ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(66)P.341~344

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第66回目です。ここでも次第に農奴的な存在になっていって奴隷と同じく、土地の売却の際には土地と一緒に売却されるようになっていくコローヌスの姿が分析されます。残り12ページになりました。
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しかし事実上はローマ帝国全体に荘園制度網が張り巡らされたのであり、その状況において諸ムニキピウムは産業的な生活や、資本形成という欠くべからざる中心点を自分の中に置くことなく、また市場という不可欠なものにもなることもなく、結局のところは国家の税収管理においての単なる税金吸い取り装置という状態に留まったのである。

大地主制の内部の組織

ここで我々は占有の内部の状況についてそれを観察する必要がある。占有者達は自分の地所を、それについては既に見て来たが、次のように管理していた。つまりムニキピウムの官吏を真似してその土地領域に管理人を置いて管理させたのである。管理人[villicus]は確かに帝政期においてもなお、大地主制においての業務遂行者であるのを見て取ることが出来るが 95)、しかしながらその者と並んでそして事実上はその地位を置き換えているように見える者として、”actor”[代理人]が登場して来ており 96)、それはムニキピウムの同名の役職に相当しており、既にその名前にほのめかされているように、その者は官庁の業務について、準国家的な行政管理業務を委託されていたのであり、それは文献史料にも示されている 97)。

95) C.I.L., V, 878.7739; X,1561.1746.4917。

96) C.I.L., V, 90.5005.1939; VIII, 8209; XII, 2250。

97) この後に引用する箇所を参照せよ。コルメラの 1, 7では actor は familia [一族郎党]に並記されている。

Villicus の場合と同様に actor は通常奴隷であった。管理規模の大きい農園においては actor の上位または actor の代わりに procurator [上級管理人]が置かれ 98)、それは皇帝に所属する官吏の名称を借用したのであるが、その者は解放奴隷であった。

98) 私人である Prokurator については C.I.L., V, 4241.4347; VIII, 2891.2922.8993。皇帝の官吏である Prokurator については例えば X, 1740.6093。

こうした上級の管理人は一般的な管理業務は免除されており、また人員や資産のリストを作成することになっており、その者達は国家のまたは皇帝の管理担当の官吏と全く同等に扱われた 99);現金の出納業務については規模の大きい、特に皇帝領の土地においては、dispensator [管財人]100) がその者達を支援したが、その管財人も多くの場合は奴隷であり、財産目録の作成においては fabularius [会計士]がその者達を支援していた 101)。

99) C.I.L., X, 3910:ある者で、元々公的な官吏であった者がある(もちろん非常に重要な)私人の “praefectus”[任命された者]になったのである。このことは明らかに次のケースと同じである。つまり[ヴェーバー当時の]今日ある者が国の官吏からある貴族の所有する森林の管理人になって登場することである。”praefectus”という表現は当時間違いなく官職としての仕事を意味していた。ウァッローの 1, 17 によれば”praefecti”[praefectusの複数形]は農場経営においての監督者であって villicus の下に置かれたが、しかしやはり奴隷であり、しかしながら一般には一夫一婦制を取っていた。”Procuratores”[ procurator の複数形]はウァッロー(3, 6)においては鳥小屋の管理人として登場し、コルメラの(9, 9)においては養蜂場の管理人として現れ、それ故に当時はまだ純粋に経済的な機能を果たす者であった。

100) C.I.L., V, 83; XIV, 2431。

101) C.I.L., VIII, 5361(私人の)、3290 (皇帝の)。

こうした農場における官吏達の干渉については度々訴訟沙汰となっており 102)、それもその理由の大部分はアフリカにおいての夫役への苦情と同じであった。コローヌスの位置付けは、特にムニキピウムによる管理外とされた個人地主によって支配されていた場合には、色々な面で不安定なものであった。

102) テオドシウス法典 I, 7, 7。そこでは有力な procuratores が拘束され受刑することになっている。同法典 1 de jurisd[ictione] 2, 1;同法典 1 de actor[ibus] 10, 4。

以前見て来たように、コローヌス達は事実上その耕作する地所に縛り付けられていたのであり、それはつまりまず第一に、その土地領域から切り離されて立ち去ることが出来るような状態にはなかったということである。それにもかかわらず、こうした自由な移動権の制限はほとんど負担になるものとしては受け取られておらず、というのもここでの自由な移動権は単なる可能性としての意味しか持っておらず、その可能性としては耕作している土地を放棄する、ということであるが、それ故に価値の高い権利としては全く受け取られていなかったのかもしれない。コローヌス達にとってはるかに重要であったのは次のことで、つまりその者達が地主の意向に逆らってまでなおその耕作地との結び付きを許されるかどうかであり、それ故に地主達にとってはコローヌス達は、通常の自由民である賃借者のように、解約の予約をしたり、あるいは賃借期間が満期になった時に賃借料を引き上げることを許された、そういう存在ではなかったのである。ある土地領域に定住している人が、猶予期間無しにその土地領域から退去させられることが可能であったということは明らかである。というのはどのゲマインデもその者を受け入れることを義務とはしていなかったからである。先ほどのコローヌス達にとってはるかに重要であったことが実務的に意味していたのはつまり:地主が農民をその土地に「配置」し、そして日雇い労働者についてはその扱いを改めるなどしてその土地区画を取り上げ他の者に与えることが出来たかどうか、ということである。明らかなのは、地主が[その従属下の]誰かが死んで相続が行われる時に、そのやり方に干渉し、かつ土地の引継ぎについて取り決めることが、ほとんど随意に行うことが出来るものであった、ということである。その他第3章で我々は次のことを見て来た。つまり土地改革法[lex agraria]はアフリカの国有地の賃借人あるいは 1/10 税の義務のある占有者に対して、lex censoria によって賃借料他を値上げすることを禁止することに利害関心を持っていた、ということである。leges censoriae には渥取行為に基づく国有地の賃貸借契約において、確かに同様に大規模賃借人が小規模[2次]賃借人 に要求出来る賃料の上限を定めた条項が含まれており、このことは皇帝領の賃貸しの場合にも同様であったし、更にまた同様にコローヌスから土地を奪うことについての許可についても、それに関する規定が含まれていたのである。そのようにコンスタンティヌス帝のシチリア、サルディーニャ、そしてコルシカの国有地の管理についての指示を規定しているので(テオドシウス法典、[de] comm[uni] div[idunde] 2, 25)、その結果として土地を分割する際には家父長達と永代借地契約者達は奴隷達の血縁者 [agnatio]を一緒のままで居られるようにし、恣意的にその者達を分割することが禁じられた。こういった純粋に訓令的でかつ奴隷に関しての規定からトリボニアンは良く知られた “coloni adscripticae condicionis”[ケンススに登録された身分としてのコローヌス、実際にはコローヌスではないのにケンスス上でそう扱われた者を含む]に関しての法律(C.I.II comm[uni] div[idundo] 3, 28)を作り出し、そしてその規定は全く一般的に個人である占有者達に関連付けられた。この規定は本来は全くもって私人に関するものではなかった。より一層私人に対して関係付けられていたのは、コンスタンティヌス帝による法規であり(C.I. 2 de agric[olis], 11, 47)、その中で禁止されたのは、ある土地を売却した者がその土地のコローヌスを自分の元に引き留めて他の目的に使用することであった。そういった禁止は市民法やまた行政法に従った場合には、それ自体必要不可欠なものであったことは全く無いと思われるが、――というのは土地に従属するコローヌス達は元々その土地に対して自分の出生地として確かに縛りつけられているからであり、――もし私法と行政法の複合したものが先の禁止に相当する解釈に達し得なかった場合でも、コローヌス達は所属という観点では私法的な意味においてのその主人[地主]に属していたのである。奴隷に関する法をコローヌスに対しても適用するというまさに法律の濫用は、コローヌス達を人員として奴隷と同様に売却することを可能にしようとする試みであった。コローヌス達はその土地に本来は単に住民として所属するものであったので、このことは法学的には問題外であった。しかしその後試みられたことはコローヌスの状況について次の混同を引き起こすことであり、それはつまりある者が小さな土地区画を売却した際に、その土地区画と共にその土地を耕作していたコローヌス達についての主権と処分権をも一緒に移転させた、ということであり、その結果として事実上コローヌス達も売却可能にする、ということが試みられたのである 103)。

103) 似たような困難さは、尚≪ヴェーバー当時の≫今日我々≪プロイセン≫においても、大地主の土地領域を構成している土地を分割する際には生じている。実務的な取扱い方法はその際にぞれぞれの地方にて異なっている。

この方向を歓迎し、そしてユスティニアヌス法典 7 の前掲部がこの禁止令を更に servi rustici adscripticae condicionis [ケンススに登録された身分としての地方の農場の奴隷]に拡張適用しようとしたものであり、これが意味しているのはコローヌスと奴隷という者達は、地主の財産のケンススへの登録リスト上、特別にその[人頭税の]税率と共に記帳された、ということである。コローヌス達とこれらのコローヌスに接近したものとなった奴隷達は土地の分割売却の際にはぞれぞれの面積に応じて[pro rata]分割されて引き渡されることとなった。コローヌスの地位を奪うことの禁止は、それ以外では文献史料において明確に記載しているものはない。しかしながらただ現にある耕作地についてそれをその耕作者の土地とみなすことを許す行政上の保護が行われていたようには思われ、何故ならば地主が[購入した土地に付属している]コローヌス達を競り落とそうとする試みに対してある種の特別な手続きが許されていたからである 104)。

104) ここでは市民への裁判について述べているのではなく、「犯罪行為を立証する」[facimus comprobare]ことについて述べているのであり、そしてまた任意の判決内容を求めることが許されていたのであり、――もちろん、というのも地主の土地領域においては正規の司法当局というものは成立していなかったからであり、そしてもまた裁判を行えるかということについても疑わしいものであったに違いないからである。

そういった干渉行為はただ任意のものであったので、その結果現金による納税義務者による大土地経営においては例えば第3章で述べたことに従って≪ager stipendiariorum はローマの領土として取り扱われており、そこでは法的な訴えは起こすことが出来ず、ただ行政上の処理のみが適用可能であったということ。≫おそらくは常に許可されており、そしてもしかするとそこからそういう状況が生じて来た可能性もある。[コローヌスの家父長の]死亡の場合においては地主に対して次の可能性が与えられた。つまり相続資格のある者達について、誰を相続者にするかと指定する、ということで、それは決してその者達の中から人を削減することが可能になったのではなく、相続者以外の残った者達は結局 “inquilini” [同居人]となったのである。私人の土地領域でどの程度まで実際に「農民保護」が行われたかについて、知り得る情報は無い。その他の点では地主は一般的にコローヌスの扶養までは必要とされておらず、というのは農場主自身が、既に論じたように、自費と自己責任で生活して耕作している農場の従属者であって、種蒔きと収穫の際に労働者として使用出来る者達の扶養の方に関心があったからである。――コローヌス達の独立性の程度とその一般的な状態は非常に様々であったのであり、もしかするとそのためにある土地への植民のやり方もまた非常に様々であったかもしれない。アフリカにおいては――しかしながらまた砂漠の諸部族からの襲撃を考慮して―― die vici der plebeji [平民の住む村々]が置かれており、というのはそこでは現金による納税義務者について言っているのであるが、全ての居住者、コローヌス、手工業者、商人が住む村々がそういった納税義務者の邸宅を取り囲むようにして防御する形になっており、それを”in modum munitionum” [要塞の境界線上に]と測量人達は先に引用した箇所において描写していた。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(65)P.337~340

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第65回目です。デクリオーネスが諸都市から距離を置いて自分の経営する農園に閉じこもるという傾向について更に論じられます。ヴェーバーは基本的にローマを都市が中心になって作られた国家として捉えており、このような貴族階級の地方への閉じ籠もりはローマを衰退させた要素として捉えており、中世になってイタリアの自治都市が勃興するまでを長い停滞期間と考えているようです。ヴェーバーの欧州での都市についての興味は「中世合名・合資会社成立史」から始まり、この論文で更に深まっているように見えます。
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資本形成は一般的には、次のような属州においてはかなりの程度まで妨げられていた。その属州とは辺境の諸邦のように植民を目的とした飛躍的な発展が見られたものとしては把握出来ないものである。資本形成が妨げられた理由としては、占有の土地においての自給自足と、大規模の産業分野での国有化、そういった理由の中でも取り分けまず生計を立てていくことを優先することが資本形成を妨げていた。またデクリオーネスに対してはより高い階級での軍役への参加は認められていなかったので、諸都市はそういった者達に対して実際の所より高い地位の市民になるための相対的にごくわずかなチャンスしか与えなかったか、あるいは場合によっては全く与えていなかったのである。このことは地主達において、特にデクリオーネスにおいての、諸都市から概して距離を保つという傾向を強めたのである。次のことについては既に上述の箇所で言及した。つまり帝政期の開始により貴族政治の可能性が失われたことによって、大地主が再び農場経営者に戻った、ということである。コルメラはその時代に既に次のことを推奨している。つまり大地主がその所有する土地で快適に過ごすための設備を整備することで、それがまた農園主の家族に対しても継続してその土地に滞在し続けられる環境を提供したのである 88)。

88) コルメラ、1, 4, 参照 1, 6。

パラディウスの場合は、主要な邸宅[praetorium]89) の存在――Palais[宮殿]――と更にそれと並んで fabrica90) ――工房――がきまって[農場経営の]前提条件とされていた。

89) パラディウス 1, 8.1, 33。彼によれば[主たる邸宅から]糞尿小屋は遠くに離して設置すべきものとされていた。

90) パラディウス 1, 8。

帝政期のより後の方になると、全く一般的な現象として次のことが登場する。それは占有者達が絵画、家具、大理石の壁板、そして他の装飾品一般を都市の住居から取り去ってそれらを地方の邸宅に移送して、都市の住居については一部では完全に退去する、ということである 91) 。

91) 既に 1, col. Genet, c.75, Eph. epigr. III の p.91 以下;C.I.L., X, 1401(44/ 46 年の元老院決議)。都市の住居の装飾品を地方に移すことについては、ユスティニアヌス法典 6 de aedif[iciis] priv[atus] 8, 10。高い身分の人の地方での滞在についてはユスティニアヌス法典の VI, 4 で述べられている。

特にまたデクリオーネスはこういったやり方で自分達の所有物をムニキピウム団体から分離することを進めていた。国家による法制定と地方の法規は、既に帝政期のより早い時期においてこれらの動きに干渉しており、都市においての建物やあるいは建物一般を行政当局の許可無しに取り壊すことを禁じており、同様に占有者達の都市の住居からの家具調度品の除去も禁止した。しかしながら都市の崩壊の進行は類を見ない程激しいものであった。このことは次のことと矛盾していない。つまり一方ではその人口と物質的な豊かさが増大していると把握されていた都市が存在していたということであり、それは例えばマイラント[ミラノ]であり、それは諸街道の結節点に位置しており、その諸街道は強力な植民政策による人口増大と建造物の密度の上昇が起きていた辺境の属州に向かって延びていたのであり、また一般的にそういった辺境の属州において都市としての持続的な発展が起きていた、ということともまた矛盾していない。ガリアにおいては、土地制度的な要素の優勢と結び付いた自然経済的な状態が衰え始めたのは、ようやくメロヴィング朝≪481~751年でフランク王国の最初の王朝≫においてであった。しかしながら中央において出ていた傾向を見た場合、諸封と古くからの属州においては、既に帝政後期においてまさに上述したような状態になっていた。有名な標語[都市の空気は自由にする]は次のように言い換えることが出来よう:「田舎の空気は自由にする」と。そしてこの状態が完全に解消されるまで状況が成熟するには実に500年が必要だったのである。≪中世イタリアの自治都市の興隆を踏まえて言っていると思われる。≫。この2つのケースにおいて自由というものは我々の個人主義的な意味で、次のことを指しているのではない。つまり占有者の保護の下でコローヌスになる形で逃げて来た都市住民とか、あるいは地方の農奴が都市の中に都市外在住市民として引き込まれた者としての自由ではない、ということである。そうではなくて、こういった何百年にも渡った[都市の]上昇と沈下の現象は次のことに帰属する。つまり個々の人間が何をもって「自由」と見なすのかと言うことと、そして何についてその者が自由でありたいと欲したのか、しかし取り分け関心を持たれていたのは、こういった発展が将来はどうなるのかということと、その時々の時代においてのイメージに合わせての、生きる価値のある生存という希望がどこにあるのか、ということである。ローマ帝国が没落した時代にはしかしながら発展の将来性は荘園制にかかっていた。

我々が文献史料から見て取ることは、地主に従属するコローヌスと「半地主従属的ー半自営農民的」状態にある者を、我々の[プロイセンの]農地法≪19世紀の初め頃からプロイセンでは農奴解放運動が起きていた。≫の用語で語ろうとする試みは成立せず、そういった者達においては地主との関係は純粋に契約に基づくもので、相互に独立して存在していたのであり、その関係は地主の農場の外側に存在していた。しかしここで第3章において述べた次のことが関係して来る。つまりデクリオーネスが納税義務を課せられていたことは、その結果として起きたことは諸都市の領土が何十にも分割された専制[者の土地]へと解体された、ということであり、こういった専制はより小規模の地主をその中に囲い込んだのであり、そしてそれぞれの専制政治を行う者によってその専制領域の税は、その者自身が経営する農場に対するものと、また中に囲い込まれた小規模地主に対してのもの、そしてコローヌスに対してのものを含む形に拡大されており、そのことによってその専制領域に属する納税義務者は事実上統合されたのである 92)。

92) テオドシウス法典 2 de exact[ionibus] 11, 7 (319年のコンスタンティヌス帝の立法による):いかなるデクリオーネスも次のこと以外で訴えられることはない、それはその者に課せられた人頭税についてと、その者の配下のコローヌスと人頭税を課せられた者達についてであり、「他のデクリオーネスやまたはその領地を理由として」[pro alio decurione vel territorio]訴えられることはない。デクリオーネス自身に全体責任が課され、[各デクリオーネスの中から更に]一人の長が選び出されてそのゲマインデの全体での税の総額に対してその者に責任が課されたのであり、それは既に D. 5 de cens[ibus] 50, 15 に規定されていた。今や各都市の領土は専制者の領土 [territoria] [の集合]に変わってしまって破壊され、それぞれのデクリオーネスが自分の領域について責任を負うようになっていた。このことは先に(第3章で)扱った土地台帳の断片の内容と矛盾していない。πάροικοι [傍に住む者→市民権は持っていないが住み着いている者]自身は単なるコローヌスであるということはあり得ず、この表現はマルクス・アウレリウス帝の時代のボイオーティア地方≪古代ギリシアの地方名で中心都市はテーバイ≫の碑文に同様に出てくる(C. J. Gr. 1625)。そこでは誰かが次の者達、つまり πολεἰταις [正規の市民に対して]、かつ παροίκοις [正規の市民ではない居住者に対して]、かつ ἐκτημένοις [正規の市民ではないが土地だけを取得した者に対して]贈与を行っている。ここでは πάροικοι はコローヌスとはほとんど見なし難く、それ以上に C. I. G. 2906 が確認しているようなデクリオーネス(πολεῖται)として直接納税の義務のある住民ではなく、ここで πάροικοι として語られているのは18~20歳の青年[Epheben]≪軍事訓練を受け成年になる準備をしている青年≫のことである。πάροικοι はよりむしろ受動的な資格の市民であり、つまり確からしいのは、tributarius [現物貢納の義務を負った者]と表現されている者達と同じであり、そしてこれらの者は(上述の箇所参照)コローヌスに並置されており、ムニキピウムの租税に関連付けられた者としてそう名付けられている。既に述べたことではあるが、私には次のように思える。つまりそういった者の中には、専制下に置かれるようになった小規模の地主が含まれており、その者達はそれ故に占有者ではなくなっているのであるが、そういった者達が規定されており、そのこととテオドシウス法典 2 si vag[um] pet[atur mancipium] 10, 12 の規定は矛盾していないであろう。地主への現物貢納の義務については、それは文献史料を一瞥すれば明らかなことであるが、コローヌスに関する全ての状況の中で非常に重きが置かれていたのであり、全てのケンススでの納税義務のある登録者[adscripticii]というものの実体がコローヌスに接近していった、ということは不思議なことではないのである。コローヌスという表現は一般に時においてはその土地に定住している訳ではないその土地の従属者に対してもまた用いられていた(テオドシウス法典 4 de extr[aordinariis] et sord[idis] mnu[eribus] 11, 14 とGothofredus≪Iakobus Gothofredus、 1587~1652年、ジュネーブ生まれの法学者・法制史家≫)。――コローヌスとして扱われた者についてではなく、ただある占有者の専制の中に囲い込まれた者の不完全に併合された納税義務は私には、その他の点では不明確で全く破綻しているユスティニアヌス法典 2 in q[uibus] c[ausis] col[onii dominos accusare possunt] の法令に関連しているように思われる。その法令は coloni censibus dumtaxat adscripti [ケンススだけによってコローヌスとして登録された者]について規定しており、またその者達が負わなければならない現物貢納についても扱っており、更にはその者達がコローヌスと同様にその主人に対して訴えを起こす権利が無く、ただ限定された、コローヌスにも許された場合にのみ特別な法的保護が与えられることを規定している。 ここについての法規の目的はそういった単なる adscripti をコローヌス一般と平等に扱うことであったように思われる。この章句に続く部分はおそらくは Tribonian ≪ビサンチン帝国の法学者達でユスティニアヌス法典の編纂に従事した。≫によって書き加えられたものであり、その時代にはこの2つの集団の差異はもはや無くなっており、そこについて Tribonian はこの部分は奴隷についての記述だと思っていたのであろう。

納税義務者[tributarii]とは占有者に従属するこういった身分の者達であった。占有者の身分直接的な納税義務を負う土地所有者としての特別な身分として他からはっきりと区別される際立った存在となった。占有者の各都市のクリエへの帰属はもはやそれらの都市の領土では無くなった占有された土地についての税負担 93) という風に見なされることが可能になっており、そのことは占有者の義務、例えば新兵募集の義務、をその者達の土地が直接負担するものでないように切り離すこと 94) を動機付けた。

93) テオドシウス法典 33 de decur[ionibus] 12, 1;同法典 1 de praed[iis] et manc[ipiis] cur[ialium] 12, 3。

94) テオドシウス法典 1 qui a praeb[itione] tir[onum…excusentur] 11, 18。

次のことは言うまでもないことである。つまりこうした展開は各地方において非常に異なった程度にそれぞれ到達しており、一部ではまだ始まったばかりであったし、それは当時ローマ帝国の領土の全てをムニキピウム領域において一つの組織で統一するという皇帝の理想の進展と同様であった、ということである。この発展傾向をより押し進めようと欲した場合、常にそれは次の留保条件付きとなったのであり、つまりそれはただ傾向に過ぎず、そしてその実施の程度は地方毎に異なっていたのであり、その傾向というのは完全に純粋な形ではもしかするとどこにおいても実現してないと見えるものとして、つまりは理想像として形作られており、それ故に、私は信じるが、それほど大胆ではなくとも次のように言うことが出来るであろう:皇帝の考えはもしかすると元々は次のようなものであったのかもしれない、つまりローマ帝国を自己管理し自治を行う諸ムニキピウムと、その諸ムニキピウムが負担する国家への分担金と結び付けたものにする、ということであるが、しかし帝政期にはそういう自己管理は次第に無効にされていったし、そして諸ムニキピウムは通常の場合はローマ帝国の行政管理の及ぶ領域とされたのである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(64)P.333~336

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第64回目です。
ここではコローヌス制と奴隷使役の上に立つ農場経営が次第に自立・自営の動きを強めていって、ローマの国家の中のいわば小さな別の国家になっていく様子が辿られます。ヴェーバーは明らかに中世のグーツヘルシャフト制(荘園制)の起源をローマのこの農場経営に求めています。それはいいのですが、ここでホノリウス帝の時のスキリア族に土地を与えてローマ領内に住ませたことがコローヌスと同様の制度として論じられています。注に書きましたが、これは西ローマ帝国末期のきわめて暫定的な処置と捉えるべきであり、ヴェーバーは法律にだけ注目してそういう背景情報をまったく書いておらず、誤解を招きます。
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このようなコローヌスの取り戻しの現実的な可能性は、大地主にとっては本質的な利害に関係するものであり、それはまた特に次の理由で、つまり大地主はコローヌスの税率について責任を負っていたからである。このような――土地税と人頭税――はコローヌス達が使用している土地のユガティオとしてケンススに登録され(adscribere) 77)、コローヌス達はそのことによって adscripticii[登録された者]と呼ばれた。大地主に対して諸ゲマインデに対するのと同様に次の義務が課された。つまりその大地主の責任となる新兵徴集ノルマという義務であるが、このことは土地それ自体が負担すべき現物的な義務として把握されており、そして大地主達は何とかこの義務を免除してもらおうとし、それは定期的な金銭支払いに代えてもらうことで部分的には成功したのである 78)。

78) Adscribere の手続きについては常に――テオドシウス法典 26 de annon[a] 11, 1;同法典 3 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11, 16;同法典 51 de decr[ionibus] 12, 1;同法典 7 de censu 13, 10;同法典 34 de op[eribus] pub[icis] 15, 1;同法典 2, 3 de aquaed[uctu] 15, 2;同法典 2, sine censu 11, 3 (servi adscripti censibus)――占有者や10人委員会の長による夫役や税の負担についてケンススに登録することが必要とされた。

78) テオドシウス法典 1 qui a praeb[itione] tiron[um] 11, 18、は帝政期の土地の例によれば、それについては同法典 2 de tiron[ibus] 7, 13 が制定された後は免除されるようになっていた。同法典 13 の同じ箇所の Adaeration [adaeratio]≪金銭の支払いによって免除された義務≫を参照。

属州におけるコローヌスについては、一般に人頭税が課せられた状態になっていたと思われるが、そのコローヌスはそのことによって censiti と呼ばれており、その結果としてコローヌス達はその者達の市民的な権利が弱められた階級に所属することになっており、それがこの状態の帰結であった 79)。

79) より下のクラスの者の人頭税免除については、その者達に拷問を加えることを可能にするという目的で、censiti の階級に入れられたということが、テオドシウス法典の 3 de numerar[iis] 8, 1 にて特別に規定されている。

大地主に属するコローヌスと自由なコローヌス

次のことは明らかである。それは以上のことをもってコローヌスとして知られた法的な状態についての全ての本質的な外形的特徴が与えられている、ということである。この状態がまさしく大地主の土地区画において発生していたということは、それによって説明されるのは次のことである。つまり帝政期の法律文献において、そういったコローヌスと並んで自由な期間限定賃借人の通常の賃貸借関係が見出される、ということである。

大地主に土地に従属するコローヌスの所有権について法学者がほとんど言及していないことの理由は、このコローヌスという状態について特別に適用されるように作られた規則の行政処理的な性格にある。ひょっとしたらコローヌスの法律上の状態は当時まだ実務的な処理においては様々に解釈し得るものだったのであり、それ故に該当する法学者達がその著作の編集においてはそれを扱わなかったのである。

類似の状態。軍事上の城砦。蛮族の定住。

コローヌスと同等の状態にあるものとして、一連の他の組織について見て行くこととする。その場合アフリカでの軍事上の城砦の住民は明らかにその土地に従属するコローヌスであったのであり、夫役の義務を課せられかつ皇帝によって任命された特別官の管理下に置かれた 80)。

80) アレクサンデル・セウェルス帝≪第24代ローマ皇帝、在位222~235年。≫は234年に “per colonus ujusdem castelli”[コローヌスを使って同じ城を]、――つまりマウリタニアの Dianense ≪現在のアルジェリアにあった属州マウレタニア・カエサリエンシスの都市≫の城――城壁を建設し、つまりそれはコローヌスを使役することによってであった。(C.I.L., VIII, 8701。参照 8702, 8710, 8777。)

また取り分け辺境の蛮族はコローナートゥス制≪コローヌスを使った小作制度≫の権利でそこに定住していた。ホノリウス帝≪西ローマ帝国皇帝、在位393~423年、暗君であって西ローマ帝国滅亡の原因を作り、在位中にローマが蛮族に占領された。≫はスキリア族≪東ゲルマンの部族で現在のウクライナに住んでいたが、フン族に追われて西ローマ帝国領に侵入した。≫を彼らがローマに屈服した後に、大地主の下にコローヌスとして置いて分割したが 81)、それは労働忌避者を大地主の下に送って使役させたのと同様である。

81) 409年のホノリウスの法とテオドシウス法典 V, 4, 1. 3:Scyras .. . imperio nostro subegimus. Ideoque damus omnibus copiam, ex praedicta gente hominum agros proprios frequentandi, ita ut omnes sciant, susceptos non alio jure quam colonatus apud se futuros.
[スキリア族を…我々の支配権の下に服属させた。それ故に全ての者に次の許可を与える。つまり、先に述べた民族について、その者達を自分の土地に住まわせることである。その際に全ての者が知っておくべきことは、こうして受け入れられた者は法的にはその受け入れられた者の下でコローヌスとなる、ということである。]
≪この例は、西ローマ帝国末期の暫定的な処置であったと思われ、実際にこの409年にはローマは蛮族の占領を受けている。またスキリア族も一旦ローマに恭順の意を示したが、すぐ後にフン族と共謀してローマに再度反旗を翻しており、決して安定的に持続した法的制度ではなかったことに注意。≫

既にこのことに遡って同様の処置が既に行われていた可能性がある。モムゼンはコローヌスの起源をマルクス・アウレリウス帝の時の蛮族の定住に求めているが、ガリアでのラエティア人≪元々ポー川流域に住んでいたエトルリア系と言われている部族で、ガリア人の侵入により山地に移動した。≫をコローヌスと見なすことは否定されるであろう。そういう議論にもかかわらず、私には蛮族とコローヌスには本質的な違いがあると思われる。というのはラエティア人とローマ帝国領内に定住した蛮族は全体で、我々が知る限りでは、より上位の農民に従属する土地付属の人間集団ではなく、[軍事力を提供する代わりに土地を与えられた]封土の所有者であったからである。次のことは完全に可能と思われる。つまり蛮族の定住が物権の発展の一般的傾向としての個人的及び公的な義務を本質的に強化した、ということであるが、しかし私が信ずるのは、コローヌスの権利状態というものは、そういう蛮族の定住のことを特に考慮しなくとも、法制史・経済史の観点で説明しうる、ということである。いずれにせよ定住させられた蛮族は、つまり gentiles は、文献史料の中でコローヌスとは区別され、gentiles については特別な個々人の身分を規定する法が存在した 82)。

82) 蛮族との結婚の禁止 テオドシウス法典 1 de nupt[iis] gent[ilium] 3, 14。

占有の法的位置付け

大地主のコローヌスに対しての権利の状態は完全に官憲的な性格を持っていた。一般論として大地主には警察力が与えられていたに違いなく、その力に基づいて saltus Burunitanus の請負人[conductor]はその配下のコローヌス達を棒で打ったりしていた。クラウディウス帝は元老院に対して、自身の土地においての一般的な市場開催権を認めさせており、その権利にはいずれの場合でも市場警察の権利が結びつけられており、そして大地主についてもまた次のような権利が与えられていた。それは市場で販売される家畜や奴隷について、商品そのもの、あるいはその商品の品質や員数不足に対しての購入者からの苦情に対して、按察官[アエディリアス]≪建築、道路、水道、市場などの管理を担当するローマの官吏≫のやり方に倣ってそれに対処する、という権利である。同様に市場においての司法権もまた私人である大地主に与えられた(C.I.L. VIII, 270)。大地主達は彼らに与えらえた警察権力を使ってその配下の者達に対して、それが適当と思われる場合においてはコローヌス達を奴隷のように収用部屋に監禁したのであり、このことは皇帝の立法によってこういったケースで監禁された私人に対して干渉し、そういった行為を越権行為[crimen laesae majestatis]≪元々の意味は国家に対する反逆などの重大な犯罪のこと≫として国家大権に基づく介入を行って調停しようとすることが試みられるまで続いた 83)。

83) テオドシウス法典 1 de privat[is] carc[eribus] 9, 5。

同様に明確に起きたことは、国家の行政当局と大地主の土地で官憲の関与を免除された領域の管理人との間の争いである。農場管理者の側は次のことを要求した。それは犯罪者の追及とその他の必要な措置をその領域の中ではただ要請を当局に対してするだけで出来るようにすることであり 84)、言い換えれば、農場管理者達はフランスにおいて治外法権[Immunität]と呼ばれているのが常であることを行使することを、当然の権利として要求したのである。

84) テオドシウス法典 11 de jurisd[ictione] 2, 1。大地主の代理人たちは一般的に全ての上位の裁判から免除されるように努力した。それとは反対のことがテオドシウス法典 1 の前掲部にある。

それについては皇帝の側から拒絶されたのである。他方では大地主達は部分的には次のことをやり通すことが出来た。つまりその配下の者達に対しての裁判を行うことであり、それも民事と刑事の両方についてであり、原則的にはグーツヘルシャフト制を先取りした形で公判を行っていた。大地主はコローヌスを法廷に出頭させ、その者達に[裁判によって]庇護を与えた 85)。

85) テオドシウス法典 de actor[ibus] 10, 4 の皇帝の配下の者についての規定。しかし私人である大地主達が同じことをやろうと努力しかつまたそれにある程度成功していた、ということは、その者達が精力的な弁護を行い、また部分的には法廷への出頭義務を免除してもらおうともしており、また部分的には小規模地主を保護しようとしており、そして自身で所有する土地領域に定住しようとしていること、あるいは自身の大地主としての地位を認識しようとしていたことを示している。テオドシウス法典 1, 2 de patroc[iniis] vic[orum] 11, 24 ;同法典 5, 6 前掲部;同法典 21 de lustr[ali] coll[atione] 13, 1;同法典 146 de decur[ionibus] 12, 1 (「有力者の庇護の下に」[sub umbram potentium]逃亡した10人委員会の長に対して)。ユスティニアヌス法典1, §1 ut nemo 11, 53 においては”clientela”[庇護民]という関係の表現が使われている。参照 D. 1, §1 de fugit[ivis] 11, 4。

所有する土地領域をムニキピウムの裁判管轄区域から除外してもらうという動きは、完全にそれ自身の意志だけによる発展であった。徴兵は更にまた税の徴収管理と同様大地主制にのみ関係することであった。地主はその者なりにその領域のケンススのリストへの登録を導入し、税を徴収し法の執行権を持っていた 86)。

86) D. 52 prd[e] a[ctionibus] e[mpti] v[enditi]、そこではある請負業者が saltus の土地区画を税を滞納したという理由で競売にかけている。地主が自身の官憲的機能の利用を奴隷やコローヌスに委託することがよく行われており、そのためにユスティニアヌス法典の 3 de tubular[iis] 10, 69 は、地主が奴隷やコローヌスが行ったことに対して地主自身が責任を負う、ということを規定している。その結果として起きたのは、諸都市から属州への大量の人口流入が、それらの諸都市は剣闘士の競技が行われなくなったこと、及びゲマインデにおいての同族間の争いへの関心が弱まった後は、その争いは今や政治的な意味でのみ支配している10人委員会の長の一族郎党の内部でのみ起きたのであるが、そして諸都市の市場が占有者達の農場においての農業に必要なものを自給する組織の形成によってその意味を失ったという状況により、大規模な占有者の保護の下に逃げ込むことが始まったことによって、その吸引力を失った、ということである 87)。

87) 注85の関連箇所を見よ。

占有者は次のことに利害関心を持っていた。つまりその配下の者達とその土地で使用出来る労働力について出来る限り徴兵されないようにする、ということであり、そして一般論としてその者達を暮らしていけるように保ち、その者達が負担出来る範囲の義務を課す、ということである。占有においては国家による課税のための組織化を免れており、その組織化の内容は都市の住民の大部分とまさにその者達が労働力を持っているという要素を、ある種の国家への従属者のように行政組織の中に組み入れたのであり、また産業における生産を一部国有化し、それに対して部分的にはある種の官憲的性格を刻印し、そしてそれらを国家による厳格な管理の下に置いた、ということである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(63)P.329~332

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第63回目です。
この辺りはヴェーバーが1年間の軍役に従事している時に書かれたもので、そのせいか文法的に破格な文章が多く、かなり意味を取るのに苦労しました。
なおかつ驚くのは、アウグストゥスが実施したケンススによって、マリアとヨセフがベツレヘムに帰郷しそこでイエスが産まれる、という話がルカ福音書に書いてあるのはクリスチャンなら常識ですが、ヴェーバーはそれをマタイ福音書と間違えています。(序文で訂正しています。)後年宗教社会学をやる人とはまるで思えないお粗末さです。
序文でそこを訂正しているのは、読んだ人にすぐ指摘されたのでしょう。
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コローヌスの夫役はそこから、既に引用済みのアフリカの碑文にて、モムゼンが主張したように、ゲマインデ、例えば Genetiva≪Julia Genetiva Ursonesis、スペイン≫によって課された夫役に完全に相似するものとして取り扱われ 68)、まるで公的に課された労働であるかのように見なされ、その場合には請負人[conductor]にそれを扱う職権が与えられたのである。

68) Genetiva の法規、c.98。

コローヌスの土地に関しての所有権についての全ての法的な争いが行政的に解決された、ということは、第三章にて詳論した内容によって明らかである。請負人が賃借している土地の内の一区画を誰か他の者に与えることを許すのを望んだかどうかは、もちろんその請負人の意向によるものであった。アフリカにおける現金での税支払者の土地区画の状況も前の章で詳しく述べた通り同様であった。ここでの土地の所有は属州総督の職権と行政が関与するものとしてのみ可能となっていた。というのは結局のところは、イタリアにおける例外扱いの土地や、アフリカにおいて永代小作地とされた ager privatus vectigalisque においてのように、コローヌス達は事実上は地主から土地を借りているだけの存在であり、いずれの場合もムニキピウムの司法当局が関与することはなく、可能であったのはより上位の裁判所への訴えであり、それは何よりもただローマの中央裁判所への訴えであった。後の帝政期にはこの制度は色あせたものとなり、コローヌスに留保条件付きで許されたのは、正規の裁判官に対して地主を訴えるということで、特にそれはまた次のケース、つまり地主がコローヌスへのそれまでの賃貸料を引き上げようとした時 69) に起きていた。

69) ユスティニアヌス法典のXIの章の49。

つまりまたここで起きていたことは、元々の国家の賃貸人と元々の私的な賃貸人の区別が無くなって一まとめに扱われているということであり、国家の直轄地の大規模賃借人がその下の小規模な賃借人に対して行うことが許されていなかったこと――つまり賃貸料の値上げが――他の占有者達に対しても禁じられていた、ということである。他の条件においても同じにすることが行われていたが、この値上げ禁止ということはしかしコローヌスにとって有利なことだった。次のことは既に何度も主張して来た。つまり分割されていないまとまった土地の所有には、明らかに個々の土地領域 70) を測量によって境界線をはっきりさせるということは必要ではなかった、ということである。

70) 何度も考察して来たアフリカの saltus Brinitanus の碑文は、確からしいこととして、測量が行われており、その碑文は tabularium principis ≪銅板に刻まれた法規≫を引用してかつ測量地図を参照しており、このケースでは2種類の書類上にその法規に近い規定が含まれていた。

いずれの場合も使用料として税金を払う土地領域とそしてまた例外扱いされた土地においては、コローヌスがその土地の所有権を得るということが起きていた可能性がある。この点については、コローヌスが自分の所有する土地を任意に売却出来るかどうかということは、恐らくは後に、コローヌスの大地主への依存関係が深く根を下ろした状態になった時には、疑義が生じていた。そしてそれは結局は許されない、ということで決定され 71)、それ故に所有権のある所有というものは、土地所有の変更という点においては、元々の貸借地としての所有ということと同一視され、何故ならば明らかにコローヌスの労働奉仕はその者が所有する全ての土地所有に課せられている負荷として、10人組による奉仕やそれに類似のものとして取り扱われたからである 72) 。

71) テオドシウス法典 1 ne col[onus] insc[io] dom[ino] 5, 11 (ウァレンティヌスとウァレンス):”non dubium est quin non licet “[合法的でないことは疑いの余地がない。]。

72) テオドシウス法典 2 de pign[oribus] 2, 30 は奴隷、代理人、コローヌス、管理人、請負業者が地主の土地を担保にして借金することを禁じており、そしてテオドシウス法典 1 quod jussu 2, 31 は次のように規定している。それは今挙げた者達が借金をしたことについては、地主は義務を負わない、ということである。これらの法文は明らかに次のことによって生じた混乱について扱っている。それはコローヌスが所有権を保持する土地と賃借料を払わなければならない地主の土地が明確には区別されていなかった、ということである。

出生と行政管理上の出生地への送還

また別の方向への動きとして次のことが登場して来る。つまり、公的な負荷を負わされた者に対して、10人組ないしはそれに似た制度による取扱いの一つで、それはこれまで述べて来た地主とコローヌスとの間の関係形成と類似している。あるゲマインデに所属しているということとそこから生じる全ての帰結は、ローマ帝国に属する者の出生地と結び付けられていた。コローヌスにおいてはこのことは、その者がそこで生まれた土地領域が存在する地域、ということであった。他の全てのゲマインデについては、それが許されていた場合には、自由に≪名目上の出生地を≫設定することが出来た。しかしここにおいてまた見出されることは、公的な労働奉仕を義務付けられていた者の自由移住権は、帝政期には事実上まだ非常に強く制限されていた、ということである。ある確実な程度まで、このことは常に起きていたことである。元老院議員に対しては、まだ会期が先に残っているのに帰郷する場合には、周知のように先行して≪ローマに戻ってくる保証のための≫担保を取ることが行われていた。元老院の会議に直接的な強制で連行するのは、適当な手段ではなくかつ実行不能とおそらく考えられていたのであり、また法的には許されないこととされていた。帝政期になると一般にはこうした担保による間接的な強制に代わって、違反の際には行政的な現物執行が行われることとなった。新約聖書のルカによる福音書が書かれた頃においては≪ヴェーバーはここをマタイによる福音書と間違えていた。正直な所、とてもキリスト教徒とは思えない初歩的なミスである。クリスマスイブの教会では必ずルカ福音書の第2章が朗読される。参考:ルカ福音書の第2章冒頭「イエスの誕生 1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」新共同訳≫、一般的な意識として次のことが許可されていると考えられていた。つまりケンススのために属州民が自分の出生地に赴くことが必要とされる、ということであり、それについてはアウグストゥスによるケンススの記録が示している。ウルピアーヌスの時代になると、次のことはもう疑義を持たれなかった。つまり10人組は自分の出生地が属しているゲマインデに強制的な形で帰されることが行われ得たということである。もし諸ゲマインデが相互にまたはある土地領域について、次の点で訴えを起こした場合には、つまりある土地区画及びそこに見出される人員が、そのゲマインデの領地に属しているのかということと、それ故にその人員はそのゲマインデに対して納税と兵士への応召義務があるのか、という点であるが、その場合は controversia de territorio に基づいて行政上の手続きとして裁かれたのである。既にウルピアーヌスの時代にはそういった争いの際には、”vindicatio incolarum” [住民の返還請求]という言葉が使われていた。次のことは自明である。つまり土地に依存しているコローヌス達の場合は10人組の一員以外の何者でもないとして取り扱われ、それはその者達が公的なまた準公的な義務、例えば夫役、を行うべきとされている限りにおいてそうであった。コローヌス達は行政的な方法でその出生地に送還された 73)。

73) Revocare ad originem bei Curialen [元のクリアに呼び戻すこと]D.1 de decurionibus 50, 2 (ウルピアーヌス)。テオドシウス法典 16 de agent[ibus] in re[ebus] 6, 27。そこから派生して curiales originales [元々のクリア]テオドシウス法典 96 de decur[ionibus] 12, 1。鉱夫のその出生地への変換 テオドシウス法典 15 de metallar[iis] 10, 19。こういった手続きの行政的な性格を記述している箇所は 1.1 de decur[ionibus] の本文にある。コローヌスにおいてのこの手続きが、本来行政上の処理であったことを記述しているのは、そのことを扱っている箇所の本文全体であり、同様に、行政法において元々の出生地を再確認するということを扱っているのは:テオドシウス法典 1 de fugit[ivis] col[onis] 5, 9。ここにおいてもまた個人の身分に基づく権利と私権として通用する規範を作り出すための行政上の手続きが形成されているのであり、更にはあるゲマインデへの帰属に対して婚姻が果たす作用についても同じであり、というのもケンススへの登録にあたっては、ゲマインデへの帰属と土地への帰属が規制されねばならなかったからである。次のことは非常に自然なことである。つまりその際に奴隷が持つ権利からの類推によって関係付けられた、ということである。仮に我々の国家権力が弱体化して個人の自由移住権が制限されていたとしたら、その場合は我々も自分の属する土地領域において全く同じことを経験するであろうし、特に次のこともまた経験するであろう。つまり農民としての大地主に対しての私法的な義務と、公法上の大地主への義務の2つが、行政当局には継続して識別することは出来なかったであろう、ということであるが――夫役義務のある農民については、例えばローマ国家の土地領域においては、ここではそういうことを扱っているのでは全くない、という可能性がある。結婚についての規制の行政上の由来は、またテオドシウス法典の 1 de inui[inis] et co[lonis] 5, 10 に示されており、特に次の規定で:つまりある者で、女性のコローヌスの返還を義務付けられた者は、代理の者を立てることでその義務を免れることが出来、そして年齢制限にかかる場合も同じであった、ということである。その他の点についての参照 Nov. Valent ≪ウァレンティヌス3世、在位425~455年、がテオドシウス法典の後に出した新勅法 [novella constitutio]≫ I, II、第9章、更にユスティニアヌス法典の 11, 50 の de col[onis] Palaest[inis] の唯一の条文――そこでは”lex a majoribus”≪祖先によって制定された古き良き法≫がアフリカの大土地区画[saltus]についてのハドリアヌス法典と並置されており、同様に章 11,51、そしてユスティニアヌス法典の 11, 47 の章の全文もそうである。何度も登場する “inquilini”[同宿人、下宿人]は「借家住まいの農民」、つまりコローヌスとしては扱われず、その土地区画に従属する居住者のことであり、本質的にはコローヌスの成れの果てである。ユスティニアヌス法典 13 de agric[olonis] 11, 47 はそれ故に次のように注記している、問題が出生地への帰還に関係するのであれば、コローヌスとインクイリニの2つのカテゴリーは等しいものとして扱う、と。

ディオクレティアヌス帝の時代になって市民の裁判と行政上の処理が混ざり合って一つになった時には、そこから “vindicatio”[返還請求]が起き、その際にゲマインデのクリエがそのゲマインデの参事会に対して所有権の訴えを、まるで可愛がっている家畜を一緒に追い立てるかのように行い、その結果コローヌスはそれだけいっそうほとんど家畜と同様の法的な扱いを受けるようになったのである。最終的には Interdictum Utrubi [どちらがその動産をより長く所持していたかによって所有権を確定させる命令]が奴隷に対してと同じようにコローヌスに対しても下され、それによってまた再びコローヌスの性格が定住の農業に従事する農場労働者であるということが明確に現れるようになっていた 74)。

74) テオドシウス法典 1 utrubi 4, 23。善意の占有者はまずはそのコローヌスを取り戻し、それからその訴えは “causa originis et proprietatis” [出生地と所有権に基づく訴え]として取り扱われた。

そのコローヌスがその大地主に「属する」とういうことは無条件に宣言され 75)、そして事実上そのことは実際の状況に合致していた。何故ならばそのコローヌスがその農場に従事しているということは、いまや十分に明白になっていたからである 76)。

75) テオドシウス法典 2 si vag[um] pet[atur mancipium] 10,12 の “cujus se esse profitetur”[それがその者に属すると宣言された]。

76) それ故に次のケースではその当時の見解に従えば農業従事者のカテゴリーを移動させることであった。その場合とは、テオドシウス法典 1 の de fugit[ivus] col[onis] 5, 9 によれば、逃亡したコローヌスは奴隷に落とされねばならず、その箇所での表現によれば、その目的は行政当局が次のことを認めることで、それはまた自由な農場への従属者であったに違いない者を、奴隷として新たに整理し直す、という場合である。Nov. Major. ≪マヨリアーヌス帝新法典、同帝は西ローマ皇帝、457~461年在位≫4, 1 のクリア民がクリアの奴隷として表現されているように、そしてテオドシウス法典 39 の de decur[ionibus] 12, 1 にてその者達に拷問を加えてはいけないことが特別に規定されているように、この場合のコローヌスは「領地に属する奴隷」となっていた。