オープン翻訳の理念への誤解

ここの所、折原浩先生の「宗教社会学」私家版翻訳を厳しく批判しています。
この理由は、まず第一には先生が私のオープン翻訳という理念を正しく理解していないと思うからです。元々オープン翻訳はソフトウェアの世界でのオープンソースの考え方にならったものです。そこでは「無料である」ことが最重要なのではなく、
(1)開発過程をオープンにし、中身をソフトウェアエンジニアであれば誰でも分かるようにする。
(2)バグを発見した場合には開発者以外でも修正してそれを公開出来る。
(3)いつでも内容の改訂が可能。
(4)お互いがお互いのリソースを利用することで、全体で更に高度なソフトウェアを開発する。
といった理念に基づくものです。実際にオープンソースで開発されたWebサーバーソフトであるapacheやngnxは、商用であるマイクロソフトのIISに比べて機能的にまったく遜色ないだけではなく、実使用のシェアでもIISを上回っています。そういった意味で「安かろう悪かろう」のソフトウェアではまったくありません。オープン翻訳もまったく同じです。

折原浩先生のこの「宗教社会学」の私家版訳は、ご本人が「創文社から出版してもらいたかった」と仰っていますが、私がこれまで見た限りでは、見る目がある編集者であればこのレベルの日本語訳をそのまま採用する人はいないと思います。
問題点として
(1)しばしば奇妙な独自の単語を訳として使っている。(例:即人的な)
(2)創文社訳の誤訳・不適切訳をそのまま持ち込んでいる場合が多々ある。
(3)更には創文社が正しく訳しているものをわざわざ誤訳に変えてしまっているものもかなりの箇所ある。
(4)訳者の注釈は宗教学的なものについてはまったく付いておらず、社会学的なものについても最初の数ページだけで後は「○○という注釈が必要」というメモだけ。
を挙げておきます。要するに時間をかけないで適当に作った雑な訳ということです。
こういった批判は厳し過ぎるのかもしれませんが、ご自身が他者の翻訳についてあれこれ批判をなさっているので、ご自身にブーメランとして返ってくるのはある意味自業自得と考えます。
「オープンだから質が低くてよい」という誤解を持つ人がいるかもしれません。しかし真実は逆で、閉鎖的に作られた(これまでの)翻訳の方が検証も改善もなされず、誤訳が温存されやすい構造になっています。(これは折原浩先生がこれまで批判してきた通り。)私は「叩かれることを厭わず最善を目指して公開し続ける精神」こそが、ウェーバー研究の未来に必要だと確信しています。