ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(41)P.240~243

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第41回です。
一般にグラックス兄弟や後のカエサルによる土地改革法の目的は、海外から安い小麦が入って来たり、貴族による大規模農園の経営によって競争力が無くなり没落して都市プロレタリアートとなった独立農民の救済と、かつ市民の数を維持してローマ軍の人数を確保することだったと説明されますが、ヴェーバーはそこに国家による資本家支援という非常にユニークな視点を提供しています。要するにローマが敵に打ち勝って新規に獲得して土地が、国家がきちんと使用方法を決める前に既に貴族などの富裕層による奴隷を使った農場経営が占有の形で行われていて、土地改革法はそういう占有を一方では上限を設けて制限する一方で、また改めて正式に認知した、という面があるのでしょう。
なお、vectigalというラテン語ですが、これの日本語訳は苦労します。小作料と訳すと、この時代に貧農層が多くいたような感じがしますし、地租と訳すと明治の日本みたいですし、現代の日本で言うなら固定資産税みたいなものですし、訳文中では賃借料と訳したり税金、地代と訳したり色々です。
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しかし当時更にまた、ユゲラ[面積]あたりの地代も規定されており、こちらの起源は間違いなくより古いものであった。同様に土地の購入にあたってユゲラあたりの価格で取り決めて行ったように、賃貸借でも同じやり方が用いられた。それ故に、また trientabula においても、名目地代は1ユゲラあたり1セステルティウスとされ、引渡される土地区画全体でいくら、という決め方ではなく、しかしその一方でその他の場合として、引渡される土地の価格がその土地の実勢価格に基づいて査定され、その時々の購入価額で担保に供されたということもあった。そのため、先に言及したルキウス・カエキリウス・メテッルス・デルマティクス ≪Lucius Caecilius Metellus Delmaticus、BC119年の執政官≫とグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス≪Gnaeus Domitius Ahenobarbus、BC122年の執政官≫の[2人が執政官であった]時に制定された lex censoria 50c) がアフリカにおいての賃貸耕地からの賃貸収益について規定しているのであれば、これは収穫物の一定割合か――法規は1/10税について言及しているが――あるいは固定額の(相対的にはより少額の)金銭地代であったかどちらかであり、その金銭地代は少なくとも地域毎に統一され、そしてあるいはまた二三の土地価額のクラスで分けられて、同じクラスであれば1ユゲラあたり同一価格で(その時は)あったか 51)、あるいは継続してそうであった可能性があり、というのはその公有地全体の全ての賃借耕地に対してそれぞれ個別に金額を提示するということまでは、そういった lex censoria の規定には含まれていなかった可能性があるからである。

50c) a.u.c. 693年(BC115年)

51) たとえばパンノニアにおいての耕地への貸借料設定は何段階かのクラスに分けられていた。

それ故にまた、より大きな面積でのまとまった土地を契約者が引き受けた場合には、貸借期間は100年とされ、ユゲラあたりのより低い固定額での地代が課され、競売において入札するものとしてはただ全体の購入価格のみ、とされたのである。そういった購入価額は、ただ保証人によってかあるいは所有資産(の証明)によって保証されたのであり、100年で満期となる毎年の賃借料の総額の支払いが必要だったのではない。このことによってさらに明らかになるのは、こうした公有地の賃借人は[通常の毎年の]賃借料を支払う小作人のように扱われたということであり(上述箇所参照)、同様にこの種の賃貸しの手続きは、”vectigalibus subjicere”[賃借料を条件とした]という表現と矛盾していない。このことが正しいと認められるなら、私の考える所では、次のことはかなりの程度確からしくなる。それは ager privatus vectigalisque についても手続きは同様のものであった、ということである 51a)。

51a) 法はおそらくZ.52 の:”(habeat pos)sideat fruaturque item, utei sei is ager loucs publi(ce a censoribus mancipi locatus esset ?”[その土地や場所を所有し、占有し、かつそこから利益を得ることが出来、それはまるでその土地や場所が監察官によって購入者に公的に貸借されているかのようである。]の所で暗に賃貸し耕地の競売による授与のことを述べていた。

いずれにせよ私見では、モムゼンがこの法において実質的な地代が定められていたという可能性を疑っていることは、意味をなさなくなるであろう。次に考えられるのは、法は現在失われている箇所(特にZ.51、52の欠落部)52) において、いずれにせよ相当な額のユゲラまたはケントゥリアあたりの地代を、おそらくはその際に初めて課していて、その結果として永代賃借料を引き上げた形になった、ということである 53)。

52) 確かに次のことは疑わしい。それは引用文献中の証拠の箇所として、その碑文中の欠落部分を使うことである。しかしそれにもかかわらず、この場合には次のことは確かである。つまりこの法がこの制度とそれに伴う該当する耕地についての、地代納入義務の規定を含んでいるということである。というのはこの規定について Z. 66 において参照されているからである。

53) 次のことがもし明らかになるのであれば、この地代の額についてもう少しはっきりしたことが分かるであろう。それは競売されている耕地を購入しようとする者が、この法の Z. 53 以下に従って何を公的に申告しないといけないか、ということである。私が信じたいのは、後のパンノニアにおける占有と同様に、その際の申告内容としてヒュギナスが p. 121 で言及しているが(更に後で引用する箇所を参照)、それはその耕地、牧草地、森、牧場の面積――あるいはまた同様のカテゴリーの――であるが、そしてその面積を購買者は所有することになったのであるが、その面積[とカテゴリー]に従って地代が課されたのである;というのも私がこの論文で統一的な地代の存在を確からしいものとして述べた際には、こうした原始的な諸カテゴリー、それらについては後で扱うことになるが、による地代の差異の可能性を決して排除していないからである。確からしいのは、土地購入についての公的な申告は、本質的にはこの目的[購入した土地のカテゴリーをはっきりさせて地代の額を決める]のためであったろう、ということである。その他のことについてこの法が規定しているのは、全体の処置においてまた、それどころかひょっとしたら主要目的として、所有者のことを規定しているのであり、その所有者達はこの法の発布の前から既に「購買」によって[本来は公有地である]土地を獲得していたのである。先に記述した貸借対象耕地の契約者についての注釈≪国家が土地斡旋によって資本家を作り出そうとしていたこと≫が正しかったとすれば、ここで扱われているのは、次の者達(注51a参照)に対して、その者達はアフリカの公有地における耕地を永代賃借料を支払う条件で貸借したのであるが、その者達自身に対してまた、取り消し不能な有限の所有状態が保証された、ということであり、そしてこのことがもし正しければ、その場合はここにおいてこの立法の前代未聞な資本家支援的な傾向が剥き出しの姿で登場してきているのである:なるほど立法家は公有地の大規模な土地所有者に対して直ちに地代を免除することは、イタリアでの例のように、躊躇していたが、しかし立法家は lex Thoria によって彼らに対してイタリアにおいての[大規模]占有者の地位を認めたのである。これに対して、次のような公有地の所有者、つまりその者の土地が監察官によって与えられることが多かった者[a censoribus locari solet]、つまり小規模の賃借人のことであるが、そしてそれは古くからのその土地の住民またはイタリア人であったが、その者達に立法家は保証(前述箇所を見よ)を与えこそしたものの、かつその者達はそれまでのような額の賃借料を支払う必要はなくなったものの、その代わりその所有状態は法的には不安定なものに留まった。――

もしハラエサ≪シチリア島北部のギリシア人による植民都市≫の碑文に――カイベル、ギリシア碑文集、シチリアとイタリア、Nr. 352――事実上、カイベルがそう想定しているように、作り出された土地区画についての地代に関する記載が含まれているのであれば、そのことは自然に考えればただ名目的に設定された一般的な価格であった可能性がある。その他、この碑文での κλᾶροι と δαίθμοι の制度については≪全集の注によれば、前者[クラーロイ]は単に(籤で)割当てられた土地の一単位、後者[ダイスモイ]はその内で賃借人に割当てられた区画のこと≫ここでの土地の位置決めは本質的には元々の所有者達の間での配置換えだったのであり、そこには[競売という]競争が入り込む余地は全く無かった。有名なアクラエ≪シチリア島南部のギリシア植民都市≫の碑文(カイベル、前掲書、Nr. 217)については作り出された土地の所有状態がどのような種類のものであったかについては不明であり(参照:ゲットリング≪Karl Wilhelm Göttling、1793~1869年、ドイツの言語・古典学者≫のアクラエ碑文、そしてデーゲンコルプ≪Karl Heinrich Degenkolb、1932~1909年、ドイツの法学者≫の先に引用した lex Hieronica に関する論文)我々にとってはそれらの情報は意味が無い。

永代賃借料は次の場合には当然のことながら課されなかった。それは同じ土地授与対象物全体を様々な購買者に何度も売却した結果として、ある者が購入済みで(既に代金も支払った)土地[が誰か別の者に与えられてしまった場合]の換わりに、別の土地が改めて授与された場合である:それがこの法の Z. 66 においての購買者に1セステルティウス[の形だけの代金]を支払わせた、ということの意味である。

測量地図

これらの耕地の測量はケントゥリア単位で行われており、それは完全な所有権を入手出来る土地割当ての場合のケントゥリアと区別されていなかったように思える(Z. 66)、故にその面積は200ユゲラであり ager quaestorius の場合のようにただ50ユゲラだけではなかった。土地の授与は取り消せない性質のものであり、それは “privatus”という表現が示す通りである。ager vectigalis としての性質は次のような結果を生んだに違いない。つまり土地の授与は握取行為の形式では行われなかったし、そういった土地の相続に関しての規制においては、それが国家当局の干渉無しに行われることもなかった、ということである 54)。

54) このことは、Z. 62、64の相続人に関する規定で言及されているようなやり方で法規中に出現している。このことが意味したことは単純に、属州の知事は次のことを行いうる立場にあったということであり、それはその者が土地の授与を許可したり、また誰にその土地を相続させるかについて原則を作り、それを布告する、ということである。というのはその者は行政担当官であるのと同時に裁判官でもあったからである。ager quaestorius と更に違うことは、ここでは limites viae publicae [公共の道路による境界線]であり、何故ならばZ. 89 とそれに続く部分でそのような補足を加えている規定は、[元の]カルタゴの領土だけでなく全てのケントゥリアに対して適用されていたからである。というのも賃借料は――我々の仮定では――ユゲラあたりで等しかったので、このことは課税可能な対象物を個々の購買者それぞれに十分に行き渡るまで分割することを可能にし、個々の購買者から単純にどの位の税が取れるか、その者が1ケントゥリアの中で何ユゲラを所有しているのか、それから1ケントゥリアあたりで[分割して]割当てた土地の合計が200ユゲラであることの確認、などについての管理を非常に楽にした。属州アフリカにおける土地の分割と土地制度全体の安定した状態は、あり得ないくらい長期に渡って変更されることなく維持されていたように見え、つまりは皇帝ホノリウス≪在位393~423年の西ローマ皇帝≫の時代まで続いたのであった。その当時(422年)に実施された改定が及んだのはテオドシウス法典の13の de indulgentis debitorum [借金返済の猶予について]によれば:アフリカ総督の管轄下:課税対象地として9002ケントゥリアと141ユゲラ、荒れ地として5700ケントゥリアと144 1/2ユゲラ、ビサンチンにおいて:課税対象地として7460ケントゥリアと169ユゲラ、荒れ地として7715ケントゥリアと3 1/2 ユゲラであり、合計でアフリカ総督管轄下で:16703ケントゥリア≪計算上は14703≫と85 1/2 ユゲラ、ビサンチンでは:15175ケントゥリア≪計算上は15075≫と172 1/2 ユゲラが課税対象領域において測量済みの土地面積である。

以上の記述からはまだその当時でも税の計算上は[ほぼ]1ケントゥリア=1ケントゥリア、つまり1ユゲラ=1ユゲラとして計算されていた、という印象を受ける。≪おそらくは実面積に何かの係数をかけて補正した形での面積を使って税が計算されてはいなかった、ということであろう。≫このようにして税額が決められ課税された全体の領域の面積は、ほぼ≪ヴェーバー当時の≫東プロイセン州の(例えばポーゼン≪現在のポーランドのポズナン≫の鋤で耕された耕地の大きさと同じであり、当時の制度に従ったやり方として、ただアフリカの耕された土地の大半について一部のみが、そうではあってもまたかなりの大きさのものではあるが、ここでは描写されている可能性がある。その他の部分の土地についての記述は後述の箇所で扱う。ここで述べられていることの全ては、私には何よりも次のことについて語っているように見える。つまりここで言及されている耕地に対しては、実質的な賃借料が課されていた、ということである。同様に次のことも述べている。つまりここでは境界線がまた道路として直線のまま保たれていた、ということである:そのことは既に注記したように、課税の管理を楽にしていた≪中世のドイツの農地では牛が鋤を牽いて蛇行して耕す結果として境界線が波状になっている土地が多かった。≫;これに対して通常の ager quaestorius においては、境界線は同じようにその土地の範囲を確定させるために厳格に管理されるべきであったが、しかし確からしいことと思われるのは、実質的な地代がそこでは課されなかったがために、その境界線を直線のまま保つことに対しての利害関心が全く生まれていなかったことになり、結果としては直線性は失われてしまったのである。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(40)P.236~239

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第40回です。
ここは今まで一番苦労しました。というのは注50で細かい字で延々と1ページ以上に及ぶ、かつ断片的な土地改革法の引用文が出て来たからです。ChatGPT4oの助けを借りながらなんとか訳しましたが、訳中にも注記したようにこれまで以上にここは参考訳です。
その内英訳等を探して再チェックしたいと思います。なお全集の注によるとヴェーバーはモムゼンの原文をそのまま引用したのではなくBrunsの本の引用から孫引用した上に、更には自分に都合の悪い所は抜いた、といったことが書いてあります。ヴェーバーの知的誠実性がどうの、というしょうもない本が過去にありましたが、しかしヴェーバーも軍役で忙しかったのかもしれませんが、決して完璧な仕事とは言えません。
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この地代の名目性という点において、収穫物の内の一定割合の物納から固定額の地代への変更が行われていたとしたら、次のケンスス実施までの期限付きの賃貸契約の決定においては占有ということはほとんど考慮されていなかったのと、またこの制度が[占有という]不安定な所有権状態を保持したままで継続するということがもはや不可能になっていたという二つの理由で、グラックス兄弟[の兄]がこの制度においての補償としてはただ占有状態の回復のみを規定しようと欲した後では、そこで規定されていたのは、lex Thoria の時代から lex agraria (a.u.c. 643年)での[公有地の不法]占有は、それらの法は占有を完全な私的所有権という観点ではその定義を変更したのであるが、もっとも確からしいのは ager privatus vectigalisque として扱うようにして、しかし名目的な地代ではなく実質的な地代を支払う義務のあるものに変えたということが起きた、ということであろう。以上のことは法の制定目的にも合致しているし、その法は一旦地代付きの私有地に変更された占有地の取り戻しを法律上不可能にしようとしたのである 49)。

49) というのもアッピアノスによれば(先に引用した箇所のI, 27)その中身は:
τῆν μέν γῆν μηκέτι διανέμειν, ἀλλ’ εἰναι τῷν ἐχόντων, καί φόρους ῷπέρ αὐτῆς τῷ δῆμῶ κατατίθεσθαι.
[その土地をもはや分配せず、それを市民のためにそのままに保持し、市民の利益になるようにする(課税する)べきである。]

より広範囲においての同様の所有状態がイタリアに存在していたことのはっきりした証拠は存在しない。というのは次のような仮定をするのは不当であるからである。つまり測量人達がイタリアにおける国有地としてしばしば言及している ager vectigales が、vectigalibus obligati agri [支払いを義務付けられた土地]という永遠に支払い義務のあるレンテン[定期支払い金]を思い起こさせるような表現にもかかわらず、法的には取り消し可能な貸借契約に基づく土地とは少し違うものと考えることである。この表現がこういった借地が事実上相続出来るものとされたことの結果であり、そのことについては先に論じた。

アフリカでの Ager privatus vectigalisque

これに対して一つの難問があり、それは次のような次のような国家の領土をどのように理解出来るかということで、その領土とは[ポエニ戦争の最終的な勝利の結果としてカルタゴが滅びローマの領土となった]属州アフリカにおいて a.u.c. 643年の土地改革法の規定によって、ローマ国家による公的な売却の形で私有の所有地へと変えられたものであり、そして同法によって agri privati vectigalesque と表現されたものである。――その法の該当部分の[不完全な現存テキストの]補完と解釈において 50)、何らかのより確実性の高いと表現してもよい前進を、次のものを越えて行うことは、それはつまりモムゼンがCorpus Insc. Lat. (Vol. I p.175 n.200)で述べていることであるが、あるいはそれ以外に追加の何かのもっともらしい仮説を立てることは、元資料の状態を考えれば私には不可能である。しかしいくつかの注記は述べておくことにする。

50) その内容はモムゼンの前述の箇所での補完に従えば以下の通りである:≪以下の日本語訳は参考程度。他のラテン語引用箇所と比べても抜けが多く、非常に意味を取りづらい。またヴェーバーによるイタリック体への変更箇所は、単語の途中でされていたりして意味不明なため、特に下線には変えていない。また原文の番号分けと日本語訳の分け方は必ずしも完全には一致していない。≫
49. esto, isque ager locus privatus vectigalisque u. … tus erit; quod eius agri locei extra terra Italia est … [socium nominisve Latini,
[(ローマの公有地である属州アフリカの土地は)それらは ager locus privatus vectigalisque として扱われる..;それらの土地と場所≪以前の議論で土地は割当てや売却の際にただ面積のみがそうされるのと、具体的な位置が割当てられることの両方があったことを参照≫がイタリアの領土外にある場合、ラテン同盟や同盟市の人々、]
50. quibus ex formula t]ogatorum milites in terra Italia inperare solent, eis po[puleis], … ve agrum locum queiquomque habebit possidebit
[また通常ローマ市民としてイタリアの領土での軍役に従事する人々に対して、…また誰であれ土地や場所を所有し、占有し、]
51. [fruetur, … eiusv]e rei procurandae causa erit, in eum agrum, locum, in[mittito … se dolo m]alo.
[それによって利益を得る者は、…またはその土地を管理するために、その土地または場所に悪意無く立ち入ることが出来るとする。]
52. Quei ager locus in Africa est, quod eius agri [… habeat pos]sideat fruaturque item, utei sei is ager locus publi[ce … IIvir, quei ex h. l. factus creatusve erit,] in biduo proxsumo,
アフリカにある土地や場所で、その土地を…誰かが所有し、占有し、またそこから利益を得るものについては、その土地や場所は公有地として扱われる…。この法律により選出された2人の者(担当官)は、選出されてから2日以内に、
53. quo factus creatusve erit, edici[to … in diebus] XXV proxsumeis, quibus id edictum erit [… datu]m adsignatum siet, idque quom
[公告を出し、そしてその公告が出されてから25日以内に、その土地が与えられ割当てられるようにすること、]
54. profitebitur cognito[res … ] mum emptor siet ab eo quoius homin[is privatei eius agri venditio fuerit, … L.] Calpurni(o) cos.
[(その割当てられた土地を割当てられた者から買った者の)代理人がその土地をケンススに登録する申告を行う時に、その土地の売却が私有地として行われていた場合は、その代理人が売却した者から(元々 ager privatus vectigalesque として割当てられた)その土地の購入者であることを確認してもらうことになる, …ルキウス・カルプルニウスが執政官であった年に]
55. facta siet, quod eius postea neque ipse n[eque …] praefectus milesve in provinciam er[it … colono eive, quei in coonei nu]mero
[行われたことのうち、その後に彼自身も…その代理官や兵士も属州において…(その土地が)植民者や植民者名簿に]
56. scriptus est, datus adsignatus est, quodve eius … ag … [u]tei curator eius profiteatur, item ute[i … ex e]o edicto, utei is, quei
[記載されている者に割り当てられたものである場合は、またはその土地についてその土地の管理人が申告するようにし、同様に…その公告に基づいて]
57. ab bonorum emptore magistro curato[reve emerit, … Sei quem quid edicto IIvirei ex h. l. profiteri oportuer]it, quod edicto IIvir(ei) professus ex h. l. n[on erit, … ei eum agrum lo]cum neive emp-
[またはその土地をその土地の売却管理人か売却責任者から購入した者が、…そしてもしこの法律を基いて出された2人の担当官の公告に従って何かを申告する義務のある者が申告を行わなかった場合は、その者に対してその土地や場所が]
58. tum neive adsignatum esse neive fuise iudicato. Q … do, ei ceivi Romano tantundem modu[m agri loci . . .] quei ager publice non venieit, dare reddere commutareve liceto.
[購入されたものでも、割当てられたものでもなかった、あるいは存在していなかったと判断されるものとする。Q…がそのローマ市民に対して、同じ面積の土地または場所を与えるものとする…その公有地が売却されていなかった場合には、その者はその土地を譲渡、返却、または交換することが認められる。]
59. IIvir, q[uei ex h. 1. factus creatusve erit … de] eis agreis ita rationem inito, itaque h…. et, neive unius hominis nomine, quoi ex lege Rubria quae fuit colono eive, quei [in colonei numero
[この法律により任命され選出された2人の担当官は、これらの土地について次のように会計上の処理を行い、…ただ一人の名前だけでそういった処理を行うことは出来ず、その者がルブリア法≪南ガリアに作られた植民市についての法≫に基づいて、植民者や植民者として登録された者に対して]
60. scriptus est, agrum, quei in Africa est, dare oportuit licuitve … data adsign]ata fuise iudicato; neive unius hominus [nomine, quoi … colono eive, quei in colonei nu]mero scriptus est, agrum quei in Africa est, dare oportuit licuitve, amplius iug(era) CC in [singulos
[アフリカにある土地を与えることが必要とされたり許可されたりすることがないようにするものとする…与えられ割当てられたと判断されるべきである;どのような一個人の名義においても、ルブリア法に基づき植民者とされたかあるいは植民者として登録された者に対してアフリカにある土地を割当てる必要があった場合でも、その個人に対して割当てられる土地は200ユゲラを超えないものとし、]
61. homines data adsignata esse fuiseve iudicato … neive maiorem numerum in Africa hominum in coloniam coloniasve deductum esse fu]iseve iudicato quam quantum numer[um ex lege Rubria quae fuit . . . a IIIviris coloniae dedu]cendae in Africa hominum in coloniam coloniasve deduci oportuit licuitve.
[(もし超えていた場合には)その土地がその者に割当てられているかあるいは割当てられていたと判断してはなならない。アフリカに入植した人の数が、過去に存在したルブリア法に基づいてアフリカに入植するために…植民市の三人委員会によって入植許可が与えられた人数よりも多い、または多かったと判断されるべきではない。]
62. Iivir, quei [ex h. 1. factus ereatusve erit …] re Rom … agri [… d]atus ad[signatus … quod eiu]s agri ex h. l. adioudicari
[この法律によって選ばれ任命された2人の担当官は、ローマ国家の権限で…その土地の授与または割当てについて…その土地が追加で与えられることが]
63. licebit, quod ita comperietur, id ei heredeive eius adsignatum esse iudicato [… quod quand]oque eius agri locei ante kal. I [… quoiei emptum] est ab eo, quoius eius agri locei hominus privati venditio
[許可されるならば、その土地がその者またはその者の相続人に割当てられたと判定すべきである…そしてその土地や場所が1月1日よりも前の時点で、その土地や場所の元々の私有地を売却した者から購入した者の所有となっていること、]
64. fuit tum, quom is eum agrum locum emit, quei [… et eum agrum locum, quem ita emit emer]it, planum faciet feceritve emptum esse, q[uem agrum locum neque ipse] neque heres eius, neque quoi is heres erit abalienaverit, quod eius agri locei ita planum factum
[ならびにその者がその土地や場所を購入した場合に、その土地または場所が存在していたならば、その土地についての測量図を作成するか、または既に作成していて、その購入の事実を明確にするであろう。その土地または場所は、彼自身も彼の相続人も、また彼の相続人となる者も譲渡しておらず、そしてその土地または場所についての測量図が作られている場合は、]
65. erit, IIvir ita [… dato re]ddito, quod is emptum habuerit quod eius publice non veniei[t. Item IIvir sei is] ager locus, quei ei emptus fuerit, publice venieit, tantundem modum agri locei de eo agro loco, quei ager lo[cus in Africa est, quei publice non venieit,
[2人の担当官が、その土地をその者に与え返還することとする…更に2人の担当官はその者が購買したことになっているが公的にはその者に売却されていないことになっている土地や場所について、その土地や場所が公的に別の者に売却済みの場合は、その者に対してその土地や場所と同じ面積のアフリカにある場所か土地で公的に未売却のものを、改めて割当てそれらをその者に戻すこととする。]
66. ei quei ita emptum habuerit, dato reddito … Queique ager locus ita ex h. l. datus redditus erit, ei, quoius ex h. l. f]actus erit, HS n(ummo) I emptus esto, isque ager locus privatus vectigalisque ita, [utei in h. l. supra] scriptum est, esto.
[この法律でによってそのように割当てられたか返還された土地や場所が、この法律に基づいて、それらを与えられた者達に、一単位≪おそらく200ユゲラ≫あたり1,000セステルティウス≪ローマの銀貨、奴隷一人が約6,000セステルティウスぐらい≫で売却され、そういった土地や場所はこの法律に書かれているように ager locus privatus vectigalisque とされる。]

先に言及した同法の規定によって通常の公有地賃借人のアフリカにおける賃借地の購入金額は、それぞれの土地での lex censoria に定められて決まっていた。それによって当時の公有地においての財の所有者は、その所有を事実上相続可能な財産とすることが出来、ただその所有状態に関していつでも取り消し可能という純粋に法的な不安定さがそれを他の所有状態から区別するものとなっていた。こういった不安定さが無いということと、無期限の所有割当てが、今や明らかに ager privatus vectigalisque の所有者を他の一般的な公有地賃借人から区別するものとなっている。

ager privatus vectigalisque における賃借料の性質

この ager privatus vectigalisque という土地については、法が明確に規定しているように、疑いなく資本払い込みに対しての土地授与という点が肝要である。このことからまた、こういった形での土地の授与は、我々が先に ager quaestorius の特徴として見出したこととまさに同じなのであり、そしてモムゼンも2つを同種のものとして総括している。しかし私にはこの ager privatus vectigalisque をその意味で理解することが出来るかどうかについては、全く確実とは思っておらず、そしてそのことは次の疑問と関係している。それはここでの賃借料が単に名目的なものだったのか、あるいはその額がごくわずかであったとしても実際に支払うものだったのか、という疑問で、それは検討してみるべきである。ager quaestorius が一般的に賃借料を条件とされていたのであれば――そのことによってその制度においては何も無条件には引き渡されてはおらず――、そのためその制度はある名目的なものと特徴付けることが出来、それは torientabula の場合においてモムゼンが確からしいと認めていることであるのと同じであるが、このことはまたアフリカでの ager privatus vectigalisque においても同じだったのである。ともかくも通常の ager quaestorius はそれ以外の点においては決して ager privatus vectigalisque と呼ばれることはなかったし、モムゼンもまたアフリカにおいて購入された土地について次のことまでは主張していない。つまりそれが一旦売却したものを将来再度買い戻す前提での担保という性格を持っていた、ということである。この名称は、前半部の”privatus”は一旦割り当てられた土地が取り消されることがないということを意味し、後半部の”vectigalis”は何らかの公租公課の負担義務があることを意味しているが、しかしこの2つをくっつけた場合には、それは不適切な(矛盾する)名称となってしまっているのでないだろうか。しかし特記すべきなのは、そういった所有状態で ager quaestorius が実質的にその中身と同じものを新たに作り出すにあたって、立法は必要とされず、ただ元老院決議にだけ基づいていた、ということである;法律はただ割当ての取り消しが出来ない、ということを定めたに留まっており、更にはローマの人民にとっての nudum jus Quiritium ≪ただローマ法上の虚構的な理論として存在していて実質的には存在しないクイリーテース所有権≫に留まっていて、その結果必然的なこととして、グラックス兄弟による土地割当ての際と、Lex Thoriaの時においてでは、ager privatus vectigalisque という表現の意味するところは変化していた。しかしながら次のことは確かに可能である。つまりモムゼンの仮説である、この制度における vectigal の性質としては、単なる仮課税と見なし得る、ということであるが、――グラックス兄弟においての土地割当てのやり方はアフリカに対して植民を進めるようなものと言え、そこで行われたのは、法においての資本家的な精神に沿っていて、土地が貧困者に割当てられたのではなく、富裕者に割当てられた、ということである。私は次のことを可能であると考え否定するものではない。それは、私にとっては主観的には以下のことが確からしいと考えられるということで、つまりは既に述べたことではあるが、賃借する土地の授与においてはまず次のやり方が先行したということで、そのやり方とは、ある契約者が個々の土地区画ではなく複数の土地のまとまりを長期間である確定した賃借料という形で競り落とした、ということである。次のことについては不確かなままである。つまり土地の競売において一対何に対して参加者は価格を提示したのか、ということである。我々は≪ヴェーバー当時の≫現代の競売についての知識から次のように考えがちである:賃借料の金額がそれであると 50a)。

50a) ヘラクレイア≪現代のトルコのマルマラ海の北岸の都市≫においての寺院領が競売された場合はそうであった。参照:カイベル≪Georg Kaibel、1849~1901年、ドイツの文献学者で古代ギリシアの金石分の専門家≫のギリシア碑文集の中の彼の担当部の Tabula Helacleensis に対しての注記。イタリアでの同様の例は同じ書の No. 645 を参照。碑文についてはしかしそれ以外で我々にとって重要な情報を提供してくれていない。競売対象を個別化して分けるということが同様に先に引用したエドフ神殿≪ナイル川西岸に位置するエドフの町にある古代エジプトの神殿 ≫の碑文において認めることが出来る。土地区画は大半が長方形で通路によってお互いに分離されていた。カイベルの書のP. 172、173の図を見よ。

しかしながら、こういったやり方はローマでの慣習的なやり方とほとんど合致していなかったように思われる。後にはもちとん、ヒュギナス(原文の P. 204)の印刷本の P. 121 にあるように、個別の、区画分けされた土地が、その面積と肥沃さに応じた地代を課されており、つまり個々人毎に異なっていた 50b)。

50b) 更に詳しい例は後述箇所を見よ。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(39)P.232~235

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第39回です。
前回あたりからグラックス兄弟の公有地分配政策が登場します。ご承知の通り、この政策はある意味ローマにおいて階級闘争的な大混乱を引き起こし、グラックス兄弟は二人とも殺されてしまい、改革は中途半端で終わり、最終的な政策の完成はカエサルを待たないといけません。しかしその法的解釈となるとなかなか難解です。ager privatus vectigalisque ≪私有地であるが課税される土地≫というのが出て来ますが、考えてみれば現代の日本の私有地も、私有地といいつつ固定資産税という名前の名目地代を永遠に支払わないといけません。このルールはやはりローマなのでしょう。
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帝政末期になって出て来た agri limitrophi ≪ベテラン兵士達に定期借地権の土地として与えられたもので、ライン川やドナウ川などのローマにとっての前線に位置する場所に多く配置された。≫は年間の収穫高[annona]と[賃借料が]関係付けられており、軍隊に対して食料を供給する目的で、牛馬を使った耕作を行うことを条件として与えられたものであった 39)。

39) テオドシウス法典のXI, 59の表題を参照。

3.城主の封土と辺境の封土

agri limitrophi と同じ権利形態[の土地貸与]は帝政期においては更に一般的な他の用途にも使われるようになっていた。10人組長による徴税義務に加え、大土地所有者の徴兵義務 40) ですら土地に付随した義務として扱われるようになり、そして最終的に、agri limitanei [国境に接した土地]において、また軍隊の駐屯地において、国境の防衛義務までが相続による権利継承を通じて、その封ぜられた土地区画に切っても切り離せない物的な負担として課され 41)、更には≪ガリアなどの≫蛮族の諸部族がローマの軍役に服することと引き替えに大規模な領地を封ぜられた時に 42)、そういった状況はもはやほとんど “beneficium” 43)[特権の受益者]概念の統一的な発展の開始地点に立っているようなものであるが、その概念からゲルマン民族の王達の征服した領土においての行政法的な意味での封建制度が成長して来たのである。

40) テオドシウス法典の13の de tiron[ibus][徴兵について]VII, 13, そこでは元老院所有の土地についての新兵徴兵義務が定期金の支払いによって免除されている。

41) アレクサンデル・セウェレス≪Marcus Aurelius Severus Alexander Augustus、209~235年、第24代ローマ皇帝≫が国境の住民に対して土地を授与した時、”ut eorum essent, si heredes eorum militarent, nec unquam ad privatos pertinerent” (Lamprid. Alex. c. 57)[彼らの相続人が軍役に従事していたならば、それらの土地は彼らのものであり続け、決して(別の)個人の所有物にされることはない。](Aelius Lampridius による Alexander の伝記のc.57≪Historia Augusta という皇帝列伝の中の一つ≫)、プロブス≪Marcus Aurelius Probus, 232~282年、276年から282年までローマの軍人皇帝≫がイサウリア≪小アジアの南東部の地名≫のベテラン兵に土地を授与した時のもの、”ut eorum filii ab anno XVIII ad militiam mitterentur.”[彼らの息子達は18歳になると軍役に従事させられた。]更には軍の城砦に付属する土地について、参照:テオドシウス法、1 de burgariis VII, 14と同法の2, 3 de fundis limitrophis et terris et paludibus et pascuis et limitaneis et castellorum XI, 59[国境に接する土地、領域、沼地、牧草地と城砦の土地について]。至る所で土地の譲渡が行われた場合と土地の相続において、国家当局が介入して逃れることの出来ない義務を負わせるやり方で、その行政の実施においての原則に従って、そういった土地の権利全てに本質的に関わることを定めていた。

この場合の本質的に同質な点は、まず第一に何らかの国家に関係する業務を遂行することを条件とした封土としての土地の授与というだけに留まらず、取引きにおいての所有権の移転という点でもまたそうであったし、更には当該の土地区画についての権利関係、つまりそれの私権と法的な取扱いの形態と規制についてもそうであったし、
そういった権利関係はこのような劣位の権利保持状態においては重要なものとして扱われるのであるが、ローマの行政法はこうした方向への発展の基礎を整備していたのであった。最も重要でかつ独特で新しい要素は、それはゲルマンの法概念から取り入れられたに違いなく、そしてそれは社会的・政治的な意味においてその他の部分では同レベルであったゲルマン法の発展の中で、他に卓越して優位なものとなることの基礎を作ったのであるが、それは独特の形で作り出された個人間の信義関係であり、それは当時の古代世界においては[他では]もはや復活することは出来なかったものである。≪この辺り、ギールケの言うゲノッセンシャフト的人間関係を思わせる。あるいは原始共産制から社会が発展したという発展段階説も思わせる。≫

43) “beneficium” についてテオドシウス法がまず第一に想定しているのは次のような土地区画に対してである。それは世襲財産としてかまたは永代借地契約に基づいて貸与される土地であってかつ永代借地料を支払う必要がないものである。(テオドシウス法 5 de coll[atione] don[atarum vel relevatarum possessionem][税の支払いを免除されたか軽減された占有地について] XI, 20の424);次に(c.6, 同じ箇所の430)全ての形式での relevatio[軽減策]、adaeratio [現金払いの代用]であり、つまり私有地においてか、より優遇された課税カテゴリーにおける国家によって保証される土地についての、土地に付随する負担の軽減策としてである。

地代支払いを条件としての無期限の土地の譲渡

我々は法律の上では期限付きの公有地の賃貸制度について概観して来て次のような公有地の割当てについて論じるまでに至った。それはある種の継続的な労役を引き受けることの引き替えとして無期限の賃貸を受けるものであった。そしてこうしたやり方についてここまで次のようなものとして詳論して来た。それはその実際の労役の内容が本質的には個人が行う種類の労役、奉仕として成立しているものである。続いて我々は再び国家所有の土地区画を金銭の支払いまたは収穫物の貢納を条件として引き受けるやり方に立ち返る。その理由は、この形の土地の授与においてもまた、権利の期限が設定されない所有状態が存在していたからである。

名目地代。Trientabula。

権利として次のケンススまで有効期限を持った通常の公有地の所有状態は、事実上多くのケースで、というより大部分のケースでと言ってよいだろうが、家族においての相続可能な所有権となった、ということは既に前述の通り詳論して来た。次に論じるべきなのは利子の支払いまたはその土地からの収穫物の一定割合の納付を条件として、つまり代々の賃借人に対して与えられる土地についてである。イタリアでは次のようなケースは全く知られていない。つまり国家からの土地の授与であって、その条件として国庫に入る永久に支払う必要がある、そして名目的なものではない地代を確実に支払うという仕組みが確立していたケースである。それとは反対に多くの事例があったのは、土地の授与が期限の設定無しに、名目地代≪実質的な土地の価値に比べて非常に低額な地代≫だけを課すことで行われていた場合である。既に先に、そのような形での土地の授与として trientabula について詳論して来た。この制度は元老院決議に基づき、そのことによって次のことが最初から当然のこととされた。それは私権が、それはローマの訴訟においては占有以外の理由として有効とされた可能性があるが、その制度においては与えられなかった、ということであり、更に同様に最初から当然のこととされたのは、民会での決議を通じて私権を毀損することなしに、一旦授与した後にその土地を取り戻すことが可能であった、ということである 44)。(Trientabulaで授与された土地の)売却が制限されていたか、ということは明らかではない。そして少なくとも事実上 ager quaestorius という形の土地の売却のやり方に torientabula のやり方が使われた(第1章参照)ということは、売却が可能であったことを裏付ける事例である 45)。

44) それ故にそういった場合は技術的にはただ「trientabula で利益を得ること」[frui in trientabula]であり、(モムゼンによる部分的な補完による)土地改革法のZ. 32においてそう呼ばれており、それ故にまた諸ゲマインデに譲渡された公有地としての一つのまとまりの中に入れられていた。

45) 先に引用した測量人の記述の箇所では、土地区画の売却について言及されている。しかしそれ故に可能であったであろうやり方は、ager quaetorius は法律上はある地域の土地の全体がまとめて譲渡されたということであり、そうでない場合は行政官の同意が必要だったということである。そのため ager quaestorius についてはまた名目地代が課されたのであろう。

次のことはしかしこのケースの独自性において全く可能なことであり、また確かなことであるのは、そういった売却制限が実際に行われていたということであり46)、そして売却制限が、グラックス兄弟による名目地代を支払うことを条件とした土地の割当てと全く同様に、そういった制限は通常の ager quaetorius においては伝えられていないが――可能ではあったろうが(参照:シクルス・フラックスの p.151, 20; 154,1)――、言葉として表現されていたに違いないのである。

46) それについて言及しているのはただ土地改革法の先に引用済みの箇所の ex testamento, hereditate, deditione
[遺産、相続、占有に基づく]獲得、の箇所のみである。”ex deditione”による獲得の部分は、モムゼンは(C. I.L., Iの土地改革法の註解にて)それを総督補佐官からのもので、また死因贈与≪ある者が死の直前に意思表示し、その者の死後贈与が行われるもの。もし死ななかった場合は取り消すことが出来た。≫と解釈しようとしている。私から見てより確からしく思われるのは、生前の包括承継[Universalsuccession inter vivos]、つまり養子縁組による財産の承継のケースが想定されている、ということである。

そうした売却の制限はあるいはここではただ通常の賃借農民においてと同じ意味を持っていて、というのもいずれの場合でも禁止令という観点からはただ行政上の権利保護が行われただけであり、それ故行政官は売却を自身の裁量で許可出来たからである。同様にそういう制限は相続に関しての規制手続きとも関係があったに違いない;遺産の包括的獲得は認められており、また遺言による獲得も同様であり、しかし遺産の分割と遺産に関する争いについての判決がその点についてどのように行われていたかは不明であり、ここにおいて行政の協力が無くても済んだ、ということは考えにくい。

グラックス兄弟による公有地割当て

グラックス兄弟による Viritan-Assignation≪既出≫においての名目地代の賦課は trientabula において売却が出来ないことと間違いなく関係があった。この2つにおいての違いはただ、グラックス兄弟による割当てにおいてはそれが民会の決議に基づいて行われたということと、それと関連して土地を取り戻すことが私権の毀損無しに可能であったかもしれない、ということである。このことが”ager privatus vectigalisque”≪私有地でありながら地代が課された土地≫という表現が意味する所であり、この形の土地こそがまさにグラックス兄弟による土地の割当ての際に適用されたのである(後述の箇所参照)。その法的な地位については、その所有状態をそれ以前に想定されていたものと区別することは出来ず、ただ手続きのためだけに、それはこのグラックス兄弟による土地割当ての時にも等しく使われたのであるが、グラックス兄弟による法規で決められた3人委員会――IIIviri agris iudicandis adsignandis ≪土地について判定し割当てる≫あるいは adtribuendis ≪割当てる≫と呼ばれたが 47) ――この種の土地に対して権限を持っていた。

47) C.I.L., I, 554-556, IX, 1024-1026の境界石上に書かれたもの、a.u.c. 624/5年。

2.実質地代。永代借地。

しかし確かに次のことは非常に特異に響くであろう。つまりある法的な形態が、地代を条件として無期限に授与された耕地の形態と同様に、ただ名目的に法的仮構≪事実とは異なるが法律上はそれがあるかのように扱うもの≫の形態として特定の目的のために、それが実際には本当の制度としては存在していないかのように仮定されて使われたのであろう、ということである。そして実際のところ先行したケースとしては、確かにほぼ確実にそれが起きたとは言えないまでも、全く低い確率でもないと思われることは、国家による永代貸与地のシステムが実際に成立していたことが推測出来るということである。

lex Thoria に基づく占有

――まず第一に挙げられるのは lex Thoria による、地代支払いを条件とする占有を通じて獲得された所有権であり、それは公有地においてこのlex Thoria (BC118年)から643 a.u.c.(BC111年)まで存在していた。そういった所有権がそれに対して地代を課されることで、その法的な地位がより良いものになった、というのは確かである 48)。

48) 先に引用した(原文p.218の注14)のアッピアヌスキケロの文章の該当箇所を参照。

更にはこの場合の地代が単なる名目的なものであったに違いないという見解は、アッピアヌスの見解(引用済みの箇所)である。しかしそれはこの地代収入がローマ人民への無料の穀物給付の財源に使われた、というのと矛盾している。