「ローマ土地制度史」のモーア・ジーベックの全集版のP.313に”Man suchte sich zu Catos Zeit durch Vergebung der Wein- und Ölernte im ganzen an redemtores zu helfen.”とありますが、この”redemtores”は”redemptores”(請負人、契約業者)の間違いです。元々ヴェーバーの書き間違いでしょうが、このパターンの校正ミス、2回目です。いい加減にしてほしいです!
月: 2025年4月
ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(58)P.309~312
「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第58回です。ここは地主と小作人の関係が詳しく論じられています。借金を相続によって背負わないため、相続人が小作人になって土地の使用権を得る(同時におそらく相続税も免れる)といった、古典的な財テクみたいなことが行われているのが興味深いです。また地主と小作人は地主が小作人を搾取するといった唯物史観的な見方だけをするべきではなく、ローマ社会で一般的だったクリエンテスーパトロヌスの関係(親分子分関係)としても理解するべきと思います。
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次のことは言うべきではない。つまり平均的な事例を見る限りでは、このような劣悪な扱いは自明のこととしてまでは起きていなかった、ということであるが――いずれにしても次のことは確かである。つまり社会的に重要でかつその自覚も持っていた者達は、そのような劣悪な権利状態を甘受しようとはしなかったのではないか、ということである。国家から公有地を借りていた者は確かに国家に対しては不安定な状態に置かれており、特に契約がケンススでの登録期間が満了した場合に解除される可能性があって、そしてただ行政上の保護のみを受けられた場合にそうであり、その他の点ではしかしその者達はただ場所[locus]としての保護を、それが元々ただ一般的に存在していたもの、つまり占有されていたものとして、という範囲での保護を受けられるだけであった。個人の土地を借りていた者達については、こういったレベルの保護すら与えられておらず、そのことからはっきり分かることは、その者達の他の全ての社会的条件が劣位にあったことと、経済的に弱者であった、ということである。このことからすぐ明らかなこととして結論付けることが出来るのは、我々は大規模な賃借人の身分について、それが≪ヴェーバー当時の≫今日のイタリアにおいて大地主達と部分的に対立しているということを、そのまま古代ローマでも同様であったろうと考えるべきではない、といことである。≪ヴェーバーが言っているのは19世紀のイタリアでのメッガドリーナという分益小作制度を古代ローマの小作制度と同一視すべきではない、ということ。≫カトーは賃借人について、自分自身でその土地を耕作しないで、その土地を一族郎党に耕作させようと欲している者を厳しく諫めている。そしてまた確かに公有地が資本家達に対してかなりなまで大規模に提供され、その使用目的は個々の土地区画の大規模な複合体を賃貸目的で使うことであり、またそういった土地を次の程度までに投機のために使い尽くす(搾取する)ことであり、その程度とは個人の小地主には決して利用させてもらうことができないものであり、またその一方で manceps[中間契約者]の仲間たちが利用出来る公有地の管理については、その使い方について厳しくチェックされることがほとんどなかった、そういう程度である。lex censoria はなたそれについての条項などをその中に含めようとしていた。一般的にそういった状況に適合する形で、大地主達に対して、その者達がその土地の多くを賃貸ししている所では、それに対して小規模な賃借人が対置され 29)、そして土地区画の面積という点でより大規模な所有地の貸出しは、今日と同じく当時も相対的に高い賃料が課せられることが多く、このことはまた事業としても見ても有利なことだったからである。
29) 特にまた、これについては次に述べることになるが、継続して定住させられた小作人達は、圧倒的に小規模の賃借人であったに違いなく、中規模以上の家長達ではなかった。全ての我々が持っている知識(例えばメクレンブルクにて≪メクレンブルクは19世紀後半になってもグーツヘルによる大農場が継続し、農奴解放が遅れていた。≫)によれば、次のことが知られている。それは継続的な植民というものは、国家がより大規模経営の可能な農民をそこに公有地の領主または非常に大規模なグーツヘル、例えばプレス公のような地位の者≪プレス公ハンス・ハインリヒII世はシュレージエン地方に数万ヘクタールの土地を所有していた。≫、を送り込むことで行われ得たのであり;より小規模のグーツヘル達は常にただ小作人または小農民という立場にされたのであり、そういったことが植民地化という作業を非常に容易にした可能性がある。
何よりもまず土地区画について賃貸料を取ることは、定常的な土地レンテ≪労働を伴わないで定期的に入ってくる収入≫を取ることが出来るようにすることを目指すことを可能にし、そしてこのことは共和政期と帝政早期においては本質的な観点であったに違いなく、というのはそこから上がる収益はそこ以外で――つまりローマで――消費されることになったであろうからである。確からしいこととしてこの理由から、分益小作≪地主が土地を提供し、小作人が耕作し、収穫物を地主と小作人で分け合うという一種の共同事業形式の小作≫はその完成形までの発展はほとんど起きなかった、――分益小作は法律史料にただ一度だけ次のような内容で言及されていた。つまりそのことの法的な構成が――場所についてなのかソキエタース≪地主と小作人の事業組合≫についてなのか――疑わしく思われる、そういった内容である。地主が――その者が非常に規模の大きな地主階層に属していなかった場合に――確実な現金収入を得るための手段としてのオリーブ油とワインの製造を保留にして放棄したように、小作人との≪共同事業的≫関係もまた進展しなかった。そのことに符合していることは、地主(自身)が農業に必要な土地以外の装備一式[instrumentum fundi]を用意したということと、また小作人に対しては、一般に農場経営を立ち上げる際に、小作人の自由に任せて好きにさせることはほとんどなかった、ということである:小作制度の本質的な目的は、リスクを地主が負うのではなく小作人に押しつけるということと、また地主の方にとっては確からしいことは、大きな金額ではないにせよ確実な現金収入を得る保証を得ることであった。というのも、こういった関係の全体は、また地主が自分の土地で農耕を行う方法・やり方として把握されるからである 29a)。
29a) コルメラ 1, 7。
土地区画賃貸の存在条件
以上述べて来たことの中には、本質的に既に後の時代の変化の萌芽が見られるのであり、それは農地においての労働のあり方が変わったことと関連している。たった今論じて来たように、土地区画単位の賃貸について、いずれにせよ最も頻繁に行われた土地の現金化の手段として語ることが出来るのであれば、しかしその場合でも次のようなことまでは言うべきではない。つまり全体の所有地の個々の土地区画への分割がしばしば行われた可能性がある、ということである。また次のことも考えられよう。つまり特に土地の大規模所有が発生しておらず、土地が多くの者に分割して所有されていた場所において、しかしながら農業書の著者達によって一般的に、地方の農場で、管理人と多少の範囲の差はあっても広範囲の家族集団によって形成されていた人間集団が常に、より広範囲な土地においての農業事業の中心としてどこにおいても前提として扱われているのであり、そしてまたコルメラはただ agri longinquiores [longinqui fundi]、つまりその農場経営の中心地から地理的に離れた場所にある、相対的に小さな土地区画と分農場を小作人へ≪小作地として≫譲渡することについてのみ語っている 30)。
30) コルメラ、先に引用した箇所。
特にブドウとオリーブの栽培は、非常に規則的に大地主の本来の支配領域で行われており、全体の事業においてのその部分は、投機的かつ収益の上がるものと評価されて最も高度に統合されていたのであり、その一方次のような耕地の耕作については、それは多くの労働力を必要とししかし高い賃貸料を取ることが出来ないような耕地であるが、ブドウやオリーブの耕作とは反対に、相対的に見て自立していて、自分自身のリスクで耕作を行う小規模の家長で自分の家族をそれで養っていた者、つまり小作人に≪小作地として≫譲渡されたのである 31)。
31) もちろんここにおいても大地主は自分の所有する地所で、より良いものは出来るだけ自分の元に残しておいたのであり、その場合その者達はそこを貸して得られる小作人の賃借料の金額よりも多い金額を自分自身で稼ぎだそうとしたからである(コルメラ 前掲箇所)。その他の点ではしかし彼らはまさに穀物用の土地[ager frumentarius]を≪小作地として≫譲渡したのであり、というのも小作人は少なくとも濫作によって万一の損害を受ける場合にその程度を最小に抑えることが出来たが、≪雇い入れる≫奴隷を使った場合にはしかし、必要不可欠な人数を細心の注意を払って注文した場合であっても、経済的には非常に損する結果となる場合もあったからである。(コルメラ 前掲箇所)。
このやり方ではまた適当な額の賃貸料をそれに加えて獲得することが出来たが 32)、その理由は地方においての諸市場が、それは穀物取引については全体にほとんど扱われていなかったのであるが、農民による市場での直接的な穀物販売については、先に注記したように、恒常的な可能性が存在していたのである。
32) そういった地主達は次の理由からもこのやり方を採用出来るようになっていた。というのは近頃ゾムバルト(sen.≪=ヴェルナーの父であるヴィルヘルム・ゾムバルト≫)によって世の中に認められるようになった”Kuhbauern”≪直訳は雌牛農民。酪農を兼業して不作の時も何とか自活していくようなしっかりした農民のこと。≫を似たような農民層として見なすことが出来、そういった農民達は自分とその家族郎党の労働力だけを用い、一般に他人を雇い入れることが無く、それ故に固定費の支払いが無く、不作の時にはその者達自身だけで何とかやり繰りし「飢餓を耐え凌いで」[durchzuhungern]いたのである。結局のところは小作人の生存能力にとって、それにもかかわらず、またはむしろまさしく、小作人達の非独立的な経済的地位によって、次の要素が考慮されることになる。その要素とは小規模の地主に対して大地主の賃料の、他が同一条件の場合での優位性を基礎づけたのであり、そしてまたそれが次のことの基礎にもなっている:小作人達の生存能力についての地主自身の利害関心が、この者達に経済状況の厳しい際に一定の土台を与え、また非常に程度の大きい危機の衝撃を、地主達が所有している土地全体の経営においての諸要素の弾力性によって分散した、ということである;他方では土地を小区画に分割してそれぞれを賃貸して小資本を得ることによって、結果として小規模地主が持つことが出来ない事業の運転資金を確保出来るためより経済的に上手くやっていけるのであり、そして相続開始の際の不動産債務のリスクも取り除くことが出来た:大地主は、その者の意に適うように見える者、多くの場合は相続人の一人を小作人にしたのである。≪相続は今日と同じで財産だけでなく負債も引き継ぐが、小作人になるのであれば負債を引き継ぐことなく、土地の利用権だけが入手出来る。≫
地方における労働者
それでは大地主のその支配地に存在している農地で、そこで耕作を行った者達は一体どういった人員であったのだろうか?大地主の農場には、ほぼ自由民であるような日雇い労働者を見出すことが出来ないということは改めて強調する必要もないことである。奴隷による農場経営と、借金が返却出来なくなって強制労働を命じられたプロレタリア、または不法行為または握手行為の結果としてその農場の家族に加えられた市民の家の息子≪まだ独立していない息子≫達、それらがほぼ農業を事業として行う場合の主要な労働力の形態であった、――そのことについては農業書の著者達は全く疑念をはさんでいない。しかしながらもっぱら奴隷だけを使用することは、奴隷労働の上に本質的に構築された経営方式それ自体にとって、きわめて不利益な点が存在した。まず第一の点は奴隷が死亡した場合の資本損失である。ウァッローはそのため次のようにアドバイスしている 33)。それは健康に害があるような場所での作業には、奴隷ではなく自由労働者を使うということで、何故ならば万一その者達が病気になったり死亡した場合でも地主がそれを補償する必要は無かったからである。
33) ウァッロー 1, 17。
ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(57)P.305~308
「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第57回です。後2割を切っていよいよラストスパートに入っています。ここでは通常の農耕以外の牧畜業の実態が農業書に沿って論じられます。そしていよいよcolonus(小作農)の議論に入っていきます。19世紀初頭のドイツ、特にプロイセンでは農奴解放が行われました。このローマでの小作農の成立はいわばその逆のプロセスで、ヴェーバーだけでなく当時のドイツ人には関心の高いことがらだったのだと思います。
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しかしこの牧場経営というのもまた大規模経営という形でのみ行われ事実上そういった中小の地主達によって行われることはほとんど無かったのであり、そのことは折々主張されて来たが、その理由はイタリア半島でそういった牧畜という経済活動に適していたのは一部だけであり、古代においては特にアプリア≪現在のプーリア州でイタリア半島を靴としたら踵の部分≫においては、そこで見出されたのは calles、つまりアルペン山脈の中の牧草地においては≪ヴェーバー当時の≫今日なおそうであるように、≪定住して牧場を営むのではなく≫多数の家畜を引き連れて山中を移動していく移牧という形の牧者である 25)。
25) 帝政後期にそこで発達したのは、組織化されて他人に危害を及ぼす追剥の群れであった。テオドシウス法典のタイトル29、30、31を参照。ウァッローの農業書の第2巻は移牧者についての一般的な状況が説明されている。80-100匹の羊については1人、50頭の馬については2人が平均的な人員の数であった。アプリアでは馬追いが行われ、また同じくそこで輸送手段として使用するためのロバの移牧も行われた。ロバの価格はこのために高かった。ウァッローの p.207 (Bipont)によれば、一定の距離当たり40,000セスティルティウスであり、コルメラの時代ではよく訓練された奴隷の5倍の価格であった。家畜の群れは夏に高地にある公有地へと追い立てられる際に、徴税人によって牧畜税取り立ての目的で登録された。家畜の群れは冬にはアプリアでは、そこでは土地が小道で区切られて分割されていたが、より面積の広い、古代では800ユゲラの、後の時代では5,000ユゲラに達する農地・牧草地・家畜小屋が複合したものに留まった。この地域においては通常の農耕を主とする植民の試みは、どこにおいてもほとんど成功することはなかった。皇帝もまたアプリアでは山中の道と大規模な移牧用の家畜の群れを所有していた。そういった道が公有地化されることは、確からしいこととしては多くの場合起きておらず、むしろそれらの道全体はイタリアのムニキピウムにおいて、その領土に含まれない土地の中で最大のものとなったのであり、それ故にそれらは一般的に私財領域という名前で呼ばれていたのである。移牧者は武装しており、リーダー[magistri pecudis]に率いられて行動し、そのほとんどは奴隷であった。カエサルはそういった移牧者のグループの労働者の1/3は自由民にしなければならない、という法律を通そうとしていた。≪だが実現していない。没落農民の救済が目的。≫炊事などのために移牧者の群れに一人の女性が付けられ、1日の内のメインの食事はリーダーの下で全員が一緒に取り、それ以外の食事は各人がそれぞれ家畜の群れの側で取った。このようにまとめられた家畜の群れは、それが皇帝の所有物だった場合には、請負業者[conductores]に全体として任された。参照C.I.L., IX, 2438、そこではサニピウム≪現在のモリーゼ州のカンポバッソ県のセピーノ≫の地方官吏が請負業者への嫌がらせを中止するよう命じられている。その他の場合については、先に引用したウァッローの箇所と比較せよ。
ついには主要都市や交通量の多い街道の近くでは、特別に主要都市の贅沢品の表に載せられたようなものが生産され、そこにおいては実際大規模な家畜の飼育場が存在し、――いわゆる villiticae pastiones [ヴィラ内の飼育場]であるが――、それらに対しては多額の使用料が課せられていた 26)。
26) 参照ウァッローの1. IIIの冒頭と第1章にて。
こういった方向の発展は文献史料においてもまた現れており、というのは一方でカトーが牧畜をまだ農耕との有機的なつながりの中で取り扱っているのに対し、ウァッローは res pecuaris [牧畜]に既に独立した位置づけを与えており、その方針で独立した章を与えて詳述しているが、そして同様に villitane pestiones についても更に詳細に説明している。しかしその他の点では耕作の技術については農業書の著者達の記述を見る限りでは、カトー、ウァッローとコルメラの時代においては本質的な違いは存在しない。もっとも叙述された農場経営の次元の拡がりという点ではカトーと比較してコルメラにおいての方がより拡がっている。ワインとオリーブの製造は、カトーの記述(農業書3)によれば、まだ段階としては我々の時代で言う自家製造に留まっていた。最も頻繁に行われた業務としてのオリーブとブドウの収穫物の販売は青田売り≪まだ実が枝に残っている状態での売却≫であったように思われ、そしてこのような形での売却はまたコルメラによれば収益性計算の基礎でさえあった;しかしながら全ての大規模経営者はブドウ搾り場やオリーブ油搾り機を、自前の専門作業者を確保していたのと同様に、自分自身で保有していた。私の考える所では、読者は次のような印象を持たれるであろう。それは、このようなやり方で経済における需要充足を自分の独占販売という形で取り込み、そして製品を市場で売れるものに仕上げていくという傾向が、大規模な経営においては拡大しつつあった、ということであるが――それは国家行政においては賃借料としての税を廃止することと並行して起きた現象であるが――その原因については後で更に取り上げる。――
大小の経営
今や次のことを確実に行わなければならない。それはこういった大規模な事業がその他の点では、特に事実上それが単なる大規模所有に留まったのではなく、大規模経営であったかどうかを考えてみることであり――それがもし正しいのであればどのような形態でそれが行われたのか――、そしてその大規模経営が帝政期における所有権についての法形成をどう導いたか、ということである。その際に十分考えてみるべき問題は、どのような人達が、独立してまたは誰かに従属して、農業経営に従事したか、ということである。ここにおいて特に問題とすべきなのは:自営する農民達であって生計を維持していけるような身分というもので、我々の時代の(独立)農民に比肩するような者達が、存在していたのか、ということである。確実であるのは、小規模な地主の身分が、第二次ポエニ戦争以来、非常な程度にまで失われつつあったと把握されていた、ということで、その結果として立法上はそれらの者を保護する必要性があるように見なされていた、ということである。
こういった傾向は後には見られなくなっており、モムゼンによる統計的な食料配分表 27) のおかげでそれが明らかになっている。そしてこのことはなおトラヤヌス帝の時代においても、≪貧窮した独立農民救済のための≫三人委員会が廃止され時期と比較しても、更に減少していた。
27) ヘルメス XIX、p.395以下。(食料配分表とローマの土地分割)。
こうした考え方が消滅していくという傾向は、ベネヴェント≪カンパーニャ地方のアッピア街道沿いの都市≫の山沿いの地方ではよりゆるやかに進行し、ポー平原でがより速く進んだ 28)。
28) ベネヴェントに(強制)移住させられたリグリア族≪ローマ北西部に住んでいたローマの先住民の一つ≫に対しては約40万セスティルティウスの資本が66人に対して分割されて与えられており、またウェレイア族≪Velejaten、リグリア族の支族≫に対しては52人に対して100万セスティルティウスが与えられていた。ベネヴェントにおいてはまだ農民が個人で所有していたものの方が多く、ウェレイア族については受領者がもらった金額はそこの農民の≪土地に換算して≫半分で10万セスティルティウス以下であり、多くの農民が所有していた土地の合計は元老院がケンススに登録した土地よりはるかに多かった。広大な(公有地化された)山岳地帯の土地の評価額は最大で125万セスティルティウスに達していた。
このことは先の注記の内容から引き出される仮説を証明することになっている。それは交通量の非常に多い街道の近くでは一般的な発展傾向が加速された、ということである。こうした傾向のもたらしたものが、多少の程度の違いを無視すればほぼ完全なものだったとしたら、いずれにせよそこで見て取れるのは、自営の小規模地主(自作農)の身分というものが、更なる土地制度の発展の中ではもはや存続し続けていけるものではない、ということである。―経済面での更なる発展についてはむしろ次の形の経営の在り方が目に付くようになっている。それは地方の土地での villa rustica[地方の農園]と並んで更に villa urbana[都市圏での農園]を所有することであり、またそれまでの耕作においては使われていなかった1年の中での特定の期間について、新たな業務に従事することであり、地主が1年の内の全期間都市に住みつくという状態は、しばしば不在地主という呼び方で非難されることとなった。(しかし)それによって地主達は経営の範囲を拡大することが出来たのである。土地貴族による政治的支配ということは、その者達が常にローマに滞在して政治活動に参加することに基づいていた。そのような人物としては、リヴィウスが描いたキンキナトゥス≪BC5世紀の伝説的政務官≫のように、あるカテゴリーを形成するものであり、実際にはそのカテゴリーに多数の者が属しているということはなかった。このような地主としてのその所有地の場所での不在は、むしろ意味するのは土地の投機目的での利用であり、また資本家的なビジネスに参加することであるが、このことは次のような結果をもたらした。それは大地主の地位というものが本質的には土地から上がる賃借料をただ消費するだけで、自分の農場はめったに訪れない、都市における資本家になっていた、ということであり、そのことはカトーとウァッローがその農業書の中でそういった傾向を嘆いていることから判明するのである。ある継続的な、彼ら自身による合理的な経済活動の推進は、一般的に言ってそういった土地所有について何かを期待するのではなく、定期的にある決まった額の賃貸料を得るというだけのものであり、しばしば単にその時々に収益が上がれば十分と考えられていたこともあった。
共和政期の小作人
それに対して検討してみる価値が十分にあると思われるのは、「農民」と「小作人」――colonus――という呼び方で――それぞれがこの表現で呼ばれているような身分としてあったとして――それぞれの自己認識[アイデンティティー]において、それぞれが社会的に重要な農民としての特性を保持していたかどうか、ということである。それを否定することとしてはまず第一に、既にローマにおいての小作権の法学的構成において現れている。小作人は概して第三者に対抗出来る法的手段を持っていなかっただけでなく――また暴力による権利の侵害に対しても無力であり――、その者達には地主[dominus]に対抗するための所有権上の保護も与えられていなかった。我々の時代に通用している法から見れば、あり得ないほど苛酷な条件で締結された賃借契約は、それは大家の組合とか似たような利害団体がたくらみそうなことであるが、次のようなことを目的とすることが可能になっていた:それは(契約解除の際は)賃借人は直ちに借りている物件を明け渡さねばならず、そしてそこには何らの自力救済の手段もなくそれが強制され得たのであり、その後になってもしその賃借人がそこに引き続き住み続けることの権利を立証出来た場合には、その退去によって被った損害についての補償を受けることが出来たのであり、こういったことは賃借人だけではなく小作人に対してもローマ法の基本原理として適用されたのである。
生成AIによるリアルタイム調査ー石のローラーによる麦の脱穀
ここをご覧になっている方には大学で教えられている方も多いと思いますが、以下のような私とChatGPT4oのやり取りをどう思われますか?
以下のリアルタイム調査10分くらいしかかかっていません。
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あなた:
ヴェーバーの「ローマ土地制度史」の中におそらく円筒形の石を家畜に引かせて麦の穂を落とすというのが出て来ますが、火野葦平の「麦と兵隊」の中に火野が二尺くらいの直径の円筒形の石が農家にいくつか残されていたのを、これは麦を地面に撒いてその上からこの石を驢馬に引かせて穂を落とすのだろう、と推定しています。この推定が正しいとするとローマの時代の方式が近代の中国でもまだ行われていたということでしょうか?
ChatGPT:
あなた:
ChatGPT:
あなた:
ChatGPT:
あなた:
ChatGPT:
いしいひさいち風ヴェーバー

ジブリ風マックス・ヴェーバー
今話題のChatGPTのジブリ風自画像イラストを、マックス・ヴェーバーでやってみました!爆笑。「ローマ土地制度史」の日本語訳の表紙に使おうと思います!
ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(56)P.301~304
「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第56回です。ローマでは、戦争の結果得た海外領・属州から安い小麦が大量に入って来て、イタリア半島での農業は穀物以外の様々な方向に向かいます。しかし最初に植えてから収穫までブドウで2年、オリーブで8年程度かかるのであり、また初期投資も必要で資金力が豊富な大地主しかそういうことは出来ず、ということになります。しかしここでのヴェーバーの記述もただ農業書の記述をまとめているだけに見えます。またブルジョアだったヴェーバーに農業の深い知識は無かったように思います。
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そうした穀物やワインなどの販売は、定期的な決まった場所での競売という形で行われていたように思われ 12)、明らかに遠方の買い手と取引するということはほとんど想定されていなかった。なるほどカトーは農場が海や船が航行可能な河川あるいは交通量の多い街道の近くに位置している場合には、そうした遠方との取引は利益の上がるものとして言及している。しかしそれを行うことは刈り取りのための十分な労働者を確保できるかどうかにより依存していた 13)。
12) カトー 先の引用箇所。
13) カトー 農業書1。
陸上輸送について実際の所、何れかのかなりの距離の遠隔地が想定されている場合には、敢えてやってみようということには通常ならず 14)、そしてコルメラは、海の近くや大きな河川の側に農場があるということが、原材料と商品の交換取引を容易にすると言っている一方で、大きな街道の近くということは兵士の宿泊を強制されたり、そういった街道に出没するならず者の存在のため、望ましいことではないとしている 15)。いずれにせよローマにおいての穀物市場はそれをローマの農業全体で見た場合、海上輸送により国家のために輸入された≪ポエニ戦争などの勝利などによって獲得したシチリア、北アフリカ、エジプトなどから≫穀物によって失われることとなったのである。それに対して地方市場においては、こういった海外から輸入された食物が十分需要を賄うほど入って来ることは稀だったので、それ故に定期的な、規模は大きくないにせよ、しかし確実に行われる販売は、農業での穀物の場合でも確実な需要があったのである。
14) ウァッローの計算によれば、海沿いの土地については、贅沢品や嗜好品の栽培に適した土地で取ることが出来る地代については、内陸部の同様の土地と比べ5倍も高かったのであり(ウァッロー 農業書III、2)、大量に栽培される食品についてはこの差の意味するところは更に大きかったに違いない。
15) コルメラ I、5。
それ故に非常にしばしば語られてきてまた一般に否定することも出来ない海外からの輸入農作物との競争の作用については、そこまで緊急に対応が必要なものではなかったとも考えることが出来よう。国内の大部分の場所において情勢としては安定したものに留まっており、農業書の著者達はその時点でもまだ良く知られた近隣団体との秩序ある一致団結を前提として話を進めており、隣人達との良い関係を継続することに価値が置かれており、農機具や穀種についてお互いに融通しあう相互扶助は自明のことであり 16)、そして各人の間での無利子の(相互の)借金(mutum)の依頼は、こうした確固たる隣人団体の片鱗が残っていなかったらあり得ないことであった。
16) カトー 農業書5と142。カトーはもちろん相互扶助というものを、ある確固とした諸家族の集まりの間に限定して理解しようとしている。しかし運搬用の家畜の相互の貸し借りについての支持は農業書4で規則的に言及されている。
穀物、オリーブ、ブドウ栽培の運命
しかしもちろん穀物栽培が死刑宣告されていたということは疑いようがなく、何故ならば生産者の側から見て業務として(穀物を)売却することはされておらず、地方市場で売却する品目としても、ただ条件が揃った婆にのみそう扱われていたからである。そのことは次の場合により一層重要なこととなった。それは土地に関する事情という点で都市的なものの見方が流入して来た場合にであり、それは定住方法とか都市の市場に対しての政治的な関わり方をどのように一緒に持ち込んで来たかということであり、しかしその上に更に、ローマに定住している大地主達にとっては土地貸し代という現金収入は差し迫って必要なものであったからであり、土地貸しの代金の額はその者達の利害関心にとってもっとも重要なものとなったに違いない。カトーの著書やその他の農業書の著者達はある一定の方向で、例えばテール≪Albrecht Daniel Thaer、1752~1828年、ドイツの農学者>の「合理的な農業」と同様のことを要求しており、それらは次の事から発生しているものである。つまり、投資として農地を購入しようと意図している者に、本の中で助言を与え、そして次のことを詳しく説明している。その内容は常に実践の中で積み上げられた好事家によるノウハウという形で、農場経営を始めようとする者が知っておかねばならないことであり、その目的はその者が使用する農場の管理人を大枠で上手に管理出来るようにすることであった 17)。
17) カトーの助言――農業書2――は農場の管理人を訪ねてその者がどのように農場を管理しているかの監査についてのものや、そしてその管理人がそこで働く家父長達からどのようにその専門的知識を吸収出来るようにするかの方法についてであり、それが非常に特徴的である。
穀物栽培が収益を生み出さないということは、既にカトーの時代において次の結果をもたらしていた。それはつまり、農場経営者達が穀物を栽培している耕地に対して土地改良のために資金を投入することを多くの場合ためらわせた、ということである 18)。その者達はむしろ重点を農場経営の他の分野に移していっていた。良く知られた例として、時間が経過するほど盛んになっていくブドウとオリーブの栽培については既に述べた。それと並んでまた豆類、野菜、そして樹木の栽培が前面に登場して来ていた 19)。
18) カトー 農業書1:scito…agrum…quamvis quaestuosus siet, si sumtuosus siet, relinquere non multum. [心得よ…土地を…それが収益が上がるものであっても、もし多くのコストがかかるのであれば、利益として残るものは少ないのである。]
19) カトー 161でのアスパラガス、156以下でのキャベツ。豆類は最初にコルメラ(II、10以下)の農業書においてより多く前面に登場している。同様に野菜または花卉は明らかに生産量が増えていっていた(コルメラ、I、10巻)。樹木の苗圃においての種子の利用や逆に海外からの購入はウァッロー I、41に出ている。樹木の栽培についての詳細な記述は既にカトーの40以下に出て来ている。(接ぎ穂そのもの、接ぎ木はウァッローのI、40にて、植木鉢による栽培はカトーの52.)都市の近郊では、カトーの書にまた植林が利益性の高いビジネスとして≪薪の生産のため≫推奨されている(農業書7);それと並んで建築材料としての利用やザルなどの製造のための葦と柳の栽培が多く言及されている(salictum[柳林]は農業書1にて耕地においての自明のカテゴリーの一つとして登場している)。
ブドウやオリーブ栽培の畑を所有するということは、穀物栽培との比較で、ローマのこの時代では、最近の言い回しを許容するならば、そういった穀物以外の栽培は労働集約的ではなく資本集約的ということである。コルメラによる計算では、ブドウ畑の場合には苗とその他ユゲラ当たりで必要なものの費用は地代の3倍にまでなっていた、ということである 20)。
20) コルメラは1、IIIの第3章で次のように計算している:7ユゲラのブドウ畑に対しては一人のブドウ畑専門の農夫[vinitor]が必要であり、共和政期のような足枷を付けられた罪人の奴隷[noxius de lapide]ではもはや駄目で、その当時は経験豊かな労働者を雇うことになったのであり、それには6-8,000セスティルティウスの費用がかかった。≪通常の農場奴隷の約3倍≫それに加えて更に地代が1000ユゲラ当たりで7,000セスティルティウスかかった。そこに更にかかる費用が vineae cum sua dote [自分自身の持参金付きのブドウ]≪持参金は文脈によってはジョークとしてコストの意味でも使われた。≫、つまり「支柱と苗木」[cum pedamentis et viminibus]の費用で、2000ユゲラ当たりで14,000セスティルティウスが必要だった。ここまでで合計29,000セスティルティウスになり、それに更にブドウが実際に収穫出来るようになるまでの2年間の期間利息で6%で3,480セスティルティウスがかかった;――合計の投下資本は32,480セスティルティウスとなる。6%の利息をカバーするには収益として1,950セスティルティウスが(1年当たり)必要となる。1ユゲラ当たり1クレウス[culleus](=525.27リットル)、1クレウス当たりの最低価格は当時300セスティルティウスであり、利益は2,100セスティルティウスになる。この全く面白くはないが仕方なくそこで行われている計算は、明らかに次のことを前提としていた。つまりブドウ専門の農夫と非常勤の労働者の扶養料を――というのもブドウの木というのは幹を作らず蔓で支柱に巻き付くのであるが(カトー 32)、しかしそれでも一人の労働者が7ユゲラ全てをカバーすることは不可能だったのであり――耕地全体で追加の労働力を見込んでおく必要があった。そのためこの費用はブドウ畑のみの勘定には付けられていなかった。
そういうことがあっても、コルメラとカトーの述べる所によれば、人数に関してはブドウやオリーブ栽培は、同面積での穀物栽培と比べてより少ない人数しか必要ではなく、そしてオリーブ栽培の場合は労働力という点で見る限り、特に有利だったのである 21)。
21) カトーは240ユゲラのオリーブの栽培に13人、100ユゲラのブドウ畑には16人の常勤の労働者が必要だと見積もっている。オリーブとブドウの栽培はプランテーション的なやり方で鋤を用いて(ウアッロー 1,8)、より多くの肥料が投入され、そして共和制期には最低レベルのコストの奴隷を使って行われた可能性がある(後述の箇所参照)。
こうした事情は農業技術と同じくカトーの時代からコルメラの時代まで大きく変わることはなかった可能性がある。
牧草栽培、大牧場の経営と牧草農場
全く同様にこういった事情は集中的な牧草栽培の場合にも見られるものであり、それはカトーにおいて、またウアッローにおいて更に前面に登場している 22)。
22) カトーによる農場経営での収益性の高いものの順番は(農業書1):ブドウ、灌漑された耕地での野菜・果物栽培、柳の林、オリーブ、牧草地、穀物畑、伐採林≪薪の採取≫、雑木林、ドングリ林(林の中の牧草地≪豚にドングリを食べさせて飼育した。≫)。ウアッローは1、7でbona parata [良質な牧草地]、――先祖代々の良く整備された牧草地(つまりゲノッセンシャフトによって十分に灌漑された牧草地)――特に記載している。
ここにおいてもまたかなりの程度の資本投下が必要だったのであり、特に灌漑設備への投資がそうであり、それについてはゲマインデの公共水道から水が1時間当たりいくらの料金で供給されたのであり 23)、そして土地の境界線をまたぐ水道管の敷設が地方条例によって 24) 承認されたのである。
23) C.I.L.、XIV、3649。また3676他多くの箇所でも。
24) ゲネティヴァ・ユリアの法規(Eph. epigr. II, p.221以下)第100章。
先に詳述したローマにおいての対物信用の特質からすると、土地改良が目的で個人資本を継続的に課税される所有地に投資することは簡単に出来ることではなかったので、このような集中的な土壌改良へと移行するためには現金が必要だったのであり、それを行うことが出来たのはただ大地主のみであったのである。他方で中小の地主が労働力と資金の両方を同時に節約しようとした場合に可能だった方法は、牧場経営に移行することであった。