ちなみにいきなりChatGPT4oに訳させている訳でなく、まず自分なりに訳してからChatGPT4o訳と比べています。
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「ローマ土地制度史」の日本語訳の第25回目です。今回の箇所もローマ法の所有権に関する専門的な議論が続き、非常に難解で苦労しました。ラテン語の部分はいつも自分でまず訳してからChatGPT4oにも訳させてそれを比べて最終的な訳を決めていますが、今回の禁止令についてChatGPT4oは「あなたかあるいはあなたの家族が誰かを追い出してその土地を占拠した場合」と主語と目的語を逆にした訳にしていました。言うまでもなく、個人とその家族が耕作を行っていたのを、何かの暴力でその土地を取られた場合の救済命令を述べているであり、このように非常に有用な生成AIですが、やはり人間のチェックが必要です。
今回の箇所はドイツ語も難解で、Besitzintermistikum (所有権についての一時的措置)とか Rattenkönig von Sponsionen (複雑にもつれあった保証関係)とかの辞書にも無い語が多く、これらも ChatGPT4o と相談しつつかつWebでも調べて何とか意味を解読しています。
今回の所は特にこの論文が「ローマ法」に関する論文なんだということがはっきりします。ヴェーバーはこの論文によってローマ法の講義資格を得ていますから当然ですが。このことからもこの論文の本題は土地を巡る所有の争いをローマ法がどう解決したかということであり、「農業史」ではないということが分ります。ヴェーバーは「古代社会経済史」で「古代のほとんどすべての社会的な闘争は、究極的には土地所有と土地法をめぐる闘争である。」(日本語訳 P.468)と書いています。(ゲシュペルトを下線に変更)
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(ボニタリー所有権者の土地は)獲得から2年経ってようやく、その土地をケンススに登録する権利が認められ、また個人所有権としての保護の対象となった。こういった全ての措置はただ土地を(面積としてではなく)具体的な区画として購入した場合のみに認められていたのは今や明白である:Mancipation はそれ自体非常に便利な所有権移転の手続きであり、それが利用可能だった場合は、ただ7人もの証人≪実際は5人で7人はヴェーバーが何か別の仕組みと混同している可能性有り≫を呼び寄せる面倒さは、まずはともかく(Mancipation 無しでの)購買契約を結び、そして土地を引き渡してもらい――しかしながらその2つの手続きは後に訴訟になった場合に証拠となる書面を取り交わす形で行われ――そしてその後の2年の経過を待つ、といった(Mancipation ではない場合に)必要な手続きをわざわざ執り行うことの動機には通常なっていなかった。それに対して、こういった Mancipation ではないやり方は次の場合には大いに意味があった。それはその土地の購買者が時効成立の2年間が経過するまでの間において、その特定の地所で引き渡しの対象であったものを継続して保持することが確実だった場合で、かつ測量図やケンススへの登録や、または Mancipation の証拠書面を根拠にした耕地に関する規制に基づいての、その土地の面積や場合によっては境界線の変更の訴えに対抗して、十分にその土地の取戻しが可能となっていたような場合である。それはつまり、デンマークの土地法においての Reebning ≪既出≫の際に、各 Stufland ≪既出≫の権利を保持出来た場合と同じである。前述のより古い時代のプーブリキウス訴権の布告は今や変更が必要となり、土地を獲得した者は、2年の時効期間が満了する前において既にクイリーテース所有権者と同等の権利を得たのである。ただケンススへの登録のみがクイリーテース所有権が認められるまでは行うことが出来なかったが 72)、それは執政官がそれについて何も指示しなかったからである。
72) クイリーテース所有権と Uskapion のケンススとの関係について更なる史料を希望する者は、それを usukapio pro herede ≪相続財産について、相続人がいない、または相続人が相続しない場合に、その財産をある者が一定期間占有することで所有権を得ることが出来るもの≫から引き出すことが出来る。この場合は遺産、つまり被相続人のフーフェの権利の全体について扱われているのであり、その他の Uskapion のように個々の物についてではないが、この場合は単なる占有が1年続けばそれで十分であり、元のフーフェによる農地所有者の死による所有権の停止といった法的根拠なしに、Uskapion の時効を満たしたものとされた。この理由としては、あるフーフェがその所有者の死後直接的な意味で、ケンススに対しても神々に対しても誰も正当な所有者がいない、という事態が許されていなかったからであり、それ故に本来の正当な相続人が1年以内にその権利を行使しない場合は、わずか1年後にはその占有者は単純にそのフーフェの所有者として認められ登録されたのである。
これに対して生きている人間同士の(生前の)売却においての時効までのより長い期間は、それほど問題になることはなかった。何故なら時効が成立した場合に所有権を得る者がその期間が満了して成立した所有権を証明するまでは、元のクイリーテース所有権者がフーフェの権利者あるいは所有者として、元の土地の面積に対して単純に有効な権利を保持していると見なされた≪所有の空白期間が無かった≫からである。usucapio pro heredes について公法的な意味で特徴的なことは、プブリキアーナ訴権の布告における言い回しによれば、ここでの時効による権利取得予定者は、時効成立までの期間において、プブリキアーナ訴権と同様な法的手段を持っていなかったということである。Uskapion の時効が成立するまでは今や次の2つの権利が相互に対立した。つまり de jure の[法律上の]クイリーテース所有権者の「期間限定所有権」であって公法的な意味で有効だったものと、引き渡された土地面積を善意で持っていた者の実質的な[de facto の]所有権の対立である。
所有保護の土地制度史的意味
それでは Uskapion の時効が成立する前において、土地の占有とまた具体的な土地区画の獲得に対して何の保護も与えられなかったのであろうか?(逆に)フーフェの権利を与えられていた者は、例えばあるそれまで彼の所有物として存在していたある面積の土地を、法的な根拠無しに奪われたり、不法に占拠されたり、該当の耕地領域に対して、丁度 controversia de mode がそうであったように、常に測量のやり直しという手段に訴えなければならなかったのであろうか?そういった状況は、耕地ゲマインシャフトが成立する際の耐え難き法の混乱状態だったのかもしれない。ただもちろんこういった形の権利の保護は、通常の正規の訴訟手続に従って行うことは出来なかった。というのもこの正規の手続きにおいては、ただクイリーテース所有権のみが有効であるとあれたのであり、そしてこういった訴訟手続きの対象となったのは、それ故面積原則に基づくある一人の者の支配という形での、ただ総体としての fundus であり、つまりはフーフェの権利の認可であり、そして面積の大きさ、つまりフーフェ農民の個々の耕地領域(ケントゥリアの中から分離された耕地の中においてや、または耕地ゲマインシャフトの中で「獲得」またはそれに相当する[ばらばらになった土地の]一本化においての)においての割り当て地の要求権であった。そして同様に、ある土地区画の所有に対しての保護は、それぞれのフーフェ農民のそれぞれに異なった権利の保護であり、獲得した土地またはケントゥリアについて新しく測量を実施すること(”Reebning”)は認められ、そしてまさにそうだからこそ、というのはそこではある単なる de jure の[法律の上だけでの]一時的な所有状態だけが付随していたから、またただ所有状態に対しての特別に認められた、自分にとっては損害となる法的請求を招いたのであり、しかしながらある特別な、個々の所有者の実質的な権利状態を法的に詳細に意味があるように記述して確認する、ということにはならなかったのである。ある特定の面積の土地に対する実質的な権利が本来存在しないのだとしたら、いつでも行われうる測量のやり直しの可能性のために、所有状態の全体は、ある厳密に考えて純粋な事実に基づくものであり、権利としてはただ面積として表現された持分へのそれとしてのみが有効だったのである。ここで我々が知っている法的手段の内、どのようなものが当時の耕地における分割状態を承認する上で有用であったのかを詳しく検討してみると、直ちにそこに現れてくるのは所有に関しての(各種)禁止令である。周知のように、土地区画に対して制限を加え、また土地の所有者がその権利を侵害しようとする者に対して利用することが許されていた Interdictum de vi ≪暴力による不法な土地の占有に対し、回復を命じるもの≫は次のように命じている 73):”Unde in hoc anno tu illum vi dejecisti aut familia tua dejecit, cum ille possideret, quod nec vi nec clam nec precario a te possideret, eo illum quaeque ille tunc ibi habuit restituas.”[その場所でこの1年の間に、あなたがその土地について暴力による侵害を受けたり、あるいはあなたの家族がそういう侵害を受けた場合、あなたが(元々)その土地を暴力によってでもなく、秘密裏にでもなく、また借用という形でなく所有したのであれば、その場合はその土地は全てあなたの所有に戻される。]実務的な見地から観察した場合、つまりは個々の所有者についてその時点の前年において発生している所有状態は、「暴力」[vis]という概念に当てはまる形での権利の侵害に対して、保護されるということである。その土地における耕作との関係については、耕作を行っている家族が(暴力によって)追い出されたことについてのはっきりした言及から明確に認めることが出来る。2番目のケースである具体的な土地区画についての違法な占拠(の禁止)は、interdictum de precario [借用物返還命令]がそれに該当し、ローマの土地経済において最古の時代から重要ではあるが社会的にはしばしば悲劇的な役割を演じてきた借地人(小作人)を対象とするものであった:Quod precario ab illo habes … id illi restituas. [そこで土地を借りている者は…それを返還しなければならない。]ここではつまり、事物の本性≪法までにはなっていない社会の公序良俗のルール≫に従う形で、(前年に所有していたといった)時間の限定は含まれていない。もっとも確からしいと思われることは、この禁止令はある第三者に対し、後に実際的ではなくなった第三者に対しての特別な布告を、常に暴力と借用によって獲得された場合と一緒にして悪意ある所有状態、更には秘密裏の占拠[clandestina possesio]と名付け、確かに所有状態の保護を1年前までの状態までに限定したものであろうということである。それ故にここで見て取れることは、土地の所有者に対してその者によって耕作されている面積について暴力による奪取、秘密裏の占拠、そして借地人による占拠などに対する保証が与えられているということである。というのはその面積、土地が所有権争いの対象になっているということは、まずは事実関係そのものが争われ、その後また測量人達によって、彼らは彼ら自身の判断基準から rei vidicatio ≪物に対しての返還請求≫と(上記の)返還命令が等価であり、その時々の状況に応じて実務的に利用出来る可能性があると見ていたのであるが、奪われた土地は返還されるべきとはっきりと宣言されたのである 74)。
73) レネル≪既出≫の Restiitution [返還]に拠る。
74) フロンティヌス p.44. De loco, si possessio petenti firma est, etiam interdicere licet, dum cetera ex interdicto diligenter peragantur: magna enim alea est litem ad interdictum deducere, cujus est executio perplexissima. Si vero possessio minus firma est, mutata formula ex jure Quiritium peti debet proprietes loci. [もし土地の占有が請求者に取って確固たる事実である場合は、禁止令の公布が許可される。その際に他の手続きは禁止令に従って慎重に行われるべきである。というのも禁止令を求めて訴えを起すのは大きなリスクが伴い、その執行は非常に面倒だからである。もし真の所有者が誰かがより確かでない場合は、書式を変更して、クイリーテース法に準拠してその土地の所有権を請求すべきである。]
これまでに考察してきた2つのやり方以外に考慮すべきは3つの禁止令であり、それらは元々はどういった場合においても(財産)保全命令と見なし得る禁止令である:Uti possidetis eum fundum quo de agitur, quominus ita possideatis, viin fieri veto,[お前達が所有している土地について、これまでと同様に所有し続けようとすることを侵害する目的で、暴力を行使することを私は禁ずる、]この禁止令は公有地に対して――そこにおいてそれは所有状態の成立状況を――つまり locus を――それまでに既に生じていた何らかの侵害を無視して保護しようとするものであったが、多くの場合は実務的な意味を持っていた 75)。しかし後には”quod nec vi nec clam nec precario alter ab altero possidetis”[お前達がお互いに暴力によってではなく、秘密裡にでもなく、また借用によってでもなく所有している場合は]という留保条件の追加と法学者によるそれへの解釈によって所有を再認可する応急的な法的手段になった、ということが一般に起こったのである。多種多様の土地の所有に関する禁止令の実際的な意味と歴史的な発展についての更に立ち入った議論は、そういう研究の立ち位置を考えてその研究を行うことが望ましいと思える場合であっても、ここでは試みることは出来ず、それについての特別な詳論は現時点では保留にしておかなければならない。しかしそうではあっても次のことは私には疑いがないことと思われる。それはローマ法のpossesioの所有の構造は、それは一方では所有に関しての手続きに該当する諸決定においての法的に見ての[de jure]暫定的措置という性格であり、他方では詳細まで定められた手続きであって、それ自身がまた複雑にもつれあった保証関係を伴っており、(例としては)競売やその他の禁止令が定める諸手続きであり、ローマ法で決定されなければならなかった所有に関する根本原則は、全てのそういった特性で、それは古代においての土地法での所有に関する手続きの位置付けから説明されるものであり、しかしそれは我々が使っている(ヴェーバー当時のドイツでの)所有に関する仮処分とはまったくもって適合していないものである。
75) というのはその禁止令は、その時の時点における所有状態の調査とその確認ということを行うという目的を持っていたのである。次のことは私には決して疑わしいものではない。つまり、所有に関する禁止令の主要な適用領域は、デルンブルク≪Heinrich Dernburg、 1829~1907年、ドイツのローマ法学者≫がそう主張しているように、ager publicus [公有地]であった、ということである。しかし公有地だけに限られていた訳では決してなかった。
75a) “funditus”≪根本から、根底から≫のフーフェ法に拠る意味についての研究が不足している。
「ローマ土地制度史」の日本語訳の第24回目です。ここも前回と同じでローマにおける土地関連の法律が確立する前の段階ではゲルマン民族と同じフーフェやゲノッセンシャフトが一般的であり、その名残がローマ法の中に一部残っているという議論で、その前提条件自体がおかしく思います。むしろここで見るべきなのは、ローマ法のきわめて融通が利く実際的な性格であり、たった2年の占有での時効による所有権獲得と聞くと現代の我々はちょっとびっくりしますが、それは例えば悪質な金融業者が不動産を強制占拠して権利を主張するといったことではなく、実際は土地の売買で面倒な Manzipation の手続きによらない簡便な方法での売買が広く行われており、ローマ法としてそうした取引きによる権利者を保護する必要があって、こういう短い時効設定になっているのだと思います。
それにしても、ボニタリー所有権やクイリーテース所有権など初めて聞いた用語が多く、調べるのに時間がかかりました。
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(注64続き)
“Fundus”はゲマインシャフトの中で他の成員と同じ地位にある者、つまりゲノッセとしてそのゲノッセンシャフトの一員となり、そしてこのことはまたここで想定されているローマと連邦関係にある他の国家においても全く同じ意味を持っていた。というのもこのやり方は、どの優越した力を持ったゲマインデにおいても禁じられていなかったのであり、それらのゲマインデはローマの諸制度をそれが好ましいものである場合は自分達自身の法にするという形で取り込み、両者を統合したのである。あるイタリア半島のローマとの連邦国でローマの”fundus”となった国は、その制度を、それは明らかに表現としては特別な法的価値を持つものという意味であったが、その当該の法をローマ由来のものとして、多くの場合はその首長から認められたその国家自身の法として作り直す、という形で受け入れたのである。連邦の国家によって fundus fieri [発生した fundus]という形で受け入れられた法を通じて、それ故に同時にまたゲノッセンシャフトの権利と連邦の権利が創出された。そしてもっとも確実で間違いの無い法的な帰結としては、その国に属している諸都市によるその法の一方的な改変は許されていなかったということが言えるだろう。この考え方が正しければ、ローマは連邦の国家の法に対して主導権を持っていたのであり、そしてローマの国家法の中でこういった権限がどのような役割を演じていたかということや、それが国法上の foedus aequum [国同士の相互に対等な条約、同盟]の性格にどういった影響を与えるかということについてはここで述べる必要はないであろう。
fundus の意味が「地所」であるということに関係することは、それは帝政期になってもなお認められることであるが、全ての任意の境界線によって区切られた土地区画が fundus と呼ばれ得る訳ではないということである。無条件に fundus に属するものとされたのは、一方では villa ≪都市外での小農場を伴った宅地、別荘のこと≫であった。また他方では、全ての所有地及び土地への権利で、新規にその所有権を獲得した場合に、それが常に fundus に属するものとされた訳ではなく、ただその土地が家族の地所という形で家計の中に組み入れられた時に初めて fundus と認められたのである 65)。
65) D.27 §5, 20 §7 de instrumento [手段・道具について](33, 7) 参照――両方ともスカエウォラによる、またD.60. 211 de verborum signifiatione [用語の意味について](ウルピアーヌス)参照。
fundus はほぼ常に法的に認められたものというより、事実上成立したという性格のものであり 66)、そしていずれの場合も一まとまりの財として成立していた 67)。
66) 参照 D.26 de adquirenda vel amittenda possessione [獲得した、または失った所有物について]と比較せよ。そこについては部分的に分割された fundus の所有権の可能性について特別に主張されており、それ以外にも D.24 §2 de legatis [遺産について]Iの目立つ表現(maxime si ex alio agro qui fuit ejus …adjecit)[特にもし、ある誰かの土地についてそれを獲得し自分の土地に加えた者が…]がある。
67) これに属するものとしては、また何度も言及されている “dos fundi” [嫁資である土地]がある。それについては、モムゼンの Hermes XI p.390ff の記述と比較してみるべきである。
確かなこととしてある氏族の別名として[その氏族が住んでいる]地名の末尾に “-ianus” を付けたものが使われた≪例:Catullianus≫というのは、ただその氏族のフーフェを代表する土地に対してだけそうなったのである。≪地名に接尾語がついて主として貴族の姓になったというのは、スラブ諸語のーsky、-skiも同じ。例:Александр Невский、ネヴァ川のアレクサンドル→アレクサンドル・ネフスキー≫そういったことを置いておいても出現してくるのは、私はそう思うが、農耕地ゲノッセンシャフトの内部での fundus の古い意味である、フーフェの権利、ゲノッセンの権利に対しての郷愁である。その後共有地の分割が始って以降、――我々はこの先行の現象を「分離」68) と呼ぶことが出来、それが共有地の分割が目差していたやり方なのであろうが――古い時代の、常にそういう性質を持っていたフーフェの権利に関する争いの位置に、fundus 全体の合法的な売却が登場してくるのであり、そして以前に分割されて細切れになった土地区画を再度整理するという希望が、測量人達によって伝えられた来た形での controversia de mode として登場してくるのである。
68)ゲルマン諸族の耕地ゲマインシャフトへの対立概念として、カエサルはガリア戦記IV, 1の有名な箇所でそれを “privatus ac separatus ager” [私有地と分割地]と描写している。≪Sed privati ac separati agri apud eos nihil est, neque longius anno remanere uno in loco colendi causa licet.[しかし、彼らの間では私有地や分割された土地は存在せず、また耕作のために一年以上同じ場所に留まることは許されていない。カエサルによるゲルマン民族のスエビ族についての叙述。]≫
これら2つの訴訟形式、つまりゲノッセンとしての権利自体の[土地全体の]請求と、耕地におけるどこか一部に対するゲノッセンとしての持分の[再]割り当て請求(ドイツにおける再統一請求≪17世紀以降のドイツにおいて、分割されて細切れになっていたり、売却されてしまった土地を再び元の状態に戻そうとしてする請求のこと≫とデンマークでの耕地整理[Reebning]≪既出≫請求に相当する)は、訴訟として見た場合で同等の価値を持つものとして取り扱われるべきだ、という考え方は疑わしく思われる 69)。むしろ前者はただせいぜい土地ゲノッセンシャフトの内部の司法手続きによって解決され得るものであり、その一方後者は、既に論じて来たが、更に後でまた本質的に技術的な個別の問題として取り扱う。
69) 測量人達は、controversia de propritate [個人専有物についての訴訟]を controversia de modo と de loco の2つとはっきり区別しており、後の2つは funudus の拡張という位置付けであり、それに対し de propritate の方は、地所全体を一かたまりのものとして扱うものである――p.15, 48, 80. 古代の vindicatio gregis [一群の家畜の返還請求]に相当する法的手段である。
十二表法の時代より後になると、耕地の定住者がトリブスに組織化され、更に後にはそれが百人官裁判[Centumviralgericht→iudicium centumvirale]≪BC3世紀頃に作られた当初は100人の男性で構成された民事関係を扱う裁判所≫に変わって行くのが見出されれる。後者は35のトリブスからそれぞれ3人ずつを選出することで[合計105人で]構成され、誰が相続人、つまり相続権に基づくフーフェの正当な所有者であるかいう問題を扱う法廷となった。ここで更に見出すことが出来るのは、不動産訴訟の領域において、おそらくは百人官裁判と通常の裁判所の間で管轄争いが起きたということである。この点について、私は次のことを疑いようが無く正しいと考える。つまり一般的に土地に関する訴訟について百人官裁判の占有的な管轄権が生じていた限りでは、このことはヴラザック≪Moriz Wlassak、1850~1939年、オーストリアの法学者、法制史家≫の見解 70) と反対であるにもかかわらず、それ自体非常に確からしく――このことが土地の権利についての訴訟で、つまりフーフェの土地全体への認定請求で起きたに違いない、ということである。このことはまた、先決の訴え≪元々の所有権が自分にあるという訴え≫としての legis actio sacrament [in rei] ≪所有権に関する訴訟で、訴えの濫造を防ぐために、原告・被告の双方が供託金を出す制度。裁判で勝った方にはそれは戻され、負けた方はそれを没収される。≫の制度形態とも、さらにはまた所有権請求の対抗訴訟の必要性とも合致しているが、それは≪後に採用される≫ formula petitoria ≪書面による申し立て≫とは対立するものであった。とある2者がどちらがあるフーフェの土地に対しより正当な所有権を持っているかということについて争っている場合、その時々にどちらの権利が相対的に強いかを根拠に基づきはっきりした裁定を下す必要があった。そうでなければ公法に基づく人間関係の中に、耐え難き真空状態が発生してしまう。それに対してある特定の土地区画の返還について争われている場合は、訴えが却下された場合はその帰結としてはただ全てが元の所有者に戻るというだけであった。古きローマの国家の本質に関わる根本原理が段々と失われていくに連れて、もちろん fundus の古い意味への郷愁も消えていったのであり、そしてまた modus agri [土地の面積]の技術的な価値もそれに従って次第に浸食されていったのであり、その結果として、その価値については、ただ貧弱な残余の部分から、つまりは controversia de mode という形で我々に把握出来るものから、逆算して還元して考察することが出来るのみである。
70) Römische Prozeßgesetze [ローマ訴訟法]の各所にて。
土地制度史上の Uskapion ≪土地の実質的使用者による時効による所有権の取得≫の意味
既に述べて来たように、土地における面積原則は Usukapion が認められるようになって以来、根底から突き崩されていた 71)。
71) controversia de loco についてヒュギヌスは p.130.1 にて次のように述べている:Constabit tamen rem magis esse juris quam nostri operis, quoniam saepe usucapiantur loca quae in biennio possessa fuerint. [しかしながら、これは我々測量人の仕事というよりほとんど法の問題です。何故ならばしばしば2年間占有された土地が(時効として)所有を認められるからです。]
つまり:土地の時効取得を認めるということの意味は、測量人達のある種の業務を排除したということである。先に引用した箇所と比較せよ。
というのも、このことが意味したのは次の理由に基づく所有権獲得の可能性であるからである:
1.何かの正当な理由[justa causa]による;――この表現の意味は「法的に有効である」ということで、まず第一に書面による契約に拠らない土地の購入として把握することが、実際は広く行われるようになっていた、ということである;
2.引き渡し;――この点においてこの制度の意味がもっとも明確に現れている:古い形式である Manzipation [合法的な購買]であったがしかし引き渡しが前提とされていなかったものは、フーフェの割り当て地の売却がそのほとんどであった、というよりむしろそれとまったく等しいことであったのであり、というのはその対象となったのは[引き渡しの具体的な約束が伴わない]面積のみであり、それも厳格な意味でのフーフェの割り当て地の面積の売却であり(もしそれが fundus 全ての土地が対象になっていない場合も含めて);新しい土地の獲得の仕方はそれに対して既に具体的な境界線を持った土地区画に対してのものであった。何故ならばそうした具体的な土地区画だけが(実際に)引渡されることが可能だったからである。
3.2年間の占有
このような土地獲得の方法が許されるようになったことの意味は、言ってみれば、従来の面積原理に並立する同等の力を持つ土地の場所[locus]原理の導入であった。というのは Usukapion の目的と実際的な意味は後になって出て来たことで、当初はそうではなかったが、本来正式な所有権を持っていないボニタリー所有権者≪正当な理由(justa causa)に基づいて物件を取得したが、正式な mancipatio 等の手続きを経ていないため、完全な所有権であるクイリーテース所有権を持たない者。manicipatioの手続きには5人の証人と1人の秤持ちが必要で、広く行われるまでには至っていなかった。≫を保護することであった。より古い時代においては、執政官の布告により、それと全く反対のことが起きていた。レネル≪Otto Lenel, 1849~1935年、ドイツの法学者、ローマ法研究家≫の研究により次の事が明らかにされた。つまり2つの布告の内古い方は、(実質的使用者の所有権の)保護を目的としたプーブリキウス訴権≪Lex Publicia に規定された訴権で、正式な手続きを踏まないで土地を取得したボニタリー所有権者が、正規の所有権者であるクイリーテース所有権者を訴えることが出来る権利≫について、善意の(正式な手続きを経て獲得した)取得者の所有権よりも、ボニタリー所有権者の保護を目的としていたのであり、つまりある者で res mancipi ≪土地や奴隷などの価値あるもの≫を本来の所有者から正式な手続きで入手したのではなく、何らかの justa causa [正当な理由、例えば遺言書による遺贈、贈与など]に基づいて(ボニタリー)所有権を得たが、その正式な引き渡しについてはただ口頭で伝えられていた者の保護が目的であった。こうした執政官の(所有権への)干渉は、しかし既に十二表法で認められていた法的な発展を更に一歩進めた、というだけのものであった。
というのは、この布告が発せられた前提はしかしながら、後にそう呼ばれるようになったボニタリー所有権者が、Usukapionの権利が認められるようになる前の段階では、クイリーテース所有権者に対して不安定な状態に置かれたいたということである:ケンススに対してはクイリーテース所有権者のみが正当な所有権者として認められ、同様にクイリーテース所有権者は exceptio rei venditate et traditate ≪売却されたまたは引渡された物への抗弁、所有権訴訟での防御手段で、売却・引き渡しが合法的に完了していることを示すもの≫が成立していない場合においても、次の場合にはその土地に関する権利を容易に取り戻すことが出来た。その場合とは、その者がその土地を暴力によって獲得したのでも、または「秘密裏に」そうしたのでもなく、それによって法廷での争いにおいて占有の保護[interdictum]を与えられ、同様にその土地の獲得に関して Usukapion の時効がまだ満期に至っていない期間は、第三者に対してその所有権を保護された、そういう場合である。
「ローマ土地制度史」の日本語訳の第23回目です。これでようやく全体の3割に達しましたが、まだまだ先は長いです。
ここの議論も前回と同様で、そもそもはゲルマン民族における土地制度であるフーフェや、また同じくゲルマン民族の集団の最大の特徴であるゲノッセンシャフトがローマ古代にもあったとするなど、本来のローマ史の分析から逸脱した恣意的な他の概念の適用が目立ちます。
また後年プロ倫で史的唯物論批判をするヴェーバーですが、この頃はかなり発展段階史観に囚われているように思えてやや鼻白みます。
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土地の面積の本来の意味
しかしながら土地の面積を巡る諸関係の元々の位置付けは異なっていた。
面積による土地の売却
文献史料に従えば次のことは認めなければならない。つまり古典法学が確立する時代までは、ある土地区画が測量による正確な面積の確認無しに譲渡されるということが、それ自体正常なこととは見なされていなかったということと、それに対して全く逆に次のことが当時であっても何か普通のことと見なされていたということである。それはつまり、ある決まった数のユゲラ[面積の単位]があるおおよその大きさの――もしかすると 56a) ケントゥリアの数に拠っているか、あるいはその土地の隣人からの申し立てによる、売却されようとしている部分の境界がどうなっているかという情報に基づき――その申し立てられた耕地におけるある箇所について、モルゲン[ドイツでの面積の単位]当たりの単価を決めて売却されたということである。更にはこの契約の履行においては、申し立てられた面積に相当する地所が測量され、そして買い主に提示された、ということである。それは例えば 1.5 pr. における、si mensor falsum modum dixerit (11.6) 57) [もし測量人が間違った面積を報告した場合]として取り扱われている事例において前提とされている。
56a) このようなやり方で購買対象物件の表示は公的な土地売買において行われたのであり、それについては u.c. 643年の土地改革法が規定している。
57) ウルピアヌス≪Gnaeus Domitius Ulpianusu、170年頃~228年、古代ローマの著名な法学者。学説彙纂に採用された学説の内、1/3はウルピアヌスのもの。≫の、I. XXIV ad Edictum [布告に対して]。Si mensor non falsum modum renuntiaverit, sed traxerit renuntiationem, et ob hoc evenerit, ut venditor laederetur, qui assignaturum se modum intra certum diem promisit etc. [もし測量人が誤った面積を報告せず、さらにその報告を継続してしない場合、これが起きたことにより、どのように売主が糾弾されるか、その売主は面積の確定していない割当て地をある一定の日数の内に売却しようとしているが、等々。]
つまり:売却されているのは面積なのであり――いずれにせよ価格はユゲラ当たりいくら、で決められており、そして次に測量人がこの面積に相当する土地区画を実測することになり、それによって売主はその土地を確かにそういう面積を持ったものとして、ここに言及されているように、買主に売却することが出来る。逆の注解では、ある特定の土地区画が売却されることになっていて、その面積が価格の確定のために後から決定されることになっているのは、それ故に許されておらず、その場合は売主の側が[売却後に]何らかの訴えを起すことは不可能となったからであろうからである。このことにはしかし前提があり、もし、それは実際に起こったことだったが、面積そのものが購入の対象として通用し、そして売主がそれ故に適切な時期までにこれらの面積の[確定と]引き渡しを行うことが出来なかった場合、それは取引きの中止につながった。
もちろん当時通常のやり方であったのは、ある決まった面積の土地に対して、それが購買対象として検討され、そしてある一定のモルゲン当たりの価格が取り決められる;それからその土地が測量され、その結果に従って購買価格が決定される 58)。
58) このことは D.40, 51の de contrahenda emtione [購買取引について]にて規定されている。(両方ともパウルス≪Julius Paulus, 2~3世紀、ローマの著名な法学者≫による。)
D.45の de evictionibus (21,2)[明け渡し、または取戻しについて]においてアルフェヌス≪Publius Alfenus Varus, BC1世紀のローマの政務官・法学者≫はそれにもかかわらず次のことを必要なこととしており、それを特に強調している。それは売却された面積の土地が[測量の結果]取り決められた面積と違っていた場合、疑わしさを含む引き渡し義務については、最初に取り決められた面積の方が決定力を持つ、ということである。ユゲラの数[総面積]を売却し、そして価格を1ユゲラ当たりの単価によって[取り決める]という慣習と、購買の対象が土地の面積であるという見解は、次の考え方よりもはるかに強い実効力を持っていた。つまり、一部の土地の引き渡しにおいてパウルスが1.53の同じ箇所で更に次の意見を主張しており、それはそういった場合には引き渡された土地の実質的な価値に拠るのではなく、売主はただ実際に引き渡され所有権が移転した面積に対して[実際の面積との違いの分の]賠償責任がある、という意見であり、それは同様にまた D.4,§1の de actionibus empti venditi [売却と購買の行為について]において売主の責任を何よりもまず約束された数のユゲラに関連付けているからでもあり 59)、スカエウォラ≪Scaevola, 共和国初期の英雄的人物。ここではその一族の法学者の D.Cervidius Scaevola のこと。≫の D.69,§6の de evictionibus (et duplae stipulatione)[合法的売却について]も同様である。
59) ただある一定の数のユゲラのぶどう畑、オリーブ畑等が売却される場合、――土地台帳上の分類に依拠するのであるが――その土地の価値評価はその土地の[面積だけでない]実質価値に応じて成されなければならなかった。パーピニアーヌスは D.64,§3 de evictionibus にて、それと対立するより近代的な主張をしており、部分的な引き渡しの際は常に土地の実質的価値に依拠すべきとしている。
ついにはこのように意図された取り引き慣習は、測量人達のある種の弁済義務から、彼らが Si mensor falsum modum dixerit [測量人が間違った面積を申し立てたとしたら]という表題の法 (11,6) によって、測量人の資格が剥奪され、次のような事態が生じる。つまり、そういった罪状が次の形で出されるということであり、――1.5 pr. の引用済みの箇所で――ある者が一定の面積の土地を売り、そしてその測量人がその該当の面積があるとされる区画の土地を測量することを委託され、そしてその際に虚偽のやり方で、実際の面積より多く(1.3,§3 前述の箇所)あるいは少なく(1.3,§2 前述の箇所)測量の結果を申し立てた、という罪状である。一般に理解されていたのは、土地区画の購入は全く本質的に面積のみに関連付けられるものである、といいうことである。次のことは全く不思議ではない。つまり土地という物は本質的に次の考え方に基づいているということであり、それは正規の購入は、ある限定された地所の現物の引き渡しであり、それはまだ所有権の移転ということが知られていない時代において、それ故に法学的にはある特定の地所ではなく、ある決まった土地の面積の引き渡しであったという考え方である――そしてそのことは再びその該当の土地について、測量地図は割り当ての際にただ面積のみを記入しており、またケンススの担当官に対しても面積が報告されたのであると。というのは次のことは確かなことと考えられ得るからである。つまり我々に伝えられている、市民の地位のその財産の金銭価値による分類が、同様な考え方の土地の耕作面積の大きさによる分類を先導したのであり、特に何らかの種類の耕地ゲマインシャフトの基礎となる土地制度がまだ成立していた限りにおいては≪ヴェーバーの当時、古代ローマでも昔はゲルマン民族と同じように耕地をフーフェとして共有する耕地ゲマインシャフトが存在したと考えられていた。しかし後にこの考え方は歴史的事実と必ずしも合わないとされた。ヴェーバーの「一般社会経済史要論」(講義録)を参照。 ≫、次のことは非常に確からしいと考えられる。それは土地面積の金銭価値の評価は、まさにより古い土地制度を除去することによって成立し、また同時に地所についての個々人の所有権の断固とした導入も行われたのであり、そしてしかしまたそれは、罰金を科す際の、土地の面積当たりの法的な金銭価値換算相場の決定にも非常に類似していた。そのために発生したのが、個々の市民がその時々に所有している土地の面積を確認する可能性についての直接的・公的な関心であった。
61) シクルス・フラックス(p.138, 11)は土地の占有者と土地の分割割り当ての間の対立について述べている:Horum ergo agorum nullum est aes, nulla forma, quae publicae fidei possessoribus testimonium reddat, quoniam non ex mensuris actis unus quisque modum accepit …
[それ故にこれらの土地の金銭価値は0であり、所有者によって公衆の信用のために証拠として提出される測量地図も無く、何故なら誰も測量の実施によって確定した面積の土地を受け取っていないからである。]
しかし測量地図は土地の所有者にそのような公的な証拠としてその土地区画の境界線を与えるのではなく、この部分でまた述べられているように、ただ面積のみの情報を与えるのである。それ故に考えられるのは、売却した面積を権利の引き渡し書式とその他の必要文書の中に記載することは、法的には元々必須だったということである 62)。
62) これらの諸関係の実務的な側面の評価においては、現代的な考え方を自制することが必要であり、正規の購買手続きを所有権移転の際に利用するという伝統は、必ずしも必要なものではなかったのであり、それについては既に述べた。ある決まった面積が正規購入された場合、その売却された耕地における土地の測量がまだ行われていない段階では、これらの面積に対しての買主の請求権さえもまだ生じていなかった。次のことは自明であるとは言えないであろう。つまりただ具体的な境界線を持った地所のみが購入可能であったということは。全てのフーフェ原理によって――常に個々の事例でその原理が形成されたように――組織化された土地制度は、土地の分割売却が一般的に可能になるや否や、最初は割り当て地の(面積の)売却が行われ、次にようやく具体的な地所の売却が行われる、という風に変化して行く。次のことが想定される。つまり、このことがローマ法の発展の中でおそらくは全く同様に起きていた、ということが。
我々はそれ故により古い時代については、面積に基づいた売却と面積についての訴訟は、割り当てられた土地について特徴的なことであったと考えるべきである。2つの現象[controversia de loco と de mode]の発展史と意味については、さらにいくつかの推論を行うべきであろう。
割り当て面積の売却と土地区画の売却
元々フーフェで割り当てられた土地全体をを売却することと、その際にまた元々の割り当てられた土地区画の一部を分割して売却することが全く許されていなかったのが、早い時期においてどのように一般に許されるようになったかの過程は、もちろん我々は全く知ることが出来ない。我々が唯一結論付けることが出来るのは、譲渡が出来る方向に向かって、耕地全体から相対的に完全な個人の所有地へと分離された相続された土地がまずは譲渡不可というルールから除かれたということであり、また耕地ゲマインシャフトというものが――常にそういう性質を持ったものとして――成立していた限りにおいて、一般的な何らかの売却の制限が広範囲に存在していたのであり、このことは更に言えばより古い発展段階にあった全ての耕地ゲマインシャフトにおいて自明のこととして存在していたことからも裏付けられる。≪前注で述べたように、このころはいわゆる発展段階説で世界中の全ての地域で、社会は耕地ゲマインシャフト=一種の原始共産制という段階を経るという考え方が支配的であった。≫しかしより普通でないと思われるのは、ある耕地ゲマインシャフトにおいての、個々の実際の土地区画の売却であり、それが起きたのはある一人のゲノッセンシャフトの構成員に対してある耕地の広がりの中で帰属させられている(土地所有の)権利の一部分の譲渡が、より古い時期においてしばしば可能であると認められるようになっていた 63) 時代である、耕作地の面積単位での売却は、ここで述べた見解に従えば、合法的売却の本質を成しているのであるが、その位置付け自体は割り当て地の面積単位での売却と具体的な地所単位での売却とのおおよそ中間にあった。更に確実なことと考えるべきなのは――なるほど耕地ゲマインシャフトの形成はそれぞれ個別に発生したのであるが、そのゲマインシャフトの志向としては、一般論ではあるが、そしてローマにおいては全く疑いようがなかったことであるが、つまりはそれは氏族を中心とした集団形成ではなく、ゲノッセンシャフト的に組織化されたものであった≪ヴェーバーはここで元々ゲルマン民族の社会形成の原理であった筈のゲノッセンシャフトが古い時代にはローマにもあったとしていることに注意≫――、最初から次の2つの権利概念は厳密に異なるものとして発展したということであり:フーフェの権利(この表現を使うとしたら)、つまり耕地ゲマインシャフト一般に参加する権利の付与、そしてそこから発生する個々の受益者に耕地の個々の部分において帰属せられる特別な資格の[権利の]範囲である。後のものは前のものの結果であるが、ただフーフェの権利付与についての問いが、個々のそこから導かれる諸権利、例えば hereditatis petitio [相続請求]から相続においての個々の対象物への請求[権]の源泉となっている。
ローマにおけるフーフェの制度
ゲノッセンシャフトの成員の[土地に対しての]権利を表現する技術用語は、[ラテン語では]”fundus”[農場、一区画の土地の意味]である。この語のこの意味はイタリアの連邦法[都市国家間の連合での共通法、ius inter gentes]においてもまだそのまま残っていた。あるイタリア半島の連邦に属する国家があるローマのゲマインデの決定を自分の国でもそれを受け入れ布告する場合、その場合それはその国でも””fundus
fit”[作り出された土地への権利]と呼ばれた。その意味は、その場合その国は(ローマとの関係で)法ゲノッセ[法ゲノッセンシャフトの成員]になるということである 64)。
64) マルクヴァルト≪Joachim Marquardt、1812年~1882年、ドイツの歴史家、古代ローマについての書籍の著者≫は”fundus fieri”[作り出された土地への権利]と”auctor fieri”[作り出された売却者]を同じものとしている。ここでその2つの語句の差異について述べる気はないが、差異は間違いなく存在している。元老院が人民が決定したことに対してどのように関与したかについては確かなことは言えない:patres fundi fiunt. [土地の父(所有者)が作り出される。](次回に続く。)
この語はゲリウス≪Aulus Gellius、125年頃~180年以降、ローマの文筆家、法律家≫(アッティカの夜,19.8)によっても全く同様の意味で使われており、彼はある法案の発議に対し賛成している。