マックス・ヴェーバー研究総括-Amazonで予約開始

「マックス・ヴェーバー研究総括」、ついにAmazonで予約出来るようになりました。しかし、未來社のサイトでは10月7日発売ですが(しかも発売予定日ではなく、発売日になっています)、Amazonでの発売日は10月12日、しかし配送予定(通常翌日)は14-16日になっており、本当の発売日は10月13日以降のようです。最後の最後まで嘘情報を流している未來社に再度失望しました。

未來社のサイトの問題点ー虚偽の発売告知の繰り返し

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」が出版間近になっています。
それはいいのですが、未來社のHPでの発売日告知がひどくて、これまで3回、まだ発売もされていないのに「発売中」と表示され、そればかりか「在庫有り」と表示され、更にはネット販売サイト(Amazon他)のリンクまで表示されていました。しかしながら、当然発売されていない書籍をオンライン書店で注文出来る筈もなく、リンクをクリックしても「そんなページはありません」と表示されました。そして過去3回ほどこの件について電話とメールで連絡しています。結果としてその後発売中表示はなくなり近刊予定に戻っていますが、それについて何のお詫びも改善します、という返信もありません。
おそらくはここのサイトは、Web開発業者に丸投げで、近刊予定の説明に入っている発売予定日が来ると、自動的に新刊の方に移る、という乱暴なロジックが入っているのだと思います。(最近はスクラッチでWebサイトを作ることはまずなく、何らかのCMS=Contents Management Systemを使います。ここのサイトのWordPressもそうです。そういったCMSにはまずあるコンテンツのアップ日を未来に設定しておいてその日になったら自動的にアップする、といった機能があります。)失礼ながら新刊の点数だって限られており別にこんな自動処理は不要だと思います。メールで返事が無いので社長のブログにもコメントしましたが、そちらも何の連絡もありません。また発売日が変更されたのはこれまで6~7回になると思います。遅れている事情は私もある程度は分かっていますが、いわゆる「狼が来た」の域を越えた杜撰なWebサイトです。出版業もこんな前近代的な体質(いわゆる蕎麦屋の出前)を引き摺るのはそろそろ止めて欲しいです。(以前ソフトウェア会社にいた時に、コンテンツとして辞書データなどを買う交渉に色々な出版社に行ったことがあります。しかし、名前は通っている出版社の多くについて、その規模の小ささに驚いた、という経験があります。)今は私がやっているように、Amazonで電子書籍も紙の書籍もどこの出版社も通さず販売することが出来る時代です。出版社がビジネスの基本を守れないのであれば、残念ながら英語で言う”go the way of the  dodo”ということになるでしょう。

過去のメール(一通は折原浩先生宛)

2022年9月20日のメール
未來社 ご担当者様

またも下記の書がまだ作業中の段階なのに、「発売中」「在庫有り」になっています。これで3回目です。何故こんな単純なことに対応出来ないのでしょうか?

XXXX

2022年8月23日のメール
XXXXと申します。
折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」が発売中になっており、「在庫有り」とも出ていますが、西谷社長の日記によれば事項索引のやり取りをしている段階であり、発売はあり得ないと思いますが。

オンライン書店へのリンクもありますが、当然そちらでも買えません。

2021年12月27日のメール(折原浩先生宛)
折原浩先生

「マックス・ヴェーバー研究総括」ですが、未來社のサイトで「新刊」の中に出てきて、オンライン販売サイトへのリンクもあるのですが、クリックするとどこのサイトもエラーになります。それで未來社に電話で聞いてみたら、出版が3月に遅れるとのことでした。
校正作業ぐらいでしたら、お手伝い出来ると思いますので、ご遠慮なさらずに声を掛けてください。丁度ここ1ヵ月半くらいは「中世合名・合資会社成立史」の再校正作業をやっていましたから、誤記や誤植の発見には勘が働くようになっています。

XXXX

翻訳の日本語 接頭辞の「没」について

マックス・ヴェーバーの日本語訳の多くは、1950年代~1970年代に訳されていると思います。
典型的には創文社の「経済と社会」の日本語訳がまさにそうだと思います。そういった日本語訳を読んでいて気になるのが「没」という接頭辞です。例えば没価値、没意味などです。没価値(性)の元のドイツ語はご承知の通り、die Wertfreiheitです。「没」という日本語には、私だけの感覚かもしれませんが、単なる「無」や「非」より強いニュアンスがあるように思います。端的には「没」の意味を今の若い人に聞いたら、まずは「原稿や企画が却下される(ボツになる)」ことでしょうし、また当然「人が死ぬこと」の意味も連想すると思います。Wertfreiheitを「没価値性」と訳すと、何だか価値を強く否定して頭から問わない、という風に聞こえます。しかし元のドイツ語は単に「価値を最重点にしない」ぐらいの意味ではないのでしょうか。そもそも「無」「非」の意味の接頭辞としての「没」は既に廃れているように思います。ある国語辞書ははっきり「古語」と書いていました。私は「無趣味」というのは使いますが「没趣味」を使うことはありません。また「没交渉」と「無交渉」では意味が微妙に違い、「没交渉」はこちらから積極的に交渉を止めている感じがします。羽入書批判の時も「没意味的文献学」という非難が飛び交っていましたが。これも単に「意味を重視しない文献学」というニュアンスでは無く、「一番大事な意味をなおざりにする文献学」といった余計な感情が入っているように思います。世良晃志郎さんの日本語訳は、名訳として有名ですが、残念ながらこの「没」については非常に多用されていて、違和感があります。時代と世代の違いと言ってしまえばそれまでですが。