「ローマ土地制度史」の日本語訳(7)P.110~114

(6)から約5ヵ月も間が空いてしまいましたが、ようやく(7)を公開します。
この数ヶ月、真空管アンプ作りに熱中していて、こちらの作業が止まっていました。
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 それぞれ5番目毎のcardoとdecumanusが、5番目の意味のラテン語でquintariusまたはactuariusと呼ばれ、より広い道幅――帝政期には多く12ローマ・フィート(≒3.55m)であった――の道路であった。このactuariusの道路で囲まれる25[=5 x 5]ケントゥリアの土地区画が、帝政期には技術用語ではsaltus 6)と呼ばれ、cardo maximusとdecumanus maximusで囲まれた土地区画より広い区画であった。これらのcardo maximux、decumanus maximus、そしてquintarius [複数形: quintarii] が公共の道路であり、それを個人が占有することは許されていなかった。その他のlimites [小路] は単なるlinearii、つまり幅を持たない直線であるか、あるいはsubruncivi、つまり地方道であって、その保持については公権力は関与していなかった。

6)ウァッロー≪Marcus Terentius Varro、 116 – 27BC、 共和制期ローマの学者にして政治家≫の時代には、4ケントゥリアが1 saltusとされていた。その当時においてはより広い面積のquintariiについてはまだ一般的なものとはなっていなかった。

以上述べて来たような測量のやり方は、地所が何らかの形で利用され、かつ土地配分への要求が存在した限りにおいて継続して行われていた。ある一まとまりの平地の一番外の境界線に沿って、その境界線とその平地の中でもっとも境界線に近い所にある正方形の土地単位との間の土地は、subsiciva[余剰地]と呼ばれ、他に既に使用出来るようになっている土地の面積がそこでの土地需要を十二分に満たしている場合には、そのまま使用せずに残され、ager extra clusus [正規の土地分類以外のその他の土地] の一種と分類された。測量によって定められたケントゥリアは、次の手続きとしてその四隅に石で境界標が設置され、さらにはその土地の測量地図が作製された。その地図――forma――の上には、その平地における limites [小路] と外周の境界線が描き入れられ、その結果として [subsiciva以外の] ager extra clususと境界線近くに出来たsubsicivaが表示されることになったのである。7)ある特定の土地割り当てによる土地所有が明示的に例外として扱われた場合――loca exceptaとrelicta [放置された、捨てられた] ――は、それを示す境界線も地図に描き込まれ8)、同様の例として注意深く作製された地図においては、ケントゥリアの内部での余剰地とされた地所についても外周に沿った余剰地と同じ扱いでsubsicivaという名前で記載された。9)

 その次の過程として、分割のために用意された土地について、その分配の手続きが開始された。その具体的な進め方については、後の時代になってハイジン≪De condicionibus agrorum, p.117≫が描写している。割り当て対象の耕地について、それぞれに10人の植民者のグループを一つのチームとし、各耕地をそれぞれのチームに割り当てるための籤(くじ)が用意された。最初に全植民者をこの10人組に編成するのがやはり籤によって行われる。それぞれの10人組 [の代表者] が引いた籤の結果で、その10人組に割り当てられる土地区画が決まった。そしてそれぞれの10人組に割り当てられた土地についてさらに各構成員10人にそれぞれの区画――accpeta――が割り当てられた。あるいは――兵役経験者の植民者に対しては先の手続きより前に別の処置が行われた――帝政期においては明示的に一人の兵役経験者に対し規則的に1ケントゥリアの1/3が割り当てられ、それぞれの兵役経験者にその配当区画として引き渡された。10)

 こうした手続きは、植民者 [で地所の割り当てを受けた者] の名前をその平地の地図に記入することで法的な効力を得た。各植民者の名前は、彼らが地所を割り当てられたそのケントゥリアの中に、測量の結果得られたユーゲラで書かれた面積表示(modus)の横に記載された。そしてまた明らかに規則的なこととして、その地所が土地分類の中のどの種類 [species] ――[例えば]耕地、森、牧草地――のどれであるかも描き込まれた。

7)ハイジン、De condicionibus agrorum、p.121、16行以下を参照。
8)ラハマンの書籍のp.184にある図21・22がこのことを示している。
9)ハイジン、前掲書、p.20。
10)ハイジン、p.200。

こうした地図上への各種情報の記載のことを技術用語でadsignatioと呼んだ。複数のケントゥリアは地図への記入の際に、その四隅に置かれた境界標と同様に次のような形で記入された。つまり測量官がcardo maximusとdecumanus maximusの交点上に立ち東向きに見る方向で、またそのケントゥリアを囲んでいるcardo maximus とdecumanus maximusがそれぞれ南北と東西でその平地で何番目のものなのかが数えられる。そしてそのケントゥリアが(測量官が東向きの方向で)左右方向で [南北方向で] 何番目と何番目の cardo の間にあり、また前後方向で [東西方向で] 何番目と何番目の decumanus の間にあるか、その2つによってそのケントゥリアの地図上の位置が決定された。11)

 もし土地分割割り当てのための籤の参加者の中に、その植民市のそれまでの住民が含まれていた場合には、自明のこととして別のやり方が行われなければならなかった。――そしておそらくアンティウム≪現在はアンツィオで、イタリア共和国ラツィオ州ローマ県にある都市≫の場合、それは [植民市として] 知られている最古の例であるが、その場合に見られたのは新しい植民達の間に単純に等しい権利が与えられた訳ではなく、その植民それぞれの元々の所有物 [所有地] との関係に応じて分割されねばならなかった。それからこうした所有物の所有権の確定には、その所有者の職業が何であるかによってあらかじめ判定されねばならなかった。同じ原則に従って、所有権の確定のやり方は、ある場合には特定の植民者の元からの土地区画の所有がそのまま認められ、つまりはその土地区画は分割の対象から除かれたのである:その場合にはある種の登記書類にその者の所有する土地区画の面積がユゲラの単位で記録され、redditum summ [返還地] と呼ばれた――あるいは植民者は自分自身の土地の所有権を再度承認してもらう代わりに、税評価においてそれと等しい新たな土地を割り当てられることもあった:そういった土地は commutatum pro suo  [代替地] と呼ばれた――あるいは一部分は自分自身の土地で、その他は別の土地を配分されるという場合もあり、それは redditum et commuattum pro suo [返還地と代替地] 12)と呼ばれた。これら全ての場合において、当然ではあるが上述したような籤による土地の配分は、こういった修正が施された上で実施された。しかし更に、こうした籤による土地の配分がどの程度まで一般的に行われていたのかということについては、若干疑わしい部分も残っている。

籤の使用。植民市での土地分配と均等分配。

 いくつかの事例においては、土地分配が籤引き無しで行われたということは疑いようが無く、そのような例としては ager campanus  ≪第二次ポエニ戦役でハンニバル側に味方したカプアの町とその周辺の地域をローマが差し押さえたもの≫や、スエトン≪Gaius Suetonius Tranquillus、70頃-140頃、ローマ五賢帝時代の歴史家・政治家≫の注釈によれば、シーザーによる campus Stellatis ≪カンパーニャ地方の肥沃な平野≫の分配があった。UC643年[=B.C.111年]の公有地配分法 [lex agraria] は、グラックスにより土地配分の対象となった耕地が特別扱いされており、それは “sortito ceivi Romano” [ローマ市民への籤による土地配分、ceivi=civi] という名前が使われていた。これまで説明してきた土地の割り当ては疑いようが無く均等割り当て14a)であった。この均等割り当てについて、モムゼン15)次の2つの仮説を提示している。つまりそれが植民地の土地割り当ての方法としてそれが規定されていた、ということと、そこで実施されていた籤がその証拠であるということである。

11)付図1のローマのアラウシオ≪古代ローマの属州ガリア・ナルボネンシスの都市≫の平野の地図の断片とそれについての解釈と比較せよ。
12)シクラス・フラックス≪Siculus Fluccus、生没年不明、ローマの土地測量人≫の書のP.155を参照せよ。
13)スエトン、De vita Caerarum、第20章:Campum Stellatem…agrumque Campanum…divisit extra sortem ad viginti milibus civium… [南カンパニアの平野を…それと平地を…籤びきによらずに2万人の市民に分配した]
14)Corpus Inscriptionum Latinarum≪C.I.L.、ラテン語金石碑文大成、モムゼンをリーダーとする学者グループによるローマの碑文の解読集成。≫、I、200 P.3、4、またブルンス≪Karl Georg Bruns, 1816 – 1880, ドイツの法学者・法制史家≫のFontes iuris Romani AntiquiのP.72を参照。
14a) この概念については後述部分参照。
15) C.I.L.、I、 200、3、4行への注釈を参照。

 今や次のことは明白である。つまり、籤が土地配分という目的のために使用されたということは、個々の区分けされた土地それぞれと、その受け取り人同士がお互いにはっきりと等価でありかつ同等であるということが明確に理解されていたということである。ここにおいて新しいゲマインデ [地方共同体] が形成される際や、丁度植民市がまさにそうであったように既存のゲマインデが作り替えられる場合には、そう見なすことはまさに政治的な意味で必要だったのである。ここに至っては、植民市の土地において籤によって土地が配分されるということは通常のことであったと考えるしかないが、そのことは更に配分される土地の面積に関して、また別の特異性を生じさせているのである。

 古代ローマ当時の最初期の植民市がある共通経済的な土地制度に強く依存していたか、あるいはかなりの部分そうだったということは、モムゼン16)の著作において一定の確からしさをもって証明されている。共通経済から個人経済への移行においては、土地の分配に関してまったく同じ問題が出て来る。それはつまりこの例においてはまだ [領主とその臣下といったような] 専制主義的な形で組織化された土地ゲマインシャフト17)といったものは成立していないということである:それはつまり同じ面積の土地区画が必ずしも同じ価値を持っていた訳ではなく、同じ面積の土地区画を単純に分配する際においても、各人が必ずしも同じ面積の土地を得るのでは無いということである。

16)Röm. Staatsrecht III, P.26, 793参照。
17)そういったものの中で、例えばケルト人の間では、この方式での土地分割における問題は存在していなかった。というのはケルト人の部族長はこうした土地の断片を自分の裁量で好きなように分配することが出来たからである。このためにアイルランドでは不規則な土地の分割の結果として、様々な異なる大きさの土地の断片が残っている。

[ヴェーバーの時代の]ドイツの植民においては、こうした問題は解消されていた。そこにおいては平野がGewanneと呼ばれる四角形の耕地に分割され、そして各植民者にそれぞれのGewanneの一区画の土地が与えられる、というやり方が知られている。そこに見出されるのは、その証明は後述するが、次のことについての証拠である。つまり、ドイツの例と同様にイタリアでも、ドイツにおける土地分割方式が始まった頃とそう遠く離れていない時代に、似たようなやり方が行われたということであり、――というのはそういった考え方それ自身がゲノッセンシャフト≪比較的同じ身分の人々を基盤とする団体≫的な団結の中で生れたからであり、土地の [金銭的] 評価が [まだ] 行われていなかった限りにおいて、そういった考え方が忌避されることは無かったからであり――そのやり方が広く知られていた訳ではないが、繰り返し行なわれて来たlaciniae(=土地の区画単位)についての分割方法についてここでは説明しているのである。18)しかしながらこうした土地の分配方法が、十二表法の時代の不動産についての法に既にどのくらい適合していたかといういことはここでは述べられていないのであり――その意味については後で更に詳しく述べることになるが――、次の事を伝えているのである。つまり、こうした分割割り当てでは常にager assignatus [割り当て地] と分類された土地のみが割り当て分配されているということである。

18)アンティウムにおける最古のローマ市民による植民市においては――UC416年(=B.C.228年)のことと推定されている――その植民市は同時にここで設定した問題 [ゲノッセンシャフト的な団結が現われていたかどうか] に対して考えるための意義を持っており、何故ならばそこでの説明は、他の古代の海外植民市においてのただそこに駐留する軍隊 [の兵士] への土地の配分という意味を持つだけでなく、全ての植民者に対して土地を分け与えることによって、その平野のある地域全体でのある実際的な組織を作り出しているという性格を明らかに持っていたからである。――Liv.VIII, 14――こうした分割の仕方は、liber coloniarum のP.229の第18行に書かれているように(「アンティウムの人々はこう説明した。latinaeの土地区画はager assignatusであると。)帝政期まで保持された。その他オスティア≪テベレ川(古称ティベリス川)河口にあった古代ローマ都市で港湾都市≫においても部分的に断片的な土地について説明されている。この問題については後述の部分で再度取上げる。)