ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(59)P.313~316

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第59回です。
ここではローマの農園における過酷な奴隷労働について説明されています。但し過酷さを強調しようとしているのか勇み足的な議論があり、一点はヴェーバーは男女の奴隷がいわば乱婚状態にあったと思い込んでるのではないか、という点と、隔離病棟に入れられた病人が他の奴隷の世話を受けることが許されていなかった、という明らかに間違った議論がされています。それぞれどう間違っているかは訳注(≪≫の中)を参照願います。
===============
もう一つのより重要性の高い要素は、ローマの全時代を通しての農業における労働者確保の基本的かつ完全に普遍的な困難さと関係している:それは労働力の需要と供給のミスマッチで、種蒔きの時、更にはむしろ収穫時、そしてその他の時季であってもそうであった。多くの奴隷を例えば収穫時に必要な人数だけ確保しておかなければならない、ということは、何もしない労働力を数ヶ月間も扶養し続ける、ということを意味していた。カトーの時代にはブドウとオリーブの栽培を一括して請け負い業者に任せることでこの労働力不足を何とか乗り切ろうとしていた。同時に耕地の土地造成・土壌改良の作業も専門業者[politores]に≪次に栽培する作物用の耕地について≫任せることが行われ、また最初の植え付け作業、つまり種蒔きと耕耘も当時一部は業者に委託されていた 34)。

34) 土地改良[politio](カトー 農業書136)の代金は、良質の耕地の場合は収穫の 1/8、質の劣る耕地の場合は 1/5であった。ブドウの栽培を部分的に外部の業者に委託するのは同書の 137 に出ている。オリーブ収穫作業の請け負いは:カトーの 145、オリーブ油の圧搾作業は 146、まだ樹に成った状態のオリーブの販売は同じ箇所、在庫しているワインの販売は 147、――ブドウを搾り器で搾った後に 148本単位で容器に詰めることは厳密な先物取引的性格の手続きとして行われた。牧場での冬期の食料の販売は 149 に出ている。羊毛や羊肉など[fructus ovium]については 150に出ている。どこにおいても地主は労働者の扶養料の一部を負担していたし、さらには多くの場合は必要な道具も供給しており、例えばまた部分的な作業の委託業者に焼成した石灰を供給≪イタリア半島では多く採れる石灰岩を高温で焼くと土壌改良用の生石灰ができる。≫していた場合もあった(カトー 16)。明白なのはただ(具体的な)労働がこういった形で作り出されねばならなかった、ということであり;農場主は必要な労働力を確保していなかったというだけの理由で、その者は現場の労働者にとって都合の良い形での請け負いを収穫の一部を支払いに当てるという形で準備しなければならなかった。労働者にその際にその他扶養料も支払うことになっていたのは、多くの場合自明のことであった;ディオクレティアヌス帝の布告である de pretiis rerum venalium [雇用者の賃金について]が示していることは、このことは自由民の労働者を雇用する場合の規則であった、ということである。

その際に農場主達は次のことを強制的に行わなければならない状態に置かれていた。つまり収穫物を無条件で安値で叩き売り、農地での作業についてそれぞれに対価を支払わねばならなかった。その理由は農場主達は自分達の力だけでは収穫させることも作業させることも出来なかったからであり、その結果として事業の収益は望ましくないほど低水準に留まった。穀物の収穫に至っては更に、それは営利事業としての可能性がほとんどなかったのであるが、それを行わずに済ますことは出来なかったし、かつまた家族を養うという意味でも必要であった。それ故に自由民の労働者が必要とされたのであり 34a)、その者達は多くの場合収益の点でそれなりに主要となる部分の労働に従事させられたので、それ故にカトーは十分な数の労働者[operariorem copia]を確保出来る地方を賞賛している。

34a) このことは我々≪ヴェーバー当時のドイツ≫の大土地所有者においての「自分の本来の」労働者に加えての「外部の(外国人の)」労働者の需要と適合している。東プロイセンにおいては、この外部労働者の必要性について全体の労働者の約1/4までの人数を使うことが許されている。

しかしながらまた、こうした外部の労働者の使用を継続して行うことも不可能であった。定期的に現金で払わなければならない支払金の額が地主にとって大きな問題になって来れば来るほど、それだけいっそう奴隷、つまり「言葉をしゃべる財産」 34b)(instumentum vocale[言葉をしゃべる道具])の労働力の酷使は激しくなっていったし、それ故にまた農場経営のその他の世界からの隔離もいっそう厳しいものとなっていったのである 35)。

34b) それに対比されるものとしては “instrumentum semivocale” [半分しゃべる道具](家畜)と “instrumentum mutum” [物言わぬ道具](通常の道具類)があった。

35) 全ての農業書の著者達は次の点で意見が一致している(参照:コルメラ 1, 8)、つまり農場の管理者は農場を市場から、そしてまた周辺の領域から出来るだけ遠ざけるように管理しなければならず、いずれの場合でも付き合うことを許された人間というのは農場主が許可した者に限られた。来客は原則として農場の中に迎え入れることが許されておらず(カトー 5と142、ウアッロー 1, 16)、奴隷達は一般に農場を離れることが出来なかった(ウアッロー、前掲箇所)。このことが次のことの主要な理由の一つであり、つまり何故、そういった農場が自分達自身の手工業者を育成することによって、町の手工業者を使わなくていいようにすることを試みたか、ということである(ウアッロー 1, 16)。

農場経営者達は無条件で、その農場の経営を自由民の労働者をより長い間雇って働かせてやっていく 36)ということを避けていた。

36) カトー 農業書5:(vilicus) operarium, mercenarium, politorem, diutius eundem ne habeat die.[(農場管理人)作業者、雇い人、土地改良人については同じ者を一日でも長く使い続けるべきではない。]

その結果起きたことは、自由民の労働力の供給が自然に減っていった、ということである。特に収穫期のような特別に労働力が必要だった場合以外でも、農場主達にとっては奴隷以外に農業で使えるものは存在しなかったし、都市のプロレタリアートは農業を好まなかったし、また実際に使うことも出来なかった 37)。

37) このことが示しているのは農業のための労働力への全ての需要が陥った運命であり、その労働力とは都市での浮浪者の収容所や同様の場所に収容されていた者達のことであり、また無料の交通手段が提供されたばあいに独力で農場まで行けた者達のことである。都市においての無職者で農場で使用可能であったのは全体の1%にも満たなかった。帝政期の末期には無職者は精力的に農場へと移動しそこで自身の労働力を地主に無条件に[brevi manu]提供した(後述の箇所を参照せよ)、――このことはその他の時代では地主達にとってほとんど起きなかったことである。

この結果として起きたことはまず第一には、周知のように、奴隷の労働力の搾取が一層強められた、ということである。その当時地主達が購入した奴隷は最低レベルの価格のものであり、それは noxii と呼ばれた罪人の奴隷であり、その目的はその者達をブドウとオリーブの栽培に使用するためであり、それについてはコルメラにおいては審理として説明出来る動機が存在したのであるが 38)、この手の罪人連中は一般論として抜け目がない性格を持っており、それ故にブドウやオリーブの栽培に適している者として使われたのであるが、一方で穀物の栽培については手堅い性格の作業者が求められたのである。

38) コルメラ 1, 9 Plerumque velocior animus est improborum hominum, quem desiderat hujus operis conditio. Non solum enim fortem, sed et acuminis strenui ministrum postulat. Ideoque vineta plurimum per alligatos excoluntur. (Aus Anstandsrücksichten setzt er hinzu): Nihil tamen ejusdem agilitatis homo frugi non melius, quam nequam, faciet. Hoc interposui, ne quis existimet, in ea me opinione versari, qua malim per noxios quam per innocentes rura colere.
[一般に悪人の頭脳は敏捷に働くのであり、この仕事(=ブドウ栽培)にはそういった敏捷さが望ましい。実際の所、力があるだけでなく、鋭敏であり活動的な奉仕者をこの仕事は必要とするのである。このため多くのブドウ畑が鎖につながれた者(有罪奴隷)によって耕作されている。道徳的配慮からコルメラは次のように付け加えている:しかしながら同じ程度に敏捷さを持ち善良な者は、悪い者と比べてより良い仕事をするであろう。このことを追加で述べたのは、私の意見が無実の者より罪人に農場の作業をさせるのが良いと主張していると思われたくないからである。]

コルメラがそこで更に推奨しているのが奴隷達を原則的に疲労困憊の状態になるまで働かせることで、そうすれば奴隷達は働いた後はただ眠るだけで余計なことを考える暇がなくなるから、ということである 39)。

39) コルメラ 1. 8(p.47 Bipont)。

農場主達はその配下の奴隷について出来るだけ沢山の子供を産ませようとした 40)。

40) コルメラ、前掲箇所。

農場主達は農場の管理人に対し、男女の奴隷の間での結婚に相当する確定した関係になることを、そういった事情から規則的に認めており、むしろそういった関係を奨励するだけではく、要求すらした 41)。

41) コルメラ 1, 8。ウアッロー 1, 17。管理人達は “conjunctas conservas (habeant) e quibus habeant filios” [親密な女奴隷を内縁の妻として持ち、その者から息子達を得る。]

それ以外では男性奴隷は、無秩序なあるいは恣意的に統制された男女交際の結果として息子達の父親となることはなく、ただ女性奴隷だけが息子達の母親となった。≪この説明はヴェーバーが母権制の成立の理由とするものと同じである。実際にはローマの農場では奴隷が法的な父親になることはなかったものの、いわゆる乱婚関係ではなかったとされ、ヴェーバーの議論はある意味想像に基づいている。≫というのは彼女達が産んだ子供達のみの養育が彼女達に任され、そしてそれが報賞の対象になっていたからである(コルメラ 前掲書)。その他の点ではしかし、一般に農業書で描写されているのは、というのは奴隷達は兵舎のような住居に一緒に入れられていたのであるが 42)、しかし同じ宿舎の住人同士の連帯についてはあり得ず、そうではなくてただ女性奴隷にその産んだ子供の数に対して報賞を与えていた、ということであり、――それは時には一時的な休業を与えたり、時にはその女奴隷を解放してやる場合もあった 43)――そして男女奴隷の交際の規制については自由競争に任せるようにしており、ただもちろん目的に沿うように農場管理人の監視の下にそうしていた。

42) 奴隷 “instrumentum vocale” の住まいは家畜小屋の中に設けられていた。奴隷達は有罪奴隷ではない場合は、南に面した部屋[cellae meridiem spectentes]で寝て、鎖につながれた有罪奴隷は地下にある囚人部屋で寝(”quam saluberrimum subterraneum ergastulum, plurimis, idque angustis, illustratum fenestris, atque a terra sic editis, ne manu contingi possint”[出来る限り健康的に作られた地下の奴隷部屋を、多くの狭い窓で採光するようにし、しかもその窓は床から十分高く設けられていて手が届かないようにすべきである])ていた。農場管理人は農場の門の隣に住んでいた。監視人は我々の≪ヴェーバーの≫時代の兵舎における室長用の仕切部屋と同じような個室を与えられていた(コルメラ 1, 6)。食事の時はしばしば家族と見なせるようなメンバーが一緒に食べ、監視人は特別なテーブルで食べたが、しかしそれは奴隷達を見渡せるようにするためであった(コルメラ 11, 1)。

43) コルメラ 1, 8。 Feminis quoque foecundioribus, quarum in sobole certus numerus honorari debet, otium nonnunquam et libertatem dedimus, cum complures natos educassent. Nam cui tres essent filii, vacatio, cui plures libertas quoque contingebat. Haec enim justitia et cura patrisfamilias multum confert augendo patrimonio.
[またより多くの子供をもうけた女奴隷について、一定の数の子供によって報賞に値する者は、もし何人かの子供を育て上げた場合には、時々の労働の免除やあるいは奴隷身分からの解放を我々は与えて来た。例えば3人の子供がいた場合には労働が免除され、それ以上であれば自由さえ与えられたのである。このような公平さと家父長としての配慮は、結局は財産を増大させることになる。]
奴隷の身分からの解放は、年老いてもう子供を産めなくなった女奴隷を自由にするという人道的な形で行われた。それ以外でも農場主達は高齢になった奴隷達を何らかの形で処分することを試みた。(カトー 2)。その他の場合でも、農場主達は昔から年老いた病弱な奴隷を農場から追い出して来ており、それは自分自身の子供と奴隷の子供がもはや使用出来なくなった時と同様であった(ユスティニアヌス法典 8, 151)。そういった不要になった者達を殺害することをクラウディウス帝は禁止し(スエトニウス「ローマ皇帝伝」25)、そしてそういった者達を追い出す際にはその者達が自由の身分となることが出来るよう規定した。

しかし更には――このことがより重要な点であるのだが――収穫時に必要となる労働力の大部分を恒常的に保持しておく必要性によって次の傾向がより顕著に現れて来たに違いない、つまり出来る限り全ての必需品を自分自身の経営の中で手に入れ、さらに生産物を市場で売れるものに自らがしていくということであるが、その理由はこのようなやり方によって通常は余っている労働力を繁忙期以外の月であっても活用出来たからである。ギリシア語における ἐργαστἠριον 44)[作業場、工房]に相当する ergastulum というラテン語が昔から農場において使用されていたが、そこでは鎖を付けられた奴隷、債務者、そして罪人が働きかつ寝泊まりしており 45)、また他の禁固刑に該当するものがそこで刑に服したのであり 46)、それは多くは天窓付きの地下室であった。

44) 同じ語が碑文では公的または私的な工房(=パラディウス≪4世紀のローマの農学者≫の言う fabrica)の意味で使われることは稀ではなかったし、またある種の土地の使用方法も意味し、その例として C. I. Gr. I. 1119 には、耕作や施肥――κὀπρον εἰσἀγειν [肥料を加える]――が禁じられた場所について、その土地区画の隣りに ἐργαστἠριον が置かれていた、というものがある。

45) 鎖に何か不具合がないかどうかの確認は農場管理人の義務となっていた(コルメラ 11, 1)。

46) そういった刑罰を科すことは農場管理人の権限であった。ただそういった罪人を許すことはただ農場主自身のみが出来た(コルメラ 11, 1)。元々は ergastulum はまた隔離棟≪特にハンセン病患者の≫の意味でも使われた。後には患者は valetudinarium [回復中の病人の収容施設]に入れられ、そこではまさに多くの軍事的な隔離棟と同じく食事制限と拘禁が治療法として実施されていた(コルメラ 12, 1);そういった隔離棟の病人の世話を一緒に住んでいる奴隷が行うことは、それは病人には望ましいことではあったろうが、許可されていなかった。≪この記述はヴェーバーのコルメラの書の誤読。実際にはvaletudinariusという名前で呼ばれた専任の奴隷が病人の世話をしたのであり、誰も世話しなかったということではない。おそらくヴェーバーは valetudinarium と valetudinarius を同じような意味と勘違いしている。後者は「隔離棟係」といった意味。≫

そこで行われた受刑者達の労働は、必ずしも常に特別に決められたものではなかった、ということは考えられることである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA