「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第49回です。ここも本当に分かりにくく、ヴェーバーが書いている文章自体が、きわめておかしな所で切れて、挿入句が入るという具合で、3回も4回も見直した箇所があります。(ずっと考えていて、寝床の中でひらめいて意味が分かった箇所もあります。)ここでは何回もロードベルトゥスが出て来て、ヴェーバーはかなり影響を受けているようです。序文で「偉大な思想家」とあるのがロードベルトゥスかマルクスか判断しかねていたのですが、これは間違いなくロードベルトゥスでしょう。面白いのはヴェーバーはそこでさらに「多くのその模倣者達」と書いているのですが、おそらくはその模倣者の中にマルクスも入っています。確かに労働価値説、剰余価値、地代と労働賃金の関係などは最初にロードベルトゥスが言い出したことで、ロードベルトゥス自身もマルクスの「資本論」他を自分の理論の剽窃であると非難していました。今日、特殊な理由がない限り、ロードベルトゥスの著作を読む人はほとんどいないでしょうが、少なくともヴェーバーがこの論文を書いていた時代には高く評価されていた、ということが分かります。
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特に、非常に良く知られているカラカラ帝によるローマ帝国住民[で属州民などこれまでローマ市民権を持っていなかった者]へのローマ市民権の授与は、ロードベルトゥスがその背後で起こったと推測しているような、急激で根本的な変化をもたらしたりはしていなかった。その市民権の授与は税制上の意味としては、少なくとも土地に関するものについては、次の点においてはるかに進歩した、とは言えないものであった。それはつまり、その授与がそれまで免税でないしは課税であった諸ゲマインデの土地について、その土地の占有を行うことを許したり、そしてそのことによって課税に関する別のやり方を採用したり、あるいは新しい税を作りだしたり、また同様に諸ゲマインデ自身においてのその成員への課税についての非常に大きな相違を均等化する、といった点である。その諸ゲマインデへの課税と諸ゲマインデ自身の課税についての改革はしかし、既にアウグストゥスが着手しており、その後もそうした改革は西ローマ帝国の滅亡の日まで粛々と進められていたのである。しかしもちろんローマ市民権授与の結果であったのは、その際に土地に関する申告のやり方についての統一原則を作り出す、ということが試みられたことであり、その具体的な内容としては、個々のゲマインデにおいての土地所有権について、土地をある者が占有している場合には、それをケンススに登録することが義務付けられた、ということである。
ウルピアヌスの時代までの土地税
こういった自己申告は、それはウルピアヌスがまさに彼の時代において、丁度ロードベルトゥスが正当な理由があって推測したように、彼によって出版された法律書である de consibus ≪学説彙纂の中に収録されている≫の中でこれらの新しい申告方式について引証≪自分の論の根拠として引用すること≫を行っているが、そういった申告の仕組みは何よりも次のことと関連が深かった。それはヒュギナスの記述に従えば、使用料[土地税]支払い義務が課せられた属州における土地区画に対して適用されたに違いない、ということである。ウルピアヌスがその著書で引証に使ったものは 109)、以下のようなものと考えて間違いないであろう。つまり耕地の面積[ユゲラ数]でその時点で10年以内に耕作が開始されたもの、ブドウの樹の本数とオリーブの樹の本数、そして植え付け済みの耕地の面積[ユゲラ数]、牧草地、牧場と森林の面積である。
109) D.4 de censibus 50, 51。
そしてウルピアヌスが更に次のように述べている場合には:”ominia ipse, qui defert aestimet“[申告を行った本人が全てを評価すべきである]、そこから想定されることは、属州の住民達が、ローマの市民税の古くからの自己申告原則について、耕地の使用方法についても自己申告が可能とされて、申告者に占有が許されていた耕地の面積に関しての何らかのもっと概略的な規則と結び付けて、属州による土地評価に委ねてしまおうと試みた、ということであり、その評価に基づいて昔の tributum の税のように、単純に土地の評価額の単純合計[simplum]またはその2倍の額[duplum]等々に対する千分率[‰]という税率で課税することが出来るようにしたのである。ロードベルトゥスは正当に、この点についてLampridus 110) ≪6人の皇帝についての伝記の内の一つ≫からの引用部について確かと思われる解釈を述べている。
110) Lampr. Alex. 39 :Vectigalia publica in id contraxit, ut qui X aureos sub Heliogabalo praestiterant, tertiam partem auri praestarent, hoc est tricesimam partem. Tuncque primum semisses aureorum formati sunt, tunc etiam cum ad tertiam partem auri vectigal decidisset, tremisses …
[彼≪アレクサンデル・セウェレス帝、在位222~235年≫は、元々ヘリオガルス帝≪在位218~222年≫の時代には(土地税として)10アウレリス≪金貨で、1アウレリスは25デナリ≫を支払っていた場合、それを 1/3 の 3.33 アウレリスの支払いへと減税した。これは元々の 1/10 税から考えれば 1/30 税になった、ということである。それからその支払いのためセミッシウス金貨(1/2 アウレリス)が初めて鋳造され、また地代(土地税)が 1/3 に減額された際にはトレミッセス(1/3 アウレリス)金貨も鋳造され…]
[こういったラテン語文献の解読では]常にあることだが、この箇所を本当はどう解釈すべきかという判断を保留とした場合、その場合でも次のことはまず確かであろう。それは最初の文で言われているのは、金貨で支払うように決められていた税が 10 アウレウスから 3.33 アウレウスへの減税が行われ、それはつまり地所の課税基礎額の3.33 % への減税が意図されていた、ということである。しかしながらこういった政策がどの範囲にまで使われたのかや、その実施の程度については非常に疑わしいことが多く、それは先に引用したヌミディアに関する箇所が示している通りである。特にこの政策は、実際に即して上記で簡単に説明した意味で考察した場合、それは課税対象物について実際上個々のものの価額の見積もりを課税される側の自己申告によって行おうとした試みであるが、それは貫徹されることはなかった。というのは、ディオクレティアヌス帝が制定した規則の中ではそのことは全く触れられていないからであり、そしてそのことと矛盾していないのは、ウルピアヌスが述べているように、この新しいやり方では平均的な土地の価額が長期に渡って保持されるということを前提としており、つまりは土地台帳に記載された土地という財産の状態を継続的に固定化することをおそらくは意図していたのである。ティオクレティアヌス帝の改革でも引き続きこういった考え方に結びつけられていたが、法的史料が示すように、次のような考え方は消失してしまった。それはつまり、法的には、全ての土地所有において、他の負荷も課されている者自身が 111)、土地税も課されるべきという考え方である。
111) 参照、例えばテオドシウス法 13 de senat[oribus] 6, 2, そこでは特に navucularii の財産の自由が定められている。
ディオクレティアヌス帝による土地税制度
ディオクレティアヌス帝による税制は、今さら論証するまでもなく、土地台帳を作成するというのと同じ試みから始っており、その土地台帳は土地への課税をその台帳に記載されているその土地の価額に対して何%かを掛けるという単純な税額決定法を可能にしていた。この目的のために新しい税制は juga ≪土地の生産力に比例して設定された単位となる地積≫と capita≪耕作者一人が決まった時間で耕作出来る面積≫という課税のための面積単位を作り出し、それぞれが同じ価額を持つようにした。この2つの caput [カピタティオ]と jugum [ユガティオ]は常に併用され完全に同じものとして使われ、そのために二つが全く同じ金額であったことについては事実上何の疑いも持ち得ない。しかしながらこの2つの課税用の面積単位がどのように作り出されたかは、難しい、完全に正しい答えを得ることがほとんど不可能な問題である。一方でこのことについてはっきりと述べている情報 112) が存在しており、それによると、ユガティオの場合はそれぞれの土地の等級に応じて異なった単位面積が測量で決められ、それぞれ等級毎の異なる単位面積がお互いに価額として等しいものとされた。≪例えばオリーブ畑の単位面積は小麦畑の単位面積より小さい、など。≫他方ではカピタティオについてはいくつかの所見が存在するが、それらはカピタティオを何らかの課税対象となり得る対象物と同一視することは考えにくいと思われる、といった説明をしている 113)。
112) モムゼンの Hermes III, 430 の中に翻訳として収録されている、いわゆるシリア・ローマ法律文書[syrisch-römischen Rechtsbuch] より。
113) 特に Eumenii gratiarum actio 11。≪EumeniusのPanegyrici Latini、ラテン語称賛演説集。≫
ここでほとんどユガティオとカピタティオの意味を無条件に同一視することから議論を始めたが、その場合には矛盾が生じ、それはかなり力ずくな方法でもない限り解決出来ないように思われる。もしかすると真相についての確からしいと思われる推測を次の場合にはすることが出来るかもしれない。それはディオクレティアヌス帝によって導入された課税方法について、それがどのような先行物から作られたのかということと、税制上の関係でその方法がどのような社会状態に対応させられていたに違いないか、ということを考えてみる場合である。
“jugum”という表現は「一人の一日分の仕事量」という意味で、共和政期と帝政期の早期に夫役の概念に結び付けられて登場して来ていたが、その表現は個々の耕地について、ある部分はその者が属するゲマインデに対して、別の部分はその土地の地主に対する関係で税[使用料]を課せられていた、ということである。lex coloniae Genetivae 114) ≪カエサルが作ったスペインの Genetiva Iuria の植民市法≫に示されているように、公的な賦課については、特別な原則によって規制された兵役義務は例外として、ローマ市民による植民市の初期の形態においては、その植民市の市民とその家族に対しては、手作業による夫役と牛馬を使った耕作の夫役が次のようなやり方で課せられていた。つまり1日の作業量に対して、同じく一人当たりの人員に対して、国家当局の要求に基づいての何らかの現物が固定量で課せられていたに違いない。植民市というのはいわば首都ローマのコピー都市でもあったので、こうした課税方式はローマでも全く異なるところなく実施されていた。ウルソの法律では≪前述の lex coloniae Genetivae の中の1章。ウルソは現代でのスペインのオスナであり、Genetiva Iuria が存在した場所≫――同じことがこの時代どこの植民市でも行われていたのであるが――一人当たりの一月の、そして一日の作業量当たりの、最大日数と最大時間がそれぞれ定められたのである 115)。
114) C. 98
115) 一人当たり月5日、一日あたり3時間。
家父はまたいずれにせよ、耕作能力がある場合には、自分の作業と、かつ家父の指示に従わなければならない成年の人員――[成年の]子供・孫達、奴隷――の作業をそういった夫役に割当て、そしてまた手仕事による夫役も行わせることになった。全く同様に大地主制において地主によって土地の使用料を設定された農民達も、彼らの作業能力に対する一定の割合で設定された夫役とかつまた手仕事による夫役について彼ら自身の家族と更に家族に従属する人員に対して義務付けられた 116)。
116) C.I.L,. VIII, 10570;参照、モムゼンの Hermes XV, p.385ff, 478ff。
ゲマインデが貨幣経済への移行を欲して、自然物による貢納の要求を[貨幣による]税としての支払い要求に置き換えを図った場合は、あるいはそれが必要不可欠であった場合は、何らかの必需品でそれが自然物の貢納では徴収され得ないものについては、それらを提供する[ための労働]義務を課すことで代替手段とし、その結果としてまず行われた可能性があるのは、次のようなやり方である。それは1日の作業量(jugum)と同じく一人当たりの人員(caput)当たりの義務を果たすために、ある一定額の現金支払いやその他の物の納付が行われるようになった、ということである。実際の所は、次のことは除外されていない。つまりローマにおいてもまた、この手の課税方式は一旦採用されたのであり、少なくともタルクィニウス王≪ローマの王政時代の最後の王。在位BC535~509年。圧制で民を苦しめたことで有名。≫が試みたような、課税方式で全ての市民が[働けない老人や子供も含めて]一人当たりで等しく課税された 117) という暗い圧制の残滓を同類のものとして思い起こさせるのである。
117) Dionysios 4, 43の確かに非常に混乱している箇所にて。また独立の未成年(孤児)と被後見者と寡婦についての特別な意味付けは、課税を成人のローマ市民の夫役義務と根本的に結び付けることによって説明される。
またそのような課税方式の変更は、かつて、つまり耕地ゲマインシャフトの成立の際に、常に考えられるものであったのであり、ケンススによって利益を生み出す能力があるとされた最古の対象物は、実際の所は荷物を運ばせるための牛馬など、車を引かせる牛馬など、そして奴隷、それらと並んでもちろん自由ではあるが暴力によって従属させられた市民達 118) である人間である。
118) また homo liber in mancipio [隷属状態の自由人]、つまり日雇い作業に貸し出された家の息子。