「ローマ土地制度史」の日本語訳(30)P.196~199

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第30回目です。ここの注102は長さにして小さな字でほぼ2ページもありますが、その内容は、ヴェーバーとモムゼンが、ヴェーバーの博士号論文審査の時に議論した「ムニキピウムとコローニアの違い」に関するものです。モムゼンは「マックス君、そうは言っても君が主張しているような仮説を裏付けるような文献史料を私は知らないね。」という態度で、私はここに文献学者として慎重さを保つモムゼンと、限定された少数の資料からかなり強引に仮説を作り出そうとする(しかもかなり多くの場合間違っている)ヴェーバーの学問手法の本質的な違いが出ていて興味深いです。
個人的な意見ですが、ローマの植民市は入植ということが第一目的なのではなく、軍事拠点として退役軍人にそこの土地を割当てて住み着かせ、彼らを予備役として、またその子弟が新たに兵士となって防衛を維持していく、ということが第一目的であったように思います。その場合兵士に均等に土地を割り振るのに、元々の所有者の境界線をそのまま使わず、正方形ないし長方形の土地を機械的に作ってそれを割当てるのはある意味合理性から考えて当り前であり、それをドイツの耕地整理と同一視するのは違うのではないかと思います。
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既に先の箇所で述べて来たことであるが、我々における近代的な土地の分離と併合[耕地整理]は、同じ手段で同じ目的を達成しようとするものである。それが成立するのは、錯綜地の中にある土地区画のその価値に応じた強制的な交換を行うのと、それによって可能になった共通経済的な関係から生じて来た地役権と所有権への制限を撤廃するという状況においてであった。全く同じ成果が次の場合にも得られていた。それは、ある耕地がそれまでの所有者によって分割されており、そしてローマ式のやりかたで割当てられた時、この後者が実施された場合である。この場合連続した所有地[continuae possessiones]が作り出され、そしてまたその手続きも同じであった:”particulas quasdam agrorum”[ある土地断片を]、シクルス・フラックスは言う(p.155)、”»in diversis locis habentes duo quibus agri reddebantur, ut continuam possessionem haberent, modum pro modo secundum bonitatem taxabant.”[異なる場所にいくつかの土地の断片を持っている二人に対して、その土地が(再割当てのために)返還された場合に、二人が連続したまとまった土地を改めて持つことが出来るように、それぞれの土地の面積について適切で公正な評価が行われた。]こうした耕地移転の手続きは測量人達の見る所では、植民市建設という概念から見て余りにも当り前のことだったので、ヒュギヌスは次のような見解に到達出来ていた。つまり土地の所有者達は、彼らには単純に元通りの面積が返還されるべきであり、また彼らの社会的な地位(condicio)は変えられる(mutata)べきではなく、そのため植民市の団体の中に編入されることが全くない、という見解である(p.119, 18)。我々は先に更に次のことも見て来た。つまり植民市の全耕地は根本的なこととして、ローマ式の耕地の分割と割当ての及ぶ所と一致していたということである。これについて、我々は次のことが定められていたとまでは主張するのではない。つまりこのようなローマ式の耕地分割のやり方が、この種のローマ市民の植民地にとって本質的なことであるとか 99)、またこのやり方が行われなかった場所ではローマ市民の植民地は全く成立していなかった、ということである。ローマの市民が植民した場所が植民市となるのではなく、イタリカ≪スペイン南西部の植民市≫においてのように 99a)、またある場所で全ての植民がローマ市民によって行われたということがそこを植民市にするのではなく、ローマ式の耕地分割が行われて初めてそこが植民市となるのである。

99) ここでは次のことを確実であると主張しているのではない:1) ――自明のこととして――全てのローマ式の耕地分割は植民市の建設を伴っていた、2)――土地制度が市民植民地の唯一の本質的な目印である。

99a) C.I.L., I 546 とモムゼンの引用済みの箇所を参照。

それ故にアグリゲントゥム≪現在のシチリア島のアグリジェント、元々ギリシアの植民市で後にローマの植民市となった。≫は植民市であったという推定にもかかわらず 99b)、ローマ市民の植民市では全くなかった。というのはそこでの耕地は外国の法に基づいていたのであり、同じく言えることとして、ローマ式の耕地分割は明らかにラテン人による植民市の市民植民市の目印の一つであるからである 100)。そのような植民市が事実上またはもっぱらローマの市民によって建設されたと推論される場合でも 101)、その植民市はそれによって直ちに市民植民市となるのではない。何故ならばそこの耕地は外国人の土地[ager peregrinus]に留まっていたからである。そして逆にあるローマの植民市がラテン人やその他の同盟者によって分割された場合、その分割方法がローマ式であった場合は、ローマ市民の植民市という性格は失われなかったのである。

99b) C.I.L. X, p.737 参照。

100) 我々はラテン人の植民市における耕地分割の実例を知っていない。またそもそもそれが一般的にローマ式に分割が行われていたのかどうか、またそれによって subceciva ≪分割の結果生じた非角形の土地≫が生じていたのかどうか、更にそこから何が生じていたのかについては、我々は判っていない。我々が文献史料から知ったのは、その耕地はローマの耕地とはされなかった、ということだけである。より古い時代での土地制度における異なった性格について明らかになっているのは次のことである。つまり市民植民市における(一日の)入植者の数は常にフーフェの成員300人であったことが推論される一方で、それはローマの一部族の成員数(の単位数)と一致しているが、ラテン人の植民市においてはそういった数的な条件は存在していなかった、ということである。

101) そのようにリヴィウスの34, 53 では述べている… Q. Aelius Tubero tribunus plebis ex senatus consulto tulit ad plebem plebesque scivit, ut Latinae duae coloniae … deducerentur. His deducendis triumviri creati, quibus in triennium potestas esset. [クイントゥス・アエリウス・トゥベロが護民官として元老院の指示により平民会に次のことを提案し、平民会がそれを承認した。それは2つのラテン人の植民市を建設することであった。この建設のため3人組委員会が作られ、その任期は3年であった。]ここでイタリアにおける植民市についての推論で正しいと思われるのは、それが純粋にローマの仕事として行われていたということである。

植民市法[jus coloniae]の土地制度上の意味

こういったやり方での土地制度の特質が市民植民市についての本質的な目印であったとしたら、後の帝政期には全ての政治的な差異がほぼ無意味になってしまった≪最終的に皇帝カラカラが属州の住民にもローマの市民権を認めた。≫ことを考慮すると、次のことを仮説として提示出来る。それはつまり、諸ゲマインデが、それはこの時代には徐々に植民市に変わり始めていたのであるが、まさにこういった土地制度を導入する上において、植民市への転換ということが実質的・本質的には土地の併合と分割を伴う耕地規制を受け入れることを意味していたのである 102)。

102) 私は既に私自身の公的な学位の昇進≪1889年8月にベルリン大学で法学博士号を授与されたこと≫の際に、我々の偉大なる学問の巨匠であるモムゼン教授と、ある[ラテン語から]翻訳されたテキストの解釈について議論を試みるという栄誉の機会を得ることが出来た。≪ヴェーバーの博士号論文である「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」の公開審査の際に、テオドール・モムゼンがゲストとして招かれていたが、一番最後になってヴェーバーに対し、ヴェーバーがそれまでの議論の中で示したローマにおけるコロニアとムニキピウムの違いの説明について、それについて長い間悩んでいたモムゼンがヴェーバーの解釈について質問し、議論したもの。モムゼンはヴェーバーの説明に納得しなかったものの、「<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ヴェーバーに向かってであろう。」という祝福の言葉を与えて議論を打ち切った。おそらくその後も二人はこの問題について口頭で議論を続けていたようで、この注釈はヴェーバーからのモムゼンへの議論の続きであると思われる。≫モムゼン教授はその際及びまた後の機会に、私の仮説については決定的な証拠がない、と仰っていた。ただ私が信じたいのは、諸事実の全体の関係からそれについては一定の確からしさがある、ということである。ローマの歴史的諸文献の中に、ムニキピウムとコロニアの違いという論点において、この[土地制度という]側面が言及されているものを見出すことが出来ないということは、私の仮説を裏付ける根拠が与えられないということである:[しかし同様に]人が膨大な我々の近代の資料の中にプロイセンの耕地整理に対する評価を探し出そうとしても無駄であろう。ある近代の耕地整理されたゲマインデと(されていない)他のゲマインデの国法上の根本的な差というものは、ローマの帝政期のコロニアとムニキピウムの間の差と同様にほとんど存在しない。私は次のことを否定するつもりはない。つまりコロニアとムニキピウムの差異は歴史的には、かつそれに関わった者達のイメージとしては、まず第一に次のようなものとして成立しており、つまりコロニアの方がまずはほとんどの場合で全くの所非独立の外国における市民居住区であり、それに対してムニキピウムの方は多くは昔からの主権を持った都市国家が国家としての統治権を一部だけ残して大部分を失ったゲマインデになったものであり、この二つが国法上は帝政期に別々のものとして存在していたのである。しかし市民植民市が元々は市民の居住区として管理されていたのであろうという一方で、しかしそれはまた最初から本質的に同程度に耕地の分割とフーフェ組織にも依存するものでもあった。ラテン人の植民市が同盟市戦争の後全て例外なくムニキピウムになったということは、それはしかしまたローマ式の土地管理を行う組織が存在していなかったことにも強く影響されていた。全ての耕地整理が植民市の形成原理として不可欠なものとして行われたとは私は主張しない。しかし次のことは正しいと信じている。つまりローマの市参事会によって全ての耕地の統一的な配置換えが統一的な decumanus [と card]を使った測量とそれに基づいた測量地図の作成が行われた場所においては、耕地整理こそ植民市の形成原理だったのであると。-モムゼンは (Schriften d. r. Feldm. II, p.156)グラウィスカエ≪エトルリア人の都市、タルクゥイニーにある港≫とヴェールラエ≪現在のイタリアのヴェーロソ、ローマの東南東79Kmに位置する。≫を次のようなゲマインデの例として挙げている。それらにおいては耕地整理がそれによってゲマインデから植民市に昇格するという意図無しに行われていると。liber coloniarum の注釈 (239, 11)はヴェールラエについて次のように述べている:”»ager ejus limitibus Gracchanis in nominibus est adsignatus, ab imperator Nerva colonis est redditus”[そこの土地はグラックスの名前において設定された境界線によって割当てられており、皇帝ネルヴァ≪第12代ローマ皇帝、在位96年9月~98年1月≫によって植民者に引渡された。]の部分は私の見る所では、そこで起きたことの結果を記述しているものではない。そこでのグラックスによる境界線設定においては、ただ退役兵への非定期的・小規模な土地割当て、つまりは耕地のほんの一部分のことを扱っているに過ぎないのである。グラウィスカエの場合はまた事情が異なっている。この都市はU.C.573年[BC181年]に建設された市民植民市である。liber coloniarum はこの都市について次のように言っている(p.220, 1):Colonia Graviscos ab Augusto deduci jussa est: nam ager ejus in absoluto tenebatur. Postea imperator Tiberius Caesar jugerationis modum servandi causa lapidibus emensis rei publicae loca adsignavit. Nam inter privatos terminos egregios posuit, qui ita a se distant, ut brevi intervallo facile repperiantur. Nam sunt et per recturas fossae interjectae, quae communi ratione singularum jura servant. [グラウィスカエの植民市は、アウグストゥスの命令によって(新たにローマ植民市として)設置されたというのもそこの土地は(ローマによって)完全に保持されていたからである。その後皇帝ティベリウス・カエサル≪既出≫が面積を測り記録するという目的で境界石でその土地を分割し、ローマの人々にその土地を割当てた。それは個人の土地の間に境界を区別するために(境界石が)設置されたのであり、それぞれの境界は離されて設置されており、それは見分けることを容易にするためであった。というのも直線の溝が設置されており、それによって公共の方法として個人の権利を守っていた。]

グラウィスカエの遺跡。境界線としての石積みが確認出来る。(溝は明確には残っていない。) English: The excavations of ancient Gravisca, the harbour of Tarquinia. Date 26 September 2012, 19:50:05 Source Own work Author Robin Iversen Rönnlund

――植民市の領地は――というのもその植民市は(ejus という語が示すように)またアウグストゥスのもの[皇帝領]としてあった、そして「彼の植民市」という語については、グラウィスカエに関してセルスス D.30 de legatis II でも使われており――アウグストゥス帝の時代には「完全に」[in absoluto]所有されていた。土地区画に対しての Usukapion の結果として、それは古いシステムを破壊して置き換わったのである。アウグストゥスはそれ故に、その都市を[市民植民市に]転換することを命じた。それはつまり、(nam という語で)関連性が示されているように、ただ:その都市をローマ植民市に置換し、面積ベースで新しい割当てを実施し、そして測量地図にそれを記入するということである。よって転換と置換は同じことを意味しており、それは前記の引用箇所の見解に合致するが、ティベリウスはしかし全く逆のこと、つまり個人の所有地の境界に(inter privatus)石を設置し、個々人の所有地を保証することをやったのである。ティベリウスはひょっとするとその都市が植民市となる資格、もしそれが成立していたとした場合であるが、それを反古にしたのであり、それは彼がまたプラエネスラ≪パレストリーナ≫でやったのと同じことであった。私の見解ではこの箇所は私がここで提示している仮説の証拠となっている。(しかし)この仮説が仮に正しいとしても、この論文の大部分の記述と同様に、そこにおいては学芸における最も困難なこと、つまり”ars ignorandi” ≪重要ではない情報を無視し、本質的な部分に集中するという学問・討論上の技法≫が何重にも失われてしまっているのである。私は次のことを確かに自覚している。つまり私の記述において明確化という意味で成功していない多くの命題が見出され、それらについては個々の[文献]調査によって再検証されなければならないということである。それについてはただ私が、ここで提示した見解について、それをより大きな因果連関の中で検討する試みをせず、ただそれを何としても記述しなければならないという強迫観念に駆られていたことに、自分で気が付いていなかったと言える。

逆にティベリウス帝によるプラエネステの場合のようにその土地をムニキピウムの地位に戻すことになった場合は、次のように考えることが出来るであろう。つまり元々の土地制度についての調整とそれに伴う一定の結果的処置が意図されていたのであると。そしてこのケースこそまさにそうであったと推論出来る。ローマにおける耕地の分割でもっとも面倒な要素は、道路をどう作り直すかということと、元々の境界線を開放することであった。プラエネステはこの場合、全ての耕地領域が既にキケロの時代において少数の大土地所有者のものとなっており、彼らにとって元々の境界線を開放することはまったくメリットが無いことであり、彼らの所有地をばらばらに分割している境界線は非常に取扱いが難しいものであり、(開放した場合は)そこからごろつきどもが彼らの邸宅の庭やテラスに入り込むことが出来てしまうのであり、このことを禁止令によって防止することが可能になっていた。彼らの便益のために、元の境界線の開放という必然性は取り除かれることになった。――

我々はここまでもちろん本質的にはイタリアの土地においての植民市の建設を我々の観察の中心に据えて来たが、その場合に結果として生じたのは、そこの土地をローマ式の非課税の個人所有地に割当てるということである。我々がその際にイタリアでの植民市化を属州と明示的に区別していないということは次のことに起因している。つまり、二つの概念の全ての相違点にもかかわらず、ここにおいての本質的・経済的な諸連関においては注目すべき差異が存在していない、ということである。全ての点においてイタリアでの植民市化と同じやり方の:非課税の個人所有地の割当てを、一属州に対しても適用するということは、C. グラックスがカルタゴに対して初めて行ったことである。