「ローマ土地制度史」の日本語訳の29回目です。ここでは錯綜地(Gemengelage)という概念が出て来て、断片的な地所で複数の地主のそれが混じり合っているような土地の状態を言います。ローマの土地の分割割当てはそれを整理するものでしたが、ドイツではその後また錯綜地に戻ってしまっているということが述べられます。なお、現代の日本では土地は4m以上の幅の道路に2m以上接していないものについては建物が建てられません。(接道義務)しかし、東京の下町などではそういう義務を満たしていない土地に建物が沢山建っていて、そういうのを「既存不適格」物件と言います。そういった不動産を買っても、その建物を壊して新たに立て直すことは出来ず、そのままリフォームするぐらいしか出来ません。
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我々の言う意味での物的負担の欠如と同様に、また根本的なこととして土地に地役権≪契約によって、その土地を占有はしないが何かの特定の目的に使うことを許される権利、例えばその土地の通行権≫が設定されていなかったことが、ローマの ager privatus の本質的な特徴であり、そのために地役権が設定された耕地は少なくとも ager optimo jure privatus の分類としては把握されていなかった 93)。
93) 明らかにこの表現[ager optimo provatus]で規定されているのは「併合されてそれから分離された」耕地であり、それは何よりも共通経済的な地役権や耕作強制を免除されていた。というのは測量人達の時代になってもなお、また ager privatus ex jure Quiritium [法律上クイリーテース所有権が認められた私有地]においても、後で詳しく述べるがシクルス・フラックスの P.152で述べられているように、イタリアにおいては錯綜地≪Gemengelage、耕地整理前の土地で複数の地主の断片的な土地が複雑にまじりあった状態の土地≫が存在していたからである。(次のことに言及しても問題はないと思うが、ブレンターノ教授≪Lujo Brentano、1844~1931年、ドイツの国民経済学者、後にヴェーバーと資本主義の起源を巡って論争することになる。≫もまた、私の友人の一人の[大学在籍]当時の講義ノートから判断した限りでは、この錯綜地について書かれている箇所を、ドイツの耕地において我々が考えるそれと同じ意味のものであると解釈していると思われる。)しかし錯綜地が発生している場所においては、シクルス・フラックスが先に引用した箇所で言及しているように、お互いに必死になった土地の奪い合いという事態を避けたい場合は、そういう状態は多くの場合、ゲマインデが設置した道路を境界線に使うというやり方では解消されなかった。その場合には耕作強制に類似した何かがより古い制度の残余物として存在していたに違いない;-もちろんその場所での法令に従った農耕に対する規制を行う立場にあったり、そのゲマインデの長であった者について、pagi ≪古代の共同体≫やその長やその他の類似する何者かが本当にあった/いたのかどうかということについては、私はここでは敢えて見解を差し控える。
ある土地に地役権を設定するということは、特徴的なこととして、その土地を譲渡する時と同じ法的書類を必要としていた。地役権設定の件数は非公開であり、ある土地に強制的に地役権を設定した事例は、それを基礎づける法規がその権利を明示的に留保していない限りにおいては、知られていない 94)。
94) それ故に水道橋設置という利害関心での強制収用権は、植民市のゲネティヴァ・ユリア≪現代のスペインのオスナにあった植民市≫の条例の C.99 において留保されている。(モムゼン、Eph. epigr. II P.221fにて)ルッジェリ≪Odoardo Ruggieri、19世紀のイタリアのローマ法学者≫(Sugli uffici degli agrimensori [測量人の事務所において])は正当にも次のことに言及している。つまりただ私的な処分のみが、非公開の地役権の件数として記録され本棚の中に封じられたのだと。それに対して、各種の土地法によってもこうした強制的な地役権設定というものは作りだされなかったのである。(D.17 communia praediorum [農場の公共財]を D.1 §23 de aqua et aquae pluviae arcendae [水と貯められた雨水について]と比較せよ。)
契約による地役権が設定された土地は同様に、地所の境界それ自体を管理するのと同じく、境界石を設置して管理されるのが常であった 95)。
95) 地役権を示す碑銘が、私が Corpus Inscr. Lat を通して読んで見つけたものだが、先行して記録されており、それは全ての場合ではなかったにせよ、割当てられた耕地においては広く行われていた。
ager privatus への権利設定における経済的な基礎
次のことは明らかである。つまりそのような[地役権の設定された]権利状態はただ、ある耕地についてその分割の仕方が、個々の所有者に対して個人の経済行為の完全な自由を可能にしていた場合にのみ可能となっていた。というのはこのことはまたローマの測量においてのもっとも顕著な経済的傾向だったのであり、特別にかつ相当に強い程度において、ケントゥリアによる測量[と分割割当て]の場合がそうであった 96)。
96) 次のことは既に述べて来たが、ager scamnatus に設定された limitesも同様に先行して行われており、後の時代になって liber coloniarum に書かれているように、規則的に行われ、そしてまた土地区画の中のある制限された数の面積についてのみ許可されており、そういった例の中では、スエッサ・アウルンカにおいてのように、ただ森林だけが特別に分割されていたという例もあった。
ローマの測量制度は土地の所有者に関連してまず第一に――それについては既に他の学者が言及しているが――その地所に対しての[第三者の]完全な立ち入りの自由を許していた。limites は公共の道路であり、そしてこの性格において、考え得る限りもっともはっきりした形で次のことに対しての保護が与えられていた。それはつまり誰に対してでも、また本来そこに対して何の利害関係の無い者に対しても、そこでの通行が許可されたのであり、そして例えそれがただの権利の濫用≪ChikaneまたはSchikane、シカーネ禁止原理=他人を害する目的での権利行使の禁止≫の結果起きた場合であっても、自身の努力によりまたは禁止命令の手続きの力を借りて、その開放状態を保つことが強制されていた。
もちろんそこにおいては、ある別のもっとも重要な動機が含まれている。我々のドイツの錯綜地の場合と同様に、あるどこかの場所において次のことはほとんど不可能であったであろう 97)。それはつまり上記の目的:全ての土地区画に対してその所有者のそこへのアクセスを確保することを、ある耕地にてその閉じた平野の中において個々の所有者の土地区画が互いに隣接して並んでいない場合に、実現することである。
97) 既にP.192(原文)の注93にて言及済みである。
我々の時代における土地の分割と併合[耕地整理]は、というのもまた常により大きな一つにまとまった面積の土地を作りだし、その結果統一された道路システムの導入を可能にしているのである。我々が参照している文献資料は非常に確実なこととして、ローマにおける耕地分割もまた原則的に一つのまとまった面積の土地(continuae possessiones [連続した所有地])を作りだしていることを述べている 98)。既に論じたことであるが、より正確に言えば、次のようなことが先行して行われていた。つまりある農耕地の内部でのある特定の地所について、特定の森林区画が付属物[通路の代わり]として割り当てられていたということである。その例は、スウェッサ・アウルンカにおけるものであり、そこではそれ故にケントゥリアではなく、 scamna による土地割り当てが行われていた。しかしそういったケースは例外であり、特別な事情によりそれが行われたと説明されるべきものである;その他一般的には各人に割当てられた土地区画は、それらの個々の面積の大小に関係なく、ある平野の中でのみ割当てられた。
98) ヒュギヌス P.130, 3: respiciendum erit … quemadmodum solemus videre quibusdam regionibus particulas quasdam in mediis aliorum agris, nequis similis huic interveniat. Quod in agro diviso accidere non potest, quoniam continuae possessiones et adsignantur et redduntur.
[考慮されるべきことは…我々がある領域においてしばしば見るように、他人の土地の中にある小さな土地が入り込んでいることが、あなたはないようにすることです。このことは分割された土地では起き得ません、何故ならば連続した所有地が割当てられ引き渡されるからです。]
p.117, 14. 119, 15. 152. 155, 19. 178, 14.を参照。
土地の併合と分割
次に測量人達は次のことを我々に伝えている。つまりこの土地が一つにまとまって閉じていることは、次の状態と対立しているものであると。その状態とは多くの植民市においてその周りを取り囲む耕地において、まだ分割割当てとそれによる植民市の建設が行われる前の状態である。
我々は第1章で次のことを見て来た。つまり測量人達がローマによる測量がまだ行われていない耕地を ager arcifinius 、つまり「曲線によって境界付けされた(土地)」と名付けていたことを 98a)。
98a) ロビー《Henry John Roby、1830~1915年、イギリスの古典学者でローマ法に関する著作者。》のケンブリッジ・フィロソフィカル・ソサエティー II 1881/82 P.95 に学会録にそう記載されている。
そういった土地については、ローマの角型の土地とは反対のものとして表現されている。しかしそのことによって、その概念は不規則な土地ブロックに対する専権的な耕地分割と必ずしも結びつけられる訳ではない。ある人が初めてフーフェ原理によって展開されたドイツの耕地図を見たとしたら、まず言えるのはそこの根底にある原理をまったく見出すことが出来ないであろうと言うことであり、その人の目に入るのは所有権に関連する土地の境界が曲がりくねっているということであり、それは部分的には分割された角形の土地の価値についての調整の結果であり、更にはまた部分的にはその隣人の鋤による[長年の]耕作の結果である。≪ドイツで使われていた鋤を牛などに牽かせると、しばしば曲がりくねって耕すことになり、その結果土地の境界線が時間が経つほど曲がりくねることとなった。≫ローマ以前の土地分割についての統一的な原則は、全イタリアにおいてある程度判明しているものはほとんど存在しないが、しかしこの場合特徴的なこととして明白に理解されるのは、非常に膨大な数の耕地が、ローマ以前の分割の仕方に戻ってしまっているということである。このことはまさにシクルス・フラックスが次のように描写している現象である:
“in multis regionibus comperimus quosdam possessores non continuas habere terras, sed particulas quasdam in diversis locis, intervenientibus complurium possessionibus: propter quod etiam complures vicinales viae sunt, ut unus quisque possit ad particulas suas jure pervenire … quorundam agri servitutem possessoribus ad particulas suas eundi redeundique praestant.”
[多くの領域において我々測量人は次のことを見出す。それは土地の所有者達がそれぞれ連続してまとまった土地を所有しておらず、そうではなくて別々の場所にある複数の所有地を断片的な形で持っているということである。このためにまた、多くの近隣の道路について、ある者が自分の断片的な土地の一つにたどり着くために、多くの道路を経由しなければならず… 誰かの土地に対して通行する地役権を持った者達により、自分自身の土地に行き来するのに、他人の土地を通るということが行われている。]
同じ現象についてヒュギヌスも(gener. contr. P.130の先に引用した箇所)言及している。我々(ドイツ人)はこういった事例を見ると直ちにドイツの錯綜地に結びつけて考えるが、確かに実際の所、人が何らかの形の耕地ゲマインシャフト(耕地共有)から土地分割へと踏み出し、そしてその際にその耕地全体の(効率性といった)評価を十分出来ていない場合には、直ちに同様のことが発生しているのである。そのことについては既に次のことを確からしいこととして見て来た。それは laciniae [断片的な土地]における土地分割で、それが最古の植民市であるオスティアとアンティウムで起きた場合には、そこで見られたことは人々がその場合でも土地分割をなお耕地ゲマインシャフトの枠組みの中で行っていたということであり、そして更に後の時代になって耕地全体の分割へと進んだ場合でも、分割割当てについてのローマ式の原則にはなお従っていなかったということである。シクルス・フラックスの viae vicinales [近隣の道路]についての所見に拠れば、そのような耕地における耕作強制やあるいはそれに類似したゲマインシャフト的な土地耕作の形態は、規則的なやり方ではもはや行われておらず、そして実際の所そういったゲマインシャフト的な原理はローマにおける私有財産制と共存出来なかったのである。後の時代のローマの土地割当てはいずれの場合もむしろ、既に見て来たように、次のようなやり方に依拠していた。それは分割される土地区画をひとつの閉じたまとまった面積に保ち、それによって初めて整然とした道路システムが可能となり、個人の経済活動に対して完全な自由を保障する、そういうやり方である。錯綜地の成立に当たっては、近隣道路[viae vicinales]という不釣り合いに多くの面積を非生産的なやり方で要求する、先に述べたようなやり方無しには行われていなかった。