ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(58)P.309~312

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第58回です。ここは地主と小作人の関係が詳しく論じられています。借金を相続によって背負わないため、相続人が小作人になって土地の使用権を得る(同時におそらく相続税も免れる)といった、古典的な財テクみたいなことが行われているのが興味深いです。また地主と小作人は地主が小作人を搾取するといった唯物史観的な見方だけをするべきではなく、ローマ社会で一般的だったクリエンテスーパトロヌスの関係(親分子分関係)としても理解するべきと思います。
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次のことは言うべきではない。つまり平均的な事例を見る限りでは、このような劣悪な扱いは自明のこととしてまでは起きていなかった、ということであるが――いずれにしても次のことは確かである。つまり社会的に重要でかつその自覚も持っていた者達は、そのような劣悪な権利状態を甘受しようとはしなかったのではないか、ということである。国家から公有地を借りていた者は確かに国家に対しては不安定な状態に置かれており、特に契約がケンススでの登録期間が満了した場合に解除される可能性があって、そしてただ行政上の保護のみを受けられた場合にそうであり、その他の点ではしかしその者達はただ場所[locus]としての保護を、それが元々ただ一般的に存在していたもの、つまり占有されていたものとして、という範囲での保護を受けられるだけであった。個人の土地を借りていた者達については、こういったレベルの保護すら与えられておらず、そのことからはっきり分かることは、その者達の他の全ての社会的条件が劣位にあったことと、経済的に弱者であった、ということである。このことからすぐ明らかなこととして結論付けることが出来るのは、我々は大規模な賃借人の身分について、それが≪ヴェーバー当時の≫今日のイタリアにおいて大地主達と部分的に対立しているということを、そのまま古代ローマでも同様であったろうと考えるべきではない、といことである。≪ヴェーバーが言っているのは19世紀のイタリアでのメッガドリーナという分益小作制度を古代ローマの小作制度と同一視すべきではない、ということ。≫カトーは賃借人について、自分自身でその土地を耕作しないで、その土地を一族郎党に耕作させようと欲している者を厳しく諫めている。そしてまた確かに公有地が資本家達に対してかなりなまで大規模に提供され、その使用目的は個々の土地区画の大規模な複合体を賃貸目的で使うことであり、またそういった土地を次の程度までに投機のために使い尽くす(搾取する)ことであり、その程度とは個人の小地主には決して利用させてもらうことができないものであり、またその一方で manceps[中間契約者]の仲間たちが利用出来る公有地の管理については、その使い方について厳しくチェックされることがほとんどなかった、そういう程度である。lex censoria はなたそれについての条項などをその中に含めようとしていた。一般的にそういった状況に適合する形で、大地主達に対して、その者達がその土地の多くを賃貸ししている所では、それに対して小規模な賃借人が対置され 29)、そして土地区画の面積という点でより大規模な所有地の貸出しは、今日と同じく当時も相対的に高い賃料が課せられることが多く、このことはまた事業としても見ても有利なことだったからである。

29) 特にまた、これについては次に述べることになるが、継続して定住させられた小作人達は、圧倒的に小規模の賃借人であったに違いなく、中規模以上の家長達ではなかった。全ての我々が持っている知識(例えばメクレンブルクにて≪メクレンブルクは19世紀後半になってもグーツヘルによる大農場が継続し、農奴解放が遅れていた。≫)によれば、次のことが知られている。それは継続的な植民というものは、国家がより大規模経営の可能な農民をそこに公有地の領主または非常に大規模なグーツヘル、例えばプレス公のような地位の者≪プレス公ハンス・ハインリヒII世はシュレージエン地方に数万ヘクタールの土地を所有していた。≫、を送り込むことで行われ得たのであり;より小規模のグーツヘル達は常にただ小作人または小農民という立場にされたのであり、そういったことが植民地化という作業を非常に容易にした可能性がある。

何よりもまず土地区画について賃貸料を取ることは、定常的な土地レンテ≪労働を伴わないで定期的に入ってくる収入≫を取ることが出来るようにすることを目指すことを可能にし、そしてこのことは共和政期と帝政早期においては本質的な観点であったに違いなく、というのはそこから上がる収益はそこ以外で――つまりローマで――消費されることになったであろうからである。確からしいこととしてこの理由から、分益小作≪地主が土地を提供し、小作人が耕作し、収穫物を地主と小作人で分け合うという一種の共同事業形式の小作≫はその完成形までの発展はほとんど起きなかった、――分益小作は法律史料にただ一度だけ次のような内容で言及されていた。つまりそのことの法的な構成が――場所についてなのかソキエタース≪地主と小作人の事業組合≫についてなのか――疑わしく思われる、そういった内容である。地主が――その者が非常に規模の大きな地主階層に属していなかった場合に――確実な現金収入を得るための手段としてのオリーブ油とワインの製造を保留にして放棄したように、小作人との≪共同事業的≫関係もまた進展しなかった。そのことに符合していることは、地主(自身)が農業に必要な土地以外の装備一式[instrumentum fundi]を用意したということと、また小作人に対しては、一般に農場経営を立ち上げる際に、小作人の自由に任せて好きにさせることはほとんどなかった、ということである:小作制度の本質的な目的は、リスクを地主が負うのではなく小作人に押しつけるということと、また地主の方にとっては確からしいことは、大きな金額ではないにせよ確実な現金収入を得る保証を得ることであった。というのも、こういった関係の全体は、また地主が自分の土地で農耕を行う方法・やり方として把握されるからである 29a)。

29a) コルメラ 1, 7。

土地区画賃貸の存在条件

以上述べて来たことの中には、本質的に既に後の時代の変化の萌芽が見られるのであり、それは農地においての労働のあり方が変わったことと関連している。たった今論じて来たように、土地区画単位の賃貸について、いずれにせよ最も頻繁に行われた土地の現金化の手段として語ることが出来るのであれば、しかしその場合でも次のようなことまでは言うべきではない。つまり全体の所有地の個々の土地区画への分割がしばしば行われた可能性がある、ということである。また次のことも考えられよう。つまり特に土地の大規模所有が発生しておらず、土地が多くの者に分割して所有されていた場所において、しかしながら農業書の著者達によって一般的に、地方の農場で、管理人と多少の範囲の差はあっても広範囲の家族集団によって形成されていた人間集団が常に、より広範囲な土地においての農業事業の中心としてどこにおいても前提として扱われているのであり、そしてまたコルメラはただ agri longinquiores [longinqui fundi]、つまりその農場経営の中心地から地理的に離れた場所にある、相対的に小さな土地区画と分農場を小作人へ≪小作地として≫譲渡することについてのみ語っている 30)。

30) コルメラ、先に引用した箇所。

特にブドウとオリーブの栽培は、非常に規則的に大地主の本来の支配領域で行われており、全体の事業においてのその部分は、投機的かつ収益の上がるものと評価されて最も高度に統合されていたのであり、その一方次のような耕地の耕作については、それは多くの労働力を必要とししかし高い賃貸料を取ることが出来ないような耕地であるが、ブドウやオリーブの耕作とは反対に、相対的に見て自立していて、自分自身のリスクで耕作を行う小規模の家長で自分の家族をそれで養っていた者、つまり小作人に≪小作地として≫譲渡されたのである 31)。

31) もちろんここにおいても大地主は自分の所有する地所で、より良いものは出来るだけ自分の元に残しておいたのであり、その場合その者達はそこを貸して得られる小作人の賃借料の金額よりも多い金額を自分自身で稼ぎだそうとしたからである(コルメラ 前掲箇所)。その他の点ではしかし彼らはまさに穀物用の土地[ager frumentarius]を≪小作地として≫譲渡したのであり、というのも小作人は少なくとも濫作によって万一の損害を受ける場合にその程度を最小に抑えることが出来たが、≪雇い入れる≫奴隷を使った場合にはしかし、必要不可欠な人数を細心の注意を払って注文した場合であっても、経済的には非常に損する結果となる場合もあったからである。(コルメラ 前掲箇所)。

このやり方ではまた適当な額の賃貸料をそれに加えて獲得することが出来たが 32)、その理由は地方においての諸市場が、それは穀物取引については全体にほとんど扱われていなかったのであるが、農民による市場での直接的な穀物販売については、先に注記したように、恒常的な可能性が存在していたのである。

32) そういった地主達は次の理由からもこのやり方を採用出来るようになっていた。というのは近頃ゾムバルト(sen.≪=ヴェルナーの父であるヴィルヘルム・ゾムバルト≫)によって世の中に認められるようになった”Kuhbauern”≪直訳は雌牛農民。酪農を兼業して不作の時も何とか自活していくようなしっかりした農民のこと。≫を似たような農民層として見なすことが出来、そういった農民達は自分とその家族郎党の労働力だけを用い、一般に他人を雇い入れることが無く、それ故に固定費の支払いが無く、不作の時にはその者達自身だけで何とかやり繰りし「飢餓を耐え凌いで」[durchzuhungern]いたのである。結局のところは小作人の生存能力にとって、それにもかかわらず、またはむしろまさしく、小作人達の非独立的な経済的地位によって、次の要素が考慮されることになる。その要素とは小規模の地主に対して大地主の賃料の、他が同一条件の場合での優位性を基礎づけたのであり、そしてまたそれが次のことの基礎にもなっている:小作人達の生存能力についての地主自身の利害関心が、この者達に経済状況の厳しい際に一定の土台を与え、また非常に程度の大きい危機の衝撃を、地主達が所有している土地全体の経営においての諸要素の弾力性によって分散した、ということである;他方では土地を小区画に分割してそれぞれを賃貸して小資本を得ることによって、結果として小規模地主が持つことが出来ない事業の運転資金を確保出来るためより経済的に上手くやっていけるのであり、そして相続開始の際の不動産債務のリスクも取り除くことが出来た:大地主は、その者の意に適うように見える者、多くの場合は相続人の一人を小作人にしたのである。≪相続は今日と同じで財産だけでなく負債も引き継ぐが、小作人になるのであれば負債を引き継ぐことなく、土地の利用権だけが入手出来る。≫

地方における労働者

それでは大地主のその支配地に存在している農地で、そこで耕作を行った者達は一体どういった人員であったのだろうか?大地主の農場には、ほぼ自由民であるような日雇い労働者を見出すことが出来ないということは改めて強調する必要もないことである。奴隷による農場経営と、借金が返却出来なくなって強制労働を命じられたプロレタリア、または不法行為または握手行為の結果としてその農場の家族に加えられた市民の家の息子≪まだ独立していない息子≫達、それらがほぼ農業を事業として行う場合の主要な労働力の形態であった、――そのことについては農業書の著者達は全く疑念をはさんでいない。しかしながらもっぱら奴隷だけを使用することは、奴隷労働の上に本質的に構築された経営方式それ自体にとって、きわめて不利益な点が存在した。まず第一の点は奴隷が死亡した場合の資本損失である。ウァッローはそのため次のようにアドバイスしている 33)。それは健康に害があるような場所での作業には、奴隷ではなく自由労働者を使うということで、何故ならば万一その者達が病気になったり死亡した場合でも地主がそれを補償する必要は無かったからである。

33) ウァッロー 1, 17。

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