折原浩先生訳の問題点(18)

またも「開悟」などという安易な仏教用語の使用。ここでのErleuchtungというのは文字通り「光を受けること」、つまり神の光を感じてその啓示を受けることであり、仏教的な「悟りを開く」とはまったく異なります。あまりにも無神経な訳です。この啓示的神秘主義とはいわゆる Unio Mystica(神秘的合一)のことです。最後の eigen も訳していません。ついでにstammendenは「~に由来する」じゃなくて「~の出身の」です。「立ち入って分析する」の「立ち入って」も原文にはなくただ「後で分析することになる」だけです。こんな短い文で4箇所も誤訳・訳し漏れしている訳です。(ついでにこの「開悟」は元々創文社訳のもの。「翻訳の体を成していない」と批判する割りには、創文社訳を十分検討しないでそのまま採用している訳です。)

Der vornehmen, aus den privilegierten Klassen stammenden Erlösungssehnsucht ist generell die Disposition für die, mit spezifisch intellektualistischer Heilsqualifikation verknüpfte, später zu analysierende »Erleuchtungs«-Mystik eigen.

折原訳
特権づけられた階級に由来する貴族的な救済憧憬は、知性主義に特有の救済への資質と結びついて神秘的「開悟」にいたる傾向をそなえているが、これについては、後段で 立ち入って分析するとしよう。

丸山訳
プラスの特権を与えられた階級の出自である貴族の救済に対する憧れは一般に、特殊な形での主知主義的な救済への資格という考え方と結び付いた、後で分析することになる特有の「啓示」的神秘主義に向かう傾向を持っている。
=========================================================
ついでに次の文も。
ここでも、psychologischerと来たら「心理学」だと思っているし、Sinnlichは感性的なことではなく、感覚に関わること、つまり官能的・肉欲的なこと、という意味です。もう次から次に誤訳が出てくるのがご理解いただけると思います。「貶価(へんか)」も手元の国語辞書(広辞苑クラス含む)には載っていない語彙です。誰かの翻訳語としての造語でしょう。(中国語としては「値切る」こと。)しかもそれを「厳しく貶価される」などと受動態で訳したら益々意味不明です。(念のため青空文庫も検索してみましたが、「貶価(へんか)」はヒット0。完全に一部のアカデミズムでのいわゆるJargon的な訳語です。)

Das ergibt eine starke Deklassierung des Naturhaften, Körperlichen, Sinnlichen, als — nach psychologischer Erfahrung — einer Versuchung zur Ablenkung von diesem spezifischen Heilsweg.

折原訳
そこでは、自然なもの・身体的なもの・感性的なものが、心理学的経験に照らして、人をこの独特の救済道から逸らせる誘惑として、厳しく貶価される。

丸山訳
そこから生じるのは、本能的なこと、身体的なこと、肉欲的なものを、--心的な経験として--この特殊な意味での救済に至る道から逸脱させる誘惑として非常に低く評価することである。

折原浩先生訳の問題点(17)

また折原訳の問題点。
(1)vorderasiatischen を「西南アジア」と訳すのは誤訳。そうするとインドが入ってしまう。ここはいわゆる「中近東」の内の「近東」のこと。(オスマントルコの支配地とほぼ同等の意味。)
(2)「預言的な性格を帯びようとも、また、平信徒知性主義によって担われたオリエントならびにヘレニズムの救済教説は」と分けるのはおかしい。「預言的な性格を持つものでまた同様に平信徒の知性主義に担われたオリエントやヘレニズム地域のものであれ」と一つに訳すべき。
(3)Abwendungは「目を逸らす、離脱する」という意味で「政治活動に叛いて背を向けた」といった強い意味はない。「強いられて背を向けた」は日本語としても変。

Die vorderasiatischen Erlösungsreligionen, sei es mystagogischen, sei es prophetischen Charakters und ebenso die vom Laienintellektualismus getragenen, orientalischen und hellenistischen, sei es mehr religiösen, sei es mehr philosophischen Erlösungslehren, sind (soweit sie überhaupt sozial privilegierte Schichten erfassen) fast ausnahmslos Folgeerscheinung der erzwungenen oder freiwilligen Abwendung der Bildungsschichten von politischem Einfluß und politischer Betätigung.

折原訳
西南アジアの救済宗教は、密儀的な性質であろうと、預言的な性格を帯びようとも、また、平信徒知性主義によって担われたオリエントならびにヘレニズムの救済教説は、宗教的な性質と哲学的な性格とのどちらが優ろうとも、(それらがおよそ、社会的に特権づけられた社会層を捉えて根を下ろしたかぎりでは) ほとんど例外なく、教養層が強いられて、あるいは自発的に、政治的な影響力と政治活動に叛いて背を向けた結果である。

丸山訳
近東における諸救済宗教は、秘教的なものであれ、預言的な性格を持つものでまた同様に平信徒の知性主義に担われたオリエントやヘレニズム地域のものであれ、より宗教的性格が強いものであれ、より哲学的な救済教説であれ、それらは(一般的に言って社会的にプラスの特権を与えられた層を信者として捉えている限りにおいて)ほとんど例外なく、教養層が政治的な影響や活動から、強制によってかあるいは自発的にか身を退いた結果としての現象である。

折原浩先生訳の問題点(16)

もういい加減ウンザリしてきますが、折原訳については毎ページでおかしな訳に遭遇します。
ここまで見た限り、この訳者にはドイツ語の基本的な読解力が不足しているか、あるいは翻訳にあたって十分時間を取って考えていない(辞書も引いていない)のどちらか、あるいは両方だと思います。

Daher tritt sie typisch dann auf, wenn die, sei es adligen, sei es bürgerlichen herrschenden Schichten entweder durch eine bürokratisch-militaristische Einheitsstaatsgewalt entwickelt und entpolitisiert worden sind, oder sich selbst aus irgendwelchen Gründen davon zurückgezogen haben, wenn also die Entwicklung ihrer intellektuellen Bildung in ihre letzten gedanklichen und psychologischen inneren Konsequenzen für sie an Bedeutung über ihre praktische Betätigung in der äußeren diesseitigen Welt das Übergewicht gewonnen hat.

折原訳
したがって、救済宗教性が典型的に出現するのは、貴族的であれ市民的であれ、支配権を掌握した社会層が、官僚制的・軍事的な統一国家権力の発展によって、非政治化[政治権力を剥奪]されるか、あるいは、なんらかの理由で、自ら政治活動から脱退した場合、したがって、そうした社会層にとって、彼らの知的な教養を発展させ、その思想的また心理的な究極の内面的帰結にまで突き詰めることが、此岸の外界における実践活動に優る意義をもつと感得される場合、である。

丸山訳
そのため、救済信仰が典型的に出現するのは、それが貴族であれ市民であれ支配者に[一旦は]なった社会層が、官僚制的・軍事的な統一国家の権力によって、発展させられながらも非政治化された場合か、あるいは自ら何らかの理由でそこから身を引いたかの場合であり、つまりはその者達にとっての心の中での最終的な思想・心理上の論理帰結に至るまでに、知的な教養を発展させることが、この世の中での外部の諸事に実務的に関与することよりも重要になった場合である。

上記の文のentwickeltが官僚制的・軍事的な統一国家の権力にかかるなんて、あり得ません。ヴェーバーがここで「発展させられるけども(結局は)非政治化される」と非常に興味深いことを言っている(おそらく想定しているのは古代ローマの貴族層と、ピューリタン)のが、まったく違った意味になってしまいます。

「宗教社会学」折原浩元訳、丸山大幅改訳、R5

「宗教社会学」の元訳折原浩、大幅改訳私のR5です。これで約半分です。
トップページのタイトルも「元訳折原浩」を小さくしています。
また訳注もこれまで私が付けたものに<丸山></丸山>というタグを付けていましたが、私の訳注:折原訳注は95:5ぐらいであり、どう考えても圧倒的に比率が高い方にわざわざタグを付けるのは非合理的なので、逆に折原訳注の方に<折原></折原>というタグを付けるよう変えました。なお前半部にはまだ元訳の文章が多く残っていますが、最後まで行ったらまた戻ってそこも私の訳に直します。その過程で折原訳注は全部取る(あるいは書き直す)かもしれません。

今回訳した部分でいわゆる「苦難の神義論」とかルサンチマンの議論が出て来ますが、正直な所かなり恣意的で実証性に乏しい議論だと思います。

20260305_宗教社会学大幅改訳R5.pdf