再度折原浩先生から引用「ヴェーバーの「宗教社会学」を、基礎カテゴリーから体系的に読めるように」、しかしヴェーバーの論考、文章はそもそもそんなに体系的なものなのでしょうか?
向井守「マックス・ウェーバーの科学論」P.249
「全体として彼の理想型(注:向井は「理念型」ではなく「理想型」)を見ると、限界効用学派経済学、歴史学派経済学、マルクス主義経済学、さらには法学、政治学、宗教学についての巨大な知識を背景にして彼の思想がとめどもなく爆発的に噴火し、体系的には制御しがたく奔流しているような印象を受ける。」
ヴェーバー「ローマ土地制度史」第2章注102より
「(前略)この論文の大部分の記述と同様に、そこにおいては学芸における最も困難なこと、つまり”ars ignorandi”(重要ではない情報を無視し、本質的な部分に集中するという学問・討論上の技法) が何重にも失われてしまっているのである。私は次のことを確かに自覚している。つまり私の記述において明確化という意味で成功していない多くの命題が見出され、それらについては個々の[文献]調査によって再検証されなければならないということである。それについてはただ私が、ここで提示した見解について、それをより大きな因果連関の中で検討する試みをせず、ただそれを何としても記述しなければならないという強迫観念に駆られていたことに、自分で気が付いていなかったと言える。 」
この2つの例を見るだけでも、ヴェーバーの論文というのは頭の中に浮かんで来た様々な雑多な知識をとにかく並び立てなければ気が済まない、といったもので、「体系的」な論文とはおよそ正反対であることが分かります。(こういうと差し障りがあるかもしれませんが、双極性障害の患者の躁状態の時の思考パターンとしては非常に典型的です。)
折原浩先生のやろうとしていたのは、元々まったく体系的でないヴェーバーの「経済と社会」を無理矢理「理解社会学のカテゴリー」の概念で統一的に構成されていると事実に反することを仮定して解釈しようとした、「想像の産物」であることを再度強調させていただきます。
「経済と社会」はもっとも教科書を書いてはいけないタイプの学者が無理に教科書を書こうとした、元々無理ゲーです。(笑)