ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(41)P.240~243

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第41回です。
一般にグラックス兄弟や後のカエサルによる土地改革法の目的は、海外から安い小麦が入って来たり、貴族による大規模農園の経営によって競争力が無くなり没落して都市プロレタリアートとなった独立農民の救済と、かつ市民の数を維持してローマ軍の人数を確保することだったと説明されますが、ヴェーバーはそこに国家による資本家支援という非常にユニークな視点を提供しています。要するにローマが敵に打ち勝って新規に獲得して土地が、国家がきちんと使用方法を決める前に既に貴族などの富裕層による奴隷を使った農場経営が占有の形で行われていて、土地改革法はそういう占有を一方では上限を設けて制限する一方で、また改めて正式に認知した、という面があるのでしょう。
なお、vectigalというラテン語ですが、これの日本語訳は苦労します。小作料と訳すと、この時代に貧農層が多くいたような感じがしますし、地租と訳すと明治の日本みたいですし、現代の日本で言うなら固定資産税みたいなものですし、訳文中では賃借料と訳したり税金、地代と訳したり色々です。
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しかし当時更にまた、ユゲラ[面積]あたりの地代も規定されており、こちらの起源は間違いなくより古いものであった。同様に土地の購入にあたってユゲラあたりの価格で取り決めて行ったように、賃貸借でも同じやり方が用いられた。それ故に、また trientabula においても、名目地代は1ユゲラあたり1セステルティウスとされ、引渡される土地区画全体でいくら、という決め方ではなく、しかしその一方でその他の場合として、引渡される土地の価格がその土地の実勢価格に基づいて査定され、その時々の購入価額で担保に供されたということもあった。そのため、先に言及したルキウス・カエキリウス・メテッルス・デルマティクス ≪Lucius Caecilius Metellus Delmaticus、BC119年の執政官≫とグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス≪Gnaeus Domitius Ahenobarbus、BC122年の執政官≫の[2人が執政官であった]時に制定された lex censoria 50c) がアフリカにおいての賃貸耕地からの賃貸収益について規定しているのであれば、これは収穫物の一定割合か――法規は1/10税について言及しているが――あるいは固定額の(相対的にはより少額の)金銭地代であったかどちらかであり、その金銭地代は少なくとも地域毎に統一され、そしてあるいはまた二三の土地価額のクラスで分けられて、同じクラスであれば1ユゲラあたり同一価格で(その時は)あったか 51)、あるいは継続してそうであった可能性があり、というのはその公有地全体の全ての賃借耕地に対してそれぞれ個別に金額を提示するということまでは、そういった lex censoria の規定には含まれていなかった可能性があるからである。

50c) a.u.c. 693年(BC115年)

51) たとえばパンノニアにおいての耕地への貸借料設定は何段階かのクラスに分けられていた。

それ故にまた、より大きな面積でのまとまった土地を契約者が引き受けた場合には、貸借期間は100年とされ、ユゲラあたりのより低い固定額での地代が課され、競売において入札するものとしてはただ全体の購入価格のみ、とされたのである。そういった購入価額は、ただ保証人によってかあるいは所有資産(の証明)によって保証されたのであり、100年で満期となる毎年の賃借料の総額の支払いが必要だったのではない。このことによってさらに明らかになるのは、こうした公有地の賃借人は[通常の毎年の]賃借料を支払う小作人のように扱われたということであり(上述箇所参照)、同様にこの種の賃貸しの手続きは、”vectigalibus subjicere”[賃借料を条件とした]という表現と矛盾していない。このことが正しいと認められるなら、私の考える所では、次のことはかなりの程度確からしくなる。それは ager privatus vectigalisque についても手続きは同様のものであった、ということである 51a)。

51a) 法はおそらくZ.52 の:”(habeat pos)sideat fruaturque item, utei sei is ager loucs publi(ce a censoribus mancipi locatus esset ?”[その土地や場所を所有し、占有し、かつそこから利益を得ることが出来、それはまるでその土地や場所が監察官によって購入者に公的に貸借されているかのようである。]の所で暗に賃貸し耕地の競売による授与のことを述べていた。

いずれにせよ私見では、モムゼンがこの法において実質的な地代が定められていたという可能性を疑っていることは、意味をなさなくなるであろう。次に考えられるのは、法は現在失われている箇所(特にZ.51、52の欠落部)52) において、いずれにせよ相当な額のユゲラまたはケントゥリアあたりの地代を、おそらくはその際に初めて課していて、その結果として永代賃借料を引き上げた形になった、ということである 53)。

52) 確かに次のことは疑わしい。それは引用文献中の証拠の箇所として、その碑文中の欠落部分を使うことである。しかしそれにもかかわらず、この場合には次のことは確かである。つまりこの法がこの制度とそれに伴う該当する耕地についての、地代納入義務の規定を含んでいるということである。というのはこの規定について Z. 66 において参照されているからである。

53) 次のことがもし明らかになるのであれば、この地代の額についてもう少しはっきりしたことが分かるであろう。それは競売されている耕地を購入しようとする者が、この法の Z. 53 以下に従って何を公的に申告しないといけないか、ということである。私が信じたいのは、後のパンノニアにおける占有と同様に、その際の申告内容としてヒュギナスが p. 121 で言及しているが(更に後で引用する箇所を参照)、それはその耕地、牧草地、森、牧場の面積――あるいはまた同様のカテゴリーの――であるが、そしてその面積を購買者は所有することになったのであるが、その面積[とカテゴリー]に従って地代が課されたのである;というのも私がこの論文で統一的な地代の存在を確からしいものとして述べた際には、こうした原始的な諸カテゴリー、それらについては後で扱うことになるが、による地代の差異の可能性を決して排除していないからである。確からしいのは、土地購入についての公的な申告は、本質的にはこの目的[購入した土地のカテゴリーをはっきりさせて地代の額を決める]のためであったろう、ということである。その他のことについてこの法が規定しているのは、全体の処置においてまた、それどころかひょっとしたら主要目的として、所有者のことを規定しているのであり、その所有者達はこの法の発布の前から既に「購買」によって[本来は公有地である]土地を獲得していたのである。先に記述した貸借対象耕地の契約者についての注釈≪国家が土地斡旋によって資本家を作り出そうとしていたこと≫が正しかったとすれば、ここで扱われているのは、次の者達(注51a参照)に対して、その者達はアフリカの公有地における耕地を永代賃借料を支払う条件で貸借したのであるが、その者達自身に対してまた、取り消し不能な有限の所有状態が保証された、ということであり、そしてこのことがもし正しければ、その場合はここにおいてこの立法の前代未聞な資本家支援的な傾向が剥き出しの姿で登場してきているのである:なるほど立法家は公有地の大規模な土地所有者に対して直ちに地代を免除することは、イタリアでの例のように、躊躇していたが、しかし立法家は lex Thoria によって彼らに対してイタリアにおいての[大規模]占有者の地位を認めたのである。これに対して、次のような公有地の所有者、つまりその者の土地が監察官によって与えられることが多かった者[a censoribus locari solet]、つまり小規模の賃借人のことであるが、そしてそれは古くからのその土地の住民またはイタリア人であったが、その者達に立法家は保証(前述箇所を見よ)を与えこそしたものの、かつその者達はそれまでのような額の賃借料を支払う必要はなくなったものの、その代わりその所有状態は法的には不安定なものに留まった。――

もしハラエサ≪シチリア島北部のギリシア人による植民都市≫の碑文に――カイベル、ギリシア碑文集、シチリアとイタリア、Nr. 352――事実上、カイベルがそう想定しているように、作り出された土地区画についての地代に関する記載が含まれているのであれば、そのことは自然に考えればただ名目的に設定された一般的な価格であった可能性がある。その他、この碑文での κλᾶροι と δαίθμοι の制度については≪全集の注によれば、前者[クラーロイ]は単に(籤で)割当てられた土地の一単位、後者[ダイスモイ]はその内で賃借人に割当てられた区画のこと≫ここでの土地の位置決めは本質的には元々の所有者達の間での配置換えだったのであり、そこには[競売という]競争が入り込む余地は全く無かった。有名なアクラエ≪シチリア島南部のギリシア植民都市≫の碑文(カイベル、前掲書、Nr. 217)については作り出された土地の所有状態がどのような種類のものであったかについては不明であり(参照:ゲットリング≪Karl Wilhelm Göttling、1793~1869年、ドイツの言語・古典学者≫のアクラエ碑文、そしてデーゲンコルプ≪Karl Heinrich Degenkolb、1932~1909年、ドイツの法学者≫の先に引用した lex Hieronica に関する論文)我々にとってはそれらの情報は意味が無い。

永代賃借料は次の場合には当然のことながら課されなかった。それは同じ土地授与対象物全体を様々な購買者に何度も売却した結果として、ある者が購入済みで(既に代金も支払った)土地[が誰か別の者に与えられてしまった場合]の換わりに、別の土地が改めて授与された場合である:それがこの法の Z. 66 においての購買者に1セステルティウス[の形だけの代金]を支払わせた、ということの意味である。

測量地図

これらの耕地の測量はケントゥリア単位で行われており、それは完全な所有権を入手出来る土地割当ての場合のケントゥリアと区別されていなかったように思える(Z. 66)、故にその面積は200ユゲラであり ager quaestorius の場合のようにただ50ユゲラだけではなかった。土地の授与は取り消せない性質のものであり、それは “privatus”という表現が示す通りである。ager vectigalis としての性質は次のような結果を生んだに違いない。つまり土地の授与は握取行為の形式では行われなかったし、そういった土地の相続に関しての規制においては、それが国家当局の干渉無しに行われることもなかった、ということである 54)。

54) このことは、Z. 62、64の相続人に関する規定で言及されているようなやり方で法規中に出現している。このことが意味したことは単純に、属州の知事は次のことを行いうる立場にあったということであり、それはその者が土地の授与を許可したり、また誰にその土地を相続させるかについて原則を作り、それを布告する、ということである。というのはその者は行政担当官であるのと同時に裁判官でもあったからである。ager quaestorius と更に違うことは、ここでは limites viae publicae [公共の道路による境界線]であり、何故ならばZ. 89 とそれに続く部分でそのような補足を加えている規定は、[元の]カルタゴの領土だけでなく全てのケントゥリアに対して適用されていたからである。というのも賃借料は――我々の仮定では――ユゲラあたりで等しかったので、このことは課税可能な対象物を個々の購買者それぞれに十分に行き渡るまで分割することを可能にし、個々の購買者から単純にどの位の税が取れるか、その者が1ケントゥリアの中で何ユゲラを所有しているのか、それから1ケントゥリアあたりで[分割して]割当てた土地の合計が200ユゲラであることの確認、などについての管理を非常に楽にした。属州アフリカにおける土地の分割と土地制度全体の安定した状態は、あり得ないくらい長期に渡って変更されることなく維持されていたように見え、つまりは皇帝ホノリウス≪在位393~423年の西ローマ皇帝≫の時代まで続いたのであった。その当時(422年)に実施された改定が及んだのはテオドシウス法典の13の de indulgentis debitorum [借金返済の猶予について]によれば:アフリカ総督の管轄下:課税対象地として9002ケントゥリアと141ユゲラ、荒れ地として5700ケントゥリアと144 1/2ユゲラ、ビサンチンにおいて:課税対象地として7460ケントゥリアと169ユゲラ、荒れ地として7715ケントゥリアと3 1/2 ユゲラであり、合計でアフリカ総督管轄下で:16703ケントゥリア≪計算上は14703≫と85 1/2 ユゲラ、ビサンチンでは:15175ケントゥリア≪計算上は15075≫と172 1/2 ユゲラが課税対象領域において測量済みの土地面積である。

以上の記述からはまだその当時でも税の計算上は[ほぼ]1ケントゥリア=1ケントゥリア、つまり1ユゲラ=1ユゲラとして計算されていた、という印象を受ける。≪おそらくは実面積に何かの係数をかけて補正した形での面積を使って税が計算されてはいなかった、ということであろう。≫このようにして税額が決められ課税された全体の領域の面積は、ほぼ≪ヴェーバー当時の≫東プロイセン州の(例えばポーゼン≪現在のポーランドのポズナン≫の鋤で耕された耕地の大きさと同じであり、当時の制度に従ったやり方として、ただアフリカの耕された土地の大半について一部のみが、そうではあってもまたかなりの大きさのものではあるが、ここでは描写されている可能性がある。その他の部分の土地についての記述は後述の箇所で扱う。ここで述べられていることの全ては、私には何よりも次のことについて語っているように見える。つまりここで言及されている耕地に対しては、実質的な賃借料が課されていた、ということである。同様に次のことも述べている。つまりここでは境界線がまた道路として直線のまま保たれていた、ということである:そのことは既に注記したように、課税の管理を楽にしていた≪中世のドイツの農地では牛が鋤を牽いて蛇行して耕す結果として境界線が波状になっている土地が多かった。≫;これに対して通常の ager quaestorius においては、境界線は同じようにその土地の範囲を確定させるために厳格に管理されるべきであったが、しかし確からしいことと思われるのは、実質的な地代がそこでは課されなかったがために、その境界線を直線のまま保つことに対しての利害関心が全く生まれていなかったことになり、結果としては直線性は失われてしまったのである。

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