ジブリ風マックス・ヴェーバー

今話題のChatGPTのジブリ風自画像イラストを、マックス・ヴェーバーでやってみました!爆笑。「ローマ土地制度史」の日本語訳の表紙に使おうと思います!

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(56)P.301~304

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第56回です。ローマでは、戦争の結果得た海外領・属州から安い小麦が大量に入って来て、イタリア半島での農業は穀物以外の様々な方向に向かいます。しかし最初に植えてから収穫までブドウで2年、オリーブで8年程度かかるのであり、また初期投資も必要で資金力が豊富な大地主しかそういうことは出来ず、ということになります。しかしここでのヴェーバーの記述もただ農業書の記述をまとめているだけに見えます。またブルジョアだったヴェーバーに農業の深い知識は無かったように思います。
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そうした穀物やワインなどの販売は、定期的な決まった場所での競売という形で行われていたように思われ 12)、明らかに遠方の買い手と取引するということはほとんど想定されていなかった。なるほどカトーは農場が海や船が航行可能な河川あるいは交通量の多い街道の近くに位置している場合には、そうした遠方との取引は利益の上がるものとして言及している。しかしそれを行うことは刈り取りのための十分な労働者を確保できるかどうかにより依存していた 13)。

12) カトー 先の引用箇所。
13) カトー 農業書1。

陸上輸送について実際の所、何れかのかなりの距離の遠隔地が想定されている場合には、敢えてやってみようということには通常ならず 14)、そしてコルメラは、海の近くや大きな河川の側に農場があるということが、原材料と商品の交換取引を容易にすると言っている一方で、大きな街道の近くということは兵士の宿泊を強制されたり、そういった街道に出没するならず者の存在のため、望ましいことではないとしている 15)。いずれにせよローマにおいての穀物市場はそれをローマの農業全体で見た場合、海上輸送により国家のために輸入された≪ポエニ戦争などの勝利などによって獲得したシチリア、北アフリカ、エジプトなどから≫穀物によって失われることとなったのである。それに対して地方市場においては、こういった海外から輸入された食物が十分需要を賄うほど入って来ることは稀だったので、それ故に定期的な、規模は大きくないにせよ、しかし確実に行われる販売は、農業での穀物の場合でも確実な需要があったのである。

14) ウァッローの計算によれば、海沿いの土地については、贅沢品や嗜好品の栽培に適した土地で取ることが出来る地代については、内陸部の同様の土地と比べ5倍も高かったのであり(ウァッロー 農業書III、2)、大量に栽培される食品についてはこの差の意味するところは更に大きかったに違いない。

15) コルメラ I、5。

それ故に非常にしばしば語られてきてまた一般に否定することも出来ない海外からの輸入農作物との競争の作用については、そこまで緊急に対応が必要なものではなかったとも考えることが出来よう。国内の大部分の場所において情勢としては安定したものに留まっており、農業書の著者達はその時点でもまだ良く知られた近隣団体との秩序ある一致団結を前提として話を進めており、隣人達との良い関係を継続することに価値が置かれており、農機具や穀種についてお互いに融通しあう相互扶助は自明のことであり 16)、そして各人の間での無利子の(相互の)借金(mutum)の依頼は、こうした確固たる隣人団体の片鱗が残っていなかったらあり得ないことであった。

16) カトー 農業書5と142。カトーはもちろん相互扶助というものを、ある確固とした諸家族の集まりの間に限定して理解しようとしている。しかし運搬用の家畜の相互の貸し借りについての支持は農業書4で規則的に言及されている。

穀物、オリーブ、ブドウ栽培の運命

しかしもちろん穀物栽培が死刑宣告されていたということは疑いようがなく、何故ならば生産者の側から見て業務として(穀物を)売却することはされておらず、地方市場で売却する品目としても、ただ条件が揃った婆にのみそう扱われていたからである。そのことは次の場合により一層重要なこととなった。それは土地に関する事情という点で都市的なものの見方が流入して来た場合にであり、それは定住方法とか都市の市場に対しての政治的な関わり方をどのように一緒に持ち込んで来たかということであり、しかしその上に更に、ローマに定住している大地主達にとっては土地貸し代という現金収入は差し迫って必要なものであったからであり、土地貸しの代金の額はその者達の利害関心にとってもっとも重要なものとなったに違いない。カトーの著書やその他の農業書の著者達はある一定の方向で、例えばテール≪Albrecht Daniel Thaer、1752~1828年、ドイツの農学者>の「合理的な農業」と同様のことを要求しており、それらは次の事から発生しているものである。つまり、投資として農地を購入しようと意図している者に、本の中で助言を与え、そして次のことを詳しく説明している。その内容は常に実践の中で積み上げられた好事家によるノウハウという形で、農場経営を始めようとする者が知っておかねばならないことであり、その目的はその者が使用する農場の管理人を大枠で上手に管理出来るようにすることであった 17)。

17) カトーの助言――農業書2――は農場の管理人を訪ねてその者がどのように農場を管理しているかの監査についてのものや、そしてその管理人がそこで働く家父長達からどのようにその専門的知識を吸収出来るようにするかの方法についてであり、それが非常に特徴的である。

穀物栽培が収益を生み出さないということは、既にカトーの時代において次の結果をもたらしていた。それはつまり、農場経営者達が穀物を栽培している耕地に対して土地改良のために資金を投入することを多くの場合ためらわせた、ということである 18)。その者達はむしろ重点を農場経営の他の分野に移していっていた。良く知られた例として、時間が経過するほど盛んになっていくブドウとオリーブの栽培については既に述べた。それと並んでまた豆類、野菜、そして樹木の栽培が前面に登場して来ていた 19)。

18) カトー 農業書1:scito…agrum…quamvis quaestuosus siet, si sumtuosus siet, relinquere non multum. [心得よ…土地を…それが収益が上がるものであっても、もし多くのコストがかかるのであれば、利益として残るものは少ないのである。]

19) カトー 161でのアスパラガス、156以下でのキャベツ。豆類は最初にコルメラ(II、10以下)の農業書においてより多く前面に登場している。同様に野菜または花卉は明らかに生産量が増えていっていた(コルメラ、I、10巻)。樹木の苗圃においての種子の利用や逆に海外からの購入はウァッロー I、41に出ている。樹木の栽培についての詳細な記述は既にカトーの40以下に出て来ている。(接ぎ穂そのもの、接ぎ木はウァッローのI、40にて、植木鉢による栽培はカトーの52.)都市の近郊では、カトーの書にまた植林が利益性の高いビジネスとして≪薪の生産のため≫推奨されている(農業書7);それと並んで建築材料としての利用やザルなどの製造のための葦と柳の栽培が多く言及されている(salictum[柳林]は農業書1にて耕地においての自明のカテゴリーの一つとして登場している)。

ブドウやオリーブ栽培の畑を所有するということは、穀物栽培との比較で、ローマのこの時代では、最近の言い回しを許容するならば、そういった穀物以外の栽培は労働集約的ではなく資本集約的ということである。コルメラによる計算では、ブドウ畑の場合には苗とその他ユゲラ当たりで必要なものの費用は地代の3倍にまでなっていた、ということである 20)。

20) コルメラは1、IIIの第3章で次のように計算している:7ユゲラのブドウ畑に対しては一人のブドウ畑専門の農夫[vinitor]が必要であり、共和政期のような足枷を付けられた罪人の奴隷[noxius de lapide]ではもはや駄目で、その当時は経験豊かな労働者を雇うことになったのであり、それには6-8,000セスティルティウスの費用がかかった。≪通常の農場奴隷の約3倍≫それに加えて更に地代が1000ユゲラ当たりで7,000セスティルティウスかかった。そこに更にかかる費用が vineae cum sua dote [自分自身の持参金付きのブドウ]≪持参金は文脈によってはジョークとしてコストの意味でも使われた。≫、つまり「支柱と苗木」[cum pedamentis et viminibus]の費用で、2000ユゲラ当たりで14,000セスティルティウスが必要だった。ここまでで合計29,000セスティルティウスになり、それに更にブドウが実際に収穫出来るようになるまでの2年間の期間利息で6%で3,480セスティルティウスがかかった;――合計の投下資本は32,480セスティルティウスとなる。6%の利息をカバーするには収益として1,950セスティルティウスが(1年当たり)必要となる。1ユゲラ当たり1クレウス[culleus](=525.27リットル)、1クレウス当たりの最低価格は当時300セスティルティウスであり、利益は2,100セスティルティウスになる。この全く面白くはないが仕方なくそこで行われている計算は、明らかに次のことを前提としていた。つまりブドウ専門の農夫と非常勤の労働者の扶養料を――というのもブドウの木というのは幹を作らず蔓で支柱に巻き付くのであるが(カトー 32)、しかしそれでも一人の労働者が7ユゲラ全てをカバーすることは不可能だったのであり――耕地全体で追加の労働力を見込んでおく必要があった。そのためこの費用はブドウ畑のみの勘定には付けられていなかった。

そういうことがあっても、コルメラとカトーの述べる所によれば、人数に関してはブドウやオリーブ栽培は、同面積での穀物栽培と比べてより少ない人数しか必要ではなく、そしてオリーブ栽培の場合は労働力という点で見る限り、特に有利だったのである 21)。

21) カトーは240ユゲラのオリーブの栽培に13人、100ユゲラのブドウ畑には16人の常勤の労働者が必要だと見積もっている。オリーブとブドウの栽培はプランテーション的なやり方で鋤を用いて(ウアッロー 1,8)、より多くの肥料が投入され、そして共和制期には最低レベルのコストの奴隷を使って行われた可能性がある(後述の箇所参照)。

こうした事情は農業技術と同じくカトーの時代からコルメラの時代まで大きく変わることはなかった可能性がある。

牧草栽培、大牧場の経営と牧草農場

全く同様にこういった事情は集中的な牧草栽培の場合にも見られるものであり、それはカトーにおいて、またウアッローにおいて更に前面に登場している 22)。

22) カトーによる農場経営での収益性の高いものの順番は(農業書1):ブドウ、灌漑された耕地での野菜・果物栽培、柳の林、オリーブ、牧草地、穀物畑、伐採林≪薪の採取≫、雑木林、ドングリ林(林の中の牧草地≪豚にドングリを食べさせて飼育した。≫)。ウアッローは1、7でbona parata [良質な牧草地]、――先祖代々の良く整備された牧草地(つまりゲノッセンシャフトによって十分に灌漑された牧草地)――特に記載している。

ここにおいてもまたかなりの程度の資本投下が必要だったのであり、特に灌漑設備への投資がそうであり、それについてはゲマインデの公共水道から水が1時間当たりいくらの料金で供給されたのであり 23)、そして土地の境界線をまたぐ水道管の敷設が地方条例によって 24) 承認されたのである。

23) C.I.L.、XIV、3649。また3676他多くの箇所でも。

24) ゲネティヴァ・ユリアの法規(Eph. epigr. II, p.221以下)第100章。

先に詳述したローマにおいての対物信用の特質からすると、土地改良が目的で個人資本を継続的に課税される所有地に投資することは簡単に出来ることではなかったので、このような集中的な土壌改良へと移行するためには現金が必要だったのであり、それを行うことが出来たのはただ大地主のみであったのである。他方で中小の地主が労働力と資金の両方を同時に節約しようとした場合に可能だった方法は、牧場経営に移行することであった。