ヴェーバーにおける文法ミス?

「宗教社会学」(宗教ゲマインシャフト)の訳も、後半に入りつつありますが、加速的にヴェーバーの書き方が書き殴りに近い状態になっていき、ろくろく校正もされていなように思います。例えば以下の箇所:

Es besteht daher vor allem keine Spur jenes augenfälligen Konflikts zwischen der durch Gottes Verheißungen geschaffenen sozialen Prätension und der verachteten Lage in der Realität, welche in dem dergestalt in ständiger Spannung gegen seine Klassenlage Lebenden und in ständiger Erwartung und furchtloser Hoffnung lebenden Juden die Weltunbefangenheit vernichtete, und die religiöse Kritik an den gottlosen Heiden, auf welche dann erbarmungsloser Hohn antwortete, umschlagen ließ in ein immer waches, oft erbittertes, weil ständig von geheimer Selbstkritik bedrohtes Achten auf die eigene Gesetzestugend.

丸山訳
そこでは、神の約束によって生み出された[選民としての]社会的自負と、その反対に現実においては蔑まれた状態にあることという矛盾する状態のせめぎあいの痕跡はかけらも見られない。そういった状況は、ユダヤ人の、自分達の階級的地位がそのようにして常に緊張状態に置かれる生き方において、かつ持続する期待と恐れを持たない希望を持つことによって、彼らの現世に対する素直な見方を失わせたのである。そしてユダヤ人による神なき異教徒への宗教的批判は、それは無慈悲な侮蔑として戻って来たが、そのことが逆にもたらしたのは、常に目覚めた状態で、しばしば怒りも伴って、常に秘かな自己批判によって省みられる自分自身の律法遵守の姿勢への注視である。

問題は下線のwelche、これは後半部の主語になっているんですが、これが何を指しているのかですが、創文社訳と折原訳の双方が、Konflikt(葛藤)にしています。しかし、Konfliktは男性名詞なので、これを受けるのであればwelcherにならないとおかしく「葛藤」は文法的には成立しません。私は直前のRealität(現実)と解釈しましたが、Lageも含めて最終的には「そういった状況」と意訳しました。ちなみにChatGPT5.2は最初創文社訳・折原訳と同じくKonfliktを主語にしていましたが、誤りを指摘したらじゃあSpurだろうと回答しました。しかしSpurは「痕跡」という意味で、後半の主語はそういう「何かの影響が後に少し残ったもの」ということではなく、その痕跡を残した元のものが本当の主語の筈です。
それから最後から2行目のweilの使い方も変で、動詞が存在せず、文がそもそも閉じていない上に、一般的な「~故に」という意味でもなく、むしろ英語のwhile(~である一方で)とでも訳すしかないように思います。こういったweilはこのすぐ前の箇所にも出て来ています。

p.s. ドイツ語不変化詞辞典(岩崎英二郎・小野寺和夫共編)のweilの項を見たら、「古・方」という表示付きで、「~する間に」とまさに英語のwhileの意味があるとありました。なるほど。
それからグリム辞書等で調べると、ドイツ語のweilも英語のwhileも共通のゲルマン祖語から派生したもののようで、元々は「ある時間的区切りの間」という意味だったのが、ドイツ語では18世紀ぐらいに「その時間に起きた→あることの起きた理由」という風に意味変化が起きたようで、「~している間」という意味は廃れたようですが、20世紀初頭になってヴェーバーがまだそんな古い語義を無意識か意識的にか使っていたのは興味深いです。(が、訳者泣かせの箇所でもあります。)

折原浩先生訳の問題点(15)

折原センセの訳は、使うべきでない所で「彼岸・此岸」や「(因果)応報」のような仏教用語を多用しているのですが、逆に使わなければいけない(輪廻転生)所であっさり「再生」と訳していて、まったくセンスというものが感じられません。ここではヒンドゥー教徒や仏教徒と言っているのですからキリスト教にもある単なる「再生」でないのは明らかです。

Seine fast völlige Abwesenheit, und ebenso das Fehlen fast aller sozialrevolutionären, religiösen Ethik in der Religiosität des frommen Hindu und des buddhistischen Asiaten erklärt sich aus der Art der Wiedergeburtstheodizee; die Ordnung der Kaste als solche bleibt ewig und ist absolut gerecht.

折原訳
ところで、敬虔なヒンドゥー教徒とアジア人仏教徒の宗教性には、そうした神義論がほとんどまったくなく、これに即応して、ほとんどあらゆる社会革命的な宗教倫理も欠落している。それは、再生の神義論の性質から説明がつく。すなわち、そこでは、カースト秩序そのもの永遠で、しかも絶対に公正である、と説かれている。

丸山訳
敬虔なヒンドゥー教徒や仏教徒であるアジア人において、そうした神義論がほぼ完全に欠如していたこと、そして社会革命的な宗教倫理も同じく完全に欠如していたということは、輪廻転生の神義論のあり方から説明することが出来る:つまりはカーストの秩序はそのまま永遠に続くのであり、かつ絶対的に正当である、ということである。

創文社訳の誤訳、折原訳の弱い訳

ルサンチマン的性格が詩篇の中に見られると言う箇所での三者の訳:

原文
Entweder in der Form: daß dem Gott die eigene Befolgung seiner Gebote und das eigene Unglück und demgegenüber das gottlose Treiben der stolzen und glücklichen Heiden, die infolgedessen seiner Verheißungen und Macht spotten, vorgehalten werden.

創文社訳
そしてそこでは、神の約束と威勢をあざわらう高慢にしてしかも幸福な異教徒たちの神なきがごとき振る舞いと対照させながら、神の誡命を忠実に守りつつしかも不幸なみずからの姿を描き出すという形態がとられるか、

折原訳
それにはふたつの形式がある。ひとつは、高慢でしかも幸福な、したがって神の約束と勢威を嘲笑う不信の徒の姿を、神の戒命を遵守しながら不幸な、自らの姿と対比させて、神に差し出す、という形式である。

丸山訳
その形式は次のいずれかである:神の命令を厳格に遵守しているのにしかし自身が不幸であることと、それとは反対におごり高ぶりそれでいて幸福な異教徒が、神を無きものとしてふるまっていること、その異教徒達はその結果としてユダヤ人の神の約束と力を嘲笑していること、それらを神に対して糾弾するという形が一つである。

ここの構文は、dem Gott ~vorgehalten werden で「「なぜなんですか」と神に糾弾調で問いかけられる」ということですが、創文社訳はまったくの誤訳、そして折原訳の「神に差し出す」は創文社訳よりはマシですがvorhaltenの意味を正しく訳していません。要はどちらも旧約聖書をちゃんと読んでいないからでしょう。
それからついでにここでヴェーバーが「詩篇は復讐の感情に満ちている」などと書いているは完全な誇張で、詩篇の中で復讐について書かれているのはほんの数ヶ所に過ぎません。またヤハウェに対しての「復讐」の要求は、要は神とユダヤの民は契約を結んだのだから、民が十戒を守りヤハウェを信じる限りにおいてはヤハウェの方もきちんと責任を果たせ、ということだと思います。それからニーチェのルサンチマンは本来はキリスト教に対しての説明であり、ユダヤ教に対する説明ではありません。