「ローマ土地制度史」の日本語訳(32)P.204~207

ローマ土地制度史」の日本語訳の第32回目です。
ようやく第2章が終わり、第3章に入りました。
この辺り、「階級闘争」的な描写が多く、おそらくロードベルトゥスの影響を受けているのかな、と思います。
=========================================
こういった貿易と農場経営の結びつきは非常にはっきりした形で統合されたのであり、大規模事業経営についてその中に国際的な性格を取り込むことになり、また同じくそれに対して国家の政治においての服務という位置付けも与えられたのである。しかしもちろんまた次のことも読みとれる。それはローマの世襲貴族が古代アテネのそれと全く同様に、小土地所有の農民を相当にひどい程度までに搾取し、それによってその層と対立する者[自分達]を富ましたのであると。

古代ローマの陸上の戦争が行われていた間においていまや、覇権獲得のために必要であったアルバ・ロンガ≪ラティウム地区にあったラテン人の都市国家≫の制圧と暴力的なシュノイキスモスの形での周辺地域の吸収統合という観点で見た場合、そういった戦争はただ略奪戦争という性格のものであり――そのことはまた(外交)技術的な表現である”res repetere”[取り返すべきもの]が通告祭司≪ローマの祭司でまとまってコレギウム(同業者団体)を作っており、外交に従事し戦争の開始や終了の通告を行っていた。≫の最終通告の中で使われていることと矛盾しないが――十二表法制定の数十年後に始ったのは拡大していく、戦勝の度に強まっていく対外侵略推進政策であり、それは単に政治的な支配領域の拡大という結果になっただけではなく、また同時にゲマインデに所属する住民の耕作に用立てられる耕地の領域がとてつもない面積にまで拡大されたことにもなったのであり、そしてその反面の帰結として海外展開の政策は完全に抑制されることになったのである。それと同時にローマ内部における重大な内部闘争の結果は、ますます世襲貴族の側に不利なものに成っていた。モムゼンは次のことを正当に指摘している。つまりローマの平民の大きな政治的成果は護民官の選出が民会によって行われるようになった瞬間から始っており、そしてその革新において特徴的だったのは、平民で構成される民会の代表者がローマに居住している貴族ではない市民、それは中小規模の土地所有者であったが、その代表者になったということである。実際の所、この民会の目的は以下のものであった:既に慣例として認められていた権利の成文法化、借金の免除、土地所有者の地位から落伍した余剰人員の救済を、公地をその者達に分割割当てすることとそれに使う土地を侵略によって拡大することにより行うこと、であった。農民の、あるいはより正確には中流の農耕市民派≪Ackerbűrgerpartei、全集の注によればマルクス主義者のカール・ロードベルトゥスの用語≫の目的で特徴的なことは、そこにはそういう派が次の場合には成立していたに違いないが≪ヴェーバーは Partei = 党、という語を使用しているが、共和政ローマにおいて今日の政党のようなものは存在していないことに注意≫、その場合とはそういった市民が大規模商業と都市の本質的な部分に触れることにより、そういう小規模の土地所有者としてそこに更に事業者的な外見を付加された場合であるが、その外見は我々がローマの≪大規模≫農場経営者に刻印されたものとして見るものと同じであった。そういった傾向を本質的に推進したのはしかし、土地所有の法的・経済的な自由化であったに違いなく、それはまた14世紀のフィレンツェにおいての教皇党[グェルフ]が大土地所有者≪封建領主≫であった皇帝派[ギベリン]に対して行った戦いと同様であるが――ただフィレンツェでは都市のツンフト[ギルド]≪フィレンツェではアルテ・ディ・カリマラという毛織物業者の同業者組合がかなりの力を持っていた。≫が政治力を持っており、一方ローマでは2つの土地を巡る利害関係者グループ≪全集の注によれば独立手工業者と商人のそれぞれの組合、モムゼンのローマ史による≫がお互いに対立していたのである。土地所有の法的な解放が平民層に与えたのは、セルウィウス≪第6代ローマ王》の改革でのケントゥリア民会≪ローマ軍を構成する市民による兵士をその所有する財産の額で階級分けしたもの≫の結成にあたっての、フーフェの農民による土地台帳の作成≪フーフェとして共同体から割り当てられていただけの土地を自分自身の所有の土地にしたこと≫であった。そしてそこに随伴していたのは、十二表法においての取引の自由の原則的な認定であった。我々は次のことを仮定しなければならないだろう。つまり分離と併合という性格を持っている経済的な解放はまた、共通経済的負担のようなものからの自由な個人経済への勝利であり、また土地の分割によっての耕地ゲマインシャフトの完全な個人所有権への解体であり、それがまさに農耕市民派が目的としたことであり、また≪セルウィウスの改革や十二表法と≫同じ時代における成果であった、ということを。そういった解放は、次のような意味での個人所有権の概念を作り出した、あるいはよりむしろそういった概念を土地所有に適用したと言えるのであるが、その意味とは、それは利害調整の政治が反映された人為的な産物である一方で、他方はその論理的構成を徹底研究して技巧に走りすぎた結果としての、法学者の考えであるということだが、それがそのような性格を持っていた限りにおいて、それは支配的な考え方であったし、今日でもなおそれはそうである 105)。

105) ただ暗示的なこととして考えるべきことではあるが、ここでは次のことを想起することが出来る。それはアテネのソロン≪BC6~7Cのアテネの政治家で、貴族と平民の対立を緩和するためのいわゆる「ソロンの改革」を行った。≫が、新しく発見された≪1891年1月≫アリストテレスの書簡に記載されているように、似たような≪貴族と平民の≫対立を妥協に導こうとしたことである。もしかするとこの事実が周知の≪リヴィウス、「ローマ建国史」の作者の≫報告への注釈の原因になっている可能性がある。その注釈とはソロンによる立法が十二表法制定作業の開始にあたって調査の対象にされるべきとされた、というものである。

地所についての個人所有権の解放はしかし、農耕市民派の土地制度上の目標の一つに過ぎなかった。もう一つ別の目標は周知のように、ager publicus、つまり公有地に関連したものであり、この公有地に関する争いは良く知られているように、ローマ内部の争闘としては一般的に言ってもっとも程度のひどいものを引き起こした。我々はしかし ager publicus の運命についてそれでも取上げることとする。ここではそれについてそれ自身が提供する本質的な土地制度上の現象の中において、手短かに研究を進めるべきと考えるし、それも望ましくはローマの個人所有権の対象となっていなかった地所との関連においてそうすべきであり、これからその観察を進めることとする。

III. 公有地でありかつ課税可能な土地とより劣位の権利での所有状態について

ager publicus の性格

より後の時代におけるローマの土地制度の、大まかな形でありながらそれでいてはっきりと作り出された個人所有権への対立物である ager publicus の人為的な成立の経緯について明確に描写したものは何も存在していない。それがケンススの対象とはならなかったこと、法的な保護がただ禁止令という手続きによってのみ行われたこと、またその保護がほとんど犯罪的な性格を持つ侵害に対してだけ行われたこと、その譲渡の形式が定められていなかったこと、それら全ては単純化して言えば、それが権利の譲渡ではなく、ただ保護された占有状態においての地位を継承するだけのものだったからであり、事実上の力による占有が認められなくなることによって、占有していたある面積の土地への各人の法的な関係性が消滅してしまったことは、――それは公的な土地についての最古の所有状態の周知の特性である。こうした所有状態の発生の仕方は:単なる占有と耕作を通じてであり、ただまたむしろ人口がかなり多い土地では、こういった所有状態の発生は全く普通のことではなかったように思われる。

ager privatus と ager publicus の対立について人がまずしがちなのが、その対立を耕作地と放牧地の間の対立だという形で結びつけて考えることである。実際にある共和制期の公職人は彼がある土地の割当てにおいて ager publicus を作り出した作業について次の言葉を残している:”fecei ≪おそらく feci の誤記≫ ut de agro poplico agratibus cederent paastores” 1)[私は公有地の割当てにおいて、放牧者が(土地を)鋤(農耕者)に引渡すようにさせた。]そして監察官[ケンソル]によって賃貸しされた土地区画は、≪測量人達の≫技術用語としては、多く pascua ≪牧場≫と呼ばれた 2)。

1) C.I.L. I, 551 参照。モムゼンの推定によれば、U.C. 622年[B.C. 132年]の執政官ポピリウスによるグラックスの法の執行においても同様の記述が見られる。

2) プリニウス、H. N. 18, §11。キケロ, De 1. agr. 1, 1, 3 参照。

もちろん次のことは明らかである。つまり実務的にはローマの土地の領域において公共の(共有の)放牧地が、ドイツでの村落の耕地においてのものと似たような組織的なつながりを耕地と持っているということは、既に非常に早くからもはや問題とはされていなかった、ということである。≪ドイツのフーフェ制度では、牧草地は共有地[アルメンデ]として村落ゲマインシャフト・ゲマインデの中で位置付けられていた。≫

「ローマ土地制度史」の日本語訳(31)P.200~203

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第31回目です。
ヴェーバーはイタリア半島において、ローマの前はフーフェ制度というゲルマン民族の耕地ゲマインシャフトと同様のものがあって、ローマが十二表法の時代にそれを解体して、土地を個人の私有財産にして売買も出来るようにしたことを「革命」と表現しています。しかし、ローマに昔フーフェ制度が行われていたというのはまったく検証されていない仮説に過ぎず、結局はヴェーバーも後になって間違いであったことを認めています。なのでここの記述は割り引いて読むべきと思います。
=========================================
しかしながらこれらの植民市はその後廃止され、そして後には属州においては植民市や他のゲマインデはただ例外的な場合にのみ構築され、それらに対しては設立の際に「イタリア権」[jus Italicum]≪イタリア半島以外にある都市に、ローマ皇帝がほぼローマに準ずる権利を特権として与えたもの。その都市で生まれた者はローマ市民権を与えられ、自由に財産を売買出来、また土地税も免除された。≫がその時にかあるいは後になって与えられたのである。その他の特徴として、またフロンティヌス(de contr. agr. II, p.36)が注記しているように、属州における植民市の領域は規則的なこととして納税義務を負っていた。しかしそのことによって例えば植民市の土地はローマ式に分割されるべきという原則が除外されてはいなかった。反対に第1章で分析したアラウシオの碑文からは、そこは免税の植民市では無かったが、そこでも[ローマ式の]土地の分割と配分が行われていたことを見て取ることが出来る。その碑文は土地の分割が耕地整理のためであることを明確に示している。(”ex tributario…redactus in colonicum” 103))[「課税地から…植民市の土地において与えられた。」]

103) おそらくはそこから更に割当てられる土地区画について、それぞれ異なる面積のものが作られている。この論文に添付した測量図[下図]を参照。

この碑文から同時にかなりの確からしさをもって見て取れることは、もちろんそれは他の史料によっても確認しなければならないが、属州内の植民市においての土地への課税は、個々の土地区画を単位としてされていたということである。そこの農民はそれ故、第1章で説明した意味において、土地に課された税を納める義務を負っていた。測量人達もこの碑文と同様に、――既に述べて来たことではあるが――、そこにおいては scamna と strigae [だけ]による線引きではなく、 limites [小路]によって[も]境界設定が行われていた≪つまりケントゥリアで土地分割が行われていた≫ことを述べている。このことは明確に、そこにおいては道路システム[limites]を無しで済ますことを避けようとしたのであり、また既に示して来たように、ヒュギヌスによって課税地に対する土地の割当て方法として推奨されている ager centuriatus per scamna assignatus [scamna と strigae による長方形に区切られた土地ながら、さらに limites によっても区切られており240ユゲラ≪標準的なケントゥリアは200ユゲラ≫の変則的ケントゥリアとして扱われたもの]がただ割当ての目的のためだけに使われ、その際には個々人には全て同じ面積の土地区画が割当てられたのであり、それ故に[属州の中にはない]他の植民市においてはこの方法を使う事が出来なかったのである。既に述べて来たように、いずれにせよ土地に対して課税出来るといいうことは植民地の土地割当てに対して、何らの他の経済的な損害を与えるものではなかったのであり、常にそこに内在していた要因は、目的と方法という点で近代的な耕地整理と同等の手続きの一つだったのである 104)。

104) 次のことは偶然であろう。つまりサルペンサ≪現代のスペインのウトレラにあったローマの同盟市≫とマラカ≪同じくスペインのマラガにあった同盟市≫の都市法について、耕地に関係するもの(灌漑、水道、道路)についての規定が含まれておらず、その一方でジェネティヴァ≪Genetiva Iula、ユリウス・カエサルが現代のスペインのオスナに建設した植民市≫の植民市の法にはそれらが含まれている、ということが。しかしおそらくは最初に挙げた2つの(ラテン)ゲマインデの法規は実際の所それらについては何も触れていない。その他の特徴として、カエサルにより制定されたマミリア法[lex Mamilia Roscia Peducaea Alliena Fabia]はただ植民市のためだけではなく、また「この法律によって」[ex hoc lege]構築されたムニキピウムのためでもあり、そして limites についての規定があるということは、ムニキピウムの領域においての退役兵への(小規模で非定期的な)土地割当てにおいては自然なことであった。新規のムニキピウムは、この法令に基づいて、おそらくほぼ常に、既にスッラによって行われたように、農村トリブスの解体の結果として作られ、そのことから個々人に割当てられた土地はムニキピウムに従属するものとされた。limites によって区切られ割当てられた耕地の存在ではなく、土地の面積を統一された decumanus を使った測量システムと、同じく統一された測量地図の中において、各人にボニタリー所有権の土地として、フーフェ原理に従って割当てを行う全体の耕地を管理する組織の存在こそが、これまで何度も述べて来たように、植民市に固有のものであるというのが、ここで提示して来た見解なのである。非常に稀でかつ異常なことであるのは、植民市において2つの(別々で重なり合わない基準線としての)decumanus を用いた測量システムが用いられている場合で、その例はノーラ≪現代のイタリアのナポリ県の都市、アウグストゥスとウェスパシアヌスによって多くの植民市がここに建設された。≫で、しかしそこでは一つの統一された測量地図の中では、2つの decumanus の座標系が「右の」(dexterior)と「左の」(sinisterror)という風に結合されており、私がここで主張している耕地分割の統一性の原理はここに確かな証拠を見出すのである。≪2つの decumanus が存在する植民市であっても、それを「右」と「左」という形で測量地図の中に一緒にまとめることで統一性を保ち、測量され分割された土地の範囲=植民市であるという証拠になっている。≫

ローマとその時代における土地制度上の大変革

我々は次のことを見て来たし、また先に論じて来た観点を詳細に検討する上で次のことを疑うことは出来ない。それはつまり、ローマの ager privatus [私有地]は意図的な土地政策に見られたある傾向に起因するものであり、そこではかなりの部分まで作為的な方法を用いて土地所有権の経済的・法的な配分における無制約の自由とその可能な限りの高い流動性の確保を達成しようと努めたものであり、そして事実上、多くの社会的・経済的なマイナス点を伴うことなしにそれを達成出来たということである。我々は更に次のことも見て来たし、それどころかそれを確かめることもして来た。それは、こういった意識的に人々を動かし先へと進められた発展は、ある耕地ゲマインシャフトの存在していた場所で起きたのであり、その組織については個々のケースについて再現することは確かにもはや不可能であるが、後の時代の土地制度上の秩序においての確かな特性を、より古い時代の諸制度から新しいものへの転換として説明可能にしている、ということである。ここで最後に次のことを問うのは妥当であろう:それではこのような物事における秩序の古いものから新しいものへの革命的な転換は、一対いつ頃起きたと推定されるのであろうか?というのも、ここで取り上げている転換は、徐々に変化して来た結果としてのものではなく、近代での合併と分離[耕地整理]とはその点で全く異なっている。そのような進歩を実現した決定は、おそらくゲマインシャフトの長期に渡っての検討課題に留まり、もっとも激烈な階級闘争の対象となるのが常であったろうし、それを実施することは時によっては何世代にも渡っての仕事であったこともあろうし、それはプロイセンにおいての土地規制と統一された土地分割もそうであったのと同様であるが、しかしそこにおいて導入された原則というものは徹底して新しいものであり、その中身はもっとも偉大な革命の一つであり、土地制度の領域で実現されたものである。そういった革命は、全ての土地制度において、都市において法的思考を過剰に重んじるということが起きていた場合には、同様なまたは違った形で実現されることが出来たであろうが、ローマにおいてのように尖鋭的な形でそれが行われたケースは他にはほとんどなかった。

全てが私の思い違いでなければ、我々は十二表法制定の時代においての新しい権利状態について、部分的には確かに十二表法と関連付けてそれを確認するという決定を下さざるを得ない。既にこの論文の導入部で次のことに言及して来た。つまり我々が最も古いローマの政治について知っていることの全ては、それが大規模商業の観点をもっとも重んじているという性格を持っていたということである。それ故にカルタゴとの取引契約は、それはラテン人のこの都市国家との取引をローマが独占するものであり、そしてローマだけがラテン人の原産物の集散地となり、全ての海上取引による輸入品目の独占取扱い者となるというものであり、―ローマの市民植民市の沿岸地方への独占的設置は、他のラテン人の同盟市をそこから閉めだし、諸港湾都市をローマ市民の居住区へと変え、それらはローマによって、それらがまるでローマの自身の街区であるかのように管理され、―アンティウムにおいては、そこの(元からの)住民が自分達で海上取引を行うことは禁止された。そしてまたローマ史の頂点に来ることとして、伝承によれば王政期全体を通じてシュノイキスモス≪集住、小さな町や村が集まって都市が形成されること≫が持続的に起きていたということは、これまで述べて来たことと適合している。というのも、こうした経過もまた、古代における大規模な海上取引の拠点となった都市ではおきまりの現象だったからである。ただこういったプロセスがローマにおいては適当な時機に中止され、別の方針に席を譲ったが、その一方で例えばアテネでテミストクレスがその方向を更に推進し、それによって元々アテネの位置する場所の地理的な性質が元々持っていたリスクを増大させ、市場と後背地を結び付けていた神経網が後にずたずたに寸断されるという結果を招いていた。≪ヴェーバーがここでアテネについて言っていることを推定すると、おそらくはテミストクレスがペルシアを打ち破るために多数のガレー船を建造して海軍力を強化し、その結果サラミスの海戦で大勝利を得、そのおかげでデロス同盟という形でエーゲ海一帯を支配して大きな輸出市場を得ることに成功したが、その後にスパルタとの戦争に敗れて海軍力を失うと、アテネの経済の根幹であった貿易依存がまったく立ちゆかなくなったことを言っているのかと思われる。これと比較してローマはカルタゴとポエニ戦争を始めるまではほとんど海軍力を持っておらず、これはヴェーバーが言うようにどこかで海外市場開拓路線を止めたためかと思われる。≫このことは古代の特性に合致しているが、ここまで徹底して行われたのはただイギリスにおいて大規模植民地拡張の時代にそれが見直されたことがあるくらいだが≪ここのイギリスの説明はいつのことを言っているのか不明。イギリスがヴェーバーの時代に自由貿易主義から植民地中心主義に転じたことを言っているのか?≫、我々はここではまたローマにおいての世襲貴族を、大規模商業を推進していた大土地所有者[農場経営者]の身分として考えてみる必要があるだろう。その身分については、この2つの職業[貿易業者と農場経営者]の社会的評価という意味で、それに対する郷愁が後の共和国時代にも知られているように、まだ残っていたのである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(30)P.196~199

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第30回目です。ここの注102は長さにして小さな字でほぼ2ページもありますが、その内容は、ヴェーバーとモムゼンが、ヴェーバーの博士号論文審査の時に議論した「ムニキピウムとコローニアの違い」に関するものです。モムゼンは「マックス君、そうは言っても君が主張しているような仮説を裏付けるような文献史料を私は知らないね。」という態度で、私はここに文献学者として慎重さを保つモムゼンと、限定された少数の資料からかなり強引に仮説を作り出そうとする(しかもかなり多くの場合間違っている)ヴェーバーの学問手法の本質的な違いが出ていて興味深いです。
個人的な意見ですが、ローマの植民市は入植ということが第一目的なのではなく、軍事拠点として退役軍人にそこの土地を割当てて住み着かせ、彼らを予備役として、またその子弟が新たに兵士となって防衛を維持していく、ということが第一目的であったように思います。その場合兵士に均等に土地を割り振るのに、元々の所有者の境界線をそのまま使わず、正方形ないし長方形の土地を機械的に作ってそれを割当てるのはある意味合理性から考えて当り前であり、それをドイツの耕地整理と同一視するのは違うのではないかと思います。
=============================================
既に先の箇所で述べて来たことであるが、我々における近代的な土地の分離と併合[耕地整理]は、同じ手段で同じ目的を達成しようとするものである。それが成立するのは、錯綜地の中にある土地区画のその価値に応じた強制的な交換を行うのと、それによって可能になった共通経済的な関係から生じて来た地役権と所有権への制限を撤廃するという状況においてであった。全く同じ成果が次の場合にも得られていた。それは、ある耕地がそれまでの所有者によって分割されており、そしてローマ式のやりかたで割当てられた時、この後者が実施された場合である。この場合連続した所有地[continuae possessiones]が作り出され、そしてまたその手続きも同じであった:”particulas quasdam agrorum”[ある土地断片を]、シクルス・フラックスは言う(p.155)、”»in diversis locis habentes duo quibus agri reddebantur, ut continuam possessionem haberent, modum pro modo secundum bonitatem taxabant.”[異なる場所にいくつかの土地の断片を持っている二人に対して、その土地が(再割当てのために)返還された場合に、二人が連続したまとまった土地を改めて持つことが出来るように、それぞれの土地の面積について適切で公正な評価が行われた。]こうした耕地移転の手続きは測量人達の見る所では、植民市建設という概念から見て余りにも当り前のことだったので、ヒュギヌスは次のような見解に到達出来ていた。つまり土地の所有者達は、彼らには単純に元通りの面積が返還されるべきであり、また彼らの社会的な地位(condicio)は変えられる(mutata)べきではなく、そのため植民市の団体の中に編入されることが全くない、という見解である(p.119, 18)。我々は先に更に次のことも見て来た。つまり植民市の全耕地は根本的なこととして、ローマ式の耕地の分割と割当ての及ぶ所と一致していたということである。これについて、我々は次のことが定められていたとまでは主張するのではない。つまりこのようなローマ式の耕地分割のやり方が、この種のローマ市民の植民地にとって本質的なことであるとか 99)、またこのやり方が行われなかった場所ではローマ市民の植民地は全く成立していなかった、ということである。ローマの市民が植民した場所が植民市となるのではなく、イタリカ≪スペイン南西部の植民市≫においてのように 99a)、またある場所で全ての植民がローマ市民によって行われたということがそこを植民市にするのではなく、ローマ式の耕地分割が行われて初めてそこが植民市となるのである。

99) ここでは次のことを確実であると主張しているのではない:1) ――自明のこととして――全てのローマ式の耕地分割は植民市の建設を伴っていた、2)――土地制度が市民植民地の唯一の本質的な目印である。

99a) C.I.L., I 546 とモムゼンの引用済みの箇所を参照。

それ故にアグリゲントゥム≪現在のシチリア島のアグリジェント、元々ギリシアの植民市で後にローマの植民市となった。≫は植民市であったという推定にもかかわらず 99b)、ローマ市民の植民市では全くなかった。というのはそこでの耕地は外国の法に基づいていたのであり、同じく言えることとして、ローマ式の耕地分割は明らかにラテン人による植民市の市民植民市の目印の一つであるからである 100)。そのような植民市が事実上またはもっぱらローマの市民によって建設されたと推論される場合でも 101)、その植民市はそれによって直ちに市民植民市となるのではない。何故ならばそこの耕地は外国人の土地[ager peregrinus]に留まっていたからである。そして逆にあるローマの植民市がラテン人やその他の同盟者によって分割された場合、その分割方法がローマ式であった場合は、ローマ市民の植民市という性格は失われなかったのである。

99b) C.I.L. X, p.737 参照。

100) 我々はラテン人の植民市における耕地分割の実例を知っていない。またそもそもそれが一般的にローマ式に分割が行われていたのかどうか、またそれによって subceciva ≪分割の結果生じた非角形の土地≫が生じていたのかどうか、更にそこから何が生じていたのかについては、我々は判っていない。我々が文献史料から知ったのは、その耕地はローマの耕地とはされなかった、ということだけである。より古い時代での土地制度における異なった性格について明らかになっているのは次のことである。つまり市民植民市における(一日の)入植者の数は常にフーフェの成員300人であったことが推論される一方で、それはローマの一部族の成員数(の単位数)と一致しているが、ラテン人の植民市においてはそういった数的な条件は存在していなかった、ということである。

101) そのようにリヴィウスの34, 53 では述べている… Q. Aelius Tubero tribunus plebis ex senatus consulto tulit ad plebem plebesque scivit, ut Latinae duae coloniae … deducerentur. His deducendis triumviri creati, quibus in triennium potestas esset. [クイントゥス・アエリウス・トゥベロが護民官として元老院の指示により平民会に次のことを提案し、平民会がそれを承認した。それは2つのラテン人の植民市を建設することであった。この建設のため3人組委員会が作られ、その任期は3年であった。]ここでイタリアにおける植民市についての推論で正しいと思われるのは、それが純粋にローマの仕事として行われていたということである。

植民市法[jus coloniae]の土地制度上の意味

こういったやり方での土地制度の特質が市民植民市についての本質的な目印であったとしたら、後の帝政期には全ての政治的な差異がほぼ無意味になってしまった≪最終的に皇帝カラカラが属州の住民にもローマの市民権を認めた。≫ことを考慮すると、次のことを仮説として提示出来る。それはつまり、諸ゲマインデが、それはこの時代には徐々に植民市に変わり始めていたのであるが、まさにこういった土地制度を導入する上において、植民市への転換ということが実質的・本質的には土地の併合と分割を伴う耕地規制を受け入れることを意味していたのである 102)。

102) 私は既に私自身の公的な学位の昇進≪1889年8月にベルリン大学で法学博士号を授与されたこと≫の際に、我々の偉大なる学問の巨匠であるモムゼン教授と、ある[ラテン語から]翻訳されたテキストの解釈について議論を試みるという栄誉の機会を得ることが出来た。≪ヴェーバーの博士号論文である「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」の公開審査の際に、テオドール・モムゼンがゲストとして招かれていたが、一番最後になってヴェーバーに対し、ヴェーバーがそれまでの議論の中で示したローマにおけるコロニアとムニキピウムの違いの説明について、それについて長い間悩んでいたモムゼンがヴェーバーの解釈について質問し、議論したもの。モムゼンはヴェーバーの説明に納得しなかったものの、「<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ヴェーバーに向かってであろう。」という祝福の言葉を与えて議論を打ち切った。おそらくその後も二人はこの問題について口頭で議論を続けていたようで、この注釈はヴェーバーからのモムゼンへの議論の続きであると思われる。≫モムゼン教授はその際及びまた後の機会に、私の仮説については決定的な証拠がない、と仰っていた。ただ私が信じたいのは、諸事実の全体の関係からそれについては一定の確からしさがある、ということである。ローマの歴史的諸文献の中に、ムニキピウムとコロニアの違いという論点において、この[土地制度という]側面が言及されているものを見出すことが出来ないということは、私の仮説を裏付ける根拠が与えられないということである:[しかし同様に]人が膨大な我々の近代の資料の中にプロイセンの耕地整理に対する評価を探し出そうとしても無駄であろう。ある近代の耕地整理されたゲマインデと(されていない)他のゲマインデの国法上の根本的な差というものは、ローマの帝政期のコロニアとムニキピウムの間の差と同様にほとんど存在しない。私は次のことを否定するつもりはない。つまりコロニアとムニキピウムの差異は歴史的には、かつそれに関わった者達のイメージとしては、まず第一に次のようなものとして成立しており、つまりコロニアの方がまずはほとんどの場合で全くの所非独立の外国における市民居住区であり、それに対してムニキピウムの方は多くは昔からの主権を持った都市国家が国家としての統治権を一部だけ残して大部分を失ったゲマインデになったものであり、この二つが国法上は帝政期に別々のものとして存在していたのである。しかし市民植民市が元々は市民の居住区として管理されていたのであろうという一方で、しかしそれはまた最初から本質的に同程度に耕地の分割とフーフェ組織にも依存するものでもあった。ラテン人の植民市が同盟市戦争の後全て例外なくムニキピウムになったということは、それはしかしまたローマ式の土地管理を行う組織が存在していなかったことにも強く影響されていた。全ての耕地整理が植民市の形成原理として不可欠なものとして行われたとは私は主張しない。しかし次のことは正しいと信じている。つまりローマの市参事会によって全ての耕地の統一的な配置換えが統一的な decumanus [と card]を使った測量とそれに基づいた測量地図の作成が行われた場所においては、耕地整理こそ植民市の形成原理だったのであると。-モムゼンは (Schriften d. r. Feldm. II, p.156)グラウィスカエ≪エトルリア人の都市、タルクゥイニーにある港≫とヴェールラエ≪現在のイタリアのヴェーロソ、ローマの東南東79Kmに位置する。≫を次のようなゲマインデの例として挙げている。それらにおいては耕地整理がそれによってゲマインデから植民市に昇格するという意図無しに行われていると。liber coloniarum の注釈 (239, 11)はヴェールラエについて次のように述べている:”»ager ejus limitibus Gracchanis in nominibus est adsignatus, ab imperator Nerva colonis est redditus”[そこの土地はグラックスの名前において設定された境界線によって割当てられており、皇帝ネルヴァ≪第12代ローマ皇帝、在位96年9月~98年1月≫によって植民者に引渡された。]の部分は私の見る所では、そこで起きたことの結果を記述しているものではない。そこでのグラックスによる境界線設定においては、ただ退役兵への非定期的・小規模な土地割当て、つまりは耕地のほんの一部分のことを扱っているに過ぎないのである。グラウィスカエの場合はまた事情が異なっている。この都市はU.C.573年[BC181年]に建設された市民植民市である。liber coloniarum はこの都市について次のように言っている(p.220, 1):Colonia Graviscos ab Augusto deduci jussa est: nam ager ejus in absoluto tenebatur. Postea imperator Tiberius Caesar jugerationis modum servandi causa lapidibus emensis rei publicae loca adsignavit. Nam inter privatos terminos egregios posuit, qui ita a se distant, ut brevi intervallo facile repperiantur. Nam sunt et per recturas fossae interjectae, quae communi ratione singularum jura servant. [グラウィスカエの植民市は、アウグストゥスの命令によって(新たにローマ植民市として)設置されたというのもそこの土地は(ローマによって)完全に保持されていたからである。その後皇帝ティベリウス・カエサル≪既出≫が面積を測り記録するという目的で境界石でその土地を分割し、ローマの人々にその土地を割当てた。それは個人の土地の間に境界を区別するために(境界石が)設置されたのであり、それぞれの境界は離されて設置されており、それは見分けることを容易にするためであった。というのも直線の溝が設置されており、それによって公共の方法として個人の権利を守っていた。]

グラウィスカエの遺跡。境界線としての石積みが確認出来る。(溝は明確には残っていない。) English: The excavations of ancient Gravisca, the harbour of Tarquinia. Date 26 September 2012, 19:50:05 Source Own work Author Robin Iversen Rönnlund

――植民市の領地は――というのもその植民市は(ejus という語が示すように)またアウグストゥスのもの[皇帝領]としてあった、そして「彼の植民市」という語については、グラウィスカエに関してセルスス D.30 de legatis II でも使われており――アウグストゥス帝の時代には「完全に」[in absoluto]所有されていた。土地区画に対しての Usukapion の結果として、それは古いシステムを破壊して置き換わったのである。アウグストゥスはそれ故に、その都市を[市民植民市に]転換することを命じた。それはつまり、(nam という語で)関連性が示されているように、ただ:その都市をローマ植民市に置換し、面積ベースで新しい割当てを実施し、そして測量地図にそれを記入するということである。よって転換と置換は同じことを意味しており、それは前記の引用箇所の見解に合致するが、ティベリウスはしかし全く逆のこと、つまり個人の所有地の境界に(inter privatus)石を設置し、個々人の所有地を保証することをやったのである。ティベリウスはひょっとするとその都市が植民市となる資格、もしそれが成立していたとした場合であるが、それを反古にしたのであり、それは彼がまたプラエネスラ≪パレストリーナ≫でやったのと同じことであった。私の見解ではこの箇所は私がここで提示している仮説の証拠となっている。(しかし)この仮説が仮に正しいとしても、この論文の大部分の記述と同様に、そこにおいては学芸における最も困難なこと、つまり”ars ignorandi” ≪重要ではない情報を無視し、本質的な部分に集中するという学問・討論上の技法≫が何重にも失われてしまっているのである。私は次のことを確かに自覚している。つまり私の記述において明確化という意味で成功していない多くの命題が見出され、それらについては個々の[文献]調査によって再検証されなければならないということである。それについてはただ私が、ここで提示した見解について、それをより大きな因果連関の中で検討する試みをせず、ただそれを何としても記述しなければならないという強迫観念に駆られていたことに、自分で気が付いていなかったと言える。

逆にティベリウス帝によるプラエネステの場合のようにその土地をムニキピウムの地位に戻すことになった場合は、次のように考えることが出来るであろう。つまり元々の土地制度についての調整とそれに伴う一定の結果的処置が意図されていたのであると。そしてこのケースこそまさにそうであったと推論出来る。ローマにおける耕地の分割でもっとも面倒な要素は、道路をどう作り直すかということと、元々の境界線を開放することであった。プラエネステはこの場合、全ての耕地領域が既にキケロの時代において少数の大土地所有者のものとなっており、彼らにとって元々の境界線を開放することはまったくメリットが無いことであり、彼らの所有地をばらばらに分割している境界線は非常に取扱いが難しいものであり、(開放した場合は)そこからごろつきどもが彼らの邸宅の庭やテラスに入り込むことが出来てしまうのであり、このことを禁止令によって防止することが可能になっていた。彼らの便益のために、元の境界線の開放という必然性は取り除かれることになった。――

我々はここまでもちろん本質的にはイタリアの土地においての植民市の建設を我々の観察の中心に据えて来たが、その場合に結果として生じたのは、そこの土地をローマ式の非課税の個人所有地に割当てるということである。我々がその際にイタリアでの植民市化を属州と明示的に区別していないということは次のことに起因している。つまり、二つの概念の全ての相違点にもかかわらず、ここにおいての本質的・経済的な諸連関においては注目すべき差異が存在していない、ということである。全ての点においてイタリアでの植民市化と同じやり方の:非課税の個人所有地の割当てを、一属州に対しても適用するということは、C. グラックスがカルタゴに対して初めて行ったことである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(29)P.192~195

「ローマ土地制度史」の日本語訳の29回目です。ここでは錯綜地(Gemengelage)という概念が出て来て、断片的な地所で複数の地主のそれが混じり合っているような土地の状態を言います。ローマの土地の分割割当てはそれを整理するものでしたが、ドイツではその後また錯綜地に戻ってしまっているということが述べられます。なお、現代の日本では土地は4m以上の幅の道路に2m以上接していないものについては建物が建てられません。(接道義務)しかし、東京の下町などではそういう義務を満たしていない土地に建物が沢山建っていて、そういうのを「既存不適格」物件と言います。そういった不動産を買っても、その建物を壊して新たに立て直すことは出来ず、そのままリフォームするぐらいしか出来ません。
====================================================
我々の言う意味での物的負担の欠如と同様に、また根本的なこととして土地に地役権≪契約によって、その土地を占有はしないが何かの特定の目的に使うことを許される権利、例えばその土地の通行権≫が設定されていなかったことが、ローマの ager privatus の本質的な特徴であり、そのために地役権が設定された耕地は少なくとも ager optimo jure privatus の分類としては把握されていなかった 93)。

93) 明らかにこの表現[ager optimo provatus]で規定されているのは「併合されてそれから分離された」耕地であり、それは何よりも共通経済的な地役権や耕作強制を免除されていた。というのは測量人達の時代になってもなお、また ager privatus ex jure Quiritium [法律上クイリーテース所有権が認められた私有地]においても、後で詳しく述べるがシクルス・フラックスの P.152で述べられているように、イタリアにおいては錯綜地≪Gemengelage、耕地整理前の土地で複数の地主の断片的な土地が複雑にまじりあった状態の土地≫が存在していたからである。(次のことに言及しても問題はないと思うが、ブレンターノ教授≪Lujo Brentano、1844~1931年、ドイツの国民経済学者、後にヴェーバーと資本主義の起源を巡って論争することになる。≫もまた、私の友人の一人の[大学在籍]当時の講義ノートから判断した限りでは、この錯綜地について書かれている箇所を、ドイツの耕地において我々が考えるそれと同じ意味のものであると解釈していると思われる。)しかし錯綜地が発生している場所においては、シクルス・フラックスが先に引用した箇所で言及しているように、お互いに必死になった土地の奪い合いという事態を避けたい場合は、そういう状態は多くの場合、ゲマインデが設置した道路を境界線に使うというやり方では解消されなかった。その場合には耕作強制に類似した何かがより古い制度の残余物として存在していたに違いない;-もちろんその場所での法令に従った農耕に対する規制を行う立場にあったり、そのゲマインデの長であった者について、pagi ≪古代の共同体≫やその長やその他の類似する何者かが本当にあった/いたのかどうかということについては、私はここでは敢えて見解を差し控える。

ある土地に地役権を設定するということは、特徴的なこととして、その土地を譲渡する時と同じ法的書類を必要としていた。地役権設定の件数は非公開であり、ある土地に強制的に地役権を設定した事例は、それを基礎づける法規がその権利を明示的に留保していない限りにおいては、知られていない 94)。

94) それ故に水道橋設置という利害関心での強制収用権は、植民市のゲネティヴァ・ユリア≪現代のスペインのオスナにあった植民市≫の条例の C.99 において留保されている。(モムゼン、Eph. epigr. II P.221fにて)ルッジェリ≪Odoardo Ruggieri、19世紀のイタリアのローマ法学者≫(Sugli uffici degli agrimensori [測量人の事務所において])は正当にも次のことに言及している。つまりただ私的な処分のみが、非公開の地役権の件数として記録され本棚の中に封じられたのだと。それに対して、各種の土地法によってもこうした強制的な地役権設定というものは作りだされなかったのである。(D.17 communia praediorum [農場の公共財]を D.1 §23 de aqua et aquae pluviae arcendae [水と貯められた雨水について]と比較せよ。)

契約による地役権が設定された土地は同様に、地所の境界それ自体を管理するのと同じく、境界石を設置して管理されるのが常であった 95)。

95) 地役権を示す碑銘が、私が Corpus Inscr. Lat を通して読んで見つけたものだが、先行して記録されており、それは全ての場合ではなかったにせよ、割当てられた耕地においては広く行われていた。

ager privatus への権利設定における経済的な基礎

次のことは明らかである。つまりそのような[地役権の設定された]権利状態はただ、ある耕地についてその分割の仕方が、個々の所有者に対して個人の経済行為の完全な自由を可能にしていた場合にのみ可能となっていた。というのはこのことはまたローマの測量においてのもっとも顕著な経済的傾向だったのであり、特別にかつ相当に強い程度において、ケントゥリアによる測量[と分割割当て]の場合がそうであった 96)。

96) 次のことは既に述べて来たが、ager scamnatus に設定された limitesも同様に先行して行われており、後の時代になって liber coloniarum に書かれているように、規則的に行われ、そしてまた土地区画の中のある制限された数の面積についてのみ許可されており、そういった例の中では、スエッサ・アウルンカにおいてのように、ただ森林だけが特別に分割されていたという例もあった。

ローマの測量制度は土地の所有者に関連してまず第一に――それについては既に他の学者が言及しているが――その地所に対しての[第三者の]完全な立ち入りの自由を許していた。limites は公共の道路であり、そしてこの性格において、考え得る限りもっともはっきりした形で次のことに対しての保護が与えられていた。それはつまり誰に対してでも、また本来そこに対して何の利害関係の無い者に対しても、そこでの通行が許可されたのであり、そして例えそれがただの権利の濫用≪ChikaneまたはSchikane、シカーネ禁止原理=他人を害する目的での権利行使の禁止≫の結果起きた場合であっても、自身の努力によりまたは禁止命令の手続きの力を借りて、その開放状態を保つことが強制されていた。

もちろんそこにおいては、ある別のもっとも重要な動機が含まれている。我々のドイツの錯綜地の場合と同様に、あるどこかの場所において次のことはほとんど不可能であったであろう 97)。それはつまり上記の目的:全ての土地区画に対してその所有者のそこへのアクセスを確保することを、ある耕地にてその閉じた平野の中において個々の所有者の土地区画が互いに隣接して並んでいない場合に、実現することである。

97) 既にP.192(原文)の注93にて言及済みである。

我々の時代における土地の分割と併合[耕地整理]は、というのもまた常により大きな一つにまとまった面積の土地を作りだし、その結果統一された道路システムの導入を可能にしているのである。我々が参照している文献資料は非常に確実なこととして、ローマにおける耕地分割もまた原則的に一つのまとまった面積の土地(continuae possessiones [連続した所有地])を作りだしていることを述べている 98)。既に論じたことであるが、より正確に言えば、次のようなことが先行して行われていた。つまりある農耕地の内部でのある特定の地所について、特定の森林区画が付属物[通路の代わり]として割り当てられていたということである。その例は、スウェッサ・アウルンカにおけるものであり、そこではそれ故にケントゥリアではなく、 scamna による土地割り当てが行われていた。しかしそういったケースは例外であり、特別な事情によりそれが行われたと説明されるべきものである;その他一般的には各人に割当てられた土地区画は、それらの個々の面積の大小に関係なく、ある平野の中でのみ割当てられた。

98) ヒュギヌス P.130, 3: respiciendum erit … quemadmodum solemus videre quibusdam regionibus particulas quasdam in mediis aliorum agris, nequis similis huic interveniat. Quod in agro diviso accidere non potest, quoniam continuae possessiones et adsignantur et redduntur.
[考慮されるべきことは…我々がある領域においてしばしば見るように、他人の土地の中にある小さな土地が入り込んでいることが、あなたはないようにすることです。このことは分割された土地では起き得ません、何故ならば連続した所有地が割当てられ引き渡されるからです。]
p.117, 14. 119, 15. 152. 155, 19. 178, 14.を参照。

土地の併合と分割

次に測量人達は次のことを我々に伝えている。つまりこの土地が一つにまとまって閉じていることは、次の状態と対立しているものであると。その状態とは多くの植民市においてその周りを取り囲む耕地において、まだ分割割当てとそれによる植民市の建設が行われる前の状態である。

我々は第1章で次のことを見て来た。つまり測量人達がローマによる測量がまだ行われていない耕地を ager arcifinius 、つまり「曲線によって境界付けされた(土地)」と名付けていたことを 98a)。

98a) ロビー《Henry John Roby、1830~1915年、イギリスの古典学者でローマ法に関する著作者。》のケンブリッジ・フィロソフィカル・ソサエティー II 1881/82 P.95 に学会録にそう記載されている。

そういった土地については、ローマの角型の土地とは反対のものとして表現されている。しかしそのことによって、その概念は不規則な土地ブロックに対する専権的な耕地分割と必ずしも結びつけられる訳ではない。ある人が初めてフーフェ原理によって展開されたドイツの耕地図を見たとしたら、まず言えるのはそこの根底にある原理をまったく見出すことが出来ないであろうと言うことであり、その人の目に入るのは所有権に関連する土地の境界が曲がりくねっているということであり、それは部分的には分割された角形の土地の価値についての調整の結果であり、更にはまた部分的にはその隣人の鋤による[長年の]耕作の結果である。≪ドイツで使われていた鋤を牛などに牽かせると、しばしば曲がりくねって耕すことになり、その結果土地の境界線が時間が経つほど曲がりくねることとなった。≫ローマ以前の土地分割についての統一的な原則は、全イタリアにおいてある程度判明しているものはほとんど存在しないが、しかしこの場合特徴的なこととして明白に理解されるのは、非常に膨大な数の耕地が、ローマ以前の分割の仕方に戻ってしまっているということである。このことはまさにシクルス・フラックスが次のように描写している現象である:
“in multis regionibus comperimus quosdam possessores non continuas habere terras, sed particulas quasdam in diversis locis, intervenientibus complurium possessionibus: propter quod etiam complures vicinales viae sunt, ut unus quisque possit ad particulas suas jure pervenire … quorundam agri servitutem possessoribus ad particulas suas eundi redeundique praestant.”
[多くの領域において我々測量人は次のことを見出す。それは土地の所有者達がそれぞれ連続してまとまった土地を所有しておらず、そうではなくて別々の場所にある複数の所有地を断片的な形で持っているということである。このためにまた、多くの近隣の道路について、ある者が自分の断片的な土地の一つにたどり着くために、多くの道路を経由しなければならず… 誰かの土地に対して通行する地役権を持った者達により、自分自身の土地に行き来するのに、他人の土地を通るということが行われている。]
同じ現象についてヒュギヌスも(gener. contr. P.130の先に引用した箇所)言及している。我々(ドイツ人)はこういった事例を見ると直ちにドイツの錯綜地に結びつけて考えるが、確かに実際の所、人が何らかの形の耕地ゲマインシャフト(耕地共有)から土地分割へと踏み出し、そしてその際にその耕地全体の(効率性といった)評価を十分出来ていない場合には、直ちに同様のことが発生しているのである。そのことについては既に次のことを確からしいこととして見て来た。それは laciniae [断片的な土地]における土地分割で、それが最古の植民市であるオスティアとアンティウムで起きた場合には、そこで見られたことは人々がその場合でも土地分割をなお耕地ゲマインシャフトの枠組みの中で行っていたということであり、そして更に後の時代になって耕地全体の分割へと進んだ場合でも、分割割当てについてのローマ式の原則にはなお従っていなかったということである。シクルス・フラックスの viae vicinales [近隣の道路]についての所見に拠れば、そのような耕地における耕作強制やあるいはそれに類似したゲマインシャフト的な土地耕作の形態は、規則的なやり方ではもはや行われておらず、そして実際の所そういったゲマインシャフト的な原理はローマにおける私有財産制と共存出来なかったのである。後の時代のローマの土地割当てはいずれの場合もむしろ、既に見て来たように、次のようなやり方に依拠していた。それは分割される土地区画をひとつの閉じたまとまった面積に保ち、それによって初めて整然とした道路システムが可能となり、個人の経済活動に対して完全な自由を保障する、そういうやり方である。錯綜地の成立に当たっては、近隣道路[viae vicinales]という不釣り合いに多くの面積を非生産的なやり方で要求する、先に述べたようなやり方無しには行われていなかった。