折原浩訳の問題点(148)

まず、「同胞愛 [兄弟愛]」が文脈を見ないひどい訳です。前の文で家族や氏族ではなく同じ教団の仲間を大切にしろ、ということが述べられているのに「同胞愛」では矛盾します。要するにパウロがその書簡で「兄弟達よ」と呼びかけているあれです。
また weil sie die Emanzipation vom politischen Verbande am tiefsten vollziehtのsieが指しているのは教団の信仰であり、男性名詞であるGebot(命令命令)ではありません。
さらには、nicht ohne weiteres nach außenは「外部に向かっては躊躇なく拒否される」ではなく、「外部に対してはそのままに適用されるのではない」です。
また、am tiefsten を「もっとも深いところで」は直訳過ぎます。要するに程度が大きいということを言っているだけです。

原文
Daraus erwächst dann das Gebot der »Brüderlichkeit«, welches der Gemeindereligiosität — nicht etwa aller, aber doch gerade ihr — spezifisch ist, weil sie die Emanzipation vom politischen Verbande am tiefsten vollzieht. Auch in der frühen Christenheit, z.B. bei Klemens von Alexandrien, gilt die Brüderlichkeit in vollem Umfang nur innerhalb des Kreises der Glaubensgenossen, nicht ohne weiteres nach außen.

折原訳
ここからはやがて「同胞愛 [兄弟愛]」の命令が生まれる。この命令が、政治団体からの解放を、もっとも深いところで達成するのであるから、それは、全てのゲマインデ宗教性とまではいえなくとも、やはりゲマインデ宗教性にこそ特有の命令である。とはいえ、初期キリスト教においても、たとえばアレクサンドリアのクレメンス のもとで、同胞愛がまっとうされるのは、もっぱら信仰仲間の範囲内にかぎられ、外部に向かっては躊躇なく拒否される。

丸山訳
そこから出て来るのは「兄弟愛」の命令であり、それはゲマインデの信仰に、--信仰全てがそうではなくとも、まさに教団信仰に--特有のものであり、何故ならばそういったゲマインデの信仰が政治団体からの解放をもっとも強く達成するからである。初期キリスト教団においても、例えばアレクサンドリアのクレメンス[1] においては、兄弟愛は信仰を同じくする仲間の内の全体に限定されたもので、外部に対してはそのままに適用されるのではない。

[1] Titus Flavius Clemens、150?~ 215年。エジプトのアレクサンドリアで活躍した2世紀のキリスト教神学者。ギリシア哲学の考え方をキリスト教に持ち込んだロゴスとしてのキリストを初めて論じた。

折原浩訳の問題点(147)

ゲノッセンシャフトやケルパーシャフトを無神経に「団体」と訳すのと逆の例。
ここでのAlle gesellschaftliche Ordnungは一般論を述べているのであって、
「ゲゼルシャフトの秩序」などと訳すのは逆に誤解を招き、「社会的秩序」と普通に訳すべきと思います。「理解社会学のカテゴリー」にこだわりすぎている例です。

原文
Beides ist Vergeltung: der Verletzende »verdient« die Strafe, deren Vollziehung den Zorn besänftigt, ebenso wie der Nachbar die Nothilfe. Daß man den Feinden Böses mit Bösem vergelte, versteht sich für die chinesische, vedische und zarathustrische Ethik ebenso wie bis in die nachexilische Zeit für die der Juden. Alle gesellschaftliche Ordnung scheint ja auf gerechter Vergeltung zu beruhen, und daher lehnt die weltanpassende Ethik des Konfuzius die in China teils mystisch, teils sozialutilitarisch motivierte Idee der Feindesliebe direkt als gegen die Staatsräson gehend ab.

折原訳
双方とも、原則は応報にある。侵害者は、罰を受けるに「相応しい」のであり、その執行が、怒りを和らげる。同様に、難儀した隣人は、救難援助に「相応しい」。敵にたして、悪には悪をもって、とは、中国・ヴェーダ・およびゾロアスターの倫理にとっても、捕囚後の時期にいたるユダヤ教の倫理にとっても、自明のことである。じっさい、あらゆるゲゼルシャフトの秩序は、公正な応報に依拠しているように見受けられる。それゆえに、孔子の現世適応倫理は、中国において片や神秘的、片や社会功利的に動機づけられていた敵愛の理念 を、国家理性に反するものとして直截に拒否している。

丸山訳
その二つの動機は家族関係に基づくものではない日常的行為を決定付ける:その倫理の侵害者に対する適切な同害報復[目には目を歯には歯を]と、親しい隣人達が困っている場合の兄弟愛的な援助である。どちらの動機も報い[報復と報酬]である:侵害者は罰に「値し」、その罰の執行が[神の]怒りを鎮めるのであり、困っている隣人を援助するのも[それに値し、そのことが神を喜ばせるという意味で]まったく同じことである。敵に対して目には目を歯には歯をで報いるのは、捕囚後の時期に至るまでのユダヤ人にとってと全く同様に、ユダヤ人の中国・インドのヴェーダ・ザラスシュトラの倫理にとっては自明のことであった。全ての社会的秩序は確かに適切な報いに依存しているように見えるが、それによって孔子の現世適合的な倫理は、中国において一部は神秘的に、一部は社会実利的に動機付けられた敵を愛するという考え方[1] を、直接に国家にとっての道理に反するものとして拒絶した。

[1] 老子においての報怨以徳(怨みに報いるに徳をもってす)や、墨子の兼愛(普遍的な博愛)など。