日本語訳の第38回目です。ソキエタスと家族ゲマインシャフトの関係がかなり詳細に論じられ、「ソキエタスの債務」というものが発生する条件について論じられます。
ちなみにまた英訳の間違いがあり、”in solidum obligatus”は「連帯で責任を負っている」ですが、英訳(P.157)は”liable for the full amount”(全額について責任がある)としています。ヴェーバーは延々と連帯責任の原則がどこから発生したかを論じているのであり、また”in solidum”は今日でも「連帯責任」の法律用語として使われており、全額か一部かなどを論じていないことは一目瞭然だと思いますが。英訳の存在は訳す上での参考文献として非常に有り難いですが、どうも注意深い訳者とは言えないと思うようになってきています。
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3. ソキエタスの成員の個人的関係
家族仲間の場合と同じように、ソキエタスの成員においてもゲマインシャフトの効力はゲマインシャフト全体の業務を主とする暮らしに対して及んだし、また全ての重要な個人的な関係に対しても及んだ。フィレンツェ以外の土地での結婚、つまり管理不能の場所での結婚は、ソキエタス(Compagnia)の許可無しにはソキエタスの成員、使用人頭(factor)、そして徒弟(discipulus)には認められていなかった 8)。それらの者達は、彼らがツンフト(ギルド)のメンバーであるソキエタスに所属する限りにおいては、そのツンフトから脱退することは許されていなかった 9)。また彼らはソキエタス(Compagnia)の仕事以外に、さらに別の自分自身の仕事をすることも許されていなかった 10)。
8)Statuto dell’ Arch. di Calimala I c. 75を参照せよ。
9)上掲書 c.81。
10)上掲書 c.67。
4. 家住み息子と使用人頭
商人(のソキエタス)におけるfattore――使用人頭《日本語での番頭や手代に相当》――とdiscepolo――徒弟――の位置付けは、家住み息子の位置付けと非常に似た形で規定されている。家住み息子と同じように、fattoreは基本的にゲマインシャフトの全てを手に入れているが、その者自身はあくまでそのゲマインシャフトにおいての非独立の一部分として所属しているだけである 11)。fattore と discepolo の両方がゲゼルシャフトの債務について更に責任があり《ゲマインシャフトの話をしていたのにここで急にゲゼルシャフトの話にすり替わる点について違和感有り》、債権者はその債務を直接に fattore や discepolo 自身の債務であると見なすことが出来る。(しかしながら)諸法規はそういうケースにおいては、ただゲゼルシャフトの代表者(Chef)のみに対して、その債務について責任を持たせ、それを返済することを義務付けている 12)。ようやく1393年になってこれらの者達の個人的な責任は免除されるようになった 13)。代表者を裁判の対象にするということと、これらの fattore や discepolo を裁判の対象にするということは、両方共に必要なことであった 14)。fattore にソキエタスの業務の義務を負わせる上でのその正当性の証明のやり方については既に言及して来た。そういった全てのことを考慮しても、――徒弟と使用人頭の(ソキエタスとの)関係についてここで詳細に述べることはしないが――非独立のゲマインシャフトの成員(とソキエタスと)の関係においての、ソキエタスと家族ゲマインシャフトの相似性は疑いようもないほど明白である。
11)Tractatus Consulum Artium et Mercatorum R. 17を参照。――この法規の1415年版におてもL. IVで同じものが採用されている。
12)L. c. R. 18. を参照。
13)Tractatus de cessantibus et fugitivis R. 14を参照。
14)Tractatus Consulum Artium et Mercatorum R. 19を参照。
家族ゲマインシャフトのソキエタス的性格とソキエタスの家族的性格
ここで問題となるのはここまで述べたことから演繹して、ソキエタスというものは家族法の概念を転用《言語は”Herübernahme”、辞書に無い単語。おそらくギリシア語のμετάληψις=換喩、ある慣用的な表現の中の言い回しを別のコンテキストにおいて使うこと{例:「早起きは三文の得」という表現を踏まえて「明日は三文得するつもり(=早起きする予定である)」などと言うこと。}、をドイツ語にしたのではないか。ドイツ語の直訳のニュアンスは「こちらに持ってきて受け取ること」》したものと考えてよいかどうかということである。今我々がここで考察しているソキエタスというものは、疑い無くある一種の人間関係というもの以上の独自の形態を持っているが、それはソキエタスの関係それ自体から直ちに生まれて来るようなものではない。そのソキエタスはしかしながら、その起源として手工業から発生したものとして、全くのところ家計のゲマインシャフトと結び付けられたものとして説明しうるのであり、そのゲマインシャフトは一緒になった仲間(Genosssen)同士の個人的関係に影響を及ぼす信頼関係を内包していた。これに対して他方では、法律における諸規定は家族ソキエタスについて、我々の見解からすれば数多くの違和感のある内容を定めており、そうした法規定は次のような観察の仕方によってのみ明確に理解される。つまり、家の新しく生まれた息子について、早々と父親または祖父の業務における使用人頭(Kommis)とかソキエタスの成員(Compagnon)に将来成ることを期待する、そういう観察の仕方においてである。
労働ゲマインシャフトと後の時代の巨大な産業上の連合(Associationen)は、まず最初の発展段階において家族に固有である要素と共通の家計をその発展の段階の中で自分自身の内に取り込んでいた。家族はしかしながら、それ自身がソキエタスとして構成されており、――たとえばそのように両者の関係を構成することが出来るかもしれないし、またラスティヒの見解は私見ではその点で制限して考えるべきであると思われる。
ソキエタスの財産法
ソキエタスの債務と個人的債務
既に我々が知っているもっとも初期のフィレンツェでの法的史料において、ソキエタスの仲間(Genosssen)の責任については次の方向へと進んでいた。つまり、ソキエタスの成員一人一人の任意の債務の全てではなく、ただある決まったカテゴリーを、つまりソキエタス(全体)の債務のみを連帯責任の対象として考える、という方向である。そして次に来る立法上の問題は、ある債務がソキエタスの債務であるかないかということを判定するための標識をどう設定すべきか、ということであった。
1309年の Generalis balia は特定のソキエタスの成員達に”in quantum socios tangeret”である債務に対して責任を負わせており、その意味はその債務がその成員達に関係している限りにおいて、ということであった。しかし何をもってその者達は関係していると言えるのか?商取引においてはそれについての実用的な判断のための目印が必要であった。
ソキエタスの債務を判断する目印
1.会計簿への記帳
ここフィレンツェにおいては簿記が最初から意義を持ち得ていた。我々が既にソキエタス・マリスにおいてソキエタスの財についての特別な記帳の必要性を強調したように、ここにおいては更にも増して業務の遂行に関連しての特別な記帳が必須であった。そういった特別な記帳の発生を、これまで既に見て来たアルベルティ家とペルッツイ家の帳簿を載せた出版物 15)は明らかにしている。既に1324年の法規で下記のことが規定されている:
„Et quicunque recipere debet aliquam pecuniae quantitatem adscriptam alicujus libri societatis alicujus quilibet sociorum et obligatur in solidum.“
(そして誰であれある額のお金をソキエタスの何かの勘定から受け取ることになっている場合は、ソキエタスのどの成員であっても、その金額について連帯して責任を負う。)
15)Passerini《第3章の注46への訳注参照》の Gli Alberti di Firenze を参照。また Peruzzi《同左》の Storia del commercio c dei banchieri di Firenze を参照。特に後者の帳簿には勘定表が含まれている。
同様に Statut der Arte di Calimala I 88 も次のことを規定している:
”a pagare tutti e ciascuno debiti, i quali egli overo alcuno de’ suoi compagni fosse tenuto di dare ad alcuna persona i quali debiti fossono scritti nel libro della loro compagnia.”
(全てのかつ各々の債務を支払うことにより、その債務はその者自身かその者の属するソキエタスの別の誰かが、また別の第三者に対して負っていると見なされるのであるが、その債務はそのソキエタスの帳簿に記帳されると見なされる。)
そして1393年の商人の法(Satute mercatorum)は次のことを規定している:
”Si vero aliquis … promissionem fecerit etiam ignorante … socio … et ratio talis debiti … reperiretur descripta in aliquo libro ydoneo talium sociorum … quilibet talium sociorum sit … in solidum obligatus.”
(もし実際に誰かが…約束を(将来において)した場合でそしてまたソキエタスの成員がそのことを知らなかった場合…そしてその場合の債務の金額が…ある適当なソキエタスの帳簿に記帳されたものが見出されることになるであろう…そのようなソキエタスの成員の誰もが…連帯して責任を負うことになる。)
こうした(特別記帳の)基本原則は、このように一貫して採用されている。
しかしながら当然のこととして、この基本原則だけでは十分ではなかった。第三者に対する責任、債権者の権利は、ただ単に債務者の記帳の仕方だけに依存していることは有り得なかった。記帳は(債務の存在の)証拠を示す一つのやり方という性格を持っていた。このある意味偶然作られたような目印とは別に、もっと本質的な目印が必要だった:それはつまりどの債務がソキエタスが負うべきものとして記帳されるのかということであった。
2.ソキエタスの名前での契約
より古い時代の小規模な人間関係におけるのと同じように、ここにおいてある商店の業務遂行についてどう取り扱うかを検討するとすれば、結論として使われるのはその商店において、またはその商店の中から自生的に生まれた目印であった。より後の時代での大規模な取引においてはこの目印ということは問題にされていなかった。Tractatus de cessantibus et fugitivis のある箇所(第14章)が次のことについて公的な判断基準を決めている場合において、その判断基準とはソキエタスとしての債務が存在しているのか否かということについてのものであるが、既に1324年の法規のある箇所(ラスティヒによって出版された本の中に引用されている箇所)において、またより後の時代の法規の諸版において、更にまた Statuto dell’ Arte di Calimala においても、ある一人のソキエタスの成員による、その者がソキエタスの名前において契約しているという説明付きでの単純な契約が、そのソキエタスの成員に対して対外的に義務を負わせる上で十分なものと認められ、そのソキエタスの帳簿への記帳と並んで、債権者達からのソキエタスの成員に対する要求を十分に満たす基礎的なこととして法規の中で設定されていた。この”asserere se facere pro se et sociis suis”({契約を}自分自身の名においてとまた他のソキエタスの成員の名において行うこと)のより後の時代での形態は、商号(Firma)を使った契約であり、それは1509年のボローニャの”Statuti della honoranda università de’ mercatanti”のfol. 67に示されている通りである。その同じ法規によれば、ソキエタスの成員の責任はお互いに、ここで言及している内容に適合する諸ケースにおいての以下の事実の相互確認によって制限を受けていた。その事実とは、
1)債権者が債務のソキエタスの帳簿への記帳を証明すること。または
2)送金の手形の上に”proprio e usato nome della compagnia”(適切かつ一般に認められているソキエタスの名前)が記載されていること。
の2つである。後者については当然のこととしてここでは”pro se et sociis suis”(自分の名前と自分の属するソキエタスの成員の名前で)で契約するということに適合している。