ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(47)P.264~267

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第47回です。
ここでは、グラックス兄弟の改革の中心となるLex agraria (土地改革法)が規定している、元々カルタゴの領地だった土地がどのように法的に処理されたかについての、かなり詳細な議論が続きます。
注意していただきたいのは、グラックス兄弟の改革はご承知のように世襲貴族と元老院の強い反対を受け、結局は失敗しているだけでなく、土地制度を巡っての大混乱をもたらした、ということで、それが最終的に収束するのはカエサルとアウグストスによる帝政期の開始の時期になります。またよくこの「土地改革法」の目的が、没落した独立農民の救済と言われますが、実際の法文を見れば分かるように、極めて色々なケースについての取り決めが含まれており、決してそういう単一目的のものではなかったことに注意すべきでしょう。
これで全体の2/3を訳し終わりました。
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アジア属州≪アナトリア半島(いわゆる小アジア)西部に存在した元老院管轄の属州≫における1/10税地

アジア属州における同様の発展はシチリアにおいてよりも早く完成したように見える。アジア属州はまた、[グラックス兄弟の]センプロニウス法によれば1/10税の対象地とされ 93)、更にはしかしここではこういった税の形式はより以前からあったの他の形式の税より有利なものとして位置付けられるように見え、しかしその以前の税の個々の事例については知られておらず、王の恣意的な課税権に基づいて導入されたものであったように思われる。Vectigal による賃貸借にはローマの騎士階級≪世襲貴族と平民の中間の階層で商業などに従事した≫のローマ国家への利害関心から、ガイウス・グラックス≪弟≫の同じ法が使われ、それは実際的にはただ属州自身による諸ゲマインデ向け及び個人向けの土地の、競売においての競争を激化させた、という意味しか持っていなかった。その場合キケロ(弟クイントゥスへの書簡集、1,11 §33)がアジア属州の諸ゲマインデについて次のように言っているのであれば:nomen autem publicani aspernari non possunt, qui pendere ipsi vectigal sine publicano non potuerint, quod iis aequaliter Sulla descripserat,[しかし公有地貸借人という名前(立場)を拒絶することは出来ない。何故ならばその公有地貸借人という契約無しには、地代を払って公有地を借りて耕作することが出来なかったからであり、それはそういった者達に対してスッラが公平に制度化したものである]、そうであればここで言及されているのはほぼ次のことと同じで、つまり属州となった地域から得た[領土という]収入を個々のゲマインデに対してその元々の大きさに基づいて、元の面積の単位面積あたりに平均で決めた地代付きで改めて割当てるというやり方について言及されているのであり、つまり諸ゲマインデが決まった額の賃借料を支払うことを承諾し、その支払い[による公有地貸借契約]がその者達に対して認められたのである。しかしこの試みは、キケロの引用文を見る限りでは失敗したように思える。何故ならば後の時代になってもアジア属州に公有地貸借人が存在しているが、その者達については元々の所有状態を回復するということと関連付けられる必然性はもちろん無かったからである;いずれにせよ公有地の貸借料付き貸し出しは、地域毎に徐々に導入されたように思われる(キケロ フラックス弁護 37, 91)。というのもシチリアと同じくここでも固定額の使用料への移行が行われており、それもBC48年のカエサルによってである。(アッピアノス、1.1. 5,4)。

93) アッピアノス 内乱記 5,4

キケロによる有名な記述(Verr. III,6,12 94))によれば、次のような印象を得ることが出来る。つまりこうした状態は、それはカエサルがシチリアとアジア属州で構築したもののように見えるのであるが、他の属州でもその設立当初から存在していたのであり、それ故に属州全般で収穫高とは連動していない固定額の使用料の支払いという形で、諸ゲマインデ自身に割当てられた税というものが、属州の土地に対しての唯一の課税のやり方だったのである。

94) Ceteris impositum vectigal est certum, quod stipendiarium dicitur, ut Hispaniae et plerisque Poenorum.
[更には(シチリアとアジア属州以外の属州でも)課される土地使用料は固定額であり、その税はヒスパニア(スペイン)でも、また大部分のアフリカでも課された。]

しかし以上のような結論は少し早まったものであるかもしれない。例えばサルデーニャ島では反対の例が知られている 95)。

95) リヴィウス、36,2,13。同様にスペインにおいても1/10税地が存在しており、C.I.L.,II,1428 の碑文によれば、皇帝クラウディウス≪在AD41~54年≫が≪ケンススを行った≫監察官としてAD49年に記録している。≪実際のケンスス自体はAD48年。≫

しかしこのことは次のように解釈することが出来るだろう。つまり帝政期の始まりまでは、課税の発展傾向は次の方向に向かっていたということで、それはその属州に従属する諸ゲマインデに対して、税徴収に関しての自治権を与えそしてその税徴収の総額を固定化しようとすることである。≪面倒な個々の税徴収は諸ゲマインデに任せ、ローマ国家としてはその総額だけをもらえれば良かった。≫それについての例としてはアウグストゥスがガリアに対しての基本法の制定時に、そういった土地の年当たりの使用料(税)をその属州としての総額4千万セスティルティウス≪アウグストゥスが大型化した黄銅貨で 2+1/2 アエスに相当≫で導入しようとした際に 96)、個々の納税義務者の集団を分類する作業はローマの行政当局は全く関与しておらず、その分類はただ諸ゲマインデと諸種族に分ける、ということだけが行われていた可能性がある。≪参考:アウグストゥスは共和政期に属州長官となったものが税徴収のルートに入ることで中間で不当な利益(ピンハネ)を得ていたのを直接ローマに納入させるようにしている。≫

96) エウトロピウス、ローマ史概説、6.17。スエトン、De vita Caesarum, 25。

同様により確かなこととしてもちろん次のことは妥当であろう。つまりローマの国家の行政当局は税徴収に関する管理権を放棄したなどということはまったく無く、行政の根本原則が変わっていくのに合わせて、税徴収に関する自治権を取り上げることになった、ということであり、それについては既に見て来たし、また後述の箇所でも見ることになる。

アフリカにおける税の現金納入義務者

キケロが述べている箇所に拠れば、固定額の現金による税が課されていた属州に含まれるのは、大部分のアフリカ属州(”plerique Poenorum”)≪Ponenorum = フェニキアの、の意味は元々カルタゴを含めて北アフリカでフェニキア人が開いた都市、地域ということ≫もまたそうであった。アフリカ属州において知られていることとしては、そこにおいてポエニ戦争の後に7つの civitates liberae et immunes [自由でかつ免税の都市]が存在していたということで、それはウティカ≪Utica、現代のチェニジア、アフリカでもっとも古いローマの植民市≫、ハドルメトゥム≪Hadrumetum、チェニジアの港湾都市スースの古称≫、タプスス≪Thapsus、現代のチェニジアのベカルタの近くの港湾都市≫、レプティス≪Leptis minor (Parva)、現代のチェニジアのレムタ≫、アチョラ≪AchollaまたはAchilla、Achulla、現代のチェニジア東岸の港湾都市≫、ウセリス≪Usellus または Uselis、Usellis、サルディーニャ島西部の都市≫とテウダリス≪Theudalis または Theudali、チェニジアにあったローマの植民市≫の7市である。これらの都市は税支払いが完全に免除されていた。それに対してその他の都市ゲマインデはアフリカでは存在せず、全ての他の諸ゲマインデ団体はポエニ戦争の後に解体させられた 97)。

97) アッピアノス、ポエニ戦役、135:”κ α θ ε λ ε ῖ ν  ἁ π ά σ α ς”[徹底的に破壊する]≪該当箇所のChatGPT4o訳:彼ら(元老院の使節)は、カルタゴでまだ残っていたものが何であれ、スキピオの指揮のもと徹底的に破壊することを決定した。そして、誰にもカルタゴに居住することを禁じた。その際、特にビュルサや「メガラ」と呼ばれる場所に住む者には呪いをかけた。ただし、土地を訪れることまでは禁じなかった。(但しスキピオがカルタゴの農地全てに塩を撒いて二度と作物が獲れないようにした、という伝説は有名であるが、それを証拠付ける資料は戦争後すぐのものは残っておらず、後世になって言われたこと。そもそもグラックス兄弟がそのすぐ後にカルタゴに入植を進めたというのと矛盾する。)≫

アフリカにおいて国家に直接対抗する位置に置かれたのは、[もはやゲマインデや都市ではなく]ただ個々の人間集団であった。そういった人間集団の一部を成すのがグラックス兄弟の改革によって実現したカルタゴへの植民者であり、その者達は土地改革法によって viritane Assignation [小規模な非定期的な土地割り当て]によってその地に移住した(モムゼン C.I.L. I. p.97):その者達は税を免除されていた。

また免税の耕地の別の例として確かなものは、スキピオによってマシニッサ≪Masinissa、BC238~BC148年、第二次ポエニ戦役でローマに協力した功績でスミディア王となった。≫の後継者達≪マシニッサの死後、ヌミディアは彼の3人の息子であるミキプサ、グルッサ、マスタナベルがそれぞれ支配する王国に分割された≫に与えられた耕地かあるいはカルタゴからの投降者に対して割当てられた耕地であり、そしてまたローマ人の居留地であって、イタリア半島でも例があるように、公有地から免税のゲマインデに変更されたものである 98)。

98) 土地改革法の Z. 79. 80. 81。”perfugae”[(カルタゴ軍からの)脱走兵]の国法的な位置付けについては問題が多いように思われる。可能と思われるのは、モムゼンが推定しているように、その者達は自分達のゲマインデを作った、ということである。私にとってより確からしいと思えるのは、大土地所有者[(後の)ラティフンディウムの所有者]と関連があり、その者達は小作人を伴ってかつグーツヘル≪中世ドイツでの大地主≫として歴史に登場してくるのであるが、stipendiarii[現金による納税義務者](後述の文を参照)と同じであり、ただ税は免除されてその土地に留まっていた、ということである。そしてその者達に認められていた土地の所有状態とは、これもまたモムゼンが推定しているように、公有地の所有者ではない。

全てのこの種の所有状態は法的には取り消されることがあるものであり;法によっていつでも行政当局が意のままに処理することが可能だったのであり、そのことから既に次の状況が生じていた。それは土地改革法の規定がこういったカテゴリーの土地の所有者に対する補償について取り決めていたということであり、土地割当てまたは土地売却の結果としてそういった土地の所有権は部分的に取上げられた場合があり、――しかしながらそういった補償が法的に規定されていたという事実は、次のことを示している。つまりその所有状態は少なくとも行政法的には保証されており、それ故に法に基づかないで単なる行政処分によってその所有が否定されるということは許されていなかったのである 99)。

99) このことは私の考えでは、その権利状態は次のような者のそれと同じであり、それについて土地改革法が次の箇所で言及している(Z. 91):Quibuscum tran]sactum est, utei bona, quae habuisent, agrumque, quei eis publice adsignatus esset, haberent [possiderent fruerentur, eisquantus] modus agri de eo agro, quei eis publice [datus adsign]atus fuit, publice venieit, tantundem modum [agri de eo agro, quei publicus populi Romani in Africa est, quei ager publice non venieit, … magistratus commutato.
[その者達について次のことが行われた。その者達が持つ財産、及びその者達に公的に与えられ割当てられた土地を所有、占有、利用することが出来る、とされた。その者達に公的に与えられ割当てられた土地が公的に売却される場合は、その土地と同じ面積の別の土地を、ローマ人民のアフリカにおける公有地の中で公的にまだ売却されていない土地を交換として土地売却担当官が与えるものとする。
モムゼンが推定しているのは、ここではその者達との間で課税方法について協議され、取り決めがされた、そういう者達について扱っているのであるということである。私が信じたいのは、ここでは(納税義務のある)公有地の占有人達を扱っていて、その者達について行政の手法においてその所有権が整備され、その結果その者達は納税義務という点において、カルタゴ軍からの脱走兵と同等に扱われたのであるということである。その者達は stipendiarii (後述の文参照)ではない。何故ならばその者達の土地はローマ人民の公有地だからである。土地改革法の Z. 92/ 93 は通常の占有について述べている。そういった土地について公有地の貸借管理人は[その占有を]法的に無効にすることが出来た。監察官による公有地の賃貸しと不安定な公有地の占有への認可が根本的に全く同じことであるのは、ここでは極めて明白である。

納税義務のある所有形態として我々は先の箇所で ager privatus vectigalisque の永代貸借人と取り消し可能な ager publicus の賃借人について見て来た。しかしながら更に別のカテゴリー 100) として存在するのが “stipendiarii” [現金による土地への税の納入を義務付けられた者、そういう土地の占有者]である。

100) しかしながら注釈 99 も参照すること。公共の放牧地についてはここでは扱わない、何故ならばここでは単に色々な所有状態について論じているからである。

この現金による納税を義務付けられた諸ゲマインデについて非常にしばしば耳にする一方で、土地改革法においての表現はゲマインデのことなど何も言っておらず、現金納税を義務付けられた諸個人の土地所有についてのみ言及している 101)。

101) 土地改革法の Z. 77: II]vir, quei ex h. l. factus creatusve erit, is in diebus CL proxsumeis quibus factus creatusve erit, facito, quan[do Xvirei, quei ex] lege Livia factei createive sunt fueruntve, eis hominibus agrum in Africa dederunt adsignaveruntve, quos 78. stipendium || [pro eo agro populo Romano pendere oportet, sei quid eius agri ex h. l. ceivis Romanei esse oportet oportebitve, … de agro, quei publicus populi Romanei in Africa est, tantundem, quantum de agro stipendiario ex h. 1. ceivis] Romanei esse oportet oportebitve, is stipendiarieis det adsignetve idque in formas publicas facito ute[i referatur i(ta) u(tei) e r(e) p(ublica) f(ide)]q(ue) e(i) e(sse) v(idebitur).
[2人委員会は、この法律によって決められ任命されたのであるが、その委員会が決められ任命されてから150日以内に次のことを行わなければならない、つまりリウィウス法≪Lex Livia de coloniis deducendis(植民市建設についてのリウィウス法)、BC122年≫によって決定・任命されているかされていた10人委員会が、アフリカにおいて土地を与え割当てた者達について、その者達の土地がこの法律によってローマの人民のものとされるか、あるいはされていた場合は、その土地について税金をローマの人民に対して支払うことを義務付け、…≪もしその者達の土地が何らかの理由で没収された場合は≫ その土地がアフリカにあるローマ人民の公有地である場合、その税金分に相当する大きさの土地医をそれらの納税義務者に与え割当て、そして公共の測量図に記録し、公益と信義の観点から適切に実施されるようにしなかればならない。]

こういった所有関係についての法的な所有権を確認しようとした場合、まず最初に受ける印象は、この税金付きの土地の仕組みが、公有地売却担当官による公有地賃貸しのために使われる公有地の利用促進を目的として構築されたのではない、ということである。私がそこから考えたのは、この種の課税は一般論として公有地に対する使用料ではなく、純粋な土地税として理解すべきであろう、ということである。他面、次のことは疑いようもなく確かである。つまりこの種の税金付きの土地の法律上の所有権がローマ人民に属している、と見なし得る、ということである。というのも土地改革法で規定されているのは、この種の土地については部分的には売却と割当てによって処理されるということで、そのためこの土地の所有状態については[永代貸借が多くの場合認められていた]ager privatus vectigalisque とは反対に、いつでも取り消されることが可能だった、ということであり、そこから結果として出て来たことは、まず第一に、土地改革法の規定によればこの種の耕地については公的な測量図を作成して登録しなければならないという義務である。補足的に書かれている”utei e re publica fideque ei esse videbitur” [公益と信義の観点から]という表現から考えられることは、測量図の作成については十分な慎重さをもって行う必要性があったであろう、ということである。実際には、通常の測量方法であるケントゥリアを使ったものはこの場合は採用されていなかった。先の箇所(第1章)で既に測量の方法については論じて来たが、ここで言及されている測量の方式が per extremitatem mensura comprehendere [全面積が測量されているが区画に分けられておらず、その境界が自然物{川など}による土地]であり 102)、その場合はより広範囲での耕地の法的な定義付けがおそらくは地図上に記録されている可能性がある。

102) フロンティヌス p. 5, 6 : eadem ratione et privatorum agrorum aguntur. [同じ方法で個人所有の土地の測量も行われる。]

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