折原浩訳の問題点(166)

ここもいわば翻訳検定第二弾。(笑)

(1)「経済界で万事が合理的に運用されるようになると」→どこにもそんな原文はありません。それに「経済界」は財界みたいで、不適切です。「経済の世界」と普通に訳せば十分です。
(2)「同胞愛」→前にも指摘しましたが「兄弟愛」
(3)「他には選択の余地がない絶対的」→whallosをそのまま解釈した誤訳。有無をいわなさい、闇雲な、無差別の、という意味であり、「善意」が選択の余地がないのではなく、「善意」の対象が無差別な、という意味。
(4)「外套を乞われればシャツまで与えてしまう」→ここは明らかに山上の垂訓のもじりなので、「上着を乞われれば、下着も与える」と訳さないとおかしいです。

原文
Den entgegengesetzten Weg gegenüber der Rationalisierung der Wirtschaft muß eine mystische Religiosität gehen. Gerade das prinzipielle Scheitern der Brüderlichkeitspostulate an der lieblosen Realität der ökonomischen Welt, sobald in ihr rational gehandelt wird, steigert hier die Forderung der Nächstenliebe zu dem Postulat der schlechthin wahllosen »Güte«, die nach Grund und Erfolg der absoluten Selbsthingabe, nach Würdigkeit und Selbsthilfefähigkeit des Bittenden überhaupt nicht fragt und das Hemd gibt, wo der Mantel erbeten ist, für die aber eben deshalb in ihren letzten Konsequenzen auch der einzelne Mensch, für den sie sich opfert, sozusagen fungibel und in seinem Wert nivelliert wird, der »Nächste« der jeweils zufällig in den Weg kommende ist, relevant nur durch seine Not und seine Bitte: eine eigentümliche Form mystischer Weltflucht in Gestalt objektlos liebender Hingabe nicht um des Menschen, sondern um der Hingabe, der »heiligen Prostitution der Seele« (Baudelaire), willen.

折原訳
神秘的宗教性は、経済の合理化とは正反対の道をたどらざるをえない。経済界で万事が合理的に運用されるようになると、その非情な現実に直面して、同胞愛への要請は、原則的に挫折する。ところが、神秘的宗教性においては、まさにその挫折から、隣人愛の要求が、他には選択の余地がない絶対的「善意」の要請にまでたかめられる。そしてこの善意は、絶対的な自己献身について、その理由も結果も、また懇請する人の価値や自助能力も、およそ問うことなく、外套を乞われればシャツまで与えてしまう体のものである。ところが、まさにそれゆえ、その最終的な帰結においては、そうした献身を受ける個々の人間もまた、いわば誰でもよいこととなり、その価値において平準化される。「隣人」とは、そのときどきにたまたま出くわした者ということになり、その困窮と懇請以外にはなんの意義ももたない者となる。これが、対象を問わない愛の献身という姿をとる、神秘的な現世逃避に特有の形態であり、しかもその献身は、人間のためではなく、献身そのもの、いわば「魂の聖なる売淫」(ボードレール) のため、である。

丸山訳
神秘的な信仰の場合は、経済の合理化に対しては、反対の道を行かざるを得ない。まさしく兄弟愛の要請の、経済の世界においての冷酷な現実に面しての原則的な難破は、その世界において合理的に兄弟愛が取り扱われるようになるや否や、そこでは隣人愛の要求が直ちに無差別の「善意」の要求にまで高められるのであり、その善意は絶対的な自己献身の理由と結果について、またその善意を乞う者の尊厳と自助能力について問わないのであり、上着を乞われた時に、下着も与えるのであり[1]、しかしその慈善についてはしかし、まさしくそれ故にその最終的な帰結においては、その者のために善意が自己を犠牲にする、個々の人間は、言って見れば誰でも良いことになり、その者の価値については平均化されてしまうのであり、その場合「隣人」はその時々に偶然道で出くわした者であり、重要なのはただその者の困窮と懇願でしかない:ある神秘的な現世逃避の特有の形態であり、人間に対してではなく、献身そのものへの対象の無い愛に基づく献身の姿を取ること、つまり「聖なる魂の売春[2]」(ボードレール)を欲するのである。

[1] マタイ5:40「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」(山上の垂訓)を反対にして言っている。

[2] ボードレールの散文詩集「パリの憂鬱」に出てくる表現で、自分の魂を解放し群衆や他者と一体化しようとする行為のこと。