「中世合名・合資会社成立史」は株式会社の起源を研究したものではない

橋本努氏のHPに、氏が書かれた弘文堂の「現代倫理学事典」における「ウェーバー」の項目の説明に以下の記載があります。
「1889年、ベルリン大学において、近代の株式企業の発生を中世の商事会社に辿り跡付けた論文「中世商事会社の歴史について」によって法学博士号を取得」

この説明は、まったく不適切です。私の日本語訳を読んでいただければ分りますが、「中世合名・合資会社成立史」には株式会社という単語は一度も登場しません。またドイツに多い有限合資会社(GmbH=Gesellschaft mit begrenzten Haftungen)という単語も同じく一度も登場しません。おそらくこうした間違った説明は、
(1)マックス・ヴェーバーはプロ倫で資本主義を推進した原動力を研究した人なのだから、最初の論文も近代的な株式会社の起源を探ったものに違いない、という内容をチェックしない勝手な思い込みによる。
(2)大塚久雄の「株式会社発生史論」との混同。
といった理由からかと思います。

それから今野元氏も「マックス・ヴェーバー ――主体的人間の悲喜劇」にて、この論文を「資本主義の起源を扱った」と説明していますが、この論文に「資本主義」という言葉も登場しません。

そもそもドイツにおいて株式会社は外から入って来た制度であり、一般的には東インド会社などが起源と言われており、中世の合名会社・合資会社との連関は同じく会社であって法人格と特別財産を持つということ以外はあまりありません。なので私は従来からある「中世商事会社史」というタイトルを採用しませんでした。商事会社には株式会社も含まれており、これ自体も誤解を誘因しているからです。
ヴェーバーの論文は、近代と中世を結び付けたものではなく、古代ローマと中世にかけての「ソキエタース」概念の変遷を扱ったものです。

以上のような明らかに間違った解釈は、せめて目次だけでもチェックすれば防げた筈ですが、残念ながら日本のヴェーバー研究のレベルの低さを象徴しています。

「中世合名・合資会社成立史」の結論部について

「中世合名・合資会社成立史」をまだAmazonで販売せず、このブログにだけに掲載していた時に気が付いたのは、日数を空けて公開している各部分訳について、結論に近付くと急にアクセスが増えたことです。常識的に考えて、この読みにくい論文を全部読もうという奇特な人は少なく、手っ取り早く結論部だけ見て、何が書かれているのかを知ろうとした、と推測出来るでしょう。ところが、この論文の結論部、私の翻訳でわずか2ページちょっとしかありませんが、これは多くの人が期待する結論部的な内容をまったく裏切る肩透かし的な内容です。普通、論文の結論部と言えば、自分の設定した問題を繰り返し、そしてその論文でその問題が解決できたのか、あるいは出来なかったのかを明らかにしてまとめ、最後に今後の研究の方針を示す、といったものでしょう。ところがこの論文の結論部は一言で言えば「言い訳」に終始しています。簡単に振り返ってみましょう。

1.法教義学的利用の可能性
結論部のタイトルが「結論。得られた成果の法教義学的利用の可能性。」なのですが、これは19世紀後半のドイツの法学界で主流だった「歴史学派」が何を目的に史的研究を行っていたのかを考えれば容易に理解出来ます。すなわち、各地方の領邦(ラント)に分れていたドイツという国が、ようやく1871年にプロイセンを中心とした連邦国家(ドイツ帝国)としてまとまり、そこでどのような近代的な法体系を統一国家として整えて行くのか、というのが法学者達にとって喫緊の課題でした。そのための歴史研究であり、その中にローマ法をもっとも重要な法源と考えるロマニステンとゲルマン法を重視するゲルマニステンの対立が生まれ、激しい論争を引き起こします。どちらのグループに属するにせよ、単純な歴史研究ではないのが本来の歴史学派の姿です。しかしながらヴェーバーは、「これまで行って来た考察の成果を問われた場合には、まず次のことが確認されなければならない。それはこのような考察についてそのような[法教義学的]意義をある程度はっきりした形で切り出すことは出来ないということである。」と結論部の最初である意味堂々と「法教義学的な成果は無い」と開き直っています。ヴェーバーの母のヘレーネが、ヴェーバーがやりたかったのは歴史研究で、法教義学は息子の趣味ではない、とどこかで言っていましたが、まさしくその通りの開き直り方です。

2.「合手制」と合名会社の関係
1.で開き直ったヴェーバーは次に、しかし合名会社と「合手制」の関係を考察すれば、そう言った「法教義学的かつ法実務的な意義」は「もしかしたら」そういうものが得られるかもしれない、と続けています。この「合手制」こそ、ゲルマニステンがゲルマン法におけるもっとも重要な法原理の一つとして認めるものです。実はこの論文の審査にも参加しているゲルマニステンの大ボスのオットー・ギールケが合名会社(の特別財産と連帯責任)は合手制度に基づくものであると主張しています。おそらく論文の審査の課程でヴェーバーはギールケから直接このことについて質問を受けたのではないかと思います。しかしヴェーバーはこの「合手制」についてもあれこれ言い訳を書き連ねて結局現状では「判断出来ない」と逃げてしまいます。(ヴェーバーはこの論考を書くのに数百冊の中世のイタリアやスペインの法規集を、スペイン語を新たに習得してまで非常な手間をかけて(それらのほとんどが(俗)ラテン語として見ればかなり文法的に崩れていたのを)必死に解読しています。しかしそこにおいて彼が期待していた「連帯責任」というものがどういう風に諸法規で定義されてきたかということはほとんど確認出来ず、その確認はむしろそう言った「連帯責任」が諸法規の中で制限されているということであり、それをもって逆説的に実質的には「連帯責任」原理が一般に行われていた証拠とする、という苦しい論証をしています。マリアンネの伝記では「私が法規の中に探していたまさにそのものを(そういう法規を作った)市参事会員が法規の中に入れなかった」というヴェーバーの表現が載っています。)しかし後年になって「法社会学」の中で、合名会社も合資会社についてもその連帯責任や対外的な信用を得る目的で、合手制が非常に適合的で大きな役目を果たしたことを認めています。(世良訳P. 206 – 207)私には何だかヴェーバーがギールケという大きなお釈迦様の手の中を飛び回っている孫悟空のように感じます。(ちなみに、ヴェーバーが25歳で法学の博士号を取ったのを「すごい、天才!」と称賛する人がいるようですが、ギールケが法学博士号を取ったのは19歳(!)の時です。おそらくヴェーバーの時とは大学制度そのものが少し違ったのかもしれませんが、それにしてもあり得ない年齢です。)

3.合名会社と合資会社の共通点と相違点
ここまで延々と言い訳を書き連ねて、ようやくこの論文が明らかにしたことが登場します。それが、合名会社と合資会社が、「特別財産」という他から識別され得るまとまった財産を共通の原理として、基本的には同じ土台の上に作られたものであることを示します。しかしながら共通点と同時に、相違点として財産処分能力のあり方が二つでまったく異なっているとし、二つの発展の経緯がまったく別であることも論じます。(このことは合名会社から合資会社が発展した、とする大塚久雄他の発展段階論者とはまるで見解を異にしています。)そして合名会社は法人格を持った団体(ギールケ用語ではケルパーシャフト)になったのに対し、合資会社では少なくとも有限責任社員は単なる参加の関係に過ぎないとして、両者の相違を総括して終ります。

最後に、結論部にはまったく書いてありませんが、元になった博士号論文(この論文の第三章)のタイトルは、「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」でした。要するに「ゲマインシャフトから(合名会社という)ゲゼルシャフトが生まれた」と言っている訳です。ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」での、「ゲゼルシャフトはゲマインシャフトの特別な場合である」というテンニースの「ゲゼルシャフトとゲマインシャフトは対立概念である」とまったく異なる定義付けは、何もヴェーバーが理解社会学というものを謳うようになった時に始めて考え出されたものではなく、この最初の学術論文から始っているということです。そういう意味で、ヴェーバーの真価は「プロ倫」以降である、といった短絡的な見方に私は反対します。

ヴィルヘルム・ヘニスの「人間の科学 ――マックス・ヴェーバーとドイツ歴史学派経済学」

ミネルヴァ書房 「マックス・ヴェーバーとその同時代群像」W.J.モムゼン、J.オスターハーメル/W.シュベントカー編著に収録のヴィルヘルム・ヘニス著の「人間の科学 ――マックス・ヴェーバーとドイツ歴史学派経済学」(日本語訳:雀部幸隆)を読了しました。読んだきっかけはこの前の投稿に書いた通りです。
通読して、かなりのインパクトがあった論文です。 ヴェーバーは「ロッシャーとクニース」で、自分を「(国民経済学の)歴史学派の子」としながら、その親にあたる国民経済学者のロッシャーとクニースを手厳しく批判します。その内でロッシャーへの批判は比較的分かりやすいのですが、クニースへの批判は難解で、かつクニースと直接関係無いことを批判しているように私には思え、挙げ句の果ては未完であり、結局良く分らない批判でした。しかし、ヘニスによると、ヴェーバーがやった宗教社会学や「経済と社会」のような著作における方法論は、既にクニースによって主張され、あるいは少なくともヒントが与えられていたものをヴェーバーが発展させたに過ぎない、ということで、これは目から鱗の指摘でした。ヴェーバーは私生活で「息子が父を裁いた」とマリアンネに評された実父への糾弾を行い、それが結局実父の死につながり、さらには自分自身の精神疾患の誘因になった訳ですが、ヴェーバーはある意味学問でも「親を裁く」ということをやっている訳です。(親、といってもクニースはヴェーバーの43歳上で、父親と祖父の間ぐらいの年齢の差になります。)もちろんそれが正当な批判なら問題は無いでしょうが、ヘニスは、ヴェーバーのクニース批判はクニースを無理矢理ヘーゲルの亜流の流出論者と決めつけて論難するというもので、かなり問題が多いと評しています。
ちなみにヴェーバーの方法論で、既にクニースが主張しているものは
(1)人間の学問としての経済学
(2)理解社会学とほとんど同じ人間の内面の把握と理解
(3)宗教の教説が経済に及ぼす影響!
といったもので、勘ぐっていえばヴェーバーのクニース批判は、自分の立ち位置を独自のものであるかに見せるための脚色が入った論難とも言えなくないかもしれません。
ちなみにヴェーバーはハイデルベルク大学通学時にクニースの「国民経済学」の講義を聴講しています。また自身がハイデルベルク大学で国民経済学を教えるようになったのは、それはクニースの後任としてでした。

ヴィルヘルム・ヘニスの主張

ミネルヴァ書房 「マックス・ヴェーバーとその同時代群像」W.J.モムゼン、J.オスターハーメル/W.シュベントカー編著
に収録のヴィルヘルム・ヘニス著の「人間の科学」より(P.29下)

「しかし、もしわれわれが「理解社会学」としてのヴェーバー社会学などというありきたりのヴェーバー解釈にとらわれずに、かれの著作をすなおに読むなら、かれの学問がドイツの学問の最盛期たる一九世紀末ドイツの人文・社会諸科学の大きな流れの一翼を形成するものであったことが明らかとなろう。」

この本は前から持っていましたがちゃんと読んでいなくて、今たまたま繙いて眺めていたら、まさしく私が中野書に言いたいことが書いてありました。ヴィルヘルム・ヘニスは政治学者です。雀部先生がその著作の日本語訳を出されています。この論考の日本語訳も雀部先生です。

都市の類型学におけるヴェーバーの「日本の都市」分析の誤り

「都市の類型学」で日本の都市についての言及が3箇所ぐらい出てきますが、どうも私はこれが信用出来ないと思います。

(1)世良訳のP.26

ヨーロッパの都市は、衛戌えいじゅ地(軍隊が永久的に駐屯している土地)または特殊な要塞であり、日本にはこういう都市はまったく存在しなかった。つまりは日本にはそもそも都市が存在しなかった。

古い方で言えば、佐賀の吉野ヶ里遺跡は、相当な規模の環濠や物見櫓と思われるものを供えたある意味要塞的な小都市です。
また戦国時代の大名の城を中心とした城下町は要塞都市と十分言えるでしょうし、また石山本願寺のあった大坂、堺、奈良の今井などはすべて環濠城塞都市でしょう。また、日本は海に囲まれて外国からの侵略を受けることが相対的に非常に少なかったので、環濠都市の必要性が低かっただけで、それをもってして日本に都市は無かったなどとは暴論です。(私は九州に多い、「原」を「バル・ハル」と読む地名が、サンスクリットの-pur(城塞都市を示す地名接尾語。例:シンガプラ=シンガポール)と関係があるのではという仮説を立てたことがあります。日本では確かに大規模な城塞都市がほとんどなかったのは事実です。)

(2)世良訳のP.42

都市ゲマインデの条件は(1)防御施設(2)市場(3)自分自身の裁判所、独自の法(4)団体として他から区別される性格を持つこと(5)自律性と自首性をもつこと。(日本にはそういう都市は存在しなかった。)

堺や今井については、(1)、(2)、(3)、(4)、(5)は全て揃っていたと見なし得ます。堺については、他ならぬヨーロッパからの宣教師であるガスパル・ヴィレラが「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる。」というようにヴェネツィアと同じく自治都市であることをはっきりと書いています。

(3)世良訳のP.45

都市の住民の特殊身分的な資格が中国・インド・日本の都市には全く存在していない。

やはりイエズス会の宣教師の報告書の中に堺について「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者もこの町に在住すれば、皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加えるものなし。」とあり、明らかに堺の住民は他の日本の地域とは明らかに違う特殊な身分であったことが伺えます。「都市の空気は自由にする」という言葉は堺にも当てはまるでしょう。

ヴェーバーの日本の都市に関する考察は、明治政府のお抱え外人だった経済学者のラートゲン(ちなみにヴェーバーがメンタルの病気を発症後、ハイデルベルク大学の国民経済学教授の地位を継いだ人です)が書いたもの等を参考にしているようですが、上記のように短兵急で限られた資料からだけ判断したお粗末なものだと思います。

オットー・フォン・ギールケの「ドイツ団体法論」

オットー・フォン・ギールケの「ドイツ団体法論」四分冊を入手しました。中野書への批評の中で、「理解社会学のカテゴリー」だけでは「経済と社会」全体を理解出来ない、という例として、オットー・フォン・ギールケの概念であるゲノッセンシャフトとケルパーシャフトを挙げました。実は「中世合名・合資会社成立史」を訳した時にも、ギールケが何を論じたのかは確認したくて、「ドイツ団体法論」を参照したかったのですが、買うと四分冊で合わせて6万円弱、という価格なのでちょっと手を出せませんでした。(あの翻訳のためには学説彙纂の英訳とか、オックスフォードのラテン語大辞典とか色々書籍代がかさんでいます。)しかし色々調べていくと、結局ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」は、ギールケのこの書籍を通説(あるいは当時の学問的常識)として前提とした議論をしていると私には思え、ヴェーバーとしては「ゲマインシャフト行為」「ゲゼルシャフト行為」のような個々人の「行為」に着目することでここは確かに「理解社会学的」視点を新たに提唱しています。それからアンシュタルトやフェラインと言ったものは、ギールケの書籍にも当然出てくるのであり、それに対してヴェーバーは例えばアンシュタルトについては(普通はこれは公的機関、公的施設という意味です)、「人が自由意志に関係なく生まれた時から所属するようになるもの」という点を強調して独自色を出しています。
ヴェーバーの「経済と社会」はなるほど確かに「決疑論」の集成ではありますが、ギールケのこの書籍は「決疑論」という意味ではそれをはるかに上回るレベルです。私見ですが、ゲノッセンシャフトというのは法律上正式に使われた用語ではなく、ギールケがドイツにおける諸団体を貫く原理としてもっとも重視しているものに見えます。(序文によれば、ゲノッセンシャフトという語を使い出したのはギールケの師のゲルマニストのベーゼラーとのことです。)ギールケはドイツの諸ゲマインシャフトの中に、この「ゲノッセンシャフト」的な要素と「ヘルシャフト」的な要素を見出します。ゲノッセンシャフトは人間同士の横(家族で言えば兄弟姉妹の関係)のつながりであり、ヘルシャフトはそれに対し縦(家族で言えば親子)の関係です。これがある意味合理化され、それぞれ外側からはっきり識別出来る団体として進化したのが、ケルパーシャフトとアンシュタルトということになります。そういう意味ではギールケのアンシュタルト定義はヴェーバーの定義と視点が違います。(ヴェーバーもまた、「法社会学」の中で{世良訳P.205}、「法学的意味におけるアンシュタルトと社会政策的な{世良さんの注ではまたは社会学的な、原文は”sozialpolitisch”=「社会(学)・政治(学)的な」}アンシュタルト概念は単に部分的に一致するにすぎない」と書いています。)またケルパーシャフトは、法人や各種の社団でゲルマン法的な言い方がケルパーシャフトで、ローマ法的な言い方がコルポラチオーンではないかと思いますが、ギールケはこの書籍の前書き(Vorwort、第1巻だけでなく4巻全体への前書き)でフェラインからケルパーシャフトを区別するものとして「観念的な法人格」の存在を挙げています。実はこの第1巻はゲノッセンシャフトについてのもので、ケルパーシャフトについての詳細な議論は第2巻になります。まあその論じている所はこれからぼちぼち目を通していくつもりです。さすがに全部は読めないと思いますが。それから付記しておけば、現代のドイツではゲノッセンシャフトは協同組合の意味になります。また「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」を書いたテンニースは、その両者を統合したのがゲノッセンシャフトと考えていたようです。先日書いた中野書批評をこの観点から振り返って、中野書にもっとも欠けているのはヴェーバーの「経済と社会」におけるいわばギールケ的要素だと思います。

ヴェーバーにおけるformalとformell (2)

以前、2020年3月12日のポストで、以下のことを書きました。========================================================
formalとformell
ドイツ語で英語のformalにあたる形容詞としては、formalとformell、そしてförmlichというのもあります。後の2つはほぼ同義語です。

私見ですが、ヴェーバーはformalとformellを使い分けているように思います。
これは私の解釈であってどこまで正しいかは保証致しかねますが、formalはある意味ニュートラルな表現で、ともかく外見として何かの形(form)に沿っている意味だと思います。これに対し、formellはどちらかと言えば何かの法律とか規則とかの「内容に」適合している、という感じかなと思います。またformellは口語的なニュアンスですが、「形式張って堅苦しい」といった意味もあると思います。
なので、この2つが出てきた場合、機械的に「形式的な」と訳すのは時によっては適当でないことになります。
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このformalとformellの違いは、大学時代に折原浩先生の「経済と社会」解読演習で実際に訳読作業をやりながら見つけたものでした。しかしその違いについての考察は上記の通り、非常に表面的でしたが、この度ちゃんと考察した論文を見つけました。これがどこまで正しいのかという検証はこれからですが、少なくとも学生時代の発見が間違っていなかったというのは嬉しく思います。

広渡清吾 M. ウェーバーの「法の形式的合理性」概念の位置について

ヴェーバーのメンタルな病気についての私見

大澤真幸の「社会学史」というのを求めて繙いてみたら、序文にヴェーバーが出てきて、その精神疾患について根拠も示さず「うつ病」と断定していました。(左の画像参照)
まず最初にはっきりさせておかなかければならないのは、ヴェーバーのメンタルの病気について今日断定的な診断を下すことはほぼ不可能だということです。
ヴェーバーは病中にありながら、ある意味彼らしく自分の症状についてノートに書きためていました。そのノートは診断の助けとするために、盟友であり元々精神科医でもあったカール・ヤスパースに渡されます。しかしヤスパースは個人の病気についての診断を公にすることはありませんでしたし、そのヴェーバーのノートも、第2次世界大戦中にそれがナチスの手に渡って悪用されるのを恐れた結果処分されたと聞いています。

ハイデルベルクでヤスパースが住んでいた家の跡

(カール・ヤスパースの妻はユダヤ人であり、二人は戦争中はハイデルベルクでひっそり隠れるように暮していましたが、いよいよナチスに強制連行されそうになったギリギリのタイミングでハイデルベルクが連合軍により解放され、二人は九死に一生を得ました。)従って現時点でヴェーバーの症状が書かれているのはほぼマリアンネによる伝記の記述に限定されます。専門家ではないマリアンネの記述だけから、推測の材料にはなってもヴェーバーの病気の名前を正確に同定することは出来ません。

それからもう一つ、うつ症状=うつ病とは限らない、ということです。現時点では、メンタルな障害・病気の診断は、精神科医がDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders、精神障害の診断と統計マニュアル)というアメリカ精神医学会が出版している精神疾患の診断基準・診断分類を使って患者の状態の観察をすることによって行われれます。(これもまさしく「決疑論」です。)その中で鬱状態を引き起こすものとしては、重篤気分調節症、かんしゃく発作、うつ病(大うつ病)、持続性抑うつ障害(気分変調症)、月経前不快気分障害、物質・医薬品誘発性抑うつ障害、他の医学的疾患による抑うつ障害、他の特定される抑うつ障害、特定不能の抑うつ障害、それから双極性障害(いわゆる躁鬱病)と適応障害があります。

以下は以上の前提を踏まえた上での私の個人的な推測です。私自身大うつ病(激越型うつ病)で3年ほど苦しみましたし、また高校時代よりの親友をアルコール依存+双極性障害で失いました。(その親友が双極性障害であったということは、ある精神科医と面談して確かめていますし、また同じ高校の同期でその親友も良く知っている精神科医の者にもメールで相談して確認しています。)その関係でメンタルの病気について読んだ本は30冊を超えます。そういった本で得た知識と自分及び親友を観察した経験からの推測として、ヴェーバーのメンタルな障害は「双極性障害」の可能性が高いのではないかと思います。うつ病と双極性障害は今日ではDSM上別のカテゴリーに分けられており、一部症状がかぶるとはいえ別の病気です。双極性障害の一番大きな特徴は、「気分が異常かつ持続的に高揚し、開放的で、またはいらだたしい、いつもとは異なった期間が少なくとも1週間持続する」という状態がうつ状態と交互に現れるということです。そもそもヴェーバーの発病のきっかけになった、実父との確執ですが、これ自体がある意味異常な「躁エピソード」(マリアンネの表現では「息子が父親を裁いた」)と考えることも可能であり、その極端な躁状態の後に、実父の旅先での死をきっかけに「うつ状態」が発現したと考えられます。ヴェーバーは発病後、結局1920年6月の死まで、死の直前にミュンヘン大学やウィーン大学で講義をした以外は本格的に大学に復帰することは出来ておらず、それは「うつ状態」が死ぬまで完全に無くなることがなかったからだと思います。しかしながら、ご承知のようにヴェーバーについて今日良く知られている著作のほとんどは、最初の発病後に書かれています。私自身の大うつ病経験からいって、「うつ状態」がずっと継続していればこのような大規模な著作執筆・研究活動を行うことはまず不可能です。その一方で、この期間においていわゆる高揚(躁)状態を示すようなエピソードは数多くあり、例えば1905年にロシア革命の報を聞いてから約3ヵ月間で新聞を読める程度にロシア語を非常な勢いで習得したり、第1次世界大戦勃発後に野戦病院に勤務した時はほとんど休みを取らず働き続けています。また宗教社会学で中国やインドの研究をしている時には短期間にきわめて多くの文献に当たり、精力的に活動しています。こういったことは、「うつ病」が死ぬまで継続したということからは説明が出来ません。また傍証になりますが、双極性障害はいわゆる「天才」型の人間に多いことが経験的に知られています。(というかある一定のレベル以上の人が躁状態になると、それは傍から見ると天才に見えるということだと思います。先のロシア語習得のエピソードも、ヴェーバーが外国語習得の天才と考える人は多いでしょう。)例えばヴェーバーが中学生の時に全集を読破したというゲーテがそうです。または画家のヴァン・ゴッホなどもそうです。また、ヴェーバーの学問の手の広げ方(結局多くのものが未完に終った)についても、折原浩先生に怒られそうですが、ある意味双極性障害の患者の高揚期特有の万能感の現れ、と解釈出来ないこともないでしょう。

以上、私見を書き連ねてみました。大澤真幸だけでなく全ての人に言いたいのは、明確な根拠もなく断定的なことを自分の専門外の領域で書くべきではないということです。

中野敏男氏の「ヴェーバー入門 ――理解社会学の射程」

中野敏男氏の「ヴェーバー入門 ――理解社会学の射程」を読了しました。中野氏がヴェーバーにまつわる伝記的なエピソード中心の入門書や、浅く広く色んな学者の見解をただまとめたような入門書ではなく、少なくとも「ヴェーバーの学問」を氏自身の言葉できちんと語ろうとしていることは高く評価すべきでしょう。
ですが、大変申し訳ありませんが、この入門書も他の入門書と同じく「群盲象を撫でる(評す)」ではないかという思いを禁じ得ませんでした。(この表現は若干差別的ですが、敢えて使わせていただきます。)同じことをかつて大塚久雄は「鶏がエサをつつき散らすように」と例えましたが、この中野氏の本もヴェーバーの学問の全体像を入門者に的確に説明する、ということに十分成功しているとは言えないと思います。

まずは「ヴェーバー入門」というタイトルで「ヴェーバーの理解社会学入門」ではないのに、何故理解社会学だけをここまで重視して取上げるのかが理解出来ませんでした。確かに理解社会学は特に宗教社会学においては非常に重要な方法論であり、これなくして宗教倫理から生活実践のエートスが生まれる過程を分析することは不可能です。しかし、ヴェーバーの学問の中で理解社会学は、私見ではある一定部分(決して小さくないにせよ)を占めているだけであり、理解社会学だけを押さえていればそれでヴェーバーの学問はほぼ理解出来ました、ということには決してなりません。個人的に、ヴェーバーの学問で、最初の論文である「中世合名・合資会社成立史」から宗教社会学と「経済と社会」まで、全体を貫いているもっとも重要な方法論は「決疑論」であると考えます。各種理念型を思考のスタートにし、歴史における様々な具体的諸事実と照らし合わせて、必要があれば理念型を修正し、様々な類型概念をカタログのように整理・体系化しそれによって歴史上の諸文明の分析・比較を行うというのがヴェーバーにおけるもっとも基本的な方法論であり、理解社会学さえあれば他は要りません、ということにはなりません。ちなみに中野書では「決疑論」についての説明や解説はまったくありません。

それに理解社会学という言葉がそれほど重要なのであれば、ヴェーバーがカテゴリー論を書き直した時に「理解社会学の根本概念」とはせず、「社会学の根本概念」としたのは何故でしょうか。また、私は「理解社会学のカテゴリー」が「経済と社会」の旧稿を理解する上のカテゴリー論として「頭」とされなければならない、という折原説については全面的に賛成です。しかしそうではあっても、この本の正確なタイトルは「理解社会学の二、三のカテゴリーについて」(einige = 二、三の)であり、ある意味非常に限定的な議論であって、これ「だけ」で「経済と社会」全体を完璧に解読出来る、ということでもないと思います。(参考:野崎敏郎「ヴェーバー『理解社会学論』の執筆事情とその定位 : リッケルト宛書簡を手がかりとして」)ちなみに私はここ数年、「経済と社会」の邦訳を折原先生の仮説による順番で読んでいくということを延々とやっており、つい数日前に「都市の類型学」を読了し、ようやくその作業(の一回目)を終えたところです。この「都市の類型学」の大きなテーマは、西洋近代都市の特異性を明らかにすることと同時に、中世の特にイタリアの諸都市と、ギリシア・ローマの古典古代の都市を比較するということであり、その記述の中に理解社会学的な手法は、若干はあるかもしれませんが、ほとんど認めることは出来ませんでした。「理解社会学のカテゴリー」ではゲマインシャフト(行為)、ゲゼルシャフト(行為)、諒解ゲマインシャフト、(目的)結社(Verein)、アンシュタルト(国家、カトリックの教会のように人が生まれながらにして自動的にそのメンバーとされるような団体)のような概念が定義され、もちろん旧稿の中でこれらの概念が使われていますが、それだけではありません。例えばゲノッセンシャフト(Genossenschaft、「(義)兄弟関係」のような対等な人間同士の横のつながりを重視した集団、ヘルシャフト(支配=縦)的集団との対概念)-ケルパーシャフト(Körperschaft、ゲノッセンシャフトが単なる個人の集まりなのに対し、集団そのものが一つの人格{法人格}を持ち、その成員は一定の共通の目的を持って集まったもの。Körper=身体であり、ローマ法でのコルポラチオーン{これも元々ラテン語のcorpus=身体から派生した言葉}にも似ている概念、ちなみにヘルシャフト的集団が進化したものがアンシュタルト)というのが特に都市論で使われていますが、この概念は元々ゲルマニスト(ゲルマン法重視派)のギールケ(ちなみにギールケはゴルトシュミットと並んでヴェーバーの博士号論文の査読者の一人でした)のドイツ団体法論(Das deutsche Genossenschafts-recht)他に出てくる概念であり、ヴェーバーはこの2つが「理解社会学のカテゴリー」の中のどれに当たるか(あるいはそれらでは説明出来ない概念なのか)という説明は一切していません。この例を見ても、「理解社会学のカテゴリー」が「経済と社会」に出てくる全ての概念を網羅的にカバーしているものではなく、研究のスタートにあたっての基礎的な概念整備、立ち位置の確認という性格のものではないかと思います。この点でも「理解社会学」がヴェーバーの学問の最重要の方法論だというのは疑問を呈さざるを得ません。

それから、中野氏は、西洋の近代化、合理化をほぼ物象化(非人間化、物化)とイコールだと捉えているようです。そもそも私はヴェーバーの学問を解釈するのにマルクス主義的な概念を持ち出すことに強い違和感を感じますが、例えば宗教社会学の緒論でヴェーバーが持ち出す西欧近代の色々な分野での合理化が、すべて物象化と説明出来るとはまるで思いません。例えばヴェーバーは「音楽社会学」を書いて、西洋音楽の中での調律の方法についていわゆる「平均律」が作られ使われるようになる過程を分析しますが、この平均律の採用が「物象化」と言うのは無理があり、むしろ和音の調和感(=極めて人間的なもの)と、転調という作曲上・(即興)演奏上の便宜のせめぎ合いの中で妥協的に行われたのが平均律の採用であると思います。(その意味で特殊な合理化です。)それから中野氏は貨幣を別の例として挙げ、もっとも抽象的・非人間的なものと描写しますが、これも私は納得出来ません。ヴェーバーの貨幣論(「経済行為の社会学的基礎範疇」の中の)はクナップの「貨幣国定学説」(貨幣を国家によって定められたシンボルと見るもの、カルタ的貨幣)とほぼ同じですが、それをもっとも抽象化が進んだものとは捉えていません。大体ヴェーバーの時代のドイツは第1次世界大戦後のハイパーインフレの時期を除いて金本位制だったのであり、極めて具体的な「金」が本位貨幣でした。現代の暗号通貨のようなものが他の通貨を全て駆逐するようなことになればそれはもっとも抽象的と言えるでしょうが、ヴェーバーの時代にはそういうレベルにはまるで達していません。また「理解社会学のカテゴリー」の中で貨幣は諒解行為の具体例として言語と共に挙げられており、その意味でも合理化・物象化がもっとも進んだ例として持ち出すのは、言語がそう理解出来ないのと同じで無理があります。

最後に、「プロ倫」が理解社会学か?という問題ですが、この問題については既に折原浩先生が極めて詳細に反論しており、私が特に付け加わることはありません。ただ中野氏を弁護するなら、理解社会学というのは宗教社会学の分析においてもっとも効果的な方法論であり、「プロ倫」を例として使うのは、前提となる説明の仕方が適切に修正されれば、入門書としては有り、と思います。