ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(51)P.280~283

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第51回です。ここは本当に大変で、ギリシア語の土地台帳が出てくるかと思えば、次には長大なラテン語でしかもギリシア語の単語を含んでいるといった具合です。アクセント記号付きのギリシア文字は、入力するだけでも大変です。ここではローマが既に衰退に入って、カラカラ帝の時に大盤振る舞いして属州の住民にもローマ市民権を与えた結果として属州税が入って来なくなり、その結果として新しい税制を構築する必要があり、そのためにディオクレティアヌス帝が行った税制改革の実態が論じられています。
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125) アスティパレア島≪エーゲ海南東部のドデカネス諸島の一つ。BC105年にローマとの間で条約が結ばれ、ローマの自由州とされた。オリエント諸国との関係でローマのために何らかの軍事的な役割を果たしていたと言われている。≫の土地台帳の断片を含む C.I.Graec. 8657 の碑文は、課税された土地区画の存在を次のように証拠付けている:
(Δε)σπο(τί)ας Θεοδούλου.

χω. Ἀχιλλικὸς ζυ. ….
χω. Βάρρος με … ζυ … ἄνθρωρ . κϑ
χω. Βατράχου με …. δ, ζυ … ἄνθρωρ . κ
χω. Δάρνιον ζυ….

[テオドゥレスの地主達。
場所 アキッリコス 牛馬…
場所 バッロス  区画…牛馬…人間。κϑ
場所 バトラク  区画…δ、牛馬…人間、κ
場所 ダルニオン 区画…]
ζυ. = ζυγά は耕作用の牛馬やロバなどの動物であり、ἄνθρω(ωποι)は植民者(小作人)と奴隷達である。με.についてはベック≪August Baeckh, 1785~1867年、ドイツの古典文献学者≫は μέρη の略である割合で課税される土地区画として解読を試みている。トラッレス≪Tralles、古代フリギアの都市、正確な場所は不明≫の土地台帳の断片(Bulletin de correspondance hellénique IV, p.336f., 417f.)は同様に土地区画を地主の人名毎に記録しており、それぞれの地主の支配地において ἀγροί[耕地] と τόποι[その他の土地]があってこれらは ζ(υγά = juga)に従って数えられ、また奴隷とζῶα [家畜]は κ(εφαλαί)[合計数]で数えられ、総合計を求める際には,ζυγά と κεφαλαί は同一視された。アスティパレアはトラッレスのように自由都市だったのであり、そこでは確からしくは税の合計額は総人口数に比例して課税されたのであり、そしてこの課税方法が彼ら自身によるそこの住民への課税においては単に juga と capita に比例して割当てられたのである。――これに対してテラ≪Thera、現在のギリシアのサントリーニ島≫とレスボス島の土地台帳の断片は、その二つの都市においては周知のように αὐτονομία[自治権]が与えられていなかったのであり、そこの耕地はそれ故に昔から使用料の支払いを義務付けられていて、専制政治によって納税義務を課された土地区画及びその中の耕地(γῆ σπόριμος [耕されていた土地])、そしてブドウ畑(ἄμπελος [ワイン]) はユゲラ当たりで、そしてオリーブ畑(ἐλαία [野生のオリーブの樹])は樹木の本数またはγυρά[環濠]の数当たりで、同様に[レスボスでは]牧草地と牧場地はユゲラ当たりで課税されていたことが示されており、それに並んで申告した年齢毎の奴隷、牛、ロバ[πρόβατα]、そしてついには[トレッラにて]πάροικοι[外国から来た小作人]が示されている。ここにおいてはそれ故に専制政治によるユガティオとカピタティオが初めて税額として一緒にまとめて計算され、その中にその対象の耕地の品質についての情報が含まれる形で伝えられているに違いない。この最後の事例において juga の確定のやり方は、そこではつまり個々の土地区画に対する土地税の割当てが juga に統一されていたのであるが、それはシリア・ローマ法律文書(モムゼン、Hermes III、430)の次の箇所と関連がある: agros vero rex Romanus mensura perticae sic emensus est. Centum perticae sunt πλέθρον (das griechische Wort steht im Original). Ἰοῦγον autem diebus Diocletiani regis emensum et determinatum est. Quinque iugera vineae, quae X πλέθρα efficiunt, pro uno iugo posita sunt. Viginti iugera seu XL πλέθρα agri consiti annonas dant unius iugi. Trunci (?) CCXX(V) olearum vetustarum unius iugi annonas dant: trunci CDL in monte unum iugum dant. Similiter (si) ager deterioris et montani nomine positus (est), XL iugera quae efficiunt LXXX πλέθρα, unum iugum dant. Sin in τρίτη positus seu scriptus est, LX iugera, quae efficiunt (CXX) πλέθρα, unum iugum dant. Montes vero sic scribuntur: Tempore scriptionis ii, quibus ab imperio potestas data est, aratores montanos ex aliis regionibus advocant, quorum δοκιμασία scribunt, quot tritici vel hordei modios terra montana reddat. Similiter etiam terram non consitam, quae pecudibus minoribus pascua praebet, scribunt, quantam συντἐλειαν in ταμιεῖον factura sit, et postalatur pro agro pascuo, quem in ταμιεῖον quotannis offerat, denarius (d.h. aureus) unus seu duo seu tres et hocce tributum agri pascui exigunt Romani mense Nisan (April) pro equis suis.
ローマ王(皇帝)はこのように土地を測量棒を使って測量した。100ペルティカは1プレスロンに相当する。(πλέθρον≪ギリシアの面積単位。≫ は元々の文献に登場するギリシア語)しかしユグムはディオクレティアヌス王(皇帝)の時に測量され決められた。5ユゲラのブドウ畑は10プレスラ≪プレスロンの複数形≫になり、それが1ユグムとして設定された。20ユゲラまたは40プレスラの耕地は1ユグム分の(年間の)穀物の収穫量を供給する。220(225)本の老木のオリーブの樹は1ユグムの収穫量を供給する:山中のオリーブの樹は450本で1ユグム分を供給する。≪山の中のオリーブの樹は生産効率が約1/2ということ。≫同様に(もし)土地の質として劣るもの、あるいは山地として分類された場合、40ユゲラ、つまり80プレスラに相当、が1ユグムを供給する。しかし三級の土地と分類されたりまた記録された場合は、60ユゲラ、つまり(120)プレスラが1ユグムを供給する。山地については次のように記録される:その記録の際に、ローマ帝国から権限を与えられた者は、山地での耕作者を他の地域から呼び寄せ、彼らによる評価結果を記録し、その山地が小麦または大麦を何モディウス産出するかを記録する。同様にまた、耕作されていない土地で、小家畜の牧草地になるものも記録される。いくらの共同納付税を国庫に納めることになるかが記録される。そして牧草地に対して国庫に毎年納めるものとして、1または2または3デナリウス(つまりアウレウス)が課される。この牧草地税はローマ人が自分達の馬のためにニサンの月(4月)≪元はユダヤ教の正月≫に徴収される。
これに対して最初の方法について語っているのは、つまりある決まった割当て額の capita がある場所全体に課されていた場合であるが、Eumen. gratiar. actio のある箇所で、そこ自身による記述ではそれをコンスタンティヌス1世≪在位306~337年、4つに分裂していたローマを再統一した。またローマ皇帝で初めてキリスト教徒になった。≫の命令としているが:septem milia capitum remisisti … remissione ista septem milium capitum ceteris viginti quinque milibus dedisti vires, dedisti opem, dedisti salutem.
[あなた(=コンスタンティヌス一世)は7,000人分の人頭税(カプティオ)を免除した…この7,000人分の免除によって残った25,000人に力を与え、支援と救済をも与えた。]
エデュアー≪Aedeur または Haeduer、ガリアにおけるケルト人の最大の部族≫は、ここはその者達について語っているのであるが、つまり合計で32,000人分の人頭税を課せられていたのを、その内の7,000人分を免除されている。この人頭税は実際にこの部族のフーフェに対して課せられた税とは一致していない。32,000人分の人頭税について更に分割するということは語られておらず、分割の結果は25,000人に留まっている。ここにおいてのように純粋な価値の大きさ、つまり実際は「概念的な課税対象のフーフェ」が扱われている場合は caput という表現が用いられ、それに対して具体的な大地主の土地所有について言う場合は jugum という表現が用いられる。確からしいのは、このことが2つの表現の根本的な相違点なのであるということである。価値という観点からのこの区別から分かることは、この区別が、この時代のローマで共通して[promiscue]用いられていたということである。――Vokeji≪詳細不詳≫(C.I.L., X, 407)の323年の土地台帳の断片は、個々の土地をユゲラを使って表現しており、その土地の価額を千単位で報告している。こういった土地区画を全体として価値評価しているということは、同様にそれらの土地がより古い時代に非課税のものであったということと関連しており、それに対しての課税はこのやり方のみが許されていたのである。それ故にイタリア半島においては後に jugum の代わりに millena が登場しているが、それは事実上は jugum と差が無いものであり(Valent. nov. Tit. V, § 4. Nov. Major. Tit. VII, §16 とユスティニアヌス帝の国事詔書≪554年、ゴート戦争後のイタリア再編についてのユスティニアヌス1世による勅令≫の554、c. 26)、例外として相違するのは通例異なった品質等級を持つ複数の耕地が組み合わされ、その結果違うやり方が採用されたという点であるが。

こうした改革は全体として、自然なこととして徐々に進められ、決して完了に至ることなく、多くの場合で反動が起きていた。ここにおいてその時々に見られたこととしては、属州の破産という事態の結果として、ローマ国家によるその属州への税査定を放棄し、改めて属州に対して、それ自身による税負担能力の申告に基づいて税の総額を改めて割当て直す、ということが必要になり、それは先に引用したヌミディアについての箇所でも同様であり、また同じ時代(テオドシウス2世≪東ローマ帝国テオドシウス朝の第2代皇帝、在位408-450年≫、424年)の別の例としてマケドニアとアジア属州での例を確認出来る 126)。

126) テオドシウス法典 33 de annon[a] et tribut[is] 11, 1。そこでは更に次のことが特別に主張されている。つまりどのような検査官[inspector]も属州の財の評価をしてはならないと。

同時に最初に引用した箇所が示しているのは、ヌミディアでは税フーフェのシステムの導入という意味での税制改革はまだようやく始められたばかりの状態であったということである;他の固定された税以外では、全ヌミディア人はわずか200人分の人頭税しか払っていなかった。同様にアフリカでは税額の計算はその時点でもケントゥリア当たりでいくらの使用料支払いの原則に従っていたのであり、それは部分的には、以前主張したように、もしかするとグラックス兄弟の時代のやり方をそのまま継承していたのかもしれない 127)。

127) カエサルによるカンパーニア地方でのヴィリタン土地割当てにおけるケントゥリアについては、ごくわずかな不連続になっている部分を除いて今日でもその跡ははっきりと分かるものであり、それは[ヴェーバーの当時の]今日のカプアの地図が示している通りである。≪Googleマップで現在のカプアの古カプアに相当するサンタ・マリーア・カプア・ヴェーテレ周辺の地図を確認した限りでは、ケントゥリアによるいわゆる条里制の痕跡は確認出来なかった。≫(尊敬する枢密参事官のマイツェン教授は、私に同様の事例についての記述を参照する機会を与えてくれた。それは間もなく教授の著作として刊行される。≪おそらくマイツェンの Siedelung und Agrarwesen 、1895年のAnlage 29、”Reste der Assignationen Caesars um Capua”のこと。2ページ半のテキストのみで特に地図や図は付いていない。”um”という前置詞の意味から、カプアの中心地ではなくその周辺のことであろう。≫)ケントゥリアは一般に200ユゲラと見なされた。それ故にカンパーニアでもまた常に正確に次のことを計算することが出来た。それはある土地での総課税対象額がいくらであったかというのと、課税対象の土地の面積が何ユゲラであったかということである。――参照:D. 2 de indulg[entis] deb[itorum](ホノリウス帝とアルカディウス帝≪ホノリウス帝はテオドシウス1世の次男、アルカディウス帝は長男で前者が西、後者が東を治めてローマは再び分裂した。≫ 395)、そこでは528,042ユゲラ分の税が砂漠と荒れ地に対して免除されている――アフリカでの例と同じく。

そして結論としては言及した箇所は次のことを証明している。それはその当時であってもまだ植民市に対する課税方法はその他のゲマインデに対するそれとは違いが存在していた、ということである。というのはこの[改革された]税制は、もちろんそれは部分的には修復不可能なほど壊れていたのであるが、植民市のルシカデ≪現代のアルジェリアのスキクダにあったローマの植民市≫とチュル≪プリニウスの書籍に出てくるヌミディアの町≫においては、あ特別な課税用の面積算定方法で統一的に simplumに基づく土地台帳を使ったものが前提とされていたからであり、それについての規定が存在する 128)。

128) そこでは5%[centesimae]の税について規定されている。

ゲマインデの税制上の自治の廃止

しかしながらもちろんディオクレティアヌス帝による税制改革は様々に異なった課税方式の統一を図る試みを更に先に進めていた。まず第一に土地区画に対する国家の直接的な課税が広範囲に渡って導入された。課税されていたゲマインデの税制上の自治は常に不安定な形で成り立っており、それはそのゲマインデに対して税の総額の徴収が委託されていた場合でもそうであった。そういったゲマインデが全体として統一された税対象物をまとめ上げていた限りにおいて、その全体としての状態の変更はいずれにせよ――例えばそれまでのその町の課税用の地図を破棄するなど≪町を一度取り壊して再度建設する場合≫129)――そのゲマインデを支配している国家の同意なしには決して行われることはなかった。

129) そのようにウェスパシアヌス帝はある碑文に含まれた(C. I. L., I, 1423)スペインのサボーラ≪スペインのヒスパニア・バエティカにあった町≫の処置について許可しているが、その処置とはその町を一度取り壊し同じ平野の中で再度建設するというものであり、それは壊す前の現状の土地使用料をそのまま保つという確約の元で行われた。もしその町の者達が新たな税を設けようと欲した場合には、その町を管轄する総督に対して許可を請わなければならなかった。

しかしながら国税の割当てにおいての税制の自治の原則全体は、一般的に次々に制限されるようになっていた。同じことが自治団体の公共組織からの解放によっても生じていた。コンスタンティヌス1世の治世において知られているのは、課税方法についてある種の濫発が起き、それは諸ゲマインデにおける富裕者の金権政治的な制度によって引き起こされていた 130)。

130) テオドシウス法 3 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11, 16(コンスタンティヌス1世 324)では追加の税を取り立てており、その理由はカルケドン≪小アジアのビチニア地方の港湾都市≫とマケドニアでは、権力者(金持ち)が他者の納税義務を勝手に軽減したり、あるいは自身への munera[義務]の割り当て分をゲマインデを通じて軽減したりしていたからである。諸ゲマインデにおいては以前から税負担を平等にするという目的での管理が行われていたが 131)、その後コンスタンティヌス1世の治世においては税支払いの義務の割当て方法について部分的ではあるが正式なやり方が規定された 132)。

131) テオドシウス法 4 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11. 16 (コンスタンティヌス1世 328)。まず最初に確認されなければならなったのは、富者が、それから平均的な人が、そして貧者がそれぞれ何を負担すべきか、ということである。この点で夫役との関連が再度明らかになっている。明らかに富者はそういう夫役の負担の順番において常に下層の者より開始することにしており、その結果として自分には順番が回って来ないようにしていた。

132) 注130と131の文献の箇所を参照せよ。後者においてはただ属州の総督によって定められた規準のみが権威のあるものとされた。

最終的には部分的にゲマインデの10人組の長[decurio]から税割当てと徴収の権利が有無を言わさず取上げられ 133)、つまりは国家による直接課税が導入されたのである。

133) 同じくより小規模の占有者もテオドシウス法 12 de exact[ionibus] 11, 7 (383年)によってそれらの権利を取上げられた。

英語 call とギリシア語 καλέω (呼ぶ)の関係

昔羽入辰郎の「マックス・ヴェーバーの犯罪」批判を書いた時に、コリントI 7,20の英訳の変遷の分析で、英語の call も元を正せば ギリシア語の καλέω ではないかと思ってOEDを調べたことがあるのですが、OEDでは古ゲルマン、古チュートンまでしか遡っていませんでした。最近知ったこととしてOEDは語源については英語と直接関係ない言語までの遡及はしないというのが方針だったようです。(恣意的な語源のこじつけを避けるためと、英語と直接関係ない言語にまで探索する時間が無かったのと両方みたいです。)
ChatGPT4oに改めて聞いてみたら、やはり関係があるようです。
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英語のcallという動詞は、古典ギリシア語のκαλέω(呼ぶ)と関係ありますか?ラテン語のcalendarはおそらくギリシア語のκαλεωから派生しているように思います。(月の初めの日を声を出して布告する係がいたと聞いています。)以前Oxford English Dictionaryでcallの語源を調べましたが、古チュートン語までにしか遡っていませんでした。OEDの方針として語源は英語と直接関係のない言語にまでは言及しないということのようです。

ChatGPT:

英語の call は、確かに古ノルド語 kalla(「呼ぶ」)に遡るゲルマン系の語彙ですが、より深い語源的な関連を探ると、ギリシア語 καλέω(kaleō)と共通のインド・ヨーロッパ祖語に由来する可能性が考えられます。

call の語源

  • 英語 call の直接の起源は古ノルド語 kalla(「呼ぶ、召喚する」)。
  • これは古英語 ceallian に取り込まれ、その後中英語 callen を経て現代英語 call になった。
  • 古ノルド語 kalla は、ゲルマン祖語 kallōną から派生し、他のゲルマン諸語(例えばオランダ語 kallen, ドイツ語 kallen)にも類似の形がある。

καλέω との関係

  • ギリシア語 καλέω は、確かに「呼ぶ」「名付ける」といった意味を持つ。
  • この語はインド・ヨーロッパ祖語の kal- または kele-(「呼ぶ」「呼び出す」)に由来する。
  • サンスクリット語の kalayati(「数える」「呼ぶ」)や、ラテン語の calare(「召集する、宣言する」)とも関連がある。

ラテン語 calendar との関係

  • ラテン語 calendae(カレンダエ)は「月の最初の日(朔日)」を指し、これは布告者(calator)がその日を市民に告げる習慣に由来するとされる。
  • calendae は動詞 calare(「呼ぶ、告げる」)の派生語であり、これはギリシア語 καλέω に対応する。

結論

英語の call は直接ギリシア語 καλέω から借用されたわけではなく、ゲルマン語内部で独自に発達した語ですが、より深いインド・ヨーロッパ語族の語源を探れば、共通の祖語(kal- / kele-)に遡る可能性があります。したがって、callκαλέω は最終的には同じ語根に由来する可能性が高いですが、英語に入る過程では別々の系統をたどったと考えられます。

OEDが古チュートン語までしか遡らないのは、直接的な英語の系譜を重視するからでしょうが、印欧語族全体の視点では、より古い共通の語源を見出すことができます。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(50)P.276~279

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第50回です。ここではヴェーバーはティオクレティアヌス帝による税制改革と、カール大帝の税制との共通点を論じています。この例に限らず、ヴェーバーはこの論文でローマと中世ドイツの土地制度の共通性を論じている箇所が非常に多いように思います。そもそも何度も出てくる「フーフェ」は中世ドイツの封建制においての農村のあり方であり、ローマの土地制度が元々フーフェから発展したなどというのは、ある意味歴史を逆に捉えている、私から言わせればある種の「トンデモ説」です。またゲノッセンシャフトがローマに昔あったというのも噴飯物の議論であり、ローマはスタートは王制、その後は世襲貴族を中心とした共和政というのは誰でも知っていることで、まごうこと無き階層社会です。この論文はヴェーバーの長所と短所がどちらもかなり強く出ているものであり、そういう意味で私には非常に興味深い論文です。
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事実上はこうした変更された課税方式は、フーフェの耕地の中で個々人に与えられた持ち分についての権利に基づいた課税と比較した場合、最初から本質的には異なったものではなかったのであろうし、というのはその新しい方式では夫役と本来の個々人の耕作の維持という観点でバランスを取ったものであったからである。ケンススに登録された財産のリストが実際には元からの土地所有の情報を含んでいなかったとしたら、それはただ夫役を課する上で役立っただけであり、そのことと符丁が合っているだろうことは、ただ夫役の義務を負うことが可能な財産≪例:奴隷≫のみがケンスス登録の対象とされたことである。しかしながら次のことは非常に確かである。それは昔から相続人を登録することがフーフェの農民による報告として行われていた以外に、このことについてまたケンススへの登録も必要とされた、ということである。もしかするとケンススのリストというのは[フーフェの共同体単位で]相互に独立したものとして作られていて、それは後の時代の有権者リストや納税者リストと同様であった。というのも相続人登録というのは、まず第一に政治的な権利の継承という意味合いが強かったからである 119)。

119) というのは植民市においては、ユガティオとカピタティオに基づく夫役については、そもそもそこの住民への税はいずれにせよローマにおいて元から存在する tributum という税の課税のやり方を真似する形で課されたのであり、公的な業務の必要性を満たすために、その業務を行わせる対象者のリストを作成せよ、という指図については、そういったものがあったとしたら、植民市では重複した作業となっていたに違いない。

しかし明らかに既にかなり早期からフーフェでの土地の権利という尺度に対して関係づけられていたのである。ディオクレティアヌス帝の税制において、juga に基づく負担というものが再び登場した際には、それはまず第一には[フーフェの]耕地所有面積に比例した形の税だったのである;そのため実際に何が起きたかというと、1日の作業量という原則に忠実に従おうとした場合、その計算根拠に使われたのは本当の個々の農民の作業実績に基づいた[平均的な]作業量ではなく、[何らかの取り決め基準に基づく]仮想的な作業能力だったのである。大地主達は疑いなく、その配下の小作人に対して行政当局からの命令に基づいて――そのことについては最終章で再度取り上げるが――作業夫役を課したのであるが、その際にも同様にこうした仮想的な計算方法が使われていた 120)。

120) 一度作業夫役が課された植民市は、何らかの理由でそれに充当すべき実際の労働力が不足することになっても、それを理由に夫役を免除されることはなかった。このことと符合するのは、後に植民市に対して[夫役を課す上での根拠となっていた]”peculium” [個人資産]の売却が禁止された、とうことである。

土地所有面積に比例した課税の他に存在していた税は、またローマにおいての元々の税である tributem であった。その、より後の時代においての実態は、1000アウレウス当たりで――「一人当たり」[caput]121) で――その市民の持つ課税対象の資本について、それはその市民の生業に基づいてケンスス上で確認されるものであったが、必要に応じてその都度異なる金額で課されていた。この税制にて、土地台帳上での評価額の1,000アウレウスという金額は、丁度ケントゥリア[百人組]の中での軍事的な階級と同様に、土地財産に対する公的な評価レートに対して相当分の土地を言っているのであり、そのことは既にフシュケ≪Eduard Huschke、1801~1886年、ドイツの法学者≫(Ritters u. Schneiders krit. Jahrb, XVIIIm P.617)によって主張されている。ただ私はその場合に、それがある決まった面積の土地に対する金銭評価の始まりであった、という考え方は正しいとは思わない。類推出来ることの全ては、むしろ次のことを示唆している。つまりここでは土地の金銭評価をフーフェでの権利に比例したものとして扱っている、ということであり、それはつまり個々人に対してその者が属するフーフェの全耕地の中で、その者に割当てられ帰属した耕地、放牧地、そして他の用益権 122) に比例していた、ということである。

121) フロンティヌス P.364(モムゼンの補完による Abhandl. d. Berl. Ak. der Wissenschaften 1864, P.85):tributorum collatio cum sit alias in capita, id est ex censu …[税の支払いはまたある場合には人数当たりとして、それはケンススに登録してある人数に基づいて…]
Liv. 29, 15, 9. 39, 7, 4 vv.”in milia aeris”[1000アウレウス当たりで]。

122) このことはまた何故古くからの共同経済的なフーフェの農民の用益権に代わって地方の農地の地役権[servitutes praediorum rusticorum]がケンススに登録可能な手中物[res mancipi]≪渥取行為によらなければ所有権の移転が出来ない財産≫として登場して来たかの理由である。

任意の土地区画の所有で、それがフーフェの取り決めに全く関係ないものは、もっとも古い規則によれば、第2章で詳しく述べたように、私法上の保護も受けられなかったし、ケンススに登録することも出来なかった。ようやく Uskapion[土地の時効取得]が許可されるようになった時に、フーフェに属していない者の土地であっても物権的に保護されるようになり、それによってフーフェ制度全体が崩壊し、土地の面積当たりでいくらという評価に基づいた土地の金銭価値への換算が行われるようになったに違いない。フーフェ制度はしかし確からしくは既に耕地ゲマインシャフトの分割の際に、その際には何らかの形での地所の価値評価がまずは必要となったのであるが、それはケンスス制度に対しての基礎となったのであり、その際には農地の分配において、フーフェの成員全員の個々のフーフェの権利が、ある決められた価額である一人当たり 1,000 アウレウス分の土地が等しく設定され、そして各人に地所の評価に基づいてその者に与えられるべき額に合わせて、それに相当する面積の土地が割り当てられ、それ故に 1,000 アウレウスに対してそれぞれの地所の評価額が異なっていたことにより、割当てられた土地の面積もそれぞれ異なっていたのである。この耕地ゲマインシャフトの分割の際のやり方は、それ故にまたティオクレティアヌス帝による税制における jugum の性質でもあったのである。こうした土地の金銭価額評価は、しかしながら次のことを可能にした。つまり財産ではあるが、土地所有としては認められていないかあるいはただ半端な面積の土地区画であって土地台帳に載せるほどの大きさではないものについて、アエラリウス≪ローマの最下層民で兵役に就くことが出来ないが納税義務はある。≫に対して同じ尺度で評価して課税する、ということである。このことが実際に起きたということは次のことから分かる。それはケンススの実施の結果として、トリブスでのゲノッセンシャフトからの懲罰としての追放が、その罰を受けた者へのケンススの原則の乗算的な適用≪おそらくはケンススによってまずそういう半端な土地まで課税対象として調査されただけではなく、更に財産の申告に虚偽があったり、あるいは財産の総額が一定額をし給わせる場合にプレブスからアエラリウスへ降格させられたことを言っていると思われる≫と結び付いていたのが常であった、ということである。そのことから分かるのは、アエラリウス[に降格するような貧しい者]に対しても同じ原則で課税していた、ということである。アエラリウスに属する者達については一人あたり 1,000 アウレウスは現実の土地の面積と同等ではなく、それはむしろ土地台帳上だけの概念的・仮想的なフーフェの土地として見なされた。こうした土地の金銭価額評価に基づく課税方式は、それはそれ故実質的に財産税という性格を持っていたが、疑い無くその発展は非常にゆっくりだったのであり、この発展が一般的に言ってどのレベルにまで達したのかもはっきりしない。こうした課税方式はもしかすると、”capite censi”[ケンススでの人員登録に基づいて]という表現が土地台帳に登録する地所を持っていない市民の存在をほのめかしているように、そうした市民のただ頭数だけを登録し、そしてその者達を土地税徴収の対象にしない場合も夫役を義務付ける対象とする、という手続きとして登場したのかもしれない。以上をまとめて言うなら、tributum というものはいずれにせよ土地所有に対する課税形式であり、それは元々のフーフェでの権利に対しての課税だったのであり、それが後には大規模な土地経営全体に対して適用されるようになったものであり、vectigal のように個々の具体的な面積の土地に対して課される税ではなかった。この課税方式と vectigal の関係に相応しているのは、割当てを受けた私有地の面積と国有地という所有状態の土地[で貸し出されたもの]との関係であり、更に同様の関係としては Hufenschoß ≪16世紀以降のプロイセンとブランデンブルクなどでのフーフェの土地への課税≫と”walzenden Grundstück ≪どの大地主の所有にも属さない自由に売買可能な土地≫への課税の関係が挙げられる。その他、この課税方式はもちろん、不完全ではあるが、一般的財産税と言い表すことが出来る。

属州における juga と capita、そして課税

ディオクレティアヌス帝の改革はローマ帝国全体に対して一般的な課税標準を定める必要性から始まっており、それは丁度カール大帝≪8世紀後半から9世紀後半にかけてのフランク国王、神聖ローマ帝国初代皇帝、「ヨーロッパの父」と呼ばれる≫がそういった標準を彼の帝国の大部分でドイツのフーフェ制度の中に見出したのと同様であったが、その改革は同じものをおそらくは1,000アウレウスの価値を持つ[仮想的な]税制上のフーフェの中に見出そうと試みたのである。≪元々1フーフェの土地とは、一家族がその土地を耕作することで食べていける広さの土地を指していた。≫そこではまず耕作の成果としての juga に税制が結び付けられ、更にそれによって耕作能力の概念にも結び付けられたのである。大地主に対しての課税は明らかに牛馬を使った耕作に従事可能な小作人の数と共に、大地主自体が雇い人を使って行っている耕作、それは大地主制の中に含まれるものであるが、その雇い人の数も基準として行われ、更に地主達は capitatio plebeja [平民に課された人頭税]という人頭税をその者達が所有している奴隷達とその他の手作業を行うことが出来るその大地主制の中の人員の分として支払うことが求められた 123)。

123) 夫役への関連付けは、412年のテオドシウス法 5 de itin[ere] mun[iendo] 15, 3にて示されており、それによればビテュニア≪小アジアの北西にあったローマの属州≫において道路関係の作業が土地の占有者達に対してその支配の及ぶ所の juga 及び capita の数に比例する形で課されていた。その際にその義務の賦課が一人当たりの一日当たりの作業量ベースではなかったことは、関連個所であるテオドシウス法 4 de equorum coll[atine][税支払いの公平性について]11, 17が明らかにしており、そこでは一日の作業能力について言及しているのであるが、表題が示唆している通り、しかしながら実際の一人一人の作業量ベースではなかったということは、possessionis jugationisve modus [占有されていて区画分けされた面積に基づいて]という表現から分かる。

耕地において juga に相当する面積を実際に測量するということは確かにこの場合では行われておらず、そうではなくて juga のみが数えられており、その juga は個々の土地ではなく、占有者がそれを全体として占有しているまとまりであった 124)。

124) このことはトラレス≪ギリシア、ローマ、ビサンチン帝国の植民市、現在のトルコのエフェレル(2012年まではアイドゥン)≫の専制がどのように保護されたのかを明らかにしている。(次の注を見よ。)

その土地の品質等級に応じた vectigal[使用料]を支払っていた耕地においては、新たに juga が個々の品質等級毎にある一定数のユゲラが換算表によって等価とされる形で設定され、それからその土地がその地区において測量され(”emesum”)、あるいはより現実的にそれを言い表すならば、何区画かの土地が juga にまとめられたということである。更に諸ゲマインデにおいて税の査定を受けることになった場所においては、それらの諸ゲマインデはそれまで全く税を支払っていなかったか、あるいはただゲマインデ全体から徴収した stipendium [税]のみを支払っていたのであるが、そこの人々は多くの場合、次のことで満足していた。それはそのゲマインデが支払うべき税の総額がある決まった数の simpla [等倍]に等しいとされ、そしてその者達にその徴収が委託された、ということである。この場合当然のことであるが caput は純粋に数による価値の大きさを表すものであったのであり、おそらくはそこではこの表現はまさにこのような場合において juga と並んで使われたのであるが、その一方で catpitatio は属州全体での人頭税を意味していたのである。そうであれば先に言及した文献史料においての capitatio の意味の説明の不適合を説明できる 125)。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(49)P.272~275

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第49回です。ここも本当に分かりにくく、ヴェーバーが書いている文章自体が、きわめておかしな所で切れて、挿入句が入るという具合で、3回も4回も見直した箇所があります。(ずっと考えていて、寝床の中でひらめいて意味が分かった箇所もあります。)ここでは何回もロードベルトゥスが出て来て、ヴェーバーはかなり影響を受けているようです。序文で「偉大な思想家」とあるのがロードベルトゥスかマルクスか判断しかねていたのですが、これは間違いなくロードベルトゥスでしょう。面白いのはヴェーバーはそこでさらに「多くのその模倣者達」と書いているのですが、おそらくはその模倣者の中にマルクスも入っています。確かに労働価値説、剰余価値、地代と労働賃金の関係などは最初にロードベルトゥスが言い出したことで、ロードベルトゥス自身もマルクスの「資本論」他を自分の理論の剽窃であると非難していました。今日、特殊な理由がない限り、ロードベルトゥスの著作を読む人はほとんどいないでしょうが、少なくともヴェーバーがこの論文を書いていた時代には高く評価されていた、ということが分かります。
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特に、非常に良く知られているカラカラ帝によるローマ帝国住民[で属州民などこれまでローマ市民権を持っていなかった者]へのローマ市民権の授与は、ロードベルトゥスがその背後で起こったと推測しているような、急激で根本的な変化をもたらしたりはしていなかった。その市民権の授与は税制上の意味としては、少なくとも土地に関するものについては、次の点においてはるかに進歩した、とは言えないものであった。それはつまり、その授与がそれまで免税でないしは課税であった諸ゲマインデの土地について、その土地の占有を行うことを許したり、そしてそのことによって課税に関する別のやり方を採用したり、あるいは新しい税を作りだしたり、また同様に諸ゲマインデ自身においてのその成員への課税についての非常に大きな相違を均等化する、といった点である。その諸ゲマインデへの課税と諸ゲマインデ自身の課税についての改革はしかし、既にアウグストゥスが着手しており、その後もそうした改革は西ローマ帝国の滅亡の日まで粛々と進められていたのである。しかしもちろんローマ市民権授与の結果であったのは、その際に土地に関する申告のやり方についての統一原則を作り出す、ということが試みられたことであり、その具体的な内容としては、個々のゲマインデにおいての土地所有権について、土地をある者が占有している場合には、それをケンススに登録することが義務付けられた、ということである。

ウルピアヌスの時代までの土地税

こういった自己申告は、それはウルピアヌスがまさに彼の時代において、丁度ロードベルトゥスが正当な理由があって推測したように、彼によって出版された法律書である de consibus ≪学説彙纂の中に収録されている≫の中でこれらの新しい申告方式について引証≪自分の論の根拠として引用すること≫を行っているが、そういった申告の仕組みは何よりも次のことと関連が深かった。それはヒュギナスの記述に従えば、使用料[土地税]支払い義務が課せられた属州における土地区画に対して適用されたに違いない、ということである。ウルピアヌスがその著書で引証に使ったものは 109)、以下のようなものと考えて間違いないであろう。つまり耕地の面積[ユゲラ数]でその時点で10年以内に耕作が開始されたもの、ブドウの樹の本数とオリーブの樹の本数、そして植え付け済みの耕地の面積[ユゲラ数]、牧草地、牧場と森林の面積である。

109) D.4 de censibus 50, 51。

そしてウルピアヌスが更に次のように述べている場合には:”ominia ipse, qui defert aestimet“[申告を行った本人が全てを評価すべきである]、そこから想定されることは、属州の住民達が、ローマの市民税の古くからの自己申告原則について、耕地の使用方法についても自己申告が可能とされて、申告者に占有が許されていた耕地の面積に関しての何らかのもっと概略的な規則と結び付けて、属州による土地評価に委ねてしまおうと試みた、ということであり、その評価に基づいて昔の tributum の税のように、単純に土地の評価額の単純合計[simplum]またはその2倍の額[duplum]等々に対する千分率[‰]という税率で課税することが出来るようにしたのである。ロードベルトゥスは正当に、この点についてLampridus 110) ≪6人の皇帝についての伝記の内の一つ≫からの引用部について確かと思われる解釈を述べている。

110) Lampr. Alex. 39 :Vectigalia publica in id contraxit, ut qui X aureos sub Heliogabalo praestiterant, tertiam partem auri praestarent, hoc est tricesimam partem. Tuncque primum semisses aureorum formati sunt, tunc etiam cum ad tertiam partem auri vectigal decidisset, tremisses …
[彼≪アレクサンデル・セウェレス帝、在位222~235年≫は、元々ヘリオガルス帝≪在位218~222年≫の時代には(土地税として)10アウレリス≪金貨で、1アウレリスは25デナリ≫を支払っていた場合、それを 1/3 の 3.33 アウレリスの支払いへと減税した。これは元々の 1/10 税から考えれば 1/30 税になった、ということである。それからその支払いのためセミッシウス金貨(1/2 アウレリス)が初めて鋳造され、また地代(土地税)が 1/3 に減額された際にはトレミッセス(1/3 アウレリス)金貨も鋳造され…]
[こういったラテン語文献の解読では]常にあることだが、この箇所を本当はどう解釈すべきかという判断を保留とした場合、その場合でも次のことはまず確かであろう。それは最初の文で言われているのは、金貨で支払うように決められていた税が 10 アウレウスから 3.33 アウレウスへの減税が行われ、それはつまり地所の課税基礎額の3.33 % への減税が意図されていた、ということである。しかしながらこういった政策がどの範囲にまで使われたのかや、その実施の程度については非常に疑わしいことが多く、それは先に引用したヌミディアに関する箇所が示している通りである。特にこの政策は、実際に即して上記で簡単に説明した意味で考察した場合、それは課税対象物について実際上個々のものの価額の見積もりを課税される側の自己申告によって行おうとした試みであるが、それは貫徹されることはなかった。というのは、ディオクレティアヌス帝が制定した規則の中ではそのことは全く触れられていないからであり、そしてそのことと矛盾していないのは、ウルピアヌスが述べているように、この新しいやり方では平均的な土地の価額が長期に渡って保持されるということを前提としており、つまりは土地台帳に記載された土地という財産の状態を継続的に固定化することをおそらくは意図していたのである。ティオクレティアヌス帝の改革でも引き続きこういった考え方に結びつけられていたが、法的史料が示すように、次のような考え方は消失してしまった。それはつまり、法的には、全ての土地所有において、他の負荷も課されている者自身が 111)、土地税も課されるべきという考え方である。

111) 参照、例えばテオドシウス法 13 de senat[oribus] 6, 2, そこでは特に navucularii の財産の自由が定められている。

ディオクレティアヌス帝による土地税制度

ディオクレティアヌス帝による税制は、今さら論証するまでもなく、土地台帳を作成するというのと同じ試みから始っており、その土地台帳は土地への課税をその台帳に記載されているその土地の価額に対して何%かを掛けるという単純な税額決定法を可能にしていた。この目的のために新しい税制は juga ≪土地の生産力に比例して設定された単位となる地積≫と capita≪耕作者一人が決まった時間で耕作出来る面積≫という課税のための面積単位を作り出し、それぞれが同じ価額を持つようにした。この2つの caput [カピタティオ]と jugum [ユガティオ]は常に併用され完全に同じものとして使われ、そのために二つが全く同じ金額であったことについては事実上何の疑いも持ち得ない。しかしながらこの2つの課税用の面積単位がどのように作り出されたかは、難しい、完全に正しい答えを得ることがほとんど不可能な問題である。一方でこのことについてはっきりと述べている情報 112) が存在しており、それによると、ユガティオの場合はそれぞれの土地の等級に応じて異なった単位面積が測量で決められ、それぞれ等級毎の異なる単位面積がお互いに価額として等しいものとされた。≪例えばオリーブ畑の単位面積は小麦畑の単位面積より小さい、など。≫他方ではカピタティオについてはいくつかの所見が存在するが、それらはカピタティオを何らかの課税対象となり得る対象物と同一視することは考えにくいと思われる、といった説明をしている 113)。

112) モムゼンの Hermes III, 430 の中に翻訳として収録されている、いわゆるシリア・ローマ法律文書[syrisch-römischen Rechtsbuch] より。

113) 特に Eumenii gratiarum actio 11。≪EumeniusのPanegyrici Latini、ラテン語称賛演説集。≫

ここでほとんどユガティオとカピタティオの意味を無条件に同一視することから議論を始めたが、その場合には矛盾が生じ、それはかなり力ずくな方法でもない限り解決出来ないように思われる。もしかすると真相についての確からしいと思われる推測を次の場合にはすることが出来るかもしれない。それはディオクレティアヌス帝によって導入された課税方法について、それがどのような先行物から作られたのかということと、税制上の関係でその方法がどのような社会状態に対応させられていたに違いないか、ということを考えてみる場合である。

“jugum”という表現は「一人の一日分の仕事量」という意味で、共和政期と帝政期の早期に夫役の概念に結び付けられて登場して来ていたが、その表現は個々の耕地について、ある部分はその者が属するゲマインデに対して、別の部分はその土地の地主に対する関係で税[使用料]を課せられていた、ということである。lex coloniae Genetivae 114) ≪カエサルが作ったスペインの Genetiva Iuria の植民市法≫に示されているように、公的な賦課については、特別な原則によって規制された兵役義務は例外として、ローマ市民による植民市の初期の形態においては、その植民市の市民とその家族に対しては、手作業による夫役と牛馬を使った耕作の夫役が次のようなやり方で課せられていた。つまり1日の作業量に対して、同じく一人当たりの人員に対して、国家当局の要求に基づいての何らかの現物が固定量で課せられていたに違いない。植民市というのはいわば首都ローマのコピー都市でもあったので、こうした課税方式はローマでも全く異なるところなく実施されていた。ウルソの法律では≪前述の lex coloniae Genetivae の中の1章。ウルソは現代でのスペインのオスナであり、Genetiva Iuria が存在した場所≫――同じことがこの時代どこの植民市でも行われていたのであるが――一人当たりの一月の、そして一日の作業量当たりの、最大日数と最大時間がそれぞれ定められたのである 115)。

114) C. 98
115) 一人当たり月5日、一日あたり3時間。

家父はまたいずれにせよ、耕作能力がある場合には、自分の作業と、かつ家父の指示に従わなければならない成年の人員――[成年の]子供・孫達、奴隷――の作業をそういった夫役に割当て、そしてまた手仕事による夫役も行わせることになった。全く同様に大地主制において地主によって土地の使用料を設定された農民達も、彼らの作業能力に対する一定の割合で設定された夫役とかつまた手仕事による夫役について彼ら自身の家族と更に家族に従属する人員に対して義務付けられた 116)。

116) C.I.L,. VIII, 10570;参照、モムゼンの Hermes XV, p.385ff, 478ff。

ゲマインデが貨幣経済への移行を欲して、自然物による貢納の要求を[貨幣による]税としての支払い要求に置き換えを図った場合は、あるいはそれが必要不可欠であった場合は、何らかの必需品でそれが自然物の貢納では徴収され得ないものについては、それらを提供する[ための労働]義務を課すことで代替手段とし、その結果としてまず行われた可能性があるのは、次のようなやり方である。それは1日の作業量(jugum)と同じく一人当たりの人員(caput)当たりの義務を果たすために、ある一定額の現金支払いやその他の物の納付が行われるようになった、ということである。実際の所は、次のことは除外されていない。つまりローマにおいてもまた、この手の課税方式は一旦採用されたのであり、少なくともタルクィニウス王≪ローマの王政時代の最後の王。在位BC535~509年。圧制で民を苦しめたことで有名。≫が試みたような、課税方式で全ての市民が[働けない老人や子供も含めて]一人当たりで等しく課税された 117) という暗い圧制の残滓を同類のものとして思い起こさせるのである。

117) Dionysios 4, 43の確かに非常に混乱している箇所にて。また独立の未成年(孤児)と被後見者と寡婦についての特別な意味付けは、課税を成人のローマ市民の夫役義務と根本的に結び付けることによって説明される。

またそのような課税方式の変更は、かつて、つまり耕地ゲマインシャフトの成立の際に、常に考えられるものであったのであり、ケンススによって利益を生み出す能力があるとされた最古の対象物は、実際の所は荷物を運ばせるための牛馬など、車を引かせる牛馬など、そして奴隷、それらと並んでもちろん自由ではあるが暴力によって従属させられた市民達 118) である人間である。

118) また homo liber in mancipio [隷属状態の自由人]、つまり日雇い作業に貸し出された家の息子。