折原浩先生訳の問題点

「宗教社会学」のゲマインデ(教団)の宗教性について定義している箇所ですが、

原文
Wir wollen nur da von ihrem Bestand reden, wo die Laien 1. zu einem dauernden Gemeinschaftshandeln vergesellschaftet sind, auf dessen Ablauf sie 2. irgendwie auch aktiv einwirken.

折原訳
われわれはもっぱら、平信徒が、① ゲゼルシャフト形成によって[スタッフと平信徒、相互の権利-義務を規定する秩序の制定によって、この秩序に準拠する]継続的なゲマインシャフト行為に編成され、同時にまた、②当のゲマインシャフト行為の経過に、なんらかの仕方で能動的にもはたらきかけている場合にかぎって、ゲマインデ宗教性が存立すると考えたい。

丸山訳
我々はもっぱら、平信徒が、① 単発のゲマインシャフト行為ではなくそれが継続的に[何らかの制定律に準拠しているかのように]繰り返されるという形でゲゼルシャフト化されているという場合で 、そしてその経過において、②そういった連続したゲマインシャフト行為が何らかの形で能動的に作用している場合に、ゲマインデの宗教性が成立していると考えたい。

を比較してどう思われますか?
折原訳の「ゲゼルシャフト形成がゲマインシャフト行為に編成される」という訳、まるで意味不明です。また「理解社会学のカテゴリー」の定義からもまったくあり得ません。因果関係が逆です。私が訳したように、あるゲマインシャフト行為が何度も繰り返し行われることによってそこにまるである種の暗黙の制定律への準拠が見られるという形でゲゼルシャフト形成が行われるで何ら問題ないと考えます。

p.s.
その後の部分でも、Kleine Reste von Gemeinderechten sind in einigen orientalischen christlichen Kirchen erhalten und fanden sich auch im katholischen Okzident und im Luthertum.を「いくつかの東方キリスト教会では、ゲマインデの権利の残滓がわずかながら維持されており、そうした残滓はまた、カトリック的西洋とルター派にも見られた。」と訳しています。
ヴェーバーはゲマインデをゲゼルシャフト化されたものと捉えている訳ですがから、こでのGemeinderechtenは権利ではなく、ゲマインデの制定律(内部ルール)のことでなければおかしいです。初期のキリスト教の信徒団の中でのルールが現在のカトリックやルター派においてもまだ名残りが見られる、という解釈は自然で無理がありません。折原先生は「理解社会学のカテゴリー」を重視すると言いながら、実際の読解ではその内容に沿った理解が出来ていません。

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