100回行ったと思ったら早速101回目も。
こういう原文にない変な表現を付けまくる翻訳を私は「デコトラ翻訳」と名付けました。昭和の遺物という意味でも。(笑)
「神的なものを周辺的な機能へと外化し疎隔する所為」ってまったく意味不明です。ともかく読みにくく意味が取れません。
またヴェーバーもヴェーバーで古仏教に「恩恵の状態の維持」などという考え方はありません!
原文
Dies ethische — positiv oder negativ — kämpfende Handeln aber ist für den kontemplativen Mystiker, der niemals »Werkzeug«, sondern nur »Gefäß« des Göttlichen sein will und kann, eine stete Veräußerlichung des Göttlichen an eine periphere Funktion: Nichthandeln, jedenfalls aber Vermeidung jedes rationalen Zweckhandelns (»Handeln mit einem Ziel«) als der gefährlichsten Form der Verweltlichung empfiehlt der alte Buddhismus als Vorbedingung der Erhaltung des Gnadenstandes.
折原訳
ところが、瞑想的神秘家は、けっして神の「道具」ではなく、もっぱら神の「容器」であろうとし、またそうでありうるから、積極的であれ消極的であれ、倫理的な闘いとしての行為は、神秘家にとってはつねに、神的なものを周辺的な機能へと外化し疎隔する所為にほかならない。古仏教は、恩恵の状態を維持する前提条件として、行為しないこと、いずれにせよ合理的な目的行為 (「ある目標をもった行為」) を、俗世への自己譲渡のもっとも危険な形式として回避するように勧奨している。
丸山訳
こうした倫理的で--積極的であれ消極的であれ--戦うような行為はしかし、一度も「神の道具」であったことはなく、そうではなくてただ神的なものの「器」であろうと欲しかつそれが可能である瞑想的な神秘主義者にとっては、常に神的なものを末梢的な機能として表に出すことである:古仏教は無行為を、つまりいずれの場合でもしかしながらもっとも危険な世俗化形態としてのあらゆる合理的な目的行為(「ある目的をもった行為」)を避けることを、恩恵の状態の維持[1] の前提条件として推奨している。
[1] 古仏教にそのような考え方は全くなく、例によって雑な類型化の例である。単純に対比すれば、キリスト教の神秘主義者の瞑想は神の光を自分の中に取り入れるという意味でプラスの瞑想、古仏教のそれはあらゆる執着・渇愛・煩悩を自分の中から取り去るマイナスの瞑想である。