折原浩訳の問題点(142)

ここもまたデコトラ翻訳の典型例。原文は特に複雑なことを言っている訳ではなく、宗教的な命令と経済上の様々な要求を矛盾なく処理するのに3つのやり方、つまり解釈を変える、決疑論的に違反していい場合を作る、実践において無かったことにする、というのがある、と言っているだけです。3つしかないのにわざわざ番号を付けるのは何故かと思います。しかも色々補っていることが勝手な解釈で、間違ってもいます。「利子禁止」はイエスの教えというよりモーセの律法で、ユダヤ教からキリスト教に引き継がれたものです。「[この [3] に類する] 後述のやり方」、も意味不明で、後述は利子禁止が実質的に廃止されるやり方を説明するだけのものの筈です。(実際は後述ではなく、既にこの点はかなり詳しく論じられており、ここのヴェーバーの記述は意味不明。おそらく書かれた順番が今回の箇所の方が先だった可能性あり。)「ただ運用において、実質上廃棄に等しい無効化を達成した」もどこにそんなことが書いてあるの、と思います。

原文
Die Bedürfnisse des ökonomischen Lebens machen sich entweder durch Umdeutung der heiligen Gebote geltend oder durch ihre kasuistisch motivierte Umgehung, zuweilen auch durch einfache praktische Beseitigung, im Wege der Praxis der geistlichen Buß- und Gnadenjurisdiktion, die z.B. innerhalb der katholischen Kirche eine so wichtige Bestimmung wie das Zinsverbot in bald zu erwähnender Weise auch in foro conscientiae völlig ausgeschaltet hat, ohne es doch — was unmöglich gewesen wäre — ausdrücklich zu abrogieren.

折原訳
経済生活の諸欲求が貫徹されるのは、[1]聖なる命令を解釈替えすることによって、あるいは[2]聖なる命令を回避してよい場合を、決疑論的に確定しておくことによって、あるいはまた、ときとしては [3] 聖職者が告解を聴聞して恩恵を分与する管轄権の行使にあたり、当の命令違反は不問に付し、実践上は直截な除外に等しい効果を達成することによって、なされる。たとえば、カトリック教会の内部では、利子取得禁止令のように重大な規定が、[この [3] に類する] 後述のやり方で、 良心の法廷においても、完全に排除された。そのさい、規定そのものの公然たる廃棄は [聖書に明文をもって記されているイエスの教えに抵触するので]不可能であったろうから、そうはせずに、ただ運用において、実質上廃棄に等しい無効化を達成したわけである。

丸山訳
経済的な生の諸要求が満たされるのは次のどれかによってである。つまり神聖な諸命令として見なされているものの新たな解釈によってか、あるいはそういった諸命令の決疑論的に動機づけられた違背によってか、時にはまた単純に実践的にはその命令を無かったことにすることによってかであり、最後の場合は霊的な悔い改めと恵みの管轄権の実践の中で行われるのであり、その管轄権は例えば、カトリック教会の内部では、利子禁止のようなある非常に重要な既定を、このすぐ後で言及するようなやり方で、良心の法廷においては[in foro conscientiae]完全に除外したのであり、しかしその場合でも、--それは不可能であったであろうから--明示的に廃止することなく行われた。

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