ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(43)P.248~251

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第43回です。
生成AIであるChatGPT4oは、ラテン語の翻訳において便利な下調べツールとして有用なだけでなく、時として辞書代わりにもなります。ラテン語をドイツ語化した法律用語はほとんどの場合独和辞書には出て来ません。またググっても使用例は確認出来ますが、なかなか意味まで探すのは大変です。
例えば、
1.Litisaestimation
私:ローマ法の強制執行に関係した用語だと思いますが、Litisaestimationとはどういう意味ですか?
ChatGPT:
Litisaestimation(リティスエスティマティオ)とは、ローマ法において、訴訟対象の価値を評価・見積もることを指します。この用語は、主に訴訟における賠償額や義務履行の代替価値を決定する文脈で使用されます。

文脈と意味
強制執行の過程での評価

訴訟の中で、被告が原告に対して義務を果たさない場合、裁判所は義務履行の代わりに、損害賠償金としての金額を算出する必要があります。この金額の評価が「Litisaestimation」です。
例えば、不動産や財産の引渡しが物理的に不可能な場合、または拒否された場合、その対象物の金銭的価値を訴訟の一部として評価します。(以下略)
2.Strafsponsion
私:ドイツ語でStrafsponsionとはどういう意味ですか?そのまま解すると刑罰の誓約になりますが。
ChatGPT:
ドイツ語のStrafsponsion(ストラーフスポンシオン)は、ローマ法の文脈で特定の意味を持つ法的概念です。この用語は、特に訴訟手続きに関連する誓約や担保を指します。

具体的な意味
Strafsponsionとは、訴訟当事者の一方が不法行為を行った場合に、その違反に対して課される罰金や損害賠償を担保するための誓約または保証金を意味します。この誓約は訴訟手続きでプラエトル(裁判長)が要求することがありました。
(以下略)

といった具合で、単なる訳だけでなくかなり突っ込んだ背景まで含めて答えが得られます。
この日本語訳をスケジュール通り進めていく上で非常に役に立っています。
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そういった税額を維持しようとしたことと、個々の土地区画の種別が非常に容易に変更されるものであったということは、矛盾しているように思われる。更に言えばこの時代の法学の文献が “tributum soli”[土地税]について言及している箇所では、今指摘したことは次のような形で現れている。つまりは土地税というのものが、個々の具体的な土地区画に対しての固定された公課という前提で扱われているように見える、ということである57)。

57) 学説彙纂のD. 39、§ de legat[is] I, 30。それについて新カルタゴの碑文 C. I. L., II, 3424, によれば、ある者が神殿を建てようとした時に、総督補佐官の指示に従い、(5%税としての)20デナリウスの金額または土地税(つまりある固定額の)の控除無しにそれを行っている(モムゼンの同箇所への注釈を参照)。Vectigal と土地税は引用した学説彙纂の箇所では並記されている。この2つの対立については、vectigal の相対的に見て流動的な性格から考慮してみることが必要であろう。コンスタンティヌス大帝の統治下のフリギア≪小アジア中西部≫のナコレイアとオルキストゥス≪どちらもフリギアの都市≫の碑文が言及している tributum … ubertatis [土地の肥沃さに基づく土地税](C.I.L.,III,352)がまさしく、土地の価値によって固定額として定められた土地税に関することを確かに述べている。≪全集の注ではここは ubertatis ではなく libertatis(自由な) が正しいとされているので、ヴェーバーの推論は成立しない。≫同様の例として水道橋の側の土地に住んでいる者への土地税がある(p.348、ラハマン)。そしてまた D.42. 52,§2 de pact[is], 14 でも土地税が固定額の公課として扱われている。

最終的には税額の査定は一定の書式に基づいて行われ、それはウルピアーヌスが描写している(D.4 de censib[us])通りであるが、そこにはっきりと注記されていることは(前掲書§1)、ワイン用ブドウ畑とオリーブ栽培畑を――それらがもっとも高い地代を課されたカテゴリーであったが――それより低い地代のカテゴリーに変更する場合には、何故その変更が必要なのかについての十分な理由付けが必要であり、そしてそれは税査定官に対して良く説明されねばならず、そうでない場合はその変更申請は却下された。それによって税額が低くなる土地利用方法の変更の際には、それはただ relevatio [救済]または peraequatio [税の不平等の是正]という行政措置を利用してのみ可能であったが、それについてはすぐこの後で更に論じることになる。土地の利用方法の変更の結果としての、その土地の課税カテゴリーの高い方への移行に際してはしかしながら、徴税担当官は税の引き上げの実施を peraequatio による全体の税の見直しの機会まで待ったりはしなかった 58)。

58) どのような事情があろうと、それ故にこの種の土地税(他の全ての土地税と同じく)は、それがあまりにも実態より高く査定されていない限りにおいては、ともかくもそれはその耕地において行われている耕作を維持させるために手段だったのであり、というのも全体の税額が同じままで耕地を拡張することは、相対的に見てより多くの場合認められていたからである。この視点はハイスターベルク≪Bernhard Heisterbergk、1841~1898年、ドイツの古代史家、古典文献学者≫が適切に指摘しており、次のことは疑いようがない。つまり特にアフリカに関しての彼の本質的な視点である、収穫物に対する一定割合の現物貢納が、同地における穀物栽培をもしこの課税が仮に行われていなかった場合よりもより強固にしたに違いない、ということであるが、いずれにせよこの視点は非常に注目に値するものであるが、しかしまたコロヌス≪ローマ末期に現れて来る隷属的小作農民≫の制度の発展にとって本質的なものであったか、という点については、私は一般論としてそうは考えない。

添付の図面1のアラウシアの碑文[地図]の中に事実上、私にはいずれにせよ非常に確からしくそう思われるのであるが、割当てられた土地とそのそれぞれに課税合計額が記載されているとするならば、その場合そこから導かれることは、その課税額は常に固定されていた、ということである。ある特定の土地区画である特定のカテゴリーの耕作が行われているものに対して土地税を固定するという傾向は、土地税を変更する全ての理由を除外して考えると、全くのところ一般に安定していたものであり、またその傾向はゼノン≪東ローマ皇帝、在位474~491年≫の法(C.1 de j[ure] emph[yteutico] IV, 66)からも生じており、それに従って土地区画を(永代賃貸地に)転換する際の土地税の免除の根拠付けとして使われていた。その当時においては土地税の固定は既にそのずっと前の時代から一般的なものとして確立していたに違いない。それに適合していることとして既に皇帝スカエウォラの時に土地税を支払わなかったことによる法的な結果としての税徴収の資格を持つ者によるその土地区画の競売(D.52 pr. d[e]a[ctione] e[mptio] v[enditi] 19,1)が起きており、それ故に強制執行は≪ローマの中で≫統一的に実施されるように≪制度的に≫整備されていた。それと並んで C.Th.1 de aquaed[uctu] 15,2 (320年のもの)において見出すことが出来ることは、水道周辺の土地に義務として課されている清浄維持義務を果たさなかった場合のその土地の差し押さえである。しかしこちらは古い法により多く依存している。

公有地の所有状態の法的性格

我々はここまで次のような劣位の権利しかない所有状態について語って来た。それは国家の公有地を利用するという形で発展して来たものであり、そしてこの性格をたとえ個々の場合でかなりの程度変更が加えられた場合でも、本質においては保持していた、ということである。そういった所有状態のゲマインシャフトという観点から見た法的な特性は、一般的に言うならば、ただ否定的な方向に作用した、ということである。既にここまで次のことを見て来た。クイリテース所有権の欠如によってこの所有状態はケンススから、また握取行為[Akten per aes ut libram]からも根源的な原則として除外されただけでなく、またその他の私権に基づく譲渡行為や物権一般からも除外されたのである。その例外は占有そのものに関することが問題になっている場合と、そういう所有状態の一部となっている、ある地域の地所全体をまとめて獲得する場合であった。

行政上の手続き

今挙げたような様々な除外と同様に、それと関連する正規の法的手段からの原則的除外について既に色々な角度から論じて来た。訴訟の争点が占有に関することでない限りにおいては、そういった所有状態についての争い事に対して権限を持っていたのはただ行政当局の判断だけであり、従ってそういう争い事は「特別審理」[extraordinaria cognito]の領域に属していた。どういった官吏がその時々にそういう権限を与えられていたかについては、ここでは詳しく論じない、――グラックス兄弟の改革の時の三人委員会や643年の土地改革法の時の二人委員会のような特別な権限を与えられた者ではない限りは、それはその時々に暫定的に作り出されたのであり、一般的には部分的に監察官の権限であり、また別の部分では上級官吏、つまり執政官の権限として与えられていた。属州の長官の場合はこの二者の権限が一人の人間にまとめて与えられていた。ここにおいての違いというのは管轄権の範囲の違いであって、手続きの進め方の違いではない。これを理解することは非常に重要である。

というのはこの権利状態の正規の法的手段からの閉めだしは modus procedendi [契約の進め方、契約当事者の双方の義務]に関して大きな意味を持つことになったからである。特別審理[extraordinaria cognito]については、その特徴は全くもって単に訴訟手続き及びそれに関連した手続きだけが欠けている、ということではないのである。特別審理におけるこうした欠如は概して言えば不可欠なのにもかかわらず許されていなかった、ということではなく、ただ無くとも問題にはならない、という性質のものであった:また行政上の審理について決定権を持つ官吏は、その審理を陪審員に対して委託する命令を出すことが出来た。我々にとってより重要なのはひょっとするとこの手続きのもう一つの特性:現物に対する強制執行の可能性、であろう。

現物に対する強制執行

行政上の審理において決定権を持つ官吏はまた、法廷での決定に不服な者に対して、ただ罰金刑の宣告のみに留めることも出来、それは民事裁判での罰金刑の宣告に相当するものであった。しかしそういった官吏は疑いなくまたその宣告において現物で執行することが出来、つまり係争の対象になっていた土地区画を敗訴した者から取り上げ勝訴した者に与えることが出来たのである。特別審理においてこういった現物での処置が本質的なものであったことは、疑いの余地が無い。現物執行は地方総督の管轄となる訴訟においても完全に無くなることはなく、またそういった訴訟に先行して法で規定されている事例 59)とは違い、特別訴訟[Prozedur extra ordinem]の性格を事実上持っていた、ということも無かった。

59) D.2,§8 testam[enta] quemadmorum] 29, 3 (“omnimodo compelletur”); D.3,§9 de tab[ulis] exh[ibendis] 43,5 (“coërceri debere”); D.1,§3 de insp[iciendo] ventr. 25,4 (“cogenda remediis praetoriis”); D.5,§27 ut in poss[essione] leg[atorum] c[ausa esse liceat] 36,4 (per viatorem aut officialem); D.3,§1 ne vis fiat 43,4 (extraordinaria executio); D.1,§1 de migrando 43,32 (“extra ordinem subvenire”).

その際に扱われているのは本質的には審理を主導している者の判断に基づく執行である;それに対して特別訴訟や一般的な行政訴訟における手続きとしての現物執行は規定を設けてそれに則る形で行われていた。監察官は確かなこととして、次のことを必要であるとは認めなかった。つまり国家の賃貸人が土地を奪った方からその土地を取り上げ、代償として金銭で弁済する、ということで、そうではなくて監察官が出来たことは、国家の賃貸人に倒して≪土地を奪われた方に≫別の地代付きの土地を割当てさせることであった。グラックス兄弟による土地割当てにおいては、土地区画の譲渡不可という状況では執行は争いとなっている土地の価額の金銭での見積もりという形で、それは訴訟の目的を部分的に無効にさせる≪土地そのものは諦めさせるという意味で≫のと同じことを意味していたのかもしれない。controversia de territorio [領土を巡る争い]においては、それは同様に特別審理という形で決着を付けられたが、それについては碑文によれば執行が現物で行われた 60) ということが確認出来る。

60) C.I.L.,X, 7852 とそれに対するモムゼンの Hermes ≪当時の古典研究の雑誌≫II の注釈参照。

この現物執行ということは、その対象がまず第一に場所[locus]であり、一定の地代を課された、課税される、等々の全ての所有状態の土地に対して行われていた。面積[Areal]についても現物執行は有用なものとして扱われた。というのはそれは丁度、本来はただ場所についてのみ占有を保護する禁止令が、その強権的な罰金支払い誓約≪訴訟においてどちらか一方が判決で宣告されたある義務を果たさなかったり、あるいは違法行為を行った場合に罰金を支払うことを訴訟開始前に誓約すること≫などの威力も利用して、現物執行に近付こうとする努力と、現物での解決について服従を強いるということから発生して来たように、そういった事情は面積についても同じであったからである。訴訟手続きの更なる発展については、この現物執行はしかしながら大きな意味を持っており、というのはほとんどの属州においての土地区画は劣位の権利しか持たない状態で占有されていたからであり、物的訴訟においての現物執行の許容は時が経つに連れ共通の法≪ユス・コムーネ≫として扱われるようになり、それはウルピアヌスの D.68 de r[ei] v[indicatione] (VI, I)で既に見て来た通りである。

以上述べて来たことは大法官がこのような所有状態に対して、通常の裁判手続きに基づく訴訟を許可した場合は、当然のことながら事情が違っていた。しかしながらそういうケースで知られているものは無い。所有権という点において本来の≪クイリテース≫所有権の次に来るグラックス兄弟による土地の割当て自身が、法的な処理という点で、既に注記したように、彼らからして見れば管轄外だったのである。また擬制的な規定が作り出されたかどうかについても知られていない。

日本の学者と論争と

ここの所、宗教社会学研究の準備として、旧約聖書やクルアーン、そして神道の本などを読んでいますが、その関連で清水俊史の「ブッダという男 ――初期仏典を読みとく」というのも読了しました。ところがこの本の後書きにとんでもないことが書いてあって、この著者がある本を出そうとし、その中である有名な仏教学者の説を批判していたところ、その学者とその指導教官から呼び出しを受け、本を出せば大学教官の職に就けないようにする、と脅かされたそうです。折原浩先生が日本の学者が論争しないことを嘆かれていますが、論争しないどころか裏でそんなまさしくアカハラをやっているということに暗澹たる思いでした。
その関連で折原浩先生の批判を読み直していたのですが、ただ先生の批判にも問題と限界を感じました。それは論争しない学者を、学者にももとる、といった道義的・個人的な批判に終わっていることです。折原浩先生から大学でデュルケームの「自殺論」について学びましたが、そこで一番目からうろこが落ちた思いだったのが、冒頭の個人の性格の問題と考えられがちな自殺が実は巨視的に統計をからめて眺めれば、立派な社会現象である、ということでした。社会学であるならば、日本の学者が論争しないことを非難するだけではなく、それがどういう社会構造・社会風土に関連しているのかを分析し、個人の努力だけでなく社会として改善していくのにはどうしたらいいか、という方向に発展させるべきと思いますが、実際は残念ながらまるで進んでいません。古来からの日本論で、アメリカのルース・ベネディクトの「菊と刀」、土居健郎の「甘えの構造」、中根千枝の「タテ社会の人間関係」に匹敵するような日本社会論・日本人論を日本の社会学者が出したという例を私は寡聞にして知りません。また最近ビジネスの世界では非常に有名になった「心理的安全性」も提唱者のエドモンドソンは組織行動学・心理学者ですが、その内容はまさに社会学が扱ってしかるべきものだと思います。上記の清水俊史の例で見る限り、日本でもっとも心理的安全性の無い組織がアカデミズムの世界なんでしょうけど。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(42)P.244~247

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第42回です。今回も、ager privatus vectigalisque についての議論が続きます。この「私有地」と「(地代付きの)公有地」という曖昧な性格を持っている土地がヴェーバーの興味を惹いてヴェーバーがある意味乗って筆を進めている箇所のように思えます。
ヴェーバーも言及していますが、土地というのはそれを持っているだけでは、今の日本でも固定資産税がかかるだけのある意味負の資産であり、農地を除けば、自宅を建ててそこに住む、賃貸住宅や商業ビルなどを建ててそこから家賃を得る、そこまでお金がなければコイン駐車場にする、コインランドリーを作る、コンテナ倉庫にするなどでお金を得る手段を模索する必要があります。
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同様に次のこともまた何より不可思議なことであろう。それは国家によって永代賃借人として認められた者で、全くその永代賃借料を支払わない者が存在していたに違いない、と仮定することである――というのは永代賃借人というのは法律が規定するところの ager privatus vetigalisque の占有者であったろうからであり、もしこの土地の法的な性質を市民の権利としての売却可能性が与えられない形の永代貸借と仮定する場合は、賃借料がただ名目的なものかどうかという検討は無意味になるからである 55)。

55) 先の箇所(第1章)でもここでも次のことが確からしいと想定される。それは通常の ager quaestorius は「事実上は」売却において制限が加えられていなかった、ということである。このことについての本質をより明らかにする必要がある。法的には ager quaestorius は ager publicus におけるある所有状態であり、他の全ての所有状態と同じく「所有し、占有し、使用し、そこから利益を得ること」が許されているが、握取行為による売却や占有状態以外に関する物権的な訴訟は許されていなかったのであり、そして行政上の保護下にだけ置かれるのみであり、その≪譲渡・売却の≫承認についてはおそらくは執政官の管轄だったのであろう(Liv. 31, 13によれば trientabula の土地の授与の承認も執政官が行っていたからである)。というのも国家にとってその土地が誰の所有物になるのかということへの利害関心は、trientabula の場合においてすら存在していなかったのであり、そのためそういった行政上の保護は一般に次のような者に与えられたのである。その者とはその場所を正規の書面以外を根拠として――つまりそれ以外の正当と見なされる理由に基づく引き渡しによって――やはりその前の不当にその土地を得たのではない所有者から獲得したそういう者である。しかしこのことがただ不安定な状態であるとのみ見なすのは困難であり、それは測量人達が ager quaestorius においての emtio venditio [獲得と引き渡し、売却]の形での売却を、規則的に行われているものとして言及していることからも分かる。ヒュギヌスが次のように注記している場合には:non tamen universas paruisse legibus quas a venditoribus suis acceperant [それにもかかわらず彼らの全員が売却者から受け取った土地について必ずしも法の定めるところに従っていた訳ではなかった]、その場合には≪正式な購買にいよる土地のケンススへの登録ではなく≫何かの土地の利用についての届出や何か類似のことが行われていた、と理解出来よう。――そういう意味で ager quaestorius の「売却可能性」は理解することが出来、またそう確認されなければならない。しかしこうした制限付きであっても、私には売却が実際に行われていたことについては疑いようがない。何故ならば ager queaestorius の譲渡不可という原則に固執することは、そこに貸借料が課されていないのであれば、それに対して≪国家の≫実際的な利害関心が存在したということはほとんど信じ難いからである。しかながらもちろん、こういった ager queaestorius の ager privatus vectigalisque との差異は法学原理から作り出されたものではなく、ただ実務的なものとして徐々に形成されたものである――注56a)を参照。

永代貸借権について後の売却可能性

永代貸借権の法律上の売却不可、という特徴がそもそも本当に行われていたのか、あるいは行われていた場合にはどのくらいの期間に渡ってそうであったのかについては、確かなことは分かっていないが、後の時代にはそういう禁止は無くなっており、というのは帝政期の法資料の中でそれについての記載が見られないからであり、そしてコンスタンティヌス大帝の下で売却の許可が確立したように見える。私見ではテオドシウス法典のある解釈に基づくテキストの p.186 ≪全集の注によれば正しくは p.97≫がこのことを規定しており、その部分からまた同時に分かることは、賃貸料支払いの義務のある土地区画の握取行為による譲渡はその時までは許可されていなかった、ということである。何故ならば ager queaestorius の土地の売却について課税上の利害関心を扱っている箇所については、それ以外では scamna 56) の売却については特別に詳しく規定する必要性を感じていなかったように思われるからである。

56) ここでは scamna =地代の支払い義務のある土地区画、の意味で使われており、それはケンススとの関連を示しているのであり、ケンススという語がこの規定が含まれている章のタイトルに含まれている。ここでは2つの種類の土地区画が扱われている:一つは握取行為によって譲渡可能なものであり、市民への課税を決定する国家のケンススに登録されるものであり、もう一つは個別の土地で、その土地の使用に対して税≪貸借料≫が課されるものである。しかし売却に関しての二つの実質的な違いは:前者の土地については所有権が握取行為によってケンスス上の登記を変更するという形で移転し、引き渡しについてはただ所有権移転の実施だけが行われ、それはつまりある通知で、その通知の内容としては握取行為に該当する面積の土地が、今や購入者の自由な処分に供される、ということである;こういった”vacuae possessionis traditio”[実質を伴わない形式的な所有状態の引き渡し]は、根本的には訴訟に備えたものではなく、それによって所有状態の保護を得るという意味だけを持っていた。それに対して scamna、つまり握取行為による譲渡が出来ない土地の場合は、引き渡しはただ所有権移転の具体的な行為だけであり、つまり前述した emtio venditio[購入-引渡し-売却]であって売却代金についての債務から発生する行為であった。法のこの部分が次に規定しているのは、既に前述の箇所(第2章)で詳しく論じたが、今後は握取行為によって売却しようとする土地の面積の、売却に先立つ測量または境界線に関しての通知を行うことを義務付けていることで、そしてこの規定によって握取行為が本来持っていた古くからの性質である、ただ割当てられた面積のみの売却、という性質を取り除いたのである。scamna の場合にはこういった視点に基づく規定は見られないが、というのは同意に基づく emtio[購入と引き渡し]は何らの所有権の移転を含んでいなかったからであるが、しかし同一の原則が――間違いなくコンスタンティヌス大帝によって――ここでも適用されるべきとされたのである。

推測されること、あるいはむしろ確かであるとさえ言っても良いことは、後の時代の同意に基づく emtio venditio と最終引渡しという流れによる売却の通常の形式は、場所の獲得の形式として一般的なものになっており、≪クイリーテース所有権≫より劣位の権利を持った所有状態について全体において唯一の売却形式だったのであり、その権利についての一般的な売却可能性は行政当局の裁量に基づくものとなっていた、ということである。。

その当時の人々は次のような内容を規定として定めていたに違いない。つまり「売却対象からの除外」というのはこの場合単純に次のことと同じ意味なのであり、それは握取行為からの除外であり、正規の訴訟手続において物権として正規の所有権が認められていない土地に対して保護が与えられない、ということであり、つまりは売却に対しての「法」規範の欠如を意味するのであり、そのためにこの売却が行政当局の実務で扱われるものである、ということは、それをどういった前提条件から導くべきなのか、あるいはそもそもそういう前提条件が存在するのか、という問題であった。「法的な」意味での売却性が認められるようになるのは次の時点からである。それは行政での実務上の原則が法としてきちんと確立する時点であり、そういった諸々の状況がもしかすると ager quaestorius の状況だったのであろう 56a)。

56a) モムゼン(C. I. L. Iの土地改革法の箇所)は、ager privatus vectigalisque の売却性をZ. 54. 63 においての表現から結論付けている:”cujus ejus agri hominis privati venditio fuerit”[その土地が私有のものであってそれが売却されていた場合]。私はこの表現はむしろ次のことを意味しているのではないかと考える。つまりこの法が売却に関しての何かの「特別な」意味を示しているということで、――もしかすると後の時代の Emphyteusis ≪土地の長期または永久貸借≫に似たようなもの――を意味していたのではないかと。この法がまたこの形式の耕地に対する権利の有効化について別に何らかの原則を定めていたかどうかは不明である。Z.93 での”in ious adire”[法的権利を主張する]という表現はおそらくはまさしくこのすぐ前の箇所にて言及した”ager ex senatus consulto datus assignatus”[元老院決議に基づく土地割当て]に関しての表現と思われる。この表現が具体的な耕地との関連で意味することを、モムゼンは引用済みの箇所でそれを公有地占有の形の土地についての表現と見なしている。この ex senatus consulto による土地に関する記述は、viasii vicani が出て来る箇所よりも先であるので、私は次の考え方はそう間違っていないと思う。つまりこの表現は先に既に述べた navicularii の耕地について言っているのではないか、ということである。この法にてこの部分に続く箇所では、ひょっとすると後の時代ではしばしば皇帝の命令によって出された業務である、非常に負担の重い農作物の輸送義務について述べているのかもしれない。

地税の中での vectigal の変遷

法律上の売却性という点について、地税の一種という分類においての vectigal の永代貸借料に関する規範という性格は変動していた。もちろんこの売却性というのはアフリカにおいての所有者達においては、もし私が先に述べた見解が正しいなら≪執政官 Ahenobarbus の時の lex censoria がアフリカでの賃借耕地からの収益に関して規定しているという見解≫、次のような我々が慣れ親しんでいる課税方法とは異なっている性格も持っており、つまり≪我々が親しんでいるように≫土地区画あたりの収穫高に応じて土地に課税上の等級を設定するのではなく、その土地の合計面積、つまり総ユゲラ数に応じて、均等にかあるいは耕地、牧草地、森林などについてそれぞれに大まかな税率が設定されて課税されていた。ここにおいてようやく公有地の価額の査定においての綿密に検討された行政上の技術が登場して来ているのであるが、それは単に定量的なもので根本原則的なものではなかった。もしかすると既にカンパーニャ地方の土地において――正確なものではなかったにせよともかくも推進された――譲渡金額についての査定と個々の区画に対しての決定についての何らかの手続きが行われていたのかもしれない。少なくとも測量地図の作成と”pretium indictum”[公示価格]はヒュギヌスの印刷本の p.121 に出て来る表現である”certa pretia”[固定価格]を思い出させるものである。この固定価格という表現は同じ本の p.119 との関連でどちらも同じケースを扱っているが、トラヤヌス帝の時代においてパンノニアにおける≪退役兵士への≫譲渡の対象とする土地に対して、次の6種の分類が行われていた:arvum primum[第1級の平地]、arvum secundum[第2級の平地]、pratum[牧草地]、silva glandifera [木の実が採取出来る森林地]、silva vulgaris [その他の森林地]、pascua [(共同の)放牧地]である。一人一人に割当てられた土地の面積である――66 2/3、80、100 ユゲラについては――それらの面積の土地が常にただ一つのこれらの課税クラスのどれかでなければならない、という考え方はされておらず、それよりむしろそれぞれの割当て地の税の総額が計算され、その計算はその土地の各部分での分類上のクラスで決められていた「それぞれのユゲラあたりの単価」 X 「それぞれに該当するユゲラ数」、の総計という形で行われていた。測量地図上には各割当て地について、その土地の中の arvi primi ≪arvum primum の複数形≫が何ユゲラ、prati が何ユゲラ、といった風に記載され、その情報に従って各クラスによって固定されていたユゲラあたりの税額を使って、その割当て地の合計税額は簡単に計算することが出来た。ではもし土地所有者がその土地の利用方法を≪例えば農耕から牧畜に≫変更した場合、その場合でも税額の総額は同じままであっただろうか?もし近代的な意味での土地税の話をしているのであればこの問いに対しての答えは間違いなくイエスであろう。しかしここで課されている賦課については次のことを考慮することが必要であろう。つまり歴史的にはこの賦課の制度は永代貸借の規範の中間形成段階から、それが最終的に確定した段階へと発展し変化し続けていた、ということである。そういった状況に即して考えてみれば、次のことは全く首尾一貫していると言えるだろう。それはその土地の利用方法が変わる度に、賃借料もそれぞれの土地の分類に従って総額が変更された、ということである。賃借人の土地の利用方法の変更による賃貸料収入の減少リスクに対しては、≪民間の≫賃貸し人もその立場での国家も次の手段でそのリスクを回避しようとした。それはその種の土地利用の変更について、賃借人がローマの規則一般にほぼ従わざるを得なかったという状況を利用して、土地利用の変更をさせないようにする≪圧力をかける≫、というやり方によってである――そのことについては最終章で再度扱う――そしてまた属州の住民に対して、代々の皇帝は周知のように次の権利を当然のものとして保持していた。つまりその住民達に対して土地利用の内の一定の種類のものをイタリアの土地全体の所有者としての利害関心からそれを禁止することが出来る、という権利である。それ故に次のことは全く可能であったであろうし、またもしかすると実際にはもっとも広く行われたケースであったかもしれないのであるが、個々の土地からの賃借料の額は、ヒュギヌスが記しているように、それぞれの利用方法の違いに応じて≪固定額として≫土地台帳に記入されたということであり、そして土地の利用の仕方、つまりワイン作りのためのぶどう畑などとして利用された面積のユゲラ数こそが、本質的にはヒュギヌス(既引用分)が言及しているように土地の占有ということの本質的な内容だったのである。しかしながらそういった土地利用の仕方の変更の禁止が行われていたとしても、それはいずれにせよただ経過的な措置に過ぎなかった。何らかの理由で起きたかもしれないある耕地の一部分についての利用の中止は、間違いなく税金の軽減の理由としては決して認められなかった。arvum primum と secundum といった土地の分類は、その土地の収穫「可能高」に基くその土地からの継続的な税徴収を意味していたし、そしてこうした分類基準については時間の経過に従いその分類を増やすという形で更に細分個別化されていったのであり、それについては後で論じる通りである。