「ローマ土地制度史」の日本語訳(21)P.160~164

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第21回目です。
ここでは私には懐かしい「ver sacrum(聖なる春)」が再度(というかヴェーバーの執筆順では最初)登場します。
この語はドイツではウーラントが詩にし、グスタフ・クリムトらのウィーン分離派が自分達の機関誌の名前に使ったことである程度知られていました。クリムトらは既存の画壇から分離独立して新しい芸術家集団を作ろうという意気の理由でこの語を採用していますが、ヴェーバーは身も蓋もなく、その本質は人減らしだと鋭く断定しています。
後半には様々な土地の争いの類型の話です。私は一応宅建持っていて、何回か不動産の取引きをした経験がありますが、今日でも境界線とか面積とかは多くトラブルの元になっています。実は今住んでいる家も、買う時に「境界石がどこかに行ってしまっていて、境界が不明です。」と仲介した不動産業者に言われました。
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38) (ローマの)征服戦争によって勝ち取られた領土においての(相続の権利のない)その他の息子達の扶養がもし不可能であったとしたら、その場合はそういった息子達を相続から除外することによって家族の所有地をそのままの大きさに保つことも不可能になっていただろう。同様の状況はゲルマン民族においては領土獲得欲を刺激されることとなった。ドイツにおけるいわゆる農民フーフェ≪村落共同体農民の所有する耕地≫の閉鎖性が長期間保たれたということは、農民自身の所有地は大地主[グルントヘル]へ依存している[から借りている]土地に比べれば最小限のレベルの面積に過ぎなかったという事情をまず考慮すべきであろう。ただ大地主から借りている地所において、ローマではそれが ager vectigalis ≪納税または農産物の貢納義務のある土地≫であったが、ドイツにおいては隷属農民がそういった土地を使用しており、そういった形でのみ地所が継続して分割されずに一体性を保つことが出来ていた。――そのことに関連し、その他の特徴としてそれらの文献の中で主張されている次のような関連事項が存在する。それはつまりローマの耕地領域の[対外侵略による]拡張が完了し、そして[植民市の建設とそこでの土地割当てという形で]定住のための土地が実質的に意味ある形で用意された後に、[相続を限定するための]遺言の自由が非公式の法的な擬制として百人組[ケントゥリア]裁判所で実践的に処理されるようになった、そういう事項である。――部分的に植民地開拓政策の意味を持っていたローマ古代の ver sacrum ≪聖なる春。古代ローマで凶作の秋の翌年春に生まれた新生児を神への捧げ物とし、その新生児が成長して一定年齢になると新植民市の開発のため未開の地に送り出された故事。≫は、それが故郷のゲマインデの中で余分な人間とされ、扶養家族の埒外に置かれていた者達の中から選ばれた者が、つまりはその理由のため新生児の時に神に捧げられその者が成長した若者を意味する限りにおいて、次のことは正しい。またこのやり方が神々への捧げ物という神聖な儀式として行われているということも、同様に次のことを正しいと思わせる。それはつまり、この ver sacrum が行われたのより更に古い時代の人口政策、つまり神への生け贄が、どちらもその目的は同じだったのであると。それは諸民族において、限られた食料自給体制の中で、対外的な拡張でそれを解決するのが不可能だった場合(例えばインドのドラヴィダ人≪インドでのアーリア人が優勢になる前の先住民族≫の例)に[口減らしのために]利用されていたのが、より後の時代になってもなお ver sacrum という形で[新植民地開拓という建て前で]まだ利用されていた、ということである。その他の同様な組織での例としては、ゲルマン民族において良く知られている故郷ゲマインデの何度も繰り返された移住であり、それは古代のゲノッセンシャフト≪タキトゥスのゲルマニアで描写されているような、主従関係のような縦の関係ではなく、同輩・仲間の横の関係を重視する人間集団。ギールケによってケルパーシャフトの反対概念としてドイツの集団の本質的な特徴とされた。≫的集団においても見られ、また同じく後の時代の余剰人口についての非組織的に行われた公知の土地への追放があり、その一部は既に存在している耕地であり、またその他の場合はゲマインシャフトが侵略戦争によって獲得した土地であり、こういったやり方が後の時代の土地制度の骨格を作り出すことになった。フロンティヌスは strat. の 4, 3, 12. において侵略と土地の割当ての段々と強まっていく相関関係について述べている。

物的訴訟

 特徴的なことは、非課税の私有地[ager privatus]に対する正式な返還手続きについての元々の制限である。(土地という)現物への強制執行という手段が無かったことと、先行する判例に従った利害関係の現金化は、訴訟において原告側の本来の土地の所有者に対し、土地を返還する代わりに、その土地の価格相当の現金を与えただけであったのだが、それは(19世紀末の)今日の取引所法の強制手続きにおいて、(証券の)差額の現金による精算執行と明らかに類似している。こうした類似が偶然のものではないということは、土地を巡っての人間関係についての訴訟においては一般的に採用されているやり方であるということが観察されることによって裏付けられている。

土地測量人が関わる訴訟の類型

ここにおいて、agrimensorische genera controversiam についてより詳しく見ていく必要があるだろう。それはある[測量人が関わる]訴訟類型のことで、その訴訟において土地測量人達が、ある場合は裁判官への技術的な助言者として、また別の場合は彼ら自身が権威のある専門知識を備えた第一審の裁判官として務めたのであり、それはその訴訟が土地の所有権に関するものである場合に限定されていた。測量人達は訴訟の争点となっている所有関係を”de fine”と”de loco”に分ける。前者 39) は土地の(周りの土地との)境界線がどうなっているのかという争いであり、我々にとっては取り敢えずは関心外のものであるが、後者は最初のカテゴリーの争点を超える土地の所有権とその所有そのものについての訴訟である。”de loco”に含まれる訴訟は問題となっている土地の各辺の長さが5ローマフィート(約1.48m)または6ローマフィート(約1.77m)を超えるものについてであり、何故ならそういった面積の土地についての争いは土地の境界についての規則の根本原則に基づいて取り扱うべきものであり、それ未満の面積の土地は正規の所有権訴訟においても、また正当な方法での獲得においても規則外と扱われたからである。”de loco”(広義での)の争点に含まれるのは、境界線の判定以外の全ての土地に関しての争点であり、取り分けde loco(狭義での土地の場所について)のものと、de modo(面積について)の訴訟のそれであった。

39) P.12. 37. 41. 126参照。

この2つの違いについては、特にフォイクト 40) ≪Moritz Voigt、1826~1905年、ドイツのローマ法学者≫が言及している。しかし私の考える所では、それは不当にもその2つの違いを単に裁判の際に使われた証拠の違いにしてしまっており、controversia de loco の場合は単なる何かの資料、controversia de modo の場合は本質的に返還請求と同等の意味を持つ任意のその他の何か、と特徴付けている。もちろん controversia de mode の場合にある一定レベル以上の文献資料を証拠として挙げることは本質的なことであり、controversia de loco の場合はそうではなかったが。しかしながらこの2つの違いはそれぞれにおいて異なっている訴訟原因と申し立ての法的な性質に関係しているのである。

Controversia de mode と de loco

 Controvesia de mode はある当事者の次のような主張の結果としてそう分類される。それはその当事者の土地の所有は耕地測量図[forma]に拠るのではなく、証拠能力のある所有権移転行為―特に(正規のやり方での)購入―の権利書式に拠るのであり、そのためその耕地における当該の面積の土地がその者に帰属する、という主張である。その当事者はここにおいて次のような主張をしているのではない。つまりここかどこかの特定の土地区画が法によってその者のものとなっており、それ故その者に引き渡されなければならない、という主張である。そうではなくて、(de modoと)書かれている通り、ただ事実上その者の所有となるべき一定の面積が公の測量地図においての面積とは一致せず、その者に本来帰属すべき全面積が測量地図に記載されていない、ということである;その者が要求するのは事実上の耕地同士の配置の変更とその者が権利を持つ全面積 42) の土地の割り当てである。これに対して controversia de loco の当事者は逆に、その者に既にある特定の土地区画が帰属し、その返還を要求し、その土地区画が測量地図の上では彼に帰属すべき面積の土地としてその所有とされていないと訴えているのではなく、むしろただ権利の保護、つまりそれによって彼が実際の土地の獲得が保証されること、それを要求しているのである。2つの訴訟の本質的な違いはそれ故にまず第一は、controvesisa de loco の方は多くの場合 ager arcificius ≪未分割の土地≫について起きているが、しかし de loco の方は既に分割割り当てが済んでいる耕地に対しても起こされることがある。一方 controversia de mode の方はそれに対し、ただ既に測量地図に載っている耕地に対してのみ起こされることが可能であった 44)。

40) Ges. d. Wiss. Phil. – Hilst の第6巻の論文の CL. 25, P.59 (1873) 参照。

41) P. 13, 45, 76, 131 参照。

42) それ故に643u.c.の土地改革法において、C.グラックスがカルタゴにおいて市民に与えた土地の内で一部のあまりにも大面積の土地区画を制限しようとした時に、以下のように規定している。
neive (IIvir) unius hominis (nomine) … amplius jug. CC in (singulos
homines data assignata esse fuisse judicato).
[もし(二人組により)一人の男(の名)に対して…200ユゲラ以上の土地が割り当てられている場合は(一人に割り当てられている、またはそう判定される場合には)]
controversia de mode はそれ故より広い面積の土地を得ようとすることは許されていなかったか、またはたとえ訴えることが出来ても何の成果も得られなかったかであり、その訴えが何とか認められたとしても、耕地に対しその認可の結果として耕地の(再)整理が行われ、そして権利者に対してごくわずかの面積の追加が認められたぐらいである。ただ面積のみが割り当ての対象であり、具体的な地所が対象物なのではなかった。

43) ラハマンのP. 13, 43, 80, 129を参照。

44) フロンティヌ P. 13, 3 controversia de loco について:haec autem controversia
frequenter in arcifiniis agris … execetur.
[この類型の訴訟はしかししばしば ager arcifiniis に対して行われている。]
しかし同じ書のZ. 7には:de modo controversia est in agro assignato. [controversia de modo は割り当てられ済みの土地に対して行われている。]同様のことが前注で引用した箇所でも引用されている。

Controversia de modo の法的性質

 まず第一に controversia de modo について考察してみたい。その実際の成果について、学説彙纂の D. 7 (actio) finium regundorum (10, 1)[境界線確定訴訟]が規定している:De modo agrorum arbitri dantur, et is, qui maiorem locum in territorio habere dicitur, ceteris, qui minorem locum possident, integrum locum assignare compellitur. [ある土地の面積について裁定が行われ、ある者で、その地域で大きな面積の場所を割当てられている者は、他の者で、より小さな場所しか持っていない者に対し、全体の場所を(再度)割当て直す(それによって自分の土地の一部をより少なくしか持っていない者に渡す)ことを強いられる。]

 全く同様のことが測量人達の言及する別の文書中にも登場しており(P.29, 45)、その結果として該当の耕地の一部分において事実上の新たな分割が行われており、境界線を新たに引き直すことにより、それぞれの土地の所有者に対してその者に帰属すべき面積の土地が(新たに)割当てられている。

45) フロンティヌス、de contr. agr. II P, 39, 11ff. 47, 21ff。

測量人はその際に forma に付属する土地の外形図を用い、その境界線を引き直し 46)、測量地図[forma]が個々の引き受け地の面積情報を提供している明細 47) を用いて、元の境界線をなるべく再現するよう努力する。その際にその土地の耕作状況についての手がかりとなるものを提供し 48)、あるいは測量人は新しい境界線を引いて、それによって各自に帰属すべき面積が保たれるようにする。

46) フロンティヌスのP. 47, 21, 48とニプススのP.286, 12f. 290, 17fを参照。境界線というのはただこの目的のためだけにあった。P. 168, 10ff。

47)つまりはフロンティヌスのP. 55, 13を参照:si res publica formas habet, cum controversia mota est, ad modum mensor locum restituit.
[もしローマ共和国が controversia de mode の訴訟の際に、その土地の測量地図を保持しているなら、測量人達はその面積をそれによって再確認する。]

ここでは間違いなく公有地について述べているのであり、面積に関する争いの解決については測量地図[forma]に記載されているものが決定的な力を持っていたということである。

48) フロンティヌス、前掲書、Agg. Urb. P. 11, 8f。

こういった手続きは境界線を調整する通常のやり方ではなかった。何故ならば古い境界線を新たに引き直すのは、目的を達成する上で取り得る数多い手段の内の一つに過ぎないからである。この新しい境界線を引き直すというやり方は、権利を受ける者に対して国家が[測量地図という]書面で確認している土地の割当てに対して行われている。しかしそういった土地については、公の測量地図においては、はっきりした境界線を持った具体的な地所が割当てられているのではなく、ただ一定の面積のみが割当てられていたのである。