ルサンチマン的性格が詩篇の中に見られると言う箇所での三者の訳:
原文
Entweder in der Form: daß dem Gott die eigene Befolgung seiner Gebote und das eigene Unglück und demgegenüber das gottlose Treiben der stolzen und glücklichen Heiden, die infolgedessen seiner Verheißungen und Macht spotten, vorgehalten werden.
創文社訳
そしてそこでは、神の約束と威勢をあざわらう高慢にしてしかも幸福な異教徒たちの神なきがごとき振る舞いと対照させながら、神の誡命を忠実に守りつつしかも不幸なみずからの姿を描き出すという形態がとられるか、
折原訳
それにはふたつの形式がある。ひとつは、高慢でしかも幸福な、したがって神の約束と勢威を嘲笑う不信の徒の姿を、神の戒命を遵守しながら不幸な、自らの姿と対比させて、神に差し出す、という形式である。
丸山訳
その形式は次のいずれかである:神の命令を厳格に遵守しているのにしかし自身が不幸であることと、それとは反対におごり高ぶりそれでいて幸福な異教徒が、神を無きものとしてふるまっていること、その異教徒達はその結果としてユダヤ人の神の約束と力を嘲笑していること、それらを神に対して糾弾するという形が一つである。
ここの構文は、dem Gott ~vorgehalten werden で「「なぜなんですか」と神に糾弾調で問いかけられる」ということですが、創文社訳はまったくの誤訳、そして折原訳の「神に差し出す」は創文社訳よりはマシですがvorhaltenの意味を正しく訳していません。要はどちらも旧約聖書をちゃんと読んでいないからでしょう。
それからついでにここでヴェーバーが「詩篇は復讐の感情に満ちている」などと書いているは完全な誇張で、詩篇の中で復讐について書かれているのはほんの数ヶ所に過ぎません。またヤハウェに対しての「復讐」の要求は、要は神とユダヤの民は契約を結んだのだから、民が十戒を守りヤハウェを信じる限りにおいてはヤハウェの方もきちんと責任を果たせ、ということだと思います。それからニーチェのルサンチマンは本来はキリスト教に対しての説明であり、ユダヤ教に対する説明ではありません。