折原浩訳の問題点(146)

ここは[ゲマインデ内の誓約同胞関係が、原生的家族の血縁的紐帯に優越して]という余分な補足のひどさ。ウェーバーの論文で誓約は誓約ゲノッセンシャフト(Eidgenossennschaft、例えば中世イタリアの都市国家)で出て来るものであり、同胞関係が誓約で作られるというのはここが宗教の教団の話であることを考えれば全く不適切です。また初期のキリスト教の教団は、ゲマインシャフトかあるいは信仰ゲノッセンシャフトまたは召命ゲノッセンシャフトであり、誓約同胞関係とはまったく関係ありません。また洗礼は仲間同士の誓約ではまるでありません。何故社会学者でしかもヴェーバーの専門家と称している人がこんなデタラメなことを書くのでしょうか。

原文
Im polaren Gegensatz dazu die Sprengung aller Familienbande durch die radikalere Form der Gemeindereligiosität: wer nicht seinen Vater hassen kann, kann nicht Jesu Jünger sein. Oder etwa die strengere Wahrheit der indischen und zarathustrischen Ethik gegenüber der des jüdisch-christlichen Dekalogs (Beschränkung auf die gerichtliche Zeugenaussage) und andererseits das völlige Zurücktreten der Wahrheitspflicht gegenüber den zeremoniellen Schicklichkeitsgeboten in der Standesethik der konfuzianischen chinesischen Bürokratie.

折原訳
それと正反対の対極をなすのは、ゲマインデ宗教性がいっそう徹底した形態をとり [ゲマインデ内の誓約同胞関係が、原生的家族の血縁的紐帯に優越して]、「自分の父親を憎めない者は、イエスの弟子とはなれない」といわれる場合であり、ここでは家族的紐帯が破砕されることにならざるをえなかった。あるいは、[一方では]インドとゾロアスター教徒の倫理における [一般的な]正直の義務は、(当の義務が法廷証言に限定される) ユダヤ教-キリスト教の十戒に比べて、いっそう厳格であったが、他方で、中国の官僚制における儒教の身分倫理では、儀礼上の礼節の命令が優先されて、正直の義務はすっかり後退した 。

丸山訳
儒教の孝順の強調とまさに正反対なのが、教団の信仰の徹底した様式によるあらゆる家族的紐帯の破壊である:その父を憎むことが出来ないものは、イエスの弟子にはなり得ない[1]、である。あるいは例えば、ユダヤ教・キリスト教の十戒(正直であることが裁判での証人の供述に限定される[=偽証してはならない])に比べてより厳格なインドとゾロアスター教の真実を語る義務と、他方では儒教に基づく中国の官僚制の身分倫理における儀式上の礼儀作法に対して、真実を語る義務が完全に後退した[2] ことが挙げられる。

[1] マタイ 10:35「わたしは敵対させるために来たからである。 人をその父に、 娘を母に、 嫁をしゅうとめに。」

[2] 参考:「論語」子路第十三18 「葉公孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者有り。其の父羊を攘みて、子之を証す。孔子曰わく、吾が党の直き者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。」ただ、ここをヴェーバーが根拠にしているのであれば、「真実を語る義務が完全に後退した」というのはかなりの誇張である。