ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(48)P.268~271

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第48回です。ここの議論も非常に分かりにくく、日本語訳も何度か見直しています。ここから分かるのがポエニ戦争の後の北アフリカが様々な混乱を巻き起こすと同時に、新しい制度を産み出す母体ともなっているということで、ヴェーバーはグルントヘルシャフトというドイツ史用語を使用していますが、要するにラティフンディウムという大土地所有制度とコローヌスという小作人の発生をここでの混乱の中に起源を求めているように思います。まあ最終章を読まないとその辺はまだはっきりしませんが。
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ager privatus vectigalisque と ager stipendiariorum を区別するものは、前者は[一度契約したら]没収されることがない、ということである。それに対して後者を通常の賃借耕地から区別しているのは、所有についての期限が定められていないことと、そして一旦譲渡された土地の法的な地位の固定とそれによって監察官による賃貸し地としての管理下に置かれない、という2点で国家が課税対象とする他の土地一般から違っているということであり、更にはまた同様に耕作という本来の目的以外には全く使用出来ないということで、それは[抵当設定するといった]法律上の手段も含んでおり、またそれに関する訴訟も行うことが出来ない、ということである。そのことから私にはこの状況は次のように把握出来ると思われる。それはローマの国家に対しての解体された諸ゲマインデの位置に大地主[グルントヘル]が登場して来ている、ということであり――というのは多数の小区画の土地所有者に対する[まとめての]土地の譲渡においては、それらの者がシチリア島での例のように無条件に法的に賃借人として取り扱われた、ということは考え難く、――またこういった地域が本来であれば諸ゲマインデにされたであろうやり方と同じように、ある決まった継続的な税支払いを現金でかあるいは農作物、アフリカでは穀物で、行うということを引き受けることと引き替えに譲渡されたのであると。

以上のことによって譲渡された所有地はローマの領土として取り扱われたのであり、従ってそういった大土地所有制度[グルントヘルシャフト]での所有物については正規の法的手段による訴えを起すことは出来ず、そういった土地に対してはただ公的測量図に基づく行政上の処理だけが許されていたのであり、その処理については測量人達は controversia de territorio [領土についての争い]として知っており、第1章で詳しく述べたサルディーニャ島の Patukenser と Galienser ≪どちらもサルディーニャ島に住んでいた種族≫の間での土地の境界を巡る争いについてその語が使われているのを見て取ることが出来るが 103)、それは結局は公的測量図に記載された境界について、行政処分としての現物執行と土地の返還という結果につながったのである 104)。

103) C. I. L., X, 7852
104) この制度が実際の所、本質的な傾向として見た場合に際立って特徴的なことは、しばしば他の関連で引用して来たフロンティヌスの著作の次の部分(ラハマンの p. 53):
Inter res p[ublicas] et privatos non facile tales in Italia controversiae moventur, sed frequenter in provinciis, praecipue in Africa, ubi saltus non minores habent privati quam res p[ublicae] territoria: quin immo multis saltus longe maiores sunt territoriis: habent autem in saltibus privati non exiguum populum plebeium et vicos circa villam in modum munitionum. Tum r[es] p[ublicae] controversias de iure territorii solent mouere, quod aut indicere munera dicant oportere in ea parte soli, aut legere tironem ex vico, aut vecturas aut copias devehendas indicere eis locis quae loca res p[ublicae] adserere conantur. Eius modi lites non tantum cum privatis hominibus habent, sed ed plerumque cum Caesare, qui in provincia non exiguum possidet.
[イタリアにおいては公共の土地と個人の土地との間で、争いが容易に起きることはないが、しかし属州、特にアフリカではそれがしばしば発生する。そこでは[測量されていない]森林や放牧地が私有地として公共の領域よりも大きくなっている:いや実際にはそれどころか、多くの者にとってはその広大な森林や放牧地の方が公共の領域よりもはるかに大きい:しかしながらそういった私有の森林や放牧地には相当数の平民が住んでおり、またそういった平民の家の周りにはまるで砦を成しているかのように村落が形成されている。同様に諸ゲマインデは領域についての争いを起すことが良くある。それはある土地について、その一部だけがローマによって与えられて割当てられたとすべきだと宣告したり、村から徴兵したり、または輸送を行わせたりそのための多くの者を徴用すると宣告する場合であり、その土地を自分のものだと主張しようとする場所でそれらのことを行うのである。こういった土地に関する訴訟事は、個々の人間が所有している土地に関してだけでなく、多くの場合属州において少なからぬ土地を占有している皇帝との間でも起こる。]≪res publicae は通常は共和国であるローマのことであるが、ここでは文脈から、「諸ゲマインデ」、つまり元々その土地にあった地域集団、と解釈した。≫

同様に当然のこととして大土地所有制度[グルントヘルシャフト]の中でのその他の土地の権利に関することの調整はその大土地の地主の責務であったに違いなく、しかし常にそこから除外されるのは、また課税されている諸ゲマインデにおいては、当然のことながらそういった調整は属州総督の管轄であったということであり、それはローマ国家の利害に関わることが問題になっている場合や、あるいは関係者の請願に応じてそういった案件に関わることになったのである。そういった類いの土地所有について相続と売却が可能であったということは非常に疑わしく思える。複数の土地区画の一部を切離して売却することは、ローマの国家に対しては存在しなかった行為として見なされたが、それはその売却者が地主への税金支払いが出来なかったために拘禁された場合に限ってのことである。その結末がどうなったかは最終章にて取上げる。相続人への土地の所有権の移転はそれとは違って疑わしく思われるものではなかった;国家の側から見れば、税金さえきちんと支払ってもらえるのであれば、国家が行う調整の中身としては相続関係者の要請に基づいてそれを認可する、ということだけであった。おそらく可能であったと思われることは、売却にあたっては元々所有権の確認が必須だったということで、そこからおそらく生じたのは後の永代小作制[Emphyteuse]においての領主への、公有地の優先買取権を行使しなかった場合の手数料の支払いである。というのは後の時代には次のことが見出されるからである。それはゲマインデの団体には明らかに許されなかった元老院によるアフリカにおいての大規模な土地所有について、それが封土を与えられた者の名簿に基づいて、それぞれの者に対して土地が与えられており、その中では該当する地主に帰属する権利として、特に非定期的な市(いち)の開催権が記録されており 105)、そのことから考えて自由な売却が許されていた可能性は、全体のこの制度のその他の部分の状況から見て、ほとんど無かった、と言えよう。

105) C. I. L., VIII, 270 のBeguensis ≪不明、おそらく北アフリカの地名≫の放牧地での市(いち)について、参照:ヴィルマンス≪Gustav Wilmanns, 1845 ~ 1878年、アフリカの碑文の研究者≫、Ephemeris Epigraphica, II, p. 278。

その他の点では、そういった名簿は全ての土地割当てに対して公式の測量図に添付すべきとされた公文書と言える。ここにおいてこの制度で生み出された土地所有者の全体像を一言で言えば、これまで記述した理解の仕方が正しければ、納税義務者であり、ここでは従って大規模な永代貸借料の支払い者達、それについては ager privatus vectigalisque の制度においての実質的な土地の所有者であったろうと推定して来たのであるが、その者達に類似した者達であり、しかしながらただ法的には所有者としてそこまではっきりと確立されたカテゴリーではなかった、ということである。次のことは特徴的である。つまり、この手の小規模な土地の所有者について、それが属州の元々の住民であろうとローマ市民であろうと、同じく取り消し可能な賃借人として扱うことは、一方では大規模な地主は国籍によって区別されていたのであるが、両方を小規模地主としてまとめて考えた方がよりよく理解出来る、ということである。この制度についての結論については、つまりここで主張して来た小作農の個人的な権利設定のための課税義務付き土地所有という法的概念の形成があったに違いなく、かつ実際にそうであったと言うことであるが、それについては最終章で論じる。―帝政期の時の経過の中で、都市ゲマインデにおける属州の土地の大部分は、そして取り分け植民市においても、組織化が進んだのである。―

課税業務においてのゲマインデ自治のその後の運命

これまでの詳述の後で、ローマでの元首制≪初代皇帝アウグストゥスは自身をプリンケプス=第一人者と呼んで公式には皇帝とは称さなかった。このため帝政ではなく元首制と呼ぶ場合がある。≫の始まりまでの時代について、次のことが確からしいのであれば、即ち一般論として、そして例えばアフリカの属州での特別な事情から見て、発展傾向として属州のゲマインデの固定化とそれに伴った税収入の分配においての(相対的な)自治が、そのゲマインデ独自の税と同様に国税においても進行したということであるが、その場合でも帝政期が更に進行するにつれて、本質的には全く逆の発展が始まっていた。例えばアジア属州では疑いなくカエサル以降は課税地であった一方で、それ故に諸ゲマインデ自身による税徴収が復活していると、ヒュギヌスは何度も言及して来たある土地税についての箇所である p.204 で述べているが、そこでは不正な占有の結果として地主達の間での訴訟が起きていたらしいのであるが、それもヒュギヌスは土地の測量方法に関連付けているのであり、そこから分かるのはここにおいてはローマ国家による土地への課税がいずれにせよ相当程度までその時点で成立していたに違いない、ということである。概してヒュギヌスは ager arcifinius vectigalis ≪未測量であるが使用料を課せられた土地≫について語っており、そのカテゴリーがローマの測量上の分類に追加されたのであるが、それが追加されたのは、それが全くもって常に繰り返されるような現象として見て取れるものであったからに違いない。アウグストゥスによる測量もまた、土地税についての規則に拠ったという以外の意味は全く無かったのである。ごくわずかな文献資料が、それは土地税の成立に関したものであるが、どういうことかというと、税の対象である土地を、ある財産の集合に対して一定の額を課税する中での一つの構成要素として関係付けるのではなく、それ自体に対して課税するのであり、それはカラカラ帝≪カラカラ帝は属州民にもローマの市民権を大盤振る舞いした。≫よりも先の時代に成立したのであるが、今やそれは例外なく植民市に対して適用されたのである。まさにその例であるのが付図1として添付したアラウシオの碑文[地図]であり、更には新カルタゴの碑文もそうであり 106)、同様にシリアのカイサリア≪現在のイスラエルの領土内にあったカエサルにちなむ植民市≫ 107) に関しての学説彙纂の de censibus のタイトルの箇所もそうである。

106) 注釈57参照。
107) Divus Vespasianus Caesarienses colonos fecit, non adiecto, ut et juris Italici essent, sed tributum bis remisit capitis; sed Divus Titus etiam solum immunem factum interpretatus est. D. 8, § 7 de cens. 50, 15. [神君ウェスパシアヌス帝はカイサリアを植民市としたが、しかしイタリア権≪ローマ以外の都市に与えられた特権で、免税と住民へのローマ市民権の授与が行われた。≫は与えなかった。しかし住民に対して人頭税は免除した;しかし神君ティトゥス帝はまた、そこの土地も免税になったと解釈した。]

更にはイタリア権と土地への非課税が法的な要件として結びつけられていたのであれば、それはある土地がクィリタリウム所有権の法的有効性についての要件を満たしているのと同じことであったが、そしてそれらが実際に導入されたのであれば、更にはこの権利がまた疑いなく圧倒的に多くの事例で植民市に対して与えられたのだとしたら、その場合は次のことが想定出来よう。つまり地所の分配と測量が、それは間違いなく(第2章)帝政期における植民市での変化の実際的な中身となっていたが、具体的な土地区画に対しての課税額の固定化とまたはパンノニアでの状況からの類推としてある決まった土地の品質等級毎の1ユゲラ当たりの[固定]税額と、更には土地税に関しての国家の徴税義務の制限、それらと結びつけられていた。次のことはまた目的に適合していた:ローマの市民は[彼らにとって都合が良かったという意味で]より良き帝政期には、理論的なローマ市民の税として考えた場合、より一層直接税へと関係付けられたのであり、ある市民が土地を所有していて、そしてその土地に対して土地税が課せられていた場合は、あるいはその市民の土地に小作人が居た場合は 108) 、その市民は人頭税支払いの義務もあり、小作人への人頭税は地主としてその市民が立て替えて払っていた。

108) こうしたケースはアフリカにおいて起こったことであったに違いない、そこでは第三次ポエニ戦役の後に人頭税が一般的に課せられるようになっており、そうしたケースであった。

――その他の点についてはこうした状況がどのように発展したかについては知られていることが少なく、ただ皇帝直轄の属州に対しての属州税[provinciae tributarie]についての記述から推測することが出来るのは、そこでは土地に対しての課税の規制が、パンノニアに見られるような方向に向かって、非常な速度で進んでいた、ということである。個々の課税の実情が非常に多様であったことはしかし、それは実際に存在していた課税システムからの類推で結論付けられるように、ずっと継続してそうであったに違いないのであり、そしてディオクレティアヌス帝≪在位284~305年。四分割統治を初めて採用するなどの改革を進め、「3世紀の危機」という状況をひとまず乗り越えた。≫による改革がそれに続いてのであり、それについては新テオドシウス法の 23 が述べている通りであるが、そこではヌミディアに対する課税の規制において様々に異なった課税方法を統合したが、しかしそれでもお互いに異なる3種類の方式を残した:固定額の現金による納税、annona ≪一年毎の穀物等の収穫高に応じた課税≫と capitatio ≪その土地で耕作する農民の一人当たりいくらで行う課税≫の3種である。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(47)P.264~267

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第47回です。
ここでは、グラックス兄弟の改革の中心となるLex agraria (土地改革法)が規定している、元々カルタゴの領地だった土地がどのように法的に処理されたかについての、かなり詳細な議論が続きます。
注意していただきたいのは、グラックス兄弟の改革はご承知のように世襲貴族と元老院の強い反対を受け、結局は失敗しているだけでなく、土地制度を巡っての大混乱をもたらした、ということで、それが最終的に収束するのはカエサルとアウグストスによる帝政期の開始の時期になります。またよくこの「土地改革法」の目的が、没落した独立農民の救済と言われますが、実際の法文を見れば分かるように、極めて色々なケースについての取り決めが含まれており、決してそういう単一目的のものではなかったことに注意すべきでしょう。
これで全体の2/3を訳し終わりました。
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アジア属州≪アナトリア半島(いわゆる小アジア)西部に存在した元老院管轄の属州≫における1/10税地

アジア属州における同様の発展はシチリアにおいてよりも早く完成したように見える。アジア属州はまた、[グラックス兄弟の]センプロニウス法によれば1/10税の対象地とされ 93)、更にはしかしここではこういった税の形式はより以前からあったの他の形式の税より有利なものとして位置付けられるように見え、しかしその以前の税の個々の事例については知られておらず、王の恣意的な課税権に基づいて導入されたものであったように思われる。Vectigal による賃貸借にはローマの騎士階級≪世襲貴族と平民の中間の階層で商業などに従事した≫のローマ国家への利害関心から、ガイウス・グラックス≪弟≫の同じ法が使われ、それは実際的にはただ属州自身による諸ゲマインデ向け及び個人向けの土地の、競売においての競争を激化させた、という意味しか持っていなかった。その場合キケロ(弟クイントゥスへの書簡集、1,11 §33)がアジア属州の諸ゲマインデについて次のように言っているのであれば:nomen autem publicani aspernari non possunt, qui pendere ipsi vectigal sine publicano non potuerint, quod iis aequaliter Sulla descripserat,[しかし公有地貸借人という名前(立場)を拒絶することは出来ない。何故ならばその公有地貸借人という契約無しには、地代を払って公有地を借りて耕作することが出来なかったからであり、それはそういった者達に対してスッラが公平に制度化したものである]、そうであればここで言及されているのはほぼ次のことと同じで、つまり属州となった地域から得た[領土という]収入を個々のゲマインデに対してその元々の大きさに基づいて、元の面積の単位面積あたりに平均で決めた地代付きで改めて割当てるというやり方について言及されているのであり、つまり諸ゲマインデが決まった額の賃借料を支払うことを承諾し、その支払い[による公有地貸借契約]がその者達に対して認められたのである。しかしこの試みは、キケロの引用文を見る限りでは失敗したように思える。何故ならば後の時代になってもアジア属州に公有地貸借人が存在しているが、その者達については元々の所有状態を回復するということと関連付けられる必然性はもちろん無かったからである;いずれにせよ公有地の貸借料付き貸し出しは、地域毎に徐々に導入されたように思われる(キケロ フラックス弁護 37, 91)。というのもシチリアと同じくここでも固定額の使用料への移行が行われており、それもBC48年のカエサルによってである。(アッピアノス、1.1. 5,4)。

93) アッピアノス 内乱記 5,4

キケロによる有名な記述(Verr. III,6,12 94))によれば、次のような印象を得ることが出来る。つまりこうした状態は、それはカエサルがシチリアとアジア属州で構築したもののように見えるのであるが、他の属州でもその設立当初から存在していたのであり、それ故に属州全般で収穫高とは連動していない固定額の使用料の支払いという形で、諸ゲマインデ自身に割当てられた税というものが、属州の土地に対しての唯一の課税のやり方だったのである。

94) Ceteris impositum vectigal est certum, quod stipendiarium dicitur, ut Hispaniae et plerisque Poenorum.
[更には(シチリアとアジア属州以外の属州でも)課される土地使用料は固定額であり、その税はヒスパニア(スペイン)でも、また大部分のアフリカでも課された。]

しかし以上のような結論は少し早まったものであるかもしれない。例えばサルデーニャ島では反対の例が知られている 95)。

95) リヴィウス、36,2,13。同様にスペインにおいても1/10税地が存在しており、C.I.L.,II,1428 の碑文によれば、皇帝クラウディウス≪在AD41~54年≫が≪ケンススを行った≫監察官としてAD49年に記録している。≪実際のケンスス自体はAD48年。≫

しかしこのことは次のように解釈することが出来るだろう。つまり帝政期の始まりまでは、課税の発展傾向は次の方向に向かっていたということで、それはその属州に従属する諸ゲマインデに対して、税徴収に関しての自治権を与えそしてその税徴収の総額を固定化しようとすることである。≪面倒な個々の税徴収は諸ゲマインデに任せ、ローマ国家としてはその総額だけをもらえれば良かった。≫それについての例としてはアウグストゥスがガリアに対しての基本法の制定時に、そういった土地の年当たりの使用料(税)をその属州としての総額4千万セスティルティウス≪アウグストゥスが大型化した黄銅貨で 2+1/2 アエスに相当≫で導入しようとした際に 96)、個々の納税義務者の集団を分類する作業はローマの行政当局は全く関与しておらず、その分類はただ諸ゲマインデと諸種族に分ける、ということだけが行われていた可能性がある。≪参考:アウグストゥスは共和政期に属州長官となったものが税徴収のルートに入ることで中間で不当な利益(ピンハネ)を得ていたのを直接ローマに納入させるようにしている。≫

96) エウトロピウス、ローマ史概説、6.17。スエトン、De vita Caesarum, 25。

同様により確かなこととしてもちろん次のことは妥当であろう。つまりローマの国家の行政当局は税徴収に関する管理権を放棄したなどということはまったく無く、行政の根本原則が変わっていくのに合わせて、税徴収に関する自治権を取り上げることになった、ということであり、それについては既に見て来たし、また後述の箇所でも見ることになる。

アフリカにおける税の現金納入義務者

キケロが述べている箇所に拠れば、固定額の現金による税が課されていた属州に含まれるのは、大部分のアフリカ属州(”plerique Poenorum”)≪Ponenorum = フェニキアの、の意味は元々カルタゴを含めて北アフリカでフェニキア人が開いた都市、地域ということ≫もまたそうであった。アフリカ属州において知られていることとしては、そこにおいてポエニ戦争の後に7つの civitates liberae et immunes [自由でかつ免税の都市]が存在していたということで、それはウティカ≪Utica、現代のチェニジア、アフリカでもっとも古いローマの植民市≫、ハドルメトゥム≪Hadrumetum、チェニジアの港湾都市スースの古称≫、タプスス≪Thapsus、現代のチェニジアのベカルタの近くの港湾都市≫、レプティス≪Leptis minor (Parva)、現代のチェニジアのレムタ≫、アチョラ≪AchollaまたはAchilla、Achulla、現代のチェニジア東岸の港湾都市≫、ウセリス≪Usellus または Uselis、Usellis、サルディーニャ島西部の都市≫とテウダリス≪Theudalis または Theudali、チェニジアにあったローマの植民市≫の7市である。これらの都市は税支払いが完全に免除されていた。それに対してその他の都市ゲマインデはアフリカでは存在せず、全ての他の諸ゲマインデ団体はポエニ戦争の後に解体させられた 97)。

97) アッピアノス、ポエニ戦役、135:”κ α θ ε λ ε ῖ ν  ἁ π ά σ α ς”[徹底的に破壊する]≪該当箇所のChatGPT4o訳:彼ら(元老院の使節)は、カルタゴでまだ残っていたものが何であれ、スキピオの指揮のもと徹底的に破壊することを決定した。そして、誰にもカルタゴに居住することを禁じた。その際、特にビュルサや「メガラ」と呼ばれる場所に住む者には呪いをかけた。ただし、土地を訪れることまでは禁じなかった。(但しスキピオがカルタゴの農地全てに塩を撒いて二度と作物が獲れないようにした、という伝説は有名であるが、それを証拠付ける資料は戦争後すぐのものは残っておらず、後世になって言われたこと。そもそもグラックス兄弟がそのすぐ後にカルタゴに入植を進めたというのと矛盾する。)≫

アフリカにおいて国家に直接対抗する位置に置かれたのは、[もはやゲマインデや都市ではなく]ただ個々の人間集団であった。そういった人間集団の一部を成すのがグラックス兄弟の改革によって実現したカルタゴへの植民者であり、その者達は土地改革法によって viritane Assignation [小規模な非定期的な土地割り当て]によってその地に移住した(モムゼン C.I.L. I. p.97):その者達は税を免除されていた。

また免税の耕地の別の例として確かなものは、スキピオによってマシニッサ≪Masinissa、BC238~BC148年、第二次ポエニ戦役でローマに協力した功績でスミディア王となった。≫の後継者達≪マシニッサの死後、ヌミディアは彼の3人の息子であるミキプサ、グルッサ、マスタナベルがそれぞれ支配する王国に分割された≫に与えられた耕地かあるいはカルタゴからの投降者に対して割当てられた耕地であり、そしてまたローマ人の居留地であって、イタリア半島でも例があるように、公有地から免税のゲマインデに変更されたものである 98)。

98) 土地改革法の Z. 79. 80. 81。”perfugae”[(カルタゴ軍からの)脱走兵]の国法的な位置付けについては問題が多いように思われる。可能と思われるのは、モムゼンが推定しているように、その者達は自分達のゲマインデを作った、ということである。私にとってより確からしいと思えるのは、大土地所有者[(後の)ラティフンディウムの所有者]と関連があり、その者達は小作人を伴ってかつグーツヘル≪中世ドイツでの大地主≫として歴史に登場してくるのであるが、stipendiarii[現金による納税義務者](後述の文を参照)と同じであり、ただ税は免除されてその土地に留まっていた、ということである。そしてその者達に認められていた土地の所有状態とは、これもまたモムゼンが推定しているように、公有地の所有者ではない。

全てのこの種の所有状態は法的には取り消されることがあるものであり;法によっていつでも行政当局が意のままに処理することが可能だったのであり、そのことから既に次の状況が生じていた。それは土地改革法の規定がこういったカテゴリーの土地の所有者に対する補償について取り決めていたということであり、土地割当てまたは土地売却の結果としてそういった土地の所有権は部分的に取上げられた場合があり、――しかしながらそういった補償が法的に規定されていたという事実は、次のことを示している。つまりその所有状態は少なくとも行政法的には保証されており、それ故に法に基づかないで単なる行政処分によってその所有が否定されるということは許されていなかったのである 99)。

99) このことは私の考えでは、その権利状態は次のような者のそれと同じであり、それについて土地改革法が次の箇所で言及している(Z. 91):Quibuscum tran]sactum est, utei bona, quae habuisent, agrumque, quei eis publice adsignatus esset, haberent [possiderent fruerentur, eisquantus] modus agri de eo agro, quei eis publice [datus adsign]atus fuit, publice venieit, tantundem modum [agri de eo agro, quei publicus populi Romani in Africa est, quei ager publice non venieit, … magistratus commutato.
[その者達について次のことが行われた。その者達が持つ財産、及びその者達に公的に与えられ割当てられた土地を所有、占有、利用することが出来る、とされた。その者達に公的に与えられ割当てられた土地が公的に売却される場合は、その土地と同じ面積の別の土地を、ローマ人民のアフリカにおける公有地の中で公的にまだ売却されていない土地を交換として土地売却担当官が与えるものとする。
モムゼンが推定しているのは、ここではその者達との間で課税方法について協議され、取り決めがされた、そういう者達について扱っているのであるということである。私が信じたいのは、ここでは(納税義務のある)公有地の占有人達を扱っていて、その者達について行政の手法においてその所有権が整備され、その結果その者達は納税義務という点において、カルタゴ軍からの脱走兵と同等に扱われたのであるということである。その者達は stipendiarii (後述の文参照)ではない。何故ならばその者達の土地はローマ人民の公有地だからである。土地改革法の Z. 92/ 93 は通常の占有について述べている。そういった土地について公有地の貸借管理人は[その占有を]法的に無効にすることが出来た。監察官による公有地の賃貸しと不安定な公有地の占有への認可が根本的に全く同じことであるのは、ここでは極めて明白である。

納税義務のある所有形態として我々は先の箇所で ager privatus vectigalisque の永代貸借人と取り消し可能な ager publicus の賃借人について見て来た。しかしながら更に別のカテゴリー 100) として存在するのが “stipendiarii” [現金による土地への税の納入を義務付けられた者、そういう土地の占有者]である。

100) しかしながら注釈 99 も参照すること。公共の放牧地についてはここでは扱わない、何故ならばここでは単に色々な所有状態について論じているからである。

この現金による納税を義務付けられた諸ゲマインデについて非常にしばしば耳にする一方で、土地改革法においての表現はゲマインデのことなど何も言っておらず、現金納税を義務付けられた諸個人の土地所有についてのみ言及している 101)。

101) 土地改革法の Z. 77: II]vir, quei ex h. l. factus creatusve erit, is in diebus CL proxsumeis quibus factus creatusve erit, facito, quan[do Xvirei, quei ex] lege Livia factei createive sunt fueruntve, eis hominibus agrum in Africa dederunt adsignaveruntve, quos 78. stipendium || [pro eo agro populo Romano pendere oportet, sei quid eius agri ex h. l. ceivis Romanei esse oportet oportebitve, … de agro, quei publicus populi Romanei in Africa est, tantundem, quantum de agro stipendiario ex h. 1. ceivis] Romanei esse oportet oportebitve, is stipendiarieis det adsignetve idque in formas publicas facito ute[i referatur i(ta) u(tei) e r(e) p(ublica) f(ide)]q(ue) e(i) e(sse) v(idebitur).
[2人委員会は、この法律によって決められ任命されたのであるが、その委員会が決められ任命されてから150日以内に次のことを行わなければならない、つまりリウィウス法≪Lex Livia de coloniis deducendis(植民市建設についてのリウィウス法)、BC122年≫によって決定・任命されているかされていた10人委員会が、アフリカにおいて土地を与え割当てた者達について、その者達の土地がこの法律によってローマの人民のものとされるか、あるいはされていた場合は、その土地について税金をローマの人民に対して支払うことを義務付け、…≪もしその者達の土地が何らかの理由で没収された場合は≫ その土地がアフリカにあるローマ人民の公有地である場合、その税金分に相当する大きさの土地医をそれらの納税義務者に与え割当て、そして公共の測量図に記録し、公益と信義の観点から適切に実施されるようにしなかればならない。]

こういった所有関係についての法的な所有権を確認しようとした場合、まず最初に受ける印象は、この税金付きの土地の仕組みが、公有地売却担当官による公有地賃貸しのために使われる公有地の利用促進を目的として構築されたのではない、ということである。私がそこから考えたのは、この種の課税は一般論として公有地に対する使用料ではなく、純粋な土地税として理解すべきであろう、ということである。他面、次のことは疑いようもなく確かである。つまりこの種の税金付きの土地の法律上の所有権がローマ人民に属している、と見なし得る、ということである。というのも土地改革法で規定されているのは、この種の土地については部分的には売却と割当てによって処理されるということで、そのためこの土地の所有状態については[永代貸借が多くの場合認められていた]ager privatus vectigalisque とは反対に、いつでも取り消されることが可能だった、ということであり、そこから結果として出て来たことは、まず第一に、土地改革法の規定によればこの種の耕地については公的な測量図を作成して登録しなければならないという義務である。補足的に書かれている”utei e re publica fideque ei esse videbitur” [公益と信義の観点から]という表現から考えられることは、測量図の作成については十分な慎重さをもって行う必要性があったであろう、ということである。実際には、通常の測量方法であるケントゥリアを使ったものはこの場合は採用されていなかった。先の箇所(第1章)で既に測量の方法については論じて来たが、ここで言及されている測量の方式が per extremitatem mensura comprehendere [全面積が測量されているが区画に分けられておらず、その境界が自然物{川など}による土地]であり 102)、その場合はより広範囲での耕地の法的な定義付けがおそらくは地図上に記録されている可能性がある。

102) フロンティヌス p. 5, 6 : eadem ratione et privatorum agrorum aguntur. [同じ方法で個人所有の土地の測量も行われる。]

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(46)P.260~263

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第46回です。
ここでは属州、つまり主に戦争による勝利によってローマの領土になった場所でどのように土地が管理されたかのかなり細かい議論が続きます。
注意していただきたいのは、ローマは属州に対してやらずぶったくり的な搾取は決して行っておらず、属州側からすれば単に1/10税を払うだけで自分達の安全はローマの軍隊が守ってくれ、道路や水道などのインフラ整備もローマがやりかつ自由なビジネスも出来たということで、こういった寛容な政策が占領した土地のローマへの同化を容易にしたということです。
一旦ローマの土地となったものも、以下に詳論されているように、実質的には諸ゲマインデの所有に戻っています。
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後者の区別の法的に不安定な位置付けは、その表現の中に明確に現れている。一方では農民の間で、他方では土地所有者と公有地貸借人との間で、法的な位置付けとしてその2つの間隙を橋渡しするような中間連結物は存在していなかった。

公有地ではない属州の土地

ここまで公有地とそれに倣った土地においての所有状態の法的形式について我々は見て来たのであるが、そうであれば次に我々は属州の土地においての同様な部分へと目を転ずることとするが、その部分はまたここでも土地の譲渡形態と私権的関係の間に因果関係が成立しているかどうかを調査するための属州の特別な性格となっているのである。そのような属州の土地は狭義の公有地、つまり ager publicus ではない。何故ならばその種の土地は[ager publicus ではないものとして]イタリアにも存在していたからである。他方でははっきりした契約による売買に基づく土地や、属州の総督の行政方針によって認可された租税免除の諸ゲマインデの土地もまたそういった類の土地には属しておらず、属州の土地の内そういった部分として見なすことが出来るのは、ローマの国家主権がそれらの土地を当然の自分達の土地として権利を主張し、しかしその場合でもその領域が ager publicus の根本原則に従った土地として利用されないか、あるいはそのようなものとしてローマの官吏によってローマの所有形態に沿った形では与えられていなかったものである。ここで消去法的に、かつまた不正確に描写された制度をいかに肯定的に理解すべきかということは、次に挙げるような属州についてその実態を一瞥することが必要で、そうした属州とはそれらが共和政期にどのように設立されたかについて多少は情報が残されている、シチリア、小アジアとアフリカである。

シチリアにおける1/10税地[Zehntland]

シチリアにおいては 82)、一部のゲマインデは租税を免除され、また一般的に言ってローマの行政権力が直接そこに及ぶことから免れていた。シチリアでの他の領域で戦争≪主に第一次ポエニ戦争≫によってローマのものとなった諸都市は、その領土に関する所有権を失い、その土地はローマによって没収され、ager publicus となり、監察官によって何らかの形で使用料を課され、それについては上述の箇所で見て来た通りである。その場合にそうした耕地が改めて測量されたかどうかは、つまりはカンパーニャ地方の土地の場合のようにであるが、何も知られていない。しかしフロンティヌスの arva publica [公有の耕地]についての注記がその他の場合を説明しているかもしれない。

82) 次のことは自明である。つまり属州に関する事実については、キケロのウェレス弾劾演説が決定的な文献情報であり、しかしそれはただここで取り扱っている問題に関係する箇所を検討する場合のみである。

いずれにせよしかしながら成立していたのは、それをこれから見て行く訳だが、この種の耕地についての何らかの統一的な所有権で、それは国家から土地を借りている者のものとしての、期限付きの所有権である。古くからの住民が元来はその多くが土地の賃借人であったということは、この辺りの事情を何ら変えることはない。また個々の土地区画の権利に関しての裁判権もまた、それが必要である限りにおいて、ローマの行政当局の手中にあった。

第三のカテゴリーの土地は、ローマに没収されなかったものの、非課税のままとされることもなかった領域である。まったく確かなのは、ローマ人がここではまた理論上は土地の所有権を書き換えて自分達のものにしたのではなく、それまでの土地の主人の、つまりシラクサのヒエロン王の所有権についてそれをそのまま継承したように思われる、ということである。特にその中でもローマ人がヒエロン王から受け取ったものは、王の租税に関する規定、つまりいわゆる lex Hieronica 83)である。

83) 参照:デーゲンコルプ≪Karl Heinrich Degenkolb、1832~1909年、ドイツの法学者≫、Die lex Hieronica、ベルリン、1861年;ペルニーチェ、Parerga、Z.f.R.G.,Rom. V, p.62f。

ヒエロン王の租税規定はまた、既に十分に検証されているように、王の1/10税に基礎を置いている。個々のゲマインデではそれぞれの地区の1/10税を課される農民の人数を毎年確認することになっており、そしてそのリストを公的に閲覧出来るようにしていた(Verr. acc の 3, 120)。農民の側からは、この目的のために使われる土地の面積のユゲラ数(同一書の53)と蒔いた種子[の種類](同一書 102)を申告することになっていた。次に一定の収穫が見込まれるシラクサ 84) のゲマインデ毎の領域が属州総督の名前で競売方式によって落札者に貸し出され、それについては見込みの収穫の一定割り合いの量を貢納し、また収穫が見込みよりも減った場合でも同じ量の貢納義務を負うリスクを受け入れるという条件付きであった。

84) キケロ、Verr III, 33, 77;III, 44, 104; III, 64, 149。

収穫に際して1/10税を徴収する権利のある者は、その耕地での収穫の1/10を取ることが出来、穀物を収穫に先立って受け取ることは許されていなかった。しかし事実上は一般的には収穫量の1/10が徴収されたのではなく、1/10税の義務を負う賃借人は個々の1/10税の徴収権利者と、収穫が予定より少なくなった場合にも変動しない一定の額の納付について取り決めていた。

法的な所有権

この手続きにおいて行政法的に本質的なことは、農民と1/10税を課された土地区画との関係が未確定のままにされた、ということである;1/10税を徴収する者は、その年にその土地を耕作する者に対して、その者がその土地の所有者であるか、あるいはある個人またはある自治体からその土地を賃借している者であるか、ということにはまったく無関心であった 85)。

85) Verr. III, 8, 20にて。

こういった私法的な関係についての裁判権は、その所有の権利についての基準の設定と同様に、それ故にそれぞれの自治体の手中に委ねられていた 86)。

86) Verr. II, 13, 32にて。

他方では所有権を回復しようとする者[Rekuperatoren]による訴訟が起きており、それは次の者達の組み合わせによって(ここについては十分な情報はないが、例えば以下のように)、つまり2つの利害集団、つまり[土地の]販売人と農民という、1/10税に関係する者達を≪原告と被告として≫ペアにして、しかし議事取り仕切りはローマの官吏の元で、1/10税の義務を負う者とその徴収の権利を持つ者との間で発生した争点について、決定が為された 87)。

87) デーゲンコルプの前掲書の既引用部参照。

――次のことは明らかである。つまりこの2つの利害集団の衝突が、それぞれの特別な観点において決定的な争いが避けられなかった、ということであり、というのも所有権回復訴訟においては納税義務者についての問題は、しばしば土地区画そのものへの権利の問題から分けて扱うことが不可能だったのであり、つまりは例えば業務上の犯罪が刑事訴訟案件として扱われる場合があるのと同様に 88)、取り扱われた、ということである。

88) 参照:Verr. III, 22, 55 にて。

どのようにしてこのような利害対立の関係が解決されたのかについては知られておらず 89)、しかしいずれにせよ我々がここで見てとることが出来るのは、ゲマインデの自治と国家による直接の課税を一つのものに統合しようとする試みの例であり、そしてこのような異なる考え方を混ぜて一つのものにするということは、属州における土地区画の権利状態を、統一された観点で遡及して研究する上での本質的な部分となっているのである。

89) 先に引用した箇所が示す所によれば、根本的な解決は出来ていなかったように見える。

一方では国家の個々の土地区画に対しての直接的な関係で、それはより後の時代に使われた課税地を意味する別の表現である praedium stipendiarium が既に当時使われ始めていたかのように思わせるのであるが、他方ではしかし諸ゲマインデが自治を望んだこと、つまりは[ローマ市民以外の]の外国人としての権利の維持であるが、この双方が属州における土地所有の権利状態を曖昧にしていることは否定できない。既に言及したケンススは形の上では国家による地方自治体へのケンススであったが、しかしそれは実質的にはその属州で支配的なゲマインデの実態を調べる属州によるケンススと言えるものであった。というのも属州総督側からの監査は、当然のこととして国家による課税がされている土地の場合でも無しで済ますことは出来なかったからであり、キケロが注記しているのは、この監督権に基づいて属州総督は事実上徴税簿の内容を把握していたのであり(Verr. acc. のII, 53, 131; II, 55, 138 にて)、そしてこのことは総督が土地所有者の利害を自分の管理下に置くことをそれだけ容易にしたのである。しかしその場合でも諸ゲマインデはまた自分達自身の必要物を調達するために土地台帳も必要としたのであり、それは間接税≪関税、通行税など≫とゲマインデの財産からの収益では十分ではない場合においてであるが、その場合次のことを認めるのは難しいであろう。それはその土地台帳がローマが自身の公課の目的で使っていたものとは別のものであるということである。キケロによる個々のケースの説明もまた、その2つの土地台帳が同一のものであったことを裏付けている(Verr. acc. III, 42, 100 にて)。

もちろんこういった関係は本質において人為的に作り出されたものであり、後の帝政期においても再度繰り返されている:この土地という領域におけるゲマインデの自治は形の上だけで成立していたものであり、その実質的な中身は何もなかった 90)。こういった状態についてはここではしかし保留とし、また別の所で扱うこととしたい。

90) 確かなこととしてこうした手続きは u.a.c.548年≪BC204年≫[の第二次ポエニ戦争の時]にローマに対して反乱を起こした 12 のラテン植民市に対して行われたものと同様のものであった。リヴィウスの 39, 15 で述べられているように、その 12 の植民市に対してその財産[の金銭換算額]1000に対して1の割合いの継続的な税が新たに課せられ、また次のように規定された:censumque in iis coloniis agi ex formula ab Romanis censoribus data [これらの植民市においてローマの監察官によって与えられた形式に基づいてケンススが実施されるべきである]、この句が意味するのは植民市がローマの一般的なケンススの形式におってではなく、ローマとその植民市の関係に合わせた、ローマの監察官側ら支給される特別の規則に従って評価されたということで、それはシチリアの諸都市がローマの側から定められた形式、つまり lex Hieronica によって評価されたのと全く同じである。元々そこの住民であった監察官達は、誓約下で彼らが実施したケンススの調査結果をローマに対して報告することになっていた。それに対してのある種の監査は法的に認められていたに違いない。

諸ゲマインデは民衆からの耐え難い圧力と属州総督の恣意に対抗して次のやり方で自衛しようとした。それは諸ゲマインデ自身が自分達の領域において競売に付された公有地を競り落としたり、あるいは最高価格を付けた入札者からその土地を買い取ることである 91)。

91) Ver. III,33,77; III, 39, 88; III, 42, 99 等にて。

これらのことが実際に起きたことだとしたら、諸ゲマインデは当該の年について、まるで彼ら自身が収穫物の内の固定の割合の貢納の義務を負っていて、かつそれは更に別の者に再割当てして負担させることについて正当な権利を持っているかのように振る舞うことを意図していたと言える。このようなケースバイケースで起きていたようなやり方は次の段階では――それも遅くともカエサルによって――継続的に行われるように変わって行ったのであり、それは現物貢納から現金地代へと変わったのと時期を同じくしていた 92)。

92) プリニウス、H. N. III, 91。

というのはこの変化した形が、より後の時代におけるシチリアの諸ゲマインデの状態となったからである。これによってその地方の土地の権利がより後の時代まで保証されることになり、実際の所シチリアにおけるその地方での土地の権利、例えば jus protimiseos [買占め権]の形で中世に入っても残っていた。≪全集の注は jus protimiseos はイタリア半島の制度が伝わったもので、シチリア島固有の制度ではないとしている。≫