「ローマ土地制度史」の日本語訳の第24回目です。ここも前回と同じでローマにおける土地関連の法律が確立する前の段階ではゲルマン民族と同じフーフェやゲノッセンシャフトが一般的であり、その名残がローマ法の中に一部残っているという議論で、その前提条件自体がおかしく思います。むしろここで見るべきなのは、ローマ法のきわめて融通が利く実際的な性格であり、たった2年の占有での時効による所有権獲得と聞くと現代の我々はちょっとびっくりしますが、それは例えば悪質な金融業者が不動産を強制占拠して権利を主張するといったことではなく、実際は土地の売買で面倒な Manzipation の手続きによらない簡便な方法での売買が広く行われており、ローマ法としてそうした取引きによる権利者を保護する必要があって、こういう短い時効設定になっているのだと思います。
それにしても、ボニタリー所有権やクイリーテース所有権など初めて聞いた用語が多く、調べるのに時間がかかりました。
===================================
(注64続き)
“Fundus”はゲマインシャフトの中で他の成員と同じ地位にある者、つまりゲノッセとしてそのゲノッセンシャフトの一員となり、そしてこのことはまたここで想定されているローマと連邦関係にある他の国家においても全く同じ意味を持っていた。というのもこのやり方は、どの優越した力を持ったゲマインデにおいても禁じられていなかったのであり、それらのゲマインデはローマの諸制度をそれが好ましいものである場合は自分達自身の法にするという形で取り込み、両者を統合したのである。あるイタリア半島のローマとの連邦国でローマの”fundus”となった国は、その制度を、それは明らかに表現としては特別な法的価値を持つものという意味であったが、その当該の法をローマ由来のものとして、多くの場合はその首長から認められたその国家自身の法として作り直す、という形で受け入れたのである。連邦の国家によって fundus fieri [発生した fundus]という形で受け入れられた法を通じて、それ故に同時にまたゲノッセンシャフトの権利と連邦の権利が創出された。そしてもっとも確実で間違いの無い法的な帰結としては、その国に属している諸都市によるその法の一方的な改変は許されていなかったということが言えるだろう。この考え方が正しければ、ローマは連邦の国家の法に対して主導権を持っていたのであり、そしてローマの国家法の中でこういった権限がどのような役割を演じていたかということや、それが国法上の foedus aequum [国同士の相互に対等な条約、同盟]の性格にどういった影響を与えるかということについてはここで述べる必要はないであろう。
fundus の意味が「地所」であるということに関係することは、それは帝政期になってもなお認められることであるが、全ての任意の境界線によって区切られた土地区画が fundus と呼ばれ得る訳ではないということである。無条件に fundus に属するものとされたのは、一方では villa ≪都市外での小農場を伴った宅地、別荘のこと≫であった。また他方では、全ての所有地及び土地への権利で、新規にその所有権を獲得した場合に、それが常に fundus に属するものとされた訳ではなく、ただその土地が家族の地所という形で家計の中に組み入れられた時に初めて fundus と認められたのである 65)。
65) D.27 §5, 20 §7 de instrumento [手段・道具について](33, 7) 参照――両方ともスカエウォラによる、またD.60. 211 de verborum signifiatione [用語の意味について](ウルピアーヌス)参照。
fundus はほぼ常に法的に認められたものというより、事実上成立したという性格のものであり 66)、そしていずれの場合も一まとまりの財として成立していた 67)。
66) 参照 D.26 de adquirenda vel amittenda possessione [獲得した、または失った所有物について]と比較せよ。そこについては部分的に分割された fundus の所有権の可能性について特別に主張されており、それ以外にも D.24 §2 de legatis [遺産について]Iの目立つ表現(maxime si ex alio agro qui fuit ejus …adjecit)[特にもし、ある誰かの土地についてそれを獲得し自分の土地に加えた者が…]がある。
67) これに属するものとしては、また何度も言及されている “dos fundi” [嫁資である土地]がある。それについては、モムゼンの Hermes XI p.390ff の記述と比較してみるべきである。
確かなこととしてある氏族の別名として[その氏族が住んでいる]地名の末尾に “-ianus” を付けたものが使われた≪例:Catullianus≫というのは、ただその氏族のフーフェを代表する土地に対してだけそうなったのである。≪地名に接尾語がついて主として貴族の姓になったというのは、スラブ諸語のーsky、-skiも同じ。例:Александр Невский、ネヴァ川のアレクサンドル→アレクサンドル・ネフスキー≫そういったことを置いておいても出現してくるのは、私はそう思うが、農耕地ゲノッセンシャフトの内部での fundus の古い意味である、フーフェの権利、ゲノッセンの権利に対しての郷愁である。その後共有地の分割が始って以降、――我々はこの先行の現象を「分離」68) と呼ぶことが出来、それが共有地の分割が目差していたやり方なのであろうが――古い時代の、常にそういう性質を持っていたフーフェの権利に関する争いの位置に、fundus 全体の合法的な売却が登場してくるのであり、そして以前に分割されて細切れになった土地区画を再度整理するという希望が、測量人達によって伝えられた来た形での controversia de mode として登場してくるのである。
68)ゲルマン諸族の耕地ゲマインシャフトへの対立概念として、カエサルはガリア戦記IV, 1の有名な箇所でそれを “privatus ac separatus ager” [私有地と分割地]と描写している。≪Sed privati ac separati agri apud eos nihil est, neque longius anno remanere uno in loco colendi causa licet.[しかし、彼らの間では私有地や分割された土地は存在せず、また耕作のために一年以上同じ場所に留まることは許されていない。カエサルによるゲルマン民族のスエビ族についての叙述。]≫
これら2つの訴訟形式、つまりゲノッセンとしての権利自体の[土地全体の]請求と、耕地におけるどこか一部に対するゲノッセンとしての持分の[再]割り当て請求(ドイツにおける再統一請求≪17世紀以降のドイツにおいて、分割されて細切れになっていたり、売却されてしまった土地を再び元の状態に戻そうとしてする請求のこと≫とデンマークでの耕地整理[Reebning]≪既出≫請求に相当する)は、訴訟として見た場合で同等の価値を持つものとして取り扱われるべきだ、という考え方は疑わしく思われる 69)。むしろ前者はただせいぜい土地ゲノッセンシャフトの内部の司法手続きによって解決され得るものであり、その一方後者は、既に論じて来たが、更に後でまた本質的に技術的な個別の問題として取り扱う。
69) 測量人達は、controversia de propritate [個人専有物についての訴訟]を controversia de modo と de loco の2つとはっきり区別しており、後の2つは funudus の拡張という位置付けであり、それに対し de propritate の方は、地所全体を一かたまりのものとして扱うものである――p.15, 48, 80. 古代の vindicatio gregis [一群の家畜の返還請求]に相当する法的手段である。
十二表法の時代より後になると、耕地の定住者がトリブスに組織化され、更に後にはそれが百人官裁判[Centumviralgericht→iudicium centumvirale]≪BC3世紀頃に作られた当初は100人の男性で構成された民事関係を扱う裁判所≫に変わって行くのが見出されれる。後者は35のトリブスからそれぞれ3人ずつを選出することで[合計105人で]構成され、誰が相続人、つまり相続権に基づくフーフェの正当な所有者であるかいう問題を扱う法廷となった。ここで更に見出すことが出来るのは、不動産訴訟の領域において、おそらくは百人官裁判と通常の裁判所の間で管轄争いが起きたということである。この点について、私は次のことを疑いようが無く正しいと考える。つまり一般的に土地に関する訴訟について百人官裁判の占有的な管轄権が生じていた限りでは、このことはヴラザック≪Moriz Wlassak、1850~1939年、オーストリアの法学者、法制史家≫の見解 70) と反対であるにもかかわらず、それ自体非常に確からしく――このことが土地の権利についての訴訟で、つまりフーフェの土地全体への認定請求で起きたに違いない、ということである。このことはまた、先決の訴え≪元々の所有権が自分にあるという訴え≫としての legis actio sacrament [in rei] ≪所有権に関する訴訟で、訴えの濫造を防ぐために、原告・被告の双方が供託金を出す制度。裁判で勝った方にはそれは戻され、負けた方はそれを没収される。≫の制度形態とも、さらにはまた所有権請求の対抗訴訟の必要性とも合致しているが、それは≪後に採用される≫ formula petitoria ≪書面による申し立て≫とは対立するものであった。とある2者がどちらがあるフーフェの土地に対しより正当な所有権を持っているかということについて争っている場合、その時々にどちらの権利が相対的に強いかを根拠に基づきはっきりした裁定を下す必要があった。そうでなければ公法に基づく人間関係の中に、耐え難き真空状態が発生してしまう。それに対してある特定の土地区画の返還について争われている場合は、訴えが却下された場合はその帰結としてはただ全てが元の所有者に戻るというだけであった。古きローマの国家の本質に関わる根本原理が段々と失われていくに連れて、もちろん fundus の古い意味への郷愁も消えていったのであり、そしてまた modus agri [土地の面積]の技術的な価値もそれに従って次第に浸食されていったのであり、その結果として、その価値については、ただ貧弱な残余の部分から、つまりは controversia de mode という形で我々に把握出来るものから、逆算して還元して考察することが出来るのみである。
70) Römische Prozeßgesetze [ローマ訴訟法]の各所にて。
土地制度史上の Uskapion ≪土地の実質的使用者による時効による所有権の取得≫の意味
既に述べて来たように、土地における面積原則は Usukapion が認められるようになって以来、根底から突き崩されていた 71)。
71) controversia de loco についてヒュギヌスは p.130.1 にて次のように述べている:Constabit tamen rem magis esse juris quam nostri operis, quoniam saepe usucapiantur loca quae in biennio possessa fuerint. [しかしながら、これは我々測量人の仕事というよりほとんど法の問題です。何故ならばしばしば2年間占有された土地が(時効として)所有を認められるからです。]
つまり:土地の時効取得を認めるということの意味は、測量人達のある種の業務を排除したということである。先に引用した箇所と比較せよ。
というのも、このことが意味したのは次の理由に基づく所有権獲得の可能性であるからである:
1.何かの正当な理由[justa causa]による;――この表現の意味は「法的に有効である」ということで、まず第一に書面による契約に拠らない土地の購入として把握することが、実際は広く行われるようになっていた、ということである;
2.引き渡し;――この点においてこの制度の意味がもっとも明確に現れている:古い形式である Manzipation [合法的な購買]であったがしかし引き渡しが前提とされていなかったものは、フーフェの割り当て地の売却がそのほとんどであった、というよりむしろそれとまったく等しいことであったのであり、というのはその対象となったのは[引き渡しの具体的な約束が伴わない]面積のみであり、それも厳格な意味でのフーフェの割り当て地の面積の売却であり(もしそれが fundus 全ての土地が対象になっていない場合も含めて);新しい土地の獲得の仕方はそれに対して既に具体的な境界線を持った土地区画に対してのものであった。何故ならばそうした具体的な土地区画だけが(実際に)引渡されることが可能だったからである。
3.2年間の占有
このような土地獲得の方法が許されるようになったことの意味は、言ってみれば、従来の面積原理に並立する同等の力を持つ土地の場所[locus]原理の導入であった。というのは Usukapion の目的と実際的な意味は後になって出て来たことで、当初はそうではなかったが、本来正式な所有権を持っていないボニタリー所有権者≪正当な理由(justa causa)に基づいて物件を取得したが、正式な mancipatio 等の手続きを経ていないため、完全な所有権であるクイリーテース所有権を持たない者。manicipatioの手続きには5人の証人と1人の秤持ちが必要で、広く行われるまでには至っていなかった。≫を保護することであった。より古い時代においては、執政官の布告により、それと全く反対のことが起きていた。レネル≪Otto Lenel, 1849~1935年、ドイツの法学者、ローマ法研究家≫の研究により次の事が明らかにされた。つまり2つの布告の内古い方は、(実質的使用者の所有権の)保護を目的としたプーブリキウス訴権≪Lex Publicia に規定された訴権で、正式な手続きを踏まないで土地を取得したボニタリー所有権者が、正規の所有権者であるクイリーテース所有権者を訴えることが出来る権利≫について、善意の(正式な手続きを経て獲得した)取得者の所有権よりも、ボニタリー所有権者の保護を目的としていたのであり、つまりある者で res mancipi ≪土地や奴隷などの価値あるもの≫を本来の所有者から正式な手続きで入手したのではなく、何らかの justa causa [正当な理由、例えば遺言書による遺贈、贈与など]に基づいて(ボニタリー)所有権を得たが、その正式な引き渡しについてはただ口頭で伝えられていた者の保護が目的であった。こうした執政官の(所有権への)干渉は、しかし既に十二表法で認められていた法的な発展を更に一歩進めた、というだけのものであった。
というのは、この布告が発せられた前提はしかしながら、後にそう呼ばれるようになったボニタリー所有権者が、Usukapionの権利が認められるようになる前の段階では、クイリーテース所有権者に対して不安定な状態に置かれたいたということである:ケンススに対してはクイリーテース所有権者のみが正当な所有権者として認められ、同様にクイリーテース所有権者は exceptio rei venditate et traditate ≪売却されたまたは引渡された物への抗弁、所有権訴訟での防御手段で、売却・引き渡しが合法的に完了していることを示すもの≫が成立していない場合においても、次の場合にはその土地に関する権利を容易に取り戻すことが出来た。その場合とは、その者がその土地を暴力によって獲得したのでも、または「秘密裏に」そうしたのでもなく、それによって法廷での争いにおいて占有の保護[interdictum]を与えられ、同様にその土地の獲得に関して Usukapion の時効がまだ満期に至っていない期間は、第三者に対してその所有権を保護された、そういう場合である。