「ローマ土地制度史」の日本語訳(28)P.188~191

「ローマ土地制度史」日本語訳の第28回です。ここではいわゆる不動産への抵当権設定というのがローマでどのように導入されたかが議論されます。それが最初は公共団体がレンテンカウフのやり方で課税することから始まっているというのは興味深いです。考えてみると我々も不動産を持っていると固定資産税という形での「永久金」を国に支払わなければなりませんが、この起源は古代ローマな訳です。
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ローマにおける不動産信用

国家においての信用保証は、良く知られているように保証人(praedes)によってかあるいは不動産(praedia)によって行われねばならなかった。praedia による信用保証は考え得る限りもっとも簡単な形で行われた:抵当に入れられるべき不動産に対する、その取引きに参加する者からの口頭での説明に基づいた公職人による保証という形でである。その不動産についてのもっとも新しい所有権者であるという証明は、その本人によって、ケンススにおいての申告と同様に、つまり確からしく思われるのは測量地図と Manzipation においての各種書類、あるいは単純にケンススの登録リストを参照して確実に行われていた。更に考えられるのは、ただクイリーテース所有権の場合のみ公職人の保証が与えられることが出来たということであり、善意による取引きの2形態≪クイリーテース所有権の土地とボニタリー所有権の土地の取引き≫の実務における違いをここでも確認出来る。praedia patria、つまり相続した家族が所有する不動産であるが、それは優先権を与えられて取り扱われた 87)。その理由は、頻繁な不動産取引と、またケンススの登録は土地区画に対して Usukapion が行われたことにより、本当の所有者について必ずしも常に信用出来る情報を提供出来なかったためであり、「古くからの確かな不動産」が担保設定の対象物としてその地位を高めたのであり、それは Usukaio pro herede≪既出≫がもたらしたものと同じであり、それの公的な人間関係での意義については既に述べて来たが、相続ということが所有においての最良の理由付けだったのである 88)。

87) ただ相続された土地 [ager patrius]のみが一般的に優先権を与えられていたことは lex agraria 28の1においては何の説明も無い。逆にそこでの表現の仕方は、次の事を示唆しているように思われる。つまり相続遺産による担保は、他の農民との関係で許可されていた担保一般の中のある特別なケースに過ぎなかった、ということである。次のことは考えられる。つまり抵当設定しようとしている土地の面積とその抵当が担保しようとしている金額の比率は、相続遺産の場合は他の場合の土地所有よりも有利に計算されたのだと。

88) 土地所有に関しての権利関係が複雑または不透明であった所では、至る所で同様のことが起きていた。例えばイングランドでは、相続によって自己の権利を守ろうとする請求者の seien ≪イングランドでの封建制の下での占有地≫がそれ故権利的にはもっとも強いものであった。

不動産による保証は完全に抵当権設定としての効力を持っていたのであり、更には私有地の売却を通じて――多くの場合購買を頻繁に行う者の不確実な債務保証について――譲渡可能性が欠けている他の債務保証の方法とは反対に、実現可能性が高いものとして優先的に採用されていた。こういった洗練されたやり方での不動産抵当の構成は、それはもちろん債務保証を行う公職人である監察官に関係することであるが、それを唯一の公的な登録であるケンススのリストに依存するやり方、それは個人所有の不動産信用において利用可能ではあったが、不動産抵当と比べると、後者はより貧弱なやり方という印象を受ける。より古い時代において存在していたのはただ mancipatio fiduciae causa ≪担保の目的で自己の所有権を相手に一時的に渡すこと≫だけであり、それはつまりクイリーテース所有権の引き渡しであり、抵当権設定者(債権者)に対してケンススの登録に基きまた私法における第三者との関係に基いて所有権者がその権利を第三者に提供出来るようにしたものである。その後にボニタリー所有権による動産抵当(質権)が登場し、最終的にはギリシアから伝わった不動産に対する抵当権が使用されるようになった。これについては望ましい権利形態として使われるようになったが、この形式を利用した個々人の行為は公的な登録[であるケンスス]と無関係に行われており、そして債務と所有権の関係の不透明性によって、規制の元での現物信用を目的とするものではなく 89)、それは例えば土地改良のための融資や、何らかの意味のある範囲での利子付き抵当を利用した資本投下が可能にしたであろうやり方とは違っていた。

89) 債権者が不動産の獲得についての証拠書類を提出してもらうこと≪だけ≫を保証されていたとしたら、その場合債務者は再び、D. 43 de pigneraticia actione [抵当設定行為について](13、7)が規定しているように、事実上は不動産を譲渡する以外は出来なかったであろうし、そして債務者の状態は、一時的な抵当とより古い時代の無定形な質契約が可能にしていたものと比べて不確実なものに留まっていた。

後の時代の pignora publica ≪公的な債務についての担保≫と quasi publica ≪準公的な債務、例えば公共性がある事業に使う資金への担保≫に対してもまだ十分な保護は与えられておらず、いずれにせよその状態については≪ヴェーバーの時代の≫今日のフランスにおける現物信用のレベルに留まっており、そのフランスの場合では良く知られているように、古代ローマと同じような理由から「確かなデータ」付きの証拠書類が重要な役を演じているのである。ここにおいて有用であったのは単に次の手段のみであった。その手段とは一方では個人の財産について、その所有する不動産に対して利子付きの資本を何かの目的で(多くの場合は公共への寄付としての何かの建造)調達するために担保設定し、そして他方では諸ゲマインデがその所有する資本を確実に利子を得る目的で投下しようと欲し、その手段を利用した 90)――つまり利子払いの条件でゲマインデの地所を個人の財産へと引き渡し、その地所を得る個人に対して永久に支払い続ける地代[Rente]を ager vectigalis[課税付きの土地]として希望する利子を課して返済の義務を負わせたのである。≪このゲマインデの例はいわゆる Rentenkauf と同じである。初期の Rentenkauf は説明されているように支払う利子が本体の償還に及ばず、永遠に払い続けなければならず。Ewiggeld[永久金]と呼ばれた。≫それからゲマインデは「最初の抵当」をこの(永久払いの)利子に対して持つことになったのであるが、その成果はただ地所を ager optiomo jure privatus ≪既出≫から除外することのみによって達成されることになっていた。個人の債務者は、我々が知る限りでは、この手段を利用することは出来なかった。何故ならば課税のために土地を貸すことは国家の特別権だったからであり、そしてローマの国家と皇帝以外では、ただ諸ゲマインデのみがその昔日の主権 91) の名残りとしてこの権利を許されていた。

90) 小プリニウス書簡集7, 18、C.I.L.、 X5853、更にポンペイ住民による税受領書No.125と126、Hermes XII p.88f のモムゼンによる注釈を参照。

91) しかし実際に主権をかつて持っていた諸ゲマインデ(ムニキピウム)だけでなく、また諸コロニアでも(それ故ポンペイが入る)論証出来ることとして、課税目的での土地貸付けが可能となっていた。後者はしかし間違いなく特別権授与の結果であり、それはもしかするとカエサルによる lex minicipalis によるものかもしれない。

ager privatus の物的負担と地役権との関係

こういった[不動産に関する]権利状態によって、地所に対する継続的な抵当権設定の負担について、今日我々≪ヴェーバー当時≫において可能でありかつ事実上使われているやり方≪例えば土地を担保に金融機関などからお金を借りて家やビルや工場などを建てること≫が除外されていた。既に見て来たように、このことによってまた、土地所有者がその土地を流動化しやすい資本として利用出来るように解放されるということが全く行われてなかったとしたら、そうではなくむしろ全く逆のことが起きていた場合――土地所有がなるほど抵当権設定の対象物であったとしてもそれは単なる投機目的のためのものであり、その土地所有自体には資本流入という形で信用が与えられて利用出来るということにはならずに――、しかしその場合でも次のことは達成されたのである。つまりローマにおける不動産信用が動産信用と比べて法的にも経済的にも原則的には違いが無かったということと、今日の我々において事実上起きているような、最も強い所有権を持っている土地に対しての地代・地租納入義務を課されることを避けることが出来た、ということである。このことが実際の所本質的なことなのであり、ある一般的な因果関係に基づいているのである。もし誰かがローマ市民においては、ドイツの物的負担に相当する仕組みが知られていないと主張するならば、そのことについては次章で論じられるが、全く正しくないかあるいはまたひょっとしたら次の場合においてだけ正しく、つまりローマにおいてある者がもっとも強い所有権を持っている耕地に対して、私人間の法律行為としてのそのような負担を受け入れることが出来なかった場合であるか、あるいはまたそういった負担をその土地に適用するというということが、その土地のカテゴリーにおいては認められていなかった、それは既に我々は見てきているが、そういう場合である 92)。

92) 更に言えば、こうした考え方の中には、人が最初にそれを少しだけ見た時に思うであろう、より正しい考えが含まれている。ロードベルトゥスの土地所有の永久地代[Renten]の形での債務負担の考えは、その債務を負担する土地について対応した captis deminutio ≪法的な地位の悪い方への変更≫が無く、相続や譲渡に関連したもので、今日から見るとユートピア的なものである。このことは明確で実務的な把握の仕方として、もっとも輝かしい印の一つであり、その把握の仕方はポーゼン西プロイセン州の入植者受け入れ委員会が、通常の Rentengutsvertrag≪土地を譲渡せずに使用だけを許し一定期間定期賃料=Rentenを支払ってもらうもの≫§8 Abs 3(その規定は「また相続に関しての」もの)(プロイセン衆議院の1889年No.42の草案XIIIの印刷物)において、結論としている把握の仕方である。≪つまりローマでのやり方と全く同じ Renten の支払いを条件とする土地譲渡がヴェーバーの時代のプロイセン他で行われていた。またついでに言えば、ドイツでの農奴解放も、レンテン銀行が農奴に融資して地主から買った農地が農奴に与えられ、その農奴が一定期間 Renten を支払うとその土地がその農奴のものになった、ということが行われている。≫

イタリアにおける土地制度史においていつも見られる状態とは、これらの土地の種別を拡張していくという歴史と共にあるということであり、その結果として我我が参照している文献史料はただその種別についてのみ言及しているということになっている。

cuius nomen expenditur の訳

久しぶりに「中世合名・合資会社成立史」ネタ。前から気になっていた、合名会社の商号に出資者の名前が入るという意味での表現で”cuius nomen expenditur”というのがあって、私は「その者の名前が(重要な情報として)載っている」と訳しました。これが本当に正しいかずっと気になっていたのですが、ChatGPT4oに今日確認してみたら、ChatGPT4oも賛成してくれました!
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中世の合名会社の発祥に関する議論で、初期の「商号」(=出資者の名前を全て列挙したもの、つまり合名)で”cuius nomen expenditur”という表現が出て来ます。ここでのexpenditurはどういう意味ですか?私は「(重要な情報として)そこに載せられている」と解釈しました。

ChatGPT

「expenditur」というラテン語の語源と文脈から、あなたの解釈「(重要な情報として)そこに載せられている」は適切です。

「expenditur」はラテン語で「支払う」や「使う」を意味する「expendere」から派生していますが、文脈によっては「評価される」、「考慮される」、「掲げられる」といった意味にもなります。ここでは、出資者の名前が商号として重要な情報としてリストアップされ、考慮されるという意味で使われていると考えられます。

したがって、「cuius nomen expenditur」は「その名前が(重要な情報として)掲げられる」や「その名前が商号として掲示される」といった意味になります

「ローマ土地制度史」の日本語訳(27)P.184~187

ローマ土地制度史」の日本語訳の第27回目です。ついにというか、ヴェーバーが学説彙纂の時代の法文のあるものの一部を後からの変造であると決めつけ、実際にはそれが元々の法文から存在している、という例が出て来ました。この章全体で、ローマが成立する前にゲノッセンシャフトやフーフェが行われていたと決めつけたり、ヴェーバーの勇み足とでもいう議論が目立ちます。
なお、「中世合名・合資会社成立史」の訳の時は、昔貿易をやっていた経験が役立ちましたが、今回の場合は宅建を取っていて不動産取引の経験も多少あることが役に立っています。
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フーフェの基本法に対しての決定的な違反

それ故に Usukapion がより古い時代の土地に関しての基本法に対しての原理的な違反だとしたら、どのようにそれが共通経済においての争いの調停においてまず第一に作り出されねばならなかったかは、それは次のことが起きるや否や、より最終的かつ決定的なケースとして作り出されていたのである。そのこととは、それまで独立していた諸ゲマインデとその領域が、それらは元々ローマの法原則に従って分割されたりも割当てられたりもしていなかったのであるが、それらが[ローマの]完全市民の団体の耕地の中に取り込まれ、ローマの土地法の管轄下に置かれケンススに登録されるようになった、そういうことが起きた時である。半市民≪ムニキピウムの住民でローマの市民権が与えられたが、投票権までは与えられなかった者。モムゼンがそう命名した。≫の諸ゲマインデにおいては周知の通りこういった違反は起きていなかった:カエレ≪現代のチェルヴェートリ。ローマとエトルリアの戦争でエトルリア側に付き、BC353年にローマに併合され、その市民に半市民権が与えられたという説がある。≫の耕地は、その住民への投票権無き市民権[civitas sine suffragio]の付与によってケンススの登録の対象にはならず、いずれにせよその地における土地所有者が完全市民[adsidui]の団体の中へと、つまり土地トリブスの一員とはされなかったという意味であり、カエレ人の表[Tabulae Caeritum]≪ローマ市民で懲罰の結果その投票権を剥奪された者のリストをこう呼んだ。≫はトリブスのケンスス登録の外側において作られていた。また別のこととして、そういったゲマインデは、シュノイキスモス≪古代ギリシアでポリスが村落の合併によって発生したこと≫を発生させることなく、完全にローマ社会の中に組み込まれ消失したのである。そのような[シュノイキスモスを発生させた]ゲマインデの例としては、それはまたローマへの同化の時期がはっきりしていない場合であるが、そうはいっても最古の例の一つであるが――例えばガビイ≪ローマ東方20Kmの古代ラテン都市。BC5C頃ローマと同盟関係になった。≫であり、それは十二表法が作られた後ではもはや主権を持ったラテン都市国家としては機能しておらず、それについては多くのことが知られ、何故ならば彼らは血統の違う氏族としては扱われておらず、また半市民のゲマインデでも無かったからである。しかしその一方で彼らの耕地が取上げられたり、または Viritanassignation ≪既出≫の対象になったということも逆に何も知られていないのであるが。ここにおいては――そしてより後代の同様のケースにおいては、さらにはまた半市民が完全市民の団体に編入された際においても――そこの耕地は耕地測量の観点では ager arcifinius ≪既出≫であったのに違いなく、ケンススやローマで取引上使用される書式に関して対象外とされたのであり、そしてこのことが間違いなくウァッロー≪既出≫による土地の種類の分類(1. L. 5, 33)が導入された理由に違いない:Romanus[ローマの土地]、Gabinas[ガビイの土地]、peregrinus[外国人の土地]、hosticus[敵国の土地]、incertus[不確定の土地]84)。

84) 私はこの5つのカテゴリーは次のことを意味していると考えたい。ager Romanus はつまり割当てられた土地であり、ager Gabinus は完全な地権はあるが未測量・未割り当ての耕地、ager peregrinus は同盟している国々の耕地、ager hosticus はカテゴリー上は最後に来るもので、それはローマと[同盟関係にはないが]通商関係にあった国に属する耕地であり、そして最後に ager incertus は法的にはローマに支配されていない外国の耕地である。ager Gabinus の予期される比較劣位の状態は、境界線が設定されておらず割り当てもされていないことと関係がある。この名称は「カエレ人の」表と似たような言い回しである。――ガビイが u.c. 331または375年において既に市民ゲマインデであったということは、ベロッホ≪Karl Julius Beloch、1854~1929年、ドイツの古代史家。≫が主張したように、これらの年において、Antistii ≪Antistia gens、ガビイ出身とされる平民の氏族の一つ≫が、それは碑文によればガビイ出身の氏族であるが、ローマにおいて公職者として言及されている、ということと適合している。しかしもちろんこのことは完全な論証にはなっていない。

ローマ式のやり方で割り当てられた耕地が、また金額としても評価され登録されることが許されるようになり、また Uskapion によって獲得された土地区画が同様に特別な金銭評価を許されたということから 85)、ケンススへの登録の許可を得ることもそれ自体困難なことではなくなっていた。

85) 金銭評価に基づいた土地台帳の作成は、土地区画への Usukapion の許可と長期的に見た土地割り当て原則の廃止という観点で必要性のあることであった。(もちろんそれらは、だからといって金銭評価による土地台帳作成の例えば唯一のとか、またはもっとも本質的な理由ではなく、多くの中の一つである。)

いまやしかし、ケンススへの登録が可能になったということの結果はまた、元々伝統的に必要とされていた諸手続きを全て度外視するような[新たな]引き渡し形態にはほとんど適合していない[昔からのフーフェの]耕地に対して、Manzipation をその購買に適用出来るということでもある。もしかするとより古い時代のボニタリー所有権を保護するためのプブリクスの布告は、まさにその種の耕地をローマの耕地領域に収容することを目的として発布されたのかもしれない。いずれにせよこれらのことが示しているのは、[土地における]locus 原理の広範囲での勝利であり――、それは先に論じたその表現の意味においてであるが――、それは測量人達が ager arcifinius を controversia de loco の本来の発祥地として取り扱っていることからも裏付けられる。ローマの土地法を借用して ager arcifinius に適用することは、そこからさらにはるか先に進むこととなり、もっとも広範に行われたのが u.c. 643年の土地改革法によってであり、それは ager publicus に対する所有のあり方を変更したのであるが、また別の機会は同盟市戦争の結果としてであり、その際には完全市民団体に収容された同盟市における全ての耕地を、ager optimo jure privatus ≪クイリーテース所有権を持つ、もっとも強い所有権が与えられた土地≫に変えたのである。

controversia de modo と(ここでそう名付けた)面積原則は、おそらくBC1世紀においての暴力的な Viritanassignation ≪既出≫を経験する前に、実務的には行われなくなったのではないだろうか。Manzipation はかつては、それについては既に見て来たように、面積としての土地を売買することを可能にする手段で、それは[ヴェーバー当時の]我々が株の信用取引でその時々の相場価格で取引きするのと同じで、それは言ってみるなら手間はかかるがある種の儀式性を持った制度として、AD337年のコンスタンティヌス大帝による法(C. Th. 2 §1 de contrahenda emptione [売買契約について]3,1) 86) が、今後は[土地は]面積と所有権に基づくという以外のやり方で、隣人による境界線の証明に準拠して売却される、として Manzipation を禁止するまでは存続したのである。ここでの儀式性という意味は、それが土地取引における何かの抜け道的なやり方[in exquisitis cuniculis]として理解されるべきではない。

86) 売却の儀式性という意味についてはあまり穿った見方をすべきではない。というのもそれは、それまで確かでかつ真正な所有権が、つまり確かな面積[certus modus]の反対である特定の土地領域が、その隣人によってそのことが証明された――つまり測量や境界を示す杭打ちによって土地の場所、正確な位置が証明されたということを意味するからであろうからである。実質的にはそれ故その関係性はいまや逆になっているのである:元々は測量というものは測量人によって売却の後に行われていたのが、いまや先行して行われなければならなくなったのである。”a vicinius demonstretur” [隣人によって証明された]というのは、まず隣人への照会とその承認に基づいて、売却者に対してその隣人によって確認された境界線の内部の土地の売却を認可するということを関連付けたという意味であろうし、実際にその可能性がある。しかしまた別の可能性としては、たとえこの表現が言葉の上では強制的な響きを持つとしても、それが意味するのは、ただ境界線は “a vicinius” [隣人によって]、つまり隣人の土地区画の境界線からその土地の境界線が確認されるというだけのことであり――それ故に私はここの意味を別にこう読むべきと解釈した。≪どう解釈したかは欠落。全集の注によれば「隣人からの情報に基づいて」≫この部分に続くのは以下のようになっている――ここは土地制度全体の目的として本質的な部分であるが――”usque eo legis istius cautione decurrente, ut etiamsi [subsellia vel ut vulgo aiunt] scamna vendantur, ostendendae proprietatis probatio compleatur” [それ故その法律の規定が適用される場合は常に、もし[subsellia [テーブル状の土地、測量人達の呼び方]または一般的な言い方では]scamna [と strigas で囲まれた土地]が売却される場合であっても、所有権の証拠が示されねばならない。]ここでの話は、subsellien の売却についてではないということは明らかであり、[]内の部分は疑い無く写字人≪法令を複写した人≫による文法的な解釈としての改竄であることは間違いない。≪全集の注によれば、この[]内の部分はオリジナルの法文に既に存在しており、ヴェーバーのここでの決めつけは間違い。ここもヴェーバー当時の学説彙纂の法文の多くの箇所が書き換えられているという誤った先入観による間違いの例。subsellia と scamna はここでは同じものを指している。≫そうではなくて、ここで述べられているのは、ager scamnatus 、つまり境界線が測量地図上にはっきりと描かれている地所の売却についてであり、それ故に “certa proprietas” [はっきりした所有権]と書かれており、それ故に法律の公布の理由について――テキストを参照――この ager scamnatus と同等の他の土地にも適用されたということは整合的ではなく、ここで語られてもいない。コンスタンティヌス大帝の時代においては土地についての課税上の観点からの様々な分類がもはや実用的なものではなくなっており、それ故また他の新しい観点による分類を使って統一されていた。――controversia de modo は特別な手続きとしては C. Th. 4. 5. の finium regundorum [境界線の確定]2, 26 (AD392年)によって廃止されており、その法令では locus は finis [境界線]の反対概念として、例えばフロンティヌスの p. 9. 2 などで書かれていた。

ローマにおける不動産取引

こうした[面積としての土地を売却するための手段という]動機付けは、Manzipationとその本質にとって特徴的なことであった。何故ならば実務的にはその意義は実際、人が自分の好む場所で、7人のローマ市民の証人≪実際は5人の証人と1人の秤持ちの合計6人≫を集めることが出来れば、[古代]イタリアの土地を、それがローマの領土[orbis terrorum]である限り、売却することが出来る、ということにあったからである。その結果として起きたことは、こういった面積ベースでの土地の売却においては、時によっては売却者が実際に所有している土地の面積以上の面積が売却されることがあったということであり、それはまさに[ローマの国による]面積単位での土地割り当ての結果起きたことと同じであり、例としては C. グラックスによる騒乱を巻き起こしたカルタゴの土地の割り当てにおいては、1ケントゥリアにおいて[多くの場合]その中に存在する以上の面積が割当てられたのである。――しかしこれらの Manzipation のもっとも重要な特性が引き起こした結果で主要なものは、ローマにおける不動産取引をある程度まで活性化させることが出来たということであり、このことはこの後の時代でも前の時代でもまたどこの場所においても二度と起きることがなかった。人はそこでは耕地図とケンススへの登録証を所持していた場合、この双方が ager assignatus における所有関係の情報を提供したのであり、そしてまたボニタリー所有権に関してもある一定の根拠となるものを提供したのであり、そして公的な小規模小作地の競売と、ager quaetorius ≪既出≫として[国の借金の返済の代わりとして]譲渡される土地の競売においても使われ、その結果はローマを世界の不動産取引所にしたのである。ここでは「取引所」という単語を自信を持って使うことが出来る。何故ならば 1.5 D. si mensor falsum modum dixerit 11, 1≪実際は11, 6≫(前掲のp. 168 ≪日本語訳 p. xxx≫参照)において、不動産の先物取引について詳細に語られている場合があるからであり、そして同様のものが lex commissoria ≪契約の不履行時の罰を規定している法律≫に基づいた取引の場合にも見られるし、そして “in diem addictio” ≪売主がある者と売却の契約をした場合に、一定の期間内により高い価格の買主が現れた場合は、元の買主との契約を取り消すことが出きる取引≫は、買主が契約解除の許可の取り決めに関して直接または間接に契約解除による返金を認めるので、実質的にそれは[ヴェーバー当時の現代の]取引所規則に定められた不動産におけるオプション取引とほぼ変わらない。≪オプション取引が正式な制度となるのは1980年代始めであるが、歴史的には既に例えばロンドンの取引所で17世紀末には行われていた。ヴェーバーはこの論文の3年後に「取引所」という労働者向けの解説書を出しており、取引所についてはこの論文時点でも相当程度精通していたと思われる。≫

しかしより本質的なことは、ローマはまた特別な場所で、そこにおいてローマにおいての土地の所有権についての特別なやり方による価値評価の機会が提供されたということであり、それについては言及済みである:つまり、国による[土地の]賃貸しや[民間のソキエタースなどに]何かを請け負わせる際の抵当設定としての利用である。全体的な法の発展に対してのローマの行政法の意義という点において、この抵当設定ほど特徴的なものは他にはほぼ存在しない。それはこの抵当の制度の実行においての手続きと、個人の物的信用の権利形態との比較という観点としてである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(26)P.180~183

ローマ土地制度史」の日本語訳の第26回目です。今回のも苦労しました。ただでさえラテン語というのは簡潔に書かれすぎていて、文脈によって色々な意味に訳せるのですが、それに加えてヴェーバーは原文が編集者によって改変されていた可能性を指摘していますので、余計に訳が分らなくなっています。注釈でも書きましたが、この当時のロマニステンの法学者達は、学説彙纂のローマ法の法文がその当時の編集者によって多くの箇所で改変されたと思い込んでおり、ヴェーバーも当然そういう偏見を持った上でここを解釈しようとしています。
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というのは土地法のあるもっとも重要な適用領域において、所有の手続きはただ単なる一時的な決定のみだけではなく、公有地に関しての確定的な処置も生み出したのである。この領域においては面積の概念は登場せず従ってクイリーテース所有権も登場せず、ただ”locus”[その土地の場所]のみが扱われており、それ故に法的手段としてはただ”locus”を保護しようとするもののみが登場するのである:つまりそれが所有に関する禁止命令である。これに対して個人に割当てられた土地[ager assignatus]についてそれと根本的に対立しているのは、フーフェの権利総体に対して適用される legis actio sacrament ex jure Quiritium [クイリーテース法に基づく供託金付きの裁判≪双方が供託金を出して、敗訴した方はそれを国家に没収される裁判≫]が対象とする fundus という点から見てであるが:ある法的手段であってフーフェの権利に基づく所有状態に対応する個々人の持つ土地面積を新たに規制したもの:つまり controversia de modo であるが、――そして別の法的手段で土地の場所[locus]とその面積でそれらを個々人が耕作していたものを保護していたものがあるが、しかし当然のこととして、ここでの locus とは法的にはただ土地の面積の射影に過ぎなく一時的な性格のものであるとされた限りにおいて、その面積の請求権に基づいた決定的な土地の境界線の再調整は留保されたままとなった:つまりそれが所有に関する禁止命令である。この所有に関する禁止命令と面積に関する争いの関係は、その後帝政期になっても尚同様のままであった。それについては、次の紀元330年のコンスタンティヌスの定め [konstitution konstantins] ≪コンスタンティヌス帝がローマ教会にローマを寄進するという内容の寄進状。後世に作られた偽書であることが分っている。ヴェーバーのここでの引用は Codex Justinianus(勅法彙纂)より。≫が定めている通りである:C. Theod. 1 finium regendorum [支配している(土地の)境界線の]II, 26 (= C. Just. 3 の先に引用した箇所 III, 39 76) ):
Si quis super invasis sui juris locis prior detulerit querimoniam, quae finali cohaeret cum proprietate controversiae, prius super possessione quaestio firiatur et tunc agrimensor ire praecipiatur ad loca, ut patefacta veritate hujus modi litigium terminetur. Quodsi altera pars, locorum adepta dominium, subterfugiendo moras altulerit, ne possit controversia definiri ad locorum ordines, directus agrimensor dirigatur ad loca et si fidelis inspectio tenentis locum esse probaverit, petitor victus abscedat, etsi controversia ejus claruerit qui prius detulerit causam, ut invasor ille poenae teneatur addictus, si tamen ea loca eundem invasisse constiterit; nam si per errorem aut incuriam domini loca dicta ab aliis possessa sunt, ipsis solis cedere debeant.
[もし誰か≪元々の土地の所有者だったのが別の者にその土地を占有された者≫が自分の土地の所有権について先行して訴えを起していた場合、その訴えが境界線と所有権に関するものである場合は、まず所有に関する調査が行われ、その後に測量人がその面積の争いについて判明した事実によって境界線を確定させるために任命される。もし他方の当事者≪何らかの理由でその土地を占有して使用していた者≫がその土地について(占有によって)獲得したとする所有権について、訴訟の結果が元の所有者のその土地の所有の継続という判決にならないように、裁判を遅延させるような行為を行った場合には、任命された測量人はその土地についての調停を行い、もしその土地についての調査の信用性が認定された場合には、訴訟を起した者≪元々の≫は相手≪占有者≫を打ち負かすことを放棄する。しかしながらその訴えにおいては、それにもかかわらず相手方≪占有者≫がその土地の(不法)侵入を行っていたことが確認された場合は、まずはその侵入者を罰するという裁判が行われることを明確にする。しかしそうはいっても、前述の土地の(元の)所有者が過誤や不注意によってその土地を他人に占有された場合は、その土地はその者に与えられなければならない。]

76) 編集者達はこの法規を次のように改悪している:
Si quis super sui juris locis prior de finibus detulerit quaerimonium, quae proprietatis controversiae cohaeret, prius super possessione quaestio finiatur et tunc agrimensor ire praecipiatur ad loca, ut patefacta veritate hujusmodi litigium terminetur. Quodsi altera pars, ne hujusmodi quaestio terminetur, se subtraxerit, nihilominus agrimensor in ipsis locis jussione rectoris provinciae una cum observante parte hoc ipsum faciens perveniat. —
[もし誰かが自分の所有権について先行して苦情を申し立てた場合、それは所有権に関する訴えであるが、まず所有についての調査が行われ、その後測量人がその土地について判明した事実に基づいて境界線を確定させるために任命される、もし訴訟の相手方が、その土地についての調査で境界線が確定されないようにし、それによって土地が奪われないようにするならば、それにもかかわらず測量人はその者の土地について属州長官の命令に基づき、訴え人の立会いの下でこの土地の調査を行う。]
ここで見てとれるのは、この部分で元々述べられていたことの全く逆になってしまっているということである。しかしもちろん controversia de modo はユスティニアヌス帝の時代には既に長く忘れられたものとなっていた。

編集状態の良くない、あるいはまた改変された可能性もある≪ヴェーバーの時代には、学説彙纂の頃のローマ法文(オリジナルは失われており、全てが多数の法律書の引用から復元されたもの)は、その時代の編集者達が自分達の考えに合わない部分について元の法文を改変したことが多くあったと考えられていた。しかし20世紀になって研究が進むと、この時代での改訂はほとんど誤記の訂正レベルであって、大きな改変は無かったことが確認されている。従ってヴェーバーのこの種の記述は割り引いて読む必要がある。≫この部分の意味についての私の見解は以下の通りである:ここで扱われているのは2つの訴訟であり、2人の間で争われ、それぞれの測量された土地が隣接しているのであり:なので controversia de loco なのであるが、それはしかしこの引用箇所が全体で明確に述べているように、(問題とされているのは)所有に至ったプロセスと手続きであり、”finibus de proprietate controversia”[境界線と所有権に関する争い]としてであり――というのはこれこそがこの毀損した関係詞句 77) の言わんとした意味として書かれているということである。この所有権についての争いは明らかなこととして、当時しばしば実務的な controversia de modo としては描写されていなかったに違いなく、それは帝政期においてはよりむしろ境界の一辺の長さが5もしくは6ローマフィート≪1ローマフィートは約30cm≫を超えるものについての境界線確定訴訟の拡大版として把握されていた。何故ならば境界線と所有権の争いの双方で境界線を新たに引き直すことが手続きの目的であったからである 78)。

77) 私見ではこの部分は次のように読むべきである:”quae cum finali cohaeret de proprietate controversia.”[その苦情は境界線に関係した所有権についての争いである。]

78) controversia de modo が境界線に関しての訴えと同じではなく、例えばそれについてのある特別なケースのようなものである、ということは明らかである。というのは境界線の訴訟は土地の面積の割り当てを目的としておらず、そしてまた土地の割り当てが行われる前にそれが問題になることもないからである。しかし後になって面積についての訴訟が単に例外的にどのような場合にも利用出来る手続きになった時には、controversia de modo はもちろん、というのは原則的にそれは現実の土地の境界線の引き直しを目的としていたからであり、容易に幅5または6ローマフィートを超える大きさの土地を対象にした境界線訴訟の拡張版として把握されたのであり、それが実際に起きたことなのである。境界線訴訟と controversia de modo を区別するもう一つのことは、前者に対しては Uskapion が適用されることはなかった、ということである。

訴訟の片側が所有に関する訴えを行っていて、もう片側はそれに対し土地の面積を決める手続きをどう行ったかについての訴えとしてそれに対抗して回答しているが、――ここでの問題は:この両方の側は双方が原則的にお互いに排他的な関係にある訴訟でどう振るまったのか、またそれは単純に所有に関する争いとして展開されたのかどうか、何故ならばその決着として、新しい測量が既にそこで提案されていても、しかし実際はそれが(なかなか)行われれなかったからであるから(そういう疑問が起きるの)であるが。それについての答えは:どのような場合もまずは所有に関しての争いがまず行われたということである。それから測量人は問題となっている場所に赴き、土地の継続的所有について、つまり測量地図とそれに付随する書類をあたって、関係者の各方それぞれに帰属すべき土地の面積を調査する。所有についての争いで勝った方が――つまりその土地についての所有権[locorum adepta dominium]79)を獲得した方が――controversia de modo の面積に関する争いの進行を遅延させる場合は、直ちに測量人が派遣され、所有についての争いでは負けた元々の所有者[tenens]に対して、係争中の面積については controversia de modo の基本原則に従って判決が出されねばならないということを明らかにする。そのため所有に関する争いで訴えた方[petitor]は(etsi controversia ejus clarueit qui prior detulerit [しかしその訴えは先行して行われたことを明らかにする])調査においては勝者となっても、(所有権の争いでは)敗訴した者として扱われ、もし悪意での行為が認められた場合には、その土地を返還するだけでなく罰金(fructuum-Lizitationssumme [その土地から得られる収益相当の競売価格]など)が課される判決を受けた。禁止命令を誘発したもの、つまり通常の(土地の)返還請求と controversia de modo は、それ故争いの双方にとって異なったやり方であり、(それでも)同じ結果を目的とするものであり、その2つの内から人は訴訟において、あくまで実務的に見てどちらかのより良く自分の訴訟の役に立つ方を選ぶのである 80)。

79) ここで意味するのは:所有の不正確な表現から、ここで対立しているのは単に2つの並行して行われる訴訟の対象物である:面積と具体的地所、が想定されていることが分る。

80) シクラス・フラックスの既に引用済みの書籍のp.44を参照せよ。

ここで土地区画の時効取得が許可される前の権利状態について想定してみれば、その場合土地区画を借用[precario]の形で保持している場合は、第三者に対してはその所有は保護されたが、その土地の貸主に対しての所有権の保護は無かった 81)。

81) 次のことはローマ法の所有に関する法規の本質的に積極的な性格を確かに表している。それは暴力によるか秘密裏での所有権の獲得に並記して、不正な所有[vitium possessionis]としてまた地主から借りている土地についてもそれに該当するとしており、そしてそのことから万一の場合には、所有に至った経緯について詳細に述べる必要があり、このことが所有ということが「純粋に仮構的な」性格を元々その中に持っていたということを十分に証拠付けるものである;――後にはもちろん、法律化によって所有を法的概念として定式化することが試みられたが、しかしそれは、古い所有の権利がその実務的な意味において、もはや識別することが困難になるほど変化した後に、ようやく行われた。

それ以外の方法である土地区画を獲得した者は、フーフェの農民に対しては同様に無権利なのであり。その土地の本来の支配者のみがケンススに拠れば占有者であった。その場合、その者が使用出来た手段としては新たな測量(controversia de modo)を提議することによってその土地区画の所有者を排除することであり 82)、またそれ以外には、純粋に法の上では[de jure]、その土地の支配者の自力での干渉に対抗して、所有権についての暴力による獲得と秘密裏の獲得の禁止を利用し、その土地区画を再び入手することが出来た。そしてその際に2つの概念の実務的に重要なケース一般への周知の拡張可能性によって、その者が前年においてその土地の占有者であったことが証明出来る場合は、つまりは前会計年度においてその者が耕作を行っていたその程度に応じて保護されたのである。つまりそれによって次のことに対してのあらかじめの配慮がなされていた。それはその者が手続きの瑕疵が無くかつ不正手段によってでもなく[ohne vitium possessionis]入手した土地からの収穫物を自分のものとすることが出来たということである。Uskapion を行使することによる所有権の更新は、それ故ただその土地区画の獲得が正当な権原によってなされていた場合、その者は2年後に、元の所有者による排除行為に対しては新しく測量をやり直すという手段でその権利を守り、最終的にクイリーテース所有権者となったのである。それ故に、ある地面の獲得の保護に関連することは、より古い時代にはイェーリング≪Rudolf von Jhering, 1818~1892年、ドイツの法学者、ローマ法研究家≫の次の表現がその文字通りに正当である。つまり占有の保護は所有の保護より先行する、ということである。

さて、ここで面積原則がたどった運命についての観察に再度立ち帰ってみることにしよう 83)。

82) こういった権利状態はドイツにおける角形の耕地[Gewannfluren]での各 Stufland ≪既出≫の個別の所有権を認めるのに先立った Reebning ≪既出≫(とそれに伴った新規の土地割り当て)の手続きにおけるものと全く同様の所に位置している。フーフェの農民で、ある土地区画を切り離して売却した者は――我々が遡ってみることが出来る範囲での古い時代ではいずれの場合でもそれの前提となっていたのは――その土地区画を買った者を簡単には排除出来ずまたその土地も買い戻すことが出来ない、ということである。しかし獲得した土地(を含む一帯)について新規の測量が提案された場合は、その土地もその対象に含めて、買主はその後でフーフェの農民に対して、新規の測量によって新たな境界線が作られ、元々の土地の形状が消失してしまった場合もその土地を購買したという権利を維持し続ける。

83) 同様に本質的な土地制度史上の意味を持っている Interdictum uturbi ≪動産についての占有権の維持命令≫について少しだけ言及してみたい。”Uturbi hic homo majore parte huiusce anni nec vi nec clam nec precario ab altro fuit, quo minus is eum ducat, vim fieri vero.” [この男について今年においてそのほどんどの期間で、暴力によらずまた秘密裏でもなく借用ででもなくその者が所有し、もう一方の者がそうでなかった場合には、もう一方の者がその男を連れ去ることを私は禁ずる。]この命令は土地に関する命令と同じ内容を動産について命じたもので、その動産の中でもっとも重要な物は、標準書式が明らかに示すように、奴隷であった。それ故にそこで問題となったのは、その奴隷がその時点から1年前までの間に、誰の下においてもっとも長く労働を提供したかであった。