ウーラントの「聖なる春」

ご参考までに、Web上にあったウーラントの「聖なる春」の詩のドイツ語原文と、それをChatGPT4に日本語訳してもらったものをご紹介します。先の日本語訳の注では「凶作の時」としましたが、実際には戦争などで共同体全体が危機にある時に行われたようです。なお、私が最初にこの語に出会ったのはヴェーバーの「経済と社会」の中の種族ゲマインシャフトの所です。折原ゼミでたまたま私が訳読を担当したので良く覚えています。

https://nam-students.blogspot.com/2013/03/blog-post_3538.html
種族的共同社会関係 中村貞二訳

 疑う余地のないことなのだが、なにかの理由で無事平穏に母なる共同社会を分離ないし移住して、よその土地に共同社会を起したという思い出(「海外移民(コロニー)」「聖なる春(フェール・サクルム)」)、その他類似のことが生き続けているところには、一つのきわめて特殊な「種族的」共同感情がしばしば非常に強力に存在している。

Johann Ludwig Uhland “Ver sacrum” 1880

Als die Latiner aus Lavinium
Nicht mehr dem Sturm der Feinde hielten stand,
Da hoben sie zu ihrem Heiligtum,
Dem Speer des Mavors, flehend Blick und Hand.
Da sprach der Priester, der die Lanze trug:
»Euch künd ich statt des Gottes, der euch grollt:
Nicht wird er senden günst’gen Vogelflug,
Wenn ihr ihm nicht den Weihefrühling zollt.«
»Ihm sei der Frühling heilig!« rief das Heer,
»Und was der Frühling bringt, sei ihm gebracht!«
Da rauschten Fittige, da klang der Speer,Johann Ludwig Uhland
Da ward geworfen der Etrusker Macht.
Und jene zogenchzten, ward die Gegend grün,
Feldblumen sproßten unter jedem Huf,
Wo Speere streiften, sah man Bäum erblühn.
Doch vor der Heimat Toren am Altar,
Da harrten schon zum festlichen Empfang
Die Frauen und der Jungfraun helle Schar,
Bekränzt mit Blüte, welche heut entsprang.
Als nun verrauscht der freudige Willkomm,
Da trat der Priester auf den Hügel, stieß
Ins Gras den heil’gen Schaft, verneigte fromm
Sein Haupt und sprach vor allem Volke dies:
»Heil dir, der Sieg uns gab in Todesgraus!
Was wir gelobten, das erfüllen wir.
Die Arme breit ich auf dies Land hinaus
Und weihe diesen vollen Frühling dir!
Was jene Trift, die herdenreiche, trug,
Das Lamm, das Zicklein flamme deinem Herd!
Das junge Rind erwachse nicht dem Pflug
Und für den Zügel nicht das mut’ge Pferd!
Und was in jenen Blütegärten reift,
Was aus der Saat, der grünenden, gedeiht,
Es werde nicht von Menschenhand gestreift:
Dir sei es alles, alles dir geweiht!«
Schon lag die Menge schweigend auf den Knien,
Der gottgeweihte Frühling schwieg umher,
So leuchtend, wie kein Frühling je erschien,
Ein heil’ger Schauer waltet’ ahnungschwer.
Und weiter sprach der Priester: »Schon gefreit
Wähnt ihr die Häupter, das Gelübd vollbracht?
Vergaßt ihr ganz der Satzung alter Zeit?
Habt ihr, was ihr gelobt, nicht vorbedacht?
Der Blüten Duft, die Saat im heitern Licht,
Die Trift, von neugeborner Zucht belebt,
Sind sie ein Frühling, wenn die Jugend nicht,
Die menschliche, durch sie den Reigen webt?
Mehr als die Lämmer sind dem Gotte wert
Die Jungfraun in der Jugend erstem Kranz;
Mehr als der Füllen auch hat er begehrt
Der Jünglinge im ersten Waffenglanz.
O nicht umsonst, ihr Söhne, waret ihr
Im Kampfe so von Gotteskraft durchglüht!
O nicht umsonst, ihr Töchter, fanden wir,
Rückkehrend, euch so wundervoll erblüht!
Ein Volk hast du vom Fall erlöst, o Mars!
Von Schmach der Knechtschaft hieltest du es rein
Und willst dafür die Jugend eines Jahrs;
Nimm sie! sie ist dir heilig, sie ist dein.«
Und wieder warf das Volk sich auf den Grund,
Nur die Geweihten standen noch umher,
Von Schönheit leuchtend, wenn auch bleich der Mund,
Und heil’ger Schauer lag auf allen schwer.
Noch lag die Menge schweigend wie das Grab,
Dem Gotte zitternd, den sie erst beschwor,
Da fuhr aus blauer Luft ein Strahl herab
Und traf den Speer und flammt’ auf ihm empor.
Der Priester hob dahin sein Angesicht,
Ihm wallte glänzend Bart und Silberhaar;
Das Auge strahlend von dem Himmelslicht,
Verkündet’ er, was ihm eröffnet war:
»Nicht läßt der Gott von seinem heil’gen Raub,
Doch will er nicht den Tod, er will die Kraft;
Nicht will er einen Frühling welk und taub,
Nein, einen Frühling, welcher treibt im Saft.
Aus der Latiner alten Mauern soll
Dem Kriegsgott eine neue Pflanzung gehn;
Aus diesem Lenz, innkräft’ger Keime voll,
Wird eine große Zukunft ihm erstehn.
Drum wähle jeder Jüngling sich die Braut,
Mit Blumen sind die Locken schon bekränzt,
Die Jungfrau folge dem, dem sie vertraut;
So zieht dahin, wo euer Stern erglänzt!
Die Körner, deren Halme jetzt noch grün,
Sie nehmet mit zur Aussaat in der Fern,
Und von den Bäumen, welche jetzt noch blühn,
Bewahret euch den Schößling und den Kern!
Der junge Stier pflüg euer Neubruchland,
Auf eure Weiden führt das muntre Lamm,
Das rasche Füllen spring an eurer Hand,
Für künft’ge Schlachten ein gesunder Stamm!
Denn Schlacht und Sturm ist euch vorausgezeigt,
Das ist ja dieses starken Gottes Recht,
Der selbst in eure Mitte niedersteigt,
Zu zeugen eurer Könige Geschlecht.
In eurem Tempel haften wird sein Speer,
Da schlagen ihn die Feldherrn schütternd an,
Wann sie ausfahren über Land und Meer
Und um den Erdkreis ziehn die Siegesbahn.
Ihr habt vernommen, was dem Gott gefällt,
Geht hin, bereitet euch, gehorchet still!
Ihr seid das Saatkorn einer neuen Welt;
Das ist der Weihefrühling, den er will.«

ラビニウムのラテン人たちが
もはや敵の嵐に耐えられなくなった時、
彼らは彼らの聖域、
マルスの槍へと見上げ、手を挙げて願った。
その槍を持つ神官が言った:
「神が怒っていることを代わりに告げる、
彼は吉兆の鳥の飛来を送らないだろう、
もし彼に祭りの春を捧げなければ。」
「春は彼にとって聖なるものだ!」と軍は叫び、
「春がもたらすものは全て彼に捧げられるべきだ!」
すると羽ばたきが聞こえ、槍が鳴り響き、
エトルリア人の力は挫かれた。
そして彼らが去った後、地は緑になり、
馬の蹄の下で野花が芽吹き、
槍が触れた場所では木が花を咲かせた。
しかし、故郷の門前での祭壇で、
すでに祝祭の準備で待っていたのは
女たちと若い乙女たちの明るい群れ、
今日咲いた花で飾られていた。
喜びの歓迎が静まると、
神官は丘に立ち、聖なる杖を草に突き刺し、
敬虔に頭を垂れ、全民の前でこのように言った:
「死の恐怖の中で勝利をもたらしたあなたに栄光あれ!
私たちが誓ったことを、私たちは果たす。
この土地に広げたこの腕、
この満ち溢れる春をあなたに捧げる!
この牧草地が育てたもの、
羊飼いの群れが持つ小羊や子やぎ、
若い牛が耕すことなく、
勇敢な馬が手綱をとることなく、
そしてあの花園で熟したもの、
芽吹く種から育つもの、
人の手によって摘まれることなく、
全てがあなたのもの、全てをあなたに捧げる!」
すでに群衆は膝をついて沈黙しており、
神に捧げられた春は静かに囲まれていた、
かつて見たことのないほど輝かしい春、
重い予感を持つ神聖な震えが支配していた。
そして神官は更に言った:「もう結ばれたと思うか、
誓いを果たしたと?古い規則をすっかり忘れたのか?
誓ったことを本当に考えたのか?
花の香り、晴れた光の中の種、
新しく生まれた群れで生き生きとした牧草地、
若者がそれを通じて踊りを織りなさない限り、それらは春とは言えないのではないか?
羊よりも神にとって価値があるのは
若さの初めの花輪をつけた乙女たちだ;
仔馬よりも彼は望んでいる
最初の武装の輝きの中の若者たちを。
おお、無駄ではなかった、息子たちよ、
戦いの中で神の力に燃えていた君たち!
おお、無駄ではなかった、娘たちよ、
帰ってきて、君たちが見事に咲いていたのを見つけた!
あなたは、マルスよ、民を堕落から救った!
奴隷の恥からそれを清く保った
そしてそのために一年の若者を欲している;
彼らを受け取れ!彼らはあなたに捧げられた、彼らはあなたのものだ。」
そして再び民は地に投げ出され、
ただ捧げられた者たちだけが立っていた、
美しさに輝いていたが口は青ざめ、
重い神聖な震えが全てにのしかかっていた。
まだ群衆は墓のように静かにしていた、
ちょうど神を呼び起こしたばかりで、
そこに青い空から一筋の光が射し込み、
槍に当たり、そこで炎上した。
神官はそこに顔を向け、
輝くひげと銀髪が波打ち;
天の光に輝く目で、
彼が明らかにされたものを告げた:
「神は彼の聖なる奪い物を放さない、
しかし死を望むのではなく力を望む;
枯れた、聞こえのない春を望まない、
いや、みずみずしさに満ちた春を望む。
ラテン人の古い城壁から
戦神の新しい植え付けが行くべきだ;
この春から、力に満ちた芽が、
彼にとって偉大な未来が生じるべきだ。
だから各々の若者は花嫁を選び、
髪にはすでに花が飾られている、
乙女は信じる者に従い、
星が輝くところへ向かって行け!
今はまだ緑の穂を持つ穀物、
遠くへの播種にそれを持って行け、
今はまだ花を咲かせる木から、
苗と種を自分たちのために保存せよ!
若い牡牛は新たな地を耕し、
活気に満ちた小羊を牧場に連れて行け、
素早い仔馬は手元で跳ねる、
未来の戦いのための健全な一族!
なぜなら、戦いと嵐が君たちに示された、
それがこの強い神の権利だ、
彼自身が君たちの中に降りてきて、
君たちの王たちの世代を生むため。
君たちの寺院には彼の槍が留まる、
将軍たちはそれを振り鳴らし、
彼らが陸と海を渡り出て
地球を囲む勝利の道を行くとき。
君たちは神が望むものを聞いた、
行って準備し、静かに従え!
君たちは新しい世界の種子だ;
それが彼が望む祭りの春だ。」

「ローマ土地制度史」の日本語訳(21)P.160~164

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第21回目です。
ここでは私には懐かしい「ver sacrum(聖なる春)」が再度(というかヴェーバーの執筆順では最初)登場します。
この語はドイツではウーラントが詩にし、グスタフ・クリムトらのウィーン分離派が自分達の機関誌の名前に使ったことである程度知られていました。クリムトらは既存の画壇から分離独立して新しい芸術家集団を作ろうという意気の理由でこの語を採用していますが、ヴェーバーは身も蓋もなく、その本質は人減らしだと鋭く断定しています。
後半には様々な土地の争いの類型の話です。私は一応宅建持っていて、何回か不動産の取引きをした経験がありますが、今日でも境界線とか面積とかは多くトラブルの元になっています。実は今住んでいる家も、買う時に「境界石がどこかに行ってしまっていて、境界が不明です。」と仲介した不動産業者に言われました。
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38) (ローマの)征服戦争によって勝ち取られた領土においての(相続の権利のない)その他の息子達の扶養がもし不可能であったとしたら、その場合はそういった息子達を相続から除外することによって家族の所有地をそのままの大きさに保つことも不可能になっていただろう。同様の状況はゲルマン民族においては領土獲得欲を刺激されることとなった。ドイツにおけるいわゆる農民フーフェ≪村落共同体農民の所有する耕地≫の閉鎖性が長期間保たれたということは、農民自身の所有地は大地主[グルントヘル]へ依存している[から借りている]土地に比べれば最小限のレベルの面積に過ぎなかったという事情をまず考慮すべきであろう。ただ大地主から借りている地所において、ローマではそれが ager vectigalis ≪納税または農産物の貢納義務のある土地≫であったが、ドイツにおいては隷属農民がそういった土地を使用しており、そういった形でのみ地所が継続して分割されずに一体性を保つことが出来ていた。――そのことに関連し、その他の特徴としてそれらの文献の中で主張されている次のような関連事項が存在する。それはつまりローマの耕地領域の[対外侵略による]拡張が完了し、そして[植民市の建設とそこでの土地割当てという形で]定住のための土地が実質的に意味ある形で用意された後に、[相続を限定するための]遺言の自由が非公式の法的な擬制として百人組[ケントゥリア]裁判所で実践的に処理されるようになった、そういう事項である。――部分的に植民地開拓政策の意味を持っていたローマ古代の ver sacrum ≪聖なる春。古代ローマで凶作の秋の翌年春に生まれた新生児を神への捧げ物とし、その新生児が成長して一定年齢になると新植民市の開発のため未開の地に送り出された故事。≫は、それが故郷のゲマインデの中で余分な人間とされ、扶養家族の埒外に置かれていた者達の中から選ばれた者が、つまりはその理由のため新生児の時に神に捧げられその者が成長した若者を意味する限りにおいて、次のことは正しい。またこのやり方が神々への捧げ物という神聖な儀式として行われているということも、同様に次のことを正しいと思わせる。それはつまり、この ver sacrum が行われたのより更に古い時代の人口政策、つまり神への生け贄が、どちらもその目的は同じだったのであると。それは諸民族において、限られた食料自給体制の中で、対外的な拡張でそれを解決するのが不可能だった場合(例えばインドのドラヴィダ人≪インドでのアーリア人が優勢になる前の先住民族≫の例)に[口減らしのために]利用されていたのが、より後の時代になってもなお ver sacrum という形で[新植民地開拓という建て前で]まだ利用されていた、ということである。その他の同様な組織での例としては、ゲルマン民族において良く知られている故郷ゲマインデの何度も繰り返された移住であり、それは古代のゲノッセンシャフト≪タキトゥスのゲルマニアで描写されているような、主従関係のような縦の関係ではなく、同輩・仲間の横の関係を重視する人間集団。ギールケによってケルパーシャフトの反対概念としてドイツの集団の本質的な特徴とされた。≫的集団においても見られ、また同じく後の時代の余剰人口についての非組織的に行われた公知の土地への追放があり、その一部は既に存在している耕地であり、またその他の場合はゲマインシャフトが侵略戦争によって獲得した土地であり、こういったやり方が後の時代の土地制度の骨格を作り出すことになった。フロンティヌスは strat. の 4, 3, 12. において侵略と土地の割当ての段々と強まっていく相関関係について述べている。

物的訴訟

 特徴的なことは、非課税の私有地[ager privatus]に対する正式な返還手続きについての元々の制限である。(土地という)現物への強制執行という手段が無かったことと、先行する判例に従った利害関係の現金化は、訴訟において原告側の本来の土地の所有者に対し、土地を返還する代わりに、その土地の価格相当の現金を与えただけであったのだが、それは(19世紀末の)今日の取引所法の強制手続きにおいて、(証券の)差額の現金による精算執行と明らかに類似している。こうした類似が偶然のものではないということは、土地を巡っての人間関係についての訴訟においては一般的に採用されているやり方であるということが観察されることによって裏付けられている。

土地測量人が関わる訴訟の類型

ここにおいて、agrimensorische genera controversiam についてより詳しく見ていく必要があるだろう。それはある[測量人が関わる]訴訟類型のことで、その訴訟において土地測量人達が、ある場合は裁判官への技術的な助言者として、また別の場合は彼ら自身が権威のある専門知識を備えた第一審の裁判官として務めたのであり、それはその訴訟が土地の所有権に関するものである場合に限定されていた。測量人達は訴訟の争点となっている所有関係を”de fine”と”de loco”に分ける。前者 39) は土地の(周りの土地との)境界線がどうなっているのかという争いであり、我々にとっては取り敢えずは関心外のものであるが、後者は最初のカテゴリーの争点を超える土地の所有権とその所有そのものについての訴訟である。”de loco”に含まれる訴訟は問題となっている土地の各辺の長さが5ローマフィート(約1.48m)または6ローマフィート(約1.77m)を超えるものについてであり、何故ならそういった面積の土地についての争いは土地の境界についての規則の根本原則に基づいて取り扱うべきものであり、それ未満の面積の土地は正規の所有権訴訟においても、また正当な方法での獲得においても規則外と扱われたからである。”de loco”(広義での)の争点に含まれるのは、境界線の判定以外の全ての土地に関しての争点であり、取り分けde loco(狭義での土地の場所について)のものと、de modo(面積について)の訴訟のそれであった。

39) P.12. 37. 41. 126参照。

この2つの違いについては、特にフォイクト 40) ≪Moritz Voigt、1826~1905年、ドイツのローマ法学者≫が言及している。しかし私の考える所では、それは不当にもその2つの違いを単に裁判の際に使われた証拠の違いにしてしまっており、controversia de loco の場合は単なる何かの資料、controversia de modo の場合は本質的に返還請求と同等の意味を持つ任意のその他の何か、と特徴付けている。もちろん controversia de mode の場合にある一定レベル以上の文献資料を証拠として挙げることは本質的なことであり、controversia de loco の場合はそうではなかったが。しかしながらこの2つの違いはそれぞれにおいて異なっている訴訟原因と申し立ての法的な性質に関係しているのである。

Controversia de mode と de loco

 Controvesia de mode はある当事者の次のような主張の結果としてそう分類される。それはその当事者の土地の所有は耕地測量図[forma]に拠るのではなく、証拠能力のある所有権移転行為―特に(正規のやり方での)購入―の権利書式に拠るのであり、そのためその耕地における当該の面積の土地がその者に帰属する、という主張である。その当事者はここにおいて次のような主張をしているのではない。つまりここかどこかの特定の土地区画が法によってその者のものとなっており、それ故その者に引き渡されなければならない、という主張である。そうではなくて、(de modoと)書かれている通り、ただ事実上その者の所有となるべき一定の面積が公の測量地図においての面積とは一致せず、その者に本来帰属すべき全面積が測量地図に記載されていない、ということである;その者が要求するのは事実上の耕地同士の配置の変更とその者が権利を持つ全面積 42) の土地の割り当てである。これに対して controversia de loco の当事者は逆に、その者に既にある特定の土地区画が帰属し、その返還を要求し、その土地区画が測量地図の上では彼に帰属すべき面積の土地としてその所有とされていないと訴えているのではなく、むしろただ権利の保護、つまりそれによって彼が実際の土地の獲得が保証されること、それを要求しているのである。2つの訴訟の本質的な違いはそれ故にまず第一は、controvesisa de loco の方は多くの場合 ager arcificius ≪未分割の土地≫について起きているが、しかし de loco の方は既に分割割り当てが済んでいる耕地に対しても起こされることがある。一方 controversia de mode の方はそれに対し、ただ既に測量地図に載っている耕地に対してのみ起こされることが可能であった 44)。

40) Ges. d. Wiss. Phil. – Hilst の第6巻の論文の CL. 25, P.59 (1873) 参照。

41) P. 13, 45, 76, 131 参照。

42) それ故に643u.c.の土地改革法において、C.グラックスがカルタゴにおいて市民に与えた土地の内で一部のあまりにも大面積の土地区画を制限しようとした時に、以下のように規定している。
neive (IIvir) unius hominis (nomine) … amplius jug. CC in (singulos
homines data assignata esse fuisse judicato).
[もし(二人組により)一人の男(の名)に対して…200ユゲラ以上の土地が割り当てられている場合は(一人に割り当てられている、またはそう判定される場合には)]
controversia de mode はそれ故より広い面積の土地を得ようとすることは許されていなかったか、またはたとえ訴えることが出来ても何の成果も得られなかったかであり、その訴えが何とか認められたとしても、耕地に対しその認可の結果として耕地の(再)整理が行われ、そして権利者に対してごくわずかの面積の追加が認められたぐらいである。ただ面積のみが割り当ての対象であり、具体的な地所が対象物なのではなかった。

43) ラハマンのP. 13, 43, 80, 129を参照。

44) フロンティヌ P. 13, 3 controversia de loco について:haec autem controversia
frequenter in arcifiniis agris … execetur.
[この類型の訴訟はしかししばしば ager arcifiniis に対して行われている。]
しかし同じ書のZ. 7には:de modo controversia est in agro assignato. [controversia de modo は割り当てられ済みの土地に対して行われている。]同様のことが前注で引用した箇所でも引用されている。

Controversia de modo の法的性質

 まず第一に controversia de modo について考察してみたい。その実際の成果について、学説彙纂の D. 7 (actio) finium regundorum (10, 1)[境界線確定訴訟]が規定している:De modo agrorum arbitri dantur, et is, qui maiorem locum in territorio habere dicitur, ceteris, qui minorem locum possident, integrum locum assignare compellitur. [ある土地の面積について裁定が行われ、ある者で、その地域で大きな面積の場所を割当てられている者は、他の者で、より小さな場所しか持っていない者に対し、全体の場所を(再度)割当て直す(それによって自分の土地の一部をより少なくしか持っていない者に渡す)ことを強いられる。]

 全く同様のことが測量人達の言及する別の文書中にも登場しており(P.29, 45)、その結果として該当の耕地の一部分において事実上の新たな分割が行われており、境界線を新たに引き直すことにより、それぞれの土地の所有者に対してその者に帰属すべき面積の土地が(新たに)割当てられている。

45) フロンティヌス、de contr. agr. II P, 39, 11ff. 47, 21ff。

測量人はその際に forma に付属する土地の外形図を用い、その境界線を引き直し 46)、測量地図[forma]が個々の引き受け地の面積情報を提供している明細 47) を用いて、元の境界線をなるべく再現するよう努力する。その際にその土地の耕作状況についての手がかりとなるものを提供し 48)、あるいは測量人は新しい境界線を引いて、それによって各自に帰属すべき面積が保たれるようにする。

46) フロンティヌスのP. 47, 21, 48とニプススのP.286, 12f. 290, 17fを参照。境界線というのはただこの目的のためだけにあった。P. 168, 10ff。

47)つまりはフロンティヌスのP. 55, 13を参照:si res publica formas habet, cum controversia mota est, ad modum mensor locum restituit.
[もしローマ共和国が controversia de mode の訴訟の際に、その土地の測量地図を保持しているなら、測量人達はその面積をそれによって再確認する。]

ここでは間違いなく公有地について述べているのであり、面積に関する争いの解決については測量地図[forma]に記載されているものが決定的な力を持っていたということである。

48) フロンティヌス、前掲書、Agg. Urb. P. 11, 8f。

こういった手続きは境界線を調整する通常のやり方ではなかった。何故ならば古い境界線を新たに引き直すのは、目的を達成する上で取り得る数多い手段の内の一つに過ぎないからである。この新しい境界線を引き直すというやり方は、権利を受ける者に対して国家が[測量地図という]書面で確認している土地の割当てに対して行われている。しかしそういった土地については、公の測量地図においては、はっきりした境界線を持った具体的な地所が割当てられているのではなく、ただ一定の面積のみが割当てられていたのである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(20)P.156~160

「ローマ土地制度史」の第20回目の日本語訳です。いよいよ話が難しくなってきて、日本語訳には苦労しています。おそらく最後まで訳してまた見直すことになるでしょうが、現時点での私の解釈をお届けします。ここでは土地の所有権の種類と相続というローマ法の根幹に関わる部分が論じられています。何度も言っていますが「農業史」ではありません。
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そういったことと対立することとしては、測量人達が、植民市におけるムニキピウムについて、法律が変更された 29) というケースを、はっきりと彼ら自身に関係する問題として取り扱っているということである。更にゲリウス≪115年頃~180年以降、ローマの著述家、Noctes Atticae(アッティカの夜)の作者。≫(16、13) 30) に拠れば、ハドリアヌス帝≪在位117~138年、五賢帝の一人≫の時代にはそのことが実質的な意味を持つようになっていた。そしてその結果として我々が知っているのは、プラエネステ≪ローマの東35Kmにある都市、パレストリーナ≫がティベリウス帝≪在位BC42~AD37年、アウグストゥスの後を継いだローマ2代目の皇帝≫の時代に、植民市の地位からムニキピウムに戻してもらいたいという要請をしているということであり 31)、それについては何か現実的な理由があったのに違いないのである。このことから次のことが直ちに推定される。つまりその理由は、ローマ式の測量方式を植民市の土地に適用するということに関係があり――しかしそこにおいての実際の動機を知ろうとすることは、次のことを行った後にやっと見解を得ることが出来る。つまりどのような法的かつ経済的な特性をこの測量方式の適用はもたらし、そしてどこにおいてその実質的な意義があったかということを明らかにすることが出来た後である。その際に我々としてはまずイタリア半島において、一貫して市民植民市に適用されたケントゥリアによる分割、つまり土地税が免除されたローマの耕地から考察を開始すべきであろう。

29) P.203, 8はそのように読める。
30) イタリカ≪スペイン南西部の植民市≫とユーティカ≪古代フェニキア及びカルタゴの都市で、後にローマの植民市となったもの。≫について述べられている。
31) ゲリウス、1.c. 参照。

II 私法的・経済的な非課税耕地の性質

原則的なこと:ただ次のような耕地、つまり割当ての手続きの際に土地税もその他の現物負担も無い状態で譲渡された耕地と、またはその耕地について特別法によってその耕地の法的な分類が特別に与えられた耕地は、それらが土地改革法の全体と関連付けられていたということは、疑い無く正しいと考えられる。そういった耕地の特権とは、それらは特に643u.c.(BC111年)の土地改革法からもまた生じたのであるが、次のようなものである:

耕地に与えられた諸特権

1.そういった耕地は censui censendo ≪ケンススに登録すべきもの≫であり、つまりケンススの登録簿の中に入れても問題無しとされた耕地で、そのことは兵役や納税義務の、及び政治的な権利の基準となったのであり、ケンススの帳簿に登録されるべきものであり、それによって専ら賃貸借の際の公的な引き渡し保証等の目的に使用されたのであり、その際に相続された家族の所有地(ager patritus [先祖代々の土地])について、ある確かな、しかし詳細はよく分っていない優先権が与えられたのである。

2.そういった耕地は、ただそれのみが、ローマの国家で認められた取引きの形態の、特に土地の購入の、それ故に更にまた対物訴訟においても対象とされ、その手続に従うものであった。

ケンススに登録される資格を持つということ

上記の1について:グラックス兄弟による viritane Assignation ≪組織的ではない、個別植民への土地割当て≫は、それが ager vectigalis [課税地]とされた場合にはケンススに登録すべき土地とされた。またある耕地に viasii vicani ≪重要な道路(例:アッピア街道)沿いにあり、その道路の維持義務を負わされた土地≫の義務が課された場合にもその耕地はケンスス登録対象となった 32)。[しかしそれ以外の]グラックス兄弟によって割当てられた土地は完全な所有権に比べると譲渡権を持っておらず、クィリタリウム所有権≪quiritarisches Eigentum、ローマの市民のみに与えられたもっとも上位の所有権≫よりも劣った権利しか持っていない他の全ての土地はケンススの登録対象ではなかった、ということが結論付けられよう。ケンススにおいて、bonitarisches Eigentum≪善意による所有権、正規の法的な購入手続き以外の方法で入手された土地への[そしてそうとは知らず入手した場合の=善意の]所有権、クィリタリウム所有権より法的保護の面で劣る≫をどう扱ったかという問題については、私は同様に間違いないこととして次のように考える。つまりその種の所有権の土地はケンスス登録対象ではなかったのであり、ケンススへの登録対象であったかどうかということは、むしろ法律上のローマ市民の[完全な]所有権についての実質的側面であったのであると。上記の2についての更なる論述は後で、私はそう信ずるが、より高い明証性を持った根拠にのっとって提示される。

次のことは、ローマにおける土地所有権の全体の位置付けにとって更に特徴的である。それは土地改革法がそれによって私有地と宣言された土地の、ある一定のカテゴリーの売却可能性を、規模の大きな投機業においての担保物件の目的で使うことを、それについてはローマの行政がそういう機会を提供したのであるが、特別に規定した 33) ということである。

33) P.28

ローマにおいての最上位の権利を持った地所は、まさに他の何よりも、抵当物件として資金調達を可能にする資産でもあった。

銅片と天秤による取引き≪この表現は通常は奴隷解放の儀式のことであるが、ここでは対物訴訟のこと≫

上記の2について、同様に特徴的なことは、銅片と天秤を用いた物的取引きの制限であり、そして――根源的には――ローマの非課税の耕地に対するローマでの対物訴訟の制限であった。この点についてまずより詳しく述べてみることとする。

不動産の売買による所有権移転[Manzipation]と遺言の経済的な意味

不動産とそれに付随する権利の引き渡し形態である Manzipation は、全ての家族の負債と共通経済的な拘束事項から自由である土地について適用されるのであり、それは家族の遺言における無制限の[所有権移転を伴う]処置がそういった自由な土地に適用されるのと同じである。特に後者[=遺言]が本質的に土地政策上の意義を持っていたことは明白である。もし有形物、つまり実質的には不動産とその付属物についての、actio familiae (h)erciscundae [家族間での遺産の分割行為]に対する根源的な制限が、次の条項の結果として:”nomina sunt ipso jure divisa”[法律上は、帳簿(名目)上の資産・債務が分割される](相続人とその相続物という言葉の上での組み合わせに対しても適用される制限)、そういった有形物[不動産]は直ちに諸権利の中で家族との共生経済を故意に重視することと、そして家族間の均等分割の原理により家族の所有する地所が分割されるという危険を生じさせるのであるが、次の事実と結合している。それはそういった[遺産としての不動産の元の大きさのままでの]保持がもっとも重視された 35) ということと、同じく土地所有の政治的な意義においてもやはりそのことがもっとも重視されたに違いない、ということである。

34)より古い時代においても確かにそれらは帳簿上の財産として制限されており、それは「不動産という]その名前が示している通りであるが、その理由は明らかにその当時は私的な土地の所有権がまだ存在していなかったからである。

35) 参照:放蕩者に対する禁治産者宣告の書式と、既に考察して来た praedium patrium [先祖代々の土地]への優先権。

十二表法の制定は、ローマの農民に対して形式的な制限に結び付けられた遺言の自由においてのみ、次のような手段を彼らに与えた。それは生きている間においての家父長権と、また当該の遺産対象の財の選択をいつでも新しい遺言によって変更する可能性と結びつけられた上で、考えられるもっとも明確な形で、[ヴェーバー当時の]現代における我々が相続法と財産引き渡し契約によって達成しようと努めるのと全く同じ目的を追求するための、同時にまた家長の権威を無傷のまま保つための手段であった。後の時代において、こうした手段がどの程度までなお使われたかということは、次のことを扱う法源≪法の存在根拠、ここではその根拠を決定付ける事項≫の範囲によって示されており、それは遺言の単なる言葉の上での解釈と、特に相続に関係する集団である廃嫡者と代襲相続人≪ある正規の相続人が死んだりいなくなった時に代わって相続人になる人≫についての所である。相続人のためにローマにおける家父長は、その相続人以外の他の息子達を相続対象の財産 36) から排除した;それらの息子達は、「相続人の座に居る」者、つまり adsidui ≪ローマ市民の中で納税義務を負いまた軍人になる資格を持つ者≫に対比して、プロレタリウス≪ローマ市民の最下層の身分、プロレタリアの語源≫に所属する者に留まるのであり、その身分についてはまず「子供を設けることが出来ない者」と呼ばれたのであるが――それは蔑視的な表現だったと思われるが、法律上の公式な表現ではそのような言い方はまず許されていなかった――そうではなく「子孫」37)――つまり定住した市民の、――として表現されており、それ故そういった単にその理由のみで cives [ローマ市民]であった者達であり、それは彼らの祖先達がかつては土地所有者であることにより cives だったからである。

36) このことはここで採用された方策の目的と相反するように見えるかもしれない。しかし次のように考えることが出来る。つまり人間関係の政治的側面が確かに経済的側面より重視されたのであると。それに拠って生きるための地所の確保ということが目的だったのではなく、相続する息子とその子孫が、その手中に家のお宝を保持し、トリブスにおけるフーフェ[地所]の所有者として、かつ同等のケンススにおいての階級に留まるということが目的だったからである。

37) 参照:hidalgo (スペイン語、庶子)=fijodalgo, filius alicuius (その他の息子)

これらのプロレタリウス達は、それ故かなりの部分が字義通りの意味で廃嫡者であった。そして確かにまさに次のようなローマ民族の中のある階級の前景に登場するような破片の如き者だったのであり、その階級とは彼らの土地獲得への渇望が(グラックス兄弟の)土地の割当てとローマの侵略戦争[による外地の獲得]によって鎮静化された、そういう階級のことであるが、彼らはその耕作地に居住する[正規の]農民にしてもらった訳でもなく、また都市の小市民という身分にしてもらった訳でもないのである。土地所有についてのその処分の自由の厳格な実施とその完全な流動化を勝ち得たいという願望がローマの対外的な拡張を推進する上での強力な梃子となった 38)。

(注38の訳は次回。)

「中世合名・合資会社成立史」決定版公開

「中世合名・合資会社成立史」の日本語訳については、2020年9月(マックス・ヴェーバー没後100年)に初版を公開してから、40回以上読み直し細かな校正を進めて来ました。2024年5月3日の「第2回正式公開版V1.5」を最終決定版とさせていただきます。今後は明らかな誤訳の箇所などが新たに見つからない限り、これ以上の校正は保留とさせていただき、「ローマ土地制度史」の翻訳に専念したいと思います。