IV. Pisa. Societätsrecht des Constitutum Usus. P.270 – 274 日本語訳(33)

 日本語訳の第33回目です。前回と今回の所は、教会の利子禁止原理とそれをかいくぐる手段の資本主義発達との関係という文脈で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で触れられている所であり、「プロ倫」をきちんと理解しようと思われる方には必読の部分だと思います。
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我々はしかしながら、他方ではもちろん次のことも見て来た。つまりは実際の所コムメンダとソキエタス・マリスの形態は投資の目的で、場合によっては未成年者の財産を運用するためにも使われていたということである。―このことはピサの法規においてもまたそうであった。当時においてはこの種類のソキエタスの発展が、中世においては一度それが到達段階として最高点に至ったということにより、そのことは経済的には決定的なことという扱いで大きく限界点を超えることを認容しているが、そのような形で投資された資本はそのやり方を主要なものとして選んだと言える。何故ならばそれによってその当時の人は通常考えれば自然なやり方である利子付きの貸し出しを放棄しているからである。しかしながらこのことは常に証明出来ないだけでなく、また逆のことが正しいとさえすることが出来る。当時の商取引においては、当時の人々が教会法の利子禁止について「良心の法廷」(forum conscientiae)《キリスト教徒が自己の内面における神との関係で事の善悪を自分の良心に従って判断すること。カントは人間の良心を「内的法廷の意識」と呼んでいる。》の外側でも真摯に実務的に対処しようと考える前に、純粋な利子付きの貸付けは、相対的に見ると本当に取るに足らない役割しか果たしていなかった。投資先を欲する資本が今日であっても利子付きの貸付けが基本的に含まれている個人への私的な貸付けに向かうということは決して広範囲では行われていない。ましては当時はさらに少なかった。―公的な信用というものの本質は、当時においてひょっとしたら発生していたかもしれない資本家という者達の手間暇を要する需要に応じる方向に向かうことはほとんどなかったであろう。運用可能な資本は、それが不動産の購入と貸し出しという形、つまり資本家による不動産の引き渡しという方向に向かっていなかった場合は、その利用と投資の対象として、我々の法領域における海上取引を見出したのである。しかしながら純粋な貸し付けのやり方というのはこの海上取引という目的においてはほとんど適していなかった。ある事業で航海という目的で受け入れられた資金貸し付けに対する返済については、万一その事業が何らかの惨事《例えば船の難破》に見舞われた場合が、もっとも問題であると考えられていた。その理由からローマ法の foenus nauticum が、そして北イタリアの諸法規ではコムメンダと競争していた海上貸し付け制度(Seedarlehen)が登場するのであり、そこにおいて投資が利益の分配を条件とする航海の危険への参加という形で登場するのであり、後者を非常に隆盛を極めたがために、その分より多くの資金を必要とした取引が喜んで受け入れたのである。こうした海上貸し付け制度はしかしまた、先に詳しく論じたように、この当時大規模な取引のあった地中海貿易を理解する上では有用であるが、その大規模取引に対し海上貸し付け制度は次のような意味で関わってその利用を許したのではなかった。即ち資金の引き渡しは海を越えての商品の輸送という事業自体に参加するのが目的ではなかったし、それは同様にその事業の可能性のあるリスクそのものに直接関わろうとするものでもなかった。その意味でこういったリスクがこのシステムによって《海難事故の》平均的な確率という意味での計算可能性の中で扱えるようになったという見解は修正する必要がある。この意味から、そして綿密に検討された利子禁止の教義の回避の必要性からではなく、資本家達による危険の共有と、また権利関係では経済的に見れば貸し付けに近づいた状態であることが説明出来るようになり、さらにはこのシステムが定額の配当金を持つソキエタスとして構成されているように見えるのである。利子の教義としては―そういったものが存在していることを認めようとする立場からであるが―経済における戦場にそれが姿を見せたとしたら、それは各種のソキエタスの形態の発展が―それはラスティヒEndemmanに対して明確に強く反論した点であるが―それをとっくに実現していた。教会法による利子禁止がその後演じた役割は、イタリアにおいても決して小さなものではなかった。(ほとんど全ての法規定がそれについて何らかの記述を行っている。―どのように?はここでは扱わない。)しかしながらある新しい法的な制度の発展または既に存在している制度のさらなる発展においては、我々が研究対象としている領域では、私が見る限りでは利子禁止という方向に戻るような傾向は見出せない。ここでは唯一の制度、つまり dare ad proficiuum maris のみが、その利子禁止という教義に対し違反するようになっていたが、その他の制度に関しては《利子というやり方の》成長を妨げる方向に作用し、創造的な方向には作用していなかった。丁度 “dare ad proficuum maris” の人間関係が、それはソキエタスの構成のやり方としては明らかにもっとも劣悪なものであったが、Endemman的な理論の範例《利子禁止の回避の方法として》という意味では、最適であるように思われる。それは利子という経済原理の支配の前でその確立に成功したのであり、利子の原理が本当の意義を持つようになって広く普及した時になってみれば、それはむしろ《利子禁止原理の》犠牲になったのであり《実際に1236年に法王庁から非難され、最終的には無くなっている》、それもリスクについての調整方法によってではなく、固定した利益という考え方によってであるが、そのことは利子禁止ということがその本来の構造の基礎目的には決してなっていなかったということを明確に示している。

 我々は利子禁止に関する議論はこの辺りで切り上げ、ピサのソキエタス法の観察に戻ることにしたい。

IV. ソキエタス・マリスと家族ゲマインシャフト

 というのは我々はまだ海上取引に関わる諸ソキエタスの一般的かつ前述した形でのいくつかの特別な形成物についてまだ詳しく論じなければならないからである。それらの形成物はまさに我々の関心に応えるという意味で適当であるし、Consitutum Usus においては”de societate inter patrem et filium et inter fratres facta“(父親と息子の間、または兄弟の間にて結成されたソキエタスについて)という特別な章において取り扱われている 24)。

 つまりはソキエタス・マリスが次の場合では確実に修正されているのである。つまり、ここでの章の表題に示されているようにソキエタスが家族の成員の間で締結されている場合である。それについてここで論じるべきであると考える。

24)Consitutum UsusのCapitulo 21を参照。

ソキエタス・マリスが家族連合(associationen)から生じたという仮説

 ここで主にジルバーシュミットによって主張されている仮説に対してその誤りを指摘しておかなければならない。その仮説とはピサにおける種々のソキエタスがまさしく家族法を起源にしていると見なすべきである、というものである。―それはつまりある家族の成員、特に家の息子が家族の資金を用いてある商取引のための旅を企てた時に、次のことの必要性が明らかになったということである。それは申し合わせによって、得られるであろう利益の分配の仕方を定めるということであり、それはその後確かな商慣習として発展しただろうということである。このような商慣習は、この種の事業が extraneus (親族以外の外部の者)の資金によって行われている場合には特に、その事業の基礎的な要素として扱われるということである。

 ソキエタス・マリスにおいて複数の extraneus の間で通用していた根本原則は、家族の成員にとってはそのまま適用出来るのではなくむしろ逆だったのであり、その原則が家族による成員間でのソキエタスに適用される場合には修正された上で適用されたのである。その場合に関連法規の理解としては、その法規においての”societas inter patrem et filium et inter fratres facta”についての記述に対して、”societas inter extraneos facta”に適用される法文をそのまま適用することに疑問があることが示されており、当面の間は家族間のソキエタスは extraneus 間のソキエタスの特殊な場合として理解されるようになるのであり、そのことは法規の該当する章を見れば分ることである。さらに法規の関連箇所の記述を見れば、こうした理解の仕方が事実上の人間関係に適合していたことが分る。しかしここで前提とされるのは次のようなことである。この家族の成員の間でのソキエタスがそれ自身の傍らに、一般的でまた同時にある意味特別でもあるそれ自身に元々備わっていた修正された要素を保持し続けたということであり、その要素の中身をこれから詳しく述べていく。その要素は自らがその源泉となったものは何であったのかという問いを投げかけている。

 まず第一に確認されなければならないのは、この関係においては純粋に親族関係という要素は意味を持っていないということである。もし in potestate (ある力を持つ)ではない、つまに共通の家の中に住んでいない息子または兄弟が、その父親または兄弟とソキエタスを結成する場合、そのソキエタスは societas extraneorum (親族以外の人間とのソキエタス)と取り扱われる 25)。 25)P.887 l.c. 参照。

 共通の家計を土台にした共通の労働はここにおいても家族の暮しの中での経済的に自然な要素である、それ故に法規は父親に対して息子をその家で労働に従事させる権利を与えている。また同じ理由から、息子が父親の資金を使って海上取引に従事する場合には、申し合わせの欠如により利益は頭数で(pro rata)分割された。父親が航海に同行する場合には、父親は常に息子の分担分として持ち込まれた商品の売却によって得られた利益の1/4を受け取っており、それは”sicut havere esset extranei”(あたかも息子が赤の他人であると望むかのように)ということであり、しかしその他にも”totum quod per operam sive alio modo acquisiverit”(彼自身の労働によって、または別の何かの手段によって獲得した全ての物)を自分の元に留めていたのである。息子の労働の成果については、最初のケース(父親の資金で息子が海上取引を行う場合)では、息子には何も与えられず、報酬は直ちに父親のものとなった。父親はここで挙げたような諸ケースにおいては、自然な帰結としてそのソキエタスの capitaneus であったのであり、そのソキエタスはその他の点では親族ではない他人とのソキエタスの規則に完全に適合していたし、さらにそこではまた利益の分割についての異なったやり方が申し合わせられるのが常であった。