「ローマ土地制度史」の日本語訳(19)P.152~156

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第19回目です。最近ペースが遅いので、巻くため会社の昼休みにもやっています。そのため前回から10日でアップ出来ました。ここでは「二重都市」という興味深い概念が出て来ます。つまり元々の住民がいる所にローマの植民市が割り込んで来た場合に形成される「新市/旧市」状態です。私は日本での同様例で福岡-博多を思い浮かべていました。福岡-博多もある意味二重都市で元々の商人の町の博多に後から黒田氏がやって来て(黒田氏は播磨が出身地とされています)新たに福岡の町を作りました。この2つの地域は相互の行き来は出来ませんでした。その中間にあるのが中州です。
それから、ここでポンペイの例が出て来ます。ここの旧住民を「門の前方へ」追い出した、という表現が不自然で色々調べて私なりの仮説を得て書いています。
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割当てられなかった領域の法的な位置付け

 ある植民市の測量された土地[pertica]とその植民市の別の領域のある部分が一まとめにして把握された所においては、法の存立の状態は疑いなく元の古い状態のままであった。場合によってはこういう残余の土地はごくわずかでまた偶然生じたようなものであり――カウディウム 19) ≪南イタリアのサムニウムの地名でサムニウム族系のカウディニ族が住んでいた。≫ではそうであった――全体の領域が植民市が測量によって境界線を設定することで把握され、それからムニピキウム[自治市]の役所の権力は城壁の内側の地域に限定され、また実際はほとんど市場を取り締まる警察権と市場への司法権に限定された。

 それに対し植民市が測量によって設定した土地が元々あったゲマインデの領土のほんの一部に過ぎなかった場所では、そのゲマインデの内部に植民市の土地が設定され、把握され、2つのゲマインデがお互いに二重都市という形で成立することとなり、新市と旧市という形で並立した 20)。

19)C.I.L. IX, 2165. lib. col. p.232, 部族もまた異なっていた。参照:C.I.L. IX, 2167(ベネヴェント≪南イタリアのアッピア街道沿いの中小都市≫のステラティーナ族の植民市)、また2168(カウディニ族のフォレーリア)≪この注を含む数ページの注でヴェーバーはC.I.L.(Corpus Inscriptionum Latinarum、ラテン碑文集成)とすべきものをC.J.L.としている。おそらく誤記でCD-ROM版のテキストではC.I.L.である。しかし全集版の文献リストにC.J.L.は無く全集による説明もまったく無い。ius-jusのように、ラテン語でiとjの両方が特定の綴りで使われるケースはあるが、この場合はIしか考えられない。≫

20) おそらく Interaminia Praetuttianorum ≪現代のイタリア共和国アブルッツォ州北部のテーラモ。プラエトウッティ族の土地だったのをBC290年にローマが征服し植民市としたもの。≫がそう(Frontin、 p.18による。C.I.L. IX、5074とも一致する)。更にはポッツオーリ(Tac. Ann. 14, 27)、ヴァレンシア≪スペイン≫(C.I.L. II, 3745)、アプラム≪ルーマニア、ローマの要塞があった≫(C.I.L. III p.183)そしてティグニカ≪現在のチェニジア南西部≫。

そういった二重都市となった領域の実際の状態と相互の関係、つまり公的権力においての境界設定、がどういうものであったかについては、個々のケースについてそれを突き止めることは出来ないが 21)、少なくともそれが存在していたということについては疑いようがない。

21) そういった二重都市の司法権の相互関係については学説彙纂27§1のウルピアーヌス≪ローマ古典期晩期の法学者で学説彙纂の法文の内約1/3は彼の著作から取られている。≫の断片 ad municipalem et de incolis (50, 1)[ムニキピウムとその住民について]が扱っているように見える:ある者で常に植民市ではなくムニキピウムに滞在し、全ての祝祭等に参加する者は、そこで諸々の物を買い入れ、”omnibus denique municipii, nullis coloniarum, fruitur”[結局のところ、(その者は)ムニキピウムの全て良きものを享受し、植民市の何物をも享受していない]、その者は彼の domicilium in municipium [ムニキピウムの中での住居]を持ち、の所である。しかし、[学説彙纂の](リテラ・フロレンティーナ[写本]での)”colendi causadeversatur”[耕作のために住む]の所ではない。特徴的なのは、”rus colere”[耕作のための地所]というのが植民者の本質であるように見えることである。

同盟市戦争の時代には、それ[fundi excepti]は単に農村トリブスの中で登録されたのかもしれない。しかしその後の時代ではそれはもう可能ではなくなっていた。測量人達の記述によれば、それはむしろより独立した領域として構成されていた。そういった領域はゲマインデの領域に関しての手続きによって定められており、ケンススにおいては明確に独立したものとして一般的にはただローマの中央官庁の管轄下にあるのみと記載されていた 22)。

22) P. 53, 197, 10。類似のものについて第4章で取上げる。

同様にそういった領域は、時においては警察権力の一部としての市場についての司法権の管轄下にあった場合もあった 23)。

23) C.I.L. VIII, 270. Ephem. epigraph. II, P.271を参照。

確かにこういった関係は、ケンススによって課税と徴兵が実際に行われていた属州においては、イタリア半島においてよりも大きな意味を持っていたし、そもそもイタリア半島においてはこういった関係自体が稀であった。測量人的な視点においては、我々はそれを明白に ager per extremitatem mensura comprehensus [外周のみが測量され内部が区画分けされていない土地]のカテゴリーに関連付けることが出来る。それについてフロンティヌスはこう言及している:fundi excepti としてまた測量地図上に記載されている領域は、確かに耕地図上にまた per extretatem として測量されその領域が描かれている。既に次のことについては言及して来た。つまりフロンティヌスの地図(Fig. 4)が既に明らかにしているように、区画分けされていない地所は、ある統一的な特定の種類の区域として法的に定義されたものに、必ずしもなる必要がなかったように見える、ということである。この領域を巡るその他の公法的・行政法的諸関係については、それは古典期での物権の引き渡しにおいては非常にみすぼらしくしか見えないものではあるが、またローマにおける土地(農業)経済の発展において非常に重要な役割を演じたことははっきりしており、後で特別に詳細に取り扱うことにする。(第4章を参照)。――

植民市内部における法整備の状況

 我々が次の問いについて考えようとするや否や、我々のそれについての知識が非常に貧弱な状態に留まっていることが明らかになる。その問いとは、あるローマの市民植民市において、その当該のゲマインデの内部においての法整備の状況がどのように変遷したか、どのような作用を及ぼしていたかということである。元からの居住者の植民者に対しての関係が、統一的な法形式としてどのように規定されていったかという問題はここでは取上げない。ノーラ≪カンパーニャ地方のもっとも古い都市、第2次ポエニ戦役で3度戦場になった。≫についてモムゼンは元からの居住者はここでは plebs urbana ≪ローマにおける最下層の平民≫に格下げされたという仮説を唱えているが、実際のところは、全ての領土が没収されたという、常に起こりうることがここで起きたのである。これに対立するもっとも極端な例は、古代のアンティウム≪ローマの南の海岸沿いのラティウムにあった都市、アンツィオ≫で起きたことで、そこでは元々の住民が全て植民者に編入されている。ポンペイについては以上の2つの偶発的なケースとは違い、何かの、おそらくは法的に不平等である2つの住民カテゴリーが作られ、おそらくは住民の異なった地位によって耕地の割当ても違ったやり方で行われていたように思われる 24)。

24) ニッセン≪Heinrich Nissen、1839年~1912年、ドイツの古代史家≫のPompeianische Studien[ポンペイ研究]とモムゼンのC.I.L. XIVを参照。もちろん詳細については全く不明である。次のことはすぐに確かなものと確認することは出来ない。つまり、北部の1/3の領域が他の領域から scamna と strigae によって区切られていたのかということである。そこにおいてはスッラの植民市がその領域を秘密裏に所有していたのと、または元からの住民がそこを課税地として所有していたからである。モムゼンは一般論として旧住民が市の複数の門の前方へ(つまり市外へ)追いやられた可能性を示唆している。≪Thoreを普通に「門」(複数)として訳したが、表現が非常に不自然であり(単に市外に追放したなら、市壁または城砦の外へと書く方が普通)もしかするともしかするとポンペイの西にあって、ポンペイと同時にヴェスヴィオ火山の噴火で滅んだ(現在の)トッレ・アンヌンツィアータのことではないか。Torre(伊)、Turris(羅)は「塔」の意味。トッレ・アヌンツィアータに相当する地名が当時もあり(ここの遺跡の地名はオプロンティス)、その固有名詞中に含まれる普通名詞を間違って「門」と解釈したのではないか。ここは二重都市についての注なので、元からの住民がトッレ・アヌンツィアータの方へ追いやられ、ポンペイと二重都市を構築したと考えるのは自然。ちなみにポンペイ最大の門は西側のマリーナ門であり、それには12の塔がある。そしてその門の外側はトッレ・アヌンツィアータなので、結局は「門」と訳しても同じことを意味しているかもしれない。この部分C.I.L.の原文を探しているが未確認。≫我々が知り得ている情報だけによって「二重都市」という名称を使うのは無理がある。そういった関係だと言っても良いのは、例えばヴァレンシアにおいてのように、2つの階層[ordines]と、それ故に2種の公権力がお互いに排他的な競争状態にあることが確認出来る、そういう場合のみである。そうでないとほとんどの植民市が「二重都市」ということになってしまう。

 文献史料の状態が劣悪なため、いずれにせよ次のことを行うことは出来ない。つまり新しく連れてこられた植民者と元からの住民の関係を詳しく調べることである。後者についてはある特別な法的地位に留められたかあるいは何かの原理に基づく存在として(その原理から)還元されて考えられたかではあるが、ここで出来るのはただそうした原理について調べることぐらいである。様々な植民市については、そういった原理という点でお互いに甚だしく異なっていたように見える。それについては我々は次のような考え方をすることが出来よう。つまり市民植民市でもあった諸ゲマインデについて、帝政期においてもまた、ローマ国家としてのそういったゲマインデとムニキピウムとの等しい法的な取り扱いにも関わらず、ムニキピウムと他のローマの諸ゲマインデの内的な関係については、ある観点に沿って見た場合には異なっていた、という考え方である。モムゼン 25) は次のことに言及している。つまりその他のゲマインデとは反対に、ある種のゲマインデでローマの[古代からの伝統的な]集団形成が先行していた所では、つまりクリアに分けられていた場合、植民市 26) においてはそれがトリブスになっていると。ローマにおいてはトリブスへの分割は疑いもなく耕地の分割と関係があったので、次の結論は明らかである。つまり、この2つに関係があったことは市民植民市においてもそうであり、それ故市民植民市の土地制度の状態は帝政期においてすらある本質的な識別のための目印を作り出していたということである。

25) Epehem. epigraph. II p.125参照。
26) アウグストゥスの植民市 Lilybaeum≪リリュベエウム、今のシチリアのマルサーラ。ポエニ戦争にて対カルタゴの前哨基地として栄えた。≫ と、Julia Genetiva Ursonesis≪スペインのセビリアにあったカエサルの植民市≫においてがそうであった。

そうした事情があったとしても、次のような可能性について確たることを言うことは出来ない。つまりアフリカ 27) の植民市においてクリアによる分割が行われたかということである。

27) 当時の Hippo Regius ≪現在のアルジェリアのアンナバ。フェニキア人が作ったとされ、後にローマの植民市となった。≫と Lambaesis ≪アルジェリア北部にあったローマの植民市で、ローマ軍によって作られた。≫についてそこでのクリアについて言及されているか、またそもそも本当に植民市であったかもはっきりしない。それに対してこのことは、Julia Neapolis ≪カルタゴの旧領、現在のチェニジアに作られた植民市≫の場合は該当していた(C.I.L. VIII, 974)し、更にはトラヤヌスス帝が作った植民市の Thamugadi ≪現在のアルジェリアのティムガッド≫もそうであった。(C.I.L. VIII, 5146)

そのことから考えて、ローマそれ自体においてはクリアとトリブスが隣接して存在していたということは、ある時代からの植民市法の該当のゲマインデへの適用の源泉となっているが、その時代においてはゲマインデにおける市民団体は都市参事会[デクリオネス]によって政治権力を奪われており、それは丁度ローマにおいて市民の権利が元老院によって奪われていたのと同じであり、それ故、言及されている土地制度の相違があった場所においては、それは続けて市民を新たに分割し直すという目的はもはや持っていなかった 28)。また帝政期において各植民市に対する純粋な等級としての称号の付与ということが多く起きるようになったのかもしれない 28a) ;そこにおいては確かに単に外面的な把握の仕方について争われたに違いなく、それは例えばあるゲマインデの地位が植民市の中で変えられた時に、そこでは新たな住民を[何らかの原理に従って]演繹的に作り出すということは行われず、必然として純粋に呼称について、その内部での人間関係についての実質的な意義は全く無しに、単なる表向きの称号だけ――例えば「四人組」[quattuorviri, IV viri]管轄地域ではなく、「二人組」[duoviri, II viri]管轄地域など≪「四人組」、「二人組」はその名前の通りの人数の者が委員として組んで植民市の行政に携わるもの。地位としては「二人組」の方が上。≫――が問題となっていたのかもしれない。

28) 唯一の例外はネアポリス[ナポリ]であったかもしれない。もしそれがカエサルの植民市であったとしたら。しかしこのことは全く確からしくない。(プリニウス≪ガイウス・プリニウス・セクンドゥス、23年~79年、「博物誌」の著者でかつローマの属州総督。≫はこの植民市を知っていない。

28a) D.1 §3 de censibus [ケンススについて]50, 15: Ptolemaeensium … colonia … nihil praeter nomen coloniae habet. [プトレマイオスの植民市は、名前は植民市となっているが、その中身で植民市的なものは何もない。]