決疑論とは何か

「決疑論(けつぎろん)」というのはあまりなじみのない言葉であり、人口に膾炙しているものとは思えないため、ヴェーバーを学ぶ人向けに簡単な解説を上げておきます。

決疑論はドイツ語では(die) “Kasuistik”です。(英語では”casuistry”)元はラテン語で「事例、ケース」を意味する”casus”をドイツ語的に綴った”Kasus”に学問や技術を表す接尾辞である”istik”がくっついたものです。それ故、非常にラフな言い方としては一般に使われるケース・スタディと意味が重なります。しかし、単純な意味での具体的事例の研究だけではありません。

この言葉は元はキリスト教のカトリック神学から出てきたもので、カトリックの教会の神父が、信者から告解(懺悔)を聞いた時に、基本的なことしか定めていないカトリックの神学の体系からは、どう扱っていいか分からないような複雑で時には教義と矛盾する個別の事例(例えば、ある男性が結婚した女性について、結婚後に実は長年生き別れになっていた実の娘であったことが分かった場合、その男性はどう行動すべきか)に対し、どのように神学として処理して現実的な指針を与えるか、ということを研究した学問です。例えば単純な例では、法学ともかぶりますが、自分を殺そうとして襲いかかって来た者を思わず反撃して殺してしまった場合罪になるのかどうかということです。(大抵の宗教では、「汝殺すなかれ」というルールがあると思います。法学ではご承知の通り正当防衛になり、無罪となります。)法学が出てきましたが、法律においても、具体的な個々の法令がすべての事例の可能性を想定して詳細に説明出来ている訳では当然なく、通常は裁判の結果としての判例の積み重なりによってその法律の具体的な適用の範囲が決まって行きます。つまり決疑論的な思考は法学においてもきわめて通常の事であると言うことになり、また法律の規定における曖昧さを排除し明確化・体系化する作業であるとも言えます。(ヴェーバーがこの言葉を使う場合、「体系化、特殊ケースの扱いを網羅的に明確化すること」といった意味で使っている場合も多いです。)

また、医学にも決疑論はあって、ある病気が定義されている場合、医者は個々の患者の具体的な症状を見て、それが既存の病気で定義可能か、ということを日常的にやっています。この医学における決疑論を見事に描写しているのが、自身が医者であった森鴎外の小説「カズイスチカ」です。(この小説は著作権は既に切れているので青空文庫で読むことが出来ます。)その中では、若い医者である花房がある農民の息子が破傷風にかかったのを往診し、実際の患者を診て「内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つ遺(わす)れられずに、印刷したように目前に現れていたのである。」ということに感心する、といった話です。医学の世界でも医学書が規定する各種の病気の病態と、現実の患者に現れる様々な病状を照らし合わせて病名を決定していく時に、まさしく神学や法学と同じような「決疑論」が使われる訳です。

ヴェーバーにおいての決疑論は、彼の理念型と一緒に考えると分かりやすいです。つまりある思考のためのモデル設定である理念型を用い(例えば「中世合名会社史」では「家ゲマインシャフト」)、その設定した理念型を現実の歴史における諸事例と照らし合わせ、どの程度それらの事例に適合しているのかしていないのかを吟味し、その結果を元にして場合によっては理念型の方を訂正し、再度諸事例との照合を行う、という繰り返しになります。そうした決疑論の集大成がヴェーバーの宗教社会学と並立される大著である「経済と社会」だと思います。

以上をまとめると、「決疑論」とはある一般法則的なものと個別の特殊ケースのせめぎ合いについて、どう折り合いをつけていくか、どうその一般法則の適用範囲を定めて体系化するかを研究する学問だということです。

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