも無かった。

59) D.2,§8 testam[enta] quemadmorum] 29, 3 (“omnimodo compelletur”); D.3,§9 de tab[ulis] exh[ibendis] 43,5 (“coërceri debere”); D.1,§3 de insp[iciendo] ventr. 25,4 (“cogenda remediis praetoriis”); D.5,§27 ut in poss[essione] leg[atorum] c[ausa esse liceat] 36,4 (per viatorem aut officialem); D.3,§1 ne vis fiat 43,4 (extraordinaria executio); D.1,§1 de migrando 43,32 (“extra ordinem subvenire”).

その際に扱われているのは本質的には審理を主導している者の判断に基づく執行である;それに対して特別訴訟や一般的な行政訴訟における手続きとしての現物執行は規定を設けてそれに則る形で行われていた。監察官は確かなこととして、次のことを必要であるとは認めなかった。つまり国家の賃貸人が土地を奪った方からその土地を取り上げ、代償として金銭で弁済する、ということで、そうではなくて監察官が出来たことは、国家の賃貸人に倒して≪土地を奪われた方に≫別の地代付きの土地を割当てさせることであった。グラックス兄弟による土地割当てにおいては、土地区画の譲渡不可という状況では執行は争いとなっている土地の価額の金銭での見積もりという形で、それは訴訟の目的を部分的に無効にさせる≪土地そのものは諦めさせるという意味で≫のと同じことを意味していたのかもしれない。controversia de territorio [領土を巡る争い]においては、それは同様に特別審理という形で決着を付けられたが、それについては碑文によれば執行が現物で行われた 60) ということが確認出来る。

60) C.I.L.,X, 7852 とそれに対するモムゼンの Hermes ≪当時の古典研究の雑誌≫II の注釈参照。

この現物執行ということは、その対象がまず第一に場所[locus]であり、一定の地代を課された、課税される、等々の全ての所有状態の土地に対して行われていた。面積[Areal]についても現物執行は有用なものとして扱われた。というのはそれは丁度、本来はただ場所についてのみ占有を保護する禁止令が、その強権的な罰金支払い誓約≪訴訟においてどちらか一方が判決で宣告されたある義務を果たさなかったり、あるいは違法行為を行った場合に罰金を支払うことを訴訟開始前に誓約すること≫などの威力も利用して、現物執行に近付こうとする努力と、現物での解決について服従を強いるということから発生して来たように、そういった事情は面積についても同じであったからである。訴訟手続きの更なる発展については、この現物執行はしかしながら大きな意味を持っており、というのはほとんどの属州においての土地区画は劣位の権利しか持たない状態で占有されていたからであり、物的訴訟においての現物執行の許容は時が経つに連れ共通の法≪ユス・コムーネ≫として扱われるようになり、それはウルピアヌスの D.68 de r[ei] v[indicatione] (VI, I)で既に見て来た通りである。

以上述べて来たことは大法官がこのような所有状態に対して、通常の裁判手続きに基づく訴訟を許可した場合は、当然のことながら事情が違っていた。しかしながらそういうケースで知られているものは無い。所有権という点において本来の≪クイリテース≫所有権の次に来るグラックス兄弟による土地の割当て自身が、法的な処理という点で、既に注記したように、彼らからして見れば管轄外だったのである。また擬制的な規定が作り出されたかどうかについても知られていない。