V. Florenz P.293 – 298 日本語訳(38)

日本語訳の第38回目です。ソキエタスと家族ゲマインシャフトの関係がかなり詳細に論じられ、「ソキエタスの債務」というものが発生する条件について論じられます。
ちなみにまた英訳の間違いがあり、”in solidum obligatus”は「連帯で責任を負っている」ですが、英訳(P.157)は”liable for the full amount”(全額について責任がある)としています。ヴェーバーは延々と連帯責任の原則がどこから発生したかを論じているのであり、また”in solidum”は今日でも「連帯責任」の法律用語として使われており、全額か一部かなどを論じていないことは一目瞭然だと思いますが。英訳の存在は訳す上での参考文献として非常に有り難いですが、どうも注意深い訳者とは言えないと思うようになってきています。
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3. ソキエタスの成員の個人的関係

 家族仲間の場合と同じように、ソキエタスの成員においてもゲマインシャフトの効力はゲマインシャフト全体の業務を主とする暮らしに対して及んだし、また全ての重要な個人的な関係に対しても及んだ。フィレンツェ以外の土地での結婚、つまり管理不能の場所での結婚は、ソキエタス(Compagnia)の許可無しにはソキエタスの成員、使用人頭(factor)、そして徒弟(discipulus)には認められていなかった 8)。それらの者達は、彼らがツンフト(ギルド)のメンバーであるソキエタスに所属する限りにおいては、そのツンフトから脱退することは許されていなかった 9)。また彼らはソキエタス(Compagnia)の仕事以外に、さらに別の自分自身の仕事をすることも許されていなかった 10)。

8)Statuto dell’ Arch. di Calimala I c. 75を参照せよ。

9)上掲書 c.81。

10)上掲書 c.67。

4. 家住み息子と使用人頭

 商人(のソキエタス)におけるfattore――使用人頭《日本語での番頭や手代に相当》――とdiscepolo――徒弟――の位置付けは、家住み息子の位置付けと非常に似た形で規定されている。家住み息子と同じように、fattoreは基本的にゲマインシャフトの全てを手に入れているが、その者自身はあくまでそのゲマインシャフトにおいての非独立の一部分として所属しているだけである 11)。fattore と discepolo の両方がゲゼルシャフトの債務について更に責任があり《ゲマインシャフトの話をしていたのにここで急にゲゼルシャフトの話にすり替わる点について違和感有り》、債権者はその債務を直接に fattore や discepolo 自身の債務であると見なすことが出来る。(しかしながら)諸法規はそういうケースにおいては、ただゲゼルシャフトの代表者(Chef)のみに対して、その債務について責任を持たせ、それを返済することを義務付けている 12)。ようやく1393年になってこれらの者達の個人的な責任は免除されるようになった 13)。代表者を裁判の対象にするということと、これらの fattore や discepolo を裁判の対象にするということは、両方共に必要なことであった 14)。fattore にソキエタスの業務の義務を負わせる上でのその正当性の証明のやり方については既に言及して来た。そういった全てのことを考慮しても、――徒弟と使用人頭の(ソキエタスとの)関係についてここで詳細に述べることはしないが――非独立のゲマインシャフトの成員(とソキエタスと)の関係においての、ソキエタスと家族ゲマインシャフトの相似性は疑いようもないほど明白である。

11)Tractatus Consulum Artium et Mercatorum R. 17を参照。――この法規の1415年版におてもL. IVで同じものが採用されている。

12)L. c. R. 18. を参照。

13)Tractatus de cessantibus et fugitivis R. 14を参照。

14)Tractatus Consulum Artium et Mercatorum R. 19を参照。

家族ゲマインシャフトのソキエタス的性格とソキエタスの家族的性格

 ここで問題となるのはここまで述べたことから演繹して、ソキエタスというものは家族法の概念を転用《言語は”Herübernahme”、辞書に無い単語。おそらくギリシア語のμετάληψις=換喩、ある慣用的な表現の中の言い回しを別のコンテキストにおいて使うこと{例:「早起きは三文の得」という表現を踏まえて「明日は三文得するつもり(=早起きする予定である)」などと言うこと。}、をドイツ語にしたのではないか。ドイツ語の直訳のニュアンスは「こちらに持ってきて受け取ること」》したものと考えてよいかどうかということである。今我々がここで考察しているソキエタスというものは、疑い無くある一種の人間関係というもの以上の独自の形態を持っているが、それはソキエタスの関係それ自体から直ちに生まれて来るようなものではない。そのソキエタスはしかしながら、その起源として手工業から発生したものとして、全くのところ家計のゲマインシャフトと結び付けられたものとして説明しうるのであり、そのゲマインシャフトは一緒になった仲間(Genosssen)同士の個人的関係に影響を及ぼす信頼関係を内包していた。これに対して他方では、法律における諸規定は家族ソキエタスについて、我々の見解からすれば数多くの違和感のある内容を定めており、そうした法規定は次のような観察の仕方によってのみ明確に理解される。つまり、家の新しく生まれた息子について、早々と父親または祖父の業務における使用人頭(Kommis)とかソキエタスの成員(Compagnon)に将来成ることを期待する、そういう観察の仕方においてである。

 労働ゲマインシャフトと後の時代の巨大な産業上の連合(Associationen)は、まず最初の発展段階において家族に固有である要素と共通の家計をその発展の段階の中で自分自身の内に取り込んでいた。家族はしかしながら、それ自身がソキエタスとして構成されており、――たとえばそのように両者の関係を構成することが出来るかもしれないし、またラスティヒの見解は私見ではその点で制限して考えるべきであると思われる。

ソキエタスの財産法
ソキエタスの債務と個人的債務

 既に我々が知っているもっとも初期のフィレンツェでの法的史料において、ソキエタスの仲間(Genosssen)の責任については次の方向へと進んでいた。つまり、ソキエタスの成員一人一人の任意の債務の全てではなく、ただある決まったカテゴリーを、つまりソキエタス(全体)の債務のみを連帯責任の対象として考える、という方向である。そして次に来る立法上の問題は、ある債務がソキエタスの債務であるかないかということを判定するための標識をどう設定すべきか、ということであった。

 1309年の Generalis balia は特定のソキエタスの成員達に”in quantum socios tangeret”である債務に対して責任を負わせており、その意味はその債務がその成員達に関係している限りにおいて、ということであった。しかし何をもってその者達は関係していると言えるのか?商取引においてはそれについての実用的な判断のための目印が必要であった。

ソキエタスの債務を判断する目印
1.会計簿への記帳

 ここフィレンツェにおいては簿記が最初から意義を持ち得ていた。我々が既にソキエタス・マリスにおいてソキエタスの財についての特別な記帳の必要性を強調したように、ここにおいては更にも増して業務の遂行に関連しての特別な記帳が必須であった。そういった特別な記帳の発生を、これまで既に見て来たアルベルティ家とペルッツイ家の帳簿を載せた出版物 15)は明らかにしている。既に1324年の法規で下記のことが規定されている:

 „Et quicunque recipere debet aliquam pecuniae quantitatem adscriptam alicujus libri societatis alicujus quilibet sociorum et obligatur in solidum.“
 (そして誰であれある額のお金をソキエタスの何かの勘定から受け取ることになっている場合は、ソキエタスのどの成員であっても、その金額について連帯して責任を負う。)

15)Passerini《第3章の注46への訳注参照》の Gli Alberti di Firenze を参照。また Peruzzi《同左》の Storia del commercio c dei banchieri di Firenze を参照。特に後者の帳簿には勘定表が含まれている。

同様に Statut der Arte di Calimala I 88 も次のことを規定している:

 ”a pagare tutti e ciascuno debiti, i quali egli overo alcuno de’ suoi compagni fosse tenuto di dare ad alcuna persona i quali debiti fossono scritti nel libro della loro compagnia.”
 (全てのかつ各々の債務を支払うことにより、その債務はその者自身かその者の属するソキエタスの別の誰かが、また別の第三者に対して負っていると見なされるのであるが、その債務はそのソキエタスの帳簿に記帳されると見なされる。)

そして1393年の商人の法(Satute mercatorum)は次のことを規定している:

 ”Si vero aliquis … promissionem fecerit etiam ignorante … socio … et ratio talis debiti … reperiretur descripta in aliquo libro ydoneo talium sociorum … quilibet talium sociorum sit … in solidum obligatus.”
 (もし実際に誰かが…約束を(将来において)した場合でそしてまたソキエタスの成員がそのことを知らなかった場合…そしてその場合の債務の金額が…ある適当なソキエタスの帳簿に記帳されたものが見出されることになるであろう…そのようなソキエタスの成員の誰もが…連帯して責任を負うことになる。)

こうした(特別記帳の)基本原則は、このように一貫して採用されている。

 しかしながら当然のこととして、この基本原則だけでは十分ではなかった。第三者に対する責任、債権者の権利は、ただ単に債務者の記帳の仕方だけに依存していることは有り得なかった。記帳は(債務の存在の)証拠を示す一つのやり方という性格を持っていた。このある意味偶然作られたような目印とは別に、もっと本質的な目印が必要だった:それはつまりどの債務がソキエタスが負うべきものとして記帳されるのかということであった。

2.ソキエタスの名前での契約

 より古い時代の小規模な人間関係におけるのと同じように、ここにおいてある商店の業務遂行についてどう取り扱うかを検討するとすれば、結論として使われるのはその商店において、またはその商店の中から自生的に生まれた目印であった。より後の時代での大規模な取引においてはこの目印ということは問題にされていなかった。Tractatus de cessantibus et fugitivis のある箇所(第14章)が次のことについて公的な判断基準を決めている場合において、その判断基準とはソキエタスとしての債務が存在しているのか否かということについてのものであるが、既に1324年の法規のある箇所(ラスティヒによって出版された本の中に引用されている箇所)において、またより後の時代の法規の諸版において、更にまた Statuto dell’ Arte di Calimala においても、ある一人のソキエタスの成員による、その者がソキエタスの名前において契約しているという説明付きでの単純な契約が、そのソキエタスの成員に対して対外的に義務を負わせる上で十分なものと認められ、そのソキエタスの帳簿への記帳と並んで、債権者達からのソキエタスの成員に対する要求を十分に満たす基礎的なこととして法規の中で設定されていた。この”asserere se facere pro se et sociis suis”({契約を}自分自身の名においてとまた他のソキエタスの成員の名において行うこと)のより後の時代での形態は、商号(Firma)を使った契約であり、それは1509年のボローニャの”Statuti della honoranda università de’ mercatanti”のfol. 67に示されている通りである。その同じ法規によれば、ソキエタスの成員の責任はお互いに、ここで言及している内容に適合する諸ケースにおいての以下の事実の相互確認によって制限を受けていた。その事実とは、
1)債権者が債務のソキエタスの帳簿への記帳を証明すること。または
2)送金の手形の上に”proprio e usato nome della compagnia”(適切かつ一般に認められているソキエタスの名前)が記載されていること。
の2つである。後者については当然のこととしてここでは”pro se et sociis suis”(自分の名前と自分の属するソキエタスの成員の名前で)で契約するということに適合している。

V. Florenz P.293 – 298 ドイツ語原文(38)

ドイツ語原文の第38回目です。
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3. Persönliche Verhältnisse des socius.

 Wie bei den Familiengenossen, so erstreckt sich auch bei den socii die Wirkung der Gemeinschaft auf das gesamte Erwerbsleben und auch auf alle wichtigen persönlichen Verhältnisse. Verheiratung außerhalb von Florenz, also außerhalb der Möglichkeit der Kontrolle, ist ohne Erlaubnis der Kompagnie dem socius, factor und discipulus nicht gestattet 8); dieselben dürfen, solange sie zu einer Kompagnie der Zunft gehören, aus letzterer nicht austreten 9); sie dürfen nicht neben den Geschäften der Kompagnie noch eigene Geschäfte machen 10).

8) Statuto dell’ Arch. di Calimala I c. 75.

9) Eod. c. 81.

10) Eod. c. 67.

4. Haussohn und Kommunis.

 Die Stellung des kaufmännischen fattore — Kommis, — und discepolo — Lehrling — ist in einer derjenigen des Haussohns sehr analogen Weise geregelt. Wie der Haussohn, so erwirbt grundsätzlich der fattore alles der Gemeinschaft, welcher er als unselbständiges Glied angehört 11); er sowohl wie der discepolo haften ferner für die Schulden der Gesellschaft, der Glubiger kann sich unmittelbar an sie halten, die Statuten verpflichten für den Fall, daß dies geschieht, nur den Chef, für sie einzutreten und sie zu liberieren 12). Erst 1393 wurde die persönliche Haftung dieser Personen aufgehoben 13). Die Gerichtsbarkeit über den Chef ist notwendig zugleich Gerichtsbarkeit über dessen fattori und discepoli 14). Die Legitimation des fattore zur Verpflichtung der Sozietät wurde schon erwähnt. Nach alledem, — die nähere Erörterung des Verhältnisses der Lehrlinge und Kommis gehört nicht hierher, — ist der Parallelismus zwischen Sozietät und Familiengemeinschaft in den Verhältnissen auch der unselbständigen Glieder der Gemeinschaft unverkennbar.

11) Tractatus Consulum Artium et Mercatorum R. 17 — in die Statutenredaktion von 1415 aufgenommen L. IV das.

12) L. c. R. 18.

13) Tractatus de cessantibus et fugitivis R. 14.

14) Tractatus Consulum Artium et Mercatorum R. 19.

Societätscharakter der Familiengemeinschaft und Familiencharakter der Societät.

 Die Frage ist aber, ob daraus eine Herübernahme aus dem Familienrecht zu den Sozietäten zu folgern ist. Unzweifelhaft haben die uns hier beschäftigenden Sozietäten eine in mehr als einer Beziehung eigenartige Gestalt, welche aus einem Sozietätsverhältnis an sich nicht folgt. Dieselbe erklärt sich indessen durchaus durch die, dem Ursprung dieser Sozietäten aus dem Handwerk entstammende, Verbindung derselben mit einer Gemeinschaft des Haushalts, welche ein die gesamten persönlichen Verhältnisse des Genossen beeinflussendes Vertrauensverhältnis involvierte. Dagegen enthalten andererseits die Rechtssätze über die Familiensozietäten zahlreiche nach unserer Auffassung befremdende Bestimmungen, welche nur bei einer Betrachtungsweise erklärlich sind, die in dem neugeborenen Sohn des Hauses schon den künftigen Kommis und späteren Kompagnon des väterlichen und großväterlichen Geschäfts sieht.

 Die Arbeitsgemeinschaften und noch die späteren großen industriellen Assoziationen haben in ihren ersten Entwicklungsstadien ein auch der Familie eigentümliches Moment, den gemeinsamen Haushalt, mit seinen Konsequenzen in sich aufgenommen, die Familie aber hat sich als Sozietät konstituiert, — so etwa wäre das Verhältnis beider zu formulieren und dahin scheint mir die Auffassung von Lastig restringiert werden zu müssen.

Vormögenrecht der Societäten.
Societätsschulden und Privatschulden.

 Schon in den frühesten uns bekannten Florentiner Rechtsquellen ist die Regelung der Haftung der Genossen dahin fortgeschritten, daß nicht alle beliebigen Schulden eines socius, sondern nur gewisse Kategorien, die Sozietätsschulden, zur solidarischen Haftung führen sollen, und die nächste legislatorische Frage ist nun, welches Kriterium dafür aufzustellen sei, ob eine Schuld Sozietätsschuld ist oder nicht.

 Die Generalis balia von 1309 macht die socii haftbar für Schulden, „in quantum socios tangeret“, insoweit eine Schuld sie „angeht“. Was aber geht sie an? Dafür mußte ein im Verkehr praktikables Merkmal gegeben werden.

Merkmale der Societätsschulden.
1. Eintragung in die Bücher.

 Von Anfang an hat hier die Buchführung Bedeutung gewonnen. Wie wir schon bei der societas maris die Notwendigkeit besonderer Buchung des Sozietätsgutes betonten, so und noch mehr war hier eine gesonderte Buchführung über den Geschäftsbetrieb unentbehrlich. Das Bestehen einer solchen ergeben auch die bisherigen Publikationen aus den Büchern der Alberti und Peruzzi 15). Schon die Statuten von 1324 bestimmen nun:

 „Et quicunque recipere debet aliquam pecuniae quantitatem adscriptam alicujus libri societatis alicujus quilibet sociorum et obligatur in solidum.“

Ebenso das Statut der Arte di Calimala I 88:

 „a pagare tutti e ciascuno debiti, i quali egli overo alcuno de’ suoi compagni fosse tenuto di dare ad alcuna persona i quali debiti fossono scritti nel libro della loro compagnia.“

Und die Statuta mercatorum von 1393:

„Si vero aliquis … promissionem fecerit etiam ignorante … socio … et ratio talis debiti … reperiretur descripta in aliquo libro ydoneo talium sociorum … quilibet talium sociorum sit … in solidum obligatus.“

Dieser Grundsatz geht also durch.

 Allein naturgemäß konnte er nicht ausreichen. Die Haftung Dritten gegenüber, ein Recht des Gläubigers, konnte nicht von der Buchungsart des Schuldners allein abhängig gemacht werden. Die Buchung hat die Natur eines Beweismittels. Neben diesem akzidentellen Kennzeichen mußte es ein essentielles geben: es kam eben darauf an, welche Schulden zu Lasten der Sozietät zu buchen waren.

15) Passerini, Gli Alberti di Firenze. Peruzzi, Storia del commercio c dei banchieri di Firenze. Besonders in letzterem Buch sind Bücherauszüge enthalten.

2. Kontrahieren namens der Societät.

 Handelte es sich, wie in den früheren, kleinen Verhältnissen, um den Geschäftsbetrieb von einem Kaufladen aus, so war der Abschluß im Laden oder vom Laden aus das von selbst gegebene Kennzeichen. Im späteren und Großverkehr kam dies nicht in Frage. Während eine Stelle (Rubr. 14) des Tractatus de cessantibus et fugitivis die officiales entscheiden läßt, ob eine Schuld der societas vorliegt oder nicht, wird schon in einer (bei Lastig abgedruckten) Stelle der Statuten von 1324, in den späteren Redaktionen, und in dem Statuto dell’ Arte di Calimala das einfache Kontrahieren eines socius mit der Erklärung, er kontrahiere namens der Sozietät, für genügend zur Verpflichtung der socii nach außen erachtet und neben der Eintragung in die Bücher der Sozietät als genügendes Fundament für den Anspruch des Gläubigers gegen die socii hingestellt. Die spätere Form dieses „asserere se facere pro se et sociis suis“ ist das Kontrahieren unter der Firma, wie die Statuti della honoranda università de’ mercatanti von Bologna von 1509 (fol. 67) zeigen; nach denselben beschränkt sich die Haftung der socii für einander aus Wechseln auf die beiden den hier erwähnten entsprechenden Fälle, daß entweder 1. der Gläubiger die Eintragung der Schuld in die Bücher der Sozietät nachweist, oder 2. auf dem Wechsel der „proprio e usato nome della compagnia“ gebraucht ist. Letzteres entspricht mithin dem Kontrahieren „pro se et sociis suis“ hier.

V. Florenz P.288 – 293 日本語訳(37)

日本語訳の第37回目です。
ここはなかなかにタフで、中世フランス語が登場します。さらには中世イタリア語も登場しますが、そこで eccecuzione という単語がラテン語の辞書にも現代イタリア語の辞書にもなくて、色々とググってようやく現在のイタリア語におけるesecuzioneだということが分りました。冷静に考えれば英語でのexecutionですね。
この箇所はヴェーバーが再度連帯責任原理が、家族ゲマインシャフトから生まれたということを論述しようとしています。
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I. 法規における文献素材。発展段階

 そしてそれが実際に起きたことだった。

 ラスティヒは 2)、1309年の Generalis balia、法規の1320、1321、1324、1355年の各版と、1393年のArte di Calimala と die Statuta mercatorum によって構成されている発展の順序について論述し、そして類似する箇所をまとめて並べることによりその内容を一目で分るようにした。 2)既に引用済みの商法雑誌の論文を参照せよ。  そこで述べられている発展の経緯は、本質において上述した一般論としての発展と同じであり、特に次の点においてそうである。つまり連帯責任の前提条件として、より古い時代の文献においての”communiter vivere”(一緒に生きること)に後に”eandem mercantiam et artem exercere”(同じ商品を扱い同じ仕事に従事すること)ということが付加されているという点においてである。個々の法規からの引用を並べてみることでをここで繰り返す必要はないであろう。―― ゲゼルシャフト(会社)の連帯責任についての血縁関係の意味  より古い版の法規においては、連帯責任はまず第一に一緒に生活している(communiter viventes)「肉体における兄弟(fratres carnales)」のものとして言及されている。ラスティヒはまたここから一つの――実際の所はあまり有力とは言えない――論拠を引き出しているが、その論拠とは純粋に血縁関係による観点を優先して考えることへの論拠である。次の考え方は――ここで再度手短にこの問題に立ち入るが――疑う余地が無い。それはつまり確かな事実から考えてジッペ(氏族)の仲間の間におけるお互いの責任関係がより古い制度であるという考え方である。しかしながらそれは少し誇張されており、それ故にここでの結論としてはより後の時代になって家のゲマインシャフトに基礎を置く連帯責任がその古い(氏族の仲間の間での)責任関係の発展形として出現したのだということになる。フィレンツェにおいてはラスティヒによって引用された法規の諸版の中で最も古いものの更に前に既に、ソキエタスの成員間の連帯責任を承認する原則を見出すことが出来る:Custodes nundinarum Campanie et Brie、つまり(フランスの)シャンパーニュ(とブリー)の大市《フランスのシャンパーニュ平原の諸都市で行われた12~14世紀での大規模な市のこと》の警備当局が1278年にフィレンツェの警備当局に対して、ある何かの罪(または債務)によって逃亡者となった Lapo Rustichi について、その者本人とその者のソキエタスの仲間について財産を差し押さえ身柄を拘束することを要請している 3)。同一の警備当局が1300年にフランスの裁判所に対して、フィレンツェの Scali のソキエタスによる Guido Pazzi という者の債務に対しての強制執行を行って欲しいという内容の依頼をしている。そのソキエタスは”nomine suo et dictorum sociorum suorum”(その者自身と前述のその者のソキエタスの名において)シャンパーニュの大市と”per suorum et dicte societatis venditionem bonorum”(その者自身と前述のソキエタスによる商品の販売について)4)契約していた。1303年には、ソキエタスの債務に基づく支払いの不履行によりフィレンツェのコムーネによって(更なる借り入れを)禁じられた 5)というフィレンツェの市民が、それに対してその男はソキエタスの成員ではなかったと抗弁しており、更に次のように主張している:
 „que li livres et l’escripture toute dou dit Francoiz furent venues a Paris … par la quele escriture il ne fu onques trouvez comme compains … Item que la coustume de la dite vile de Florence est tel que qui est compains d’aucune compaignie, ses nons est portés au Conses de la vile et autrement il n’est pas tenus compains”(その書物と書面は全て前述のフランソワがパリにやって来たと言っているということを…どんな他の文献によってもその者はかつてソキエタスの成員と見なされたことは無い…さらにフィレンツェの前述の町の慣習法は何かのソキエタスの成員である者は、その町のConses《ラテン語でのcensus、市民の登記簿のことと思われる》に名前が記録される、そうでなければその者はソキエタスの成員とは見なされない。) Scaliのソキエタスは、その破産について Villani《Giovanni Villani、1276または1280~1348年、フィレンツェの銀行家、外交官、年代記作者》が1326年のこととしてその年代記で述べているが、このソキエタスは1326年の時点で既に100年以上も存続しており、同様にアルベルティとペルッツィのソキエタスが後の時代と同様な形態で既に13世紀に存在していた。 3)Giornale Storico degli Archivi Toscani(トスカーナ州の古文書館の史料)の Iのp.246を参照せよ。In dem Excitatoriumの項の252ページにこの例と同様の例が見られ、そしてまたロマニストの主張する Institorats 《会社の責任者、ある業務の責任者》の概念を使った論理構成が既に行われている:”quod dictus Bartolus et Grifus fratres et Johannes Adimari mercatores predicti, dictum Lapum pro ipsis ipsorumque societatis totius nomine, constituerant in solidum … actorem et nuntium specialem negotiorumque gestorem, prout in instrumento … vidimus …”(前述のBartolusとGrifusの兄弟、そしてJohannes Adimari、これらの以前言及した商人達は、前述の Lapus を自分達と自分達のソキエタス全体の名前において、全員一致で指名した、代理人、特別かつ仕事上のメッセンジャー、また仕事を遂行する者として、この文書に書いてある限りにおいて、…我々は確認した…ということを)ここで示された文献は責任についての法的な根拠としてではなく、(委任された者の)身分と正当性の証明のために引用されており、それもようやく2番目の手紙においてである。 4)1284年にロンドンにて発行された受領書(Balduzzi Pegolotti《Francesco Balducci Pegolotti、1290~1347年、フィレンツェの商人かつ政治家》の Della decima e di varie altre gravezze imposte del comune di Firenze t. II のp.324)にて Simone Gherardi は次のことを告白している、della compagnia di Messes Thomaso Ispigliati e di Lapo Ughi Spene: … che io ò ricevato e avuto per me e per li compagni desla vandetta compagnia etc(大市におけるソキエタスの仲間である Thomaso Ispigliati と Lapo Ughi Speneについて:…私は私の名前においてと販売のためのソキエタスの仲間の名前において受領し所有した、等々)。

5)Giornale Storico degli Archivi Toscani Iの p.272を参照せよ。

 諸法規が後の時代になってもなお肉体における兄弟(fratres carnales)における責任を最上位に置いているか、あるいはただそれだけに言及している。そこで行われているのはまったくもって a potiori (重要性の高いものから先に扱う)なやり方である:フィレンツェ人におけるソキエタスは圧倒的に多くは家族ソキエタスであった。このことにはまったくもって経済的な理由があった:親族以外のメンバーとの連合(association)の当時のまた今日におてものアキレスの踵《一番の弱点》は、ある成員の死亡によるその連合の崩壊と、その成員の死後遅かれ早かれ連合の財産を流動化(資産売却による現金化)しなければならない必要性であり、多くの場合それは多大な損失を伴うものであった。この危険を伴う不測の事態について、何世代にも渡って継承され、家計ゲマインシャフトに基礎を置く家族連合(association)においては、相当な程度までこのリスクを軽減することが出来ていた。産業における財産の存続と連続性はここにおいて確固たる自然な土台を持っていた。しかしそれにもかかわらず、家族ソキエタスにおいてもまた次の規則を持っていた。つまり、そのソキエタスの中心部を成す家族の成員以外に、その家族の名前がゲゼルシャフトの名前となっていたのであるが、家族ではない成員の存在を許容しており、その者達の権利は家族成員と同等であるという規則である。この規則はアルベルティ家とペルッツィ家のソキエタスに関する書面に疑いもなくはっきりと現れている。

 ここにおいて言及された方式の全てのソキエタスは、それについては既に述べて来たが、ある種の家族的な性格を持っていた。その性格は非常に個人的な、根源的に常にそれと結び付けられていた家計のゲマインシャフトによって強められており、ソキエタスの成員間の信頼関係を作り出していたのである。 家族とソキエタスの類似性について 1.仲裁裁判  家族仲間の間での争いごとは、ソキエタスの成員間のそれと同様、ここフィレンツェにおいても他の都市と同様に、正規の訴訟手続によっては解決されていなかった、――根源的に見て明白なこととして、そのような人員間の果たし合いのような裁判上の手続が不適当であることにより、――そうではなくて権威者(ex officio)による強制的な命令による仲裁によって解決されていた 6)。

6)Statuta Populi et Communis Florentiae は1415年に Edit. Friburg-Florentiae, l. II c. 66 を最終的に改訂している。また Statuto dell’ A[rte] di Calimala I 60. を参照せよ。ほとんどすべての法規ににおいて繰り返されているソキエタスの成員がお互いに証人として出廷することが出来ないということと、それに適合している証言の拒否についての法、例えば Decisiones Rotae Lucensis 35 を比較せよ。

2.責任と相続財産分与義務

 家全体での責任については、――ソキエタスの場合は基本的にマネージャー(fattori)と徒弟(discepoli)の責任も、家族の場合は家住み息子の責任も、主人または父親に対して、そしてその逆の責任も、Statuta Populi et Communis Florentiae l. II c. 110 とツンフト(ギルド)の法規(ラスティヒが引用した箇所)によって等しく認められていた。家族仲間(Genossen)の責任に関しては、諸法規はまたここにいおいて固有のものであり、そして我々にとっては別の場所で既に出会っている相続財産分与義務と――そしてそれに関連する権利とを――家族の中のある債務超過の状態にある成員の相続分について無限責任として規定している。――これと全く相似の形でソキエタスについて、Statuto dell’ Arte di Calimala (I c. 62)における規定は、強制執行を次のことに関して定めている。”compagni e compagnia e gli altri … salvo che se’l maggiore o lo scrivano di quella compagnia … giurasse … che quello compagno, per cui si domanda, non abbia del suo nella compagnia, in questo caso non siano tenuti di pagare per lui. E se … dicesso che egli avesse meno … facciasi l’eccecuzione solo in quella quantità che s’ha … “(ソキエタスの成員とソキエタスと他のもの…もしソキエタスの支配人またはソキエタスにおける雇われ人が…誓ったのでなければ…その者について問い合わせがあったソキエタスの成員が、そのソキエタスにおいて何も所有していない場合には、そのソキエタスの他の成員はその者に代わって支払うことは無い、そしてもし…彼が彼自身で(請求された金額より)少ない金額しか持っていないと言われているとしたら…強制執行《eccecuzione →esecuzione、英語でのexecution》についてはただその者が保有している範囲内で行うものとする…) ここにおいては、忘れるべきではないが、個人に対する債権者のことを扱っているのであり、我々はここにおいて以前述べた最初の発展段階について確認することが出来る:つまりソキエタスにおいて責任というものが占めている位置に、直ちにかつ直接的にゲマインシャフトに対する強制執行が登場して来るのであり、ソキエタスにおいては財産分与の義務と債権者による財産分割の要求が登場して来るのである 7)。

7)(ヴェーバーがこの論考を執筆していた)今日の商法典(HGB)の第119,120。126、127条を参照せよ。

V. Florenz P.288 – 293 ドイツ語原文(37)

ドイツ語原文の第37回目です。ここに以前紹介した”a potiori”が出てきます。
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1. Statutarisches Material. Gang der Entwickelung.

 Das ist nun in der Tat der Fall.
Lastig hat 2) die Entwicklungsreihe, welche die Generalis balia von 1309, die Statutenredaktionen von 1320, 1321, 1324, 1355, die Statuten der Arte di Calimala und die Statuta mercatorum von 1393 bilden, dargestellt und durch Nebeneinanderstellung der Parallelstellen anschaulich gemacht.
Es ist wesentlich die oben generell geschilderte Entwicklung, welche insbesondere darin hervortritt, daß als Voraussetzung der Solidarhaftung zu dem „communiter vivere” der älteren Quellen später das „eandem mercantiam et artem exercere” hinzutritt. Die Nebeneinanderstellung der einzelnen Quellenzitate soll hier nicht wiederholt werden. —

2) In der cit. Abh. in der Zeitschr. für Handelsr.

Bedeutung der Verwandtschaft für die gesellschaftliche Solidarhaft.

 In den älteren Redaktionen findet sich an erster Stelle die Solidarhaft der „fratres carnales” communiter viventes erwähnt und Lastig hat auch hieraus ein — in der Tat nicht unerhebliches — Argument für die Priorität der rein verwandtschaftlichen Gesichtspunkte entnommen. Es ist — um hierauf noch einmal kurz einzugehen — unzweifelhaft, daß die Haftung der Sippschaftsgenossen füreinander, aus gewissen Tatbeständen, das ältere Institut ist, indessen scheint es zu weit zu gehen, deshalb zu schließen, daß die spätere, auf der häuslichen Gemeinschaft beruhende Solidarhaftung aus jener „hervorgegangen” ist. In Florenz ist schon vor der frühesten der von Lastig zitierten Statutenredaktionen die Solidarhaftung der socii anerkannter Grundsatz: Die Custodes nundinarum Campanie et Brie, die Meßpolizeibehörde der Champagnermessen, requirieren 1278 die Behörden von Florenz wegen der Schuld eines gewissen, flüchtiggewordenen Lapo Rustichi mit dem Ersuchen, ihn und „ejus socii” realiter und personaliter zu exequieren 3). Dieselbe Behörde richtet 1300 an die französischen Gerichte das Ersuchen um Vollstreckung der Schuld eines gewissen Guido Pazzi von der Florentiner Sozietät der Scali, welche jener „nomine suo et dictorum sociorum suorum” auf den Champagnermessen |
kontrahiert habe, „per suorum et dicte societatis venditionem bonorum” 4). Im Jahre 1303 remonstriert ein von der Kommune Florenz wegen Nichtzahlung einer Sozietätsschuld bannierter angeblicher Florentiner Bürger hiergegen mit dem Bemerken 5), er sei nicht socius gewesen, und behauptet:

 „que li livres et l’escripture toute dou dit Francoiz furent venues a Paris … par la quele escriture il ne fu onques trouvez comme compains … Item que la coustume de la dite vile de Florence est tel que qui est compains d’aucune compaignie, ses nons est portés au Conses de la vile et autrement il n’est pas tenus compains”.
Die Kompagnie der Scali, von deren Sturz Villani zum Jahre 1326 berichtet, bestand in der Weise, wie in diesem Jahre, schon über 100 Jahre, desgleichen bestanden die Sozietäten der Alberti und Peruzzi schon im 13. Jahrhundert in derselben Art wie später.

 Wenn also die Statuten noch später die Haftung der fratres carnales an die Spitze stellen, oder ausschließlich erwähnen, so geschieht das wohl a potiori: die Florentiner Sozietäten sind ganz überwiegend Familiensozietäten. Dies mit gutem wirtschaftlichem Grunde: die Achillesferse aller damaligen und auch heutiger Assoziationen inter extraneos ist der Auseinanderfall mit dem Tode eines socius und die Notwendigkeit, alsdann früher oder später — selten ohne schwere Verluste — zu liquidieren. Diese gefährliche Eventualität reduzierte sich bei den auf einer, durch Generationen fortgesetzten, Haushaltungsgemeinschaft beruhenden Familienassoziationen ganz erheblich, der Fortbestand, die Kontinuität des industriellen Vermögens, hatte hier eine feste natürliche Grundlage. Nichtsdestoweniger ist es auch bei den Familiensozietäten die Regel, daß außer den Mitgliedern der den Mittelpunkt bildenden Familie, welche der Gesellschaft den Namen gibt, noch andere Teilhaber vorhanden sind, deren Rechtsstellung dann die gleiche ist, wie die Papiere der Alberti und Peruzzi zweifelsfrei ergeben.

 Jede Sozietät der hier besprochenen Art hat, das wurde schon früher hervorgehoben, einen gewissen familienartigen Charakter, der sich aus dem engen persönlichen, durch die ursprünglich stets damit verbundene Gemeinschaft des Haushalts verstärkten, Vertrauensverhältnis des socii ergab. Die durchweg analoge Behandlung der socii und der Familiengenossen ist denn auch in Florenz scharf durchgeführt.

3) Giornale Storico degli Archivi Toscani I p.246. In dem Excitatorium S.252 das. betr. dieselbe Sache findet sich auch schon die romanistische Institorats-Konstruktion verwertet: „quod dictus Bartolus et Grifus fratres et Johannes Adimari mercatores predicti, dictum Lapum pro ipsis ipsorumque societatis totius nomine, constituerant in solidum … actorem et nuntium specialem negotiorumque gestorem, prout in instrumento … vidimus … ” Die bezogene Urkunde wird nicht als Rechtsgrund der Haftung, sondern als Identitäts- und Legitimationsnachweis angeführt, auch erst in dem zweiten Briefe.

4) In einer in London 1284 ausgestellten Quittung (Balduzzi Pegolotti, Della decima e di varie altre gravezze imposte del comune di Firenze t. II p.324) bekennt Simone Gherardi, della compagnia di Messes Thomaso Ispigliati e di Lapo Ughi Spene: … che io ò ricevato e avuto per me e per li compagni desla vandetta compagnia etc.

5) Giorn[ale] Stor[ico] degli Arch[ivi] Tosc[ani] I p.272.

Analogien der Familie mit den Societäten.
1. Schiedsgerichte

Streitigkeiten unter Familiengenossen wie unter socii werden hier wie anderwärts nicht im ordentlichen Prozeßwege ausgemacht, — ursprünglich offenbar der Unschicklichkeit des gerichtlichen Zweikampfs unter solchen Personen wegen, — sondern durch ex officio und zwangsweise anzuordnende arbitria erledigt 6).

6) Stat[uta] Populi et Communis Florentiae, definitiv redigiert 1415, Edit. Friburg-Florentiae, l. II c. 66. Statuto dell’ A[rte] di Calimala I 60. Cf. die in fast allen Statuten wiederkehrende Unfähigkeit der socii, als Zeugen füreinander aufzutreten und ihr entsprechendes Zeugnisverweigerungsrecht z.B. Decis[iones] Rotae Lucensis 35.

2. Haftung und Abschichtungspflicht.

 Die Haftung des gesamten Hauses, — bei der Sozietät grundsätzlich auch der fattori und discepoli, bei der Familie auch der Haussöhne, für den Chef bzw. Vater, und umgekehrt, — ist von den Statuta Populi et Communis Florentiae l. II c. 110 und von den Zunftstatuten (an den von Lastig zitierten Stellen) gleichmäßig anerkannt. Hinsichtlich der Haftung der Familiengenossen haben dann die Statuten auch hier die eigentümliche, uns schon anderwärts begegnete Abschichtungspflicht — und das entsprechende Recht — der Familie bezüglich des Erbteils des überschuldeten Mitgliedes an die Stelle der unbedingten Haftung gesetzt; — und ganz analog ist für die Sozietäten die Bestimmung im Stat[uto] dell’ Arte di Calimala (I c. 62), wonach sich die Exekution richtet gegen
„compagni e compagnia e gli altri … salvo che se’l maggiore o lo scrivano di quella compagnia … giurasse … che quello compagno, per cui si domanda, non abbia del suo nella compagnia, in questo caso non siano tenuti di pagare per lui. E se … dicesso che egli avesse meno … facciasi l’eccecuzione solo in quella quantità che s’ha … “

Es handelt sich hier, nicht zu vergessen, um „Privatgläubiger”, und wir finden darin eine Bestätigung der früheren Darstellung von den ersten Entwicklungsstadien: an die Stelle der Haftung |
ohne weiteres und der unmittelbaren Exekution in die Gemeinschaft tritt auch bei der Sozietät die Ausschichtungspflicht und der Anspruch der Gläubiger auf Auseinandersetzung 7).

7) Cf. für heutiges Recht HGB. Art. 119, 120, 126, 127.

IV. Pisa. Societätsrecht des Constitutum Usus. – V. Florenz P.283 – 288 日本語訳(36)

日本語訳の第36回目です。この回は胸突き八丁という感じで、解読が大変な俗ラテン語がやたらと登場しましたし、またギールケの説に対する反論が、その元のギールケの説を知らないと言うこともあって苦戦しました。しかし何とか第4章を終えて第5章に入りました。
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合名会社と合資会社の原理上の違い

 製造業者にとってそのような状況があったのであれば、我々は観察結果について次のような興味深い証拠を再び手にしたことになる。――その観察結果はラスティヒが詳しく述べた見解に近付くのであるが――それはつまりコムメンダ関係とそしてそれに続き更にはまた合資会社へも発展していく人間関係が、その出発点は経済的に見て、また更にはそういう言い方さえ出来る、社会的に平等ではない地位の者達の連合(association)であるということであり、その一方では連帯責任原理というものが、相互に平等であって原則的にはある財産に対して平等な処分権を付与されている者達のゲマインシャフトから生まれているということである。

 ピサにおける様々なソキエタスが、そこから連帯責任の原理が生成される基礎では決して無いと言う事例を我々は数多く目にすることが出来る。ここで問題となるのはただ次のことである。つまり可能性としてソキエタスの財産に対しての制限の方策が、特別財産一般の形成を、つまりまた公開会社(ゲゼルシャフト)の形成を、抑制する方向に働いたのではないかということである。特に次のことは確からしいと言えるであろう。つまりbottegaとそれに属する財産についての責任を制限することが、その制限はソキエタス・マリスからの類推によって compagnia de terra において生じたに違いないののであるが――文献史料はそれについては何も言及していないが――、公開会社(ゲゼルシャフト)においての業務によって生じた財産に対する、先に述べた制限の強化を促進したのであると。それ以外にソキエタスの財を特別な勘定に入れるという簿記上のやり方も、つまりそれがどのようにジェノヴァの文献史料及び海上取引に関わる諸ソキエタスにおける事物の本性(die Natur der Sache)《法律が存在しない時に裁判の判断の基準となる社会通念や公序良俗などのこと》から発生したのかということも、また連帯責任原理の生成への抑制に影響力を持っていたと言える。文献の位置付けについてはしかしながら未定のままにしておかねばならない。

ソキエタスに関する諸文献

 これまで詳しく述べて来たことから導き出されることであるが、ピサの法規がソキエタス法に関する研究に対して相対的に多くの材料を提供している一方で、その研究調査の成果物は非常にわずかである。――Bonainiが出版した書籍において、compagnia de terra においての対立する意味として次の2つが例示されている。その一つは 1)利益の取り分という意味での労働の対価、そしてもう一つは2)利益の取り分という意味での資本投下の対価、である。

 1)の例としては1337年の次の文献がある:  Toccius maliscalcus … posuit semetipsum cum domna Cia … ad standum et morandum cum ea ed ejus familia ad artem … matiscalcie et fabrorum faciendam et exercendam in apotheca ipsius dae Ciae et extra, ubicumque lucrum … percipiendum erit, hinc ad annum unum … et ei ejusque familiae … serviet pp. (蹄鉄工の Toccius は Cia 婦人と次のことについて合意した…つまり彼女とその家族の元に留まりさらに滞在し続け次のことを行うことを。…職人として蹄鉄工の仕事にCia婦人の作業場にて従事し作業することを、またはそれによって利益を保証される限りにおいては別の場所でも…この日付から1年間…彼女とその家族に奉仕することを。等々)(ここで書かれた蹄鉄工の仕事の)利益はまずは Cia 婦人のものとなり、Toccius は賃金として月に45ソリドゥスを得、さらに全体の利益の1/4を得る。 ここにおいては Cia がソキエタスの capitanea (capitaneus の女性形)であり、Tocciusは部分的には従僕でありそれに対しては賃金が支払われ、また同時に全体の事業に対するトラクタートルなのであり――それに対しては利益の一部が与えられる。

 2の例として存在するのは1384年の次の文献である:  Carbone … ligator bellarum de Florentia … et Joannes filius dicti Carbonis ferrovecchius … ex una parte, et Berthus furnarius … ex una et alia parte fecerunt … societatem … in arte … de ferrovecchiis, vendendi ad minutum et alia faciendi per dictum Johannem … in quadam apotheca posita in civitate Pisana conducenda … In qua … societate dictus Johannes mittat … suam personam et industriam … Et dictus Berthus mictet … florenos 200 auri … in florenis, mercantiis pp…. investiendies per dictum Johannem in mercantiis pp…. Et debet dictus Johannes … esse caput et major in dicta apotheca conducenda pp. (Carbone は…フィレンツェの貴金属についての責任を負うことになる…そして前述の Carbone の息子である Johannes は貴金属を扱う商人であり…この Johannes を一方のメンバーとし、そして金属加工の職工である Berthus を…もう一方のメンバーとしてソキエタスを結成する…次のやり方で…金属屑については、小物とまた他に作られた(大きな)物は前述の Johannes によって販売され…Johannes はピサにある店(倉庫)において契約し…そのソキエタスにおいては前述の Johannes は彼自身の労働力と業務を提供する…そして前述の Berrthus は mictetする《おそらく高炉を使って金属製品を作るといった意味》。…200フロリン金貨が…フロリン金貨で、商品に、等々…前述の Johannes はによって商品その他への出資が行われる等々…そして前述の Johannesは…前述の契約した店(倉庫)において(その事業の)責任者かつ管理者とならなければならない、等々。)店(倉庫)(apotheca)の家賃と Johannes とその従者の生活費、さらに同様のソキエタスにおいて慣習的に差し引かれる経費を控除した後に残ったものが、利益の残りとなる。そして4年が経過した後の最終資本は半分ずつに分けられる。  

 Ricordi Di Cose Familiari de Meliadus Baldiccione De’Casalberti Pisano 《Bonaini編の1339~1382年のピサの文献史料、1850年版》は一人の資本家について言及している。その者は、同様の後継の資本家がジェノヴァにおいても登場するが、同時にかつ継続的にその資本を海上または陸上における非常に様々な事業に投資しており、その大半はソキエタスにおいてであった 34)。

34)Archivio storico italiano App. t. VIII. 単純なコムメンダ、例えば1344年:Commuccio … e Barone suo figliolo de Piombino dîno dare a me Milisdusso Balduccione … che li diei loro in compagnia di pescara in Corsica fior. 6 d’oro e altretanti ne die’ loro Andrea Masso … (Commuccio とその息子であるピオンビノ《イタリアのトスカーナ州リヴォルノ県のコムーネ》の Barone は私こと Milisdusso Balduccione に与えることについて…その者達は私と彼らが compagnia を結成してコルシカ島で魚の売買をした日に6フロリン金貨を私に与え、同じ額を彼らは Andrea Masso にも与え…)利益の分割の割合は自明なこととしてここでは言及されていない。同様に:1344年:Commuccio … de’ dare a me Miliadusso Balduccione … che li diei in Cia ad andare in Corsicha a la parte … a mio risco di mare e di gente fior. 12.)(Commuccio は…私こと Miliadusso Balduccione に与えることについて…その者が compagnia を結成してコルシカ島に行った日に次の部分に対して、つまり海の危険の分と人員の費用として12フロリンを私に与える。)この部分では1フロリンと12ソリドゥスの他に12フロリンが支払われていることが明記されている。――Compagnia di terra:1357年の文献:50フロリンがbottegaにおいて委託され、…e non li de’ mettere in mare e se Dio li fa bene de’ fare bene a me e se danno lo simile, la parte che ne toccha a 3 mili donari, (そしてその者はそれを海上取引に持ち込んではならない。神がその者に幸運を与えるのであれば、その者は私にも同じようにしなければならない。同様に貨物に損傷が起きた場合には、その者は私の持分である300デナリまで補償しなければならない。)――この場合は明白なこととして(他のソキエタスの成員の行動に)干渉権を持たない単なる資本参加である。

 一人の製造業者(工場主)と一人の労働者 35)の連合(association)についての文献としては、Bini《Telesforo Bini、1805~1861年、イタリアの文学史家》編のもの(I Lucchesi a Venezia I p.50)があり、その文献はまた先に述べて来たこの種のソキエタスのピサという都市に対しての経済的な意義をまた裏付けている。――これ以外には証拠となるような文献素材は存在していない。

35)Joannes quondam Buncontei Paltoris tintor ex parte una, et Cincius quondam Tedaldini et Franciscus filius Campanari … mercatores sete et filugelli pro se ipsis … intendentes simul compagniam et societatem facere in arte tingendi … setam et filugellum … et propterea apothecam communem et masseritias et alia utilia et necessaria habere … Joannes … exercebit et operabit artem tintorie bona fide … custodiendo et gubernando feliciter setam et filugellum … (以前は Buncontei Paltoris であった染物職人の Joannes を一方のメンバーとして、そして以前は Tedaldini であった Cincius と Cappanariの息子である Franciscus は…生糸と蚕を自分達自身で扱う商人であり…以下を行おうとしている。Compagnia とソキエタスを結成し染色を行う…生糸と蚕を…そしてそのために共通の apotheca (店)と作業場とその他の設備と必要なものを保持する…Joannes は…染色作業と設備の操作を誠実に行い…生糸の生産と蚕の飼育を自発的に維持し管理することを… )それもある業務を執り行うための bottega において。Joannes はその割り当て分として500リブラを得、更に設備と利益の1/2を手元に留める。第三者と(更に別の)ソキエタスを結成することは出来ず、他の者のための染色作業も行うことが出来ない。製造業者が労働力を自分のためだけに使うように独占することはおそらく次の人間関係《の規定》と同じであり、それは文献の中では手工業者とのソキエタスの結成の禁止の所で扱われている人間関係である。禁止の理由は、それについては既に注33で述べているが、手工業者の社会的・政治的な保護という側面は小さく、むしろその中に見られる競争とまたそこからの懸念としての労賃の上昇を抑止するという側面が大きかった。

 既に言及した労働者と手工業者の古くからの依存関係は、未だにある個別の専門分野に属している互助的な小事業に従属していて、その個別の専門分野に該当するギルド(Zunft)の中に出現しているのである。

成果

 ここまでのピサの諸法規についての観察の成果としては次のことが挙げられる。つまり、Consitutum Ususがソキエタスについて規定している箇所では、合資会社的な関係が存在していることを確認出来たことである。――歴史的に見てのこれらの法形態と合名会社 36)との間においてのはっきりした対立は、ここにおいてまさに明確に現れているのである。

36)歴史的な事実として、両者(合名会社と合資会社)は異なった起源からそれぞれ派生して来たということは、多くの独断的な見解を吟味する上では重要である。

 ギールケ(Die Genossenschaftstheorie und die deutsche Rechtsprechung)が合名会社を個人を対象とする法規に基づく関係であると描写する場合、その描写はあくまでも彼がその際に理解している意味においてのみ認容することが出来る。その意味とはソキエタスの成員が実際の所 stare ad unum panem et vinum (一かけらのパンと一本のワインを分け合う)ということによって相互に関係づけられている、ソキエタスの成員の総体的な財産権における人格として、ということである、――しかしギールケは更に(p. 454 l.c.)合資会社に対して概念的な構成を行おうとしている。それによれば、その際には「制限された株式による財産権を持った人格」、つまり有限責任社員が合資会社に従事しているのであり、しかしながらそのことは株式による合資会社についてあまり一般的では無い「代替可能となった人員」という概念を導き出している。そうした議論は非常に独断的でかつ必ずしも正しいとはいえないように見え、有限責任社員のある決まった額の出資金に固定された会社への参加の程度がどのように次のことを導き出すことが出来るか、つまり財産権の観点で見た法人の人格性の一部(である有限責任社員)についての別の意味を説明することが出来るかどうかということであるが、その説明については何か別の義務的な人間関係についてのものをそのまま適用しているように見える。出資者は合資会社における労働力の、またはその会社財産のどの任意の部分についてもそれを自由に使うことは出来ず、自由に処分可能なのは自己の出資分の固定された金額についてのみであり、それは金銭貸借における債権者の立場と同じことである。その出資者の全体の活動においてのビジネスの部分については、(合資会社という)ソキエタスの関係によって影響を受けることはまったく無かった。歴史的には完全に次のことが確認可能である。つまり、合名会社が実際の所前述したような意味での人格権と名付けられるような人間関係から派生したという一方で、合資会社はまったく異なる前駆体から出現したのであり、その前駆体においては最初から(後の)有限責任社員においてその(合資会社の)業務全体についての関係を扱っているのではなく、その業務の意味は、本質的にはただ出資を通じて参加するだけである。有限責任社員にとってはその参加の度合いというものは出資した金額の範囲内に制限されていたのである。

 合資会社が合名会社にとって次の発展段階であるというような、そういう事実は見出せない。そうではなくて、合名会社と合資会社は歴史的にも理論的にもお互いに同じレベルで鋭く対立するものなのである。

V. フィレンツェ フィレンツェにおける産業上の財産

 フィレンツェにおける商法の発展については、既にラスティヒにより繰り返し主張されているように、カテゴリーとしてイタリアの沿岸(港湾)諸都市のそれと対比されるものとして把握されかつ説明されている。フィレンツェは、コムーネにおける独立した法規という形での法形成が始まった時代においては、内陸都市であって、その海への出入り口として唯一関税徴収のための税関が無い商用の道路が、その前にあるピサの領土によって封鎖されていた。《1406年にフィレンツェがピサを支配下に収めるまでこの状態は続いた。》このフィレンツェにおいては本来のものとしての大規模な交易と遠隔地との交易を資本形成の基礎として説明することは出来ず、フィレンツェ自身が作成していた法形式については、ここでは独自のものは存在していなかった 1)。そうではなくて経営活動については、産業においての労働への言及という形で行われていた。大規模な産業によって形成された財産がこの都市の経済的な力の基礎となったのであり、そしてまた大規模な同業者組合(Konsortien)によるが、それは14世紀においてはイングランドのエドワード王《エドワード3世》、ナポリのアンジュー家《ロベルト1世》、ギリシアにおけるラテン語話者住民、イタリアにおけるグエルフィ《教皇党》に対する資金援助を行っていた。その同業者組合はツンフト(ギルド)のメンバーの中の大規模ないくつかの家によって形成され、特に毛織物業者の集まりから、つまり Arte de Calimala という毛織物業者組合から、ペルッツィ、アルベルティ、バルディッサ、アッチャイオリの各名門家が出現した。このような産業における財産が何世代にも渡って取り組もうとした経済上の課題は、同時にツンフトの法規においての立法上の課題でもあった。疑いも無く、発展の最初の諸段階においては、商品の売買というものは商品の製造の後ろに隠れた存在であり、我々はその点において労働ゲマインシャフトの力強い発展を、特に家族ゲマインシャフトの力強い発展を予期するのである。――それの意味する所は、家族こそ産業におけるゲマインシャフトの自然な土台であり、そしてただ父親達から息子達や孫達へと代々継承された緊密に保持された大資本がその労働ゲマインシャフトの優先的地位を継続させることが出来たのである。 1)

1) コムメンダ関係については Arte di Calimala の法規(Emiliani-Giudici《Paolo Emiliani Giudici、1812~1872年、イタリアの文筆家》編のStoria dei comuni) のI c. 59で非公式のものとして言及されているだけである。

コンペラについて続報

Comperae(コンペラ)について、もしかしたら大塚久雄の「株式会社発生史論」に載っているのではないかと思って調べたら大正解でした。1969年1月発行の大塚久雄著作集の第1巻の版のP.274以下にかなり詳しい説明があります。何故大塚がこれについて詳しく述べているかというと、株式会社の起源としてジェノヴァにおけるコンペラをそうだとする説があるからです。
P.275から引用します。「しかのみならず通常両者ともに一人の人によってなされず、「出資者の結合体」consortium von participesによってひき受けられ」とあります。(イタリックの所は原文は傍点)
vita communisは言うまでもなく個人ではなく、共生の形態であり、もしそのvita communisにおいて、一人の持分所有者がこのコンペラ(一種のRentenkauf)を行うことはあり得ず、vita communisの結合体として契約するのが普通であり、もし仮に一人が勝手に契約した場合には他の持分所有者は介入権を持つ、と解釈するのはきわめて自然で明証的です。
後は、この形のコンペラがピサにもあったのかどうかということの確認ですが、それはBonainiの本の到着待ちです。ただ、おそらくConsitutum Ususはピサだけの慣習法を集めたのではなく、当時の北イタリアでの海事関係の慣習法を集成したものだとすれば、コンペラがピサに無ければならないという事にはなりません。
それから、大塚の本のP.268によれば、コンペラを株式会社の起源とする主張者は「ドイツ新学派」と呼ばれる学者達であり、その中心メンバーがゴルトシュミットだそうです。ヴェーバーのこの論文はそもそもゴルトシュミットのゼミナールにおいて提出したレポートが元になっているのであり、また論文そのものもゴルトシュミットに献呈されています。そのような論文の中でcomperaeが単純な購買の意味で使われるなど、この面から考えてもあり得ないと思いますし、査読したゴルトシュミット自身も当然特別な意味で理解した筈です。

IV. Pisa. Societätsrecht des Constitutum Usus. – V. Florenz P.283 – 288 ドイツ語原文(36)

ドイツ語原文の第36回目です。第4章が終わり、結論を除くと最終の章である第5章「フィレンツェ」に入ります。
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Verscheidenheit der Grundlagen der Kommanditen von der offenen Gesellschaft

 Ist dem so, so haben wir hier wieder einen Beleg für die interessante Beobachtung, — welche sich den Ausführungen von Lastig nähert, — daß die Kommendaverhältnisse und was sich daran anschließt, in weiterer Linie auch die Kommandite, ihren Ausgangspunkt von der Assoziation von wirtschaftlich und man kann sogar sagen sozial ungleich Stehenden nimmt, während die solidarische Haftung aus Gemeinschaften Gleichstehender und prinzipiell an einem Vermögen mit gleichen Dispositionsbefugnissen Ausgestatteter erwachsen ist. So viel sehen wir, daß die pisanischen Sozietäten nicht der Boden sind, aus dem jenes Prinzip hervorging. Die Frage kann nur sein, ob vielleicht die Art der Abgrenzung des Sozietätsvermögens auf die Gestaltung der Sondervermögen überhaupt, also auch der offenen Gesellschaft, Rückwirkungen gehabt hat. Insbesondere wäre es möglich, daß die Beschränkung der Haftung auf die bottega und was zu ihr gehört, welche nach Analogie der societas maris bei der compagnia de terra stattgefunden haben muß — die Quellen sagen darüber nichts —, die Entwicklung der früher geschilderten Beschränkung der Haftung bei der offenen Gesellschaft auf das Geschäftsvermögen erleichtert hat. Auch die Art der Buchung des Sozietätsgutes auf besonderem Konto, wie sie sich aus den genuesischen Urkunden und aus der Natur der Sache bei den Seesozietäten ergibt, kann von Einfluß gewesen sein. Nach Lage der Quellen muß dies aber dahingestellt bleiben.

Societasurkunden

 Während, wie aus der bisherigen Erörterung hervorgehen dürfte, die pisanischen Staaten relativ viel Material für die historische Untersuchung des Sozietätsrechts ergeben, ist die urkundliche Ausbeute eine recht spärliche. — Zwei bei Bonaini abgedruckte Urkunden geben Beispiele für die gegensätzliche Bedeutung der compagnia de terra als 1. Arbeitsmiete gegen Gewinnanteil und 2. „Kapitalmiete” gegen Gewinnanteil.

 Unter 1 gehört folgende Urkunde von 1337:
 Toccius maliscalcus … posuit semetipsum cum domna Cia … ad standum et morandum cum ea ed ejus familia ad artem … matiscalcie et fabrorum faciendam et exercendam in apotheca ipsius dae Ciae et extra, ubicumque lucrum … percipiendum erit, hinc ad annum unum … et ei ejusque familiae … serviet pp. Der Gewinn soll in manus Ciae gelangen, Toccius erhält 45 sol. Salär per Monat und 1/4 des lucrum.

 Hier ist Zia capitanea societatis, Toccius ist teils Gesinde — dafür das Salär, teils engagierter tractator — dafür der Gewinnanteil.

 Unter 2 fällt die Urkunde von 1384:
 Carbone … ligator bellarum de Florentia … et Joannes filius dicti Carbonis ferrovecchius … ex una parte, et Berthus furnarius … ex una et alia parte fecerunt … societatem … in arte … de ferrovecchiis, vendendi ad minutum et alia faciendi per dictum Johannem … in quadam apotheca posita in civitate Pisana conducenda … In qua … societate dictus Johannes mittat … suam personam et industriam … Et dictus Berthus mictet … florenos 200 auri … in florenis, mercantiis pp…. investiendies per dictum Johannem in mercantiis pp…. Et debet dictus Johannes … esse caput et major in dicta apotheca conducenda pp. Nach Abzug der pensio apothecae, der Unterhaltskosten des Johannes und seines Dieners und der alia que solent detrehy de similibus societatibus wird der Rest des Gewinnes, nach 4 Jahren das Endkapital halb und halb geteilt.

 Die Ricordi des Miliadusso Baldiccione de Casalberti von Pisa zeigen uns einen Kapitalisten, welcher, wie dies auch in Genua zu verfolgen ist, gleichzeitig und dauernd sein Kapital in den verschiedensten Unternehmungen zur See und zu Lande anlegt, meist in Sozietäten 34).

34) Archivio storico italiano App. t. VIII. Einfache Kommenda z.B. 1344: Commuccio … e Barone suo figliolo de Piombino dîno dare a me Milisdusso Balduccione … che li diei loro in compagnia di pescara in Corsica fior. 6 d’oro e altretanti ne die’ loro Andrea Masso … Gewinnquote ist als selbstverständlich nicht angegeben, ebenso: 1344: Commuccio … de’ dare a me Miliadusso Balduccione … che li diei in Cia ad andare in Corsicha a la parte … a mio risco di mare e di gente fior. 12. Darunter ist notiert, daß die 12 Fiorini nebst 1 fior. 12 sol. Gewinn ausgezahlt sind. — Compagnia di terra: Urkunde von 1357: 50 fiorini sind in bottega kommendiert, … e non li de’ mettere in mare e se Dio li fa bene de’ fare bene a me e se danno lo simile, la parte che ne toccha a 3 mili donari, — offenbar bloße Partizipation ohne Einmischungsrecht.

Eine Urkunde über Assoziation eines Fabrikanten mit einem Arbeiter 35) findet sich bei Bini (I Lucchesi a Venezia I p.50) und bestätigt die oben vertretene Auffassung der wirtschaftlichen Bedeutung dieser Art von Sozietäten auch für diese Stadt. — Im übrigen steht urkundliches Material nicht zur Verfügung.

35) Joannes quondam Buncontei Paltoris tintor ex parte una, et Cincius quondam Tedaldini et Franciscus filius Campanari .. mercatores sete et filugelli pro se ipsis … intendentes simul compagniam et societatem facere in arte tingendi … setam et filugellum … et propterea apothecam communem et masseritias et alia utilia et necessaria habere … Joannes … exercebit et operabit artem tintorie bona fide … custodiendo et gubernando feliciter setam et filugellum … und zwar in einer zu erwerbenden bottega. Er erhält 500 librae angewiesen und Hausgerät, 1/2 des Gewinnes behält er. Eine Sozietät mit dritten darf er nicht machen und für andere nicht färben.
Eine derartige Monopolisierung der Arbeitskraft für einen Fabrikanten ist vermutlich dasjenige Verhältnis, welches die Quellen mit dem Verbot der societates mit Handwerkern treffen wollen. Der Grund des Verbotes ist, wie schon in Note 1 S.407 bemerkt wurde, wohl weniger der sozial-politische des Handwerksschutzes, als die darin gesehene Beschränkung der Konkurrenz und die daraus befürchtete Preissteigerung.
Das oben berührte alte Abhängigkeitsverhältnis der Arbeiter und Handwerker tritt noch in der Unterstellung aller zu einer Branche gehörigen Hilfs-Kleingewerbe unter die Zunft der betreffenden Branche zutage.

Ergebnis

 Als Resultat der Betrachtung des pisanischen Rechts ergibt sich, daß, wo das Constitutum Usus von Sozietäten handelt, kommanditartige Verhältnisse vorliegen. — Der historisch scharfe Gegensatz zwischen diesen Rechtsformen und der offenen Handelsgesellschaft 36) tritt gerade hier deutlich hervor.

36) Die historische Tatsache, daß beide aus verschiedenen Quellen stammen, ist für die Beurteilung mancher dogmatischer Auffassungen nicht ohne Gewicht.

 Wenn Gierke (Die Genossenschaftstheorie und die deutsche Rechtsprechung) die offne Handelsgesellschaft als ein personenrechtliches Verhältnis bezeichnet, so kann dies insofern in dem von ihm dabei verstandenen Sinn akzeptiert werden, als die gesamte vermögensrechtliche Persönlichkeit der socii in der Tat durch das stare ad unum panem et vinum berührt wird, — aber Gierke will nun (S.454 l. c.) für die Kommanditgesellschaft eine begriffliche Konstruktion aufstellen, wonach dabei ein „beschränktes Stück vermögensrechtlicher Persönlichkeit”, des Kommanditisten nämlich, engagiert sei, was für die Aktienkommanditgesellschaft zu der denn doch ungewöhnlichen Konstruktion „fungibel gewordener Personen” führt. Es ist nun dogmatisch immerhin nicht recht ersichtlich, wie die auf einen bestimmten Kapitalbetrag fixierte Beteiligung des Kommanditisten dazu kommen soll, ein Stück einer vermögensrechtlichen Persönlichkeit in anderem Sinne darzustellen, als dies bei irgendeiner anderen obligatorischen Beziehung der Fall sein würde. Der Kapitalist stellt keinen aliquoten Teil seiner Arbeitskraft oder seines Vermögens als solcher zur Verfügung, sondern einen fixierten Geldbetrag, wie ein Darlehensgläubiger, sein Erwerbsleben in seiner Gesamtheit wird in keiner Weise durch das Sozietätsverhältnis affiziert. Historisch vollends sehen wir, daß, während die offene Handesgesellschaft in der Tat aus Verhältnissen hervorgeht, welche man personenrechtliche im obigen Sinn nennen kann, die Kommanditgesellschaften aus ganz anderen Antezedentien hervorgingen, bei welchen von vornherein von einer Beziehung auf das gesamte Erwerbsleben bei dem (späteren) Kommanditisten nicht die Rede war, die Bedeutung des Geschäfts, zu welchem er wesentlich durch sein Kapital mitwirkte, vielmehr für ihn auf die Höhe seiner Einlage beschränkt blieb.

 Es findet nicht eine Stufenleiter statt, auf welcher die Kommanditgesellschaft die nächste Stufe vor der offenen Gesellschaft ist, sondern die offene Gesellschaft steht den anderen Formen historisch und dogmatisch gleich scharf gegenüber.

V. Florenz.

Industrielle Vermögen in Florenz

 Die Entwicklung des Handelsrechts in Florenz ist bereits von Lastig wiederholt paradigmatisch als Gegensatz zu derjenigen in den Seestädten Italiens aufgefaßt und dargestellt worden. Florenz war in der Zeit, als die selbständige statutarische Rechtsbildung in den Kommunen begann, eine Landstadt, welcher der Zugang zum Meer, der einzigen von Zollschranken freien Handelsstraße, durch das vorliegende Pisaner Gebiet versperrt wurde. Nicht der eigentliche Groß- und Fernhandel konnte hier die Grundlage der Kapitalbildung darstellen, und die Rechtsformen, in welchen er sich bewegte, konnten eine originelle Ausgestaltung hier nicht erfahren 1). Sondern die Erwerbstätigkeit fand sich auf die gewerbliche Arbeit hingewiesen; große industrielle Vermögen bildeten die Grundlage der ökonomischen Macht der Stadt, und auch die großen Konsortien, welche im 14. Jahrhundert die pekuniären Stützen König Eduards von England, der Anjou in Neapel, der Lateiner in Griechenland, der guelfischen Partei in Italien darstellen, wurden gebildet von den großen Häusern der Zünfte, speziell aus den Kreisen der Tuchmanufaktur, — aus der Arte di Calimala gingen die Peruzzi, Alberti, Bardi, Acciajuoli hervor. Das ökonomische Problem, diese industriellen Vermögen durch die Generationen hindurch zu erhalten, war auch das legislatorische Problem der Zunftstatuten. Zweifellos tritt in den ersten Stadien der Entwicklung der Güterumsatz gegen die Produktion zurück, und wir werden demgemäß eine kräftige Entwicklung der Arbeitsgemeinschaften erwarten, speziell der Familiengemeinschaften; — d.h. die Familie ist die natürliche Basis der industriellen Gemeinschaft und nur die von den Vätern auf die Söhne und Enkel sich fortsetzende straffe Zusammenfassung der großen Kapitalien konnte deren Machtstellung Dauer verleihen.

1) Die Kommendaverhältnisse werden nur beiläufig im Statuto dell’ Arte di Calimala (bei Emiliani-Giudici, Storia dei comuni) I c. 59 erwähnt.

IV. Pisa. Societätsrecht des Constitutum Usus. P.278 – 283 日本語訳(35)

日本語訳の第35回目です。ここには別にアップしたように英訳、全集版の注を含めて疑問点があるのですが、現在Consitutum Ususが含まれたBonainiの本のファクシミリ版を取り寄せ中(新型コロナのお陰で海外からの発送に時間がかかっています)で、それが到着するまで最終判断は保留です。(ちなみに英訳者のKaelber教授は、comperaeが「販売」でないことは認めましたが、それでは全集の注釈に「購買」とあるから「購買」だろう、という回答です。正直な所自分であまり考えていないように思います。)
海上貿易に従事するものであったトラクタトールと、家内制手工業における手工業職人が同じ者に相当するというヴェーバーの論述はちょっと驚きです。
これでほぼ3/4を訳し終わりました。
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2. その影響

 この共同の生(Kommunion)《ヴェーバーはVita Communisの言い換えでKommunionという語を使っている。この言葉の本来の意味はカトリックでの「聖体拝領」、つまり信者がキリストと一体になる儀式。》の影響は以下のことの中に現れる。

 1)全ての共通の財産の取り扱いは、特定の動産の直接的な個人的使用にまで及ぶものであった:”de eo quod tunc acquisiverint si aliquid eis praeter convenientia vestimenta remanserit, de acquisitu eorum sit commune”(その時に彼らが獲得したものについて、もし彼らにサイズの合った衣服以外の何かが残ったとしたら、その彼らの獲得したもの{の残り}は共有となる)。ある持分所有者が外部の資金によってある業務を営む場合、そこから得られた全ての利益はゲマインシャフトのものとなる。この持分所有者がゲマインシャフトとは別にある特別財産を持っている場合で、その特別財産またはそれ以外でゲマインシャフトの外部にある彼の妻の嫁資(dos)をある事業に用いた場合、その場合彼はその事業によって得た利益の1/4をゲマインシャフトに入金する、――それは法学的には明白かつ論理一貫したものであり、というのは彼の労働による利益はソキエタス法によれば全利益の1/4に値すると規定されており、それについてはゲマインシャフトのものとなる。残りの3/4については出資から得た収益分となる。

 2)それぞれの個々の成員は彼ら自身として共有の財産を使ってそれにより何かの業務を営むという権利を付与されている。そして法規は確かに、他の成員に対して2日の猶予期間の間での異議申立の権利を付与している。しかしその異議申し立ては、当該の業務について、その業務を企てた者(企業家)がそれを自分の勘定にて引き受ける限りにおいて、その企業者の個人的な勘定に対して作用するだけであり、その企業家の勘定がそれ自体を超えてさらに何らかの(共有の)資金を必要とする限りにおいては、異議を申し立てる者はなるほどその勘定の中の利益については関与するが、全ての成員間においてのリスクについては関与しなかった。それ故に一人一人の持分所有者は自分自身の勘定の分を超えて(ゲマインシャフトの)財産を使って業務を行うことが正当化されている。他の持分所有者はこの個々の持分所有者の行動を止めることは出来なかった。ある一人の持分所有者の勘定の中で行われた comperae 《現代イタリア語のcompraに相当するとするすれば「買うこと」。但し単純な購買行為ではなく、何かの特別な購買と思われる。12-14世紀のジェノヴァやフィレンツェではこの言葉は、国が私的団体に対して債券を発行し、それを買ったものは例えば塩にかかる間接税のようなものを一種の利子として受け取ることが出来た、その債券またはそれを引き受けた団体のこと。つまり一種のRentenkauf(定期収入金を一種の利子の代替物にした金銭貸借)である。全集の注はヴェーバーがConsitutum Ususの中の概念を使っているとしているが、それがどのページなのかをヴェーバー自身も全集の編集者も記載しておらず、本当にそうなのか疑わしい。》に対しては、他の持分所有者は介入権を持っていた。(今日の合名会社の場合と同様。)

 3)各持分所有者に個人的に必要なお金は共通の財産から充足されたが、それはあくまで個人レベルの需要に限定されていた。もし持分所有者の中の誰かが過度の出費をした場合には、法規は他の持分所有者に対して異議申し立ての権利を認めていた。しかしその異議の及ぶ所としては、持分所有者同士の関係の中で、より安い金額の見積りを証拠として、その出金をした持分所有者が多く使った分を異議の結果として取り立て、異議を申し立てた持分所有者達の勘定にそれを入れるということだけに限られていた。このように一見独特な規則の存在は、先に述べた見解、つまり(法の)発展は一般的に元々正当であった持分所有者の無制限の財産についての処分権を制限する方向に推移していたという見解に対する一つの明白な証拠である。

 以上がピサの法における communis vita の中身である。我々はこれまでに次のことを見て来た。つまり communis vita は、それが成立する所ではそれが維持される方法としては、一つは遺言によって形成の指示があったソキエタスによってであり、またもう一つは共同相続人達がソキエタス・マリスの形である業務を営むという形によってである。また communis vita は明示的なソキエタス契約の締結を代替し、またそれはいわば共生の精神(animus associandi)を文書化することによって具現化するのである。共同相続人達の間でのソキエタスは従ってただ契約だけに基づく訳ではない。しかしそうではあってもそのソキエタスの中には契約というものに適合した要素が含まれているのである。文献史料で見る限り重点は以下の所に置かれている。つまりこのソキエタスもまた”societas nominata”(当時者間の明確な合意に基づくソキエタス)であるという点である。ソキエタス・マリスの法からこの communis vita のソキエタスは利益配分のやり方を受け継いでおり、――vita communis それ自身のソキエタスにおいては全ての業務が全ての持分所有者の勘定に対して等しく収益をもたらす場合には、一緒に住んでいる者達のソキエタスが構成されている所では、コムメンダの原理に従った利益の分割の仕方が登場してくるのであり、まさにこのことから判断する限り、根源は明らかに家族財産法にあるのではなく、ソキエタス・マリスについての任意法を基礎とする法原則にあるのである。

Societas omnium bonorum 《全ての財産が現在及び将来において成員間に共有されるソキエタス》

 我々はこれまで完全な家計ゲマインシャフトとしては、家族仲間(Familiengenossen)によって構成されたもののみを見て来た。

 非親族との間の同様の関係については、Consitutum Ususの中には societas omnium bonorum《全ての財産を共有するソキエタス》と societas lucri 《利益のみを共有するソキエタス》についてのわずかな注釈があるだけである。後者と前者の違いは次のことにある。つまり後者は利益のゲマインシャフトであり、前者の場合は全ての最終的な資本全てが頭数に応じて分割される。 societas omnium bonorum においては――このことはランゴバルド法の兄弟間のゲマインシャフトの規定を思い出させるが――ただ封土と土地貸借のみがゲマインシャフトから除外されていた。それ以外にどのような事実がここで与えられた概念に適合するかということは不明瞭であり、ただ次のことが推測出来るだけである。つまりこの非親族との間でのソキエタスは、communis vita で家族の構成員の間で適合する関係が非親族との間の関係でも使われているということである。

ピサにおける連帯責任原理

 もし我々がそれでも完全なまでに規定されているこの《vita communisという》制度に対してどのように連帯責任の原理を位置付けられるかという問いかけをする場合には、その場合にはここでもまたまず次の事を強調すべきであろう。つまり、法規の中でそれが言及されていないことを即ちそれがピサにおいて存在していないと結論付けてはならないということである。取り分けこれまで詳しく述べて来た家計ゲマインシャフトの内部に向かっての構造は連帯責任を、ここでは全てのゲマインシャフトの財産の外部に向かっての責任を仮定しているように見える。連帯責任について法規の中で言及されていないということは、ここで主張した見解が正しいならば、次のことから説明出来るかもしれない。つまりピサにおける連帯責任は、ジェノヴァの場合と同様に、中心に存在している貿易取引にとって何の意味も持っておらず、というのは貿易取引はコムメンダという法形式を利用していたからである。Consitutum Usus の中に含まれているソキエタス法は、その結果として連帯責任について全く触れていないだけではなく、むしろ逆のことを規定している。

V. Compagina de terra (陸上のCompagnia)

 海上取引のゲゼルシャフトについての法形式は、ここにおいてまた、ジェノヴァとピアチェンツァにおけるのと同じく、陸上取引についても適用されている。

 Dare ad proficuum maris に相当するのはここでは”dare ad proficuum de terra in bottega vel alio loco” 31) (陸上取引で得られる利益のために、bottega または他の場所にあるものに対して出資する)であり、ただここでは投資した場合に得られる固定の利益の料金表が欠落しており、そして全ての関係はまだ貸借の関係として構成されており、そこにおいてはトラクタトールが責任を免れれるのは不可抗力の通知をした場合のみである。

31)Capitulo 22 l.c.

 Compagnia de terra 32) は様々な形態を取ることが可能であった。――それはmずは商用の旅に関連付けることが出来、それはソキエタス・マリスと同じであり、ただこの場合は旅の目的値が海の向こうではなく陸続きの場所というだけである。

 Compagnia de terra はまた――そしてこの場合においてのみ特異性を示すのであるが――ある店/工房、”bottega”においての業務の遂行に関連付けられることが可能である。

32)Consitutum Ususのc.23のde compagnia de terra, P.897 l.c.を参照。

 このcompagnia de terra の形態では、出資者側のリスクが《陸上取引なので》軽減されているという事情に合わせ、企業家の利益の取り分は全利益の1/3になっている。これはソキエタス・マリスの場合では出資比率がトラクタトールが1/4、出資者《ソキウス・スタンス》が3/4の場合、利益は折半になっている。法規はここにおいても、トラクタトールが独立した企業家であるかどうかということを区別している。(”cum jam de suo quis negotiationem facere paratus fuit vel alterius”)(既にある者が自分自身の資本でまたは他人の資本で業務を行う準備が出来ている場合に)――それから出資が一方的で《トラクタトール自身が出資しない》場合は、トラクタトールは全利益の内から分配割合に従い2/3を出資者に戻す。それからその他の場合ではトラクタトールは完全に独立しており、資本家は単なる参加者である。――またはトラクタトールが多かれ少なかれ資本家達に従属した器官である場合である。最後の場合ではトラクタトールは多くの場合ある決まったbottegaと関連付けられて考えられており、そのbottegaと契約することで資本家はトラクタトールと契約するのであり、トラクタトールは自分の1//4の出資分を超えて第三者の外部の商品を出資として受け入れることは出来なかった。後の時代になって明らかに追加された規定としては、トラクタトールとある特定のbottegaを関連付けるという直接的な強制を除外するというものがあるが、そのことによって高い明証性を持ってそうした除外が元々存在していたと結論付けることが出来る。このことからまた、次のことも確からしいと考えることが出来る。つまりトラクタトールのbottegaに対する広範囲で見られて依存関係を考慮に入れた場合、bottega におけるトラクタトールは隷属的な手工業者のやり方を引き継いだいわば後継者であったということである。それは fattore (代理指図人)、famulus (家奴)、Kommis (手代・番頭)が隷属的な使用人の後継者であったのと同じで、委任される者(Kommendatar)は隷属的なKargadors《船荷に同行する使用人、現代スペイン語ではcargadorで港湾労働者、運送屋、ポーターの意味。》の後継者であった。より確定的なことを述べるのは不可能であるが、次の考え方はしかしながら確実に存在している。つまり societas de terra と今まさに述べて来たやり方での隷属的なトラクタトールはまた法形式としては、今日我々が家内制手工業と呼ぶある程度の大きさの産業と労働者の関係に適用されるものと同様のものであった。Consitutum Usus の法規定により決められているように、こうした製造のための集団(association)において製造業者はトラクタトールの労働によって作り出された商品から得られる利益の配分についてのある種の独占権を留保しており(第三者の出資の禁止により)、製造業者はトラクタトールに対し手工業生産のための機械や治工具、家具、そしてしばしばある種のCottage-System《労働の対価の一部として住居を安く提供すること》――住居または bottega を提供している 33)。

33)疑いもなく存在していた家内制手工業の法形式についてより深入りするのはこの論考の目的ではない。Stieda《Wilhelm Christian Hermann Stieda、1852~1933年、ドイツの国民経済学者、経済史家。》の Die deutsche Hausindustrie によるこの制度についての全ての経済学的な指標はしかしながらこの論考で述べて来た様々な人間関係に当てはまっている。ほとんどすべての規定の中に大商人または大工場経営者と手工業マイスター《熟練職人》達との間のこの種のソキエタスの結成を禁止する条項が何度も繰り返し現れている。もちろんこうしたソキエタスの禁止は社会政策的に労働従事者や手工業の保護を目的として追求したものではなく、いずれにせよ一義的にはそうではなく、その他の大工場経営者達を手工業によって製造された安価な商品との競争からと、労働力の供給の全てを個々人の利益のための独占から守ることが目的であった。――後述の注35も参照せよ。

“comperae”の訳について、英訳の間違いと全集版の注釈の不十分な説明

今訳している所で、英訳及び全集版の注釈について、誤訳と不十分な説明の箇所を見つけました。

原文は全集版のP.279の10行目~12行目です。
Für die von einem Teilhaber auf eigene Rechnung abgeschlossenen comperae haben die anderen ein Eintrittsrecht (nach Art der heutigen offenen Handelsgesellschaft).
(ある構成員によってその構成員の会計中で締結されたcomperaeについては、他の構成員は介入権を保持する。(今日の合名会社でのやり方と同じ))

問題は”comperae”という中世ラテン語です。
Lutz Kaelber氏の英訳では、P.144で”comperae [sales]”としています。

これに対し全集版の注釈では、”Erwerbung durch Kauf. Weber übernimmt den Quellenbegriff des Constitutum Usus.”(購買の業務。ヴェーバーはConsitutum Ususの中の概念を使っている。)となっています。

つまり、英訳はここを「販売」と訳し、全集版の注釈は「購買」と訳しています。

まずは英訳についてはKaelber教授に問い合わせ中ですが、返事が来るかどうか不明です。
(ちなみにようやく今日になって2月に送ったメールの返事が来ました。)
しかし、comperaeという中世ラテン語は、おそらく現代のイタリア語ではcompraであり(伊和辞書にcompera→compraとあります)、その意味は「買う」です。故に全集版の「購買の業務」の方が正しいと思います。

しかし、問題は単なる「購買」なら、わざわざ法規の方で特別な名前を付ける必要があるのか、という疑問が湧きます。実際にこのすぐ前では、「構成員が自分の勘定の中で業務を行う限り、他の構成員はゲマインシャフトを脱退しない限りそれを阻止することは出来なかった」とありますので、このcomperaeに対してだけ何故 Eintrittsrecht (介入権)を行使してそれを阻止出来るのかが不明です。またヴェーバーはその阻止の行為は今日の合名会社でも同じと言っていますが、通常業務の中の個々の購買行為を他の無限責任社員が一々介入して阻止するというのは聞いたことがありません。更には単純な購買については次の3)で述べられていますので(個々の構成員のBedüfnis=需要、という形で)、ますますここで単なる購買行為に言及するのはおかしいです。それから、Consitutum Ususの概念をヴェーバーが使っているという全集版の注釈は、それなら何故ヴェーバーが該当のページを注釈として入れていないのかという疑問があります。(他の場所ではほとんど注釈があります。)全集版の編者もConsitutum Ususにおける具体的な場所を記載しておらず、私見ですがここは単なる推定で書いているとしか思えません。

実は compera(comperaeは複数形)には特殊な意味があります。

永沼博道著、中世ジェノヴァ植民活動の特質 : マオーナ・ディ・キオの事例によせて、関西大学学術リポジトリ、https://nkk001-my.sharepoint.com/personal/tmaruyama_nkkswitches_co_jp/Documents/Weber/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%90%88%E5%90%8D%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E5%8F%B2/KU-1100-19930127-07.pdf
の一部を下記に引用します。

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12世紀以降ジェノヴァ共和国は,きわめて緊急を要する出費のために市民に自発的な融資を募った。融資に応じた市民は,国家の歳入となる間接税の一部を融資した期間権利として買うことになる。期間が終了した後,国家は債務の全てを払い戻す。そうして市民は,都市国家当局に対して優位に立つ目的で融資者組合を結成した。こうした団体は,前払いした金額の見返りに,本来国家に帰すぺき租税,各種間接税,税関からの収入を受け取った。1149年共和国は度量衡税を売った。同様に入港税, 通行税, 塩税などの間接税が売り出される。団体は自らのリスクにおいて歳入の管理を肩代わりし,こうした公債はコンペラ(買ったものを意味する)と呼ばれた。コンペラは, 100リラ単位の公債証書(locumすなわちluogo)の形に分割され取引の対象となった。またコンペラを購入した私的団体もまたコンペラと呼ばれた 27)。
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実はこの「コンペラ」は一種のRentenkaufであると考えられます。金を貸してその利子を取る代わりに、何かの税からの収入を定期的に得ることが出来るからです。
ヴェーバーはこのコンペラについて、「古代農業事情」の中で、「11・12世紀のジェノヴァや13・14世紀のフィレンツェでRentenkaufを使った国債の発行があった」という形で言及しています。(この項の最後に原文を引用します。)

ピサのConsitutum Ususの成立の前に、ジェノヴァでのコンペラは始まっています。どこまでピサでコンペラに類することが行われたか未調査(現在BonainiのConsitutum Ususの本 {Statuti inediti della città di Pisa} を取り寄せ中ですが、新型コロナウイルスの影響で海外からの配送に時間がかかっており未着です)ですが、ヴェーバーがここでこのコンペラを使っているとすれば、これはソキエタスの単なる購買の行為ではなく、ソキエタスが他のソキエタスや国に金を貸し、その代償として定期的な収入を受け取るというRentenkauf的な契約をすると解釈するのが一番自然で明証的と思います。そうであれば他の無限責任社員が介入してそれを阻止するというケースも十分考えられます。仮にRentenkaufで無いとしても、いずれにせよ単純な購買行為とは区別される何か特別な購買と考えるべきです。

英訳はこの辺りの事情をまったく理解していない間違った英訳を付けていますし、全集版の注釈も「購買」という意味にしたのは間違っていませんが、まったく突っ込み不足で、きちんとこの語が使われた背景まで説明していません。

(「古代社会経済史 古代農業事情」での中世イタリアのRentenkaufを使った国債への言及の箇所)
Aber jeder Blick z.B. in die Urkunden von Genua vom 11. und 12. Jahrh. an, und vollends in die Bücher der Florentiner Kaufleute des 13. und 14. Jahrh. zeigt nicht nur die Überlegenheit der Geldverkehrstechnik, sondern auch die größere Sättigung der Wirtschaft mit »Kapital« damals gegenüber der Antike. Wo z.B. die mittelalterliche Entwicklung von der Belastung der besitzenden Klassen in Notlagen der Stadt durch zinslose Zwangsanleihen zur Ausbeutung der Notlage der Stadt seitens der Besitzenden in Form von Emissionen von Anteilen an der zins- resp. dividendetragenden Staatsschuld und weiter zur Staatsanleihe in Form des Rentenkaufs fortschreitet, da steht auf hellenistischer Seite, als Notmittel neben der Vermögenssteuer, die Anleihe unter Verpfändung der Burg (Lampsakos), der Gemeindewiesen (Orchomenos), nur gelegentlich: der Zölle (Knidos), dagegen einmal des gesamten öffentlichen und Privatvermögens und außerdem noch die persönliche Haftung der Schatzmeister (Arkesine) an die einzelnen Gläubiger der Stadt.

英訳の誤り(追加)

ドイツ語の第34回の冒頭の部分:Tut er es dennoch, so fällt aller Gewinn daraus ihm, d.h. dem gemeinsamen Vermögen zu. 
の英訳ですが、
If he does anyway, all profits will fall to him―that is, to the joint assets.
となっています。
つまりihmを「父親に」と解釈しています。しかし父親の収入になることが、そのまま家ゲマインシャフトの共通財産の収入になる、とはどこにも書いていません。ここはihmと書くと「父親に」とも解釈され得るので、わざわざ「父親ではなくてVermögen(財産)の方ですよ」(Vermögenは中性名詞なので、3格の指示代名詞はihmで同じ)と言っているだけと解釈するのが自然です。Kaelber氏の英訳の特徴としてここもそうですが、ドイツ語の代名詞、指示代名詞をそれが指し示している実体ではなく、そのまま英語の代名詞に置き換えて訳しているケースが非常に目立ちます。言うまでもなく、英語では名詞の性や格変化がほぼ無くなっているから、こういう翻訳の仕方は原文にあった情報量を落とすことにつながり問題です。それからこの箇所のように、間違った代名詞に訳してしまうということも起きています。