ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(46)P.260~263

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第46回です。
ここでは属州、つまり主に戦争による勝利によってローマの領土になった場所でどのように土地が管理されたかのかなり細かい議論が続きます。
注意していただきたいのは、ローマは属州に対してやらずぶったくり的な搾取は決して行っておらず、属州側からすれば単に1/10税を払うだけで自分達の安全はローマの軍隊が守ってくれ、道路や水道などのインフラ整備もローマがやりかつ自由なビジネスも出来たということで、こういった寛容な政策が占領した土地のローマへの同化を容易にしたということです。
一旦ローマの土地となったものも、以下に詳論されているように、実質的には諸ゲマインデの所有に戻っています。
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後者の区別の法的に不安定な位置付けは、その表現の中に明確に現れている。一方では農民の間で、他方では土地所有者と公有地貸借人との間で、法的な位置付けとしてその2つの間隙を橋渡しするような中間連結物は存在していなかった。

公有地ではない属州の土地

ここまで公有地とそれに倣った土地においての所有状態の法的形式について我々は見て来たのであるが、そうであれば次に我々は属州の土地においての同様な部分へと目を転ずることとするが、その部分はまたここでも土地の譲渡形態と私権的関係の間に因果関係が成立しているかどうかを調査するための属州の特別な性格となっているのである。そのような属州の土地は狭義の公有地、つまり ager publicus ではない。何故ならばその種の土地は[ager publicus ではないものとして]イタリアにも存在していたからである。他方でははっきりした契約による売買に基づく土地や、属州の総督の行政方針によって認可された租税免除の諸ゲマインデの土地もまたそういった類の土地には属しておらず、属州の土地の内そういった部分として見なすことが出来るのは、ローマの国家主権がそれらの土地を当然の自分達の土地として権利を主張し、しかしその場合でもその領域が ager publicus の根本原則に従った土地として利用されないか、あるいはそのようなものとしてローマの官吏によってローマの所有形態に沿った形では与えられていなかったものである。ここで消去法的に、かつまた不正確に描写された制度をいかに肯定的に理解すべきかということは、次に挙げるような属州についてその実態を一瞥することが必要で、そうした属州とはそれらが共和政期にどのように設立されたかについて多少は情報が残されている、シチリア、小アジアとアフリカである。

シチリアにおける1/10税地[Zehntland]

シチリアにおいては 82)、一部のゲマインデは租税を免除され、また一般的に言ってローマの行政権力が直接そこに及ぶことから免れていた。シチリアでの他の領域で戦争≪主に第一次ポエニ戦争≫によってローマのものとなった諸都市は、その領土に関する所有権を失い、その土地はローマによって没収され、ager publicus となり、監察官によって何らかの形で使用料を課され、それについては上述の箇所で見て来た通りである。その場合にそうした耕地が改めて測量されたかどうかは、つまりはカンパーニャ地方の土地の場合のようにであるが、何も知られていない。しかしフロンティヌスの arva publica [公有の耕地]についての注記がその他の場合を説明しているかもしれない。

82) 次のことは自明である。つまり属州に関する事実については、キケロのウェレス弾劾演説が決定的な文献情報であり、しかしそれはただここで取り扱っている問題に関係する箇所を検討する場合のみである。

いずれにせよしかしながら成立していたのは、それをこれから見て行く訳だが、この種の耕地についての何らかの統一的な所有権で、それは国家から土地を借りている者のものとしての、期限付きの所有権である。古くからの住民が元来はその多くが土地の賃借人であったということは、この辺りの事情を何ら変えることはない。また個々の土地区画の権利に関しての裁判権もまた、それが必要である限りにおいて、ローマの行政当局の手中にあった。

第三のカテゴリーの土地は、ローマに没収されなかったものの、非課税のままとされることもなかった領域である。まったく確かなのは、ローマ人がここではまた理論上は土地の所有権を書き換えて自分達のものにしたのではなく、それまでの土地の主人の、つまりシラクサのヒエロン王の所有権についてそれをそのまま継承したように思われる、ということである。特にその中でもローマ人がヒエロン王から受け取ったものは、王の租税に関する規定、つまりいわゆる lex Hieronica 83)である。

83) 参照:デーゲンコルプ≪Karl Heinrich Degenkolb、1832~1909年、ドイツの法学者≫、Die lex Hieronica、ベルリン、1861年;ペルニーチェ、Parerga、Z.f.R.G.,Rom. V, p.62f。

ヒエロン王の租税規定はまた、既に十分に検証されているように、王の1/10税に基礎を置いている。個々のゲマインデではそれぞれの地区の1/10税を課される農民の人数を毎年確認することになっており、そしてそのリストを公的に閲覧出来るようにしていた(Verr. acc の 3, 120)。農民の側からは、この目的のために使われる土地の面積のユゲラ数(同一書の53)と蒔いた種子[の種類](同一書 102)を申告することになっていた。次に一定の収穫が見込まれるシラクサ 84) のゲマインデ毎の領域が属州総督の名前で競売方式によって落札者に貸し出され、それについては見込みの収穫の一定割り合いの量を貢納し、また収穫が見込みよりも減った場合でも同じ量の貢納義務を負うリスクを受け入れるという条件付きであった。

84) キケロ、Verr III, 33, 77;III, 44, 104; III, 64, 149。

収穫に際して1/10税を徴収する権利のある者は、その耕地での収穫の1/10を取ることが出来、穀物を収穫に先立って受け取ることは許されていなかった。しかし事実上は一般的には収穫量の1/10が徴収されたのではなく、1/10税の義務を負う賃借人は個々の1/10税の徴収権利者と、収穫が予定より少なくなった場合にも変動しない一定の額の納付について取り決めていた。

法的な所有権

この手続きにおいて行政法的に本質的なことは、農民と1/10税を課された土地区画との関係が未確定のままにされた、ということである;1/10税を徴収する者は、その年にその土地を耕作する者に対して、その者がその土地の所有者であるか、あるいはある個人またはある自治体からその土地を賃借している者であるか、ということにはまったく無関心であった 85)。

85) Verr. III, 8, 20にて。

こういった私法的な関係についての裁判権は、その所有の権利についての基準の設定と同様に、それ故にそれぞれの自治体の手中に委ねられていた 86)。

86) Verr. II, 13, 32にて。

他方では所有権を回復しようとする者[Rekuperatoren]による訴訟が起きており、それは次の者達の組み合わせによって(ここについては十分な情報はないが、例えば以下のように)、つまり2つの利害集団、つまり[土地の]販売人と農民という、1/10税に関係する者達を≪原告と被告として≫ペアにして、しかし議事取り仕切りはローマの官吏の元で、1/10税の義務を負う者とその徴収の権利を持つ者との間で発生した争点について、決定が為された 87)。

87) デーゲンコルプの前掲書の既引用部参照。

――次のことは明らかである。つまりこの2つの利害集団の衝突が、それぞれの特別な観点において決定的な争いが避けられなかった、ということであり、というのも所有権回復訴訟においては納税義務者についての問題は、しばしば土地区画そのものへの権利の問題から分けて扱うことが不可能だったのであり、つまりは例えば業務上の犯罪が刑事訴訟案件として扱われる場合があるのと同様に 88)、取り扱われた、ということである。

88) 参照:Verr. III, 22, 55 にて。

どのようにしてこのような利害対立の関係が解決されたのかについては知られておらず 89)、しかしいずれにせよ我々がここで見てとることが出来るのは、ゲマインデの自治と国家による直接の課税を一つのものに統合しようとする試みの例であり、そしてこのような異なる考え方を混ぜて一つのものにするということは、属州における土地区画の権利状態を、統一された観点で遡及して研究する上での本質的な部分となっているのである。

89) 先に引用した箇所が示す所によれば、根本的な解決は出来ていなかったように見える。

一方では国家の個々の土地区画に対しての直接的な関係で、それはより後の時代に使われた課税地を意味する別の表現である praedium stipendiarium が既に当時使われ始めていたかのように思わせるのであるが、他方ではしかし諸ゲマインデが自治を望んだこと、つまりは[ローマ市民以外の]の外国人としての権利の維持であるが、この双方が属州における土地所有の権利状態を曖昧にしていることは否定できない。既に言及したケンススは形の上では国家による地方自治体へのケンススであったが、しかしそれは実質的にはその属州で支配的なゲマインデの実態を調べる属州によるケンススと言えるものであった。というのも属州総督側からの監査は、当然のこととして国家による課税がされている土地の場合でも無しで済ますことは出来なかったからであり、キケロが注記しているのは、この監督権に基づいて属州総督は事実上徴税簿の内容を把握していたのであり(Verr. acc. のII, 53, 131; II, 55, 138 にて)、そしてこのことは総督が土地所有者の利害を自分の管理下に置くことをそれだけ容易にしたのである。しかしその場合でも諸ゲマインデはまた自分達自身の必要物を調達するために土地台帳も必要としたのであり、それは間接税≪関税、通行税など≫とゲマインデの財産からの収益では十分ではない場合においてであるが、その場合次のことを認めるのは難しいであろう。それはその土地台帳がローマが自身の公課の目的で使っていたものとは別のものであるということである。キケロによる個々のケースの説明もまた、その2つの土地台帳が同一のものであったことを裏付けている(Verr. acc. III, 42, 100 にて)。

もちろんこういった関係は本質において人為的に作り出されたものであり、後の帝政期においても再度繰り返されている:この土地という領域におけるゲマインデの自治は形の上だけで成立していたものであり、その実質的な中身は何もなかった 90)。こういった状態についてはここではしかし保留とし、また別の所で扱うこととしたい。

90) 確かなこととしてこうした手続きは u.a.c.548年≪BC204年≫[の第二次ポエニ戦争の時]にローマに対して反乱を起こした 12 のラテン植民市に対して行われたものと同様のものであった。リヴィウスの 39, 15 で述べられているように、その 12 の植民市に対してその財産[の金銭換算額]1000に対して1の割合いの継続的な税が新たに課せられ、また次のように規定された:censumque in iis coloniis agi ex formula ab Romanis censoribus data [これらの植民市においてローマの監察官によって与えられた形式に基づいてケンススが実施されるべきである]、この句が意味するのは植民市がローマの一般的なケンススの形式におってではなく、ローマとその植民市の関係に合わせた、ローマの監察官側ら支給される特別の規則に従って評価されたということで、それはシチリアの諸都市がローマの側から定められた形式、つまり lex Hieronica によって評価されたのと全く同じである。元々そこの住民であった監察官達は、誓約下で彼らが実施したケンススの調査結果をローマに対して報告することになっていた。それに対してのある種の監査は法的に認められていたに違いない。

諸ゲマインデは民衆からの耐え難い圧力と属州総督の恣意に対抗して次のやり方で自衛しようとした。それは諸ゲマインデ自身が自分達の領域において競売に付された公有地を競り落としたり、あるいは最高価格を付けた入札者からその土地を買い取ることである 91)。

91) Ver. III,33,77; III, 39, 88; III, 42, 99 等にて。

これらのことが実際に起きたことだとしたら、諸ゲマインデは当該の年について、まるで彼ら自身が収穫物の内の固定の割合の貢納の義務を負っていて、かつそれは更に別の者に再割当てして負担させることについて正当な権利を持っているかのように振る舞うことを意図していたと言える。このようなケースバイケースで起きていたようなやり方は次の段階では――それも遅くともカエサルによって――継続的に行われるように変わって行ったのであり、それは現物貢納から現金地代へと変わったのと時期を同じくしていた 92)。

92) プリニウス、H. N. III, 91。

というのはこの変化した形が、より後の時代におけるシチリアの諸ゲマインデの状態となったからである。これによってその地方の土地の権利がより後の時代まで保証されることになり、実際の所シチリアにおけるその地方での土地の権利、例えば jus protimiseos [買占め権]の形で中世に入っても残っていた。≪全集の注は jus protimiseos はイタリア半島の制度が伝わったもので、シチリア島固有の制度ではないとしている。≫