Vornehmlich diese praktischen Aufgaben von Predigt und Seelsorge sind es auch, welche die Systematisierung der kasuistischen Arbeit der Priesterschaft an den ethischen Geboten und Glaubenswahrheiten in Gang erhalten und sie überhaupt erst zur Stellungnahme zu den zahllosen konkreten Problemen zwingen, welche in der Offenbarung selbst nicht entschieden sind.
折原訳
主としてこの、説教と司牧という実践的課題が、倫理的な命令や信仰上の真理にかかわる祭司層の働きを、決疑論的な体系化の方向に釘付けにした。というよりもむしろ、そうした課題が、およそ祭司層を、啓示そのものにおいては未決定の無数の具体的問題に取り組み、自ら初めて態度決定をくださざるをえないように、仕向けたのである。
丸山訳
主として、伝道や司牧にかかわるこうした実践的な課題こそが、祭司達の決疑論的な実務を、倫理的戒律や信仰上の真理に沿った形で体系化させ続ける原動力となり、そして同時に、啓示そのものでは決定されていない無数の具体的問題について、祭司たちの態度を明確にすることをも迫るのである 。
この部分は折原訳で「釘付けにする」に引っ掛かって原文を確認したもの。
in Gang erhalten は「動いてる状態=Gangを保持する」、つまり推進力・原動力となる、という意味です。何も難しいことはありません。「釘付けにする」というと固定するような意味になり、また否定的なニュアンスになってしまい明らかな誤訳です。
折原先生はこの「私家版」について創文社への手紙で、「しかし、今回は、上記のような事情を踏まえ、前訳の大いなる長所と無理からぬ欠陥を明示・明記したうえ、後者[注:解説と訳注]は補填し、読者がこんどこそ、ヴェーバーの「宗教社会学」を、基礎カテゴリーから体系的に読めるように、半生の研究成果を注いで全力を尽くしたいと思います。こんどは、正式の全訳・解説者と名乗り出て、形式上も全責任を負います。この点、御社にも、武藤氏他の初訳者各位にも、ご了承いただけるものと確信いたします。」
と書いていますが、「半生の研究成果を注いで全力を尽くした」結果の日本語訳であるとはまったく評価出来ません。途中で投げ出されたレベルの低い日本語訳です。申し訳ありませんが、折原先生は典型的な「人には厳しく自分には甘い」人であり、また「眼高手低」(言っていることは正しいがいざ自分がやるとまるで出来ない)の人でもあります。ここまで折原訳をチェックして来てそう結論付けざるを得ません。