「ローマ土地制度史」の日本語訳(19)P.152~156

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第19回目です。最近ペースが遅いので、巻くため会社の昼休みにもやっています。そのため前回から10日でアップ出来ました。ここでは「二重都市」という興味深い概念が出て来ます。つまり元々の住民がいる所にローマの植民市が割り込んで来た場合に形成される「新市/旧市」状態です。私は日本での同様例で福岡-博多を思い浮かべていました。福岡-博多もある意味二重都市で元々の商人の町の博多に後から黒田氏がやって来て(黒田氏は播磨が出身地とされています)新たに福岡の町を作りました。この2つの地域は相互の行き来は出来ませんでした。その中間にあるのが中州です。
それから、ここでポンペイの例が出て来ます。ここの旧住民を「門の前方へ」追い出した、という表現が不自然で色々調べて私なりの仮説を得て書いています。
==================================================
割当てられなかった領域の法的な位置付け

 ある植民市の測量された土地[pertica]とその植民市の別の領域のある部分が一まとめにして把握された所においては、法の存立の状態は疑いなく元の古い状態のままであった。場合によってはこういう残余の土地はごくわずかでまた偶然生じたようなものであり――カウディウム 19) ≪南イタリアのサムニウムの地名でサムニウム族系のカウディニ族が住んでいた。≫ではそうであった――全体の領域が植民市が測量によって境界線を設定することで把握され、それからムニピキウム[自治市]の役所の権力は城壁の内側の地域に限定され、また実際はほとんど市場を取り締まる警察権と市場への司法権に限定された。

 それに対し植民市が測量によって設定した土地が元々あったゲマインデの領土のほんの一部に過ぎなかった場所では、そのゲマインデの内部に植民市の土地が設定され、把握され、2つのゲマインデがお互いに二重都市という形で成立することとなり、新市と旧市という形で並立した 20)。

19)C.I.L. IX, 2165. lib. col. p.232, 部族もまた異なっていた。参照:C.I.L. IX, 2167(ベネヴェント≪南イタリアのアッピア街道沿いの中小都市≫のステラティーナ族の植民市)、また2168(カウディニ族のフォレーリア)≪この注を含む数ページの注でヴェーバーはC.I.L.(Corpus Inscriptionum Latinarum、ラテン碑文集成)とすべきものをC.J.L.としている。おそらく誤記でCD-ROM版のテキストではC.I.L.である。しかし全集版の文献リストにC.J.L.は無く全集による説明もまったく無い。ius-jusのように、ラテン語でiとjの両方が特定の綴りで使われるケースはあるが、この場合はIしか考えられない。≫

20) おそらく Interaminia Praetuttianorum ≪現代のイタリア共和国アブルッツォ州北部のテーラモ。プラエトウッティ族の土地だったのをBC290年にローマが征服し植民市としたもの。≫がそう(Frontin、 p.18による。C.I.L. IX、5074とも一致する)。更にはポッツオーリ(Tac. Ann. 14, 27)、ヴァレンシア≪スペイン≫(C.I.L. II, 3745)、アプラム≪ルーマニア、ローマの要塞があった≫(C.I.L. III p.183)そしてティグニカ≪現在のチェニジア南西部≫。

そういった二重都市となった領域の実際の状態と相互の関係、つまり公的権力においての境界設定、がどういうものであったかについては、個々のケースについてそれを突き止めることは出来ないが 21)、少なくともそれが存在していたということについては疑いようがない。

21) そういった二重都市の司法権の相互関係については学説彙纂27§1のウルピアーヌス≪ローマ古典期晩期の法学者で学説彙纂の法文の内約1/3は彼の著作から取られている。≫の断片 ad municipalem et de incolis (50, 1)[ムニキピウムとその住民について]が扱っているように見える:ある者で常に植民市ではなくムニキピウムに滞在し、全ての祝祭等に参加する者は、そこで諸々の物を買い入れ、”omnibus denique municipii, nullis coloniarum, fruitur”[結局のところ、(その者は)ムニキピウムの全て良きものを享受し、植民市の何物をも享受していない]、その者は彼の domicilium in municipium [ムニキピウムの中での住居]を持ち、の所である。しかし、[学説彙纂の](リテラ・フロレンティーナ[写本]での)”colendi causadeversatur”[耕作のために住む]の所ではない。特徴的なのは、”rus colere”[耕作のための地所]というのが植民者の本質であるように見えることである。

同盟市戦争の時代には、それ[fundi excepti]は単に農村トリブスの中で登録されたのかもしれない。しかしその後の時代ではそれはもう可能ではなくなっていた。測量人達の記述によれば、それはむしろより独立した領域として構成されていた。そういった領域はゲマインデの領域に関しての手続きによって定められており、ケンススにおいては明確に独立したものとして一般的にはただローマの中央官庁の管轄下にあるのみと記載されていた 22)。

22) P. 53, 197, 10。類似のものについて第4章で取上げる。

同様にそういった領域は、時においては警察権力の一部としての市場についての司法権の管轄下にあった場合もあった 23)。

23) C.I.L. VIII, 270. Ephem. epigraph. II, P.271を参照。

確かにこういった関係は、ケンススによって課税と徴兵が実際に行われていた属州においては、イタリア半島においてよりも大きな意味を持っていたし、そもそもイタリア半島においてはこういった関係自体が稀であった。測量人的な視点においては、我々はそれを明白に ager per extremitatem mensura comprehensus [外周のみが測量され内部が区画分けされていない土地]のカテゴリーに関連付けることが出来る。それについてフロンティヌスはこう言及している:fundi excepti としてまた測量地図上に記載されている領域は、確かに耕地図上にまた per extretatem として測量されその領域が描かれている。既に次のことについては言及して来た。つまりフロンティヌスの地図(Fig. 4)が既に明らかにしているように、区画分けされていない地所は、ある統一的な特定の種類の区域として法的に定義されたものに、必ずしもなる必要がなかったように見える、ということである。この領域を巡るその他の公法的・行政法的諸関係については、それは古典期での物権の引き渡しにおいては非常にみすぼらしくしか見えないものではあるが、またローマにおける土地(農業)経済の発展において非常に重要な役割を演じたことははっきりしており、後で特別に詳細に取り扱うことにする。(第4章を参照)。――

植民市内部における法整備の状況

 我々が次の問いについて考えようとするや否や、我々のそれについての知識が非常に貧弱な状態に留まっていることが明らかになる。その問いとは、あるローマの市民植民市において、その当該のゲマインデの内部においての法整備の状況がどのように変遷したか、どのような作用を及ぼしていたかということである。元からの居住者の植民者に対しての関係が、統一的な法形式としてどのように規定されていったかという問題はここでは取上げない。ノーラ≪カンパーニャ地方のもっとも古い都市、第2次ポエニ戦役で3度戦場になった。≫についてモムゼンは元からの居住者はここでは plebs urbana ≪ローマにおける最下層の平民≫に格下げされたという仮説を唱えているが、実際のところは、全ての領土が没収されたという、常に起こりうることがここで起きたのである。これに対立するもっとも極端な例は、古代のアンティウム≪ローマの南の海岸沿いのラティウムにあった都市、アンツィオ≫で起きたことで、そこでは元々の住民が全て植民者に編入されている。ポンペイについては以上の2つの偶発的なケースとは違い、何かの、おそらくは法的に不平等である2つの住民カテゴリーが作られ、おそらくは住民の異なった地位によって耕地の割当ても違ったやり方で行われていたように思われる 24)。

24) ニッセン≪Heinrich Nissen、1839年~1912年、ドイツの古代史家≫のPompeianische Studien[ポンペイ研究]とモムゼンのC.I.L. XIVを参照。もちろん詳細については全く不明である。次のことはすぐに確かなものと確認することは出来ない。つまり、北部の1/3の領域が他の領域から scamna と strigae によって区切られていたのかということである。そこにおいてはスッラの植民市がその領域を秘密裏に所有していたのと、または元からの住民がそこを課税地として所有していたからである。モムゼンは一般論として旧住民が市の複数の門の前方へ(つまり市外へ)追いやられた可能性を示唆している。≪Thoreを普通に「門」(複数)として訳したが、表現が非常に不自然であり(単に市外に追放したなら、市壁または城砦の外へと書く方が普通)もしかするともしかするとポンペイの西にあって、ポンペイと同時にヴェスヴィオ火山の噴火で滅んだ(現在の)トッレ・アンヌンツィアータのことではないか。Torre(伊)、Turris(羅)は「塔」の意味。トッレ・アヌンツィアータに相当する地名が当時もあり(ここの遺跡の地名はオプロンティス)、その固有名詞中に含まれる普通名詞を間違って「門」と解釈したのではないか。ここは二重都市についての注なので、元からの住民がトッレ・アヌンツィアータの方へ追いやられ、ポンペイと二重都市を構築したと考えるのは自然。ちなみにポンペイ最大の門は西側のマリーナ門であり、それには12の塔がある。そしてその門の外側はトッレ・アヌンツィアータなので、結局は「門」と訳しても同じことを意味しているかもしれない。この部分C.I.L.の原文を探しているが未確認。≫我々が知り得ている情報だけによって「二重都市」という名称を使うのは無理がある。そういった関係だと言っても良いのは、例えばヴァレンシアにおいてのように、2つの階層[ordines]と、それ故に2種の公権力がお互いに排他的な競争状態にあることが確認出来る、そういう場合のみである。そうでないとほとんどの植民市が「二重都市」ということになってしまう。

 文献史料の状態が劣悪なため、いずれにせよ次のことを行うことは出来ない。つまり新しく連れてこられた植民者と元からの住民の関係を詳しく調べることである。後者についてはある特別な法的地位に留められたかあるいは何かの原理に基づく存在として(その原理から)還元されて考えられたかではあるが、ここで出来るのはただそうした原理について調べることぐらいである。様々な植民市については、そういった原理という点でお互いに甚だしく異なっていたように見える。それについては我々は次のような考え方をすることが出来よう。つまり市民植民市でもあった諸ゲマインデについて、帝政期においてもまた、ローマ国家としてのそういったゲマインデとムニキピウムとの等しい法的な取り扱いにも関わらず、ムニキピウムと他のローマの諸ゲマインデの内的な関係については、ある観点に沿って見た場合には異なっていた、という考え方である。モムゼン 25) は次のことに言及している。つまりその他のゲマインデとは反対に、ある種のゲマインデでローマの[古代からの伝統的な]集団形成が先行していた所では、つまりクリアに分けられていた場合、植民市 26) においてはそれがトリブスになっていると。ローマにおいてはトリブスへの分割は疑いもなく耕地の分割と関係があったので、次の結論は明らかである。つまり、この2つに関係があったことは市民植民市においてもそうであり、それ故市民植民市の土地制度の状態は帝政期においてすらある本質的な識別のための目印を作り出していたということである。

25) Epehem. epigraph. II p.125参照。
26) アウグストゥスの植民市 Lilybaeum≪リリュベエウム、今のシチリアのマルサーラ。ポエニ戦争にて対カルタゴの前哨基地として栄えた。≫ と、Julia Genetiva Ursonesis≪スペインのセビリアにあったカエサルの植民市≫においてがそうであった。

そうした事情があったとしても、次のような可能性について確たることを言うことは出来ない。つまりアフリカ 27) の植民市においてクリアによる分割が行われたかということである。

27) 当時の Hippo Regius ≪現在のアルジェリアのアンナバ。フェニキア人が作ったとされ、後にローマの植民市となった。≫と Lambaesis ≪アルジェリア北部にあったローマの植民市で、ローマ軍によって作られた。≫についてそこでのクリアについて言及されているか、またそもそも本当に植民市であったかもはっきりしない。それに対してこのことは、Julia Neapolis ≪カルタゴの旧領、現在のチェニジアに作られた植民市≫の場合は該当していた(C.I.L. VIII, 974)し、更にはトラヤヌスス帝が作った植民市の Thamugadi ≪現在のアルジェリアのティムガッド≫もそうであった。(C.I.L. VIII, 5146)

そのことから考えて、ローマそれ自体においてはクリアとトリブスが隣接して存在していたということは、ある時代からの植民市法の該当のゲマインデへの適用の源泉となっているが、その時代においてはゲマインデにおける市民団体は都市参事会[デクリオネス]によって政治権力を奪われており、それは丁度ローマにおいて市民の権利が元老院によって奪われていたのと同じであり、それ故、言及されている土地制度の相違があった場所においては、それは続けて市民を新たに分割し直すという目的はもはや持っていなかった 28)。また帝政期において各植民市に対する純粋な等級としての称号の付与ということが多く起きるようになったのかもしれない 28a) ;そこにおいては確かに単に外面的な把握の仕方について争われたに違いなく、それは例えばあるゲマインデの地位が植民市の中で変えられた時に、そこでは新たな住民を[何らかの原理に従って]演繹的に作り出すということは行われず、必然として純粋に呼称について、その内部での人間関係についての実質的な意義は全く無しに、単なる表向きの称号だけ――例えば「四人組」[quattuorviri, IV viri]管轄地域ではなく、「二人組」[duoviri, II viri]管轄地域など≪「四人組」、「二人組」はその名前の通りの人数の者が委員として組んで植民市の行政に携わるもの。地位としては「二人組」の方が上。≫――が問題となっていたのかもしれない。

28) 唯一の例外はネアポリス[ナポリ]であったかもしれない。もしそれがカエサルの植民市であったとしたら。しかしこのことは全く確からしくない。(プリニウス≪ガイウス・プリニウス・セクンドゥス、23年~79年、「博物誌」の著者でかつローマの属州総督。≫はこの植民市を知っていない。

28a) D.1 §3 de censibus [ケンススについて]50, 15: Ptolemaeensium … colonia … nihil praeter nomen coloniae habet. [プトレマイオスの植民市は、名前は植民市となっているが、その中身で植民市的なものは何もない。]

「ローマ土地制度史」の日本語訳(18)P.148~152

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第18回目です。ここは注の14~16に出てくるラテン語の訳でかなり悩みました。そしてここでもChatGPT4が良き相談役になってくれ、何とか納得出来る意味を掴むことが出来ました。
本文中に注釈としても書きましたが、ヴェーバーのこの論文のラテン語をきちんと理解するためには、小型のラテン語辞書(羅英辞書)は役に立ちません。オクスフォード羅英大辞典のみがヴェーバーが参照している測量人達のテキストをコーパスとして用いています。
===============================================
ager extra clusus、subseciva、そして loca relicta の全てを合わせた地所は、法そのものの効力によって新しいゲマインデの職権に支配されているのではなく、帝政初期においては、土地を割り当てる植民市の役所の権力下に、ただ法律上形式的に留められていたに過ぎない 8)。これらのその他の領土については、[通常の土地種別とは]異なったやり方で取り扱われていた可能性がある 9)。この種の土地が、特に loca relicta の場合にもっともしばしばあったことであるが――ゲマインデによって共有地として、つまり pascua publica [共有の牧草地]として、または売却や譲渡の対象から除外された樹木地に割り当てられた可能性がある。あるいはその土地での放牧権が定められ、多くの場合境界線の無い―― fundi [牧地]として割り当てられたのかもしれない――つまり ager compascuus [隣人間で共有される牧草地]である 10)。あるいは別の可能性としては:これは ager extra clusus の場合にしばしばあったことであるが、ゲマインデが自分のものとしたか、あるいはまた一時的にかあるいは賃借料と引き換えに誰かに引き渡されたかである 11)。仮にそういった土地について何も規定が無かった場合には、それらの土地はローマ市民の ager publicus [公有地]に留まるのであり、ゲマインデまたは私人が、それは subseciva の場合にしばしばあったことであるが、その土地を開墾した場合、共和政時代の公有地の占有[Okkupation]と同様の法的な位置付けの土地となったのである。そういった土地の利用で利益を得ることは非常に不確実だったのであり、いつでも新しい割り当てによってその土地が没収されたり、または国家によって賃借料を課されたりする、ということがあり得たのである 12)。皇帝ウェスパシアヌス≪在位AD69~79。皇帝ネロの死後の内乱期の後、60歳で皇帝になりローマの財政建て直しや公有地貸し出しの見直しを行った。≫がこういった政策を精力的に行い、そうした土地の所有者に大いに不満を抱かせる結果となった。そして皇帝ドミティアヌス≪在位AD81~96、ウェスパシアヌスの次男、前皇帝ティトスの弟≫までに、永遠に続くかと思われた諸ゲマインデの不安は全て解消された。その過程でドミティアヌスはこれらの古い意味でのイタリアの公有地の残りの部分を、その占有者に対して、当時の測量人達の内の一人によって言及されている一般的処分を行った。それについての実例が碑文として(C.I.L. IX, 5420)≪ドミティアヌスがファレリ人とフィルマ人の間の土地争いを裁定したもの。≫残されている。

プラエフェクトゥラの測量地図の意味

前述のことから、測量地図[forma]がこうした[土地の]状態に対して持っていた大きな意味が確かに確認出来る。植民市に組み込まれた耕地の内、測量地図、つまり耕地図に記載されていない部分は、これまで見て来た土地のカテゴリーのどれにも該当しなかった。それに対して統一された測量地図が作成された場合、または多少疑わしくとも統一的な耕地の領域 14) までその地図が包含している場合、そうした場合おそらくはその領域がそれまでのゲマインデの耕地の大部分または一部分を含んでいた。測量地図[forma]に載せられた耕地領域が十分ではないという理由で、隣接する耕地の一部がある独立の座標系を用いて分割され、そして――常に疑わしかったことではあるが 15) ――この領域に対しての特別な測量地図も作成され、そしてこの領域、つまり単なる畑地は、その領域の中に本来その土地が属していた町の中心部分を含まず、そしてそれらが主要な植民市に組み込まれた場合には、その領域はなるほどその植民市の市政権力の下に置かれるのであるが、しかしそれらはただ相対的な意味での付属地としてプラエフェクトゥラと呼ばれた。何故ならばそのような領域については、特別なプラエフェクトゥラ≪~の管轄下にある、が原義≫として植民市の市政官の司法権の執行下に委ねられたからである 16)。

14) このことは少なくともハイジンの Polemic P.118に拠れば支配的な考え方であり、それはまた測量地図とその土地の面積[pertica]の確定が行われていたこともその根拠となる。P.154,18: .. . quamvis una res sit forma, alii dicunt perticam, alii cancellationem, alii typon, quod . .. una res est: forma.
[ある測量地図があったとしても、別の者はそれを pertica [長さの単位、面積の単位、土地の地味の評価単位]と呼び、さらに別の者はそれを cancellation [格子状の土地、ケントゥリアとほぼ同じ]と呼び、また別の者はそれを typon [測量計画図]と呼ぶ、それらは全て一つの物:つまり forma を指している。」

14a) ] P.164, 5f.: .. . multis .. . erepta sunt territoria et divisi sunt complurium municipiorum agri et una limitatione comprehensa sunt: facta est pertica omnis, id est omnium territoriorum, coloniae ejus in qua coloni deducti sunt. Ergo fit ut plura territoria unam faciem limitationis accipiant.
[多くの(近隣ゲマインデの)領域から領土が奪われ、多くのゲマインデの土地が分割され、一つの測量地図の中に包括された:すなわち、全ての領土が測量され、そ(れら)の土地はそこに定住する植民者たちに割り当てられて植民市のものとなった。その結果、複数の領土が一つの測量地図に取り込まれることを(各ゲマインデは)受け入れさせられることになった。]

15) 次の Siculus Flaccus からの引用箇所を参照せよ。

16) P.26, 10 (フロンティヌス 1.II)
quidquid huic universitati (der Kolonie) adplicitum est ex alterius civitatis fine, praefectura appellatur, — p.49, 9: .. coloniae quoque loca quaedam habent adsignata in alienis finibus, quae loca solemus praefecturas appellare.
[この(植民市の)ゲマインデに付属する土地は全て、元々他のゲマインデの領土だったものであり、それはプラエフェクトゥラと呼ばれた。-p.49, 9…(それらのゲマインデ全体を統括する)植民市もまた、他のゲマインデの領域の中に割当てられた土地を所有しており、その領域をも(我々測量人はまとめて)プラエフェクトゥラと呼ぶようになった。]
特にしかしながら シクラス・フラッカス: Illud praeterea comperimus,deficiente numero militum veteranorum agro qui territorio ejus loci continetur in quo veterani milites deducebantur,sumptos agros ex vicinis territoriis divisisse et assignasse; horum etiam agrorum, qui ex vicinis populis sumpti sunt, proprias factas esse formas. Id est suis limitibus quaeque regio divisa est et non ab uno puncto omnes limites acti sunt, sed, ut supra dictum est, suam quaeque regio formam habet. Quae singulae perfecturae appellantur ideo, quoniam singularum regionum divisiones aliis praefecerunt, vel ex eo quod in diversis regionibus magistratus coloniarum juris dictionem mittere soliti sunt (teilweise verderbter Text).
[「そういった土地(プラエフェクトゥラ)については、我々はまた次のことも見出している。ヴェテラン兵士に(長年の兵役に対する褒賞として)与えるべき割当て地の数が、彼らが定住すべき土地を含む(植民市の)領域において不足している場合、近隣のゲマインデの土地から奪った土地を分割して(ヴェテラン兵士に)割当てたということを。またこれらの近隣の住民から奪った土地についても、特別な測量地図(forma)が作成されたということを。それはつまりそれぞれの領域はそれ自身の境界線によって区切られており、そしてある一点で(ある一点を中心点として座標系を作成して)全ての区画割りが行われるのではなく、前述したように、それぞれの領域で(それぞれ区画割りを行い)測量地図を作成し保持したのである。それぞれの領域がプラエフェクトゥラと呼ばれる理由は、特定の地域の個々の分割地がそれぞれ異なる者の管轄下に置かれている(=praefecerunt)からであり、または各プラエフェクトゥラにおいては、植民市の行政官が植民市では本来無い異なる領域であるにも関わらず司法権を通常行使していたからである。(部分的にテキストが欠損)≪いずれにせよ praefectura という単語は「~の管轄である、~に司法権が与えられている」という原義から派生した単語である。≫]次のことをいぶかしく思う人もあるであろう。つまり、これらのテキストの中に逆方向の因果関係について触れられておらず、つまり次のことが述べられていないこと:新たに設定された司法権の及ぶ区域に対して、その区域についての測量地図が作成された、ということである。次のことは確かなこととして主張することは出来ない。つまり、特別な測量地図を作成する必要性があり、その法的な理由が新たに委任された司法権についての管轄地域を作り出すためであったということである。それにも関わらず上述のテキストは無作為に選んだものではない。[そのテキストから考えて]次のことは非常に特徴的である。つまり本当にそういうものがあったか疑わしさもある統一的な耕地分割システムはまた――例外がP.162, 3に出てくるが――それ自身が独立して成立した行政上の管轄権と適合的である、ということである。帰納的に推論して我々は次のように考えよう。つまり、このこと[耕地分割システムと行政上の管轄権の適合性]は次のことに根拠を持っている:古代のローマの領域においての個々の耕地ゲマインシャフトが、自明なことではあるが、根源的にはある何かのやり方で行政上お互いに区別された形で成立したのであり、そしてゲマインシャフトの[土地の]それぞれの成員への分割割当てが行われたのであるが、そしてこれらの分割された耕地が――それぞれの土地にある特別な座標系を使った境界線引きが行われていたとしても――その後の時代になっても依然として、いずれにせよある時期まではその昔に行われた[古の]行政上での区分形態を[まだ]保持していたということである。こうした行政上の分離をトリブスとパギ≪いずれもローマの土地共同体、パギはロムルスの時代のもの、トリブスも共和制時代のそれではなく王政時代のもの≫に関連付けるということは、この土地制度史では2つを区別して取り扱うことが出来ないために、私はここでは試みることはしない。しかし先に詳しく述べたことがおおよその所正しいのあれば、その場合実際には個別の[行政上の]区別は、プラエフェクトゥラの司法管轄権の特別な地位の成立よりも歴史的に先行しているのである。この[プラエフェクトゥラの]表現についてはまた、ここで測量人達のテキストにおいて述べられた意味においてのみ使用されているということは自明のことである。≪praefectura のこうした意味はオックスフォードラテン語大辞典によればもっとも古い意味であり(小型ラテン語辞書には出ていない)、後になると行政命令とか地方役所、(単なる)行政区という意味になる。また後に”praefectura praetorio”というもっと広大な行政区を指すようになる。ちなみに日本の「県」を英語でprefectureというのは、直接的には中期フランス語 の préfecture からだが、更に遡ればこの”praefectura praetorio”まで行き着くと考えられる。≫

返還された、許可された、例外扱いされた土地

ある領域が境界線によって囲まれることによってそこに土地区画が出現している一方で、その土地区画が個々人への割り当ての対象から外れていたということがあった。まず我々が第一に知るのは 17)、確かにそれは一部の測量人の意見に過ぎないが、土地の分割-割り当てにおいては、それまでその耕地に定住していた者にも[改めて]割り当てが行われた[ことがあった]ということであり、これらの者達に対してあるいはその者達の一部に対して、彼らのそれまでの所有地が元の境界線のままで返還されたのであり、――それは耕地地図上では「返還資産」[redditum suum]と書かれていた――その該当の土地区画はその後植民市の行政権力の特別な取り決めには従うことがなかったのである。

17) ハイジン、p.118、更にp.116、16.160、24.178、5.197、14.を参照。

そのような地所についてはその地所の元々の所有者の個人的な事情が斟酌されたのではなく、おそらくはそういった地所は植民市において新しくロジカルなやり方で作り出されたものではないということであり、というのは以前の所有者がその者の以前の所有地を別の新しい地所と交換させられたり、またはそれまでの所有地のただ一部だけが返還され、残りの部分が新しい地所と交換させられた場合、――”commutatum pro suo”[その者の所有地と交換された]あるいは”redditum et commutatum pro suo”[(一部)返還され(残りは)交換された]と耕地図上に記載された場合――、その場合当該の領域は植民市の耕地団体の[所有地の]中に登場するのである。[以上の推論よりも正しいと思われるのは]そうではなくて、この土地について言えるのは、それまでの 地所の[法的な]地位が維持された、ということである。土地の割り当ては、第1章で見て来たように、土地の面積を基準として行われたのであり、そしてまた植民者達が事実上、最終的に具体的な耕地を分割したものを得た場合も、そこで有効となるのは面積のみであり、というのは耕地図は個々のケントゥリアにおけるそれぞれの割り当て地の面積のみを記載しているのであり、法的な意味としてはこれらの土地は割り当ての[行政]手続きを通じてのみ確定されたのである。これについて次のような見解が考えられる。つまりある土地区画が明示的に”redditum”[返還された」と、つまりその地所の元々の境界線とその内部で[改めて]割り当てられた部分が測量地図上に記載され、本来なら第一に記載されるべき面積ではなく、ある具体的なまとまりの耕地が割り当てられたとされ、それ故にその場合には本来の割り当ての[行政]手続きが欠如しているのであると。というのも土地の返還が次のようなやり方で行われた箇所では、つまりただ境界線のみが確定したものとして耕地図の中に描かれるやり方であるが(ラハマン≪Karl Lachmannの”Gromatici Veteres”≫の図185(左図)を参照)、法の効力によっての植民市の耕地へのその土地の編入はされなかったからである。そういった土地が特別な取り決めによって植民市の行政権力下に置かれた場合は、そのような領域は fundus concessus [許可された土地]と呼ばれ、そこから除外された土地は fundus exceptus [例外扱いの土地」18) と呼ばれた。

18) p.197参照。

 測量の対象から外されたり、そしてまた司法権の特別な適用によってあるゲマインデの下には置かれなかった、植民が行われた領域でのそのような土地についてはどのような法的な状態が新たに作り出されたのであろうか?