「ローマ土地制度史」の日本語訳(20)P.156~160

「ローマ土地制度史」の第20回目の日本語訳です。いよいよ話が難しくなってきて、日本語訳には苦労しています。おそらく最後まで訳してまた見直すことになるでしょうが、現時点での私の解釈をお届けします。ここでは土地の所有権の種類と相続というローマ法の根幹に関わる部分が論じられています。何度も言っていますが「農業史」ではありません。
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そういったことと対立することとしては、測量人達が、植民市におけるムニキピウムについて、法律が変更された 29) というケースを、はっきりと彼ら自身に関係する問題として取り扱っているということである。更にゲリウス≪115年頃~180年以降、ローマの著述家、Noctes Atticae(アッティカの夜)の作者。≫(16、13) 30) に拠れば、ハドリアヌス帝≪在位117~138年、五賢帝の一人≫の時代にはそのことが実質的な意味を持つようになっていた。そしてその結果として我々が知っているのは、プラエネステ≪ローマの東35Kmにある都市、パレストリーナ≫がティベリウス帝≪在位BC42~AD37年、アウグストゥスの後を継いだローマ2代目の皇帝≫の時代に、植民市の地位からムニキピウムに戻してもらいたいという要請をしているということであり 31)、それについては何か現実的な理由があったのに違いないのである。このことから次のことが直ちに推定される。つまりその理由は、ローマ式の測量方式を植民市の土地に適用するということに関係があり――しかしそこにおいての実際の動機を知ろうとすることは、次のことを行った後にやっと見解を得ることが出来る。つまりどのような法的かつ経済的な特性をこの測量方式の適用はもたらし、そしてどこにおいてその実質的な意義があったかということを明らかにすることが出来た後である。その際に我々としてはまずイタリア半島において、一貫して市民植民市に適用されたケントゥリアによる分割、つまり土地税が免除されたローマの耕地から考察を開始すべきであろう。

29) P.203, 8はそのように読める。
30) イタリカ≪スペイン南西部の植民市≫とユーティカ≪古代フェニキア及びカルタゴの都市で、後にローマの植民市となったもの。≫について述べられている。
31) ゲリウス、1.c. 参照。

II 私法的・経済的な非課税耕地の性質

原則的なこと:ただ次のような耕地、つまり割当ての手続きの際に土地税もその他の現物負担も無い状態で譲渡された耕地と、またはその耕地について特別法によってその耕地の法的な分類が特別に与えられた耕地は、それらが土地改革法の全体と関連付けられていたということは、疑い無く正しいと考えられる。そういった耕地の特権とは、それらは特に643u.c.(BC111年)の土地改革法からもまた生じたのであるが、次のようなものである:

耕地に与えられた諸特権

1.そういった耕地は censui censendo ≪ケンススに登録すべきもの≫であり、つまりケンススの登録簿の中に入れても問題無しとされた耕地で、そのことは兵役や納税義務の、及び政治的な権利の基準となったのであり、ケンススの帳簿に登録されるべきものであり、それによって専ら賃貸借の際の公的な引き渡し保証等の目的に使用されたのであり、その際に相続された家族の所有地(ager patritus [先祖代々の土地])について、ある確かな、しかし詳細はよく分っていない優先権が与えられたのである。

2.そういった耕地は、ただそれのみが、ローマの国家で認められた取引きの形態の、特に土地の購入の、それ故に更にまた対物訴訟においても対象とされ、その手続に従うものであった。

ケンススに登録される資格を持つということ

上記の1について:グラックス兄弟による viritane Assignation ≪組織的ではない、個別植民への土地割当て≫は、それが ager vectigalis [課税地]とされた場合にはケンススに登録すべき土地とされた。またある耕地に viasii vicani ≪重要な道路(例:アッピア街道)沿いにあり、その道路の維持義務を負わされた土地≫の義務が課された場合にもその耕地はケンスス登録対象となった 32)。[しかしそれ以外の]グラックス兄弟によって割当てられた土地は完全な所有権に比べると譲渡権を持っておらず、クィリタリウム所有権≪quiritarisches Eigentum、ローマの市民のみに与えられたもっとも上位の所有権≫よりも劣った権利しか持っていない他の全ての土地はケンススの登録対象ではなかった、ということが結論付けられよう。ケンススにおいて、bonitarisches Eigentum≪善意による所有権、正規の法的な購入手続き以外の方法で入手された土地への[そしてそうとは知らず入手した場合の=善意の]所有権、クィリタリウム所有権より法的保護の面で劣る≫をどう扱ったかという問題については、私は同様に間違いないこととして次のように考える。つまりその種の所有権の土地はケンスス登録対象ではなかったのであり、ケンススへの登録対象であったかどうかということは、むしろ法律上のローマ市民の[完全な]所有権についての実質的側面であったのであると。上記の2についての更なる論述は後で、私はそう信ずるが、より高い明証性を持った根拠にのっとって提示される。

次のことは、ローマにおける土地所有権の全体の位置付けにとって更に特徴的である。それは土地改革法がそれによって私有地と宣言された土地の、ある一定のカテゴリーの売却可能性を、規模の大きな投機業においての担保物件の目的で使うことを、それについてはローマの行政がそういう機会を提供したのであるが、特別に規定した 33) ということである。

33) P.28

ローマにおいての最上位の権利を持った地所は、まさに他の何よりも、抵当物件として資金調達を可能にする資産でもあった。

銅片と天秤による取引き≪この表現は通常は奴隷解放の儀式のことであるが、ここでは対物訴訟のこと≫

上記の2について、同様に特徴的なことは、銅片と天秤を用いた物的取引きの制限であり、そして――根源的には――ローマの非課税の耕地に対するローマでの対物訴訟の制限であった。この点についてまずより詳しく述べてみることとする。

不動産の売買による所有権移転[Manzipation]と遺言の経済的な意味

不動産とそれに付随する権利の引き渡し形態である Manzipation は、全ての家族の負債と共通経済的な拘束事項から自由である土地について適用されるのであり、それは家族の遺言における無制限の[所有権移転を伴う]処置がそういった自由な土地に適用されるのと同じである。特に後者[=遺言]が本質的に土地政策上の意義を持っていたことは明白である。もし有形物、つまり実質的には不動産とその付属物についての、actio familiae (h)erciscundae [家族間での遺産の分割行為]に対する根源的な制限が、次の条項の結果として:”nomina sunt ipso jure divisa”[法律上は、帳簿(名目)上の資産・債務が分割される](相続人とその相続物という言葉の上での組み合わせに対しても適用される制限)、そういった有形物[不動産]は直ちに諸権利の中で家族との共生経済を故意に重視することと、そして家族間の均等分割の原理により家族の所有する地所が分割されるという危険を生じさせるのであるが、次の事実と結合している。それはそういった[遺産としての不動産の元の大きさのままでの]保持がもっとも重視された 35) ということと、同じく土地所有の政治的な意義においてもやはりそのことがもっとも重視されたに違いない、ということである。

34)より古い時代においても確かにそれらは帳簿上の財産として制限されており、それは「不動産という]その名前が示している通りであるが、その理由は明らかにその当時は私的な土地の所有権がまだ存在していなかったからである。

35) 参照:放蕩者に対する禁治産者宣告の書式と、既に考察して来た praedium patrium [先祖代々の土地]への優先権。

十二表法の制定は、ローマの農民に対して形式的な制限に結び付けられた遺言の自由においてのみ、次のような手段を彼らに与えた。それは生きている間においての家父長権と、また当該の遺産対象の財の選択をいつでも新しい遺言によって変更する可能性と結びつけられた上で、考えられるもっとも明確な形で、[ヴェーバー当時の]現代における我々が相続法と財産引き渡し契約によって達成しようと努めるのと全く同じ目的を追求するための、同時にまた家長の権威を無傷のまま保つための手段であった。後の時代において、こうした手段がどの程度までなお使われたかということは、次のことを扱う法源≪法の存在根拠、ここではその根拠を決定付ける事項≫の範囲によって示されており、それは遺言の単なる言葉の上での解釈と、特に相続に関係する集団である廃嫡者と代襲相続人≪ある正規の相続人が死んだりいなくなった時に代わって相続人になる人≫についての所である。相続人のためにローマにおける家父長は、その相続人以外の他の息子達を相続対象の財産 36) から排除した;それらの息子達は、「相続人の座に居る」者、つまり adsidui ≪ローマ市民の中で納税義務を負いまた軍人になる資格を持つ者≫に対比して、プロレタリウス≪ローマ市民の最下層の身分、プロレタリアの語源≫に所属する者に留まるのであり、その身分についてはまず「子供を設けることが出来ない者」と呼ばれたのであるが――それは蔑視的な表現だったと思われるが、法律上の公式な表現ではそのような言い方はまず許されていなかった――そうではなく「子孫」37)――つまり定住した市民の、――として表現されており、それ故そういった単にその理由のみで cives [ローマ市民]であった者達であり、それは彼らの祖先達がかつては土地所有者であることにより cives だったからである。

36) このことはここで採用された方策の目的と相反するように見えるかもしれない。しかし次のように考えることが出来る。つまり人間関係の政治的側面が確かに経済的側面より重視されたのであると。それに拠って生きるための地所の確保ということが目的だったのではなく、相続する息子とその子孫が、その手中に家のお宝を保持し、トリブスにおけるフーフェ[地所]の所有者として、かつ同等のケンススにおいての階級に留まるということが目的だったからである。

37) 参照:hidalgo (スペイン語、庶子)=fijodalgo, filius alicuius (その他の息子)

これらのプロレタリウス達は、それ故かなりの部分が字義通りの意味で廃嫡者であった。そして確かにまさに次のようなローマ民族の中のある階級の前景に登場するような破片の如き者だったのであり、その階級とは彼らの土地獲得への渇望が(グラックス兄弟の)土地の割当てとローマの侵略戦争[による外地の獲得]によって鎮静化された、そういう階級のことであるが、彼らはその耕作地に居住する[正規の]農民にしてもらった訳でもなく、また都市の小市民という身分にしてもらった訳でもないのである。土地所有についてのその処分の自由の厳格な実施とその完全な流動化を勝ち得たいという願望がローマの対外的な拡張を推進する上での強力な梃子となった 38)。

(注38の訳は次回。)